シンクロする白 08
水筒に書かれた私の名前を見て、ゲシュタルト崩壊だ、と彼は言った。その時その意味を私は知らなかったけれど、
たしかに何かが私の中で壊れた気がした。
恩田さんは、父方の祖母が諏訪に住んでいて、小さい頃何度か遊びに来たことがあるという。だが早くに祖母が亡くなり、
父親も亡くなると諏訪を訪れることもなくなった。今回は恩田さんいわく「ちょっと嫌なことがあって」行き先も考えずに家を飛び出し、
車を走らせるうちに何となく諏訪にたどり着いたそうだ。
「面白い場所だよね。生活拠点のど真ん中にこれだけ大きな湖があって、けれども誰も橋を掛けようとか、道路を通そうとか、
そういう発想がない。昨日山の上の展望台から夜景を見たけど、諏訪湖はまるで街に開いた巨大なブラックホールみたいだったよ」
りんご石に場所を移し、私と恩田さんは売店で買ったアイスキャンディーを舐めながら話した。
「退屈な場所です。遊ぶところもないし、冬は寒いし」
私が謙遜と本音を入り混ぜて答えると
「でも、ここの景色を描いてみたいと思ったんでしょう。茂里ちゃんを初めて見た時、この石をまるで自分の舟みたいに乗りこなしているように見えてね、
お、これはただの観光客じゃないなと思ったんだ。双眼鏡と方位磁石を手に航海しているトム・ソーヤに見えた」
恩田さんはそう言うと、ちらりとこちらを見て微笑んだ。
「でも、初めて会った時は小鳥ちゃんみたいだって言われました」
「そう、近付いたら小鳥ちゃんだった。目鼻立ちのはっきりとした、いかにも写真に撮りたくなる女の子だった」
溶けかけていたアイスキャンディーの欠片がぽとりと落ちる。私は慌ててわずかに残ったサイダー味の氷を棒ごと口に含みながら
「物好きですね」
ごにょごにょと喋った。恩田さんはアイスの棒を指揮するみたいに振りながら
「正直、トム・ソーヤだと思って話しかけたら女の子で、しかも女子高生だったから焦ったんだ。
だけど今日も何やら一生懸命諏訪湖を覗きこんでる君を見かけて、やっぱりこの子はトム・ソーヤだと確信した」
妙にうきうきとした口調で喋った。私は果たして素直に喜ぶべきかどうか迷ったが、恩田さんが楽しそうだったので、
あえてトム・ソーヤが男子である件については深く追求しないことにした。
「それで、茂里ちゃんはあそこで何してたの?」
恩田さんに問われて、私はしばし返答に窮する。誰にも見えない蛇を見ていました、なんて言ったらどう思われるだろう。だから私はあえて
「誰にも見えない蛇を見ていました」
そのまま恩田さんに伝えてみた。それを聞いた恩田さんはよく分からない、大人の僕にはインスピレーションが足りないと本気で悔しがったので、
私は居住まいを正して恩田さんの方を向いた。
「あのですね、このくらいの太さで、一メートル弱くらいの白い蛇がいたんです。はじめはあっちのベンチの所にいて、
その後は遊歩道を這っていたんですけど、観光客は誰一人驚いたり悲鳴あげたりしていなくて。で、そのまま諏訪湖に飛び込んだかと思うと、
浮島の方角に向かって泳いで行ってしまいました。恩田さん、この一連の現象にナンチャラ崩壊的な名前はありますか」
恩田さんはふむ、と頷くと
「現象を特定するには、もう少しヒントが必要だと思う」
そう言って額の汗を拭うと腕組みした。
「まず、茂里ちゃんはどうしてその蛇が他の人には見えないと思ったの」
「ベンチで近くに座っていたおじさんは無反応だったし、何人かの足元をすり抜けていたけど、誰もそれに気付いていなかったからです」
「なるほど。ちなみに茂里ちゃんは蛇が苦手?」
「得意じゃないけど、特にとりたてて駄目ってこともないです。蛾の方がよっぽど嫌い」
「最近、何か蛇に関するものを見たとか読んだとかは?」
「別にぱっと思いつかないです。忘れてるだけかもしれないけど」
ふむ、と恩田さんはふたたび頷いた。私は一体どんなプロファイリングの結果が導き出されるのかとドキドキしながら次の言葉を待っていると、恩田さんは
「こりゃ精霊だね」
極めて真面目な表情で、私がうっすら予想していたのと同じ回答をした。
「蛇が怖くて苦手な子供が、ロープみたいなものを蛇と見間違えたり、壁のシミが顔に見えたりってことはよくあるんだよ。
要は錯覚だよね。だけどそれと同じくらい、何らかの理由で精神の感度が高まっている子供が、本来見えないものを見てしまうこともよくあるんだ。
僕はそれを単なる幻覚とは思っていなくて、むしろラジオが電波を捉えるように、波長さえ合えば見えてもおかしくないものだと考えている」
「でも例えば恩田さんは、霊が見えるという子供の証言とか、私の今の話とかが嘘だとは思わないんですか。子供たちも、単に大人の気を引きたいだけかもしれない」
あまりにあっさりと不思議な話を受け容れてもらうと、逆に自ら反論したくなるらしい。私は恩田さんの唱える説に異論はなかったけれど、あえて質問した。
「たとえ自分には見えないものの話でも、相手が嘘をついているかどうかは何となく分かるものだよ。茂里ちゃんも、嘘はついていないでしょう」
恩田さんの私を見る眼差しに、いかにも保育園の先生らしい柔らかな光が宿る。私はなぜだか涙が出そうになり、麦わら帽を深くかぶり直した。
「私はたぶん、今いろんなことが嫌なんです。どこにいても苦しいし、何をしていてもつまらない。それを土地のせいにしていたから、たぶん精霊が怒ったんです」
私がそう言うと、恩田さんは急に視線を遠くに向けてぼんやりしてしまった。私は水筒からジャスミンティーをコップに注ぎ、彼の前に差し出す。
「クロックムッシュもあるけど食べますか?」
「クロックムッシュ!何それ?」
恩田さんが異常に驚いたので、私はリュックサックの中からホイルの包みをふたつ取り出し、ひとつを恩田さんの目の前で開けてみせた。
「パンの中にハムとかチーズとか入れて、プレスして焼いたものです。焼きサンドウィッチです」
「おーこれね、クロックムッシュね。いいの?ありがとう、おいしそう」
恩田さんは大きな口でパンにかぶりつくと、うんうんと何度も頷いた。数少ないデートの経験において、私は相手の食事の姿を見るのも、
逆に見られるのも苦痛だったけれど、恩田さんのあごの骨が力強く上下に動いて咀嚼する様はなかなか壮快だった。
「恩田さんはどうして保育園の先生になったんですか」
私もとなりでこそこそとクロックムッシュをかじりながら尋ねる。
「子供好きだし、僕が通っていた保育園にも保父さんがいて、その人みたいになりたかったからかな。ごちそうさま、すごくおいしかった」
恩田さんはあっという間にクロックムッシュを平らげると、包みのアルミホイルを丸めて一人キャッチボールを始めた。
「いい先生だったな。子供を子供扱いしない、ごまかさない大人という感じがした。あの人と比べると、僕は最近だめだな。
ごまかしたいことや、うやむやにしたいことがどんどん増えてきてる」
なにげなく恩田さんの手の動きを追っていた私はおや、と思った。恩田さんの手の甲は私ほどではないにしろ、ほどよく焼けていた。
その左手薬指の付け根の部分に、指輪のような跡が白く残っている。なんだろう、結婚指輪の跡だろうか。
「こんなこと言ったら怒るかもしれないけど、茂里ちゃんの目って子供みたいなんだよ。きらきらしてて、まっすぐで、
少しだけ後ろめたい気持ちにさせられる」
恩田さんはそう言うと、アルミのボールを私に向かって投げてきた。
「よく目が怖いって言われます。気を抜くと眉間に力入ってるし」
私は手の中でアルミを一層強く握り固めてから恩田さんに投げ返す。
「あはは、気を抜くと力が入るって面白いね。きっと力を抜くには気合がいるんだろうな」
恩田さんは私の投げたボールを掌でころころと遊ばせながら言った。
「恩田さんは?どうやって力を抜くんですか?」
「僕?」
恩田さんはそう言うと、途方に暮れたように空を見上げた。そして
「逆に今は、自分が体のどの部分にどうやって力をこめて動いていたのか、わからなくなっちゃったな。
けどここ最近食欲もなかったんだけど、さっきもらったムッシュムラムラなんとかは久々に心からおいしいと思えた。
茂里ちゃんを見て写真を撮る意欲も湧いてきたし、少しずつ回復してきてるのかもしれない」
あまりそういう経験がなかったからはじめはよく分からなかったけれど、恩田さんはたぶん、年下の私相手に淡々と弱音を吐いていた。
私はそれを親身になって聞くというよりも、むしろ好奇心に任せて耳を傾けていたように思う。私は大の大人が打ちひしがれる理由を知りたかった。
薬指に残った指輪の跡が気になっていた。私が彼の目にどんな風に映っているのかもっと話してほしかったし、私が人の目にどんな風に映っているのか教えてほしかった。
だが恩田さんはそんな私の魂胆を知ってか知らずか、肝心なことは何も話そうとしなかった。
恩田さんは私に写真を撮っていいかと尋ね、私がえーとえーとと操り返している間にカノンEOS7Dをかまえて二、三度シャッターを切った。
すごくきれい、恩田さんは私の目を見てそう言ってくれた。私はただ舞い上がり、自らの少女性に甘んじて身勝手にはにかんだり、頬を強張らせたりしていた。
シンクロする白 08