夫と子

 ある月曜日の朝、我が子が突然泣き出した。
 いつもと同じ食パンの乗った皿を前にして、太志の表情はいつもとは明らかに違っていた。体調でも悪いのかと私が尋ねると、堪えていた堰が切れたかのように太志の目から涙があふれてきた。
 「学校に行きたくない」という懇願に近いような叫びは、私にとってまさに青天の霹靂だった。
 太志はもともと学校があまり好きではなかったと思う。勉強もできたし友達も少なくはないはずなのだが、月曜になると体調を崩す癖は以前からあったし、そのせいで小一の頃から四年間、一学期に一度くらいは学校を休むことがあった。実際に休むことが決まると昼前には調子が大体戻って、普段通り話せるようになる。そうして仕事から帰ってきた夫に私がズル休みの告げ口をして、そんな日もあるよなと笑い、太志が恥ずかしそうにするのがお決まりだった。
 しかし今回は明らかに様子が違っていた。まるで悪夢を見た後と似たような、追い詰められた動物のような余裕のなさが滲み出ていた。もちろん学校は休ませたが、その異常な切迫感は私にまで感染して離れなかった。

 その日ほど夫の帰りを待ちわびた日はなかった。
 夜も八時を回り、太志の心も朝に比べれば安定してきていた。それでもまだいつものような笑顔を見せることはなかった。
 戸惑いを隠しきれずにいた私よりも、落ち着いて必要な言葉をうまく選べる夫の方がうまく太志と話し合えるに違いなかった。それに、私の知らなかった時代の話だが、夫も中学生の頃に登校拒否をしていた時期があったと聞いている。彼の性格を鑑みれば決して非行などではなかっただろう。夫なら正しい言葉を導き出してくれるのではと期待をしていた。既に昼休みの電話で事の次第は伝えてあった。驚いた風ではあったが、慌てた様子はなかった。
「ただいま」
 普段と変わらない声は装ったものだったのだろうか。今日だけは返事もできない太志が怯えきっていることは私の目にも明らかだった。
「はぁ、疲れたな。太志もお疲れさんだったな」
 夫はネクタイを緩めながら太志の頭にポンと手をやった。ジャケットを受け取るのが遅れて、むしろ私が動揺しすぎていることに気が付いた。太志はまず許されたという感じがしたのか、心なしか表情が和らいだ気がした。
「どれ。ご飯にしようか」
 特に品目も質も普段と変わることのない食卓。私はいつも以上に頑張るでもなく、手を抜くでもないところに最も気を遣ったのだ。それでも文脈が違っているのだから味も全く違って感じる。私は何と言っていいかわからず、太志を見ることもできずに、夫にちらちらと視線を送るばかりだった。
 何の会話もないままに短い食事が終わった。一番遅かった私が箸を置くと、待っていたように夫が口を開いた。
「太志の担任の先生は、なんて言ったっけ」
「森口先生よ。何度も言ったじゃない」
「ああそうだった。眼鏡で声が高いおばさんだろ。名前が出てこなくって」
 それが太志への問いであったことは私にも分かったが、つい答えてしまう自分を抑えることができなかった。
「で、太志はその先生は好きか?」
「……あんまり」
「そうでもないのか。それはどうして?」
「ひどいことを平気でするから。他の子のことを無視したり、忘れ物をした子を教室から追い出したり」
「そうか、それはあんまりいい態度じゃないよなあ。見ている方もつらいよな」
「あと、女子には優しいのに男子にはすぐ怒る。男子はみんなうるさいって笑ってたことがある、信じられない……」
「そうか。確かにひどい先生だな」
 私はその会話に少しだけ驚いていた。太志が積極的に話したのはその時が初めてだった。
「じゃあ、話は変わるが、太志のクラスで一番仲の良い子は誰なんだ?」
「……今は、アッキーかな」
「アッキー君か。確か田賀野かどこかに住んでた子だろ。じゃあ、その子の良いところってどういうところなんだ?」
「……うーん。人の話を聞いてくれるし、面白いし、人気があるし……」
「なるほど。いいやつみたいだな。俺も一回見てみたい。
 じゃあ、逆に嫌いな子はいるか?」
「……野本君とか加瀬君とか」
「それは初めて聞いた名前だな。母さんは聞いたことあった?」
「野本君は保育園から一緒で、まあ強気な子よね。加瀬君って、前に言ってた、勉強ができて格好いい子じゃなかった?」
「うん。それ」
 少し前から、太志は加瀬君という名前を口にするようになっていた。勉強もできて話も面白く、サッカーもできるから基本的に人気のある子だったようだ。良い印象を与える話ばかり聞いてきたから、太志とは仲が良いものだと思っていた。
 太志は加瀬君の話のときには少しだけつらそうな顔をしていた。嫉妬とか、そんな小さなものじゃなく、もっと根深い何かがあるような気がした。
「なんでその子が嫌いなんだ?」
「……加瀬君も僕を嫌いなんだと思う」
「そうか」
 夫はそれきりその話をやめにしてしまった。私も気になりはしたが、夫に任せて追及するのは止そうと思った。
 それから少しの間だけ沈黙の幕が下りた。夫は今までで一番穏やかに、ある意味では不自然なほど優しく太志に問いかけた。
「それで、学校には行きたくないんだな?」
 太志は目を合わせずに頷く。
「なんでか、って聞かれたら、太志は答えられるか?」
 太志は少し悩む素振りを見せた。目には再び涙が溜まり始めていた。
「……よく分からない。でもとにかく行きたくない、行こうと思ったら気持ち悪くなる……」
「だったら無理に行くことはないよ。
 今の四年生って百人くらいいるだろ? その全員が学校に行ってると思うけど、その中でも、あの、担任の先生が苦手な人がいたり、逆に好きだって人もいたりする。当然、学校が好きだって人もいるだろうし、嫌いだっていう人も出てくる。そういえば太志、勉強は嫌いじゃないのか?」
「そりゃゲームしてる方が楽しいけど、別に授業の時間は嫌いじゃなかったよ」
「だったら余計、問題ないよ。人によって学校に向いてるか向いてないかなんて、違うに決まってるんだ。人なんて全員違うんだから。太志は真面目だから学校で息苦しいこともあるだろう。小学校ってのはたまに理不尽だもんな。太志が嫌だって思うんだったら、とりあえずずっと休んでたらいい。父さんはそう思うよ。母さんは?」
「……不安もないわけじゃないけど、でも無理することはないと思う」
「だろう、じゃあ決まりだ。不安っていうのも、勉強の話だろ? 太志、これから大人になっていって、いつかは仕事をすると思うけど、そのために高校とかに行っといた方が有利だ、ってのはわかるか?」
「うん。……それはわかる」
「うん。で、高校に行くためには勉強をしとかなきゃいけない。義務教育じゃなくなって、受験が必要になるからな。だから、学校には行かなくていいけど、学校と同じ勉強はしといた方がいい。それはできそうか?」
 太志は俯いて長い間考えていた。夫は口を挟まずに見守っていた。それは答えを探しているというより、既にある答えを言う勇気を絞り出しているように見えた。
「……今は考えたくない」
「そうか。そりゃそうだよな、そんなこと言われても急だよな。じゃあそれはまだいいか、先の話だし。でももしいつか勉強する気が出てきたら、父さんや母さんが手伝ってやれる。先生のようには教えられないかもしれないけど、まだまだそれくらいはできるはずだ」
「……うん」
「ごめんな、疲れたよな。とりあえず今日はもう寝たらいいよ。何も心配することはない」
 私は半ば置いてけぼりだったが、夫の言葉は私にも頼もしく感じられた。この子がそういうなら、私もなんだってやってやろうじゃないか、という気になった。
「……学校は」
「ん?」
「先生には、この事……」
「ああ。……言わないといけないだろうなあ。でも父さんと母さんでちゃんと伝えておくよ。嫌いな子のことは言わないぞ。少し厄介かもしれないけど、どうにでもなる。太志が一人でやらなきゃいけないわけじゃないんだ」
「……わかった」
 そう言って浮かない顔のまま太志はおやすみなさいを言った。
 後に残った夫の顔は、どこか哀しげだった。
「遺伝だな」
 コーヒーを淹れるとぽつりと呟いた。自虐して少しだけ笑っているようで、心はきっと沈んでいるに違いなかった。
 不安の薄れていた私だったが、その表情を見ると夫の本心を聞かずにはいられなかった。
「本当にいいの?」
「いいさ。行きたくないなら行ったってつらいだけだし、その必要もないだろう」
「それはそう思うけど。……本当は、どう思ってるの?」
 夫はコーヒーを啜ると、言葉を選ぶように話し出した。。
「太志は真面目すぎたのかもしれない。きっと、いくら周りが理不尽だと思っても、大人の期待に応えないとと思って、頑張りすぎたのかもしれない。
 もしそうだとしたら、それはきっと続くんだよ。学校に行かないことで太志が楽になっても、将来社会に出てからとか、責任のあるいろんな場面で、きっと自分を追い詰めちゃうんだ。……中学とか高校で復帰することが幸せだとは思わないけど、それができてもできなくても、太志は一生そのことで苦労するかもしれない」
 少し俯いた夫の表情はさっきまでの太志にそっくりだった。その言葉と表情は、夫の幸せを信じていた私にとっては衝撃だった。太志はどんな大人になるのだろう。夫に似てくれればいいと少し前までは願っていたのだ。
「俺たちも、頑張らなきゃな」
 改めて私を見つめたその目は、いつものように優しかった。

夫と子

夫と子

4,029字。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-08-20

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