愚者と劇薬
出会いの春
「あ、そのマンガ、あたしも読みました。けっこー良かったですよね」
「そうだね。でも、この漫画家、メジャー誌いってからつまんなくなった」
「分かります! あの規制ぎりぎりのアングラ感がたまんなかったのに、今じゃすっかり牙抜かれちゃって」
綿飴みたいな匂いがしていた。鼻腔に匂いが張り付く。隣に立つ女からそれは漂っていた。
「君、いくつ? あんまりこんなエログロ漫画、読むもんじゃないよ」
「良いんですよ。皆、もっと悪いことしてるはずだし」
少し澄ました顔をしたあと、ふふっと笑う。そのまま、熊の耳みたいに二つ並んだ団子髪の後れ毛を整える。少し大きめなピンクのトレーナーから細い指が覗き、首からさげた妙なネックレスが音を立てる。
「クラスの子も、全員センスないんです。あたしのこと、誰も分かってくれないの」
パーカーに描かれた血濡れた十字架。ネックレスは「もう良いってば」という文言の形をしていた。
いつも通り、駅前のヴィレッジヴァンガードは商品でごった返しているわりに人は全くいなかった。店内の一番奥まった場所。天井近くまでの高さの本棚に並んだ漫画の表紙。頭がかち割れた女のイラストは極彩色の脳から飴をぼろぼろと垂らしながら、僕のことをじっと見ている。
「あなたはセンスあるって思うんです。ねえ、なんて名前なんですか?」
「君から言えよ。年も聞いてない」
よくいるメンヘラ女だ、と思った。背伸びをして、僕の耳元に顔を近づけてくると、甘ったるい匂いが自分にも染みついてしまうようだった。
「イチゴって言います。年は十五」
変な曲がかかっている。アニメ声を切り貼りして作ったみたいな気持悪い曲。キスして、と彼女の唇は動いた。三学年も下の女に言われた台詞に不覚にも動揺していた自分がいた。
やっぱり店内には人がいなかった。彼女は背伸びをしていて、僕は少しかがんでいた。掛けていた眼鏡が邪魔だったから外すと、唇が触れる。ひどく潤んだ彼女の唇と対照的に、僕の唇はかさついていた。
「昭仁って言うんだ。近くの大学で大学生やってる」
彼女は微笑む。僕は平静を装っていたが、内心死ぬほど興奮していた。所謂、ファーストキスってやつ。年下の、しかも、初対面の女との奇妙な初体験は生まれてこの方、告白をしたこともされたこともない僕にとっては充分、一大事であったのだ。
「で、そいつと連絡先、交換したのか」
「そんな感じ」
「やばいって、高校生だろ?」
「いや、そんな不純な関係に、持ち込むつもりは……」
呆れた、と言わんばかりに宙を仰ぎ、大きなため息をついた。窓から差し込んだ日の光に照らされ、晴希の耳のピアスがきらめく。
「なんか出来すぎた話だな。美人局じゃねえのか? 偽名っぽいし」
たまたま入った店に、たまたま商品をぶちまけて困っていた女の子がいて、たまたまそれを手伝って、たまたま趣味が同じで……それでキス。
「僕もそんな気がする。でも……」
「でも?」
「ものすごく可愛かった」
正直なところ、タイプだった。不純な関係になってしまいたいぐらいに。もう先週の出来事なのに、やわらかい唇の感触がいつまでも残っているように感じる。綿飴の匂いが纏わりついて離れない。
「……昔から思ってたけど、お前って意外と変態だよな」
「失礼だな。晴希と違って隠すのが上手いだけだよ」
目の前の男、「北郷晴希」は小学校からの友人だ。中学に入ってから少し疎遠になり、違う高校に進学したが、卒業後、会う機会があったおかげでまた交流するようになったのだった。女三人、男二人で行動していた小学生時代から女子には言えぬ秘密を語り合った、大事な友人だ。
駅近くに新しく出来たファミレス内は、僕らと似たような大学生で賑わっていた。最近、この付近は再計画が進んでいるらしい。となると、あのヴィレヴァンもいずれ潰れてしまうかもしれない。あの店は大学受験中の心の支えだった。なくなってしまうとなると寂しくなるだろう。晴希はドリンクバーの飲み物をめちゃくちゃに混ぜた液体を吸い、子どものようにストローを噛み潰す。
「まあ、そんな焦るなよ。せっかく医学生になったんだし、今からよりどりみどりだろ? そんな得体の知れねえ女、ほっとけって」
「僕は女にモテたくて、医大を受験したんじゃない」
「分かってる、分かってる。あー羨ましいぜ、勝ち組は」
こちらからすれば、駆け出しバンドのギターをやりながら、バイトに奔走する晴希に憧れてしまうが。元々、親に言われて、医者を目指して、たまたま受かってしまっただけなのだ。目標があって努力しているのは、少し古いようにも感じるけど、やっぱり羨ましい。
ふいに携帯が振動する。ロック画面には「イチゴ」と表示されていた。奪おうと手を伸ばしてくる晴希を避け、慌てて文面を見る。
『今、駅の近くです。会えませんか?』
春が来た、と思った。いや、もう五月だから来ているのだけど。この際、美人局だって構わない。もう一度、会いたい。
「もう行くよ。用、できた」
「あの女からだろ! やめとけって言ってるのに!」
晴希の言葉は無視する。財布の中からぶちまけるように金を出し、机に置いて店の外に出る。
『今、中心街のココスにいる そっちは?』
『駅の隣のタワレコです 向かいますね!』
『僕がそっち行くよ 待ってて』
小走りに慣れた道を進んでいく。僕の住む「櫻城町」はかなり広く、いくつかのエリアに分かれている。そのうちの一つ、駅周辺の街、「中心街」は水商売の店やゲーセンばかり立ち並んでいて、日中でもどことなく夜の匂いがしているエリアだ。再計画が進めば、そんな空気もかき消されてしまうだろうか。現に一軒、キャバクラが潰れていた。
「あ、昭仁さーん」
僕を見つけると、大きく手を振って呼びかけてくる。タワレコの黄色い袋が揺らめいて、制服のスカートも風になびく。彼女のピンクのリュックには缶バッチがでたらめについていた。
「学校帰り?」
「そうです。めんどくさくってサボっちゃいました」
たしか、もう少し都会にある私立高校の制服のはずだ。セーラー服に淡い紫色のカーディガン。彼女によく似合っている。
「なにか良いCDあったんだ」
「えへへ、今日は新曲の発売日だったんです」
袋からCDを取り出すと、あの甘い匂いが香ってきた。少し動くだけでさらに匂いは濃くなっていく。
「今日はどうしたの? 急に会いたいだなんて」
目を細めると、口元が緩んで、白い歯が僅かに覗く。彼女はすり寄ってきて、僕に腕をまわしてきた。ぐっと距離が近くなり、顔が火照っていくのをたしかに感じた。
「会いたい、に理由なんて要らないと思うんです」
ね、そうでしょ。そんな囁きはありえないくらい僕の脳を揺さぶった。自然と下品に口角が持ち上がりそうになるのを必死でこらえる。こういう状況は段階を踏んで慣れていくべきなのだ。耐性のない僕は、漫画の登場人物よろしく鼻血でも出してしまいそうになる。
「……じゃあ、今日は何しようか」
やっとの思いで声をだす。動揺やら緊張やらの思いが声色に出ていないことを願うばかりだ。
「ヴィレヴァン行って、それからゲーセン、ですかね?」
「そんな感じだね。あ、そうだ。今日バイトだから四時には帰るよ」
現在、二時。二時間もあれば充分だろう。二人で腕を組んで歩き出せば、どこか荒んだ街も素敵に見えた。構内も工事が始まっていて、汗臭い作業着を着た男が出入りしていた。薄暗い駅を進み、新しく設置されたコインロッカーの前を通ると、さらに薄暗いヴィレヴァンが現れる。
「……の先生の新刊、読みましたか?」
「気になってるけどまだ。どちらかといえば女向けじゃない? ちょっと手出しにくいかな」
「そうですね、題材が題材ですし。私は好きでした。良かったら貸しましょうか?」
「じゃあ、頼むよ」
「分かりました!」
「なんか、あれとか好きそうだよね。ほら、あそこの棚に置いてあるやつ」
「すごい、好きですよ! あたし、趣味わかりやすいですか?」
「分かる、分かる。なんとなくだけど」
高い本棚に並ぶ本を一つ一つ指さして話した。先週来たばかりだからあまりラインナップは変わっていなかったが、彼女との会話は途切れずに続く。無理をして長引かせようとするのではなく、自然と話題は生まれていく会話は心地よかった。
しばらく物色したあと、少しコンビニに入って、飲み物を買い、ゲーセンに移動する。
「ねえ、今、何時ですか?」
「三時半すぎ」
「もうそろそろですね」
「そうだね」
日が陰ってきて、差し込む光の量は少なくなる。平日の昼間だからどこへ行っても人は少ない。ゲーセンの店員も奥の部屋に引っ込んでしまって、ジャックポットから流れる騒がしい音楽だけが僕らを包んでいた。両替をした百円玉を投入口に入れると、UFOキャッチャーのアームが作動する。
「やだな。帰りたくない」
彼女は独り言のように呟いた。そして、僕のことを横目でちらりと見る。もう少しいたい、と言われているような気がした。操作したアームは的である大きなぬいぐるみから僅かにずれ、不自然な形でそれを持ち上げる。案の定、限界位置に到達したときの振動によって、ぬいぐるみは落ちてしまった。
「昭仁さん、店では話してなかったんですけど、あたし、『岸純一』が好きなんです」
「岸純一」 少しマニアックな漫画を読んでいる人間だったら、おそらく知らない奴はいないだろう。江戸川乱歩や夢野久作らに影響された彼の作風は過激で、エログロナンセンス、同性愛、差別表現……とにかくなんでもあり。規制が激しい今日でも、一歩も引かずにこの世の暗部を描く、大御所漫画家だ。僕も好きで何冊も持っている。
「絶版の何冊か以外はほとんど読みました。ほんとに、ほんとに大好きなんです」
もう一回、硬貨を投入しようとしたけどやめた。なんだか彼女が真剣に話してくれているのに、よそ事をしているようじゃ申し訳ないと思ったからだ。
「友達にはちょっと良さが分かってもらえなくて。でも、それでも良いんです。ほんとに腹が立つのはそこじゃない」
気難しい表情をしていたが、僕が見つめているのに気づくと、彼女は照れくさそうに笑った。
「たまにね、好きって言う子と会うんです。嬉しくて話すと、皆、『隣人』しか読んでない」
岸の代表作、「隣人」は最近、映画化もされた。(評判は今ひとつだったが)幼少期に誘拐された少女と、誘拐犯の甥との歪んだ恋路を主軸においている。岸のあくの強い面もほどよく押さえられているし、元々耽美な絵柄であるので、主人公や甥の美しさなどから、興味を持たれやすい初心者向けの作品だ。
「一冊しか読んでないのに、分かったような口を叩くのが我慢できない。しかも、『こんなエログロ漫画好きな私って変わってる?』って言って、他人と違う自分のステータスにしようとしてる奴ばっかり」
彼女のリュックについている「死」と書かれたバッチが蛍光灯を反射する。錠剤モチーフのアクセサリーで留められたツインテールを揺らし、イチゴは少し僕に近づく。あ、綿飴の匂い。酒を飲んだことはない。でも、なんとなく分かる。僕は彼女に酔わされている。
「あたしは皆を許せないんです。何も許せないんです。漫画だけじゃない。価値観が全部ずれてて、クラスの子たちと噛み合わない」
先週の記憶が脳裏でちらついて、目がちかちかする。違う、それだけじゃない。高校のときの? いや、中学のときのだったような。息がしづらい。
「変なのってあたしですか? それとも、皆?」
すがるような目つき。ああ、思い出した。似ている、あいつに。
「……イチゴはなんにもおかしくないよ」
教室の隅で、怒って、馬鹿にして、分かってくれない、と嘆いていた。僕もそうだった。はっきりと実像をもって、記憶は蘇る。そして、今でもその感覚が体に眠っていることに気づかされる。
「昭仁さんは分かってくれるって思ってた」
イチゴはまた頬を赤らめて笑う。
「あたし、昭仁さんのことが好き」
言い訳をさせてくれ。前言撤回をさせてくれ。不純な関係になりたい、だなんて品のない冗談は取り消すよ。心臓が馬鹿みたいに高鳴って、もうなにがなんだか分からない。
「君、たった二回しか会ってない男を、そんな簡単に信用するのか」
常識的に、と思ったけど、結局のところ、誰が基準の常識だろうか。理性が彼女の手で解かれていくのと、ある感情が体内で脈を打ち始めるのを、たしかに僕は感じていた。
「愛は常識に捕らわれないし、熱を持っているうちはどんな不思議なことでも簡単に起こしてしまうって、あたしは信じてるの」
イチゴって呼んでくれて嬉しい、と微笑む。制御できていない体は勝手に全身の血を顔に集めた。茹だってるのか、僕は。背伸びをして、イチゴは僕から眼鏡を奪い取り、あの日の記憶をなぞるように唇を重ね合わせた。
時間通りに到着し、家に入る。おばさんと挨拶し、階段を上る。突き当たりが彼の部屋だ。昔からよく来ている家だから、家の間取りは覚えてしまった。
「こんにちは」
扉を開けると、部屋の主が思ったとおり、何のテキストも準備しないで椅子に座っていた。
「女臭い」
露骨に嫌な顔をして、吐き捨てるように正義は呟く。
「高田正義」、僕の実家の近くに住む二歳下の高校生。親同士の交流があったので、昔から遊んでたりしていた。最近、不登校気味らしく、成績を心配したおばさんに頼まれ、受験が終わってから家庭教師になった。だが、この通り、準備はしない、やる気はない、課題はやらない、果たして来る意味があるだろうかという状態だ。まあ、お金を貰ってしまってるし、とやかく言えないのだけど。
「なんだよ、その腐りかけの果物みたいな臭い」
「うるさい。失礼だな」
「本当のこと、言っただけだよ。不快だ」
「まったく。文句言ってないで数学やるからとっとと準備しろ」
元から少し生意気な奴だったが、高校に上がってから、なおさら酷くなった。完全にこちらを馬鹿にしている。
「別にやらなくても良いって。時間になるまで本でも読んどけば」
「あのな、こっちもお金を頂いて来てるんだよ」
「僕は勉強したくないし、昭仁はお金が欲しい。何もしないほうが、お互いの願望は叶えられる」
そんな風に言う澄ました表情に腹が立ち、無理矢理、椅子から引きずり下ろし、床に置かれた机の前に正座をさせた。それでもなお不服そうに睨み付けてくるので、一度げんこつを頭に落としてやる。
「お前、そういう『なんでも分かってます』って態度、やめたほうが良いぞ。社会に馴染めなくなる」
「馴染むつもりない」
「そんな風に思うのも一時的なものだ。まだ思春期なんだし」
「大学生になったくらいで思春期抜けたつもりでいるんだ。人の振り見て我が振り直せ、じゃない?」
「正義」
勢いよく顔を上げ、また僕を睨む。正義は自分の名前で呼ばれるのを極端に嫌っている。いつ頃からだったかは覚えていない。でも、今さら「高田」なんて呼ぶのもできないし、「正義」と呼び続けている。
何を言おうとしたのか、自分でも分からなかったが、口を開く。口から音が発せられる前に扉が開き、おばさんがお茶を持って入ってきた。
「あ、正義、また何も準備してないじゃない! もう、昭仁君に迷惑かけて。ごめんね、昭仁君」
「いえ、お構いなく」
正義に二度目のげんこつが振り落とされる。正義と違って、おばさんはあっけらかんとした人だ。おじさんも無口な人だけど、多趣味で気の良い人だ。そう考えると、正義の強情さは思春期の一時的なものに思えてならない。現に文句は言えど、正義がおじさんとおばさんに対して、酷いことを言っているところを、僕は見たことがない。根はきっと小さいころと変わらず優しい。
「ほら、おばさんも言ってるし、いい加減やるよ」
おばさんが行ってしまうと、頭を押さえながら、しぶしぶ準備を始める。
「今日ってどこやるの?」
「ベクトル。数Bのほう」
「分かった」
一度やり始めると、素直に言うことを聞いて進めていった。学校に行っていないから、時折手が止まってしまうけど、大体、順調だ。遅れを取り戻すのも、そう苦労はしないだろう。
「ねえ、ここの合成の問題だけどさ」
「ん?」
少し身を乗り出して、問題を見ようとすると、再び正義は顔をしかめる。
「やっぱ女臭い。近づくな」
「問題、見えないだろ」
「室内だし、せめて上着脱げよ。気持ち悪くなってくる」
教科書もノートも抱えてしまって、一向に見せる気配もないので、しかたなく羽織っていた上着を脱いだ。上着からは、たしかにイチゴの匂いが微かにしている。そんなに気になるほどでもないのだが。
「せっかく医学生になったのに、女に現を抜かしてるんだ」
「人聞きが悪い。そんなんじゃない」
「ふーん。忙しくないの?」
「まあ、忙しいけど、一年生はまだ実習とか専門科目もやらないし、高校の延長みたいな感じだよ」
「へえ、大学入ってすぐにはやらないんだ」
一年生はまだ良い、二年からが地獄だ、と色んな人から言われた。留年でもしたら親になんて言われるか分からない。憂鬱だ。
「大変だな、昭仁も」
「そんなこともない。意外とやってけてる」
「いや、おじさんも医者だし、なんかプレッシャーとか感じるだろ」
父親の顔がよぎる。厳しい人、という印象が未だに強い。うちは代々、医者の家系だ。だから、医者という仕事の大変さは嫌というほど知っているが、これといってやりたいこともないので、反発することもできなかった。
「……そんなこともない。意外とやってけてる」
同じ言葉をまた繰り返す。それを聞いて、正義がどう思ったのかは分からない。教科書から目線を変えずに、無表情で口を開く。
「ちょっと羨ましいかもしれない。強制されててもやることがあるって。目標もやりたいこともない勉強は、死ぬほど張り合いがない」
なんとなく寂しげにも見えるその姿が、今日のイチゴと重なったように感じた。そして、今の僕自身にも。
実際に反抗する勇気があるのか、そうでないのかの違いだ。正義は僕のことを羨ましがっているけれど、僕たちに大きな差異はない。
「……なんか悩みあったら聞くからな」
「別にない」
正義は鬱陶しそうに、いつもの口癖を呟いた。
死にたい夏
五月病を発症したようで、何をするのにもだるく、体力がいる。四月から始まった一人暮らし(まあ、実家からさほど離れてないけど)のわくわく感もとうに薄れてしまい、家に帰ったらすぐ寝る日々が続いた。
ある朝、目覚めると、髪の毛がすごいことになっていた。まるでヘルメットだ。テレビをしばらく見ていなかったので知らなかったが、どうやらもうすぐ梅雨入りらしかった。例年よりも早く、六月の始まりにはもう梅雨前線がやってきて、街は雨に包まれる。
「いやですね、雨。髪の毛、全然まとまらない」
イチゴは天然パーマぎみの毛先を弄って、苦笑いする。いつもの団子髪も今日は少し後れ毛が目立っていた。僕も前髪が浮いてしまっているようで、いつもより視界が広いせいで、あまり気分は良くなかった。イチゴの台詞に相づちをうつと、不満げにこちらを見上げてくる。
「昭仁さん、全然いつも通りじゃないですかー。ストレート、羨ましい!」
「いやあ、こっちも大変だって。ヘルメットみたいになってるじゃん」
「そんなことないですよー。良いなあ」
イチゴの傘と僕の傘がぶつかり、雫が飛ぶ。あ、とお互いに声を出し、少しだけ離れた。彼女は黒い傘を傾け、顔を隠す。裏地の赤なのかは分からないけど、なんとなく朱に頬を染めながらはにかんでいる様子が見えた。
「雨は嫌いだけど、あたし、雨上がりの匂いは好きだなあ。なんだか懐かしい気持ちになる。小学校、田んぼの中にあったんですよ」
「雨上がりの匂い、僕も好きだよ。小学校は街中にあったけど、友達と自転車乗って、田んぼのほうまでよく遊びに行ったな。この時期は蛙が出始めるからね」
「蛙! あたし、苦手……」
「女子は苦手な子多いよね。一緒に行った子の中にも嫌いな子いたよ。僕は生き物全般好きだから、平気だったけど。その子は逃げ回ってた」
「蛙、持って追いかけまわしたりとかしてないですよね? あれ、やられたから嫌いになったんですよ」
「……ごめん、してたな」
「あー、いじめっ子! 蛙よりそういう人、嫌い」
「ごめんって。イチゴにはやらないからさ」
中心街は薄暗く、昨日から降り続いている雨に濡れている。今日は五時まで。もう少しで行かないといけない。普段よりも早めにネオンが灯り始める。水たまりには極彩色が映り、生き物のように揺らめいて混ざり合っていた。
イチゴは決まって金曜日に連絡してくる。駅前のタワレコで待っていて、また抜けて来ちゃいました、と笑う。行きたい場所を聞くと、毎回同じ場所を答える。たまにプリクラなんて撮ってみたり。正義の家に行くまでの数時間、変わり映えもしない街を歩く、金曜日の儀式。手を繋いだりはしなかった。並んで話しているだけで僕は楽しかった。そういえば、付き合おう、なんて話もしていない。僕はイチゴのことが好きだけれども、実際のところ、イチゴがどう思っているのかは知らない。
「……梅雨が終わっちゃう頃には、終わってほしくないなあって思っちゃうんですよね」
水たまりを踏みつけ、泳ぐ色を荒らす。いつも履いている白いスニーカーには綺麗な色ではなく、濁った泥水がはねる。洗うのもおっくうだから、次は黒い靴を買おう。
「夏の足音が聞こえてくると、全部投げ出したい気持ちになる」
イチゴの顔に出来た暗い影から思春期特有の危うさ、みたいなものを感じたような気がした。彼女や正義、そして、僕らも纏っていたはずの空気。それをどことなく感じられるようになったのは、成長した証拠だろうか。
「……もうすぐさ、僕、テストあるんだ。しばらく会えなくなると思う」
雨音。客を呼び込む騒がしい声が聞こえ始める。腕時計が狂っていないのなら、もう別れの時間。イチゴは少し俯いて、僕を見ようとしない。
「終わったら、夏祭り行こうか」
勢いよく顔を上げ、目を丸くしたあと、すぐに嬉しそうに笑い、傘がぶつかり合うのも気にせずに僕の腕にしがみついてくる。飛び散った大粒の雫はビー玉のようにネオンの光を封じ込め、輝いていた。
「やだ、昭仁じゃん! 元気?」
あまり好きではない人種のたまり場なので近寄ってなかったが、どうしても甘いものが飲みたくなって、スタバに入ると急に声をかけられた。茶髪の巻き髪に、白のシャツ、青のスカート。
「千奈津! 久しぶり、元気だよ」
小学校からの友人の一人、「遠藤千奈津」 雑誌とかでよく見る格好の立派な女子大生になっているので驚きだ。
「すごい、化粧してる。前会ったときはしてなかったのに」
「そりゃ、あの時はダッシュで来てたもん。遅刻してたからしなかったけど、時間があったらこれぐらいするよ」
前会ったのは高校の卒業式の後。春休みだった。小学校の校庭に埋めたタイムカプセルを掘り出すためだった。晴希とはよく会うが、他の奴らとはなかなか会う機会もなかった。
「あんた、大学、この辺じゃないでしょ、どうしたの?」
「ちょっと買い物。扇風機買いに来たんだ」
「クーラーあるじゃん」
「電気代、節約したいんだよ。バイトの収入もたかがしれてるし」
ふーん、大変だねー、と千奈津はどこまでも他人行儀に言い放ち、いかにも甘ったるそうなチョコソースがかかったフラペチーノを飲む。涼しい室内とは言え、こんな暑さでそこまでの甘さのものを摂取することは僕にはできない。甘いものを飲みたい欲はスイカ味の紅茶で充分、満たされる。
「ていうか、最近、どうなの? あのイチゴちゃんって子とは」
飲みかけた紅茶は喉の奥をなぞるように刺激し、僕は咳き込んでそれを吐き出してしまった。幸い、被害者は出なかったが、店員は来るは、周りの視線が痛いはで、お礼を言うとすぐに店から退散する。
「ど、こで知ったんだよ! その話!」
僕について出てきた千奈津はおかしそうに笑い、またフラペチーノを飲む。
「晴希」
「晴希、なんで? なに、会ってたの? いつ?」
次々とわき出る疑問。まだ若干、不快感が残っていて、もう一度しゃがんで咳き込む。う、鼻に入ってる。痛い、痛い。千奈津は不思議そうに、いぶしかしげに僕を見下ろして、口を開く。
「あたし、晴希と付き合ってるんだけど」
「え!」
「同棲もしてるけど、なんも聞いてないの? あんたたち、会ってるんでしょ」
「何も聞いてない……」
なんだよ、あいつ。次、会ったら文句を言ってやろう。晴希の馬鹿面が浮かんできて、殴ってやりたいほど腹が立つ。
「で、どうなのよ?」
「どうもこうも……」
「その『どう』『こう』を聞きたいんだってー!」
暑さからくるものではない、嫌な汗が伝ってきて、左手で拭う。
「いやー、なんか分かんないもんだねー。あんたがねー。印象、変わるわ。あたしの中だとずぅっとおどおどして、ひぃひぃ言ってるふとっちょだもん」
「お前もお前の彼氏も、そろいもそろって失礼だ! いつのこと、言ってんだよ。それに中学入ってから、部活ですぐに痩せただろ!」
「はい、はあい」
自分の過去を事細かに知ってる人間と話すのには、本当に体力がいる。小学校の卒業アルバムに残る、丸々と太った自分が思い出されて気分が悪くなる。むしゃくしゃして、ストローを噛み潰した。
「ま、元気そうで安心、安心。じゃあ、あたし、バイトそろそろだし、行くわ」
じゃあねー、と言って、嵐は去って行く。今年はいつもより早く、夏ばてになりそうだ。本気で疲れた。無料だったし、扇風機を配達してもらったのは正解だった。重い足を引きずって、駅に向かう。
ふと見ると、街路樹に蝉の抜け殻がへばりついていた。こんな街中でもいるのだな。殻の縞模様から見るにクマゼミだろう。昔は蝉の抜け殻のコレクションも作ったものだ。もう、しないけど。
改札を通り、飲み終わった紅茶の容器を、自動販売機近くのゴミ箱に捨てる。あの一悶着のおかげでちょうど良い時間になっていたので、電車はすぐにホームに入ってきた。車内の様子を見て、ぎょっとする。すし詰めだ。しょうがないから入るが、すごい熱気でげんなりする。近くに柄の悪いカップルもいるし、子どもが酷い泣き方してるし、最悪だ。揺れる車内をかいくぐり、なんとか比較的人が少ない扉の近くに移動する。やっと一息つける。そう思った矢先、ものすごい巨体の中年男が、車体の揺れのせいで突っ込んできて、僕は顔面を扉に強打した。くそ、眼鏡が歪んだ、どうしてくれる。
電車が停車する。まだ一駅。最寄りまであと何駅あると思ってんだ。汗臭い男の背中から這い出て、眼鏡を外す。外の景色はぐずぐずに溶け合って、形を成さなくなった。七月の四時は明るいが、淡い水色の空に浮かぶ太陽は既に夕方の様子を見せ始め、ビル街をセピア色の光が照らしている。この時期の夕日を見ると、無性に万能感を感じてしまう。小学校時代の門限のせいだろうか。
もうすぐ帰らなくてはいけない五時が迫っているというのに、外はまだまだ明るくて、ずっと遊んでいられるような気がしていた。親に買ってもらった虫かごの中で、蝉たちがじぃじぃと鳴きながら蠢いている。草いきれ、土埃、汗、転んでできた傷口の臭い。
扉は閉まり、聞こえていた蝉の鳴き声はまた遮断された。聞こえなくなったって、夏はもう来ていた。イチゴの言葉が妙に思い出されて、感傷的な気持ちになってしまう。夏の万能感と無力感は背中合わせに転がっていている。眼鏡をかけ直し、もう一度、窓の外を覗く。すると、車体は再び大きく揺れ、中年の男の背中によって僕は顔面を強打した。
鼻と額を押さえつつ、改札を抜ける。三十分ほどの帰路が今日は非常に長く感じた。なんてったってこの人の多さ。浮き足立つ連中は他人への配慮が足りていないので嫌いだが、僕も浮き足立っている連中の一人だから今日だけは何も言うまい。
「あ、イチゴ!」
「あーっ、昭仁さーん!」
中心街のネオンは鳴りを潜め、代わりに丸々とした提灯の朱色の光が街中に灯っている。雑踏をかき分けて、浴衣姿のイチゴのところへ向かう。
「久しぶりです! テスト、どうでしたか?」
「はは、微妙だったよ」
「あちゃ。じゃあ、今日は忘れて楽しみましょうね」
いつも二つに分けていることが多いイチゴの髪は、今日はゆるく一つに纏められていて、大人びて見えた。彼女の浴衣の黒い生地で金魚が数匹、泳いでいる。
「なあ、イチゴ」
「はい?」
「似合ってるよ」
一瞬、ぽかんとした表情を見せたあと、イチゴは照れくさそうに俯いて、僕の腕にしがみついてきた。
ぼったくりと知りつつも、立ち並ぶ屋台の誘惑からは逃げられない。かき氷に玉せん、たこ焼き、もちろん綿菓子も。次々と食べ物に手を出していき、とても食べきれない量になってしまった。まあ、明日の朝飯にでもすれば良い。少しだけ卒業アルバムの写真と、千奈津の言葉がよぎり、楽しい気分が阻害された。
「お祭り、いつぶりだろ。楽しいですね」
笑うイチゴの口から覗く舌は、かき氷のシロップで緑に染まっている。イチゴなのに苺味じゃないのか、という言葉は無粋だから言わないでおいた。
射的で狙った大きなぬいぐるみはいくらつぎ込んでも落ちなかった。実力不足を二人で嘆いていると、制服を着た細身の男がやってくる。すると、不思議なことにあんなに頑なに動こうとしなかったぬいぐるみは、たった一発で撃ち抜かれ、彼の手に落ちた。唖然とする僕らに、狐顔の彼は少し会釈し、ぬいぐるみを抱えて、そのまま雑踏に消えていった。
「なんだ、あれ」
「なんか異様でしたね……」
ただぬいぐるみを取っただけなのに、妙に印象に残っている。こういうのも祭りの醍醐味かもしれない。普段なら会うこともないだろう人間との遭遇。もちろん、よく会う奴との遭遇も楽しみの一つだ。
「あっ」
「どうしました?」
「いや、そこに知り合いがいて」
ラムネの移動販売をしているおばさんのすぐ近く。ツツジの植え込みに座り込んでいる正義を見つけた。しかも、女連れだ!
「……声かけなくて良いんですか?」
「……ごめん、ちょっと行ってくる。遅くなるかも」
「はい、私、待ってますね」
繋いでいた手を離し、正義のほうへ向かう。正義はすぐこちらに気づき、彼女らしき少女の手を取って逃げ出した。でも、少し財布をちらつかせたら、ぴたりと止まって、僕のところにやって来た。
「お前、彼女いたのかよ」
「そういうのじゃない。友達だ。ていうか、なに、何の用?」
正義はいつにもまして不機嫌だった。手短にすませろ、早く金を渡せ、というオーラがひしひしと伝わってくる。正義の後ろに隠れた小柄な少女は、じっと僕のことを見つめてくる。
「あ、こいつ、僕の近所に住んでた人。変な奴だけど、別に悪い奴じゃないよ」
変な奴ってなんだよ。少女の顔はまだなんとなく強ばっている。怖がられているのだろうか。少し落ち込む。
「で? どうせ冷やかして帰るつもりだったんだろ」
「なんだよ、可愛くないな。せっかく彼女連れてきてるんだし、奢ってやろうって思ったのに」
「え、本当? お前、何が良い?」
急に二人とも満面の笑みになって、並んで屋台を物色し始める。正義は光る剣を選んできて、それを買ってやった。ていうか、なんだ、光る剣って。高校生にもなって。
少女のほうはブドウ飴を選んだ。金を渡し、買ってくるまで少し離れたところで、光る剣を弄っている正義と待つ。正義はボタンを無茶苦茶に押しながら、ブドウ飴を買う少女を黙って見つめていた。いつもの睨み付けるようなものではなく、穏やかで優しい目つきをしていた。
「本当に彼女じゃないのかよ」
「違う」
「でも、好きだろ」
「……好きとかじゃなくて、なんかもっと別のなんだよ。ほっとけよ」
正義の頬は提灯の明かりかは分からないが、少しだけ赤くなっていた。
帰ってきた少女にお礼を言われ、僕は二人と別れる。思ってたより時間がかかってしまった。急いで射的の屋台に戻ると、イチゴはいなくなってしまっていた。何度かけても電話は繋がらない。しばらく射的屋の前で待つが、当然イチゴはやってこない。入れ違いになるのも怖かったけれど、なにもしないで待つよりは良い、と判断して、ふらふらと探索を始める。いつもの格好だったら目立つし、すぐに見つけられただろう。今日は浴衣を着てる人も多い。闇雲に探しているようじゃ到底見つけ出せない。
小走りに進んでいるとすれ違うとき、人とぶつかってしまった。慌てて頭を下げようとすると、そこにはひどく背の高い男が僕のことを睨み付けながら立っていた。しまった、まずいのに出くわしてしまった。時間がないのに!
「あれ、お兄さん、射的やってた人ですよね」
男の影から見覚えのある顔が覗く。それは射的屋で出くわした狐顔の男だった。ぬいぐるみの他にも担いでいるものが色々増えていた。よく見ると、背の高いほうも制服を着ている。
「あのあと、景品とれました? ん、連れの子いませんね、帰っちゃいましたか?」
「いや、はぐれて……」
妙に馴れ馴れしいのが気になったが、今はそんなこと言っている場合じゃない。とっととこいつらと別れなければ。
「黒い浴衣の子ですよね」
ふいに背の高いほうが口を開いた。睨まれていると思っていた目つきは、元々のものらしい。少し陰気な雰囲気は、髪の毛の長さからくるものだろうか。
「僕、見ましたよ。中心街の入り口のほうに向かっていました」
「え、いつ?」
「十分前ぐらいです、大体」
思わぬ収穫だった。礼を言って走ろうとすると、襟を掴まれ静止させられた。
「お兄さんたち、これ取ろうとしてましたよね。俺、いっぱい取ったし、あげます」
狐顔の男はあの大きなぬいぐるみを手渡してきた。これも思わぬ収穫だ。
「色々ありがとう」
「いえいえ。見つかると良いですね」
彼は目を細めて笑った。でも、なんとなくその笑顔に嘘くささを感じたのだった。
日も沈み、空はすっかり夜へと姿を変えていた。提灯の明かりはネオンとは違う怪しさを持っていて、夢でも見ているような心地になってくる。中心街の入り口。中心街は全体が堀に囲まれていて、入り口には大きな橋が架かっている。まだいるだろうか。僕はなにかイチゴを怒らせるようなことをしてしまっただろうか。
もうすぐ花火の時間で人はなおさら増えてきていた。騒ぐ若者の近くを通ると、酒の臭いがする。学生が一人で行方不明者のチラシを配っている。大声で、叫ぶ。八年前に行方不明になったのだ、と。世界の現実味が薄い。子どもの泣き声がひどく耳障りだった。
建物がなく、開けているから、橋は花火を見るのには絶好の場所だ。やっと到着するが、当然人で溢れかえっている。こんなところで見つけるのは至難の業だろう。
そうだ、電話をかけてみよう。出なくても近くにいるなら、音とかで分かるかもしれない。本当にダメ元の行動だが、やらないよりマシだ。着信履歴からイチゴの電話に発信する。
数回の呼び出し音。やっぱり出ないし、近くで反応もない。と、思った矢先、繋がった。
「もしもし」
「イチゴ! 良かった、今、どこにいる?」
「あたしですか?」
ふと顔を上げる。橋の欄干、夜の闇に金魚が数匹泳いでいた。
「イチゴ!」
橋から身を乗り出すイチゴを走って、引き戻す。イチゴは倒れ込んできて、僕は少しよろめいた。周りがいくら見ていようと関係なかった。
「なに、してんだよ!」
「はは……」
掴んだ手首は濡れていて、見ると血が垂れ流れている。両腕ともそうだ。自分の手にべったりとついた血液。全身に悪寒が突き抜け、僕は叫ぶ。
「どうしたんだよ! なあ!」
花火が一発、打ち上がった。歓声が上がり、一瞬、辺りは白い光に包まれる。
「ははは……、おかしい」
このときの顔を、僕は鮮明に覚えている。イチゴは虚ろな目で涙をこぼしていた。馬鹿みたいに、力なく、笑っていた。
半ば強引に茫然自失のイチゴを自宅に連れ帰り、簡単に応急処置をした。傷口を拭き、消毒をする。普段、袖に隠れている彼女の手首には、無数の線が走っていた。
「……あの娘、昭仁さんの知り合いと、一緒にいた娘」
「うん」
「あたし、知り合いなの。あの娘も、自分でこうやって切ってたの」
ブドウ飴を持って笑っていた少女が浮かぶ。正義が好きとは違う、と言っていた理由がなんとなく分かった気がした。
「中学の先輩。家の事情が複雑で不登校だった。あたしも不登校で、少し話すようになった」
イチゴの目はどこも見ていない。黒目は絶えず動き、過去と現在を行ったり来たりしている。僕は少し相づちをうちながら、彼女の腕に包帯を巻いていった。
「あの娘はとっても強かった。体はいつもぼろぼろだったけど、絶対に色んなことを諦めなかった。だから、幸せになれたんだと思う」
ぐったりとして俯く。綺麗に纏めていた髪も乱れきっている。浴衣がはだけていて、目を逸らす。
「遠目に見たあの娘が、幸せそうで辛かった。羨ましかった。悔しかった。見てられなかった。耐えられなかったの。だって、あたしは、高校でもいじめられて、学校にも行けなくなってきて」
つうっとまた涙が伝う。一度、流れてしまうと止めることはできない。次第に表情は歪み、声にも嗚咽が混じり始める。
「どうして、どうして……あたし、こんな風に、なっちゃったんだろう」
静かにイチゴの泣き声が響いていた。今日も電球を買い忘れたから部屋は薄暗い。今はスターマインらしい。窓際に座り込むイチゴの顔にまばらな影が落とされていた。
「夏は、大嫌い。傷口は開きやすいし、馬鹿みたいな青さの空がうっとうしい。いつもよりずっと、ずっと死にたくなる」
花火の音は銃声にも聞こえ、無性に胸がざわつく。夕方の万能感、夜更けの無力感。磨りガラスじゃ花火の形は捉えることはできない。今、外では戦争が起きているのだ。ほら、また一発、爆弾が投下される。
「全部、嫌い。本当はヴィレヴァンも、タワレコも、ゲーセンも、上辺だけの奴らしかいなくて、嫌い。分かってくれない皆も、嫌い。ひねくれた考え方しかできない、あたしも嫌い。大嫌いなの」
包帯を巻き終える。片付けを終わると、手持ち無沙汰になり、僕はイチゴの頭を撫でてみた。抵抗されると思ったけど、彼女は大人しかった。黙って僕に身を任せている。
僕もいじめられていたことがあった。そうやって自分では思っているが、実際相手がどう思っていたかは分からない。いじめなんてその程度の話だ。認識の違い。相手が爽やかに青春を謳歌している間、僕はこの世の全てを憎みながら生きていた。岸純一の漫画を読みあさっていた。あれがあったから、今がある。「もし、普通の学校生活を送れていれば」だなんて不毛な自問自答はもうやめた。どうせ、一度経験してしまえば自分を変えることはできない。ほとんどの人間に気を許せず、怯えて、その態度でまた敵を作り続けるほかに、道は残されていないのだ。
イチゴの気持ちは痛いほど分かる。だから、一番やってはいけないこともなんとなく分かる。分かっているはずだ。
「……辛かったね」
もう頑張らなくても良いよ、と伝えた。
僕は分かった顔をされるのが嫌でしょうがなかった。思いを理解されたところでなんだ。結局は一人で問題を解決しなければいけないのに。そう言って、話を早く終わらせたいのなら、はっきりと言ってほしかった。僕はただ、もう良い、という言葉を他人の口から聞きたかっただけなのだ。逃げ道を作ってほしかっただけなのだ。
「皆嫌いの中にきっと僕も含まれてるだろうけど、僕は君が好きだよ」
イチゴは僕に抱きついてきた。部屋の空調は節約のため、高い温度に設定されていた。そのせいでお互い、汗ばんでいた。綿飴の匂いに微かに汗の臭いが混じる。イチゴから人間の臭いがしている。きっと僕からもしている。猥雑で、浅ましい、人間の臭いが。
「あなたのことは、多分、愛してる」
いくら僕でも感じていた。要するに、そういう空気だった。不思議と緊張はしていない。別れの時間でもないのにキスをする。長く。深く。そのまま、彼女の浴衣にそっと触れる。貰った大きなぬいぐるみがこちらを見ている。電球が切れる。最後の花火が打ち上がり、部屋を生白く照らす。汗が額からぽたりと落ちた。
「ここはツラミ。ここはハツモト。で、ここはハツ」
「ううん、なんでもない」
「……怒らない?」
「……前、付き合ってた人、精肉店の息子で教えてくれたの」
「お互い真剣じゃなかったから。あっちも本当は好きな子がいたみたいだったし」
「……初めてじゃなくてごめんなさい」
「好き。あなたには捨てられたくない」
「一緒に死んでも良いって思えるから」
綻びの秋
夜が明けても、次の日になってもどこか夢を見ているようだった。クーラーを止め、扇風機で生活していると、常に全身が汗ばんでいて不快だった。部屋は甘ったるい匂いで満たされている。いつまでも、いつまでもイチゴは部屋で寝転んでいた。あの夏祭りの日から、サイズが合っていない僕の服を着て、ずっとどこかを見つめていた。
「帰らなくて良いの?」
「良いの。パパもママも、あたしのことなんてどうでもいいって思ってるから」
下ろされたイチゴの髪は湿気でゆるやかに巻き上がっている。まどろんだように潤む彼女の瞳は、なぜだか僕よりも随分年上の女のものに見える。
「昭仁さん、眼鏡してないときのほうが可愛くて好き」
床に散乱する避妊具のゴミ。磨りガラスを開くと、空は提灯の明かりのような朱色から、紫陽花にも似た紫へと姿を変えている途中であった。頬を撫でる生暖かい風の中に、微かな冷気が混じる。ヒグラシが鳴いていた。鳴き声は久しぶりに聞いたように感じる。八月の終わり。秋の始まりはすぐそこまで迫っていた。
長い夏休みが終わり、崩れた生活リズムは整いつつあった。講義があるから、夜もそこまで遅くまで起きていないし、午前中には起きて支度を終えている。生まれて初めてコンタクトを買って、目に異物を入れる作業に慣れていないが、そこそこ充実した日々を送っている。
金木犀が咲き始め、街はすっかり秋の装いだ。潰れたキャバクラの跡地にはドンキホーテが入った。よぼよぼのじいさんがやっていたゲーセンは閉店し、代わりにコンビニが新しく出来る予定らしい。季節の移り変わりとともに、街も水面下でゆっくりと変化してきている。
今日の講義は早めに始まったので、寄り道せずに帰ってきたら、中心街にとんでもなく早く到着してしまった。特に予定もなく、このまま帰ろうと一歩踏み出すと、ベンチに座る少女と目が合った。すぐに誰だか思い出す。祭りのとき、正義と一緒にいたあの娘だ。あちらも僕だと気づいたようで、軽く頭を下げてきた。
「こんにちは」
黄色のワンピースに身を包み、髪には飾りをつけていた。どこかへ出かけるのだろうか。前会ったときのような怯えた表情はしておらず、堂々として機嫌が良さそうに笑っている。
「こんにちは、えっと……」
「『山岸』です。『山岸ちさと』。高田君の知り合いの方ですよね?」
「そうだよ。『林昭仁』って言うんだ、よろしく」
山岸さん(年下だし、ちさとちゃんでも良いか?)は林さん、と名前を小さく呟いて確認するような素振りを見せた。小動物的な雰囲気の娘だ。正義がこの手のタイプに惚れるのは意外だな。
「今日はどうしたの? もしかして正義も一緒なの?」
「いえ、一人です。……実は引っ越すことになって。荷物はある程度送ったから、最後のお別れに来てるんです」
「えっ、引っ越し? どこに?」
「東北のほうです。その、両親が離婚して……。母の実家があるので」
東北。ここからだと、どの県だとしてもかなり離れている。
「あ、高田君には秘密にしてるんで言わないでくださいね」
「……うん。分かったよ」
前言撤回する。念を押すとき、急に眼光が鋭くなった。想像していたよりもこの娘はずっと強い。イチゴが泣きながら、ちさとちゃんのことを話していたのを思い出す。無意識か、隠すように左手首を掴んでいたが、僅かに覗いた隙間からは、確かに古い自傷痕を確認できた。
「でも、良いの? 本当に言わずに出て行って」
「ええ、もう……決めたことですから」
「……正義、絶対に君のこと、好きだよ」
ちさとちゃんは一瞬、目を見開き、泣き出しそうな顔をした。でも、すぐにまた笑う。ベンチの近くの花壇には金木犀が植えられていて、強くその香りが香ってきていた。
「……私も、高田……ううん、正義のことが大好きです。私、家が色々ややこしくて、学校行けてなかったんです。正義はずっと一緒にいてくれました。私の、命綱に、なってくれました」
まっすぐに僕を見つめて、明瞭な声で話す。
「大好きだから、何も言わずにこの街を出るんです」
彼女の口ぶりはとても大人びていたが、笑顔は年相応に、いやむしろそれ以上に子どもらしく、不完全な印象をこちらに与えた。纏う空気は正義のそれととても近い。
「これは私のわがままです。きっと今、会ったらどこにも行けなくなってしまうから。私のことを救ってくれた正義を解放してあげられるのは、今しかないんです。もう彼に二度と会わないことが、私にできる精一杯で、唯一の恩返しです」
ちさとちゃんはもう一度、正義には絶対に言わないでください、と僕に言った。あいつが一番嫌がること。彼女はあいつを「正義」と呼んだ。二人には他人が入り込むことのできない、強い絆があるのだろう。彼女の口ぶりから僕はそれを感じていた。
「すみません、急に重たい話しちゃって。悪い癖ですね」
「気にしないで。正義には言わないって約束するよ」
「ありがとうございます」
小動物的な雰囲気に戻り、頬を掻きながら苦笑いする。じゃあ、そろそろ、と言って別れようとした。でも、ふいに発せられたちさとちゃんの言葉に足止めされる。
「あの人とは、もう関わらないほうが良いですよ」
駅に電車が入ってくる。まだ青い葉で茂る木は、金木犀の香りを孕む風で揺れる。その風は僕の心までざわつかせるようだった。
「あの、人?」
「分かってるでしょう。あの人が林さんになんて名乗ってるかは知りませんけど、あなたを苦しめることだけは確かです」
太陽は雲に隠れ、辺りの彩度と明度が下がる。訳もなく緊張する。次の言葉を聞きたくない。
「……誰にだって心に闇はあります。私にも、もちろんあなたにも。特に私や正義の時期は自分に足りないものをあら探しして、落ち込もうとするものです」
正義の話をするときとは違って、ちさとちゃんは僕と目を合わせようとしなかった。彼女も僕と同じで、緊張しているのだろうか。言葉を選び、慎重に言っているように感じる。
「あの人はその闇に酔ってるから恐ろしい。自分が嫌い、死にたい、と言いつつも過剰な自己愛に溢れている人間は厄介です。自分で自分を肯定することができないから、少し人から優しい言葉をかけられると、すぐにつけあがる。依存して、骨の髄までしゃぶりつくし、相手を駄目にしたあと、『捨てられた』と喚く生き物ですよ」
あの人。言われずとも誰なのかは分かっていた。綿飴の匂いが蘇ってくる。
「気分を害してしまってすみません。お祭りの日に見かけて気になってて……」
ちさとちゃんは立ち上がり、すぐにこの場を去ろうとする。今度は僕が引き留めた。手首を掴むと、彼女は祭りの日のように怯えた表情を見せる。日光できらめく赤い髪飾りは、嫌でも金魚を連想させた。
「どうして、そんなこと、言うんだ」
踏切の警告音が劈き、電車は発車する。脳裏で赤い光が点滅する。
「……私も、そういう生き物ですから」
まだ逃げられるから、警告です。そうとだけ言い残し、彼女は街へと消えていった。僕はしばらく色々と考え込んで、動けなくなってしまった。なぜだか、「あの人」の腕の傷ばかりが浮かんできていた。
「おかえり」
アパートに戻ると、制服姿のイチゴが出迎えてくれた。どうやら今日も学校を早退してきたらしい。今までは金曜日だけだったが、ここ最近はいつもこうだ。
部屋には僕の小説や漫画が散乱し、窓は開け放たれていた。この部屋は風当たりが良く、穏やかな秋風が吹き込んできている。
「あんまり散らかすなって言ってただろ」
「えへへ、ごめんなさい。昭仁さんの家、本、いっぱいでおもしろくって。漫画とか、医学書とかもあるし」
イチゴは悪びれる様子もなく、笑って言った。
彼女とは半ば同棲のような状態にある。僕は許可したおぼえはない。どちらかと言えば、押しかけ女房というほうがふさわしいと思う。学校を早退すると、まっすぐ僕の家に帰ってくる。時々、何日か姿を見せなくなるときがあるから、その間に自宅に戻っているのだろう。親に何も言われないのだろうか。
「……昭仁さんも、こういう本、持ってるんだね」
「ん?」
顔を上げると、イチゴは一冊、雑誌を持っている。隠していた十八禁の雑誌だった。恥ずかしさで体温が上がり、でも青ざめて冷や汗もかいて、とにかく大慌てで奪い返そうとした。イチゴはするりと僕の手を避け、顔を近づけてきた。間違いなく、彼女は怒っている。
「あたしじゃ満足できないの? どうして? あたしのこと、もう飽きた?」
雑誌の表紙に映る女の顔に、見覚えのないシミがついていた。シミの正体に気づき、イチゴの手首を見た。思った通り、彼女の手首にはまだ乾いていない、真新しい切り傷ができている。
「もう、あたし、要らない? あたしのこと……捨てるの?」
黒目が揺らぎ、涙が流れる。落ちた数滴は僕の右手を濡らした。床には血塗れたカミソリが一本、落ちている。あんなの、持ってたか? イチゴが持ち込んだのか?
イチゴはカミソリに手を伸ばそうとした。ひゅっと変な音を立て、息を吸い込み、混乱しつつも僕は口を開く。
「違う! まだ、付き合ってなかった頃に買ったやつ、捨て忘れただけ、なんだ。もう、見てないから。見てないから!」
彼女はいぶかしげに、じゃあもう捨てて良い? と聞く。僕は頷く。
「……良かった」
雑誌を投げ出し、僕のシャツのボタンを外そうとしてきた。手首の傷から血が流れ、青いシャツにも濃い色のシミができる。
「ごめん……あたし、不安なの……。一人になりたくない……許して……」
今はそういう気分じゃなかった。抵抗したかった。でも、それでイチゴが悲しむと思うと、できなかった。僕が我慢すれば済む話なら、それで良い。せめて窓は閉めたいのだが。
「イチゴは一人じゃないよ。目移りしないから、安心して」
ボタンが全て外され、彼女の変に冷たい手が肌に触れたとき、僕は金木犀の匂いを思い出していた。「そういう生き物」という言葉と一緒に。
「十月中は無理だわ」
「えー。じゃあ、来月」
「無理。ここんとこバンドで忙しいんだ。分かってくれよ」
「了解。暇になったらまた連絡くれよ?」
「わかってるって。んじゃ、またな」
「うん。じゃあな」
晴希は最近、いつもこうだ。たまに空いた日があっても、呼び出されて途中で帰ってしまうことも多いし。まあ、今は頑張りどきだからしょうがないんだろうけど、昔からの友人としては寂しいものだ。
少し相談したいことがあったんだけどな。
だが、今はそれどころではない。隣で体操座りをし、ふてくされた表情をきめこむ彼女の始末が先だ。
「だから言っただろ。知り合いの人だって」
スマホを操作し、スピーカー機能を切る。イチゴは不服そうな表情で体操座りをしている。
「だって、心配だったんだもん」
ほら、またそういうことを言う。晴希に相談したかったのはこのことだ。
誰と話してるか不安だから、スピーカーにして。出かけてる間、何してるか不安だから、定期的にテレビ通話をして。他にも色々。
いくら心配だからって少々やりすぎに思えるのだが、僕は今まで恋愛経験がない。だから、こんなものなのか晴希に一度、聞いてみたかったのだ。
もう何も言う気が起こらず、立ち上がろうとすると、イチゴはべったりと張り付いてきて、身動きを封じられた。
「どっか行こうよ」
「ん、珍しいな。どこ?」
「どこでもいい。遠出しよう。で、行ったことないCD屋に入るの」
「ふーん。良いね。じゃあ、支度しようか」
夏前までは頻繁に出かけていたが、ここ最近は家に籠もりっぱなしだった。だから、どこにも行きたくないの一点張りだったイチゴからそんな風に誘われると、なんだかとても健康的に思えて嬉しかった。
普段から制服ばかり着ているのに、これまたセーラー服風のワンピースにイチゴは着替え、家を出る。
駅はハロウィンの飾り付けがされていた。そういえば、毎年、中心街でも学生たちが騒いで、ゴミを荒らして帰宅するので問題になっていたな、とぼんやり思い出す。イチゴの提案でいつも向かう方面とは逆方向の電車に乗り込んだ。
「あ、『藤井海岸』だ」
イチゴは天井近くに設置された線路図を指さす。
「あれ、降りたかった? この電車、準急だから止まんないよ」
「ううん。昭仁さん、覚えてない? 去年あった事故」
「……ああ! あれね、結構問題になったよね」
去年、女子高生が藤井海岸の岬から転落死した事故があった。原因は転落防止柵の老朽化。その事件がきっかけに、管理していた櫻城市の不正が発覚し、連日ワイドショーに取り上げられていた。現在、藤井海岸は立ち入り禁止になっている。
「……知ってる子だったんです。亡くなった子」
人の少ない車内。それ以上話は続かなかった。足を大きく投げ出して伸びをするイチゴ。ふと顔を上げると、海岸の残像が流れていった。
そのあと、数駅通過し、結局、二つ隣の市の繁華街で降りた。県内でも有名な商店街があり、古本屋や服屋、マニアックなCDを取り扱うリサイクルショップ、行列ができる系の飲食店が建ち並ぶ、活気がある場所だ。同じ繁華街でもうちの中心街とは訳が違う。
最近まとっていた暗い雰囲気は消え去り、イチゴは年相応にはしゃぎながら街を歩き回っていた。陰鬱な空気が伝染して、僕までまいっていたが、やっぱり彼女が楽しそうにしている姿を見るのは好きだ。ずっと欲しがっていたらしい絶版漫画を見つけ、財布の残りを確認している様子を見過ごすことはできず、なけなしの生活費をはたいて買ってやった。悔いはない。今日の僕は機嫌が良いからだ。
「お腹すいたな」
「ですねー」
「何か買ってくるよ。待ってて」
「はーい」
「すぐ帰ってくるから。またどっか行くなよ」
「はあい」
イチゴはベンチに座り、脳天気に返事をする。昼時だからどこの店も混んでいて、なんとか食べ歩きできる唐揚げを買い、急いで戻ると僕は愕然とした。イチゴはいた。しかし、違うのもいた。男。遠目でもそれが分かり、大股に近づいていくとなおさら呆然とした。
「晴希……?」
「げ、昭仁! なんでこんなところに!」
「お前こそ!」
「ん、てことはこの子が噂の?」
「……そうだよ」
「へーえ、噂通り可愛いじゃん」
「本当、調子良いな、お前。人の女ナンパしといて、ごめんもなしか」
「はは、わりぃわりぃ」
晴希は悪びれない表情でギターの鞄を背負い直す。イチゴは何が何だか分からないといった様子で僕のほうを見つめてくる。
「あ、ごめん。こいつ、僕の友達」
「よろしくー」
「はあ……」
「ていうか、彼女いるのに何してんだよ、晴希」
「いやいや、浮気とかじゃないって。可愛かったから声かけただけ。そうだ、君さ、昭仁の昔の写真、見たくない?」
「え、見たいです!」
「は? おい、やめろって!」
何でそんな写真持ってるんだ。どうせ晴希のことだ。ただでさえ太っていたから無様であろうに、それに加えて半目になっていたりするような酷い写真なのだろう。必死で晴希のスマホを強奪しようとするが、力が強くてまるで歯が立たない。
「昭仁、昔はめちゃくちゃ太っててさ、鈍くさかったし、すぐ泣くし。しかも、なんか動物の解剖とかしてたんだよ。気持ちわりいよなあ。そんな奴が医大生とか怖すぎだろ。あ、あと……」
そのとき、ガラスが砕ける音がした。一瞬にして僕の血の気は引いていき、代わりに晴希の顔はみるみるうちに険しくなっていった。
手を伸ばした拍子に晴希のスマホをはたき落としてしまい、アスファルトと衝突した画面は見事に粉々になってしまった。
「ご、ごめん! そんなつもり、じゃなくて……」
パニックになってしまい、言い訳みたいな言葉ばかりが口から垂れ流れる。晴希はスマホを拾い上げるが、起動しそうな様子もなかった。やがて大きくため息をついて、晴希はこちらを見る。
「……気にすんな。どうせあんま使ってなかったし」
「でも、弁償……」
「良いって。友達だろ」
目を細め、笑って言う。でも、それじゃ心は晴れない。晴希は断り続けるので、一応連絡先を渡し、修理が終わったら連絡をくれ、と伝えた。晴希はまた用があるから、と言って、消えていった。
「……昭仁さん」
「ああ、ごめんな。なんか嫌な空気にしちゃって」
「それは良いんですけど」
「ん?」
「あの人、本当に友達なんですか?」
「は?」
「いや、なんだか随分雰囲気が違う人だな……って思って」
「友達だよ。しかも、小学校からの」
友人なんてそんなもののはずだ。雰囲気が全然違う者同士が集まって、なぜだか仲良くなる。少なくとも僕らはそうだった。たとえ、その先に待っている未来が別々であったとしても。
湿り気の冬
しばらく家庭教師のバイトの休みが続いた。ある日、電話がかかってきて、おばさんから正義が学校に行き始めた、と聞いた。だから、時間を変更したいんだと。おばさんはとても喜んでいるようで、電話越しでもそれが伝わってきた。
久しぶりに正義の部屋に行くと、今までの反抗的態度が嘘のようにしっかりテキストが準備されてあるばかりか、すでに勉強を始めている正義の姿があった。僕を見ると、ファイルからなにやら紙切れを取り出し、突きつけてきた。
「志望校?」
「うん。もうすぐ模試あって」
それは模試の受験票だった、そういえば十一月に自分もやったな、と既におぼろげになってしまったが、思い出した。四校書く欄があり、第一志望以外は空白のままだ。
「全然ここら辺の大学のレベルが分からなくて、どこ書いたら良いか分かんないんだ。文系で妥当なところってどこ?」
「妥当って言っても結構、学科とかで変わってくるけどな。考えてる?」
「あんまり。ぼんやり、教育とか」
「教育? お前が? 意外だな。でも、教育になるとどこも難しいぞ」
「分かってる」
スマホを鞄から取り出し、県内の大学の偏差値一覧を出した。それを見ながらあれこれ話し合う。正義は僕の話を熱心に聞いていた。でも、あくまでこれは穴を埋めるための選択だ。本当に行きたい場所はとっくに決めているんだろう。
第一志望の枠には力強い字で東北の私立大学が書いてあった。赤いワンピースを身に纏うあの少女。不登校をやめたこの男。
「どうしたんだよ、変な顔して。……あ、馬鹿にしてんだろ。今はこんなでも、元々定期テスト、毎回一桁だったんだからな」
「いや、そんなんじゃない。勘違いするなよ」
正義は嫌そうな顔して、頬杖をつく。僕は目を逸らす。
自分でも驚いていた。自己嫌悪とともに、その感情は僕の心に際限なく広がっていく。一度、ついてしまった墨汁はとることができない。その感情はそんな墨汁のように心の中に染みついてしまった。
憎たらしい。どうしてこんな気持ちになったのか分からない。分からないけど、僕は逸らした視線を正義のほうに戻せなくなってしまった。
授業時間が終わり、おばさんはご飯、食べていったら、と言ってくれたが、気分が悪かったから断った。
「そっか。でも、昭仁君、最近ちゃんと食べてる? 会う度に細くなってるわよ」
リビングの扉から正義が顔を出し、僕もそれ思ってた、と言い、また戻っていた。
「大丈夫ですよ。しばらく忙しかったんで……」
頭を下げ、家を出る。罪悪感がひどく、この場にもういたくなかった。
スマホを見ると、案の定、イチゴから連絡がきていた。「何時に帰ってくる?」と。返事は返さなかった。今日は帰りたくなかった。
十一月ともなると、夜は冷え込む。薄い上着一枚だったのでなかなか寒かった。家路とは反対方向に歩き出すと、実家の前に出る。少し立ち止まったが、すぐまた歩き出す。田んぼの方向へ。
慣れた道を進んでいくと、自分が小学生に戻っていくように感じる。痩せたと言われたのに、体が信じられないほど重いのは何故だ。卒業アルバムの写真。部活で言われた暴言。前より少し顔が丸くなったイチゴの笑み。
一時とはうってかわってイチゴは潔癖になった。そのことについて指摘すると、結局、体目当てだったんだ、と泣かれた。
上手くいかない。苦しい。焦燥感。
昔、落ち込んだり、腹が立つことがあると決まって田んぼに向かっていた。生き物がたくさんいるからだ。
生き物が好きだった。特に鯨が好きで、いつまでも飽きずに図鑑を眺めたりしたものだ。進化の過程の神秘とかに心を惹かれていた。
獣医になりたかった。動物の命を救いたいと思っていた。でも、あんなに好きだったのに進学し、いじめられ、憎しみにまみれるうちにそんな思いは消え去ってしまっていた。もう、なんの興味も起こらなくなってしまっていた。
高校生になって、夢はゆっくりと探せば良い、と色んな場面で言われた。大学に進学してからこの仕事に就こう、と決めたとか。でも、大学には学科や学部があって、実際は夢をある程度決めていないと、どこに行くかも決められない。
やりたいことも目標も何もなかった。ずるずる決断を先延ばしにし、逃げ場がなくなってきた。母には好きなことをやれば良い、と言われていたが、結局、父に昔から言われたように医大を受験した。それで受かってしまった。本当に、心から医者になりたかった誰かを差し置いて。
正義に親近感を覚えてた。いや、違う。もう気づいてしまった。本当は見下していたのだ。だから、耐えられなかったのだ。目標を見つけ、前進し、自分よりも先へと行こうとするあいつが許せなかったのだ。
僕は、何者なんだ。どうして、こんな星の下に生まれてきたんだ。
顔を上げる。そこには変わらず、田んぼが広がっていた。懐かしい草の臭いと蛙の鳴き声が聞こえてくる。まだ冬眠前で良かった。
点々と立つ電柱の灯りを辿り、歩いた。そのうちの一つに大きな蛙が鎮座していた。喉袋を膨らませ、延々と鳴いていた。
僕は走り出し、全力で蛙を踏み潰す。逃げようと蛙はもがき、馬鹿みたいな声で鳴く。力を更に込める。すると、蛙はいつものように潰れ、死んだ。
久しぶりに蛙を殺したけど、あの日のような爽快感も征服感も得られず、残ったのは醜い死骸と空虚な喪失感だけであった。
僕は生き物が好きだった。長い時間をかけて進化したくせに、弱くて、馬鹿で、僕の手で生き死にを操れるから好きだった。あんなに大きいのに、こんなに小さい人間の手で殺されていく鯨が大好きだった。
僕は人間が嫌いなんじゃない。自分の力でどうにもならないものが大嫌いなのだ。そんなもの、全部、全部、消えてしまえば良い。
家に帰ると、イチゴは、嫌い、と僕に言ってきた。
大粒の涙。あいかわらず血が滴っている両腕。窓は開け放たれていて、滑り込んできた排気ガスを多く含む風に僕は目を細める。
右手は血と、彼女の体内から染み出た液体で濡れている。濡れていた。
あたし、汚されたの。いじめっ子にまわされたの。あんたが早く帰ってきてくれなかったから。
嫌い、あんたなんて。大嫌い。この世の全ての罪悪は、あんたに起因するものよ。あたしが不幸なのも、全部、あんたのせい。
水音。肉塊の音。声。血のにおい。
肉体の重なりと、交わりで、何もかも帳消しにできるほど、愛とは単純なものだろうか。彼女の言葉の真偽はこの際、どうでもいい。不意に潔癖になったと思えば、またこのざまだ。もうよく分からない。
もし、神がいるのならば、お前の気がしれない、とでも言ってみようか。愛の向こう側に存在する歪な悦楽と、その禁断視。
体が痙攣する度、馬鹿な犬っころなんかと自分が大した差がないことに気づいてしまいそうで、恐ろしかったのだ。イチゴの声が耳に張り付く。
触れる肌の柔さ、互いの汗の熱さがいやに蛙を連想させた。淡い赤色の痕がついた首に手をかけてしまえば、あの日の爽快感をもう一度、感じられるかもしれない。
そんなこと、しないけど。
岸純一が死んだ、とネットニュースで出てきた。浴室で倒れているのが発見され、すぐに病院に運ばれたが、死亡が確認された。死因は急激な体温変化により引き起こされた心筋梗塞。いわゆる、ヒートショック現象だ。
現在執筆中であった「吸血鬼水子」をどうするかは検討中。デビュー何周年だったかの記念の画集の発売は延期。
大学帰りにあまり降りない駅でなんとなく途中下車する。どうせ目新しいものも置いてないだろうに、ヴィレヴァンを見つけるとつい、入ってしまう。店内の漫画のエリアには岸純一の特設コーナーができていた。女子高生二人が本を手に取り、盛り上がっていた。来週、古本屋に岸の本を全て売りに行こう、と決めた。
講義が夕方からだと、やはり遅くなってしまう。十二月の六時の街なんて、もう闇と言っても過言ではないだろう。吐く息も白くなり、いよいよ冬本番だ。そりゃ年をとった漫画家の一人や二人、死ぬ。
弁当を買おうと、コンビニを探す。すぐにクリスマスの飾り付けがされたファミリーマートを見つけ、入ろうとしたら珍しいやつがいた。
「千奈津?」
コンビニの制服姿の千奈津が、店前で掃除をしていた。巻いていた茶髪は短く切られ、根元は黒くなり始めている。化粧もせず、目の下にはクマができ、見るからにやつれた表情をしていた。
「……昭仁?」
「どうしたんだよ、すごい疲れてるじゃん」
「うん、大丈夫。大丈夫だから」
「大丈夫って……」
まったく大丈夫なようには見えない。言ってるそばからつまずき、転びそうになった彼女に手を貸したら、その手は振り払われた。
振り払われた手をどうしたら良いか分からず、中途半端に開いた状態にして立っていると、千奈津は急にしゃがみ込んで泣き始めてしまった。
「ごめん、僕、何かした? 本当にどうしたの、大丈夫?」
千奈津は感情をストレートに表現するやつだった。大声でぼろぼろ涙を流す泣き方は昔と変わっていない。僕もしゃがんで、肩を叩いてやると少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
「……晴希と、最近、上手くいってなくて」
「……うん」
「バンド、がなかなか、売れなくて、晴希、す、ごく焦ってて。そのうち、バイト行、かなくなってきて。ずっと怒ってて、しょっちゅう、な、殴ってきて……」
はっとして、千奈津を見た。コンビニの青白い光に照らされた、涙を拭う腕や前より細くなった首、様々な場所に青あざができていることに気づいた。
「…………晴希、昭仁のこと、嫌い、なんだよ」
「え」
心臓がとても早く、動いているのが分かる。頸動脈が熱を持って、強く脈打っているのを感じる。晴希の顔が思い出せない。馬鹿みたいに大声を出す笑い方しか、思い出せない。あざ笑うような、あの笑い方。
「勝ち組だからって、馬鹿にしてるって……わざわざ、呼び出して、彼女とか医大とかの、自慢してくるって……頭、悪くて大学落ちた、俺を、ずっと笑ってるって……」
晴希が大学に落ちたことも知らなかったし、馬鹿にしてなんか絶対にいなかった。ただ、昔からの友だちと、話したくて……。そこまで思って、正義のことがよぎる。
僕は、本当は、心のどこかでは、馬鹿にしていたのかも、しれない。
もう何も分からなかった。正義に対する憎しみ。晴希に対する衝撃。踏み潰した蛙の感触。コンビニ前に漂う油物の臭い。
「……僕と会った日だと、余計に機嫌が悪くなってた?」
千奈津はゆっくり頷く。それが答えだった。これ以上、考える余地はなかった。
「もう、晴希と会うのはやめるよ。……今まで迷惑かけてごめん」
コンビニの中にはもう一人、バイトの男がいて、千奈津が泣いているのに気づき、外に出てきた。詳しく事情は言わず、友人と名乗って、彼女を男に預けた。とても心配している様子だったから、あとは彼に任せれば大丈夫だろう。もう、晴希にも、千奈津にも、会わなければ大丈夫だ。……きっと大丈夫だ。
足取りがおぼついていないのが自分でも分かった。涙が出そうだった。久しぶりに死にたかった。リュックごしに振動を感じ、乱暴に携帯を取り出す。
『ねえ まだ帰ってこないの?』
『遅いよ ねえ まだ?』
『まだなの?』
『浮気?』
『は?』
『あたし不安なの もう捨てられるのやだよ』
『なんで返してくれないの?』
着信
『やだよ 捨てないで』
『それなら死ぬから』
『あたし 死ぬ』
写真が添付される。赤く濡れた傷口が大きく、手首に開いていた。
電話が来る。何度も何度も何度も何度も。何度も。
十回ほど来て、僕は電話に出た。奇声に近い金切り声が僕の脳味噌を貫き、何を言っているのか判別のできない罵倒に笑った。
あまりに自然だったから気づかなかった。でも、気づくと止められなくなってくる。
「……わかれよう」
幾筋も涙が伝い、冬の寒さで凍てつくように頬を刺激していた。電話を切ると、全身の力が抜け、携帯は僕の手から滑り落ちた。着信の振動によって携帯はコンクリートの上で円を描くように動いていた。
帰ろう、家に。どうせ、イチゴはアパートにいるだろうけど。どうせ、アパートで暴れてるだろうけど。
どうしてこんなことになったんだ。僕はどこで間違えたんだ。考えると、全てが正しかったようにも、全てが間違っていたようにも感じる。
もう嫌だ。嫌だ。嫌だ。どうして、僕ばかりこんな目に遭わなきゃいけない。どうして、僕はこんなことばかりに巻き込まれる。嫌だ。死ね。全員、死ね。死ね。お願いだから死んでくれ。後生だから。もう僕を困らせるな。触れるな。二度と。
そこまで離れていなかったせいですぐに街に到着した。「櫻城駅」と大きく、書かれた看板。中心街のネオン、酔っ払い、馬鹿笑いする女。僕はここから逃げられない。
アパートが見えてくる。携帯はしばらく鳴っていない。錆びた階段に足をかけると、大きく軋む。その音で気づいたのか、僕の家の扉が開いた。
彼女の姿は幽鬼のようだった。髪は乱れに乱れ、そこら中から血が流れている。手にはしばらく研いでいないせいで、切れ味が悪くなっている包丁が握られていた。
「ほんとに殺すから。ほんとに許さないから」
涙でどろどろになった顔のイチゴは言う。遠くからサイレンの音が聞こえてきた。暴走族のバイクの爆音。トラックが近くを通り、黄色い光に少しの間、僕らは染められた。
お互い睨み合い、しばらく硬直状態が続く。一段、降りる。二段、降りる。ゆっくり、じわじわとイチゴは近づいてくる。
僕らの間が残り三段になったときだった。ふいに彼女は包丁を落とした。高い音を立て、包丁は階段と衝突する。喉の奥でくくっと笑い始め、その笑いは次第に甲高く、異常なものへ変わっていった。
「ぜーったい、ぜーったい、もう、あんたのこと、にがさないから! あんた、もうあたしからにげられないんだよ! わかってる?」
わかってないでしょ! と言い、服のボタンを外し、僕に見せつけてきた。露わになった上半身に、僕は言葉を失った。
彼女の腹は膨らんでいた。太っているのではない。それが何を意味するのかは分かっていた。
「な……んで」
「避妊してたのにって思ってる? あたしね、ずっと缶バッチのピンでゴムに穴、開けてたんだよ。気づいてなかったんだろうけど!」
意識が飛んだ、ような気がした。理性はわき上がる怒りで焼き切れ、得意げな顔をした女の顔を殴りつけた。鈍い手応えと、死にゆく蛙の鳴き声が聞こえ、女は段差に体をぶつける。
女の髪を掴み、部屋に引きずり込む。他人のもののような自分の絶叫が響き渡り、何度も女を殴る。
「こんの、クソアマ! 勘違いしてつけあがりやがって! 死ね! 死んで詫びろ! 殺してやる!」
右手が血で滑ついている。興奮したせいで鼻血が出てくる。充満している血の臭いは相手のものか、自分のものか。
「なんで俺なんだよ! なんで俺ばっかり、こんな目に遭わなきゃいけねえんだよ! 言ってみろ! 謝れよ!」
そこまで言うと、また女は金切り声を上げて笑った。
「まだ、分かんないの? あんたが馬鹿で、空っぽだからだって!」
瞬間、動けなくなる。振りかぶった拳を震わせたまま、嘲笑の色を含む女の眼球を見つめ、息を荒くした。
「初めて見たとき、会ったときすぐ気づいた。大した苦しみも味わってないくせに、いつまでも被害者面して、ぐちぐち文句ばっかり言ってる奴だって! アイデンティティーとか存在意義とか、思春期抜けきらずに特別な存在とかにこだわって、自分で自分を貶め続けて、自分の不幸は死ぬまで社会のせい、他人のせい! 馬鹿で、受動的で、最低で、ありふれた、センチメンタル野郎!」
耐えきれずに女の顔につかみかかった。切れた女の唇から流れる血潮が俺の手を濡らす。
「あ、は、は……。あたし、そういうクソ野郎が大好き。まだ、自分のほうがマシだって思えるもん……。ほとんど毎日顔あわせてるくせに、何も気づきもしない。生理とか、体型とか、考えりゃ分かるでしょ。あんた、結局、自分のことしか考えてない、ナルシストなのよ……。あんたが想像通りの馬鹿で、良かった……」
死ぬほど悔しくて、殺したいほど憎くて、眼球が溶け出してるみたいに涙がとめどなく溢れていく。もう一発、女の顔を殴る。でも、俺の手は何の力も入ってくれなかった。
「ねえ……一回さ、何もつけずにしようよ……きっと、気持ちいいから」
そう言うと、女は俺にキスをしてきた。口内を女の舌がまさぐる。自分の血と、女の血と、自分の涙の味が混ざり合って、ひたすらに不快だった。もう、どうでもよかった。
狭間の呼吸
中絶手術を受けられる期間は妊娠二十二週未満まで。これを過ぎてからの手術は倫理的問題、母体への影響を考慮して、いかなる場合でも認められていない。
膨らんだ腹が目立つようになるのは、大体五、六ヶ月ぐらい。いかにも妊婦、という姿になるのは約八ヶ月頃。
ポストには何枚か年賀状が入っていた。
「平野透子」と名前が書かれたはがきには、小学生時代の懐かしい友人の姿が映っていた。父親の会社が倒産し、今は他県に住む祖父母が営む旅館で、住み込み従業員をやっているらしい。卒業式のあと、そう話してくれた。「教師になる夢は諦めたけど、今は今で充実した日々を送っている」 あの日、語った言葉は間違いではなかったのだ、と写真の中で、変わらない凜々しい笑みを浮かべる透子が俺に向かって言っているような気がした。
そして、もう一人。「熊谷彩花」からも来ていた。彼女は絵が上手かった。この年賀状にも今年の干支の犬がとてもリアルに描かれている。
透子ほど気が強くも、千奈津ほど派手でもなく、他が騒いでいるのを少し微笑みながら見ている様子が印象に残っている。大人しい奴だった。
千奈津からも、当然晴希からも年賀状は来ていなかった。それに関してはなんだか安心した。嫌いなら嫌いで突き放してくれたほうが気が楽だ。
イチゴはまだ眠っていた。昨夜、右手に安全ピンで無理矢理彫られた六芒星が鋭く痛んでいる。残りの年賀状を取り出し、郵便受けを閉じた。
「……ありがとう」
年賀状はイチゴに言われた通り、全て鋏で切り裂いた。
古事記の国生みの場面。伊邪那美の成長していない部分に、伊邪那岐の成長しすぎた部分を刺し塞いで、この国土は生まれたんだとか。女性である伊邪那美のほうから誘ったときは、ちゃんとした形の子どもは生まれず、異形のものが産み落とされた。その子らは舟に乗せられ、流されたそうだ。
じゃあ、イチゴの腹にいるのは?
ろくに外にも行かず、交わってばかりいた。彼女が飽きるまで。なすがままとはこのことだ。何も考えないで欲に忠実でいるほうがまだマシだった。現実から目を逸らしているだけで、解決に向かっているわけではないことぐらい分かっている。
死にたい、と呟いたら、繋がったままのイチゴはカミソリを手渡してきた。ただ、右手に持って見つめていたら、彼女は少し微笑みながら俺の手を取り、左腕の上でそれを横に思いっきり引いた。熱が横切ったあと、痛みが素早く走り、俺はうめき声を上げる。細い傷跡から血が垂れ流れ、イチゴはその血を少し舐めた。
「ほんとに、なんにもできなくて、あなたはかわいい。そうやって無感情になって逃げようとしてるところもね」
「見てくれよ! 成績表返ってきたんだ!」
二ヶ月ぶりに会った正義に渡されたのは十一月の模試の結果だった。大体はD、Eだったが、一つだけCと書かれている項目がある。第一志望の大学だった。
「昭仁、年末はテストだったし、そのあともずっと体調崩して、授業来れなかっただろ。その間に返ってきて、ずっと言いたかったんだよ。九月から学校また行き始めて、こんなに早く授業追いつけて、しかも良い判定ももらえて、全部昭仁のおかげだと思う。本当にありがとう」
四月頃のこいつだったら、こんなに素直にお礼の言葉なんて言わなかっただろう。小生意気で強情で、不安定な時期を色んなものに抗いながら生きていたのに、あの娘との別れを通して、正義は成長してしまった。決して折れることがない、心の軸を手に入れたように。
正義は満面の笑みで生き生きとして、俺の返事を待っている。
「良かったな」
その姿は今もなお憎たらしかった。
「ちさとちゃん、追いかけてくんだろ」
「は、なんで、山岸のこと! そういうのじゃないって何回も言ってるだろ!」
顔を近づけ、じっと目を見た。正義はたじろぐ。
いちいち丁寧に同じような反応しやがって。虫酸が走る。お前と俺は似たもの同士だ。いつかの俺だ。お前の考えごとき、手に取るように分かる。
「俺さ、彼女できたんだよ。ちさとちゃんの友達の女だ」
口角は勝手につり上がる。歯の隙間から笑い声が自然と漏れ出してきて、妙に楽しい気分になってきた。
「あいつな、どうしようもないやつでさ、勝手にガキ孕みやがったんだよ。信じられねえよな。もう堕ろせねえしよ」
あのときと同じだった。イチゴを殴ったあの日と。熱に浮かされて乱暴に、下品に俺がとりとめなく話す様子を、俯瞰気味に見つめている自分がいる。馬鹿だなあ、と自分自身を嘲笑いながら、顔がみるみるうちに青ざめていく正義を見つめていた。
「お前、ちさとちゃんとやりたかっただけだろ」
正義は目を見開いた。
「純愛にかこつけて自分の性欲満たそうとしてただけだろ? やりそびれたから追いかけようとしてるんだろ、どうせ。やめとけよ。確かにちさとちゃんは可愛かったけどな、あんなメンヘラ女に手出したら身を滅ぼすだけだぜ。今は良くても、いずれ化け物になる。俺もそうだった。でもな、気づいたんだ。愛なんて所詮、汚え欲求の隠れ蓑にすぎないんだ。いつまでも童貞くせえこと言ってないで、いい加減目覚ませよ」
震えながら俯く正義の髪を掴んで、強引に上を向かせる。渡された模試の結果は力を込めて握り潰した。
「……図星つかれたからって逃げんじゃねえよ、クソガキ。こっちはお前のためを思って言ってやってんだぞ。なに、目ぇ逸らしてんだ。ありがとうございますって言えよ。なあ!」
その一瞬、何が起こったのか分からなかった。殴られた頬は鈍く痛み、弾みで置いてあった椅子に全身をぶつけた。
正義は肩で息をし、俺を睨んでいた。本気だった。その目は疑いようのない憎しみと殺意の色を浮かべていた。
「黙って聞いてりゃ調子良いことほざきやがって! このクソカスが!」
階段を上ってくる音がした。扉を開いて入ってきたおじさんとおばさんは息をのみ、正義を止めに入る。
「ぐちゃぐちゃ騒いでたけど、全部、共倒れになる覚悟も持たないで中途半端に手出したお前の非だろ! 僕が……僕がどんな思いでちさとに接してたかなんて、お前に分かってたまるか!」
おばさんが僕に駆け寄ってきた。何度も何度も泣きながら俺に謝ってくる。正義の目尻にも涙が溜まっていき、流れる。
正義は拳を振りかぶる。それでまた俺を殴るつもりなんだろう。しかし、その拳が俺の顔に届く前に、おじさんは正義のことを強く突き飛ばす。奴は壁に激突した。
「何をやってるんだ! 一体、何があった!」
普段、物静かなおじさんからは想像もできない声だった。突き飛ばされてもなお、俺に飛びかかってこようとする正義をおじさんは必死に押さえつける。
「お前と僕を同列に並べるな! お前みたいな屑が愛なんて語るな! その薄汚れた口でちさとの名前を呼ぶな!」
おばさんの泣き声。おじさんの叫び。正義の怒号。
笑える。笑いが止まらなかった。全くおもしろくないのに、現実逃避するみたいに大声で笑っていた。俺の笑い声に呼応して、正義はまた吠える。
「救おうとか守りたいとか上から目線で思ってたんだろ! それが一番嫌なことだってお前分かってなかったんだよ! だから、平気で、その娘のことも、悪く言えるんだろ! 笑ってないでなんか言えよ、ドクズ!」
殴られた頬はまだ熱く痛んでいる。まだ寒さの残る三月初めの風がその熱を冷ますようだった。
腕時計を見ると十二時近くだった。マフラーに鼻を埋め、橋から堀を覗き込む。
イチゴはもう俺のことを束縛しなくなった。子どもという絶対的な切り札ができたから必要がなくなったのだ。俺が逃げない、と信じているのだろう。
あいつはこれからどうするつもりなんだろうか。結婚とか? そんなのごめんだ。あんなのと一生寄り添うつもりはさらさらない。もしかしたら案外、あいつも何も考えてないのかもしれない。そんな、無計画なやつに振り回されているのか、俺は。
空には点々と星が浮かんでいる。堀に流れる鏡面のような黒い水にもそれらは映っていた。冬の空気の中、街灯やネオンの明かりはどうも暖かそうに見える。月とネオン、星が溶け込んだ堀は美しく、居心地がよさそうだった。手を伸ばせば届く。そんな距離に見えた。欄干から身を乗り出し、右手を遠く、遠く伸ばす。そして、左手を滑らせた。
あ、死ぬ。
「危ないですよ」
マフラーをいきなり掴まれ、地面に投げ出される。目を開くと、そこには死神が立っていた。
と、思ったが違う。長く、黒いコートを身に纏った男だった。男にしては長いぼさぼさの髪は一つにくくられ、無機質で何の感情も感じられない両目は俺を見下ろしている。男の顔には見覚えがあった。
「あれ、射的のお兄さんじゃないですか」
長髪男の背後から現れた人物を見て、やっと誰だか思い出した。
「なにか、お悩みで?」
嘘くさい笑み。陰気な雰囲気。狐顔と長身の二人組。七月の祭りで会った奇妙な学生たちだ。
狐顔のほうは手を差し出してきた。俺は黙ってその手を取り、立ち上がる。
「本気で死にたいんだったら止めませんよ。ただ、大した覚悟もないのに飛んだら後悔するに決まってますからね。俺からの忠告です、林さん」
聞き逃しそうになったが、最後、狐顔はありえないことを言った。驚いて、狐顔を見る。すると、目を細めて笑う。あの日も顔面に張り付いていた不自然なものではなく、満足げでおかしくてたまらない、といった表情だった。
「あんた、『新井和泉』の恋人でしょ」
新井和泉? ……イチゴ、のことなのか? 今まで一度も本名は聞いたこともなかった。なんでこいつらがそんなこと知ってるんだ。疑問ばかりが浮かんでくる。
「俺、佐川って言います。こっちは宮田」
宮田、と呼ばれた長身のほうは頭を下げる。
「……はじめまして、一応、新井の恋人だった者です」
ちょっと用がありまして、と淡々と話す。咄嗟に遠い昔に疑った、美人局の三文字が脳裏をよぎったが、恋人だったと言っているのだから、また違う用件のはずだ。
「別に悪いようにはしませんよ、林さん。少しお時間いただけますか?」
有無を言わせぬ圧を佐川の口調から感じ取り、俺は黙って頷く。
二人はそのまま街を進んでいった。学生が出歩いていたら補導される時間だが、誰からも声はかけられていなかった。宮田は黒いコート、佐川は黒いスーツのような服を着ていて、とても学生とは思えない威圧感を醸し出していたからだろう。
「新井は、不幸な女でしたよ」
奥まった路地に入り、宮田はぽつりと呟いた。この街に生まれてからずっと住んでいるのに、こんな道に入ったことはもちろん、存在していたことにも気づいていなかった。何の店か分からない建物が建ち並び、その前で酔いつぶれているのか、高齢の男がぐったりとしていた。
「家庭環境に問題があった訳でもない。友人もある程度いたそうです」
佐川がスーツのポッケから煙草を取り出し、何食わぬ顔で火を点ける。未成年だろ、と注意しようとすると、ニッと笑い、「ああ、すみません。お子さんの体に触りますねえ」と言った。俺が妊娠しているんじゃないし、赤ん坊のことで悩んでいる事実が知られている、ということをその台詞は暗喩していると気づき、俺は一気に気分が悪くなった。
「生まれもった性質だった、と言ってしまえばそれまでになりますかね」
ふいに怒号が聞こえ、ガラスが割れる音がした。半裸の女が泣きながら店から飛び出してくる。宮田も佐川も何の関心も示さず、すぐに女は墨が入った男に引きずり戻されていった。
「中学に進学した時期あたりから、急に誰のことも信用しなくなったそうです。最初は思春期特有の独りよがりな気持ちだったのでしょうけどね。周りの人間を下に見て、馬鹿にしている態度をあからさまにふりまいた結果、いじめに遭い、本当に誰も信じられない、孤独な人間になってしまった」
宮田は階段に貼られた立ち入り禁止のテープを破り、そこを下っていく。中心街に地下があるなんて知らなかった。立ち入り禁止と書かれていたわりには店が点々と開いている。狭い道がしばらく続く。
「新井はよく、誰も分かってくれない、と言っていたでしょう? 愛しているか不安、と言っていたでしょう?」
聞き覚えのある台詞。憂鬱そうにあいつはいつも言っていて、俺はそれを聞く度に慰めたり、鬱陶しいと思っていたりした。
「誰のことも理解しようとしないのも、誰のことも愛していなかったのも新井自身でしたよ」
ずっと先を歩いていた宮田は立ち止まり、振り返る。いつの間にか道も広がり、大きく開けた薄暗い空間に出ていた。下水が近くで流れているのか、微かに臭気と水音を感じた。
宮田はまた黙り込んでしまい、俺をじっと見下ろしている。佐川のほうもどこ吹く風で俺の背後にたたずんでいる。
「……で、用ってなんなんだよ。俺はお前の未練なんて聞きたかなかったんだけどな」
「未練? 勘違いしないでください。僕は勝手に仲間だと思われて、つきまとわれていただけです」
用件はですね、と宮田が口を開くと、風が吹いた。あまりに一瞬で脳の処理が追いつかなかった。喉にはいつのまにか鋭いナイフが突き立てられている。
「てめえを殺しにきたんだよ」
汗がどっと出てきて、呼吸も荒くなる。そんな俺の様子を見て、ナイフを握る佐川は馬鹿にしたように笑った。宮田はあいかわらず生気が感じられないような無表情だった。
「ご懐妊おめでとうございます。事情は全て把握していますよ。新井から連絡が何年かぶりに来ましてね。あなたを殺してくれって頼まれました」
佐川は口角をつり上げ、薄く開いた唇から煙と共に笑い声を吐き出す。ナイフに込められた力はたしかに強くなり、背筋はなおさら凍る。
「ただのヒス女から精神病患者まで格上げなんて大したもんだな、表彰もんじゃねえのか? よっぽど大切に育てたんだろ? 今度、やり方教えてくれよ」
ひひ、と耳元で笑い声。
あの女、本当にいかれてやがる。子どもだけじゃ足らないってことか? あれ以上何を望むのか考えたとき、結婚を思い浮かべたが、あの女はもっと先を行っていた。俺を殺さなきゃ気がすまないだなんて、本当に、本当にどうかしてる。
つうっとナイフの先が動いてゆくのを感じる。頸動脈なんて切られたら一発だ。
今、俺の命は完全にこいつの手の中にある。逃げられない。どうすればいい? こんなところで死にたくない。死にたくない。死にたくない!
「……佐川、もうやめとけ。お前の冗談は笑えないんだ」
「なんだよ、つまんねえなあ」
宮田の言葉で佐川からの拘束は解かれ、俺は倒れ込んだ。心臓はまだ壊れたみたいに動いている。
「僕は新井の為に人を殺せるほど特別な感情は持っていません。安心してください」
「女が送ってきた写真の顔に見覚えがあったから、ここ最近俺たちで探してたんだよ。単なる興味本位だ」
佐川はへらへら笑い、ナイフを振る。宮田はコートから少しよれた手紙を取り出し、俺に手渡した。
「殺せって言うか、半殺しにしろって依頼だったぜ。多分、心中でもするつもりだったんだろうな」
「どちらにせよ、昔、関係を持った人間に、今の恋人に対する暴行を頼む根性は大概なものだと思いますけどね」
「……なんだよお、泣くなって。殺さねえっつってんのに。情けねえ顔」
同封されていた写真は大昔に撮ったプリクラだった。照れくさそうに腕を組んで、ぎこちなくピースをする二人。写真の中の僕も、イチゴも安っぽい恋愛を謳歌していて、馬鹿みたいなのに、これからどうなるのか分かっているのに、羨ましくてしょうがなかった。
生ぬるい涙が流れていく。嗚咽が漏れ出し、二人が見ているのも気にせずに、子どものように大声を上げて泣きじゃくっていた。
『あなたにしか頼めません。私の処女を奪ったあなたにしか。
私を愛していた事実があったのなら、どうかあの人を私のところに連れてきて。とどめは私がさすから。
私はたしかにあなたのことを愛していました。私のことを忘れないで。』
「全く、何を勘違いしているのでしょうね、あの人は。僕は一度だって愛しているなんて言葉をかけてやったことはなかったのに」
立ち上がることができず、崩れ落ちたままでいると、佐川はしゃがんで、俺の肩を叩いてきた。
「ま、という訳だ。てめえら二人ともどうしようもねえのな。なんか気の毒になってくる。今さらどうこうできるわけでもねえし、いい加減大人しく諦めろって 」
諦めろ?
俺は可哀想だと思って、優しくして、愛していて、幸せにしてやりたくて。それだけだった。何ら特別なことは望んでいなかった。ただ、一人の女の子を、好きになっただけだった。
それだけだった。……それだけだった。
「……もうさ、殺せばいいじゃねえか」
佐川は平然として言った。全身の毛が逆立ち、手が震えているのが分かる。この空間は静かで、微かな吐息と、流れる水音しか聞こえなかった。
「だってさ、よく考えてみろよ。惚れた女がガキ孕んだらよ、普通喜ぶだろ? 俺だったらそうだけどなあ? たとえお互い未成年でも」
狐のようだと思っていた狡猾な笑み。まじまじと見ていると、それは蛇を連想するものでもあった。蛇に睨まれた蛙。そんなことわざがよぎる。細めた目は揺らぐことなく、侮蔑の色を映していて、ナイフは離れた場所に設置された古い蛍光灯の明かりで、一度きらめく。
「でも、てめえはどうだ。殺してやるって叫んだらしいじゃねえか。堕ろせ、はまだしもな。……本当は分かってんだろ? てめえは愛されてもいねえが、初めっから女を愛してもなかったんだよ」
「……違う……」
「違くねえよお」
違う。そんなんじゃない。
……そんなはずない。
「本当に……本当に、僕はあの娘のことが、好きだったんだ」
少しだけ佐川は目を見開いて、次の瞬間、大笑いする。長い悪夢のように笑い声は辺りに木霊し、僕の鼓膜を揺らす。
「でも、でも、でもっ、彼女、僕を束縛して、苦しめて……僕はっ、あの娘がかわいそうで、あの娘の気持ちが分かるっから、優しくした、し、た。なのに、裏切ったからっ、つい叫んだだけなん、だよ。そうなんだよ」
唐突に笑い声が止み、顔を上げると襟首を掴まれる。ずっと笑っていたのに佐川の顔は無表情になり、静かに僕のことを見下ろしていた。
「あの娘の気持ちが分かるって、お前は随分傲慢なんだな」
瞬間、殴りつけられる。正義のものとは全く違っていて、重い一撃だった。口の中が切れて、鉄の味が広がっていく。
「所詮、分かるつもりになってただけだろ。他人のことを完全に理解なんてできるかよ。それでなんだ。思ってた見返りが来なかったから駄々こねるって、ガキか、てめえ」
咄嗟に佐川の眉間に握り拳を落とす。しかし、佐川は顔をしかめもしなかった。かなり力を込めて殴ったつもりだったが、平然として、僕のことを見続けている。
「お前だって、僕のことを分かったような口きいてるじゃないか! 僕の立場になって見なきゃ分かんないんだよ。僕の気持ちなんて……」
そりゃ子どもができたら嬉しいはずだ。でも、勝手にやられたって迷惑なだけだろ。ましてや未成年同士で。こいつは口は悪いが、言ってることは偽善的なものばかりだ。僕の立場になったことがないから、平気で僕を罵倒できるんだよ。そうだ。こいつだって僕を全く理解できてない。
ふっと僅かに笑みをこぼし、佐川は言う。澱んだ目は恐怖に顔をゆがめる僕を映していた。
「じゃあ、お互い様だな」
そう言うと、いきなり首に力を込められる。あっという間に気道は狭まり、酸素を求めて口を動かすが、全然意味がない。白んできた視界は佐川の赤い口内しか映っていない。もうだめだ、と思ったら、宮田の声が聞こえた。
「……佐川」
突き放され、僕は急激に入り込んできた空気のせいで激しく咳き込む。宮田はそんな僕のことを哀れんでいるような、軽蔑しているような眼差しで見つめていた。佐川はわざとらしい大きな舌打ちをして、口を開く。
「……うるせえな。まともなふりしてんじゃねえよ、宮田。お前も女一人、殺してるじゃねえか」
宮田は片眉を上げ、佐川の頭を蹴り飛ばした。頭を押さえながらもすぐに佐川は起き上がり、また笑い始め、僕のことをちらりと見る。
「初恋の相手に彼氏ができたから逆上して殺したんだよ、こいつ。本当、偶然、事故で処理されて良かったな? あ?」
もう一回、蹴りを入れられると、鬱陶しそうに佐川は黙った。宮田はしゃがみ、僕と目線を合わせる。細い目の下にはひどいクマができている。コンビニで会った時の千奈津を思い出す。見下ろされていたから気づかなかったが、宮田はとても疲れた顔をしていた。
「……ここから先、どうするのかはあんたの自由だ」
ずっと変わらなかった宮田の表情が動く。妙に大きな犬歯が唇から覗き、微かに笑い声が漏れる。でも、眼光だけは依然として冷たいままだった。
「でも、覚えときな。とどのつまり、あんたを裁くのは法でも周囲の人間でもない。あんた自身だ」
宮田の不自然な笑い。その中にどこか自嘲的な雰囲気を感じた。なぜか泣き出しそうな表情に見えた。
「もし、やるのなら、もう人間のふりなんてしないほうが良い。そんなの余計に辛くなるだけだ。少しでも、好きだった人に手をかけるなんて、正気でいられるほうがどうかしてるんだよ」
お別れの季節
「どうしたの、急に。正月も帰ってこなかったのに」
「まあ、良いわ。どう? 最近は。少し痩せたんじゃないかしら。父さんもいつも心配してるわよ」
「あ、そうだ。これ、頼まれてたの。父さん、きっと貸してくれないだろうからこっそり部屋からとってきたわ。危ないことに使うんじゃないわよ」
「せっかく帰ってきたんだからゆっくりしてきなさい。今日ぐらい勉強は忘れて、ね?」
「あなたは期待に答えようとして、頑張りすぎるところがあるんだから」
「そろそろ誕生日ね。パーティ、何が食べたい?」
「そんな、しなくてもいいなんて言わないでよ。いくつになっても子どもの成長は祝いたいわ」
「あなたを産んで十九年。もうそんなに経ったのね」
「帝王切開だったの。もう痕は残ってないけど」
「私、助産師だったから取り上げの難しさも分かるしね。なかなかいないわよ、自分も産んで、人の子も取り上げた人なんて」
「ふふ、何回も聞いたって思ってるでしょう?」
「何回も言いたいぐらい、素敵なことなのよ。子どもが生まれるってことは」
「あなたも自分の番になったら分かるはずよ」
「さあ、お昼、どうしようか。どうせ毎日不摂生でしょう。おいしいもの、作ってあげるから席についてなさい」
彼女はいつまでも、俺の家にいた
俺よりも年上のように見えるまどろんだ瞳は、空を見つめている
俺のことを 宮田のことを 誰かのことを 見つめている
彼女の胎内に宿ったものは、本当に人間だったのだろうか
それは、今となっては分からないけれども
気怠い春を 死にたい夏を 寂しい秋を 嘘に塗れた冬を
無関心に巡る季節の中、二人の間に芽生えた感情は
たとえまがい物であったとしても
たとえ果てにあるものが絶望であったとしても
「……愛してるよ」
愛、であったのだ、と僕は信じていたかった
「死んで」
突きつけられた包丁の切っ先が鈍く光る
最後に、彼女とキスをする
初めて会った日のように
別れを惜しむように
手を洗う。ガスをつけていないから、水は痛いほど冷たい。蛇口を閉め、水を払っていると、暖房がついていない空気でも暖かく感じるほど、手が冷えてしまった。百均で買ってきた薄いゴム手袋をはめ、マスクをつける。
「……よし」
脈拍はもうなかった。
新井和泉はもう動かなかった。
マフラーで首を絞めたら、筋肉の弛緩により糞尿が垂れ流しの状態になってしまった。やはり僕は慌てている。そんな簡単のことにも気づかなかったようなら、先が思いやられる。ブルーシートを敷いてたおかげで、掃除も簡単に済んで良かった。
胎児は母体が死んでも十五分から二十分程度なら生きている。
父さんは昔から部屋に何本かメスを置いていた。未使用のものだ。もちろん病院にもあるけど、スペアを常に家にも置いておかないと気が済まなかったらしい。
僕はそれを知っていた。よく持ち出して、田んぼで捕まえた蛙を解剖していたりした。最終的に見つかって、こっぴどく叱られたのだが。
一般的な帝王切開手術の所要時間は一時間。しかし、今から行うのは手術ではない。解剖だ。蛙と同じ。
このまま放置して、死体を処理してしまっても良いのだが、子宮内の赤ん坊は確実に死んだことを確認しなければ不安なのだ。一般的な論を当てにしてはならない。世の中、何が起こるかは分からないのだから。
粗野にやってしまえば良い。
メスを入れる。少し古いものに見えたが、切れ味は非常に良く、すぐに切り傷からは色の濃い血が流れ、入り口ができあがった。
「ねえ、イチゴ」
どうせ死んでいるのだから、傷の治りとか血管を傷つけるとかは考えなくてもいい。縦、真一文字に大きく切り開く。妊娠後期の大きく膨らんだ子宮が現れる。ここからもう一度、メスを入れ、子宮から胎児を取り出す。通常、腹部の最初の切開から分娩までにかかる時間は五分。まあ、本からの知識で見よう見まねだから、そんな素早くはできない。
「本当に死んでる?」
いざ切り開こうとしても、血と油で滑ついてしまって、なかなかできない。諦めて、新しいメスを取る。すると、簡単にメスは入り、大量の血が流れ始める。死んでいるくせにどうしてこうも血がでるのか。人体の神秘に不満を覚えた。
「なんだか寝てるみたいだ」
こんな風に殺して切り開いているから、当然、破水はまだだ。羊膜、つまり胎児を包んでいる膜を裂く。途端に羊水が溢れる。
「……まだ、一緒に死んでほしかったって思ってる?」
子宮から胎児を取り出す場合、足を掴んで出すのが一般的な方法だ。しかし、この作業は難しく、慣れた医師でも一、二分はかかるらしい。素人がやると骨折する可能性あり。そうじゃなくとも、羊水で窒息死することもある。
「僕は、 」
子宮に手を入れる。まだ中は温かかった。手を動かす度に血と羊水が混ざり、水音を立てる。胎児に触れるが、上手く取り出せない。メスをもう一度取り、もう少し子宮に切り込みを入れた。
「許してくれなんて……言わないよ」
足を掴む。柔らかくて、細かった。慎重に、子宮内から引きずり出し、肩あたりまで出たところで腕をつまみ、首を支えつつ、頭まで取り出そうとする。
ふいに、誰かが、呼吸する音が、聞こえた。
劈くような泣き声が響く。手間取ったからもう死んでいたと思っていたが、赤ん坊は生きていた。慌てて用意していたクリップを取り出し、臍の緒を留め、鋏で切る。生後すぐに臍の緒を切ると、出血が数十秒続くこともあるそうだが、しばらく腕の中に抱いて見るにそういう状況にはなっていないようだ。
赤ん坊は泣き止まない。産声は最初の呼吸だって言うけど、何もこんなに叫ばなくても良いじゃないか。うるさくてしょうがない。なんなんだ、この血濡れた、やかましい生き物は。
抱く手に力がこもる。
「……そんなに生きたいのかよ」
どうせ、ろくな道は残されていないのに。死に損ないのお前には。母親の胎内で、死んでおけば良かったのに、お前は生まれて、息をして、生きようとしている。
思い上がりも良いところだ。お前は人間じゃない。二匹の化け物の醜い欲望と、憎しみと、孤独が混じり合ってできたそれ以上の化け物だ。
お前は地獄で生まれ、行く末も地獄なのだ。きっと、お前も一生孤独で、幸せになれない。
あの女がよく使っていた枕を持つ。泣き喚く赤ん坊の顔に近づける。
お前は、ここで、死ぬべき存在のはずだ。
俺に殺されるべき存在のはずだ。
……そのはず、だ。
「……でも」
枕からは、いつもと変わらない、綿飴の匂いが香っている。
「お前、なんにも、悪いこと、してないもんなぁ……」
赤ん坊はただ、生きようとして泣いていた。
僕の目からも静かに涙が流れていた。
空が燃えていた。
もちろん比喩だ。薄くかかった雲は昇ってきたばかりの朝日に照らされ、淡い橙色に染まっている。古ぼけた写真のようなセピア色の奥には、夜の名残の青色が潜み、複雑なグラデーションを生み出していた。
ネットニュースによると、岸純一の絶筆であった連載は、元アシスタントである若手漫画家が引き継ぐことになったらしい。当然だが、賛否両論である。まあ、どちらでも良いのだけど。
覚めきっていない夢の中のように、白み始めた空気にネオンの光は滲んでいた。こういうとき、自分が何者なのか分からなくなるものだ。
でも、最近気づいた。自分が何者なのか、とか、自分の存在意義とか、愛とか、恋とか、思っていたよりどうでも良いことなのだ。
幸せも、正義も、常識も、誰かが決める基準でしかない。
それなら、自分で決めれば良い。
ずっと他人が作った世界の中で、馬鹿にされ、苦しみ、孤独を感じていた。その間にできた傷は今も深く、そして膿んだように痛みを持ちながら心に残り続けている。
それも今日で終わりだ。
もう、誰からも束縛されなくて良い。自分は自分だ。自分のやりたいことをして、自分の為に生きていくのだ。
一度、できてしまった傷は消えない。きっと、自分のことを許せるようになるには時間がかかる。でも、ゆっくりで良いんだ。焦らずに、一歩一歩踏みしめて、今日を精一杯生きていけば、きっといつかは幸せになれるはずだから。
「昭仁?」
「……彩花……!」
「うわあ、久しぶり! コンタクトにしたんだ。似合ってるよ!」
駅の改札で大きなスーツケースを持った彩花と出会った。あいかわらず朗らかで、大人しそうな雰囲気は変わっていない。茶色のコートが暖かそうだ。
「どうしたんだよ。こんな朝早くに」
「透子が働いてる旅館に大学の子たちと泊まり行くんだ」
「へえ、透子の。良いね。元気してるかな」
「そうだね。今度、四人でも遊びに行こうよ。晴希と千奈津も連れてさ。透子にも電話で言ったら貸し切りにしてあげるって張り切ってたよ」
「はは、なんだか目に浮かぶよ。その光景」
彩花も笑う。笑い声と一緒に白い息が漏れ出た。三月といえど、まだ朝は寒い。
駅の柱にはヴィレヴァン閉店を知らせる張り紙がしてあった。思い出との決別。岸純一の漫画を買うことはもうないし、ヴィレヴァンに立ち寄ることもない。
この街は今も静かに変わり続けている。その中でいつかの自分たちもたしかに息をしていた。あるときは女子三人と男子二人で。あるときは儚い二人の男女と共に。あるときは怪しげな二人組の男と。
あるときは、不純な関係になってしまいたいほど、可愛い女の子と二人で。
「なんかさ、昭仁、変わんないね」
「……そうかな」
「うん。会うと安心する」
「それなら良かった」
時刻表を見上げ、彩花は、そろそろだ、と言った。駅の出入り口から差し込んだ朝日に照らされて、彼女の紫色の影は長く、長く伸びていた。
「じゃあね。また、連絡するよ」
「うん、気をつけてね」
「あ、そうだ。気になってたんだけどさ」
「ん?」
「その紙袋、何?」
「……生もの」
「ふーん。……あっ、本当に時間やばい。じゃあねー!」
「じゃあね」
走り去る彩花に手を振り、歩き出す。薄暗い駅を進み、去年設置されたコインロッカーの前を通ると、シャッターが下ろされたヴィレヴァンが現れる。
ヴィレヴァンまでは行かず、コインロッカーの前で立ち止まる。コインロッカーの中は狭く、無機質な空間であった。
長財布を取り出し、小銭を漁る。百円玉は残り一枚だった。
紙袋を、入れ、扉を、閉じた。
百円玉が、落ちる、音が、した。
自分の、着ている、服からは、甘い臭いが、していた。
果物が、腐った、ような、臭いだった。
閉じた、コインロッカー、の扉に、キス、を、して、みた。
あ、の娘、の、こと、が、好き、だ、っ、た。
多分。
愚者と劇薬