蛇と姫に纏わる屋敷の夜

祐喜代

魂を悪い方に引っ張る夜がある。
 そんな時は床の間に飾った般若の面が鋭い目でこっちを見ているような気がしたり、台所の煤けた神棚で信仰をないがしろにされた七福神たちが、薄笑いを浮かべながらこっちを見ているような気がして、本家の古い秘密を暴かねば安眠が得られないような強迫観念に捉われる。
 眠れずに屋敷を徘徊し出すと、厠へ続く暗い廊下の突き当たりにある姿見に、とうとう自分の内奥に潜む性悪狐の相が出て、何世代も前から屋敷に精緻な罠をしかけている女郎蜘蛛の舌舐めずりが、すぐ側まで迫っているような気配が確かにあった。
 私が住んでいるこの本家の屋敷は、遡る事神代の時代、顔に蛇の刺青を彫った男が、この土地の産土神であった姫神様を寝取った事から始まった言い伝えがある。
忌まわしき蛇。この屋敷にはその蛇による本望でない子供を授かった姫神様の呪いがかかっていて、この屋敷で生まれた男の子の容姿には代々畸形が続いていた。
それでも不思議と今日まで絶える事なく続いた由緒ある家柄であり、その逸話を証明するように私を含めた一族の者たちの顔には、くっきりとその蛇の刺青のごとき奇妙な痣が生まれながらにあった。
 この土地の産土神であった祖先の姫神様は、今も神代の自然を残すこの屋敷の広大な庭に設えた社に祀られており、現屋敷の当主である私の父を祭司に迎え、長きにわたる一族の栄枯盛衰をいつも静かに見守っている。
 私たち一族が栄えるためには、祭司となる事を義務付けられた代々の当主の裁量が全てであり、その祭司を務める者が産土神であり祖先である姫神様をないがしろにするような事になれば、顔に蛇の刺青を彫った男の悪しき御霊が何処からやって来て屋敷をうろつき、今晩のように不穏な出来事が起こりそうな気配を屋敷に漂わせるのだった。
 どんなに明るい月夜の晩でも、俄に黒雲が沸き立って月がそこに籠りきり、不吉なほどに強い風が吹いたかと思うと、屋敷の外を得体の知れない大男がさ迷い歩いているのかのように、ひどい家鳴りがする。そして屋敷の者たちは皆同様に蛇に睨まれる悪夢に悩まされ、顔の痣がのたうつように疼いて眠れぬ一夜を過ごすことになるのである。
 当主である私の父親が云うには、祖先である当家の姫神様が蛇の刺青をした男に弄ばれた夜がちょうどこんな有り様だったらしい。そして祭司の務めである朝夕の祈りを忘れた自らの怠慢を殊更に悔み、不穏な夜を鎮めるために一人姫神様を祀る社に籠る。
いずれ父親の跡を継いで私がこの屋敷の当主兼祭司を務める事になるのだから、父親の失態は他人事ではなく、私の身にもずっしりとのし掛かってくるようで、これから父親が荒ぶる蛇の御霊を鎮めるために行う緊急の儀式は、何があろうと社の外から片時も目を離さずに見守っていなくてはならない。
「キニニゲンッ、キニニゲンッ。悪しき蛇の御霊去り、姫神様の御霊宿りたまえッ」
 死に装束の父親が神器である香木の剣を手にして、当家の秘術である短い祝詞を上げると、それに合わせて私も同じ文言を一心にぶつぶつ呟いた。
 キニニゲン。この不可思議な響きを持つ言葉の意味は、祭司である父親にもその真意が伝えられていないようであるが、蛇の御霊がこの言葉を忌み嫌い、繰り返し用いればいずれは蛇の御霊が屋敷から遠ざかる力を持っている。それが本当の事だと私にも実感できるのは、父親に従ってその祝詞を唱えている間、のたうつように疼いていた蛇の痣が何事もなく平静さを取り戻しているからであった。
 屋敷中に響き渡る父親の必死の祝詞が、やがて不気味な家鳴りを静め、上空に漂う黒雲を散らした。気付けば風も凪いでいて、月がまた煌々と屋敷を照らしていた。
「蛇の御霊は去ったようだ。しかし姫神様を蔑ろにすればまた必ず現れるのが常。我が一族はその呪いと恩恵を神代より授かっている」
 私たち一族の者からこれまでに女性が産まれたことは一度もない。それは蛇に寝とられた姫神様が自分の身に起きた過ちを繰り返さぬように計らった定めであり、私たち一族は蛇に睨まれつつ、この先も祭司を立てて姫神様を祀る事で、なんとか生き長らえていかなくてはならないのだ。
私にはまだ深く伝えられていない事ではあるが、そんな呪いを受けつつも、私たち一族の血は何があっても決して絶やしてはいけないものだそうだ。
そうして私の一生は屋敷で始まって屋敷で終わるのだ。

蛇と姫に纏わる屋敷の夜

蛇と姫に纏わる屋敷の夜

  • 小説
  • 掌編
  • ホラー
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