シンクロする白 05

水筒に書かれた私の名前を見て、ゲシュタルト崩壊だ、と彼は言った。その時その意味を私は知らなかったけれど、
たしかに何かが私の中で壊れた気がした。

翌日、いつものように石彫公園に向かうと、りんご石で小さな男の子と若い母親が座って談笑していたので、私は場所を変えて絵を描くことにした。

 公園を抜け、諏訪湖沿いに延々と続く遊歩道を歩いて行く。なだらかな弧を描く道の先では、間欠泉が朝一番の噴出をはじめた。
子供の頃の私は、あの高く上る湯柱に脅威を感じ、下手に近付けば死ぬとさえ思っていた。間近で感じだきつい硫黄の臭いや、
熱気を帯びた飛沫の感触は、未だ鮮烈に記憶に焼き付いている。だが今私が目にしている遠くの湯柱に畏怖の念は感じられず、
噴き上がる湯にも勢いがない気がする。それは単に私の背が伸びたせいか、もしくは記憶が誇張されただけだろうと受け流していたけれど、
もしかすると、現実に湯の量が減っているとか、何か原因があってそうなっているのかもしれない。年々家のベランダから花火が見えなく
なっていくように、きっとほかの事も少しずつ変わっているのだ。私が気付く、気付かぬということなど関係なしに。

 遊覧船乗り場の前に設置されたベンチに腰を下ろし、私はスケッチブックを広げた。ちょうど遊覧船が出発したばかりなのか、
あたりには人がほとんどいなかった。水筒から冷えたジャスミンティーをコップに注ぎ、それをひと息に飲み干して鉛筆を動かし始める。
湖上にせり出して建てられた船の待合所はほどよく古び、ほどよく雑然としていて、ここ数日人間や遠景ばかり描いていた
私にとって、いい気分転換になりそうだった。

 私の好きな長谷川りん二郎という画家は、絵を描く時に全体をとらえて描いていくのではなく、たとえばこの待合所であれば、
まずベンチを完成させて、次にゴミ箱を完成させて、自動販売機を完成させてと、個々の物質をひとつずつ描き上げていくらしい。
目の前のノスタルジックな空間を見ているうちにそんな事を思い出し、私はとりあえず一番手前にあった丸い金網のゴミ箱を完成させることにした。
中に入っている空き缶も、金網ゆえにすべて透けて見える。その入り組み方やひしゃげ具合をとらえるのに夢中になっていると、
ざっ、ざっ、ざっと、何かを引きずるような音が近付いてきた。

 音のした方を振り向くと、初老の痩せた男が杖をつきながら歩いてくるところだった。ぱきっと白いポロシャツをまとい、
皺のないダークグレーのズボンをはいた男の右足は、スニーカーの底が完全に地面から離れて内側を向いている。
一歩進むごとに男の体は大きく傾き、今にも転んでしまいそうだった。

 男は私のとなりのベンチに腰を下ろした。あまりじろじろ見るのも失礼なので絵に意識を戻そうと試みたものの、
激しく上下する肩の動きや荒い息遣いが伝わってくる。私は水筒を開けてコップにお茶を注ぐと、男の前に差し出そうとした。

 だが横を向いた瞬間、私はコップを握りしめたまま動けなくなってしまった。男の座るベンチの手すりには、
体長八十センチほどの細い白蛇が絡み付いており、赤い舌をちろちろさせながら私を見ていたのである。

シンクロする白 05

シンクロする白 05

芸術学部への進学を目指し、毎日近所の湖でスケッチをしている茂里。夏休みのある日、彼女は湖上に立つ八重垣姫を写真に撮る恩田志朗と出会う。 八重垣姫が誰なのか知らない茂里は、生粋の地元民である親父に話を聞く。以来八重垣姫はたびたび茂里の妄想に登場し、恋愛について口を出すようになる。 ある日茂里がいつものようにスケッチをしていると、足の悪い男が近付いてくる。するとその男との接触を阻むかのように、一匹の白蛇が茂里の前に現れる。

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-25

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