Fate/Last sin -12

 その怒りのようなものに満ちた足音が楓の部屋に続く階段を上ってくるのを聞いた時、セイバーは躊躇わず実体化した。
 夜が明けたのがおそらく二時間ほど前だから、今は午前八時半くらいだろうか。楓は昨夜から部屋に籠ったきり、この時間になっても部屋を出てくることはなかった。ドアの外で霊体となって警戒をするのが恒例になりつつある聖杯戦争開幕から数えて三日目、セイバーはやはり部屋の外にいた。昨日と同じなら、もう楓は目覚めていてもおかしくない。そう思いながらも、昨夜耳にしたすすり泣きが頭をよぎって、何となく部屋のドアをノックする気になれない――などと考えていたら、誰かが不機嫌さを滲ませた足音で階段を上ってきたのだ。
 堂々とした足音と、サーヴァントのような魔力の気配を感じないことから、現れるのは恐らく人間だろうと見当をつける。だが油断は出来ない。セイバーは長い廊下の一番端に位置する楓の部屋の前に立ち、ステンドグラスのある廊下の最奥部を見据えて、その足音の主が現れるのを待った。
 ―――ゆらり、と黒い影が、ステンドグラスの極彩色を遮って現れる。
「……」
 セイバーはゆっくりと剣の柄に手を伸ばした。影がこちらを向く。
「……おまえは」
 人影は女の声でそう発すると、相変わらず怒りを足音に滲ませて無遠慮にセイバーの方へ近づいた。彼の白銀の鎧を見ると、女はわずかに整えられた眉を吊り上げ、セイバーとの距離が数メートルになると足を止めた。
 その正体はぴったりと体を覆うような、黒いドレスを着た女だった。長い艶やかな黒髪を背中まで垂らし、前髪はきっちりと中央で分けられている。白い顔に柳の葉のような眉、東洋人らしい彫りの浅い顔にやや厚い唇。化粧をしているが若くなく、四十代くらいに見えるその女は足首まで隠れるような黒いドレスに身を包み、頭一つ分大きいセイバーの目をたじろぐことなく見据えている。余りにも堂々としているので、逆にセイバーの方が一歩引いたくらいだった。
 女はお世辞にも柔らかいとは言い難い声で、セイバーに意外な一言を投げた。
「その魔力には覚えがある。おまえはサーヴァントか」
 セイバーはわずかに動揺した。動揺したが、それを悟られないよう気丈に答えた。
「そうだ。私はセイバークラスのサーヴァントである。そういう貴女は魔術師と見たが、どうだ」
「……セイバー」
 初老の女はセイバーの問いには答えず、ただその一言を反芻した。その言葉を頭の中でゆっくりと転がした後、手元に戻して、しげしげと眺めるように。
「セイバー。まさか」
「……?」
 女のうわ言に首を傾げかけた時、女はやっと言葉の意味を理解したように目を見開き、そして青ざめた。
「まさか。まさか。セイバーと、セイバーと言ったわね」
「何か問題があるのか」
 怪訝そうに眉を寄せるセイバーにはお構いなしに、女は青ざめた顔を赤くし、次の瞬間にはセイバーを押しのけるようにして、止める間もなく楓の部屋のドアを激しく開けた。
「待て!楓は休んでいて―――」
 制止も聞かず、女は一声、叫ぶ。
「楓!」
 セイバーが剣を抜くよりも早く、女はずかずかと部屋の中に入る。だがすぐに斬りつける気にはならなかった。この女は楓の名前をもともと知っている。階段を上る時も、足音を隠そうともしなかった。楓に奇襲しに来たわけではないということだ。ということは、この女は―――
「きゃあッ」
 部屋の奥で、楓が悲鳴を上げた。セイバーが何かを考えるより早く、次の言葉が響き渡る。
「お母様! ど、どうして……!」
 楓の声はあからさまに狼狽していた。どう聞いても起き抜けだ。セイバーは眉を寄せ、溜息を吐き、剣にかけていた手を下ろす。しかし楓の母親はそんなことはお構いなしに、楓のベッドに荒々しく近寄った。
「どうしたもこうしたもあるものか。おまえ、何を考えているの? このセイバーというサーヴァントは何のつもり? まさか、まさかおまえが聖杯戦争に参加していて、しかもセイバーのマスターだなんて言うんじゃないでしょうね」
 ベッドの上に置きあがっていた楓はそれを聞いて、怯えた顔で右手を後ろに回した。分かりやすいにも程があるその仕草を見逃さなかった母親は、すかさず楓の右手首を掴む。
「や、なんでもないからっ……」
 弱弱しい抗議も空しく、赤い三画の令呪が晒される。
「何を……何のつもりで、おまえは……!」
「ご、ごめんなさっ……」
 楓の母の手が振り上げられる。楓はベッドの上で反射的に身を縮めたが、その手が楓を叩くことはなかった。
 初老の女の手を空中で掴み上げたセイバーは、たしなめるように、しかし厳しく低い声色で言う。
「例えお前が楓の母親で、これが叱責の意味を持つものだとしても、楓は今、私のマスターだ。騎士王の主を犬と同然に罰するならば、私への侮辱と解するがよろしいか」
「……」
 楓の母は深く肩で息をすると、振り上げていた手を下ろした。しかしまだ怒りは収まらない様子で、口を開く。
「随分尊大な騎士だこと。まるで別人ね」
「……?」
 その言葉に心当たりのないセイバーはわずかに怪訝さを露わにしたが、楓の母は歯牙にもかけず続ける。
「けれどこの子に、一騎のサーヴァントを繋ぎとめておけるほどの器があるとお思いで? 今朝だって毎週欠かさず行っていた朝の修練を寝過ごすほど消耗しているじゃないの。楓。本当は自分が一番分かっているでしょう。聖杯戦争に参加して聖杯を獲る? 無理よ。お前には無理。まだ生きているだけ奇跡と思って、ここで手を引きなさい」
「……じゃない……」
 楓はベッドの上に座り込み、俯いて母親の影を見ながら、震えるように何かを言った。母親は苛立ったように、「何?」と聞き返す。その詰問に更に怯えたのか、楓は口を貝のようにつぐんでしまった。セイバーは見かねて、
「楓」
と促す。それから母親の横を通り過ぎ、楓の傍らに就いた。
「言いたいことがあるなら言わないといけない」
 悲しみに暮れる少女を慰めるやり方は知らなくても、怯える者を鼓舞する方法なら知っている。ただ味方になればいい。そしてセイバーは、最初からこのマスターの味方で、唯一無二の協力者だ。
 楓はセイバーの顔を見上げ、ぎゅっと唇を噛むと、母親に向き直った。そして、震える声で切り出す。
「む、無理じゃないかも、しれない」
「……何を」
「無理じゃない! 私は……お姉ちゃんが帰ってくるためなら、何でもする! それでみんなが幸せになるなら、こんなダメな私じゃなくて、お姉ちゃんがちゃんと魔術師の跡を継いでくれるなら……!」
 楓の必死な言葉を聞いた母親は、酷く混乱した顔をした。セイバーは内心、初めて耳にする楓の姉の存在と、楓が聖杯にかける願いを聞いて納得する。こんな臆病な少女が何に突き動かされていたのかと思えば、それは肉親で、しかも今現在ここにいない人間だという。それは――――それは、さぞかし一心不乱になるだろうなと、セイバーは遥か昔の苦い過去を追憶しながら思った。
 しかし楓の母親は、困惑した表情をゆっくりと悲しげな顔に変え、言い切った。
「無理よ」
「……っ無理じゃ……」
「いいえ。無理なの。おまえには出来ない。だって―――」
 母親は苦しそうに目を閉じる。

「花にもできなかったんだから」


「どういう、こと……?」
 わざわざ聞かなくても、半分くらいはもう理解していた。けれど、敢えて口に出して尋ねなければ、確信できないし、それでいて確信したくもなかった。
 母は珍しく歯切れの悪い物言いをする。
「ああ、もう、言わないつもりだったのに。絶対、死ぬまで、おまえだけには言うつもりは無かったのに……どこで聖杯戦争なんて知って……」
 体の奥で、心臓が激しく打ちはじめているのがわかる。楓はシーツを握りしめて母の言葉の続きを待った。
 どういうこと。お姉ちゃんは、どうしていなくなったの。どうしてこの家を去ったの。何となく続きを想像したくなくて、最悪の予測だけは今までずっと考えないようにしていた。けれどもう、喉の奥から滑り落ちるような言葉を止めることは出来ない。
「お姉ちゃんは、生きてるの……?」
 母は黙っている。傍らに立つセイバーも、何も言わない。誰もが言葉を失ったように、長い長い、苦しい沈黙が続いた。その間、楓の中で最悪な想像だけが広がっていく。まさか。まさか。お姉ちゃんにも出来なかったこと。聖杯を獲ること。聖杯を獲れなかった魔術師はどうなる?
「死んだ、の?」
 自分の声は小さくて掠れていた。実際に音になったその予測は、想像よりも遥かに冷たく重い。
 しかし母は首を振った。
「分からない」
「分からないって、」
「そうとしか言えない」
 母は大きく深いため息を吐くと、長い黒髪の頭をうなだれた。
「分かった。もう仕方ない、話そう。支度を整えて下に降りてきなさい。紅茶を淹れさせておくわ」
 それから、セイバーの方を見て、
「あなたも聞いておくのよ。あとその鎧姿は屋敷の中ではやめて。替えを用意させるから」
 と言いおき、彼女は部屋を静かに出て行った。



 よく磨かれたローテーブルの上に、湯気の立ち上るカップが三つ並べられた。楓の母は先程と変わらない黒いシンプルなロングドレスで、上座に当たる窓際の大きなソファーに座っている。楓は素直に下座のソファーに腰掛け、セイバーは武装を解いて現代の服に着替えた姿で、しかし剣だけは腰に差して楓の横に立った。本当は霊体化するつもりだったのだが、当の楓が実体化する方を望んだので従った。
 紅茶のカップを置いた使用人と思しき女性が音もたてずに客間のドアを閉めると、楓の母が口を開いた。
「今日は何日目かしら」
「えと、多分、三日目……」
 心もとない楓の返答に、セイバーが後ろから付け足す。
「私以外のサーヴァントは、私よりも一日早く召喚されている。だから楓と私にとっては三日目だが、他のマスターにとっては四日目の朝だ」
「そう」
 楓の母はカップを持ち上げ、それに口を付けてソーサーに戻してから重たい声を零した。
「望月家の長女、花が聖杯戦争に参加したのは、二〇〇七年の二月一日だったと、そう記憶している」
 今は西暦二〇一八年、一月二十三日だから、ほとんど十一年前の話になる。セイバーは整合性をとりながら、楓の母の話の続きを待った。
「花は十六歳で、楓は八歳の時。聖杯は、この風見の地に降霊した」
 彼女は淡々と続ける。
「花は聖杯を以て根源に至る目的で、聖杯戦争に参加した。あの子は五重属性(アベレージ・ワン)をもち、回路も多く、何より―――セイバークラスのサーヴァントを召喚した。私は花が勝利すると確信した。最年少だったけれど、魔術師の性能は誰よりもずば抜けて上だったから。もちろん他のマスターも優秀で、サーヴァントも高い水準の英霊が多かったけれど、セイバーを召喚した花に勝てる者はいないと思っていたわ」
「随分、セイバーを買いかぶっているんだな」
 口を挟んだセイバーを楓の母は一瞥する。
「もちろん最優のクラスだから。けれどそれだけじゃない。彼は特別な英霊だった」
「特別、とは?」
「あのサーヴァントには因果があった」
 母の声が重たくなる。なぜか、恨み言でも言っているような声色だ。
「―――聖杯を手にする、という因果が」


 飛びぬけて天才だった望月花、聖杯を手にする因果を持ったサーヴァント、セイバー。そして風見という地。全ては上手くいく、そう信じて疑わず、聖杯戦争を二日やり過ごした。けれど三日目の朝、初めて不協和音が、この家に響き渡ったのだ。
 他のマスターと同盟を組むことにした。―――そう花が両親の前で宣言したとき、母親は一抹の不安を覚えたが、気のせいだと思い込んでその不安を消してしまった。花の言うことだから、花のやることだから間違いはない。
「初めて私と同じ、天才に会ったの」
 花は皆にそう語った。
「だからこれは一時の安全策。一番上の者たちで他の弱者を潰してから、最後に一騎打ちであいつを仕留める。その方が効率がいい。そうでしょう?」
 ―――父と、母と、セイバーは納得した。サーヴァント同士の一騎打ちになれば、セイバーに勝てるサーヴァントはいない。花は正しく、賢く、強い魔術師だ。それが正しい。同盟を組んだそのマスターも、花の手の上で踊る駒の一つに過ぎない。そう考え、安心した。
 けれど運命は、そうはならなかった。
 三日目に、花はサーヴァントを二騎倒したと報告した。
 四日目の朝、花は残りの三騎を倒すと告げた。
「やはりあのマスターは天才だわ。あと三騎、今夜中に片が付きそう」
 こんなものなのね、聖杯戦争って。
 つまらなそうに零した花に、油断だけはするなと言ったのを覚えている。けれど花がそこで手を抜く凡人でないことくらい、誰よりも知っていた。そうやって、四日目の夕方に花がセイバーを連れて出て行ったのを見てから、五日目の朝を迎えた。
 酷く静かな朝だった。
 花は帰ってきておらず、不安に思った望月家当主たちは風見市を隈なく探し回った。
 まさか、あの花が敗れたのか。ならば同盟者も共倒れたか。サーヴァントは。聖杯は誰の手に。嫌な想像ばかりが掻き立てられ、それの反証を求めて風見の地を探し回った。昼過ぎから雪が激しく降ったのを覚えている。

 結論として、花はいなくなっていた。
 ――――否。正しくは、「全てがいなくなっていた」のである。花はおろか、セイバーも、同盟者も、同盟者のサーヴァントも、花に殲滅される予定だったサーヴァントたちも、そのマスター達も、監督役も、ひいては聖杯さえも、全てが風見の地から綺麗さっぱり無くなっていた。まるで初めから聖杯戦争など、起こっていなかったかのように。ただ新しく白い雪だけが、深々と降り積もっていた。風見は、綺麗に白紙になったかのようだった。



「あの状況を正しく説明できる仮説を、私たちはまだ持っていない」
 楓の母は冷え切った紅茶の最後の一滴を喉に流して、カップを手で包むように握った。楓は何も言えず、ソファーの肘掛けを握りしめる。カップの中の紅茶は一滴も減っていない。
「死んだのか、生きているのか、それすら分からない。分かっているのは、全員が一度に、示し合わせたかのように消えたということだけ。監督役さえ失踪したために、聖堂教会も魔術協会も何も把握できなかった。記録には、全員死亡、死体行方不明、聖杯の自然的消失、とあるだろうね」
「……」
 想定すらしていなかった事実に、楓は右手の令呪を見下ろした。今更、聖杯戦争に対する恐怖が背筋からせりあがってくる。十一年前も、姉は令呪を右手に宿して、セイバーを従えて、勝利を確信していた。それでも突如として消えた。天性の魔術師だった彼女ですら。
 ―――私は、……私が生きてこの戦いを終えられるなど、どうしてのうのうと信じていられたんだろう?
「なるほど」
 ふと、傍らに立つセイバーが短く発した。今の話を聞いても顔色一つ変えず、むしろうっすら笑みさえ浮かべている。
「まあ、何かが突然どこかへ消えるなんて珍しい話ではない。俺も裏切り者の部下を追いかけていたら、そいつが目の前の川に吸い込まれて、以降行方不明、なんてこともあったからな」
「そ、それは珍しい話だと思うけど……?」
 楓の控えめな抗議も気にせず、セイバーは言ってのける。
「そんなことはないさ。なぜ裏切り者の部下が川に消えたかというと、そこに住んでいた人魚に引き摺り込まれただけの話だからだ」
「うーん……?」
 首を傾げる楓だったが、楓の母は眉を上げ、「……ヴィテゲか」と呟いた。
「ともかく」
 セイバーは腰に下げた剣の腹を叩く。
「聖杯は万能の願望器なんだろう? どんな不可思議な力で十一年前の失踪が起きたが知らないが、聖杯が手掛かりになることがあるかもしれない。争いには火種が、戦いには大義が、現象には原因がある。だとしたら、楓の試みは無駄ではないだろう。幸い、楓も『最優のクラス』を引いたんだからな」
 楓の母は目を細めてセイバーを睨んだ。それから、楓を見る。
「……わからない。おまえは、なぜ花にこだわる?」
「そ、それは、さっきも言ったように、お姉ちゃんのほうが優秀だから、私なんかが家を継ぐよりは……」
 楓はスカートの裾を握り、俯きながら答えた。
 はあ、と、母は呆れたように浅くため息を吐く。
「そう。ならそうしなさい。……おまえがそう思い続けるのなら、おまえには聖杯が必要だろうね」
 楓の母はそう言い残すと、さっさと立ち上がり、黒いロングドレスの裾をなびかせて部屋を出て行った。バタン、と素っ気ない音が響いた後には、沈黙だけが残された。
 ―――今のは、どういう意味なんだろう。
 釈然としない思いを抱えながらも、とにかく母という脅威が去ったのを確認して、楓はやっと胸をなでおろした。
「……セイバー?」
 横を見上げると、押し黙ったままのセイバーと目が合う。そのグレーの瞳はしばらくぼんやりと楓を見て何かを思案していたが、次の瞬間にはつと目を逸らした。
「なんでもない。……さあ、今日はどうする、マスター」

Fate/Last sin -12

Fate/Last sin -12

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-08-08

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work