シンクロする白 07

水筒に書かれた私の名前を見て、ゲシュタルト崩壊だ、と彼は言った。その時その意味を私は知らなかったけれど、
たしかに何かが私の中で壊れた気がした。

私が男の顔を見上げると、彼はこんにちは、と言ってゆるく微笑んでから

「これはなんの呪文?」

 水筒をぐるりと一周しているマジックの文字を指差した。

「呪文ていうか結界というか、まあ私の名前です」

 私が胸中のもやもやを解消しきれぬまま曖昧に答えると、男は全然わからないと正直な感想を述べた。

「あのですね、私の名前は守屋茂里といいます」

 私は男の方に向き直ると、水筒を持って掲げてみせた。

「これはもりやもり、と私の名前が続けて書いてあります。本当ならもりやもり、もりやもり、となりますが、
もりやもりやもりやと続ける方が面白いので、当時小学生だった私は水筒にこれを書いたんです。今でも大切な物にはこの結界を張ると、
不思議と忘れたりなくしたりしないんです」

「へー、ちょっと見せてくれる?」

 男は私の手から水筒を受け取ると、左手で底を支え、右手でゆっくりと本体を回しておー、と感嘆した。それから

「あ、ゲシュタルト崩壊」

 そう言いながら、水筒を回し続けた。

「え、何?何崩壊?」

 私は立ち上がり、男と一緒に水筒を見つめる。小学生の私が書いた文字は、中途半端に習った書道のせいで、
とめやはねがかなりダイナミックだ。

「こうして同じ文字の連なりを見ていると、文字が文字に見えなくなってくることがあるでしょう」

「あるある!よくある」

「その現象を、ゲシュタルト崩壊って言うんだよ」

「うそ、だってあんなの気のせいだと思ってた」

「世の中には、みんなが気のせいだと思って通り過ぎるようなことを、ちゃんと立ち止まって考えられる偉い人がいるんだよ。
偉い人はちゃんと研究して、それに名前を与える。その名前は別に知らなくても生きていけるけど、知れば世界の輪郭線が少しだけくっきりとする」

「ただのおばさんだと思っていた銅像に、八重垣姫って名前がちゃんとあるみたいに?」

「そうそう。君が諏訪で出会った麦わらの女の子から、茂里ちゃんになるみたいに」

 私は頭一つ分高いところにある男の顔を見上げた。あまり接点のない世代だからなのか、彼が今何を考えているのかいまいち想像できない。
親父は一発で喜怒哀楽がわかるし、同級生はたいてい好きな人のことを考えている。男はおそらく二十代後半から三十代前半といったところだろう、
その表情は穏やかなのにどこかくたびれており、眠たげなのに利発そうで、微笑んでいるのに悲しそうだった。

「あなたの名前はなんですか。私も自分の世界をくっきりさせたい」

 私が言うと、男はそれもそうだねと答えて背筋をしゃんと伸ばした。

「恩田志朗、二十九歳です。諏訪には二日前から一人で来ています。このカメラの名前はカノンEOS7D、写真は趣味で、本職は保育園の先生です」

 その男、改め恩田さんはよろしくお願いします、と言って大きな手を差し出してきた。私は帽子を脱いだものの、
前髪がぺったりとおでこに張りついているのに気がつき、慌てて手ぐしで整えてから握手に応じる。恩田さんの手は温かいのにさらりと乾いていて、
真夏でも触れていたくなるほど気持ちがよく、逆に私の手は彼の手の中でみるみる汗ばむから嫌になった。

シンクロする白 07

シンクロする白 07

芸術学部への進学を目指し、毎日近所の湖でスケッチをしている茂里。夏休みのある日、彼女は湖上に立つ八重垣姫を写真に撮る恩田志朗と出会う。 八重垣姫が誰なのか知らない茂里は、生粋の地元民である親父に話を聞く。以来八重垣姫はたびたび茂里の妄想に登場し、恋愛について口を出すようになる。 ある日茂里がいつものようにスケッチをしていると、足の悪い男が近付いてくる。するとその男との接触を阻むかのように、一匹の白蛇が茂里の前に現れる。

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更新日
登録日
2012-09-25

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