微睡みも溶けて

前作 http://slib.net/82730の続きです。例のごとく腐向けです。

 久しぶりに夢を見たと、目覚めとともに溶けてしまったその感覚を、教卓に放られた学級日誌を見つけたときにふと思い出した。帰りのホームルームからだいぶ時間が経過していたためか、このフロア一帯には誰も残っておらず静けさに包まれていた。今日の日直は部活に忙しい生徒だったから、大方提出を忘れて練習に向かったのだろう。確か前にも似たようなことがあったはずだ。まあ大して怒る必要もないだろう。日誌を手に取りぱらぱらとめくってみる。自分一人しかいない教室を橙色の光が差し込んで酷く眩しい。眩しさに目を細めていると、めくった日誌には栞のように小さな封筒が挟まれていることに気づいた。新藤先生、とだけ小さな文字で書かれている。宛名は書かれておらず、一体誰からのものなのか見当もつかない。僕以外には。
 そう、僕以外には。特徴的な字のクセ、筆圧。もの凄く見覚えのある字だ。手紙の主は男で、僕と同じ教職者だ。この高校で一緒に働いていた。彼にとって僕はただの同僚で、僕にとって彼は恋慕を抱いた相手だった。そんな彼とは、随分前に夢での逢瀬を繰り返していた。夢の中で彼は僕のことを覚えてはおらず、夢の街を二人でふらふらと歩き回り、気づけば視界は暗闇で覆われる。次に目を開けると自分の部屋で、涙が溢れている。
 最後に彼とみた夢は、いつも何も覚えていないくせに僕のことを思い出して、僕が断ち切ろうとした熱と同じ熱を秘めた目で見つめられて、一瞬だけお互いに触れた。あのときお互いにたぶん「これ」はもう終わりなのだと確信した。それと同時に僕は「君がこの時間を終わりにしたんだよ」と、恨めしくも思った。あの夢は、神様が僕にくれた最後の猶予だったんだと思う。
 そのくせ、この手紙だ。回りくどいと言ったらありゃしない。いつこの手紙をこの日誌に挟めたかは知る由もないが、大方、今日彼が直々に挟み込んだのだろうと推測はできる。今日は彼が転勤した高校の訪問日だった。それに着いて来たのだろう。それなら、と口から溢れる。それならば、手紙などといういつ、誰に気づかれるかわからないものではなく、実際に会いにくればよかったではないか。
 馬鹿馬鹿しい。自分の思考にそう罵声を吐く。自分でもできないくせに何を考えているんだ。ため息をついて頭を掻く。たぶん気づかれなくても自分の気持ちだけでも置いて置ければそれで十分、なんて考えているんだろうな。そういうやつだ。僕はいつまでこの意気地なしに心を奪われてしまっているのだ。あの夢から目が覚めたとき、「あれ」でもう終わりなのだと悟った。彼からの口づけへの満足感と、これでもう辛い思いをしなくてもいいんだな、という諦観にも近い思いが身体中を支配していた。あの朝ほど淋しくも充実感に満ちた朝はきっともう来ない。あの日が休日でよかった、と切実に思う。手紙の封を切る手に静かに力を込める。

 手紙を受け取った週の土曜、僕は指定された駅に近い居酒屋に足を運んでいた。辺りは仄暗い。街灯が道を照らしている。もっと場所はあるだろうに、こういう場所を選ぶのも彼らしいなと微笑ましく思った。自らの足が浮ついていることに気づいて、思わず歩幅を縮める。あの手紙を読んで、今更だ、と絶望的に思った。
 おおよその内容はこうだ。「この間の夢を覚えているかはわからないけれど、もう一度会ってきちんと話をしたい。できることならあの決着をつけたい。その機会を俺に与えてはくれないか」ということだった。
どうして今なんだよ、もう手遅れだろ。その言葉を僕はあのとき待っていたのに。
 僕が言う「あのとき」とはあの夜の屋上かもしれないし、それとも最初で最後に触れ合ったあの夢かもしれない。どちらでもよかった。あのタイミングで、イエスでもノーでも、その答えを僕にくれさえすれば。
 本当なら、あの告白は僕が拒絶されるための告白だったのだ。あの日僕は恋をすることに疲れていた。だめだとか気持ち悪いとか、そういう言葉で否定でもされていればなんの未練もなく終われたのに。彼は肯定どころか否定さえしなかった。
 僕は結ばれたいのか玉砕したいのか、どちらなんだ?
 もう一度会って決着をつけるにしても、僕は彼を「好きだ」と間違いなく言える。淀みなく、はっきりと。しかしあの焦がれて止まなかった時期と比べれば随分と自分の中で完結させてしまった。結ばれようとすること、否定されることさえも僕は諦めてしまった。
 だから、話をしようにしても彼との温度差は埋まらない。僕が焚きつけてしまった熱から彼が目を覚まして、僕から目を逸らしてしまえば彼は普通の幸せなんてたやすく手に入れられる。そう思うと、やはりこの決着は不毛でしかない。
 ぐらぐらと思考に揺れる僕を現実に引き戻したのは何度も聞いた声だった。「よう」
日下(くさか)先生」
「久しぶりだな。その⋯⋯あの日以来、か?」
「⋯⋯ああ。わかるよ、言いたいこと」
 よかった、と日下は安堵したように笑った。僕があの夢を見ていなかったら、ってことだろ。わかるよ、僕も同じだった。
 あの夢たちは僕だけが見ていた幻想なのでは、と思う日もあった。
「変な呼び出し方でごめん」
「本当に」
 笑いながらそう答える。会ってみればなんの違和感もなく会話できるものだから驚きだ。散々悩んだあの時間はなんだったのだと心の底から思ってしまう。しかし、それはまだ「普通の会話」だからだ。一度あの熱を帯びたまだ雰囲気に触れてしまえば言葉数は少なくなる、と思う。目的地までの足並みを揃えた。

 居酒屋に入るなり、頭にタオルをハチマキのように巻いた快活な青年に迎えられ個室に案内された。一応真面目な話をしにきた身としては、この青年、まさか察しているのではないかとでも勘ぐってしまうが、すぐに他の客の注文を取りに行ったのでそんなことはないとすぐにわかった。上着を脱いだ日下は他の店員を捕まえて早速「生二つ!」と軽快に注文している。
「久々だよなあ。二人で飲むの」
 僕らが時を同じくして酒を飲んだのは確か彼の送別会が最後だ。それも大人数で、主役だった日下は僕から遠く離れたところにいて話しかけづらかった。それより昔に遡っても大体は同年代の同僚も一緒に飲んでいたから、二人きりで飲むのは本当に久しぶりのことだった。仕切りもあるとはいえ、まだ酒も来ていないというのに日下は周囲の笑い声につられて少し気分が良くなっているようだ。続けて日下は新しい学校の生徒がどうだとか、同僚がどうだとか世間話を始めた。僕も雰囲気にやられてその話を聞きながら、時々合いの手を入れる。先ほどの青年がビールを運んできて、ついでに彼につまみも頼んでからもそれは続いた。本当に昔に戻ったようだなと僕は思う。いや、昔じゃなくほんの数ヶ月前はこんな感じだったじゃないか、と思い直す。そうだ、僕がこの関係を壊したんじゃないか。そうして僕は少し冷静になる。一瞬冷えた頭を再び酔わせるように、ビールを口に含む。まだ冷静になるにはきっと早いんだ。そう自分に言い聞かせる。そう思うほどに僕は臆病だった。このままでいいなんて、現状を維持し続けることがいちばんの幸せだって、幻想を抱く。これでは夢とも変わらないなと自嘲した。真実を告げずに自分だけ楽しんでいたあの夢たちのことを思い出す。つまみもビールも気づけば空だ。いいやもう、二杯目も頼んでしまえ。隣の個室の片づけが終わった店員に注文をしていると、向かいに座った日下が「ペース早いなー」なんて言っている。うるさいな、飲まないとやってられないんだよ。お前も同じだろうが。声に出さずに目だけで訴えてみても彼はけらけらと笑うだけだった。

 そして、居酒屋に入ってからゆうに二時間は経過した。トイレの鏡で自分の顔を見て僕は気づいた。決着って、なんだ。たぶん、僕が今しがた席を立たずに酒を飲み続けていれば間違いなく楽しい気分で解散となっただろう。間違いない。冷静になるのはまだ早いなんて始めの頃は言っていたが、今の僕なら数時間前の自分にさっさと話をつけろ、と忠告する。これも間違いない。かといってかなり、かなり楽しい気分になってしまっている日下はその手の話ができるのか?
「わ、わかんないな⋯⋯」
 蛇口が流れる水を止めてから個室に戻る。戻ろうとする。目の前に日下が立っているものだから驚いた。それも真面目な顔でだ。僕の見立ては杞憂だったらしいことに気づくのは少し遅かった。僕と目が合った日下は踵を返し個室へ戻る。僕もそれに続く。
 先ほどと同じように向かい合わせに座った。ただ一つ違うのは先ほどの楽しい雰囲気が霧散してしまったことだろうか。なんとなく目を合わせづらくて僕は俯いてテーブルを見つめてしまう。僕より背の高い日下の声が頭の上から降ってくる。
「手紙の内容なんだけどさ」
「うん」
「俺はあのとき自分もお前も綺麗に忘れられるようにって⋯⋯その、したわけだけど」
「⋯⋯うん」
「嫌だったか?」
「嫌じゃない」
 顔を上げた視線の先の日下が目を丸くする。僕はもう一度、はっきりと彼に目を合わせながら答えてあげる。「嫌じゃなかったよ」
「なら」
「⋯⋯ならでもなんでもなく、僕はあれで終わりだと思った。君だって、終わりにするつもりだったんだと、思ってたんだけど」
 だから手紙で驚いたんだ、と僕は溢す。
「終わりにしたかった──、けど」
「けど、何?」
「終われなかったんだ」
 だからもう一度、と聞こえるや否や僕は立ち上がって鞄を掴んでいた。
「もう一度僕に告白しろって?嫌だよ。僕は二回もしたんだし、君はそれを二回とも袖にした」
 話す必要などもうない。代金をテーブルに置いて僕は早足でそこを立ち去った。遠くで「待て」って声が聞こえるけれど、気にしない。気にしてはいけない。気にしたらきっと立ち止まってしまうから。自動ドアが開いて冷たい空気が僕の肌を包む。痛いほど寒い。なんなんだよ。「なんなんだよ⋯⋯」と実際に呟いてみる。驚くほど声が掠れていた。早くここから逃げないと。そう思ってまた足を早める。寒さと悔しさで唇を噛む。

 僕は彼からの返事が欲しいのだとずっと前から思っていたことに、夢から覚めてようやく気づけた。
 けれど
──、僕はもう諦めたんだ。

 勢い良く肩を掴まれて僕は振り向いた。息を切らして顔が真っ赤にした日下だった。きっと会計を済ませて全力で飛ばしてきたからだ。今になってどうして僕は走って逃げなかったんだろうと思う。知らない。知りたくない。
 きっと僕はどこかで、彼が走ってきてくれることを期待して──、「ちがう!」
 はじめは僕が発したのだと思った。けれど違った。声を発したのは僕じゃなくて、日下だった。
「三回目の告白をさせようなんて思ってない」
 一ミリとも、と小さく耳に届く。
「今度は俺がする番だ」
 力が抜ける思いがした。馬鹿だなと思った。誰が、と言われればたぶんどちらもだ。僕も彼も馬鹿だ。頭の片隅で冷静な僕が「ドラマかよ」なんて言っている。陳腐だ。ありがちで出来損ないの脚本だ。けれど今はそんな野暮な文句は必要ない。今は彼の言葉を聞かないといけない。
「ずっと前から好きだった」
 僕は結局あの答えはもらえないらしい。それもそうだ。今まで散々、諦めただの、否定されたほうが楽だっただの言っていたんだから当然の報いだ。しかし僕は彼からの言葉に返事をしなければならない。日下だってむすくれながら「結局お前はどうなんだよ」と聞いてくる。
 三度目の告白はしないと言った。しかしこれから何度も言う羽目になるんだから、まあいいか。
「僕も、ずっと前から好きだったよ」
 自分が泣いているのかと思った。いや、実際には涙なんて出てこなかったけれど、それほど切望していたんだと、痛いほどわかった。今この場すら夢のように思えてくる。しかし僕はもう夢を見る必要も、あの夢を思い出す必要もないのだろう。
 ──彼がいるから。
 明日見る朝日だって、あの夢より美しいに違いない。



「ていうか、今時高校生でもそんなこと言わないよ」
「悪かったな‼︎」
 先ほどとは違う意味で顔を真っ赤に染めながら、日下が街中に許される範囲で叫ぶ。僕はそれを微笑ましく思う。
「⋯⋯お前もまだちゃんと好きだってわかったけど、付き合ってくれるのかよ」
「え、完全に付き合う流れだと思ってたんだけど⋯⋯」
「⋯⋯俺今すごく恥ずかしいことしてるよな」
「してるねえ」
「忘れろ‼︎今すぐ‼︎」
「僕が前に忘れてって言ったのにそれから好きになってくれちゃった人が何言ってるの⁉︎」
「結果オーライだろ、それは‼︎」

微睡みも溶けて

微睡みも溶けて

どうしても欲しい答えが手に入らなくて、全てを諦めた(と言い張る)男の話。http://slib.net/82730の続きです。 腐向けですので苦手な方はUターン推奨。

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更新日
登録日
2018-08-24

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