シンクロする白 10

水筒に書かれた私の名前を見て、ゲシュタルト崩壊だ、と彼は言った。その時その意味を私は知らなかったけれど、
たしかに何かが私の中で壊れた気がした。

部屋に戻ると、私はノートパソコンを立ち上げた。残っていた枝豆を入れたガラスの器を机の端に置き、それをぷちぷちやりながらマウスを操る。
ここ数日、休み前に立てたスケジュールを破って宿題を溜めこんでいた。レポート類を残すと後々苦労するのは目に見えているのに、
今夜もパソコン画面のポインターは作成中のワード文書には向かわず、ネットの海を彷徨おうとしている。

『トム・ソーヤの冒険』

 私は検索画面に入力してENTERキーを押す。トム・ソーヤが外国の少年で冒険好きなことくらいは無知な私にも想像がついたが、
恩田さんが一体どんなシーンを私に重ねているのか知りたくなった。どうやら原作はアメリカの古い小説のようだが、日本では1980年に放映されたアニメが有名らしい。
画像を検索すると、そばかすで出っ歯でくせ毛の少年が、麦わら帽子をかぶって釣り竿を振り回していた。

「ひど」

 トムが女でないことは百歩譲って許せたとしても、せめてクリストファー・ロビンくらい可愛げのある少年であってほしかった。
これなら鼻水を垂らした幼児でも、小鳥ちゃんと間違われる方がまだましである(いやどうだろう)。

 私は納得のいかないまま、枝豆を剥いて塩辛くなった指を舐め舐め片手でマウスとキーボードを操り、今度は『霧ケ峰 コテージ』と検索してみる。
上がってきたサイトをいくつか見てみると、意外なことにどれも同じコテージの情報だった。人気の高い蓼科の別荘地とは違い、霧ケ峰はよく言えば知る人ぞ知る、
悪く言えば極めて認知度の低い観光地である。小さなスキー場と湿地帯に集まる客をさばくには、それほど多くの宿泊施設を必要とはしないのだろう。

 私は机の一番上の引き出しを開けると、アルミのボールを取り出した。それを人差し指と親指の先で挟んで照明にかざしてみる。
正直、明らかにゴミであるものを押し付けられて喜ぶほど自分は浅はかではないと思っていた。しいて自身を擁護するとすれば、
これはもはやクロックムッシュを包んでいた単なるアルミホイルではない。極めてエコロジカルでメタリックな創作物なのだ。

さてはおぬしもようやく女として目覚めたわけじゃな、遅咲きよのう。

あ、八重垣姫どうもこんばんは。けど私別に、女として何ってないんです。どうせトム・ソーヤだし。

ほれ、そうやって拗ねるあたりがいじらしい。女に見られたい証拠よ。

知りませんけど。でもどうせ、もう会えないし。なに白目むいてぶつぶつ言ってるのよ、花火始まるわよ。

「ちょっとママ!何度言ったらわかるのノックノックノック!いいかげん怒るよ!」

 私が叫ぶと、ママは逃げるようにサンダルをつっかけてベランダに飛び出して行く。すると彼女を待ちわびていたかのように花火が次々と上がり始めた。

「茂里―はやく!」

 私はとりあえずママの声を無視してネットサーフィンを続行する。その間も花火はドン、ドン、と腹の底に響く重低音を轟かせて上がり続けている。

「茂里―なにしてんの?」

 怒りを露にしてもいっこうに効き目のない母親と、いっこうに止む気配のない花火。私は早々にふてくされるのを諦めて立ち上がると、裸足のままベランダに出た。

「今日は少し風があるから、煙が流れてよく見えるわよ」

 ママはとなりに並んだ私にむかって得意げに言った。

「ほんとママ花火好きだよね。飽きるのも早いけど」

 私は私が外に出た途端、小康状態に入った夜空を恨めしげに見上げながら呟く。

「うん、好きよ」

 ママは柵に頬杖をついて私の方を見た。あごのラインに切りそろえた黒髪が、さらさらと風に揺れている。

「長野にお嫁に来たとき、はじめはやっぱり馴染めなかったの。なかなかお友達もできないし、冬は寒いし、タクシーは手を上げても停まってくれないし。
でも初めてこのベランダではじめさんと花火を見た時、幸せを感じたの。あぁここに来れてよかったって、初めて心から思えたのよ」

 ママはそう言うと、ふたたび上がり始めた花火に向かってたーまやーと叫ぶ。私はその大人気ない声を聞きながら、
若かりし親父とママが花火を眺める姿を思い浮かべてため息をついた。

「茂里は今年の花火大会、誰かと見に行くの?」

「別に予定ない。諏訪湖端行っても混んでて疲れるだけだし」

「あらそうなの。てっきりデートの予定でも入ってるのかと思ってた」

「ないない、ありえない。だって興味ないし」

「あら、じゃあ今日一緒にいた男の人は?」

 一瞬にして、花火の爆音が遠のいていく。頭が混乱し、心臓がばくんとして、ママにどんな言葉を返せばいいのかさっぱり思いつかない。

「あなたの帰りが遅かったから、散歩がてら諏訪湖に行ったのよ。痴漢のこともあったし」

 ママが私の様子を窺いながら、ゆっくりとした調子で言った。

「あの人は別に、なんでもない。たまたまあそこで会っただけだし」

 私が平静を装って答えると

「でも、写真撮られてるように見えたけど」

 ママの声のトーンが一オクターブ下がった。

「別に無理矢理撮られてたわけじゃなくて、私が撮ってもいいって言ったの」

「どうして、知らない人でしょう」

「知らなくない、昨日も会ってたし」

「昨日今日で知り合った人に、簡単に写真とか撮らせたら絶対だめ。どこでどんな風に使われるかわからないじゃない」

 ママの頬が、花火の光に照らされて赤く輝いている。その表情は固く、切れ長の瞳はいっそう鋭く私に刺し込んでくる。
なぜ、そんな目をされなければならないのだろう。なぜ、いつも一方的に怒られてばかりなのだろう。ママも親父も、私の声を聞こうとしない。
私が何を考え、どうしたいのかなんて、たぶん本当に知りたいとは思ってない。

「ママの顔、花火に照らされてマジ鬼みたい。怖いよ」

 私が無表情で言うと、ママは息をのんで目を見開いた。狙い通りの反応だった。私はママを傷つけたのだ。

「私だって馬鹿じゃないんだから、相手が悪い人かどうかくらいわかるよ。親父やママよりもずっと、人の心見てるよ」

 そうやってママを傷つけながら、なぜか泣き出したのは私の方だった。まるで諸刃の剣のごとく、ママに突きつけた意地悪な言葉は、私の胸をも切り裂いていく。

 いつの間にか花火は終わっていた。ママはふうとひとつ息を吐くと、ベランダまで枝を伸ばしたびわの木から、大きな葉を一枚切り離す。

「あなたがどう思おうと、あなたを守るのは私の義務だから」

 指の先でくるくると葉っぱを回転させながらママは喋った。

「私の目の届く場所にあなたがいる限り、私は私のやりかたであなたを守るから」

 ベランダの手すりにびわの葉を乗せると、ママはそれに息を吹きかける。葉っぱは表と裏を交互に見せながら静かに落下し、やがて闇に吸い込まれて見えなくなった。

「それが嫌なら、もっと行動に慎重になりなさい。疑われたくないのなら、疑われない方法を身につけなさい」

 ママはそれだけ言うと、半袖から出た細い腕を両手でこすりながら、冷えてきたから入りましょうと言った。
私は次から次へと流れ落ちてくる涙を止めることができずに、無言のままママに背を向け続けた。ママはしばらく私の背後でじっとしていたけれど、
やがて網戸をスライドさせる音が聞こえ、すんすんと床をこすれる小さな足音がしたかと思うと、扉をぴしゃりと閉めて部屋を出て行った。

「ばかみたい」

 私は鳥肌の立った腕で涙をぬぐいながらひとりごちる。正直、自分が何で泣いているのかもわからなかったし、ママが何を疑っているのかもいまいち理解できなかった。
「知らない人には気をつけなさい」という極めて単純な話が、なぜここまでこじれてしまったのだろう。

 私は静けさを取り戻した夜空を見上げながら考える。たぶんママにとって、恩田さんがいい人か悪い人かということは、正直あまり問題じゃない。
ママの焦点は徹底的に私に合っていて、私がその得体のしれない異性にとった行動のみが問題なのだ。
私は恩田さんがいい人だと思ったから写真を撮らせたし、並んで話もしたのだけれど、そういう私の価値観は、おそらくママに言わせれば「未熟」なのだろう。
だからママは私を守ろうとする。せっかく輪郭線のくっきりしたものを、ふたたび総体的でぼんやりとした世界へと押し戻して
「これは怖いのよ、近付いちゃだめよ」と、私に言い聞かせるのだ。

 私は部屋の中に戻ると、ベッドの上に放っておいたリュックサックをつかんでそろりと扉を開けた。
そのまま音を立てないように階段を下り、廊下に誰もいないことを確かめてから、素早く玄関へと移動する。
スニーカーをつっかけて外に出ると、浴室から親父の呑気な鼻歌が聞こえてきた。

「あいっぽんでぇーもにんじん~、にほんでぇーもさんだるぅーっと、さんはははーははははは~ん、よふふふーふふふふ~んと」

 どうやら親父は途中から歌詞がわからなくなったらしい。いずれ歌詞が復活するのかどうか少々気になったが、とりあえず今はそれどころではない。
私は足早に駐車場に停めてある自転車の元へと向かうと、リュックの前ポケットからキーを取り出して錆びついた鍵穴に差し込んだ。
ロックの外れるガシャン、という音が想像以上に響いたのでひやりとしたが、親父の鼻歌は途切れることなく続いている。
私はスタンドを静かに上げると、サドルに跨り一気に夜道へとこぎ出した。

シンクロする白 10

シンクロする白 10

芸術学部への進学を目指し、毎日近所の湖でスケッチをしている茂里。夏休みのある日、彼女は湖上に立つ八重垣姫を写真に撮る恩田志朗と出会う。 八重垣姫が誰なのか知らない茂里は、生粋の地元民である親父に話を聞く。以来八重垣姫はたびたび茂里の妄想に登場し、恋愛について口を出すようになる。 ある日茂里がいつものようにスケッチをしていると、足の悪い男が近付いてくる。するとその男との接触を阻むかのように、一匹の白蛇が茂里の前に現れる。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-25

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