天空に光すさびて
【天空に光荒びて
井の内に声あり
悪水ところを転じて
即ち地より鳴動す
沖遥か退く潮の
わたつみに至るを】
いつもこの夢を見る。
湧きあがる歌声は声明(しょうみょう)の祈りに似て。
夜明けの光のように涼やかで、ガラスの箱のように堅く澄む。
目を向けても何も見えないのに、ここは自分の街なのだ。
「翔(しょう)、ぼけっとしてど~したの? ほら、これ。見て。ヤッくんにデータもらっちゃった。こ
の白い靄、ど~見たって人型よね」
美咲(みさき)の言葉に我に帰る。
「う~ん? …タバコの煙じゃね? さもなきゃフォトショップ。ヤッチーの自演だよ」
「そうよ。あの人『廃墟と神霊のクラブ』なんて変なサークル立ち上げてるから、話題作りじゃないの?」
翔のカノの栞(しおり)も懐疑的だ。
「うん、かつがれてる可能性はあるよ」車を走らせながら、秀人(しゅうと)も口をはさむ。美咲のカレで
人もうらやむいい関係だ。「でも、いいじゃん。大学最期の夏休みに、4人共通の思い出作れれば」
要は目的や理由なんか、何でもいいのだ。
言い出しっぺの美咲にしろ、心霊なんて本気で信じてはいない。
「中学の林間学校思い出すわぁ。そのころは都内だったから、奥多摩まではるばるバス移動よ。その点、横
須賀はいいよね。車でちょこっと走れば自然の真っただ中だもん」
彼女は移住者だ。
東京から家族でやってきたばかりで、このあたりには詳しくない。
汐入町の駅近くのちょっとした豪邸に住んでいる。
「お。また、『竜宮の使い』が上がったって。今度のは8メートル。でかい」カーラジオに聞き耳を立てて
いた秀人が言う。「でも、これ、地元ではあんまり歓迎しないんだよなぁ。海中の変事を伝えに深海からあ
がって来るって言われてるから」
「だから『竜宮の使い』なのね」
「ほんと、ここ2カ月くらい変だよね」栞はちょっと怖そうだ。「『悪潮現象』って、海面と海の底の流れ
が逆になってるんだって。網がひっくり返ったり、からんじゃったりするんで、この辺の漁師さんたちすご
くイヤがってるって。けさ、テレビでやってた」
「えっ?」
翔がひそかに息をのむ。
【悪水ところを転じて
即ち地より鳴動す】
観音埼灯台駐車場に車を入れた。
荷物をそれぞれに分担し、遊歩道わきの公衆トイレの先の東屋を目指す。
夕暮れ前だから、いつものように観光客がちらほらしている。
「え~っと、東屋の東側にタテカンがあるはず」
秀人の声に美咲がはしゃぐ。
「あった。ほら、これ。これよ、きっと」
『元禄塚』とだけ書かれた白い看板。
すぐ後ろには狭い上り坂がある。
4人はすぐその小道をたどった。
「ここか…」
こじんまりした広場の真ん中に自然石の石塔があり、隅には街灯が一基。
「う~ん、あんまり心霊スポットっぽくないなぁ。街灯最悪」
秀人が拍子抜けすれば、
「ヤッチーの行くとこなんかこの程度じゃね。遊歩道も海も見えてるし」
翔も不満だ。
それでもビデオカメラを持ってきている。
「今から仕掛けるよ。バッテリー1日半もつから」
「明りがあるんでかえってラッキーかもよ。真っ暗より、なんか写りそう」美咲は元気にあたりを見回す。
「あっ、石碑になんか書いてある。えっとぉ、津、波殉…難…つなみじゅんなんひ、津波殉難碑だって」
「な~る。だから、『元禄塚』なのか。これ、元禄地震の大津波のことだよ」
物知りの秀人に、栞が感心してうなづく。
「じゃあ、江戸時代にはこのあたりにも集落があったってことね。今はな~んにもないのに」
3人が感慨を深くする中、翔は堅い表情だ。
【沖遥か退く潮の
わたつみに至るを】
日が暮れてくると観光客は消え去り、点在する常夜灯と波音だけのおだやかな雰囲気になる。
4人は一段高くなった海岸園地の東屋を拠点に、手前の植え込みに隠すようにテントを張った。
蚊取り線香と虫よけスプレーで防虫対策をする。
「お廻りさんが来たら怒られるかな?」
「一杯飲ましちゃえば、共犯になるんじゃない?」
女子たちはそんなことを言いながらも楽しそうだ。
野郎どもはさっそく、クーラーボックスからアルコールとツマミをつかみ出す。
「でも、ホントに心霊ビデオ撮れちゃったらどうする?」美咲はやっぱり期待しているらしい。「ヨウツベ
にうpしなきゃね」
「だめよ、あれってほとんどがガセだって。閲覧稼ぐための作りごと。そんな中に本物入れたって、かえっ
て信じてもらえないわ」
「ま、そう思ったほうがいいな。上がっている数見たら、女子(めこ)も赤子(せきし)も心霊現象撮れた
ぁ、だもん」
「そゆこと。秀と栞の言うのが正解だよ」
「あ~あ、夢こわれるわぁ」
それでも2度ほど設置したビデオカメラを確認に行く。
そのたびに遊歩道の光も差し込む、期待はずれの明るさに失望した。
他愛もない話に笑ったり、突っ込みを入れたりしながら夜は更けて行く。
「来てよかったね」
栞の言葉に全員がうなづいた。
いいかげん、しゃべり疲れたころ、翔があたりを片づけ始める。
「そろそろ、お開きにしよ。女子はテントだから、タオルケットじゃ体痛いかもよ。下は石畳だし」
「一晩くらい大丈夫。ねえ、栞」
「うん、へーき」
彼の心配をよそに、女子の返事はとっても健気だ。
当然、野郎どもも文句は言えない。
東屋の狭いベンチ上のスリーピング・バッグにもぐりこむ。
それでも自然そのものの柔らかな夜風が気持ちよく、彼らはたちまち眠りに落ちて行った。
「あれっ、雷? ほら、また光った」
秀人の言葉が終わらないうちに、沖はるか朝焼けの空に、真横に数本の亀裂のような閃光が飛ぶ。
朝なのに目に染みいるほどの光だ。
「なに? あれ…」
「音のない雷? なんか怖いわ」
「帰ろう、ただごとじゃないっ」
翔はちょっと顔色を変えている。
撤収を急ぎながら、栞が思い出したように言った。
「そういえば、きのうトイレ行ったら、水道管がおかしいの。水圧の関係かしら? ゴトゴト、ゴボゴボ聞
いたこともない音してた」
翔の手が止まる。
【天空に光荒びて
井の内に声あり】
「地震が来るっ。前兆だ。秀人、市役所に車回してくれっ」
翔の突然の叫びに、みんなが硬直する。
「えっ、まさか、んなことねえでしょ」
「あるんだよっ、おれ、1ヵ月ぐらい前からずっと同じ夢見てるんだ。昨日の晩だけ見なかった。地震が来
る。津波も。知らせなきゃ、みんなやられる。頼む、役所行ってくれ。市役所からテレビ・ラジオ局に緊急
地震予報出してもらう。警察、消防、地元消防団の防災無線もフル活動させる」
「ちょっと待て、誰も信じねえよ。そんなこと。第一、いつ来るんだ? 今日か?」
「そうよ、落ち着いて。翔は予言者じゃないんだから」
「来る日時はわからない。でも、きっと近いうちだ。本当だっ。早くっ、早くしなきゃっ」
「翔、みんなの言うとおりよ」冷静な栞が言う。「根拠がなきゃ、誰も信じないのよ。夢で見たなんて、一
番、ガセだって思われちゃう」
カノの栞すら信じていない。
翔はイラ立って手を振り回した。
「じゃあ、ど~すりゃっ」
「とにかく、夢を話せ。おれたちが納得できれば、市ヤクソも信じる」
「うん…」
あわててはいけない。
説得できなければ、何をしてもすべてはムダなのだ。
「え~と…」
ドロドロという、とてつもなく重い、地鳴りと海鳴りとジェット機音をミックスしたような音が近づいてい
た。
同時に、ブリブリとこんにゃくのような振動。
遊歩道の敷石が瓦煎餅のように跳ね跳ぶ。
身を守ろうにも、シェイカーにぶち込まれた氷ように翻弄される。
寄せ波がバシャバシャとリズムを失い、海岸園地のコンクリート製の東屋がきしみながら割れ崩れた。
海岸線の裏山が何か所も、轟音を引き連れて駆け下るように崩落する。
しっかりした公衆トイレが土砂に押され、形を保ったまま海に引き込まれて行く。
土煙に交じって、かなりの大きさの石や岩、木の根や枝が、紙でも吹き飛ばすように宙を滑空して落下した
。
間近をかすめる落下物の風切り音に心底委縮する。
4人は声もなく転がりながら、この世の崩壊する、ありとあらゆる終末音を聞き続けていた。
「だれかっ、秀人っ、栞っ、翔っ。返事してっ」
美咲の切迫した叫びが聞こえる。
返事をしてやろうにも、口いっぱいにいがらっぽい土砂が詰まっている。
死に物狂いで吐き出さなければ、早晩窒息だ。
翔はとにかく、自分の生命維持に集中する。
何かの塊がヨタヨタ、海岸べりから立ち上がって美咲に近づくのが見えた。
秀人だ。
安堵すると同時に力がよみがえる。
「し、し…栞、どこ? 栞っ」
無意識に一番気がかりな名を呼ぶ。
「お、翔。無事か」
声を絞り出す秀人は、打ち身擦り傷だらけの満身創痍だ。
歩道から海側に投げ出されれば、海蝕の激しい岩場で当然そうなる。
「栞は? 栞がいないっ」
翔の声が裏返る。
秀人が動揺しないのも癇に障る。
「し、心配じゃないのかっ」
金切り声に、美咲がかすれた声で答える。
「ここ、ここ。いっしょよ。怒鳴らないで」
彼女の腰のあたりにしがみついて、栞がいた。
声もなく泣きじゃくっている。
脱力のあまり、翔はその場に屑折れる。
「な、安心しろ。全員無事だ」
秀人の声に涙があふれた。
「帰ろ。早く早く」
女の子たちはそれしか言わない。
4人とも泥と汗と血で、全身、炭鉱夫並みに汚れ、目ばかりギラついている。
それでもそばの海で洗おうなどという、悠長な発想は浮かばないのだ。
不安材料だった途中の洞窟通路が無事で、全員が胸をなでおろす。
とにかく車を目指すが、全力で掘り返したような遊歩道は、おっそろしく歩きにくくて危険だった。
亀裂だらけのグズグズの地面は、注意してもなお、足を取られて捻挫しそうだ。
とがった敷石の破片や鋭く裂けた木片が泥にまぎれて、トラップのように仕掛けられている。
「きゃぁ、車、埋まっちゃってるっ」
栞の悲鳴に全員が座り込むほど落胆する。
指定駐車場は広範囲のガケ崩れに巻き込まれて、すでに消えていた。
「くっそ、スマホ真っ暗。肝心の時にダメだ。市街地に出たら、スニーカーじゃヤバイな。多分、家やビル
も崩れてる。なんもないここでこんだけの被害なんだから街は終りかも」
「うん、靴屋でもあったら不本意だけど略奪だな。火事はど~だろ。火は怖いぜ」
心は焦りで千々に乱れても、反応は意外に冷静だ。
「おれんちは安針塚だから、美咲を送ってくワ。どうせ汐入は途中だし。翔と栞はど~する?」
「わたしもいっしょに行く。ね、翔。アパート帰っても壊れてるかも知れないし。早く杉並の親に連絡も取
りたいし。東京はきっと無事だわ」
「うん、一緒に来て。わたしんち高度耐震構造だから、絶対、大丈夫よ」
「じゃ、おれも栞と行く。多分崩れてる。おれんとこは栞んとこより、はるかにボロいから。おれも美咲ん
ちから、中野に連絡取らせてもらうワ」
だれひとりとして避難所を目指す気はない。
人間いざとなると、帰巣本能が最優先になるのだ。
よこすか海岸通りを進む。
泥を盛って敷石で固めただけの遊歩道に比べて、しっかりしていて歩きやすかった。
それでも崩落や地割れ、亀裂や放置車両を迂回して進まなければならない。
人家のやや密集した浦賀警察の走水(はしりみず)駐在所あたりは、倒壊家屋や橋の崩壊が目立って不安が
募ってくる。
右往左往する車も増えてきて危険だ。
あわただしい物音や何か怒鳴る人語を圧して、パトカーや消防のサイレンが響き渡る。
おまけに防災放送があたりにワンワン反響するから、かえって聞き取れない。
走水水源地を越えると道路は海にピッタリ寄り添うようになる。
道幅は広いし、直線で見通しもいいのだが、不思議なことに走る車はほとんどいない。
ふと、海岸線を眺めた翔が顔色を変える。
「水が引いてる。津波だっ、津波が来るっ」
津波の恐ろしさは3・11の映像でいやというほど刻まれている。
「秀、とにかく逃げよう。高台、いや、シーハイツがあるっ。ここに車がいないのは、みんな山に向かったからだっ」
「いや、どうせなら馬堀小学校まで上がろう。指定避難所だし。シーハイツは海と並行だから抵抗で潮が盛
り上がるぜ」
たしかに高台へ向かう道路に群がる車たちは、ハイツを通り越して学校、あるいはさらに上に向かっている
。
グオングオンという、幾万ものロードローラーを並べて、一斉に驀進させたような響きが近づいてくる。
地震とは全く違ったリズムでブルブルと地面が震える。
もう、猶予はなかった。
全員が死に物狂いで走る。
それぞれにカノを前に立たせて、後ろから追い上げる。
上り坂は気の急く割には距離が稼げない。
「わたしっ、もうっ、ダメっ。ああ、お母さん」
美咲が真っ先に音を上げた。
秀人が急いで手をつかみ、自分が先に立って引きずり上げる。
「秀っ、もう、無理だっ。学校には行きつけないっ。右のハイツでしのごうっ。栞も限界だっ」
地元民の秀人は反対する。
「こんなとこじゃ、ダメだっ。標高低い。上だ、がんばれっ」
「バカッ、もう波が来てるっ。ハイツしかないんだっ」
美咲が声も立てずに激しく転んだ。
もう、足が上がっていない。
バザザザーッという土砂降りのような音が、いきなりあたりを取り巻いた。
「秀っ、美咲をおぶえっ。重みをかけないと足、すくわれるっ」
栞を背負うほんの一瞬で、膝のあたりまでが海水に浸る。
シーハイツ11号棟はすぐそばに見えている。
「いいかっ、栞も美咲も手足で背中に思いっきりしがみつけっ。男は馬だと思えっ。手を離すぞっ」
彼はそのまま秀人の腕をからめ捕る。
「体を寄せて二人三脚みたいに進むんだ。いっちにぃ、いっちにぃ。これ以上水が増えたら、ハイツにも行
きつけないぞっ」
「だから、上を目指したほうがよかったんだ。流れが棟と逆だっ、前に進めんっ。くっそおぉっ」
遮二無二進もうとした秀人が、背負った美咲と共に、つんのめるように水に消える。
漂流物に足を取られたのだ。
からめた腕が跳ねるように一瞬でほどけた。
「美咲ぃっ」
栞の金切り声に、翔は思わず2,3歩後戻りをして追ってしまう。
もう、どうすることも出来ないのにだ。
潮はすでに腰のあたりを覆っている。
水の抵抗だけでなく、四方八方からぶち当たる漂流物も行く手をさえぎる敵だ。
複数の放置車が引きつるような擦過音を立てながら接近する。
誤作動のクラクションがあたり一面に反響した。
翔は絶望の目を、もはやたどり着けないハイツの壁に振り向けた。
渦巻く流れに翻弄され、方向を失ってよろめきながら、たまたまそばの立木にたどり着く。
「栞、上がって。木のほうが安全だ。おれも登るから」
後続の彼のために必死で樹冠を目指す栞の頭上の黒雲が切れ、金色の光が差し込んでいた。
【天空に光荒びて
井の内に声あり
悪水ところを転じて
即ち地より鳴動す
沖遥か退く潮の
わたつみに至るを】
天上の音楽のように夢の声明(しょうみょう)が降ってくる。
神々しい遥か高みから手を差し伸べてくる栞を見上げて、翔は壁に爪を立てる。
重い水の呪縛を解いて自らを押し上げるために。
もはや体温を持たない彼は、その想いのためにのみ、未来永劫、ハイツ11号棟に留まるのだ。
たどり着こうとして、ついに果たせなかったその壁に…。
天空に光すさびて