需要のない生命
ある男の意味深長な呟き。
「あらゆる生命を尊重しなくてはいけない」
ある男が野草を手にもち、片手で杖をもち、それで草木の中をかき分けて、足で踏んづけたり吟味したりしている。その男は、白いひげを足までのばし、つめは関節をひとつ増やしたほどの長さまでのばしていて、頭は禿げ上がり、ひげとまったく同じ色の白。口はむっくりと逆の円を描いている。その風体はまるで、どこかの仙人のようで、ある種人間離れした貫禄をもっている。
それは二つの人影で、千人のような男のその傍らで、石をひろっていた少女が、男に応じたようにつぶやいた。
「ええ、コロニー長さま」
少女が見上げる空はコンクリートのドームにおおわれていた。人類が月に移住してからすでに2世紀が立とうとしている。だがその半分ほどもまだ開拓しきれてはおらず、だが人間の中には、これに似たドームを点々と立てられ、少ない人口で細々と科学実験を繰り返しながら、それでも地球からわざわざ移住してきて月に暮らしている少数のものがいた。そういう人はこういったドームの中での生活を窮屈に感じるのだ。
少女は沢からたちあがり、ドームの真横を覗き、ガラスの大きな窓から地球を見下ろして、またつぶやいた。
「ああ、地球があんなに遠いわ、私たちの星が」
青い星が見えている、どこかその青がかつての時代より淀んで見えた。
丁度同じドームの中では、若者たちが噂していた。そこは開けた場所で、大きな建物はないが、住宅街になっている。近くで何かの動物がピーピーと騒ぐ声がする。
「うるさくて集中ができやしねえ、それに気持ちが悪い、背筋がぞっとするぜ」
声の低く枯れた声の男が尋ねた、まだ若く見える。しかし産毛がはえていて、赤ん坊のような綺麗な肌をしている。
「せまいんだから仕方がねえ、お前は音楽を聴いているだけじゃないか、こっちのみにもなってくれ。おれは豚肉のステーキをくってるんだ」
サングラスを頭の上にのせた高い声の男がいった。そして続けて問いかけた。
「ああ、そういえば豚人間ってしってるか」
「豚人間?」
近くにとさつ場があり、悲鳴が聞こえている。月の豚はよく肥える。重力が少ないからだろう。彼らはいまその話をしていたのだ。
「人間の臓器を作るための幹細胞なんかを生まれる前の豚の胚に移植して、豚を育てるって実験、もう何世紀も前に起こったその実験を、この月基地でもやってるって話だぜ」
「それは、倫理的にどうなんだ」
「倫理もくそもねえ、ここは開拓地だぜ、人権もクソもないんだぜ」
「そういわれれば、治安もわりいしなあ」
一方の男は、サングラスを頭の上にのせ、タバコを吸いながら小さなコンピューターを片手に仕事をしていて、一方の男は、ただ音楽を聴きながらコーヒーを飲んでいる。彼等の間のテーブルには小さなパラソルがあり、そこはカフェのテラスらしかった。丁度左側の男のコンピューターのキーボードにその影が差し込んでいる。コーヒーを飲んでいた男が話しを続ける。
「しかし、お前結婚できてよかったな、23だろう、今期を逃す所だった」
「何の話だか、俺は豚の話をしてたんだぜ、まあ仕事ばかりしてきたからなあ、危なかったといえばそうだ」
「豚っていえば、俺は父親から姿をきいたが、つるつるな見た目で毛がないらしいな」
「おれは、目が細いのだときいたぞ、まあなんにせよ、醜いものだ、適齢期どころかじゃない」
彼等は何も知らないのだ、彼らは、彼等がただ知っているのは、彼等は30歳になるとこのドームを出て、別のドームに移住する事になっている。町長意外の人間は、そうでなければいけない。それは俗に―—イニシエーションーーと呼ばれている。
「30になれば散り散りだな」
「心配するな、また会える」
サングラスの男は、上空を見上げた、星がきれいに見えるが、真空の宇宙がひろがっている。
情景は郊外へ、郊外から沢へ戻り、少女がまたつぶやいた。
「町長さま、私は、ずっとここにいるの」
「そうだよ、命は大切にしなくてはいけない、その思いがあれば、お前にはここに残る権利があるだろう」
「町長さま、人間はどういう姿をしているの?」
「ええとな……」
男がひげをかきわけ、自分の鼻をみせた、それは豚のもので、手のひらをみせると、それは豚のヒヅメだった、耳をみせると、それはひらぺったいのっぺりとしたぶたのものだった。男は同じ姿の少女に、自分たちとの違いを事細かに説明しはじめたのだった。
需要のない生命