シンクロする白 01

水筒に書かれた私の名前を見て、ゲシュタルト崩壊だ、と彼は言った。その時その意味を私は知らなかったけれど、
たしかに何かが私の中で壊れた気がした。

 水筒に書かれた私の名前を見て、ゲシュタルト崩壊だ、と彼は言った。その時その意味を私は知らなかったけれど、
たしかに何かが私の中で壊れた気がした。

 今年の夏休みは、素描の腕を上げようと心に決めていた。私が進学を希望する南海大学芸術学部の推薦を獲得する
ためにもそれは必須の課題であったし、それでなくとも、無性に絵を描きたい気分だった。若さゆえのありあまるエ
ナジーが、寝ても覚めても体の中をぐるぐると駆け巡っていた。

 ママに弁当を作ってもらい、家から五分の石彫公園に毎日通った。青々とした芝生に覆われた丘に点在する石のオ
ブジェの中から、諏訪湖が一望できるりんご石を選んで腰を下ろす。りんご石は私が幼稚園の頃から愛用しているお
気に入りの場所で、たたみ三畳ほどの舟型をした石の上に、大きなりんごのオブジェが無造作に乗っかっている。り
んごは寄りかかるのに丁度いいから、私は午前中の比較的涼しい時間帯を、たいていその岩舟の上で過ごす。

 すぐにどこかへ行ってしまいそうなものは写真を撮り、いつまでもいてくれるものはそのまま目に焼き付けてスケ
ッチしていく。散歩をする老人、その老人に綱を引かれるシーズー犬、そのシーズー犬が吠えかかるつがいのカモ、
驚いて飛び立ったカモが着水する諏訪湖、諏訪湖を往来する白鳥型の遊覧船、遊覧船の立てる波しぶきに踊らされる
スワンボートの大群。

 私は目に映るものを片っぱしから描いた。夢中になって鉛筆を走らせていると、いつの間にか陽は高くなり、額に
汗がにじむ。舟の上にぽとり、と汗が落ちる頃には、りんごも焼きりんごくらい熱くなっていて、私は半ばふらふら
になりながら舟を降りる。その後はなけなしの小遣いでアイスを買ったり、ラムネを買ったりして、湖畔端を散歩し
ながら帰路につく。友達とはあまり遊ばない。何の用もないのに、何となく会ってうだうだ話をするよりは、黙って
アイスの棒に群がる蟻を見ている方が、よっぽど性に合っている。

 その日もいつもと同じように、りんご石で絵を描いていた。夏休みということもあり、朝から観光客とおぼしき見
慣れぬ顔が多く行き交う。私はデジカメを手に取ると、波打ち際を歩く人々の姿をズームで観察し始めた。

 諏訪湖の淀んだ水に手を突っ込んではしゃぐ幼子、それを笑顔で眺める夫婦。旅館の浴衣と下駄を身に付け、砂利
の上を手を繋いで歩いているカップル、それをうらめしげに見つめる中学生とおぼしき男子。息子そっちのけで水切
りに興じているおじさん、そのとなりで湖面に浮かぶ『諏訪のビーナス』というつまらない銅像を撮影している若い
男。

「うわ」

 ふいにその若い男がこちらを振り向いたので、私は慌ててカメラを下ろす。膝の上のスケッチブックを開くと、あ
たかもずっとこうしていました、みたいな素振りで鉛筆を動かし始めた。

 若い男との距離は百メートルほどあったし、レンズ越しに目が合ったのも思い過ごしかもしれない、私は自分にそ
う言い聞かせて心を落ち着ける。そうしてそろり、と顔を上げると、目の前に男が立っていた。

「こんにちは」

 男は首から仰々しいカメラを提げ、ごっつい黒ぶちの眼鏡をかけていた。

「こんにちは」

 内心激しく動揺しながらも私が答えると、男は野良猫でも相手にするような調子で気安く微笑みかけてきた。笑う
と目がなくなり、口が大きく広がる人だった。

シンクロする白 01

シンクロする白 01

芸術学部への進学を目指し、毎日近所の湖でスケッチをしている茂里。夏休みのある日、彼女は湖上に立つ八重垣姫を写真に撮る恩田志朗と出会う。 八重垣姫が誰なのか知らない茂里は、生粋の地元民である親父に話を聞く。以来八重垣姫はたびたび茂里の妄想に登場し、恋愛について口を出すようになる。 ある日茂里がいつものようにスケッチをしていると、足の悪い男が近付いてくる。するとその男との接触を阻むかのように、一匹の白蛇が茂里の前に現れる。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-24

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