桜の根元に春が来る

『桜の木の下には死体が埋まっている』
 そんなのやっぱりデタラメだったんだなあとぼんやり考えた。
 三月の初めにあった卒業式は何の感慨もないまま、あっという間に終わってしまい、今は春休みだ。見頃はとうに過ぎ、あんなに綺麗に咲き誇っていた桜は運動場の薄汚いカーペットになっていた。
「……疲れた」
 ため息交じりに呟く。すると、どこからか少し冷たい風が吹いた。
 昔からそうだったけど、私の友達はどうしてこうも時間を守れない奴ばっかりなんだろう。散々、小学校に一時集合って連絡取り合ってたのに。何してるんだよ、もう。
 小学校の卒業式の日、先生に無理を言って、私は友達四人とタイムカプセルをこの桜の木の下に埋めた。みんなで遊びに行ったときの写真、おそろいのキーホルダー、みんなへの手紙、そして未来の自分への手紙。そんな思い出がいっぱい詰まった宝箱を掘り出す日。それこそが今日なのだ。意気揚々とシャベルを担ぎ、色んな手続きを済ませ、桜の木の下にやって来てから早一時間、だーれも来やしない。
「疲れた」
 もうエネルギー切れだ。遅れるなら連絡ぐらいしてくれ。少しずつイライラしてきた。落ちていた薄茶色の桜の花びらを拾い、握りつぶす。やわらかい水色の空を見上げて、またため息をついた。
 しびれを切らして、掘り始めた目の前の穴はもうかなりの深さになっている。それなのにまだまだ出てくる気配はない。五人がかりだったけれど小学生にこんなに深い穴が掘れるものかなと不思議に思う。
『場所を間違えた?』
 ふとそんな考えがよぎる。運動場にはこの木のほかにも三本ぐらい桜が生えていた。記憶を辿っていけばいくほどそんな気がしてくる。まだそれほど暖かくなってきてないのに、じんわりと冷たい汗が背中に伝い始める。しまった。
「あーもう!」
 カッとなってきて、気がついたらシャベルが宙を浮いている。思わず放り投げてしまったそれに、慌てて手を伸ばしたけど届かない。すごい音を立てて、穴の中へと消えていった。
「ああ……」
 私は今日一番の大きなため息をついて、穴の中に降りていく。壊れてはいなかったけどシャベルは少しだけ歪んでしまっていた。新品だったのに、とまたため息をつきそうになった。
 そのときだった、白いレースのような布きれが目にとまったのは。一瞬、タイムカプセルだと思って、笑顔になってしまったけど、すぐに違うと分かった。レースの向こうに薄橙色が透けている。あれはスカートの裾だ。それの意味を理解すると同時に体中に悪寒が走った。

『死体』
 
誰か呼んでこないと。
 そんな風に反射的に考えた。死ぬほど怖いのに、やけに頭は冷静に働いている。いや、呼ぶ前に掘り出してあげたほうが良いのかな。壊れてしまいそうに震えている手でシャベルを持つ。
少しずつ掘り進めていくと全身が見えてくる。黒いハイソックスを履いた細い足。きっとここの生徒の女の子だろう。私が小学生のときに流行ったブランドのトレーナーを着ている。だんだん、怖いというよりもかわいそうだと思い始めてきた。やりたいことがいっぱいあったはずなのに……。涙がこぼれそうになる。
でも、死体の顔を見た瞬間、涙は引っ込んで、代わりに強烈な吐き気に襲われた。
違う、正確に言うと顔じゃない。首。息が上手くできない。死体の首には、乾燥して赤茶色になった血が大量にこびりついていた。顔がない。切断死体。耐えきれなくなって、穴をよじ登ろうとする。
 しかし、『彼女』はそれを拒んだ。
 小さな手。とうとう私は悲鳴をあげる。首なし死体の手は私のズボンをしっかりと掴んでいる。すごい力だ。動けない。そうしていると、彼女はゆっくり起き上がった。私を捕らえたまま、立ち上がり、空いたほうの手で拭くについた土を払う。離してと私が叫ぶと彼女は首を横に振る。もう。ダメだ。そう思った。
しかし、意外なことが起きる。彼女は自分のことを指さし、そのあと、その指を上に向かってさした。
「……あなたも上に行きたいの……?」
 私が尋ねると、彼女はうんうん、と言わんばかりに首を勢いよく縦に振った。少し考えて、ちょっと待ってね、と言うと彼女は素直に手を離す。穴から出て、彼女に手を差し出すと、その手を握り、地上に這い上がってきた。
彼女は私に握手をすると、嬉しそうにぴょんぴょんと跳ね回る。いや、跳ねてるんじゃないや。よく見るとダンスを踊っていた。あれだ。習っていないから、詳しくはないけどチアダンスだ。一生懸命踊っている。しばらくそれを見ていたら、急に動くのをやめ、私に向かって深くお辞儀をした。
「上手だね」
 私が拍手をしながら言ったら、照れたようにモジモジとした。首はないけれど、なんだかその仕草が可愛らしくて、微笑んでしまった。そんな私に彼女はふと手招きをした。
「ん、なあに?」
 私が聞くと、校舎の近くにある体育倉庫を指さした。
「あそこに行きたいの?」
 骨が見え隠れする断面から血を滴らせて頷く。
「分かった。じゃあ、行こっか」
 彼女はバンザイをして、喜びを表現した。そして、私の手をまた握ると急に走り出し、体育倉庫に向かっていく。半ば引きずられるようにして、私も走る。空の真ん中に太陽が浮かび、暖かい日差しが私たちを包み込んでいた。春の陽気だ。
 体育倉庫に着くと、彼女は扉を開けようとした。でも、びくともしない。しばらく格闘したあと、私を悲しげに見つめて(で表現はあってるのかな)きた。
「中に入りたいんだね。任せなさい!」
年上の力を発揮する場面だ、と意気込んで扉を掴んだけど、拍子抜けするほど簡単に開いてしまった。
「え? あ、ああ、ありがとう……」
 横でぱちぱち拍手をされていた。
 倉庫の中は独特なにおいが充満し、古びた器具が乱雑に置かれている。太陽の光を反射したほこりが何かの生き物みたいに泳いでいるのが目に入った。私は『あるもの』を見つけて後ずさりする。彼女もそれを見つけたようだ。臆することなく歩み寄り、それをべしべしと叩いた。
 サッカーボールがたくさん入ったカゴに男の子が横たわっている。金色のプーマの刺繍がされたジャージとそれとセットの半ズボンに身を包み、眠っているようにそこにいた。両足がすね辺りから引きちぎられた状態で。
 私が呆気にとられていると、男の子はカッと目を開き、起き上がった。そして、私を見ると口を開く。
「誰だ、ババア!」
 叫ぶのとほぼ同時に首なし少女は勢いよく男の子の頭を叩いた。
「いたっ! 何すんだよ、このブス女!」
 また男の子が叫ぶと彼女は肩を掴み大きく揺さぶる。やめて、ごめんなさい、と男の子が悲鳴をあげるまで攻撃は続いた。
「大丈夫―?」
 問いかけると彼女は振り返り、びしっと親指を立て、俺は大丈夫じゃないと辛そうな声が聞こえてきた。


「で、誰、あんた」
「ここの学校の卒業生」
「ふーん。俺はハル。そっちのブスはナツ」
 ハル君はリフティングをしながら、私の隣に座るナツちゃんを指さし言う。よく動きながら、喋ったりできるなあと感心しているとナツちゃんは抗議するように手を振り上げた。
「ごぼう足のくせにってなんだよ! 俺はお前と違って、県大会まで行った実力者なんだよ。黙っとけブス!」
 どうやらナツちゃんの声はハル君には聞こえているみたいだ。その証拠に出会ってからずっと言い争いをしている。
「ハル君、県大会行ったことあるんだ。すごいなあ」
「当然! 来年は絶対全国まで行ってやる。なんつったって未来の日本代表だからなー」
 私が褒めるとハル君は誇らしげに返事をした。そして、リフティングのペースを速めた。
彼が足を動かすたびに血が飛散した。もうかなりの量が傷口がら出ている。ハル君の下には血だまりができ、太陽に照らされ、鈍く光っていた。
「九九五、九九六。九九七、九九八。九九九……」
いつの間にか二人は喧嘩をやめ、ハル君の回数を数える声だけが響いていた。
「千!」
やった、新記録だとハル君は喜び、私とナツちゃんにハイタッチを求めてきた。
「うん!」
「……」
 きっとナツちゃんはハル君に何かを言った。彼の顔は急に赤く染まり、黙れ、シャラップ、とずいぶん懐かしい言葉を叫んだ。
 そんなほほえましい光景を眺めていると、誰かが私の背中をつついた。振り返ると鶏。変に思って、グラウンドを見渡すとおびただしい数の鶏。
「わーハル! ナツ! 捕まえてー!」
 遠くから少し太った男の子が泣きながら走ってくる。
「うわ、アキ、また鶏逃がしたんだ」
 二人は鶏たちを追いかけ始めた。私もそれを手伝う。ハル君とナツちゃんは上手に捕まえていくけど、アキと呼ばれた男の子は見当違いな方向に走って行ったり、すぐ近くにいる鶏に気づいていなかったりする。
「あっ、ごめんなさい」
 アキ君とぶつかってしまい、彼の顔が見えた。そこで今までの行動の理由がはっきりとした。本来、目があるべき場所に眼球はなく、ぽっかりと黒い空洞が開いていた。涙のように見ていたのは、その穴から伸びる血が流れた跡だった。正直、この不可思議な現象に慣れ始めていたので笑顔でごめんね、と答えることができた。
 四人で走り回り、なんとか全ての鶏を捕まえ、飼育小屋に戻した。狭い小屋に押し込まれた鶏たちは苦しそうだ。少しはみ出しているのもいた。悲鳴のような鳴き声を絶えずあげている。これじゃ、また逃げてしまうのも時間の問題かもしれない。
「しっかりしろよ。飼育係」
「うん。気をつけるよ……。いつもごめんね」
「別に良いって。友達じゃんか」
 ハル君とナツちゃんはピースをする。すると、アキ君は嬉しそうに笑った。
「で、そっちの人は……?」
「あ、私、ここの卒業生。よろしく」
「ああ、よろしくお願いします」
 ぺこりと礼をする。おお、礼儀正しい子だ。
「アキ君は飼育係なの?」
「はい、動物が好きで……」
「アキはなー動物博士なんだぜー。なんでも知ってるんだぜー」
 ハル君が口を挟み、ナツちゃんも大きく頷く。
「そうなの、すごいねえ」
「いや、全然すごくないです。僕なんて」
 アキ君はうつむく。少し顔が赤くなっていた。
「え、なあに、ナツ」
 ふいにナツちゃんはアキ君の耳に首を近づけ、ひそひそ話しをする。そこにハル君も加わる。
「それ、めっちゃ良いアイデアじゃん。ブスもたまには良いこと、痛い、痛い!」
「あははっ」
 話し合いが終わると、私にくるりと向き直り、おいでおいでと手招きした。顔がある二人はいたずらっ子のようににやにやと微笑んでいた。


「目、開けちゃダメですからね」
「まだかなー?」
「もうちょっとだから!」
 目をつぶり、三人に手を引かれていく。でも、だいたい何処に行こうとしているかは分かる。なんてったって私はここの卒業生だ。きっとあそこだろう……。
「せーの。もーいいーよー」
 目を開くと案の定、そこはプールだった。だけど、予想できていたのにもかかわらず、私は声を上げてしまっていた。
「すげーだろ! 先生に内緒で飼ってるんだぜ」
「マリンって言うんです。今年で六歳です」
 ナツちゃんがどう、びっくりした? といった感じで私のことを見ている。
「……鯨?」
 プールにいたのは一頭の白い鯨だった。二十五メートルプールからだいぶ体がはみ出しているからかなりの大きさだ。全然隠せてないよと心の中で思ったけど、あえて口には出さなかった。
「マリン、今日は体調どうー?」
 大きな声でアキ君は問いかける。すると、マリンは返事をする代わりにプールサイドを一回叩いた。まるで地震が起きたかのように地面が揺れた。その揺れに驚いたのか、鶏たちの声はまた一段と大きくなる。
「アキ! 飼育小屋が!」
 ハル君が気づいたときにはもう遅く、ボーンと変な音を立てて飼育小屋が大爆発した。空から雲みたいに白い鶏たちがじたばたしながら降ってくる。ん? 違う、鶏じゃない。
「兎だー!」
 空襲のように飛来する鶏たちは地面につくまでの間に兎へと姿を変えていく。なんなんだ、これは。夢か。いや、夢に決まってる。今さらそんなことを考え始めた。
「お姉さん、知っていますか」
 兎の襲来にはしゃぐ二人を尻目にアキ君は私に話しかける。
「鯨も兎も僕たち、人間もみんな同じほ乳類なんですよ」
 多分、彼はこの夢みたいな光景は一切見えていない。なのに、その空っぽの眼窩ですべてをとらえているかのような口ぶりをしていた。
「不思議ですよね。兎はあんなにふわふわで鯨はあんなに大きいのに僕たちの仲間だなんて。それだけじゃない。僕たちは魚から蛙になって、トカゲになって、鳥になって、やっと人間になったんです。地球に住む生き物全部が僕たちの仲間なんですよ」
この時期のプールの水は緑になっていて、汚いはずなのに。空の水色をたくさんの色に変化させ、反射している透明な水がそこには溢れ、赤色や黄色のカラフルな魚がマリンを上手に避けながらゆったりと泳いでいる。プールに落ちた兎たちは魚に変身していった。
「僕、獣医になりたいんです」
 プールから這い出した魚たちは目がギョロっと飛び出して、蛙になった。ぴょんぴょんと跳ねていると次第に平べったくなっていき、トカゲになる。トカゲたちは急に立ち上がると前足をバタバタ動かし始める。すると、羽毛が生えてきて、ひよこになった。
「世界中の僕たちの仲間、友だちを自分の手で救えるなんてかっこいいと思いませんか?」
 アキ君は少しはにかんでいた。
「うん。すごくかっこいいと思うよ」
 私がそう言うと、えへへ、と笑った。
「あー! こんなところにいたー!」
 突然、誰かの声がプールサイドに響く。マリンがプールの中に沈んでいき、ひよこたちが鶏に成長しながら列をなして飼育小屋に向かっていく。やがてすっかり姿が見えなくなると声の主がプールに入ってきた。
「あ、どうしたの」
 可愛らしいワンピースを着た長い黒髪の少女はアキ君に返事をすることなく、残りの二人を呼び集めた。
「あんなに出歩くなって言われてたのに! なんでいっつもそうなの、みんなって!」
「いや、あのな」
「世の中をルールで構成されているの。授業中、喋っちゃいけないのもそうだし、五分前行動だってそう。ルールを守ることが人から信頼されることにつながって、より良い自分となることができるのよ。それに……」
 ハル君の台詞にも聞く耳を持たない。
「お姉さん、あの子はトウコって言います」
 アキ君はこっそり私に耳打ちしてくる。
「お父さんが社長でしっかり者なんですけど、ああいう風に説教が始まると長くて……」
 彼は苦笑いをしながら話した。ヒートアップしていくトウコちゃんを冷やそうとするように風が吹いた。長い髪がなびき、彼女の輪郭があらわになる。一見、五体満足のように見えていたけど、やっぱりトウコちゃんもこの子たちの仲間だ。顔の横に滴っていた血。多分、彼女には耳が無い。だから、さっきからみんなの話を無視しているのだろう。
「でも、絵はすごく下手なんですよ」
 くすくす。面白そうに笑う。
「……君は絵がとっても上手なのにね」
「……え」
「アキも聞いてるの?」
 トウコちゃんがこちらを向く。
「誰です、あなた」
 私にようやく気づいたのか、彼女は睨みながら問いかける。
「許可、とってるんですか。ここは……」
 そこまで言うと声が途切れた。トウコちゃんの目は大きく見開かれ、体はわなわなと震え出す。
「ねえ、もしかして……この人は……」
 ナツちゃんはうつむいていた。ハル君は澄んだ瞳でトウコちゃんを見上げた。アキ君は寂しげな表情をしていた。誰も声を発しない。沈黙だった。
「そっか。終わりなんだね……」
 トウコちゃんは悲しげに呟くと私をもう一度、見つめる。
「お姉さん、将来の夢ってありますか」
 次の瞬間、私たちは教室にいた。隣にはナツちゃんとアキ君、斜め前にはハル君が座っている。黒板の前に立つトウコちゃんは白いチョークで大きく夢と書いた。
「誰にだって、大きさに違いはあれど夢はあるものです」
「はい! 俺の夢はサッカー選手です」
「はい……僕の夢は獣医になることです」
「はいっ、あたしの夢はダンサーになることです」
 聞き慣れない声が聞こえ、隣を見ると机の上にごろんと生首が転がっていた。生首は私ににこりとほほえむ。ナツちゃんだ。それだけじゃない。アキ君の手のひらには視神経の伸びる二つの眼球があった。どたどたと音を立て、教室の中を走る浅黒くて細い足はハル君のものだろう。トウコちゃんは血にまみれた耳をポケットから取り出す。
「わたしの夢は先生になることでした。ちょうどこんな風に」
 教室の中は電気が点いていない。でも、一枚だけカーテンが閉まっていない窓から差し込む日の光のおかげでとても明るかった。
 光? いや、そんなはずない。今まで何も思っていなかったけど、ここに来てからかなり時間が経っている。もう夕方だったとしてもおかしくないぐらいに。時計を見ると針は一時半を指している。おかしい、絶対ありえない。
「わたしたちは無限の可能性を持っています」
「そうっ、ダンスの振り付けや種類が星の数ほどあるように」
「そう……魚が人間へと進化したように」
「そう! ボール一つで世界と戦っていくように」
「それなのに、どうして夢をあきらめてしまうのでしょう」
 三人は叫ぶ。
「分かりません!」
「では、言い方を変えましょうか」
 トウコちゃんは私を見つめる。ほかの三人も何かを期待するように私を見つめる。
「どうして、わたしたちを殺してしまったのでしょうか」
 私は耐えきれなくなって立ち上がる。ダメだ。見るな。思い出すな。
『何を?』
 何を怖がっている? 分からない。でも、怖い。怖い。教室を出ようとするが扉はびくともしない。

「アヤカ」

誰かが私を呼んだ。
 ナツちゃんが。
 ハル君が。
 アキ君が。
 トウコちゃんが。

「絵が上手だったもんね」

 誰かが言う。誰かが言う。友だちが言う。

「あなたの将来の夢は何だったの」

 その声が聞こえると同時にあんなに重かった扉が勢いよく開いた。
 四人はただ、私のことを見つめ続けている。どうして……、どうして私は忘れてしまっていたんだろう。
「千奈津」
「はいっ」
「晴希」
「はい!」
「昭仁」
「はい……」
「透子」
「はい。」
 かすれ声で友達の名前を呼んでいく。彼らと刻んだ思い出が通り抜けていく。卒業式の昼下がりに封じ込めた思いが、時間が。
「……私の夢は……画家になることでした」
 私の頬に一筋の涙が伝う。扉の向こうには廊下を挟んでもう一つ、教室があった。図工室と書かれたほこりまみれのプレートが下げられている。私はその教室の扉をゆっくりと開く。

「やっと来てくれたね」

 そこには少女がいた。エプロンにたくさんの絵の具をつけ、たたずむ少女。どこの部位がないかは、もう分かっている。手だ。彼女の手首から先はスッパリと切断され、ダラダラと血が滴っている。図工室の窓から見える景色は何故か夕方だった。燃えるような赤色と伸びる紫陽花色の影法師。逆光のせいでよく分からない。だけど、彼女が誰なのかは言うまでもなかった。
「彩花」
「はい」
 私だ。小学六年生の私だ。毎日、画家になるために絵を必死に描き続けていた頃の私だ。彼女の背後に立つ、隙間なく絵の具で塗りつぶされた大きなキャンパスが何よりの証拠だろう。乱雑に描き込まれたその絵は、もはや絵としての形をなしておらず、私の目にはただの絵の具のシミにしか映らなかった。
「どうして、私を……夢を殺しちゃったの」
 幼い私、アヤカは消え入るような声で呟く。悲しげに自分の無い両手を見つめていた。
「あたしは、ブスだから。ダンスもちっとも上手にならないから、あきらめられちゃった」
 腕に抱かれたナツちゃん、幼い千奈津の首は半笑いで言う。
「俺は、足、怪我しちゃったんだって。医者からもうあきらめろって言われたから」
 引きちぎられた足の横でハル君、幼い晴希は悔しげに言う。
「僕は、興味がなくなったからだよ。動物見ててもおもしろくなくなったみたい」
 自分の目玉をいじくりながら泣きそうな声でアキ君、幼い昭仁は言う。
「わたしは背負いきれなかった。自分も大変なのに、人の面倒なんてみてられないって言って」
 自分の耳を踏みつぶしてトウコちゃん、幼い透子は憎々しげに言う。
「私は……」
 私とアヤカの声が重なった。
「私は、才能がないからとあきらめてしまった」
 いくら練習しても三番止まり。中学に上がるとなおさら絵が上手い子は増えていった。何時間かけて書いた絵だろうが、学校祭のポスターや修学旅行のしおりの挿絵には選ばれなかったし、そもそも候補にすら入っていなかった。
「無駄だと思ってしまった、すべてを。趣味で描けば良い、と他人から言われたことを受け入れてしまった」
 結局、高校は普通科に進学した。部活もバレーボール部。あっという間に時間は過ぎていき、大学も先生に勧められたところを受験した。もちろん、美大ではない。
「私は逃げてしまった。私は夢を捨ててしまった」
 殺した。自分の、手で、息の根を、止めた。
「ごめん、ごめんね……」
 何かが切れてしまったように涙が溢れてきて、自分じゃどうすることもできなかった。床に崩れ落ち、ごめんねとひたすら繰り返す。
「ううん、いいんだよ」
 子どもたちは私を取り囲み、そう言う。
「一つの夢を持ち続けていくのは難しいよ。色んなことを経験して、あたしたち、大人になるんだもん」
「思ってもないアクシデントだってたくさんある。人生って前途多難だろ。ちょっとのことでへこたれてちゃダメだぜ」
「想像と現実のギャップに苦しむときもあるでしょう。それでも良いんです。そうすることで自己が次第に確立されていきますから」
「変化は悪じゃないわ。変わっていく世界を、自分を恐れないで。ありのままの自分を信じれば良いのよ」
「私たちを思い出してくれてありがとう。私たちを夢に選んでくれてありがとう。みんなであなたが来るのをずっと待ってたんだよ。私たちはもうあなたに何かしてあげることはできない。でも、これからも応援してるから。あなたを……あなたたちを好きでありつづけるから」
 顔を上げると、彼らの姿はもう影になっていた。影法師、逢魔が時の幻影。慌てて手を伸ばしたけれど透けたその体を掴むことはできない。でも、私の手が通り抜けた部分から蜘蛛の巣状に亀裂が入っていった。ガラスのように粉々になっていく影の隙間から夕日の炎が私の瞳を貫く。
「忘れないでね」
 五人の子どもの笑いを含んだいたずらっぽい声が図工室に木霊し、消えていく。
「忘れないよ!
 大人になっても!
 違う夢を見つけても!
 私が死ぬまで!
 私が死んでも!」
 のどが張り裂けるように叫んだ。日が暮れる。闇が来る。図工室も黒板も学校の校舎も鶏たちもサッカーボールも崩れていく。落下していくすべてのものの流れに身を任せ、なおも叫ぶ。それはほとんど泣き声だった。ふいに視界を遮る白いもの、大きな鯨のマリン。優しいまなざしで私を見つめると一声、ないた。そして、マリンもまたばらばらになっていく。白一色だと思っていたけれど違った。マリンの欠片はほんのりと桃色に色づいている。
『桜だ』
 あるのかも分からない黒い空に舞い上がっていく桜の花弁を一片、捕まえると私はぎゅっと瞼を閉じた。



「……彩花」
 名前を呼ばれ、はっとする。まず、目に入ったのは青空。その次に私をのぞき込む眼鏡の男。
「あ、やっと起きた。心配したよ」
 そう言うと後ろを向き、彩花、起きたよー、と声を上げた。
「ごめんね、遅くなっちゃって。途中で道案内頼まれてね」
 初めは誰だかまったく分からなかった。でも、口調は昔のままだ。顔もどことなく面影が残ってる。
「昭仁、なんか痩せたね」
「え、そうかな」
 昭仁は照れくさそうに頬をかき、笑う。
「彩花―! 大丈夫―?」
 千奈津が遠くから駆け寄ってくる。セミロングの茶髪に流行ってるブランドのものの服に身を包み、いかにも今時の女の子に成長していた。
「スマホ、出かける直前になくしちゃって、こんなに遅れちゃったの。ラインしときたかったんだけどー」
 ごめんね! と頭を下げ、謝る。バタバタしてせわしない感じは何も変わっていない。
「千奈津、うっさい。彩花は病人なんだからもっと静かにしとけ」
 少し髪の長い男が千奈津を制する。ちょっとすかした雰囲気。晴希だ。
「遅れて、みんなに土下座する覚悟で来たら彩花が穴の中でぶっ倒れてるから驚いた。体調悪かったのか?」
「あー何よー。あんただってさっきまでタイムカプセル見つけて騒いでたくせに! 俺には関係ありませんーみたいな顔しちゃってさあ」
「それとこれとは別だろ。彩花の前では静かにしろって言ってるだけだ」
「うわ、あたしだけに責任押しつけてくんの? サイテーだねー。なんか知らないけど髪なんか伸ばしちゃってキモいしさー!」
「んだとコラ!」
「ちょっと! いつまでギャーギャー騒いでるつもり!」
 相変わらずすぐに口喧嘩が始まる二人を一喝したのは透子。晴希とは逆に長かった黒髪は短く切りそろえられていた。
「わたしも遅れてごめんね。ちょっと乗ってた電車が止まってね」
「え、電車?」
昭仁が不思議そうな顔をして言った。聞き流しそうになったけれど、たしかに透子はこの街に住んでいたはずだ。どうして電車に?
「透子、引っ越してたの?」
 そのまま、昭仁が聴くと、透子は少し困ったような表情をした。
「その……お父さんの会社、少し前に倒産したの。それで卒業してから兵庫でおばあちゃんがやってる旅館に住み込みで働くことになって……」
「じゃあ、大学は? あんなに先生になりたいって言ってたじゃん」
 晴希が言うと、千奈津が馬鹿、無神経なこと聞くな、と叩く。
「良いのよ、千奈津。進学はあきらめたわ。まずは家のことのほうが大事だったし、金銭的にも無理があったから」
 そう言う透子は悲しげだった。だけど、少し笑っていた。
「でも、あっちの暮らしも楽しいよ。まだまだ慣れないことも多くて大変だけどみんな優しいし、色々なことが学べるしね!」
 明るい声で彼女が話すと今度は晴希が俺もさ、と話を切り出す。
「高校でもサッカーやってたんだけど、膝やっちゃってさ。もう、医者からもストップかかって退部させられた。だけど、それがきっかけでギター始めたんだ。今はフリーターしながら、友達と組んだバンドの売り込み中。透子と同じで苦労も多いけど、俺も毎日、楽しくやってる」
そんな晴希に、だから何かおしゃれになったんだ、と呟く千奈津。
「なんか、みんなすごいなあ。あたしは春からふっつーの大学生なのに」
 僕もだよ、と昭仁が言う。
「どこがよ! あんた、医学部受かったんでしょ。勝ち組じゃん!」
「えっ! 昭仁、まじで?」
「うん、一応……」
「一応でも、医者の卵には変わんないじゃん」
 ふくれる千奈津。私がそれを見て笑うと彼女はふざけてそっぽ向いてしまった。
「でも、なんかこれで良いのかなって感じだよ。獣医になりたくて頑張ってたときの方が本気になれてた気がする。年をとるごとに無感動になってるようにも思うし。僕が本当にするべきことって何なんだろうって今さら考えてるんだ、最近」
 透子が動物園にでも行けば、と提案する。それもいいかも、と笑う昭仁。
「じゃあ、大学のランクじゃ下だけど目標がしっかりしてる点じゃ、あたしのが昭仁より上だね! あたし、再来年ぐらいにイギリスに留学すんの。だから、四月から英語系の学科で猛特訓なんだー」
 千奈津が言うと四人は私のほうを見た。
「彩花は?」
 みんなを明るくするおしゃれな千奈津。熱くてハッキリとした性格の晴希。控えめ、だけど色んなことを考えてる昭仁。大人っぽくて、しっかり者、五人のリーダーの透子。他の人から見たら、なんで友だちなんだろうと思われてしまうぐらいバラバラの私たち。高校はそれぞれ違うところに行って、別々の道を歩んだ。だけど、今、こうやって昔のように集まっている。これが、未来。あの子どもたちが向かおうとしていたはずの未来の姿。
「……私、みんなと友だちになれて良かった」
 そう言うと、みんなは少しきょとんとした。でも、すぐに笑う。
「何よー、変な彩花―」
「まあ、でも、たしかにそうだな! こうやってまた会えて嬉しいぜ」
「そうだね、みんな、元気そうで良かったよ」
「思ってたよりみんな変わってなかったし、何だか安心したわ」
 口々に思いを言い合い、また笑った。
「じゃあ、そろそろタイムカプセル開けようか」
 透子が宣言する。

 あたしのチアの写真、残ってるかなー
 俺、お前らが試合、見に来てくれたときの写真、入れたんだぜ
 僕もみんなと一緒に描いた絵、入れたよ
 あ、あの鯨の? 覚えてる。わたし、何、入れたっけ

 薄茶色の桜のカーペットを踏みつけながらタイムカプセルを開ける。そこには幼い日の思い出と誓った再会の約束と未来へとつなぎたかった夢たちが標本のように色鮮やかに眠っていた。大きく見えていた桜の木も今では簡単に枝に触れることができる。その枝に芽生えた新緑の気配。顔を思わずほころばせ、一度深呼吸をする。春の終わる足音が聞こえるような穏やかな昼下がり。淡い水色の空はどこまでも高く、浮かぶ暖かな日差しは優しく私たちを照らしている。

「私こそありがとう」
 小さく、そんな風に呟くとどこかから子どもたちがはしゃぐ声が聞こえたような気がした。

桜の根元に春が来る

桜の根元に春が来る

道中地獄行き #2 「夢見る二人の隠しごと」 *軽度の流血描写を含みます。 高校の卒業式の後、小学校に埋めたタイムカプセルを掘り出す約束をした友人らと待ち合わせをするが、一向にやってくる気配はない。しびれを切らして掘り始めると、地中からは首のない少女の死体が出てきた。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-08-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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