memento mori
死んだ、らしい。何故そんな客観的なことを申すのかと言えば自分の体がどう見ても薄橙の肌とは大きく掛け離れていたからだ。無論視覚は機能しておらず、ならば何故自分の姿を確認できるのかと言えば、自分が自らの死体の側に膝を付いているからだ。
しかしもう少しまともな死に方をしたかった。山中でうっかり滑落して呆気なく死んでしまっただなんて何とも虚しい終わりではないか。因みに遺体は岩に激突して後頭部は弾けてしまっている。体のあちこちも変な方向に曲がっており、幾ら球関節人形でもこんな悪趣味な関節の曲げ方は知らないだろう。持ち主は人形を愛するが、神は俺なぞ愛してくれなかったらしい。
山と言えど蒸し苦しい夏真っ盛りで、辺りでは油蝉がけたたましく鳴いている。どう見ても弔いの経には程遠く、銀蝿が集るわ卵を産み付けるわ、列を成した蟻がはみ出た脳を小さく千切るわで、死体は順調に腐乱している。
誰か見付けてくれないだろうかと透明な体で浮遊を試みたが、何故か体は死体から離れない。どうやら臍の辺りから自分という魂と思わしきものが排出されたらしいのだが、どういうわけか体と魂が離れることはなかった。
リュックにナイフやら鋏やらは詰め込まれているが、そんなものを自分が掴めたら苦労はしない。体から切り離されたら誰かに自分の存在を知らしめ、そしてとっととあの世に逝く。それがたとえ天国だろうが地獄だろうが、差異などあるはずもなく。少なくとも此処よりはきっとましなのだ。
そう考えると、自分を第三者に発見してもらおうという意味なんてないはずだ。自分には家族も友人もいない。山に訪れたのもひとりで……そういえば何故、自分は此処へやって来たのだろう。それが不思議と思い出せなかった。
自分が自分の上方をぐるぐると旋回していると、ふと木漏れ日が揺れて光が自分の体を透過していることに気が付いた。ぶんぶんと蝿達がダンスをし、服の裂け目からは蛆が顔を出している。まるで新たな命の誕生を祝福するかのような光景であったが、生憎拍手する気にはなれなかった。
『人の体で何してくれてんだ』
葉擦れが声を書き消していく。声すら初めからなかったのかもしれない。それでも腐り始めて虚しい肉に成り下がる自身から目が離せなかった。
登山にしては小さすぎるリュック、底の薄いスニーカー、肘が色褪せた青いフランネルシャツ、それから腰からはみ出す封筒と思わしきもの。初めから命を落とすつもりで来たような出で立ちに、虚しさは益々膨らむばかりであった。その癖風は柔らかく、過度な湿気を含みつつも死体に残された頭髪をさらさらと撫でては山の頂上へと駆け巡る。野鳥すらぴいぴいと鳴いて羽撃くものだから、自分の死などこの世界では重要性などなく、自身の証明すら紙面がなければ生きて死ぬだけの生き物だった。
死んだ自分と、肉を求める蝿や蟻、生まれる蛆、それから無関係そうに歌う鳥に蝉。すべて自由だった、
自分だけが身動きが取れぬまま、ぼんやりと空を仰ぐ。あまりに狭い空であったが、真夏の蒼に差す緑葉はさわさわと心地好さそうに揺れては微笑んでいる気すらした。
――そんなものよ、とすら語りかけるようで。
『……ああ。そういや、死にに来たんだったな』
ひとりぼっちが寂しくて、死を悼む人すらいない世の中に絶望して首吊りに向かおうとした最中の、一瞬の出来事。お陰様で自分は死に、己が死に立ち会った。誰も泣くものがいないのだと世界を呪って自死を選択しようとしたのに、いざ死ぬと確かに誰も悲哀に暮れることはない。
そこに死体があって、様々な生命が群がるだけ。涅槃であったら生きとし生けるもの達が心を痛め落涙の洪水に溺れたのだろう。しかし人間の一般男性を誰も憐憫の目を向けない。ただ必死に、必死に生きている。
生きなければ死ぬ、死んだら終わる、ただそれだけのことだった。彼等は自分の亡骸を媒介に命を繋いでいるに過ぎず、そこに弔いの意すら与えてはくれない。しかし自分の体が分解される様は人生の三十年よりももっと有意義な時間だった。
朝が生まれ夜が飲み込み、太陽はギラギラとしたり顔をし、雨が溜息をつきながら零す。一昔前のキネマトグラフのように手動で時間が巡るように、自分の体はどんどん腐乱した。
剥き出しになる眼球や臓器、臭いが尽きた頃に浮き出す白骨、蟻や蝿達も次第に姿を消し、稀に獣が腐肉を啄む。それから黴が生え、菌が増殖し、蝉の鳴き声が途絶えた頃に、自分はすっかりとお洒落な白骨死体へと変身を遂げていた。
誰も来なかった。光差す谷へ紅葉が落ち始める頃、自分はどんどん枯葉へと埋もれていく。眼孔からはよく分からない芽が息吹き始めていた。そう言えば数週間前に鳥が糞をホールインワンしていたことを思い出した。蛇が側を這って行ったり、ワラジムシが体を寝床にしたりと、皆相変わらず気侭だった。服には苔さえ蒸し始めていた。
冬が到来すれば二度と人に発見されることはないだろう。しかしもう、それで良かった。折り重なった葉が増え、腐れば土となる。そうして自身は柔らかな土に抱かれて分解され、今度こそ死を遂げる。その頃には自分から生まれた虫や動物達も死に、植物も来世にバトンを繋げることだろう。
『……なんだ、悪くはなかったな』
どうしようもないほどに惨めな人生だった。こんなに不幸な人間は自分以外に存在しないと豪語できるほどに、兎角虚しい数十年だった。愛も哀れみも金も権利も学もない、それでも唯一平等に与えられたのが死であり、それが終着に至らぬのだと自分の残骸から伝えられた。
自分の肉体がちいさな生命の輪環を築いた、それだけで少しだけ、報われた。本当は何ひとつ報われていないはずなのだが、自分の死はそれほどにちっぽけであったし、偉大であった。生命を成した枯骨はこれからも土の一部と化して生命を生かす礎となるのだろう。そうしたら次は何が生まれて、何が死ぬのか。谷の行く末の見届けたさに成仏や来世のあくがれすら捨て去り、痩せ細った骨に未だしがみつきながら体育座りをする。
紫がかった蒼が暖色の紅葉を揺さぶり落としていく。死ぬことすら忘れた魂は空への昇り方すら忘れ、世界に弔われた骸と共に輪廻の中央へと佇む。忘却された生はそこで確かに死んだ。そして生かして、生きた。男の顛末なぞ誰も知らなくていい、空白の明日が自分の魂に記憶されたのなら、有象無象の流転に終わりがないのなら、それで良い。
memento mori