シンクロする白 03
水筒に書かれた私の名前を見て、ゲシュタルト崩壊だ、と彼は言った。その時その意味を私は知らなかったけれど、
たしかに何かが私の中で壊れた気がした。
「おめえ、そんなことも知らねえだか」
夕食時、私が八重垣姫について尋ねると、親父は冷酒をすすりながら呆れたように言った。
「だって、習った覚えないし」
私が丸のまま出されたトマトに塩をふりながら答えると
「疑問を持ったら自分で調べろ。何のためにパソコン買ってやったと思ってんだ。そんなんだから、おめえはいつまで経っても成長しねえだ」
親父は矢継ぎ早に言いたいことだけ言ってしまうと
「おいママ、めしくれ」
そう言ってつまみにしていた塩辛の小皿を私の方へと押しやってきた。
「茂里、とうもろこし茹でたから運んでくれる」
私が親父に何と言い返そうか画策していると、ママが良からぬ空気を察したのかキッチンから話しかけてきた。
私はかじりかけのトマトを置いて、手をTシャツで拭いながらキッチンへと向かう。大鉢に入れられた茹でたてのもろこしはずっしりと重く、
青さと甘さの入り混じる湯気をもうもうと立てている。
「はじめさん、私も聞きたいわ、八重垣姫の話」
ママは親父の前にご飯と味噌汁をよそった茶碗を差し出すと、にっこりと笑いかけて言った。
「おまえも諏訪に嫁に来たんなら、少しは自分で調べろよう」
親父は仏頂面でそう答えつつも、私をこき下ろしていた時より確実に柔和な口調になっている。
ママが諏訪の歴史に興味がないのは火を見るより明らかなのに、笑顔と白飯味噌汁に易々と買収される親父が哀れに思えてくる。
「八重垣姫はな、上杉と武田の争いを止めさせた伝説上の人物だ」
親父は自分がご機嫌を取られていることにも気付かずに語り始めた。ママはもろこしの実を器用に芯から外しながら、
さも興味深いといった様子で頷いている。
「武田家には、諏訪の神様から授かった兜が家宝として伝わっていた。それを上杉謙信が借りたはいいけど、なかなか返さなんだわけ。
そんで武田家の息子が、自分の身分を隠して上杉家に潜入するんだけんど、上杉謙信はこれに気付いて武田の息子を殺そうとする。
八重垣姫っちゅうのは、この上杉謙信の娘で、武田の息子の許婚でもあったわけだ」
「どうして敵の息子と許婚なの」
親父にもらった塩辛をつまみながら私が尋ねると
「知らねえ。自分で調べろ」
相変わらず、私の質問にはそっけない。
「上杉謙信は、武田の息子が諏訪湖の対岸に出向いていたところを、追手を使って殺そうとする。それを知った八重垣姫は、
どうにかして武田の息子にそれを知らせたかった。けど諏訪湖は凍っていて舟は出せねえ、女の足じゃ追手に追いつけるはずもねえ」
「茂里もはじめさんももろこし食べたら。小口さんからもらったのよ」
案の定、ママはすでに興味を失いかけている。私は熱いのを我慢して手早くもろこしを折り、半分を親父の皿に乗っけてから、
話を続けるよう促した。
「そこで八重垣姫は兜を手に取る。すると兜に宿っていた狐の神様が現れて、諏訪湖を狐火で一直線に照らし出した。
八重垣姫はその道筋を急いで渡り、無事に武田の息子を助けることができたっちゅうわけ。これがきっかけで上杉と武田も和睦して、
二人も結婚したと、まあ簡単に言やあこういう話だ」
親父はそこまで話し終えると、味噌汁が冷めちまったと文句を言いながら、ふたたび箸を動かし始めた。
「そういえば前にもはじめさん、今の話してくれたわよね。その兜、今でも博物館かどこかにあるんでしょう」
「え、そうなの。ただの伝説じゃないの」
ママの言葉に、私が思わず声を上げると
「馬鹿だなおまえ。伝説っちゅうのは何がしかの真実が元にあってこそ生まれるだわ。諏訪なんて土着の神やら神道の神やら
ごっちゃになってるから、特にそういう言い伝えが多いだ。御柱も神渡りも、みんなそれぞれいわれがあるんだぜ」
親父はまるで世界中の人々が御柱や神渡りが何たるかを知ってて当然といった口調で言った。
シンクロする白 03