シンクロする白 02
水筒に書かれた私の名前を見て、ゲシュタルト崩壊だ、と彼は言った。その時その意味を私は知らなかったけれど、
たしかに何かが私の中で壊れた気がした。
男は首から仰々しいカメラを提げ、ごっつい黒ぶちの眼鏡をかけていた。
「こんにちは」
内心激しく動揺しながらも私が答えると、男は野良猫でも相手にするような調子で気安く微笑みかけてきた。
笑うと目がなくなり、口が大きく広がる人だった。
「君はあれ、ここら辺の子かな」
男はここら辺、といいながら諏訪湖を指差した。そんなところに人は住んでない、とは言わずに私は
「まぁそうです」
模範的な回答で男との距離を保とうとする。
「あの銅像って八重垣姫なのかな」
「いえ、あれは諏訪のビーナスです」
「でもあの肩に乗っかってるのって狐火でしょう。やっぱり八重垣姫がモデルになってるんじゃないのかなぁ」
男に言われて、私はあらためて銅像を眺めてみる。だがいくら真剣に観察してみたところで、私は八重垣姫を
知らないのでどうにもならない。
「ただの邪魔なおばさんだな、くらいにしか思ったことありませんでした」
私が答えると、男はあははおばさん、と笑いながら言った。
「君はあれだね、麦わら帽かぶって水筒とか持ってるから、遠目にてっきり子供かと思って話しかけたけど、中学生くらいなのかな」
「高校です。高校三年生です」
「や、それは失礼。何かあの、今けっこう流行ってる写真集の小鳥ちゃんて女の子にすごく似てたから、つい幼く見積もっちゃったんだな」
「小鳥ちゃんて、あの半纏姿で鼻水垂らして泣いてる女児ですか」
「そうそう、よく知ってるね。君もここの牧歌的な雰囲気がよく似合ってる」
男はすっかり私を田舎代表だと信じ込み、勝手に感心しはじめた。どうも観光客というのは、わかりやすい
田舎像に弱いらしい。私だって四六時中麦わら帽をかぶっているわけじゃないし、小鳥ちゃんの写真集に出て
くるような昭和レトロな暮らしを送っているわけでもない。牧歌的という言葉の響きも、何やらカントリーサ
イドの匂いがぷんぷんして気に入らない。
「あんなつまらない銅像撮ってどうするんですか。あなたはカメラマン?」
私が尋ねると、男はただの趣味だよ、と答えてから
「君のその絵は、きっとただの趣味じゃないんだろうね」
私の膝の上のスケッチブックを勝手に盗み見て呟いた。
「何かしらものづくりの仕事に就きたいと思ってます。一応私立に通ってるから進学はするけど、自分の手で
何かを生み出してそれで暮らしていけるのなら、今にでも働いてもいいと思ってます」
私が真面目に答えると、男はふうん、と張り合いのない返事をして黙ってしまった。
「大人は大体、遊べるうちに遊んでおけって私に言います。あなたもやっぱりそう思いますか」
「うん」
「でも別に、遊びたくないんです」
「どうして。友達と遊園地行ったり、彼氏とデートしたりしないの」
「したことあるけど、いつもやらなきゃよかったって思います。自分が自分じゃないみたいになっちゃうから」
「あー、なんかそれはわかるな。俺もこうやって一人旅しながら、若干どうしていいのかわからん、みたいなとこあるもんな」
「そうですか。じゃあ一人旅しなければよかったって、今思ってますか」
「いや、別に。ただ慣れてないだけだと思う。君も何回か友達と遊んだりデートしたりしているうちに、それが自然になってくるんじゃない」
今度は私がふうん、と言って黙る番だった。慣れてない、とは意外な答えだったからである。大抵の大人は
私の意見を不平ととらえ、そこから「思春期」という、時によってしか解決されない答えを導き出して我慢しろと言うのだ。
「慣れてきたら、遊びたくなるかな」
私がひとり言のように呟くと
「ならなかったら、勉強すればいいよ。知識は世界を広げる」
男は答えてから
「少なくとも、自分の住んでいる土地のことを知っておいて損はないと思うよ。たとえいつか、君がここを出て行くとしても」
八重垣姫の気持ちを代弁するような口調でそう言うと、額の汗を掌でぬぐった。
シンクロする白 02