「我が人生に悔いはない」

「我が人生に悔いはない」

石原 裕次郎の遺作となった最後の歌、「我が人生に悔いない。」 と言う歌がありますが、障害のある私の人生に悔いはない。と言える旅をして来ました。
  平成5年9月23日から一週間。 北海道に旅行に行かせてもらいました。

「私の人生に悔いはない。」

「私の人生に悔いはない。」

今から17年前のお話しです。

「 我 が 人 生 に 悔 い は な い ? 」

森 下 善 和

石原 裕次郎の遺作となった最後の曲、「我が人生に悔いない。」 と言う曲がありますが、障害のある私の人生に悔いはない、と言えるような旅をして来ました。
  平成5年9月23日から一週間。 北海道に旅行に行かせてもらいました。 9月16日。ここの療護員で米田さんから「森下君!どこか旅行に行かんか?」 「行きたいけど、お金が無い、」 「お金はタダ、いらん 向こうが全部出すって、」 「ええーッなんで、」 「あのなアンタが漫画になる。あんたが小学館のビッグコミックに載るアンタの顔がマンガの主人公になる。」と言われました。 そのきっかけと言うのは、シナリオライターの根岸康雄さん 今年6月、▼情報誌BEーPAL▲の一所懸命人列伝と言う欄に(ホタルと人の故郷作り)と題して米田憲明さんを取材に来て、米田さんの仕事先の《重度身体障害者療護施設真生園、》に 「車椅子にカメラを取り付けて写真を撮っている。変なおっさんがいる。」 と話した。 それが、きっかけとなりホタルの里(養父市養父町奧米地)に写真を撮りに連れて行ってもらいました。 そこで私が車椅子で単独旅行をして感じた事を話しました。 それが発端となり、今回の旅の企画が生まれました。 行き先は、どこでも良いから一週間。  寒くなるので、なるべく早く出発する事、 「行きたいけど、そんな急に言われても準備が出来ない、」と断りましたが?一晩考えて、 四国と九州には、行きましたので次は北の方に行きたいと思い 結局。北海道に決めました。 北海道と言っても小樽の 「裕次郎記念館」 は頭にあるのですが後は、パンフレットを見て、ああでもない、こうでもないと思いを巡らして行き先は、小樽・札幌・網走と決めました。 そして出来たのがこのスケジュールです。
▲こ れ が ス ケ ジ ュ ー ル 表 で す 。 ▼

北海道7泊8日スケジュール 9月23日?9月30日まで
9月23日16:10分タクシーで園発→和田山16:42分のJRで17:17分福知山で乗り換え て舞鶴より 23:30分小樽行フェリーに乗り。船内で2泊、9月25日AM4:00小樽着。
3日目 9月25日小樽9:00頃 (石原裕次郎記念館を見学) 夜は小樽宿??
9月26日 小樽からバスで札幌へ(ビール工場。ラーメン・ その他。)
4日目 今日も屋台でラーメンを食べたる。 宿泊は 札幌芸術の森シルトピアで泊まる。
9月27日。5日目 ハンデイを持ちながら自立生活を実戦している。「札幌いちご会」 代表の小山内 美智子さんを訪ねる予定ですが、連絡が付かず
 9月28日札幌から網走へ移動日。(JRで7時間55分) 網走泊網走セントラルホテル 6日目。 9月29日網走で(監獄・屯田兵の墓に黙祷して)網走セントラルホテル泊  7日目 9月30日 網走よりJRで女満別空港より羽田経由で関西空港へ。タクシー大阪駅。一泊して、 8日目 姫路より播但線で 和田山駅着タクシーで園着。と言う以上の予定です。

そして根岸さんとマンガ家の寺村さん(ペンネーム赤絵連理)とビッグコミックのデスクで荒木さんと私の4人で行く予定でしたが、荒木さんは、手が離せない仕事が出来て遅れるそうで出発の3日後に小樽の(裕次郎記念館)で待ち合わせする事になりました。出発の数日前に新聞社の人が取材に来ました。 私は尋ねました。 「どうして1人で旅をするぐらいで取材に来るのですか?」 「失礼ですが森下さんのような重度障害をお持ちの方が施設に入所されておられて、しかも単独で旅をされる。漫画の主人公になる。それは記事になるんですよ。」 「そうですか!平等とか差別しないと言っても、やはり私達は特別なんですか?」 「いえ、そんな意味ではなく、森下さんはスゴイんですよ!だからこうして取材に来たのです。」 「唯、私は普通の人が旅行をするように、普通の事をしてるだけなんです。その為にJRの人に迷惑をかけていますし回りの人達にもお世話になっています。
だからスゴイ事でもなんでもありません。 アツカマしいだけなんです。 そして当日、9月23日の午後3:時15分 期待と不安の中で根岸さんと寺村さん私の3人で園を出発しました。和田山駅から播但線で東舞鶴へ! 船のターミナルで手続きを済ませて乗ろうとすると、 「あのーッ車椅子ではムリですよ。歩行が出来ないのに大丈夫ですか?」 「申し込む時に車椅子だと言う事を伝えてなかった見たいです。」根岸さんに任せて寺村さんと時刻表を見上げていましたが、振り向くと深刻に話していました。 でも時間になると回りの人達を頼み無事に乗り込む事が出来ました。 船に乗ると他にも車椅子の人が2人乗っておられて、1人は下半身が不自由で、長距離トラックの運転手をしていて2年前交通事故でケガをして車椅子を利用しておられるそうで下関の方から来られた人で無線の免許をもっておられて話が弾みカード交換をしました。 もう1人は、船の中で部屋が同じで両親と御主人か弟か詳しくは聞きませんでしたが釧路に帰る所だと言っておられました。 その方は自分では何も出来ないようで、(私が船の中を車椅子で動き回るのを見て恨めしそうにしておられました。 ) 私と同じで手足が不自由な方で移動から排便・食事・脱衣、身の回りの世話は総て両親に介助をお手伝いしてもらっていました。 それを見て寺村さんが「森下さんアンタ本当に不自由な人。森下さんどこに障害があるの?これから僕は森下さんを不自由な人と見ないよ。」 根岸さんまで「森下さん本当に障害者?オレ可哀想な人と言うのは、どんな人を言うのか分からなくなってきた。」米田さんが言ってたけど、「森下さんとか同じく利用者の柏木さんと付き合っていると障害がある事を忘れる」と言ってたけど、その気持ちが良く分かる。ハンディを持ってるなんて思えなくなって来たよ。」 「私は自分の事を不自由だと思っていません。生まれ付きですから、今が最高の時なんです。」 根岸さんが「オレ達は健康だから障害者の気持ちは分からないけど、障害者になる可能性はある。だからハンディを持つ人のお手伝いをする事は自分にプラスになると思うんだ。奉仕やボランティアする事は老後の為に貯蓄するようなものだよ。」 と 「世間の人が皆そんな考えだったらいいけど、 」 「そんな感じ方が出来る根岸さんは特別なんですよ。」 「オレも米田さんに話を聞いて君達と会ってから人の為に、何かしたい気持ちが生まれて来たよ。ヒマが出来たら園に行きボランティアと言うような偉そうな事はできないけと、人の為に奉仕がしたい気持ちになって来た。いや自分の為かな?」 「是非、来て下さい。」 寺村さんが 「僕が住んでいる近くに養護施設があり、スゴク可愛い寮母さんがいるけど、福祉の仕事をしている人と言うのは可愛い人や奇麗な人が多いね!」 「真生園も可愛い人や奇麗な人は多いよ。人を助けたり、誰かの為に働いてる人は心は綺麗です。そして優しく奇麗になるんです。」 そう言えば「昨日から森下さん奇麗な人や可愛い女の人ばかりに用事頼んでいるみたい、健康な人なら障害のある人から頼まれたら!嫌とは言えないもンナー。」 「いえ、頼んでも優しい人ばかりではないですよ。一生懸命頼んでも汚い物でも見るように逃げる人もいます。だからみんなに声かけるんです。」 根岸・寺村さん2人で声をそろえて「森下さんアンタは本当に偉いよ!」 もう寝ようと3人共寝ました。 そして目が覚めると夜中の3時トイレに行こうと起きると、 寺村さんも起きて来て「僕もタバコを吸いに行く、」と付いて来てくれました。40分間汗ブルブルになりながらトイレが終わり出ると、寺村さんが待っていて2人で喫煙室に入り1時間あまりビールを飲みながら。私の生い立ちから施設の事、旅をして感じた事など、いろんな話をしました。しばらく話しをしていて、寺村さんは「もう寝るワ、」 と言って船室に帰りましたが、 今度は大便1時間40分かかり汗ダラダラになりながら初めて船の和式便器に挑戦して成功しました。終わって外に出ると上着のトレーナーがドロドロに汚れて頭から顔まで真っ黒!  
       ▼ここでみんな勘違いしている。事を少し説明します。▼
    森下君はなんで出来るから旅行にも行けるんだと言われましたので、苦労話を少し書かせて頂きますと、
   1、着替えは旅の間はしませんと言うより出来ませんからお風呂に入る時に回りの人に頼みます。(側に誰かいたらの場合ですが?)

2、 自分でやる場合はズボン・パンツの上げ下ろしは、腹ばいにならなければ出来ませんし片手左の手首から先が辛うじて動きますが、ヒジと肩が聞きませんから腹這いになり床と体の合だに腕を自分の重みで固定して手首から先をコントロールさせます。 時間平均40分~1時間、 3、夏 汗をかくとパンツ・シャツを着る時間は倍の時間を要します。

4、お風呂で着替えをしますが脱場で転げ回って着ているので回りの人が可哀想にと、お手伝いしてくれてるだけなんです。 5、食事を食べる場合も宿の人や回りの人にお手伝いしてもらい食べています。 6、宿も車椅子で利用出来ませんと言われて駅に寝た事もあります。 (こんな場所に寝てもらっては困ると言われて駅長さんに訳を話して、駅で泊めてもらった事も何度かありました。) 7、トイレで用をする場合、手スリが付いていればアゴで体を支えて前の壁と体で手首を挟み行います。8、大便の場合、トイレの中に寝転がり1番の要領で行いますが狭い上、濡れてる場合は、顔・上着・ズボンはドロドロになります。 乾いていても顔はアセで真っ黒になります。 一度、それを見た人がそんなにまでして旅がしたいのかと聞かれましたが、 私に出来る。私のやり方で普通に旅がしたいそれだけなのです。 『 こ け が 私 の 旅 で の 現 実 の 姿 で す。 』

友達がなにげなくつぶやいていた言葉が今も頭に残っています。     人は、「自分にとって都合の良い優しさも百人いれば百人の都合がある。 でもその一つ一つをつなげて行けば障害者も生きやすい世の中になる筈だと、」!その為にはやはり私達が外に出る事でアピールしなければ??? 喫煙室で煙草を吸っていると年配の男の人が話しかけて来ました。 車椅子の背中に《一人旅と》書いているので、それを見て「へ?ェ1人どこから?」 「兵庫県です。」 「嬉しくなります。頑張って下さい。」 「ありがとうございます。」 車椅子を押して「どこかに行かれますか?」 「喉が渇きましたので、コーヒー飲もうと思いまして、」私も行きますと、車椅子を押しながら、話しました。「私は、ボランティアをして施設や老人ホームに行き車椅子の扱い方なら慣れています。」 「私は森下と申しますがどちらから来られましたか、」 「はい私は筒井と申しまして新潟県から来ました。」会合がありまして、小樽まで行く所です。 断酒会と言う会で日本全国にネットがあり。今月は北海道の方で会が開かれるので向かう所ですと言っておられました。 ここで紹介しますと筒井さんと云う年配の人で会社を定年退職した後、アルコール中毒になり、5年間、医者と病院の往復で家族に心配や迷惑をかけて一度は自殺まで考えたそうですが、死に切れなくて、人の為になりたいと奉仕活動をしているそうです。そして子供や家族がいたから立ち直る事が出来ました。 自分になにが出来るか、私にも出来る事がある。必要とする人がいると言う事は生きる力になりますと、 「人間と言うのは勝手なもので自分が弱い立場になって初めて人の役にたちたいと何かをして上げたい気持ちになりましたよ。人の為だなんて言っても自分の道楽なんですけどネ、」と笑っていました。 「表からは、そんなふうに見えないけど、ご苦労があるんですね。」 「そうですよ。あなたのように車椅子だとハンディがある。ご不自由な人だとすぐ分かりますが私達の病気は外から分かりませんからと、」 話をしていると根岸さんが 「森下さん早いなーァもう起きたんか、」と言いながらやって来ました。 「おはようございます。眠れましたか?」 「フアー!良く寝た。寺村君から聞いたけど初体験の方は(初めて船のトイレ)ウマク出来た?」 「時間がかかりましたけどなんとか出来ました。」根岸さんは筒井さんに今回の旅や取材の事などを話していると、寺村さんと断酒会のメンバー2人も加わり話が弾み。別れる時には握手を求められたりで、1日でしたけど小さな触れ合いが出来ました。 小樽に着いたら、宿を決めてないので探さなければと寺村さんと話していたら横で聞いていた人が「君、僕の家に来ないか?泊めて上げるよ。」 「ええーッ本当ですかと喜びました。」 そして詳しく聞いて見ると家が小樽で天理教の支部をしているので信者の人も時々友達と来られるので泊めて、あげるよ。君達さえ良かったら家に来なさいと誘われました。 お世話になろうかと考えました。寺村さんが耳元で、「止めた方が良い、統一教会みたいになるから、」とお断りしましたが気さくで親切そうな人でした。 夜中の3時頃、外はホロ暗く寒い中、寺村さんと船のデッキに出て灯台の灯や港。遥、向こうには奥尻島が闇夜に霞んで見えました。さあ着いた北海道だ! ☆裕ちゃんになった気分で、 ♪霧が流れてむせぶよな波止場♪と歌っていると、「カッコつけているけど寒いだろう。大丈夫か、」と寺村さんがトレーナーの上に上着を着せてくれました。「船の上から闇夜に海を見るのは初めてです。」 「風邪をひくから中に入ろうと言われましたが、」周りが明るくなるまで海を眺めて、 朝の5時小樽港に着きました。 ここが夢にまで見た北海道! そしてその地を私は今踏んでいる。そう思うと嬉しくなって来ました。 小樽のターミナルで食事に行こうとすると、根岸さんがここは、「セルフサービスだけど大丈夫か、」と聞かれましたが? 「誰か店にいる人に頼みますと、」 中に入り天ぷらそばを注文して待っていると「ハイお待ちッ。」 前の席にいる人がテーブルまで運んでくれました。 丼にカブリつき食べようとすると、 「割り箸を割ってくれたり、お茶を汲んでくれたり親切にしてもらい、食べる事が出来ました。 「手が仕えませんので箸は入りません。」 「そうですか?お手伝いする事があれば前の席にいます。呼んで下さい、」 「ありがとうございます。」 ここで私の食事風景を説明しますと、 手が仕えませんので食べる時は、皿にカブリついて食べます。 いわゆる犬食いです。 見てる人が恥ずかしくないかとか、食べ方を見てると情けないよ。 そんなカッコウしてまで外に出なくても生活が出来るように国から年金もらっているのだろう。と 言われた事もあります。 「自分で稼げない者は外に出ないで施設や家で暮らし普通の人みたいに生きる事は出来ないのでしうか?」 今の 日本では、障害者年を期に考え方が18度代わり、◆平等だとか完全参加と言われて、 町にはスロープや障害者トイレも増えて来ました。 町の人も世間の人も、私たち障害者を迎える準備は総て整っています。 生きて行く、ましてハンディがある者が生きて行くには苦しい事もイヤな事、悔しい経験をするのも当然の事で普通の人の数倍はあります。 でも辛い経験をした以上に楽しい事や嬉しい事が鮮明に残っています。
  そして良い事しか思い出しませんし友達も沢山出来ました。 又行きたい気持ちになり、考え方も変わり自分にも自信が付き、物事の見方も変わりました。 そばを食べ終わると隣の席にいたおじさんが片付けてくれました。支払いに行き、払おうとすると10円足りません。 カバンの中を探していると他の人が足らない分を支払ってくれました。  ★甘えるな、やはり障害者だ! と言われるかも知れませんが、 数年前に同じような出来事に遭遇した時に、お断りしました。 すると、その人か、 「君は人の親切を無にするのか、旅をするなら旅のルールを守りなさい。」 と言われました。 その言葉にスゴク反省して、その事を期に人の親切は素直に受けるように心懸けています。 受けると言っても出来る事は自分でやり、出来ない事や自分で出来ても時間がかかる事は、素直に頼む。でも 一度目は素直に甘えても、 二度目からはキチンとお手伝いしてほしい事と自分で出来る事は区別しているつもりなんですが、 そう見えませんか? 9時から「裕次郎記念館」が開館するので8時頃に行くと根岸さんに話すと、「ここからは森下さんの好きなように行動しなさい、君の旅行なんだから、オレ達は君の後を付いて行くよ。」 「じゃ?まず先に裕次郎記念館に行きますから、」と案内図を取り出して調べると、 西へ2キロほど歩くと行けるので、天気も良いし散歩しながら行きましようと車椅子でブラブラと歩道を進むと車椅子が右へ右へと流れます。 近くに人がいたので「どうして歩道がこんなに斜めになっているのですか?」と聞くと「寒い地方は雪が少しでも溶けるようにとシバレル(寒い)場所では歩道は斜めにナットるんよ。車椅子では、キツイでしょ~、」 「そうですか、もう一つ質問して良いすか道路の端に立ててある高い塀は何の為にあるのですか?」 「雪の固まりが車が走る風圧で道路に崩れて来るのを防ぐ為にあるんよ。雪が多い所でも内地には、こんな塀はないしょ~、」 こんなの見たのも始めてですと答えながらバックで車椅子を蹴って進みます。 根岸・寺村さんの2人は後ろの方から後をついて来ます。2時間かけて汗ビショビショになりながら開館5分前に無事到着しました。そして少しすると記念館で待ち合わす約束をしていた。小学館(ビッグコミック)デスクの荒木さんがやって来ました。 町の中にポツンと3階建てのモダンな建物そこが裕次郎記念館でした。  入り口に行き開館する時間を待っていると新婚さんらしい2人連れが写真を一緒に撮りましょうと近づいて来まして、「私達新婚旅行で来ていますが、車椅子で独り旅をしている方に会えた事は忘れられない思い出になりますと記念撮影して別れ、 今度は農協の団体さんらしい伯父さんや伯母さん達と記念撮影をしたり、兵庫県の方から1人で旅をしている事を話すと「スゴイなーとか偉いなー、とみんなに言われます。」 障害者に少し関心がある人は、どうして、そんなにまでしてと訳を聞きますが、 血のつながりのある人、私の親もそうですが外に出たり。 なにかをやろうとすれば必ず反対して人の目を気にします。 ◆どうして反対ばかりするんだ。と訪ねた事がありました。 (心の中では嬉しいようですが、) 障害を持った子供の親は、みな世間に対して自分の子供が人の世話になると言う事に負い目や引け目を感じながら生きているんだと、  母は言っていました。    午前10時、開館しました。 中に入り団体の列に付いて行こうとすると、「ご案内しますから、 」 と女の人に言われてエレベーターで車椅子は3階から見学させてくれました。 コンパニオンの人が説明しながら車椅子を押して案内してくれましたけど、 「スゴイ厚化粧です。素顔の方が奇麗なのに、どうしてお化粧するのかナー、」と独り言、 裕ちゃんのデビューの映画太陽の季節から100本以上、 その1本1本のスチール写真やポスターとレコードのジャケット・LPシングル合わせて五百点あまりが展示してあり、裕ちゃんが愛用した。車・ヨット・ソファアー・靴・ゴルフ道具一式・家具・衣類・食器・海水パンツに至るまで裕ちゃんが使用した物、使った物、触れた総ての品物が展示してありましたけど、そこには裕ちゃんがこの世に居ないいと言うだけで、総ての物が今も住んでいて、ここで生活しているようで幻想の中で共演する事が出来ました。海を愛し、映画を愛し、人々に夢を与えて、 私が3番目に尊敬する人、 石原裕次郎が2時間と言う短時間でしたけど、 私の脳裏に走馬灯のように蘇りました。裕ちゃんは生きている。 僕達1人1人の心の中に人それぞれに感じ方や思いは違いますが世代を越えて日本人が一番。愛した男だと言うとおり、 昼過ぎまでいましたが裕ちゃんと共に過ごした。 大袈裟に言えば2時間あまり共に生きて時がタイムスリップして20年前の映画の一コマで共演しましたと言っても裕ちゃんがスクリーンに写ってる写真。その中に私が入り2ショットの写真を撮って来ました。 (この写真は、私の宝物です。)大事にします。 私、その年の3大ニュース。1、春には四国のケアー付き住宅に行った事。 2、北海道に行き、裕ちゃんに会えた事。 3、私が漫画で主人公になれた事です。 いつも考えていました自分の人生の主人公になりたいと思っていましたけど、漫画で主人公になれるなんて、まだ信じられませんが??? 1993年は私には最高の年でした。こんな私が先日、妬まれました。 嬉しかったといえば変ですが、今まで人を妬んで、あの人自由に歩けて、奇麗な女の人と歩いたり。 好きな人とデイトが出来て、羨ましいナー、子供の頃友達はみんな誕生日にはガールフレンドや友達を家に呼んでパーティーやクリスマス会と羨ましい事ばかり妬んだり羨ましく思った事は何度もありました。 そして人を羨ましがるだけで、妬むのは私のいや障害者の専売特許だとアキラメていました。 それが五年前の四国の単独の旅で人生が180度変わり自分でも怖いぐらい積極性が出て来ました。 人と話したり何の抵抗もなく人に頼む事が出来ます。 ハンディを個性だと割り切り外に出て生きる事から私の本当の人生が始まりました。 先日、ある人に言われました。「この頃、アンタ新聞に載ったり漫画に載ったりで調子に乗っているんと違うんかいな、」と言われました。 私は嬉しくなりました。 今まで人を羨ましいとか健康で何でも出来るし良いなーと思った事が数え切れないぐらいありましたが?私が羨ましいとか妬まれた事は初めてなので嬉しくなりました。   話がそれました。12:00過ぎ 記念館の人に、ここの近くに車椅子で宿泊が出来る所は、ありませんかと聞くと、西へ歩いて1.5?ぐらいの所に小樽グランドホテルと言う宿があると教えられて車椅子を漕いで散歩しながら行きますと道が分からず途中で何度か道行く人、すれ違った人達に聞いたのですが分からず迷っていると前から外人さんが4~5人歩いて来ましたので尋ねました。「グランドホテル知りませんか?」 キョトントとした顔して、「ノ-ノ-Xヒューズミン・アイムソーリー、」 日本語が話せないようです。 悪いこと聞いたなと思い「サンキューアイムソーリーと笑顔で答えて別れましたが、」ロシアの人見たいで何回も「アイムソーリー・アイムソーリー、」 と見えなくなるまで頭を下げていました。 なにか悪い事したナー、 そばで工事をしている。 おじさんとかショッピングの帰りなのか買い物カゴをぶら下げた。おばさん2~3人に尋ねると、ここの道はややこしいからと付いて来てくれ、話をしながら車椅子を押して途中まで案内してくれました。1:30分頃お腹が空いたので食事をしようと思い通行する人にラーメンの店を教えてもらい、 根岸・寺村・荒木さんの3人で車椅子を持ち上げ階段を上げてもらい、
  店の中に入り個人個人で好きな物を注文して食べることにしました。 私はラーメンを食べたのですが本場北海道のラーメンはバター味で具が沢山入ってボリュームがあり、
焼きうどんと言う感じでした。 味は、今一つでしたが? 腹ごしらえも終わり再出発です。 しばらく進むとポプラ並木が何メートルも続き、歩道にはレンガを引き詰めた傾斜のなだらかな坂道、 朱色のレンガ作りの大きな家と近代的な建築とひっそりと残る古い建物、西洋の文化を取り入れた町それに港が見えて、 どこからか霧笛が聞こえて来ます。大袈裟ですが古代文化と近代の建物がマッチした。 ロマンチックな気持ちになり裕ちゃんのソフトクリームのような甘い声のようには、行きませんが、思わず鼻歌で  ♪小樽は寒かろ東京もこんなにシバレル星空だから♪!と鼻歌が出ました。すると「根岸さんが、歌うのはまだ早いよ。夜歌わせて上げるから。今は歌うな、」 と言われて 「本当ですか?お願いします。」 石原裕次郎がこよなく愛した町小樽! そこに私は今来ている。 短い足を延ばして半身に構え煙草に火を点けました。 ◆最高の気分でした。◆ 「荒木さんがなにカッコ付けてんの森下さん、」 うまく表現出来ませんので想像して見て下さい。 そして、二つ気が付いた事がありました。それは気温が冷たい分だけ人の心が暖かくて親切だと言う事ともう一つは、青森から山口までの事を内地内地と呼ぶ事です。  例えば「どこから来られましたかと聞かれたので、」 「兵庫県から来ましたと答えると、」 「マアーッ内地から、遠い所から来なったね!」 北海道の人は、日本列島の事を内地と呼び沖縄地方の人は本土と呼ぶそうです。 それを聞いて一つ勉強になりました。 華やかな繁華街に出ると9階建てのホテルが見えました。あれが小樽グランドホテル!中に入りフロントに行き手続きを済ませて部屋に案内され、 荷物を置いてトイレに行こうとしてメイドさんに尋ねました。「すみません。トイレは、どちらにあるんですか、」 「トイレでございますか、1階と3階と5階にございます。お客様!」 「1と3と5ですね。ありがとうございました。」 エレベーターを降りて行くと、1階のトイレは地下に15段ほど階段を降りて又階段を上がらなければダメなので車椅子ではムリです。3階に行くと この日は大安で結婚式の準備や披露宴が4組。還暦のお祝いが3組。その他の祝会が2組あり、その準備でてんてこ舞いで入れる状態ではありませんでした。 5階に上がり部屋に入るとお茶会の準備をしていましたが、おかまいなしに入りトイレに行く為に横切るとみんながキョトンとして見ていました。トイレが終わり出ると1人のお姉さんが近づいて車椅子を押して部屋まで付いて来てくれました。 「お手伝いしましようかと言われたのですが、」 自分で車椅子を動かしたり、足でドアの開け閉めをするのを珍しい物でも見るように不思議そうに見つめてました。 「自分で出来る事は、やりますので出来ない事をお願いします。」と断ったのですが? 心配なのか私に興味があるのか、しばらく見守ってくれていましたが、 車椅子からベッドへの移動。電話。エレベーター乗り降りなど、時間をかけても自分でやれる姿を見て、「ふ~ん これだから1人で旅が出来るんだわネーェ、」 「でも普通の人のようには出来ませんし時間はかかりますけどなんとか自分でやれます。」 「私達とは考え方も違うんやね~ェ、私がそんなヤッたら旅行なんか出来ないし人に会うのも避けると思うワ、」 「中途障害の人は苦しいでしようが?私の場合は何も出来ない事が当たり前で生まれ、時間かけたり考え方を変えれば何とか出来ますから?」 「そう考え方が素直、自分に素直に生きているのね!自分に素直に生きる事は財産よ。」 「こんな生き方しか出来ませんから?素直過ぎてアツカマしいです。」 「素直過ぎてアツカマしい、そんな人だから旅が出来るのネ~ェ、」と話しをしていると、根岸さんが入って来て話に加わり話題が弾み。 小樽の名所や歴史。土地の人の優しさなどを伺う事が出来ました。 根岸さんが「これから僕たち食事に出かけますが美味しい場所を教えて頂きたいし御一緒に行きませんか、」 「小樽は何でも美味しい所ですよ。ご一緒したいのですが私用がありますのでご遠慮しますけど、楽しんで来て下さい、」 「残念だナー、美味しい店に案内してほしかったのにナー、」 地図を書いてもらい、 今から15分後に出かけようと寺村・荒木・根岸さん私の4人は、歩いて1キロぐらいのお寿司屋さんを探して歩いていると中年のご夫婦が声をかけて来ました。「車椅子を押しますから、足を上げて、」と押してくれました。「すみません。ありがとうございます。」 「昼間、そこの道を歩いていらした時に押して上げようとしたのですが、急いでいたので?お手伝い出来ませんでした。 気になっていたのですが今見かけたもので、声かけました。 どちらへお出かけですか?」根岸さんが「メモを見せてこの店には、どう行けば良いのですか、」 「ここは私達の知り合いの店なのでご案内します。」 案内されまして入った店は格子戸作りの良心的な店でした。 「ご主人がここの森定園長によく似て顔の大きな人でした。 満席でも20人ぐらい、これが一番接待やお客さんとのコミニュケイションが採れる数だそうですが、少人数のお客さんの出入りが出来る小さな店を奥さんと2人で経営されていて店員さんは居ないようでした。  お寿司。にぎりを食べたのですが新鮮でおいしい、マグロ・アワビ・トロ・貝・イカ・タコ・鯖のにぎりを初めて食べましたが、北海道では、鯖も刺し身で食べる事が出来るのですね!気のついた事がありました。ここでは、にぎりに(シャリ)ご飯がありませんでした。ウニを頼むとこの時期にウニは無いと断られ、 ここまで来て冷凍物なんか食べるなと言われました。 そして食べ物が美味い事と本場の生ビールが最高でした。 最後の仕上げは、お茶漬け、 帰りにトイレを借りて時間は掛かりましたけど普通のベンキで何とか成功することが出来ました。 腹もよくなり、どこか行く所はないかナーと相談してカラオケバーに入りました。 入ると薄暗い部屋中で15~6人のグループが同窓会の二次会だと言って、ホロ酔い気げんで歌っていましたが突然、車椅子で変な男が来たもんで面食らい全員注目しましたが、おかまいなしにカウンターに行きて水割りを注文しました。根岸さんがタバコに火を付けたりストローを取り出したりするのを、みんな不思議そうに見ていていましたが、おかまいなしです。 すると荒木さんがみんなに説明します。手足が不自由なだけで普通の人が出来る事が出来ない、その分だけ回りの人がお手伝いするだけで少し手が掛かりますが、おもしろい人ですよと言うと、ママさんが歌詞ブックを持って来て、「どう言う歌を唄われますかと聞かれたので、」 「東京ロマンチカの小樽の人よ。をお願いしますと頼みました。根岸さんは、桃色吐息! 寺村さんは、時間よ止まれ!荒木さんは、夜霧よ今夜もありがとう!とそれぞれ1曲ずつ唄い、私が唄い終わると聞いていたおじさんがビールを1本持って来て、「ウマイ日本一!これワシの奢りだと、」 ビールを奢ってくれました。 「ありがとう。ございます。」 スポットライトを浴びながら拍手をもらい、 裕ちゃんになった気分になり今度はホステスの人と銀座の恋の物語をデュエットしました。歌い終わると!根岸さんが「森下さんアルコールが入ると言語障害がなくなるね!」 そうですかと言いながら水割り2杯飲んでいました。 するとママさんにチョコレートを景品に戴きまして、「誤解しないでね!不自由だとか可哀想だから差し上げると違うわよ。言語障害があるのに歌ってくれた事に感動した。私の気持ちなのよ。」 「そうですか、ありがとうございます。」 寺村・荒木さんが障害のある人は得だよナー下手でも景品もらえるんだもんナー、  根岸さんが「焼くな、焼くな、」 1時間程歌いまして、根岸さんは原稿書きがあると先に宿に帰り、 時間まだ早いので僕達3人はここから1キロぐらい離れた所に小樽運河があると聞いたので、酔い冷ましに運河を見に行きました。通りを紹介しますと城下町と言うのかレンガ作りの大きな建物が立ち並びブナの大きな木とマッ赤なとんがり屋根が薄暗い闇の中で幻想でも見ているようにホロ酔い気分のせいかエキゾチックに脳裏に焼き付いて今思い出しても、せっなくなるような気持ちにさせてくれる町でした。 幻想の世界、哀愁の夜、 3人それぞれが顔を見合わせて笑いました。どうやら同じ事感じている見たいです。 (こんなむさ苦しいおっさんじゃ無くカワイイ女の子だったらナ~!) 幻想の路地裏のような通りを1時間足らずボチボチ歩いて着いた所が運河! 本当の事を言いますと私は暗くてよく見えませんでした。 9時過ぎコンビニで買い物をしてホテルに無事帰って来ました。
  2部屋取っていたので根岸さんと私、 荒木さんと寺村さんがそれぞれ2人づっペアーに別れて宿泊する事になり11時過ぎに休みました。 26日の朝7時に目が覚めて、外を見ると今日は朝からスゴイ雨です。 自分の旅だ。いろんな手段を考えて自分で工夫して行動してみると良いと言われているので、 まずバスで札幌まで行くことにしました。 雨の中タクシーでバスのターミナルまで行き、通行している人に頼み札幌駅までの乗車券を買ってもらい、 しばらくして時間が来ると又他の人を頼みバスに乗せてもらいました。   お手伝いして戴いたおばさんに前の席に座らせてもらい、おばさんは席が空いてないので後ろの席に座りましたが後ろから私を心配そうに見守っていてくれていました。1時間あまりのバスの旅です。 北海道は広いと聞いていましたがそれを目の当たりにしましたので少し書きますと、まず道が広い事、進んでも進んでも目的地は遠い、田んぼや畑に畦(仕切りがない)隣の家に行くにも自転車かオートバイで、買い物に行くにも一日かけて行き、近所に回覧版を配り帰ってくるのにも一ヵ月ぐらいかかるそうですが、 何しろ総てがダイナミックで桁が違っていました。 そして田んぼの中にポツン・ポツンと小さくて角度のある3階立ての家が立ち並び、屋根には大きなエントツだけが目立って見えました。港町小樽を抜けて大草原の広野のような景色に暫しの間だ酔いしれていると急に賑やかな景色がビルが見え初めて札幌駅裏のバスターミナルに着きました。 運転手さんにオンブして降ろしてもらい、近くにいる人に 「札幌のビール園に行くには、どう行けばよいのですか、」 と聞くと 「ここは駅の裏だから駅の表に回り、そこからバスで30分ぐらいですよ。」 道路を横切り行こうとすると2~3台の車が急ブレーキをかけて止まりました。 「何やってんだバカッと怒鳴られました。」 「すみません。」 と誤っていると根岸さんが来てあぶないナー、森下さんムチャすんなよ。」そう話していると1台のタクシーが止まってくれました。 「お客さんどちらまで、」 「連れが3人いるんですが良いですか?」 「良いですよ車椅子ですね、トランクに入れますから、」 「ビール工場までお願いします。」 「ハイ行きますよ。お客さん内地の人、」 「ハイ兵庫県です。」 根岸さんがこの人、車椅子で旅をしながら人々と触れ合いながら生きて行く姿を漫画に書く為に取材をしているんですよと言うと、「そうですか?漫画になるのですか、失礼ですが障害者の人が主人公の漫画はありませんからねーェ、漫画の本が発刊されたら必ず読ませてもらいます。発売される日を楽しみにしています。かんばって下さい、」といろんな話をしながら、 外の景色を見ていると、ビール工場に着きました。 ビールの博物館でビールの貯蔵庫・生ビール・一番搾り・黒ビールといろんな種類があり、小麦の栽培から発酵させて出荷したり、出来上がりから10日で出荷が出来るような施設がありましたが、そんな事には目もくれずビール工場の方へ行き、  早く予約しようと行くと女の人が2人いるのでチケットを申し込みました。 1人の女の人が 「ビール工場への受付はあちらです。」 「すみません。スゴイ人だかりで行けないもので、ここに来たのですが、」1人の女の人が「私が買って来ますから、お待ち下さい、」 とチケットを買って来てくれました。 「ありがとうございます。」 嬉しかったし奇麗な人だったので特別丁寧にお礼を言いました。すると荒木さんが耳元で 「森下さんこんな時も障害者割引が聞くのか?」 と聞きました。 「いいえ顔の奇麗な人は気持ちも親切ですね。」 すると寺村さんに 「いいから早く行かなきゃ、」と言われ中に入ると若い女の人が7割強でジョッキー片手に飲んでいました。 とんがり屋根の丸太を積み上げたような手作りの家と、山小屋に入ったような雰囲気の落ち着いた場所で、 まずビールで乾杯! 森下さんが漫画のモデルになり北海道まで単独で旅をした事と、これからの未来に乾杯! と4人で10人前のジンギスカンの肉と野菜のお皿を4回お代わりしました。柔らかな肉と新鮮な野菜。 そして本場の生ビールもう最高です。2時間ぐらい飲み食いして総てたいらげ、 私はトイレに行きたくなり、1階の障害者トイレに案内してもらいましたが、立ちションができる場所ではありませんでしたので時間がかかり汗ブルブルで結局、二階の普通のトイレに入りました。中にいた若い人に 「何かお手伝いする事はありませんか、」 と聞かれましたが 「結構です。ありがとう。」 とお断りしましたが、私が終わるまで表で待っていてくれていました。(親切な人と言うのはあんな人を言うんだナァー、)  12時頃食べる事がすんだ後は、遊びタクシーで札幌駅まで行き、 今日の宿泊場所の芸術の森シルトピアに行こうと電話して道順を尋ねてみました。札幌から地下鉄に乗り換えて真駒内まで行き、真駒内の駅からタクシーで行くのが一番簡単なコースだそうです。それで行こうと札幌の駅で早く行くには西口に行き地下鉄に乗り、行くのですが、 改札口に行っても乗車券は買えませんでした。 よく聞いて見るとJRと地下鉄は別なんだと言うことを初めて知りました。本当に初めて知りました。バカみたいです! 《東側の道を真っすぐ進むとそごうデパートの壁にぶち当たるから右に曲がり保安室みたいな部屋があるのでそこでエレベーターに乗り地下に降りる。》 まず2?3人の人に声かけて階段を降ろしてもらい右の方へ進みました。そして壁にぶち当たり右に曲がりましたが行き止まりです。 通行している人に聞くとズウーッと向こうだと言われたので今度は後戻りして、エレベーターがあったので乗ろうとすると業務用で使用出来ませんと言われて、今度は横のエスカレーターで上がりました。 汗ブルブルで足はパンパンしんどいくたびれた困り果てて通行人3~4人の人にいろいろ聞いたのですが答えが全部違います。 2時間30分歩き回り疲れ果てていると、根岸さんが近づいて来て、「疲れた。森下さんコーラーでも飲もうと、」喫茶店に入り一休み。
(助かった。足が痛い、) しばらく休んで話して、 「1人より2~3人に聞いて同じ答えが聞けたら、  その人を信じて違うようであれば自分で判断するようにした方が良いと言われて、なっとっくしては見たのですが、うまく行きません。」うなづいて元気を取り戻して、  今度は店の人に聞いていたら、 親切なおばさんが2人聞いていて 「ややこしいから、そこまで一緒に行きましょうと車椅子を押して連れて行ってくれました。」 3時間かかりようやくエレベーターが見つかり地下鉄の電車に乗ることが出来て、 快速に乗り代えて真駒内に向かいました。 電車の中で外を見ると有名な札幌の時計台が見えましたがビルの谷間から少し見えるだけの小さな時計台でした。でもこの時計台が創立された頃には、開拓民の熱い心と新しい土地への情熱を沸き立ててくれたそうです。明治の初期に立てられた白いレンガの近代的な建物は初めて北の町に立てられた西洋建設の始まりで、地元アイヌの人や本土から来た開拓民の人々に希望と勇気を与えたそうですが、 私には裕ちゃんのレコードジャケット《恋の町札幌》に写っている写真はスゴク立派に見えますので、   時計台をみたわたしは、期待はずれと言うのかガッカリしました。 北に住む人々の暖かい心(大袈裟ですが、)母の愛で包み込んでくれる。そんな気持ちになり心の中に温もりが染み込んで来ました。 この土地で生きてる人々は、開拓の時代から辛く厳しく寒いというより土地の言葉で(シバレルといいますが、)そんな時代を経て、又戦火の時代・動乱の時代を経て現在では、世界の北海道と言われるようになり、数十年前には、冬季オリンピックも開催されて、ここ数年の間に世界でも有名な都市になりましたが、 その力はどこから生まれてくるのかナーァ? そうな事を考えていると、真駒内の駅に着きました。 駅長さんが来年の春には、「エレベーターが設備されますけど、今は工事中ですのでお手伝いします。」と言いながら他の駅員さんも頼み根岸さん荒木さん4~5人で車椅子事運んでくれました。 真駒内の駅からタクシーで5分ぐらいの場所に、◆芸術の森シルトピア◆と呼ばれる。65才以上の老人の方達が生活しておられるシルバーマンシションがありまして、今夜の宿泊場所です。 定員は40人か50人か忘れましたが、 そのマンションの経理をしている大沼と言う人が根岸さんの奥さんのお母さんと姉弟だそうで大沼さんの奥さんもそこで働いておられまして、その関係でお世話になります。 その日の夕食は、炉端料理の店に入り、 どんぶり物や会席料理にビール、仕上げはお茶漬けを食べて世は満足じゃ!   pm:7:00頃シルバーマンションのお風呂に入ります。入るときは荒木さんと共に入り背中を流してもらったりして湯船に入る事が出来ました。 そして荒木さんは先に上がり、 私が1人になり着替えに戸惑っていると、坪井さんと言うおじいさんがお手伝いしてくれて着替えをする事が出来ました。 お風呂から上がり部屋に帰り、部屋に入り中を見てびっくりしました。 (実際に老人の人達が使用されている部屋と同じだそうですが、)本当に1戸立てマンションと言う感じでした。)部屋の中を説明しますと6畳の日本間と12畳の洋間とトイレに風呂場・炊事場それにベランダ!家具はレンジから肌ふとんまでそしてタタミ4枚ぐらいの庭が1軒づつありました。 羨ましいナー、こんなマンションが増えたら独居老人や1人暮らしする老人も居なくなり、みんな同じような境遇の人達が考え方も感じ方も違うけど協力したり、助け合いながらみんな生き生きとして生活しておられました。 詳しくは聞きませんでしたが、2,500万~3,000万で家と土地、家具は総て自分の持ち物で、例えば経営する法人が代わっても自分の持ち物で 1カ月に6万円払えば職員さんが身の回りのお世話から食事まで、ガス電気代などの必要経費。その他の費用はいらない見たいです。関東の方からも見学に来られて静かで良い所だからと気に入り住みついた人もいると聞きましたが、 私も2日お世話になりましたが本当に羨ましくなるようなマンションでした。 気の会う人達が生活してグループで仲間でマンションに住んでコックさんやお手伝いさんを頼んでいると言う感じでした。 毎日交代で舞踊だのダンス・書道にカラオケ将棋・碁にマージャン・ちぎり絵・縫いぐるみなど。 趣味のクラブが毎日あり、 「この年になって初めて自分の人生に楽しみが出来たんだ。」とみんなの眼は輝き澄んでいました。 私は、この頃こんなに澄んでいるお年寄りの顔や姿は見たことがありません。  そして毎日県外や他の地区からも30~50人ぐらいのお年寄りが研修に来たり、見学に来て昼ご飯を食べて見学したり、研修して帰るみたいです。 そして一つ感じたのは、芸術の森シルトピアで生活するお年寄りの人達は自分が一日の内に出会った総ての人と挨拶して声かける事だそうですが? 人間の一番大切な事。 人に取って会話する。 会話と挨拶で人と触れ合いが出来ると言う事は人にしか出来ない一番大切な事だと改めて感じました。 私も(言語障害がありますが言葉で自分の意志でここまで旅をして来ました。)
  今晩も2部屋頼み根岸さんと私・荒木さんと寺村さんでそれぞれ寝ることにしましたが私は疲れていたようでスゴイ鼾をかき寝てたと、 翌朝 根岸さんに聞くといびきがスゴくて眠れなかった見たいです。(スミマセン、) 朝7時に目が覚めてトイレに行き着替えて洗面して食堂へご飯を済ませて外を見るとスゴイ雨です。「こんな雨なのに出掛けるんかと、」大沼さん 「雨でも行動します。雨具用意していますから?」 大沼さんに真駒内の駅まで車で送ってもらい、 地下鉄で10時過ぎ札幌へ行き有名なススキのへ、 雨の中を駅からタクシーで目的どうりラーメン横町へ狭い路地になんとラーメンの店ばかり40件余り並んでいました。 どの店に入ろうかと見ると、ここ真生園の指導課長種谷さんの体型に良く似てるご主人がいる店を選びました。 白味噌味のラーメンで野菜とエビ・ホタテが入っていましたが味は寒い土地のせいか少し普通よりも濃いような味付けでしたが、〈私には少し辛いかナー、〉ご主人も女将さんも良い人らしくお客さんがいろんな相談を持ち込んでいましたが、優しく聞いて上げていました。そんな姿を見ていて私は商売をしていて、お客さんが行きたくなる店。  ベスト1は、食べ物がおいしい事もありますが、悩みやどんな話でも気持ち良く自分の事のように聞いてくれて素直に明快な答えをして、聞き役に回る。それが客商売にとって大切な事なんだと思い聞いていました。 ラーメンを食べ終わり外に出て町をウロウロしていると突然スゴイ雨が降って来ました。通行しているおじさんに  合羽のジャンバーを着せてもらい、煙草屋の軒先に雨宿りをしばらくしていましたが、降り止まない為、丁度前を歩いていた女の人に頼み込んでタクシーを止めてもらいました。 雨の中ススキノの町をドライブして、しばらくすると雨は止んで来たので歩いて見学しました。荒木さんは、仕事があるからと帰りましたので、 ここからは3人で行動します。繁華街を男3人1人は車椅子の変なおじさんと2人は図体だけ大きな男がウロウロと歩いてるので、見ている人は嘸かしおかしいと思います。歩いていると、見たことの無いような言葉や店が沢山あり、興味しんしんで鼻血ブー、!!!◆【おさわりバー、ピンクサロン、ストリップ、ビデオショップ、変態男、のぞき、ダイヤルQ、その他。】この原稿には書けない場所を体験しましたので書けません、、、。
カジノと言うストリップ劇場を見つけて、入ろうと車椅子で玄関に行きます。 若いお兄さんが、「お客さん車椅子の方はチョット?」それを聞いていた。根岸・荒木の2人は私より先に店員さんに文句を言ってくれました。 (私は何も言わなくてもいいのかナー俺が言われたのに、、、。)店のお兄さんが言うには、車椅子を利用している障害者で下半身が不自由な人は異性に対する気持ち。  異性に対して一緒にいたい気持ちはあるけど、抱きたい、とか やりたい、とか まして欲望・快楽とか言う気持ち、裸を見たいと言う気持ちは無い物だと勘違いをしたようです。 自分で決めつけていたようです。 後で聞いてみると【友達に下半身が不自由な人がいるんですが、異性の話しやスケベな話しをすると、凄く怒るんです。】 そんな訳で「お客さんをお断り、、、」したのですと説明されて、その人も支配人さんと2人で大通りの真ん中で謝られまして、通行する人達がジロジロ注目しているので急いで劇場の中に入りました。 1時間余り観賞して眼の保養も心の保養も出来ました。 劇場の中でもお客さんは勿論。踊り子さんも不思議そうに車椅子の私を見ています。  こう言う場所を【車椅子の人が見学するのが珍しのか、不思議なのか、】???    そうなんです。人は、見てくれで判断する。  『今回の旅ではあまり感じませんでしたが、 過去の独り旅でも旅館に車椅子で行き私の姿を見るなり、ウチにはバリヤフリーの設備はしていませんので対応は出来ませんと断られて、高知県の伊野駅で寝た事もあります。 世間の人は車椅子を障害者をハンデイを持つ私達を知らないだけなんです。  『外で車椅子を障害者の人を見たこと無いから。』   だから
私は外に出ます。普通障害者が行かない場所にストリップでもヘルスランドでも遊園地に行きジェットコースターにも乗ります。温泉でお手伝いしてもらい一緒に風呂にも入ります。カプセルホテルも体験しました。
  町で車椅子や障害のある人を見ない、  たまに見ても付き添いや介助者が居るから声もかけない、どう接して良いのか分からないのです。
  四国の高知でも伊野駅長さんの口利きで泊めてもらい、 それが引き金となり、車椅子の人でも普通に泊める事が出来ると、自信を持ち まだ5分の1ですが車椅子の方にご利用頂いてますと。先日手紙で聞きました。  さっきのストリップ店のお兄さんも今度車椅子のお客さんが来たら。何も聞かずに即入れて上げると思いますよ。 3人とも森下君。「そんな考え方が出来るあんたは素晴らしい、」そんなでストリップをかぶりつきで拝見して、踊り子のおねーェさんと記念に写真を撮りました。〈私の宝物です。〉そこを1時間30分ほど観覧して、、、昼食をとり、■ 網走殉職者の塔に献花して。■ 次に監獄を見学しました。2年前に移転して新築された建物は、想像していたのと全然違い、高級マンションと言う感じで、近くの田や畑で稲の刈り入れ、ジャガイモの取り入れ,トウモロコシの出荷等を監視の人を含めグループで農作業をされていましたが、人に聞いて囚人だと分かる程度で、何も知らない人はヘルメットの色で判断するぐらいです。 刑務所資料館を後で見学しましたが昔と違い囚人さんも普通の人と同じように、町の至る所で見かけました。
  そして、監獄博物館へ。その中をせつめいしますと、 ☆東京ドーム3つ分ぐらいの広さで、まず1、正門を入り、2、庁舎は洋館のたたずまいで明治の官庁建築の特色を残していました。3、休泊所、外で作業をするときの仮の宿舎で、別名動く監獄と呼ばれる。その他、耕紜庫・悪罰房・教海堂・漬物庫・八華亭・炭焼き小屋・行刑館・浴場・鏡橋・放射状五翼平屋舎房など30もの建物を一つ一つ車椅子で見て歩くと汗ブルブルです。   普通の健康な人でもこのコースを回ると45分から1時間かかるそうですが、 学校の子供達、この日だけでも修学旅行でここを見学に来た子供達を私の居る時間内でも400人余り。別に団体さんだけでも40組から50組。その他。個人や家族連れの人達も多くて、こんなに凄い人達を見たのは初めてでした。 観光バスも次々に到着して本当に盆と正月が共に来たような賑やかさでした。
  館内でさまざまな人々との触れ合いもあり、3時間ほど見学して昼食も土産を買う事も、そこそこにすませて今度は、予定どうりに屯田兵の慰霊碑に供花しょうと思い、博物館【網走監獄】の総務係長で配島淳と言う人に、「屯田兵墓が近くにあると聞いて来たのですが、?」 「この近くではありませんよ。屯田兵の墓は木多見の方にありますが、ここの近くにあるのは、北海道開拓殉職者の慰霊碑をお奉りしています。」 「その事なのかナーァ、あのーッ殉職者と言うのは何をした人達なのですか、」  「北海道を開拓する為に亡くなられた軍人さんや土地の人そして罪人さんその他の人達の霊をお奉りしているのです。」 「そこです。私がお参りしたいのは、」  「北海道を開拓したのは役人や軍人・屯田兵でも無いのです。 屯田兵言うのは、明治政府が北の守りを固める為に配備した師団兵の事で、実際に開拓したのは地元アイヌの人や地元の人、そして死刑囚や無期懲役を言い渡された罪人の人達なのです。」 道幅が4間半の道路を10年後の日露戦争を想定して、2年の期限で作れと、当時の陸軍大臣から要請があり、内地から人夫や馬  それに食料など用意して取り組んだのですが、未知の荒野で厳しく、身を切られるような寒いと言うより痛い寒さと冬傷で人夫は凍死してしまい、今まで完成した場所も崖崩れや雨が降り続き決壊して工事は遅れるばかり。1年経ち2年が過ぎて、日露戦争が始まり、屯田兵は戦争へ、人夫は病気で倒れて、仕方なく罪人の人達に工事を依頼した。
その結果が開拓の始まりだそうです。  30メートルの長さの道を作る為に20人もの罪人さんが亡くなった事もあり、疫病がはやり罪人さんの屍や骨・死骸で開拓が出来たと言っても嘘ではないと聞きましたが、650人余りの犠牲者を出して、8年で完成させたそうです。 北海道を本当に開拓したのは、役人でも屯田兵でもない、網走監獄の罪人の人達なのですよ。 と教えられて、「その石碑です。私が黙祷したいのは屯田兵の慰霊碑では無く、北海道殉職者の塔なんです。」 地元の人達は、罪人のこの犠牲者の事を骨屯兵と呼ぶそうです。  根岸さんに花束を用意してもらい、献花をして感謝の気持ちを表して来ました。  これで思い残す事はありません。イヤ一つある。炉端のお店に行き。鳥・魚・野菜、そして土地の名物料理と美味しい物づくしで、食べた食べた。!!!
特に初めて食べた【ホッケ】と言う魚が美味しかったです。 最後の仕上げは、やはりお茶漬けで澄まして、ほろ酔い気分で又昨夜カラオケバーに行き、明日の飛行機で帰ります。お世話になりました。と挨拶してついでに尾崎紀世彦の♪また合う日まで♪と歌って帰りました。
   9月30日、北海道とも今日で終わりです。 なにか寂しい気もします。網走グランドホテルから歩いて旅行案内所に行き。頼んでいた虚空間受けより、タクシーで女満別空港まで行き、飛行機で1時間40分、羽田空港まで行く予定にしています。
時間が来て、飛行機の一番前の咳に連れて行ってもらいました。窓際の席で外の景色がよく見えるようにと、根岸さんの配慮です。 大きな地球儀の上に、出来たての石鹸の泡のような純白の雲が青い空とマッチして、心が洗われているような気持ちになりました。  1時間余り、空の景色に堪能していると、「ジュースはいかがですか」と客室乗務員の綺麗なお姉さん。 「すみませんストローを頂けませんか」、 「失礼ですが、手も御不自由でございますか?」 「ハイ!頭も不自由です。と言う」と「そんな事ございませんよ。お客様は、おもしろい方でございますね。」 「いえ、馬鹿なんですよ。」 「そんな事ございませんよ。ご用がございましたら、お呼び下さい。機内にいますので、」
「ハイ、ありがとうございます。」とお礼を言うと向こうの方に消えました。
  1時間40分で羽田に付き。(やはり日本の乗り物は正確だナー)飛行機から降りると良いお天気でした。女満別はすごい雨だったのに東京は晴れていました。 滑走路の拡張工事が始まり重機がいっぱい並んでいました。ターミナルでは無く私達だけ空港のバンで迎えに来てくれました。天気は良いけど凄い風ですが気にしないで、国際線のロビー送ってもらい、根岸さん、寺村さんの2人と別れました。
  根岸さんに「ここから別れるけど気をつけて帰ってよ。着いたら直ぐ電話をすること、」寺村さん「元気でね。今度、お正月に東京においでよ。待っているから連絡してよ。」
「ハイ、ありがとうございました。原稿おくりますから。」「待ってるよ。その他の原稿もだよ。」 「ハイ、じゃ?元気で、ありがとうございました。」と羽田空港に別れをつげて関西空港の搭乗口に向かいます。 羽田発ー関空行きの飛行機に乗せてもらい。出発時間を5分過ぎても10分経っても離陸しません。すると機内放送があり、「予約していたお客さんが魔だ来ていないので、もう暫くお待ち下さい。」との事です。  暫くお客さんはおとなしくしていたのですが、10分過ぎても、15分経っても、離陸しません。おなしくしていた乗客の人達が、「1人の為に皆の予定が狂っても良いのか、」とか「1人の為にみんなを犠牲にするのか、」との罵声を浴びせて大変でしたが、12分遅れて出発です。定刻より5分遅れて関西空港に着くと凄い雨でした。空港の人にタクシーを呼んでもらい、空港案内所のお姉さんに挨拶すると、「濡れるからこれを持って行きなさいと傘を頂きました。」タクシーを呼び。運転手さんに梅田駅で雷の凄い雨の中を走ってもらい、今度は、梅田から新幹線で姫路まで、駅で 駅弁、お茶、サンドイッチを買い、乗客の親切そうなおばさんを頼んでお弁当を食べる事が出来ました。しばし話しを聞いたり、世間話をしたりで凄く親切にしてもらいました。13時30分姫路駅着。播但線に乗り換えて和田山行きは14時47分。「次の和田山行きの列車が来るまで1時間余りあります。雨も凄いしこの中で待ちなさい。」と助役さんに言われて事務室の中に入ると、事務の女の人が「なんのお構いもできませんけど、お茶でもどうぞ、」とお茶を出してくれました。 ありがとうござます。すみませんここで食事をしてもよいですか?」 「ここはザワザワして食べにくいと思います。こちらへどうぞ、」と案内された場所は、奥の駅長さんの部屋でした。 「こんな場所にお邪魔しても良いのですか、」 「どうぞ遠慮なく、利舎の時間が近づきましたらお知らせしますから、ごゆっくりどうぞ、」と事務員さんは新しいお茶を入れてくれました。「自分で食べられますので、お構いなく、ありがとうございます。」  「なにかご用がありましたら、呼んで下さい。向こうにいますので、」電話が鳴ったり駅員さんの出入りも激しく、駅長さんの机にいるので、みんな注目して挨拶してくれますので、会釈に忙しくて弁当を食べられるじょうたいではありませんでした。〈食べましたけど〉お姉さんが「お手伝いしましょうか、」と聞いてくれましたが「大丈夫ですと断る。」と「ゆっくり食べられませんですね。すいません。」 「こちらこそお邪魔してすません。」「でも頭が下がるワ、車椅子で旅行なんて、それも1人で、普通の人でも怖いわよ。」「私の障害は生まれ付きですから。大変ではありませんよ。これが普通なんです。」
「普通だと言えるあなたは凄いわ。」 「いえ、皆さんに迷惑をかけて旅しています。」「迷惑じゃなく、それが当たり前の事なんですよ。コマッテいる人を助ける事、それは当たり前の事なんです。近頃冷たいとか不人情だとか言われていますが、お手伝いをしてほしいと頼みましたか、助けて下さいと目を見てお願いしましたか、あなたのように、車椅子で旅してる姿をみんなに見せました。」「私は旅をするしか何も出来ませんから。」「お手伝いをして上げたい、助けて上げたい、気持ちは私にもあります。けど、どうやって・何をお手伝いすれば良いのか分かりません。」「私達も健常者の人。外部の人。初めての人に何処までお願いすれば良いのか分かりません。ただ一つ言える事は、人は顔が違うように性格も障害も違います。そして出来ない事なら。なんでも頼んで良いのでしょうか、どんな事をお願いできるのでしょうか、★お手伝いする人がどう助けたら良いのか分からないように。私達障害を持った者もどんな事を頼んで良いのか分からないです。★」
お手伝いする人も助けてほしい人も外に出て人に会い。自分の存在をアピールするここにいるんだ。生きているんだと大切なんだと思います。 「列車が来ますよ。」と助役さん車椅子を押してホームに行き、他の駅員さんと協力して、和田山行きの乗せてもらい帰ります。列車の中はガラガラで連結している車両に、私を含め6人しか乗っていませんでした。でも2・3の駅に停車する度に人数が増えて仕事帰りの人。学生が大勢乗り込んで見る見るうちに満席になり、和田山駅に向かいます。初めは外の景色を見ていたのですが、疲れていたのか安心したのか知らない間に寝てしまいました。 「あんー、大丈夫ですか、」と言う声に目を覚ますと、女の子が2・3人心配そうに覗き込んできました。「ビックリして、大丈夫です。ありがとう。もう着いた。」「何処まで行かれたのですか、」「今は、北海道旅行の帰りなんだ。」「ええーッ、北海道??又1人で!」と言うのは、真生園は何年も前から地元の中学校や小学校の生徒達と福祉教育で交流があり、半年前に講師で中学校に呼ばれて子供達に◆車椅子で旅した。『体験談』を話した。それを憶えてくれていた女の子が「森下さん今度はどこへ行って来たのですか?」「マンガの取材で北海道まで行って来たんだ。」「ええーッ、北海道まで車椅子でまた独りでスゴイ。」 「凄いことでもないよ。車椅子はおじさんの足なんだ。君たちが歩いて行くのと同じなんだよ。」「この前福祉学習で聞いた。おじさんの話しを家族で話したよ。お父さんもお母さんもビックリ、【森下君は不自由じゃない、不便なだけだって】行ってたよ。歩けないから。車椅子で移動する。手で食べる事が出来ないので口で食べている。言語に障害があるけど、分かる。努力家で頭が良い。凄い人だって、」そんなに誉めてもらったら。今度おじさんとおばさんにお礼するよ。」 私が電動車椅子で買い物に行くお店の娘さんです。 すると突然友達の1人の女の子が「障害の人って勝手だと思う。家の近くに足の不自由なおじさんが住んでいるんだけど、PTAを今年はやって下さい。と近所の人達でお願いに行ったんだってすると、体が不自由だから出来ないと断ったんだって、」他の生徒も「私も聞いたよ。」と相づちを打ちます。「家のお父さん行ってたよ。」「私も先生から聞いたよ。」「調子が悪いから出来ないと断ったのでは、と言うと、」「違うんです。その人、会計士のお仕事をしていたの、だから近所の人みんな親切で出来る所までで良いからと行って外に、、、役目を持たそうと考えたみたいです。」
 「外に出ていろんな人と会い、悩んだり、喜んだり、いろんな出来事を体験して大人になって行くんだよ。」「ねえ。森下さん、手でご飯食べること出来ないのに、トイレなんか出来るんですか?」「肩と肘は動かないけど、手首から先が動くので腹這いになり自分と床の間に腕を挟んで手首から先をコントロールさせて時間かかるけど何とか自分で出来るんだ。」「ふーん、指は動くんだ。」  そんな話しをしていると、和田山駅に着いて駅員さんや側に人達を頼んで車椅子を列車から降ろしてもらい、JRの職員・乗客のみなさん・和田山中学の女性徒達と別れて、タクシーに乗り園に無事帰ることが出来ました。 あれから3ヶ月足らずがしました。今でも思うと夢を見てたようです。
  小樽で横断歩道を渡っていると女の人が車から降りて来て車椅子を押して、横断させてくれました。【同情か・哀れみ】か知らないけど、嬉しかったです。【素直にありがとう。】網走刑務所記念館で越えかけたら、初めは汚いものでも見るようにしていたおばあちゃんも話しをしたり、一緒に見学すると、別れる時には手を握り涙まで流してくれました。その他、根岸・ら来・寺村・JR・地下鉄・タクシー・バス・飛行機・船・通行していた人、私が今回の旅で出会えた総ての人にありがとう。とお礼を言いたいです。  私に生きて行く自身も出来ました。 旅で初めて私を見たり、私と会い、不自由な人は可哀想だとか障害者は手がかかるから面倒だと思われています。でも、考えてみて下さい、もしもあなたが交通事故・脳出血等で体が動かなくなったら。健常者の何気ない、親切・お手伝い・声がけは凄く嬉しいです。 ★友達が私を見て可哀想な人と言うのは、どんな人を言うのか分からないと言いますが、私にも分かりません???!
生きて行く以上いろんな出来事がありますが、この旅での自身と出来事は私の生きる
原点、基礎になることは間違いありません。。。 自分の人生は、自分が主人公ですから。

「我が人生に悔いはない」

生きて行く以上いろんな出来事がありますが、この旅での自身と出来事は私の生きる
原点、基礎になることは間違いありません。。。 自分の人生は、自分が主人公ですから。

「我が人生に悔いはない」

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-03-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted