練習(一)

春乃

 イヤホンを片耳に突っ込んで再生ボタンを押した。

聞きなれた音楽が流れてきて、それなのにいつもと違って聞こえるのは左右に割り振られた音を半分しか聞いていないからか。
でも反対側のイヤホンをつける気にはどうしてもなれなくてそのままでいた。
目を閉じて先週別れた彼女のことを思った。
どういうわけか、ボーカルの片割れと彼女の声は似ている。

彼女と過ごした二年半を思い起こそうとするのになぜかなにも浮かんでこなくて、それでも頑張ってひねり出したのはいつかの背中だった。
カーテンを閉め忘れたまま寝入ってしまったとき、月明かりでぼんやり光ったあの背中。
あの日かけていた薄っぺらい毛布はぜんぶ彼女に巻き取られてしまって、寒くて寝付かれないから座ってじっとしていた。
彼女は起きているのか眠っているのか、よく分からなかったけれどこちらに興味がないことだけは明白だった。
掛布を奪ったくせになぜかきちんとかけてはいなくて、白い背中がむきだしになっていた。

背中は美しかった。
いつも悪態をつくか蹴りを食らわすかしかしない彼女の一部とは思えないくらいきれいで、
彼女と背中はべつの生き物なんじゃないかなんて馬鹿なことを考えた。
触るのははばかられた。指一本でも触れたら壊れるんじゃないかと思った。

二年半の間にいろんなところに行ったし、いろんな話をした。
彼女は怒ってばかりだったけど笑ってくれる時だってあった。泣いている日もあった。
しゃべらないと死ぬような女だった。
いつもおしゃべりで、元気で、立ち止まったりしなかった。

彼女に関する記憶はどれもこなごなになって消えてしまって、頭に残っているのはただ背中のことだけだった。
彼女が作ってくれた食事も、おすすめだといった本も、口ずさんでいた曲もなにひとつ思い出せない。
だからといって彼女を愛してなかったわけじゃない。好きだった。出会えたことに感謝もしていた。
それなのに瞼のうらに浮かぶのは、ただ月がきれいだった夜に見た背中だけなのだ。

練習(一)

練習(一)

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