ノート1ページ分の些末な世界
「例えばこの世界が、誰かの夢だったとしたら」
僕という存在は本当は誰かの夢の中の登場人物であり、その夢を見ている《誰か》の目覚めとともに消えてしまうような、そんなちっぽけな存在なのではないか――なんて、SF小説ではありがちな、極々ありふれた題材について僕は毎晩のように悩んだりしている。それもかなり真剣に。
十代の頃ならいざ知らず、三十半ばという年齢になった今でも僕は自分が本当は何者なのか不安になる。
例えば僕は就寝前の習慣として日記を書いているのだが、翌朝の起床時には前日に起こったであろうことを記したその日記の内容を見ても全く身に覚えがないのである。
昨夜の日記では自分はどうやら健康志向の建築家だったらしい。その日のジョギング中にあった出来事と次に取り組みたいことなどが細かく書かれていて、余白には横文字の商品名と値段の走り書きがしてあった。後から調べてみるとこれはとあるメーカーの断熱材の商品名だということが分かった。一昨日の日記では娘が結婚すること、それから妻からもっと真剣に生命保険の見直しをしてくれと小言を言われたことなどが書かれていた。こうしたことは、それこそ十代の頃から度々、否、毎日のように続いていた。
現実の《僕》は僕自身の年齢を把握しているし、毎日の時間の進みにも違和感を感じることもない。それなのに、僕の中からは日記の中の出来事――もっと言えば日記を書き始める前後の記憶だけが自分の中から抜け落ちているのだ。
僕は記憶の空白がこわかった。この記憶はどれだけ正確なのか。僕はいったい何者なのか?
不安におそわれながらも僕はこの生活をやめることはできなかった。
「それ、日記書くのやめたらいいんじゃないですかねー?」
気怠げな彼女の声が頭上から聞こえて、八割方眠っていた意識をなんとか覚醒状態に引き戻す。
私は机に突っ伏したまま目線だけを頭上にいる彼女に向けた。液晶を覗く彼女からは私がこのあいだ買ったばかりのシャンプーの香りがする。なんでこの子はいつもいつも人の物を勝手に使うんだろう、と思わなくもないけれど、今はそれよりも彼女の感想を聞きたい。
「全然というか、なんというか、この主人公の彼が言うようにありきたりで使い古されたテーマだからこそ、そっから話を広げられなかったらゴミっていうか」
よもやゴミ呼ばわりとは。いつものことながら酷い言われようだった。
「比喩みたいなもんですよぉ」
「ゴミにゴミ以外の意味ある?」
「まぁ、そのへんは思い付かないので《ない》という見方もありますけど」
再び机に突っ伏して溜息を吐く。私は自分自身がスランプに陥っていることも、物語を書き始める前の構成段階ですでに破綻した駄作ばかり量産していることも自覚していた。
「……あ、先輩、ふて寝しないでください。それからパソコンを枕にしちゃダメです。変なボタン押ささっちゃいますよ」
彼女は背後から肩越しに手を回して私の上体を起こし、それから互いの頬と頬をぺたりとくっつける。彼女と出会った頃はよく面白がって指摘していた方言は今では慣れ親しんだものになってしまって違和感すら感じなくなってしまった。
「先輩はいつもどおり女の子同士の物語を書けばいいじゃないですか。向いてない《僕》の話を無理に書かなくたっていいんですよぉ」
「でもぉ」
反論する私の言葉を無視して彼女は自分の手を私の手の上に重ね合わせて言う。その仕草はまるでピアノの先生がこどもにやさしく弾き方を教えているようだったけれど、言葉そのものは全然優しくなんてなかった。
「いいから、いいから。さっさと指動かしましょ! 締切もうすぐですよ!」
しかし私は締切という言葉には弱く、それ以上に彼女に弱かった。
自らの苦手に向き合い克服したいだとか、挑戦したいテーマだとか、私の理想や希望なんて彼女の言葉の圧力の前では無意味になる。
「取材も検証も全部私ですればいい。彼らの物語なんかいらないです。私が物語に必要な彼女たち全員になってみせます」
だから――、
私には彼女さえいれば他に何もいらなかった。
要するに私は大多数の彼ら――生み出すだけ生み出した彼らの、ノートに書き殴った一ページ分だけの命を捨てて彼女を選んだのだ。
「例えばこの世界が、誰かの夢だったとしたら……?」
恐る恐る問いかけた私に、彼女は迷わずに答えた。
「そのときは先輩の最後の夢の登場人物になりますよぉ」
ノート1ページ分の些末な世界