睦月の桜が咲き誇る頃
前編
これは、遠い日の記憶。
人は、自分の許容量からあふれると忘れ、捨て去る。それは、人の本能が常に何かにおびえ、何かから自分を守ろうとしているからだと思う。
これは、捨てたはずの記憶。
これは、再度拾いなおした記憶。
「智樹!来てくれたんだ!」
真っ白な病室のベッドに横たわる少女はそう病室に入ってきた少年に笑いかけた。
「あたりまえだろ?俺が来ないと朱里は寂しがるから」
少年はそう意地悪く笑う。すると少女は寂しそうに笑って「そうだねー」といって入口の反対側にある窓の外を見た。
「智樹が来てくれないと私、寂しくなっちゃうね」
「なんだよ、しんみりしちゃって……」
少年は予想していた反応と違っていたらしく、気まずそうに少女に答える。
「だって、学校の子で私のお見舞いに来てくれるのなんか、智樹ぐらいだよ?」
少女は窓の外を見ながら話を続ける。
「そりゃあ、お前が入院し始めてもう五年にもなる……。俺たちももう中学生になるし……。色々と忘れて変わっていくさ……」
少年は少女をしっかりと見ながら話す。
「智樹も変わっちゃうの?」
そういった声には不安が含まれ、こちらを向いた少女の目はうるんでいた。
「おいおい、俺が変わると思うか?見た目が変わっても中身なんて変わるわけないだろ?ここ五年間変わってないんだから。俺のことは親よりお前が一番知ってるんだ。そんぐらいわかんだろ」
ただ当然のように少年は答えた。
その言葉を聞いて少女は安心したかのように微笑む。
「そうだね……。智樹は私が入院した時からほぼ毎日欠かさずにお見舞いに来てくれたもんね」
「まあ、ほかにやることもなかったし、仕方なくだ、仕方なく」
少年が見た目に似合わない腕組みをし、胸を張って答えた。そのわかりやすい照れ隠しに少女はクスリと笑うと呆れたように首を振る。
「よくもまあ飽きないよね、つまんないでしょ?外で友達と遊んだほうが絶対楽しいでしょ」
「友達はお前しかいないよ。だから毎日ここに来てんだ、言わせんな」
「へえ~、修学旅行とか林間学校の後の話に出てくる裕也君と春君は友達じゃないの?」
少女は大げさにそう言ってにやにやと笑った。少年は「ああ、そうだよ」と言って少女の手を握り優しい声音で話す。
「一番に優先する大切な友達は朱里、お前だけなんだ」
真剣に、優しく見つめる少年。その行動が少女にとっては誤算だったらしく、顔を真っ赤にしてうろたえる。
「なんで私が一番なの?」
少女の質問に少し笑ってから答える。
「愚問だ。言わせんなよ」
少女にはわかっていた。少年には友達がたくさんいることも、やりたいことをいっぱい我慢していることも。そして、どうしようもなく少女のことを大切にしていることも。
「ばか……、ありがとう」
少女は泣きながら少年にお礼を言う。少年はその言葉を聞き、話を続ける。
「だから、明日の手術頑張れよ……」
「うん……!」
少女は強く少年の手を握り返して返事をした。
そんな遠い日の記憶を思い出しながら俺、五十嵐智樹はその記憶と同じ月、三月の町を目的もなく歩いていた。いや、目的はある。時間をつぶしたい。
しかし、町といってもたいしたところではない。はっきり言って田舎だ。だから歩くといっても、まともに時間が潰せる場所と言ったらやけにきれいな図書館ぐらいだ。
「学校になんか行く気がおきないな……」
高校一年が終わるという時期に無断欠席か……。笑えるな。でも仕方がない、行く気が起きないのだから。どうしようもないほどの虚無感が自分を支配していくのがわかる。
俺は時間をつぶすため、高校近くの図書館へと足を運ぶ。
図書館には入口が二つあり、正面とその反対側にある裏口がある。俺はいつも通りに正面から入り、裏口近くにあるソファーに座る。その席は壁がガラス張りで開放感のある図書館の造り上、心地いい光が外から入ってくる。その光を浴びていると春が来たのだと改めて感じさせてくれる。
そして、昔のことも思い出さしてくれる。
少女、市原朱里についてだ。
彼女とは家が近所の幼馴染だ。両親同士仲が良く、よく交流があった。
雪のように白い肌、きれいな黒髪、かわいい笑顔。俺は朱里のことが好きだった。出会って仲良くなるのに時間はかからなかった。すぐに友達になって、いつも一緒にいた。
そして小学校を入学して二か月後、朱里は入院した。心臓の病気だと聞いた。俺はその時餓鬼だったからすぐに良くなってまた一緒に遊べると思っていた。
でも、現実はそんなに甘くなんてない。
一週間がたっても一か月がたっても一年たっても退院しなかった。それでも俺は毎日毎日欠かさずにお見舞いに行った。最初は学校の友達と一緒に行っていた。でも小学生だからすぐに飽きて誰もお見舞いに行かなくなっていった。それでも俺は毎日通った。
友達から遊びに誘われても断り、朱里の病室に通う。どんな魅力的な誘惑があっても断った。それでも俺は苦痛に思わなかった。
きっと、朱里は俺が遊びたいのを我慢してきていると思っていたのだと思う。そんなわけないのに……。だって……。
俺は朱里の友達だし、俺は朱里のことが―……。
「あのころが、一番楽しかった。あのころが……」
最近になって思い出すことができた、向き合うことができたこの思い出が俺のやる気を吸い取っているように感じた。……、いや違うな。一度捨てたものをまた拾いなおしてみて、自分の捨てたものの大きさに初めて気づき、やるせなくなっているのだ。
人は皆何か一つ、譲れないもの、大切にしているものがあるはずだ。でも、俺はその大切なものを捨ててしまった。それにやっと気づいたのだと思う。
「俺はバカだな……」
俺の呟きは開いたばかりで誰もいない図書館に悲しく響いた。
あの時と同じ、あの遠い記憶の続きと同じように。
「智樹君!」
俺は手術が終わり、面会が許されるようになった朱里のお見舞いに来たところを朱里の主治医の笹瀬先生に呼び止められた。笹瀬先生にはよくお菓子やジュースなどをもらったり暇なときに遊んでもらったりと俺と朱里と、とても仲が良かった。
「どうしたんですか?先生」
「いや、ちょっと君に話をしたいことがあってね」
「はあ……」
とても不安になる誘いだ。手術は成功したと聞かされ安心していたが、何かあったのだろうか……。先生の顔はどこか元気のないように見えた。
先生に連れられてきたのは病院の屋上。病院近くの桜がきれいに咲き誇っており、とてもきれいな景色だ。
「朱里ちゃんのご両親が話してくれと言われたから君に話す」
先生は屋上につくと胸ポケットから出した煙草を手慣れた手つきで火をつけると一口吸い、話しはじめた。
「朱里ちゃんについてだ」
やっぱり、朱里についてか……。よくない予感が現実のものになりそうに感じる。
「まず、朱里ちゃんの手術のことだが、確かに成功した」
その言葉に俺は思わず歓喜した。これでやっと朱里は病気から解放されるのだ。しかし、その喜びは一瞬のものになってしまう。
「だが、治りはしなかった。ただの延命するだけの手術にしかならなかった」
「そんな……。完全に治ったんじゃないんですか?」
嫌な予感が現実のものになっていく、その感覚を血の気が引いていくのと同時に感じた。
もう治ったって、やっと自由になれるって思っていたのに……。朱里と一緒にいろんなところに遊びに行けるって思っていたのに……。
「朱里ちゃんの延命はできたけど、そんなに長くは生きられない……」
「はあ!?」
それは、一番聞きたくない言葉。あるわけがないと、目をそらしていた言葉。
「だから、彼女は明日から東京の優秀な専門医のいる病院に移る事になっている。だから、今日が彼女と一緒にいられる最後の日になる」
え……、今日で朱里と会えるのが最後?そんな……、そんなことって……。
「なんでそんな急に東京に行っちゃうんですか!?」
当然の疑問だ。あまりにも急すぎるその事実は納得のできるものではない。
「彼女の病気はいつ発作的に起こるかわからないものだ。だからなるべく早く優秀な専門医のところに行ったほうがいいんだ」
「それにしても急すぎじゃないですか!」
騒ぎ立てる俺に先生はなだめるように頭に手を置く。
「手術後の体力の回復は十分に取れた。そして今もなお彼女は爆弾を抱えている、いつ爆発するかわからないそれを」
「で、でも……それでも!」
わかるだろ?と訴えかけるようないいように俺は何も言えなくなってしまう。
先生はそう言うと吸い終わった煙草を携帯灰皿の中に片付けると優しい顔で、うつむいている俺の頭をなでながらゆっくりと続きを話す。
「だから、今日一日大切にしろよ?」
俺は認めたくない一心で先生の手を払う。
そんなことをしても何も変わらないのがわかっているのに。
「い、いきなりそんなこと言われても!」
しっかりと先生を見つめる。できる限りの抗議のつもりだ。
しかし、その続きが出てこない。だって、子供の自分にもわかるから。
それが朱里にとって一番いいって……。
「先生……。朱里は、朱里はそのことを知ってるんですか?」
「ああ、知っている。そして、あの部屋に今日見舞いに入れるのは智樹君、君だけだ」
「え?なんで……」
「それは朱里ちゃんからのお願いだからだ。朱里ちゃんは残り少ない時間を君との思い出を作る時間にあてたんだ」
朱里……、お前ってやつは……。俺との時間をそんなに大切にしてくれたのか……!
視界が歪み、先生の顔がまともに見えなくなる。何か先生に言おうとするがうまく声が出ない。俺の嗚咽だけが春の空に響く。
そんな俺を先生は優しく抱きしめてくれた。その優しくも強い先生からは煙草の匂いがした。普段は嫌なにおいのはずなのに、今だけは、落ち着く、いい匂いだった。
「そんな姿は朱里ちゃんには見せるなよ?」
そういうと先生は俺を出口のほうに押し出し、煙草をもう一度吸い出して優しくこちらを見つめた。
「時間がもったいないぞ?君が朱里ちゃんといれる時間は限られている。早くいけよ」
「はい!」
俺は袖で涙を拭うと先生に親指を立てて屋上を後にした。
「失礼しまーす」
そう言いながら俺は朱里の病室に入っていく。そこにはいつも通りベッドで寝ている朱里の姿があった。
「智樹~、今日は遅かったじゃない!来ないかと思ったよ!」
朱里はいつも通り。今までと何一つ変わらない怒った時の顔をしていた。
「おいおい、遅いって言ったっていつもより五分ぐらいしか遅れてねーだろ」
俺も、いつも通りに話す。
「大体、俺が来ないわけないだろ?何があっても毎日来てんだから。皆勤賞目指してんだよ?学校じゃできなかったけど」
「そうだね、でも熱がある時ぐらいは休んでもいいと思うんだけどね。学校休んでてもいつも来るし」
バカ言ってもらっちゃ困る。学校なんかよりこっちのほうが大事なのだから。
「何言ってんだよ、学校休んでもお前の見舞いに来るに決まってんだろ?学校行くよりも大切なんだから」
「なんで?」
「なんでって、俺が来ないとお前が寂しがんだろ?それに……」
「それに……?」
今日が会える最後だしという言葉が出そうになるのをとっさに飲み込む。その言葉を言ってしまえばこのいつもが壊れてしまうからだ。
「それに、俺が寂しいだろ。お前に毎日会えないと」
俺の言葉を聞いて朱里はとても嬉しそうな顔をした。
「へえ~、智樹も寂しいんだ」
「なんだよ、悪いかよ!」
やばい、すごく恥ずかしい……。でもまあ、朱里がうれしそうな顔をしてくれるのならいいか。
「ただ、私と一緒の気持ちなんだなあ~、と思っただけだよ」
そう言った朱里は満面の笑みを浮かべていた。
不覚にも見とれてしまう。
だって、その顔は俺が心の底から大切にしている少女の今まで見た顔で一番かわいらしかったからだ。
「じゃなきゃ、毎日来るかよ……」
俺は我に返ると恥ずかしく思いそっけなく答える。朱里のいった私もという言葉に何かを言いたい気持ちはあったが、恥ずかしさが勝ってしまい、何も言えなかった。我ながら情けないが恥ずかしいものは恥ずかしい。
「そうだよね~」
朱里は変わらず同じ顔だ。この空気を換えるために何か意地悪を言ってやろうと思ったが、朱里のかわいい顔を見ていると何も思い浮かばなかったので無難に話を変えることにした。
「朱里ってよくすっげー恥ずかしいこと平気でいうよな」
拗ねたように俺は朱里に問いかける。
「そうかなー?私そんなに恥ずかしいこと言ってる?」
「ああ、よく言ってる」
どうやら彼女は無自覚で言っているようだ。天然というものは恐ろしい。
「あ~、でもたしかに智樹は私と話してると顔が真っ赤になること多かった気がするね。なら私たくさん言ってるのかも」
「え!?そんなに俺顔赤くしてた!?」
まじか……、たしかに顔を赤くすることはあったかもしれないが、多かったのか……、自覚なかった。それにしっかりとばれていたのか。というか、なんかすごく墓穴を掘った気がする。
動揺している俺の姿を見て朱里は心底おかしそうに笑う。
「まあ、おあいこだからいじゃん」
「は?おあいこ?何のことだ?」
俺は訳が分からずに首をかしげる。そんな俺を横目に見つつ朱里は話を続ける。
「すっげー恥ずかしいこと言うこと」
「え?俺朱里に恥ずかしいこと言ったことある?」
「いっぱいあるよ?覚えてないの?自覚無いの?」
うん、覚えてないね、自覚ないね。まじか、俺恥ずかしいこと朱里に言っていたのか……、超恥ずかしいな。
「俺どんなこと言ってた?」
「ついさっき言ったこともだいぶ恥ずかしいことだと思うんだけど?」
「あー……、確かにあれは恥ずかしいことにはいるな……」
確かに、先ほどの発言は思い返すとなかなかに恥ずかしい言葉だ。
「ほかに何言ったか聞きたい?結構覚えてるよ?」
「いい!いらないから!」
俺は慌てて朱里を止める。自分の恥ずかしいセリフ集とか聞きたくない。
「やっぱり面白いね、智樹は」
「俺は全く面白くないし、面白いつもりもないんだがな」
「いやいや、面白いよ?」
「へいへい、そうですか」
俺はもう何を言っても無駄だと悟りあきらめることにした。というか、さっきの話を蒸し返されたくもないし……。
そんな俺の姿を見て朱里は「ほら、やっぱり面白い」と言って笑っていた。
「そうだ、朱里。返すの遅れたけど、これ」
俺はそう言って朱里に借りていた本を返す。
朱里はそれを受け取ると頬をふくらました。かわいい……。
「貸してたこと忘れてた……。読むのほんと遅いよね、智樹って」
「いやいや、普通にお前が貸してくれる本が難しいんだよ」
俺の言っていることは間違ってはいないはずだ。朱里の貸してくれる本はどれも小学生には難しく、読むのに時間がかかる。
今回朱里が俺に貸してくれた本は夏目漱石の『こころ』だ。難しい漢字がとても多いし、言い回しも普段言わないもばかりだ。
「言い訳しないの!」
朱里はそう言って俺をにらんでくる。
「そんなこと言っても本当に難しいぞ?それ」
俺はそう言って朱里の手元にある『こころ』を指さした。
「そんなに難しいかなあ……、この本」
朱里は自分の手元にある『こころ』に目を落とし、不思議そうに呟いた。
「小学生がすらすら読める内容じゃないと思うぞ?なんでそんな難しい本読めんだよ」
「そんなの智樹が来てないときは本読むくらいしかないからだよ」
「いや、にしてもそんな昔の本ばっかじゃなくてもよくないか?」
朱里が俺に進めてくる本のほとんどは古い本ばっかりだった。
「え~、昔の本ばっかりじゃないよ。新しい本も貸したりしてるでしょ?ただ昔の本のほうが私が好きなだけだよ」
「まあ、たしかに面白いな」
「でしょでしょ!面白いでしょ!」
朱里は身を乗り出し話に食いついてきた。こうなってしまうと朱里は止まらない。俺は朱里の話に相槌を打ちながら朱里の楽しそうな顔を眺める。
これで最後。もう朱里とは毎日会うことはできない。もしかするともう会えないのかもしれない。そんな不安さえ感じてしまう。
俺はそのことをなるべく考えないようにする。だって、朱里との最後になるかもしれない時間なのだから。お互い、このことには触れないが、頭では分かっていることだ。だから、大切にしたい……このひと時を。
何か特別なことなどはいらないのだ。普段通り会って話す。それが五年間も続けてきた俺たちの日常を終わらせる最後にはふさわしい。だから互いに普段通りに接する。
ふとそんなことを考えていると朱里に聞こえない小さな声が漏れてしまう。
「お前にあえてほんとによかったよ……」
そう強く思いながら俺の意識は遠のいていった。
それは、見たくない現実から逃げるように、目をそむけるように。今のこの日常が永遠に続くのだと安心し切ったように。
私、市原朱里は大好きな男の子、智樹と病室で大好きな本の話をしていた。
「私はやっぱり銀河鉄道の夜が一番―って、智樹!ちゃんと聞いてる?」
「ちゃんと……、きいて……るよ」
私が話しているのに智樹は眠たそうにうとうととしていた。それも仕方ないのかもしれない。智樹は私の手術が終わって面会が許されるまでの間ずっと私の病室の前でただ面会終了時間までいて、私が早く良くなるように祈っていてくれたのを知っている。きっと、疲れがたまっているのだと思う。
「ほんと、智樹って不器用というか、バカというか……」
「なんの……ことだよ?」
なお、智樹は眠そうに答える。
最後に日だっていうのに、だらしがないなあ……。でも、ちょうどいい。
「智樹、これで最後になるかのしれないから、聞いてもいい?」
「おう……」
その言葉を聞くと私は智樹をしっかりと見つめた。しかし、そこで一度開いた口を閉じる。
正直、私の中で聞いていいものかを再度考えてしまったのだ。私はこれを智樹と会う最後の機会にしようと思っている。その理由は簡単だ。私のこの生に対する未練を断ち切るためだ。
死ぬのは怖い。それは生物として与えられた当然の本能である。それを克服することができるのが人間の強い理性であると思う。そして私がその恐怖を乗り越えるためには、未練を断ち切るしかないと考えているのだ。
そして、私がこの智樹と会えない数週間の間に決意を固め、この死の恐怖を乗り越えたのだ。ならば、私はこれ以上智樹と接しないほうがいいのだと思う。
しかし、最後まで私にこびりつく未練は私の理性と覚悟を鈍らせる。最後だから、これが最後だから智樹と会いたい。そう私をそそのかすのだ。そして、今度は墓場まで持っていこうと決めていたはずの質問をしようとしているのだ。実に情けない。
私の中の未練という名の悪魔が甘言をささやき、私はその甘言にいとも簡単にそそのかされてしまう。
「私と出会えてよかった?私なんかのために時間を無駄に使っちゃってよかった?後悔してない?」
これは、私がずっと思っていたこと。ずっと、後ろめたく思っていたこと。そして、言ってしまったらきっと後悔するのであろう言葉。
智樹は優しいから、私を一番に考えてくれるし、大切にしてくれる。でも、私のせいで智樹を不幸にしているのではないのかって思う時がある。私にかまけているせいで智樹の大切な時間を無駄にしているのではないかといつも思ってしまう。
だから、最後に聞きたかった。寝ぼけていて、本音を口に出しそうな今だから、普段は恥ずかしくて絶対に聞けないけど、きっとこの会話を覚えていないと思うから、聞けること。そして優しい彼だから聞いてはいけなかった言葉。
「そんなことか……」
智樹はとうとう耐え切れなくなったのか、私のベッドに倒れこみ、私を安心させるような顔で話しはじめる。
「そんなの出会えてよかったに決まってるし、時間を無駄にしたなんて思ってない。だって、俺は朱里と話している時間がかけがえのない大切な時間だったからだ。誰でもいいわけじゃない、朱里との時間じゃないとダメなんだよ。だから、後悔なんてするはずないだろ?」
今にも眠りそうだけど、智樹ははっきりとそう言った。
私はその言葉を聞くだけで満足だ。満足するべきなのだ。しかし、悪魔は歯止めがきかない。欲望のままに、忠実に追い求めてしまう。
「ほんとに?私より学校の友達と遊ぶほうが楽しいんじゃない?私のところに来るのは仕方なくじゃないの?」
「何言ってんだ?いったろ?お前といる時間が大切なんだ。学校いる時も家いる時も、飯食ってる時も、何やってても朱里のことを考えてる。重いかもしれないけど、それくらいお前のことが大切なんだよ」
私の視界にうつる智樹の顔が歪んでいった。
私は大好きな智樹が私のことをこんなにも思っていてくれたことがうれしくて、うれしくて涙を止められないでいた。
そして、私の中の覚悟は音を立てることなく、あっさりと崩れ去っていく。こびりついていたはずの未練はいつの間にかその覚悟の瓦礫を覆いつくし、見えないように隠していた。
「ありがとう……智樹、本当に、ありがとう……!」
私は本当に幸せ者だとおもう。私みたいなお荷物をこんなに大切にしてもらえて。
十分幸せなのに、さらに欲が出てきてしまう。摩擦のなくなったこの欲望は止めることができない。
どうしても、聞いておきたい言葉がある。お互い、気持ちは通じていても、ちゃんと口にしてもらいたい言葉、言ってもらいたい言葉がある。
私は袖で涙をぬぐい智樹に問いかける。
「最後の質問」
「な……に?」
智樹はもう眠っているのかと疑いたくなるような声で答えた。
「私は、智樹のことが大好きだよ。もちろん男の子としてね。智樹は、私のこと、どう思ってるの?」
これが、智樹から直接聞きたい言葉。聞いてしまえばきっと私は後悔するのであろう言葉。残り少ない一生を縛りつける言葉。
その凶器のような言葉を、智樹はゆっくりとだが、答えてくれる。
「そんなの……俺も……同じだよ。俺も……朱里の事が……」
そこで言葉が途切れる。途切れるといっても大した時間じゃない。でも、その先に待っている一番聞きたい言葉がなかなか顔を出してくれないのに待ちきれないでいるだけだ。
そして、智樹は続きの言葉を口に出す。
「大好きだ。朱里なしでは生きられないぐらい、朱里のことが……大好きだよ……。」
そういうと、智樹は眠りについた。
私は、止まらない涙で智樹の髪をぬらしながら智樹の頭を抱きしめて何度もお礼を言った。
これからするのであろう苦労と、味わうのであろう苦痛。そのすべてを無視して喜べる言葉。そして、この世に強烈なほどに残してしまうであろう未練。
そのすべてを対価としてもこの言葉には足りない。
「ありがとう、本当にありがとう……!でも、やっぱり、聞きたくなかったな……」
その幸せを感じているとき、私はふと考えてしまった。私のいなくなった智樹のことを。私以上に想ってくれている彼のことだ。私との関係がこのままずるずると続き、さらに一層彼の中で私が積もっていけば、その先どうなるかを。
私の命はそう長くない。これから先、いつ死んでしまうのかなんてわからない。すぐ死ぬかもしれないし、あと何十年も生きるのかもしれない。そんな爆弾を抱え続けた私に彼はきっとずっと付き添って歩いてくれるだろう。それはうれしいことだ。
だが、いずれ彼よりもだいぶ早く私は死んでしまう。それは確定した未来。うぬぼれかもしれないが、私を失った彼はきっと、ひどく傷を受けるだろう。
私は彼にとって呪いのような存在でしかないのだ。ならば、私のすることは一つしかない。私は覚悟を覆い隠す未練を取り払い、再建する。愛する彼のためならば私は頑張れるはずだ。
私は、自分を殺せる恋をした。
いつの間にか俺は眠っていたらしい。図書館の開放的なガラス張りの壁からは夕日がさしていた。
「懐かしい、夢だったな……」
あの後、俺は疲れがだいぶ溜まっていたのか、次の日までずっと眠ってしまった。そして、起きた時にはもう朱里はいなかった。その代わりとしてか、きれいにされた病室に、一通の手紙だけが残されていた。
その手紙には、今までの感謝の言葉と、自分はきっと助からないと。そして、もう連絡は取らない、会わないと。そう、書いてあった。
そんな手紙に俺は「なんで……」と、そんな言葉が、寂しくなった病室にこぼれ、染み込んでいったのを覚えている。
どれも、俺の人生に意味があったころの話だ。そして、意味をなくしていった話でもある。
「そろそろ帰るか……」
俺は重たい腰を上げて家路につくために図書館を出る。暖房が利いて暖かい図書館を出ると冷たい風が俺をなでる。
だんだんと暖かかった自分の体が心のように冷め切っていくのがわかる。
幸せだった過去に、忘れ、捨て去った思い出にいつまでもすがっていてはいけないことぐらいは自分でもわかっている。
あの頃はもう帰ってこないのだから。
「ほんと、俺は見た目が成長しても中身は何にも成長してないよなぁ……」
誰も返事をしてくれないのがわかっているけど、そう問いかけたくなった。もしかしたら答えてくれるかもしれないと思ってしまったからだ。そんなわけないのに……。
俺はそんな女々しい自分に辟易しながらため息をつく。そして俺は家路についた。
五十嵐家は母親と俺の二人しかいない。父親は俺が物心ついた時から海外へ出張していて、一度も帰国しておらず、まともに顔すら覚えていない。
このことでよく周りから同情されていたりし「さびしくないの?」とよく聞かれる。そんな問いにいつも俺は「もともといないものだと思ってる」と答える。
実際、その生活に慣れていて特に気にしたことはないし、何不自由もしていない。
ただ、自分の家はそういう家庭なのだと思っているだけだ。
「ただいま……」
誰もいない二人で住むには広すぎる一軒家に俺の声はむなしく響く。母親は趣味で喫茶店を近所で経営している。意外と繁盛しているようだ。
「五時半過ぎか……」
俺は今の時刻を確認したあと、今日は使わなかった通学カバンを自分の部屋に置く。
何かしようにも俺には趣味もなく、特にすることがないのでただベッドに寝転がり時間をつぶす。
こういう時、本当に自分には何もないのだと思う。
あの頃は、朱里がいた時は、いつも朱里のこと考えていたし、朱里から薦められた本を読んでいたのだから。思い返してみると暇だと思うことはなかった気がする。朱里のことを思い出していた今だからそう強く思う。
そんな今の俺は人生に意味を見いだせない。部活にいくら打ち込んでも、どれだけいい成績をとっても、朱里以外のだれかといても、この虚しさだけは消すことができない。いつまでも俺の中にいて俺の心をむしばんでいる。
朱里に薦められて始めた読書もしなくなった。朱里と唯一共通の話題として話せることなのに、それすらしなくなっていった。する意味がなくなっていった。
生きている実感がわかない、生きている意味が分からない。
「つまんない人生になっちまったな……」
自虐的に呟いて見せるが何も変わらない。変わるわけがない……、だって、こんな呟きは四年前から何回もやっているのだから。
そう、あの時から―……。
四年前、朱里が東京に病院を移してすぐに俺は電話をかけた。病院の電話番号は親から聞いて直ぐにわかった。
「読んだよ……手紙」
「智樹……」
その声に驚きや落胆は込められていなかった。
「どうして、急にあんなこと?」
「急じゃ、ないんだよ」
「え?」
俺は朱里の口からそんな言葉が出るとは思っていなかった。だからこそ、その言葉は俺の中で消化することができなかった。
「な、なんで?」
何がいけなかったのかわからない。
俺の問いに朱里は何かをこらえているような声で答えた。
「だって、私は智樹がいるとダメになっちゃうから……」
「それってどういう……」
何がいけなかったのか、わかってしまった。朱里の言葉を聞いて。いや、本当は手紙を見て薄々わかっていたのかもしれない。
「俺は朱里にとって邪魔なことだったってこと……?」
意地の悪い質問だってわかっている。答えはもう、自分の中では出ている。でも、朱里から直接聞かない限り、認めることができない……。
「……」
朱里は答えない、答えてくれない。
「俺との会話は楽しくなかった?」
この質問も、違う。
「……」
朱里はなお、答えてくれない。
「答えてくれよ……!朱里から直接聞かないと俺は納得できないんだよ……!納得、したくないんだよ!」
わかっているくせに自分では答えを言わない。そのつらい言葉を自分ではなく、朱里に押し付ける。そんな卑怯な自分をかき消すように、俺の支離滅裂に叫ぶ。その叫びに返ってきたのは朱里の泣いている声だった。
「邪魔なんかじゃ……ないよ?」
その言葉はきっと朱里の本心。
「楽しく……なかったわけないよ!」
その言葉は朱里の心からの叫び。
「楽しかったに決まってる!!」
その言葉は、震えていて、鼻のすする音が混ざっていて……。本当は連絡を取ったり、会いに来てほしいのだとわかる。
自分は本当に最低だと思う。これで朱里のなかの答えが変わるのではないのかと、期待してしまう自分がいることを自覚し、辟易する。
だが、それでも、自覚しようがその期待が現実のものになってほしいという気持ちは変わらない。最低だろうが関係ない。
「なら―……」
それなら、きっと帰ってくる答えは――……
「でも、それじゃ私がダメになる……!」
しかし、その言葉はついさっき聞いた言葉。
そういった朱里の声音は懇願するようで、俺を突き放すような感情が含まれているような気がした。
そして、泣きながら朱里はこの言葉を俺に告げた理由を話しはじめた。
「病室で智樹と最後に話した時、智樹は私を今までにないくらい幸せにしてくれた」
俺は黙って、朱里の話を聞く。
「なのに―……。私は欲深い女だから。未練を残しっちゃった」
そう言った朱里の声は呆れたような声だった。
「だから、せっかくできた覚悟がなくなっちゃった。一年前はもういつ死んでもいいやって、智樹のくれた楽しい思い出だけで十分だって、そう思ってたのに……」
何かをこらえているような苦しい声。
「智樹とこうして話すたびに私はもっと生きたいって、もっと智樹といたいって、もっと、智樹からたくさんのものをもらいたいっておもっちゃう……!!」
その声は、今までせき止めていたものがすべて流れでいるようだった。
「そして、怖くなかった死も、怖くて、怖くて仕方なくなっちゃった」
そこで一呼吸置き、朱里は明るい声で言い放つ。
「そして、何より智樹が私のことを大切にしすぎると、私が死んだときにダメになっちゃうでしょ?それが、一番怖いんだよ?」
「朱里……」
ここで、朱里を励ましてやれば、死を否定してやれば、俺はダメになんかならないっていえばよかったのだ。
でも、俺にはそれができなかった。情けないことに……。そのことがどれだけ無責任で、朱里を苦しめるかわかっているから。そして、俺がダメにならない自信がなかったからだ。
「ほんとは、町を出るときになにもかもおいてくるつもりだった!後悔も未練も全部!でも、智樹のくれた最後の言葉で、私の覚悟が全部なくなっちゃったの。何も、おいていけなくなった……」
その言葉はしりすぼみに小さくなっていき、最後のほうは聞こえないくらい小さい。彼女のあふれる気持ちを抑えるためだろう。
「今も、手紙を書いた今でも、私は、捨てきれていない。心のどこかで、智樹が電話をかけてくれるって信じてた……」
俺は、何も言えない。言葉にできない。
「だから今、捨てるの。全部―……」
そういうと朱里は深く深呼吸をして、寂しさを押し殺し、明るい声でいう。
「智樹、もうお別れ。いつ死ぬかわからない私にかかわるだけ損だよ?お互いダメになっちゃうから……」
「バイバイ、智樹―……」
その最後の別れの声だけ、とてもすがすがしい声に聞こえた。
「なんだよ……それ……」
俺は通話の切れた受話器に向かって呟く。その声に朱里は言葉を返してくれない。当り前だ、もう、通話は切れているのだから。そんな当たり前のことを確認しただけなのに自然と涙がこぼれてきた。
泣いちゃだめだ、泣いちゃ……だめだ……。
朱里のほうが、俺なんかよりずっと、ずっとつらいのだから。俺に泣くなんて行為は許されない。我慢をするべきだ。
なのに、俺の体はいうことを聞いてくれない。我慢しなくてはと思うほど、涙は次から次にこぼれてくる。
「くそっ!くそっ!止まれよ!止まってくれよ!」
俺はいうことを聞いてくれない自分の涙に、情けない自分自身にいら立ちをぶつける。
なんで俺は朱里にずっと一緒にいてやるって、ずっと幸せにしてやるって、俺は後悔なんかしない、ダメになんてならない、朱里とずっといたいって、なんでそう言えなかったんだ……!
朱里はそんな言葉がほしかったはずなのに……。
ただ俺が朱里の不安を、朱里の恐怖を消してやるくらい、いつ死んでもいいと思えるぐらい幸せにしてやればよかっただけなのに……。
俺にはそれが言えなかった。できなかった。
自分にそれだけの力がなかったからだ。
結局、俺は朱里のことを選んでやれなかった。俺の中で、朱里をなくしてしまうことが怖くて、怖くて仕方なかったのだ。俺は、自分を選んでしまたんだ……。
遠ければ、分からなければ、傷は浅くて済む。
「ごめん……。本当に……ごめん……、朱里……!!」
俺はただその場に崩れ落ち、受話器を握りしめながら声を絞り出す。声が震えて、鼻水が出て、うまく発音できなくても、朱里に俺の声が届いてなくても俺は謝り続ける。
「俺が無力で……まだまだ餓鬼で……朱里を幸せにできなくて……ダメにしちゃって……ごめん……!選べなくって、ごめん!!」
こんなことをしても意味がないのはわかっている。でも、こうしないと俺は致命的に壊れてしまう気がした―……。
「結局、朱里に覚悟させるきっかけになった言葉ってなんだったんだろうな……」
朱里との最後の会話でいまだによくわかっていない部分だ。もし、俺がその言葉を知っていたらと考えると、今にも覚えていない自分を殴りたくなる。
俺の記憶にはあの日、特に変わったことなんて言ってなかったような気がする。
「その言葉がわかってたら変わったのかもしれないのかな……」
そんな考えを巡らせてみるが、過去を変えることはできないので無駄なことだ。必要だったのはあの時だったのだから……。
だから今でも昔のことを思い出してどうしてこうなっただとか、ああしておけばよかったとか考えてしまう。
だから俺は後悔しまくって、悩みまくって、未練たらたらでこうやって生きている。心残りなんて考えたらいくらでも出てくる。
「結局、最後まで朱里に『好きだ』って言えなかったなあ……」
俺の多すぎる心残りの中で一番大きい心残り。
今でも言いたくて、言いたくて仕方のない言葉。
俺の、一生消えないであろう、後悔だ。
「失礼しました」
放課後、夕日も沈みだし、周りがだんだんと暗くなってくる時間帯。生徒指導室からやっと解放された俺はため息をつく。
「はあ……」
なぜかというと、昨日の無断欠席の指導をくらっていたのだ。
「おうおう、お疲れのようだな」
後ろから声が聞こえてくる。
「お前の顔を見たらなおさらな」
そういって声をかけてきた人物、笹瀬健斗のほうを向く。
無駄に整った顔の健斗は微笑みながら答える。
「ひどい言い草だな、おい。一緒に帰ろうと思って待ってたのによ」
「そうですか。暇だね、お前」
「いやいや、俺だけじゃねーよ?陽菜も涼香ちゃんも教室で待ってんぜ」
「ほんとにお前ら暇だな……。」
今健斗があげたやつらは俺が高校に入ってよく一緒にいる連中の名前だ。朱里の主治医だった笹瀬先生の息子の健斗とは交流があり、高校に入ってからはよく一緒にいる。そのおかげで、健斗と仲のいい二人とも一緒にいるようになったのだ。
正直、朱里のことで落ち込み、中学の時にまともに友達を作っていなかったので、実は健斗には感謝をしている。
俺は健斗と話しながら自分の教室に向かう。
「あ、やっと帰ってきた~!」
「遅かったね~」
教室に入ると二人の女生徒が話しかけてくる。
先に話しかけてきたのが川西陽菜。背丈は普通で見た目はなかなかかわいい。髪型は茶髪が混ざった黒髪ショート、明るい性格でリーダーシップのあるやつだ。そして健斗と中学から付き合っている。いまだ冷めぬアツアツカップルだ。
そしてあとから話しかけてきたのが平岡涼香。背丈は陽菜よりは小さく、顔はぶっちゃけかなり美人だ。ファンクラブがあるくらいに美人。髪は黒髪のショートポニー。性格はおっとりしていて優しい性格だ。
「いや、説教がやけにながくてな……。ってか、おなじこと何回も何回も言うんだよなあ……。さすがに疲れたぜ……」
俺は死んだ魚のような目で答える。
ほんとに同じことを何回も何回も言われた。しかもどれもきれいごとばっかりで心に響かないものばっかりだ。
俺が心の中で文句を言っていると涼香が苦笑いをしていた。
「あの先生は確かに話長いよね~。集会でもおんなじこと何回も言ったり、その場でいえばいいのにわざわざ時間無駄にしてほかの場所で、結局どうでもいい話したりするし」
「だよな!」
俺は涼香の言葉に激しく同意する。うんうん、わかっている。
俺がうれしくうなずいていると陽菜が話しかけてくる。
「というかさ、なんで智樹は昨日学校さぼったの?」
「あ、俺もそれ知りたい!」
「私も気になる」
陽菜の言葉にその場の全員が興味を示す。
理由と言われても、昔の楽しかった思い出を思い出して軽く死にたくなったとも言えない。
でも心配してくれている友人に嘘をつくのも悪い気がする。
「いや、ちょっと昔のことを思い出して、学校行くのがめんどくさくなったんだよ」
うん、まあ嘘はついていないさ。
「昔のことか……」
健斗が心配そうに呟く。
こいつは俺の昔のこと、朱里のことを知っているから。
「そう言えば智樹って昔のこととか全然話さないよね」
「たしかに、智樹君って昔のことを話さないね」
陽菜と涼香も興味ありそうな反応をする。
そりゃそうだ、俺の中学時代どころか学校自体にまともな中身があったことなんてほとんどないだろう。俺にとって朱里と過ごした日々だけが大切な時間だった、中身のある時間だったのだから。それに、中学の話になったら健斗たちのアツアツ話聞かされて終わるからな。
「昔の俺の話なんて何にも楽しくないよ。ただの根暗ぼっちさ」
俺は笑いながら答えた。実際そうだったし。
「意外だな~。智樹君ならなんだかんだで誰か一緒にいると思ってた」
「あ~、でも確かに智樹、付き合悪いとき結構あるよね。それで浮いてたんじゃない?」
涼香と陽菜はそれぞれ思ったことを口にした。一人、遠慮のかけらもなかった気がしたような……。
「わるかったな、陽菜。付き合い悪くて」
俺は陽菜を半目でにらむ。俺に似らまれた陽菜は顔をそらしてにやついていた。
しかし、陽菜の言うことはもっともだと思う。
あのころから俺は欲をあまり欲しない。心のどこかで、不甲斐無かった自分に罰を与えているとでも思っているのだろうか。
非常にくだらなく、無駄で、自己中心的なことだと思う。
けれど、それを快く受け入れている自分もいるのだ。
だが、これでも立ち直っているほうだと思う。中学の時はひたすら後悔ばかりで、かなりひどかったのだから。いつまでもしつこく気持ち悪いことはわかっている。でも、時たま朱里との最後の会話を思い出し、落ち込んでしまうのだ。そして俺は生きていて、幸せを感じること苦痛を感じてしまうのだ。
死ねば、楽になると思う。だが、楽になってはいけないのだ。
生き続け、罪の意識を持ち続けることがせめてもの、最低限の罰だと思うから。
「さあさあ、ここで話しちゃいなよ!」
「私、気になります!」
なんか色々面倒なことになってきた。
「いや、しないしなんもないよ……」
俺が陽菜たちの対応に困っていると健斗が思い出したかのように話し出した。
「そう言えば!学校の近くに鉄板焼きの店ができたらしいぞ!」
俺に気を使ってくれたのだろう。いい奴だ。
「あ、そうなの?いこ!」
陽菜はあっさり俺への興味をなくし、鉄板焼き屋の話に食いついた。しかし、意外なことに涼香はそう簡単にはあきらめなかった。
「鉄板焼きよりも智樹君の話ですよ!」
「何言ってんだよ……おごっちゃうぞ☆今なら」
そこまでして無理に変えてくるのか。正直、言い方は気持ち悪いが、ありがたい。
「どこまで行きたいの……」
流石に陽菜も若干引いている。
「おごりなら、行かない手はないな!」
「そうこなくっちゃ!」
俺が乗り、健斗がハイテンションで返答する。
「仕方ないなぁ、そんなに行きたいならいこうか。健斗のおごりで」
「うぅ……、それなら行きますか」
俺の意志が固いとわかったのか、涼香はしぶしぶ健斗の案に乗った。
俺達は支度をして鉄板焼きの店に向かった。
若干、健斗の目には涙が浮かんでいた。
鉄板焼きの店を出て少し歩いたところで健斗と陽菜と別れる。二人は同じ中学で俺と涼香は違う校区だからだ。
俺と涼香も校区は違うけど方向が一緒だから家まで送っている。
ちなみに、店を出た後、健斗に半分お金を出した。俺のために言ってくれたのだ。それぐらいはしておかないと。
二人と別れた後、俺と涼香はお互い無言のまま帰宅していた。
涼香の家まで半分ぐらいのところで、涼香が口を開いた。
「昔、何もなかったんじゃなくて、なにか、悲しいことがあったんでしょ?智樹君」
思わず涼香のほうを目を見開いてみてしまった。
「なんで……そう思うんだ?」
その問いかけに、涼香は悲しそうに笑って答えた。
「やっぱり覚えてないのかぁ……。いや、私も悪いのかな?」
「いったい何のことを……?」
全く心当たりにない。涼香と知り合ったのは高校からのはずだ。
「広瀬町小学校」
聞き覚えのある名前。
「俺の母校……?」
「私の母校でもあるんだけどね」
「え!?」
衝撃の事実だ。
「何回か一緒のクラスにもなったこともあるんだけど……、やっぱり覚えてくれてないんだね」
さっきの表情にも納得がいく。というか、これは俺がひどい。おなじクラスにもなったこともある人のことを完全に忘れているなんて……。
「すまない……。あの時は色々あって……」
学校ではほとんど女子とはかかわっていなかったので、あまり記憶に残っていない。
「てか、中学一緒じゃなかったよな?校区も違うし……」
「うん。だって私、中学上がる時に引っ越したからね」
「そうだったのか……」
「結構小学校内では話されてたけどね」
呆れた風にこちらを見ながら言う。本当に申し訳ない。
「まあ、あんまり話したことなかったし、高校で会った時に覚えてなかったみたいだったから期待はしてなかったけどね」
「本当にごめんなさい……」
何度も言うようだが、非常に申し訳ない……。
「私さ、小学校の時、ずっと気になってたんだ。いや、今もだね」
俺の顔を覗き込むようにして、涼香が問いかけてくる。
「学校外で、何をしてるのかなって」
「なにって……」
依然、まっすぐ見つめてくる。
「……しってるのか?」
絞り出たのは、そんな言葉だった。
「何も知らないから、気になってるんだし、聞いてるんだよ」
まっすぐ俺の目を見て、言葉をつなげる。
「小学校六年に上がったとたん、すごく落ち込んでたじゃない?とても気になったの」
朱里と最後の電話をした後のことだろう。あのころは、特にひどく落ち込んでいた。
「何かとても悲しいことがあったんだろうって。本当は聞きたいって、少しでも力になれたらいいなって思ってたんだけど、聞けそうな雰囲気じゃなかったし、私は引っ越しちゃったし……」
その声は後半に行くにつれて小さくなっていく。
「どうしてそんな風に思ってくれたんだ?」
力になりたいと、気にかけてくれていると知り、疑問に思ってしまった。
言い方は悪いが、俺と涼香は仲が良かったわけでもない。なのに、なんで……?
「それはっ……どうでもいいでしょ」
涼香は顔を真っ赤にしてぶっきらぼうに答える。
「そうか?まあ、涼香がそういうならいいけど……」
「で、話してくれるの?」
涼香が話を戻し、返事を催促する。
俺は最初から返す言葉は決まっている。
「悪いが、言わない……。言いたくない」
少し、言ってしまおうかと思った。でも、まだ言うつもりはない。言うにしても、今じゃない。
「そっか……。なら仕方ないね!」
涼香はそう笑いながら言った。
意外にあっさりあきらめて、少し拍子抜けの気分だ。もっとしつこく聞いてくるのだと思っていたから。
「でも、まだってことはいつか話してくれるんだよね?」
「ああ、いつか、必ず話すよ。約束する」
「やった!絶対だよ?」
そう言いながら小指をこちらに差し出して来た。
俺も小指を差し出し、お互い絡める。そして、
「ああ、絶対だ」
そう、言い放った。
少しして、涼香の家の前についた。
「智樹君、送ってくれてありがとう」
「お礼なんていらないよ。いつものことだし、家もこっちだから」
いつも似たような会話をしている。涼香は優しいから、慣れて、当たり前のことになってもお礼を言ってくる。だから、そんな彼女だから、きっと俺のことを気にかけてくれていたのだろう。気付いてしまったことには。それが、相手が傷ついていることなのなら特に……。
別れ際、涼香は俺に問いかける。
「ねえ、智樹君。私達若者って、何者にもなれるってよくいわれてるよね」
「唐突だな……。たしかに、よく聞くな」
俺は涼香の言葉をしっかりと目を見つめて聞く。これは、彼女なりの、閉ざしている俺に対するせめてもの励ましなのだろうから。
「私がさ、今から医者を目指すって言ったら、無理だっていう?」
「言わないさ。お前は文理選択で文系を選んではいるけど、無理だとは思はない。浪人したり、自分学べば何とかなると思う」
俺の答えに涼香はちょっと嬉しそうな表情を浮かべる。
「すごく現実的な意見だね。じゃあ、声優になるって言ったら?画家になるって言ったら?ピアニストになるって言ったら?」
「努力をすればなれるかもしれない。可能性はゼロなんかじゃないと思うよ」
「そうだね、可能性はゼロじゃないもんね。なれるかもしれないよね。つまり、私達は何者にもなれるってことだよね」
「そういうことになるな」
涼香が何を言いたいのかがよくわからない。可能性だけの話だったら、なんだってあり得ることじゃないのか?
「何が言いたいんだ?涼香……」
「私達は何者にもなれる。そう、何者にも……」
「……」
俺は黙って涼香を見つめる。彼女はなにか俺にとって大切な何かを言おうとしている気がするからだ。
「でもね、私達は自分自身になることができないんだよ。いや、一番難しいってだけかな……」
「自分自身になること?」
「そうだよ。まあ、私個人の考えだから、くだらないと思ったら忘れてね」
涼香は笑って俺にそう言う。
自分自身になることが一番難しい?どういう意味なのかさっぱり分からない。俺は常に俺で俺以外の何物でもないし、何物になっても俺は俺だ。それに、何者にもなれるということは職業のことじゃないのか?
「俺にはよく意味が分からないな。説明してもらえるか?」
「うん、いいよ」
俺の問いに涼香は楽しそうに、笑顔で答える。
「私達は生きていく上で何かに縛られて生きているし、いつも何かを気にしているよね?」
確かに、涼香の言っていることはあっていると思う。俺たちは生きていくうえで常に何かを気にして生きているといっても過言じゃないだろう。
それは誰かの目だったり、意見だったり、評価だったりする。
俺も、常に朱里のことを考えて、朱里のことを気にして生きてきた。
そう考えれば、縛られていたのかもしれない。
だけれども、少しも縛られているとか、嫌だとか、そんな風には考えたことはないし、これからもそうは思わない。
「そして、自分を偽って生活している。それって、自分らしく生きていることにならないと思うの」
俺がどう思おうと、俺は自分らしく生きていないように見えるのだろうか……。
周りからも……。朱里からも……。
だから、あんなことになったのだろうか……。
最後の電話の時、自分らしさを失ってしまったから。
今まで、朱里のことをかんがえて行動してきたのに、最後の最後で自分のことしか考えてなかった。
朱里のことを考えているつもりで、思っているつもりで、その実は自分のことしか考えてなかった。
朱里が本当はかけてほしかった言葉が薄々わかっていたのに……。
「私たちが自分らしく生きていくためには本当の自分をしっかりと知って、自分の心に嘘をつかずに生きていくことだと思うんだ。でも、それはとても難しいことだと思うの」
「そうだな……」
涼香の言葉に思わず同感してしまう。俺は、あの時から、完全に自分らしさを失っていたのだと思う。
いつも朱里のことを一番に考え、大切にしていたのに、自分に対する罪悪感とばかり戦って、全く朱里に向き合っていなかった。
まだ、いや、今すぐにでもできることがあっただろうに。
涼香はしっかりと俺の目を見て、優しく問いかけてくる。
「智樹君は自分らしく、自分自身でいられてる?」
「……」
俺は何も答える事ができなかった。それは、俺の強がりなのか、過去の公開を思い出し、口を開くと泣いてしまいそうだからかもしれない。
「私の感なんだけど、智樹君の悩みは、自分らしくすれば、解決するんじゃないかな?」
控えめだけど、その言葉には確かな強みが感じられた。きっと、涼香は俺が俺らしくなることが必要なのだと確信しているのだろう。
彼女は本当の俺を知らない。
それでもそんなことを思ってしまうのはきっと、いつもの俺が自分自身になれずに、必死に醜くもがいているからなのだろうか。
「なるほど、ありがとな、涼香」
俺は泣きそうな顔をこれ以上涼香に見せられないので振り返り、お礼を告げる。その声は震えていて、きっと涼香に俺の状態を悟られているだろう。
「どういたしまして。じゃあ、気を付けてね」
「ああ、じゃあ、また明日」
そう言って、俺達はわかれる。この時、俺は涼香の顔を見ることはできなかったが、きっと満足した顔をしているのだろう。
「ただいま……」
いつも通り返事は帰ってこない。
母親はまだ帰っていないようだ。
俺は自分の部屋に道具を置き、ベッドに寝転がり涼香との別れ際の会話を思い出す。
自分自身になることが俺の、この後悔の解決方法か……。
改めて自分自身がどんな奴かと考えるとよくわからない。でも、そんな中でただひとつわかることがある。いや、それしかない気がしてくる。
それは、朱里のことを何よりも大切で、大好きだということだ。きっとこれは本当の自分だ。
朱里が去ってしまってからはただ後悔して、自己嫌悪と朱里に対する申し訳ない思いで押しつぶされていた。
朱里にしてやれることを考えもしないで……。
――なんで考えなかった?
昔のことをかんがえているとたまに問いかけてくる、自分の中のもう一人。
ただ冷静に、俺を責め立てる。問いかける。
こいつはきっと、俺の心の奥にある本当の言葉を言っているのだと思う。
だから、俺は正直に答える。
情けない……自分が全部悪いから……!
一度の拒絶で、朱里の本心からじゃないってわかっていても、怖くて今までの自分でいられなかった!
何よりも大切な存在からの拒絶で、自分らしさが揺らいでしまった!
そんな自分が全部悪いから……。
俺にとっては朱里がすべて。
そのすべてを明確に、逃避することもできずにまじまじと、目の前で失うことに俺は、恐れてしまった。
知らなければっ!見なければっ!聞かなければっ!会わなければっ!
どんなに都合のいいことでも考えられる、思っていられる、望んでいられる!
そんな風に、あの頃から考えていた。
それも無意識に。
そんな自分が、どうしようもなく、憎かったからだ!!
――どうせ朱里は死ぬ。結果は変わらない。なら、見届けてやろうと思うべきなんじゃないのか?
そんなのは、分かっている!
ただ俺に、受け止めきれるだけの強さと、覚悟がなかった。
それだけなのだ……。
「くそっ……!」
自問自答をしているうちに自然と涙がこぼれてしまう。
情けない。
ただただ、自分が情けない。
ずっと前からわかっていたことだが、再確認して、なお思う。
俺は朱里との楽しかった思い出を思い出すことが極端に少なくなった。それは思い出してしまったら、無性にやるせなくなってしまうからだ。無くしてしまったものの大きさを、どうしようもないくらいに教えられるから。
自分を守るために。
俺は今までの自分に戻れることができるのだろうか……。自分らしくなるために、俺は朱里と向き合わなくてはいけない。朱里とのすれ違いで俺は自分らしさを失ってしまったのに……。
もう一度朱里としっかりと向き合えるのだろうか……。今更俺から歩み寄っても、迷惑にしかならないのではないのか……。
そんなことばかり俺の頭の中に浮かんでくる。
一度ついた負け癖はなかなか治らないようだ……。このままではだめだ。気持ちを入れ替えないと……。
変わらなくてはダメなのだ。今更かもしれないけど、ずっと後悔していた。変わりたいって、思っていた。
なら、変わって、朱里に会って、謝りたい。
ずっと一緒にいてやれなくてごめんって!
あの頃からずっと、変わらず大好きだって!
なら、今の俺ができることは……!
昔やっていたことをしたら……、どんなのだったか思い出せばいいのか……?自分らしかった自分なら、なくしていない自分なら何ができるのだろうか?
いや、失敗した昔の自分を想像してもだめなのか?
また、繰り返してしまうのか?
なら今の自分にできることは何だ?失敗した今の自分だからこそ、たどり着けるのであろう答えはっ……、何だ!?
目を閉じ、じっくりと、考える。
その結果、たどり着いた答えは――……
「ない……。今まで俺は何もしてこなかった。……何もないんだ、俺には」
たどり着いた答えは、単純明快、無だ。
いくら考えようが、俺には解は用意されていなかった。
当たり前だ、本当に何もしてこなかったのだから。
変化どころか、停滞し、よどみ、腐っていたのだから。都合よく、最適解が見つかるわけがない。変化を求めなかった者、変わる意志のない者に、なにかが与えられるはずもない。
「……はは……はっ……!」
乾いた笑いしか出てこない。
当然だ。どうしようもないほどに空っぽの自分にはそれぐらいしかないだろう。
そんな当然のこともわからないようなめでたい自分には、それがお似合いだ。
――わかっただろ?あきらめちゃえよ。
……うるさい……。わかったように問いかけてくるな。俺はあきらめない……!もう、あきらめないんだ!
――お前には何にもない、ないんだよ。だから、何もできない。自分らしくとかさ、無理なんだよ。
……うるさい。そんなのわかってる。
――簡単に会えて、話せていたあの頃に何もできなかった。なら、簡単に会えも話せもしない今のお前に何ができる?してやれる?今まで何もしてこなかったお前が今更!何ができる!
なにか、今は思いつかないだけで、今の俺にしかできないことがあるはずだ!
――過程を飛ばして結果だけを求める。なんて怠惰で、傲慢なんだ?
うるさい!
――お前は勘違いしている。何かと口を開けば、朱里のため、朱里のことが、朱里だけが!薄っぺらくて気持ち悪いんだよ。
なにが!何が薄っぺらいんだ!?俺にとって、朱里はすべて!すべてなんだ!
――それだよ、それ。朱里に何かをする、一緒にいる、会う、話す、その理由を全部朱里に押し付けている!それが、薄っぺらくて気持ち悪いんだよ!
っ――!!……俺にとって……、朱里がすべてで……それだけで……。
――お前に自分らしさは無い。昔も、今も、最初から。押し付けて、逃げていたんだよ。
じゃあ!自分らしさってなんだよ!本当の俺って何なんだよ!!
――自分で思い出せ。最初はあったはずさ。
それを最後に、もう一人との自問自答が終わった。
「最初はあった……本当の俺?」
もう一人が最後に行った言葉。それさえわかれば、俺は進めるのだろうか?変われるのだろうか?
そのわからない問いの答えを見るように、ふと見た窓の外には光り輝く月と、桜が舞っていた。
翌日、俺は机に突っ伏し、頭を抱えていた。
「智樹!頑張れよな!」
「智樹、頑張りなよ~」
「智樹君!頑張ろうね!!」
友人たちにそれぞれ励ましの声がかけられる。
「いや……、やるなんて言ってないんだけど……」
声のほうに顔を上げ、精いっぱいの嫌な顔をして抗議する。
しかし、その抗議むなしく流され、なかったことにされる。
「なんてったって智樹よ~。大役だぜ?」
「「「演劇の脚本」」」」
笑顔の三人から出てきた言葉は、俺にとっては重く、とてもじゃないが請け負えそうにないものだった。
なんでこんなことになったのだろう……。
遡ること放課後。
午前中授業で、昼前には教室にはほとんど生徒は残っていなかった。
俺は昨日のこともあり、悩み考えていた。
「よくわかんねぇな……」
「ん?何のことだ?」
無意識のうちに口に出ていたようだ。
「いや、何でもねーよ」
「そうか?」
「いや、何でもあるわ」
「どっちだよ」
朱里のことで、昔の自分のことで一人悩んでいても答えが見つかるとは思えない。
それなら、昔の俺達を知るやつに聞いたほうが早い気がする。
俺は思い切って相談してみることにした。
「今日、二人きりではなしたいことがあるんだ。時間いいか?」
「……ああ、いいぜ」
俺の真剣さが伝わったのか、健斗は茶化さずに答えてくれた。
健斗との会話が終わってすぐに、陽菜が健斗を呼ぶ。
「健斗、今日放課後どっかよって帰る?」
「どっかって、どこもよるとこねーじゃん?なあ、智樹、涼香ちゃん」
健斗に話題を振られる。
多分これは健斗の「うまく断れ」という意味での振りだと思う。
「遊ぶのは構わないが、行きたいところは特にはないし、行くとこもないな」
「そうだね、それかどこか食べに行く?」
さっき健斗がいった通り、この近くにまともに遊べるところなどない。
なので、俺達の答えもあまりこれといったものはない。これでうまくなくすことができるだろう。
「じゃあ今日のとこはやめにすっかな~……」
「お困りのようですね!!」
教室の入口のほうから突然声をかけられた。
驚いてみた先には、仁王立ちで構えている小柄な女子生徒がいた。
「暇を持て余し、お困りなのですね!?」
「お、おう」
対人スキルの高い健斗もさすがに困っているようだ。
「実は私も困っているんです!」
「そ、そうなのか……?」
「はい!お互い様ですね!」
「あ、うん」
会話が成立しているようでしていない気しかしない。
「と、ところで、あなたは誰?」
「おっと!忘れていました!大事なことですね!!」
謎の女子生徒は涼香の質問に対し、敬礼をして派手に答える。
「わたくし、演劇部一年にして部長の小金井佐久子といいます!!」
演劇部と言えば、うちの学校の中でも古い部活の一つで、地域の人を呼んでよく演劇をしたりしており、地域の人から愛されている部活だ。
「一年で部長なんてすごいね、小金井さん」
「いえいえ、そんなことはないですよ」
俺の言葉に小金井さんは謙遜する風でもなく、当然のように言った。
「今演劇部は一年だけなんですよ。だから私が部長をできているんです。演劇に詳しいという理由だけで」
「へぇ……、演劇部って人気あるんだと思ってたよ」
「意外にそんなことないですよ。やっぱり人気のスポーツ系の部活に人数取られちゃいますから」
そういった小金井さんの表情はどこか悲しそうだった。
何か思うところがあるのだろうか。
「それでさ、佐久子ちゃんは何か俺らに用事あるんじゃないの?」
「よくぞ聞いてくれました!笹瀬君!」
「おうよ!」
健斗が小金井さんの訪問の理由を聞くと、彼女は少し沈んでいたテンションを元に戻し、話を進める。
健斗はどうやら彼女のテンションにのまれたらしい。
「実は我々演劇部は危機に直面しているのです!」
「な、なんだって~!!」
健斗だけがのりのりである。
俺と涼香は無意識に口元が引きつってしまっている。
だが、こんなものはまだかわいいほうだ。
陽菜は完全にゴミを見る目で見ている。
まあ、こいつらはお互いに遠慮のないところも含めてアツアツカップルだから、いいのだと思う。
「脚本の書ける人が今年卒業してしまいまして……、次のコンクールで使う脚本がないのですよ!!」
「オリジナルじゃないといけないの?」
「……はい、そうなんですぅ」
若干の含みのある様子だ。
健斗は「そっかぁ……」と言って黙り込んでしまう。
仕方ない、俺達にはどうしようもできないことだからな……。
「どうしてもそのコンクールに出ないとダメなの?」
「いえ、そういうわけではありませんが……」
「どうしても出たいんだ?そのコンクール」
「はい!……どうしても!」
陽菜の質問に小金井さんは歯切れ悪く答える。その表情にはどこか後ろめたさが含まれていた。
どうやらそのコンクールにどうしても出たい理由があるようだ。
「私には、年の離れたお姉ちゃんがいるんです」
小金井さんは、一転し楽しそうに話しはじめた。
「お姉ちゃんはいつも私にやさしくしてくれて、そしてお芝居をするのがとても好きでした」
そう言った彼女の表情はとても誇らしげで、活気に満ちていた。
「私も大好きなお姉ちゃんの演技している姿はもっと大好きでした」
彼女のきらきらとした瞳は、姉に対する好意を容易に読み取ることができた。
「そんなお姉ちゃんはこの学校の演劇部のOGで……」
ここで、言葉を切る。
それはまるで、はるか昔の光景を思い浮かべるかのように。
「そのコンクールに出ていたお姉ちゃんは今まで見たどのお姉ちゃんより輝いていた!私も!お姉ちゃんがその時に感じていたもの、見ていたものを体験したいんです!!」
興奮と感動で彼女の頬は赤く染まっていた。きっと彼女にはその光景が今も鮮明に思い浮かべられているのだろう。
「お姉さんが、憧れの人なんだね」
「はい!!憧れで、目標です!!」
「わかるよ……、追いついて、並びたいもんだよな」
「わかってくれますか!!」
痛いほどに、彼女の気持ちがわかってしまう。
憧れだから、大切だから、一緒にいたいし、並んでみたい。離れているなら、頑張って追いつきたい。
近づくことで、追いつくことで、並ぶことで、よりわかる気がするから。
より、知ることができるから。
自分の抱いた理想の偶像が現実とどれだけ合致しているのかを……。自分がどれだけ、自分の理想に近づけたかと……。
「なら、話が早いですね!!作文のコンクールで優秀賞をもらっている五十嵐君!!」
彼女は目を輝かせて俺の手をつかみ、言い放つ。
「演劇部の代わりに脚本を書いてください!!」
「えっ!!」
それは予想外であり、予想内の展開であった。
その後、周りのやつら、主に健斗と陽菜が話を勝手に進め、俺が脚本を書くこととなった。
「お前ら、俺になんか恨みでもあんのか?」
「いやいや、そんなことねーよ?お前趣味とかないじゃん?」
「ということは何もないない君だよね?」
「え!?趣味ないだけでそこまで言う?」
このカップル、想像以上に辛辣である。
確かに趣味はないし、何もないが……。
「何か打ち込めるものを見つけたら、日常も楽しくなるよ?」
二人のおかげか、涼香の言葉はとても優しく聞こえてしまう。
というか、俺はそんなに楽しくなさそうに見えていたのだろうか……少し申し訳なく思ってしまう。
「まあ、分かったよ。本意ではないにしろ請け負ったことだ。ちゃんと書くよ」
特にやることもない俺だ。誰かのためになること、やってみるのもいいかもしれない。
それが俺の探し物のヒントになるかもしれないからだ。
「初めからそう言えよ」
「そうよ、本当はやりたかったくせして」
「頑張ってね!」
「辛辣ぅ……」
前二人の発言がなぜか辛辣になっていく。
ぜひとも涼香の気配りというか、やさしさというものを分けてやりたいと思う。
「んじゃ、今日はどこもよらずに帰るか。智樹も脚本書かなきゃだろうし」
「そうね」
「そうだね」
健斗の問いかけに陽菜と涼香が答える。
「健斗……」
「わかってるよ」
俺は約束を覚えているか確認を取ったが、どうやら覚えていたようだ。
「そんで、悪いんだが二人には二人で帰ってもらう」
「え!?なんで?」
陽菜が驚いて聞き返す。
「悪いな、俺が健斗と二人だけで話したいことがあるんだ」
「えー、私達には話せないこと?」
「ああ、健斗だけが知ってる昔のことだよ」
少し、本当のことを言う。
変に嘘をついても見破られそうだから。
「なら仕方ないのかなぁ~。まあ、無理に聞こうとしても智樹頑固だから、言わないしね……、あきらめてあげるよ」
「おう、サンキューな」
俺の性格をよく知っている。
このことに関しては、まだみんなにはいうつもりはないからな。
「じゃあ、帰ろっか。涼香」
「そうだね、陽菜ちゃん」
そう言って二人は、俺達に「バイバイ」というと先に返っていった。
「じゃあ、智樹。屋上にでも行って話すか」
「ああ、そうだな。行くか」
そう言って俺達は屋上へと足を運んでいった。
屋上に向かう間、俺はさっきのやり取りを思い出していた。
俺が「昔」という言葉を口にした瞬間、陽菜が一瞬悲しい顔をしたのを俺は見逃さなかった。
しかし、これが何を思ってのことなのかは俺にはまだ、分からなかった。
「で?話ってなんだ?」
屋上に着くなりすぐに健斗が本題に入ろうとする。
俺は屋上の柵にもたれかかりながら話す。
「涼香たちにも言った通りさ」
「朱里ちゃんのことでか……」
「ああ……」
朱里のことだと話していない。
多分、話があるといった時から薄々はわかっていたのだろう。
「連絡取り合ってないことは親父から聞いてるよ」
「笹瀬先生、おしゃべりなんだな」
知っているとは思っていた。
驚きはしない。
「そんなことはないさ、俺が気になるからしつこく聞いた。そして折れた、それだけさ」
さも当然のように健斗はいう。
だが俺はどうしても疑問に思ってしまう。
「そんなに気になるか?俺たちのこと」
確かに仲は良かったが、そこまで気になる仲ではないと思っていた。
忘れはしなくても、会えないなら、いないならどうでもいい存在になるものだと思っていた。
みんなと同じように……。
しかし、その考えは間違っていたようだ。
「気にもなるさ……」
悲しげに微笑む。
それは、朱里のことを思い出してなのか、俺の知らない当時の何かを思い出してなのかはわからない。
「佐久子さんのお姉さんの話……あの話を聞いた後の智樹を見て話しの内容が朱里ちゃんの子となんだと思ったよ」
そんなにわかりやすく態度に出ていたのだろうか……。
「姉に憧れ、追いかける彼女と、朱里ちゃんを想い、追いかけるお前……。重ねているんだろうなとすぐに思った」
確かに、重ねていた。
あまりにも、彼女の話が人ごとのように思えなかった。
きらびやかに輝く姉にこがれる彼女。
儚く輝く朱里に焦がれる俺。
相手は、条件は違えど、想い、追いかけ、囚われているという点ではよく似ていると思う。
しかし、彼女と俺とでは大きく違うところがある。
俺は立ち止まり、光を見失ってしまった。
彼女は立ち止まらず、見失わずに、まっすぐにもがきながらでも進んでいる。
似ていると思いながら、それは大きな違い。
「まあ、それはいい。朱里ちゃんのことで俺に何の話があるんだ?」
健斗は話を戻す。
俺は沈んだ気持ちを切り替え、話す。
「昔の俺にあって、今はないものを知りたいんだ……」
これが、俺が健斗に聞きたいこと。
今、知りたいこと。
「急になんだそれ?」
当然そう思うだろう。こんな質問は他人に聞くものではない。自分自身が一番知っているはずのものだ。
それに過ぎたことなど知っても意味はない。過去になんて意味はない。意味があるのは今で未来だけだ。
それでも、今を、未来を変えるために俺には必要なこと。
「俺は変わりたいんだよ……」
素直に答える。
余計な前置きなどいらない。
ただ、俺の思っていることだけを伝える。
「大切なものを手放してしまった……」
絶対離さないって思っていたのに……。
離してしまったら、もう一度つかむのは容易ではないから。
「覚悟が全然足りてなかった……」
覚悟していたつもりだったのに……。
心のどこかで、認めたがっていなかった。
「ちっぽけで、弱かった……」
強いと、強くあろうと思っていたのに……。
結局は、思っていただけだった。
「後悔と、自責の念でつぶされそうな自分を変えたいんだ……!」
今まで、今も、あの時から、つぶされそうな自分を……。
思い出しては、後悔して、死にたくなって……そのくせして、行動しない……。
後悔するだけ……。
死にたくなるだけ……。
それ以外は何もしない。
何もできない……。
そんな自分を……!!
「変わって、どうしたいんだ?」
その言葉は、懺悔することを許してくれるように感じた。
「……会いに行きたい」
ずっと思っていること。
あの時からじゃなくて、出会った時から。
「会って、今までの不甲斐無かった自分を謝って、そして……」
こみあげてくる。
今まで溜まりに溜まった想いが……。
「そして、ずっと一緒にいたいんだ!好きだって……言ってやりたいんだ!!」
こぼれてくる。
溜まっていた想いが……少しずつ。
「一度は手放してしまった!でもっ!もう離さないっ!絶対にっ!」
あふれだす。
溜まっていた想いが……とめどなく。
「今会いに行ったらダメなのか?変わらなくても、一緒にいてやるだけでいいんじゃないのか?」
当然の疑問。
そして、当然の解答。
でも、俺にとって、それは解にはならない。
「いや、ダメだ。変わらないと、ダメなんだ……」
「何で?」
そう問い返す健斗の顔は訳が分からないという顔。
「今の俺じゃ、朱里のために何もしてやれない……」
今の俺は、失敗したままの自分。
何も……何も成長していない。
「離れてった朱里には、朱里なりの考えがあった。朱里の、決意の強さがある」
離れたくないと、そう強く思っていたはずなのだ。
でも、その想いの強さよりも、朱里の覚悟が強かった。
決意が、強かったのだ。
なら……なら俺は――……
「俺はそれより強くならなきゃいけないんだ……!」
ただただ、強く。
覚悟を……想いを……心を……。
朱里の覚悟に、決意に負けないように……。
俺の弱さに負けないように。
「朱里の死を受け止められるほど強くならなきゃいけない……」
朱里が覚悟を、決意を強めた理由の一つ。
俺が、弱い理由の一つ。
それを受け止めなくてはいけない。
「朱里の死の恐怖を消し去ってやれるほど強く、大きく、深くならなきゃいけないんだ!!」
朱里の生への執着を強くし、恐怖を強くするのは俺のせい。
会いに行くなら、それはもっと強くなる。
だから……!
どんな時でも、笑って、笑わせられるほど強く……!
どんなに弱っていても、言葉でも、行為でも、受け止めてやれるほど大きく……!
どんな結末でも、受け入れられるほど深く……!
「わかったよ、協力する」
「っ!!ありがとう……」
俺の必死さが伝わったのか、健斗は快諾してくれた。
「つってもなぁ、昔を知ってるって言っても、全部知ってるってわけでもないからなぁ……」
少し暗くなった空気を変えるためかおどけたように言う。
「わかってる。でも、頼れるのは健斗だけなんだよ……」
健斗の意図はわかってはいたが、俺は真剣に返す。
「そんな顔すんなよ。できる限りのことはするよ」
困ったような、そして少し呆れたように話す。
「だから、話してくれよ……昔の、朱里ちゃんとのことをさ」
その声は、優しく、悲しく、暖かい。
「ああ……話すよ」
どこか、懐かしさを感じながら話しはじめる。
俺と朱里との、出会いから別れまでを。
学校の屋上から見える桜は、病院から見えた朱里と会った最後の日の景色と似ていた。
「そんなことがあったのか……」
話し終えると、健斗はそう言葉をこぼした。
「今となってはつらい思い出だけどな……」
思い返すたびに後悔する。
思い返すたびに死にたくなる……。
思い返すたびにやるせなくなる……。
思い返すたびに……。
「そんなこと言うなよ、智樹にとって大事な思い出だろ?」
「そうだな……」
たしかに、どれだけつらいものであっても、朱里との思い出。
大切で、かけがえのないもので、今は積み重ねることのできないもの……。
「智樹の朱里ちゃんに対しての想いも、考え方も大体わかったよ」
「そうか……分かってくれたなら、話が早いのかな?」
「そうだな」
笑いながら、言葉を続ける。
「一番よく分かったのは、智樹が朱里ちゃんのことがどうしようもなく大好きだってことだけどな」
「当たり前だろ?」
健斗の言葉に俺は笑いながら答える。
そして「でも……」と俺は言葉を続ける。
「それよりも、俺は朱里のためになりたいんだ」
決めたのに……。
朱里のため……ためだけに生きるって……。
俺は俺のすべてをささげると……。
「朱里が助けを必要とするなら、俺は助けたい」
サインはあったはず……。
俺はそれを見逃した、気づけなかった。
だから、今度こそは見逃さない。
気づいてやる。
そして、絶対に助ける。
「朱里が望むなら、なんでも叶えてやりたい」
理不尽を押し付けられた生。
せめて、望むことはすべて叶えてやりたい。
「朱里が喜んでくれるなら、笑ってくれるなら、何でもする」
俺がそれを見たいから。
それが、俺の最大の幸せだから。
「朱里のために、朱里のためだけに生きていたいんだ!」
それが、俺の後悔を消す方法。
これが、朱里に対する俺の想い。
「何で……そこまで……?」
意味が分からないという顔。
理解できないという声。
当然のことだと思う。
俺の言葉は重すぎるものかもしれない。
「……朱里がこぼしたんだ」
朱里に会いに来る人が同じような顔ぶれになったころのことだ。
「『みんな……私のこと忘れちゃうのかな……』って、そうこぼしたんだ」
その時の朱里の顔は忘れられない。
もう、見たくない。
もう、させたくない。
「俺は忘れない。絶対にだ」
宣言する。
健斗にでも、朱里にでも、誰でもない、自分自身に。
「そして、理不尽を押し付けられた一生を、俺が変えてやりたいと思ったんだ!」
俺が、俺だけができること。
俺が、しなくちゃいけないこと。
「朱里に与えられない当たり前の幸せがないんなら、俺がみんなには与えられない特別の幸せを与えたいって思ったんだ……!!」
だから、俺は毎日会いに行った。
だから、未来を語った。
みんなに与えられるものよりも特別な未来を……。
「なのにっ……!なのにっ……!!」
思い出す……あの時を。
決めたこと、覚悟したことを守れなかったあの時。
声を、手を伸ばせなかった、あの時。
つかめば変わっていたはずのあの時をっ!!
「俺はダメだった……!!」
頭によぎってしまった。
朱里が目の前で苦しむところが……怖くて泣くところが……死ぬところが……。
すくんでしまった……曲がってしまった。
俺の声が、心が、覚悟が……。
「だからっ……!!俺は次こそは間違えない!!失敗しない!!曲がらない!!」
今度はつかむ。
つかんで絶対に離さない。
「絶対に!絶対にだっ!!」
繰り返す。
決意を強めるため、もう決意をたがわないために。
「俺は!俺のためにじゃなく!!朱里のために!!!朱里のためだけにっ!!!!」
叫ぶ。
今度は絶対にすくまないように、曲がらないように自分自身を鼓舞するために。
「そうしないと、ダメなんだ……」
「……わかった。わかったよ……」
最後には泣きそうな、今にも消えそうな声になってしまう。
そんな俺に健斗は呆れたような、そして悲しそうにつぶやく。
「……何が?」
「智樹が失敗した、間違えた理由だよ」
俺の問いに返ってきた答えは、俺が追い求めた内容だった。
「っ!!本当か!頼む!教えてくれ!!」
「わかってるよ、落ち着けって」
「す、すまない……」
思わずがっついてしまう。
健斗は人差し指を立て、問いかける。
「教える前に、一つ質問に答えてくれ」
「ああ、いいぜ」
「『お友達』としてのか、『友達』としてのもの。どっちがいい?」
奇怪な質問。
ふざけているのか疑いたくなるが、健斗の真剣な表情からその心配はないと判断できる。
「……『友達』としてで」
俺は迷わず後者を選ぶ。
「そういうと思ってたぜ」
にかっと笑い言葉を続ける。
「じゃあ、早速言うか……」
そう言うと空を仰ぎ、一拍おく。
「智樹……お前さ、気持ち悪いんだよ」
友達から出てきた言葉は衝撃的で、予想外なものだった。
冷たい、ただただ冷たい。
そんな声だった。
「なっ!?」
あまりの衝撃でとっさに声が出ない。
驚きで固まっている俺に目もくれず、健斗は続ける。
「俺はさ、智樹のこと……いや、智樹たちのことを尊敬してたんだ」
自嘲気味に笑いながらそういう。
「それも違うな……嫉妬してた」
暗く、冷たい声。
その負の感情は自分に対してなのか、俺に対してなのか、俺にはそれはわからない。
「俺が、ガキの頃からほしいと思っていたものを持っていたからな……」
「な、なにを言ってるんだ……?」
健斗の昔に何があったのか俺はわからない。
何を思っていたなんて俺にわかるはずがない。
だから、この会話の意味も全くと言って俺にはわからないものだ。
「俺はさ……他人を信用しきれなかったんだよ、昔はさ」
健斗は続ける。
それはきっと意味のあることなのだろうから。
「だってさ、他人の考えてることなんてわかんなし、分かんないってことは怖いことじゃないか……」
それは……よくわかる。
何を考えているかわからないから怖い。
目の前で、笑っているように見えてその実は全く逆のことを思っているかもしれない。
そう考えると、とても怖く感じてしまう。
俺も、朱里が笑っているようで内心、死の恐怖を感じていたのかもしれないと思うと怖くなってしまうことがあった。
朱里が怖がっている前で気づきもせずにのうのうとただ、笑っているだけ。
そして、俺はそれをしていたのだと思う。いや、させていたのだろう。
考えるだけで気持ち悪くなってくる……。
「だから……お互いを信用しきってて、想いあってて……羨ましかったし、惨めだった……」
「惨め……?」
「ああ……他人を信用しきれない自分が、信用できる相手がいない自分が……」
悔しそうに、苦しそうに、泣きそうにそう言葉を吐き出す。
「そして何より、周りが、他人が悪いんじゃなくて、自分の考え方が、心が悪いんだということを教えられたような気がしてな……」
自嘲気味に笑う。
俺にはそのことがそれほどまでに気になるものとは思えない。
しかし、健斗にとっては違うのだろう。いや、違ったのだ。
「それなら……」
だからこそ、分からない。
「それならなんで、気持ち悪いって言葉が出てくるんだよ!?」
なぜ、嫌悪なのか……、羨望や、嫉妬ではなく。
「違うんだ……違うんだよ、智樹……」
呆れたように、健斗は答える。
「お互いを信用しきって、想いあうことと、智樹のしてることは全く、全然、これっぽっちも違うんだよ……」
健斗の目には、「お前じゃない、お前じゃなかったんだよ」と告げているように見えた。
「何が違うっていうんだっ!!」
「昔のお前にはあったんだよ。心底あこがれたし、悔しかったし、嫉妬もした」
俺を見ているようで見ていない。
きっと、昔の俺を見ているのだ。
「なのに……」
呆れた声。
ずいぶんと、変わってしまっているのだろうか。
「今のお前は何なんだ?」
それは、何度も自分に問いかけた。
しかし、その問いに答えは一度も返ってきたことはない。
「見る影もない、ただの木偶じゃないか……」
失望と、失意の声。
ヒーローに憧れをもつ子供が現実を見るときのように、健斗もまた、俺に見ていた過去の残像との相違に落胆しているのだ。
「信用して相手を想うってことはさ、自分の想いを包み隠さずに伝えるってことなんだよ……それだけでよくて、それが難しいことなんだ」
遠い昔を見ている。そう、俺は感じた。
遠い昔しか見てないのだ。
それほどに、俺は見る影もないのだろうか。
「そんで、智樹の今していることは相手に自分の想いを押し付けてんだよ。いや、想う理由を、想うことで出てくる責任を、なにもかもを相手に押し付けているんだ……」
「俺が……朱里に押し付けている……?」
健斗の言葉が、俺の中にある何かに触れた。
思う理由?責任?意味が分からない……。
俺は背負おうとした。
そして、背負いきれなかった。
ただ、それだけだ。それだけなんだ。
「意味が分からない!!」
何が、何が押し付けているだと?
何も知らないくせに、何を知った風に!!
「俺は朱里のおもうことを!!朱里の助けになることを!!朱里のために!!朱里のためだけに!!それだけを望んでいるし、それだけしか望まない!!」
そうだ、俺は朱里のためだけに、その為だけに生きる。
それなのに、なぜ!!
「それの何がっ!どこがっ!!悪いっていうんだ!!!」
俺は健斗に胸倉をつかみ、胸の中に渦巻いている想いをぶつけた。
「それだよ!それなんだよ!!それが気持ち悪いっていてんだよ!!」
振りほどくでもなく、まっすぐと俺の顔を見て健斗は言い放つ。
「っ!?」
思わず手を放してしまう。
「そうやって、想っていることを朱里ちゃんに押し付けてる!!」
押し付けてなんていない。
俺は、朱里が望むことを、喜ぶことをしたい、するだけだ。
「そりゃそうだよなぁ!そうしてりゃ楽だもんな!!」
そんな、ことはない。
一緒に入れないことのほうがつらい。
死ぬなんて、決まったことじゃない……。
「いずれ死ぬ!自分よりも早く!望まない形で!そんな相手の近くに、自分の意志で一緒に居続けるのはつらいもんなぁ!惚れた相手ならなおさらだ!!」
……違う。
俺は、一緒に居続けたい。
ずっと、寄り添っていたい……はずだ。
「だったら、一緒にいる理由を相手に押し付けたら楽だよなぁ!!」
違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う!!!!
「違うっ!!」
「違わねえよ……」
あっさりと俺の言葉は否定される。
なぜだか、否定されたはずなのにほっとしている自分がいる。
きっと、分かっていたのだ。
歪んでいる自分に。
そして、気づかないふりをしていたのだ。気づいてしまうと、自分を責めるから。気づいてしまうと、もう気づかないふりをすることができなくなるから。
「お前は朱里ちゃんのことを想っているようで何も想っていない!考えているようで何も考えていない!助けようとしていて何も助けになっていない!!」
やめてくれ……。
「一番怖くて、一番したくないことをお前は押し付けているんだよ!!」
「何のことだよ!!」
悪あがきだ。
気づきたくない、しかし、もう遅い。
「一緒にいるための理由だよ!」
押しとどめていた事実を口にされる。
「朱里のため?ためだけに?何言ってんだよ!お前が楽したいだけだろ!?」
そうだ。
なにかするとき、その理由を他人に押し付けることはとても楽なことだ。
なにか不具合があっても、言い逃れができる。
俺は別に好きでいるわけじゃない。
頼まれたから、求められたから、しているだけ。
そうやって、逃げ道が用意できる。
「昔のお前はそんなんじゃなかったよ!朱里ちゃんのことが心の底から好きだから、一緒にいたい!一緒にいるって!そうだったんじゃないのかよ!?」
「お、俺は……」
昔を思い出す。
それは遠い、すごく遠いものに感じられて、おぼろげにしか思い出せない。
でも、それでも、あの時の自分は自分の意志で、好きでいた。
それだけは、確信できる。
「今のお前は!朱里ちゃんのことが本当に好きなのか!?」
当たり前だ。
一度たりとも忘れたことはない。
うれしいときの顔、楽しいときの顔、悲しい時の顔、泣き顔、悔しそうにする顔。
そして――
「好きだから一緒にいたいんじゃないのかよ!?」
朱里の、笑顔を――。
「俺はっ……怖かったんだっ……!!」
こぼれだす。
隠していた想いが、言葉が、涙が……。
「朱里が死ぬかもしれないってことを周りから強く言われて……朱里の手術とか泣きそうな顔を見て、朱里のいない未来のことをかんがえちまったんだ!!」
そのことだけは、鮮明に、色あせることなく、俺の中に巣くっている。
「そしたら……、急に怖くなった……」
気を抜くと、考えてしまう。
悪い方に、悪い方に。
そして、怖くて怖くてたまらなくなるのだ。
「朱里と会えるから幸せだった……朱里と話せるから毎日が楽しかった……朱里が笑ってくれるから、朱里と一緒にいるから俺も笑ったし、うれしかった……」
ただそれだけでよかった。
ただそれだけがあればよかった。
ただそれだけがあれば、俺は幸せなのだ。
「なら、朱里がいなくなったら……」
その、すべてがなくなってしまう。
そのすべては真逆になってしまう。
「そう考えてしまったら、もう止まらくなったんだ……」
俺のすべてが、俺の前からなくなってしまったら、奪われてしまったら……。
俺は俺でいられるのだろうか。
俺は生きていけるのだろうか。
俺は、これまでの人生を、出来事を、朱里のことを、恨んだりしないだろうか。それが、一番怖い。
「朱里が会いたくないって言ったから、会わないんじゃない……」
もし恨んでしまったら……。
自分よりも、何よりも大切な人を恨んでしまうことだけは、したくない。
してはいけない。
「本当は……俺が怖いから会えないんだ……」
心のどこかで、奇跡なんて起きないと思っている。
朱里は、長くなく、死んでしまうと。
なら、会えば、思い出を、時間を、想いを重ねてしまったら、それだけ俺の中に残ってしまうものが多ければ、それは俺に降りかかってくる。
どうしようもない、重荷へと。
俺はそれに耐えることができるのだろうか。
俺はそれを飲み干せるのだろうか。
「失うのが怖い!目の前で苦しむのが嫌だ!笑顔だけ!笑った顔だけ見ていたい!!」
上面だけの、きれいなものだけを味わうのなら、そんなことで悩むことはない。
どうでもいい他人なら、上面だけのきれいなモノだけでいい。
でも、朱里のこととなるとそうとはいかない。
全部、なにもかも味わいたくなるのだ。
なにもかもすべて、共有したい。負担したい。
しかし、それは俺にとってはあまりにも重すぎるものだ。
つらく、苦く、辛く、苦でしかなくなってしまうもの。
いずれ、近くに訪れるのであろう終焉は、俺の甘美な蜜すべてを、苦汁へと変えてしまう。
否、そうとしか感じ取れなくしてしまうのだ。
「覚悟していた!!知っていた!!わかっていた!!それなのに!!」
その片鱗を、まじまじと見せつけられると、俺は潰れてしまった。
耐えきれなかったのだ。
「俺は弱い……どうしようもないほど、心が弱いんだ……」
情が深くなればなる程、それは自分に返ってくる。
「きっと朱里はそんな俺のことを見抜いていたんだと思う……」
朱里も、俺と同じはずだ。
いや、もっとつらいはず。
なのに、朱里は自分のことだけにならず、俺に気を使った。
「だから、会わないようにしたんだ……俺のために」
情けない。
請け負うべきは俺なのに。
与えるのはお互いなのに。
つらいものは、ないはずなのに……。
「俺はわかっていた……気づいていた……知っていたのに、とぼけていたんだ……」
つらいのは自分だけ。
そんな風に考えてしまっていたのだ。
残されることへの恐怖におびえてしまった。
「わからなければ、気づかなければ!知らなければ!!楽でいいから!!」
これからの時は、楽しいことだけじゃなく、つらいことが多くなる。
時を重ねれば、苦しいことが増えてくる。
「好きだから!!大好きだから!!一緒にいるのがつらいし、怖んだっ!!」
なら、あの時の、楽しいばかりだった、二人の思い出のきれいな上澄みだけを掬い取ればいいと考えてしまった。
「俺には……朱里と一緒にいる資格なんてなかったんだ……」
そうだ。
資格なんて、俺にはなかった。
「あの頃から……ずっと……」
そして、今も。
「今更、会いに……いかないほうがいいのか……」
「何言ってんだよ!!お前!!」
健斗が驚いたといった感じで声を荒げる。
「何って……仕方ないじゃないか……。俺は根が弱い、弱すぎるんだ。こんな俺が近くにいても、互いに傷つくだけじゃないのか?繰り返すだけじゃないのか?」
根が変わっていないのなら、性質が同じままなのなら、きっと繰り返すだろう。
それは、してはいけないのだ。
せっかく朱里が勇気を振り絞って選んだ妥協の今。
それを覚悟も変化もなく俺が壊してしまうのはしてはいけないことだ。変わることのできない芋虫は這うことしかできない。失意と恐怖と、後悔のみの地面の上を。
「俺は自分が楽な方にいくために朱里に苦しくてつらい方を押し付けた……。そんな奴に……そんな奴に!!一緒にいていい資格なんてあるはずないだろっ!!」
「そうじゃないだろっ!!」
「じゃあなんで今更会いに行きたいって言いだしたんだよ!!なんで昔のことを思い出したいって!!昔の怖がってなかった自分に戻りたいって言いだしたんだよ!!」
「それは……」
言葉が出てこない。
少し前まで持っていた会いたい理由は、自分で否定した。
でも、それでも!会いたい……。
「お前は朱里ちゃんに会いに行きたいんだろ!?会いたいんだろ!?だったらなんでそんな簡単にあきらめてんだよ!!」
「資格が……資格がないんだ……俺には……」
何もない、無くしてしまった俺がいても、迷惑にしかならない。
「資格なんていらないんだよ!!」
煮え切らない俺の胸倉をつかみ、叫ぶ。
「好きな人のそばにいるのに、資格なんていらないんだよ!!」
「好きだって想いが!誰にも負けないそんな思いがあればそれだけでいいんだよっ!!もう曲がらないって、覚悟があればそれでいいんだよ!!」
「お前にはないのかよ!!好きだって想いが!!誰にも負けないって想いがよ!!曲がらないって覚悟がっ!!」
……あった。覚悟なら、想いなら!
いや、あるのだ。
覚悟も、想いも!!
「お前の本当の想いを言ってみろよ!!飾らない!!本当の想いを!!!」
あったのだ。
自分のルーツに。
朱里と初めて会った時から、変わらない。
ただ一つの想いと、願い。
いまだなお、色あせることなく、より一層鮮やかになっている想いが!!
「っ――……俺はっ……朱里のことが好きだ!!大好きだ!!」
そうだ。
最初から、何一つ変わらない。
たった一つの大切な想い。
「だから!!一緒にいたいっ!!朱里のためとか……そんなんじゃなくて、俺が一緒にいたいから!!」
「そうだ!!相手に理由を押し付けるんじゃない!!自分がそうしたいからそうする!!それが、昔お前がやっていたことだろ!?」
「そうだった……そうだったんだ!!」
思い出した。
昔の俺は、体裁とか、未来とか、そんなものは一切考えてなんかいなかった。
ただただ、朱里といたい。
好きだってことしか考えていなかったのだ。
「俺は朱里が好きだから、ただ好きだったから、ずっとそばにいたんだ……」
いつから、隠れてしまったのだろうか。
いつから、それ以外を考えるようになってしまったのだろうか。
「朱里がそう望んだんじゃない……俺がそう望んだから!!」
もう、迷わない。
ただまっすぐに、朱里を愛す。
「だから、今からは俺はそうする!!朱里がどうとかじゃない!!俺が一緒にいたいから!!」
「ありがとう……健斗!俺、思い出したよ!!昔の想いを!!」
「別にお前のためじゃないよ……」
一瞬、寂しそうな顔をした後、当然だといった顔に変わる。
「俺は高校に入って、智樹と再会して、なんか悔しかったんだ」
「悔しかった?」
嫌悪じゃないのか……?
「ああ、昔のお前たちは俺にとっての理想だったんだ」
また、遠い目をした。
当時のことは、健斗にとってはそれほどに大切なことなのだろう。
「そんなお前が見る影もなくてなんか悔しかったんだよ……。俺の理想が壊されたみたいで……」
そうにかっと笑う。
「だから、俺がやったことは俺のためだ。だから、お礼なんていらないんだよ」
「そうか……なら、そういうことにしとくよ」
「ああ、そうしておいてくれ……」
しんみりとした空気が流れる。
それを嫌って俺は屋上を出るように促した。
「じゃあ、そろそろ帰るか」
「智樹、悪いが先に返っててくれるか?一人で風に当たってから帰りたい気分なんだ……」
「わかった、先に帰るよ。じゃあ、また明日な……」
「ああ、また明日」
「ありがとな、健斗……」
そういって、俺は屋上を後にした。
もう迷わない。
もう戸惑わない。
ただまっすぐに、俺の想いを貫くために、進むだけだ。
学校に咲く桜の木は、ただ堂々と、青い空の下で咲き誇っている。
屋上に一人残った俺、笹瀬健斗は黄昏を眺めていた。
「別に親友のためとかじゃねぇよ……」
そうだ。別に親友のためだからと言ってあんなふうに感情的になって話などしない。
ただ、昔の苦い記憶と絡まって、ぶつけてしまったのだ。
「ただ、自分のためさ……」
その呟きは誰に向けたものなのだろうか。
過去の自分になのか、はたまた、あの人になのか……。
昔の自分は、他人の考えていることが分からずに、誰と話すときでも、心のどこかで疑い、おびえていた。
その日は、たまたま父親が弁当を忘れていたから病院に直接届けにいっていた。
「あら、笹瀬先生の息子さんですね。お父さんなら少し外に出ていますから、ここで待っていたらすぐに来るとおもいますよ」
受付の看護師さんが笑顔で俺にそう言った。彼女は笑顔でそんなことを言っているけど、内心何を思っているのかなんてわかったものじゃない。気持ち悪いし、怖い。
俺は言われたと通りに近くのソファーに腰かけて座っていた。そこで俺は築いた。さっきの看護師に弁当を渡せば帰れていたのではないのかと。会話をしたくない一心で思わずソファーに座ってしまった。失敗だ。今更話しかけることはできない。
そんなことを考えていると隣に少女が座った。
「何かすごい顔で私のことを見ているけど、どうかしたの?隣に座られたくなかったとか?」
どうやら無意識のうちに少女のことを見てしまったのだろう。いきなりずけずけと座られ、少し戸惑ってしまったのかもしれない。
僕の身近な人生の経験則として、ふつうは隣に座るにしても少し距離を置く。なのに、この少女は全く距離を置かずに座ってきた。
その少女の見た目は俺と歳はそう変わりはなく、控えめに言ってとてもきれいな見た目をしている。だからと言ってどうということはない。少女が何を考えているかわからないことには変わりはないのだから。
「ああ、すいません。別に嫌というわけではないです。どうぞそのままでいてください」
僕は失礼を働いてしまったのでお詫びをし、もと見ていた方を向く。すると、今度は少女のほうから笑い声がした。
「あなた、とっても子供らしくない言い方をするのね。面白いわ」
目頭に浮かんだ涙をぬぐいながら、少女は話しかけてくる。
なんなのだ、この女は。初対面の相手に失礼な奴だ。しかし、自分の初対面で失礼をしてしまった。ここはおあいことしてひとまず水に流して置こう。
「すみません、大人と接する機会が多かったから、つい癖で……」
父の知り合いと会うことが多く、こういった初対面の大人との接し方が身についているのか、つい癖でかしこまりすぎていたのかもしれない。
「いえ、私のほうも笑ってしまってごめんなさい」
「俺のほうこそ」
そう言って、会話が止まる。
この間。この間が嫌いなのだ。この間の間に相手が何を考えているのか想像してしまう。そして、その想像は必ずと言っていいほどに悪い方向にしか走っていかない。目の前に座っている少女のついてもそれは変わらない。
「その手に持っているものは、お弁当?」
「うん、そうだよ。父さんに届けに来たんだ」
少女の疑問に僕は素直に答える。嘘をついても仕方のないことだから。
「へぇー、誰?お父さん」
さらに問いかけてくる。そんなことを聞いてどうするのだろうか。ただ会話を長引かせたいだけなのだろう。
「私、入院歴長いから、この病院の人のこと大体知ってるのよ!」
自慢げにしているが、何にも威張れることではない。というか、見た目はとても元気そうなのに、結構重い病気なのか……。
「笹瀬ですよ」
「ええ!?笹瀬先生!!」
俺が答えると少女はとても驚いていた。
「私の主治医さんが笹瀬先生なの!」
なるほど、すごい偶然だ。そして、いいことを聞いた。俺は早く帰って今日の分の勉強がしたいのだ。医者になるために。
だから、俺は少女にお願いをすることにした。
「君、頼みごとがあるんだけど……」
「君じゃないよ、私は市原朱里」
そんなことはどうでもいい。
「そうか、なら朱里さん、お願いがあるんだ」
「何?」
「これを僕の代わりに父さんに、笹瀬先生に渡してくれないだろうか」
そう言って朱里さんの前に弁当を差し出す。すると、彼女はきょとんとした表情をした。
「どうして?君が渡せばいいんじゃないの?」
もっともな意見だ。しかし、俺は帰りたい。
「俺には用事があるんだ、だから、お願いできるかな?」
そう言うと彼女は少し考えるとうなずいてくれた。
「いいよ、その代わり、一つ聞いていい?」
「ああ、かまわないよ」
どうせたいしたことは聞いてこないのだろう。すぐに終わらせて帰るとしよう。
「どうして、そんなに他人と話すのを怖がるの?」
思わず彼女の顔を見る。心臓が止まるかと思った。
俺の悩み事を話題に挙げられ、動悸が激しくなる。なぜ、なぜそんなことを言い出したのだろう。なぜ、分かったのだろうか。可愛らしい彼女の顔が黒く、どこまでも黒く感じてしまう。「なんで、そんな事を……」
「本でね、読んだのと一緒だったから。君が話すとき、私の目を見てるようで見てないの」
本だと……!?そんな不確かなフィクションのことをうのみにして俺にそんなことを聞いてきたのか。図星をつかれてあせってしまったのが馬鹿らしく感じてしまう。だからと言って本当のことを話しなどはしない。
「そうなんだ、でも俺は違うよ。本の通りなんかじゃないよ」
嘘だってことはばれているだろう。
「そうなんだ、変なこと聞いてごめんね。じゃあ、私がお弁当渡しとくね」
「ありがとう」
そう言って彼女は僕から弁当を受け取った。
俺はそのまま帰ろうとすると、彼女が後ろから声をかけてきた。
「今日はお話しできて楽しかったよ。またお話ししに来てね。それと、君の名前教えてほしいな」
もう会うことなんてないだろうに、なんでそんなこと聞いてくるのだろうか、分からない。
「笹瀬健斗」
くだらない、どうでもいいこと。無視してしまってもいいことなのに、答える。
「健斗君、また今度ね!」
彼女はとびっきりの笑顔でそう言った。
なんてことのない言葉。返すことが当たり前で、返せばいい簡単な言葉。なのに、俺は返すことができなかった。
顔が熱い。何を考えているのか考えることができないぐらいに、熱いのだ。
俺はこの熱を冷ます為に早足で外に出た。
昔の思い出を思い出す。最初の出会い。
「俺の、初恋の相手が悲しむようなことはしたくないだけ……」
気づいた時には目で追っていた。
気づいた時には考えていた。
気づいた時には想っていた。
だから、何かしてあげたかったのだ。
心から喜んでくれることを。
自分が喜ばせられることはこれしかないのだから。
あの時は何もなかったのだから。
「ただ、それだけさ……」
そう、ただそれだけなのに、今も、心のどこかでは想っている。
屋上から見えた桜は、昔とは変わらず、きれいで、はかないものだった。
智樹君たちと別れた後、私、平岡涼香は陽菜ちゃんと一緒に家路についていた。
「大事な話って何なんだろうねー」
「そうだね。気になるけど、智樹君、いつか話してくれるって言ってたし、そのうち話してくれるよ」
確かに気にはなる。でも、私は信じているのだ。彼とした約束を、小学校の頃の話をした日の。
今日の彼の表情はその日の表情によく似ていた。きっと、健斗君との話とは小学校の頃の話のことなのだろう。
そう思うと、彼の話を知っていないのは彼女、陽菜ちゃんだけでなんだか悪い気がしてしまう。
「まあ、二人とも変なとこですごく頑固だし、聞きだすのとかはあきらめてるけどね」
「確かに、二人とも頑固だね」
彼女は二人の頑固なところを思いだしてかくすくすと笑っている。それにつられて私も笑う。
ところでといって彼女は話しはじめた。
「久しぶりに女だけになったわけじゃない?」
「そうだね、ほんとに久しぶりだね。いつも四人でいるし、分かれたとしてもこの別れ方じゃないしね」
いつも別れるとしたら、陽菜ちゃんカップルとあまりといった別れ方をする。なので、私と彼女と二人きりになるのは実は珍しかったりするのだ。
「こんな時だからできる話しようよ」
「こんな時だから?」
こんな時だからできる会話というのはどんなものなのだろうか……。
「コイバナよ、コイバナ!!」
「へぇ!?」
思わずどきっとした。コイバナ……、いつもは彼女たちのアツアツ話で終わっていたため何ともないが、今日はきっと違うだろう。矛先は私に向くのだ、きっと。
「涼香は、誰か好きな人とかいるの?」
「そ、そんな人、いないよ……」
にやにやしながら聞いてくる。私は苦し紛れに答えるが、動揺していることは一発でわかってしまうだろう。どうしても、好きな人という言葉に反応してしまう。頭の中で勝手に彼のことが浮かんでしまうのだ。
「そんなこと言って~、智樹のことが好きなくせに~」
「なっ!?」
ばれていた。いや、かまをかけられたのか?それはわからないが、露骨に反応してしまった。彼の名前を聞いただけで思わずどきりとしてしまった。ちょうど彼のことをかんがえていたからだ。
「涼香~、ばれてないとか思ってるのかもしれないけどさ、バレバレなんだよ?」
「えっ、ほんとに!?智樹君にも!?」
驚いた声が出てしまう。もし彼にばれていたのなら、いろいろ話していた私がなんだか恥ずかしく思ってしまう。そして、あきらめなくてはいけなくなるから、認めなくてはいけなくなるから。
「いや、あいつはにぶちんだから、気づいてないよ」
「そうなんだ、よかったー」
本当によかった。もし知られていたのなら、私は明日からどんな顔をして会えばよいのだろうか。いや、以前から知られていたのならいつもどおりにしていればよいのだろうが、嫌でも意識してしまう。
私がほっと胸をなでおろしていると彼女はわなわなと震えはじめた。
「よくないよ!!」
「え、なんで?」
「あのにぶちんのバカはもっと攻めていかないとわかんないんだから、涼香からもっとがつがついかないと!!」
「ええー……、そういわれても、なんかやりづらいというか、照れ臭いというか……」
昔の彼に何かがあったのは確実だろう。そして、それが今の彼にとってはとても大事で、彼の中を占めている大部分だと思うのだ。だったら、そのことが分かるまで、何かをするという気にはなれないのだ。それと、好きになってしまった相手にはなんだか素直に気持ちを伝えていくのはできない性格なのである。
「私にはそういうのは無理だよ……、陽菜ちゃん」
泣き言をこぼしてしまう私に陽菜ちゃんは喝を入れる。
「涼香はかわいいんだよ!学校の誰よりもかわいいんだよ!」
「ちょっ!何言ってるの!?」
なぜか私のことをほめてくる。あまりの恥ずかしさに彼女の口をふさごうとするが簡単に避けられてしまう。
「涼香に好かれてうれしいと思うことはあっても、嫌だと思う奴なんかいないんだよ!」
「そんなことないと思うけど……」
彼女の言うことはあまりに飛躍しすぎている。どんなにかわいいアイドルがいても、人間好みがある。好きという人は当然多いだろうが、嫌いという人も少なからずいる。そして、その中に彼がいるかもしれないのだ。
だがしかし、自信過剰なのかもしれないが、彼が私のことを嫌っているということはないだろう。しかし、好いているということもないのだと私は思っている。あくまで、友達として、私を見ているのだ。それ以上でも、それ以下でもないのだろう。
「智樹君は、私のことを友達としてしか見ていないと思うし、私の好意に気づいても智樹君はきっと、うれしいと思うだけで、それ以上は何も想わないと思うんだ」
それに、と私は続ける。
「智樹君には、私達と知らないところで、とっても大切な人がいるんじゃないかって私は思っているんだ。だから、私は友達以上にはなれない気がするんだ」
彼と話していると感じてしまうこと。勘違いだと思いたくて気にしないふりをしてきていたけど、あからさまにそう思わせるときがあるのだ。そんなときに私は「私を見てはくれないんだな」と思うのだ。
私といても、私のことを見ていない。私が想っても、私を想ってくれない。それはひどく残酷なことだと思うし、ひどく自分勝手なことだと思うのだ。
彼には彼にとって大切な人がいる。それが私と食い違っていても、何にもおかしくないことなのに、私は嫉妬し、ひがんでしまうのだ。それは、私の心が汚れているからだ。彼にふさわしくないから、そう思ってしまうのだ。
でも、これは私の勝手な想像だ。これが事実かもしれないし、真逆かもしれないのだ。本当のことは彼から聞かなくてはわからない。だから、その時まで、私が想いを伝えるまで、そのことはわからない。そのことは認めなくてもいいのだ。
私の言葉に彼女は訳が分からないといった表情をする。
「そんなこと分からないじゃない!想いの重さは時間に比例するの!どんなに智樹がその知らない女の子を想っていても、あいつの近くに今いるのは涼香なんだよ!」
彼女は私の胸を指で刺しながら話を続ける。
「だから、あんたが今からいっぱい楽しい時間を過ごして、あいつの一番になればいいじゃない!」
「陽菜ちゃん……」
私は彼女の言葉に勇気をもらう。そうだ、あきらめずに少しずつでいいから彼に振り向いてもらえるように頑張ろう。今からのそばにいるのは私なのだから。
「どうせ今もこれからも、私達はずっと一緒にいるんだろうからさ、いっぱいいろんな楽しいことして、近づいていこうよ!」
「そうだね!」
私と彼女はそう言って笑いながら家路についた。帰り道に吹く春風は肌寒いながらも、どこか温かみを帯びていた。
いつもの帰り道、いつもの風景。ただ違うのは一人だということ。いつもは隣にいる陽菜がいないことぐらいだ。
俺は今日の智樹との会話を思い出しながら歩いていた。彼と初めて会ったのは朱里さんと二回目にあった時だった。その頃の彼は俺にないものを持っていて、まぶしかった。
しかし、朱里さんが東京の病院に移り、彼とも合わなくなったまま、高校に入り、再会した。正直驚いた。見る影もなく変わっていたから。明るく、楽しそうな彼はなく、何もかもがどうでもいいと思っているように見えた。そんな彼のことが俺はどうしても許せなかった。自分にはないものを、朱里さんからの好意を受けているのに、答えない。動こうとしない。悲壮にくれているだけの日々。許せるはずがない。
だから、俺は彼に近づき、彼を元に戻そうとした。あの頃に。そうすれば、彼は動き始めるはずだと思ったからだ。朱里さんのために。
いや、ただ俺の自己満足だ。あの約束にも、この想いにも崇高なものなどは介在していないのだ。
こんな男になら負けてもしょうがなかったと思いたいからだ。あの頃の彼になら負けてもいいと思った。しかし、再会した彼は違う。あんな抜け殻に負けたなんて思いたくなかった。だから、むきになったのだ。朱里さんの名を使って自分の気持ちを、いら立ちを吐き出したなんて思いたくないし、絶対に違うのだ。
初恋の患いはもう治ったはずだ。出なければ、今の彼女に対するこの気持ちは何になるのだろうか。
「遅かったね、健斗」
帰り道にある公園のベンチのほうから声をかけられた。
ぎょっとした。ちょうどこの声の主のことをかんがえていたからだろうか。それとも、彼との会話で、彼女に対しての罪悪感がぶり返したからだろうか。
「先に帰ってたんじゃないのか?陽菜」
彼女の顔はどこか悲しげだった。今の自分も、こんな顔をしているのだろう。
「うん、涼香と別れるまでね」
彼女は淡々と答える。
「どうしたんだ?俺が恋しくなった?」
「そうだね、健斗達が、朱里のことで話してたから、恋しくなったのかも」
当然、気づいていたのか。なんだか、あの頃を思い出す。俺たちが付き合い始めたころを。
お互いの、心の隙間を埋めるために利用しあっていたころを……。
思い出すたびに胸を締め付け、さすように痛む。
動き始めるための代償かのように、俺たちの痛いところをついてくる。
これは、仕方のない罰なのだ。
約束をたがわぬために支払った――……。
涼香と別れた後、私は帰り道にある公園のベンチに腰掛けていた。健斗を待っているのだ。
今日の智樹と健斗の会話は、十中八九、朱里のことだろう。彼らは二人とも彼女に恋をし、少なからず傷ついた者同士。穏やかには終わらないだろう。
これで、智樹は前に進めるのだろう。いや、進んでもらわなくては困る。それが、私と彼の願いなのだから。
私は健斗を待っている間、物思いにふけることにした。いや、否応にも思いださせられるのだ。昔のことを。
私は朱里とのことを思い出す。智樹の忘れているだけのことを。
私と朱里はいとこだ。別の学校に通っているが、家が比較的近くにあったおかげか、月に一回はあっていた。だからこそ、彼女が病にかかったと聞いた時は驚いた。
彼女のお見舞いに行こうとしたが、最初のうちはクラスメイトがいてなかなかいくことができなかったし、少ししても、ずっと男の子がいて近づくことができなかった。私は今と違って当時は人見知りが激しく、そのことを知っている朱里とは文通をしていた。
その手紙の内容はいつも病室にいる男の子の話ばかりで、私は次第にその男の子に興味を持つようになった。
そんなある日、私は意を決して朱里のお見舞いに行くことにした。この時のことは今でも覚えている。とても緊張した。それほど、当時の自分にはとてもハードルの高いことだったのだ。
私が病室に入るとそこには信じられない光景があった。同じ学校の笹瀬君がいたのだ。しかも、学校ではめったに笑わないのに、とびっきりの笑顔で笑っていた。私は勇気を振り絞り、挨拶をしてその輪に入っていた。朱里のフォローもあってか私はすぐに二人の少年と仲良くなり、お見舞いの時によく話すようになった。
話していて、よくわかる。智樹君は、朱里のことが好き。そして、朱里は智樹君のことが好き。
だが、残念なことに、笹瀬君は朱里のことが好きなようだ。そして、私は……。
話しているうちに智樹君のことが好きになってしまっていたのだ。決して割り込めない二人。その片割れを好きになってしまった私達。それでも、私達は話しているだけで、一緒にいるだけで幸せだったのだ。
だから、私達は約束したのだ。告白はしない、二人の邪魔はしない。二人が幸せになるようにしようと。
しかし、私は図々しかった。次第に私はただ話しているだけ、一緒にいるだけでは満足できなくなってきた。もっと、その先がほしくなってしまったのだ。だから、私は約束を守るため、笹瀬君に頼んでお見舞いに行く頻度を自然に落とし、二人の前に姿を見せなくしたのだった。
そして時が流れ、朱里が東京の病院に移った。
その時に私は何を思ってか智樹君に会いに行こうとしたのだ。朱里がいなくなって、私は下心が芽生えたのだろう。しかし、その下心は粉々に砕け散った。久しぶりに見た彼の表情は私の知っているものとは大きく違っていたのだ。
とても話しかけられるものではない。私が話しかけても、何もない。求められなどしていない。そう、容易にわかってしまう。私は、彼に声をかけることなく、帰った。
変化は、智樹君だけではなかった。笹瀬君にも起きていた。
彼は朱里たちと話すようになり、以前よりもだいぶ明るくなっていた。しかし、朱里がいなくなってから以前の彼に戻ったように感じられた。そして、以前より私と話す時間が多くなった。それは彼から求めてくるのもあるし、私から求めるからでもある。
彼と話していると、今はもうないあの頃のことが近くに感じられるような気がするから、そして、忘れないようにするために。
それはきっと彼もいっしょなのだろう。だから、私達はどんどん一緒にいる時間が増え、話す時間が増え、付き合うようになったのだ。お互いの空いた心の隙間を埋めるために。傷をなめあうために。
そんなことを思い出していると、私は急に怖くなるのだ。私は健斗と付き合ううちに本当に彼のことが好きになり、改めて告白し、付き合うことになった。その時に、彼は自分も一緒だといってくれた。しかし、それもまた嘘の物なのではないのかと思えてくるのだ。
彼を疑っているのではない。自分自身を疑っているのだ。蓋をするために無理やり心に蓋をして、そんなことを言い出したのではないのかと考えるのだ。
そうすると、私は彼に、健斗に無性に会いたくなる。あって、この気持ちが、あの頃の気持ちが嘘でないと証明したくなるのだ。
そして、彼もまた、私と同じなのだと思う。だから、彼に会いたい。どうせ悲しい顔をして帰るのだろうから。一緒にいてあげたいと思ってしまうのだ。
だから、私はここで健斗を待っているのだ。
しばらく待っていると、健斗が公園の前を通った。私はあくまで冷静に、この気持ちを悟られないように声をかける。
「遅かったね、健斗」
こちらを向いた彼の顔は想像通り、悲しい顔をしている。
「先に帰ってたんじゃないのか?」
「うん、涼香と別れるまでね」
私は彼の質問に淡々と答える。
「俺が恋しくなったのか?」
私は素直に答えることにした。そのほうが、早いと思ったから。そして、そのほうが今はいいと思ったから。
「そうだね、健斗達が、朱里のことで話してたから、恋しくなったのかも」
私の言葉を聞いて、彼は悲しそうに微笑んだ。
「智樹は元に戻ったの?」
いつもの帰り道を二人で歩いていると陽菜が今日の話について結果を聞いてきた。
「もちろんさ」
俺は簡単に結果を伝える。
「戻ってもらわないと困る。そうじゃないと、俺がここまでした意味がない」
そうだ、戻ってもらわないと困る。そうでなければ俺はもう一度智樹を奮起させるために叱咤を飛ばさなければいけなくなるから。あんな役回りはなるべくしたくない。
「そうね、そうよね」
陽菜は返ってくる答えがわかっていたかのようにうなずく。
「ああ、約束はたがうつもりはない」
「朱里との最後の約束」
陽菜の口からこぼれたソレは今もなお、俺達を縛り続けているのだ。いや、すがっているのかもしれない。幼いころのあの時間を、想いを忘れないために――。
俺と陽菜は朱里に呼び出されていた。
「どうしたの?話したいことって?」
「そうよ、それに、智樹君がいないし……」
俺達は今自分たちが置かれている状況が今ひとつわからずにいた。すると、今まで暗い顔で黙っていた朱里が話しはじめる。
「私、そんなに良くないんだ。だから、東京の病院に移ることにしたの……明後日」
彼女から出た言葉は耳を疑うものだった。
「何で急に……!?」
「もっと早くに言ってくれたらよかったのに……!?」
俺たちの言葉に彼女は苦しそうに、悲しそうに言葉少なく返す。
「言えなかったんだよ……」
「「え……」」
「楽しい毎日が続くと思ってた……ただみんなで話しているのが楽しかった……」
その声は、だんだんと濡れていく。
「でも、そんなにうまくはいかなかったの……悪いのはわかってた、覚悟もできてた……はずだった」
最後のほうは消え行ってしまいそうなほど弱々しい声。そこで気づく。俺たちは表面上は元気だった彼女の、本当は傷ついていた内面に気づいてあげることができなかったのだ。
「それもこれも、智樹の……みんなのせいなんだよ?」
彼女は無理やりにも笑う。それが俺には痛々しく見えて、とてもじゃないが見ていられなかった。
「だから、お願いがあるの……聞いてくれる?」
そう静かに告げる彼女の声には確かな強さが感じられた。だから、俺達はただ静かにうなずくことしかできなかった。
「ありがとね」
彼女はそう微笑み、続ける。
「私が死んじゃったら、智樹はすごく悲しむと思うの。何もする気が起きなくなっちゃうくらいに……」
それは、容易に想像できることだ。朱里のためだけを想って生きているようなやつだ。陽菜も俺と同じことを思っているのか黙って聞いたままだ。
「だから、私は智樹を突き放すことにする。だから、二人はもし知樹が私のところに来ようとしたら全力で止めてね」
訳が分からない。好きなのなら、死んでしまうのなら、思い出を作ろうと、楽しいことをしたいと思うのではないのか?
「なんで……会いたいんじゃ、好きなんじゃないのか!?……あっ!」
失言してしまった。そうすぐに思った。しかし、陽菜は構わず俺の言葉に便乗する。
「そうよ!好きなんじゃないの?一緒言いたらいいんじゃないの?朱里!」
「そうだよ、好きだよ、大好き。でもね、私達はお互いのことよくわかるんだ。だから、想うの。私達はそばにいたらお互いつらい思いしかしないって……」
「そんなこと……」
ないとは言えなかった。わかってしまうから、想像できてしまうから。
「私は智樹がいたら未練を残してしまう。死ぬのが怖くなってしまう」
まるで死ぬのが怖くなかったみたいな言い方だ。彼女にとっては、死ぬことはいつ自分の身に降り注いでもおかしくないことなのだ。
「智樹は私といると、私の死に直接対面しなくてはいけなくなってしまう……智樹の心が壊れてしまうかもしれない……いや、きっと壊れる」
自分よりも、何よりも大切にしているものが壊れてしまったら、人はどうしようもなく壊れてしまうと思う。それは、智樹も例外なくだ。
飲み込み、受け入れるには、俺たちの歳ではまだ早すぎる。
「だから、約束……してね?」
「「……っ!」」
本当は、嫌なくせに。どうしても離れたくないくせに、大人ぶりやがって……。
俺は彼女に対して激しい怒りにも似た想いを抱いた。これは、怒りなのか、悲しみなのか、それは激しすぎてよくわからない。しかし、彼女にしてあげられることは、俺たちには一つしかない。
「ああ、わかった。約束するよ……」
陽菜も、言葉なくうなずく。
それを見て満足そうに笑いながら彼女は言うのだった。
「ありがとう!二人とも!」
その笑顔はどこまでもはかなく、淡く、悲しいものだったのを覚えている。
病室を出て、俺は陽菜と一緒に公園まで歩いていた。
俺は病室での最後の彼女の笑顔を思い出す。
「……なんで、そんな顔すんだよ……笑うなよ……、ほんとは一番自分が傷ついてるくせに……」
勝手に涙が出てくる。怒りと悔しさでとまらないのだ。
「健斗君は、守るの……?」
陽菜が小さく問うてくる。俺は涙をぬぐいながら即答する。
「守らない」
「私も」
陽菜もまた、同じく返す。
あの最後の笑顔を見てしまったら、答えはおのずと決まってしまうのだ。
「本心から望んでいないことなんて、俺は認めない」
「私も、朱里は絶対に望んでないと思う」
互いの心は一つに決まる。彼女と彼が一つになっているように、俺達も。
「だから――」
「だから――」
「「約束は別の形で守る!」」
望んでいないことをかなえるほど、俺達は善人ではない。なら、望む形に変える。
「折れて立ち上がれなくなった智樹が」
「もしまた朱里に会うために立ち上がるなら」
互いに確かめ合うように宣言する。
「俺たちが全力でサポートして」
「朱里のもとに送り出す!」
互いに誓い合うように宣言する。
「「これが、約束だ!!」」
これが、俺たちを縛るもの。これが、俺たちがすがるもの。彼女の約束から生まれた、俺たちの違うことのない絶対の約束だ。
これは、動き始めた物語。
動かした物語。
朱里を中心とした、私たちの群像劇なのだ。
今日、それはようやく開幕した。
「ちょうど、この場所だね」
私は昔にした約束を思い出しながら空を見上げた。
健斗も同じことを考えていたのだろう、懐かしそうな顔をしていた。
「そうだね、ちょうどこの場所、この日だったな……」
運命的なものを感じてしまう。だからだろうか……今まで以上に、健斗のことが恋しくなったのは。
私は確かめるように彼の手を握り、問いかける。
「約束、絶対守ろうね……」
「当然だ……」
彼もまた、同じように握り返しながらささやくのだった。
「俺たちの思い出は、いつも楽しそうに笑っていただろう……?」
縛られているのだ。彼も、彼女も、私達も。
それは自分の行いだったり、相手への想いだったり、自分たちの約束だったり……。私達は、形は違えど、縛り、縛られている。
これがほどけるのはいつになるのだろうか……。
それをほどけるのは彼だけなのだろう。
私達は色あせない過去とまだ見ぬ、焦がれている未来に思いはせながら、強く握り合っていた。
俺は帰宅するとすぐに脚本を書き始める準備を始めた。佐久子さんからは脚本の内容は演劇でできないようなものでない限りは俺に任せるといわれているため、自由に書かせてもらう。
実は自分の中ではもう話はできている。俺のけじめの物語。選べなかった選択を選びなおす、そんな物語。
この脚本を書き、演じてもらうことで自分の中でまた一つ整理がつくと思うのだ。そして、朱里のそばにいるのにふさわしい、昔の自分に戻れるのだ。いや、違う。昔の自分より、少し強い自分になるのだ。
朱里にはあまり時間は残されていないだろう。だから、俺はなるべくそばにいてやりたい。失った時間を、手放してしまったつながりを取り戻したいのだ。楽しかった日々をまた繰り返すことが、自分が何よりしなくてはいけないことだと思うからだ。
朱里が望み、手放したこと。それは俺が弱く、幼かったからだ。そして代わりに朱里は大人だった。だからこそ、未熟な俺をみてそうせざるを終えなかったのだろう。
俺が望み、選び取れなかったこと。それはうぬぼれや傲慢さがあったからだ。お互いのことを想いあっている。だから離れないと。子供ながらの浅はかな考えを持っていたからだ。大切だからこそ、想っているからこそ離れるという選択が選べると、出てくるのだと考えもしなかった。それはやはり自分の幼さや傲慢さから出てきた弱さなのだと思う。
思い返すと、いくらでも後悔は湧いてくる。しかし、その後悔にいちいち反応していては前には進めない。それらをまとめて飲み干して、次に進む活力に変えていかなくてはいけないのだ。今まで停滞してしまった分、俺は進まなくてはいけないのだから。
それに、やりたいこと、夢もできた。思い出したといった方が正確なのかもしれない。朱里と一緒に過ごしていた中で、自然と夢に見たこと。俺はそれも叶えたいと思う。
だから、俺はこの脚本にすべてを注ぐつもりだ。ありったけの想いと、後悔を払拭するために。過去にとらわれた自分を未来へと解き放つための鍵となる物語を。
俺は想いを胸にしたため、ペンを走らす。俺と朱里の出来事を、形を変えて映し出す。物語を進めるごとに、俺は昔の自分を思い出す。今の朱里へ想いを馳せる。色あせることなく、むしろより鮮やかに彩られて残っている思い出に、本当の色を塗りなおすために。
時間はもう昼過ぎになり、太陽が空で輝いていた。
今日と明日は高校入試があり、休みとなっている。だからこそ俺はこの時間帯まで作業をすることができた。
三月も終わりに近づいているはずだが依然、寒さは厳しいものだ。しかし、身は冷めていても俺の心は熱く、火照っていた。
「こんな今があったかもしれないのか……いや、選べたはずだったんだ……」
俺は自分の手元にある完成した脚本を見返しながら涙を流していた。
この物語は、俺が歩んできた道を、歩みたかった道を書いたもの。当然存在しない結果の、もしものものだ。しかし、俺の選択次第ではあったもの。だからこそ、思うところがあるのだ。
この物語の主人公と自分は全く違う。それは主人公らの性格や容姿だけではない。関係や、時代すらも違う。ただ一つ、同じであることは、想い人と自分とを天秤にかけなくてはならなくなったということだ。
この物語はハッピーエンドで終わっている。つまり、その天秤は傾き、正しい答えを導き出したということだ。
しかし、それが可能なのは俺が作った俺の理想の、都合のいい物語だからなのだろうか……。いや、それは違うはずだ。この物語と俺の失敗とには大きな違いがあるから。
それは昔の俺にはなかったもの。遠慮なく話すことのできる友人。昔の俺は朱里以外はどうでもいい存在だと思って切り捨てていた。しかし、それは間違いだった。自分の小さな世界だけで完結してしまうことは成長にはつながらない。それはむしろ後退への手助けになってしまう。自分では見えなかったものを見せてくれる、逃げていたもの、目を背けていたものを見つめなおすように促してくれる。
それは自分一人ではたどり着くことのできない、最善解へと導いてくれるのだ。俺が欲してやまなかったもの、怖くて選べなかったものへと。
当然、それはあの時はなかった。だからこその今の結果なのだ。しかし、今はあるものだ。高校に入学して手に入れたもの。大切に思える、気の置けない仲間に出会えたのだ。
それはあの頃になかった、新しい宝だと俺は思っている。一生大切にしていかなくてはいけない宝。
そのこと踏まえ、自分にとって自分とは何なのかと問いただす。自分から見て、自分は何者に見えるのかを問いかける。何度もした、答えは出ていた質問。
しかし、その答えは、時がたてば、物語が動けば変わってくる。惨めでみっともない答えしか出せなかった。ただ言い訳をして、自分ではどこが悪いのかわかっているくせに、今からでも取り返せるはずなのに、それなのに行動しない。目を背け、ふてくされる毎日。
そんな死んだ日々を終わらせることができた。そんな自分が出した答えは、言うまでもなくあの頃とは変わっている。自分に対しての見え方が変わり、答えも変わる。
しかし、現実とは実に非情だ。俺が改めて出せる答え。様々な出会いや出来事があり、変わった、変えてくれた俺が出せたもの。
改めて見つめ直したそれは、ひどく滑稽で、うすら寒くなるものだった。いくら考え方が変わり、成長したといっても過去までは変えられない。変えられるのは現在と未来だけだ。自分の犯してきた愚行を取り払うことも、塗り替えることもできないのだ。できることは思い出として美化することや、目をそらすこと、受け止めていくことしかできない。昔の俺は思い出として美化し、何もしない自分から、弱さから目をそらしていた。
しかし、それではだめなのだ。ならば、ただ自分にできることは正しく受け止めることだけなのだ。そして、自分自身の胸の奥底のほうにしまい込んでいた想いを、答えをさらけ出していかなくてはいけない。
自分の本当の答え。改めて考えてみると何かこそばゆい感覚に襲われる。無意識のうちか、どこかで自分をかばっていた。責めているつもりでいても、結局は自分がかわいかったのだ。
そう思うと幼いながらに覚悟を決めていたはずなのにそんなものはただのポーズだったのだとわかってしまう。それはどうも情けなく、恥ずかしくなってしまう。
ただただ、俺は何を大切にしていたのだろうか。朱里が何よりも大切だと思っていたのは本当のことだと断言できる。それは今も変わらないことだから。
しかし、それ以外にもあったのだ。
自分にとって自分とは、大切な人と一緒にいるために必要な資本であると考えている。何よりも大切な人、その人といるために、なくしてはいけない、壊してはいけない資本だと考えているのだ。昔の自分はそう考えていた。
しかし、これは大きな矛盾をはらんでいる。何よりも大切な人と、その何よりも大切な人といるために必要な大切な資本。それを天秤にかけた時、その天秤はどちらに傾くのか……。
結果、どちらにも傾くことはないのだ。選ぶことができず、ただ立ちすくむのみだった。頭ではわかっていたのだ。傾けるべきものは。
しかし、天秤を傾けるには勇気が、覚悟が足りなかった。まだ幼い自分には選ぶことができなかったのだ。先の見えない行動はどうしても恐れてしまう、本能的に恐れてしまうのだ。
あの時に、俺は死について想像した時にくる底知れぬ恐ろしさに似た何かを感じた。ぶつけようのない、ただ何となく、恐ろしい。そんな感覚に全身を奪われたのだ。
何よりも大切なモノならば、何と比べても迷うことなく結果は出る。しかし、俺の天秤はどちらにも傾くことはしなかったのだ。だからこそ、俺は怠惰に毎日を過ごしていたのだ。会いに行こうと思えばいつでも行けた。あの時すぐに答えは出せなくても、会って話し合って、二人で答えを見つけていけばよかったのだ。
しかし、俺はそれをしなかった。いや、できなかったのだ。天秤をどちらかに傾けるということは、どちらかに優劣をつけなくてはいけないからだ。自分にとって両方が同じに大切であった。大切であったからこそ、自分らしくいられたのだ。目をそむけたくなる現実から目を背けられたのだ。どちらかを選ばなくなる時が来るという現実から。
そして、自分が行動を起こすということは、天秤を傾けるということになる。だから、俺は何もできなかったのだ。しなかったのではなく、できなかった。
結局昔の自分も、今までの自分も、していたことはいずれ必ず出さなくてはならない回答の先延ばしにすぎないのだ。
ただ何も考えず、楽しい時間に浸っている。ただ何も考えずに、感傷に、悲壮にくれている。そんなのは楽に決まっている。思考を止め、停滞する。だからあの時、その付けがまわってきたのだ。それでも、俺はそれをどちらかに傾けることなんて到底できなかったのだ。
しかし、人間というものはひどく弱く、利己的なものだ。簡単な方、楽な方に流されて行ってしまう。
昔となった記憶は、モノは色あせることなく鮮やかに自分の中で色づいていた。しかし、昔はそうだった。あの頃は楽しかったと、思い返すたびに、自分の中で何かがこぼれていく感覚に襲われた。少しずつ、それは感じられたのだ。
その一方で、目を背け、手入れを怠ったモノはさび付き、その重さを増していく。貪欲で卑屈で、卑怯な錆は、しつこくこびりついていくのだ。
両者のつり合いが取れなくなった天秤は、当然傾いた。
うすら寒い。大事だ大事だなんて言っていたくせに、選べずに迷い、ただ流されるように大切なモノを軽くする。そして、その大切なモノがあるからこそ、重みがあるはずなのに、余計なものをつけることでその軽さを誤魔化していく。
俺はそんな自分が中身のない銅像に見えるのだ。上面だけ重く、本質は何もない。まさにぴったりだ。
自己分析は悲しいことかな、自分がろくでもないやつであることしかわからなかった。しかし、気づかせてくれることもあった。
「簡単なことじゃないのか……」
自分にかけていたもの、求めなければいけないものがはっきりとした。貪欲さと、執着。そして、勇気だ。
大切な人のためなら何でもやるという、貪欲さ。
主人公なら、当然とるのであろう行動。物語ならば当然の帰結。何を捨ててでも、選び取るもの。そういった選択を取るのに必要なものだ。それが自分には欠けていたのだ。
それらがないから自分は選べなかったのだと、選択肢になかったのだ。いや、これもごまかしなのかもしれない。だが、明らかな事実でもあるのだ。
自分は所詮、何か特別な存在ではなく、ただのちっぽけな餓鬼なのだとわかってしまった。そして、わかってはいたことだ。だが、改めて自分の中できちんと証明してしまうとくるものはある
しかし、いつまでも嘆いていてはいけない。俺は変わるのだ。変わらなくてはいけないのだ。当然の選択をとれるように。自分自身の物語の主人公は自分自身。そんな当たり前のことを俺は再確認し、決意を改める。
自分自身の物語を王道の展開に帰結させるために、俺は変わるのだ。
何か特別なことをするのではない。当たり前のことを当たり前にする、いつも、いつでも、いつまでも一緒にいる。そんな主人公に、俺はなるのだ。
睦月の桜が咲き誇る頃