8月16日


だけど エスは おれより 着せ替えのできる クマのぬいぐるみが 好き。つぶら な目をした お人形、おれが 死んだら その身を貸してね、おれ だってエスに優しく抱きしめられて みたい。エス お前は 悪い子じゃないよ、だって ピアノの トリルが こんなにも 澄んでいるんだもの 誰もお前を責めないよ。

午後一時五十三分に なっても おれの 気だるさは ピークを更新する一方、上機嫌なエスはピアノを弾いていて、ねぇ ナオミ、譲治さんの ために 一曲弾いて差し上げてよ、「可哀そうだから。──」(この雑な引用は オマージュだ なんて言ったら おれは 呪われそう )

だけど エスは おれより 拍手を送らない クマのぬいぐるみが 好き。ベランダの暖かいタイルに 裸足をつけて おれは エスのピアノを聴いた。エスは 誰のため でもなく ただ 気まぐれに ピアノの重い蓋を押し上げて、綺麗な 音が 暗い 家に満ちて、海へも 山へも行っていない おれたち の 夏に 、コップに入った水へ 絵の具が一滴 垂らされたように 色が ついた。

だけど エスは夏を愛している。

キャナビス、コカイン、咳止め薬、グラスに残った麦茶に 射す夕日。
着せ替え できるクマのぬいぐるみ より、拍手を送る おれより、この太陽の下で 家に帰ろうとする 下着みたいな服を着た女の子たち、 子どもの 膝についた 金色の砂、耳に下がった貝殻のイヤリング、白い海辺 の サーフボードと 波の癇癪、ピアノの音が 海に溺れて耳に届かない場所 へ 向けて、
エスは ラブソングを 歌っている。

8月16日

8月16日

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-08-16

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