猫たちの憂鬱(ねこたちのゆううつ)

「猫たちの憂鬱」

 奥の部屋からおーい、おーい、と起き抜けの嗄れ(しゃがれ)声が聞こえている。広くはない部屋中に積まれたダンボール箱の隙間から寝ぼけまなこを開けてひょい、と首をもたげてみるがその声に反応する者が家の中にいる筈もない。それでも繰り返す声に仕方なく身を起こし大きく伸びをして一頻(ひとしき)り耳の後ろを掻いた後、声のする寝間に足を向けた。仏間を通り抜けようとした時気配がしてふと振り返ってみたがそこに美穂子さんがいる筈もなかった。
『─ごめんね。まだ連れて行けないのよ─ごめんね─』腰を落とし目線を下げ合わせ悲しげにそう繰り返していた優しい声と下あごを撫でつける温かく心地の良い指先の感触を思い返す。
家人は夫婦で間もなく正式に離婚するのだと云う─。
原因は良くある旦那の不貞にあった。仲間内からもざらにそう云う類の話を聞かされることがあるが美以はその度に不思議に思う。自分たち一族の男はその誰もが奔放に恋をしてはあちこちの女を(はら)ませて歩いていてそのことを裏切りだなどと憤ったり悲観したりすることはないからだ。子孫を増やし繁栄させることがごく自然な成り行きで自由が男たちの当然な生き方だと皆が認めている。
優しく温厚な美穂子さんが突如目を吊り上げ涙を流しながら旦那に向かって実にヒステリックな大声で(なじ)り始めた時、思わず部屋の箪笥(たんす)の隙間に逃げ込み事の顛末(てんまつ)をはらはら案じながらそんな風に考えを巡らせていた。
「─何だよ、またお前か─そうか、─そうだったよな」半身を起こしかけこちらに眼を向けた旦那が途端に落胆した風に肩を落とし口の中でそう呟いた。呟いた後ひどい寝癖の頭をガリガリ掻きながら部屋の中を見回しまた深く溜息を吐く様子を美以は言葉もなくじっと見つめていた。
美穂子さんは思ったよりも短絡的な性格だったらしくあの晩プイッと家を出てその翌々日に戻ってくると物凄い勢いで自分の衣類や持ち出す物をダンボール箱に片っ端から詰め始めた。あっと言う間に八畳間の寝室の半分をダンボールで埋めると美以を抱き上げ眼を潤ませ声を詰まらせながら別れの言葉を遺し、そのまままた出て行ってしまった。恐らく実家に戻っているのだろう、それ切りもう三月近くが経とうとしている。不貞が発覚したのが春先で季節はもうじき梅雨を迎えようとしていた。もしもこのまま夫婦が別れ残された旦那も今の借家を払ってしまえば自分の居場所どころか食事さえ危ぶまれることになる。ペット禁止の借家やアパートは多く猫は爪を立て家の造作をも傷つけると云う慣例から特に忌み嫌われてしまっている。現在の住家では偶然大家さんが猫好きで自らも飼っていることから暗黙の了解を得ているのだった。
美以は捨て猫で仔猫の時、寒風の吹きすさぶ橋の(たもと)で餓死寸前だった所を美穂子さんに見つけられ拾われて来た。お湯で綺麗に洗われ初めて口にしたミルクのとろけるみたいな美味しさと、その晩一緒の布団で包まって眠った温かさを憶えている。猫は家につく、などとしばしば揶揄(やゆ)されることがあるがやはり飼い主を心から慕う。誰よりも美穂子さんの傍からは離れたくなかった。
『─ヒトは感情で生きておる。怒り、貪り、そして愚かさに支配され時代を繰り返してきた─いつまで経っても愚行を繰り返す実に罪深い生き物なのじゃ。わしらより長い天寿が与えられてはおるがその大半は苦しみ、悩みに満ちた生涯をおくることになる。煩悩が呼び起こす故の欲に支配され続けての。その中でも性欲とは理性がその範疇(はんちゅう)に及ばぬと云う。旦那も実に愚かしいことをしてしもうたものだのう─伴侶を失うてしまうと心と身体のバランスが心配じゃのう。特に男はの。ヒトの男は弱い。見栄だけが先行する生き物でのう。後先考えずに空威張(からいば)りはするが実のところ不様なほどに弱い生き物なのじゃ─』旧家に代々住むと云う長老が先般の集会の折り、小さく首を振りそう嘆いていた。
その指摘の通りか旦那は間もなく深酒を重ねるようになると直きに会社の健診で問題が見つかった様で病院通いを余儀なくされてしまっていた。
『─今一度皆の飼い主の管理を確かめたい。次の集会までにきちんと確認して置くように』美以の話しを聞き終わると長老は(かす)れた声を張り一同を見回してそう通達した。
飼い主の「管理」とは即ち冷蔵庫の中身を確認すると云うことだ。冷蔵庫の中がきちんと整理整頓されている家では経済状況や家庭内の環境も良好で、そうでなければ家族間の不和や健康面にまで至り何かしらの影響が出てくる。そしてそれらは当然飼われている小さな生き物たちにとって死活にも繋がるやも知れぬ重大な問題で(いにしえ)より猫族に伝わる確固たる真理なのだ。決まった日決まった夜の時間にヒト目を忍んで始まる猫たちの集会は殆どが決まってその話題と議論に終始する。
「─じゃ、また病院に行ってくるから、な。ちゃんと留守番してるんだぞ」そう言って昨夜残った冷ご飯に味噌汁をかけパックのおかかをかけた椀を用意してくれると主はくたびれた様子で玄関を出て行った。
「─ホントに心配な人だわぁ」美以はそう呟くと家の中を見回した。日当たりの良いベランダ側は日中でも雨戸が閉められたままだ。あの晩、激昂した美穂子さんが投げつけた皿が大きな磨りガラスを割ってしまい代わりにはめ込んだボール紙では開けた時に体裁(ていさい)が悪いのと、つい業者に頼むのも億劫(おっくう)でそのままにしてあるからだ。おかげで外に干せない洗濯物がいつも部屋干しで絶えずイヤな匂いが一杯に充満している。時折誰もいない部屋できしむ様な音に驚いて耳を立て振り返ると溜め込んで洗われ大きな洗濯物干しハンガーに一気に吊るされたバスタオルの群れが立て付けの鴨居(かもい)に必死に掴まり重力に耐えかねたみたいにギシギシ音を立てていたりする。台所やそこここにも汚れ物やゴミが散乱していて生来が綺麗好きな美以にとってもあまりにも耐え難い環境になっていた。
『─ホントに独りじゃ何も出来ない人なんだから─言わなきゃ皺くちゃなワイシャツ着て行っちゃうし、靴下も右左違えてたりしても平気なんだから。そんでいて頑固でさ。小さい子どもよりたちが良くないわよねえ─』そう言って自分を抱き上げそれでも幸せそうに笑っていた美穂子さんをふと思い返すとまた泣き出したい気持ちが込み上げて来る様だった。
皿の周りに散らばったゴミたちを蹴飛ばすようにして避けているとキラリと光るガラスの破片を見つけた。あの晩剣幕に追い立てられる様にしてそそくさと旦那が出て行った後、美穂子さんは自ら拾い集め始めたガラスの破片で指先を切った。流れ出る血をじっと見つめたその眼から涙が溢れ出る様子を(すべ)もなく痛々しい思いでじっと見ていたのを憶えている。
ご飯を平らげ前足で顔を洗うと冷蔵庫の前に行き何とか中の様子を探るべくドアの取っ手に手を掛けたり引っ掻いたりしてみたが案の定重たいドアはぴくりとも反応しなかった。狭い額を項垂(うなだ)れて様々に思案を重ねてみたが名案は一向に浮かんではこない。
美以は気を取り直した風にもう一度顔を洗うとこれだけは旦那が(こしら)えてくれた自分用の小さな引き戸を前足で器用に開け公園に向かった。
蒼天(そうてん)の空に浮かぶ雲たちは早い速度で流れているがまだ陽射しは心地良く、乾いた風も爽やかにヒゲをくすぐる様だった。
公園を半ばほど行くと大きな池がありそこには大きな鯉や金魚が泳ぎ、どこからか逃げ出してきたらしい数匹の亀が甲羅干(こうらぼ)しをしたりしてのんびり過ごしている。足を止め柵の外からその様子をぼんやり眺めていると風に乗ってどこからか何とも言えぬ良い匂いが漂ってきた。振り返ると遠目から純白の毛を(なび)かせてチンチラが歩いてきた。横にいる三毛猫と仲睦まじそうに歩いている。
「─敏郎、さん」美以は思わず口の中でそう呟くと身を屈め見事な大粒の花を咲かせ始めたオオデマリの茂みに反射的に身を隠した。チンチラはメロディと云う名で数年前近隣に出来た新興高級住宅に飼われている猫でいつも上品なコロンの香りを(まと)っている。界隈(かいわい)のオスからも絶大な人気で引っ切り無しにプロポーズを受けるが一向に靡くことなく、しかし敏郎のことだけは気に入っているようだった。
「メロディちゃんかあ─」美以はそう呟くと茂みの中でそっと自分の姿を見回してみた。虎縞(とらじま)で毛並みには少なからず自信はあるが尻尾は団子で身体つきも全体的にずんぐりした印象だ。チンチラの持つ美しいふんわりした綿みたいな毛並みと歩く度に品良く揺れる大きな尻尾には憧れいつも引け目を感じていた。敏郎は三毛猫には珍しいオスでピン、と立ったヒゲと尻尾が男らしくやはり界隈のメスたちが躍起になって色目を使ってくる。
何故だか美以の家のゴタゴタを知っていて幾度か家まで来てくれ話しを聞いてくれたりわざわざ集会への送り迎えもしてくれたりした。ついこの前の集会の帰り家の前で、
「─みいちゃん、あのさ。だいじょうぶ─きっと何とかなるから。ヒトは気まぐれだけど、あんなに可愛がってたみいちゃんをこのまま置き去りにしたりしない。元気出して─ボクもついてる─」そう耳元で囁かれた後そっと口づけされたことがある。その晩は夢心地で以来恋心は募るばかりだった。
自分に気づくことなく真っ白な花陰の向こう側を寄り添うように通り過ぎていくお似合いの二匹を複雑な思いで見送りながら美以は初めて一族のオスの持つ習性を少しだけ恨めしく感じながら小さく溜息を吐いた。
公園の裏門を抜けると間もなく三叉路の小路がありその真ん中を進むと大きな枝垂れ柳にぶつかる。太い幹のその根元の陰がお気に入りの場所だった。夏でもそよぐ風がひんやりと涼しく冬はぐるりを覆い尽くす背の高い枯れススキが寒風を(さえぎ)ってくれ温かい。何より誰にも邪魔されることのない静けさが好きで悩み事や考えたい事があると訪れていた。どうにかして冷蔵庫の中に気づかせ整理を促さなければ─。香箱を作って身体を丸めそんな思案を巡らせていると心地良い陽気にいつの間にかうつらうつらし始めていた。

「─あのさ、もう取り替えた方がいいよ。この歯ブラシ─」そう言いながら久方ぶりに家の中を忙しげに歩き回る美穂子さんの後を美以はヒゲをピン、と立て嬉しげに纏わりついていた。
「─ああ、─うん」リビング兼食堂に置かれたソファに掛け素っ気なさそうにそう返事を返しながらだが旦那は明らかに妻の唐突な帰宅の真意に身構えた様子で落ち着きなくその挙動を眼の端で追っていた。
「─ったく、散らかし放題なんだから─」そう言って大きな指定袋に散乱したゴミたちを放り込みながら今度は手早く集めた汚れ物を右の脇に挟んで洗濯機に向かった。
「─ちゃんと判をついてくれた─?」洗濯槽に洗剤を入れ水を落としながら少しの間を置いて美穂子さんが呟くように声を落としてそう言った。間違いなくその声は届いた筈なのだがほんの少し身動(みじろ)ぎをして(うつむ)いた切り旦那は言葉を返さなかった。
「─何で黙ってるのよ。─来月一杯でここも引き払うのよ?約束でしょ─わたしたちもきちんとしましょうよ」今度は振り返ってはっきり発したその声に旦那は(おもむろ)に立ち上がると暫らくの間の後、
「─悪かった、ホントに。もう一度だけ、考え直してくれ─あの娘とはもう─きっぱり別れたんだ」狼狽(うろた)えた様子で訥々(とつとつ)とそう応えた。
「─そんなのあなたの勝手でしょ?あなたが別れようとどうしようともう関係なくなるんだから、あたしには─」抑揚のないその声にたじろいだ様に旦那は頭をガリガリ掻くとやり切れないと言った風に首を振り深い溜息をついてもう一度ソファに腰を下ろした。
間もなくすると美穂子さんの友人であろう女達がやって来て部屋のダンボールを外に運び出し始めた。その様子を恐々と顔色なく見ながら言葉もなく立ち尽している旦那の足許で萎えたヒゲを気に病みながら美以もわが身の行く末を案じ始めていた。部屋を占拠していた箱は次々に片づけられて行く。美穂子さんはものすごい勢いでその痕を片しながら掃除機をかけこちらを気にかける素振りも無かった。
『─可愛がってたみいちゃんを置いていったりしないから』悄然(しょうぜん)と尾を垂れた美以の耳にそう言っていた敏郎の声が蘇った時、不意に身体がフワッと宙を浮いた。
「─よしよし、お前も今日から向こうに行こうねぇ。ずっと放って置いてごめんねぇ」そう言って優しく抱き上げられると懐かしい匂いがして嬉しくて美以は思わず声を上げて啼いた。
「─よしよし、心配しなくても大丈夫だよ。お前はあたしの子どもと同じだからね。ずっと一緒にいようねぇ─」美穂子さんは抱き直すと鼻面に顔を近づけ目を細め、機嫌の良い時に見せる猫みたいな顔で笑った。

テーブルに広げられた朱色に枠取りされた大きな紙がどこからか吹いてくる穏やかな風に揺れ、時折カサカサと音を立てて動く様を温かな膝に抱かれながら美以は眼を丸くして見つめていた。
「─ねえ、こうしてたって(らち)明かないでしょ─?」頭上で聞こえる美穂子さんの無機質な声に美以が窺うように頭をもたげた。暫らくの間の後、
「─イヤだよ、俺。─あんなことぐらいで、別れるなんて─」憮然(ぶぜん)と肩を落とした旦那が眼を上げてやっとそう応えた。
「─あんなこと、ぐらい─?」オウム返したその声が一(しばただ)震えた。
「あ、いやはずみだったんだよ、ホントに飲み会からの流れで─」目を泳がせて旦那が言葉を重ねた。
「─そう、なんだね─」呟くように美穂子さんが応えた。
「え、あ、─いや─」旦那がたじろいだ風にそう言い掛けた時、
「─あたしのせいだもんね─」低く抑えた声がその言葉を遮った。
「え─」改めるように旦那がもう一度妻を見つめ返した。
「─子どもが─あたしに、もう赤ちゃんが出来ることないからでしょ─」その声が俄かに震えていた。自分の背に置かれた掌の震えが伝わって来ると実以は覗き込むように上げた眼を不安げに瞬かせた。
長い沈黙が流れた。旦那は言葉なくじっと妻を見つめていた。キッチンの窓の網戸越しに強い風が吹き込み目の前の紙をめくり上げようとした。反射的に美以の前足がそれを押さえつけようとした次の瞬間、
「─泣いてくれたんじゃなかったのッ─!?」叩きつけるような口調でそう言い、大きな瞳を夫に向けた美穂子さんがいた。驚いて飛び跳ねるように膝から降りて首を(ひね)って見上げるとその黒目勝ちの大きな瞳が潤んだように揺れ不意に大粒の涙がこぼれ頬を伝い落ちた。
「─泣いてくれたでしょう─あんなに─泣いて、─あの晩、一緒に抱き合って─あんなに─泣いてくれてたじゃない─」頬を真っ赤に染め唇を震わせて泣きはじめていた。急いで近寄り額をすり寄せ足許に纏わりつくと猫なで声を立ててみたが激情型と言ってもいい美穂子さんの昂まりは増していく様だった。
「─あたしが悪かったの─?悪いのはあたしだけ─だから─他の女を─それで─そんなこと、しても─?あなたは─あなただけは─許される、の─?」テーブルに肘をつき両掌で顔を覆いそう詰まりながら肩を震わせていると旦那が不意に席を立ち上がった。妻の後ろに立つとその身体ごとを包み込むようにそっと抱きしめた。一層激しくなるその震えと嗚咽(おえつ)を聞きながら美以も二人の足元にちょこなん、と腰を下ろした。

「─ねえ。もう描かないの─?」段ボール箱を運び出され急にガラン、とした寝室の天井に点る(ほの)かな橙色(だいだいいろ)の灯りを見上げて美穂子さんがぽつりと言った。掛け布団の下の方に体を丸めながら聞き耳を立てているがその声が優しく甘える声色に聞こえた。ふと予感がし立ち上がるとわざわざ奥の部屋に行き暫くの間狸寝入りしていたのだが戻ってみると美穂子さんは旦那の腕枕に頭を乗せていた。その目は泣き腫らした痕が歴然としていたが頬は火照ったみたいに上気しているのが分かった。二人とも笑顔を向け合っていた。美以はホッとして前足でまた顔を洗うと大きく一つ欠伸(あくび)をした。
美穂子さんは寝室の壁に掛けられた一枚の油絵に目を向けていた。
「─二回目よね。別れ話したの。憶えてる─?あなたが絵を諦めるって言って。─あの日もそんな話しになって─」美穂子さんが言った。
「─ああ。うん─画家なんかじゃ、食わせてやれないからって─描き差しの絵を俺が破こうとして、君が怒って─」懐かしむような笑みを浮かべて旦那が応えた。
「─あたしね。シンナーの臭いが苦手だったけど─あなたの絵は好きだったから─。絵筆握って、一心にカンバスに向かってる横顔見てるのが─好きだった─あの絵よ。一箇所だけ破れたとこ、あたしが裏からテープで止めた─暗い海に灯台の明かりが傾いて射し込んでて、堤防で多分恋人同士が手を繋いで佇んでる─何見てるんだろう─何話してるんだろう─隣にいるのがあなたなら、あたしは何を話すんだろう─あなたは何話してくれるんだろう─って─あなたがプロポーズしてくれた晩、─あなたの言葉を聞きながら、あたしは─あの絵を見てた─ずっと一緒にいたいな─いれたら、いいな─ずっと、あなたの傍に─優しいあなたと、ずっと─」美穂子さんは俄かに声を詰まらせてそう言うと掛け布団を上げそっと顔を隠した。
「─ごめん、な。ホントに─」旦那はそう言うと布団に隠れ切れない艶のある黒髪を愛おしげに何度も撫でつけた。部屋の中がひっそりすると遠くから国道を走る車の音が聞こえて来た。
「─今夜は西風か─」旦那がポツリ、と言った。少しの間の後、
「─もう直き、三年だね─あの子が逝ってから─」美穂子さんの声がした。
「─うん。早いな─一年なんて、あっと言う間だ─」穏やかな声で旦那が応えた。
「─怒ってたよね。お坊さんに向かって─」思い出し笑いを含ませて美穂子さんが言った。
「─あ、ああ。うん。─いまだに腹立たしい─」旦那が唇を尖らせて応えた。
「─うん。ある訳ないもんね遺影なんて─まだ─掌よりずっと小さかったんだもん。─はるか─そうあなたが名前考えてくれて─頼んで小さな(ひつぎ)─作ってもらって─二人っきりで送ってあげた─」そうまた声を潤ませて言うと、旦那は腕枕の妻の顔をそっと引き寄せた。
もぞもぞと布団が動き出す気配を察知し美以がまた寝たふりを決め込んでいつの間にか眠りに落ち込みそうになった暫らくの間の後、
「─なあ、喉渇かないか─ビールでも飲もうか─」そう言った旦那の声でハッと目覚めた。
ビールイコール冷蔵庫─瞬時にその方程式がぼんやりした脳裏に(ひらめ)いたからだ。
「─いいよ、あたしが取ってくるから─」そう言ってやにわに立ち上がった美穂子さんを先導するように美以も急いで台所に向かった。
「─なあに?どうしたの。お前もお腹が空いてるの?」優しいその言葉を頭上に聞きながら美以はある決意を固めていた。
果たして美穂子さんが冷蔵庫の前に立ち扉を開けた次の瞬間、全身をばねにして中に飛び込むと手当たり次第に立てた爪を引っ掛け食材を蹴散らし始めた。
「─わ─?!これッ─!!何してんのッちょっと!美以ッ─」言いながら慌てた美穂子さんが丸い身体を抱き上げるまでにはマヨネーズやらパックに入った惣菜やらかなりの物が床に散乱していた。
「何よぉ、こんなにしちゃって─一体どうしたのよ─」眉間に皺を寄せそう言いながら散らかった物を片そうと腰を屈め伸ばしたその手が一瞬止まった。
「─何よ、これ─この納豆、二ヶ月も前に賞味期限が切れてるじゃない─これもそうだわ─このパンなんてカビが生えてるし」そう言いながら徐に振り返ると冷蔵庫の中身をチェックし始めた。
「─何だよ、どうしたんだよ。何やってんの?ビール待ってんのに」旦那が口を尖らせて後ろに立って来たが、
「─はい、─」美穂子さんはそう言い後手でビールを手渡すと、
「─あのね、仏間はお仏壇、玄関は靴箱。台所は荒い桶と冷蔵庫をいつもきれいに整えておかないと良くない気が家中に充満するのよ?─ったく、三月かそこらでこんなにしちゃうもんかなぁ─?」そう言いながら再びゴソゴソと整理し始めた。美以はその様子に満足気に目を細めると丸い尾を精一杯上げて右左に振りたてた。

「─おう、そうかそうか。良かったのう、善き善き、じゃ。─みなはどうじゃ─きちっと確かめたか」長老がそう声を張り見回すと皆一様に目を細めて(うなず)きの声をミャアー、と上げた。
集会が終わる頃、急に雨が降り始めた。
「─この辺は車も多いから気をつけないと─」栗花落(ついり)の夜道を並んで歩きながら敏郎が言った。言いながら歩道側を促し譲ってくれるさり気ない優しさに美以はヒゲを立て少し恥ずかしそうに俯いた。
「良かったね、ホントに。これでみんな元通りになるよ、きっと。ずっと心配してたんだ」そう言い尾を立てまるで自分のことの様に喜んでくれている敏郎が一層愛おしく思えた。
雨雫が商店街の軒先に掛けられたテントシートをリズミカルに叩いている。二匹は寄り添うように歩きながらそれ切り話しをしなかった。胸の鼓動が耳の奥で高鳴っていた。美以はそれを悟られやしまいかとドキドキしながらゆっくりした敏郎の歩調に合わせ、行き先の足元に落ちては跳ね時折行き交う車のライトに反射して光る雨粒を見ていた。
自分の家の手前まで来た時、敏郎は不意にその足を止め美以に向き合うと、
「─あのね。もし、みいちゃんが引越ししちゃったら、俺─その、─きっと─」そこで言葉を切るといつかと同じに優しくだがちょっぴり長く美以に口づけ、やがて足早に走り去って行った。

 それから暫らく経ったある日の晩、旦那は少し遅い時間に帰宅して来た。
美穂子さんの後を追って出迎えると何やら小脇に包みを抱えていた。
「─なあに?それ─」濡れたスーツの肩をタオルで拭いてやりながらそう美穂子さんが訊くと、旦那は黙ってその包みを差し出しはにかんだように少しだけ笑った。
「─可愛い─!」直ぐに包みを解いて美穂子さんが声を上げた。
「─まさか家の中を臭くする訳にいかないから─知り合いのアトリエ借りてさ─」後ろ向きで髪を拭きながら旦那が言った。
「─ありがとう─!」美穂子さんはもう一度そう声を上げると足元にいた美以を愛おし気に見下ろし徐に抱き上げた。
包みの中身は油彩画だった。見事なタッチで描かれていたのは虎縞の猫だった。ずんぐりした体つきが紛れもない自分だった。
「─あの日、どうしようもなく悲しくて─やるせなくて─寂しくて─そんな時我が家にやって来た猫だもんな、美以は。自分の子どもみたいに君が名前考えて。漢字まで当て込んでさ」旦那が笑った。
「─ありがとう─!嬉しい─ホント、に─また、描いてくれたんだ、ね」そう応えた語尾が詰まり笑みを浮かべかけた美穂子さんの顔が一瞬歪んだ。
泣き笑いのその目からまた不意に大粒の涙が零れ落ちると美以は首を伸ばし目を細めて、にゃあ〜、と小さく啼いた後顔を近づけその涙をそっと舐めた。



                      了

猫たちの憂鬱(ねこたちのゆううつ)

猫たちの憂鬱(ねこたちのゆううつ)

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-08-22

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