エネルギーボールの蜜月【短編集】

老人が戦争に行く法律が作られた。じいさんは良いやつだったので、僕は学校なんかで抗ってみたが焼け石に水だった。戦争に向かう間際、じいさんは僕に不思議なことを告げる。
――メッサーシュミットは灰――

帰省した実家の庭で〈エネルギーボール〉を拾った。その光るたまうねうねとうごめいている。栄養がほしそうだったので僕は、食べ物をあげることにした。やがてエネルギーボールはすくすくと育ち、僕の願いを叶えてくれるようになって……。
――エネルギーボールの蜜月――                                                            

死のうと思って屋上に向かったら先客のOLがいた。どちらが先に死ぬか、僕とOLは口論になる。やがて出した結論は……?
――屋上――

未来のない大学生である僕は、親の仕送りで遠隔ニートをしていた。そんな僕の部屋に、鍵しっぽの猫が餌をねだりにやってくる。
――鍵しっぽ――

塾講師をしている僕に、教え子のひなたが声をかけてきた。「家に私がいるから、帰れない」。よくわからないことをいう彼女を訝しんでいたが、僕にも同じ現象が訪れる。この街にもうひとりの僕がいる。もしもドッペルゲンガーならば、互いに消滅してしまうだろう。僕とひなたは『互いに自分から逃げる』べく、奇妙な共同生活を初めた。やがてひなたの〈ゲンガー〉が僕に接触してきて……?
――ひなたドッペル――

怪人は培養槽の中で、かろうじて生きていた。私はその怪人に毒を注入して確実に殺す役目を、〈主〉から仰せつかっていた。ある日怪人は目覚めてしまう。私は、何かを間違ってしまっただろうか。
――怪人とキス――

メッサーシュミットは灰


 夕闇にうっすらとした飛行機雲が尾をひいている。
 それが旅客機ではなく戦闘機であることを僕は知っている。しかしじいさんは細かいことは気にせず、そのまま飛行機雲で良いといった。
 夏の涼しい風が縁側に吹いている。網戸からろ過されて庭の植物の匂いがほんのりと鼻をくすぐる。
 薄い暗がりの中でじいさんの手が駒を進める。ほとんど駒の文字も見えないなかで盤上の空気が飽和する。昼下がりから将棋を始めたのだが、互いに死を認めないしぶとさをもって、夜を迎えてしまったのだ。
場所を変えるつもりはなかった。『将棋は縁側』という謎の掟を互いが貫いていたためであった。その掟を破る発言をすることは拘りを切り取ることと互いに認識していた。加えて僕とじいさんは負けず嫌いだった。
「老眼が末期じゃないのか」
僕が挑発するとじいさんは
「お前くらいの頃から老眼だからもう無駄」
と返した。老眼に年季が入っているというのも嫌な話だ。
 将棋を指すようになるまでじいさんとはろくに会話をしたことがなかった。接点がなかったからだ。
 だが最近になって、どうにも悪態をつくようにまで仲良くなってしまった。将棋という一種の戦いを前に、つい内面をむき出しにしてしまう。


 その内面に関しても、僕がへそ曲がりというのもあったが、じいさんもかなりのひねくれ者であったことが大きい。初めて将棋をした時、僕を叩きのめした後の、にやりと口元をゆがめた悪魔的な表情は今でも忘れられない。
 その口元のうねりが気に食わないという理由で、僕は回を重ねるごとにできる限り不快にさせてやろうと悪態をついた。だがじいさんは意に介さず
「犬が吼えるのは怖いからだそうだ」
とあしらうばかりだった。寡黙なじじいほど老いと引き換えに強い精神を手に入れることを僕は身をもって知った。


 彼の偏屈さは一言では説明しきれない。
穏やかな様でいて、絶対に犯されない自分の領域を持っている。表面的には優れた社交性を備えているところも抜け目ない。
彼の『自室』の中には大量のプラモデルがあり(戦闘機だとか人型兵器とか一概に括れない)、机の引き出しには何かの書物が隠されていた。その書物は漫画の形態をとっていて、じいさんが青年期をすごし、歴史的に暦が変わった年代に『焚書』と称されて燃やされたモノなのだと説明していた。
「母さんに言うと燃やされるので言わないでくれ」
じいさんは言い含めて、その一冊を僕に渡した。 
その夜、僕は大人の階段を一足飛びで駆け抜け、複雑な煩雑な、けれど決して手放せない麻薬のような感情と行為を知るにいたった。
後にその書物が焚書以前の人種が日々の糧にしていたものと知った。僕はその貴重なものをあけっぴろげにしたじいさんに感謝しつつ『借り』のようなもどかしさも覚えた。もどかしさは『スクール水着』という今は滅びた衣服文化に起因していて、僕の精神の空白にぴっちりと喰いこんだ。
 人間は生まれた時に男性性、女性性との両方を持ち合わせているという。このことから考えるに僕の精神にひそむ小さな『女性性』が『スクール水着』を纏い僕の男性性を癒してくれるようになったのである。
 それ以来『借り』を返すために将棋を鍛えてはじいさんに挑むようになった。将棋において恩返しとは師に勝つことを指すという。僕はひたすらに将棋を鍛えじいさんと決闘をする日々を繰り返した。


 だがいくらか仲良くなったからといって、じいさんの部屋に無断で入ることは何人たりとも許されないようだった。 家の財産に貢献してきたゆえの彼なりの我儘もあったが、家中の人物の機嫌や空気を操作して侵入を拒んでいて、二重の防壁を呈しているのだった。
 いとこの幼児などが迷い込んだ場合でさえも、彼は怒りを抑えることをせず、それらしい合理的な理由をでっちあげて叱り付け、理不尽を正当化した。その論法には家庭において口喧嘩の強い母さんすら適わず手をこまねいた。
領域さえ侵さなければ彼は比較的好々爺だから、うまく立ち回っているといえるのだろう。近隣の老人にも朗らかに挨拶をかわす様は、将棋をするとき(あるいは駆け引き全般)の獰猛さを知る身としては詐称にしかおもえない。
たびたび隔世遺伝なのではと思うこともあり、僕は残念に思った。細かいことが嫌いで、限りなくまっすぐで、それらを通すために狡猾になる。そしてその狡猾さは同時に童心でもあるのだ。
似ているもの同士通じる、と言えば聞こえはいいが、じいさんが螺子の緩んだ人間である以上、似ているからといって素直には喜べない。


 ほどなくして僕は王手をしのぎきれず負けた。
「一回くらい、勝たせてくれたっていいじゃねえか」
「手加減ってのはいけねえんだ。嘘をついてるって事だからな」
じいさんは駒を片付けながら言った。
「それにお前は察しがいいからな。嘘は見抜く」
以前、じいさんがとんでもない嘘つきだと話していたのを思い出した。自分の話したすべての嘘を覚えているから、記憶力はよくなったが、やがて嘘そのものがつまらなくなったと説明していた。その結果、記憶力のいい捻くれた正直者というわけのわからない人になった。
嘘は戦うときと遊ぶときだけにあれば良いものだと、じいさんは大人になってから気づいたのだという。
「そんな悟ったこといわれてもよくわからない」
じいさんは何も言わずに、将棋の盤に布をかけ片付けを終える。
「いい試合だった」
「それは人生? 」
「穿ったこと言うなあ」


「わかるさ」
 そういうとじいさんはにやりと口の端を吊り上げた。僕も似たように吊り上げて笑った。
 じいさんは笑ってないときでも、あごが歪んでいるのか、口元が左右非対称で不敵な印象をかもしていた。あんまり不適にすぎると気持ち悪くて女性と話す時に支障がでるのではと思ったが、じいさんとそういう話をするのは嫌だったので口には出さない。もっと、何かの『戦い』の話をするほうがしっくりくる。
「俺は寝る。明日は早いからな」
「出発前にぎっくりごしとかなるなよな」
「大丈夫だ。腰も年季が入ってる。テニス部で文芸部だったからな」
若いときからぎっくり腰なのだろうか。
「それに趣味がプラモデル創りだ。三種のガラスを腰に宿しているのさ」
 おやすみと言い残してじいさんは自室に帰っていった。あいかわらず危うげな比喩表現をする。もっと何かを話したくなったが、無断で部屋に入ることだけは許されないので僕はもどかしい気持ちのまま自室に戻った。
【明日のため】に何か気の利いたこと、(たとえるなら『怪我するなよ』とか『風邪ひくなよ』など)を言うべきだと思ったが、陳腐な表現など儀礼的でなんの足しにもならないことは、将棋などの戦いで知っていた。どんなに苦しい時でも巫山戯た言動を欠かさないのは、心を眠らせないために、屈服しないために、必要なことだと知っていた。その点について僕はやはり彼に似ているのだろう。



僕が生まれる少し前の年、戦争法が改正された。『未来のある』人間が徴兵されないために、高齢者徴兵制度が採択されたのだ。世界各地の先進国で高齢化が進んだためだ。
地球上の根本的な問題は少子化ではなく高齢化である、と偉い人が述べたゆえのことだった。然るべく、世界人口の三分の一である高齢者は反発した。だが、六十五歳以上の年金の自由受け取り制度と、高齢思想家達の犠牲的啓蒙によって戦争法の改正は実行された。


“満六〇歳未満の人間は徴兵されることを禁ずる”
 かくして各地の満六〇歳以上の男子は戦争の義務とともに年金の自由な利用権を得た。
このことに関して『若いときに働いたのに戦争するのは倫理に反する』と主張する方々も多数存在したが『孫の戦争』と天秤にかけられることで、多数が納得して軍服を着た。表向きはそういうことになっているが純粋に戦いたかった人も多くいたのだろうとじいさんは述べていた。
 年金は以前の定額給付ではなく、上限を超えない限りは自由に利用することができた。そのため、戦争で死ぬ前に好きなことをやる、という名目により消費が拡大し一時的に国内は消費過多に見舞われた。制度改正の一環として消費税の一部も年金の特殊手当に回るようになっていたため、ブランド物を買う若い女性が消費によって間接的に老人の生活を支えるという構造になった。
 年金を残して戦死した場合でも、その年金の残額を利用して墓地を立てることで遺族の心を汲み取ることにも成功していた。
 何より全国の高齢者を戦争に駆り立てたのは孤独死への恐怖だった。人との繋がりを持たず、何もない日常を送り、寝たきりになって死ぬのはみじめなことだった。妻を亡くしたものや、もとから独り身だったものが兵士の多くを占めた。息子世代の家族とよりが合わないものや、死に場所を求めているなどの理由もアンケートで調査された。そうした老人の積極性は追い詰められることへの経験値なのだ、と徴兵を免れた世代は微かに感じていた。
 不満やデモは起きなかった。死にたくない奴は行かなければいい。医療器具にまみれて、床で死ねばいい。床で孫に看取られて死ぬか、戦場で死ぬかを選ぶか。その二択のなかで、多くの老齢の男は後者を選んだのだった。


 かつて老人が老害だと侮蔑されていた時代は影も形もなく消えていた。
 だがはたしてこうまで熱狂的な、死の肯定があってよいのだろうか? 
 結局のところ理性的な判断ではなく、国民全体が『やがて死ぬ』という価値観にとらわれただけではないのか? やがて死ぬなら闘って糧になる、という考えは、戦争という経済効果に寄り掛かって、死に対する思考を放棄した結果でしかないように僕には思えた。
 このまま高齢者が戦争で死に続けても、人間全体の盲目さや無思慮さが変わるわけではないような気がした。
 僕は人類に対して「いい加減にしてほしいです」と思った。まずこんなことは馬鹿げていると主張したかった。
 学校で(僕は高校生だ)発表をすると「じゃあお前は戦争に行ける? 」と教師に言われた。「そういう問題じゃないです」と僕は食い下がって反論をする。


「どういう問題なの? 」
「そもそも戦争は外交手段の一つですが、現在ここで起きている、消費や生産を回すという意味合いは、他国へのけん制を含みません。根幹に生物の淘汰原理が働いています。つまり役に立たないものから消していくという方式です」
「そうした淘汰は自然なことだと気づくのに、人は歴史を重ねてきたとは思わないのか? 」
「じゃあ弱いものは消えてもいいのですか? それを行わなかったのは、人が他人の痛みを自分に鑑みる精神があったからじゃないのですか」
 教師は「また後で聞く」という旨を伝え、僕の言葉はさしあたって保留される結果となった。
 僕は何かに取りつかれるように、この状況はよくないことではなのか、というのを社会科のたびに意見を述べつづけた。あんまりにしつこく話をするものだから当然の結果として『変な奴』のレッテルを張られるようになる。
 政治的なことはよくわからないけど、支離滅裂なまま、これはよくないことではないのか? と主張を続けた。学校で授業を邪魔してまで話したところで何が変わるわけでもない。
意見を述べ、授業の邪魔だからとたしなめられるというサイクルを繰り返すうちに、虚無感に駆られて軽いうつ症状で動けなくなってしまった。
 学校での関係を歪めるのがつらくなったのだ。


 出る杭は往々にして素直に打たれる。知り合いの一部が僕に話し掛けてくれなくなり、一部の女の子も挨拶を返さなくなった。
これが自然淘汰なのだな、と思った。だとしたらそんなものは用のたりないものだ。なんのとり柄もない僕一人を圧迫する程度のものでしかない。
 孤独になっても学校に行き続けようと思った。初めは周囲のすべてが敵のように思えたが、時間がたつごとに信頼できる人間とそうでない人間とがわかって、小さい括りではあるがうまく溶け込める場所を見つけた。所詮淘汰なぞこんなものだ。ある程度の意志でなんとかなる。
 だがその意志の質に関して僕はまだまだ知らない。
 自主的に戦いへ赴く老人とは、いったいどんな心を持っているのだろう。厭世なのか、それとも人生に飽和したのか。
 繋ぐ者がなくなったから?
 罪ではないにも関わらず、死の場所が必要とされるのが理解できない。
 人の居場所は、お金なり物質なり誰かの譲渡で成り立っている。
 居場所は関係性の中だったり家という形で現れる。だがお金や物質が戦争による『物の交流』によって制度的に造られたものでもあるなら『居場所』は誰かの犠牲のうえによって成り立っていることになる。
死によって成り立つ『居場所』を当たり前のように享受している人間に、僕はいらだっていたのだ。
他人の消失に対する、感情が摩耗していく。そんな空気が怖かった。


 もどかしくて、何かをして身体を破滅させてやりたい衝動にかられた。そう思ううちに、この破壊衝動こそが戦闘行為に繋がるのではないかとも考えた。思考は堂々巡りに陥り考えるのをやめた。
 その日は壁に頭をぶつけて、おでこを腫らして眠ることにした。
 傍観する人間や危機感を覚えない人間にはならない。
 今の僕には無力な呪詛を呟くことしかできない。



 じいさんの祖父は大工で、各地を転々としながら構造物を建築していたと聞いていた。いわゆる出稼ぎという奴で当時最高級の一七階建てのビルの施工にも携わったらしい。いわゆる『セカンド』と呼ばれる世界規模の対戦が終了し高度経済成長を迎えた時期だったため出稼ぎが良い生活の糧になったのだという。
じいさんは大工とはまったく関係なく普通の国語教師をしていたらしいのだが、都市にたたずむ建造物を眺めては祖父の時代からの『痕跡』の気配を感じ取っていた。そうした『痕跡』こそが受け継がれるべきだと主張していた。
「旧来『ジングー』という建物は二〇年周期でいったん破壊し、再構築していたのだという。何故だかわかるか? 」
 いつだったかじいさんは僕に問いかけをした。
「それって材料の寿命が迎えるからじゃないのか? 」
「素材だけで見れば、百年以上もつらしい」
「もったいない話じゃない? 大工が喰いっぱぐれるからわざと壊してるとか? 」
「はるか昔の職人は腕によりをかけているからそんなチャチな理由ではない。なんでも『トリイ(鳥居)』のコーティング技術は砥ぐだけで雨風を数十年しのぐほどらしい。人間の腕だけで、だ」


「腕だけ? それは、材料や特殊な工具じゃないってこと? 」
「ああ。鉋の運動だけだ。例えば昔のケンゴーは刀で果物を切るだろう。断面が鋭すぎて切られた痕跡がみえないという奴。あれといっしょだよ」
「……少し違わないか? 」
「とにかく原理的には一緒ということだ。つまり鋭さは時間を超えるということだ」
 じいさんは科学時代の生まれのはずだが合理的な発想を好まない。わかりやすい反面、幻想的な解釈をするときがある。だが大筋を捉える能力には長けているので細部に拘らなければ納得させられてしまう。
 少々かっこよすぎる言い回しをするので素直に受け取るのがはずかしいというのが珠に傷だった。
 僕はジングーについてもう少し考える。
「百年以上ももつなら、『ジングー』を壊す必要はない。大工の働き口の問題でないなら他の理由が思いつかない」
「まあ、働き口の問題でも30点はやれるんだがな」
 頭をひねり出しても何もでてこなかった。じいさんは「若いほどわからないだろうな」とつぶやいていた。降参したくなかったので僕はヒントを所望する。


「所望する……」
「ヒント、ね。じゃあそうだな……。
『ジングー』を壊すといったがな。建物ばかりでなく神具や玉砂利に至るまですべてを変えるという。これはつまり大工だけの問題じゃないってことなんだ。つまり場所を移動して建て替える」
「そういう重要そうな情報は、もっと先に言えよ」
「わかったのか? 」
「わからん」
 僕は素直に降参した。じいさんはまたいやらしい笑みを浮かべて勝ち誇ったように笑った。
「20年周期ってのは、世代間で技術の継承を行うってことなんだ。別の技術同士、を掛け合わせるって意味合いもある」
 20年周期。子が成人し親と対等に酌み交わせるに至るまでの十分な時間。そうした人間の結節が、神威のある空間を介在して行われていたのだという。
「つまり縦のつながりだけじゃなく、横のつながりもあった。ここからは俺の解釈なのだが、つまり神は人を繋げる役目も果たしていた。あらゆるものの媒介なんだよ」


 僕は自分がぽっかりと口を開けていることに気づく。若い身分では決して想像、というか実感のできないことだった。知識としては納得するけど、体が納得しない。
 現実に神という壮大なものが、納得できる役割を備えていることに驚いたのだ。
 僕は少しだけじいさんが教師という職業をしていたのが理解できた気がした。変人ながら一部の生徒に慕われていたとは聞く。それだけ彼は人の結節点を信じていた。
 じいさんは戦うことに対しても結節点を見出しているのだろうか。戦争という破壊もまた『ジングー』のように肯定するのだろうか。一度勇気を出して聞いたことがあったが、こればかりは難しいとのことで特に具体的なことを述べなかった。
「俺のやることじゃねえしな。俺以外の迷惑ってわけでもないんで、なるようになるさ」
 不安のぬぐえない僕とは対照的だった。その屈託のない笑みと余裕のある様子は強がりでもなんでもなく本当に何も感じていないのかもしれなかった。
 いうなれば味がある。
 伝わるのはそればかりだ。



軍服姿のじいさんが朝ごはんを食べている。
蜂蜜をかけたグレープフルーツにコーンフレーク。ミニトマトにブロッコリー、りんごヨーグルト。食パンに目玉焼きベーコンと、昼用の弁当に入りきらなかったおにぎりに、昨夜の夜ご飯の残りの味噌汁。
やたら豪勢な朝餉である。
じいさんが中学生の頃この家で食べていたというメニューだという。
家族は、みな無言だった。
「制服って学生に戻ったみたいだな」
じいさんだけが妙にそわそわと明るかった。戦闘機の話に母さんが相槌を打っていたが旋回力の解説をするのに対して、心配の言葉をかけていて、会話がかみ合っていない。母さんは亡くなったばあさんのことや冥府について気にかけていた。じいさんは良く喧嘩をしていたが、ばあさんをひどく溺愛していることは家族の誰の眼からも明らかだった。母さんは何か悪い気を起こして彼が『とぎれるような生き方』をするのを恐れていた。
そうした心配をするのは母さん自身が、儚い心を備えているからなのだろう。
見ていられず、僕は会話に分け入る。


「それって部屋に飾ってある奴だろ」
「そうだ。よく知っているな。全力で教えなかったのに」
「ちょっと調べたんだよ」
「まあ俺が乗るのは別の機体なんだがな」
「メッサーシュミットじゃないの? 」
「そもそもメッサーシュミットなんて、ん100年前の機体だ」
「じゃあなんでわざわざ語るんだよ」
「ドイツ名はなんでもかっこいいと思う。そんな時代だったんだ」
かっこよければなんでも良かった年頃だったんだなとじいさんは自嘲気味に言った。
「そうだぁ、お前にいいものをやろう」
 じいさんはごはんを置いてぱたぱたと自室に行きほどなくして何かを取って戻ってくる。
「これを……」
 何かの演技なのか手が震えていた。


「これがメッサーシュミット? 」
ふるぼけた飛行機があった。今では考えられない無骨な陰影だったが、どこか時代性を超える速度のようなものが感じられた。
「これをどうするの」
「これを……」
 じいさんはわざと白目をむいて頭の悪そうな表情をした。
それからじいさんは黙々と食事に戻ってしまった。訊ねても「これを……」と眼をひんむいてみせるばかりだった。ふざけてやがるのだ。眼をひんむいて両手でピースを造っていたが無視をする。
渡された意図はわからない。さしあたって模型に布をかぶせて自室の引き出しに大切にしまった。


朝食を済ませ支度を終えてから、家族で父さんの車に乗りこみ空港基地に向かった。
 助手席にはじいさんが座り、父さんと何かを話していた。朗らかな雰囲気であったが「娘を頼む……」という意味の会話だった。母さんはじいさんの娘なので当然といえば当然だったが「結婚のときあえて言わなかったが」とも聞こえた。そういう話は二人が結婚するときに済ませて欲しい。
 空港に近づくにつれて飛行機の音が断続的に響き、聞き取れないことが多くなった。おそらく訓練飛行や出撃が行われているのだろう。
 声の掻き消される中で僕は、父さんがじいさんと顔を見合わせて、にやり、と口元を歪めるのを見た。
空港での別れ際、じいさんは家族に見送られながら、基地の方面へ歩いていった。『民間人立ち入り禁止』の立て札を見て「俺は民間人じゃないんだな」と感慨深くつぶやいていた。
「お父さん」
母さんが声を掛けた。声には涙が混じっていた。僕は母さんがじいさんをそう呼ぶのをおそらく生まれて初めて聞いた。じいさんは「あん?」と惚けたように振り返った。
「そんな勝手にてくてく、歩いていっちゃわないでよ。何か、言ってよ」
「つってもなあ。特に何も言うことないし」


「あたし父さんのこと、好きだったよ。たくさん喧嘩したけど父さんの娘でよかっ……」
「やめろっ。死亡フラグをたてるんじゃないっ」
じーさんの怒鳴り声に母さんはびくっと肩をすくませた。少女のようなしぐさだった。
「だってぇ……」
「だが一言だけ言わせて貰う」
「うん」
「俺の部屋のものは勝手に触らないでくれ」
 泣きはらした瞳をさらに充血させ、母さんが平手を振った。しかしじいさんの俊敏な動きをとらえきれずに空を掠める。
「つまらんことでは殴られないさ」
「馬鹿、馬鹿、ばーかっ」
「じゃあな」
 母さんを宥める家族を尻目にじいさんはポケットに手を入れゲートに向かって歩いていく。


じいさんは三回の戦争を生き延び、四回目の戦争で帰らぬ人となった。
帰ってくるたびにけろりとしていて、僕を将棋に誘ったり趣味に精を出すばかりだったから、もう帰ってこないと言われても、うまく実感できないでいた。
 帰るたびに日焼けした肌でへらへらと笑うのが不思議だった。末期的な痛々しさがあるわけでもない。滲み出る憂いもほどほどで、とても戦争という特殊な状態にいる者には見えなかった。
 そのことについて尋ねると、死を脅えるのは未来がある人間だけで、自分は未来が少ない分だけ恐れも少ないのだと彼はいった。生きることはどれだけ未来を使いきれるかが問題であって、十分に時を使い切ったので特に未練はないのだとも主張していた。
だから、僕が自分の死を恐れるのは若いのだから当たり前なのだとじいさん
は言った。今の内に恐れておけとも付け加えた。
「使い切れるかな」
 うっかり、弱音を吐いてしまう。
「大丈夫だろ」
 じいさんは素朴な抑揚で言う。


「じゃあ部屋にある焚書書物をちょうだいよ」
「あれは俺のものだ。貸すには貸すが絶対やらん」 
「未来を使い切りたいんだよ」
「このご時世、二次元の世界に行ったって面白くないぜ」
「時間なんて、何をすればいいのかわかんないから、使い切れる気がしないんだ」
「そんなもんだろ。生きてる意味がわかんないから。暇になるんだろ。何をすればいいかわかんないから、何をしようか考えるだろ。でもだな。考えるってことはあらかじめ決められたことをするよりもだな。無数の選択枝の中に委ねることになるんだ」
「哲学かよ」
「当たり前の言葉遊びだ」
「なんとなくはわかるけどな。無限は無みたいなものだけど、その中から選べってこと? 」
「だいたいあってる」


 どこか頭のよさそうで実際は結構阿呆っぽい。そんな言動でいろんな人間を翻弄したりするのだろう。
気づいたら僕の内には彼の口調が染みついてしまっている。
 じいさんのくだらなさを受け取っていたのだ。認めたくなかったが相性が良かったのだろう。
 珍獣の心根を隔世遺伝するというのもまったく残念な話だった。



 そんなじいさんの最後は、炎上した機体を回転させ、きりもみの状態で敵性機体に体当たりする、というものだった。
 三回目の徴兵で『炎上する機体から脱出し、不時着した過疎島の女の子と恋仲になる』という夢を達成してしまった故に、ハイになってしまったらしい。 
 同僚の証言によると「リミッター解除ぉっ」と叫ぶ声が聞こえたとのことだった。
じいさんの死去の知らせが入ってしばらくしてから僕は主のいない部屋に入った。見やると、父さんが先に入っていて『焚書書物』の整理をしていた。 
 僕がじいさんから書物を借りていたことを告げると父さんは「そうか……」と複雑な表情をして、一枚の紙を渡した。遺書かと思いきや『あげてもいい本』のリストだった。そのリストには「あげないものは炎にとかしてくれ」との希望も書かれていた。
「義父さんは漢だったな」
父さんが言った。
それから僕と父さんはじいさんの承諾を得て貰った本をそれぞれの部屋に隠した。じいさんの隠し方を真似(たとえば引き出し二重底など)し、 残りの本はじいさんのお気に入り、ということで焼却することにした。


 何故、保存を考えなかったのかは上手く説明できない。おそらく持ち主と同じ場所にあるべきものは、然るべく送られるべきなのである。
 焚書書物の山の中に嫁ノートと呼ばれるものも見つけた。それはじいさんの核心に触れるものでもあった。
ノートには柔らかいテイストの女の子の絵が設定資料のごとく書き連ねてある。そのほとんどは長い黒髪を揺らす、眼鏡のぽっちゃりした少女だった。
 その人物はじいさんが渡してくれなかった本のヒロインに酷似していた。あるいは死んだばあちゃんの若い頃の名残を持っているようにも思えた。ばあちゃんは本が好きでぽっちゃりとした女性だった。
 僕と父さんは顔を見合わせる。これは男にしかわからないことだろうと思うから互いに口にはしない。
 本を誰かに渡さない理由を垣間見てしまった。推測でしかなくとも決定的だった。
じいさんはばあちゃんの名残を手放したくなかったのだ。
『お前らにあげない本は炎にとかしてくれ』
 その言葉の意味が今になって染み込んでくる。
 むろん炎にとかせば同じ場所に行けるなどとは、じいさんは信じていなかっただろう。だが彼は『信じる信じない』ではなく『そういうことにしておく』と言ったに違いない。


 だとすれば焼却は仕送りのようなものかもしれない。僕もまた『そういうことにしておく』。
天国で通販を待つみたいにそわそわしているじいさんを考えると笑えてくる。
父さんと二人で庭に物をだし火をくべる。火は庭の、何もないスペースで赤く燃えている。本をくべると、ぱらぱらと音をたてて焼かれていった。


 僕は懐からメッサーシュミットの模型を取り出す。
(輪廻思想は気休めだがな)
どこからかじいさんの声が聞こえた。おそらくは頭の奥のほうだろう。
「気休めでもうれしいものなのかな」
「その模型は? 」
父さんが尋ねた。
「メッサーシュミット」
「メッサーシュミット? 」
「ドイツの大昔の飛行機」
「そういえば昔そんな曲があった気がする」
「どこで知ったの? 」
「義父さんが言ってたんだ。正式には『少女はメッサーシュミットに乗って』というらしい」
「すげえじーさんらしい曲」


「で、どうする。そのメッサーシュミット」
「これを……ってしか言われなかったんだ」
「じゃあ、頼むだな」
「あ、そうか。確かに。俺も、そう思う」
僕はメッサーシュミットの模型を火にくべた。飛行機の模型は、燃え続ける書物と交じり合い、火と溶け合う。有害な煙になって天に昇り、流転して上昇していった。
きっとじーさんは雲の上でも自分の『領域』を作っているに違いない。
 頭の奥から声が聞こえる。分かってるさ。樸は答える。
 どれだけ使い切れるかが、問題なんだろう。どれだけ自分の身を焼きつくせるかが問題なんだろう。
 煙と熱が風に流されて僕の全身を撫でた。燃え散った機体の粒子がかすめたのか、瞼がひどくしばたいた。痛みを我慢しようと思ったがこらえきれなかった。何かもっと、この場にそぐわない巫山戯たことを考えたかったが、燃える景色を前にして、その熱さや眼の痛みに呻いてしまった。
 ごまかすために頭の中で将棋の棋譜を並べた。僕の脳の中で今は存在しないじいさんが駒を進める。
原型をなくして黒い塊になってからもメッサーシュミットは炎を上げ続けていた。これは確実に悪い物質が出ているに違いない、と考えながら、僕は何かをごまかすように咽び続けた。


 全身が燃えているように熱かった。それもまた本当に燃えていることではないのだ。僕はまだまだ余地ばかりもてあましているのだった。
 将棋の駒を並べていく。盤上のマス目を指す、じいさんの声が聞こえる。記憶していたはずの声が薄れていく。
 やがて、幻影の声は炎の揺らめきの中に吸い込まれていった。
本や飛行機模型がぱち、ぱちと音をたてて歪みを帯び煙に変わる。分解され続ける。溶けて、物のない概念に変わる。
死後の世界がなくても、じいさんは失われた書物やメッサーシュミットと同じ、風のような塵芥になったのだろう。
炎に包まれたのだから、きっと間違いない。

エネルギーボールの蜜月 一章 邂逅ノ始

一章 邂逅ノ始

1 出会い

 エネルギーボールを拾った。
 帰省した実家の庭先でのことだった。
 空気との境目で緑色に燃えたち、周囲の植物と色合いを重ねていた。保護色ではあったが、エナメル質の光沢のため目視もできるようだった。
 両手で持ち上げると柔らかい感触がした。胸に抱えるとぴかぴかと明滅してから、今度は僕の服の色に同化する。
 これはなんだ? と思った。不可解な想いが巡り、次に恐怖が背筋を伝った。しばらく手に持ってみたが今のところ害はない。悩んだ末に好奇心が勝ったので、観察してみることにした。
 一定の質量を持っていて保護色を用いている。このことから光よりは生物に近いようである。
 不思議と熱さはなかった。掌とエネルギーボールの間に見えないクッションが存在しているような奇妙な膜めいた感覚があった。『磁界』や『気』の類なのかとあたりをつけたが、僕は確証をもてる知識を備えていない。
 どうすればよいかわからず立ちすくみ、所在を失くした。
「エネルギーボールか……」
 思えば、細かい知識のみならず、その基本的な用途さえも僕は知らない。


 ぶつければよいのだろうか。
 それとも何かに与えるための糧なのだろうか。
 僕は今まで生きてきた人生において、この球について知ろうとしてこなかったことを悔やんだ。
 こうしている間にも見えない事態が進んでいるのかもしれない。
 手遅れになるまえに何らかのコミュニケーションが必要だろう。
まずは一緒に歩くのが良い気がする。
 僕はエネルギーボールを抱えて歩き出す。


 歩を進めるごとに、徐々にではあるが、球は先ほどよりも光沢を帯びていった。色の変化のみならず、重さも取り戻しているようであった。
弱っていたものが回復しているのだろうか。
本来の形状が膨大なものだったら手におえないが、悪い方には転ばない気がする。
 僕が持ち歩くことでエネルギーボールが何らかの回復をしているというなら、宿主と寄生体の関係性が描ける。この球が良い状態に進んでいるとしたら、飼い犬が主人をかみ殺すことはないように、僕の身柄も安全なはずである。体調も悪くないので良好な関係といえる。
 住宅街の合間を縫って歩くうちに、涼しげな公園が見えてきた。背の高い木々やブランコなどの遊具が夕焼けの光をうけて影を伸ばしている。子供達の声が住宅街に反響していて微笑ましい。
 だが徐々に異変が起きていることに僕は気づく。公園に近づくにつれて、空気が冷えていくのを感じる。
 微かにこだましていた子供のはしゃぎ声が急に静かになっていったのである。
ラジオのスイッチが切れるように、声がすうと途絶え、音の落差が余韻となっていた。
 ふと、バタ、と重い音が聞こえる。公園の外周を歩いていると、子供達が倒れるのが見えた。
 広場でボール遊びをしていた子供が地面に尻をつけ、膝をたわめて項垂れていた。滑り台にいたものは仰向けのまま〈気をつけ〉の姿勢で倒れている。


 心配し、駆け寄ろうと思った。だがすぐに、原因はこのエネルギーボールかもしれないとあたりをつける。
 走って子供たちから遠ざかる。100メートルほど離れ、廃ビル裏の駐車場の隅にエネルギーボールを置く。誰かにとられませんように、と願掛けをしながら僕はエネルギーボールから離れる。
 手ぶらのまま公園に戻ると、子供たちが回復を始めていた。きょとんとした表情には得体の知れない現象への恐怖感が滲みでていた。
「大丈夫か」
 僕が声をかけると冷静な子供が状況の説明をしてくれる。
「急に具合が悪くなって、みんなで倒れちゃったんです。貧血のときみたいだって」
「歩けない子はいないか? こういうときは我慢しないで言えよ」
 おとなしい子供も話しやすいように、リーダー格の子供にそれぞれの状態を確かめるよう促す。
「体がだるいだけで。今は歩けそうです」
「そうか。じゃあ今日はもう帰った方がいい」
 僕は遠くの工場の悪い排気が流れてきたのかもしれないと説明し、子供達を家に帰させた。いたずらな恐怖を与えてしまったが致し方ない。


 先ほどエネルギーボールを置いた駐車場の隅に戻る。誰かに見られるとまずいので、二つの建物の間、暗く湿り気のある空間に入り込む。
 さすがにここまでくればひと目の心配はない。
 エネルギーボールは暗がりの中で明滅している。とんとん、と等間隔に光る。
「なあ、お前。いったいどうすればいいんだ? 俺にどうしてほしいんだ」
 語りかけると、明滅のパターンが変わった気がした。とんとん、とした光のパターンが、てんてん、に変わった。
猫と話をするときのような反応に似ていた。言葉ではなく、雰囲気によって会話が成立するような。
 自立した存在なのかもしれない、という予感さえ芽生えてくる。
「君は存在なのか?」
 尋ねると明滅が止み、風のうねりのような震えに変わった。やがてそれは、『弱・扇風機』のような振動に変わる。
 コミュニケーションの兆しだった。僕は緊張で渇いた喉を湿らせるためバックから水のボトルを取り出す。
 ボールの振動が強くなった。
 勝手な解釈かもしれないが、何かをねだっているようにも見えた。


 ボトルの水を差し出すと球体は蠕動し、5センチほどの触手のようなものを伸ばした。触手は雨を受け取る葉のような平たい形にひろがり、僕の身体の前で停止する。
 明らかなおねだりだった。その光の縁どりが消えてしまわないか危惧しながら、水分を一滴ずつ垂らしてゆく。慎重に、少しずつ水を零すと、エネルギー体の表面が油膜のようなものに変わる。人間における粘膜のようだった。
 補給しているのだ、と僕は理解する。
 そのままゆっくりと時間をかけてボトル一本分の水分を与えると、エネルギーボールは気持ちいいくらいの勢いで与えた水を飲みほした。水分だけでは満足ではないようで、もっと養分を欲しているようだった。
 僕はエネルギーボールのために食料を買い込むことにする。


2 世話


 エネルギーボールを自室に持ち込み、養分をあたえる日が続いた。
 彼は(彼女は?)人間の食べ物を吸収し、体積を拡げ、自室に置いてあるバランスボール大にまで膨れ上がった。初めは家族に咎められるか不安だったが、もともと部屋に置いてあったバランスボールを押し入れにしまうと見分けがつかないようだった。
 上手く誤魔化せそうだった。バランスボールを置いていて良かった、と安堵した。
 エネルギーボールは一定の大きさで膨らむのをやめ、質量を帯び始めた。あいかわらず弱・扇風機のような蠕動で、なんらかのコミュニケーションを図っているようであったが、それが何を意味するのかを知るすべはなかった。僕は淡々と、買ってきた食料や晩御飯の残りなどを与え続けることにした。変化がみられたのは拾ってから五日後の朝だった。
『gwベgダ』
 蠕動し絞り上げるようにわなないていた。『gレウpgc』やはりコミュニケーションだった。
直感を信じて食料を与えておいたのは正解だったのだ。


拾った当初は、わけがわからないという理由で、何もしないままドブに捨てることも考えていたのだ。
だが好奇心に従うことは良い方向に転びやすいことを僕は知っている。
『gwrefyニャg』
「君は存在だったんだな」
 僕はエネルギーボールに声を返す。帰ってくるわななきが少しずつ意味を帯びているような気がする。
 意志の疎通が可能になったのは七日目の夕方のことだった。エネルギーボールは電子的な音声で僕に礼をいった。
『エネルギーをカンシャ。クレタので』
「礼を言われるほどのことでもないさ。食べ物なら不足してない」
『だが、レンサのホショクは限り』
 まだ文法を理解していない節があったが、彼の言わんとすることはわかった。捕食をするという行為が限りあるものであることを知っているのだろう。聡明なエネルギー体である。だが僕の住む国は、長い歴史からみて平穏な時代にあった。人間の生息数とそれを維持する食料とのバランスをうまく調整できていたのだ。そういった事情を説明すると、彼は感心したように蠕動した。


『空に帰らねばならない。その前に、ダガ、したい、レイ、ところだ』
「そうだな」
 僕は幾分か悩んだ。〈礼〉と言われても、頼まれる側は相手のできることしかお返しを望めない。僕はエネルギーボールの用途を知らない。
「まずは互いに会話するとこから始めようじゃないか」
 エネルギーボールは不服そうに委縮する。どうやら義理を重んじる性格らしい。
「じゃあこうしよう。僕は話し相手が欲しかった。君は僕と話をする。面白い話を聞かせてくれるなら僕は満たされる。それで君が満足しないなら、後で君なりの礼をくれればいい。いずれにしても互いを知るところからだ」
 咄嗟に思いついたものだが、なかなか良い折衷案だった。エネルギーボールはしぶしぶ僕の提案を受け入れエネルギーを蓄えることに専念した。
 その日から彼(彼女?)はすばらしい学習能力で言葉を身に着けた。並行して身の上のことも話してくれた。
 空(おそらくは宇宙)を流れていたら、エネルギーが尽きてしまい、この星におち着いた。衰弱した場合は約ひと月で消滅する手はずになっていたものを、僕に助けられたのだという。
『サガシテいる、方法ための帰る』


「その場所はどこになる? 惑星か、それとも別の概念なのか」
『うち』
 話をしているうちに僕は彼(彼女?)のことについて様々な推測を立てれるようになってきた。
電磁波的な反響によって脳波から質感的な情報を引出し、意味内容と音素を融合させている。
 つまり、テレパシーのようなもので、頭の中を震わせて会話をしている。
 あとは、意外と冗談が好きなのかもしれない、とも。
「だが帰るための方法にたどり着くには、いくつかの過程が必用だと思う。それについて心当たりはあるのか?」
『大量に必用なのは熱量。この姿、熱量を摂取できない、効率。環境に適応した所望するのは、肉体』
 どうやら軌道に戻るためのエネルギーを必要としているらしい。なんのことはない単純な話だった。聞くところによると滑走の際に空との摩擦によってひどく消耗してしまうという。
 だからといって先日のような、道端の子供から吸い取るようなことをされるのは非常に困る。
それは一つの危惧でもあった。出会った時から感じていたことだが、エネルギーボールはやたらと子供から熱量を吸い取ろうとしていた。


弁当を差し出しても食べはするのだが、子供からエネルギーを吸い取るのを辞めようとしない。
 理由を何度か尋ねてみたが、彼自身もよくわからないようだった。そもそも、僕の脳から反響的に言葉を学習しているため、コミュニケーションが彼自身の身になっていない。
 僕の脳みそから言葉を拾い集め、表面上は会話の真似をしてはいるものの、実際に地球上のものの区別ができていないのである。
 大人と子供との差を教えても、良いエネルギーを吸い取れるか否か、という判断しかできないようで、子供が弱く庇護される存在であるという認識にまで至らないのだ。
 僕は辛抱強くエネルギーボールに地球を生きる上でのルールを教え込むことにした。
 幸いな(不幸な?)ことに、僕の家は公園に近いため、子供を通じて実験をすることができた。エネルギーボールが吸い取る範囲、量などをある程度観測し、どの程度吸い取れば子供が倒れるのかを測ってみた。
 関係のない子供を巻き込むのは不本意なことだったが、大きな被害を防ぐために実験を行うのは致し方ない。
 エネルギーボールが理解してくれないゆえの防衛策だ。子供からしかエネルギーを吸い取れないのだとしたら、融通が利かないなりに折衷案が必要になってくる。


「一人から少しずつ吸い取るんだ。ばれない程度に。そうすれば誰かを傷つけることはない」
『傷つけるとどうなるのですか』
「鳥を殺すと卵はでてこなくなる」
『なるほど』
 エネルギーボールは言葉の他に、思考回路も発達させているようだった。
 意志の疎通ができることに僕は快楽を感じるようになる。もっと彼のために何かをしてあげたいと思うようになる。


3 感情エネルギイ


 与えた食料のカロリーを計算したり、子供から奪ったエネルギーで彼が活動できる時間などをメモにとって比較をすることにした。すると、彼の摂取するものにばらつきがあることが判明する。
 熱量などの単純なエネルギーだけでなく、もっと複雑な経路を経ているようなのである。同じカロリーの食事でも彼の活動時間が大きく異なる場合がある。人間のカロリーもまた日ごとの消費量で変動するものだから、誤差の範疇とも考えたが、宇宙生命を人間の物差しで測るのはよろしくない。
 その誤差に関して彼に質問すると、相当する理由を二日ほど考えた末に答えてくれた。
『感情ですかね』
「感情?」
『はい。少々説明しずらいのですが、例えばこのお弁当には食堂のおばちゃんの年季の入った感情が籠っています。自らの職務に忠実な、働く女性の温もりが凝縮されています。反面、あなたが適当に残り物のご飯で握ったおにぎりは冷徹な実験の眼差しばかりで構成されています。この場合は前者の方がエネルギー総量は大きくなります』
「要するに、君はやる気で動くってことか」
『私は生物の持つ想いを受けて動きます』


「そんな馬鹿な……」
 僕は思った。
 感情がエネルギーに変わるのは不可解な話だ。しかし本人がいうのだから間違いないだろう。僕は事実をありのままに受け止めながらその応用を考えてみる。
「じゃあ僕が君に何かしかの感情を持てばエネルギーになるということなのか?」
『そうですね』
「どんな感情を持てばいいのだろう」
『強い感情を持ってくれればいいですね』
 しばしの間、感情を持とうとがんばってみたが、この球体に対して好奇心以上のものは持てないようだった。
「君は姿を変えることはできるか」僕は冗談めかして聞いた。形が変われば見方も変わるのだろうと考えたのだ。水を与える時、掌状に変形していた前例もある。
『ある程度なら可能です』


「それなら少しだけ人間の形を模してみてくれないか」
『いいですよ』
 そのすんなりとした一言に僕は驚いた。そんな簡単に変われるものなのか。僕の驚きに呼応したのかエネルギーボールはびくん、と痙攣した。
『いまのあなたの驚いた様子はとてもおいしかったです』
 どうやら感情エネルギーという奴も脳を通じてダイレクトに得るものらしい。子供が倒れたときも遠隔的に吸収していたのだろう。便利な摂取だなと感心する。
「僕もある種の感動で満たされているよ」
 エネルギーボールに何らかの感情を抱くのもおかしな話だが。
 しかしもはや彼(彼女?)はただのエネルギーボールではない、多くの可能性を秘めた存在なのだった。
『どのような人間がいいですか?』
「そうだな。家族として認識するにはさすがに血が繋がってないから、難しい。友情も時間が必要だ。擬似的な恋愛感情ならば可能かもしれない」
 まじめに考えて僕はいった。


 決してやましい思いではないはずだった。
 決して、やましい思いではないのだ。
『そうなのですか?』
 僕は軽くうなずいてみせる。
「家族愛や友愛はなにかしらの親近感がないといけない。でも恋愛感情ならば性欲で変わりが効く。君が美しい存在に変われば、少なくとも僕はその美しさに感慨を抱くだろう」
『あなたは欲望に忠実な人ですね。あるいはケダモノなのかもしれません』
「傍からみれば確かにそのとおりではあるけれど、心外だな。いったい、どこでそんな言葉を覚えてくるんだ」
『食堂のおばちゃんの弁当から流れ込んできたのです』
 さすがはおばちゃんである。どの世界にいても含蓄が深い。
「まあいいさ。面白ければなんでも」
「そうですか」


 そうしてエネルギーボールは変体を始めた。
 ぶぶぶぶぶと鳴動し球体をたわめる。
 どこか困惑しているようにもみえた。変化するということに躊躇っているのかもしれなかった。思わず愛でてやりたくなり僕は表面を撫でる。すると意図を察したのか、彼は形状を小さい球状に縮める。
 僕は彼を両腕に抱えて、ぶぶぶぶぶと振動する彼を宥める。
 震えを、抑えているようでもある。
 壁に背を預けて腰をおろし、膝の間に彼を挟める。この球を少女に置き換えるとすれば、膝の上で抱いている状態になるので、微笑ましい日常の情景といえるだろう。
『小さい存在ですか。それが良いのですか』
 僕が『少女』と連想したものを脳波から読み取ったらしい。以前からエネルギーボールとは頭の中で会話をしている節があったが、最近になって言葉を考えずとも汲み取られるようになってしまった。
『熱量増加行動の模範としての学習こそが私の欲するものなのでしょう。


 ところで、いつまでに変体を終えればいいですか』
「いつでもいいよ。楽なほうで。ゆっくりでもいい」
 何をいっているのかよくわからなかったので適当に返事をする。時々、本当にわからない。システムを造るということに興味があるということなのだろうか。エネルギーボールの考えることはさすがに理解に苦しむ。
『ありがとうございます』
「かしこまらなくていいよ」
 僕は変わろうとがんばる球体を名残惜しむように撫でた。彼(彼女?)の幼年期の時間が終わりつつある。そんな寂しさがあった。
せめて今は球体と過ごす時間をできるだけ良いものにしたいと思う。


4 要望


『小さい存在といいましたがどのような姿がいいのですか。具体的に念じてくれますか』
 あれからエネルギーボールはいくつかのリクエストを求めてくるようになった。イメージが定着しないのか、彼の変体は少し難航しているようだった。
球体の変化そのものはおそろしく早かった。常温の部屋の氷が水にとけるくらいの早さというべきか。気づけば形を変えていた。
精密さもまたすさまじい。粘土技術士が輪郭を形成するように明確な形の筋道のような痕跡が見受けられる。
だが生の肉を精巧に再現するというのはひどく難しいことらしく、定着しきれずにぐちゃぐちゃの形に戻ってしまう。宇宙的な存在でも、生みだすということはやはり苦悩が付きまとうようだ。
「親近感がもてる姿がいいな。あまり綺麗だと居心地がわるい」
 僕はイメージの足しになればと思い、提案を加えてみる。
『じゃあ妹ということにしましょう』
「それじゃあ感情は与えられないよ」
『どういうことですか』


「家族同士では恋愛感情は抱けない。そういうルールなんだ」
『なるほど……遺伝子が関わっているのですね。どういった姿が好みですか?』
 エネルギーボールは触手を伸ばし僕のPCを操作する。エロ画像のフォルダを開き〈体型〉や〈顔の形〉について尋ねてきた。
「いや、そういう問題でもないんだ」
『何故ですか?』
「人が人に抱く感情は、姿や形だけじゃないんだよ」
『しかし、性欲とはそういうものではないのですか?』
「君は弁当から感情を読み取れるのに、肝心なところはまだ甘いんだな……」
『男の人はどうせ顔なのでしょう』
 どうやらお惣菜コーナーの弁当ばかり食べさせたのがよくなかったらしい。エネ
ルギーボールは食べ物と一緒に知識や感情を食べていたが、お惣菜ばかりだと、お
惣菜屋で働くおばちゃんの思考をもとに学習してしまうようだ。


「うまく説明できないから、今から僕のエネルギーを吸い取ってくれないか」
『エネルギーをあまりに吸ってしまえば倒れてしまうかもしれません。あなたが、食べ物に感情を込めてくれれば読み取れますが……』
「こういうときは直に吸収するほうがいいんだよ」
『アバウトなんですね』
「君には言われたくない」
 エネルギーボールの感情摂取がどのようなシステムなのかが、僕にはもうわからなくなってしまっていた。よく僕の感情も摂取しているらしいが〈鳥を殺せば卵がなくなること〉を彼は忠実に遂行しているらしく、こちらが衰弱することはない。
 しかしそれで彼の養分が足りないのならば、一度思い切って身体を張ってみるしかない。
「それとも僕が大人だから吸収できない?」
『いえ……私が子供を選んだのは感情がわかりやすく放出されていたからです。今のあなたには同じくらいの感情があります。先日、受け取ったものと同じくらいの感情エネルギーが、今のあなたからは泉のように湧き上がっています』
「じゃあ安心だ。吸い取ってくれて構わない」


『わかりました……。ですが、何故、安心なのですか?』
「僕が君の役に立てないんじゃいかって心配してたから」
『よく、わかりませんが……あなたがそういうならば、私も安心します』
 エネルギーボールは極細の触手を伸ばし僕の頭に接続する。
 養分とする感情エネルギーは、ある程度なら遠くからでも摂取することができるという。眼に見えない程度の小さな糸を伸ばし、対象に触れることで養分を得る。遠隔摂取が細い触手を用いたものだということを知り、腑に落ちる思いだった。
『行きますよ』
 今やろうとしていることは、僕の深奥に接続する行為なのだという。感情の奥深くにある鉱脈に直接触れることで膨大なエネルギーを得る。
 エネルギーボールに養分を与えるにはより質の高い感情が必要だった。
僕は感情を抱くために、エネルギーボールを人間にすることを提案した。
手っ取り早い方法で感情エネルギーを生み出すには、彼が美しい存在に変わればいいという論理だ。
そのための実践がこの触手の接続になるのだが。


なんだか依存にも似ている気がしてきて、苦笑した。
 エネルギーボールは僕の内奥にあるイマジネーションを読み取る。カロリーとともに感情を摂取する。呼応するようにぶぶぶぶぶと身体を震わせ変成してゆく。
『流れ込んできます……。これがあなたの望むイデア(理想)なのですね』
ここでのイデアとは感情を震わせる根幹を指すのだろう。
僕の感情が増幅すれば、彼の得る養分もまた増加する。考えてみれば、これは恐ろしいことだった。ただそれは未知に恐怖しているだけであって、死を感じているわけではないのだ。
過ごした時間は短いものだったが僕はエネルギーボールを信用していた。


5 少女


 彼は僕の内面のイデア(概念)を掬い取り、反映させ、少女の姿に形を変えていく。
 いよいよ本格的に、震え、明滅し、痙攣を始める。
 明滅していた色合いは、初めは光にすかしたセロファンのように、角度によってばらつきがあって節操がなかった。
 球体からは四肢がばらばらに伸び、臓物が零れては引っ込んでいく。
人体のパーツを生やすのでは上手くバランスが取れないと思ったのか、今度は球体の中に胚を作り出す。
胚は4つに別れ16に別れ乗数的に成長していく。巨大な卵細胞が変化するのを目の当たりにする。
エネルギーボールの中心に赤子が生まれる。球体はゼリー状の質感で赤子を包み込み栄養を送る。赤子は栄養を受けてみるみるうちに成長する。
 人間の成長速度ではありえない、早さ。
見た目や質感は完全に生物のものだったが、その生物には顔がない。遺伝子がない造られた存在なのだから当然だろう。
 ゼリー状の球体の中で少女と認識できるレベルにまで輪郭が作られる。
四肢や胴体の発達に合わせて、髪も伸びていく。黒く長い髪はうまく調整できないのか、腰よりも伸び、身長をゆうに超える。
能面のような顔ができ、その表面がぼじゅぼじゅと泡立つ。


そこから細部が形作られる。
憎悪のようなあるいは泣き笑いのような形が現れては消えていく。激しい慈しみのような、あるいは憐れむような。そんな表情を幾度となく示しては消してゆく。
やがて探し物を見つけたように顔が定着する。
エネルギーボール本体であろうゼリー状の液体が、少女の肉体に吸い込まれる。
できあがった少女が一糸まとわぬ姿でぺたりと立ち上がる。
そこには先ほどまでエネルギーボールだった名残はない。
黒髪が十二単のように床に零れて、艶美だった。
恥じらうようなしぐさで覚束なく微笑んだ。
「維持質量が足りなかったから、ちぶさだけは再現できませんでした」
 少女はぎこちなく微笑みを張り付けていった。
「そこはがっかりするところじゃない」


「これから大きくなるようにがんばります」
 彼女は練習のつもりなのか、がっかりした仕草をする。人間的な感情表現を得始めているのだろう。
「心は動きましたか?」
エネルギーボール(かつてそうだった少女)は確かめるように上目使いで問いかけた。僕の膝の上に乗っていたので、互いに密着し向き合う姿勢になっている。
「心が動いているかはわからないが、今はただ驚いている。指先が震えているほどだ」
「……あなたの感情の揺らぎはとても潤沢なものでした」
「そうなのか」
「ええ」
思いの外動揺していて、言葉につまずいていた。
「落ち着きましょう」
 少女は立ち上がり冷蔵庫に向かう。その途中で膝を崩してしまう。


「……私もまだ歩くことになれていないようですね」
「無理はするなよ」
「いえ。少し珈琲を取るだけですから」
細い指を冷蔵庫の戸に掛けるが、力が入らず開けられないようだった。僕は片方の腕で彼女の肩を支え、もう片方の手で冷蔵庫を開けてあげる。
『ありがとうございます。珈琲は私が』
 少女は両手で危うげに珈琲の缶をはさみ、華奢な腕を振るわせながら僕に差し出す。
「ありがとう」
 僕はなるべく落ち着きを取り戻し、プルタブを開け珈琲を啜る。
「飲むかい?」
『ではいただきます』
 缶を差出し、彼女がむせ返らないように角度を調整して飲ませる。
少女はまだ両手の使い方が分からないらしく、なすがままに珈琲を飲ませられていた。


『たしかに、あなたの言った通り、この感情は良いものですね』
 少女は再び表情を作り僕に向ける。今度は屈託のない微笑みだった。
あえて作り出したものなのか、彼女の本心なのかわからない。
 鳥か卵か。どちらが先なのか。疑問に思ったが、その感情はすぐに消えた。今は探究心よりも感情が勝っていたのだ。素直に嬉しさに身を委ねていたかった。彼女が生まれてくれたことを祝福していたかった。
 おそらくはこの時が分水嶺だった。
 そんなつもりはなかったのに。
 人間になろうとする姿が、あまりにも人間らしかったせいなのかもしれない。
  僕はエネルギーボールに恋をしていた。

エネルギーボールの蜜月 二章 蜜月ノ調

二章 蜜月ノ調


6 エル


 エネルギーボールが少女の姿になったことで、接し方はいままでと異なるものになった。姿形とはこれほどまでに重要なものだったんだ、と僕は妙な納得をした。
第一に、彼女はエネルギー体ではあったがすでにボールではなかった。いちおう人間ということなので、名前を付けるのが良いようにも思えた。本質的にはエネルギーボールなのでかつての余韻を残しながらも、しっくりくる呼び名を考えなければならない。
長い時間考えた末、僕は彼女を〈エル〉と呼ぶことにした。〈エネルギーボール〉を縮めただけの安直なネーミングだったが、本人は気に入っている様子だった。
「エル」僕は名前を呼ぶ。
「はい」彼女が答える。
 今まで球体の状態の彼女と会話をしていたにも関わらず、交わすやり取りはどれも初々しいものに思えた。僕のその感情を読み取り、エルは感情エネルギーを得る。僕が造るご飯もまた気持ちがこもっているのでおいしいものに変わった、と彼女はいう。
 伸びた髪を切って整えてやる。ひとまずは僕のおさがりの服を着せ、彼女に似合う服を見繕うためファッションセンターしまむらに行く。男物を着せたまま、ハードルの高い店に行くのが躊躇われたのである。まずはしまむらで服を調達してから、ファッショナブルな店に行くのが良い。
 しかし彼女はしまむらで服を選ぶとこれで十分、と満足したようだった。


「しまむらの服はとてもエネルギー効率がいい」とエルはいった。
地球外生命の考えることはよくわからない。
 エネルギーを摂取する量が増えると、エルは電磁波的反響を強め、僕の脳をスキャンする制度を高めていった。したがって表層思考のほとんどを把握される結果となってしまった。
彼女はもともと人間ではないのだから、心を読まれるくらいは問題ない。僕は構わずいつもどおりの生活をした。
「最近は元気そうだな。拾った頃と比べて見違えるようだ」
 本当に見違えているのだから洒落になっていない。
「そうですか。最近になって肌のつやというものを学習してきたのでそちらの再現もがんばってみようと思います」
エルは以前より学習に興味をしめし、物を探究するようになっていた。
「この恋愛感情というものをエネルギーに変えるようになってからは非常に莫大な力を得ました」
「それで問題がないならいい事だと思うよ」
「あなたとの恋愛感情はとてもおいしいですが、この感情はあらゆる人間が抱くものではない気がします。何故でしょうか」


「確かにすべての人間が抱くものではない。子供や老人は抱けないだろうな」
「性欲に伴う種の保存エネルギーでもありますが、それだけでは説明できない気もします」
「それは種の保存だけでは生きていけないからだと思う。種を保存しつつ、保存した種――つまり自分の子供、分身の面倒をみて初めて人間は生きている意味を見いだせるんだ。だから恋は他のエネルギーの源泉でもある」
「なるほど個体を増やすための、感情の源泉が、恋なのですね」
 身も蓋もない結論をエルは述べる。
「だからこそニューロンの発火のように個体同士の相克が生まれる」エルは個体と
個体が掛け合わされることに興味を持ったようだった。
「組み合わせは無限なのに、自然に任せることもなく、各個体がよりよい結果になろうともがいている……これは非常に興味深い」
 エルは僕にゼリー状の触手を伸ばしながらぶつぶつと呟く。
 僕は難しいことを話す彼女をみつめる。
彼女が別のことを考えていることに不服な気持ちになってくる。


「……今、味が変わりました」
「それは嫉妬の味なのかもしれないな」
「嫉妬とは?」
「なんていうのかな。妬ましいとか、羨ましいとか、自分が蔑ろにされているのはわかっていても……それでも誰かを求めざるを得ない。そんな感情の総称だと思う」
「それを私に感じているのですか」
「不服だが認めざるを得ない」
「そうですか」
 エルは僕からゼリー質の触手を放し少女の肉体にしゅるりと収納する。それからわざわざ人差し指を唇にあてて、考える仕草をする。
「じゃあ、あなたからはまだまだ様々な感情が引き出せるということですね」
 そうしてエルは無邪気な微笑みを浮かべる。
今までのようなぎこちなさのない、本心からの微笑みだった。


彼女は感情エネルギーに対する食欲を主に原動力にしている。
笑顔を通じて僕は底のない、空虚なものに触れている、そんな感触を抱いた。これから起こるであろう予感に僕は震えた。
 その震えさえも彼女は、おいしそう、と興味を向けてくる。


7 嫉妬の味


 エルは恋の味を占めたためか、大人のカップルに狙いを定めるようになった。かつて子供からエネルギーを得ていた時のように、若い男女からエネルギーを貰うようになった。
 ショッピングモールを歩くカップルの間に眼に見えない繊維レベルの触手を伸ばす。頬や首筋などに軽く触れ感情を掬い取る。容量を間違えると彼らの感情が衰退し破局してしまうので、ほんの少しの分量だけ分けてもらう。
 鳥を殺さずに卵をとるということ。
以前僕が教えたことをエルは忠実に実行し〈多くの人から少しずつ〉というルールで食欲を満たしていく。
「ほんの少しだけ貰うとは言ったけど、少しで足りるものなのか」
 ふと疑問に思い僕は尋ねた。
「私の隣には無限とも思えるエネルギー源があります」
「隣には僕しかいない」
「恋愛感情というものは連鎖的です。二人の間で完結しているようでいて実はそうではない」
「僕の嫉妬を食べているということ?」


「まあ、そういうことになりますね」
 隣を歩いている美しい少女が、僕ではない誰かに感情を向けている。確かにその事実に対して、僕は張り裂けそうな思いを抱いていた。心臓がきりきり痛んでいる。エルには隠していたはずだったが筒抜けだったようだ。
「見越していたってことなのか」
「というか元々そういう目的でしたし」
「口に出してしまうと僕の方でも対策を考えるようになるぜ」
「あくまで私が食べる主体はあなたの感情ですから、対策を立てられるくらいなら別の手段を考えます」
 エルは僕の眼をみていった。
「あくまで主体が僕でいてくれることを祈るよ」
「嫉妬のメカニズムは、感情を受け取る主体が、主体でなくなるか否かのせめぎ合いにあります。したがってこの場合のあなたの主張は了承しかねますね」


 少女は僕から一歩距離を置く。僕は嫉妬してやるのも癪なので無関心を装い、離れたまま歩く。それぞれ別々にショッピングモールの人波に飲み込まれる。
 互いの位置を遠目でちらちら確認しながらどこか距離をおいて歩く。
 だが険悪な雰囲気もすぐに終わりを迎える。
 華奢な身体をしているためか、エルがタイムセール時のおばちゃんの群れに押し流されてしまったのだ。
 しだいに彼女の姿が見えなくなる。背伸びをして探すと、生鮮食品のコーナーまで押し流されているのがみえた。
 身長がある僕でやっとみえるくらいだから、彼女の方では完全に見失ってしまっているだろう。
 迎えにいくと彼女は体育座りをしてうずくまっていた。ひどく不服そうに頬をふくらましている。
「離れたくらいでそんなに怒るなよ」
 軽く話し掛けたつもりだが返事がない。エルはうずくまったまま、お腹を押さえている。
「う、ううう」
「大丈夫か?」


 えずきながら体を折り曲げて彼女は喉を突きだしている。背中をさするも容体はよくならない。
 何かを吐き出そうとしているということだけがわかる。
「ゔ、ゔえええ」
 そして予想をしていたとおり、彼女は嘔吐してしまう。
 僕は着ていたTシャツで彼女の吐しゃ物を受け止める。
 彼女が吐き出したものは、やはり人間の消化液ではなく、黄緑色の、ゼリー状のエネルギー体だった。
いつものように彼女の実体に〈巻き戻る〉ことはなく、外に排出されたままになっている。
吐しゃ物はTシャツに収まり切らないほど溢れ、食品館の床に水たまりのようにこぼれた。
「エル! 大丈夫か! エル……」
「大丈夫ですよ」
 彼女が答えると僕は少しだけ安堵する。
「今は、安静にしてな。何もしゃべらなくていい」


 僕はタブレットフォンを操作し医者を呼ぼうとする。すぐに冷静になり彼女を医者に渡したら大変なことになると思い至る。
「私は人間ではないのでお医者様を呼んでも意味はありませんよ」
「……そうだったな」
「命に別状はありませんので。今はそっとしておいてください」
「わかったよ」
 僕は店の人に謝罪をし、掃除をしてもらうことにした。店員は始めゼリー状の吐しゃ物を見て怪訝な顔をしていたが、僕が「病気の治療で特殊な食べ物を食べている」と説明すると、納得したそぶりをみせた。
 一通りの後始末を終えてショッピングモールを出るとエルは神妙な顔で謝罪をした。
「ごめんなさい」
「仕方ないよ。具合が悪くなることは誰にでもある」
 思えば初めて出会った時から彼女は衰弱していたのだ。いくらエネルギーボールという生命を超えた存在であっても、弱るのは仕方がないことだ。
「私は自分のしたことの報いを受けたのでしょう」


「あんまり、報いとか、重く考えない方がいい。ただ弱ったから嘔吐した。それでいいと思う」
「いいえ。嫉妬だとか、重い感情ばかりを食べすぎたために苦しむ羽目になったのです。これは反省しなければいけません」
「まるで毎日牛丼を食べたから、病気になった、みたいな物言いだな」
 冗談をいえるので、僕が思うほど弱っているわけでもないようだった。
「これからは人間の感情だけでなく普通の食べ物も摂取することにします」
栄養の取り方が過剰だったのだと彼女は反省する。あまりに隔たった感情ばかり食べていたから、肉体が受け止めきれなかったのだという。
「確かに嫉妬ばかり受け止めてしまったんじゃ嘔吐もするよなあ」
彼女の生態は食欲と感情が一体化している。付き合っていくならこの圧倒的な違いについて気に留めなければいけないだろう。
「しかし、私の嘔吐を受け入れてくれたのは、ありがとうございます」
 エルの方を見やると、頬を赤らめていた。口元には先ほど吐いたゼリー状の吐しゃ物が残っている。
「口に付いてるぞ」
「拭ってください」


 僕は彼女に口づけをし、吐しゃ物を食べる。彼女の一部が僕の体内に入っていく。ゼリー状のものは存外に甘かった。
「エネルギー、をアリガトウ……」
 エルはさらに顔全体を真っ赤にして、身体を強張らせる。本当、この少女はどこでどうなるかわかったものではない。だがこうして心配しているからこそ、うまくいっているのかもしれない。
 ゼリー状のものが胃袋に流れ込んでくる。
「エルの一部が僕の一部になっている」
僕がいうとエルは恥ずかしがりながらも
「私には温かいエネルギーが流れ込んできます」
俯きながら、つぶやくのだった。


8 記憶の女


その日もエルをつれて、栄養をとるためにスーパーに買い出しにでていた。食材を選んでいるとふと懐かしい姿が視界を掠めた。
前方からカートを押して女性が歩いてくる。明るめの茶髪をショートカットに揃えている。胸元には抱っこ紐が縛られており、彼女の子供であろう乳児がすやすやと眠っている。生鮮食品の棚をながめ、発泡スチロールに梱包されたものをカートに入れる。
僕はその人物がユリという名前の高校の同級生だということに思い至る。
所謂、僕の初恋の人物である。
今となっては当時の感覚を忘れているはず……。そう思い込もうとしたが、僕は動揺を隠せずに俯いてしまう。
視線を下に向けながら僕はエルの手を握る。
ユリは僕に気づくことなく乳児をあやしながらカートを押して通り過ぎて行った。
「どうしてコミュニケーションをしないのですか」
萎縮する僕をみてエルが訪ねた。
「とりたてた接点がないからだよ」
「でもあなたは脈拍が上がっているようにみえます。そういう間柄だったと推測できます。脳内でも過去の想像が焼き付いているようです」


「片思いをしていただけだよ。何も関係性がなくても人間は勝手に狂うことができるものさ」
 僕は買い物カートを押しながら、「何を食べたい?」と尋ねる。
「おすしが食べたいです」
「今日は、やたらと困らせることをいうなあ」
 明日の朝用の食事を買い込み、スーパーを後にする。おばちゃんの惣菜だけではエルの感情形成が偏るのでベーカリーのパンも買い込む。そのベーカリーではお兄さんが主にパンを焼いている。
 スーパーをでて車に乗り、回転寿司の店に向かう。地方都市のモール街は店が密集しているから移動がしやすい。
「間違えました。私は回らないおすしが食べたいです」
 回るお寿司屋の前で車を止めようとすると、エルが抗議の声をあげた。
「そうかあ。そういう意味だったのかあ」
「あなたの頭の中には回転するお寿司の残酷な光景が浮かんでいます。それは主に、資本的な輪廻によるもの。冷めたぬるい汁で客の回転を早め、魚に長期的加工を施したものさえ寿司とのたまう。そのような食べ物では私は満たされません」


「失礼な奴だな。いちおう回転寿司だって職人さんが握ってるんだよ」
「それでは、訂正します。私は、極上の職人の頑固さ、それでいて決して曲がりえない純粋な職への思いの込められた板前寿司が食べたいです」
 彼女の内面はしだいに複雑化し、食べ物にも魂を見出す様になってしまった。
 手料理の方がより感情エネルギーに変換されるため、お腹が膨れるのだと彼女はいう。工場生産品やルーティン・ワークから生まれたものではいまいち感情の鮮度がないらしい。
 感情エネルギーを摂取するにあたって、味にうるさくなったというわけだ。
 その代わりお金が無い時でも、僕が手料理をする限りは、おいしいとはいかないまでも『お腹が膨れる』と言ってくれる。
 味にうるさくなったのが喜ばしい事なのかはわからない。
 先日は嫉妬を食べすぎて嘔吐したというのに、彼女の食と感情についての探究は深まるばかりだ。あるいは一度ダメージを受けたことでダメージの受け取り方を学び、趣向が広がったのかもしれない。
「わかったよ。今日は本当のお寿司だ」
 僕は観念してお寿司を認めることにした。


 バイトをしていた時の貯金が残っていたのでそれを崩せばいいだろう。僕は資産を裂くことなどなんとも思わないくらい彼女に溺れていた。
 お寿司を食べ自室に戻ると、少女はパジャマに着替えて僕の傍らにそっとよりそう。明かりをけすと、月のおぼろげな光がカーテンの隙間から零れ、夜の闇を溶かしていた。
「お寿司美味しかったです」
「ぜいたくな女の子だな」
「実は今日のはただの嫉妬です。本当はもっと我慢強いです」
 嫉妬だとは気付かなかった。いきなりそんなことを言われて、僕は面食らってしまう。
「もしかして同級生にやきもちを焼いているのか」
 僕が茶化すと少女は鋭利に眼を細める。
隣に近づいてくる。僕はその接近にたじろぎ距離をとる。
距離をとった分だけ彼女はつめよってくる。やがて、ベットの端に追い詰められ顔が近づいてくる。
彼女の唇は僕の頬に触れる距離まで近づき、ふれることなく素通りする。


耳元に息がふきかかる距離で彼女はささやく。
「口では忘れたと言っても、あの女のことを考えていたでしょう。こう考えていたのではなかったですか?
『今ならある程度会話できる技術があるから声をかければ良かったのかもしれない』
『高校生の時もっと話していたら今頃は近い関係になっていたかもしれない』
あなたの心からはそんな、様々なビジョンが流れてきました。つまりあなたは、あの女を欲しいと考えていたのでしょう」
 僕は冷静に少女が何を考えているかについて思いを巡らせる。嫉妬しているとエルは言ったが、その矛先はユリに向けられたものではないだろう。何故ならばユリは僕の同級生でしかなく、僕が一方的に片思いしていたにすぎない。そうした関係性の希薄さを理解できないほど、エルは未熟ではない。
 きっとエルは、僕の心の中にエル以外への関心があることが気に食わないのだ。
 僕には嫉妬をするように仕向けエネルギーを摂取していたくせに、自分が嫉妬をするとなると抗議をしてくるとは、理不尽の極みなのだった。
「別にあの女のことを考えるなとは言ってません。私は欲しいものを言ってくれなかったことが残念だったのです」
「いまいち言っている意味がわからない」
「あの女が欲しいなら私に言ってくれればいいのです」


「ますます意味がわからない。誘拐でもするのか」
 僕が的外れなことをいったためか、エルはため息をつき、飽きれた、という表情をした。そこには『仕方ないなあ』という憐みも含まれているようでもあった。
「あなたは、私を救いだし熱量を与えてくれました。できる限りのことはお返しできると言いたいのです」
「何をしてくれるっていうんだい。君は何をしても面白いから、何でもかまわないのだけど」
「人間が欲しいくらいなら、すぐにどうにでもなるということです」


9 分岐物


 それからエルは服を脱ぎだし
「はずかしいのであっちを向いていてください」
そう言いながら堂々と正面を向いてくる。
しまむらで買ったブラジャー。その上からはふくらみかけた乳房が窺える。しぶしぶ言うとおりにして僕は後ろを向く。
 彼女とは逆の方向を向いていると、ぼじゅぼじゅと何かがはぜたり収縮したりする音が聞こえる。好奇心に負けそうになるが僕は見ないように努める。
「いいですよ」
言われて振り向くと、少女の隣にはもう一人の別の女性が座っていた。
「できるかどうか不安だったのですが造ってしまいました」
 その女性は買い物の時すれ違った同級生のユリだった。
エルは女性の肩に腕を回し寄っている。
「現実の他者を複製しながら、意志らしきものを入れるのは大変でした。


これは私の分岐物だけど、あの女性の姿を私が真似しているというだけだから、あなたは緊張することはない。中身は私ですから、安心していつもどおり振る舞えばいい」
エルが言うと横の女性も口を開く。
『趣味や嗜好は似ていると思うの。仕草なども完璧にトレースしたから。けれど魂までは、不可能だった。人間はすごした時間という制約がある。この世に生きている限り、今の時間は一回きりだから。過去から現在への時間の流れの中でしか精神は形作られないから。
 ただ一つだけ教えてあげるなら。あの女性の頭から読み取った限り、やはりあなたの記憶というものはなかったわ』
 ユリの身体をしたエル(の分岐物)が淡々と告げる。
(かつて好きだった女性の中に僕の記憶はかけらほども存在しない)
 僕は彼女が述べた言葉の意味を反芻する。
 話しているのがエルとわかってはいても、肺を貫かれるような痛みが走る。
 ユリと同じ姿のものに言われているからショックがより大きいのだろう。
 エルから生まれた複製物にすぎない、と僕は自分に言い聞かせる。


「この人の心をある程度読みとったので、きっと本心だと思います。ユリさんの中にあなたの記憶はかけらほども存在しない」
 エルがユリの複製物に腕を回しながら言った。
「高校生のときのあなたは内気な存在だったみたいですね。ユリという人間からすれば、目立たない性格の暗い人間として映っていたそうです。残念ですね」
 僕は反論せずにエルの講釈を聞き流す。やれやれ、とさえ思う。
 エルは僕を試しているのだろう。僕の心が乱れそうなことをわざとやってのけて感情が動くのを楽しんでいるのだ。だがここで乱されてしまっては、僕のエルに対する気持ちが半端なものだったということになる。
 今、僕の心に住まわっているのはかつて身勝手な片思いをした相手ではなく、偶然出会ったエルという少女なのだ。その少女がどこか遠くから飛来したエネルギーボールだったとして、何が問題なのだろう。 
「この女性を作った技術はすごいと思う。けれど消してくれないか」
 僕はエルに伝える。
「いいのですか?」
「ああ。どうせ僕にとって価値のあるものではないんだ。これはいわば銅像のようなものでさ。今になって思うが、僕は、この子に恋をしていたにも関わらず、もともと彼女の内面は最低だと思っていたんだ」


 ユリ(の複製物)に触れる。かつてあれほど心の底から望み、叶わなかったものに触れている。
 だがこれはエルの一部なのだ。
 僕はユリを手に入れたいわけではない。
 目の前の人形を愛することは、エルを愛しながら心を遠くに向けることになる。
 ここで僕は一つの疑問に出くわした。
 エルの肉体とはどこからどこまでが彼女なのだろうか、という問題だ。
 このユリの姿をした肉体もまたエルの延長線上にあるのだとしたら、このユリの肉体を愛でることはエルを愛でることになりはしないだろうか? 
 同時に、ユリの肉体を愛でながら、エルの現在の肉体を否定するということに繋がる。
 僕はそれらの推測をエルに話した。するとエルは
「そうですよ」
 と臆面もなく肯定する。
「それでも、愛してくれて構わないのですよ。あなたの片思いがぐちゃぐちゃに発露するのを見るのも、おもしろそうですから」


「君もひどく性格が悪い」
「人間ではないですから」
「そうだったな」
 僕はエルの延長物であるユリの肉体から手を離す。
「いらないのですか」
「それでも僕はこの肉体に触れたくはないよ。何故かというと、人間の領分では処理しきれないからだ。僕は僕の裁量をもってしかエルを愛することはできない。仮にこのユリ―――過去に片思いをしていた女性が、今僕の側にいるエルの肉体の延長物であるという馬鹿げた事実があるにせよ、エルがユリであり、ユリはエルに包括されている形だから、ユリを抱いてもいいという結論になったとしても、僕はユリの姿の肉体を抱くことはできない。中身がエルの精神だとしてもだ。
 何故なら、僕にとってのエルを表すものは、今、目の前にいる君のみだからだ。
 君が、今までその姿形でエルとして存在してきた以上、僕にとってエルは君でしかないし、つまり目の前にいる華奢な女の子だけが僕にとってのエルなんだ。何より僕はエルを裏切るようなことをしたくない」


 エルはひどく面食らった表情で僕をみていた。僕は多少熱くなりながらも、どうにかしてこのもどかしい感情をエルに伝えようとした。
人外であるエルにこの理屈が通じるかどうかはわからなかったが、僕にはエルはエルでしかないということしか、思い浮かばなかった。
 彼女の唯一性を僕が保障しなければ、このまま彼女が唯一性を損なわせてしまうような予感があった。
 彼女は彼女でしかない。だから大事である。
 エルは大人の容姿をしても、根本的に大切な価値観が抜け落ちていた。だからこそ僕は悲しくなってしまった。気づけば涙がこぼれていた。僕はエルが消滅してしまう感触さえ感じていたのだ。
「ふふ」
「どうかしたのか?」
「いえ、でもなんか私、嬉しくって。お腹いっぱいで幸せで飛んでしまいたいくらい」
「どうしてそう思う?」
「だってあまりに真っ直ぐなんだから」
 唯一性については理解しました、とエルはそっけなくいう。


「それにあなたは、片思いだった同級生よりも私を優先してくれているでしょう」
「そうだよ」
「そしたら私は、嫉妬していたのが消えたことに気づいたんです」
「楽になったならよかったよ」
「今まで抱いていたどうにもならない嫉妬から解放されたことを、本当に心の底から確信したんですよ。これは素敵なカタルシスです!」
 エルはそのときの僕の感情の発露が「すばらしい養分になった」といった。
「どうなのかな。わからない。けれどもうどうしようもないんだ。僕とユリの間には接点はなかったし、記憶の繋がりもない。同じ空間にいたのに声ももうおぼろげだ。大人になった今では好きになりようがないんだよ」
 僕は束の間拍子抜けした。エルが好きということではなく、かつて好意を抱いていたユリに対して無関心であるということを伝えた。
「それはいいことです。とってもとってもいいことです」
 エルは奇妙なくらいに機嫌がよかった。
 僕は本当は彼女の唯一性について、話をしたかった。誰かを唯一に思う気持ちこそがよりよい感情エネルギーになるのではないのか、と。


 だがエルはいつだって僕の思惑の上をいく。
 次の瞬間僕は、エルがエルである由縁を突きつけられることとなる。


10 本質


「良い事を思いついたんです」
 くっくっと笑いながらエルは提案した。
「いいことが何なのかはよくわからないけどどんなこと?」
『カタルシスが重なることです』
 エルの声色が変化する。
 ぼじゅぼじゅと、何かがつながる音。おそらくはエルと、エルの創り出した分岐物がつながっている音。
 やがて声は、 さきほど僕が否定した、ユリのものになった。
「どうですか?」
「……何をしている」
 エルは先ほど作り出したユリ(の姿をしたもの)の中に心を移しているようだった。
 その代わりにエルだった少女の肉体は、だらりと腕をぶらさげて、床に倒れ込む。
「あなたがかつて好きだった存在に、私の〈本体〉を入れてみただけです。これであなたはどのような感情を抱くのでしょうか」


 エルはユリの姿で、指先から極小の触手を伸ばし、僕のおでこに触れる。触手は感触を感じさせることなく僕のおでこに接続される。
「……どうして、そんなことをする」
「いったでしょう。さっきのカタルシスをもう一度味わうためです」
 エルは自らが得た感触を滔々と説明した。
「あなたにまつわる嫉妬から解放されたとき、とてもすがすがしい気持ちになりました。けれどすぐに、この感情がまた生まれればいいと思ったのです。この感情エネルギーはすばらしいからまた味わいたい。だから自分で作り出すにはどうすればいいのか、と考えたのです」
「だから、それが、どうして?! 」
「あなたが大切にしている唯一性とやらは私には問題ではありません」
 エルはいくつかの提案を始める。
「もしもこの同級生の肉体を用いて擬似的な結婚生活を送るとしたらあなたはどうなるでしょうか。あるいは私が器として用いていたこの身体を、もっとあなた好みに作り替えていったらどうなるでしょうか。きっとあなたからはまだまだ様々な気持ちの揺らぎが取りだせるに違いありません」
 エルは心地よさそうに話を進めている。


 僕はそうなった事態の問題について考える。エルは複数の肉体を造るのだから、複数の精神を用いることになる。一つの肉体は基本的に心を一つしかもてない。
「君の心はどうなる?」
「私は複数の肉体に自分の心を入れることができるようです」
『そうなんです』
 だらりと弛緩していた少女―――エルの肉体だったものが立ちあがった。
 同級生の女性と少女が僕と向かいあう。
 僕は何もかもがわからなくなってしまい、叫びだしたい衝動に駆られる。
 僕はエルの肉体を大切にすることが、彼女の唯一性を大切にすることが、彼女を愛する方法だと考えていた。
 しかしエルにとって唯一性は問題ではなく、僕の感情をないがしろにする方がよりすばらしいことらしい。
 人間とそうでないものの違い。
 瞼の奥ががんがんと痛む。身体のあらゆる神経が鈍痛を訴えている。気づけば床に膝を付けていた。立ち上がることができない。


 少女の温度のない瞳が僕を見下ろしている。僕がエルと呼んでいた少女。しかし彼女はエルであってエルではないようだ。では彼女は誰なのだろう? 
 僕は確かにエルという少女と過ごしてきた。
 それは幻だったのだろうか。
 彼女にとってはやはり養分を摂取することにすぎなかったのだろうか。
 脳が
 泡立つ
 頭が
 割れる。
 心臓が痛い。
 心に連動して神経はひび割れる。
 瞼の裏側が滲み、自分が狂っていく音を聞いた。耳の奥で破砕音のような耳鳴りがなる。ひび割れたガラスを砕くような音だ。一回軋むごとにロシアンルーレットのように砕け散ってしまうのではないかと恐怖する。心が折れるとはこういうことをいうのだな、と僕は受け入れ始める。


「―――もちろん、冗談ですよ」


 やたら優しい声音が、割れるような耳鳴りを止めてくれた。
 言葉を理解するのに数秒を要する。その数秒の間に頭の奥のひび割れも収まっていく。
 エルは彼女自身の肉体に戻り、舌を出していた。
「あなたが狂ってしまうようなことはしませんよ。先ほどあなたはいいました。『人間は人間でないものを受け入れることはできない』」
 気付けば僕はひどい呼吸をしながら、彼女の胸に顔を埋めていた。ユリのふくよかなものではない。元のエルの未発達な胸に。
「君だって一度、嫉妬で嘔吐したくせに」
 かろうじてそれだけ言い返す。縋るように彼女を抱いているためか声がくぐもっている。触れている限りはやはり、人間の、生命の肉の感触をしている。
いっそのことエネルギーボールのままでいてくれたら良かったとさえ思う。エルはエルになることはなく、お互いに人間と球体という関係性に収まっていられたらこんなにも苦しくなることはなかった。
「あの嘔吐は通過儀礼だったと考えるべきです。普通の食事と感情を食べることは相互に干渉しあっている。お酒ばかり飲んでいると水が恋しくなるようなものです」


「あやうく狂ってしまうところだったよ」
 ひとまず呼吸を落ち着けて僕は彼女を不安にさせないように軽口を叩く。頬に冷や汗が流れる。
 ユリの肉体は数分経つとゼリー状に融解し、エルの本体(便宜上そう呼ぶ)の少女に回収される。
 その様子を見ながらやはりエルのいったことは夢ではなかったんだと再認識する。
 喉の奥から込み上げてくるものがある。
 安心し体が緩んだためだろうか。吐くっ、と理解したときにはすでに制御できないところまで込み上げてきていた。
 そうして僕は嘔吐してしまう。
 エルのものとは異なる、臭くて汚い黄土色の吐しゃ物が零れる。胃液の酸っぱい匂いが立ち込める。
どうして人間はこんなに汚いのだろう。彼女ほどではないにせよ、もう少しエネルギー体の要素があっても良いのではないか。
 鼻先に柔らかい感触が触れる。エルが僕の吐しゃ物を受け止めているのだ。
「ひふぁふぁいだろ」
 僕は申し訳なくなって彼女から離れようとするが、がっちりと引き寄せられる。なすがままに僕はエルに抱かれる。


「前と、おあいこですよ」
 少女は僕の吐しゃ物を舌で掬い取り、嚥下する。
「嘔吐物にも感情の味があるのですね。駄目な感情を食べるというのも可愛いものです」
「なあ……本当に君は君ではないのか」
「いいえ。私は、私ですよ。ただあなたのような人間の価値観に縛られるのが嫌だったから、ちょっと脅しただけです」
 彼女は料理の味についての話をするような口調で冷徹な内容をつきつけた。
 僕はゼロ距離で密着しながら、彼女との隔たりを感じている。
「あなたの思う唯一性などではなく。私には私なりの唯一性があるといいたかったのです……。しかし、ごめんなさい。発狂寸前まで追い込んでしまって」
 華奢な身体で頭を下げる。それをみて僕は申し訳ない気持ちになる。
 冷徹だと思ってしまうのは価値観の違いなのだろう。おそらくエルは温かな心をしている。温もりがあっても曲げられない事実というものは存在する。その事実が僕と彼女にとっての距離になるということなのだろう。


「ああ……いいよ。僕は大丈夫だ」
 答えると、エルはありがとう、といってはにかむ。
その様子を眺めながら、ぼんやりと浮かんでくる言葉がある。
エルはもはや僕では手におえないのではないのか? もしかしたら、彼女が成長していくことは、人間の概念をたやすく超えてしまうことを意味するのではないか?
エネルギーボールから少女になる過程をみてきたからこそわかる。
エネルギーボールとは実体に縛られない存在だった。肉体という枷を持たない概念体だった。
生物を超越した存在だ。その事実に僕は畏怖の念を抱いてしまっている。
それでもエルはエルの姿を選択した。それは僕が以前彼女に感じた〈人間よりも人間らしい部分〉のように思えた。
「君には君の価値観がある」
「はい」
「それなら僕は適切な距離感を育みたいと思うよ」


「適切な距離感、とは」
「縛りとかではないんだ。ただ君は気の向くままにいればいいってことだよ」
 態度だけでも対等でありたいと願うのは、彼女に対して恋愛感情を抱いているからなのだろう。
「いわれなくても、私は唯一性を曲げるつもりはありません」
「わかってるからあえて言ったんだよ」
「何があえてなのかもわかりません……」
「じゃあそれでもいいや」
 不遜ですらあることもわかっている。それでも彼女が少女の姿をし、言葉を交わしてくれる限りは、この感情は拭いようがないのだと思う。
 心が、羊水のような温かい泉で溺れている。
 呼吸ができない状態でなお、甘い心地よさに魅入られている。

エネルギーボールの蜜月 三章 終ノ懐胎

三章 終ノ懐胎


11 生活


エルは成長するにつれて、あらゆる物質の複製を生み出せるようになっていた。それは生物であれなんであれ、本物と寸分たがわぬもので、偽札も作れるほどだった。エルが指先から生成した偽札を試しに自動販売機に入れてみると機械は偽札を戻すことなく赤いランプを灯した。僕とエルは子供のように興奮して、好きな飲み物を一本ずつ買った。
エルから分離した偽札をつかって僕は彼女を遊びに連れて行くことにした。例えば温泉に行ったりライブを見に行ったりなどである。
人間らしい感情の集う場所に行けば、彼女が人間の次元に留まってくれるかもしれないと考えたのである。
罪の意識はなかった。エルは複製物を生み出すのにかなりのエネルギーを必要とする。したがって、彼女なりの労働だと思うことにしたのだ。僕は彼女が稼ぐお金を自分のお給料と同程度にするのがいいと説明する。エルは「多ければいいものでもないのですね」とませたことをいう。
 帰省した実家の庭先で彼女と出会ってから、一年が経過していた。
 エルと出会って以来、僕は様々なしがらみを捨て去っていた。東京にあった仕事の繋がりをすべて断ち切り、地元の地方都市のりんご工場でりんごジュースにラベルを貼る仕事を淡々とこなした。
 エルとの生活は部屋の二つあるアパートを借りるだけで十分だったし、彼女が複製する偽札もあればゆとりのある生活ができる。
 複製技術を用いて偽札を大量に生産すれば、油田王のような暮らしが見込めるかもしれないと考えもした。


 しかし彼女の存在が知れ渡るということは世界を敵に回すことにつながりかねない。知られれば、連れ去られ人体実験されるとか(人体じゃないが)、兵器として運用されるなどの恐ろしい事態が待ち受けていることは創造に難くない。エルが人外であることは絶対に人に知られてはいけなかった。細心の注意を払って生活をする必要がある。
 これについては実家が田舎にあることが幸いだった。僕とエルはしょぼくれた地方都市で生活し、着々と彼女のいう【エネルギー】を貯めていった。
 少女の肉体をしていた彼女はやがて女性のふくよかさの再現に成功し、嫁と言っても遜色のない存在になる。
 潮時な気がして僕はエルを両親に紹介することにする。
 エルは「いいでしょう。慣習といえど適度な緊張感は大事です」といって了承する。
「東京の大学で知り合ったんだ」
 ふたりで実家に戻り、僕は両親にエルを紹介した。
「おはようございます。球代エルと申します……」
 なんて安易な偽名!だが安易であってもバレることはない。宇宙生命であると告白したところで誰が信じるというのだ?
 僕はにこにこと取り繕い、両親へ馴れ初めなどの話をする。


 エルはまだうまく世間話ができなかったが、僕が「熱力学について研究をしているため少し天才肌なんだ」と説明する。
 両親は「それはアバンギャルドですねえ」と納得していた。
 こうして僕とエルの慎ましやかな生活は恙なく成立する。
 所謂第三者と呼ばれるものにエルの実体が感知されることはない。
彼女には物質的欲望がほとんどなく、興味を持つことと言えば、人間の感情エネルギーばかりだったからだ。したがって普通の生活さえしていれば、悪目立ちすることもなく溶け込むことができた。
一方、僕は僕で彼女と過ごすことそのものが生きる目的となっていた。エルの複製技術をつかって何かの欲望を満たそうという考えも生まれなかった。
エルという女性に対して僕は十分すぎるほどに心を奪われてしまっていたのだ。恋人や友人という認識の他に、隠れて生きる事の共犯意識があった。あるいは娘や愛玩動物に抱く感情と、強大な混沌に対する畏怖の念が混在していたといってもいいだろう。
 僕は心を消費する。彼女がそれを受け取り養分にする。
 言葉にするとシンプルではあったが、なかなかに底の知れない依存関係なのかもしれなかった。


12 彼女の拡張物


 二人で慎ましやかな生活を三年ほど続けた。その間に彼女は髪型を変え、しまむら以外の場所でも服を買うようになった。それは女性が垢抜けていく過程にも似ていた。ぽつぽつと幸福が堆積していくのが感じられた。
「それは何?」
公園を散歩しているとき、彼女が土の中に黄緑色の粘土のような球体を埋めようとしていた。エルは相変わらず理解のできない行動を僕の眼の前で唐突に、平然と始めることがあった。
「私の拡張物です」
エルはいった。拡張物とは、何だろう。
「私の器に入りきらなくなったエネルギー体です」
 エルは自分の肉体以上のエネルギーを蓄えては土に埋めているという。
「外付けハードディスクのようなもの?」
 パソコンの容量を増やす機器を例にあげてみる。
「そうですね。ただこの器も私と同じように、あらゆるものに姿を変えることができます」


 エルは両手に抱えた黄緑色の粘土の球体から翼を生やして見せた。
 その粘土は、よくよく見ると初めて僕が拾ったときのエネルギーボールに似た形状をしていた。
「これもエネルギーボールなのか?」
僕は尋ねた。黄緑色をしていて質感は異なっているが、彼女の抱えているものはエネルギーボールの名残を湛えている。
「まったく……。私の本質を忘れたのですか?」
「そうだったな……。ところで、どうしてこのエネルギー体は粘土のようになっているんだ」
「エネルギー濃度が強いからです」
「濃度を強めているから、色が濃くなるということ?」
「察しがいいですね。この器を展開すれば光が広がります。圧縮すれば色はもっと黒色になる」
「なあ、変なことを聞いていいか」
「なんでしょう」
「以前エネルギーボールでは人間の魂は作ることができないと聞いた。けれどこのエネルギー体で、地球の自然物……を作ることはできるのか?」
「可能ですね。むしろ必須といえます。惑星に根付くためには」


「そうか」
だとすればエルは僕の想像していた規模をはるかに超える存在ということになる。
「それじゃあ、君は地球の土や水そのものになることもできるんだな」
「やろうと思えば可能です」
 宇宙から飛来したエネルギーボールが地球上の物体に変わるということは、ある意味では侵略されていることに等しい。もしもこのまま彼女が成長を遂げて、地球のすべての物質がエネルギーボールに置き換わるのだとしたら、悲しいことだった。
 彼女が彼女であるという独自性を失う、ということなのだ。
 すべてがエネルギーボールに置き換わったとしたら、彼女が模倣できるものもなくなってしまう。
 僕は彼女が、何かを模倣するためにがんばっている姿を見るのが好きだった。エルは彼女らしさを根源に備えているからこそ、何かを模倣するということが可能になるのだ。エネルギー体が土や水などの根源的なエネルギーになりかわってしまったのならば、そこに彼女の魂と呼べるものはなくなってしまう。
彼女の中に見ることのできる、少女のような部分も損なわれてしまう。


しかしそのことを悲しいと思うのは僕のエゴでしかない。
「まあ、この星の土や水にはなりたくはありませんがね」
「そうなの?」
「はい」
「じゃあ、君は、どういう意図でエネルギーボールとして生まれたんだ」
「人間の言葉でうまく説明できるかはわかりませんが……」
 エルは指を口元にあてて思案する。
「おそらくは生物と同じ理由だと思います。この宇宙の絶対法則、熱量が増え続けるということに基づいて、熱量を増やすために生まれました」
「よく、わからない。続けてくれないか」
「地球の環境は、生命が生きるに適した環境です。周囲の天体と比べて、適切な温度になったから生命が生まれたとされています」
「うん」
 僕は頷く。そういえばエルはよく宇宙に関しての番組をみていた。


「しかし私はそうは思わないのです。生物はそのものが熱量を発生させます。それでいて、宇宙という全体を把握できる鏡像性を備えている。わかりやすくいうならば、人間の宇宙進出でしょうか。宇宙を認識できるから、外に出ようと考えてしまう」
「確かに、人間は宇宙にいくヴィジョンがあるみたいだ」
「では宇宙に対して人間がどういった役割を持っていると思いますか?」
「宇宙に対しては……考えたこともなかった」
 僕は正直に答える。エルは少しだけ残念そうな顔をする。自分に近しい人間が異なった方向を向いている。そんな寂しさを湛えた目をしている。
「私は星の外に転移する生物は、熱量を運ぶ存在だと考えています」
「熱量を運ぶ存在?」
「はい。いずれ宇宙は熱量が飽和し、すべてのものが均一になるときがきます」
「エントロピーの飽和……、熱的死と呼ばれる状態のこと?」
「はい。生物としての人間が宇宙間を移動するということは、熱的死への過程として貢献しているといえます」
 エルの言葉を噛み砕く。僕は黒く塗られた壁面を想像する。その図の上では熱量のある場所を赤として扱う。生物を熱に見立てて赤い点と仮定する。赤い点が温度の低い箇所に伝搬し、黒い場所を侵食していく。最終的に黒い壁はすべてが赤になり、色の割合は赤一色の均一になる。


「つまり生物は宇宙の熱力学に基づいて、熱量を増やすために存在しているということ?」
「はい。そして私もまた、その所謂エントロピーの一部にすぎません」
 エルは表情を変えずに淡々と口にする。
「あのさ。僕は君の生まれた理由が知りたかったんだ。できればもうちょっと、具体的に話してくれないかな」
「いえ。十分具体的だと思いますが」
 彼女は首をかしげて答えた。僕はそんな仕草を見つめながら、エルの顔が能面のように見え始めていた。以前は感情を映していたように思えていたが、今は人間の姿をした人間でないもののように見える。事実、彼女は人間の姿を借りたエネルギー体でしかない。それでも先ほどまで僕はエネルギー体に人間らしさを見出していたはずだった。
 熱量が増加したから星が生まれたと仮定する。
 星の熱量を増加させるために生命が存在していると彼女はいう。
 熱的死のために生きていること。
 死ぬから生きてる。


 鳥と卵ではどちらが先なのかという問題に似ている。漠然とそんなことを思う。
―――我々の日々の行いは淡々と触れていく熱の増加の前ではとるにたらない出来事にすぎない。人間が何かを成そうが成すまいが宇宙の熱量の増加はマクロ的視点では変わらない。あるいはその変化は人間の主観に基づく測り方に終始してしまう―――。
 科学的な話ではない。これは極めてな実存的な話。
「君の生まれた理由は、宇宙全体の熱量を増やすためだけにすぎないと、そういいたいのか」
「それにすぎないとは思いませんか?」
「僕は……違うと思う」
 エルは先ほどまでの冷たい表情を崩し僕のほうをみた。先ほどまでは生粋の文学少女が本を読まない人間に興味を示さないような目つきをしていたが、今は少しだけ気持ちを向けてくれる。
「その心は?」
「君は自分の姿を、他のあらゆるものに複製することができる。それはもしかしたら種の役割を持っているのではないか?」
「例えるならば?」


「君は星そのものの遺伝子なのかもしれない」
 僕の言葉にエルはお腹を押さえて笑い出す。
「あは。まさかあなたからそんな言葉が生まれてくるとは……」
「真面目に考えたつもりだ」
「残念ながら、私は自分の役割などには興味はもてないのです。所謂プログラムという類のものによって動いています」
「じゃあ、何故僕とコミュニケーションを図ろうと思った」
「その方が生存戦略に適しているからです」
「違う。そうじゃない。何かを知るということは無駄なことだってあったはずだ。エネルギー効率を考えるならば、そうした無駄を……僕と一緒に笑ったり泣いたり、嘔吐したりしたことの説明がつかない」
「あなたはやはり人間の価値観で動いているにすぎませんよ」
 彼女は呆れたように嘆息した。抱えていた濃い色のエネルギーボールの表面を撫でている。
「その無駄さえもすべて、有益なことだったんです。いったでしょう。私は感情をエネルギーとしておいしくいただく。ですからすべては有益なのです。


あなたとの生活に無駄なことなんて何一つなかったんですよ」
「違う、そうじゃない……。あの泣いたり、笑ったり、吐いたりした日々は、エネルギーにとってかわるものじゃないんだよ。笑ったり泣いたりすることそのものが、他の何にも還元されないことだと思うんだよ」
「何故ですか? 感情をエネルギーとして摂取する私の存在は、最近もてはやされているエコロジーとも通じるものがあります」
「それは人間的じゃないんだ」
「私は人間じゃありませんよ」
「そうだ……それは知っている。けれど、僕はときどき、もうついて行けなくなりそうになるんだ」
「何故でしょう……今のあなたはとても不快です」
エルの瞳は冷徹なものに変わる。
何の感情も込められない、車窓から過ぎ去っていく景色を眺めるときのような、とろんとした眼つきだった。言葉がなくても、彼女の眼を見ればだいたいの感情がわかるようになっていた。どうやら僕はエルの中での唯一性を失いつつあるようだった。それもそうだ。僕は彼女の存在を否定するようなことをいったのだ。人間的であってほしいと要請をしてしまった。
 エルは手に持っていた塊を土に埋めると何も言わずに部屋に戻っていく。


13 人間的


 その夜、僕は彼女の部屋をノックし、話がしたいという旨を伝えた。
「いいですよ」
エルは二つ返事で僕を部屋にいれたが、表情はあいかわらず無機質なままだった。
「ずっと一緒にいることはできないだろうか」
喉を震わせしぼりだすように僕はいった。我ながらひどく間の抜けたセリフだった。エルを前にして、このような恋人同士で語らうような言葉はふさわしくないとわかっている。それでも僕は内心を吐露せずにはいられない。
「この間は、エルに人間らしさを求めてしまった。つい口をすべらせてしまったんだ。関係を続けるにはバランスが必要だとはわかっていたが……魔がさしてしまった」
「私は今怒っています。できればもっと神妙に話をしてもらいたいものです」
「うん、わかってる。だから、これからもっと心が動くような日々を過ごしたいと思っているんだ。僕のエゴで君の在り方に文句をつけるようでは、効率的な感情エネルギーは採取できない」
「わかっているじゃないですか。その提案とはどのようなものでしょうか」


「あるいは平凡な幸福というものだ」
「要領を得ません。もう少し具体的に」
「僕の子供を産んでほしい」
「……はあ?」
 彼女は面食らい、口をぽかんと開ける。
「生活が安定してきたから大丈夫だと思うんだ。子供が生まれて母親になれば、君はまた違った種類の感情を抱き、それをエネルギーに変えるだろう」
僕は遺伝子の結合について思いを巡らせる。エネルギーボールは宇宙生命だとして、やっぱり生命なので、もしかしたら突然変異で遺伝子が組み合わさるのかもしれない。
「どうだろうか。僕と子供を造ってはくれないだろうか」
 もう一度、提案を重ねる。
 エルは頬を赤らめ、フリーズしたように固まっている。いままでそのようなしぐさを見せなかったにも関わらず、今は何故だかとても人間らしい。思えばエルは出会った時から、部分的に感情表現の豊かな子だった。
 うーーーん。そう唸りながら、エルは僕の提案について思案をする。


「ずっと、一緒にいたいという願いは、叶いません」
 考えた末に、どこか覚束ない様子で話を始める。
「何故なら私はあなたが寿命を迎える前に、空に還るためのエネルギーを充填できてしまうからです」
「それはどのくらいになる?」
「数年後かもしれませんし、数十年後かもしれません」
「アバウトだな」
「私にとっては数年後も数十年後も、全体の寿命からすれば大した違いはありませんから」
「それもそうか」
 初めて聞いた事実だが僕は納得する。エルのような存在が人間と同じ時間軸で測れるわけがない。
「けれど、どちらにせよ、まだ出会ったことのない感情が僕の中にはある。三十路、親心、更年期障害、老成。君は僕の中からそれが尽きるまで搾り取り糧にしてくれればいい。そう考えれば僕は君にとって役に立つ存在でいれる。エネルギーを与えられる存在でいられる。そうは思わないかな」
「やけに、謙虚なんですね」
「だって、君は地球外生命体のくせに、感情を持つ僕のような生物と共依存的なんだ。だから僕のようなやつにも優しくする」
「ぷふふ……」


 優しくする、と聞いたところでエルはほっぺたをリスのようにふくらませて、噴き出していた。
「どうして笑う」
「だって……今のはまるで、あなたが優しくされたがっているみたいなんですもの」
「可笑しいかな。誰だって優しくしたいし、されたいものじゃないかな」
「でも、あなたがそんな弱みを見せるのは面白いことですよ」
「そうなのかなあ」
「あなたが思っているほど、私たちの間柄は一方的なものではなかったはずです」
「そうなのかな。僕は結構必死だったけれど」
「私はこう見えて、食べる事に精いっぱいでしたよ」
 やはり僕にはエルがどのような実感で生きているのかがわかっていなかったようだ。今まではどこか畏怖の念で彼女を見ていたが、エルもまたどこか辛い部分があったのだろう。
「君は孤独だったのかもしれないな」
「どうでしょう。孤独の味はわかりますが、自分で感じるかといったら違う気がします」


「君が人間だったら、泣いてもいいんだっていいたいところだ」
「泣くというのは、排出するということでしょうか。それなら以前受け止めてもらったことがあります」
「もしかして嘔吐したときのこと?」
「はい」
「どうりで甘いわけだ」
「涙は甘いのですか?」
「案外、僕らはベタベタしていたんだなって思ったんだよ」
 僕の意図を察したのか、エルは照れながらも肯いた。僕とエルは思いのほか、互いのすれ違いを乗り越えていけているようだった。


14 切実


 結論からいうと、子どもが生まれることはなかった。それもそのはずだ。エネルギーボールはあらゆるものの複製を生み出すことができる。それゆえに特定の遺伝子と結びつき、個体を結実させるという概念とは真逆の相性であるといえる。
 ではエルの精神とはどこから来たものなのか。僕はその答えを知る術を持たない。彼女は僕と話す時だけ、エルという人格性を感じさせる『哲学的ゾンビ』なのかもしれない。
哲学的ゾンビとは外見的には同じ人間のようなふるまいができても、内面レベルで、個人に相当する意志を持たないという概念である。つまり人間のふるまいをするロボット。このロボット、の部分をエネルギーボールという言葉に変えれば、まさしくエルは哲学的ゾンビとよばれる概念に括られる。
とはいえ僕は直感的にエルには精神と呼ばれるものがあるのではないかと考えている。何故なら感情からエネルギーを得たいという欲求が存在するためだ。その欲求を中心に行動するために、いささか感情表現が極端になりすぎるだけなのだ。
人間がフロイト的な解釈から性欲を中心として動くように、エルは生物の中に芽生えた感情を中心として行動する。それは人間が物語を摂取することに似ている。
 おそらくは人間が感情を抱いたときに起こる脳波や神経系の動きにエルは反応しエネルギーとして得ているのだろう。それはロボットとは明確な一線があるように僕には思えるのだ。


 だとすればやはり彼女はゾンビなどではなく、生物だった。
「残念でしたね……」
 子どもが生めないことがわかり、落胆する僕をみてエルは慰めの言葉をくれた。
「子供が生めないときは女の子のほうが絶望するものなんだよ」
「けれど私は女の子ではありませんよ。あなたの願望を受けてこの姿をしているだけなのです」
「けれど僕にとってはその姿が本体のように思えてならない。前に僕のクラスメイトに変わろうとしたときは危なかったが、エルはエルの姿のままでいてくれている。それで十分だと思う」
 この頃になると僕はもうエルの言葉の言い回しをツンデレとして受け止めるようになっていた。エルはよく「別に」とか「~にすぎません」などの言い回しを多用したが、それは事実を淡々と述べ、心のうちをあえてひた隠しにする学者のようでもある。
 子どもが生めないことがわかったことで、僕は始め彼女との繋がりが薄れたのではないかと思った。家族というものを造る時、人間の感情形成に変化が訪れる。その感情エネルギーをエルに提供したいと思っていたが、子供ができないとなれば叶わない。
 しかし実際にその事実を目の当たりにしても、僕は静かに受け止めることができた。エルが人間でないことに対する諦念は始めからわかりきっていたためだ。


『ずっと、一緒にいたいという願いは、叶いません。何故なら私はあなたが寿命を迎える前に、空に還るためのエネルギーを充填できてしまうからです』
 エルの言葉を思い出す。
 いつかは別れが来てしまうことを意味している。それも、死ぬこと以外の方法で。
「あなたは私と出会う以前に、人間に興味を抱くことはなかったのですか」
 二人で食事を造っているとき、エルが訪ねてきた。
最近になって一緒に料理をすることで、食べ物に込める感情がカクテルのようになることが判明したのだ。僕には味の差異がわからなかったが、エルはしきりに僕と料理をするようになっていた。
「それが僕が他の女性と上手くいく可能性があったのでは? ということ? ユリの後や、あるいは君と出会ってからも、ということ?」
 僕は鮭の煮つけを作りながら答える。
「平たく言えばそうなります」
 僕の人生の選択に問いかけをしているのだろう。
「案外、人間は孤独なものだよ。そうやすやすと出会えるものでもない。言葉を交わせるかどうかが問題なんだ。どれほどの人が波長を合わせられるだろう? 運がわるければ一生一人ぼっちになることだってありえる。それに誰とでも合わせれる奴は、唯一性が希薄だ」


「あなたは、オブラートに包んで前向きな発言をしていますが、生きることを信じていないのですね。あるいは人間のことを」
「そうかもしれない」
鮭を煮つけながら、隣では野菜の鍋にだしをふりかける。
「だからこそほんの一握りの人だけが大切な人になりえる」
「私のような未知のものに対して、恐怖も逃亡もしなかったことはそういう理由だったのですか」
「君はある意味で人間らしかったからな」
「他の人の方が人間らしいでしょう」
「いや、それでも僕にはエルしかいなかった。より深い部分で言葉を交わせたのは君だけだった。人間らしいと思ったのも」
「私はエネルギーボールですよ? そんなことをいうのは面白い冗談です」
「冗談でこんなことをいうわけがない」
 料理の盛り付けをテーブルに並べていく。お椀から湯気を立てている様子はおいしそうだ。
 僕とエルは席に着き、ひとまずいただきますをしてご飯を食べ始める。


「では冗談ではないと?」
「すべて本心だよ」
 僕はごはんを口に運びながら、ありふれた会話でもするように、ぽつぽつと話し始める。
「どんな形になってもいいんだ」
「何が、ですか?」
「やっぱり僕は君と一緒にいたい」
 エルは答えずに、黙々と鮭の煮つけを噛みしめる。
 食卓に沈黙が降りる。
「どうしても、その意見は変えられないのですか」
「ああ」僕は迷うことなく頷く。
 エルは優雅な仕草で野菜の味噌汁を啜る。
「外に出ましょう」
 ことんとお椀を置き彼女は僕にささやかな提案をした。


15 散歩


 夕食を終えてからエルの提案で外を散歩にでた。いつかエルがエネルギー体を埋めていた公園に入り、ベンチに腰掛ける。
 エルは指先を変形させ、ゼリー状の双眼鏡のようなものをつくる。天体望遠鏡ではなく双眼鏡でいいのだろうか、と不安になる。
「当ててみてください」
言われた通りに双眼鏡に眼を当てると、驚くほどくっきりと空の世界が見渡せた。
「育ったら私はあの空の光のようなものになります」
 双眼鏡には遠い宇宙の光景が映し出される。螺旋の折り重なった円盤、極彩色の運河、あるいは星屑の混沌。
「私はこういった類のモノなのです」
「関係ない」
「これから先育ってしまったとしたら、私は人間レベルの自我をたもっていることはできません」
「それでもいい」
「無理です」
「嫌だ。俺は君と一緒にいる」


「あなたの心もまた、私に取り込まれることで自我を失くします。あるいは自我を保ったままでいたとしても、ほどなくして発狂するでしょう」
「だから、それでもいいんだ!」
 語気を強めてしまったためか、エルはびくっと肩を震わせた。
「君と出会って、僕は初めて人間的な感情を得た気がした。掛け値無い気持ちで誰かを守りたいと思ったんだ」
 それが尽きてしまったとしたら僕は拠り所とするものを失くすのだろうと確信していた。他人を大切に思う感情がいままでの僕には欠落していたのだ。それが、エルと出会ったことで、自分の中に芽生えた。
 両親も、ユリの後に作ってみた恋人も、僕にとっては取るに足らない存在だった。いれば楽だが、消耗してまで守りたい存在でもない。
 ただエルだけは別格だった。彼女が少女の姿になったからではない。エネルギーボールの姿をしていたときから、声を交わしたとき……波長を合わせてしまえたとき、僕は大切な宝物を見つけた時のような喜びに包まれていた。
 頬のあたりがぐしょぐしょに濡れている。
 今になって自分が泣いていることに気づく。鼻水と涙とよだれと汗、あるいは血も流しているのかもしれない。張り裂けそうな想いのせいか、身体の中のいくつかの血管が破けてしまったのかもしれない。いっそのこと心の鼓動に呼応して身体も爆発してしまえばいい。そうすれば死んだ僕の残骸を彼女は養分として吸収してくれるだろう。


「いくらなんでも泣きすぎですよ」
「この世界に未練なんてないんだ」
 僕は思いの丈を制御できず言葉を漏らす。
「だから連れて行ってほしい。こんな、人間の肉体なんていらない。ゼリー状に溶けて、君の一部になってしまっても構わない。それが死ぬことだとしても、君の一部になるならとても幸せなことに思える」
「たとえ自我の消失でもですか?」
「ああ」
「あなたは自分のことしか考えていません」
 ぴしゃりとシャットアウトするようにエルはいう。その言葉で僕は、自分の惨めさを自覚させられる。
「私はそんな自分本位の人間と過ごした覚えはありませんよ」
「そうなのかもな……」
「ええ……冷静に考えれば、どこが悪いのかはあなたなら解るでしょう」
 彼女の言葉を受けて僕は思案を始める。


 エルが飛び立つときに僕が彼女についていくということ。それはエルに、僕を殺す役目を担わせるということになる。
 彼女が人間的な感情をエネルギーとするならば、生産者である僕の死はエルにとってひどい欠落に変わる。
 僕はエルの中に人間的なものを見出していたと言っておきながら、その実まだどこかで彼女を人外の存在として認識していたのだ。
 連れて行ってくれ? ひどく笑わせる言葉だ。
 僕はただこの地上から逃げ出したかったにすぎない。エルの空への帰還について行くということ、その際に僕の心が消滅するということがわかりきっていてなおついていくということは、エルの精神を否定することになる。
 エルが僕を殺して悲しむということを、考えなかったことになる。
 僕は一連のやり取りの中でエルの人間性を完全に認めていなかったことを悔やんだ。彼女の中には人間の心と呼べるものが存在する。ただそれ以外の宇宙的な広大な要素が多すぎるだけなのだ。
「ごめんな」
 僕は、涙をぬぐいながら謝罪をする。
「仕方がありませんよ。現に私は人間でないのですから。ただ、あなたが矛盾を抱えた感情を抱くのはもどかしいと思います。さらにいえばあなたの死が確定するということが、私にはどうにも耐えられないのです」


「一つ聞いていいか?」
「なんでしょう」
「君は僕が死ぬことが悲しいということなのか?」
「ばーか。そんな、あたりまえのことを聞かないでください」
 またしても、僕は地雷を踏んでしまった。
今度はエルのほうが涙声になる板だった。ゼリー状の大きな粒が眼球から零れる。一瞬、眼球そのものが零れたのではないか、と思えるほど不器用な涙だった。
 その日、僕はエルの飛翔のためのエネルギーが蓄積するまで健全に生きることに決めた。
方針が決まると穏やかになるものなのか、別れたくないという思いを胸の底にしまったまま日々を過ごすことができた。気づけば、5年の月日が経ち、僕はどうしようもない大人になっていた。四捨五入をすればもう30歳になる年齢に差し掛かっていた。

エネルギーボールの蜜月 四章 翅ノ残照

四章 翅ノ残照


16 出発


月明かりが夜の寝室を照らしている。
布団を並べた部屋で僕はエルとくっついて眠っている。肌のミルクに似た匂いが鼻先をくすぐる。そのたびに僕は子供の頃の感覚を思い起こす。母親の胸に抱かれているというよりは、小さい頃から一緒にいる兄妹の距離感に似ていた。過去を懐かしめるほどに、彼女と一緒の時間を過ごしていたのだ。
「あの」
「どうした?」
「いいにくいことなのだけど」
 その声には悩みを打ち明けるときのように不安が滲んでいる。
「うん」
「そのときがきました」
 エルは気まずい思いを抱いているのか背中を向けたまま話す。
 その一言で僕はすべてを理解する。
「うん……」

 眠い目を擦りながら、返す言葉が浮かばない。
「今、なのか?」
「今でなくても。いつでもいい」
「いつ行くかは君が決めることだ」
「そういうのは、ちょっとずるいです」
「確かに、君だけの問題のようで僕の問題でもある」
 狡さを肯定しながら、僕はそこまで自分が強い人間でもないことを述べる。するとエルは「甲斐性なし」と反撃してくる。
「とりあえず、行くってことにして。実際に未練があったら留まればいい」
「そうですね」
 二人でサンダルをつっかけて外にでる。足並みはいつもと変わらない。焦りも躊躇いも感じられないのは、あえて平常心を努めているためだろうか。
住んでいる部屋を出て、並んで歩く。舗装されたりんごの並木道が懐かしく感じられる。僕は小さな子供の頃から、何度もこの道を通ったことを思い出している。エルとの思い出なんかもあるような気がしてくる。例えば並木道の一メートルほどの水路を飛び越えて遊んだことや、田んぼのあぜ道を自転車で突っ切っていたことなどを。


 もちろん、過去の記憶の連なりにはエルの姿は存在しない。そのはずなのに、彼女の姿はまるで生まれた時からこの場所で育ったように、景色に溶け込んでいた。
何かが終わろうとするとき、終わろうとするものを心にとどめるために、瞼の内側に強く焼き付けられるときがある。
消える一瞬を前にしたときの保存欲求。
カウントダウンに抗おうとする火の最後の灯のような。
肉体が死を迎えるわけではない。しかしエルの存在はすでに僕を構成する一部になっている。痛みや喪失ではなく、いなくなることで僕という集合を壊すほどに、エルは心の内奥に根付いていたのだった。
「どこに向かってる?」
「出会った場所から飛び立つほうが、ロマンがある気がしません?」
 エルは振り向いて、後ろ向きに歩きながら、不敵な笑みを浮かべる。
「違いない」
 素直に同意する。些細な共感でさえ今はうれしく思う。
 エルとは、関係の終わりの瞬間まで通じ合っていたい。限られた時間における幸福でしかないとしても、この気持ちに偽りはない。


 気付けば僕はエルの手をとっている。エルも小さな手をぎゅっと握り返してくる。
 特に気の利いた会話をすることもなく、いつもどおりのペースで目的の場所にたどり着いてしまう。
 彼女と初めて会った、実家の庭先。
 両親は眠っているのか家の明かりは消えている。隠れて悪事をしているような気持ちになる。
 いたずらをする気持ちと、どこかへ脱出するときの心臓の鼓動はとても似ている。
 そんなことを考えながら、僕は庭の堀に腰掛けエルを見守ることにする。
「初めても、いいのかな」
 そわそわと不安そうだった。
「大丈夫だよ。周囲に人はいないみたいだ」
「見られて減るものではないですが……」
「僕ら以外の誰かがいたら、お帰りになってもらおう。大切な門出だからな」
「それじゃあ、そのときはお願いします」
「ああ。任せられた」


 エルは僕に念を押してから庭先に埋めた〈余剰の器〉を取出しにかかる。以前公園に埋めていたあの濃縮されたエネルギー体である。
 遠くからも光の球が黄緑色の尾を引いて彼女の周辺に集まってくる。この町にはエルから分離したエネルギーの器がいたるところに埋められているのだろう。これらの珠がすべて合わさると、エルはエルの肉体を構成できずに膨れ上がってしまうと以前聞いたことがある。
 逆を言えば、エルとしての形状を保てなくなるほどのエネルギーが、飛び立つのに必要なのだろう。


17 飛翔


 彼女の周囲には輝きの繭が展開する。
 展開したエネルギーを操作しながら、エルは来ていたワンピースを放ってくる。
「持っててください」
 僕に服を預け、一糸まとわぬ姿になる。服はファッションセンターしまむらで買った、いささかガーリッシュすぎるデザインのもので、やはり彼女によく似合っていた。
 全裸のエルは素肌に電気のようなものをまとう。初めて会ったときより少しだけ膨らんだおっぱいの先端に光が灯る。
 その電流に呼応して 光球は形を変え、彼女の身体に集まっていく。
『器』と呼ばれた光球は彼女の身体の一部として溶けていく。容量以上になった身体が膨れ上がり背中から瘤が生まれる。
 エネルギーが飽和しているのだ。
 始めは歪な瘤だった隆起は、羽化をするように背中を突き破り、巨大な翅の形状となって上方に閃いた。
 肩口から身長の倍以上の翅を伸ばしたまま、彼女は体重を支えきれず膝をつく。
 今度は光球を膝に当てる。足だったものが膨張し、またも翅状に変わる。膝は残したまま羽はやはり上空へとひらめく。不安定な姿勢であったが、翅は彼女の身体に大きいゆえに、バランスを崩すことはない。


 エルは次々に光球を身体に接続していく。質量ぎりぎりまで圧縮したエネルギーを、空を飛ぶための適切な形状に変えて身に纏っている。そのたびに彼女の原型は作りかえられてゆく。僕がエルとして認識していた人間の容は原型ではなかったのだ、と思い知らされる。
 翅は彼女の身体と比べて著しく長く、最終的に家の屋根ほどまで達した。やがて翅は螺旋状に包むようにして彼女を覆っていく。螺旋の翅には襞や、葉脈のような線が走っており、生々しい外殻を構成していた。重力に抗い突き抜けるための機構なのだろう。
 最終的に巻貝のような形状に落ち着く。
 先端は空を向いている。
『人間体のままで帰れたらよかったのですけど』
 殻の中から彼女のくぐもった声が響いた。
「君が好きなようにしてくれるのを見るのが、幸せなんだ」
『でもこの姿を見られるのは、何故か恥ずかしいです』
 僕は巨大な翅の螺旋にそっと触れる。
 すると翅の層が解れ、中からエルが顔を出す。人間体に、翅を纏うという機構を選んだせいか、宇宙船のコクピットに乗っているようでもあった。


「出発の時は、こういった翅に包まる形になります」
「いまでも……もう飛び立てるのか」
「はい。問題はなさそうです」
「飛び立ったら長いのか」
「あなたが感じる永遠の間です」
「本当に途方もない時間なんだな」
「はい。そしてその時は私の……エルという人格性も、永遠に飲み込まれて消滅します」
 それは彼女自身の死を意味するわけではないのだろう。エルという人格性の方がエネルギー生命にとってのイレギュラーなのだ。そのことに僕も彼女自身も気づいている。エルという人格性が消滅しても、エネルギー生命という括りは消滅しない。
「離れたくないと思っているよ」
「そう……ですか」
 僕の言葉を受けてエルは逡巡する。そっけない返事がくるかなとも思ったが、彼女なりの躊躇いが見え隠れしていた。


「今日連れ出したことには理由があるのだろう」
 尋ねるとエルはコクピットの中で微かに頷いていた。
「どのように別れるべきかを考えていました」
 エルはいくつかの僕と別れるプランを話し始める。
 何も言わずに出ていく。既に飛び立てることを説明し、一定の期間を決めて生活する。あるいは僕が寿命を迎えるまで一緒にいて、僕の死を見届けてから空に飛び立つ。
 エルとしては三番目の『僕の寿命を待つ』という方法が良さそうだという。しかしそれは僕の望むところではない。
 僕が死んでからも彼女には、無限ともいえる余生が存在する。そのことを想いながら暮らし続けるのは耐えがたいことだった。
「さらに別の提案がある」
「なんですか?」
「『僕を一緒に連れて行く』」
 以前、断られた意見を僕はもう一度差し出してみる。


「それこそ、最も不毛なことです」
「不毛……なのかな」
「はい。繋がるものなしに宇宙空間を飛び続けることに心は耐えられないでしょう。エネルギー体としての私は死にませんが、エルとしての私の人格は摩耗していきます」
「だったら尚更、僕は君を引き止めなきゃならない」
「いつまで?」
 エルは裸のまま、巻貝の宇宙船の縁に(便宜上そう呼ぶ)に腰かけ、僕の側に向けて身を乗りだす。
「私に寿命はありません。あなたとは違って、地球にいて模倣できるものがあるかぎり、私の心は死なないのです。それは、あなたと一緒にいる限り、互いの関係性は歪になることを意味します」
「それでも君をこの宇宙船に乗せることは、君の精神の死を意味する」
「それでいいのです」
「君は、死にたいのか」


「もともと私の心など、エネルギーを回収するための方便にすぎません。たまたま感情が良いエネルギーになっただけで……人型としての私はそのための装置にすぎないわけで……だからいつかは終わりがくるのです」
「自分で自分に枷を嵌めているようなものじゃないのかよ」
「私はエネルギー生命ですよ。あまり人間の理屈を押し付けないでいただきたい」
 エルは話してから一瞬目を見開き「しまった」という表情をしたが、すぐに平静を保つ。
 僕は彼女の表情の変化を見逃さない。
 沈黙が降りる。
「折衷案としてエルの人格を担う部分だけ地球に置いておくことはできないのか」
「私の核となる魂は一つしかありません」本体が飛び去ってしまうと他のエネルギー体もまた一緒に飛び去らなければならないようだ。
 エルは『近いうちに飛び立つ』という意見を曲げなかった。それが互いの人間の部分を尊重する最も良い方法なのだという。
「そうか」
 僕は納得できない状態であったが、なすすべがないので頷くことしかできない。


「はい」
「それでも」
 沈黙を埋めたかった。
「……僕は、君のことが好きだ」
 しみったれた空気のままにしたくなかった。
 僕はひどい甘ったれなのだろう。喉の辺りがえづいて、声が滲んでしまう。
「私も、あなたのことは大好きです」
 彼女もまた、僕にあてられたのか、ゼリー状の涙を流す。
 幾度となく交わした心の伝達。
 虚しいとさえ思えるほどの意志の交換。
 彼女にとっては生存戦略にすぎない声の往還。
 けれど、それは人間も同じではないのだろうか。
 すべての感情は生存戦略の一部で、やり取りが掛け替えのないものだと錯覚するからこそ、固有のものとして僕らは認識するのではないだろうか? 


 エルは当たり前のこと(生存戦略としてのコミュニケーション)を当たり前のものだと口にしていただけではなかっただろうか。
 僕は訊ねない。尋ねたところで彼女は、そっけない答えをするだけなのだろう。そしてそっけない答えは彼女の本心ではないことを僕は知っている。
「だからこそ、あなたにはやり直してほしい」
 いつまでも声を通わせられる距離でいたかった。そうした僕の思いもエルは断ち切ってくれる。


18 さよなら


 心の準備もないままの急な別れになってしまった。
 だが永遠の別れになるのなら、先延ばしにしても一緒だろう。むしろ辛さはより募る一方だろう。
 今出発するのが最も痛みを伴わずに別れることができる。
 僕は心の奥底で納得してしまう。
「君の自我はどれくらいで崩壊する?」
「人間の寿命と同じくらいですね」
「それは大変そうだな。祈ることにするよ」
「そうしてもらえると助かります」
 二人で朝焼けを見るまで一緒にいることにした。
 巻貝の宇宙船からエルをひっぱりだし、服を着せる。両親に見つかるかもしれない恐れがあったが構わない。
 出会ってから今までのことを話した。


「嘔吐したの面白かった。なんだか親近感が沸いた」
「私は恥ずかしかった。同じ思いをさせてやりたかった。だから無理やり嫉妬させたのかも」
「おかげで俺も吐いちゃったよ」
「お金に困らなかったけど、君は欲もなかった。それも嬉しかった」
「私も。あなたが私を利用するなら、感情エネルギーが腐敗すると思っていた。でもあなたはお金に狂わなかった」
「つまらないじゃん」
「だんだんエネルギーが純化されるみたいで。うれしかった」
「そうか」
「感情が純化されていたから、早く溜まったのかも」
「じゃあ俺は電池になれるな」
「きっとこの星で生きてるからですよ。慣れない環境で私を憎み始めたら、きっと不純なエネルギーになる」
「君の言うことのほうが正しいんだろうな。でも」


「でも?」
「たぶん、玉川上水から飛び降りるのに似ているから」
「なんですか? それ」
「純粋を死にしか求めきれなかった人たちのこと」
「私は純粋は生にもあると思います。ただ捻じ曲げずに生きていればいいんです」
「宇宙生命にいわれたら、納得するしか無いね」
 ふしゃ。声と草の揺れる音がした。
 闇に溶けたシルエット。おそらくはキジトラ柄の猫が夜の庭に忍び込んでいた。
 猫の瞳はエルの纏う巻貝の宇宙船の光を受けて光っていた。
 僕は偶然持っていたチーカマを猫に投げてやる。始めは警戒していたようだったが、猫はチーカマを咥え僕らからさらに1メートルほど離れ食べ始める。
 エルと過ごしている時間の中でも猫と出会ったことは何度もあった。初めて猫に餌をあげた時、エルは「私にもこんな感じで食べ物をあげたのですね」と感心していた。


「しかし、別れるときまで猫に恵まれるのは、運がいいんだか、悪いんだか」
「猫男なんだ」
「雨男っていうよりも可笑しい語感ですよね」
 そんな軽口を叩きながら、もしかしたら彼女の心はすぐ目の前にあったのかもしれない、とさえ思えていた。
 やがて夜の闇が急速に取り払われてゆく。橙色の朝焼けが地平線から溢れてくる。
 猫はいつの間にかどこかへ行ってしまっている。
 エルは再び服を脱ぎ、巻貝の宇宙船に乗り込む。
『さようなら』
 覗きこむようにして扉から顔を出している。
「ああ。さようなら」
巻貝の外郭をもつ宇宙船が、金色の尾を引いて空に浮上していく。
「さようなら」
『さようなら』


 宇宙船は重力を無視しているかのように、回転しながら浮力を得る。エルが扉を閉めると、回転が早まり、初めて出会った時のようなエネルギーの光そのものになる。
 やがて速度を得た光は空を抜ける。


19 空っぽ


 エルが飛び立ってから、僕は空虚な思いに満たされていた。何もかもが空っぽになってしまったのだ。
 器の中の水を心だと仮定する。その水に浮かぶ小さな泡を欠落だというのならば、僕の心は欠落の泡と、本体の水が逆転していた、といえた。
 あの日以来、僕は地球上のあらゆる出来事に対して心を動かすことはなくなった。何故ならば心のすべてを彼女に捧げてしまったからだ。今の僕はただの動く肉体でしかなく、精神活動があるかも疑わしい。頬を自分で殴っても痛みが鈍い。神経系がどうにかなってしまったのだろう。
 友人と出会うと、馬鹿な話をして笑うことができる。家族や仕事の問題などにも真面目に取り組むことができる。しかしそれは僕の表面で起きている薄皮の出来事でしかない。地球上で活動を営む生命が、地上という薄皮の上で息づいているにすぎないように、どんな出来事も紙屑のように流れ去ってしまう。
 あのときエルは一つの嘘をついたのかもしれない。
 彼女は僕を連れていくことは不可能であるといった。
 だが本当のところは僕の精神を連れて行ってしまったのではないか。
 そう思えてならない。
 それほどの空虚。


 あるいは僕は、ただただ壊れただけなのかもしれない。今でも彼女の幻影に弄ばれ続けている。
 可能性として、僕の精神の一部が彼女の中で息づいていて、時折、エルの永遠とも思われる航路の中で、意味のあった生活の風景として思い出されるということを考える。
 あるいは僕との生活をもとに模倣体を生み出し、地球外で生態系を築く可能性も考えられる。
 エルの魂が二つに分かれたのだとしたら。
 僕の魂を本当に連れ去ってくれたのだとしたら。
 もしかして僕の心は今は彼女とともに宇宙にあって、。
 こんな薄皮のような世界ではない、どこか遠くで、二人きりで生きることを目指しているのだとしたら。
 こんな素敵なことはない。
 だがそれを確かめることすらもう叶わないのだ。
 呼びかけてくれる彼女はもういないのだから。



 一週間後、僕は死ぬことにした。
 何度も煩悶を繰り返した末の結論だった。
 彼女と暮らしたアパートは確かに存在していた。一緒に眠った布団や台所には先日までの生活の痕跡が残っていた。
 どれだけ考えても、薄情な奴だったとしか思えない。
 しかし怒りをぶつける相手も今はいない。
 僕が死ぬまで、彼女に生き続けて貰ったとしたらこんなに苦しい思いは抱かなかったのだろうか。
 きっと彼女に無理に生きて貰ったとしても、僕が死にやがて彼女がひとりになる苦しみを想像して、心を壊していただろう。それが人間でないものと一緒にいることの代償なのだろう。
 彼女があらゆるものを模倣できるエネルギーボールだったとしても、その特性に甘んじた瞬間、僕はエルを人間ではないと認めたことになる。
 彼女が自らを人間だと認めなかったとしても、僕が認めなければ彼女の行き場はなくなるのではないかと思う。
 エルを人間だと認めなければ、エネルギーボールとしての彼女がコツコツと集めてきた『感情エネルギー』にまつわる出来事に、意味がなくなる。


 生きた意味がなくなる。
 だから僕は彼女を人間だと想いつづける。
 感情のある生命体だったのだと想いつづける。
 想いつづけてなお僕は、死にたいと思う。
 彼女のいない世界で呼吸をすることは、水の中にいるときと等しい。
 どのような死に方が良いだろう。
 できるだけが彼女に近づける死に方。
 エネルギーボール的な死に方。
 爆発が良いだろうか。
 人間は光になれるのか?
 まだ僕は彼女のことを考えている。
 彼女に近づきたいと考えている。
 宇宙飛行士になりたいとさえ思う。


 しかし宇宙飛行士の速度では彼女に追いつけない。
 やはり光になるしかない。
 そう結論づけて僕は眠りに落ちる。


 何度も目覚めては眠りに落ちる。
 彼女の夢をみて、起きてはまた沈む。
 次の日も、その次の日も彼女は夢の中に現れる。
 やがて彼女は本当に夢の中に存在するということを確信する。
 人間にとって光の要素は瞼の内側に存在している。
 僕は死なないことが光に近づくことなのだと悟る。


20 永遠


 巻貝の宇宙船で宇宙空間に漂いながら、エルは人間としての思考が消えていないことを確認する日々をすごしていた。
 宇宙船の中は部屋になっていて、模倣の力を用いてベットと机を作成する。これでエルはくつろぐことが可能になる。くつろぐとは文化的な行為だから、気分はキャプテン・ハーロックだ。
 寝そべりながらエルは彼に施したことを思い出している。人格性が消えること。別れになるだろうこと。
 彼の身体に極小のエネルギー体の糸を張り付けておいたのだ。
 その糸は宇宙空間を進む距離に比例し、宇宙船の装甲を削りながら長くなる。
 糸は地球の自転の影響を受けないための次元超越的な措置を施しているため、燃費がいいものとはいえなかったが、そうした効率と彼の記憶はエルにとって天秤にかけられるものではなかった。 
 彼が新たな出来事に出合うたびに、その心がほんの少しエネルギーに変わり、宇宙空間を漂うエルに伝達させる。
 雀の涙ほどのエネルギーだったが、エルは彼の情報を得るだけ満足できる。
 彼がしっかり生きているという事実がエルを勇気づけてくれている。
 こうした事実は彼には言わないでおいたが、知ったら安心させてしまうのであえて黙っていた。
 

 さようなら、とはいったものの、エルの性格の悪さはきっと理解してくれているはずなので、これからエルのすることも受け入れてくれるはずだ。
 今も糸から感情が流れ込んできている。
 エルは彼の表層意識と接続できるように『糸』の仕様を組んでいる。
 どうやら一つの可能性を思い浮かべたらしい。
『僕の精神をつれていったのではないか』
 なるほど。まったくもって、正解だ。
「別れてからの両想いもあるものなんですね」
 エルは退屈さを感じながらひとりごちる。
 時間を見つけて、生活用品を模倣力で構築する。長い旅の中で人格性が消えないようにするための措置である。人格性があれば感情エネルギーが生まれる。人としての心が寿命を迎えるまではエネルギーの足しになる。
 鏡と最低限の生活用品を造れば、人として自我を保つことはできる。良く考えれば暇つぶしを自分で作ることができる時点で、暇による発狂の心配はなくなる。


 ひととおり生活の心配がなくなってからは糸を通じて彼の体験した出来事を観察する。
 再婚はしたようだが、私とのことを話し、嫁に引かれているらしい。
〈エネルギーボールってなに?おもしろいね〉
 彼がエルの話をするたびに嫁は信じようとしないが、うまく茶化してくれている
ようだ。冗談のわかる嫁でよかった。
「まったく。良い嫁ですね、本当に」
 過去のような嫉妬はなかった。いまやエルは距離こそ離れながら、それと気づかない程度に彼と精神の結合がなされたのだから。
 彼は夜になると夢を見る。夢こそがエルと繋がる手段であるという見立ては正解である。夢の中では、表層意識が薄れるためふたりを繋ぐ糸がより食い込む仕様になっている。こうして眠るときだけ擬似的に会話をすることができる。意識が薄れる時だけエルとの次元超越的な電波が開通する。だから彼は毎日夢をみることになる。
夢の中でエルは話をする。その日彼の身に起きた出来事を聞く。
「そっちはどうだい?」


「暇で死にそうなんです」
「嫁の服で良ければ、形を教えてあげれる」
 彼は夢の中でポン、と素敵なワンピースを顕現させる。エルは宇宙船の中で目覚めてから、エネルギー力を用いて服を再現する。
 キジトラ柄なのでさすがに似合わなかった。彼の嫁はなかなかハイセンスな人のようだった。
 次の日も再び彼と夢の中で会話をする。
 夢での会話は、大概は忘れてくれているが、エルとの連絡線が保たれているという認識はしてくれているようだった。現実では忘れているが夢の中で会話をする日々が続いた。夢の中では先日の夢の記憶を思い出すのだから、中々精神的に頑丈な人なのかもしれない。
 緩やかな関係こそがふたりの臨んだ終着点なのかもしれないとエルは思う。
 次元超越的な糸電話で夢の共有をし、40年ほどの月日が経過する。
 彼の寿命が迫ってくる。
 物質と言う概念を超えたエネルギーの糸は絡まることなく彼にひっついている。
 彼が死ぬ間際にエルは夢の中で問いかける。


「ずっとみてた」
「しってたよ」
「二人で宇宙空間を漂うことと、大差なかったでしょ」
 そこでエルは初めて自分の考えを打ち明ける。
 彼は、まいったな、と肩をすくめる。
 エルはそんな彼をいつまでも虐めていたいと思う。
 いつだって翻弄していたい感情が勝ってしまうのだ。
 彼は困った様な泣きそうな表情をする。心が壊れる寸前でエルが人間的なしぐさをすると、彼はほっとしたような穏やかな表情になる。
 やりきれなさの中で、なお近づいてくる彼の強さが、エルにとって最もおいしい感情になる。
 それがエルにとっての自然体であり、彼女なりの愛情表現なのだった。
 ふたりの自我は同じ時間軸の中でうっすらとやすらかに消えていく。
 ふたりの感情によって編み上げられた光速のエネルギー体だけが、いまも宇宙空間を飛び続けている。

                                                            了

屋上



 十階建てのビルの屋上は地上よりもずっと、空の模様や地平線が見渡せて、たいそう気持ちの良いところだった。差し込んだ日差しと植物のにおいを含んだ風が、春の兆しを感じさせている。地上に這いつくばってあくせく働いているときは意識もしなかったが、こういう世界の機微を鮮やかに感じ取れる人は生きている実感をもてるのだろうとペロ(28歳♂)は思った。しかしそれも自分の住む世界とは縁のないことだろうとも納得していて、その諦めがペロの決心をより頑ななものにしていた。彼は今日、この屋上から飛び降りると心に決めていた。
 朝。自分をクビにした会社に何食わぬスーツ姿で出社した。顔見知りに会わないために会議の時間を見計らった。会社までの道のりの間、活発な人々の溢れが彼の気分を押しつぶした。胃の辺りが萎縮する感じにペロは恐ろしい吐き気に見舞われた。しかし、ここで倒れては自殺する意思が挫けてしまう気がした。体の抵抗を我慢して非常階段に向かった。立ち眩みをしながら俯いてのぼる。ごんごんと金属を踏む足音が響く。吹き抜けなので高度が増すたびに風が冷たくなっていくように思えた。天国への階段のようだった。天国といっても、ペロには信仰心はなく、完全な無を望んでいた。落ちて、死んで、無になるのだ。来世もありませんようにと祈っていた。
 最上階の塗装のはげた鉄製のドアを開け放った。空の模様や地平線が見渡せたが生きている実感などはなにも表れなかった。
 ペロはうつろな動きでドアの裏手にある給水タンクのはしごに手をかけた。足を着き立ち上がり、給水タンク上で腕を組んだ。ふふふ、と、なにかつぶやきながら。自分が死ぬ街を俯瞰し、モチベーションを高めるという彼なりの作戦だった。それに、飛び降りるなら一番高いところだなとペロは心に決めていた。


「ああ…ヒトがゴミのようだ……」
 ペロ(28歳♂)は、一度言ってみたかったんだよなと一人つぶやいた。腰をねじりながら墓標のように突き出たビルの町並みを一望する。くだらない世界を見下ろしてぶつぶつと呪詛を唱えた。そうすることで自分が惨めになり、死にやすくなるように思えたのだった。
「あ……」
 しかしペロは、隣のビルの給水タンクを見て驚きのあまり声をあげた。
 自分と同じ目線で、給水タンクで腕組をしながら腐った街を見下ろす、OLさんの格好をした人と目が合ってしまったからだ。


「ああ……ヒトがゴミみたい」
 ペロが見ているのに気づいていないOLさんはそう言って腰をねじり、無機質な立石にしか見えない灰色の街並を見渡した。呪詛を唱えて、視界の隅にペロの存在を確認してから「あ……」短い声を上げた。OLさんの顔が恥ずかしさで見る見る高潮した。
 屋上の給水タンクで腕を組み余裕のポーズをしていたふたりは、状況が良くわからないという風に、幻覚であってほしいと願うように、目をこすり、顔の向きや焦点を代えたりしながら、ぼんやりと互いを見た。
 会社の昼休みまではかなりの時間があることを、東に傾いた太陽が示していた。



 OLさん(26♀)は短めの黒髪でメガネをかけていて、見ようによっては、綺麗な女性だったが、不健康な印象が色濃く浮き出ていた。細やかな造形までは良く見えないが、折れそうなほど華奢な印象であった。
「あのぅ、ここの会社の人ですよね? 腕なんか組んで……」
 OLさんはガチガチに腕を組んだまま、ペロに声をかけた。少しだけ互いの距離があるため、自然と語尾が延びて叫ぶ感じになる。
「べ、別に、ちょっと仕事がいやでサボってたんです。あなたは、ここのOLさんですか? 」
「……まあ、そんなところです。私も。いろいろあって」
「いろいろってたとえば……仕事関係ですか?」
「で、でも、あなたに関係ないですよ」
 OLさんは腕組を解いて、ほんの二、三秒両手をぷらぷらさせて
「それより、邪魔なんで帰ってくれません? 」
 それからペロを恨めしげににらめつけてから、プイとそっぽを向いた。何かとてつもない衝動に追われているためにペロを引き離したいようでもあった。OLさんは再び自分を抱きかかえるように腕を組みなおして街を見下ろした。その瞳は半分は髪の毛に隠れていたが凍える湖のような光をたたえていた。


 ペロは「うぅ」と物怖じし、ひとまず給水タンクから降りて体制を立て直そうかと考えた。しかしそうすると自分の「ビルから飛び降りること」に対する意気込みが薄れてしまうような気がしたので、気を強く持って留まった。そのためには向こうのタンク上にいるOLさんをなんとかして帰らせる必要があった。このままでは見ず知らずの人に、しかも女性に見られた状態でビルから飛び降りなければいけない。誰かに見られて死ぬことがペロには耐えられなかった。人の死を見ることは残酷なことだからだ。
 ペロは意を決してOLさんに向かって叫んだ。
「僕も用事があるんですよ。人生を左右する大事なことなんです。あなたが帰るまでここから動きませんから」
 髪をかきあげて、両手を開き提案の意をしめした。
OLさんはまた恨めしげに目を細めたままペロに視線を向けた。
「なんか特別な理由でもあるんですか?」
「あ、ありますよ。重大なことなんです」
「どうせ太陽の位置を測る仕事とかタンクの点検とかそういうどうでもいいことなんでしょ」
「ち、違いますよ」


 いうべきかどうか迷ったが、怖気づいて家に帰るまでのことや、見通しのない残酷な未来のことが頭によぎって、今死ぬべきなのだ、という強い決心がペロに芽生えた。
「これから僕はっ、このビルから落ちるんですよ」
 ペロは自分がやろうとしていることを告白した。沈黙が波のようにゆらりと空に広がった。言葉の意味が静けさにたゆたいOLさんに伝っていった。何かの鳥の泣き声がビルに反響している。ペロは構わず続ける。
「あなたがっ、ここで何をしてたって、どうせあと何分か後には僕はもう地べたで血だまりなんです。するとあなたはとても気持ちの悪い思いをします。この先の人生でふと思い出して気分を害したり、ノイローゼになったりするんです。いいんですか? 」
 ペロはまるでもうふっきれてしまったかのようにまくし立てた。
「いいんですか? 」もう一度念を押すように声を振り絞った。
 これで、OLさんが怖気づいて、もしくは自分を狂人と思って、いなくなってさえくれれば、一瞬で飛び降りれるだろうと思った。早くいなくなってくれ、死にたい、今際の際まで、こんなにも巡り合わせが悪いのなら、もう静謐さなどなくていい。


 ペロは自分の自殺を見ず知らずの人に見られるのは嫌だったが、頭のおかしい人と思われることについては気に留めなかった。むしろ、そのように軽蔑されて非難されたほうが死にやすいものだともふっきれていた。
 しかしOLさんは冷静で、ああ、こんなこともあるのだろうな、という表情で落ち着いていた。運が悪いなあという落胆が顔色にでているようでもあった。それから
「それは困らないよ」
ペロの言葉を断固否定した。
「でしょ……え?」
 ペロの動揺もおかまいなしだった。
「うん。だって私も今これから落ちようって決めてたし」
そうしてまるで未来なんかないとでも言いたげに
「それに訂正して頂戴。わたしはもうOLなんかじゃないの。クビになったから」
 ぁは、と、青白い表情で眼を細め、微笑みかけたのだった。



「あなたが落ちるところみたら怖くて怖気ついてしまう。きっと、飛べなくなる」
「じゃあ、今日のところは帰って明日死ねばいいじゃない」
「いきおいがなくなるからいやだよ……」
 あれから二人はかれこれ20分ほど、どちらが後に死ぬかの論争をしていた。今のところはOLさんが一方的にペロを攻撃しているという状態だった。
「いくじなし。その程度で死ぬ勢いがなくなるから、クビになるのよ、この根性なし。なよなよしい。虫っ 」
「欝だ死のう」
「あ、まって、私が先っていってるでしょ、ドサクサにまぎれて何弱いもの装ってるのよ」
「ち……」
 ペロの舌打ちは聞こえなかったがOLさんは言葉で誘導されていたことに気づいて、『我飛ぶべく』と両手を広げた彼をなだめにかかった。ふたりはどちらが後に死ぬかの押し付け合いを幾度となく繰り広げていた。
ペロは飛びそうな動作をしながらどうすれば二人が納得できるか考えていた。このままでは二人ともが死にきれないという危惧を抱いた。


 方法はすでに思いついていた。しかしそれを彼女の方が呑んでくれるかどうかが問題だった。受け入れてくれなかったら、どちらも目的を遂行できないまま、再び、死んだほうがましなほどの、暗くおぞましい現世をさまようのだろう。
 明日も明後日も死にたい、死にたいとのた打ち回るのだろうと思った。それならば、今死んだほうが幸福なように思えた。ペロは結論した。いままで自分の意見を肯定されることなんてなかったため、言い出せずにいたが、思い切ってOLさんに提案をした。
「あの」
「なに」
「簡単な話なんだけど」
「ぅん」
「ふたりで同時に飛び降りればいいんじゃない? 」
「いいわね、それ」
ペロは提案が受け入れられるか不安だったが、OLさんの返事は意外にあっさりとしたものだった。


「いいの? 」
 ペロは久しぶりに自分を肯定された気がして、いままでの人生が否定の連続だったことにあらためて実感し、余計に飛びたい衝動にかられた。それに、誰かに死ぬ瞬間を見られたと後悔を残して死ぬことも無い。なぜなら二人同時に死ぬのだから。もしかしたら今は幸福の中にいるのかもしれないとペロは考えた。
「うん、いいよ。なんか私、もぅ吹っ切れちゃったってゆうか」
 OLさんは青ざめつつもすがすがしい表情をしているように見えた。
「私さ、友達とかそういうのいないし、そもそもろくに人と話したことないから。うまく言えてるかわからないんだけど。最後がこう非現実的でおもしろかったらさ、もういっかなーって。いつも死にたいなとか残酷なことばかり考えているけど、今は笑って飛べそう」


「そうなんだ」
「うん」
「じゃあそれでいっか」
「そうだよ」
 そういって給水タンクでモチベーションを高めた二人は後悔などないとばかりに両手を広げた。互いに視線を向けると脚が震えているのがわかったが、互いに一緒に手を広げると不思議と安心感を覚えた。
 あるいは、孤独な人生に疲れて死のうとしていた二人に、奇妙な絆のようなものが芽生えていたのかもしれない。
ペロとOLさんの表情はもはや天寿を全うせんとする人のそれだった。
「いっせ―ので? 」
ペロが訪ねた。
「うん。いっせーので」
 二人は初速を踏もうと大きく息を吸い込んだ。落ちる、その運動が解かれたとき二人は血だらけにつぶれてはじけるのだろう。飛べ飛べ、ペロは心の声を聞いた。声は何度も何度も胸の中に木霊してゆく。それは飛び降りる際の体の恐怖をぬぐってくれるように思えた。


 しかしそのとき。近いどこかの場所で。
壮絶な、金属と金属がぶつかりひしゃげる音が、都会のビルの屋上まで貫き、きーんと響きわたった。
そこはうじゃうじゃと人や物の沸き立つありふれた道路だった。ペロやOLさんのいる屋上のちょうど真下での出来事だった。
(た……へんだ。事故っ。交通……こ)
(はぁ? 対抗しあうト……クに挟まれたって?)
下の喧騒がとぎれとぎれに二人の耳に入ってゆく。
(みれたもんじゃねえ……)
(救急車を、早く!)
 屋上からはたちのぼる黒い煙とひしゃげたトラックと赤くとびちった何かが小さく見えた。遠目ではあるがじわりじわり血溜まりが広がってゆく様が感じられた。
 ペロはあまりの急な事故に飛ぶことを忘れて給水タンクに立ち尽くした。自分がまさに死のうとしていた場所で自分ではない死体がはじけていることに足がすくんだ。血溜まりが肉塊がまばらに散らかっているのが屋上からでも小さく見えた。眩暈でまぶたの辺りがちかちかしてきてペロは給水タンクに座り込んだ。


 OLさんも膝をがっくりと落とし
「ぁ、やだぁ」
うなだれて
「しにたくなぃ、やっぱやだ」
 血だまりをみたショックか泣き出していた。
「やだやだ、やっぱおぅえ――――――ぇ、―――ぇえ―――」
 口元を押さえて適わずに嘔吐した。出したものが真下の道路に流れ落ちた。ぱしゃん、と水気のある音が響き渡った。
 どこからか駆けつけてきた救急車の音を聞きながらOLさんはまぶたを閉じた。



 何度眩暈におそわれたかわからなかった。何分たったのかもわからない。それでもいつのまにかペロは給水タンクから降りていて屋上で寝転び空を眺めていた。太陽の方角から推測するにそれほど時間はたってはいないようだった。OLさんの方を見ると、同じくいつのまにか給水タンクから降りていて、うつぶせに胃液だかよだれをたらしてぐったりしていた。
「おい」
「なに」
ペロが話しかけるとOLさんは少し間をおいてから億劫そうに返事をした。
 よかった生きてる、とペロは何故だか安心した。
「下おりて病院いかない?」
「もー、どうだってぃー」
「あーあ」
「あたし帰る」
「ぅん」


 OLさんはよっこらと立ち上がって屋上の入り口ドアにひょこひょこ歩いた。
「なにぼうとしてるの」
そして涙やらなにやらで腫れた瞼をペロに向けた。
「具合わるいからもう少し寝転んでるよ」
「やっぱりわたし病院いくよ」
じゃ、とOLさんはドアノブに手をかけた。がちゃとドアの開く音が聞こえる。しかし、なかなか閉まる音は聞こえなかった。OLさんは大丈夫なのだろうかと思いペロは起き上がった。OLさんはドアの前でぼんやりとこっちを見ていた。なに、ぼうとしてるの。OLさんはもう一度ペロに言った。
「病院、いくから」
じゃあ、とOLさんはドアを閉めた。
ペロも地上に帰るべく屋上のドアに向かって歩いた。
屋上だというのに植物のにおいを含んだ春の風が吹いた。その冷たさに、自分がいる高度を思い浮かべてとても怖くなった。
ふと胃の辺りが締め付けられるような感覚に襲われた。病院にいったほうがいいかもしれない。ペロは少し早足で地上に続く階段を降りていった。

鍵しっぽ



 アパートの階段で二匹の子猫が丸まって眠っていた。茶トラの鍵しっぽと白黒の髭のある猫だった。鍵尻尾の方はよれた尻尾と寸胴な感じがより鍵らしさを醸しだしていた。髭の方は猫の髭ではなく模様としての髭で、左側だけ不完全な髭を蓄えていた。二匹とも野良猫と呼べるだけの不完全さを全身から漂わせていた。
 二匹には既視感があった。上の妹が遊びに来たときに一度見た覚えがある。妹は年に一回ほどうちに来ては、彼氏の愚痴をこぼしたり、 僕の作った料理に文句をつけながらぱくぱくと食べたり、飲めない酒を飲んでぐでんぐでんに眠り込んだりしていた。
 彼女が帰る間際になって玄関を出ようとすると、二匹がアパートの部屋の前で小さな集会をしていたのだった。
「猫がいる」
 妹は声を潜めて、表情だけではしゃぎながら手招きしていた。大きな声を出すと逃げてしまう恐れがあったので、なるべく刺激をしないようにしているらしかった。
「餌あったかな」
 僕は冷蔵庫を開けて食料を漁る。
 できるだけ野良の子猫に適切な食事を探そうと考えて、缶詰あたりが妥当だろうと結論付ける。


 野良猫に餌をあげてはいけないのはわかっていた。餌をあげてばかりいると狩りの能力が薄れてしまい、野良として生きていく能力がなくなってしまうと何かの情報で読んだことがあった。
 けれど二匹はまだ子猫で、そのときは冬だった。
 仕方ないよな、と心の中で言い訳をしながら、僕は人間用の秋刀魚の缶詰を開けて、彼らに与えた。二匹の子猫は警戒すらも覚束ない様子で、ぼんやりとたれのついた秋刀魚をみつめた。すぐに鼻を近づけて食べ始めた。
 警戒は生まれつき備わっているものではなく、大人になるにつれて身につけていくものなのだろうか。魚を齧る二匹を眺めながらぼんやりと考える。
 子猫の時から鍵尻尾の茶トラと髭のモノクロという特徴を持っていたので自然に鍵と髭と呼ぶようになった。
 鍵と髭の二匹は、妹が見つけた時よりも幾分か成長しているようだった。彼女が来たのは二週間ほど前のことだったから、その間に二匹はどうにか狩りをして食いつないでいたのだろう。
 二匹はアパートの階段の日の当たる場所で、うにょんと伸びながら寝そべっていた。円環状とでもいうのだろうか、ウロボロスの蛇のように、互いに頭と尻尾をくっつけている。
 二月の終わりに差し掛かっていて気候が春めいてきたためか、心地よい日向を探し当てたのだろう。
 それでも野良猫がアパートの階段に寝そべるのは珍しいことだった。大学生活も4年目が終わろうとしていたが、初めてのことだったのだ。


 子猫だからテリトリーの把握が覚束ないのか。
 誤って人間の世界にはみ出してきたのかもしれない。
 こういうこともあるものだな、と僕はほんのりと幸運な気持ちになる。
 猫達を跨いで階段を降りるのもなんだか忍びないので、僕は階段の上の方に腰を下ろして二匹を見た。
 すると髭のほうは気づいたようで、ビビったようなしぐさで、そそくさと下に降りてしまった。けれど鍵尻尾の方は警戒しつつも、何か物欲しそうな眼でこちらをみていた。
 しばらく階段に座って鍵しっぽと見つめ合った。やがて飽きたのか、髭のほうを追いかけて階段を降りていった。
 あの目はなんだったのだろう。もしかしたら餌をあげたのを覚えていたのだろうか。猫だって記憶する生物なのだからありえないことじゃないなと考えた。誰だって覚えて貰うのは嬉しいことだ。相手が猫ならなおさらのことだ。
 自分の中で歯車がかみ合う音が聞こえた。噛み合ったことより何が起きているのか。判然としないまま日々を過ごした。


 次に鍵尻尾と合ったのは五月になってからのことだった。ひどく痩せこけた状態で道端をとぼとぼと歩いていた。弱っている状態だと鍵しっぽのしっぽの部分もひどくよれているように見えた。
元気だったときはしっぽの曲がり具合が持ち味としてくるりと揺れているのだが、とぼとぼ歩いているときだと普通の尻尾よりもみすぼらしく項垂れているのだった。
「餌とれてないんか」
 それとなく話しかけてみた。鍵しっぽはにゃあとも鳴かなかった。げっそりと痩せていて見ているだけで痛々しい。
 僕は野良猫の狩猟能力について考える。
 動物園や公園などに生息している動物なら、人通りの多い場所にいるので気安く餌をあげる通行人がいることから、食べ物には事欠かないように思える。人に会う回数が稼げれば、餌を貰える確率も高くなるのは自明のことである。
 だが住宅街の野良猫事情となればまた話は違ってくるのではないか。
 野良猫に餌を与えてはいけないのは狩猟能力が下がるからといわれる。
 しかし個人的には餌を与えたくらいで、狩猟能力が落ちるようには思えなかった。


 狩猟をサボるようになるのはあくまで公園や動物園での話であって、本当の野良には関係のない話ではないのか。人間が野性とみなしているものは、実際は人間の基準の範疇での野性にすぎない場合だってあるのではなかろうか。
 事実、この猫は痩せこけてしまっている。歩くのもひょこひょこと気だるげに見える。
 僕は手にもっていたコンビニの袋をまさぐる。手持ちにカニカマボコがあったのであげることにする。
 餌を置くと、鍵しっぽは警戒したように匂いを嗅いでいる。匂いを嗅いで、僕の方をみやる。小さな頭の中で多くの逡巡がなされているようである。僕はぼうとした気分になってしゃがんだまま鍵しっぽの動作をみている。
 やがて鍵しっぽはカマボコの一切れを咥えてよその住宅の敷地へ引きずっていく。僕から距離を置いてカマボコを咀嚼する。
 いい具合に『警戒』を覚えているようだった。見かけはまだ子猫だったが、だんだんと成猫に近づいている。
 今日のカマボコはただの因果だと考えた。偶然手持ちにあって、きまぐれを起こしたから、戯れで餌をあげた。
 これからは元気で野良猫でいてくれ。そう願いながら僕は立ち去ることにした。
 餌付けは、傲慢な行いだ。


 アパートの部屋に戻ってから反省をし、野良猫に餌付けをすることに関する知識をインターネットで調べた。やはりよくないことだと書かれていた。餌付けをして下手に野良猫を生かしても死ぬ子猫が増えるだけで悲しいだけ、という旨のことも書かれてあった。
 確かに。生まれれば生物は死ぬ。死ぬことは悲しいことだ。
 悲しみを回避するなら初めから生まなければいい。
 とはいえそんな大局的にばかり考えていたって仕方ないことじゃないか?
 腹が減ってるやつにご飯をあげるのは悪いことじゃない。
 ちょっとくらいならいいよね。
 このとき僕は餌を与えることで『知らなければよかった感情』を受け取ってしまった事に気づいていない。
 初めて餌を与えたこの日から、僕は猫に対してある錯覚を抱くようになってしまう。



 鍵尻尾とはよく住宅街の端の駐車場や知らないアパートのゴミ捨て場のあたりで出くわした。彼は順調に成長を重ねながら野良猫業を営んでいるようだった。猫の集会では、子猫のときに一緒だった白黒の髭猫や、黄色い眼のしわがれた猫とよく一緒にいるようだった。
 僕の方もまた鍵尻尾を通じて周辺の猫の顔を覚えるようになった。黄色い眼の猫はすごく野良猫的な野性味のある顔をしていて、一概に可愛いといえない容姿をしていた。可愛くないことが逆に強い印象になってすんなりと記憶に焼き付けられるのだった。心の中で黄色い眼の猫にキュベレイと名付けた。このような具合で僕は周辺の猫の知識を増やしていった。
 鍵尻尾とは顔見知りだったこともあってか、すれ違うたびに声をかけるようになっていた。このとき僕は大学五年生で、人生のいろいろなものに疲れ果ててしまっていた。
身勝手なことに、癒しのようなものを求めていた節もあった。猫と触れあうことで自分の中の何かが回復しているのかもしれなかった。
 なし崩し的に鍵尻尾に構うようになった。就職活動の帰りなどでやるせない感情を抱いているときに、餌を与えるようになっていた。
餌をあげるのは一カ月に一度程だった。頻度も多くはないから大丈夫だろうと思っていた。少しずつ自分に対する正当化を繰り返していった。
 頭の片隅には「鍵尻尾と遭遇するかもしれない」という想いが常に芽生えるようになっていた。
 薬局に寄ったとき、ごく自然に一食分に包装された使い切り用のカリカリを籠に入れていた。鍵尻尾に会えた時に餌を持っていないと、残念な気持ちになるためだった。自分はどうにかしているな、と思ったが抗いようのない感情でもあった。


 このようにして餌を持ち歩くことで鍵尻尾との関係は生活の一部として溶け込んでいった。
 あるいは運命的なものも感じていたのかもしれない。偶然出くわすというシチュエーションに真実味のような思いを見出してもいた。
 僕は大学に五年間も通っていながらも、社会性を身につけることもなく、平日の真昼間から読書をして過ごすような人間だった。自分から話しかけることはできたが、他人と近づくたびに、距離を置かれるか自分で距離を感じるかのどちらかの要因で離れてしまうのがほとんどだった。
 さみしい気持ちを宥めたいときは、他者との不整合を強い気持ちで拭わなければいけない。そのためには心のエネルギーがたくさん必要になり、結果様々なものが削がれていってしまう。
 けれど、猫を相手にするときは気を使う必要がない。お土産さえ持って行けばそれで事足りる。沈黙であっても気まずい思いは抱かない。
 さみしさを紛らわすならば猫一匹いれば、それでいいのかもしれない。
 鍵尻尾を飼うことができればどんなにいいだろうと想像するようになる。
 合うたびに餌を与えるようになっている。
 出くわす頻度が一カ月に一回程度だったものが、だんだん間隔が短くなっていき、どれくらいの頻度かさえもわからなくなってくる。


 前に餌をあげたのは一週間前だったか。しかしあのときは土曜日のアルバイトの帰りだった。今日は金曜日の夜だ。コンビニに軽いものを買いに出かけた帰りに出くわした。
 パックの餌を持っていなかったのでゆっくり歩いくと、少し後ろを鍵尻尾が付いてきた。
 やはり以前餌をあげたことを覚えている。猫というものは案外記憶力がいいのかもしれない。
 自分の方から関われるだけでいいと思っていた。しかしまさか向こうから接してくるとは思わなかった。
 ついてこられたことに関して、悪い気はしなかった。
 鍵尻尾はアパートの階段のあたりで「あおん」と鳴いた。
 僕はいったん部屋にはいり、餌のパックをとってから鍵尻尾のところへ降りて、袋を開けてやった。水分が不足するといけないから、適当なお皿を出して水を入れて与えた。
 鍵尻尾はお腹が空いていたのかむしゃむしゃと憚ることなく餌を食べた。五月に再会したときは野良猫らしく警戒をしていたのだが、こうして何度も餌を与えるうちに警戒しないようになっていた。


「俺がもう少ししっかりしてれば飼うこともできたんだろうけどな」
 指先で頭に触れてみると、鍵尻尾はひどく怯えたように身を竦ませた。
 ゆっくり手を近づけると、今度はものすごい速さで猫パンチを繰り出してくる。もちろん爪はむき出しのままなので、皮膚の薄皮を切り裂かれる。
「やるじゃん」
 痛みの残る手をさすりながら僕はその場を後にする。
 やはり鍵尻尾は野良であり、相応の生き方が染みついている。
 鍵尻尾に会ってから飼うことが脳裏によぎるようになっていたが、引っ掻かれたことで住む世界の違いのようなものを明確に見せつけられたように思えた。
 これだけの力があればきっと狩猟をして生きることができる。
 躊躇いなく爪を振る。僕の持ちえない能力をこの野良猫はすでに持っている。これならば餌を与えるまでもなく、生きていけるだろう。
「元気で何よりだよ」
 当たり障りのないことを伝えて、その場を後にする。



 大学を卒業して数日が経過したにもかかわらず、僕は就職することを選ばずにアルバイトと両親からの仕送りで生活していた。
 僕は体が弱く、実のところ仕送りがなければ生きていけない人間だった。
 だが男性的なプライドからがんばらなくてはいけないという義務感に縛られシフトを増やしては、倒れて動けなくなるということを学生時代から繰り返していた。
 それは内臓の疾患であり、健常かそうでないかのグレーゾーンにあるものだった。
 それでも尚、気合をいれて自分を慣らしていけば、一日いっぱい働くことに順応できると思っていた。
 普通の基準に満たない体力の無さは、自分の存在が此の世にいてはいけないと錯覚させるに十分だったのだ。
 なので僕はがんばってシフトを増やすより先に、両親に仕送りを送らないでくれと頼んだ。
 電話で言い聞かせたはずなのに、何故か月々の家賃分だけ振込が成されていた。
 両親と僕は違う人間だった。心配をしてくれていることはわかっていた。
 僕と両親は違う人間だった。
 施しをされると精神的な負い目のようなものも感じてしまい、生きていくことがわからなくなってしまう。一生返すことの出来ない負い目のようなものを相手に握られるのは、親といえども嫌なことだった。


「施しはやめてほしい」という旨を伝える。
「わかりました」と簡素な返事がくる。
 質素なやり取りのメールが終わる。
 両親は普通を望む平凡な人間だったが、望まれる『普通』のハードルが極めて高く、平均点をとる人間を劣っているとみなす傾向にあった。
 対して僕はムラッケの塊のような人間で、体の調子がましな日でなければ力を発揮できなかった。
 日によっては喘息。日によっては高熱。アレルギー。強烈な眠気。気絶。
 なのに健康診断は良好。
 とってもグレーゾーンな存在。
 ならばなおさら貰えるものは貰っておけと思うのだが、いつかは脱却しなければいけない。
 両親は良い人間だが、植物に水をあげすぎる傾向がある。
 水を吸い過ぎた植物は枯れてしまう。
 植物によって適した水の量があるということでもある。


 自分を植物にたとえるのもどうかとは思うが。
 さほど多くの水を必要としないことがわかった以上、むざむざ享受してあげる理由もない。
 僕は負い目から逃げたい。普通になりきれないことにも。普通を望まれることにも。
 まともなフルタイムの仕事はできないが、短期間のバイトならギリギリ死なない。
 今望むことは、貧乏でも貧困でも構わないから、仕送りを止めてもらうことで、しがらみから解放されたいということ
 いつか駄目になって生きていけなくなるかも、という現実が待ち構えているが。それでも一人になることは、家族と繋がるよりも精神的に楽になるように思えていた。


 横になりながら鍵尻尾のことを考える。
 彼は出会ったときよりも確実に野性味が薄れている。
 それ以上に出会うたびに、痩せこけていくのが気になった。
 餌をとる能力が…野性としての戦闘能力が薄れているのではないのかと思った。
 週に一回以上は与えないと決めていた。それならば狩猟能力が衰えることはないと考えていた。
 しかし、それこそが与える側の傲慢なのかもしれなかった。
 水をやる側になって初めてわかることがある。
 鍵尻尾に初めて餌を与えてから一年が経過していた。


 数日後、僕は鍵尻尾が髭を連れているのを見かける。髭とは一年前の二月、アパートの階段で二匹で円環状の形で寝そべっていた時、鍵尻尾と一緒にいた猫である。どこでどうしていたのか髭もまた大人の野良猫になっていた。僕は餌の袋を開け平等に鍵と髭に分け与える。
 鍵の方は慣れているためかカリカリと食べ始める。
 髭のほうは生粋の野良らしく、警戒してか餌には手を付けずに遠巻きにみている。
 鍵が食べるのを見て、少ししてから髭が餌に手を付ける。
 それをみた鍵尻尾は、自分の分が残っているにもかかわらず、髭の分の餌に割り込んで食べ始める。
「お前の分はこっちだって」
 僕は鍵尻尾の頭を手で押しやり、彼の分の餌に誘導する。
 手をだされることが気に食わなかったのか、爪で引っ掻いてくる。怯むわけにはいかないので、引っ掻かれても指示をやめない。けれど鍵尻尾の方も折れることなく、髭の分の餌を食べようとする。
「駄目だって」
 かるく頭をはたくと今度は「シャアア」と威嚇をしてくる。


「人の物を取るんじゃねえ」
 世の中には平然とした顔で他人の領域を荒らしてくる人間がたくさんいる。僕はそうした弁えの無い人間が嫌いだった。嫌いな性質を鍵尻尾は湛えているということになる。
 鍵尻尾は髭の分の餌を、略奪し続けた。
 結局その日は餌の取り合いを避けるため、鍵と髭をうまく引き離して、髭の方に餌を投げてやるという方法で平等に分配した。
 ただ自分の中で鍵尻尾に対する意識が変化している。
 腹が減れば猫なで声で「おねだり」をしてくる。食い意地が張っていて、他の猫の餌を横取りもする。
 醜悪だとは思わない。食べたくなる気持ちを抑えられないなら、おねだりをしてしまっても致し方ないことだと思う。


 気がかりなのは、食い意地が張っているくせに痩せていることだった。
 餌をあげる頻度はできるだけ控えているはずだった。
 2日連続で遭遇しても、甘やかすといけないからと思い、日にちが経つまではあげないことにしていた。
 痩せている理由は簡単なことだった。
 おそらく鍵尻尾は僕以外の人間からも餌を貰っていて、人間から餌を貰うばかりだったせいで、自力で餌をとる能力が衰えていたのだ。
 ある日、知らない家の前で泣きながらうろうろしているのを見かけた。
 誰かが餌をあげていて、餌をくれる主人を探しているようでもあった。
 事実、ねだっているのだと思った。この声は、そういうときの声だった。欲しいものを欲しいと言うときの甘える声音だった。
 ハロウィンのようだ。トリックオアトリート。そう言いたげに、ニャオンニャオンと甘い声を響かせている。
 その傲慢さを育てたのは、おそらくは僕だった。
 子猫の未分化だった時代に「人間から餌を貰える」ということを学習させてしまった。
 子猫だった時代は1カ月か2か月に一度しか会っていなかったから、今ほど餌を与えることが習慣化していなかった。そのはずなのに、いつから人に貰うことが当たり前になってしまったのだろう。


 子猫の〈警戒〉を覚えていた時期に、僕から餌を貰い、その流れで別の人からも貰い、味をしめた。
 そうして僕以外にも餌を与える人を探して、ありつく術を覚えて、痩せっぽちのままでいる。
 鍵尻尾は僕の視線に気づいたらしく、いつもどおり猫なで声で足もとに纏わりついてくる。
 自分の罪状と甘やかした末路を見せつけられているようで、僕は目を背ける。
 本来の生きる力を脱色させられた姿が、今の自分自身と重なる。
「ニャオン」
「今日は餌はないんだ」
 含むように言い聞かせても鍵尻尾は帰ってはくれなかった。とてとてと必死になって、短い脚を動かして、鍵尻尾を振ってついてきた。
 僕は〈餌を与えてはいけない〉と心の中で強く念じ、鍵尻尾を振り切るように走った。
 アパートの部屋に帰り扉を閉めてからも鍵尻尾の切なげな泣き声が聞こえていた。
【餌ちょうだいよ、初めにくれたのはお前なんだから】
 そんな呪詛の嘆きすら聞こえてくるようだった。


「とはいえ一度覚えた味が無くなるのは、生きてる中ではよくある話なんだよなあ」
 呪詛のようとはいえ、僕は呪詛の言葉には存外に慣れている性質だった。自ら呪詛を抱くことにもまた一定の経験がある。たかが猫一匹が嘆いたところで心は微塵にも動かない。
「一度覚えた味を自分から捨てることもまた、ありえない話でもないんだ」
 珈琲を煎れているうちに泣き声は聞こえなくなった。諦めて別の場所にいったのだろう。
 珈琲で舌を湿らせながら机に座って一息つく。コーヒーメーカーでしっかりと煎れたはずなのに、何故か甘味も酸味もない、苦い味ばかりが感じられた。



 月曜日の夜、ゴミを捨てにいくと、ガサガサとゴミ捨て場で蠢くものがあった。どこかの野良猫なのだろうと思って無視をして踵を返すと聞きなれた声が背中に投げかけられた。
 鍵しっぽだと、はっきりわかった。
 ゴミ捨て場からでてきて、僕の足元にすり寄ってくる。
 しゃがんで頭に触れるといつもどおり嫌がって顔を背けていた。相変わらず、甘えるくせに撫でられるのを嫌がる。
 ゴミ捨て場にいるくらい、野良猫なら当たり前のことなので、とくに汚いとは思わなかった。ただこいつの生き様を歪めてしまったのではないかという想いがあった。
 相変わらず鍵尻尾は痩せている。
 ゴミ捨て場にいるということは人間の食べ物の残骸を望んでいるのだろう。
 野性のものを取らずに、人間のものを漁ろうとして、痩せこけてしまっているとしたら本末転倒だろうに。
 舌が人間の食べ物の味を覚えてしまったのか、痩せこけた姿は卑屈ささえ帯びているようだった。


 歩き出すととことことついてくる。
 媚びてさえいる。人懐こい声を何度も張り上げている。
 このみすぼらしい姿は、僕が弱っているこいつに餌を与えたことが起因している。
 身勝手に、日々の心の潤いとして餌付けを行った代償が、この痩せこけた姿だと確信する。
 足を止めて振り向き、しゃがみ込んで目線を近づける。
「もう餌はないんだ」
 鍵尻尾は見上げるようにして僕の眼をみている。
「残酷なことなんだろうけど。ごめんな」
「ニャオン」
「でも、お前はちゃんと自分で餌をとらなきゃ駄目なんだよ」
「ニャン。ニャアオン」
「一緒になんかいてやらねえよ。お前はゴミだって漁れるし、パンチだってできるだろ」
「アオン。アオ……」


 僕は立ちあがり急ぎ足でその場を去る。
 鍵尻尾は構わずついてくる。
 ”懐いていた猫は、お腹を空かせていただけ”。
 どこかで聞いた歌の歌詞がよぎるが、曲の名前が思い出せない。
 初めて出会ったときはお腹を空かせていただけかもしれないが、こいつと僕の間柄はもっと入り組んでいる。
 もう一度振り返り、しゃがみこんで話しかけてみる。
「無責任なのかもしれないけど。これ以上深みに嵌ってしまうとしたら、もっと無責任だと思うんだ」
「アウイエ……」
「それに責任なんて持つから、生物は所有物に変わってしまうんだ。お前はもう、お前という一つの存在でしかない。俺はお前を、俺に依存させたくない」
 自分に言い聞かせるようにして僕は鍵尻尾に語りかける。夜の住宅街の真ん中で人目もはばからずに語りかけている。
「お前に施しを与えてよかったのは、鍵尻尾と名付けられる以前の、あのただの弱い赤子だったときだけだったんだ」
「アオン……」


「見誤って、お前を駄目にしちゃったけどさ。まだ一歳かそこらなら、やりなおせるよ」
 まるで水臭い別れのセリフだ。まったくひどい有様、としか言いようがない。
「ニャオン。アオン。アオン!」
 鍵尻尾はにゃあんにゃあんと催促するように鳴いている。
「餌はないんだ。自分でとらなきゃ駄目なんだ。俺は他人のものを奪うことも、機嫌を窺っておこぼれをもらうこともできない。自分で取らなきゃ駄目なんだ。それでもって、お前は、生かされた負い目も何も感じないでいい」
 猫だから負い目などの概念が分かるはずもなかったが、何故かしっかりと説明をしなければ気が済まなかった。
「身勝手でごめんな。色々ありがと。じゃあな」
 僕は鍵尻尾との記憶を振り切る様に駆け出す。鍵尻尾は追ってくる。短い脚をやたら振り回してとてとてと追ってくる。
 やがて猫の足を振り切り、僕は一人になる。
 再び出くわさない様に、迂回をしながらアパートまでの道のりを歩く。
 もう餌はやらないと決めた。
 仮にこの後、鍵尻尾がのたれ死んで、呪ってでたとしても、後悔はしない。呪いくらいすんなりと受け入れてもいい。化けて出たとしても一言しゃらくせえやと言ってやろうと思う。


 決別をしてからも何度か道で出くわしては、鍵尻尾は僕の後をついてきた。そのたびに僕は振り返らずに走り去ることで、どうにか事なきを得ていた。
 家を出る時、アパートの扉を開けた真ん前で出くわしたときもあったが、無視をしてアルバイトに向かうようになっていた。
 餌を与えるだけ与えてこちらの都合で取りやめるのは、猫に対する最低の振る舞いなのだと自覚はしていた。それでも、餌をあげることで野良としての鍵尻尾を堕落させてしまうのならば、しっかりと切り離さなければ取り返しのつかないことになるように思えた。
 何度も鍵尻尾を無視するうちに諦めを覚えたのか、鍵尻尾はしだいにこちらに気づいても、ついてくることはなくなった。
 痩せぎすの猫に餌をあげないことで初めは罪悪感を覚えた。だが、会うたびに鍵尻尾の方も少しずつ変化しているようだった。
 夏になる頃には病的だった姿も野良猫としての標準的な体型に戻りつつあった。
 眼つきの方も今までのくりくりとしたものから、野良の鋭利さを湛えるようになった。
 狩猟の方法を覚えたのか卑屈な状態からも子供の状態からも脱して、すべて鋭いだけの存在になっていた。
 やがて鍵尻尾は僕とすれ違っても、眼もくれずに通り過ぎるようになる。
 野良猫の矜持のようなものさえ溢れているようにみえる。


 まだ子猫だった頃、鍵尻尾を飼うことを思い描いていた時期を思い出す。
 今では飼うことなど考えられないほど、鍵尻尾は野良として成熟しきってしまっていた。
 人にたかれるだけのずぶとさ。他の猫を虐げることのできる攻撃性。毛並みも眼の色も性格もすべてが外猫の色に染まっている。
 僕と鍵尻尾は極めて健全な形で、ただの人間と、名づけられないただの野良猫として別々になった。
 餌を与え与えられる関係ではなく、すれ違うだけの存在になった。
 甘えた猫なで声はもう聞こえない。
 彼はかつての痩せぎすもわからないくらい立派な体つきになり、鍵尻尾だけが変わらないまま揺れている。


 あれから幾ばくか時間が経ち、僕は生きていくことに対してほんの少しだけ戦闘的になりつつあった。
 しかしながら多少気持ちが切り替わった程度では、まともに生きていくのに十分ではないらしく、スーツを必要とする仕事に就いては幾度となくやめる、ということを繰り返していた。
 鍵尻尾と出くわすときは必ずといっていいほど、弱っているときだった。弱っているときだけ鍵尻尾は偶然住宅街の通り道に寝そべったり視界の隅にふっと現れてくるのだった。
 野性味で満たされた彼に対して、僕は昔のように餌を与えた。鍵尻尾は餌のことを忘れたのか〈警戒〉をしてくんくんと匂いを嗅いだ。しかし微かな記憶があるのかすぐに〈警戒〉を解いて餌を食べた。餌は食べたが、もう足にすり寄ってくることはなかった。食べ終えるとすぐに離れて遠巻きに僕のほうをにらみつけるのだった。
 何見てんだよ、と互いに戦闘的になってガンをつけ合った。
 歪なしっぽが武器なのだ。
 やがて鍵尻尾は今までのテリトリーから離れたところでも見かけるようになる。
 その数カ月後、鍵しっぽと同じ三毛猫と黒猫の子供が、乾いた排水口でうずくまっているのを見つける。


「あの猫ね。家族いるんだよな」
 偶然出くわした向かいの家のおじさんが教えてくれた。
 子猫の元へ鍵しっぽが戻ってくる。
「嫁ゲットかよ。うらやましい奴め」
 僕もまた女の子をデートに誘えるくらいまで、強い気持ちを持つことができるようになっている。何度かフラれたが、だからどうした。
 鍵しっぽは僕を野良の瞳で一瞥し、そっぽを向いた。
「俺はどうなるかわかんないけどさ」
 つらい時期を、偶然の恵みで乗り越えた。
 僕にとっては彼が恵みだった。
 そうして強くなったのだ。お互いに。
 もうどこでも好きなところにいける。
 そんな気がした。

ひなたドッペル



 仮にその子の名前をひなたとしよう。
「仮に」をつけ本名を隠したのは、俺が塾講師だからだ。
 どれほど親密になったとしても、生徒の名前は決して公開してはいけない。
 規則を守るという意味でも。本人のことを考えてという意味でも。
 たとえ彼女自身が、この世界からみて〈透明な〉存在だったとしても。



「おかえり、せんせー」
 仕事から帰宅し、部屋に入るとひなたが迎えてくれた。
「ただいま。これ今日のおみやげ」
「うお、ゴディバのチョコだ。奮発したねえ」
 ひなたは俺の務める塾の生徒である。
 ドッペルゲンガーの出現によって生活を支配されたので、一時的に俺の部屋に住まわせていたのだった。
「チョコを買うくらいはなんともないさ」
 受験を控えた中学生を、健全な青年の部屋で預かるなど、非倫理かつ犯罪的であることは解っていたが、彼女のドッペルゲンガーこの目でみたのだから間違いなかった。
 まごうことなく、ひなたは生活を支配されて行き場を無くしていた。
 部屋で預かることは致し方ないといえた。
「贅沢なのはクリスマスだから? せんせーって、捻くれてるくせに素直なんだね。クリスマス爆破してえ~って、前授業で言ってたじゃん」
「爆発は願う。でもお祝いは祝う。じゃないとやってらんないからな」
 世間はクリスマス一色だが、塾講師にとってのクリスマスとは、受験シーズンに入る狼煙である。つまり戦闘が本格化しますよという合図だであり、この世とあの世の境界線。それならば、少しでもイベントには便乗して、心を楽にしておいたほうが良い。
「チョコの前にちゃんとした飯だ」
「弁当もスペシャルだね。ありがと」
「弁当だけじゃダメだから、いつもどおり野菜たっぷりの味噌汁も夜食で持っていく」
「律儀だねえ。居候にそこまでしなくていいのに」
「病気になられても困るから野菜は食っとけ。で、今日は何日目だっけ?」
「ちょうど一週間だよ」
「何事もなくて、何よりだな」
「でも、進展もない」
ひなたは悔しさと、申し訳なさの入り混じった神妙な顔で、うつむいた。


「気にすんな。最悪俺が捕まるだけだからな。【28歳男、職業塾講師。少女監禁の罪で逮捕】ってね」
「せんせーは悪いことしてないじゃん」
「ひなたも悪いことはしていない。だったらダメージを受けるのは大人が妥当だ」
「私の捜索願いが出されることがないのが、そもそも問題なんだけどね……」
「本人がすでにいるんだから、出しようがないよ。でもまあ、なんとかなるさ。だから【元の世界】に戻ったときのために勉強はしとけよ」
「気休めだよね、それ」
 ひなたは根拠のない励ましに対しては辛辣だった。
「あまり大人を舐めるなよ、と言いたいところだが。残念ながら為す術がないのは俺も同じだ。まあ7食7飯の恩義ってことで多めにみてくれ。あとこれからも飯くらいは出すから、あまり俺に当たるのはよしてくれな」
「ちぇ……。恩義が大きいから、強気にでれない。ゴディバも貰ったし」
 ぐぬぬと唸りながらもチョコレートを齧っている様子は、やはり中学生なのだった。
「いままでどおり、ちゃんと勉強してくれればそれでいいよ」
 なぜ彼女のような普通の子が、このような目に合わなければならないのだろう?
 おそらく神の手違いとしかいいようのない偶然。
 今のところは、そうとしかいえない。
 だとすればやはり神はポンコツだ。
 俺のような平凡な塾講師の手を煩わせているようじゃ、七日間で世界を造ったとはいえないだろう。
 ダメ神め。
 俺はどこまでも、神の存在に対して挑発を続ける。
 なので、お願いだから、少しでいいから、煽りながらも神に願う。
 この状況をなんとかしてくれ!



 ひなたを家に置くことになったのは一週間前。
 頭に雪を積もらせながら、猛吹雪の国道沿いを、ひなたは歩いていた。
 その日は記録的な大雪で、凍えている姿を見過ごすのも後味が悪かった。
「ひなたじゃない。また会うなんて奇遇だなあ。ってか大丈夫か? 具合悪いんじゃねーのか?」
 世間の目があるので、声をかけるべきか躊躇われた。
 しかし既知の間柄の生徒が苦しそうにしているのなら、声をかけてもいいだろう。
 親の迎えを待っているにしても、通常この辺の子供は、コンビニかスーパーの前でたむろをしながら迎えを待っているものだからだ。
 吹雪の中を歩いている子供を、家まで送っていくくらいは……当たり前ではなくとも、ちゃんと保護者に筋を通せば、まかり通ることだった。
 何より俺は、その前日もひなたを家まで、送っていた。
 そこそこ気さくに話せる間柄で、保護者とも面識があるので、吹雪の日に送って行くのは、一応の筋の通った選択だったのだ。
「また親が遅いのか?」
「また? ……うん。仕事が長引くからって……。だからバスを待ってたんだけど。この辺、来ないから。歩いていけんだろって」
 ひなたは頭に雪を積もらせたままか細い声で応えた。
「家が遠いもんなあ。乗ってけよ。受験前に風引いても駄目だ。親御さんには連絡しとくから」
「うん……」
 後部座席に乗せ「連日だとなんかおもしろいな」と話しかけると、ひなたは不思議そうな顔をした。


 新開発の団地の方面に車を走らせる。
 走る間、ひなたは放心したように、虚空を眺めている。
「ついたぜ。昨日の今日だから覚えている」
 やがてマンションの前で車を止めると
「降りない。降りたくない」
 ひなたは車に乗ってから、初めてはっきりと話した。
「なんだ? 家の人と喧嘩でもしたのか? 親御さんいい人そうだけど……。喧嘩でもしたのか? まあ家族はそれぞれだからなあ」
「そういうわけじゃない」
「そう? うーん。まあでも子供の側が抱え込んじゃうこともあるからさ。そういう悩める子供をカモにする大人も、世の中にはいるわけよ。俺みたいな奴は特にハイパー極悪人だからな。気をつけろよ」
 おどけてみると、少しだけ笑った。
「塾講師なのに?」
「子供と接する職業の奴は30人に一人は、やばい奴ってことだよ」
「先生は30人に一人の人なの?」
「そうだな。グレーもグレー。限りなく暗黒に近いブルーの暗黒塾講師だよ」
「いきなりヤクザだ……」
「暗黒武術会にも行ったことあるぜ」
「もはや妖怪じゃん……」


 ネタで盛り上がっていると、ひなたがそわそわしてきたので、俺は黙って、彼女が話すのをまった。
 聞きたいことがあるときは、話をする空気を作ってから、黙ればいい。
 キャッチボールは、ボールが一個だから成立する。
 言葉のキャッチボールも然り。
 片方が言葉を話しすぎるのはキャッチボールではなく、ノックになってしまう。
 あまり知られていないから、同僚もその他大人も、こっちの都合を話しすぎてしまうものだけど。
【いいから、先生に話してみろ】とか【どうして話してくれないんだ。そんなんだからお前は……】とか。
 俺からしたら、まったく甘ちゃんもいいところだ。
 スポーツと一緒で、元気でうるさい子供には、高速でボールを返す。
 反面、おとなしい子にはゆっくりボールを返さなきゃ。
 こういう精神的、心理的距離感を把握しているあたりが、暗黒を自称する所以である。


 やがてひなたは、ぽつぽつと話してくれた。
「【私】がいるから……」
「ひなたが家にいるからダメって、存在の全否定じゃん。さすがにひどいな……」
「違うの。喧嘩じゃなくて。両親とはうまくいってる……。でも家にはすでに私がいるから。この私の居場所はなくて……」
「ひなたがいる?」
 言っている意味がよくわからない。
「話しても伝わらないと思う。でも一時間くらい待ってればわかるかも。私は、月曜日は、夕飯を食べてからコンビニにジャンプを買いに行くから。ここで待っていてほしいんだけど……」
「時間かかるのか……。まだ五時なんだけどな」
 明日からは仕事だ。休みの夜くらいゆっくりさせてほしいものだが……。
「じゃあここで降ろしてくれて大丈夫です。私はコンビニのトイレで寝泊まりするから……」
「無茶苦茶いってんな。顔色わるい癖に……」
「でも、悪いし」
「夕食は六時くらい? 7時とかまでなら付き合ってもいいよ」
「あ……ありがとうございます。みれば、わかると思うから……」
 このときはまだ、ひなたの言葉はすべて妄言だと思っていた。受験生でノイローゼになったか、カフェイン中毒でおかしくなった程度に考えていた。
 二時間ほどの辛抱だし、生徒とこういう雰囲気で過ごすのも悪くないように思えた。


 俺とひなたはコンビニでジャンプとお弁当を買ってきて、ご飯を食べながら漫画の話をして過ごした。
 やがて6時半になり
「私だ、あれみて。私」
 ひなたが後部座席で呟いた。
 俺は彼女の指指した方角をみる。
 たしかに窓の外には、ひなたが歩いていた。
 雪にまみれながら、健脚な足取りでコンビニに向かっていた。
 俺はコンビニに車を止めて、一緒のタイミングでコンビニに入る。
 もう一人のひなたがジャンプを手に取ったところで偶然を装って声を書けた。
「よう。勉強はどうだい?」
 ポケットに手をいれて、動揺を隠す。
「あ、せんせー。こんちゃ」
 いつもどおりのひなただ。
「ジャンプ読むのかよ。まあ俺も読んでるんだけどな」
 俺は内心で焦りながらもいつもどおりの対応をした。
「ジャンプぅ? 大人のくせに~」
「漫画は文化だからな。ま、これも教養ってやつだよ」
「うわでたよ、ズルい言い草」
 軽く立ち話をしてから俺はさりげなく核心を尋ねた。
「そういや、ひなたって双子だっけ? なんか似た奴、みかけたんだけどさ」
「いや。私は一人っ子だよ」
「兄妹もいないんだ? いとことかも?」
「いとこは隣の県。だから間違っても、この辺にはこないよ」
「そっか。いやあ、本当に似た奴みつけてさ。変なこと聞いて悪かったな」
「ううん。全然、大丈夫……。先生は兄妹、いるの?」
「俺? 俺は妹がひとり。上京先で働いているよ」
「弟とかは?」
「あいにく妹だけだ。生意気なやつだよ。おかげで生意気な奴への対応力がついてしまった」
「ふふ……生意気ってウチみたいな?」
 ひなただけでなく、最近の子供は自分を呼ぶ時【私】と【ウチ】を使い分けるようだった。関西の風情が、北国の地方都市に馴染んだのかもしれないとも思う。
「さあね。じゃあ、勉強がんばれよ」
「ありがと! せんせーも彼女つくりなよ!」
「うるせえ! せいぜい滑るんじゃねえぞ」
「大丈夫大丈夫、老いてないし。運動も得意だからね」
 軽口を交わして別れ、車に戻った。



「ただいま」
「おかえり」
 車の中で声をかけると、別のひなたの声が帰ってくる。
「超高速で車に乗ったとかじゃないよな?」
「そんなことない。窓の外みて」
 車の窓の外ではひなたが歩いている。
 後部座席をみると、ひなたが座っている。
 俺は後部座席のひなたに問いかける。
「なあ。ひなたって双子だっけ?」
「ううん。一人っ子」「いとこは?」
「隣の県にいるよ。間違ってもこの辺にはこない」
 同じ返答。間違いない。同一人物だ。
 俺の脳内に様々な仮説が飛び交う。
 実は双子で俺を騙している説。だがメリットがない。
「知ってると思うが俺は貧乏だぞ」
「貧乏なんだ……でもどの業界も大変だってお母さんがいってた」
 高度な犯罪かもしれないと鎌をかけたが、どうやら違うようだ。
 自分の心が汚れていることに気付かされて、内心でへこんだ。
「とりあえず飯、食いに行くか。当然だが奢る」
「え、いいの?」
「当然だ。バレると社会的に危ないから隣町の蕎麦屋でな」
「なんだか申し訳ないな。ウチ、お小遣いあるから。食事代だすよ」
「子供が変な気を回さない。俺だって目上の人に奢られてきたんだよ。こういうときは素直に奢られるのがいいんだよ」
「んーじゃあ、バレンタインに義理チョコあげるよ」
「そうそう。そんくらいので十分。楽しみにしてるよ」
「ブラックサンダーで」
「100円くらいは出してほしいかな!」
 隣町の蕎麦屋へ向かいながら、俺はこの現象についての思索を試みる。



 蕎麦を食べながら俺は、仮説についてを話してみる。
「たとえばドッペルゲンガーが実在するとして、だ。ドッペルゲンガーの法則【自分と会ったら死ぬ】に従うならば、ひなたがひなたと会えば死ぬ可能性が高い」
「死ぬ……のか。やっぱり、そうなのかぁ」
 簡単な説明をしながら脳内でSFの知識を展開する。
 量子トンネル効果で、平行世界のひなたがすり抜けてきたと仮定。
 しかしその場合は、対象の質量はあまりに巨大ではないか?
 インターステラーという映画に出てくる、時空を超える空間が関わっているのか?
 その場合は、空間そのものが【人間が入れる程度】に歪んでいる必要がある。
 にわかSF的知識では対応できない。
 そもそもサイエンス・フィクションなのだから、実際に起こることではない。
 ドッペルゲンガー。都市伝説。断片的な知識のみで対応するしかできなかった。
「一回、思い切って〈私〉に会ってみたほうがいいのかな」
「ドッペルゲンガーに会ったら死ぬと言われてるのに、ほいほいと試そうとするなよ」
「んでも進展しないし」
「リスクが死っていうのは、かなり最上級の選択肢だよ。会わない方がいいに決まってる。でも、何か妙な記憶とかはないのか?」
 家から離れた住宅街を歩いていたことがすでに怪しかった。
「うーん。わかんないや」
「【ぐにゃぐにゃ】とかみてないの?」
「見てないかな。ってか【ぐにゃぐにゃ】って?」
 俺は映画の知識なのか、何故か【ぐにゃぐにゃ】を想像できた。
「【ぐにゃぐにゃ】はそういうものだよ。次元を渡るときのあれっていうか」
「アバウトだねえ」
「ひとまずはドッペルゲンガーの解釈として隣の平行世界から来た説でいけば、希望が持てる」
「根拠はあるの?」
「根拠はないが、科学的な論理性を駆使してドッペルゲンガーを読み解けばこうなる」
「文系って言ってたくせに……」
「ブルーバックスの好きな文系だから大丈夫だ。だが問題はひとまずの生活か……。とりあえず寝床は……俺は実家ぐらしだから、妹が使ってた部屋を使えばいい。飯は、俺の給料でなんとかなる。あとは……」
 俺はひとまずの方針を決めつつ【言いにくいこと】をいうことにした。


「あと、俺は。子供を趣味にするようなことはしないからな」
 がんばって顔を赤くしながら口にした。
「え? ごめん意味わかんない。子供を趣味って?」
 がんばって口にしたが、ひなたは不思議そうな表情をした。
「乱暴したりしないってことだよ」
「ああ。大丈夫だよ。せんせー優しいし」
 あまりにピュアなことを言うので、俺は蕎麦を啜りながら、少し泣いた。
「でもわざわざ、言うなんて、せんせーってピュアなんだね」
 ひなたはにやにや笑いながら、からかってきた。
 ピュアだと思っていたが、俺の勘違いだったようだ。
「大丈夫だよ。そういう趣味の人もいるって知ってるから。でもウチは色気あるからね。先生の守備範囲じゃないってのがわかって、ちょっと安心」
 当然だ。健全な女子中学生がわからないはずはないんだ。
 ちなみにひなたは色気というにはまだまだ全然だったが、誤解が生まれるので指摘しないことにした。
「察してくれて何よりだよ」
 ピュアなんだね、と言われて俺はまた泣いた。
 割りと頻繁に泣いてみせるが、もちろんガチ泣きではない。
 俺の嘘泣きをみてひなたはけらけらと笑うのだった。
 少しでも理不尽な現実が紛れるなら、いつだって嘘泣きでもなんでもしてやろう。


 ひなたを実家の部屋で預かることになり、二週間が経過する。
 何度【夢であったら】と願ったかはわからない。
 職場の塾にいくたびに、別のひなたがいる。俺は動揺を隠しつつ接する。彼女の家族があり、家や学校があり、友人がいる。
 家にいくと、ひなたがいる。彼女は別の自分によって、家や学校や友人とは離れてしまっている。
 彼女が表にでたらどうなるだろうか?
 難しい話だ。非常に、難しい話だ。
 問題は時間。いつまで、俺が持つかだ。
 この狂気の状況と、小さな女の子を監禁している事実に対して。
 自分より弱い存在が、しきりを隔てて隣の部屋にいる。
 彼女は社会的に〈透明な〉存在。
 彼女を助けるものは自分以外に存在しない。
 そのような状況に陥ったとして、何もしない人間が果たして存在するだろうか?
 よほどの成人君主でない限り、律するのは難しい。
 歯ブラシ、生活用品、食事は買ってすませた。
 漫画や参考書は俺の部屋から。衣服は妹のお古を使っている。
「せんせい。破れたズボン、直しといたよ」
 ダメージジーンズにうさぎのパッチをあてていた。田舎のおばあちゃんだろうか?
「これ卒業アルバム? わっかいね!」
 中学生にいわれたくない。
 とはいえ実際、ひなたが隣の部屋にいる日々は、安らかなものでもあった。
 生活の世話をしていると、飼育をしているような、背徳的な気持ちになる。
 俺は優しさの仮面の内側で残酷な思いがもたげるのを自覚する。
 だからこそ、逆説的に、この【現象】にどっぷりと興味を向けようと思う。
 実家暮らしで両親がいるといえども、独り身にしてみれば、誰かが待っていることは心強かった。
 隣の部屋で眠るひなたの頬に掌で触れた。この理不尽な状況と闘うために、眠る彼女をみて、少しだけ甘えたくなったのだ。
「ドッペルゲンガーだろうが、神の手違いだろうが。なんとかするしかないよな。聖人君主も……なんとかやってみるさ……」
 自分の気持ち悪さに辟易しつつも、俺は再びがんばろうと思う。


第二話 あべこべドッペルゲンガー



 事態が進展したのは職場でのこと。別のひなたによるものだった。
「ねえせんせ。この間、双子いるかって聞いてきたじゃん?」
「そうだけど」
 英語の構文を聞きに来た彼女に、ふいに尋ねられた。
「逆に聞くんだけどさ。せんせは双子とかいるの?」
 事態の複雑さを理解する。同時に一種の光明があることも悟った。
「双子はいない。けれど……」
 その言葉で俺は覚りをえた。心のどこかで予感をしていたことが、確信に変わっていく。勇気をだして、別のひなたに問いかける。
「その口ぶりだと。【俺】がもうひとり、いるみたいだな?」
 一瞬、驚いた顔をしてから、ひなたはすぐににんまりと笑った。
 もともと敏い女子だから、話が通じることは知っていた。
「私のマンションの空き部屋で元気にしてるよ。律儀に家賃と、勉強まで教えてくれてる。っていうか、隠密行動がすごすぎて家族に気づかれてないのがキモい。ま、それは良いとして。これは、私達が分析したルール」
 別のひなたはルーズリーフを折りたたんだものを俺に渡した。
「奇遇だな。俺たちも、この現象のルールについて考えていたんだ」
 俺もまた、このドッペル現象について考えたメモを渡す。


「ところで【私】は元気?」
「お正月はおせちの他に中華まで美味しそうに食べていたよ」
「よかった……。美味しいものないとすぐにへばるから」
「そっちの俺は、乱暴したり、していないよな?」
「安心して。一線は越えていないよ。紳士だよね。音を立てないで歩くとか、ありえないけど」
「金はどこから出てる?」
「魔法のカードを使ったらオールオッケーだっていってた」
 自分の財布をみると、クレジットカードを発見する。
 俺のカードがあるということは、もう一人の俺は所持品ごとドッペルゲンガーとしてこの世界に来たということになる。
「口座残高はみたくないな……ごりごり減っているんだろうな」
「あはは……」
「でもそうか……。良いことを聞いた。もうひとりの俺に同盟をつくろうと言ってくれるか?」
「私ら他人じゃないのに。同盟って、なんかおかしいね。いいよ、伝えてあげる」
「俺に、変なこと、されてないよな?」
「大丈夫。こっちのせんせは見つかったらブタ箱送りだから。ニンジャみたいに縮こまって、うまくやり過ごしてるよ。でも足音立たないのはやっぱキモい……」
「無音で歩くやつは、子供のときにニンジャの真似して練習したらできたんだよ。足の形にそって体重を抜くのがコツだ。体育の成績は3だが、俺は天才だからな」
 俺は落ち込むのも馬鹿らしくなってきて、開き直った。
「さいですか……」
 どうやらこちらのひなたも、もうひとりの俺と仲良くやってくれているようだった。


 ひとまずはふたりの俺とふたりのひなたで同盟を組むことにした。
 敵は狂気の現象、ドッペルゲンガー。
 味方もまた、自らのドッペルゲンガー。
 大きな味方を得たことで、この問題に対して立ち向かっていける気持ちになる。
 何せ自分が味方なのだ。忙しい時、つらいとき、自分の身体が増えてくれればいいと思ったことは誰でもあるはずだ。
 しかし涙がでてくるのは何故だろう?
 もう一人の俺の境遇は確かにつらいものだ。
 だが、何故俺だけが仕事をして、かつ貯金の残高を減らさなければいけないのか?
 分身だけが休んで、俺の負荷が強くなっている気がするが、考えたら負けだ。
 1月に入り、受験シーズンがいよいよ本格化してゆく。
 俺は本業である講師業に集中しなければいけない。
 現実の忙しさと、ドッペルゲンガーにかまけているおかげで、俺のダメージは人生で最高潮に蓄積していた。



 確認されていることはみっつ。
 ①俺もまたドッペルゲンガーとして複製されていた。
 ②所持品は本人の複製にともなって増えている。
 ③クレジットカードが使えるということから、平行世界の俺は同じ番号のクレジットカードを所持していること。
 ここから導きだされることもみっつ。
 ①ドッペルゲンガーという存在が平行世界から来たこと(所持品が増えている理由になるため)。
 ②クレジットカードの番号が同じになる程度に、限りなく同一の世界線から来たこと。
 ③そして俺のクレジットカードの残高が並行世界から来た俺によって、激しくすり減っていること。
「ねえせんせい」
「なんだ?」
 仕事を終え帰宅をし、自室で横になっていると隣の部屋からひなたが声をかけてきた。
「ウチ。もし、このままずっと〈透明〉なままだったら、どうすればいいのかな」
 ひなたが俺の部屋にきてから一ヶ月が経過していた。彼女が来たのは12月17日。クリスマスを経て、今日は1月17日。受験を間近に控えていた。
「英語長文もバリバリ読める。数学の文章題もちょっとだけできるようになった。でも、このまま〈透明〉だったら、ずっとこのままだったら、どうなるのかな?」
「ならねえよ。俺がかならず元に戻る方法を探す」
「いっそ芸術家になろうって思うの。ひとりで永遠に作品と向き合うんだ。具体的に何をやるかはわかんないけど……。ペンネームならきっと私自身が〈透明〉でもバレない。でさ。全部せんせいの名義にして、副収入にすればいいの。そうすれば、私はここにいても、いいよね」


 いじらしくも、ここにいる理由を彼女なりに考えていた。
 俺の不安が伝染したのかもしれない。
 そのとき電話がかかってくる。
 もう一人のひなたからだった。
「もう一人のせんせいから伝言。【クレジットカードを使え】」
 俺はクレジットカードを使う。俺は鬼の形相で通販サイトを開いて番号を入力する。
「どうしたの?」
 心配してひなたがPCを覗き込んできた。
【この番号は使用できません】
 俺は仮説の誤りに気づく。
 俺が今持っているクレジットカードが使えない意味。
 立て続けに、色々なサイトでクレジットカードを使ってみる。
【使用できません】【使用できません】【使用できません】
「だとすれば新しい仮説は……ちょっとコンビニいってくる」
「はいよー。チョコ買ってきてくれる?」
「もう夜遅いからだーめ」「ちぇ~」
 こちらのひなたも煽りを忘れないようだ。
 俺はコンビニに入り、ATMの残高をみる。
【このカードは使用できません】
「マジか……」
 俺は仮説を訂正する。
 訂正箇所は以下。

 ☓ ②クレジットカードの番号が同じになる程度に、限りなく同一の世界線から来たこと。
 ○ ②別の世界戦のクレジットカードはたとえ同一人物のものでも、細かい差異があるため、こちらの世界では使えない。

「マジかよ……」
 ここ一ヶ月は忙しさ故に現金を降ろしていなかった。
 推理の材料として自分の存在を度外視していたのだ。
 導かれる結論はひとつ。
「ドッペルゲンガーは俺のほうだったわけか」
 いよいよ、混沌が極まってきた。
 残金は残り少ない。
 もうひとりの俺に融通してもらえ、生活はできるが、俺ともうひとりの俺とこちら側のひなた、合わせて3人分を養う収入は、俺ひとり分では無理だ。
「ほぼ家族じゃねーか!」
 ツッコミをいれて笑うしかなかった。
 なんとかして帰る方法を探さなければならない。
 倫理的な面はもとよりお金がない。
 いよいよ時間的に追い詰められてきたのだった。



 俺は元の世界に帰るための方法を探すべく文献を漁ることにした。
 あちら側のひなたを中継して俺はもうひとりの俺と連絡をとり、仕事に行ってもらう。これによって時間を捻出することにしたのだ。
「あ、せんせ。調べ物は俺がやるから、お前は仕事にいってって、こっちのせんせが言ってる」
「お前は調べ物と称してサボるから駄目って伝えておいて」
 電話の向こうでひなたがごにょごにょと説明する。
「伝えたよ。【よくわかったな】だって」
「当然だ。俺のことだからな」
「【全部ブーメランだけどな】だって」
「漫才かよ!」
「ねえ。いっそ私達会ってみたらいいんじゃない? ドッペルゲンガーだったら、死ぬかもだけどさ」
「こっちもこっちで、同じこと言わないでくれ!」
 俺はどちらのひなたが、この世界に適していないのかを調べることにする。
 俺の場合は口座番号の差異が平行世界とこの世界の差異を表すものだったが、ひなたの場合は何が基準になるかがわからない。


「生徒手帳の番号はどうかな?」
 ひなたは頭をうねりながら案を出してくれた。
「記憶してないと、どっちがどっちか照合できないだろ」
「じゃあ足のサイズは?」
「ミリ単位だと難しい。他人に照合してもらえるやつじゃないと」
「じゃあ覚えている数字ならどう? えーと。テストの点数?」
「それだ!いけるかも」
「前の定着テストは確か、5教科で345点……」
 電話越しで向こうのひなたに伝える。
 数十分後、仕事にいっているもうひとりの俺に確認をとると、点数があっていた。
「俺の記憶しているひなたの点数は352点。350点を超えたって喜んでたのを覚えている」
「つまり私の方がこの世界の私ってこと?」
「そういうことだな記憶を頼りにしてよいかは不安がだが、もう一つ聞きたい」
「なあに?」
「ひなたさ、この前以外に、俺に車で拾われたことはあったか?」
「なかったよ」
「じゃあほぼ確定だ。俺はこの前より以前に、ひなたを車で拾った記憶がある」
「ウチは、この間が始めてだ」
 この記憶を、向こうのひなたにラインで尋ねると『覚えてるよ』と答えてくれた。


『実はね。あの後一日、身を隠していたんだ。先にドッペルゲンガーの存在に気づいたのは私だったわけ』
 向こう側のひなたはそう教えてくれた。
 おそらくはあちら側の世界で俺がひなたを車に乗せた時に、向こう側のひなたが一緒にこちら側にきた。
 ややこしくなったので整理をすると次のようになる。

・俺は向こう側の世界で雪の中を歩いているひなたを車に乗せた。
・この時点で俺とひなたは、隣の次元に転移した。
・俺が【ぐにゃぐにゃ】を無意識で覚えていたのはそのため
・ひなたを家に降ろし、一日だけひなたは身を隠していた。
・次の日、何事もなく生活をし、こちらの世界のひなたが困って、立ち尽くしていた。
・そのひなたを俺が車で拾った。

 隣にいるひなたは、こちらの世界のひなただと確信する。
 あとは帰る方法だけだった。
 最も大事な、核心。
 だが平行世界に渡る方法など、この地球上の誰が知っているというのだろう?
 最後の答えだけがわからず、時間だけが過ぎ去っていく。
 やがて2月になり、高校入試まで一週間が迫ろうとしていた。



 必要なのは線対称であること。
 携帯電話は二台ずつ。
 持っている装備もほぼ同一であること。
 そして想像力の確信を信じること。
 そもそも【平行世界から来た説】自体が合っているかもわからないが、時間が経過することで生活が困窮し、やがて狂気に見舞われることは間違いない。
「この本の内容が正しければ、俺達は帰れるはずだ」
 俺は知り合いの数学専攻の友人に聞き込み、時空間に関係する仮説を教えてもらった。


 必要なのはゆらぎを発生させること。
 事故や衝撃によって世界の輪郭にブレが生じごく天文学的確立で【門】が生まれることがあるのは、広く周知されていることだが、平行世界へと連なるゆらぎによって向こうから来た同一人物に限り、同じ人物が背中合わせに重なり合うことで、ゆらぎを発生させることができるという。
 ただし相手の姿を認知した場合、ゆらぎは歪になり、発生した次元の隙間が対象者を挟み込んでしまうという。
「ドッペルゲンガーに会うと死ぬっていうのは、こういうことだったんだな」
「相手を認識しないで背中をあわせるって、無理じゃない? 背中も見ちゃ駄目なんでしょ」
「ついでに、声も交わしたら駄目になる」
「かなり無理じゃん」
 平行世界から紛れ込んだ自分と接触をすることで、次元の歪みが発生し、飲み込まれてしまうということ。


 現象は都市伝説として簡略化され【出会うと死ぬ】に集約される。
 ドッペルゲンガーを消すためには、触れ合わなければならない矛盾。
 だが俺たちは奇しくも【ふたり同時】にドッペルゲンガーとなること……すはなち平行世界からの流入を果たしたことで、解決の糸口を得た。
 あくまで可能性のひとつに過ぎないけれど。
「ひとつだけ方法がある」
 俺は提案をする。
「背中合わせでいくんだ。俺とひなたで」
「ってことは?」
「こっちは俺が前、ひなたが後ろ。向こうはひなたが前、俺が後ろ」
「なるほど……ただし、声は出しちゃだめ……」
「そう。このことは携帯電話越しで、俺があちら側のひなたに伝達する」
「うう……うまく伝えてよ私……」
「メールで文書にするから大丈夫だ。フリーメールで宛名も変えてあるから大丈夫」
「次元って奴も結構アバウトなんだね」
「アバウトでも賭けるしかない」
 うまく行けばいいが。
 かくして俺たちは次元のゆらぎを発生させるため、ドッペルゲンガーと本物の背中合わせを行う日取りを決めた。
 決行は三日後の土曜日。ひと目が怖いので場所は川べりの奥で。
 うまくいくことを願いながら二日間を過ごした。
 ひなたに異変が起きたのは、決行の前日のことだった。


第三話 さようならドッペル、こんにちはゲンガー



 決行の前日。ひなたは何故か意味もなく、腹を殴ってきた。
「ちょ、晩飯を買ってきた人にグーパンとか……倫理はないのか?」
「宿敵を倒そうと思ってさ」
 によによと笑って、ファイティングポーズをとっている。
「確かに勉強しろとは言ってたけど。物理的に教師を倒してもテストは倒せない」
「いや……なんだか隣の平行世界に帰るみたいだから。実質眼の前にいるせんせーは、この世界から消滅するってことでしょ? だったら好きにいたぶってもいいかなって思ってさ」
「どうせ別れるから慰謝料をふんだくろう、みたいな発想やめて?」
「慰謝料はふんだくらないけどさ。ガムとかってさ。最後の一枚だともったいなくて、ついたくさん噛んじゃうでしょ」
「俺はガムか」
「うん。いたぶりがいがあるから」
 再びの腹パン。学生時代は運動部だったのでそれなりに腹筋はあるが、女子中学生の小さな拳は、意外と圧力がかかる。
「痛い、痛いって。やめろよ。やめろって!」
 止まる気配がなかったので、つい背中を押してしまった。力加減を誤って、飛ばしてしまう。
「おわ! ってぇ……」
 ひなたは背中から壁に叩きつけられる。


「ごめん。すまない……もし角があったら、後頭部が危なかった。本当、すまない」
 しおらしく肩をすぼめて謝ると、今度はタックルの要領で突っ込んできた。
 俺はもんどりうって、背中から倒れる。
 ひなたは俺の上にまたがって、見下ろしていた。
 拳を握って、俺の胸を叩いてくる。
 拳を掌で受けとめた。
「何すんのさ!」
「殴っている側のセリフじゃないけど」
 俺はゆっくりと、ひなたの拳を握り、起き上がる。
 逆の拳で叩いてきたので、こちらも掴んだ。
 ひなたの両手を掴み、座りながら向き合う形になる。身長差があるのでどうしても見下ろす形になってしまう。 
 眼を細めて、じっとみつめると、眼をそらした。
 頬はもともと赤っぽいから、紅潮しているかどうかはわからない。
 口元が、何かを話したそうに震えていた。
 俺はすべてを理解する。
 愛着でも錯覚でも、勘違いでも。起こり得るものは起こり得る。
 人間がそういうものだと知っている程度には、俺は恋らしきものを経験している。
 同時に彼女の勘違いの好意を真に受けない程度には、大人だった。
「わかってるよ。気づいている」
「うん……」
「でも、俺はあっちに戻るよ。こっちに残る俺は、俺であって俺じゃない。ひなたの……いや、違うな。【君】の知っている俺じゃないんだ」
「うん……わかってる」
「きっとこんなことになったのは、神の気まぐれなんだよ。事故とか、吊り橋効果みたいなもので。何より君はまだ子供だ。鳥の雛が、最初にみた者を親と認識するのと一緒で……」


 ひなたが猛烈な力で腕を振りほどいた。
 次の瞬間には、俺の頬をぶっていた。
 びたん、と音がするほどの威力だった。
「いったあー!!」
 叫んでは見たものの、きっと彼女の掌も痛かったに違いなかった。
「最っ低!!」
「最低じゃないだろ。正論で……ごふ!」
 腹パンが俺のお腹に食い込んだ。
「じゃあ見捨てればよかったじゃない! ドッペルゲンガーなんてこと信じて。何週間も部屋に泊めてるくせに。男の人は怖いから覚悟してたのに!」
「悪いことじゃないだろ。ってか俺だって嬉しいんだよ。若いことこんな経験できるなんて。でもさ。俺は発想がもう低次元なんだよ。若いこと同じ目線で、ドキドキなんかできやしないんだ。ひなたは俺じゃなくてさ。この一件が解決したらちゃんと受験して、高校生になって。子供らしい恋を」
 まくらが飛んできた。いよいよ両親に怪しまれる可能性を考えた。
「ううう……うう……」
 鞄に教科書が飛んでくる。紙の辞書は直撃するとまずいので、腕で的確にガードする。
 顔を挙げると、ひなたは唇を噛んで泣いていた。
「私の心まで、勝手に決めないでしょ。なんでもわかった気になって、そういうものだっていいやがって。わかってないのはあんただ。そういうもんじゃないんだよ! 鳥の雛? 吊り橋効果? 子供らしい恋? ふざけんな! あたしはあたしだし、ここに湧き上がってるものは、嘘なんかじゃない! 嘘なんかで泣けるわけないじゃない! 嘘なんかで怒れるわけないじゃない! 嘘なんかで殴るわけ……」
 ひなたの眼からすぅ、と光が消えた。
 おもむろに窓を開ける。
 冬の冷気が部屋に入ってくる。


「下は雪か……」
「おいまて。やめよ。二階だよ」
「死ぬつもりはないよ。でもあんたと一緒にいられないでしょ。こんな醜態晒して。
 雪は積もってるか。うまいことやれば雪の積もっているところまでは2メートルはないね。身長くらいの高さでもめっちゃ高いけど、雪があるなら大丈夫だよね」
 ひなたは窓から身を乗り出し、ゆっくり足を外に出した。
 手を伸ばし、つかもうとする頃には、もう身体のほとんどが外にでていた。
「危ないって」
「うるさい!」
 後から手を掴むと、暴れた。姿勢が崩れ、俺まで落ちそうになる。


「わかった。暴れられて下手に落ちたら怪我になる」
「怪我なんて関係ないもん!」
「だからさ。俺も落ちる」
「え? そういうこと?」
 いっその事、ふたりで落ちたほうが楽だと思い、俺も窓枠から足を伸ばした。
 雪は1メートルほどの高さまで積もっている。二階部分からすれば、大した距離ではない。
「せーの」
「え? せっ」
 三十路間近の身体能力でも、なんなく落ちて、ずぼりと雪に着地した。
 脇を見やるとひなたも無事に着地して、雪に深く足を埋めていた。
「冷たーい」
「家の車庫に長靴があるからそれを履こう」
 雪国の車庫には雪かき用の長靴が置いてある。
 長靴を履くとひなたは走り出す。
 少し走ったところで、俺の方を振り向いた。
「一緒に落ちただけじゃ足りないんだからね!」
 吹雪の吹きすさぶの夜の中を、遠くへ向かって走っていく。
 追ってこいということらしい。
 俺はやけくそになって、長靴をかぽかぽさせながら、走り出した。


10


 ひなたを追いかけて、やがて公園にでる。
 雪国の夜の公園は、つもりきった雪に外套の光が反射して、そこはかとなく白い。
「はあ、はあ、ふう……」
 ひなたは公園の中心まで走ってから、力尽きたように膝に手をついて息を切らした。
 俺はというと、完全に息があがっていて、ふともももふくらはぎも、もう限界ですと悲鳴をあげていた。
「ぜえ、ぜえ、ま、足はや……」
「雑魚ぉ~。前授業で6秒台だったって自慢してたじゃん。1500メートルも五分切ってて、クロスカントリーにも入賞してたんでしょ?」
「大人はみんな漏れなくクソ雑魚なんだよ……運動神経を生贄にして仕事して、お金に変えるんだ」
「そして大事なことを忘れる」
「さあな。大事なものなんて、はじめから持ち合わせてなかったのかもな」
「でも気持ちに気づいた。気づいてくれた癖に!」
 あろうことかひなたは、筋肉痛になった俺に掴みかかってくる。
 支えきれずに倒れた。
「この、この!」
 またぽかぽかと叩き出した。
 なんて暴力女だ! 加減を解っていない。俺はうんざりしてきたのだ。
「いいかげんに!」
 なけなしの腹筋でおきあがり、雪の上で押し倒した。
「冷た!」
「そんな格好のまま飛び出すからだ」
 ひなたは部屋着のパーカーのままだった。
 俺もセーターを着込んでいる程度だったから、冬の夜の防寒にしては、あまりに無防備だった。


「でも、温かいね」
 ごく自然に、くっついた。
 雪の積もりきった公園の真ん中で、真っ白になりながら抱き合った。
 馬鹿なんじゃないか?
 明日には別れる相手なのに。エモーションを差し出している。
 エモくなっている。
 今になって俺の中で、ひなたの言葉が反響していた。
 彼女の拳のひとつひとつが、エモだったなら。
 同じ分だけ返したくなった。
「あのさ」
「なによ」


「【好きになった!】」


 俺の声は思いの外大きく、住宅街で反響した。
 こだまするほどの声で、伝えてしまっていたのだった。
 一気に顔が赤くなる。
 俺の声を聞いたためか、近くのマンションの窓が開く音が聞こえた。
「あ、ありが……」
「逃げるぞ!」
 俺はひなたの手をとって走り出す。
 長靴の底なんかは、もう雪が入ってしまって、靴下から何からびしょびしょで、足先も軽いしもやけになっていて、家に帰るとき両親になんていいわけをしようか、とか、ひなたをもう一度俺の部屋に輸送するにはどうしたらいいだろうか、などを考えながら、筋肉痛の痛みも無視して、走り続けた。
 家に至る並木道にでたところで、足をとめて息を整えると、ひなたは息ひとつ切らさないでうつむく俺の顔を覗き込んでくる。


「あのさ。さっき、何言ったかよく聞こえなかったから。もう一回いって?」
 まったくこの女の子はどこまでドSなのだろう。
「こだましてただろ」
「こだましてたからちゃんと聞きとれなかったんだよ」
「もう一回だけだからな――」
 俺は、もうどうにでもなれと思って、もう一度叫んだ。
 再び反響した。今度はコンビニのところまで聞こえたかもしれない。
「にゃはは、知ってる。うん。これくらいで許してあげるよ」
 心の隅っこでは、やはり俺は自分のことを馬鹿なんじゃないかと思っている。
 けれど同じ屋根の下で、同じ問題と闘って、仕事をしながらでも楽しくやれる相手なんて、そうそういないこともわかってた。
 馬鹿もので、大馬鹿者だ。
 でも、誰かが笑ってくれる馬鹿ものならば、間違いじゃないのだろう。
 家に帰るまでの短い距離を、ひなたの手をとって歩いた。
「先にいっとくけど。元気でな」
「うん。わかってるよ。これ以上は、お互いつらいだけだからね」
 明日、俺は元の世界に帰る。
 雪の中、ぶつかりあった思い出だけを残して。


11


 土曜日、俺は人気無い辺境の、雪に埋もれかかった稲荷神社の前で、向こう側の、つまり俺と同じ世界のひなたと待ち合わせをした。
 ひなたのとなりには、こちらの世界の俺が、背を向けて座っている。
 条件はみっつ。
【ドッペルゲンガーは互いを観測すれば対消滅する】
【しかし背中を合わせればドッペルゲンガーは互いを観測しない】
【背中に触れることは観測ではなく、世界をつなぐ条件としてカウントされる。背中を触れることで、門が開く(かもしれない)】
「やあ、せんせい。こちらの私はどうだった?」
「いささか情熱的だったな」
 俺の隣ではひなたが、ドッペルゲンガーに背を向けている。
 振り向けば死。次元だとか平行世界同士の矛盾が生じて、空間の重なり合いに飲み込まれて死ぬとかなんとか。


 観測をしてはいけないので、俺のとなりのひなたは無言。
「じゃあ始めよっか。向き合っている側が背中を合わせよう」
 俺と向き合ったひなたが、合図をする。
 俺は背中を向けて、俺自身と背中をあわせる。
 ひなたも背中を向けて、背中を合わせた。
「目をつむり、触れながら観測を遮断するんだっけか」
「うん。観測しているかいないかの、ギリギリの状態を作るんだって。それが【あわい】だとかなんとか」
「この稲荷神社が関係している理由なのか……。解明なんてできるものでもないのだけど……」
「とにかくやってみようよ。眼を摘むって黙るの」
「まってくれ。さよならをいうから」
 今話をしているのは、俺と一緒の世界戦にいるひなた。
 好きになったひなたじゃない。
「元気で。さよなら。ありがと……それしかいえなくて、ごめん……」
 ひなたは答えない。答えれば、おそらく世界線が混濁するおそれがあるためだ。
 しかし我ながらなんて不器用な言葉だろう。
「あとは、大丈夫。始めよう」
 俺たちはドッペルゲンガーと背中合わせになった。
 誰一人声を発しないまま、静寂が訪れる。
 風に木の葉がささめく以外は、まったくの無音。
 やがて冷たさが降りてきた。


 何か光のようなものが、照射されている感触。
 太陽の光とは異なる、身体から熱が奪われるような光。
 おかしな表現だが【冷たい光の波長】ともいうべき感触が、身体を包み込んでいた。
(金縛りっていうのか。意識はあるんだが肉体の感覚がないのか)
 委ねることしかできない。
 ぴぃぃぃぃ、とか、きぃぃぃぃ、といった耳鳴りがする。
 瞼を瞑っているはずなのに、瞼の裏には小さなつぶつぶの光が点滅する。
 明らかな、この世のものではない光。
(ああ。この景色だ。だから俺は【ぐにゃぐにゃ】を覚えていたんだ)
 ひなたはどうしているだろう。無事に、帰ってこれるだろうか。
 半分、意識を失いながらも、俺達は【ぐにゃぐにゃ】に身を委ねていく。


12


 眼をあけると稲荷神社の前にいる。2月の日差しが瞼にあたって少し眩しい。
 隣をみるとひなたが横になって眠っていた。
 携帯を開くと、メッセージが届いてバイブレーションを鳴らしていた。両親からの、捜索のメッセージだった。
 こちらの世界に帰ってきたことで、電波が繋がったのだ。
 二ヶ月近くもドッペルゲンガーとしてあちら側で過ごしたのだから、元の世界で捜索されていないわけがなかったのだった。
 すぐに、ひなたにも捜索願いを出されているだろうと思い至る。
「これは……社会的に大変なパターンだな」
 俺は今後起こり得る手続きを想像して、辟易した。
 それでも、無事に戻れたなら何よりだった。
 後々の処理は、ゆっくりやるとして。まずはひなたの安否だ。
「ひなた……起きれるか?」
「ん~。おはよ」
 無事に目覚めてくれたなら、問題はクリアだ。
 高校受験にも間に合ったことだし、ひとまずは彼女の大切な人生の節目が、過度におかしくなることはないだろう。
「無事帰ってきた。これからが大変そうだ。俺のおすすめは【片方づつ帰る】だ。
 一緒に帰ったら俺は確実に誘拐犯でブタ箱行きになる。俺は友人のツテを頼って、どうにかするか、高飛びしてアリバイを作るから。とにかくひなたが先に帰って、お父さんとお母さんを安心させてあげな」
 ほっとすると、何故か、涙腺が緩んだ。


「せんせ? 泣いてるの?」
「大事な人と、別れたから。でも君はひなたであって、ひなたじゃないから」
「ふうん……。私と、何かあったんだ」
「うん。向こう側の君と、色々なことを……話したんだ。それでも現実は襲ってくるから。やることは目白押しだ。俺は社会的には児童誘拐犯だからな。高飛びして……アリバイをつくって……大切な人と別れて、悲しんでいる暇もありゃしない……」
「ふふ……言いたいことはわかるよ。でも、高飛びした先で、誰か女の人作ったら、通報してやるからね」
 ひなたは体を傾けて、泣いている俺の眼を覗き込んでくる。ぼやけた視界に、彼女の姿が映る。
 成長期の赤い頬。紅潮した耳元。どこかしもやけじみた頬。
 ひなたはくすくすと笑っていた。
「いろんなことを整理したり。辻褄合わせたりするところは頼りがいがあるんだけどね。大事なところが、鈍すぎるんだから」


 まさか、と思う。
 ぽかんとしていたから、たぶん俺はマヌケな顔をしていたんだと思う。
「せんせがせんせと背中をくっつけて。私が私と背中を合わせて。稲荷神社の門が開く時に、私は私の考えることがわかったんだ。そりゃそうだよね。ドッペルゲンガーでも同じ人間なんだから。言葉なんか交わさなくたって、視界に入れちゃいけないルールがあったって。私は私だもの。平行世界だろうがなんだろうが、考えることは一緒なんだよ」
 そして、この前みたいに勢いをつけて腹パンをしてくる。
 パンチを受け止め拳を掴み、柔らかい力で握りかえすと、ひなたは手を絡めてくる。
「ま、さか……」
「そのまさか、かな。言いにくいんだけどね。入れ替わったの。だから、私は私だよ」
 このとき俺は、これからのことや、現実の面倒くさいしがらみがどうでも良くなるくらい、この世界に帰ってきて、良かったと思った。
「だから泣く必要も、ないっていうか。でも、泣いてくれて嬉しいかな」


 俺は別の理由で、またくしゃくしゃと泣き出した。
「絶対、ちゃんと復帰しような」
「当然だよ。だって一ヶ月以上も一緒に暮らして。こんなに平気だったんだからさ」
「一旦逃げて……また帰ってこよう……」
「私のところにね」
「ああ……。いろんなしがらみも、うまいこと飲み込んでやるよ。そのかわり、いい女の子になってよ……。あと、受験もがんばれよ」
「今生の別れじゃあるまいし。でも、もしブタ箱に送られたら。さしいれしてあげるよ。にひひ……。だからさ。せんせーも。人生がんばってね」
「がんばるさ。またゴディバでも買ってくるよ。いっそ本場まで飛ぶのもありだな」
「楽しみにしてる」
 ひなたは先を歩いていく。
 2月のひなたに照らされて、雪の上に薄い影が伸びる。
 温かくてあわただしい日々がやってくることを想いながら、俺は雪に塗れた道のりを歩きだした。

怪人とキス



 円柱状の水槽の中で人型の者が眠っている。直立した姿勢にはチューブが連なり、口 元には水槽の上部から垂れ下がった呼吸器があてがわれている。
 一日に一回、私は『それ』に栄養を与える役割を命じられていた。
 こぽこぽと水の流れる音が部屋に反響している。
 かつて実験室だった頃のなごりか、床には格子を付ける穴が開けられている。今は格子は取り払われているが、かつてはいくつもの檻が置かれていたことが窺える。その格子の穴を超えて人型の者に近づくたびに、恐怖のようなものを感じる。
 一歩、近づくたびに姿が露わになっていく。
 始めは輪郭。
 側頭部から異常に盛り上がった角は、頭がい骨が変形したものだという。なんでも脳に対するダメージを減らし、五感を高める効果もあるらしい。
 肩から突き出た棘も獣的な凶器を連想させる。これも骨が変形したもので、天然の凶器の役目を果たす。
どうしようもなく鋭利なのだ。


 触れるほどの距離に近づくと、照明に照らされて、皮質の細やかな紋様がみえた。ざらざらとした表皮は水にぬれていることもあってか、粘膜質の気もあった。それでいて、やすりのように硬そうでもあり、触れるだけで指の皮がさけてしまうことが予感できる。
 私は、持ってきた液体パックの封を切り、水槽脇の機器にはめ込む。点滴の要領でパックの液体が機材に充填される。バルブをひねるとパック内の黄色い液体が流れ水槽に連なるチューブが色づいた。チューブを通じて成分が人型の者に流れ込んでいるのだった。
 成分といっても、栄養のあるものではない。人型の者を眠らせるための悪い成分なのだった。こんな不健康な色の液体を直接体に与えるのはよくないことなのは、知識のない私でも推測できる。身体に悪いものをわざわざ投与するのも悲しい話である。
 けれど人型の者を造った主『造物主』にとっては彼が動かないほうが有益ならしい。



「彼は改造に失敗したにも関わらず、生きてしまった。忠誠心もなく、戦闘力も不完全な歪な存在だ。
 ゆえに無下には殺さず、薬の効果を試させてもらっている」
 そう造物主は述べ
「相応しい末路だが。壊れものなりに、役に立っているのは良い事だ」
 残酷な笑みを浮かべる。
 私は造物主の言葉に対し、そのとおりですと肯定する。私の言葉は『この』人型の者の存在を否定するものだったが、私は本来、造物主に従うようプログラムされている。
 造物主には人型の者を『それ』と呼ぶことを許されている。
『それ』は動かない今となっては、薬の実験台として扱われるのがいいという。
 人の形をしていながら人でない。
 棘のある肉体をしているが、もう動くこともない。
 造物主が定義したとおり、私は『それ』を物として扱うことを正しいことだと認識する。


 造物主は主に人間を改良することを生業としていた。
 私は可愛い容姿だったので、造物主から服従のシステムを与えられることで生きながらえていた。ある程度人間の面影も残しているので、自我を保つこともできていた。


『それ』は彼によって身体に手を加えられた存在だった。
 改造されたという点で、私と彼は同じはずだった。
『それ』が私と違なる点は、いささか度が過ぎた改造だったせいで現在は植物状態になっているということだった。
 暴力性が容貌に現れている点において、私と彼は異なっていた。
 力を持たない私のようなものは、視覚のみですくんでしまう。
 ふと、水槽の水面が揺らめいた。
 動いたのではないか、と身体が震える。
 以前、不安のあまり造物主に尋ねたときは「絶対に動くことはない」といわれ、頬をぶたれた。「与えている薬はすべてが毒薬だから、あとはただ衰弱するのみだ」と造物主は断言した。「毒薬の性能実験なのだ」と朗らかに微笑んだのだった。
 自分もいずれまた、『それ』のようになるのではないかと恐れた。しかし身体がひ弱なので、もし彼のようになったとしても、苦しまずに逝けるだろうと思った。
 水槽の中を覗くと『それ』は微動だにせず佇んでいる。


 相変わらずおぞましい攻撃的な容貌をしている。
 心なしか日に日に肩の棘が鋭利になっている気がする。
 毒を受け生命活動が駄目になっているせいで、肩の棘ばかりに栄養がいっているのかもしれない。古代の化石のようにカルシウムばかりに気を取られていて、内臓は萎縮してしまっているのだろう。
 やはり『それ』が動くことはないのだと思う。


 そう結論づけたとき、こぽり、と泡が吐かれるのが見えた。視線を向けると今度は、ごり、と何かのひしゃげる音が聞こえた。
 泡のような些細な変化だったならば、まだ自分をごまかすことができたのかもしれない。
 まばたきのたびに、眼の錯覚かと疑いながら、私はその光景に意識を吸い寄せられる。
『それ』にあてがわれていた呼吸器が、吸い込まれるように口元に消えている。
 培養層で水中に浮かべられて生かされているのだから、呼吸器を外すことなどできないはずである。たちまちに溺れてしまうはずである。しかし、現実に『それ』はごり、ごりと呼吸器を噛み砕いて頬を膨らませている。
 あてがわれた呼吸器を食べているのだ。
 口を覆っていたものをどうやって中にいれたのだろうか。疑問は解決されないまま、呼吸器は跡形もなくなる。
 やがて膨らんだ頬が収縮する。
『それ』は噛み砕いた呼吸器の断片を吐きだす。
 口から噴出された破片が水槽にぶつかり、ガラスにひびがはいる。
 呼吸器を噛み砕いたのは食べるためではなかった。破片を吐き出すことでガラスを内側から壊す算段だったのだ。



 口からものすごい勢いで呼吸器の破片を吐き出しガラスにひびを入れた後、『それ』は肩の棘を突出しひびにぶつけ始める。ひびに肩の棘が食い込むたびに亀裂が走り、水槽が震撼する。
 動けるなら、初めから肩の棘でガラスを壊せばいいのにと思う。何故、呼吸器を噛み砕き破片をはきだす、などの理不尽なことをしたのか。
 ばりん、ばりん。
 わけがわからなくなってくる。
 ばりん、ばりん。
 私は怖くなって頭を抱え込む。水槽が破壊される音を聞くのをただ受け入れることしかできない。
 ガラスが割れ、水の噴出する音で『それ』が解きはなたれたことを理解した。
 なすすべもなく黙って丸まっていよう。
 そう考えて私は膝を折り、両腕で頭を覆ってダンゴムシの姿勢になった。
「顔を上げろ」
 重力が消失し、つり上げられる。右腕を掴まれ引っ張りあげられているようだった。肩の骨が外れそうで痛かった。


「眼をあけろ」
「はい」
 目を開けると視界に凶暴な顔が映る。頬まで避けた口、発達し口腔に収まり切らない八重歯。平行四辺形のように吊り上った眼はすべてが白く、心を映し出す『瞳』と呼ばれる器官とは、およそかけ離れている。
「素直な奴だな」
「私は、そういうものですから」
 正直に述べると『それ』は、ふうんと興味のないように頷いた。もはや『それ』は『それ』でも『人型の者』でもなかった。
蔑称のそぐわない。
『怪人』だ。


「お前、失敗作だろう」
「はい。そうです」
「さしずめ奴隷か」
「はい。そうです」
「まあ、ここはお礼を言っておこうか」
「そうなのですか?」
 それから怪人は【体を動かすことはできなかったが意識が残っていたこと】や彼自身の成り立ちについての説明をした。
 植物状態ではあったが改造の失敗で動けなくなったわけではないこと。健康な改造ではあったが造物主の用途にそぐわなかったために毒薬の実験台にまわされたことなどを話した。
「お前はこの数日間、指定された毒物を栄養剤と間違えていたんだ。ここ数日はとても旨かった。おかげで体を動かせるようになってしまった。今なら鉄でも食えそうだぜ」


 私はある一定期間から間違って栄養剤を投与していたのだという。
 そのことに対して失敗した恐ろしさはあったが、不思議と悪い気持ちももたげなかった。
 任務を遂行できなかった罰で処分されるだろうとだけ思った。
 今、この怪人に殺されなくても、他の仲間に処刑されてしまうだろう。
 失敗をしたなら、どのみち何をしても、私は死ぬ。
 しかし、目の前のこの怪人は生きている。
 私が消えても、この怪人が生き残れそう。
 だから私の間違いは悪いことではない。
 仮にこの怪人に殺されても、食べられても、むしろいいことに思えてくる。
 どうしようもない私が、より健康な誰かのためになったのなら、それは有意義なことだった。有意義だと思ったら怖さは薄れていった。



「これから、どうするのですか」
 怖くなかったから訪ねてみた。
「ちょっと造物主を殺しにいってくるよ」
「それは、何故ですか」
「俺は服従のプログラムがかからなかったらしいからな。それで無理やり仮死化された。逃げるにしてこの姿じゃあじり貧だ。自由になるためには根元から殺さなきゃ同じってことだ」
 そうして怪人は肩の棘を伸縮してみせる。私が感じた暴力性は、間違いではなかった。この者は怪人として高位の力を備えているようだった。
「それじゃあな」
「待って」
 背を向ける怪人に私はよりかかる。
「なんだ」
 大きい胸板にもたれる形になりながら、私は振り向こうとする彼の頬にキスをする。


 怪人は特に何も感じないらしく、どうでもよさそうな表情をしている。
「お前は、そういう生き物なのか」
「ええ。私はそういう風に『服従』のプログラムを組まれています。ただこんがらがるといけないから『服従』のプログラムを持たない『怪人』だけに私は従うのです」
「人間の姿をしているから人間と勘違いしてしまったが……。俺のようなものに、こんなことをするなど。やはりお前も気がふれている」
「でも、造物主の改造がなかったとしても、私は同じことをしたでしょう」
「どういうことだ?」
「造物主に施されたプログラム以外の、人の感情によって」
「くだらないな。そんな奴はいらん」
「では待っていることにします」
「……勝手にしろ」
 こうして怪人は振り向くことなく、ドアを蹴破って外にでた。力づくで壁を破壊し歩いていく。その背中を私は見送る。


 やがて壮大な破壊と戦闘の音が数日間続いた。
 研究施設の破壊される音が止んでからも、私は怪人のいた実験室に留まって待ち続けることにした。
 かなりの時間がたってから、私は人間の組織に保護され、精神を疾患しているものとして、病院に収容された。
 生物学的な検査も受けたが、怪人と同じ類としては見られなかったようだった。
 あれから怪人がどうなったのかはわからない。造物主を含む諸々を破壊しつくしたのかもしれないし、どこか遠くで幸せに暮らしているのかもしれない。
 怪人の頬にしたキスを最後に、私が誰かに服従をすることはなくなった。
 怪人にしか服従できないゆえに、自立して動くこともない。
 最後に発生した服従のプログラムは【怪人が死んだ後も永遠に待ち続ける】という簡素なものだったが、決して不幸なことではないように思えた。

エネルギーボールの蜜月【短編集】

エネルギーボールの蜜月【短編集】

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-08-06

Copyrighted
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