シーサイド・ラブ
クラッチを切って、ギアをトップに入れた。同じ車の運転でも、ギアを何速に入れているかでまるで別な行為となる。それなのにシフトチェンジを機械任せにするのは、車乗りにとっては不幸なことなのだ。私はそう信じている。
海沿いの道を気が済むまで走って、車を停めた。先程寄ったカフェでテイク・アウトにしたコーヒーを持って、私は砂浜に向かった。
高校生の頃、学校が海の近くにあり、デートの場所は決まって海岸だった。その頃の恋愛なんて、グループ交際の延長みたいなものだった。当時親しくしていた男子の誰がファースト・キスの相手だったか、私は覚えていなかった。
本物の恋愛をした相手とも海で出会った。彼は東京から遊びに来たグループの一人で、見るからに他の男たちと違っていた。夏の海には不釣り合いの、人生を諦めたような冷めた目をしていた。私はその目に一目惚れしたのだった。
出会った年の秋、私は彼のアパートに行った。初めての一夜を過ごした朝、玄関に置いてある彼の靴がとても古びていることに気づいた。
「じいさんが絵の勉強でローマにいた時に買った靴なんだ」
当時の彼の祖父にとっては高価なものだったらしい。それでも店員から、本当に良い靴は孫の代まで履けるのだと勧められて買ったのだという。さすがに古くなってきたので、一年おきに買った店にメンテナンスをしてもらいに行くんだと、彼は言った。靴の修繕のためだけにローマへ行く人がこの世には存在するのだと、私は妙に感動したものだった。
一緒にローマに行く前に、私たちは別れてしまった。それからしばらくして、彼の姉から電話が来た。彼が病気で亡くなったという報せだった。
彼の姉に会いに行くと、彼女はあらゆる感情を詰め込んだような目で私を見た。彼が寝たきりになってから亡くなるまで過ごした寝室に案内されて、彼女の表情の意味を理解した。ベッドから見える場所に、彼が描いた私の肖像画が置かれていたのだ。嫌になるほどややこしい女である私は、その時だけは彼の姉にすがりついて、声をあげて素直に泣いた。
それ以来、私は男から声をかけられると、顔よりも靴を見るようになった。何人かとは恋人になったが、結局今は一人だ。
自分がファースト・キスの相手だと主張する元同級生と再会したとき、寂しくないのか聞かれた。
「いま寂しさを満喫中だから」
私が答えるとそいつは、お前は昔から変わっていたよな、と笑ったのだった。
コーヒーを飲み終えると、私は車を出した。海を離れて、ローマに向かうハイウェイにのった。
シーサイド・ラブ