未来人への手紙(4)

第四章  喪失(凪、諦念について)

第四章  喪失(凪、諦念について)

さてようやく最終章である、すでに第一章で「対象、長さについて」を、
第二章で「洞察、重さについて」を、第三章で「得る、明について」を述べた
本来のこの書の目的である「デジタル社会における精神の過度な世俗化にストップをかける」は現時点ですでにかなり難しいものになってきているという結論に達している、この部分は最早変えることができそうにないのでこの最終章では本書本来の目的とは一定の距離を置いたうえで、しかし完全に諦めることもせずに全体の流れとは矛盾しない範囲内で私的幸福論的な、つまりもう一つの目的「人はいかに生きるべきか、また人はいかに自分を取り巻く現実を理解するべきか」を優先させる形で論を進めたいと思う
なにとぞご理解賜るよう御願い申し上げる(2018/05/15)

喪失の価値
私はこのことに老いを知って初めて気づいた、老いを知るとはどういうことか?
それは青春の喪失を知るということである
青春の喪失
古今東西常に人々にとって最も悲劇的なことはこの青春の喪失である、これは大病などを若い時分に患った経験のある人であるならば容易に理解していただけるところのものであろう、特にこの二十一世紀平均寿命は大幅に伸長しようとしている、したがって青春の喪失は尚更のことその悲劇的様相を強く帯びるであろう(老後の時間が増えるから)、だが長生きは可能でも老いを遠ざけることには限界がある、新薬やサプリメントの開発などによって以前よりは「若さの持続」は可能になるのであろうが、しかしだからといって青春の喪失を経験しないまま五十五歳を迎えるのは容易ではあるまい

そして私は五十歳を過ぎてこう思うようになった
青春の喪失は避けられないが、もしそこで価値の転換を行うことが少なくとも論理的に可能なのであれば、喪失そのものの意味が変化するかもしれないと

つまり「成功」から「幸福」へ
それはさらに言えば「拡大」から「循環」へのシフト、また中央志向から地方志向への人生設計そのものの変更

実はこの喪失の肯定にはかなり深い意味が込められている、青春の喪失を例にとったのはそうした方が最も多くの方々に比較的容易に理解されやすいと考えたからであって、それで私がこの章に述べようとすることのすべてが飲み込めるというわけではない
すでに述べたようにこの第四章はそれまでの三章とは異なり、私的幸福論的な要素が一層増すものとなるがしかしそれ故にこれまで以上にこの言葉が頻繁に顔を覗かせることになる

もうおわかりであろう、その言葉とは「信仰」である

「信仰」はそれが客観性に富む論理的思考の産物であったとしても、それが幸福論である限り決して外すことのできない概念であり、また私は前章で「デジタルの普及によって芸術は死ぬ」と書いた、ならば尚更のことその後真のcreatorたちはどこにimaginationとcreationの希望を見出せばよいのかを私は述べなければならない、そして私は「imagination+creation」をキーワードにした場合、信仰と同じくらいこの私的幸福論において重要な言葉をここに合わせて述べなければならないのであろう

その言葉は「死」である

芸術の死がそのまま「imagination+creation」の死につながらないようにするために私たちは信仰によって生命そのものの死に対する何らかの「骨格の保全の試み」を行わなければならないであろう
芸術の死とはズバリ個性の死であり個性の死とはつまり存在の死である、したがって芸術が死ねば私たちは文字通り「ただ生きているだけの人々」になり下がる危険性がある、そして少なくとも一度は私たちはそうなるであろう
だがそれでは今度は文明が死ぬ
芸術が死に、次に文明が死ぬ、だがおそらくその前にもう一つの価値が死に瀕するであろう

それは民主主義である

芸術、民主主義、そして文明、この順番で死が訪れる
果たしてそうなった場合人類は再生できるであろうか?
だがそのために必要なはずの抵抗勢力やはみ出し者はデジタルが幅を利かせれば利かせるほど、そして「負は少なければ少ないほどいい(均一と均質の肯定)」という考え方が蔓延すれば蔓延するほど行き場を失い、やがて彼らは絶望し求められても声を上げないようになるであろう
だから事の成り行きを推測できる敏感な人々が、つまりデジタル社会に潜むに違いないリスクを感知できる人々こそが今少なくとも精神的な価値の何らかの保全策を講じる必要があるのだ

ここで重要になるのは成功のための考察ではなく幸福のための洞察

前者は論理的思考の積み上げによる上下を見る力を養うことを目的とするが、後者はそれに加えて霊的な感知力による左右を見る力を養うことを目的とする
第一章で登場したグラフを思い出していただければ、後者にはB区域に属する人は含まれないが前者にはB区域に属す人々こそがその中心ということになる
幸福は上下ではない、ゴールは個々人が各々自由に設定した場所にある(だからオリジナリティが重要になる)のであり、共通しているのはそれは彼の個性の真ん中あるということだけだ、そこでは「比較」が排除されしかし「選択の自由」が保障されている、条件はただ一つ、彼が「自分が何を好きで何をやりたいか」を知っていることだけだ
故に彼はしばしば「抗う人」となり大人の都合を押し付けようとする守旧派(不思議なことに彼らこそ出世組なのだ)に対して「なりたい自分」を主張しなければならない、だがデジタルがそれは難しいものにするのである

なぜ多様性の尊重が一つの世界になるのか?
多様性の尊重ならばそこには個性(ここでは比較的強い個性を指す)の数だけ世界が存在してもよいということになる、そしてそうなれば社会は無数の明確な意志を持った輪によって構成されるため、それらは権威の対照的概念である自由を重んじる限りにおいて一つの方向性を持つ、そしてそこで善が担保されるために信仰が必要になるのである
だが現実はそれとはまったく逆の方向へと突っ走っている、ポピュリズムの台頭はデジタルツールの普及と無縁ではないのだ
AIは一方で少数派の利害を代弁するため私たちはそれを拒否するべきではない、故に当面使い方を誤った人々(デジタルネイティヴ第一、第二世代)によるミスリードが社会を覆うことになる
おそらくデジタルネイティヴ第三世代以降、徐々に「抗う人」は増えてくると思われる(デジタルがもたらす社会的な歪みが顕著になる)が、それでもそこに膨大な利が見込める限りデジタルそのものの勢力が緩むことはあるまい、そして芸術の死がやがて避けられないものとなる(2018/05/29)
ここでまたテラフォーミングが出てくる
スペースX社は火星有人探査に成功するであろうか?
だとしたらそこにはどれほどの利益が見込めるのであろうか?
もしイーロン・マスク氏が世界一の富豪となった場合、彼は宇宙ビジネスの先端を走ることになる、無論そう簡単ではあるまいがしかし火星にもし無尽蔵とも思える資源が眠っているのだとしたら、そして火星において私たちと同じようなつまり知的生命体が今後誕生する可能性がかなり低いという科学的結論に達したのだとしたら、その時人類はどのような宇宙的判断を下すのであろうか?

人口百億の時代

これは人生百年の時代と相まっていつか世界を動かそうとする人々にとって最重要課題となるであろう
つまりどうやって百億の人々の胃袋を満たしていくのか?
ここではテラフォーミングではなく遺伝子組み換え食品つまりバイオテクノロジーがキーワードとなるが、このテラフォーミングとバイオテクノロジーは「拡大」がキーワードとしてそこに存在する限り、ビジネスチャンスを模索し続ける野心家たちにとってはおそらく無視することのできない領域として彼らの脳裏を日々掠め続けていくのであろう
ここでは数値化されるべき目標が常に普遍的な価値を上回っている、故に「結果至上主義」が「過程を楽しもうとする精神的なゆとり」をほぼ完全に駆逐し、したがって「信仰」の出番を文字通り形だけのものにしている
なるほどうまくいけばいくほど芸術の死に近づくということになるわけだが、極めて残念なことにこのような現状を改善させるにはセレブリティの積極的譲歩を期待するしかない、つまり第一章のグラフのA区域に属する人々たちであるが、リベラルの成功者の一部からいわゆる庇護者的な性格を持つ人が出てきてその人が優れた精神を持つ(故に損得には無頓着)人のパトロンとなって芸術が、民主主義が、そして文明が危機に瀕しないように精神の過度な世俗化に警鐘を乱打し続けるその手伝いをする必要がある
ここには確かに矛盾のようなものがある
数えられないものの価値を重視するからこそ「利」は「霊的なもの」を上回ることができず、故に大金をちらつかされても信仰や家族を選択するというつまり「過程を楽しもうとする精神的なゆとり」を維持することができるのだが、しかしセレブリティとはたとえA区域に属する人々であっても、いわゆる精神的な意味での社会の庇護者とはその実生活または目指してきたものが一線を画する人々であって、そこには「水と油」とも表現可能なかなり深刻な溝がある、したがってこの二十一世紀精神の過度な世俗化による芸術、民主主義そして文明の死を危惧し故に霊的なものを利に優先させようと試みる人たちはしかしついには経済的に窮し一部セレブリティの援助を受けざるを得ないという半独立状態に陥り、つまり何を言っても説得力にはやや欠けるということになってしまうことが予想される
この悔しい現実はしかしすでに散見されるところのものでもあり、今後もおおよそこの傾向は予定調和と瞬間熱が社会を覆いつくし続ける限りそう変わらないであろうと思われる
だが絶望だけではない、このような状況を多分変えるその原動力になると思われるような人が常に社会には存在している、後はそのような人々が彼らが運命と理解しているのであろう状況が彼らに何を告げようとしているのかに気付くことができれば、もしかしたら現実はそれほど悲劇的様相を帯びずに済むのかもしれない
そのような人々とはつまり「喪失」を知る人々のことである
ここからは「神」または「信仰」を頭の片隅に置いたまま読み進めていただきたい
万人に当て嵌まる喪失の最も悲劇的なものは青春の喪失であるが、ではその次に想定されるべき悲劇的な喪失とは何か?
「それは愛する人を失うことであり、またふるさとを失うことであり、また健康を失うことである」(以下この章ではQとする)
これはしばしば強い悲劇性を伴うものであり故に私たちはこの悲劇について思いを巡らすときには想像力を働かせたうえでそれを行う必要がある

突然ではあるがここでまた頭の中の黒板を用意していただきたい
そこに縦に一本直線を引いていただきたい、その縦の直線のちょうど真ん中あたりに点を打っていただきたい、そこが基準点、つまりゼロ(0)である、したがってその基準点より下がマイナス、上がプラスである
ここでは喪失が論点になっているので、当然マイナスの領域を意識した論述となるが、果たしてQを知る人々は、おおよそどの領域に属することになるのであろうか?
無論それは人によって異なるであろう、だがQに属する以上、マイナス10や20ではないことだけは確かだ

(2)

さて私はここでこう思う
ここに登場するQを知る任意の人物aの喪失がマイナス70と表すことができたと仮定した場合(ここはシミュレーションであるので実際には悲劇を数値化することなどできないが何卒ご理解賜りたい)、彼はその自分の置かれた状況をどのように理解するべきなのであろうか?
マイナス70とはかなりの数値なので、彼は自分と似た境遇にある人を見つけるのは困難かと思われる
では彼は彼のその運命とでも呼ぶしかない自分が置かれた状況をどのように解釈すべきなのであろうか?
私は思う
彼は以下のように自分が置かれた現状を解釈するべきだ
つまり基準点から現状つまりマイナス70までを半径とする基準点を軸とする円を描くべきであると、そしてその円の大きさこそ彼が経験可能なさらに言えば彼が負うべき人生の認識範囲であると
したがって彼は直径140の認識可能範囲を持つ人生を歩んでいることになる、そしてそれこそが彼に神から与えられた彼が背負うべき普遍的な価値を後世の人々に伝えるために果たさなければならない役割の範囲ということになる
私はこれを「人生=認識可能な同心円の法則」と呼ぶことにする
これはここに信仰が入り込まない限り容易には理解できないものであるが、すでにこの第四章において信仰は最も重要なワードであると述べているのでその辺りのところは今一度ご確認願いたい
マイナス70を知る者は直径140の円をその人生において知ることとなり、マイナス20を知る者は直径40の円をその人生において知ることとなる
その差は100である、この直径の差が最終的には彼のその人生における後世の人々への「伝えるべき何か」となって現れることになる
仮想現実は彼がQを知らない限り、直径40~60の人々を増やすだけに終わりそうなので私はそこをやはり恐れずにはおられないのである

人を愛することなく生きていくことが可能になる社会の出現

だが仮想現実とはそういうことだ
遅かれ早かれヴァーチャルラヴァー(virtual lover)が現れて、孤独な無職の人々の魂の癒しの役割を果たし続けるのであろう、彼女はヴァーチャルであるが故に都合の良い時だけ現れて都合が悪くなると消えていく、そこには結婚はないがしかし離婚もない
無人コンビニのようにとにもかくにも社会にも個人にも都合の良い存在
人を愛するとはしばしば助けてくれという精神の叫び、だが愛の役割の一つである「癒し」をヴァーチャルは与えてくれる、それは彼を孤独感から解放し有料で彼を時に楽園へといざなう
これは過度な精神の世俗化と決して無縁ではない、だからデジタル社会に対しては誰かが警鐘を鳴らし続けなければならないのだが、AIとテラフォーミングとバイオテクノロジーで大儲けした連中によって今後世界は律せられていくので残念ながら、この二十一世紀世界の混沌は一層深刻なものになるであろう、そして人々の精神を導くべき庇護者もセレブリティの援助を受けないと金銭的に窮してしまうため、彼の発言は大きな説得力を必ずしも持たないであろう
(2018/06/04)
だからこそ喪失を知る人々が普遍的な価値の中にしか存在しない、いってみれば祈りの世界にのみ見ることのできる「すぐにではないが最終的には善に変わりうるもの」(以下この章ではRとする)を後世の人々に伝えていく必要があるのだ
なるほどこの宇宙というものがつまり「有」の世界が「無」から生じていると考えられる以上(「有」から「無」が生まれるとはやはり考えにくい)、先に無を経験しそこから初めて有的なものが生まれると考えられるのであろう、そして無とはつまり喪失のことである
僭越ながらこのRの「すぐにではない」という部分はそれでも人生を諦めないためには実に重要な認識となる、「価値」よりも先に「無価値」があるために最初に負けないといつまでたっても人生の本質に近づくことができないのだ
では人生の本質とは何か?
それは通常骨格を知ることによってこそ見えてくる「あるべき」自分の姿
だがここに信仰が入り込まないと人間は容易に錯覚する存在(不完全であるから)なので、知らず知らずのうちに善から離れていくかもしれない
だが喪失を知る者は骨格の有無にかかわらず人生の本質を垣間見ることになる
なぜならば「人生=認識可能な同心円の法則」がその周囲の人々から彼を(時に彼だけを)切り離してしまうからだ、すでに「マイナス70とはかなりの数値なので、彼は自分と似た境遇にある人を見つけるのは困難かと思われる」と書いた、だからこそ「すぐにではない」となるのだが、しかし彼が僅かでも信仰に近づくことができる(ここがかなり重要)のであれば、彼は時に突然に目覚めるであろう、そしていつしか彼は伝道師となる
「伝える」とは幸福をキーワードにする以上実に重要な言葉だ、ここには独占がない、無論拡大もない、私たちには言葉しかないがしかし言葉は世界が百以上もの言語によって分かたれているために実はその伝えようとしていることの本質を見極めないと決して簡単には伝わってはいかないものだ、故にもし彼の経験のうちに喪失がないのであれば彼は「すぐにではない」を知らないがために「すぐにではないが最終的には善に変わりうるもの」が彼の言葉の中に霊的な要素をも伴って入り込むことがないのである
なぜ富める者は成功のメソッドしか語ることができないのか?
それはそこに喪失がないからだ、彼が破産すれば彼は真実を知ることになるがそうなれば誰も彼の話を聞こうとしなくなる、そういう意味では「すぐにではないが最終的には善に変わりうるもの」が大群衆を前に語られることはない、それは常に少数者を前にしてこそ語られるのだ、したがってそこでは中央集権的な思考が否定されている、回帰が肯定され循環や分配や多様性の尊重がより優先されるべき概念となる、善や美といった普遍的な価値を持ちうるものだけが「共通」となりそれ以外の価値観はそれぞれが「個別」に判断することによって形成されていくことになる、だが幸福を成功よりも重視するのであればきっとこのような思考の手続きは避けられないのであろう、無論あくまでも成功を優先させるという人の考え方が間違っていると断ずることは誰にもできないので、またすでに人類の精神の庇護者が現れてもどこかでセレブリティの譲歩を期待するしかないとも述べているので、この辺りはある種の歯痒さも感じながらの記述とはなるが、要点だけは何卒把握していただきたい
(2018/06/10)
善と美は完全にイコールである、またそう考えるべきである、私たち人間が神の領域に存在する無数の扉のすべてを開けることができると考えるのはきっと合理的なことではない、ならば私たちが発見するすべてのものは明確に数値化されうるものもそうでないものも私たちの幸福にこそ直結しうるものでなければ意味がない、そう考えると善とは完全にイコール美なのである(善=美)
私は思う、人生とはどのような境遇に置かれた者であってもほぼ例外なく苦しいものであり故に夢、目標や癒しが必要になるのだが、人生の厳しさ故に死に美が混じることはしばしばやむを得ないのだと
死は生に真正面から向き合おうとする限り、日常から決して離れていかないものであり、それは夢や愛の力をもってしてもそう簡単に変わるものではない、したがって死の誘惑から逃れるためには死に混じる美を偽物であると判断することが求められるのである
美とは善のことである、そして自ら命を断つことは善に反する、したがって死に混じる美は本物の美ではない、故に美しい自殺はあり得ない
したがって戦争はすべて=醜(戦争=醜)である

自殺の否定は、善の肯定であり、故に信仰を知るということである
信仰は何によって始まるのか?

喪失によってである

無論戦争による愛する人との別れが信仰を呼び起こすこともあるであろう、
だがきっとそれ以上に信仰を呼び起こすと考えられるのは病気や天災による喪失つまりQであろう

人災は憎む、天災は祈る

なぜ人災に見舞われた人と天災に見舞われた人とで対応が異なるのか?

それはそこに神が存在するかしないかの違いがあるからだ、人災は神が起こしたものではない、人間の中にしか存在しない悪が起こしたものだ、だから戦争の災禍の後始末は完全に人間だけでつけなければならない、だが天災は信仰があればまたはいつか目覚めればそこに神の意思を見ることができる
もし神に悪意がないならばそこには目覚めた者だけが知ることのできる暗号があるはずなのだ

そして目覚めを知ることができるのは喪失を知る人間だけなのである

ここで神には悪意がないということを確認する必要がある
神に悪意がないということを確認するにはどうすればよいのか?
それは存在するということが「当然であるか、それとも当然でないか」を考えることから始まる、もし「当然である」を選択するのであれば、「存在」の反意語は「無」であるということになる、では「当然ではない」を選択するのであれば、「存在」の反意語はいったい何になるのであろうか?

それは「霊」である

この世つまり「有」の世界に「無」はなく、あるのはただ神の意志に適う「目に見えるもの」と「目に見えないもの」との合体による無数の「存在+霊」だけである

そしてこの「存在+霊」が「神=善」の対象物としてこの世の調和を図っている、もし神に悪意があるならばこの世には調和はないかまたはあってもすぐにでも崩れそうなつまり均衡のとれた状態には必ずしもないということになる、だが今私たちが宇宙を見渡した時に果たしてそこに調和はないであろうか、またはあっても今にも崩壊しそうなほどそれは危うい状態にあるのであろうか?
私たちはしばしばこういう
悪は善と拮抗している、だが最終的には善が勝つ
ならば最終段階の手前まで悪は善と拮抗していたことになるため悪はそれくらいの強い力を有していることになる(そうでなければ初期段階で悪は善に負けているはずだ)、それほどまでに悪が強い力を有しているならばなぜこの世の調和は乱れないのか、なぜ太陽は日の出の時刻を誤ることはないのか、またなぜ春の次に冬が来ないのか、さらに言えばなぜこの地球という惑星は46億年もの間滅亡を免れているのか?

それはこの世がこれでできているからだ

奇跡

だからこの世にあるすべてのものは「当然ではない」にもかかわらず存在し続けていられるのである
故に有の世界の内に無はなくまた悪が存在するのは人間の意識の中だけである(幼児は除く)

喪失を知ることで目覚めるとは奇跡を信じるようになるということではなく奇跡がそこにあるということに気付くということだ、それまでは決して見えなかったものが見えるようになるということ、そしてそうなったとき彼が行いうることはこれだけである

伝える

認識するとは対象に形を与えるということであり、そのためのツールが言葉である、確かに幼児は言葉を持たないのに認識しているが、しかしそれは記憶として定着しないため私たちには幼児の頃の記憶がないかまたはあっても曖昧なのである、ここでいう認識とは他者に「伝える」ために有効なもののみを指す
そして私たちにとっては「得た」時に獲得する認識よりも「失った」時に獲得する認識の方がより強い影響力を持つのである、なぜならばまだ信仰を知らない人はそこにあるものを「当然のもの」と解釈しているからである、だから喪失して初めてそれらが皆「当然ではなかった」ことに私たちは気付くのである

当然ではない=奇跡=神=信仰=善

これらはすべて喪失により得た「すぐにではないが最終的には善に変わりうるもの」であるところの霊的なものから生じる、神は現世的な幸福に満たされた人には決して見えないところにこそ、この世のそして人生の本質を設えた、それは「正」も「負」も何れも単体では存在しえないものであり、しかしそれを人間に告げるには何らかの負を彼に経験させるしか方法がない(神は万物に対して平等を期すために永遠の沈黙を自らに課している)ために、神はすべてを救うことをすべての存在の担保としたうえで人類に犠牲を強いたのである、この部分は奇跡と矛盾しない

(3)

なるほど奇跡とは一方で多大なる犠牲の上にしか成立しないものなのかもしれない、すでに「人生=認識可能な同心円の法則」でマイナス70を知る者がプラス70を知ると書いた、この70+70=140を経験する者が見る世界は20+20=40を知る者とは比較にならないことは諸君にも容易に理解していただけるところのものであろう、奇跡は前者の上にのみ起こる
故にここでこう言い切ることも決して不可能ではあるまい

常人には想像すらできないような喪失を経験した者こそ神に選ばれた者である

そして彼は信仰に目覚める(2018/06/20)
信仰に目覚めるとは自分という存在の対象を知るということである、そしてその自分と対象とを結ぶのがもはや存在しなくなったつまり霊となった愛する人や家族でありまた過ぎ去ったかつての自分(病気や事故などでかつての自分を維持できなくなった)である、いずれも「今はそこにないもの」という共通点があり、またいずれもこれにつながりうるものである

郷愁

ここに循環の片鱗を見て取ることは可能であろう、おそらく拡大はそれが順調にいけばいくほど私たちを霊的な存在から遠ざける、拡大とは数字による裏付けを必要とするため拡大を支持する人、つまり「より速く」「より多く」を支持する人とは存在の反意語は無であると感じる人々のことである、故にそこでは喪失は何も産まずしたがってそのような人は何かを失った場合目覚めることはなく直ちにそこに生じた隙間を埋めようと躍起になるのであろう、だが何度も述べているように「隙間」と「脈絡」のない人生は反クリエイティヴな人生である、だからそこには目覚めがなく故に信仰も生まれない、僭越ながらAIが登場しデジタル社会が成熟に向かうその過程にあるからこそこのような視点は実は重要な意味を持っていると私自身は考えるのであるが、どうやらこの部分だけでもこの2018年を生きる人々に理解していただくのはかなり難しいようだ
そういう意味でも今警鐘を鳴らすことができるのは喪失を知り故に目覚めた人たちだけであるのだが、霊を感知できない人(喪失を知らない人、さらに言えば愛する人がいない人も?)は奇跡を知らずしたがって善的な行為に意味を見出すことができない人である、「つながり」とは存在の反意語が無と考える人にとっては通常の言葉でありまた数字などであろうが存在の反意語は霊であることを知る人にとってそれは信仰の言葉でありまた善である、そこでは「有」と「無」が絶妙のバランスで拮抗しており(隙間と脈絡が適度に維持されているから)、彼は何もないはずの隙間に、いや何もないからこそそこに「自」と「他」をつなぐインスピレーションの出発点のようなものを発見することができる、「目に見えない」とはそこに目覚めそして信仰がある限り決して「無」ではなく、それに気付かせてくれるのが何らかの喪失なのである
そこでは数えることが意味をなさない、また満たすことも意味をなさない、さらに言えば加えることではなく削ることが意味をなす
なるほどここに「引き際」といった言葉を思い浮かべる方もおられるであろう、そしてそれは間違いではない

深追いをしない

なぜか?

それは善に反しているから

それはどういうことか?

善は「負ける」ことから始まる、負けるとは時に「捨てる」であり、夢を追うことの重要性もこの「負ける」や「捨てる」にある、夢の先にあるのは勝利ではなくまた成功でもない、夢の先にあるのは「伝える」であり、また「後継者のための道を作る」である

限界までの挑戦が新しい価値の創造につながりそれが後から来る人々のための道となる(ここは十九歳未満の人々は対象外となる、なぜならば少年少女に分類されるべき未成年の若者たちは今日の行いが明日どうなるかを明確に自身で認識することができないからだ、《感受性が強すぎて暴走してしまう虞がある》)

だから夢が必要なのだ、私たちのためではなくこれから生まれてくる人々のために、私たち現世代は皆前世代と次世代をつなぐそのバトンの引き渡し役に過ぎない、したがってまかり間違っても今そこにある問題のすべてを現世代だけで処理してしまおうなどと考えてはいけない、しかしデジタル社会の到来がその辺りのところを特に若者たちにある種の錯誤を生じさせてしまっているのかもしれない、「私たちは特別な時代を生きているのだから」と
確かにAIは人類史上最大の発明だ、人類はついに人間の脳を人工的に作る出すことに成功した、私たちは馬よりも速く走り、鳥よりも高く飛び、そして二十世紀太陽をも人工的に造り出すことに成功した、そしてついに脳である
AIはピアノを弾き、絵を描き、物語を創作し、裁判を行う、そして孤独を癒し、教育を施し、自ら判断して私たちを導き、しばしば事実上の代理人となり、時に私たちの犠牲となる
AIによる革命は過去に起きたすべての革命的な事象を確実に上回る、AIは情報であり、技術であり、時に正義でありまた時に愛の一部である、AIは人間ではないが最終的にはかなり人間に近いものとなる
そしてついにはこの世から隙間と脈絡が消滅する
それは芸術の死を意味し、それは同時に文明のそして民主主義の死を予見させるものとなる
「目に見えないもの」
だがそれは無ではなくそこに喪失を知ることによる目覚めと信仰がある限りそこには霊が存在するのであり、また善はそこから生まれる、だから「目に見えない」を「無」と判断してはならないのだ、だがきっとそれはAIにはできないだろう
AIとは一貫してプラスでありそこにマイナスの概念はない、なぜならばデジタルで満たされた社会には隙間と脈絡がないからだ、そこでは効率性だけが数値化されるべきものとして重視されることとなる、だが二十一世紀型民主主義とは以下のようなものでなければならないはずだ

「効率性」は「多様性」を同時に担保するものだけが価値を持つ

本来はITツールによるインタラクティヴがその役割を果たすことを期待されていたのだが、どうやらこの未来予想は外れつつあるようだ

野に遺賢あり

もはや死語と思しきこの表現がしかしインタラクティヴによっても復活の機会を与えられないのであれば、またIoTの普及によっても尚も中央と地方との、またメジャーとプライベートとの格差が縮まることはないのだとしたら、かなり高い確率でcreationの未来は暗澹たるものにしかならないのではあるまいか(2018/06/25)
では一体だれが警鐘を鳴らすべきなのか?
五十代の人々である
彼らは総じて青春の喪失をすでに経験済みである、故に喪失がもたらすインスピレーションの中から「すぐにではないが最終的には善に変わりうるもの」(R)を感知することができる、このRを明確に認識するには「待つ」が何をもたらすかを知っている必要があるが、デジタル社会を生きる若者たちは「待つ」を知らないため、Rを認識することができず故に時代のオピニオンリーダーとしては正直に言えば不適格なのである、そういう意味では今時代は大きく変わろうとしている、人生百年の時代の扉が開き、青春を知る者ではなく青春の喪失を知る者がもしかしたら人類史上初めて社会の最先端を行く者となるのである
物が余り、時間も余る
そこではカスタマイズ可能な領域、つまりオリジナルの様式や考えだけが価値ある財産として受け継がれていく、数字を追い続けた人は最終的にはロールスロイスとビバリーヒルズに辿り着くが、にもかかわらずマテリアルワールドの誘惑から結局は逃れることはできないであろう、なぜならば成功した者が心身ともに孤立しないためには今ある数字を維持していく以外方法がないからだ、またここで当然の如く連想される「独占」は果たして良き後継者をその分野に生むことに成功するだろうか?
「独占」は「拡大」を担保する、これは明白であろう、したがって世界のトップに君臨することはピラミッドの頂点に立つことを意味するのではなく直立するタワーの頂点にオフィスを構えることを意味する、そこではすそ野はないか、または狭いために彼の幸福が末端にまで遍く行き渡ることがない、彼は「目に見える」世界においても孤独なのだ

さてここで以下のような一連の問答を行うことももしかしたら有意義であるのかもしれない

君臨の反意語は何か?

伝道である

では伝道とは何か?

下から上への動きを知ることである

では下から上への動きとは何か?

門戸を開き、自由を受け入れた後に、成功ではなく幸福を追い求める者が行うべきことである

それによって彼は何を得るのか?

「負ける」ことの重要性に気付いた者だけが理解できる真理の一方の側面

それは彼に何をもたらすのか?

人生の二つの桎梏からの解放

それは何と何か?

後悔と逡巡

その後彼はどうなるのか?

一見中途半端になる

それはどういうことか?

人間にとって真実とは100ではなく50であるということを彼は知るため、そしてそのことによって神による救済が担保されていることに気付くため、彼は+αに関心が向かなくなりその結果一見中途半端な行動が目立つようになる、つまり大切なのはオリジナリティの確立であり完璧を期すことではないということに、そしてそれが幸福のための必須条件の一つであることに彼は気付くということである

それを一言でいうとどういうことか?

引き際の美学、または負の肯定

もう少し詳しく説明してほしい?

「敢えてする」と「敢えてしない」の区別をつけるということ、さらに言えばそれはしばしば「わざと崩す」を意味するということである
理想とは「満たす」の中にはなく程好い無空間を作るということの中にある、それによって隙間と脈絡の維持が担保されその結果幸福の追求に必要不可欠な
カスタマイズやオリジナリティなどが存在可能となる
文明(imagination+creation)は民主主義という不完全ながら現時点では最も有効な最大公約数のシステムによってかろうじて人類の尊大さが沸点を超えることによりもたらされるカタストロフィを免れている、このことはモノ余りそして近い将来時間余りになることが予想される現在、私たちが回帰に向かうべき必要性があることが予想されることを意味している

そして回帰につながるべき精神的要素の一つに郷愁がある、そして郷愁を知るのはおそらく青春の喪失を経験した人々
(2018/06/26)
なぜ回帰が必要なのか?
それは私たちが生きるということの真の目的が果たして成功になるのかそれとも幸福にあるのかを今一度冷静になって考えるためだが、同時にそれはこの言葉が民主主義の危機を招いてしまうほどまでに拡大していくことを防ぐためでもある

格差

これは民主主義だけでなく夢を追いかけることや、「好き」の肯定にも反している
貧富の格差、中央と地方の格差、男女の格差、そしてグローバルな意味での地域間における絶対的ともいえる経済格差
これらは私たちが「抗う」を知りまた実践していかない限り、もしかしたら永遠に解決しない問題だ、だがそれでは22世紀を生きる人々はかなり早い段階で人生に絶望してしまうかもしれない、今日は2018年6月30日である、今日生まれた子供たちはかなり高い確率で22世紀を生きる、したがってカウントダウンはすでに始まっているのであり、今私たちが抱える二つの問題、格差の問題と環境問題(温室効果ガスの問題だけではない)は、分析だけでなく直ちに何らかの施策の実践が求められているのである
そのように考えると帰郷することによって私たちは都会での生活ではおそらく気付くことのできない何かに気付くことになるのかもしれない

それは「すぐにではないが最終的には善に変わりうるもの」であり、「待つ」を知る者だけが理解できるもの、それはきっと人の数だけある真実でありまた「人はなぜ生きるのか?」という人生の根幹主題を改めて社会に喚起する私たちのためではなく、これから生まれてくる人々のための日常的な小さな一歩(以下この部分をSとする)

(4)

そう私たちには選択肢があるのだ、したがってどちらを選ぶかはその人にすべて委ねられている、すでに「何を」ではなく「いかに」が重要なのだと書いた、これは成功ではなく幸福を実践する以上譲れない一線でもある、だがこの譲れない一線はその一方で空間的な意味での遮断と時間的な意味での配慮の欠如をその主体者において是としてしまう虞がある、だがそこに選択肢は残されているため彼がSを理解しようとしなかったとしても誰も彼を責めることはできないのである
ここは信仰よりも庇護者になりうる社会的なリーダーの登場が期待されるところである、彼は信念を貫く人でありまた容易に取引には応じない人である、また彼はcreatorであり、回帰を知る者であり、美と善が完全イコールであることを知る者である、また彼は私たちが神の領域に存在するすべての謎を解明することができないことを、そして私たちの不完全さをよく知る者であり、故に「すべては救われる」を霊感によって感知できる人である(ホモサピエンスの可能性に関する過剰な信頼は神の無価値か、または救われる人とそうでない人との峻別を生むだけ、しかしそれらはいずれも科学的に解明可能なものと断ずることはできない)、さらに言えば彼は完全を保つことに執着することではなく平均を保つことに執着する、つまりほんとうに大切なものを優先させるためにそれ以外のものは落第点でも可とすることを理解できる人である(100よりも50の方が重要、つまり人生とは量ではなく質である)
だが何度も述べているようにそのようなリーダーが現れてもデジタル社会下においては、彼は金銭的に困窮することが予想されるためどこかで第一章のグラフで示されたところのA区域に属するセレブリティの経済的庇護下に入らざるを得ないためにその発言の説得力についてはやや欠けることになるのかもしれない
何とも歯痒いこのデジタル社会はしかし今後も当分の間ひたすら拡大を続けていくものと思われる

なぜ「慣習の踏襲」は「本質の追求」を上回り続けているのか?

先進国の少子化傾向は前者が後者を凌駕し続ける限り収束することはないであろう

マテリアルとインマテリアルは拮抗して然るべき

甚だ僭越ながらここには永遠かまたはそれに近いものがある、100には決してないにもかかわらず50には比較的高い確率であるものがある、すでにショパンにないものがモーツァルトにあり、モーツァルトにないものがJ.Sバッハにあると書いた、また最大限の利は最先端のものから生まれるとも書いた、ここから導き出されるものは何か?
私たちが想像し、創造するものは皆、徐々に上っていくのではなく、また徐々に下っていくのでもない、ただまったく同じ高さの面の上をそれぞれがそれぞれの個性の上に築いた価値を後世に残していくだけである、そして彼らが残した個性を数値化することはできない
個性という名の無数の輪、そこにあるのは彼が美しいと感じたものを彼の手法をもって表現した彼にとっての譲れない一線のその時点における結晶

そこにあるのは存在でありまたその価値である

そしてそれは命の定義としばしば重なる

命は時に奇妙なまでに芸術と符合する、したがって芸術の死を私は受け入れることができないのである(2018/06/30)
デジタルはなぜ芸術を死へと導くのか?
それは文化というものが私たちの日常の奥深くまですでに浸透しているからであり、また私たちがその日常の奥深くにまで浸透している文化を完全に無視した場合私たちの日常そのものが成り立たなくなるからである
スマートフォンの登場によってあるものが消滅することが危惧されている
それは現金
これは私にすればひどく恐ろしいことのように思える
私たちは現金を粗末に扱うことはない、一万円札を真ん中で半分に切って五千円ずつとするという考えは私たちにはない、なぜならば現金とは硬貨にせよ紙幣にせよ文化そのものであり、単に日常の利便性や合理性を高めるためのツールというわけではないからだ(事実古銭マーケットというものがある)、したがって現金を地べた(床または地面)に置けばマナーを失することになる、しかしスマートフォンを地べたに置いてもそういう風に考える人はいない、ネットを通じた決済は日常の利便性の向上に役立ち社会における削減可能なコストの合理化に著しいプラスの効果をもたらし、また治安の維持という面から見ても肯定的に解釈されるべき要素が多い、故にネット決済は私がここで何を言おうと右肩上がりで急速に普及していくことになるのだが、実生活における物の購入やサービスの提供を受けることにおいて画面上の数字の増減だけで事足りるということは、しかし芸術の死という側面から見れば十分すぎるほどのものであり、「現金という物」の不存在はいわゆる「畏れ多いもの」の一面における衰退を意味し、それは最終的には「畏れ多いもの」全体にまでその影響力を及ぼすことに果たしてならないかどうかは実に今現在未知数なのである
相撲において力士は懸賞を蹲踞の姿勢を保ったまま両手でつまり畏まった状態で受け取る、決した立ったまま懸賞を受け取ることはしない、そのように金銭というもの自体が私たちにとっては畏まるべき対象のさらに言えばその筆頭に来るものであって、画面上の数字の増減によってのみ判断されるべき対象のものではないということは誰でも容易に理解可能なものである、だがそれがこれからは変わるかもしれないのだ

なぜ「慣習の踏襲」は「本質の追求」を上回り続けているのか?
と書いた、ここでもう一つ併記する必要があろう
「利便性」は日常に浸透した文化への「畏敬の念」をも凌駕可能なものなのか?
例えば水は神聖なものではないのか?
水の神様に敬意を示すということは、井戸の周囲にお神酒と塩を置いて厄払いをすることは迷信でしかないのか?
私はここに芸術の死とともにもう一つの重大な変化を読み取ることができるように思う
それは弔いの変化である
人は死んだらどうなるのか?
デジタル時代の答えはすでに出ている、デジタル社会の人々はこう答える

人は死んだら無になる

だが私はすでにこう書いた
存在の反意語は「無」ではなく「霊」であると
そして人は死んでも「目に見えないもの」になるだけであって決して「無」になるわけではない、だから奇跡はそれを理解できる人(喪失を経験した人)にしかわからないものではあるが起こるのであり、故に喪失を経験した人は最終的には信仰に目覚めるのであると
Sを理解できる人はここに何らかのインスピレーションを認めるのかもしれない
もう一度言わねばなるまい、私たちには選択肢がある、故にどちらを選んでも何の問題もそこには生じない、「何を」ではなく「いかに」が重要である以上、大切なのは時間でありその時間をいかに過ごすかは彼、彼女にすべて委ねられているのである、
ここはやや難しいところだ、喪失が信仰へとつながりそのことが「人はいかに生きるべきか?」「人生において重要なのは幸福なのか、成功なのか?」という誰でも早ければ十代ですでに自問することにつながるのであり、故に格差と環境という二つの問題を抱える今、そして「畏れ多いもの」という概念が人類史上初めて衰退していこうとしている今、私たちはおそらくジャーナリズムが提起する以上の深刻な課題に実は直面しているということなのであろう

ここでのキーワードは宗教であり芸術であり、また哲学であろう

すべてデジタルツールの社会の隅々にまでおける普及によって骨抜きにされる懼れがあり、それはついには私たち人間から尊厳のようなものを奪い去ってしまうかもしれない

すべては帳尻が合うことで正当化される

だがそうならないものもある

何か?

人生である

人生とは不条理でできている、そして社会は嘘でできている、したがってそこに人がいる以上または共同体がある以上、帳尻が合うのは帳簿の世界だけだ

デジタルとは?

人生を黒字の人生または赤字の人生に分けてしまう可能性のあるツール、だが人生とはそのようなものではない

では人生とはどのようなものなのか?

最後はプラスマイナスゼロになる世界、だから100ではなく50になる、得た数と失った数は見事なまでに一致するのだ、だがそのことに気付かない人は「善=美」に反する人生を選択するかもしれない

真に価値あるものは支持率100%の中からは生まれない、歴史がすでにそれを証明している(2018/07/04)
普遍的な価値は抵抗勢力による根強い反対の中からのみ生まれ成長する、だがデジタル社会におけるツールにはこれがまったくと言っていいほど欠けている、このことが意味するものは何か?

「利便性」の追求は日常に浸透した文化への「畏敬の念」をも凌駕可能なものである、ということである

「畏れ」を失った人類は果たしてどこへ向かうのか?
これは弔いの変化にも直接通じることであり、「死=無」にも通じるつまり「生への強いこだわり=奇跡に対する懐疑」という喪失を経験した者だけが知り得る世界への畏敬の念の減退

デジタル=畏れの喪失

人間の社会は概ね四つの世界で構成されている、政治、経済、科学技術、そして文化、芸術である、だがこの四つはいずれも互いに強く連関しておりいずれか一つだけを取り出して論じるということは不可能である、そしてこの四つを等しく扱うためのツールとして現時点に於ける最上のものが民主主義である
民主主義は主権在民、言論、表現及び信仰の自由、そして直接普通選挙の三本柱で成り立っているが、上記した四つはすべて「数えられるものの価値」と「数えられないものの価値」との然るべき融合によって最も望ましい結果を導き出すことができる、そしてこれら四つの合計値を100とした場合、「数えられるものの価値」と「数えられないものの価値」とは50 vs 50で拮抗している必要があり、このバランスが欠ければかけるほど社会の不平等感は強まる、だが産業革命以降、この両者のバランスは徐々に崩れ始め、20世紀後半以降前者が後者を大きく上回っている状態が久しく続いている、本来ならばここで21世紀の私たちに課せられた格差と環境の二つの問題故に軌道修正が図られなければならないはずであるがデジタルは恐ろしいことにズレ始めた社会軸をさらに狂わせるような働きさえしかねない状況である、この極めて深刻な事態を是正していくためにはまず現状に関する認識を改めることから始めなければならないはずであるが、そのための最も重要な要素であろう芸術が死に瀕している今実は私たちの取りうる選択肢はそれほど多くはないのかもしれない

芸術家にとって最も必要なものは何か?

それは「隙間」と「脈絡」である、「隙間」とはメッセージの揺りかごであり、「脈絡」とはストーリーのための羅針盤である
この両者が揃うためには時間的にも空間的にも「満たされていない」ことが必須の条件となる、程好く暇でありまた程好く閑散としている
この「足りない」が工夫のために想像力を刺激し彼によりクリエイティヴな動機を与える、もしITツールが当初言われていたようにインタラクティヴを実現させていたならば状況はやはり変わっていたはずなのだが
かつてNew York、London、そしてParisを目指したcreatorたちは現時点では回帰の方向へは向かっていないようだ、なるほどAIの反意語は「前衛」であるため、それを知っている敏感な彼らはより「前衛」を感じられるNew York、London、Parisを離れられなくなったということなのか?
ということはAIは回帰に反していることになるため、芸術の復活は為されず故に「数えられるものの価値」と「数えられないものの価値」間の乖離はさらに広がるということになる、果たしてそれは民主主義の未来に暗い影を落とすことにつながらないだろうか?

「希望」の反意語が「絶望」であるのだとしても、絶望は死を強くそこに漂わせていることに変わりはない、そして死は今「霊」から「無」へと大きく変貌を遂げようとしている、そこに奇跡はなく故に喪失は彼を目覚めさせることにはならない
ならば彼はどうなるのか?

絶望する

デジタルは畏敬の念を殺し、喪失から生まれるはずの奇跡を無にし、最終的には彼または彼女を絶望しかない世界に導く、そこでは芸術が価値を持たないが故にこれもまた価値を失うことになる

宗教

芸術も宗教もない世界で絶望した人々は、いったいどうやって明日への希望を見出していけばよいのか?

今こそ喪失を経験した人々よ、声を挙げよう
貴殿らは神に選ばれた人々、そして今ほど貴殿らのように「目覚め」を、そして「信仰」を知ることができる人々が必要とされた時代はなかった
驕りでもまた錯誤でもない、貴殿らの双肩にはこれがかかっているのである

未来
(2018/07/15)

(5)

この21世紀初頭ほどこの「未来」という言葉が二次元化した時代は過去あるまい、すべては液晶画面の向こう側にある、そしてそこでは抵抗勢力不在故に真に普遍的な価値は生まれない、生まれるのはただ増幅していく利便性と経済的利益だけだ、そしてその利便性は50年前の100倍になり、またセレブリティの年収もまた然りである、この誘惑に狂喜するのは実は精神年齢の低い連中ばかりだが、芸術に敏感なアーティストたちは前衛を目指すが故に都市を離れることができない、この不幸な悪循環はもしかしたら22世紀になっても変わることはないのかもしれない、今気鋭のcreatorたちが未来へ向けて新しい芸術を開拓するには回帰しかないのだが、それではAIへの抵抗をやめてしまうことになりかねない、AIに普遍的価値はない、それどころか「畏敬の念」を失った未来人が民主主義によってかろうじてそのバランスを保っている「数えられるものの価値」と「数えられないものの価値」間のあるべき力関係を元通りできないまでに結果的にせよ破壊してしまうかもしれない、そうなればきっと未来はこうなる

「あるべき」とは正反対の物または事を悉く是とする

なるほどこれはしかし人類の歴史そのものがそうであったとも推測可能な文言である、だがこれまでは越えてはならない一線を超えることなく人類は文明(imagination+creation)をコントロール可能な状態に維持してきた、だがついにそれが崩壊する
甚だ僭越ながら芸術の死は金銭的利益にしか興味のない連中には決定的な意味を持ち得ない、それどころか時にはその方が彼らにとっては都合の良い結果を生むかもしれない、そして人々は徐々にこれから離れていく

抵抗

これは実に恐ろしいことだ、ファシストであっても選挙で選ばれればフリーハンドを得る、自由ではなく拘束をこそ望む民衆の誕生、だがそこではファシスト党のリーダーは確実に数字は残すのだ、これは歴史が証明していることであり故に同じことが繰り返されたとしてもまったく不思議なことではない
抵抗は芸術に似ている、そして抵抗の喪失はファシズムの誕生に似ている、だが前者にはあって後者にはないものが少なくとも一つだけある

それは意志だ

この意志が自由と結びついたときに芸術が生まれる、この世を構成する四つの要素(政治、経済、科学技術、文化及び芸術)の内、最後の文化、芸術だけが完全に数えられないものの価値だけでできている、そこに数字の入り込む余地はない、故に前三つを優先させようとすればするほど、確実に数字を残すリーダーが選ばれ続けることになる
ではそうならないためには私たちはどうすればよいのか?

それはこの言葉に明確に表われている

我慢

そう我慢するのである

なぜそうなるのか?

我慢がこれを生むからだ

浄化

浄化とは誰かの我慢

なぜか?

拮抗がそこに存在する以上そこではリーダーの交代が実現されなければならないからだ、そしてリーダーが交代すれば前リーダーはしばらく現リーダーの支配下に入る、だがそうなることで前任者と現責任者との間で真に効果的な議論が生まれ、緊張感のあるそして現実的に取引可能な最終案が採択されることになる、そこでは1か100かではなく、50に近い結論がおそらく自然に導き出されることになる、なぜならば前任者は再登板による前回は果たされなかった理想の実現をこそ望み、現責任者は長い間果たされなかったより多くの理想の実現を試みようとするからである(理想はいずれも自らの意志によるもの)、彼らは互いが互いの抵抗勢力となり、フリーハンドを互いに決して認めようとはしない、だがすでに述べたように普遍的価値がそこに生じるためにはこの抵抗勢力が不可欠なのである
芸術の死はそれを台無しにする
果たして私たちは今どうすればよいのであろうか?
私たちはAIに抗しなければならない、だが前衛がそのためのキーワードになる以上、そのための必須条件である回帰は容易に実現しないであろう
そこで貴殿らの登場なのである

喪失を知る人々よ

貴殿らは喪失を知るが故に信仰を知りうる立場にある、信仰は普遍的な価値の認識の重要性を貴殿らに示し(さりげなくである)、そこにあるべき善と美が哲学と芸術の進むべき道を指し示すであろう
喪失を知る人々よ、最早貴殿ら以外誰にも期待することができなくなった、きっと貴殿らの旅路はさらに辛いものとなるであろう、すでに述べたように奇跡とは貴殿らにしかわからないものだ、それを利にさとい連中に理解させるのは並大抵の努力では不可能だ
だが喪失を知る人々よ、どうかもう一度考え直していただきたい

喪失を経験したのに、なぜそのことをまたしても思い出すようなことをしなければならないのか?

その通りである、だが他に頼るべき人はもういないということをどうか認識していただきたい、貴殿らはすでに未来を生きている人々である、そして未来は今人類史上初めて二次元化しようとしている、もしそうなれば民主主義は必ずや崩壊するであろう、「畏れ多いもの」の消滅がそのことを暗示している、喪失を知らないのであればアメリカ人にもヨーロッパ人にも最早期待はできないであろう
人知の及ばぬ地点に達した現実はもはや神さえ制止することはできない、加速度的に悪化する現実はそこに格差と環境という二つの深刻な問題が大きく口を開けて待ち構えているというのにどうやらためらう兆しは見えない
私たちはもう奇跡にすがるしかない、そして貴殿ら以外の誰がそれを知りうるというのか?
ここに横たわる絶望は個人の絶望ではなく人類の絶望である、そしてそこから脱するために必要なのが回帰である、だが信仰を知らぬ人間が回帰に目覚めることはない、なぜならばデジタルはインタラクティヴに反しているからだ、利便性と経済的利益の追求をこそ担保するデジタル社会がどうして回帰へと向かうのか?
そう、私たちはいつも後で気付く存在、岐路に差し掛かった時は特にそうだ、だから未来をすでに生きている人々の発言が待たれることになる

未来人よ、未来人
どうか光溢れる暗闇に真の水先案内人として私たちの進むべき道を指し示していただきたい
未来人よ、未来人
そして死とは無のことではないことを、万人に見えるものではなくともそこに奇跡が存在することを私たちに暗示していただきたい
普遍とは善と美、そしてそれら二つを包含する奇跡はしかし喪失を経験した者にしか理解することはできないのだ

未来人よ、未来人
奇跡が訪れるその寸前まで貴殿の内にあったものは何か?

祈り

だが「祈り」とはIoTという言葉で表現されるべき未来の社会とは何と縁遠いことであろうか、祈りにはあってしかしIoT社会にはないものは何か?

それがこの私論の最後に述べるべき言葉である、未来人よ、未来人、どうかこの私論の最後がこの言葉で始まることを御赦し願いたい

諦念
(2018/07/18)
この言葉が指し示すものは実はすでに現世的な幸福を手に入れた者だけではなくこれからそうなるであろうと思われる人々にも辛辣なものとなるであろう
この言葉について多くを述べる前にもう一つだけ諸君に知っていただきたい言葉がある、
それはこれである

私は思う、真に価値あるものは凪の中をこそ進み故に衝撃とは無縁の海原を行く、これはこの私論の冒頭でも触れた「後で気付く」にも通ずる部分であるが、しかし波紋が大きく広がれば広がるほど利便性と経済的利益は増幅していく、そこでは生産性が大きく右肩上がりに触れた場合いわゆる剰余価値が二十世紀までは考えられなかった領域にまで達していくことが容易に想像されるために、市場の独占を目論む資本家たちの欲望はついに尽きることはなく、それどころか抵抗を諦めた未来人によるそれへの積極的従属が民主主義の根幹をも揺るがしかねない事態となるであろう、だがそうなったときに未来人の一部は人生の根幹主題に触れることになるかもしれない

人はいかに生きるべきか?

そうここでも「いかに」が出てきた、「何を」ではなく「いかに」
デジタル社会においては時間が重要になる以上、未来人は「何を」ではなく「いかに」をこそ重視する、したがって富の独占が強欲な資本家たちによって計られればはかられるほど未来人の少なくとも一部は徐々に回帰のモードに入っていくかもしれない、そこに私の一縷の望みがある

人はいかに生きるべきか?

ここで重要なのはそれは必ずやそう考える人を衝撃とは無縁の凪の境地にいざなうということである、これまでは「何を」が「いかに」を常に上回ってきた、だから「所有」が「利用」を凌駕し続けてきたのだ、だがデジタル故に効率性が、おそらく格差と環境という二つの人類的課題も関係しているのであろうが、重視されるようになった今それが「多様性」というもう一つのキーワードを携えることができれば「いかに」は間違いなく個々人の人生観にも強い影響を与えることになるであろう

「得る」が目的ではなく「運用」が目的である、だがそれは当然のことでもある、たとえそれが高級車でもまた莫大な材が蓄えられていたのだとしても一個人がそれらを運用するには限界がある、この絶対的な限界は賢明なセレブリティには30台の高級車を年に12日ずつ乗り回すよりも数台の高級車のカスタマイズの方を自身の幸福のためには優先させるべきだという結論に導くかも知れない、文字通り「量より質」である
そしてこの「量より質」に普遍性が宿っているのでありまた『「何を」ではなく「いかに」』がそのための地ならしをするのであれば、私たちは細分化された時間のなかにこそいわゆる「有意義な」何かを見つけようとするのではなかろうか?
そこでは未来人の一部によって芸術の再生が図られるのであろう、そしてそのことに気付いたそれら未来人の中からは「隙間」と「脈絡」が想像力と創造力のための欠かせないキーワードになることを再認識する人々も出てくるであろう、そしてそのような時代(現状)に抗いしかし「目覚め」を知りうる人々にとっては「いかに」が「何を」を上回り続ける以上、「量」に関しては徐々に冷ややかな視線を送るようになるかもしれない
なぜならば彼らは時間を経ればへるほど内省的になっていくと考えられるからだ、すでに最先端を行くものから最大限の富が生まれると書いた、したがって富をこそ追及する者たちは日々そのためのスピードを上げていく必要がある、だがもし『「効率性」は「多様性」を同時に担保するもの以外価値を持ち得ない』が未来人によって明確に認識されれば目標値をクリアすることしか頭にない資本家たちはリスペクトの対象から外されることになる
『「何を」ではなく「いかに」』ならば「量より質」ということである、それは「有意義な」時間というものの定義が個々人に委ねられるということを意味し、それはとりもなおさず人生観のトップダウンからボトムアップへの劇的な変化の兆候とそれがなりうることを意味する、もう一度繰り返さなければなるまい

『「効率性」は「多様性」を同時に担保するもの以外価値を持ち得ない』
(以下この章においてはTとする)
果たして市場の独占を目論む強欲な資本家たちはもしかしたら必然であるかもしれないこの二十一世紀の未来人の心の帰趨について僅かでも思いを巡らしたことなどあるのであろうか?
だがそれでもTが未来人間において多数派になる可能性については大いにいぶからざるを得ないであろう、それはすでに記したAIの反意語であるところの「前衛」の性質にもよっている、私はここから何とかして回帰の実現を模索したいところであるがおそらくそのためにはこの言葉が出て来ざるを得ないのである

諦念

私たちはすべて救われる
それは神がお決めになったことだ
それが担保されている限りにおいて私たちに真理への挑戦はその50%が限界値となる、無論実際にはその100分の1にも満たないのであろうが、私はこの50という数字にこだわりたい、50とは「得た、または得られる」ものと「得られない、または失った」ものとが同数ということである、したがってたとえ完璧を目指しても50点が満点であるために、そこには自然我慢が生じることになる、50に達した時点で攻守交替、続きは私たちとは対照的な人々が担うこととなる
これは「常勝」の否定であり、「機会均等」の肯定である
また「今がすべて」の否定であり、「次を考える」の肯定である
故に絶対的ではなく相対的の肯定である
そしてこれは結果第一主義の否定であり継続的な思考及び実践の肯定である
そしてそこにはこの言葉も実は見え隠れしている

アソビ

久しぶりに登場した言葉だが、これは「わざと崩す」にもつながる言葉であり、「わざと崩す」についてはどうやらこの書では扱うためのスペースが残っていないようだが、もしTが二十一世紀を有意義に生きるためのキーワードになりうるのであれば、「20の信号に一度も引っかかることなく通過する」は統計学上可能であってもそれが多様性を担保するものでない限りは重視されないという思考を排除するべきではない
すでに「すべては救われる」と書いた以上ここには信仰が当然の如く顔を出すわけであるが、だが僭越ながらこれは人生の幸福と実に密接につながっている考え方でもある

人はいかに生きるべきか?

そのように考えるならばだが、当然私たちはこれについても思いを巡らす必要がある

引き際

なぜならばすでに次の人が待っているからだ
これは多様性の肯定であり、効率性の追求を常に優先させるものではないということでもある
私たちは何を常に見つめているのか?

それは「より良い(better)」である

「より良い」社会
「より良い」未来
そして「より良い」人生

すでに何度もcreatorには「隙間」と「脈絡」が必要だと書いた、そしてそれこそがアソビにつながるものであり故にこの効率性をこそ重視する現代社会においてTを担保するそのよすがとなりうるものである
新しい発想は「隙間」から生まれ「脈絡」を経て成長する、言ってみれば植物にとっての土と水の関係にある、では太陽となるべきものは何か?

知恵である、そして工夫である

だがそのためには私たちは独占を排し選択肢を確保する必要がある

独占とは何か?

効率性のことである

選択肢とは何か?

多様性のことである

この二つ(効率性と多様性)を適度に両立させるためには何が必要か?

「時々負けること」である

「時々負けること」とはどういうことか?

「次」の人のことを考えるということである

「次」の人のことを考えるとはどういうことか?

それが可能であっても時に敢えてそうしないということを選択するということである

それはどういうことか?

「わざと崩す」ということである

なぜそうするのか?

それが最終的には善に結びつくからである

それはどういうことか?

ここは厳密には信仰の出番となるが、善とはつまり「死=無」ではないということである

なぜ「死=無」ではないと言い切れるのか?

それを証明できる人がいるからだ

それは誰か?

喪失を知る人々である
(2018/07/22)

(6)

喪失は諦念と強く結びついている、だが悲劇の直後は「なぜ自分だけが?」という気持ちが当然の如く先に立つためたとえ信心深い人でも現実に対し時に感情的に抗わざるを得ないというのが正直なところなのであろう、だがデジタルが世界を二次元化しつつある今そのような人々が延々たる彷徨の後、ついに到達するであろう境地には「彼個人の」ではなく「世界の」につながりうるような精神の救済のための何かが自然に包含されるようになる可能性が高い
厳密には彼がついに神を信じることができなかったとしても彼がそこに横たわる深淵なる不条理にある一つの善的な答えを見つけ出すことができるのであれば、彼の後継者が彼が生前に体現していたすべてから何か普遍的な価値を発見することに成功するかもしれない、それはこの急速にデジタル化する社会においては二十世紀以前と比してより多くの重要な示唆、インスピレーションをこれから生まれてくる人々(残念ながらすべてではないが)に与えるであろう

私たちは常に喜びと悲しみの間を行ったり来たりしている、そしてそれは個人においてのみならず社会(共同体)においても同様なのだ、すでに神による救済が担保されている以上私たちが到達しうる真理は50より上へ行くことはできないと書いた、したがって「より多くの量」を望むこと自体に矛盾がある
そして幸福を考えたときにもしかしたら絶対的ともいえるキーワードがここにはある

それはプラスマイナスゼロ

だがおそらくここで私は強調しなければならないのであろう
このプラスマイナスゼロは決して「生産性ゼロ」を意味するものではないと
それどころかTを念頭に置けばこのプラスマイナスゼロが脳裏から離れれば離れるほど、格差と環境という今私たちが直面する二つの人類規模の課題は深刻化することはあれその逆はないともある程度は言い切れるのである
すでに「我慢」という言葉を用いている、既得権益にこだわる人々にとってこの言葉ほど忌まわしい言葉もそうはあるまい、資本家にとって可能性は無限大でなければならない、だからテラフォーミングが出てくるのであるが、巨万の富を築いた者にとって諦念とは遠くにある言葉に過ぎない、そして二十世紀以前においてはこの2018年ほどにはこのことは深刻な問題ではなかった、だが今時代は変わりつつある、18歳の億万長者が誕生するのは最早時間の問題である

利益享受者≠若者たち

だからLove & Peaceとなった、しかしこの原則が壊れつつある今Love & Peaceを知る最後の世代である1960年代生まれの人々が果たすべき役割は決して小さくはないのである、年を取れば保守化するのではない、財を成すから保守化するのである、そしてこのような絶対的現象が今笑い話では済まなくなろうとしている

Technology とhumanity、その両方が大切

これは誰の言葉であろうか?
何とスティーヴ・ジョブスの言葉である、だが彼はもはや大昔の人となり果てているようだ、彼がインターネットの世界に抱いた理想はすでに限りなく潰えている、果たしてそれを回復することは可能であろうか?

喪失を知る人々よ、ついに最終章である
諦念とは何か?
神による救済の担保として既に得たものと同じだけのものを差し出すことである、したがって彼はおおよそ常に「勝つ人」ではなく「負ける人」となる、故にここに理想がなければ彼は負けた後ただ「滅びる」その時を待つだけとなる

ではここでいう理想とは何か?

善のことである

善とは何か?

美と同様、普遍のことである

普遍とは何か?

神のことである

神とは何か?

この世の唯一の権威のことである

この世の唯一の権威とは何か?

「私」の唯一の対象のことである

なぜそう言えるのか?

奇跡が存在するからだ

なぜそう言えるのか?

証人が存在するからだ

それは誰か?

喪失を知る人々である

確かに神は私たちに犠牲を強いる、だが神は私たちから命の次に大事なものは決して奪うことはない

それは何か?

ふるさとである

したがって小惑星が神による救済が完結する以前にこの地球という惑星に衝突することは決してない
私たちから故郷を奪うのは100%人間である

海とは何か?
山とは何か?
川とは何か?
そして大地とは何か?

宝である

神は私たちに宝を与えた、その神がどうして人を救われる人と地獄に堕ちる人に分け隔てるのか?

すべては救われる

喪失を知る人々よ、それを未来の人々に伝えることができるのは諸君ら以外誰もいない、ここには神の意思が働いている、どうかこのような文言を記すことをお許し願いたい
諸君、貴殿らは至上の幸福へと通じるチケットの半分をすでに神により与えられているのだ(2018/07/25)、そして残りの半分を得るためには諸君は善に通ずる一つの義務を果たさなければならない

それは「伝える」

この「伝える」は決して誰にでもできる仕事ではない、神には理想がある、そしてそれを叶えるために神は人を創った、したがって誰かが沈黙を貫く神の意図をくみ取りそれを善意に基づき後世に伝えていく必要があるのだ
その役割を担っているのが諸君ら選ばれた人々である

選ばれた人々、普遍的な価値は衝撃とは無縁の凪の波間を静寂とともに進む、それは現世的な喜びにあふれた日常を送っている人々にはおおよそ想像すらつかないものだ、だから神はすべてを救うことを自身に課したうえで人類に犠牲を強いる
なるほど「目覚め」がなければここにあるのは神の悪意でしかない、だが神の悪意によって諸君らが悲劇に遭遇したのであれば悲劇に見舞われた「同じ時」「同じ場所」に諸君らが集うことはないはずだ、ここにあるのは連帯である、信じるものがない人が「連帯」を知ることはない、信じるものがない人が知るのは「集団化する」であり、故にそこに「同じ時」「同じ場所」は共有されない、連帯を知る者が辿り着くのが「待つ」であり、「待つ」を知らない者が陥るのが無理解と不寛容である、前者は50で満足し、後者は100でなければ満足できない、おそらく信仰に目覚めなくとも善を奉じる余力が彼に残ってさえいれば彼の周囲の「目覚め」を知った人々が体現するものが最終的に彼を彼に相応しい場所まで導くかもしれない、そこにあるのは諦念、無論ここで私がこのような文言を記すのは甚だ僭越なことではあるがしかし有意義なことでもあることを何卒ご理解いただきたい
聖地とは聖人が昇天した場所に非ず、聖地とは多くの魂が無念の故にではなく回帰のために静かに集うその場所を指す、そして目覚めた者たちが神の使者によって導かれるようにして任意の時間にそこを訪れおそらくは彼らが亡くなった後そこが聖地であったことが多くの人に知られることとなる、目覚めを知る者は奇跡を知り目覚めに到らぬ者は諦念を知る、だが「伝える」が実践されれば奇跡と諦念は長い時を経て、つまり得たものと得られなかったものとの数が同数になった時に、後継者にそこにしかない真実をさりげなく暗示する

戦争によって愛する人を失った者はどうするのか?

恨む

では神によって愛する人を失った者はどうするのか?

祈る

同じ悲劇なのにこの二つはその結果がどうしてこうも違うのか?
戦争は神が起こしたものではないために人を必ずしも「目覚め」へとは導かないからだ、だから戦争は「非」の存在なのである
だが両方の喪失を知る人々に共通しているものもある、改めて言うまでもあるまい、「伝える」である
当初は「伝える」は一部の人々によってのみ為される、だが諦念を知るに至った人々がすでに「伝える」を実践している人々に触発され更に聖地を知ることで何らかの「伝える」の実践に関わることはあろうかと思う
聖地とは残された人々にとっての個別的な思い出の場所、または「見えない」存在となった彼、彼女が好きだった場所、いずれにせよ聖地とはこの言葉から最も遠い場所にある

復讐

諦念は復讐を遠ざけるための最初の関門、そして目覚めを知ることでもはや無ではなくなった死が奇跡と呼べる非合理的な瞬間を彼、彼女を愛した人に降り立った時、諦念を知った人の脳裏から極めて静かに復讐という言葉がまるで潮が引くようにその姿を消し始める
これは目覚めの後に来るべき信仰のための第一歩であるが、彼はその瞬間から数えきれないほどの「行ったり来たり」を繰り返しながら然るべき場所へといざなわれていく、そしておそらくは信仰に達しなかったとしても彼がそこから引き返すことはない、なぜならばそこには微かな喜びがあるからだ、なるほどこれはカタルシスにも似たものなのであろう、すでにこう書いた

きっと0が1になる瞬間こそ、幸福の意味を真に自身に問う瞬間

そして幸福とは50のことだ
悲しみが深ければ深いほど、それは神による再生を意味する、ここに人間の入る余地はたとえ高名な預言者とされる人物でも決してあり得ない
喪失を知る人々よ、どうか神に選ばれたという表現を単なる気休めと受け取らないでいただきたい、無論このことを証明することは誰にも不可能だ、だがこのことを知りうる人々も極めて限定的なのである、なぜならばそこには失われたものに対する愛がなければならないからである

愛とは何か?

それは人間が有するものに非ず、それは神が有するものである
したがって人間が愛の反意語である嘘をもって愛を棄損させることはできない
愛するものを失った人が神を知ることで愛とは神の領域にしか存在しないということのその一端に触れる、そして喪失を知る人々は神の領域にしか存在しない愛によって「見えなくなった」存在と自分とがにもかかわらずつながっていることをついには確信するのである

確信とはつまり人生の核心のことでもある、したがって確信を知る者の言葉はそうでない者の言葉よりもはるかに大きな説得力を持つのである(2018/07/27)
なるほど失われた命が最終的にそれを知る者に奇跡として現れるには愛が神の領域にのみ存するものであることを彼が悟ることが条件になるのであろう、だがそのように考えれば考えるほど多様性の尊重から離れる一方であるこの2018年の現実において喪失を知る者の確信はより深く人生の核心に触れるものとなるのではなかろうか、そう思わざるを得ないほど幸福という人生の本質的な課題はビッグデータによる現実の統計学的アプローチの前に著しくその存在意義を失いつつある
ここでまた18歳の億万長者が登場することになる、もし現実が『「効率性」は「多様性」を同時に担保するもの以外価値を持ち得ない』を徐々にではあっても体現する方向へと動いているのであれば、ここで私がかように「目覚め」と「奇跡」をつなぐべき愛の存在について強調する必要はないのかもしれない、だがAIによって律せられる社会は容易にインタラクティヴの担保ではなくテンプレートによる生産性の形式化を想像させる、そこではAからB、またはCへの(無論その逆も可)横への動きではなく、テンプレート化されたつまりオリジナルではないしかし相当数あるパターンのうち最もその時々のモードに合致した組み合わせを見つけることに成功した人が最も多くの利益を得るという、この書の前半で述べた「骨格」から最も遠いところに存在するつまりインスタントなさらに言えば場当たり的な個性が利益を生み出すという芸術の死を一層深刻なものにするしかない、そしてそのような現象がすでに散見され始めている今、私はこれまで以上に貴殿ら喪失を知る人々による社会の覚醒に強い期待を寄せたい
ここは実に僭越な場面でもある、時に過去を振り返ることは耐え難い苦痛を彼、彼女にもたらす、しかも彼、彼女がそこで得るインスピレーションは現世的な喜びを十分すぎるほど享受している人には実に伝わりにくいのだ、この虚しさはなるほどここで私がどのような文言を記そうとも僅かたりとも減じるものではあるまい
私たちはこのテンプレート化社会でオリジナリティをさらに失ったままデータと統計学によって導き出された結論にただ盲目的に従っていくしかないのであろうか?
20の信号に一度も引っかかることなく通過する
だがそれによって得られるものはそれによって失われるものよりも多いと果たして言い切れるのであろうか?
IT革命、しかしそれによって現れ出でた言葉は「インタラクティヴ」ではなく「テンプレート」であった、そしてAIはプロフェッショナルの時代に終止符を打つ、だがその後に続くのは平等なチャンスではなくそれどころかそれとは真逆のところにしかない独占を目論む者たちの用意周到なナヴィゲーションである、そしてそれをデジタルネイティヴ第一世代は特別な時代の特別なスキームの一部として100%疑うことなく受け入れるであろう、なぜならばここで最も従順に振る舞った者の一部はこの書の前半のグラフのBに属する人々からおこぼれを頂戴できるからである、しかもその額はしばしば莫大である
「商業主義と精神主義の中間点を模索するcreativeな活動」はまたしても失敗に終わる、だが今度の失敗はある意味象徴的な意味を持つかもしれない

Humanity

Technologyの前に完全に屈したようにしか見えないこの言葉の消滅はポピュリストにとっては実に好都合である、ビッグデータとクラウド(AWSはその代表か)は第五世代スマートフォンの登場によりさらに本格化する、そして私たちの個性はテンプレート化される、人類のすべてがいくつかのパターンに分類されるのだ、だがこれはビジネス的に考えれば個人資産1兆ドルを超えるメガセレブの誕生を意味する、そして個がついに国家を超える

これを可能性とみるのかそれとも個性の終焉と取るのか、前者であれば世界は上位0.1%によって律せられ、後者であればAIが絶対者となる

最後の最後でこの書の冒頭の文言、「(デジタル社会における)実利主義に基づく精神の過度な世俗化にストップをかける」が復活したようだ

与えられた情報を今置かれている環境に応じて最大限の利益を出すべくできるだけ多くのそれらの組み合わせの中からベストな結論を計算によって導き出す

だがきっとそれは人間の仕事ではない、そしてそれを教えてくれるのがインターネットとそのためのツールの役割だったはずなのだが……

100億ドル稼げば次は200億でドルなければ満足できない、なぜならばそこでは「利」が「好き」を大幅に上回っているからだ、彼は「骨格」を利益に結び付けるのに成功したのではない、彼は「骨格」の本質を見誤ったか、または幸福ではなく現実のスピードに翻弄されることを選択したのだ、だがその代償がいかなるものであるかそれを経験した人は人類史上一人もいない

神の領域に存在する無数の扉のすべてを私は開けることができる

ここには十九世紀以降の宗教の桎梏から逃れ自由を模索する当時の人々の驕りにも似た未知の可能性への渇望がある、ここに人類のその叡智への目覚めを指摘することはもしかしたら可能なのかもしれないが、ここに明らかに見て取れる負の欲求(故に膨張する一方である)と性質的には時に部分的にではあっても報復にも似たような神への挑戦はおそらくすでに一つの限界点に達しつつあるのであろう

すべては二つで一つ

だからtechnologyとhumanityになるのであるが、20年後には愛の定義にすらデジタルが絡んでくるのかもしれない

つまり愛の喜びすらヴァーチャル

芸術の死がもはや避けられないならこのような未来を予想することは難しいことではない

神が私たちホモサピエンスをいまだに見捨てておられないなら、奇跡が私たちを導くであろう、それはデジタルが一周して二周目に入った時に訪れる
そしてその時、私たちはもう一度人生の本質に触れるのであろう

幸福とは何か?

デジタルは雲のようだ、虹のようだ、そして何よりも泡のようだ
それはもしかしたら回帰の前に私たちが経験するべきホモサピエンスの可能性の最後の輝き、そして神からの最後にして壮大なる贈り物、デジタルが個性に引導を渡すことはあるまい、最大とは最後ということだ、すでに書いたように
闇に突入し始めるその直前が最も明るいのである
そういう意味では極めて象徴的な瞬間はすぐそばまで来ているのかもしれない、しかしそれに私たちが気付くのはもう少し先になりそうだ

完読感謝
(2018/07/29)

(7)

あとがき

さて今この私論を完成させた私の脳裏にまず浮かぶのは、おそらくこの私論が待たされることになる時間のその膨大さについてである
完読くださった読者諸君はその唯一の例外ともいえるのであろうが、おおよそこの2018年を生きる特に若者たちにとってこの私論に記された文言のすべては悉く馴染みにくいものでありまたしばしば不愉快なものであったはずだ
この私論に述べられていることはそのタイトルが示す通り未来人への期待でありそれは現代を生きる人々とは明確に一線を画されるべきものでしかない
だがそのように考えるならばこの2018年の現実に何とも居心地の悪さを感じているであろう若者は、彼らが少数派であるにもかかわらず(おそらくそうであろう)、この私論に何らかの希望にも似た知的な発見を感知するかもしれない、ここはあとがきであるが故につまり完読していない人がここに達することではないであろうと思われるから、やや踏み込んだ表現を用いることもできるのかもしれないが、この私論に自身の人生観とも重なる普遍的な要素を比較的高い確率で感じ取ることができた人はすでに一定の条件を満たしているつまりすでに未来人としての資格を備えている人と言い切ることができるのかもしれない、それほどまでにこの私論で述べられていることは観念的であるが故に象徴的でありまた暗示的である、ここにあるのは「順調」とは真逆の場所にしか存在しないものばかりであり、故に現実に時にひどい歯痒さを感じることのない人はたとえ聡明なる若者といえども途中でそれ以上読み進むことができないようになるのではないかと私には思えるのである
したがってたとえ大多数の人々がこのあとがきにまで達することができないであろうと思えたとしても(おそらくそうであろう)、私としてはその「もしかしたら」に一縷の希望を託すしかないのである

芸術の死という言葉をすでに何度も用いている、ということは孤独ではあるが故に想像力溢れる若者たちはその多くが実は個性の行き場を失って日々苦闘しているとも言えるのである、彼らは皆心のうちにある種のわだかまりを抱えたまましかしそれを表に出すことが時代の流れに合致していないことを鋭敏なその感受性故に気付いているので、本当にやりたいことと現実にやっていることとの差異に苦しむといういわゆる「感性の引き籠もり」状態に陥っているのかもしれない
「これは私がやりたいことではない」
だが現実が彼に日々決断を強いている、そして青春を生きる者に残された時間は常に僅かしかない、したがって彼は取引を繰り返すうちに自分の本当の姿を見失っていく

普遍的な価値を持つものはすべて善の範疇に入る、だが抵抗勢力ゼロのものはそこに普遍性が必ずしも宿っていなくても支持率100%というただそれだけの理由で、個性的であることにストップをかける
ここでのキーワードはテンプレートである
だがおそらくはデジタルネイティヴ第一世代がこのテンプレートを無視して成功を手にするのは容易ではあるまい、なぜならば最先端のものこそが最大を利益を生み出すが故に最新のアプリに注意を払わないものがメインストリートの中央を歩むはずはないからだ
翻って青春である
感受性の強い14歳から21歳までの間に「自分が何を好きで何をやりたいか」を見つけることができた者だけが普遍的な価値を知るためのチケットを得ることができる、だがすでにおわかりにように感受性の強い時期とはあっという間に過ぎ去るものであり、そこで「大人の期待=将来の自分」を優先させた者は引き返すことができないが故に「多様性の尊重」からは徐々に離れていく人生を送らざるを得ない、そしてこの私論を完読できた諸君らはこの範疇に非ず
この事実は諸君らの可能性を一方で示唆するとともにしかしもう一方では諸君らの年齢いかんにかかわらず現実の逆風に同年代の人々よりも多く晒されることを意味する
個性とは存在のことである、ならば幸福とは個性のことである、なぜならばそこに一万人いたらそこには一万通りの幸福の形があるからである
ここにある夢は厳しい現実と隣り合わせであるがしかしインタラクティヴが現実のものとなればそこにある矛盾のいくつかは解消されるはずだったのだ
だが時代はインタラクティヴではなくテンプレートを体現した人に「時代の寵児」の称号を与えた、これはこの私論を理解できる若者にとっては残酷な現実であり、彼は現時点で青春の半分ほどを運命という名の魔の手に奪われていると言い切ってもいいほどである
確信とはつまり人生の核心のことでもある、また人生百年であるが故につまり「いつ死んでもおかしくない」が減じるが故に私たちは今「いかに生きるべきか?」の瀬戸際にある、「慣習の踏襲」なのか「本質の追求」なのか?
人生の核心が社会の核心に通じるものであるならば、私たちが人生百年時代に知る核心は社会の革新にこそ通じるものとなるであろう、なぜならば生産性が弱まれば弱まるほど人は「慣習の踏襲」ではなく「本質の追求」に振れると思われるからだ、そこに保険も保障もないのになぜ慣習が優先されるのか?

甚だ僭越ながらデジタルは「生活の在り方」に一石を投じるものとなる、そして我が国日本ではそこに人生百年が加わるため「命の在り方」も問われることになる、そのように考えれば考えるほどこの私論で述べられている普遍的な価値の追求はまさに今議論すべき課題のように思えるのであるが、諸君いかがであろうか?

この後私は『「負ける」ということ』というエッセイを記すつもりであるからもしそちらにも目を通していただけるならばたいへん有り難いことである

ではまたお会いしましょう

2018年8月2日

                           織部  和宏

未来人への手紙(4)

未来人への手紙(4)

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-08-20

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 第四章  喪失(凪、諦念について)
  2. (2)
  3. (3)
  4. (4)
  5. (5)
  6. (6)
  7. (7)