ヒトツキ
人は彼をこう呼んだ、ヒトツキ。夜はよからぬ者たちとつるみ、日のあるうちは多くの人々から羨望を集める存在として生きる。そのどちらも彼であり、だからこそ、世の中には、彼を嫌うものがいない。夜には狼のように、高いビルの上や、丘のような場所で吠え、叫び、悪運にしか恵まれなかった人間たちにエサを与える。日があるうちは、自分の顔を売り込んで、あふれんばかりのアイデアや才能を宣伝し、徹底的に彼にあこがれるものたちのイメージを作り出す、その顔は仮面だが、すがすがしいほどに、彼の内面を映している。彼は天性の役者でもある。彼にあこがれる人々の日常を見てみよう。人々の身の回りは電気的な刺激にあふれている、刺激的な食品や電化製品やモニター越しのコンテンツであふれている。仮想現実によって、現実が拡張され、あるいはさらに現実味を増している。多くの情報や多くの刺激にあふれ、人々は辟易している、人々は疲れを見せない。その表情を見せる事すらゆるされず、心のどおっかでは。どこかに吐き出したくて仕方がない。彼の表の顔をみただろうか、にこやかにほほ笑み、テレビやインターネット、ラジオに引っ張りだこの、スーパーマルチタレント。彼は超能力を使い、人心を掌握するだろう。だが同時に人々は裏の顔を見たはずだ。裏の顔は恐ろしい科学者だ。彼の開発した、ひとつのタワーは、日夜人々の人心を掌握し、悪の組織をつかさどり、どんな噂や事故も引き起こして、あらぬ噂や犯罪を作っては、ライバルの生活を根底から崩す算段を立てている。そのどちらにも、人々は自分の日常との共通点を見出した、見出してしまった。それは退屈な人生の残像だ。息苦しい時間の制約だ。それは満員電車に揺られるときに現れる魔が差すような瞬間であり、それは、誰かが落したものを拾い、持主に届ける良心の固まりだ。
それを壊すものが、彼なのだ。この時代には、コンクリートの塔に囲まれず、ぜいたくをせず生き抜く事はむつかしい。だから彼には超能力がある。どんなことをいっても、自分の言い分の逃げ道を作る、それは勧善懲悪であってはならない、悪と善を両方とも持っている彼自身の幻影を人々に見せるのだ。科学者の彼が、超能力を見せる、その陳腐なトリックこそが、この時代にこそふさわしい。彼はアイコンだ。濃いメイクは、歌舞伎役者を連想させる、長いまつげも、鋭い目つきも、まるで本来のその国の形を重んじているようだ。
彼は人々を魅了する、その立場だけで、彼は勝ち組なのだ。
この時代には、嘘つきがいなくなったのだ。誰もが善人であり、悪人であることを自覚して、それを何とも思わない、でなければ、人々は決して分かり合う事すらできないのだ、かつて嘘つきは、純粋だった、だが嘘つきは、この時代には必要がない。彼はタレントにもなり、科学者にもなり、アイドルでもあり、歌手でもあり、俳優でもあり、作家でもあり、悪人でもある。時代は彼のような人物を必要とする、優柔不断な悪と善の心を使いこなす彼を。必要なのは、悪でも善でもない彼は、彼等は、そのことにいち早く気がついてしまったのだ。彼はモニターのどこにでも存在できる。彼は都市伝説であり、彼は退屈な有名人だ。ならば彼や彼等のあこがれとは、生産的なものか、そうでないものなのか、どちらでもいい、われら日陰のものたちは、あの悪党とも善人ともいえない男をあがめる事でこそ、結束するのだ。彼は英雄だ、だが人々は、我々は、彼の名前を、彼は決して知らない、語らない。彼がアンドロイドか人間なのかさえ、どこのだれにもわからない、電脳世界と現実世界が、いくつかの拡張された空間によってその境界を失ったときから、観客と、役者は、舞台と客席は、その境界線を失ったのだ。何を迷う事があるだろう。彼は彼等であり、彼等もまた、彼なのだ。
ヒトツキ