シンクロする白 04

水筒に書かれた私の名前を見て、ゲシュタルト崩壊だ、と彼は言った。その時その意味を私は知らなかったけれど、
たしかに何かが私の中で壊れた気がした。

「親父うるさい!もうご飯いらない!」

 鍋にあったとうもろこしをひとつ掴み、私はさっさとキッチンを出ていく。ママが茂里、茂里と呼びかける声を無視して
大きな音で扉を閉め、音を立てて階段を上る。いつもこうだ。私は家族三人仲良くやりたいと思っているのに、私がいるこ
とでうまくいかなくなる。親父は口が悪すぎて、私は傷付きやすすぎる。ママは私が怒ると親父を叱るけれど、たぶん私が
何に怒っているのか、本当の意味ではわかっていない。

 部屋の明かりをつけると、ティッシュを二、三枚取り出してその上にもろこしを寝かせ、ベッドの上に放り投げてあった
リュックサックからスケッチブックを引っ張り出した。枕元に常備しているペンを手に取り、適当に白いページを開くと、
衝動に任せて手を動かしていく。現れたのは女の人の顔だった。目は少し吊り上がり、鼻筋はまっすぐに通っている。柔ら
かく結ばれた唇は小ぶりで、私とは正反対のすっきりとした美人だ。おや、あなたはもしや八重垣姫。

 いかにも、わらわの名は八重垣姫。愛しき人のためであるなら、凍てつく湖も渡ってみせようぞ。

 あなたのイメージが変わりました。おばさんなんて言ってごめんなさい。そして私が不勉強であるがゆえに、あなたの髪
型や着物がうまく想像できないことをお許しください。とりあえず黒髪さらさらストレートの女子高生風にしておきます。

 苦しゅうない。わらわが恋をしたのも、ちょうどお前と同じ年の頃だったはずじゃ。

 逆に言ったら、恋以外することのなさそうな時代ですもんね。暇そう。

 無礼者。戦乱の世に暇などないわ。「女の武器」とはよくいったもの、常に名刀のごとく自らを磨き上げることこそ女の
使命なのじゃ。お前も少しは女を磨け。

 興味ないです、恋もしてないし。今はただ、もっと広い世界に出て暮らしてみたい。どこの高校に通ってるだとか、親は
何の仕事してるだとか、男だからとか女だからとか、そんなことで自分の人間性を決められてしまわない、どこか広いとこ
ろに行きたいんです。ここは私にとって息苦しい。

 お前、諏訪湖の対岸に行くことさえ必死だったわらわを前に、たわけた事ぬかすな。大体女であることをないがしろにし
て、どうして自分の人間性が高められようぞ。ところで茂里、とうもろこし冷めちゃうわよ。

 突然もろこしの話題を振られて我に返ると、ママが私の部屋を通り抜けてベランダに出て行くところだった。

「ちょっとママ、ノック!」

「茂里、今日からだよ。一緒に見よー」

 ママは私の怒声などもろともせずにひらひらと手招きしている。

「子供にだってプライバシーはある…」

 ドーーーーン パラララララ

「たーまやー!」

 私の文句はあっさり花火の音とママの掛け声にかき消された。これから毎日きっちり三十分間、十五日の湖上大花火大会を
ピークに、八月の末までこの調子で花火が上がり続ける。ちなみにママのテンションが上がるのは初めの三日間だけだ。

「茂里、はやくー!」

 腹は立てども楽しんでいる人の気分を害すのはつまらないので、私は仕方なくママを追ってベランダへと出た。ママは景気
よく上がる花火に向かって「たまや!」「かぎや!」といちいち叫び続けている。

「ママ、また近所から苦情くるよ」

「あら、花火師さんにエール送って何が悪いのよ。茂里もちゃんと応援しなさい」

 ママは自由だ。一流企業の事務を辞めて親父と見合い結婚し、東京から嫁に来た。美人でセンスもあるのに野心も夢もなく、
あまり深く考え込んだり悩んだりしない。親父との結婚を決めた理由も「なまりが可愛かった」からだし、諏訪での生活も
「色々窮屈だけど、野菜がおいしい」と総括している。願わくば、私もママみたいにからっとヘルシーな油で揚げたハモの
天ぷらのごとく、さくさくふんわりとした人間になりたい。だが私には野心も夢もあり、父親ゆずりの濃厚ソース顔で、
おまけにどうやったら深く考え込まずに済むのか、深々と考えている始末である。

「茂里、本当に絵画教室とか通わなくていいの?」

 ふいにママが真面目腐った表情で尋ねてきた。

「別にいい。学校では尾形先生の指導受けてるし、今のところ成績も素行も問題ないから」

 私が真面目腐って言い返すと、ママは

「そこが心配なのよ。茂里は真面目だから、あんまり一人で根詰めてやってると、ある日糸が切れちゃうんじゃないかと思って」

 そう言って頭の横で左手をくるくるぱー、と動かした。

「失敬な。私は好きでやってるんだから問題ないよ。もう飽きたから中入るよ」

「だめよ、これからスターマインでしょう。最後まで見なさい」

「なぜそこまで花火見物を強制する」

「一人じゃつまらないからよ」

 そうこう言っているうちに、小康状態だった花火がふたたび威勢良く上がり始めた。私は部屋に戻るのを諦め、ママと並んで夜空を見上げる。

「だいぶ昔より見えなくなっちゃったね」

 私が言うと

「あんなところに高いビル建てて、本当空気読めないわよね」

 ママが隣で毒づいた。

「あぁお腹がすいてきた」

「下にご飯と青菜炒めとしょげたお父さんが残ってるわよ」

「あっそう」

「ママ今日シフォンケーキ焼いたんだけど、一緒に食べない」

「んー、いらないかな」

「お父さんに茂里呼んでくるからまだ食べちゃだめって言ってあるの」

「へー」

「来てくれないと、私の顔が立たないんだけど」

「わかったわかった!」

 私がついに根を上げると、ママはにっこりほほえんで

「それじゃあ行きましょう」

 自分から最後まで見ろと言いだしたくせに、さっさと部屋に入っていった。

 私はもう一度夜空を振り返り、ビルの陰に半分隠れた花火に別れを告げる。ママの言う通り、
花火は一人で見てもちっとも面白くない。それどころか、爆音に震える夜の空気がちりりと私の胸まで差し込むから、
私は恋が何かも知らぬくせに心底切ないような気分になり、ため息をついたりするのだった。
 

シンクロする白 04

シンクロする白 04

芸術学部への進学を目指し、毎日近所の湖でスケッチをしている茂里。夏休みのある日、彼女は湖上に立つ八重垣姫を写真に撮る恩田志朗と出会う。 八重垣姫が誰なのか知らない茂里は、生粋の地元民である親父に話を聞く。以来八重垣姫はたびたび茂里の妄想に登場し、恋愛について口を出すようになる。 ある日茂里がいつものようにスケッチをしていると、足の悪い男が近付いてくる。するとその男との接触を阻むかのように、一匹の白蛇が茂里の前に現れる。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-25

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