シンクロする白 06

水筒に書かれた私の名前を見て、ゲシュタルト崩壊だ、と彼は言った。その時その意味を私は知らなかったけれど、
たしかに何かが私の中で壊れた気がした。

「へっ…」

 へび!と叫ぼうとしたものの、大きな声を出したら逆に襲われそうな気がして、私はすんでのところで悲鳴をこらえた。
男はちらちらと視線をこちらの方へ向けるものの、蛇に気付いていないのか、はたまたこの状況下で蛇がいることに何ら
違和感を覚えぬ非常識な人物なのか、一向に慌てた素振りを見せる様子はない。

 私は極めてゆっくりとした速度でコップの茶を地面にこぼし、そろりとスケッチブックを閉じて身支度をととのえると、
相変わらず舌だけを気味悪くちらつかせて私を黙視している蛇から徐々に尻をスライドさせて遠ざかり、何食わぬ顔をして
席を立った。そのまま左向け左をして、元来た石彫公園の方へと歩き出す。足の悪いおじさんを置き去りにするのは心苦しいが、
彼には彼の立ち去るタイミングがあるに違いない、と半ば無理矢理納得して歩き続けた。

 乗り場にはちょうど諏訪湖一周を終えた遊覧船が戻ってきたところで、親子連れやらカップルやら何人かの観光客が、
私とすれ違いざまにベンチのある方へと歩いて行った。しかしながら、誰一人として騒いだり悲鳴を上げたりする者はおらず、
私が二百メートルほど進んだあたりで恐る恐る後ろを振り返ると、ベンチにはすでに男の姿も蛇の姿も見当たらなかった。

 私は狐につままれたような心地になり、しばらくぼんやりとその場に立ち尽くした。乗り場では今や乗船を待ちわびる客が集い、
弛緩した空気の中で談笑している。まるで舞台のシーンががらりと入れ替わったみたいに、そでに捌けた自分だけが先ほどまでの奇妙な気配を引きずっていた。

 携帯電話を取り出して時刻を確かめると、十時十分だった。すでに日差しはじりじりとして、おとなしく絵を描くには向かない陽気だったが、
私はもう一度りんご石に戻ってみることにした。待合所の写真を撮らなかったのは心残りだけれど、人の輪をかき分けてゴミ箱を撮影するのも
気が引けるので諦めることにした。

 ふたたび私が歩き出そうとした時、ちょうど乗船のアナウンスが流れ始め、遊歩道にたむろっていた人々がぞろぞろと動き始めた。
するとその足元を、何やらさらし布のような白い物体が右に左に動いている。乗客は相変わらず、その物体に足を取られたり驚いたりしていない。
やはりただ一人私だけが、それを白蛇と認識し、注目しているのだった。

 そうか、お前はつまりそっちの世界の奴だな。私は心の中で蛇に呼びかける。いかにも、我は神の使いである、などと声が返ってくるはずもなく、
その白蛇はふたたび人影のまばらになった道の真ん中で頭をもたげ、じっとこちらの様子を窺っている。コンクリの地面は熱いはずなのに、
蛇は一層涼しげにその滑らかな生成り色の皮膚をぬらつかせており、やがてゆるやかにその頭を着地させたかと思うと、こちらに向かって静かに前進を始めた。

 私はもはや、恐怖を感じてはいなかった。それどころか、妙に腑に落ちたような気持ちになって、その蛇が自分の方へと近付いてくるのを見守っていた。
どうしてそんな風でいられたのかはよく分からない。けれども蛇に毒がないことも、私に危害を与えるつもりもないことも、何故だかちゃんと知っていた。

 蛇は私のいる五メートルほど手前で停止すると、ふたたびぬいと頭をもたげてこちらを見つめた。黒曜石のように黒く澄んだ瞳は、
喜怒哀楽のちょうど中心を映し出す鏡のごとく、どこまでも平静な輝きを湛えている。私がもっとよくその姿を観察しようとしゃがみ込むと、
蛇はまるで私の視線を避けるみたいにぷいとそっぽを向き、そのまま遊歩道を外れて一メートルほど落差のある諏訪湖の淵の方へと這って行ってしまった。

 私が慌てて蛇の消えた場所を覗き込むと、蛇は水際に作られた狭い足場の上に胴体を折りたたんで座っていた。
そのまましばしの間舌をちろちろと動かしてあたりの気配を確かめている様子だったが、やがて時は満ちたとばかりに凪いだ諏訪湖へ勢いよく滑り込むと、
水深十センチくらいのところを浮島の方角に向かって泳ぎ始めた。藻草色に濁った水の中で、その白い胴体はしばらく浮き立って見えていたが、
急に風が強くなり、私が麦わら帽を押さえるのに気を取られているうちに、蛇は湖のより深い処へと潜ったようだった。

 私は遊歩道の脇にしゃがみこんだまま、ぼんやりと諏訪湖を眺める。夢や進学を理由にこの土地を離れたいと願っていたけれど、
私は離れる以前に根付いてさえいないのかもしれない。学校でも家でも絶え間なく続く息苦しさは、たぶんこの土地が狭いからではなくて、
入れてもいない場所から出ていく素振りをずっとし続けているからだ。

「もりやもりやもりやもりや…」

 ふいに呪文を聞こえる低い声が聞こえ、白蛇に引かれていた私の意識は現実に引き戻された。
振り向くと、昨日りんご石で出会った若い男が傍らに転がしておいた私の水筒をじっと見ていた。

シンクロする白 06

シンクロする白 06

芸術学部への進学を目指し、毎日近所の湖でスケッチをしている茂里。夏休みのある日、彼女は湖上に立つ八重垣姫を写真に撮る恩田志朗と出会う。 八重垣姫が誰なのか知らない茂里は、生粋の地元民である親父に話を聞く。以来八重垣姫はたびたび茂里の妄想に登場し、恋愛について口を出すようになる。 ある日茂里がいつものようにスケッチをしていると、足の悪い男が近付いてくる。するとその男との接触を阻むかのように、一匹の白蛇が茂里の前に現れる。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-25

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