シンクロする白 09
水筒に書かれた私の名前を見て、ゲシュタルト崩壊だ、と彼は言った。その時その意味を私は知らなかったけれど、
たしかに何かが私の中で壊れた気がした。
今夜、霧ヶ峰にあるコテージを予約したんだ、恩田さんはカメラを下ろすと唐突に言った。僕の中で霧ヶ峰っていったらエアコンだな。
諏訪の人は逆に、エアコンと言ったら霧ヶ峰なのかな。うちエアコンありませんと私が答えると、恩田さんはえ、そうなのと驚いていた。
それから私たちは熱く焼けたりんご石を離れ、石彫公園の出口でさよならの握手をした。恩田さんは手の中にアルミのボールを潜ませていて、
何事もキャッチボールだ、といかにもなアドバイスと共にそのゴミを私に押しつけてきた。
私はそのいらないけれど欲しいものを、いらないと言いながらしっかり握りしめる。
それから恩田さんの顔をもう一度見上げて、これから先この人とは二度と会えないかもしれない、と自分に言い聞かせた。
すべては明日も同じように存在すると信じるからこそ、抵抗してみたり離れてみたがったりする。けれども恩田さんは親父やママとは違って、
明日はもうここにいないかもしれない。その時私は、この小さく固くまるめられたアルミのボールを見て、辛うじて彼の存在が夢でなかったと信じるしかない。
はたから見ればゴミであるものを宝物にするには、ただひたすらに信じるしかないのだ。
「おめえ、皮膚癌になるぞ」
夕食の席に着いた親父は、私の顔を見て開口一番に言った。
「親父に言われたくないんだけど」
すべての紫外線を吸収して黒くなっていく私とは対称的に、色白の親父は鼻の頭から額にかけて真っ赤になっていた。どうやら夏恒例の渓流釣りに行ってきたらしい。
「ほら、こんなの旅館で食べたら高いわよー」
ママは大皿に大量の焼き魚をのっけて運んできた。波型に串を打って焼かれた川魚たちは、今にも皿の外へと飛び出してきそうだ。
「おらぁいいからお前らで食えや」
「えー、はじめさんも食べてよ。釣って来たら食べる。食べてから釣る」
「いらねえっつたらいらねえ。茂里、お前どれがどの魚かわかるか」
「えーと、これが岩魚、これが山女、これが鮎」
「ばっかだなあおめえ、こんなでけえ鮎がいるか」
「知らないよ!大体焼いてからじゃ見分けつかないし」
私は取り皿に「でけえ鮎」をのせると、背びれの部分を箸の腹で押して骨をはがし、ふんわりとした湯気を立てる白い身を口に放り込む。おいしい。
「ママ、指どうした」
親父の声につられてママの方を見ると、左の人差し指の先に絆創膏が横から上から巻きつけられていた。
「包丁で切ったのよ。まったく嫌になっちゃう」
ママは右手で人差し指をやんわりと握り、肩をすくめてみせた。
「なんだか今日は朝から調子悪かったのよ。洗濯機は脱水の途中で故障するし、柳並歯科の前で観光客と車がぶつかりそうになるのを見かけるし、
茂里はいつもの時間に帰ってこないし」
「え、そうかな。いつもよりちょっと遅れたくらいじゃない」
私が内心どきりとしながら答えると
「まあいいじゃねえか、茂里にだっていろいろ事情があるんだから、なあ」
珍しく親父が私の肩を持ってきた。
「はじめさんもはじめさんよ。行き先も言わない、携帯は家に置きっぱなし、何かあったらどうするの」
ママは怒りの矛先を親父に変えてむくれた。どうやら今日は虫の居どころが悪いらしい。親父は相変わらず相手の怒りを増長させる天才で
「いやこえぇ、うちのママは怒ると鬼よりおっかねえ」
塩ゆでした枝豆をぷちぷちやりながら笑っている。
「私が何も言わずに留守にしたり、ちょっと連絡取れなかったりするといろいろ言うくせに、自分達は平気で心配させるんだから嫌になっちゃう。
茂里も本当気をつけなさいよ、自分が女だってこと、そろそろ自覚しないとだめ」
ママは鋭い視線をこちらに投げかけてそう言うと、山盛りの焼き魚の中から小ぶりなものを選び、そのまま頭からかぶりついた。
「でも男だとか女だとか意識することって、そんなに大事なことかな。人として通じ合えれば、それでいいんじゃない」
私はどこかで同じようなやりとりをしたなと思いながらも言い返す。ママは何か言いたそうにこちらを見ながら口をもぐもぐとさせていたが、
彼女の胃に咀嚼物が落ちるよりも早く、親父が
「へりくつ言うんじゃねえ!」
場違いな大声で一喝したので、そこで会話は途切れてしまった。
シンクロする白 09