サインボール

すごろく 作

 昔、まだ小学生だった頃、親父にとある大きな球場へ連れていってもらったことがある。
 夏の日差しが暑い日だった。球場では野球の大会が行われていた。
 俺は野球が好きな親父の影響で、野球が大好きだった。
 応援球団は親父と同じで『スーパー巨神』という球団で、どんな試合のときでもその球団を応援し、その球団が勝てば我がことのように喜び、負ければ我がことのように落ち込んだ。
 その日のその野球の大会は、その『スーパー巨神』の試合だった。
 相手の球団も相当有名なところで、二組とも押しも押されぬ接戦を繰り広げていた。
 俺も親父も、大声で『スーパー巨神』を応援し、相手の球団に野次を飛ばした。
 九回裏満塁、後攻の『スーパー巨神』のターン。『スーパー巨神』はこの時点で、相手のチームから一点遅れを取っていたが、ここで打てれば逆転勝ちも狙えるという大事な場面。
 そこでバッターとして立った選手に、俺は興奮を隠し切れなかった。
 それは俺が最も大好きで、最も尊敬している選手だったからだ。
 球団『スーパー巨神』のエース、桜庭智孝。それがその選手の名前だった。
 桜庭選手は当時の『スーパー巨神』の最年少選手で、高校生のときいた野球部は甲子園優勝を果たし、その優勝へ導いたのは桜庭選手だともっぱら噂され、ドラフト会議でもほとんどの球団が指名し、取り合ったという逸材、それが桜庭智孝選手だった。
 そんな選手がこんな大事な場面に出てくるのだから、会場の盛り上がりは最高潮だった。
 バッターボックスに立った桜庭選手は、神妙な面持ちでバッドを構えた。
 思いっ切りボールを投げる投手。そして――。
 カッキーンとバッドとボールがぶつかり合う音が、球場の隅々にまで響いた。
 打ったのだ、と気づくのに、数秒ほど時間を要した。
 その桜庭選手の打ったボールが、俺の座っている座席の方へと飛んできていることにも。
「危ないっ」誰かが叫んだ。確かに危なかった。このままでは飛んできたボールと俺の頭が、見事に衝突してしまいそうだった。
 軽いボールとはいえ、猛スピードで飛んでくれば立派な凶器。頭蓋骨を割り、脳震盪を起こさせるのにはわけないことは、小学生の俺にもわかった。
 俺は恐怖で咄嗟に目を瞑り、ボールの飛んでくる方へと空中に手を伸ばした。
 掴もうと意識して手を伸ばした覚えはない。ただ単純に、反射的に出しただけだった。
 しかし、伸ばした俺の手に、ぱしっと何かが当たる感触があった。俺はそれを掴んだ。
 恐る恐る目を開けて掴んだものを見てみてば、それは飛んできたボールだった。
 それは紛れもなく、桜庭智孝選手のホームランボールだった。
 ホームランで興奮した人々から湧き上がる歓声と熱気の中、俺はそのボールを持って呆然としていた。嬉しいという感情が湧いてきたのは、それから三十秒ほど後だった。
「すげぇじゃねぇか! 良かったな!」
 親父はまるで自分の手柄のように喜び、まだ夢見心地の俺の背中を叩いた。
 桜庭選手のホームランのおかげで、『スーパー巨神』は勝利し、当然ながらその日のヒーローインタビューは、桜庭選手。桜庭選手はそのインタビューで、こんなことを言った。
「皆さんは私のことを、天性の才能を持った恵まれた人間だと思っている方が多いと思います。しかし、私はこう見えて人並みに努力してきて、その努力のおかげで、今ここに立てていると思っています。だから夢のある人は絶対に諦めないでください。その夢はきっと叶います、きっと。なんて、こんな若造が言っていい台詞じゃなかったですかね」
 桜庭選手は少しはにかんだ。会場からどっと笑いが湧いた。
「こんな偉そうなことを言えるのも、単衣に皆様の応援があってのことです。本当にありがとうございます。そして、これからもよろしくお願いします!」
 野球帽を取って深々と礼をする桜庭選手に、観客は盛大な拍手を送った。
 俺はグラウンドから出ていく桜庭選手を見送ると、観客席を離れ、駐車場まで走った。
 咄嗟に思い付きでの行動で、親父には何も言わなかったが、親父は俺を止めなかった。
 駐車場には球団の団員が乗るためのバスが停まっていた。
 そのバスに、桜庭選手が乗り込もうとしているところだった。
「桜庭選手っ!」俺は大声で桜庭選手の名前を呼んだ。
 桜庭選手は立ち止まり、俺の方に振り返った。俺は肩で息をしながら桜庭選手に近づく。
「あ、あの――これ! これを取ったやつなんですけど」
 俺は掴んだままにしていたボールを、桜庭選手の前に突き出した。
「あぁ、君が取ったのか。そのホームランボール」
 桜庭選手は嬉しそうに表情筋を崩した。
「よ、よければ、その――このボールにサインしてくれませんか!」
 半ば断られるだろうと思っていた。しかし、桜庭選手の反応は予想に反したものだった。
「いいとも! そのくらいお安いご用だ!」
 桜庭選手はそう笑うと、俺の手からボールを取り、どこに隠し持っていたのかサインペンをポケットから取り出して、そのボールにさらさらとサインと日付を書いてくれた。
「ほら、世界に一つだけのサインボールの出来上がりだ! 大事にしろよ!」
 サインをしたそのボールを、桜庭選手は俺に返してくれた。
 俺は嬉しさのあまり言葉が出ず、ただ「ありがとうございます!」と繰り返していた。
「それじゃあな。元気でやれよ!」
 桜庭選手は最後まで笑顔でそう言い残し、バスに乗り込んでいった。
 他の選手もバスに乗り込み、じきにバスは走り出した。
 俺はそのバスの車体が見えなくなるまで、ひたすら手を振って見送った。
 俺の手の中には、確かに桜庭選手のサインボールが残っていた。
 一年間はずっと、そのサインボールで家族や友人たちに自慢したものだ。
 今でもそのサインボールは、俺の大切な、唯一無二の宝物である。

 あれから、十八年の歳月が流れた。
 今朝も俺は目覚まし時計に起こされ、安アパートの一室で、頭痛を抱えながら起きる。
 俺の朝の習慣、歯磨き、髭剃り、洗顔、排泄、朝食、新聞を読む、民法の朝のニュース番組のくだらないおふざけに唾を吐き捨てる、着替える、そして仕事へと出かける。
 外出時には欠かせないもの、スケッチブック、ノート、文房具一式、手帳、ウォークマン。
 ウォークマンの中には千を超える落語の音源が入っている。
 それを聴いて仕事へと向かう。笑いはしない。もう何十回と聴いているから。
 出勤時は人間観察も怠らない。例えばあの銅像の前でぼんやり突っ立ている女性。あの人は誰かを待っている風だが、そうだとしたら、一体誰を待っているのか? 例えば怪しげに道端できょろきょろしている男性、何かを探している風だが、一体何を探しているのか?
 とにかく想像力を高めることが重要だった。想像力は創造力となり、表現力にも繋がる。
 そうこうしているうちに仕事場へと到着する。
 私の仕事場は、古めかしい二階立ての一軒家の民家の中にある。かなり大きな民家だ。
 鍵も使わずにその民家のドアを開ける。鍵がかかっていないことを知っているからだ。
「あら、今日は少しお早いですね?」
 俺が民家の奥に向かって声をかける前に、玄関前の階段から降りてきた中年の女性がそう言って笑う。この家の主人で俺の雇い主、梶木忠伸先生の奥さんだ。
「まだ他の方はこられてませんけど、主人はもう作業に取り掛かってますよ」
「そうですか、なら私も急がねば」
 俺は玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、廊下の奥にある部屋に進む。
 その部屋はリビングぐらいの広い空間で、デスク机が六つ、向かい合わせで並んでいる。
「あぁ、真鍋くん、来たんだね。おはよう」
 デスク机の一つについている、優しげな中年の男性が俺にそう挨拶した。梶木忠伸先生だ。
「おはようございます。今朝は少し暑いですね」
 俺も笑って挨拶を返す。相手の方が立場は上なので敬語は欠かせない。
「そうだね。それじゃ、今日もよろしく頼むよ。このページのベタ塗りお願い」
 梶木先生から原稿の一枚を渡され、俺は自分の席について作業を始める。
 原稿には、ベタを塗る前の漫画の一ページが描かれていた。
 もう説明するまでもないだろうが、俺の仕事というのは漫画のアシスタントだ。
 ようは漫画家の漫画を描くサポートをする仕事である。
 俺がアシスタントとして勤めているのは、漫画家の梶木忠伸先生のところ。
 梶木忠伸先生は、漫画好きの中で知らぬ者はいないというほど有名な漫画家だ。十七歳、まだ高校生の頃に漫画家デビューを果たし、漫画家になってからたった一週間で連載を持ち、しかもその連載作品がそれなりにヒット、他の漫画雑誌の仕事もするようになり、作品がアニメ化や映画化などの映像化、重版出来を果たしたりとじわじわ売れていき、三十六歳になる現在では有名漫画家と呼ばれるような地位に収まった人物だった。
 こんな凄い漫画家先生のところで働けるのは、幸運で光栄なことだった。
 ここでアシスタントをしているのは、俺を含めて四人。残りの三人は後から出勤してきた。
 まず大体は一番乗りで職場にいる、眼鏡をかけた真面目なアシスタント最年少、蜂須くん。
「あれ? 今日は真鍋さんが一番乗りでしたか?」
 蜂須くんはどこか悔しげにそう言って俺の隣のデスク机につく。そこが彼の席だ。
 次に来たのは、髪の毛を金髪に染めて少し不良じみた格好をしている大谷くん。
 大谷くんは俺と蜂須くんを一瞥したが、何も言わずに俺の向かいに座る。
 私は彼とはどうにも折り合いが悪い。なるべく目が合わないように顔を伏せる。
 最後に来たのは、髪の毛はぼさぼさで如何にも無気力そうな青年、岡永くんだった。
「岡永、今日もだいぶ遅いな」
 そう岡永くんに対して棘のある声を発したのは、大谷くんだった。
 目は原稿の方に向け、手を動かして作業をしながら仏頂面をしている。
「あぁ――なんかすいません」
 岡永くんは眠たそうな半目をして、気の抜けたような返事をした。
「なんかって何だよ。謝るんなら、もっとはっきり謝れよ」
 大谷くんの声には、先程よりも刺々しさが増しているような気がした。
「いや、だから、謝ってんじゃないっすか。すいませんって」
 岡永くんがいらっとしたような表情で、同じく棘のある声で言い返した。
「お二人とも、朝っぱらからそうカリカリしないでくださいよ」
 さすがに喧嘩になりそうだと思ったのか、蜂須くんが仲裁に入った。
 梶木先生はというと、原稿に夢中で気づいていない様子だった。
「まぁまぁ、とりあえず仕事仕事」
 俺が蜂須くんの後に続く形でそう宥めると、一直即発な雰囲気は治まったようだった。
 大谷くんは再び無口になり、岡永くんは俺の席から斜向かいの席について作業を始めた。
 梶木先生のところで働けるのは本当に光栄なのだが、どうも人間関係がぎすぎすしているのが難点だった。主に、ぎすぎすさせている原因は大谷くんだったが。
 俺を除いたアシスタントは、全員俺よりも年下だ。
 俺がここにアシスタントをしに初めて来たときは、俺よりも年上の方ばかりだったのだが、みんな一様にプロの漫画家デビューをしたり、転職したりして消えていった。
 ――丁度、今の俺くらいの年齢の頃に、みんな。
 あぁ、いかんいかん、また余計なことを。今は目の前の仕事だ、仕事。
 俺は原稿のベタ塗りに集中する。仕事に集中していると、時間はあっと言う間に過ぎる。
「もう今日はここらへんでいいかな。締め切りも立て込んでないし」
 梶木先生がそう言えば、その日の仕事は終了だ。
 首を回して伸びをし、少し呻いて時計を見上げると、時刻は午後六時。
 斜陽が窓から、仕事部屋の中をオレンジ色に照らしていた。
 みんなそれぞれに帰り支度をして帰っていく。
 飲みの誘いとか、一緒に飯を食おうとか、そういう話は滅多にない。
 そもそも仕事中も仕事終わりもそんなに会話しない。まぁ口下手の俺には楽な環境だが。
 私も帰り際に、梶木先生に挨拶してから家路につく。
 両耳にはイヤホンをして、ウォークマンから落語を垂れ流しながら帰り道を急ぐ。
 途中でラーメン屋に寄って夕食を済ませた。その後はどこにも寄らずに真っ直ぐ帰った。
 一人暮らしの家に帰ったところで、誰も待ってはいなかったが、やることはあった。
 帰宅して電気を点けたら、すぐに部屋の隅にある勉強机に飛びつく。
 その勉強机の上には、文房具やインク、そして描きかけの漫画原稿が積み重なっている。
 俺は急ぐ気持ちを押さえ、勉強机について漫画の続きを描き始める。
 ――描ける――これは描ける!
 俺は興奮で鼻息を荒くしながら、原稿用紙の上にペンを走らせた。
 アシスタントの仕事から帰ってきてすぐは、いつもこうだ。
 梶木先生の漫画に手を加えているうちに、段々と自分の漫画を描きたい欲求が胸の内側から溢れてくる。あんなことを描きたい、こんなことを描きたい、と無心でベタ塗りをしたりしているときに限ってアイデアが湧いてきて、すぐにでも家に帰って描きたくなる。
 しかし、その興奮状態は長く続かない。
 描き始めてみれば、あれだけあった意欲もなぜだか、どんどん萎んでいく。
 二ページも描き終わらないところで、ペンが止まってしまう。
 ストーリーは思いついているのだ。だが構図が上手く思いつかない。いや、少し前までは確かに思いついていたのに、急に脳がだるくなって思いつくのを拒否したようだった。
 こうなると、創作している快感もなく、ただただ疲れるだけだ。
 俺は勉強机から離れ、万年床の上に胡坐を掻いてぼんやりとテレビを観る。
 デブの芸人がグルメレポートをしている。白々しいリアクション芸だ。
 なんだかつまらないのでテレビも消し、ふと本棚を漁る。
 本棚には九割がた漫画が詰め込まれている。そのうちの一冊を適当に選んでページを捲る。
 他人の描いた漫画を読んでいると、また沸々と創作意欲が湧き上がってくる。
 その漫画を読むのは冒頭部分にまで留め、またすぐに勉強机へと向かう。
 そして再び漫画を描き出すわけだが、初めは良くてもやはり長続きせず。
 今度は一ページも描き終わらないうちに、ペンが進まなくなってしまった。
 ダメだ、調子が出ない、今日はもう寝よう。
 俺は夜の習慣として風呂に入り、排泄し、歯を磨いた。
 そして眠る前の日課としてもう一つ、玄関の横の下駄箱の上の、ガラスケースの中に大切に保管されたサインボール――桜庭選手のあのサインボール――子供の頃からの宝物に、俺は手を合わせる。私にとっては、それは神棚みたいな存在だった。
 ――大丈夫、きっと大丈夫。諦めなければ、諦めさえしなければ。毎日少しずつでも。
 そう念じながら、少なくとも一分間は手を合わせる。
 あの日、あのサインボールを桜庭選手からもらった日、桜庭選手がヒーローインタビューで言っていたことを思い出す。「その夢はきっと叶う」というあの台詞を。
 そうすれば、不思議と不安感が霧散して希望が湧いてくるような気がするのだ。
 手を合わせ終われば、あとは布団に潜って眠るだけ。
 明日こそはもっと描けますように、そう願いながら目を閉じる。

「あー、なんか、まぁ悪くはないんですけどねぇ」
 ヒラメみたいな顔をした、その編集者の反応は煮え切らないものだった。
「こう――何といいますか、もうちょっと夢がある話がいいかなぁ、個人的には」
 編集者は曖昧に言葉を濁す。俺はその態度に内心イラつきながら、愛想笑いを浮かべる。
「ははっ、そうですよね、いくら何でも暗いですよね、この話」
 俺はこういう話が面白いと思って描いたのに。その台詞は喉の奥底にでも留めておく。
「今回はご縁がなかったということで。また別の機会に――」
 編集者がそう言って、原稿を俺に突き返した。
 俺は相変わらず煮え繰り返る腹の中を隠して、へらへらと愛想笑いをする。
「すいませんね、今度はもっと明るい話を描いて持ってきますよ」
「はい、そうしてください」
 編集者は席から立ち上がり、テーブルの端に置かれている伝票を手に取った。
「それでは、私は別の仕事があるのでこのへんで。勘定は真鍋さんの分も含めて私が払っておきますよ。お暇ならしばらくのんびりしててください」
 編集者は少しだけ嫌味っぽい台詞を残し、レジで勘定を済ませて店から出ていった。
 俺は冷めたコーヒーを啜り、没になった漫画原稿を前にぼんやりと頬杖をついた。
 現在俺がいるのは、昼下がりの寂れた喫茶店の中。客は疎らだった。
 ――今回もダメだったなぁ。
 煙草を取り出してそれの先端にライターで火を点け、煙を空中に吐き出しながら思う。
 前回も、前々回も、前々々回もダメだった。この調子だと次回もダメそうだ。
 煙草を吸い終わったらコーヒーを一気に飲み干して、俺は原稿を脇に抱えて店を出た。
 季節的にはまだ春のはずだが、今日も随分と暑い。
 冷房の利いた店内から外に出た瞬間に、じわっと毛穴から汗が噴き出してきた。
 今日はアシスタントの仕事はない。やることがない。あの編集者の言う通り、暇だ。
 作品を没にされたせいか、創作意欲も湧いてこない。このまま帰っても昼寝するだけだろう。
 だから家路に向かう道中で、行きつけの画材屋に立ち寄ることにする。
 私の家の近くに、画材屋は一軒しかない。『葉山画材店』という店だ。
 そこに入店して、買い物かごの中に不足していた画材や用紙を放り込んでいった。頭の中では金の計算。今の全財産はこれだけで、これを買ったらこうで、食費がああだから――。
 今月も乗り切れそうか? あぁ、でもこれは買わなくても――。
「真鍋さん?」あれこれ考えていたら後ろから声をかけられ、俺は振り返った。
「――蜂須くん?」
 俺に声をかけたのは、アシスタントの同僚の蜂須くんだった。
 いや、蜂須くんだけではない。蜂須くんの隣にはぼーっとした表情の男がもう一人。
「岡永くんもいるのか?」
「はい、ちょっと二人で画材を買いに」
「あれ? 蜂須くんと岡永くんってそんなに仲良かったっけ?」
「言ってませんでしたっけ?僕と岡永さん、ルームシェアしてるんですよ」
「え? 初耳だけど? 二人で同じ部屋に住んでるってこと?」
「そうです。それで最近ここに越してきたんですよ。前に住んでた場所は、梶木先生の家に通うには遠くて不便だったんで。真鍋さんもこのへんに暮らしてたんですね」
「あぁうん、前から、一人暮らし始めたときからずっと」
 私と蜂須くんが会話している間も、岡永くんはインクコーナーを物色していた。
 一応私はあのアシスタントの中で最年長で、アシスタント歴も長く、岡永くんにとっても先輩のはずだったが、岡永くんはまるで私なんか見えていないように挨拶の一つもしなかった。いやまぁ、私はあまり気にしないが、少しもムッとしないわけでもなかった。
「どうです?この画材屋の帰りに、酒でも一杯?」
 蜂須くんが、くいっと酒を呷るようなジャスチャーをした。
「いえ、私は遠慮しとくよ」
 俺は断った。俺は酒癖があまり良くなかった。酔うと出るちょっとした悪癖があるのだ。
 その後、ちょっとした世間話をして、それぞれで会計を済ませ、三人揃って店を出た。
 すると、空は多少雲があっても晴れているのにも関わらず、雨が降っていた。
「あー天気雨かー。天気予報じゃそんなこと言ってなかったのにな」
 蜂須くんが愚痴った。岡永くんは空を見上げるきりで何も言わなかった。
「まぁ待ってたら、そのうち晴れるでしょ。あ、その前にちょっとトイレ行ってきますね」
 蜂須くんはそう言い残し、トイレへ行きに店の中へと戻っていった。
 店先の庇の下で、俺と岡永くんが二人きりで取り残される形になった。
 岡永くんは俺と二人きりになっても、ぼんやり空を見上げているだけで口を開かない。
 なんだか気まずいが、俺もどう声をかけていいものかわからない。
「あの――真鍋さんって、プロの漫画家目指してるんですか?」
 早く蜂須くん帰ってこないかな、と思っていたら、唐突に岡永くんが言葉を発した。
 あまりに何の前触れもなく突然だったので、俺は不自然に身体をびくっとさせてしまった。
「あ、その、まぁ目指してない――わけもないというか――」
 おまけに返事までシドロモドロになってしまった。年上なのに恥ずかしい。
 だがしかし、岡永くんは俺の羞恥心なんて知ったこっちゃない様子で、台詞を重ねる。
「僕も目指してるんですよ、プロの漫画家」
「へ、へぇ、そうなんだ」
「真鍋さんの席の机の引き出しに入ってたノート、そのノートに描かれてた漫画、ちょっと読ませてもらったんですけどね――」
「なっ!」
 俺はつい大きな声を出してしまった。
「読んだ? 読んだって――勝手に?」
「あぁ、すいません。ダメでしたか?」
「ダメも何も――」
「率直に感想を言わせてもらうと、面白かったです」
「はぁ」今度は気の抜けた返事が出た。まさか褒められるとは。
 半ばお世辞だろうと思いつつも、「どのへんが?」と訊ねてみた。
 すると岡永くんは、ぼそぼそ話していたのが嘘のようにはきはきした声で喋り出した。
「まずですね、キャラクターが良いですよ! なんか生き生きしてる!それからギャグセンス!声に出して笑っちゃいましたよ! そして最後にはほろりと泣かされて――」
 怒涛の褒め言葉だった。私は呆気に取られて雄弁な岡永くんを見ていた。
 岡永くんは変に思われているのに気付いたのか、少しだけ声のトーンを落とした。
「とにかく真鍋さんは才能あると思いますよ」
 岡永くんはそう言って照れ臭そうに笑った。彼の笑顔を見たのは初めてな気がした。
「今度、良ければ僕が描いた漫画も読んでください」
 岡永くんにそう頼まれて、私はとりあえず頷いた。
「うん、じゃあ機会があったら読ませてよ」
 心なしか、自分の声が明るくなっているような気がした。
 自分の漫画が褒められたのは、随分と久しぶりのことだった。だからとても嬉しかったのだ。しかもそれは同じアシスタントの仕事をしている人に、同じように漫画家を目指している人に褒められた、それがすごく嬉しかった。今までは岡永くんのことを、じつは感じの悪いやつだと思っていたのだが、少し接しやすくなったような気がした。
 そうこうしているうちに、トイレから蜂須くんが戻ってきた。天気雨も止んでいた。

 蜂須くんや岡永くんと別れてから、他に行くところもないので公園のベンチにぼけっと座って、老人や子供からパンの欠片なんかをもらって啄んでいる鳩を眺めていた。
 漫画のアイデアをあれこれ考えてみたが、ピンと来るやつは思いつかず、気づけば夕暮れで、公園にいた子供や老人や鳩でさえ、みんな帰っていくところだった。
 帰り道の途中、夕飯の弁当を買いにコンビニに立ち寄った。コンビニの本棚の中に差し込まれている漫画雑誌の一冊に、気になる見出しのものがあったので手に取ってみる。
『第二十九回和田敦彦賞受賞! 驚異の画力! 期待の新人漫画家!』
 そうでかでかと表紙の前面に押し出された見出しだった。
 ページを捲ってみると、某漫画新人賞を受賞した某漫画家の漫画作品が載っている。
 それを立ち読みし、俺はふんと鼻を鳴らす。
 何だ、こんなものか。この程度の作品が新人賞なんか獲ったのか。確かに画は上手いが、画力があるところ以外に褒めるところがないではないか。こんなありふれていて凡庸なストーリーの漫画で賞を獲れるのなら、俺だって疾うに獲っていても良いのではないか。
 いくつもの漫画賞に送ってもすべて一次選考で落とされたことを思い出し、苛立ちが胸を締める。嫉妬心が、俺にその漫画の欠点ばかり見せ、認められる気にさせてくれなかった。
 何で俺の漫画は一次選考落ちで、この漫画は新人賞受賞なのか――。
 あぁ、ダメだ、こんなこと考えても不毛だ。こんなもの読んでも目の毒だ。
 俺は漫画雑誌を棚に戻し、弁当を買ってコンビニを出た。
 その日は結局、気力が湧かず、漫画の一コマも描けなかった。

『昭雄、大変! お父さんが倒れた!』
 お袋からそんな切羽詰まった電話がかかってきたのは、梅雨に入り始めた頃だった。
 俺は雨の中、血相かいて実家へと飛んで帰った。
 しかし蓋を開けてみれば、親父は何てことはなく病院のベッドの上でぴんぴんしていた。
 盲腸だったらしく、手術したらあっさり治ったらしい。
「もう、驚かせんなよ」
「悪い悪い、倒れたときは俺も本気で死ぬかと思ったんだぜ」
 俺がホッとして愚痴ると、親父は照れ臭そうに笑ってそう言った。
 俺はその日、実家に泊まっていくことになった。住み慣れていたはずの家だったが、しばらく実家に帰ってきていなかったせいか、妙な余所余所しさを感じた。
 夕飯には食卓にお袋の手料理が並んだ。久しぶりに息子に食わせるから張り切ったようだ。
 お袋ともう一人、実家には姉貴がいた。姉貴は都会にある商社に働いているOLなのだが、俺と同じく父が倒れたという連絡を受けて帰ってきたようだった。
 俺の兄弟には他にも兄貴がいるのだが、帰ってきていなかった。
「兄貴は? 親父が倒れたって兄貴にも連絡したんだろ? 帰ってきてないの?」
 何となく理由は察していたのだが、一応お袋に訊ねた。
「あぁ、幸雄はね、忙しいから帰れないって、それだけ言って電話切っちゃったのよ」
 まぁ、大方そんなところだろうとは思った。
 兄貴は都会で売れない劇団役者をやっている。俺がまだ幼い頃から兄貴は俺によく「俺はいつか芸能界の大物になるんだ」と嘯いていて、その夢を未だに追いかけているのだ。しかし、十年以上の役者活動をしても売れず、バイトだけをこなす苦しい生活を送り、お袋もいい加減まともに就職しろと急かしているそうだが、夢を諦めきれずにいるようだった。
 いや、俺は別段兄貴に文句を言えたような立場にはいないのだが。
 三人揃って料理に箸を突いていたら、自然と兄貴の話になった。
「兄さん、まだ役者の夢諦めきれないの?」
 姉貴がきゅうりの漬物を噛みながら、呆れたような声音で言った。
「せめて定職についてくれりゃいいんだけどねぇ。あの子、なんか意地になってるみたいで、役者を目指すには定職について一日中働いてる時間の余裕はないなんて言ってねぇ」
「経済的な余裕がないんだろっつーの」
 俺はお袋と姉貴のやり取りを聞きながら、黙っていた。
 俺が兄貴の事情に口を挟めるような人間ではないことは、俺自身が一番よく知っていた。
「そういや昭雄、あんたはどうなのさ」
 せっかく黙っていたのに、姉貴が俺の方に矛先を向けてきた。
「どうなのって――何だよ?」
「あんたも、夢追いかけてるでしょ? 漫画家だっけ?」
「まぁ――そうだけど」
「あんたもいつ定職つくのよ?」
「いや――別に定職にはついてるから」
「定職? 何て職よ?」
「アシスタント――漫画家の」
「漫画家目指してのに、漫画家のアシスタントやってんの?」
「いや、今プロの人でも元々アシスタントだった人は結構多いし」
「ていうかアシスタントって定職なの?」
「専業でやってる人もいるし――」
「それって何年でもできる仕事なの?」
「――どういう意味?」
「いやだからさ、六十歳とか一般的な定年の年齢になるまで働ける仕事なのかってこと?」
「それは――」
 俺は言葉に詰まってしまった。そして内心、愕然とした。アシスタントが歳を取っても続けられる仕事なのかという点ではない。実際に専業としてアシスタントの仕事を勤め上げた人はいる。そうではなくて、そんな歳になるまで自分が漫画家にならずアシスタントであること、そしてそれが容易に想像できてしまったことに、俺は愕然としたのだ。
「――専業で定年まで勤め上げた人もいるから、大丈夫だよ」
 詰まらせた後の言葉は、とりあえずそう続けた。
「ふーん」と姉貴はもう興味が失せたように、テレビの恋愛ドラマに目を向けていた。
「それでもやっぱり心配だから、ちゃんと就職すること考えといた方がいいよぉ」
 お袋が心配そうに言った。「本当に大丈夫だよ」と俺は笑って誤魔化した。
 夕食後、私は約一年ぶりに実家の自分の部屋の畳の上に寝転がった。
 畳の臭いと埃の臭いが、同時に鼻の穴の中に忍び込んできて、懐かしさが鼻孔を擽った。
 畳の上をしばらく無心でごろごろと転がり、ふと先程のあの愕然とした気分を振り返った。
「このままなのかなぁ――俺――」
 虚空に呟いてみても、もちろん返事なんかなかった。
 何もしなくても余計なことばかり考えて気分が重くなるだけだから、俺は部屋の隅にある本棚から一冊漫画を取り出した。その本棚も、俺が一人暮らししている部屋の本棚と同じで中身は九割がた漫画だった。違うのはこちらの本棚の方が多く埃を被っていることだ。
 埃を払い落としながら、漫画のページを捲った。
 俺が小学生の頃から持っている、古い子供向けギャグ漫画だった。
 子供向けとはいえ、やはりプロが描いた作品らしく素晴らしい完成度で、久しぶりに読んだのも手伝ってか、俺は所々で声を出してくすくすと笑った。
 そういえば、これを読んで「ギャグ漫画なら描けそうだからギャグ漫画家を目指そう」、とか息巻いていたのに、いざ描こうとしてみたら、つまらないオヤジギャグみたいなものしか思いつかなくて、結局「ギャグ漫画は向いてない」なんて結論に落ち着いたんだよな。
 そういえば、いつから漫画家目指してたっけ? と今更過ぎることを思った。
 きっかけは――きっかけはそう、やはり小学生の頃だ。
 冒頭でも述べたが、俺は元々野球好きの父の影響で野球が好きだった。
 野球繋がりで、野球漫画を読んだのがきっかけだった――と思う。
 その漫画にいたく感動した俺は、他の漫画も読むようになり、そしてどんどん漫画の世界へと引き込まれていった。一年も経たないうちに、授業の作文で書いた『将来の夢』が、プロ野球選手から、漫画家に変わるくらいには、俺は漫画の世界にのめり込んでいた。
 後は特に語ることもない。描いては没にされ、それを繰り返して今になってしまった。
 これからもそうなんだろうか? これからも俺は――。
 また憂鬱がのっそりと頭をもたげたとき、廊下の奥からお袋の声がした。
「昭雄、お友達が来てるわよー。いっちゃんとやっくん」
 お袋に呼ばれて玄関先まで行くと、二人の地元の友人が来ていた。
「昭雄が久しぶりに帰ってきたって聞いてな。飲みの誘いに来たんだよ」
 友人の一人がそう言って笑った。俺は少し悩んだが、その誘いに乗ることにした。
 俺と二人の友人は近所の居酒屋へ行き、三人ともビールで乾杯した。
 三人はそれぞれ自虐めいた近況報告をし、世間話や冗談話をして笑い合った。
 始終和やかだったが、中盤辺りから異変が生じてきた。正確には俺に――。
 俺の酒癖――それはどうも愚痴っぽく、しかも怒りっぽくなってしまうことだった。
 おまけに俺はアルコールに弱い。その日もそんなに飲んでいないのに早くも酔ってしまい、意識はあるにも関わらず自制は利かずにいつもの酒癖が発動してしまった。
「――なぁ、聞いてくれよ。俺、いつまでこんなんだろな?」
 俺はついに愚痴り始める。自分でも、またか、とうんざりする。
「いつまでアシスタントなんかやってんだろうな? そりゃさ、梶木先生のところで働けるのは光栄なことだし、嬉しいことだよ。でもさ、俺は漫画家になりたいんだよなぁ。漫画家になりたいんだよ。なりたいのにさ、なれないんだよ。どこの出版社に持っていても原稿は没にされるし、読み切りすら一度も雑誌に載ったことがない。正直俺には才能ないのか――いや違う、俺に才能がないんじゃない、あいつらの感性が鈍いんだ。そうだ! 俺が間違ってるんじゃない! あいつらが間違ってるんだ! 知ってるか? 今年の和田敦彦賞を受賞した漫画。画力以外はクソ過ぎたぞ。あんな画力だけの見せかけのクソ作品が賞を取れるなら、俺が疾うに獲っていても良いと思わないか? 思うだろ? なぁ? 思うだろ?」
 自分でも呆れる。恥を塗りに塗りたくって情けなくなる。
 そう頭の冷静な部分では理解していても、愚痴を喋る口は止まらなかった。
 幸い、俺のこの悪癖を知っている友人たちは、俺の愚痴を笑って聞き流してくれた。
 それでも俺は、内心情けなくて情けなくて仕方なかったのである。
 気付けば飲み会は終わり、俺は一人実家へと帰っていた。
 確か、友人が送ると申し出てくれたが、断ったのだと思う。
 唐突に吐き気が込み上げてきて、近くの用水路に向かって突っ伏す。
 そこに胃から昇ってきた吐瀉物を撒き散らかした。苦してくて、酸っぱくて、消えたくなった。

 実家から戻ってきて一週間がたっても、俺の元気は戻らなかった。
 いや、もう何年も元気だった日がない気がする。
 暗い顔をして朝起き、暗い顔をして仕事をし、暗い顔で帰宅し、暗い顔で眠る。
 現に蜂須くんから、「随分と暗い顔してますね」とからかわれた。
 漫画は一応描いてはいるが、少しずつしか進まず、閉塞感は募るばかりだった。
 そんなある日、アシスタントの仕事終わりに、岡永くんが私に声をかけてきた。
「真鍋さん、僕の漫画持ってきたんですけど、読みますか?」
「え? どうして?」
「前に約束したじゃないですか。僕の漫画も読ませるって」
「あぁ、そんなこと確かに言ってたな、岡永くん」
「だからほら、僕の渾身の一作ってやつです。読んで感想ください」
 岡永くんは俺に、緑色のノートを差し出してきた。ノートの表紙にはマジックペンの太い字で『下描き集』と殴り書きされている。俺と同じくラフをノートに書き溜めているようだ。
 俺はノートのページを捲り、下描き段階の岡永くんの漫画を読んだ。
 正直に白状すれば、俺は岡永くんの漫画を舐めていた。
 実力は俺と同じくらいかそれ以下だろうと、根拠もなく勝手にたかをくくっていたのだ。
 それなのに――いやだからこそか、その漫画から受けた衝撃は一入だった。
 初めはのろのろ動いていたページを捲る手が、いつの間にか止まらなくなっていた。
 ――面白い――面白いぞ、これ――。
 読み終わった後には、しばらく呆然としていた。
「で、どうでしたか?」
 岡永くんが痺れを切らしたように感想を訊ねてきた。
 面白かった――すごく面白かったと答えるべきだ――答えるべきなのに――。
「――うーん、正直俺の好みじゃないな」
 口が飛び出したのはそんな台詞。慌てて飲み込もうとしても次々と口から吐き出される。
「面白いは面白いけど、なんか力技というか、所々雑というか――」
 何を言っているのだ、俺は。違うだろ、本当に抱いた感想は違うだろ。
 しかし、それは口から這い出してこない。適当に捏造したダメ出しばかりが溢れてくる。
「キャラクターにも感情移住できないしな――」
 岡永くんの表情がみるみるうちに、しょんぼりと萎んでいくのがわかった。
 罪悪感がちくちくと、しつこく心を刺した。
「で、でも大まかに面白かったから。うん、面白かったは面白かったから」
 俺は岡永くんと目を合わせないように顔を伏せ、ノートを返した。
 そして「それじゃ、また明日」と岡永くんの反応も見ずに一目散に逃げ帰った。
 速足の家路の途中、虚しさと情けなさが同時に襲ってきて、つい道端に頭を抱えて蹲った。
 くそ、何なんだよ。自分は何がやりたくて、わざわざあんな傷つけるような言い方したんだよ。本当はすごいと思ったくせに。自分には真似できないって、自分が何年修行してもこんな漫画は描けないって、それだけで感動したのに――それだけ感動したからか? それだけ感動したから、自分には届きそうにないって思ってしまったから、だからあんな風なことを言ったか? つまり嫉妬か? 醜い嫉妬か? なんて女々しくて矮小な男だろう、自分は――。
 俺は十数分ほど、ずっとその場に蹲って軽く呻いていた。
 岡永くんのプロデビューが決まったのは、その日から二週間足らずのことだった。

「えー、本日で、岡永くんはここのアシスタントを辞めることになりました」
 梶木先生がそう言うと、俺と蜂須くんと大谷くんの三人はぱちぱちと疎らな拍手をした。
 話の中心である岡永くんは、何やら恥ずかしげにもじもじしている。
「皆さんもご存じかと思いますが、岡永くんは少年漫画雑誌『週刊ステップ』に連載が決まっています。週刊誌での連載を片手間でやるのは難しいので、辞めることになりました」
 梶木先生がすべて説明している間も、岡永くんは始終俯いて無言だった。
 少年漫画雑誌『週刊ステップ』に岡永くんの連載が決まるまでは、息つく暇もないほどあっという間だった。まず持ち込みが編集者の目に止まって読み切りとして載った。それが高評価だったので、もう一つ読み切りを載せてみれば、また高評価。その次も読者からは高評価だったため、編集は岡永くんに連載を持たせることを決めたのだった。
「岡永くん、ほんとにおめでとう」梶木先生が朗らかな笑顔を浮かべて言った。蜂須くんも満面の笑みで「おめでとう」。大谷くんはぶっきらぼうに「おめでとう」。俺は――。
 俺は、少し目を伏せてどもりながら「おめでとう」と言った。
 もっと自然体に言いたかったのだが、変にドギマギしてしまった。
 岡永くんは、一瞬ちらりと睨むような目で俺を見たような気がした。
「それでですね、皆さん。僕の方から提案なんですけど――」
 蜂須くんが急に手を上げて立ち上がった。
「今夜、岡永さんの送別会やりませんか? 一緒に飲む機会もそんなになかったですし」
 蜂須くんの提案に、「おぉ、いいね」と真っ先に同意したのは梶木先生だった。
「俺は、別にいいけど」と大谷くんは渋々といった感じの反応を示す。
 当事者の岡永くんは「はぁ」と気の抜けた返事をした。とりあえず同意のようだ。
 そして返事をしていないのは俺だけになって、その場にいた全員の目が俺に向けられた。
 どの目も「あんたはどうするんだ?」と訊ねてきていたが、岡永くんの目だけは、どうも俺を見下すような、嘲笑するような冷たい光が宿っている気がして、密かに膝が震えた。
 初めは断ろうと思った。正直岡永くんと早く別れたかった。
 この前はあんなことを偉そうに言っていたのに、蓋を開けてみれば世間からは高評価で、連載まで持って、俺なんかとっくに追い抜かれて――。そんな相手と酒を飲んでも気まずくて堪らないと思ったから。
でも結局、「い、いいですね」と場の空気と流れに飲まれて同意してしまった。
 心なしか、岡永くんの視線の冷たさがいっそ濃くなったような気がした。

 近所の居酒屋で、俺と岡永くんと蜂須くんと大谷くんと梶木先生は乾杯した。
 内心気まずさでいっぱいの気分で飲んだ酒は、やはり不味かった。
 蜂須くんは頻りに岡永くんを褒め、岡永くんがアシスタントしていたときの話をした。梶木先生もそれに楽しそうに乗っかった。大谷くんは始終無言だったし、褒められている岡永くんも無言だった。
 かくいう俺も、何も喋ることを思いつかず、また喋ってもあの冷たい視線を一々送られるのではないかと、それを恐れて無言にならずにはいられらなかった。
 飲みの席は蜂須くんと梶木先生だけが明るいムードで進行し、じきにお開きになった。
 蜂須くんは「二次会をしよう!」と軽く酔ってはしゃいでいたが、「僕は家で連載用の漫画のネーム描かないとダメなんで」と今夜の主役であるはずの岡永くんはさっさと帰っていった。その方が俺には気楽で有り難かったから、内心ではホッと安堵していたら、帰り際の岡永くんからまた鋭く睨まれたような気がして、首を竦めた。いや、岡永くんは睨んでいなかったのかもしれない。それでも俺は睨んでいると思わずにはいられなかった。
 それから梶木先生も、岡永くんと似たような理由で帰っていった。
 結局、二次会は俺と蜂須くんと大谷くんの三人で行われることになった。
 本当はもう帰って寝たかったのだが、気づいたら参加に同意していることにされていた。
 それでも岡永くんが帰ったせいか、幾分か先程よりも酒の味が旨く感じられた。
 だから先程よりも酒が進んで、酒が進み過ぎてしまった。
 俺のあの悪癖が出てしまったのだ。我に返ったときには、口が勝手に動いていた。
「――可笑しいよなぁ、どう考えても」
「何が可笑しいんです?」
 酔って頬の赤い蜂須くんが、不思議そうに私に問う。
「――岡永くんが、デビューすることがだよ」
「へ?」
「読み切り数回しただけで連載を持てるって――可笑しいだろうよ」
「はぁ。でもそういう漫画家さんは結構いますよ。才能さえあれば――」
「あいつに才能なんかない!」
 俺はビールジョッキをどんと音を立てて机に下ろした。
 蜂須君がびくっとし、「な、何言ってるんですか」と戸惑った声を出す。
「俺はあいつの漫画を読んだんだよ。それでわかった。あいつは才能なんかない」
「何を根拠に、そんな酷いこと――」
「俺の感性がそう言ってんだよ! あいつに漫画の才能はないって!」
 違う。俺の完成はそんなこと言っていない。実際は、実際は――。
 しかし、俺の口は私が思ってもいないような嘘八百を並べ立てる。
「展開は所々雑だし、キャラクターには感情移入できない。あんな荒削りの漫画が何で連載を持てるんだ? おい、蜂須。あいつの実家って、なんか金持ちなのか?」
「よ、呼び捨て? ――いえ、岡永くんの実家は、普通のサラリーマン家庭ですけど――」
「じゃあ親戚には? 交友関係は? 金持ちとか、出版界の繋がりがある人間はいないのか?」
「あの、もしかして岡永くんがコネで連載を持ったと――」
「そうだ、そうだとしか思えないだろうが!」
 あぁ、何で――何で俺はこんな醜態を晒しているのだろう?
 目を覆いたくても、もう取り返しがつかない。
 脳の興奮している部分と、冷えた部分のギャップが気持ち悪く、吐き気まで込み上げてきた。
「――見苦しい嫉妬ですね」
 そんな俺にトドメを刺しに来たのは、突如沈黙していた口を開いた大谷くんだった。
「嫉妬? 嫉妬なもんか! あんなのに嫉妬なんかしていない! れっきとした事実だ!」
「れっきとした事実とは聞いて呆れますよ」
 大谷くんはとても冷たい目をしている。先程までの岡永くんの目よりも、遥かに。
 なるほど、やはり先程岡永くんに睨まれていたような気がしていたのは気のせいだったか。
 今大谷くんが俺に向けている目こそ、真に人を見下した目だ。
「真鍋さんは、岡永のやつが描いた漫画、全部読んだんですか?」
「全部は――」
 全部は読んでいない。というか、一つしか読んでいない。あのときの一つしか――。
「その感じだと、どうせ読み切りで掲載された漫画も一つも読んでないんでしょう?」
 図星だった。俺は、読み切りとして掲載された岡永くんの漫画をどれ一つも読んでいない。
 読めなかった。読みたくなかった。面白くても面白くなくても、きっと俺は嫉妬していたから。どうしようもなく、嫉妬して、まともな評価もせずに、嫉妬して――。
「真鍋さんが岡永の漫画を読んだのは、あの日ですよね。二週間前ぐらい前の」
 どきっとした。なぜあの日のことを大谷くんが知っているのだ。
 俺が訊ねる前に、大谷くんは先を見越したように言った。
「岡永から、直接聞いたんですよ」
「え? で、でも大谷くんと岡永くんは仲が悪かったはずじゃ――」
「誰が仲悪いなんて言ったんですか」
 俺は咄嗟に蜂須くんを見た。蜂須くんはさっと俺から目を逸らした。
「――まさか、蜂須くんも知ってるのか?」
「その、酷評されたとは言ってましたね、あいつ」
 俺は煮え切らない蜂須くんと大谷くんを交互に見遣る。
 まさか――もしかして――仲が悪いと思っていたのは俺だけか?
「い、いつも喧嘩してたのに――」
「仲が良くても喧嘩くらいするでしょ。酒だってしょっちゅう一緒に飲むような仲ですよ、俺と岡永は。ついでに蜂須も。岡永とのルームシュア相手だからな」
「お、俺だけ、俺だけが――」
 アシスタントの中で――仲間はずれだったということか?
 俺ががたっと席を立った。そして蜂須くんの胸倉を掴んだ。
「何で俺だけ!」
 蜂須くんは目を白黒させながら、宥めるような口調で答える。
「だって真鍋さんって、僕たちよりも歳が少し上じゃないですか。話合わないだろうなと思って――。それだけですよ! それだけ! 別に意図的な他意はないですよ!」
「子供じゃないんだから、いい歳こいて仲間はずれくらいで怒らないでくださいよ」
 大谷くんに鼻で笑われ、俺は蜂須くんの胸倉から手を離す。
「俺は――俺はただ――」
「あんた、随分と器の小さい人間なんだな。人を進んで中傷するのはあんたみたいなやつだ」
「批判してるだけで、中傷ってわけじゃ――」
「事実を無視した持論だけの批判は批判とも呼べねぇよ。さしずめ、あんたは漫画家になりたいのになれない鬱憤から、他人の作品を読んだら最初に粗から探す捻くれた精神が培われちまってるんだろう。漫画雑誌に載るほどの作品には必ず何かそれほどの魅力があるはずなのに、それも一切探さずにただ嫉妬して、偉そうにここがダメだ、あそこがダメだ、と評論もどきを展開するだけ。あんたみたいなやつは一生漫画家にはなれないよ」
「な、ななな、お前に何がわかるんだっ!」
「わかるよ。なんせ俺の感性がそう言ってんだからな」
 大谷くんは意地悪そうに、にやりと笑った。
「俺、岡永と同じであんたの下描きのノート、読んだんだよ」
「勝手に人のものを――」
「あんたの言葉、そっくりそのまま返させてもらうよ」
 大谷くんは俺の方をぴんと真っ直ぐに見て、厭味ったらしい口調で言った。
「真鍋さん、あんた才能ないよ」
「――――」
 俺は――何も言い返せなかった。ただ絶句して、大谷くんのにやけ面を見返していた。
 助け舟を求めて蜂須くんにも視線を向けたが、蜂須くんは俺から目を逸らし続けていた。
「僕も――正直真鍋さんは才能ないと思いますよ」
 耳には届くように調整された蜂須くんの小声が、俺の鼓膜に深々と刺さった。
「――うるせぇ」
 俺は怒りとも悲しみともつかない感情で、がたがたと全身が震えた。
 震えながら呟いた。「うるせぇ」今度は先程よりも大きな声で。
「うるせぇっ! 才能なかろうが諦めなけりゃ夢は叶うんだよっ!」
 俺は机をばんと叩いて、その居酒屋を飛び出した。
 勘定は済ませなかった。傍からは食い逃げにも見えたかもしれない。
 とにかく俺は逃げた。大谷くんからも、蜂須くんからも――現実からも。
 だが、大谷くんも蜂須くんも追いかけてこないのに、現実だけは俺を追いかけてきた。
 いくら逃げても、どこまで逃げても、しつこく追いかけてきた。
 そのうち逃げても仕方がないのに気づいて、立ち止まったら追いつかれたが、追いつかれても特に何もなかった。ただ一つ、強烈な吐き気に襲われて、その場で嘔吐した。
 苔だらけの塀に手をついて、ふらふらした足取りで歩いた。目の前の景色がぐにゃりと歪んでいる。眩暈で何度も転びそうになった。実際に一度転んだ。痛かった。
 また急に、胃酸が喉元まで競り上がってきて、吐いた。そして泣いた。年甲斐もなく、声を上げて泣いた。通行人が汚らしいものを見る目をして私の横を通り過ぎていった。
 涙も胃液も枯れたら、また歩き出して自宅に帰った。
 帰宅すると、玄関先すぐのところで、サインボールを飾ったガラスケースが目につく。
 私は倒れ込むように、そのガラスケースにしがみついた。
 ガラスケースの側面に額をつけ、その中のサインボールにただ念じる。ただただ念じる。
 叶う叶う、絶対に叶う、諦めなきゃ叶う、叶う叶う、諦めなけりゃ、諦めなけりゃ――。
 そうしていたら、悲しみの方に傾いていた感情の比率が、段々と怒りへと移行していった。
「あいつら――見返してやる」
 見返してやる。再び蘇ってきた怒りの中で、俺は思った。
 才能がないといったあの台詞を撤回させてやる。そして認めさせてやる。
 和田敦彦賞を獲ったあの漫画よりも、岡永くんのあの漫画よりも、どの漫画よりも、面白い漫画を描いて、すごい漫画を描いて、わからせてやる。ぎゃふんと言わせてやる。
 俺はゆらりとガラスケースから離れて、いつも漫画を描いている勉強机に飛びつく。
 その上にはまだ三コマしか進んでいない、描きかけの原稿。
 ペンを握り、その上に走らせる。不思議と物語やら構図やらが脳裏に次々と湧いてくる。
 ――描ける。いや、描いてやる。描いて出世して、あんな口を叩いたことを後悔させてやる。
 しばらく私は無心で手を動かした。ペンが紙の上を滑る音だけが煩く聞こえていた。

 それから俺は三日三晩、寝る間も惜しんで漫画を描き続けた。
 すでに三社の出版社に持ち込んだが、どこも一目で没にされた。
 しかしこれで諦めて堪るか。諦めなければ夢は叶うのだ。あの日の桜庭選手が言っていたように。幸い、漫画なら描こうと思えばいくらでも描ける。死んででも漫画家になってやる。
 梶木先生宅へは行かなかった。アシスタントをしている余裕なんてなかった。
 もちろん、梶木先生からは電話がかかってきた。それには出た。
『真鍋くん、もう一週間も来ていない上に、連絡の一つもないじゃないか。どうしたの?』
「俺はもうアシスタントをやめさせてもらいます」
『どうして?』
「漫画家を目指すのに、アシスタントをしている余裕はないと思ったからです」
 俺がそう正直に堂々と言ったら、電話の向こうからは微かに溜息のようなものが聞こえた。
『うちのアシスタントやめたら収入はどうするんだ?』
「バイトします。それでもアシスタントの仕事よりかは時間が取れると思います」
『真鍋くんね、君、昨晩大谷くんたちと喧嘩したそうじゃないか』
「なっ、大谷たちから訊いたんですか?」
『真鍋くんさ、喧嘩したから気まずくて行きたくないとかそんな理由ではないの?』
「違いますよっ! 失礼なっ!」
『でも君、自分の漫画を馬鹿にされて怒鳴ったそうじゃないか。店や周りにいた客に謝るのに骨が折れたって大谷くん愚痴ってたよ。腹は立ったのはわかるし、酔っていたのもわかるけど、さすがに居酒屋の中で怒鳴り散らすってのは大人げないと思うよ、私は』
「それは確かに――そうかもしれないですけど――」
『意地張らずに戻っておいでよ。真鍋くんは私の漫画家歴の中で一番長く勤めてくれているアシスタントなんだ。感謝している。やめられると寂しいな』
「お、俺は、私は決心したんです。必ず漫画家になって売れてやるって、そう決めたんです」
『そういえば、真鍋くんの漫画、読ませてもらったことないな』
「そりゃ――読んでいただこうとしたことはありませんから」
『じゃあ読ませてよ。真鍋くんの漫画。どうしてもやめるっていうなら』
「わかりました。読んで納得できたらやめさせてもらえますか?」
『今までお世話になってきた身だからね。二言はないよ』
「それでは、すぐに自信のある一作を持ってご自宅に向かいます」
 俺は宣言通り自信のある漫画を一つ携えて、梶木先生宅へと向かった。
 あいつらは――蜂須と大谷は感性が死んでいるのだろうから、俺の漫画の良さがわからなくても致し方ないが、梶木先生なら――あの梶木先生なら、俺の漫画をわかってくれるのではないか。理解してくれるのではないか。認めてくれるのではないか。褒めてくれるのではないか。そんな期待感で胸の内がいっぱいに膨れ上がっていた。
 同時に不安感もちらついていたが、それは心の奥底に無理やり押し込んだ。
 梶木先生宅へ着くと、挨拶をしてきた奥さんも無視し、仕事部屋である廊下の奥の部屋へ。
 いつものように作業している蜂須にも大谷にも目をくれず、梶木先生のところへ。
 蜂須も大谷も俺にほぼ睨むような視線を向けていたが、今はそんなこと気にならなかった。
 梶木先生がゆっくりと顔を上げて、私を見上げる。
「君の漫画は持ってきたのかね?」
「はい、持ってきました。読んでください」
 俺は自宅から大切に抱えて持ってきた漫画の原稿を、梶木先生に差し出した。
 梶木先生は原稿を渡され、のんびりした手つきでページを捲った。
 真剣な面持ちで、漫画のコマの隅から隅までを見ているように、じっくりと読んでいた。
 そして読み終わると、原稿をぱさっと閉じ、俺に返した。
 俺は固唾を飲んで、梶木先生が感想を述べるのを待った。
「率直に言っていいか?」
 俺は頷く。「どうぞ、率直に」
「――才能ないよ、真鍋くん」
「はい? 何て言いましたか?」
 本気で聞き間違えかと思って、訊き返した。
「だから才能ないって言ったんだよ、真鍋くん、君は」
 脳裏が真っ白に染まった。何もなく、雪に覆われているように真っ白な脳裏に、『才能』という単語がふわりと浮かんで、それがどんどんどんどん増えていって、『才能』という単語が真っ白の中を埋め尽くしていって、埋め尽くしていって、埋め尽くしていって――。
「才能って――何ですか?」
 その震えた声は、口の中に溜まり過ぎた唾液のように、口の端から零れ出した。
「才能って、何ですかっ!」
 また怒鳴っていた。怒鳴ってしまった。酒も飲んでいないのに。酔ってもいないのに。
「もっと具体的に言ってくださいよっ! 才能なんて曖昧な概念で誤魔化さないで!」
 激昂する俺とは対照的に、梶木先生はずっと冷めた目で真っ赤な俺の顔を眺めている。
 その呆れているような態度が、今の俺の頭に血を昇らせるのを加速させた。
「黙ってないで何とか言ってくれ! それとも何か! あんたもあいつらと同じ人種か? あそこにのうのうと座ってる蜂須と大谷と、あんなやつらと同じ腐った感性だっつーのかよ。有名漫画家が聞いて呆れる。そんなんだから二番手漫画家なんて揶揄されるんだよ!」
 梶木先生がヒット作は出しても大ヒット作は出さないことから、ネット上では密かに二番手漫画家と蔑称がつけられているのは事実だった。しかし、梶木先生はそれに対して怒る様子も、ショックを受ける様子もなく、無表情で冷静な顔つきのままだった。
「それは知ってるよ。それで? その漫画がつまらないことと何が関係あるんだ?」
「つまらない」とはっきり言われて、後頭部とを強く殴られたような衝撃があった。
「俺は――俺は――」
 言葉が出てこない。ただ震えるばかりの、怒りとショックだけがある。
「真鍋くんは、これからどうするの? まだ漫画家を目指すのか? 君はアシスタントとしてはとても優秀だよ。このまま僕のアシスタントを続けないか?」
 梶木先生は私の右腕に触れてきた。俺はその手を振り払った。
「やめてやる、あんたのアシスタントなんて! もう二度とこんなところ来るかっ!」
 俺は三つの冷たい視線を背に、梶木先生宅を飛び出した。
 走った。逃げるように走った。嗚咽が喉元から漏れ聞こえていた。
 悲しかった。虚しかった。何よりも腹立たしかった。怒りが治まらなかった。
 八つ当たりに自販機横のゴミ箱を蹴飛ばし、それでも足りず、俺の前を横切ろうとした野良猫を蹴り飛ばして、それでも足りず、よぼよぼの老人をこけさせて、それでも足りず――。
 帰宅したら、さらに自宅の中で暴れた。
 本棚を倒して床に漫画を散乱させ、皿やコップを壁に叩きつけて壊し、机や椅子を蹴り飛ばして引っ繰り返させた。その拍子に、机の上に乗っかっていたリモコンが裏返しで床の上に落ち、テレビに電源が点いた。ニュース番組を放送していて、芸能人の不倫騒動を報道しているが、今の俺には酷くくだらないしどうでもいいし、それどころではない。
 ペンを折り、原稿用紙を破り捨て、インクをそこら中にぶちまけた。
 極めつけはガラスケースを玄関先に落として叩き割ったが、そのときに我に返った。
 粉々に砕けたガラスケースから、桜庭選手のサインボールが転がり出る。
 私は慌ててそのサインボールを拾い、抱き締め、その状態で身を丸くした。
 そして念じた。願った。祈ったといってもいい。とにかく繰り返し同じことを想った。
 夢は叶う、夢は叶う、諦めきゃ叶う、叶う、夢は諦めきゃ叶う、夢は――。
 こうすれば、いつもなら段々と精神が落ち着いてくる。落ち着いてくるはずなのだ。
 それなのに今回は、いくらそう念じても、まったくそんな兆しはない。
 荒い呼吸も、早い脈拍も、落ち着くどころか、さらに激しくなっているような気がする。
 夢は、夢は、ゆめ、ゆえ、ゆめ、ゆめは、ゆ、め、ゆ、ゆ、ゆゆゆゆゆ――。
 頭の中がバグって、言葉がゲシュタルト崩壊を起こして、眩暈でぶっ倒れそうだった。
 もう死ぬかもしれないと思ったときだった。テレビから、あの名前が聞こえてきたのは。
『――元スーパー巨神の選手、桜庭智孝――』
 俺はその名前を聞いた瞬間に顔を上げ、そしてテレビの方へと首を回した。
 果たして、俺は絶句せざるを得なかった。
 テレビ画面の隅にでかでかと表示された、こんなテロップを目にしたから。
『元スーパー巨神の選手、桜庭智孝容疑者、覚せい剤所持の疑いで逮捕』
 俺の腕の中から、サインボールを落ちてころころと転がった。
『本日未明、元スーパー巨神の選手、桜庭智孝容疑者が覚せい剤所持の疑いで逮捕されました。事務所のマネージャーからの告発があり、警察が桜庭容疑者の自宅を捜索したところ、覚せい剤が発見されたとのことです。桜庭容疑者は覚せい剤所持の容疑に対して、「非常に申し訳ないとしたと思って反省している」とコメントしており――』
 アナウンサーの声が段々と聴覚から遠ざかっていく。同じく俺の意識も遠ざかっていく。
 狭まる視界の中で、手錠をかけられ、パトカーに乗せられる、老いた桜庭選手の、不健康そうな青白い顔がテレビ画面に映っていた。あの日、私にサインボールを渡したときの、爽やかな笑顔とは似ても似つかない、見るも無残な顔だった。
 俺は物の散乱する部屋の真ん中に、ついにばったりと倒れて気絶した。
 意識が完全に落ち切る瞬間に、目の端にあのサインボールが見えた。

 数日後、俺は漫画道具一式と、あのサインボールをゴミ袋に詰めて、燃えるゴミの日にそのゴミ袋を、住んでいるアパートの真向かいにあるゴミ捨て場に捨てた。
 大事に取っておいた漫画全般は、別の日にすべて纏めて捨てた。
 窓の外から顔を出して、ゴミ袋が収集車に収集されるのまでしっかり見届けた。
 もう俺の住む部屋には、俺が漫画を描いていた痕跡は何一つ残っていなかった。
 何かから解放されたような清々しい気分で、俺は空を見上げた。
 その空は、どこまでも青く、そして果てしなく澄み、輝くように晴れ渡っていた。

サインボール

サインボール

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-08-17

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