時間を戻す薬

 私は困っていた。というのは、お金がないとか、家庭に問題があるということではない。むしろ、職についており裕福とは言わないがそこそこ収入もあり、子はいないが家庭的な妻がいた。他から見ると至って普通な暮らしではある。そこには何も不満はないが、私が抱えている問題は私が遅刻癖であるということだ。いや、遅刻病とも言ってもいい。多くの人は一度や二度とは言わず幾度は遅刻というものを経験するはずだ。しかし、私は違った。一週間のうち五日は遅刻してしまうというほどひどい現状なのだ。なので、よく上司から
「お前が時間通りに来るなんて夏でも雪が降るぞ。夏でも雪合戦ができるなんて楽しみだな。」
と褒めているようで馬鹿にするような言葉が放たれるほどだ。しかし、遅刻が多いため、平謝りする日が多いのは当然である。そのたびに上司からはもちろん、同僚からにも罵声を浴びるほどである。その日々が積み重なるほど比例するかのようにストレスも積み重なっていった。
 ある日、その問題があって私は誰かに相談しようと考えた。妻には毎日と言ってもいいほど相談していたので、ほかの誰かと思い、考えた結果、医者に聞いてもらおうと私は病院へ駆け寄った。病院へ入り、私の名が呼ばれ、
「こちらの席へどうぞ。」
と医者は目の前にあった椅子に手をさしたので私はそこへ腰をかけた。
「今日はどういったことで。」
「病気というのか症状というのか…。」
と曖昧な感じで私は言った。
「ほう…もう少し詳しく。」
「はっきり言いますと、遅刻癖がひどいんです。」
「遅刻なんて一度や二度と言わず幾度誰だってしますよ。完璧な人間なんていませんから。至って普通じゃないですか。」
と医者はなんだそんなことかというふうに言った。
「私の場合普通じゃないんですよ。確かに先生がおっしゃる通り遅刻は誰だってします。しかし、私の場合毎日と言っていいほど予定の時間に遅れてしまうのです。これは異常です。」
と怒鳴るように私は言った。
「では、ただあなたがだるかったり、面倒くさがったりなどして起きるのが遅いというのではないですか。それでは生活習慣を直さなくては。」
「いえ、そうでもないのです。確かにたまにはそういうことを思ったりしますが、起床時は全く問題ないのです。むしろ目覚ましの音とともに起きるほどです。ただ、起きてから予定の時刻までが問題で、理由はわかりませんが遅刻してしまうのです。」
「では、時計の針を30分前に戻すというのはどうですか。そうすれば遅刻したと思っても30分前に着くではないですか。」
「実はそれは何度か試みました。しかしやはり遅刻してしまうのです。この時計は30分早めているということを知っての上でのことなのか…。」
医者は、これは困ったぞという表情を浮かべ、腕を組みながら10秒ほど沈黙が続いた。私は
「先生、この先一体どうすれば…。」
と言った直後、医者は
「では、あなたにとっておきのものを差し上げましょう。」
と、言い
「えっ、は、はい。高額でも治せるならなんでも。」
と、戸惑いながら私は言った。
「いえいえ、特に高額でもありません。むしろ無料で差し上げます。長年開発途中だった薬が完成し、さきほどこちらに届いたのでそれをあなたに差し上げます。ただ、実験を複数回したほどなので副作用がわかっておりません。実験はすべて問題ありませんでしたが。」
「どういった薬なのでしょう。」
「その薬を飲むと一瞬で一時間前に戻るのです。」
私は何も言わず口をぽかんと開けた。
「そのような顔になるのは無理もありません。非現実のような話なのですから。しかし現実です。説明いたしますと、その薬を服用すると数秒後に1時間前に起こっていた出来事に戻るのです。かと言って、起床して30分後にその薬を服用して薬が効くとあなたは起床30分前の睡眠をしているわけではありません。それでは意味ありませんから。例えば家に9時に着いたとします。そこで薬を服用すると8時に着いていることになるのです。簡単に言いますと、あなただけはまるで普通の薬を服用したかのように、時計や天気、その他の人などが一時間前の行動をしている。ただそれだけです。」
そんなものがあるのか、と疑問にも感じたが、それより救いの手を差し伸べてくれたというほうが勝り、私はその薬を受け取った。すると医者は
「しかし多くの量を服用しないでください。実験は問題ありませんでしたが、なにせ回数をおこなっていませんので。」
「なぁに、大丈夫ですよ。実験では問題はなかったと先生も言ってますし。」
私は明るい口調でそう言い残し、宝でも手に入れたかのように薬を抱えながら家へ向かった。
 私は鼻歌を歌いながら自宅のドアを開き、家へ入った。するとキッチンにいた妻は
「そんな鼻歌なんか歌ってなにかいいことでもあった?私なんか一時間ほど前に買い物から帰ってクタクタよ。」
と物憂げに言った。
「上司に珍しく褒められたんだよ。」
薬のことを言ってもよかったが、無料でもらったことなどを口走るとああだこうだ言われそうだったので適当に答えた。そして、私はサンタクロースにくれたプレゼントを開けるかのように薬を取り出し、さっそく効能を見ようと薬を飲んでみた。するとどうだろう。時計はさきほど指していた時間より一時間前に戻っているではないか。確かに時計の針は戻っているがただの故障かもしれないと確信を得ることができなかった。しかしその数秒後、玄関からドアが開く音がした。玄関へ向かうと、さきほどキッチンにいたはずの妻が買い物袋を持って入ってくるではないか。
「あら。あなた早かったのね。買い物行っていたところなのよ。」
その言葉で私は確実なものを手に入れたと感じた。この薬は本物だ。確かに一時間前に戻っている。私は笑みがこぼれて止まなかった。
 その日以来、私は毎日と言っていいほど服用した。会社に30分遅れても、服用すれば逆に30分前に着いていることになる。もちろん上司からは最初は褒められた。しかし、日々を重ねるごとにそれが当たり前になっていた。褒められることはなくなったが、私は仕事で大きなミスはしたことはなかったため、怒鳴られる心配もなくストレスはなくなっていた。すると同時に仕事は向上し、昇進し、収入も増え、なんの問題を抱えること過ごすことができた。
「なんてすばらしいものを手に入れたのだろう。」
それから40歳を迎えようとしたところ、彼は亡くなった。悲しみに暮れていた妻は怒鳴るかのように医者に
「なぜ夫は死んだのですか。ある日を境に夫は仕事もうまくいき、毎日を楽しくすごしていました。確かになにかの薬を毎日服用していましたが、死因は病気ですか。」
「いいえ、違います。むしろ至って健康でした。」
「では一体…。」
「彼の死因は『老衰』です。」
あの薬では自分の老化は戻せなかったようだ。

時間を戻す薬

時間を戻す薬

  • 小説
  • 掌編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted