また逢いましょう

塚田遼

  1. Part1
  2. Part2

「また逢いましょう」は日常に空虚さを感じ愛情に飢えながらも決して他者と深くかかわることが出来ない人々が、ネットの世界で傷つけあい苦しみながら何かを求めていく姿を描いた小説です。読んでいただけたら嬉しいです。

Part1

 1

 あの男に復讐するために別人になってやる、そう心に決めた遥はノートパソコンの前に座っていた。同じSNSにあの男の目に付きそうな少女として登場すれば、きっと食いついてくるに違いない。

 今までの本名をローマ字にしたHARUKAをやめて、ハンドルネームはありきたりな名前、ユミにした。
 あいつはよく音楽の話をしていた、プロフィールは音楽好きにしよう。あまり自分と同じではばれてしまう、好きな音楽は洋楽にしよう。遥はそれほど詳しくはない洋楽の知識を掘り返し、あの男が以前にメールで名前をあげていたバンドの名前をいくつか大好きなアーティストだと載せておいた。
 どうせ女子高生好きのロリータ男だ、年齢は自分と同じ十七でいい。いや、全く同じ年齢だと不自然かもしれない、十八にしよう。
 
 キーボードを打つ手が止まると、昨日の屈辱を思い出した。遥の指が震えた。
 

 昨日、遥は待ち合わせ場所で待っていた。初めて会う約束だった。SNS上で知り合ったその男、ユージは遥よりも八つ年上の社会人だった。二人は三ヶ月もの間毎日ネット上でメッセージのやり取りを交わした。
 ユージはいつも会いたがっていた。遥は会ってしまえば、全て失ってしまいそうな気がして拒んでいた。ユージは実際の私を見たら幻滅してしまうかもしれない。
しかし、毎晩のように優しいメールを送ってくれるユージに会いたいと思う気持ちも遥の中で募っていった。


 そんなユージが待ち合わせにやってこなかった。いくら待ってもやってこなかった。遥はその日、高鳴る期待を抑えられずに一時間も前から待ち合わせ場所に着いてしまい、時間をつぶすのに苦労した。普段は制服以外では穿かないスカートを穿いた足が心細かった。髪形も変じゃないかと気になって、何度も公園のトイレの鏡でチェックした。

 遥は決して美しい少女ではなかった。そのことは遥自身が最もよく分かっていた。いつもは鏡を見るのが嫌だった。ユージは、   

〝会ったら嫌いになるかもしれない〟

 と送った遥に、

〝君はメールのままの君だよ、容姿とかそんなの関係なくて、そのままの君に会いたいんだよ〟

 と言ってくれた。遥はこの人なら私を受け入れてくれるかもしれないと期待を持つようになっていった。

 待ち合わせ場所の若者たちでにぎわう喫茶店に約束の時間に再び戻った遥はその後四時間もそこで待つことになった。ユージは現れなかった。
遥が何度もどうしたのとメールを出しても、ユージの返事は来なかった。しかし、遥はその場を立ち去ることが出来なかった。

 四時間経って、それでも未練を残しながら店を出た遥は、喫茶店で約束の時間中に遭遇した客を思い描いていた。ユージからあれほど会いたいと言ってきたのだ。来ないはずがない。ユージは来ていたに違いない。私を見つけ、そして帰っていったのだ。あれほど、容姿など関係ないと言っていたにもかかわらず、あれほど毎日メールを交わしたにもかかわらず、ユージは私の容姿が気に入らなかったから帰ったのだ。遥はそう確信して怒りと屈辱と哀しみの入り混じった抑えがたい感情に苛まれて、路上で歩きながら涙をこぼしそうになった。しかし、こらえた。泣いた自分はさらに惨めだろうという気がした。

涙を流すよりも、あの男に復讐しよう。私にこんな屈辱的な気持ちを味わわせたあの男を私と同じ目に合わせてやろう。

 遥は一晩かかって、そう決心した。もう一度ユージと接触をとる手段は簡単に思いついた。別アカウントを作ってユージに近づけばいい、それもあの男の好みに合う少女を装って。

 ネット上のユミはどんな男も振り返るような、美しい少女だ、私はその美しい馬鹿女を操って、あの男、いや、全ての馬鹿男に復讐してやる。


  2

 女性は好きな男に抱かれているとき、最も美しい顔を見せる。それは桐島の実感だった。優子の部屋のベッドの上で彼女に腕枕をしながら桐島はそう思った。関係が深まっていけばいくほどに、こちらに心を許せば許すほどに、美しくなっていく。好きな男の前で幸福を感じているとき最も美しくなる、よく出来ているものだ。男の方はどうなのだろうと考えてみた。

 しかし、少し考えてすぐにどうでもよくなって、桐島はベッドの横に置かれたワインの瓶を手に取る。コルクを開けて瓶を銜え口に含む。コンビニで買った安いワインだった。
桐島はそのまま優子の顔を上に向かせ、キスをしながら彼女の口にワインを流し込んだ。優子の喉が微かに音を立てるのを桐島は聞いた。
 口を離すと優子は照れくさそうに笑う。
「私ばっかりに飲ませてずるいよ」
 しかし、桐島は再びワインを口に頬張り、また優子に口移しで飲ませた。

 ワインを口移しで飲ませることは、誰に教わったわけでもないが桐島の得意なことだった。同じことを優子がやろうとすると大抵上手くいかず、ワインはシーツの上にこぼれた。
 ワインを口移しで飲んだり、氷を口に含みながらキスをしたり、下着の上から乳首の位置を当てたり、コンドームの風船でバレーをしたり、桐島はそんなベッドの上での他愛のない遊びが好きだった。

「そんなに飲んだら酔っちゃうよ」
 という優子は桐島にはすでに十分酔っているように見えた。桐島は無言で優子の頭を撫でて、またワインを流し込んだ。


「帰るの?」
 ベッドから起き上がった桐島の背中に優子が言う。
「ごめんね、明日も会社あるしさ、今日、着替え持って来てないから」
 下着を穿いた桐島がズボンを探すために電気をつけると、優子は慌てて体を毛布で隠した。

「待ってよ、電気暗くして。私も着替えるから。駅まで送るよ」
「かまわないよ。もう遅いから、一人で帰るよ」

 着替え終わった桐島は、ネクタイは締めずにそれを鞄に押し込んで、まだベッドの上にいる優子に向き直った。

「それじゃ、また。週末かな。メールするよ」

 優子は名残惜しそうに、毛布で胸を隠しながら桐島の手を引き、ベッドに呼び寄せてキスをした。桐島はそれにしばらく応えてから、優子を押し倒して離した。
「駄目だよ、帰りたくなくなるだろ」
 ベッドに横たわった優子は上目遣いで少し笑いながら桐島を見ている。

 急いで服を着た優子は結局マンションの玄関まで桐島を見送った。
桐島が歩き出してから、もう一度振り返るとまだ彼女はドアを閉めずこちらを見て手を振っていた。そのことが桐島には嬉しかった。


 優子のマンションから目の届かないところまで歩いた桐島はポケットから携帯端末を取り出して電源を入れた。メッセージが届いていた。二時間前のものだった。


〝こんばんは~! 今日は一番行きたい会社の最終面接が通ったんでご機嫌で家で一人でビールで祝杯あげちゃってます(^‐^)あたしも何とか社会人になれそうじゃぁ☆〟

 
 桐島は歩きながら返信文を考えた。単純におめでとうだけではつまらない。音楽でも一緒に送ろうか。お祝いに飲みに誘うというのは、自然な流れでいいかもしれない。この女子大生との間にももう長い間メールが続いている。そろそろ会ってもいい頃に違いない。


〝ごめ~ん、会社同僚と帰りに飲んでて返事おくれちゃったよm(__)mそして、こんぐらちゅれいしょ~ん!! やったね、ヨッ、社会人! それじゃ、お祝いにどっかで食事でも奢ったげるよ。社会人の先輩としてさ(^o^)v〟


 駅のホームで送信を押す。そして桐島は受信履歴をうろうろと彷徨った。そしてまた別の女性へのメールを打とうと思いついたときに、ホームに電車が到着した。


   3

 遥は街を歩いていた。家路へと急いでいた。高校二年になってから、学校は休みがちになっていたが、今日は久しぶりに登校した。相変わらずつまらない場所だと思った。

 男女が仲良さそうに話している光景を見ることが何より遥の嫌いなことだった。幸い遥の高校は女子校であったが、休み時間に耳に挟むのは男の話ばかりだった。男の話でなければ、聞く価値もない誰かの悪口だった。
 遥はただ押し黙って机に座り、休み時間になると教室を抜け出して、誰も来ることのない校舎裏へと急いだ。

 街を歩きながら、肩を組んだり手をつないだりして歩くカップルの姿を見ることが、いつも遥を苛立たせた。だから街にはあまり出たくなかった。こいつらは一体何を共有していると言うのだろう。男はみんな馬鹿ばかりだ、結局見た目にしか関心がない、セックスしか興味がない。この女たちはそんな男と腕を組んで、何を幸せそうな顔をしているのだ。どいつもこいつも、みんな醜いカップルばかりに見えた。恥知らずだ、お前たちが今夜ベッドで全裸で抱き合うのを想像すると吐き気がする。遥は軽く頭を振って、周りに注意を向けるのをやめようとした。

 登録をしなおすとユージはすぐに食いついてきた。あまりにあっけないため、拍子抜けがしたくらいであった。そのユージの最初のメールは以前遥に最初に来たものと寸分変らぬ内容であった。遥は男のワンパターンさをあざ笑った。
 アート系を気取って、洋楽や絵画の話をするくせに、お前は一人一人の女の子に違う文章を書くことすらできないのか。
 遥はメールでユージがかつて話していたことをほぼそのままにユミの趣味として話した。好きな音楽、好きな映画、好きな画家。みなユージに合わせて書いた。
 ユージはそれに飛びついてさも自慢げに、かつて遥に話したのと同じ知識をもう一度ユミに教えてきた。
この男と会わないでよかった。そう遥は思った。こんな馬鹿と付き合う羽目になっていたら、どうせ後悔するに決まっている。

 遥はクラスメイトたちのSNS上のグループにアップされた修学旅行の写真の中から、遥のクラスで最も美しいと思われる遠山真奈美の写真を拡大して切り取り、自分だと言ってユージに送った。返信としてユージの写真が送られてきた。気取ってはいるが冴えない男だった。お前が容姿で他人を選別する資格があるのかと遥は思った。

 街を歩く遥の鞄が震えた。メールが届いている。ユージかも知れない。馬鹿がまた、鼻の下を伸ばして間抜けで気取ったメールを送ってきている。


  4

 デパートの時計売り場で、包装された時計を桐島は受け取った。桐島はそれをすぐ隣にいた優子に無造作に渡す。そして会計をすませた。

「よし、行こう」

 二人はデパートを出た。その日は優子の誕生日だった。桐島は優子に時計を買った。どんなものを買えばいいか分からない彼は、優子と二人で時計売り場に出かけ彼女に選ばせた。五万円前後と大体の予算を言っておいたが、優子が選んだのは三万の時計だった。日頃、金がないとこぼしている桐島に優子が気を使ったのかもしれないと思った。

 建物の外に出て、夜道を並んで歩いていると、急に優子が立ち止まって桐島の方を向いた。

「ねぇ、ありがとう」

「あぁ」

「ホント、嬉しいの。何かそれしか言えなくてもどかしいけど、今日はホントにいっぱい嬉しいの」

「分かってるよ」

「分かってないよ、ありがとう、ずっと大事にするからね、ホントありがとう」

 桐島は軽く眉をひそめ、優子の肩を掴んで前を向かせた。そして後ろから彼女の耳に口を近づけて小声で言う。

「分かってるから大丈夫だよ」

 そして優子の肩を押した。優子は押されて二、三歩歩き、少し立ち止まり、そしてまたうつむきながら歩き出す。桐島はその後を追って歩き出した。
 そしてふと、こう思った。
 あぁ、人生は何て退屈なのだろう。
 どんよりとした倦怠に包まれて夜空を見上げた。
 俺はこの女を一生理解しないだろうし、この女も俺を一生理解しない。理解? 理解がどれほど大切なのだろう。俺は何を望んでこの女にプレゼントを贈ったのだろう、この女に何を求めているのだろう。
強烈に他の女が抱きたくなった。このくだらない夜があといくつ続くのだろうと星を見ながら考えた。


   5

 新しいアカウントを作って公開し、ユージが寄って来そうな記事を載せていると、二、三日の間に多くの男が話しかけてきた。目当てはユージ一人であったが、それでも何人かに返信したのは自分の弱さのためだろうと遥は後で思い返した。
 返信したメールの中で、またそのうちの何人かとは連絡が続いた。すぐに会おうとする男や、性的な話をしてくる男、何となく嫌になった男を切っていくと、残ったのは二人だった。

 一人はハイドと名乗っていた。遥よりも四つ上の二十一歳でフリーターだった。最初はあまり特徴のない普通の若者だと思っていたが、次第に陰鬱な面が見えてきた。遥がふと口にしたクラスメイトへの不満に同調して、いかに世の中には馬鹿が多いかを語ってきた。そうした暗さ、負の感覚がそのときの遥には心地よかった。彼はSNS上のメッセージではなくe-mailを使いたがった。そして長々とメールを送ってきた。


From: "ハイド"
To: "ユミ"
Sent: Wednesday, April 16, 2018 1:25 AM
Subject: 周りの人々

 ユミさん、こんにちは。ハイドです。
 僕もユミさんの話には全く同感です。なぜ人はみんなあれほど群れたがるのか。群れたがるだけであれば、勝手にやっていればいい、しかし群れたがるやつらは、群れない人に対して圧力をかけてくる。
 僕もユミさんのように、中学高校時代は、休み時間はいつも一人で本を読んだり音楽を聴いたりしていました。

 一人であることを、強く意識できない人間には、本当に他人を理解することも、愛し合うこともできないと僕は思います。
 
 やつらはみんな薄っぺらです。淋しいのが嫌だから一緒にいるだけ、みんなと同じように薄っぺらなポップスを聴いて、みんなと同じように間抜けなハリウッド映画を観て、みんなと同じように毎週何時間もバラエティ番組を見ることに費やして、そして気が付けばもう年をとって何も分からずに死んでいくのです。

 僕はそうじゃない生き方がしたい。もっと感覚を研ぎ澄ませて、もっと自分や他人を見つめて、もっと深い愛情を持って、生きていきたいと思っているんです。
 ユミさんにはそのことが分かってもらえるかなと思います。ちょっと僕の独りよがりでしょうか。

 それでは、明日バイトがあるので今日はこのへんで。おやすみなさい。

ハイド

 遥が連絡をとるようになったもう一人は、二十七歳のサラリーマンだった。ミツと名乗っていた。彼は、ハイドよりもずっと気楽な文章だった。文体もくだけていて、内容もくだけていた。しかし、そのくだけた文体に遥はぎこちなさを感じた。この男は本当はこんな性格ではないのでは、ひょっとすると年齢もごまかしているのかもしれない。それが逆に遥の関心をひいた。見破ってやりたかったからかもしれないし、あるいは自分を偽っているらしい男に自分自身の姿を見ていたからかもしれない。

〝ユミちゃん、こんばんは~! 新しい時間割にもそろそろ慣れたかなぁ。俺の方はっていうと入ってきた新入社員がすんげぇ体育会系で何だか負けそうだよ(*_*) こっちがパシリにされそう(笑) ミツ〟

 遥は二人にも遠山真奈美の写真を送った。ハイドは「僕が思っていた通りの人だった」と言ってきた。遥は苦笑した。相手が自分に抱いている妄想がはっきりと提示されて、騙し通せていることを愉快に感じた。ミツは「思ってたより、ずっと綺麗じゃん、おいおいこれマジかよ」と書いてきた。見透かされたような気がして、ひやりとした。しかし、ばれるわけがないと思い返した、それにばれたとしても私に何のリスクもない。


   6

 玲子はホテルの天井を見ていた。桐島はその上に覆いかぶさるように体を乗せた。玲子は軽くそれを押し返した。

「こんなことしてるのを知ったら、悲しむ人がいるんだよね」

 呟くように玲子が言った。桐島は体を玲子から離して彼女の顔を見る。

「平気平気、言わなきゃばれないって」

「あんた、五年前と変ってないよね、全然」

「俺はまだ三十五だぜ、そんなに老け込まないってば」

「そうじゃないよ、誰でも五年も経てば色々変るよ。あたしももう前のあたしじゃないし、あたしとあんたの関係ももう前みたいじゃない、でもあんたは全然前と変らない」

 こんなときに面倒なことを言うなと、心で舌打ちしながら、桐島は玲子の耳元に口を寄せて優しい声でささやく。

「分かってるよ、でも今夜はさ、みんな忘れよう。昨日のことも明日のことも、今夜はみんな忘れて楽しもうよ」

 玲子は大声を出して笑った。

「そういうとこが変ってないっていうの。相変わらず何やってんだかねぇ」

 桐島は諦めて、寝転がり大の字に仰向けになった。

「あぁ、もう。これだから俺をよく知ってるやつは扱いづらい」

「でもよく知らない人に手を出すほど勇気ないくせに」

「何か馬鹿にしてるだろ。でも玲子は優しいから結局させてくれるんだよね、きっと」

「あたしがいつ優しかった? それって幻想。あんたも彼女いるんでしょ、昔の女とこんなことしてていいの?」

「いないよ、彼女なんて。俺にはいつでも君だけだよ」

「はいはい、ねぇ、カラオケでも歌わない?」

「カラオケ歌いに来たわけじゃないの」

 桐島は改めて玲子の上に乗りかかる。今度は玲子も抵抗しなかった。昔馴染みの体は、桐島には少し痩せて感じられた。


 ことがすんで、シャワーを浴びてバスローブをまとい、冷蔵庫からコーヒーを取り出して飲んでいる桐島を玲子はベッドの上から眺めていた。

「何?」

「終わったあと、着替えるのが早いのも変らないんだね。それ嫌われるよ、女の子に」

「よく言われるよ、よく言われるけどね。飯食い終わったあともすぐに食器片付ける方だし、映画館でもエンドロールを最後まで見ないし、性格なんだよね、セックスに限らず。余韻とかそういうのいらないんだ」

「変に理屈っぽくて人の言うこと聞かないのも変らないね。そんなに偉そうに威張ってても、ホントは淋しいんでしょ、女の子に甘えたいんでしょ。でも、あんたの淋しさを埋められるのはあたしじゃないみたい。残念だけどね」

 普段は女性に見透かされたようなことを言われるのは嫌いだった。しかし、そのときの桐島にはなぜか少し嬉しかった。ただ、当たっている気もしていなかった。淋しいといった単純な言葉に換言できるようなことではないと思った。そして、仮にもし自分が淋しいとしても、その隙間を玲子が埋められないとすると、優子にも誰にも埋めることはできないのだろうと思った。


   7

 遥はユージと会う約束を取り付けた。ユミの名でメールのやり取りを再開して、二ヶ月目だった。当初考えていたよりも、時間がかかった。その間、何度も遥は復讐のためではなく、ユージとのメール自体を楽しんでいる自分に気がついてそれを戒めた。

 待ち合わせは同じ駅にした。しかし、同じ喫茶店では疑われるかもしれないと考え、駅近くの公園を選んだ。遥はその公園に隣接するファミリーレストランの二階の窓際に席を取った。見つけられても以前待ち合わせをした女だと気がつかれないようにキャップを被り、色の薄いサングラスをかけた。そのサングラスのためによけいに目立っているのではという若干の危惧を持ちながら。

 
〝待ち合わせのときに、分かりやすいような目印がないと不安。ねぇ、ユミはお花とかプレゼントされるの好きなの(^‐^) 駄目かなぁ? ユージに大きな花束持ってきてほしいなぁ〟

 どうせ待ちぼうけにさせるなら、恥ずかしい格好の方がいいと遥は考えた。花束を持たせることにした。ユージが嫌がって断るかもしれないとも思ったが、返ってきた返事は快諾だった。パソコンの写真によって容姿が整っていると分かっている相手には労を惜しまないのだろうと考えると忌々しくもあった。

 ファミリーレストランの窓からは、公園が一望できた。約束した場所は、時計塔の下だった。その少し大きめの公園は、真ん中に池があり、ベンチと時計塔、端の方に子ども用の遊具がいくつかあった。休日の昼間であるためか、人は多かった。家族連れが子どもを遊ばせていたり、老人が散歩をしていたり、カップルがベンチで休憩をしていたり、様々な世代が集まっていた。
 約束の時間にニ、三分遅れて、時計塔の前に痩せて背の高い男が現れた。ジーンズに白いワイシャツだった。爽やかな好青年を演出しているのだろうと思うと遥は冷笑した。遠目には男は写真よりも端正に見えた。大きな花束を持っていた。遥はいくらくらいしたのだろうと考えた。あの大きさなら一万円くらい? 上からでは何の花かは分からないが、青い花だった。きっとユージは花を渡すときにその花にまつわる薀蓄を語ろうと考えているに違いないと遥は思った。

 時計塔の下で花束を抱えて待っている男は、確かに周りから浮いていたが、ある種の微笑ましさも漂っていた。そのことが遥には気に入らなかった。もっと間抜けな格好をさせればよかったと悔やまれた。
 
 男は落ち着かない様子で絶えず辺りを見回したり、携帯端末を何度も取り出したりした。遥はドリンクバーのコーヒーをお代わりした。新しいコーヒーを入れて席に戻ってくると、まだユージが待っていることが可笑しかった。約束の時間を十五分過ぎてユージからメールが着た。


〝あれ? 見当たらないよ。僕、かなりデカイ花束持ってるから、すぐ分かると思うんだけど、待ち合わせ場所とか間違えたのかな? 今どこか連絡ください〟


 もちろん返事は出さなかった。ユージが遥のメールに返事を出さなかったのと同じように。
 
 しかし、その後の展開は遥の予想通りにはいかなかった。ユージは二十分待って、その場を立ち去った。遥の予想よりもずっと早い諦めだった。遥が去るときは公園のゴミ箱に投げ捨てるだろうと予想していた花束は、そのまま持ち帰っていった。

 遥は四時間も待っていた自分を思い返した。私はなぜもう来ないだろうと知りながら、四時間も待っていたのだろう。そしてこの男はなぜこんなにも早く誰かのことを諦められるのだろう。

 もっと苦しめなければならない、もっと苦しんでもらわなければならない、そうしなければ、なぜ私がこの二ヶ月の間あの男の気を引いてきたかが分からなくなってしまう。


〝ユージさん、ごめんなさい。わたし馬鹿だから地下鉄の乗り方間違えてしまって、遅刻してしまいました。まだ待っていてくれるかな? あと十分くらいで着くと思います。もし怒ってなかったら、同じ場所で待っていてください。本当にごめんなさい〟


 遥は送信を押した。これで、ユージを少しの間食い止められる。この作戦を何度か使い、少しでもユージに待たせる苦痛を与えなければと思った。
 返事は返ってこなかった。公園にも戻ってこなかった。向こうから切られた。遥は愕然とした。こちらが向こうを切り捨てるはずだったにもかかわらず、またユージの側から関係を断たれた。

 私は二度、ユージに見捨てられた。
 
 遥は左手でコーヒーカップを握ったまましばらく動くことができなかった。


   8

 桐島は後輩の男性社員と薄暗い地下の居酒屋で向かい合っていた。後輩、篠原はウィスキーのボトルを片手にしきりに手酌で飲んでいる。そして、三年付き合った彼女にふられた話を、一時間前からずっとしていた。
 桐島は女性の身の上話に相槌を打つのは得意であったが、男を励ますのは苦手だった。

「別れる前後の彼女の態度がですね、本当に、もう僕のこと少しも好きじゃないんだな、僕に対して何の愛情も持っていないんだなって分かるくらいに冷たいんですよ。彼女に冷たくされること自体だけがつらいだけじゃなくて、前はあんなに愛情を貰っていたのに、今は僕に対して何の愛情も持っていないということが恐いんです。どんなに、愛されていても、どんなに必要とされていても、時間が流れたら、全く、まるで最初から何もなかったみたいに、ぱっとそんな感情が消えてしまう。そうだったら、これから僕はどんな女の子と仲良くなって、愛情を受けたとしても、決してそれを信じることはできないだろうってそう思えてしまうことがもっとつらいんです、愛情なんて簡単に消えてしまうものなんですかね」

 桐島はビールに少し口をつける。そして少し疲れたように口を開く。

「そうだよ。愛情なんて消えちゃうよ。お前の彼女への気持ちだって、時間が過ぎれば忘れてしまうよ」
「僕は忘れないですよ。僕は一生忘れないですよ」
「いや、今そう思っていても、お前は忘れるよ、必ず忘れる」
「忘れられるなら、今すぐ忘れたいですよ」
「どんな気持ちだって時間が経てば忘れてしまう。だから、そのときに楽しまなきゃいけないんだ。誰かとね、心から愛し合えると思える瞬間を感じたら、その時間が長くは続かないからこそ、大事にしなくちゃいけないんだよ」

 桐島は自分で言っておきながら、随分ステレオタイプな人生観だと思う。篠原はウィスキーを自分のグラスに注ぐ。会話の間が少しでも空くと、彼は溜息をついた。

「まぁいい。落ち込め、落ち込め。どんどん飲め。どんどん飲んで、どんどん吐いて、悲しいんだか気持ち悪いんだか分からなくなっちゃえよ」

 桐島は俯きながらウィスキーを飲む彼を見ながら、篠原とその彼女のことを考えた。篠原は本当にそれほど彼女が好きだったのだろうか。今回の別れ話が出るまでは、あまり彼女の話をする男ではなかった。桐島には、篠原が女と別れたことでこれほど落ち込んでいることが不思議だった。舌打ちを一度して、別の女を探しに行くくらいのドライさのある男だと思っていた。

「彼女が僕と一緒ではないんならね、他の男と一緒になるんならね、死んでくれた方がいいって思ったりするんですよ。彼女の家も最寄り駅も、会社から帰る時間も、通る道も、僕は何でも知っているんです。それに、もし捕まったとしても、どうせ彼女と一緒じゃない人生なんてどうでもいいと思えるから。もちろん、そんなことしないですよ。しないけれど、ストーカーになって別れた相手につきまとったり、相手を殺したりする人と、そうしない人の境って、そんなにはっきりとしたものじゃないなって、思ったりします」

「何、言ってんだよ。そんなんだからふられるんじゃないの?」

「それ、言いすぎです」

「やっぱそう?」

 陰気な空気に感染したのか、桐島も強い酒が飲みたくなり、焼酎を頼んだ。

「それにしてもお前、そんなに彼女のこと好きだったのか? そうは思えなかったんだけど」

「何だろ、別れてからこんなに好きだったって気が付いたところもあるかもしれません。大事なことっていつも後で気が付くんですよ」

「そんなもんなのかな。ホントは好きじゃないんじゃないの? ただふられたのが癪に障ってショックなだけで」

「そうだったらもっと楽だと思いますよ。もう忘れたいです。彼女に関わることはみんなすっかり忘れたいです。全部すっかりじゃないと駄目なんだと思います。少しでも彼女を覚えていれば、忘れることも悲しくなってしまう。忘れたくないって思ってしまう。一生忘れないと思ってしまう。本当に隅から隅まですっかり忘れて、彼女と出会わなかった人生をやり直したいです、もう一回生まれ直したいです」

「すっごい他人事みたいに言うけど、多分お前は幸せだったんだよ。そんなに好きな人に会えたんだからさ」

「人の気持ちって何なんでしょうね、何でそんなにぱっとなくなったり、全然消えないでずっと人のこと苦しめたりするんでしょうね」

「ね、何なんだろうね、全く何が何だか分けわかんないよね」

「先輩人の話ちゃんと聞いてます?」

「聞いてる聞いてる。いいから飲め、ほらグラスもう空いてるぞ。ウィスキーもう一杯頼むか?」

 

 終電間際になるまで飲んで、桐島は足元がふらついて財布すら出せない篠原の肩を担ぎ店を出た。外に出て桐島が頬を二、三回叩くと篠原は思ったよりも回復したので、そのまま駅まで送った。
篠原を改札で見送ると、桐島は少し夜道を歩くことにした。電車がなくなったらタクシーで帰ればいい。

 夜の繁華街を駅とは反対方向に向かって歩いた。そして篠原のことを思い出していた。自分が優子を失ったとしたら、あれほどに打ちのめされるのだろうか。自分は優子に対して、それほどの愛情を持っているのだろうか。愛情って何だろう、篠原の言った問いが頭に浮かんできた。俺は今までの人生の中で、果たして自分以外の誰かを愛したことがあるのだろうか。


   9

 私は人より他人に対しての執着が強いのかもしれない。
 遥は自室でベッドの上に寝転がりそう考えた。
ユージにとっては二ヶ月もネット上のやり取りをした相手でも、自分にとってプラスに働きそうもないと思えたらすぐに切るのが当たり前なのかもしれない。私は他人に期待しすぎる。他人が思い通りにしてくれないことに、いつも苦しむ。期待などしなければいい、執着などしなければいい。他人に私に執着させて、私は軽やかに私に近づいてくる人々を見捨て続ける。私は誰の前でも足を止めない、その代わり誰に対しても笑顔を向ける。

 机の上で携帯端末が光った。

〝ユミちゃん、こんばんは(^‐^)最近メール来ないなぁ、何かあったのかな? 元気ないのかな(+o+)心配してるよ~、ユミちゃんには俺がついてるからきっと大丈夫さ! ミツ〟

 遥は冷笑しながらそのメールを読んだ。こいつは私に執着している。


From: "ハイド"
To: "ユミ"
Sent: Thursday. June 19, 2018 0:12 AM
Subject: 最近のユミさん

 こんばんは、ハイドです。もうすっかり夏ですね、今日はとても暑かった。
 
 とても微妙な問題なのかもしれないから、言いにくいのだけれど、最近のユミさんは少し元気がないように思えます。メールの返事も遅いし、文章もあまり精気がない。
これは、僕が文句を言っているのではありません。あなたのことを心配して言っているのです。何か悩みごとや問題があるのでしょうか。僕はネットを通してしかあなたに触れられない存在だから、何もしてあげることはできないけれど、もし僕に出来ることがあるなら何でも言ってください。ユミさんのためならどんなことでもしますから。

 ユミさんはとても繊細だから傷つきやすいのかもしれないけれど、あまりユミさんを知らない僕が言うのもおかしいけれど、あなたは自信を持っていいと思います。
ユミさんはとても聡明で、感受性が豊かで、美しい。僕はあなたになりたいくらいです。だから心配しないでください。多くの問題は、今はあなたを苦しめるかもしれないけれど、いつか必ずよい方向へ向かうはずです。ユミさんが自分のその恵まれた能力を信じてさえいれば。

 何だか少し恥ずかしいことを言ってしまいました。ひょっとしたら僕の全くの見当違いで、ただ勉強が忙しいだけだったりするかもしれませんね。いや、むしろそうであることを望んでいます。

 それでは今日はこれで。

ハイド


 ハイドのメールを読み返しながら、遥はもっともっと色んな男を心配させようと思った。もっともっと多くの男とメールを交換しよう。百人の男と接触を持てば一人失ったとしても、百分の一でしかない。遠山の写真が数え切れないほどの男を釣ってくるだろう。

 私の人生は失っていくものが多すぎる。それはきっと私が新しいものを手に入れようとしないからかもしれない。私は失っていくものなど目に留まらないほど新しいもので埋もれていけばいい。


  10

 その女性は痩せて背が低かったが、鋭い目をしていた。幾分早口で喋るその言葉には力強さがあった。
 桐島はルミと肩を並べてバーで飲んでいた。二軒目だったが、ルミは少しもつぶれていない。そしてルミから受ける強さのために、桐島は彼女をホテルに誘うことをためらった。しかし、むしろ彼女とのその距離感が桐島には少し心地よかった。

「でね、その家庭教師で教えている子から聞いた話なんだけどさ」
「何歳くらいの子?」
「ええと、高一。だから十六かな」
「男? 女?」
「女の子。質問多いわね。ちゃんと人の話聞きなさい。でね、その子の言うには、最近男子高校生の間でね、自分のあそこをね、ほら、言わせないでよ、あそこをね、スマホのカメラで撮って送るのが流行ってるらしいの」
「何それ? それ恥ずかしいだけじゃん」
「だから、自分のだって言わないの。こんなのが送られてきたって言って友達に回して、受け取った友達がまた別の人に回すから、結局誰のだか分からないわけ」
「昔流行ってたチェーンメールみたいに?」
「そうそう、そんな感じ。だから恐らくクラスメイトのらしいけど誰のかは分からなくて。で、次々に出回るのが何本も増えていくみたい」
「何本って」
「あんなもん何本でしょ」
「その話本当かよ?」
「いや、本当の話なの。それで、大抵は男子の間でだけ回ってるんだけど、この間私の教え子のとこにも来ちゃってさ。何かすごいショック受けてた」
「それ、相当嫌がらせだなぁ。で、見せてもらったの?」
「当たり前じゃん、私を誰だと思ってるの。ばっちり見たよ。今のカメラ性能がいいから、かなりくっきり写ってた。これが高校生のだと思うと何だかもう」
「何言ってんだか。もうおばちゃんだなぁ。っていうか、誰のだか分かんないんだったら、本当に高校生のやつだか分からないぞ。ひょっとしたらどっかのおっさんのかも。ってか俺のかも」
「え、ミツさんの? あぁ、あなたならやりかねないかもね。それならあなたのも大したことないわね」
「あ、クソ、そんなこと言ってると今に後悔するぞ」
「しないしない、絶対しない」

 下らない会話を長々と続けながら、そしてこの女と今夜何もないだろうということを知りながら、桐島はそうした関係が最も好ましいような気がしていた。女と他愛のない会話を楽しみ、お互いにほんの少しだけ性的に意識しあって、酔いつぶれて別れる。そんな関係でいられる女性が二、三人いれば、自分には恋人は必要ないかもしれない。
 桐島はズボンの後ろのポケットで携帯端末が震えたのを感じた。トイレに行くと言って席を立った。


〝返事が全然来ないよ。何だか最近、冷たいような気がする。そう思うのは私が弱ってるからなのかな、それとも本当に桐島くんの心が離れていっちゃってるのかな〟

 優子からだった。バーの洗面所で桐島はそれを読んだ。そういえば朝もらったメールの返信を忘れていた。


〝ごめんごめん、ちょっと今まで上司とずっと一緒になっちゃってさぁ、メールチェック出来なかったんだ。優子は色々心配しすぎだよ。俺の気持ちは付き合い始めた頃からずっと変らないよ。うん、明後日の夜でOKです〟

 ふいに胸を締め付けられるような気がした。俺は一体何をやっているのだろうか。俺にとって大切なものは何なのであろうか。

 しかし、依然として桐島は自分が優子を愛しているかどうか分からなかった。あるいは、優子に愛されていると感じることで、自分の気持ちを満足させようとしているのかもしれないとも思えた。
 
 俺は誰に対しても恋愛感情を持たない。ただ、他人の恋愛感情の匂いをかぐだけだ。そしてそれでは結局のところ満たされることはない。


 洗面所で顔を洗い、鏡の自分をしばらく見つめ、ルミのもとへ戻っていった。


  11

 遥は自分の携帯端末にシャッター音を消せるアプリケーションをインストールした。しかし、シャッター音がしなくなったとはいえ、学校でこっそりだして写真を撮るのにはさすがに戸惑いがあった。誰かに気がつかれないだろうか。

 遠山と遥の席は近かった。しかし、教室には無数の生徒たちがいた。たとえ遠山自身に気づかれなかったとしても、他の生徒に見られては同じだった。遥は一日機会をうかがっていた。休み時間も密かに遠山の後をつけた。


 遥はSNSの投稿に反応してきた男たちの文章を読んで、明らかに不愉快だと感じる人は除いて送られてきたメッセージのほとんどに返信をした。そして投稿を繰り返した。遥のやりとりする相手は五十人以上になっていた。遥はユージに送った遠山の写真を他の男たちにも送った。男たちは遠山の端正な顔立ちに喜んだ。中には自分の写真を送り返してきた人もいた。どの男も馬鹿面に見えた。
男たちの何人かは、もっとちゃんと写っている写真が見たいと言ってきた。遥の送った修学旅行の写真は確かに拡大してあるものの、遠山は大勢の中に並んだ一人でしかなかった。
しかし、遥には他に遠山の写真がなかった。写真をくれと頼むほど仲がいいわけでもない。そこで遥は自ら遠山の写真を盗み撮りすることに決めたのだった。恐らく、顔も知らないスケベ根性丸出しのメール相手のために遥がそこまでする必要はどこにもなかっただろう。しかし、それでも遠山を盗撮するという発想自体が遥の好奇心を刺激したのだった。


 結局教室内では機会に恵まれなかった。遥は一日中遠山を眺めていた。遠山の髪は長くしなやかで、彼女が動くたびに生きているかのように揺れた。遠山の小さい顔は黙っていると人形のように整っていた。それでいて笑うと口元が子どものように無邪気に崩れてとても愛らしく見えるのだった。遥はなぜ人はこれほどまでに容姿に差をもって生まれてこなければならないのかと理不尽に思いながらも、それでも遠山に見惚れてしまうのだった。


 下校時刻に遥は遠山たちのグループの後をつけた。遠山の周りにはいつも人が沢山いた。遠山がホームのベンチに座ったときに機会は訪れた。遥は駆け足で駅の階段を上り反対側のホームへと下りた。そしてズームを最大にして、対岸の遠山の写真を連写した。隣の友人と話す遠山の表情は面白いほどころころと変わっていく。

 帰りの電車の中で、遥は満足気にスマートフォンに記録された遠山の写真を眺めていた。


From: "ハイド"
To: "ユミ"
Sent:Thursday. July, 3, 2018 1:22 AM
Subject: お写真拝見しました

 ユミさんこんばんは。お友達が撮ったというお写真拝見しましたよ。楽しそうな笑顔が印象的でした。ユミさんは孤独で意志の強い内面だけではなくて、とても人を安心させるような優しい笑みを持っているんですね。そのアンバランスさというと失礼かもしれませんが、そのギャップがユミさんの魅力かもしれません。

 あまりしつこく言うと嫌われてしまいそうですが、僕は早くユミさんと会いたいです。この三ヶ月のメールで僕は誰よりもユミさんに本当の気持ちを話してきましたし、それに誰よりもユミさんのことを理解しているつもりです。
 もし会ったら僕を失望させてしまうのではと考えているならそんな心配は無用です。僕はたとえユミさんがどんな人でも、決して気持ちが変らない自信があります。
 
 僕らは似ていると思います。正直な話、ネット上で何人かの女性とメールを交換しました。しかし、ユミさんほど心の通じ合える人はいませんでした。半ば諦めながら、こんなところにちゃんと僕と話し合える人はいないと思いながら始めたあなたとのメールのやり取りで、僕は目が覚めた思いでした。この人と会うために僕はネット上を彷徨っていたんだと、そう感じました。大袈裟な言葉を使うとあなたに会う運命だったのだと。

 だから不安がらないで、何もあなたを苦しめることは起こらないから、僕と会ってください。
 早くあなたのその優しい笑顔に包まれたいのです。

ハイド

 会おうと言ってくる男をじらすのは始めは心地よい気分であったが、あまり続くと鬱陶しくなった。遥はそろそろこの男との関係も切ろうかと考えていた。こちらの対応に愛想がなくなると、向こうはすがってくる。こちらを褒めちぎったり、いかにメールのやりとりが自分の生活を支えているかを主張したりしてくる。そういったメールを読むにつけて、遥は人間の醜さを感じた。
 それにしても、この男は思い込みが激しい。遥はもうハイドへのメールは返信しないことにした。遥の心に微かに後ろ髪を引かれる思いが残った。遥はその感情を笑い飛ばし、他の人へのメールを書いてまぎらわすことにした。


   12

 その日、桐島は篠原との同行になった。居酒屋で別れ話の愚痴を聞いてから、一ヶ月が過ぎていた。篠原の営業車で得意先を数件回った。予定が思ったより早く済み、桐島と桐島はファミリーレストランで少し遅い昼食をとることにした。

 桐島の分のコーヒーも一緒にドリンクバーから運んできた篠原は、それをウェイターのような手つきで桐島の前に置いてから席に付いた。桐島の目には篠原はもうすっかり回復しているように見えた。

「ありがとう。お前、店員みたいだな」
「学生の頃レストランでバイトしてたんですよ」
「飲食店でバイトか、楽しそうだな」

 篠原は少し口をつぐみ、そして苦笑いをしながらまた口を開く。

「彼女ともそこで知り合ったんですけどね」
「何だ、まだそんなこと言ってるのか。早く他の女探せよ」
「そのつもりなんですけど」

 篠原はコーヒーをすする。桐島にはむしろ篠原は別れた恋人の話をまだしたいのだと思った。別れた話を長々と持ち出すことで、少しでも彼女との関わりを保ちたいのだと。

「まだ、忘れてないのか」
「普段仕事しているときとかは、全然平気なんですよ。もう普通なんですよ。ただ、ちょっとした間が空いたとき、電車を待っているときとか、夜布団に入って眠るまでとか、風呂に入っているときとか、そんなちょっとしたときに思い出すんです」
「他にいい女いないのかよ。お前なんてけっこう男前なんだから、探そうと思えば不自由しないだろ」
「ホントっすか? 桐島さんに言われるとなんだか嬉しいな。でも駄目です。誘おうと思って話しかけても、いざ誘うってなると彼女の顔が頭に浮かんじゃって。他の女と付き合ったら、もうそれで本当に僕らの関係は終わりになるって気がして。もちろんもう終わってるんですけどね」
「よっぽど好きだったんだな」
「付き合ってるときはあんまりそんなこと思ってなかったんですけどね。そう、彼女、新しい男が出来たらしいです。知り合いから聞きました」
「あぁ、やっぱあてがあって別れ話を切り出したんだな。女のしそうなことだよ。お前、悔しかったらこっちももっといい女見つけて見返してやるくらいの気持ちになれよ」
「悔しくはないですよ。自分が情けないような気分だけど。桐島さんにだから言うけれど、最近は、ぼんやりしているとき、一回死んで彼女の子どもに生まれ変わったら幸せだろうな、なんて考えたりしてしまったんです。その男との子どもでもいいから。もちろん、そんなこと出来ないって分かってますけどね」
「それ、かなりやばいぞ。本当に分かってるよな」
「分かってますよ、ただ空想するだけです」

 桐島はコーヒーを飲み干す。

「はい、篠原おかわり。今度はホットで」

 篠原は軽く笑って立ち上がる。篠原の後姿を見ながら桐島は気が重いなと思う。普段のもう職場では少しも落ち込んだ素振りを少しも見せなくなっただけに、逆にはけ口がなくどんどん煮詰まっていってしまうのではないかと思った。世の中面倒なことが多すぎる。と言うより人は面倒に考えすぎる。女がいなくなった、もう帰ってこない、それだけだ。なぜシンプルに考えられないのだろう。
ドリンクバーでコーヒーを注いでいる篠原を見ながら、桐島はこの男はちょっとしたきっかけで本当に死ぬのかもしれないとふとそう思った。ただ、それならそれで、ひょっとしたら彼にとっていい人生なのかもしれないとそんな気もした。


   13

 メール相手たちはもっと多くの写真を要求してきた。遥には彼らが自分のファンであるかのように思えてきた。ホームで撮った写真の受けはよかった。
そのため、もう一度写真を撮ることにした。今度は隙を見て遠山がクラブ活動でテニスをする姿を写真に納めた。テニスウェアから長く伸びた遠山の足は、白く透き通るようだった。遥はそれを自分の脂肪のついた短い足と比べないわけにはいかなかった。

 しかし、遥の撮った写真には目線の合っているものがなかった。遠山は撮られていることを知らないため、それは当たり前と言えば当たり前のことであったが、それでは遥自身も少し物足りないような気がした。そこで遥はその代わりにもっと露出の多い写真を載せようと考えた。水着だった。遠山の水着写真を盗撮しよう、そう自分で思いついたとき、その不道徳さに身震いがするほどの胸の高鳴りを覚えた。遠山の姿をもっともっと撮ってネット上にばら撒き、それを餌に馬鹿な男どもを呼び寄せよう。

 遥は生理だと偽り水泳の授業を見学し、そして制服のポケットに携帯端末をひそませた。授業中のため露骨に携帯端末を見ているわけにはいかず、タオルを膝の上におき、その下から画面を見た。ズームを最大にして遠山を狙った。あまり下ばかり見ていると教師にも不審がられると思い、遥は半ば勘でシャッターを押した。プールサイドの遠山、プールに飛び込む構えをした遠山、プールから上がろうとする遠山。
 遠山の胸は遥よりも小さかった。手足が長く、肌はどこまでも白かった、まるで陶器のようだった。腰から臀部を通って大腿部に向かうラインが水で濡れて眩しいくらいの光を放っていた。

 更衣室で着替えているところを撮れたらとも期待していたが、残念ながらそれは難しかった。水着を着ていない遥が更衣室に長居をすることが不自然であり、さらに遠山の周りにはあまりにも他の生徒が多かったためであった。

 
 家に帰りパソコンで撮った写真を確認した。何枚も撮ったけれど、きっちりとフレームに遠山が入っているものはそれほど多くなかった。しかし、その中の数枚はしっかりと遠山の美しい全身が写されていて、切り取って大きくして多少の加工を加えれば十分に男たちの観賞に堪えられるものに思えた。


From: "ハイド"
To: "ユミ"
Sent:Friday. July, 11, 2018 3:25 AM
Subject: 何かあったのでしょうか

 返事が一週間も来ません。どうしたのでしょうか。今までは必ず次の日には着ていたのに。心配しています。
 僕が強く会いたがったからいけないのでしょうか。ユミさんを怖がらせてしまったんでしょうか。

 もしそうであれば、謝ります。謝りますが、もう僕はあなたなしでは生きていけないようになってしまったのです。ユミさんのことを考えていない時間がほとんどないほどに、僕はあなたのことばかり考えています。
 僕にはあなた以上の相手は考えられません。そして、あなたにとっても僕がふさわしい相手である自信があります。何の根拠もない自信だと言われるかもしれませんが、僕にははっきりと、僕とあなたが結ばれるべきだということが分かっているのです。

 今、ユミさんが戸惑っているのは僕らにとって最後の試練であるかもしれません。それを越えれば僕らは誰よりも、どんな馬鹿な俗物たちよりも、ずっと高度な関係を築くことができる。誰もが僕らの関係を羨むようなそんな二人になれるのだと思います。
 だから何も恐がらないでください。
 
 こうしてパソコンの前に座っていても、僕にはネットを通してあなたとつながっているという感覚が伝わってきます。そしてあなたも本当は僕を必要としているのだと。

 今この世の中で、僕ほどあなたを必要としている人間はいないのです。そして僕ほどあなたを幸福にできる人間もまたいないのです。

  ハイド


 遥はハイドのメールを読み終わると、彼のアドレスを受信拒否にした。なぜ連絡が来ない時点で嫌がられたと察することができず、こちらに受信拒否までさせるのかと腹立たしい気持ちもあった。ただ、一方で、これで恐らくこの男は苦しむであろうと考えると快感でもあった。私がユージから受けたのと同じような屈辱をこの男も感じるだろう。


〝写真見たよ。相変わらず、ユミちゃんは綺麗で可愛いけど、でもなんだかなぁ。何でそんなに自分の写真をネット上にアップしてんの? ぶっちゃけ僕だけじゃなくて、他にも色々な人に共有してるんでしょ。
あんまりお薦めしないんだなぁ、そ~いうこと。だってさ、その写真見た相手がどんなやつらなんだかは、知らないけど、やばいやつかもしれないじゃん。写真を頼りに居場所探られたりするかもしれないよ~。あんなにはっきりくっきりした写真はまずいでしょ。
 何だか今日の僕は説教くさいけど、これ一応誠意ある友人の忠告だからちゃんと考えるよーに! ミツ〟


  14

 たとえば自分が誰かを好きになったとして、その好きな対象は本当にその相手とイコールなのだろうか、桐島はそんなことを考えていた。誰かに対して愛情を向けたとしても、実は愛しているのはその相手とは実は無関係な自分の想像上の相手でしかないんじゃないかという気がした。
それは桐島側のことだけではなく、桐島はしばしば、優子が好きだと言っている自分と、実際の自分自身は全くの別人なのではないだろうかと思うことがあった。
 桐島には優子が桐島のことを理解しているとはとても思えなかった。少しも理解していない相手をなぜ好きだと言えるのであろう。優子の好きな自分は自分ではない。そして自分もまた優子のことを何も分からない。
 
分からないもの同士が恋人を名乗りあい、それぞれが無関係な想像上の相手と愛し合い、その事実を見ようとはしない。昔の人たちは神様がいると単純に信じられたかもしれないが、今の自分たちにはそう簡単に神様を信じることはできない。恋愛もそれと同じようなもので、昔の人たちは沸き起こる感情を感じるだけで恋愛を信じられたかもしれないが、今の自分にはもうそう簡単に恋愛を信じることはできない。

 しかし、もちろんそんな考えも消え去るような、心から通じ合い一つになれたような感覚に浸れる瞬間がこれまでに全くなかったというわけではなかった。それはたとえばベッドの上であったり、夜道を二人で歩いているときであったりした。そしてそういう思い出がいくつもあるがために、今こうして優子と付き合っているのだろうとも思った。
 

 しかし、その日の優子とは少しも心を通わせることができなかった。桐島はぎこちないちぐはぐなセックスに疲れて優子から体を離した。優子も二人の息が合っていないことを感じていたようであった。

「ごめんね、何か体調悪いみたいで」

 桐島の様子を見て優子が言った。桐島にはその言葉が言い訳だと分かっていた。優子の気持ちは自分から離れつつあるのだと顔を見れば分かった。女性は好きな男に抱かれているとき、最も美しい顔を見せる。その女の最も美しい顔を知っている男は、抱かれているときの彼女の顔でその女の気持ちを知ることができるのだと、桐島は思った。もしそれに気が付かないとしたら、それは男の方が気付きたくないだけなのだ。
 優子の気持ちの変化が一時的なものなのか、それとももう戻らないものなのかは分からなかった。優子の心境の変化の理由も分からなかった。

 ただ、気持ちが離れていると感じると逆に優子が欲しくなる気持ちも湧いて来るのだった。桐島はベッドから立ち上がった。

「音楽でもかけようかな」

 床に落ちていた携帯端末を手にとり、曲を選んでから、スピーカーにつないで再生する。暗い部屋に携帯端末の画面だけが光っている。そうしている間にも、桐島は優子の体に触れたくて仕方がなかった。

 ベッドに戻り、壁にもたれて座り、優子を引き寄せた。優子は力なくそれに従った。
 手の中に彼女を抱きながら桐島は、自分はこの女のことを何も知らないのだと思う。
今自分が様々なことを考え感じているのと同様に、彼女も様々なことを考え感じているのだろう。しかし、自分にはそれを知るすべがない。自分の思っていることも彼女は全く知らない。自分に出来ることはただ彼女の肌に触れることだけで、相手の心が本当には分からない以上触れられるの彼女というよりもただ他人という肉の塊でしかない。もちろん、その肉の塊が彼女の心へと通じている。自分の体が自分の心に通じているのと同様に、彼女の体は彼女の心へと通じ、自分が彼女の心に触れることができるのはこの肉の塊を通して出しかありえない。そう思うとき、桐島には優子の肉体が愛しく感じられてくる。胸の奥底が軋んで静かに震えだすような狂おしさが止め処もなく湧き出して、桐島は優子の体を両腕できつく抱きしめる。


「ねぇ、どうしたの、ちょっと、痛いよぉ。どうしたの」

 優子の声が聞こえていた。しかし、桐島は手を緩めなかった。


   15

 ハイドから見たことのないアドレスで遥にメールが来ていた。フリーメールで新しいアカウントを取得したらしかった。


From: "ハイド"
To: "ユミ"
Sent:Saturday. July, 19, 2018 3:01 AM
Subject: やっと逢えたね

 受信拒否なんてしても駄目ですよ。
 どうしてそんなに恐がりなんだろう。僕があなたにふさわしい相手だっていうことはもうあなたも分かっているはずなのに。
 人は何か新しい世界へ踏み込もうとするときに躊躇するものですよね。それは分かります。それがたとえ希望に満ちた世界であっても、やっぱり人は恐れるものですね。ユミさんは特にそういう傾向が強いのかもしれません。

 でも安心してください。もうあなたは何もしなくても平気です。ただ心を安らかに僕を待っていてくれれば。
 見つけましたよ、あなたのことを。思ったよりもずっと簡単に見つけられました。分かるんです。ユミさんがどんなところでどんな生活をしているかが、目をつぶると浮かんできます。だから、手がかりが少なくても、あなたがどこにいたって僕は見つけ出すことができるでしょう。

いきなり話しかけたら戸惑うだろうからそのときはただ遠くからあなたを眺めているだけでした。

 写真で見るあなたよりも実際のあなたの方がずっと美しかった。そしてあなたは大勢のお友達に囲まれていましたね。優しい笑顔を浮かべて。
 でも僕はあなたの周りの生徒たちに対する違和感を知っているから、そのあなたの優しい笑顔が悲しく見えました。見ている僕もつらくなりました。あの周りのやつらをみんな蹴散らしてやりたいって思ったくらいです。

 だから、待っていてください。あなたはもう自分から決心しなくても、もうすぐ僕と会うことができます。

 始まりのときは近づいて来ているんです。僕らは特別な運命で結ばれているです。

ハイド

 読み終わった遥に背筋が凍るような恐怖感が走った。遠山が見つかった。もし、遠山が偽者だと知ったら、ハイドはどうするだろうか? 遥は頭をめぐらした。遠山から遥自身にたどり着くことができるだろうか。遥は取り立てて遠山と仲がいいわけではない。同じクラスというだけだった。そしてハイドは遥の顔を知らない。それで安心していいのだろうか。

 考えていると頭がおかしくなりそうだった。しかし相談できる相手もいなかった。遥はもう考えるのをやめて、ヘッドホンで音楽をフルボリュームにしてかけ、試験明けから始めることにしたアルバイトのための履歴書を書き始めた。


〝へ~、アルバイト始めるんだ(^‐^)コーヒーショップかぁ、店はどこなのどこなの? 制服可愛いとこだといいね。スカートとか短いところだとなおいいなぁ。働いている姿見たいなぁ。ってやっばい最近何かやたらオヤジ化してきてしまってる・・・(*_*) ミツ〟

 こういうときに、気楽なメールが来ることは、遥を安心させた。そして、こいつはもうすぐ三十なのにこのノリで平気なのかよと心の中で突っ込みを入れてみたりした。


   16

 ユミにアルバイトをはじめたというメールを貰った桐島は、自分の部屋でベッドに寝転がりながらそれを読んでいた。
 ユミの使っている私鉄が何であるかは聞いたことがある。都心から他県へと抜けていく鉄道で、桐島も仕事で何度か使ったことがあった。ユミの通う女子校の名前も知っている。

 ふと思い立った桐島は起き上がり、机に座りノートパソコンを開いた。ユミの女子校の公式HPを開いて最寄り駅を調べる。
 そして乗換検索ソフトでその駅名からユミの使う私鉄の末端の駅までの道のりを調べる。コースが指定される。
 桐島はこのコース内にある店に違いないと考えた。よく考えてみるともっと絞れそうだった。ユミはそれほど学校を好んでいない。であるなら、バイト先は学校の近くというより家の近くと考える方が自然である。そしてユミは都民ではないらしい。私鉄が県境を越える辺りから先の店をあたればユミのバイト先を数件のどれかに特定できるかもしれない。

 桐島は今度はそのコーヒーショップのHPを開いた。そして店舗案内のページを出す。一覧表でそれぞれの店の最寄り駅が載っていた。桐島は目当ての駅にある店をピックアップした。都内を中心に展開している店らしく、その県の店舗は思っていたよりも少なく、合わせて三店舗だった。


 さて、どうする、桐島はメモした店の住所の紙を掴みながら再びベッドに寝転がった。

 桐島はユミは怪しいと思っていた。あの写真の少女は本人ではないに違いない。あまりにも会いたがらないということもそうであるし、写真がすべて他人の手によって撮られているように見えることも疑わしい要素だった。普通であれば、自分のもっとも綺麗だと思われる角度からのセルフポートレートであろう。その友達の撮った写真にしても、目線が合っていないものが多数を占めている。そして一度だけ電話で話したが、そのときの声と顔が合っていない気がした。電話の声は低くこもった陰気な声だった。高校生といっているが、実はもっと上、ひょっとしたら主婦の可能性さえあるのではないかということも頭をよぎった。
 しかし、そうした胡散臭さが、桐島がユミに関心を持つ理由でもあった。

 会えないならば、勝手に探して会いに行ってやる。それは探偵のようなスリリングな行為に思えた。しかし、もし別人であるなら店に行ってもユミだと確認できない。声だけで彼女だと分かるであろうか。そして、ユミの勤務中に行かなければ意味がない。ユミの勤務時間を聞き出さなくては。

 桐島はユミに再びバイトについてのメールをいれた。週どのくらいは入っているか、時間帯は昼間か夕方かなどをさりげない日常会話風に聞き出そうとした。

〝夏休み中は週四で入るつもりです。学校が始まったらもっと減らすけど。時間帯は昼夜まちまち。今日もこれからバイトだよ〟

 ユミのメールを読みながら、桐島は考える。土曜日だった。夕方から優子の部屋に行く約束がしてあった。ユミを探しに行けば約束の時間に大幅に遅れるだろう。そうするだけのメリットがあるだろうか。

 桐島は勢いよくベッドから立ち上がる。ユミを探してやる。優子には適当に理由をつけて遅れるというメールを打てばいい。一度思いついたことをやらずにやめることや嫌いだった。


   17

 桐島が同じチェーン店のアルバイト募集をネット上で調べると、開店から五時までと五時から九時か十時までにシフトが分かれているところが多いことが分かった。シフトチェンジが行なわれるのは五時以降であり、それ以降に行かなくてはユミに会えない。

 勢いで家を出た桐島だったが、時間を調節するため、近所の喫茶店でしばらく時間をつぶした。そして喫茶店に行くのに喫茶店で時間をつぶしている自分に気がつき苦笑した。その店から優子に遅刻を詫びるメールを打った。

 時間を見計らって、電車に乗り目的の駅で降りる。三店舗のうち近い店から行くことにした。
 
 最初の駅は思っていたよりもずっと小さい店だった。駅からも少し離れており店の場所を探すのに苦労した。中に入ると、店員は社員らしい中年の男と若い女の二人だけだった。桐島は店員にたくさん喋らせるためにわざと普段は頼まないようなごてごてと色々なものが乗った長い名前のついたコーヒーをオーダーした。
 二人の女はユミとは似ても似つかない、明るい声だった。

 二件目は最初の店よりも大きかった。アルバイトの女も三人いた。その誰がユミであるか分からない。手がかりは声だけしかない。当然、写真のユミに似ている子も見当たらなかった。
 オーダーをした背の低い三編みの少女はいかにもロリータ声だった。そしてごく普通に可愛らしいこの子なら、他の女の子の写真を使う必要がないように思えた。

 会計を済ませて、コーヒーが出来上がるのを待った。

「お待たせしました、チョコチップストロベリーデラックスマキアートのお客様」

 その声が桐島の耳に響く。この声だ、この不機嫌そうな低くこもる声。

「はい?」

 桐島はわざと聞き取れなかったという顔をして、聞き返す。

「チョコチップストロベリーデラックスマキアートのお客様」

 その少女は面倒くさそうに繰り返す。間違えない。桐島は確信した。そして少女の姿をじっくりと見つめた。
 大柄で小太りだった。目つきが鋭く、とがった口をしていた。決して美しい少女ではなかった。美しくないだけではなく、体全体が陰気で重苦しい空気に包まれているように思えた。

「ありがとう」
 
 そう言って商品を受け取ったが、少女の顔はいかにも面倒くさそうな表情を浮かべていた。もし、ユミに会う目的で来たのでなければ、自分は店員のこの愛想の悪さに腹を立てたかもしれないと思った。

 席についた桐島は、ゆっくりと足を組んで座り、ユミを眺めた。
 この体格のいい陰気な娘が、あの美しい少女の写真を自分だと偽ってネット上にアップしていたのか。その屈折した感情を思うとき、なぜか桐島は目の前のユミに対して性欲を感じた。桐島は少女の体を上から下まで眺め回した。
 それから、気がついたように、目の前の甘そうな飲み物だか食べ物だか分からないものを自分は一体どうしようかと考え始めた。一軒目では無理をして食べたが、さすがにもう食べられそうもなかった。


 優子の部屋に向かう途中、桐島はユミに対してどう接したらよいかと考えていた。ユミが写真の少女ではない以上、メール交換を続けていてもユミは決して会おうとはしないに違いない。それではこのままやり取りをしてもメリットがない。正体を知っていると揺さ振りをかけてみるのはどうだろうか。この考えは桐島の心を高鳴らせた。桐島は相手がどう出てくるか予想がつかないメールを出した後の心臓の高鳴りが好きだった。
 ユミを困らせよう。しかし、あまり攻撃的にお前の正体は分かっているぞと脅しても相手を警戒させるだけに違いない。あくまでも優しく、そんなことをしなくても僕はあなたを嫌ったりはしないと語りかけるのがベストだ。真面目なメールには顔文字はやめよう。
思い立つと、すぐに桐島は携帯端末を開いた。


〝あのさ、ユミちゃん。突然だけれど、これ前から言いたかったことなんだ。写真のユミちゃんは別人だよね。そのくらい分かるよ。何でそんなことしなくちゃいけなかったのかな。ずっとそれを考えていて、どんな風にユミちゃんに聞いたらいいかも悩んでたんだ。でもそのまま正直に聞くことにするよ。写真の子は確かにすごく綺麗な子だったけど、僕は単に若い女の子、ってことじゃなくてユミちゃんとメールして楽しかったんだから、ユミちゃん自身のことが知りたいなぁ ミツ〟


 その日の夜も次の日も返信は桐島のもとに届かなかった。


Part2へ続く

Part2

   18

From: "ハイド"
To: "ユミ"
Sent:Thursday. July, 24, 2018 3:01 AM
Subject: 全てが新しく始まる

 今日は新しい日です。全てが生まれ変わります。人々が生きていく中で抱えていた様々な嘘や偽りや裏切りが全て許されて、解放へ向かいます。

 僕とあなたの愛情も新しい一歩を踏み出しました。僕らの前にあった障壁はまた一つ消えました。
 これからも僕らの間に様々な壁が立ちはだかるかもしれません。しかし、そのどれもが決定的な問題ではなく、僕はあなたのためにそれを克服していく自信を今全身に感じているのです。

 だから、ユミさん、あなたも生まれ変わるときです。いつまでも昔のあなたではいけません。変るときが訪れたのです。

 一体あなたはどう言ったら勇気をだしてくれるのでしょうか。もちろん僕はあなたを求め続けますし、あなたを待ち続けます。しかし、けれども、今知って欲しいのです。そのときが来たと。僕とあなたが待ち続けていたそのときが来たのだと。

 僕はあなたの子どもを身籠りました。僕らの子ども、僕らの愛の証として、たとえ僕らがこの世からいなくなっても、ずっと地球に残って僕らの愛をつないでくれる、そんな僕らの子どもを今日僕は身籠りました。

 たとえあなたから会おうと言ってくれなくても、僕らが出会える日はもうすぐ近くまで来ているのです。僕らの子どもをあなたに見せることができる日はもう間近なのです。だから、恐がらないで。何も心配はありません。僕らが一緒になれないなんておかしいのです。僕はいつでもあなたの味方です。あなたのことだけを考えています。


ハイド


「遥、ちょっと下に降りてきなさい。遥、聞いてるの」

 階下で母親の声がした。遥はベッドに寝転がり目をつぶっていた。最近ベッドの上で過ごす時間が増えていた。ベッドの上から大声で応える。
「何? 口で言って」
 しかし、母親の声はやまなかった。遥は重い体を起こす。そしてドアを開けて部屋を出る。

「何なの、急ぐことなの?」

 しぶしぶ階段を下りていくと、母親がテレビを指差している。画面に映っていたのは、遠山真奈美だった。
 
「この子、あんたの学校の子じゃない? 行方不明なんだって」

 画面は遠山の写真から、白黒の防犯カメラの映像に切り替わっていた。画面の右脇を歩いてきた制服の女子高生が急に男に捕まれて画面の外に引っ張り出されているところで映像は終わっていた。

「恐いわねぇ、あんたもバイト帰り遅くなったりする日、気をつけないさいよ」

 遥は黙って冷蔵庫を開けて烏龍茶を取り出した。

「ねぇ、知ってる子なの? 同じ二年だから顔くらいみたことあるでしょ」

 ゆっくりと喉に流し込む。

「あぁ、もう、ペットボトルごと飲まないでって言ってるでしょ、コップに移しなさい」

「知ってる人だよ。同じクラス。でもあんまり仲良くないからそんなに知らないけど」

「あら、同じクラスなの。恐いわねぇ。何だか世の中物騒よねぇ。早く見つかってほしいわよねぇ」

 遥は無関心そうな顔をして母親を残し二階に上がっていった。

 遠山真奈美が襲われた! 動悸が治まらなかった。ハイドだろうか。まだそう決まったわけではない。彼は確かに思い込みが激しいが、誘拐まで犯すほどの人間だろうか。遠山は殺されてしまうのだろうか。もしはハイドが犯人なら私のせいだ。次は私なのだろうか。私の身にも危険が迫っているのだろうか。


 遥は布団を頭から抱え込んだ。震えながら少しだけ涙を流した。関係を断つときも、断たれるときも、なぜいつも私ばかりこんなに苦しまなければならないのだろう、他の人たちはもっとずっと楽にやってきているのに。


  19

 昨日の夕方に優子に出したメールがまだ帰ってきていなかった。桐島は仕事をしながらたびたび携帯を確認する。来ていない。不安とも苛立ちともつかない落ち着かない圧迫感に悩まされていた。
 優子からの連絡がないだけでこれほど動揺する自分が不愉快であった。

昼から電車を使って営業に出た。電車の中でも絶えずメールをチェックしてしまったが優子からの返信は来ない。
 忘れよう、待っているからいけない。待つのをやめれば案外来るものだ。

 桐島は他の子にメールを出すことにした。どうでもいい日常の出来事の話を何人かの女性に送信した。
 話題が思いつかずに同じメールの内容をコピーして別の女性に送ったりした。ユミのことも思いついたが、結局出さなかった。ユミも自分の前からいなくなった。優子もいなくなるのだろうか。

 桐島が得意先を数件済ませるうちに、何件かメールの返事が来た。しかし、新着の表示を見て他の女の子からのメールを読むたびに、自分が本当に待っているのは明らかに優子からのメールだと気づかされた。
 折角返信してもらった女性のメールも全て色あせた面白みのないものに思えた。


 会社に帰る電車の中で、ようやく優子からの返信が来ていた。それはタイトルも書かれていないそっけないものだった。

〝返事遅れてごめん。日曜は用事が入ったので会えません〟

 このメールなら受け取らない方がまだよかったと、桐島は胸のつぶれる思いを夕方の混雑した電車の中で必死にこらえていた。
 返信をする気にもなれなかった。事務所に戻っても、デスクワークに集中できなかった。優子の気持ちが離れていっているのはなぜかということや、どうすれば彼女の気持ちを取り戻せるのかということ、優子が自分にとってそれほど大切な存在なのだろうかということなど、様々な考えが浮かんでは消えていき、桐島の頭は少しも論理的に動いてはくれなかった。ただ、胸が圧しつぶされるように苦しいだけだった。
 仕事を終えて事務所を出るときに、またメールが来ているのに気がついた。開くとユミからだった。

〝ミツさん長い間返信をしないでごめんなさい。ミツさんの言うとおりあれは私の写真ではありません。そのことで、ミツさんに相談したいことがあるのですが、お時間をいただけないでしょうか。ユミ〟

 桐島に他の女性のことを考える余裕はなかった。
 優子の家に行こうと思いついた。会って話さなくては。話さなくてはというよりも、会いたかった。どうしても優子の顔が見たかった。優子の体を抱きたかった。

 会いに行くと決めると、気持ちが少し落ち着いてきた。優子にその旨をメールしようと思ったが、途中でやめた。断られるかもしれないという気がしたからであった。
 桐島はなぜ優子の気持ちが離れていくと感じることがこれほどの動揺を自分に与えるのかを考え始めた。お前は優子をそれほど好きだったのか。そうは思えなかった。確かに好きではあったのだろうが、負担にも感じていたし、優子が他と比べて特に素晴らしいかけがえのない女性だとも思っていなかった。
 恐らく、優子がどうこうではなく、今まで自分の生活の一部となっていたものが失われるということに不安を感じているのではないか、そう考えた。 
 優子が、というより優子の愛情を受けることが自分の生活の一部としてこの数年ですっかり自分の内面に染み付いてしまった。優子を失うことはそうした生活の一部を失うことなのではないだろうか。 
 俺は優子に愛情を受けていることで自分自身を保っていたのだろうか。そのことが知らず知らずに俺が自分自身の存在を肯定できる拠りどころになっていたのだろうか。優子を失うことは愛されている自分を失うこと、自分を肯定できる根拠を失うことなのだろうか。

 そこまで考えた桐島は、ふと我に返ったように冷静な気持ちになって、たとえ優子を失ってショックを受けたとしてもそれは一時的なもので、すぐに他の女性から愛されることによって埋めることができるに違いないと思い直した。そして電車の中で目をつぶって眠ることにした。


   20

 優子のマンションまでたどり着くと、外から裕子の部屋の電気が消えているのが分かった。桐島はやはり連絡してから来ればよかったと少し後悔した。側にあった自販機で缶コーヒーを買った。そして優子の部屋で帰宅を待つことにした。

 合鍵を取り出してドアを開けた。疲れた動作でネクタイを外し靴を脱ぎ、テーブルに鞄と缶コーヒーを置いて電気をつけた。
 ベッドの上に抱き合った裸の男女の姿が現れた。
二人と目が合った。
 そのとき桐島を襲った感情は、怒りや哀しみではなく、もっと原始的な恐怖感だった。恐怖に打ちのめされた。子どもの頃以来味わったことのないような激しい恐怖だった。思考は完全に停止した。そのとき桐島に許されていた行動は逃げるか攻撃するかしかなかった。桐島は後者を選んだ。

 二人の上に馬乗りになって両腕で殴った。男はすぐに桐島の下から逃れて後ろからそれを止めようとしたが、桐島は肘で強く裸の男の股間を突いた。男はうめき声をあげて桐島から手を離した。両手で顔を押さえて泣いている優子を、その手の上から何度も拳で殴りつけた。
 次第に優子の泣き声が聞こえなくなった。優子が声を出さなくなったのか、自分自身の興奮のために音が聞き取れなくなっているのか、桐島には分からなかった。
 優子の手が頭から離れた。気を失ったようだった。
 桐島は手をとめた。

 立ち上がって振り返ると、男はいなかった。逃げたのか、助けを呼びにいったのかどちらか分からなかった。そして裸の彼女の体にベッドの下に投げ出されていたタオルケットをかけた。

 椅子に腰掛けて優子を眺めた。コーヒーを開けた。少しだけ口をつけたがすぐに置いてしまった。
桐島の目から涙が流れた。呼吸が荒かった。泣き声が漏れないように歯を食いしばった。しかし、それも長くは持たなかった。桐島の口から始めは呻くような声が漏れ、そしてそれは子どものような腹から声を絞り出す泣き声に変った。
 両手で拭いても拭いても涙は頬を伝って流れた。桐島は泣きながら独り言を始めていた。しかしそれは優子に語りかけるような声だった。桐島の声が届くことのないであろう優子に向けての。


 今までいっぱい二人で色んなことしてきたよね。
 二人で温泉に行ったことがあったよね、卓球は優子の方が全然うまかったから、旅行中ずっと得意気だったよね。
 二人でカラオケにも行ったよね。二人で徹夜で歌いっぱなしだから、朝出てきたときにはいつも喉がガラガラになって、職場で風邪引いたのかって言われたよ。
俺は優子が嫌がるのを知っていて、ベッドで少しだけ太ってきたお前のお腹を何度もつまんで怒らせていたよね。
 バレンタインに手袋を編んでくれたことがあったよね。でもあんなに可愛いデザインの手袋とても俺はできないから、ずっとタンスに仕舞いっぱなしだよ。
 花火を見に行って、あんまり綺麗だったからって俺が涙を流したときに、お前はそれを見て大喜びして、そのあとずっとそれをネタに俺を馬鹿にしたよね。
 そのベッドの上で、次の千円札の顔を誰にするかって話で盛り上がって徹夜で笑いながら話し込んで気がつけば朝だったこともあったよね。
 優子は料理がちっとも上手くならなくて、文句を言うと、口だけ生意気な御託を並べて反論してきたよね。お前は下手なくせに変な工夫するからいつも失敗するんだよな。
優子が夜道で痴漢にあって、泣きながら電話してきた日は、俺の胸もつぶれるほど悲しくて悔しかったよ。
 お前がセーラー服をまだ持っているってことを知ったとき、俺が何度も頭下げて着てくれって頼んでもお前はバカって言って恥ずかしがって着てくれなかったよね。
色々あったし、色んなこと考えたし、鬱陶しがったり、面倒くさがったり、文句ばっかり言ったりしたけど、でも結局、ずっと一緒にいたかったんだ、ずっとお前と一緒にやっていきたかったんだ。一緒に楽しんだり悲しんだり、苦しんだり喜んだり、そんなのもずっと一緒で、俺はお前に大事なことは何も話さなくても、それでもお前と一緒にいるだけで、二人でいるだけで。


 桐島の独り言は次第に嗚咽と混ざり合い、聞き取れない響きになっていった。自分は、優子との間で、こんなに色んなことを経験して、色々なことを感じていた。しかし、それを何も感じていないのだと勝手に思っていた。ずっと気がつかなかった優子との色々な気持ちが次から次へと心の中から湧き上がってきて、どうにも止められなかった。自分がこんなにも感傷的な人間だとは桐島にとってまったく思ってもみないことだった。


   21

 遥は家に帰るとベッドの上に寝転がり過ごすこと多くなった。起きているのが嫌だった。何も考えたくなかった。夏休みに入っていたが、学校で行なう補講に参加しなければならなかった。しかし、遥は休みがちだった。外にも出たくなかった。始めたばかりのアルバイトも休み始めていた。
その後、ハイドからのメールは何度も送られてきた。


From: "ハイド"
To: "ユミ"
Sent:Tuesday. July, 29, 2018 3:01 AM
Subject: 君に見てほしいから

 ユミさん、今日、君との子どもが生まれました。かけがえのない僕らだけの愛の証。
 君が僕に返事をくれなくても、僕らの愛はこんなにしっかりした形で証明されているんですよ。
 この子を君に見てほしいんです。そしてこの子を抱いてあげてください。
 
 もう君も分かっていると思うけれど、僕は君を探し出すことなんて、簡単にできるんです。この言葉が嘘じゃないってことは、君はよく知っているはずなんだ。でも僕が今すぐにそうしたりしないのは、君から会いたいって言って欲しいからだよ。
以前の君が僕と会いたがらなかったわけは、もう解消されたんだ。僕らの前に障壁は何もない。あるのは愛情だけなんだ。

 僕は君に危害を加えたりは決してしない、そのことも君は分かっているはずだよ。

 僕らの愛の証であるこの子、今もこのメールを打つ僕の横で愛らしく笑っているこの子を、君に見てほしいんだ。

 だけれど、君があんまりにも僕のメールを無視し続けると、僕は自分から行動するよ。これは脅しではないし、僕は君を不安がらせたりなんてしたくないけれど、僕から君に会いに行くよ。

 だから、必要のない不安を手放して、僕のメールに返事を書いてください。


ハイド


 遥は読みたくなかった。しかし、読まないわけにはいかなかった。自分の身に危険が迫ってくるかもしれないからだった。その危険の情報はハイドからくるメールからしか得ることができないからだった。
携帯が光った。


〝ユミさん、お返事遅れて申し訳ありません。あなたの相談に乗りたいと思います。俺で役に立つかはわかりませんけれど。電話でもいいですが、込み入った話ならば直接会って聞きたいです〟

 遥はベッドに寝転がりながら返信を打つ。この男は私を本当に助けてくれるのだろうか。しかし、他に相談できる相手はいなかった。


〝お返事ありがとうございます。それではお言葉に甘えて相談します。明日の夜は時間が取れますか?〟
 
 メールを出し終わって、遥に新しい不安が生まれた。この男もハイドのように私に付きまとうことになるのではないだろうか。もしそうであるなら、私は誰を信じていいのか分からない。男など誰も信用できない。


   22

 約束の場所に遥は十分前から来て待っていた。ファミリーレストランだった。コーヒーを飲みながら、持ってきた携帯端末をいじっていた。来ないかもしれないという不安はなかったが、ミツがどんな男なのか、信用できる男なのかという不安はあった。やって来たのが一目見て信じられない男であれば、向こうがこちらを見つける前に素早く帰ろうと決めていた。

 しかし、その男は店に入ってくるとまるで遥のことを知っているかのように迷うことなく遥のテーブルへと向かってきた。遥が何かを判断する時間などなかった。思っていたよりもずっと痩せた男だった。色が黒く長身だった。目鼻立ちがくっきりとしていた。決して不快ではないが、どこか相手を緊張させるような、アンバランスさを感じさせる男だと遥は思った。メールの馬鹿な文体とは不釣合いであり、逆に不釣合いなところがいかにもこの男に合っているようでもあった。

「ユミさんだね」

「はい」

「ハンドルネームで呼ばれるのは、嫌だな。山岸と呼んでください」

 山岸と名乗った男は、少しけだるそうに遥の前に腰掛けてウェイターを呼びドリンクバーを頼んだ。


「相談って何なの」

「ストーカー」

「へぇ、ストーカーで困ってるんだ。ネット上で知り合った人?」
「そうです」
「どんなことされたの」
「まだメールが来るだけ」
「それじゃどうしようもないだろ。警察に言ってもそれくらいじゃ動いてくれないんだろうし」
「だからあなたに頼んでいるんです」
「だって俺は探偵じゃないしね。で、どんな危険があると思うわけなの?」
「ちょっと前に女子高生がさらわれた事件がこの近くであったのって知ってます?」
「いや、知らないけど」

 遥は携帯端末で遠山真奈美の事件の記事を開いて山岸に見せた。

「あ、この子」

「そう、私が写真を撮って私だと嘘ついた子。そのストーカーは彼女がさらわれる少し前に、私のことを見つけたと言ってたの」
「そいつがこの子を誘拐したと思ってるわけ?」
「間違いないと思います。遠山が襲われた日にメールが着ましたから」
「本人がそう言ってたの?」
「いえ、ほのめかす程度」

 メールボックスを開きハイドからのメールをいくつか取り出して山岸に見せた。

「何これ、こいつ子ども産んだの? 変なの! 実は愉快なやつかも」

 山岸は次第にリラックスした雰囲気になり、テーブルに腕をついて身を乗り出して遥の携帯端末を覗き込む。

「へぇ、確かに、こいつっぽいね。こいつじゃなかったとしても、このハイドってやつがやばいってことには変らないね」
 

 山岸は遥の顔をじっくりと眺めた。

「で? で、どうしたいわけ。ユミちゃんは」
「痛い目に合わせたい」
「痛い目にねぇ。それで俺に手伝ってくれっていうの」
「そう、他に頼める人いないから」
「警察に言えばいいじゃん、こいつが犯人だって」
「それは嫌。私がやってたことが周りに広まる」
「何で俺が引き受けると思った?」
「だって、」
「だって?」
「何となくだけど」
「何となくねぇ」

 山岸は急に立ち上がって、遥の隣の席に座りなおした。遥は肩をすくめて山岸から少しでも体を離そうとした。山岸はそうする遥にわざと体を近づけ、そして小声で言った。

「やるよん、手伝っちゃうよ」

 そして横目で遥を見て笑っていた。

「バッチリ助けちゃうよ。俺は君の味方だ、これで君は恐いものなし。そのかわりキッチリお礼はしてもらっちゃう」

「お礼?」

「そうお礼。お金払わなくてもできるお礼」

 山岸はまた子どものようににこりとあどけない笑みを浮かべる。遥はこれが私より十年以上も長く生きた人間なのだろうかと思った。


「んね」


   23

 山岸は真面目な顔になり、静かに遥の向かいの席に戻った。
「まず、やつの居場所が分からなきゃいけない。だけど、こちらにはやつの手がかりはあまりないですね。やつの写真ってあります?」
「あるよ」

 遥は以前にそちらの写真も見たいといって送らせたハイドの写真を開いてみせる。
「うわっ、全身黒尽くめじゃん。何だ、あんまり顔立ち特徴ないんだな。でも弱そうな男で安心」
「どうやってハイドの場所を見つければいいの?」

 遥はそう尋ねて、自分がもうこの男に頼る口調になっていることに気がつき、軽く唇を噛む。心から頼っているわけじゃない、こんなやつでも今は手を借りるしかないだけだ。

「写真からじゃ、無理だね。彼の送ってきたメールを全部送ってよ。残ってるでしょ」
「それ、持ってきた」

 遥は鞄からUSBメモリを取り出して渡した。

「よしよし、えらいえらい」

 山岸は妙に人懐っこい顔をたまにする。どこか油断ならないような雰囲気と人懐っこさの二つが混ざり合い、この男の印象を複雑にしていると遥は思った。

「だけど、やっぱり会う約束をするのが一番だね」

「でももうずっとメールの返事書いてないよ。どうやって返事書けばいい?」

「あんまり急に優しくなって、ごめんなさいごめんなさいだとかえって怪しまれる気がします。罠だと思われる。本当にそいつが誘拐犯なら尚更だね。だからかえって素直な気持ちで、あなたが恐くなってきてるって書く。そんなにいうなら一度だけ会って話を聞きます。そしてそれっきりにしてください、って調子にしましょう。なるべく簡潔に、よけいな情報を向こうに与えないようにして」

「呼び出してどうするの」

「ユミちゃんは行かない。俺が行く。そして見張ってる。待ち合わせ時間からしばらくしたら、ユミちゃんがやっぱりいけませんってメールする。そしたらやつは帰るでしょう。俺がその後を追いかける。んで、やつの住所を突き止める。これでどう?」

「どうって、うん、そうする」

「本当に納得してる? ダメそうなとこがあったら言ってよ。ユミちゃんのための計画なんだから。待ち合わせ場所とかでいいとこ知ってるかな、俺が見張れる場所があるようなところ」

「それなら私分かる。近くに二階建てのファミレスがある公園で、そこの窓際の席に座ると一望できるところ」
「OK、じゃぁ、そこを使おう」

 遥には山岸が楽しそうに見えた。楽しそうな山岸を見ていると、自分が本当にハイドを痛めつけたいのか分からなくなってくる。私は一体何をしているのだろう? この男に何をさせたいのだろう?

「何、あと何か心配なこととかある?」

「メールをどういう風に書いたらいいかとか」
「よし、それじゃ、書いたら俺に送ってよ。今は昼間暇だからすぐにチェックするから」

「山岸さん、会社員じゃないんですか?」
「そうだよ」
「何で昼間暇なんですか?」
「大人になったら色々事情があるんだよ」

 そういいながら山岸は顔をしかめる。遥もそれ以上知りたくはなかった。この男の日常生活がどうであろうが、私には関わりがない。ただこの男が私のやることに手伝ってさえくれれば。


   24

 桐島はその日会社を休んでいた。昨日所長に風邪で熱がひどく動けないから会社を休むと電話をしていた。優子がその後どうなったのか、桐島は全く知らなかった。あの夜、泣き疲れた桐島は自分の鞄とスーツをとって優子の部屋を出た。ドアの鍵も閉めた。優子がその後どうなったのか、あの場にいた男はどうしたのか、桐島は何も知らなかった。


 その夜から桐島は自宅に戻らなかった。もし優子や男が暴行で警察に通報をしたとすれば、桐島のところまでくるのはすぐだろうと思ったためでもあったが、ただ単に自分の部屋に戻りたくないという気持ちも強かった。ビジネスホテルに泊まった。会社に電話を入れると、普段と変らない応対だった。優子たちは事件にはしていないのかもしれないと思ったが、かといって出社する気にもなれなかった。
 外に出てあたりを散歩したがすぐに退屈になった。退屈になると優子のことを思い出す。何か忘れるために用事を作らなければと思い立ったのがユミのメールだった。桐島はユミにメールを打ち、会う約束をした。


 次の日、ユミと会った後、桐島は一人で夜道を歩いていた。頭に浮かぶのはやはり優子のことだった。優子と自分のことだった。優子の前で泣き崩れた自分を思い出した。惨めなただの失恋男だった。なぜ自分があぁなってしまったのだろう。女にふられて落ち込んでいた篠原を見たとき、自分はあのようにはならないと思ったはずではなかったのか。

 泣き崩れたのは確かに優子への愛情からだったかもしれない。感情はいったん流れ出すと歯止めが利かなくなるようだった。一度あふれ出すと、もう細かなことなどは関係がなくなり、ただただ同じ道筋を洪水のように流れていく。しかし、それよりも重要なのはその感情を動かした奥底にあった大きな恐怖感だというように感じた。あのとき俺を襲った恐怖感。それは単に優子がいなくなるというだけのものではなかった。そして電車の中で俺が考えたような、愛されている自分を失うということだけでもなかった。もっとわけの分からないそして決定的なものだった。その恐怖感を体験したために、自分自身が根本的に変わってしまったように感じた。
 俺は優子とともに何かを失った。何かは俺の暴力や涙と一緒に流れていった。その何かは生きていく上でとても重要な意味を持つものだった。
 それを失った今、何をしていいか分からない。何がしたいのかも分からない。どうやって生きていけばいいか分からない。
 あるいは、その何かは初めからなかったものなのかもしれない。ないにもかかわらず、あることにしてずっと生きてきたのかもしれない。もしくはそれを失ったのは優子とともにではなく、もっとずっと昔、遥か子どもの頃で、失ったことに気がつかないように今まで生きてきたのかもしれない。
 最初から、自分が何をしたらいいのか、自分が何をしたいのかなどということは、分かっていなかったのかもしれない。分からないくせに分かったような顔をして、その場その場で取り繕ってやりたいことを見つけたような、楽しんでいるような顔で生きてきた。
 しかし、優子を失って、はっきりと気がつかされた。俺は大切なものをなくして生きている。そして何をしたらいいのか分からない。

 桐島はユミに向かって無理に明るく話しかける自分を思い出していた。そしてユミのストーカーを探し出すこともユミと関係を持つことも少しも望んでいない自分を見出していた。少しも望んでいないにもかかわらずやろうとしている自分がいた。ずっとそうであったに違いない。今までずっとそうやって、少しもしたくないことをしたいかのように無理に思い込んで生きてきた。優子との交際ですらそうであったかもしれない。多分以前から薄々気がついていた。しかし、今ははっきりと気がついている。桐島は今、そのことをもう一度忘れさせてくれる強い欲望を欲していた。自分に成り変り自分を動かしてくれるような強い欲望を。


   25

 桐島がたどり着いたのは、篠原のマンションだった。一度だけ上がったことがあった。飲んだ帰りタクシーの相乗りをしたとき、折角だからあがってくれタクシーはまた捕まえればいいと酔った篠原に強引に頼まれたからであった。
 篠原に会って何を話したいというわけでもなかった。もちろん桐島は全てを篠原に話すほど彼を信用してはいなかった。ただ、篠原の顔が見たかった。篠原が自分と同じ顔をしているか確かめたかった。

 時計を見ると九時半だった。仕事が早く済んだ日ならもう帰宅しているに違いない。しかし飲んでいるとするとまだ戻っていないかもしれない。桐島はもし篠原がいなければ、近くで喫茶店でも探し彼を待つかそれともこのまま帰るかどちらがよいかと考えながら、マンションの入り口の並んでいるポストを眺めた。部屋番号までは覚えていなかった。201に篠原という文字を見つけて、桐島は階段で二階へ上がった。
 
 201のドアの横の窓には明かりが漏れていた。篠原は帰っていた。桐島は篠原が出たら何と話せばいいかまるで考えていない自分に気がついた。しかし、そんなことどうとでもなるとも思えた。
 桐島はベルを押した。
 部屋の中から少し不機嫌な大声が聞こえた。そしてまもなくドアが開いた。

「桐島さん、どおしたんですか?」

 ジャージにTシャツ姿の篠原が顔を出す。

「いや、ちょっと近くまできたから」

 桐島は部屋の奥に誰か人の気配がすることに気がついた。茶色い長い髪が見えた。

「ねぇ、誰? 誰が来たの?」

 篠原は後ろを向く。
「会社の先輩。ちょっと黙ってろよ、うるさいな」

 篠原は桐島の方を向き直り、苦笑いをする。

「あいつ、新しい彼女です。あんまり品のいい女じゃないんですけどね」

「ねぇ、今何かアケミのこと何か言った?」

「言ってねぇよ、だから黙ってろって」

 女の声は頭に響くような濁った嫌な声だった。

「ええと、どうしましょう。部屋汚いですよ。ちょっと待っててください、喫茶店でも行きましょうか?」

「うん、いや、別にかまわないんだ。彼女に悪いしな。本当にただ近くまで来たから寄ってみただけだからさ」

「あいつのことなんて気にしないでいいんですよ。桐島さん風邪は平気なんですか?」

「今日の午後には熱も引いてきたからな。それで薬と食料を買いに出るついでにお前の家に寄ってみただけだから。心配するな。ぶり返さなければ明日には出社するよ」

「本当に大丈夫ですか? 何だか心配だな。何かあったんじゃないですか」

「何かって何だよ。よけいな心配すんなよ」

 桐島はまだ何か言いたそうな篠原に強引に別れを告げてそのマンションを離れた。


   26

 ユミの話では男はすぐに遥の誘いに乗ってきたらしかった。桐島はファミリーレストランの窓際に座り、下に見える公園の時計塔を見ていた。あれからまだ会社には行っていない。電話をすることもやめた。もし優子に暴力を振るったことがばれていないならば、会社に行って働いた方がよいのかもしれないとも思えた。このまま何事もなく生活することが出来る可能性もないわけではないのではという気もした。しかし、元の生活に戻って元通りの暮らしをすることを自分が本当に望んでいるのか桐島には分からなかった。どうにでもなれという気持ちだった

 時計塔だけではなく、その周囲にも目を配らなければならないと桐島は辺りに目を向けた。時計塔の下に目当ての女性がいないとすれば、ハイドは近づかないかもしれない。用心深い人間であればまず偵察できる場所を確保して、あるいはこちらと同じように時計塔をどこかの店から眺めているかもしれない。しかし、桐島のいる店内にはそれらしい人物はいなかった。
 桐島はユミに見せてもらったハイドの写真を頭に思い描いていた。痩せた猫背の男だった。黒い服に目深に黒いキャップを被っていた。キャップの下に覗いて見える鼻や口はこれといった特徴がなかった。そして、ユミが偽の写真を使っていたように、ハイドの写真も本当に本人かも分からない。

 ユミへのメールでハイドは子どもも連れて行くと言っていたらしかった。

 時計を見ると約束の時間六時が来ていた。あたりはまだ明るさが残っていた。時間ちょうどに探すまでもなく全身黒尽くめの男が現れた。二階からでも、その男が華奢であることは分かった。背もそれほど高くなかった。黒いズボンに黒いTシャツ、そして黒いニットの帽子をかぶっていた。両手で何か白い布でくるんだものを抱えていた。

〝来たよ来たよ、ハイドくん。やっぱ全身黒尽くめ! おまけに手に何か持ってる。ここからじゃよく分かんないけど、本当に赤ん坊かも~!〟

〝分かりました。私はメールをいつ頃出せばいいでしょうか?〟

 ユミは同じ街の少しだけ離れた場所に待機させていた。用心のためにレストランには釣れていかなかった。

〝ちょっと待ってね、合図を出すから。もう少し様子を伺ってみるよ〟

 桐島はドリンクバーでアイスコーヒーをついで席に戻ってきた。ハイドは相変わらず立っていた。時々白い布に何か話しかけているようだった。本物の赤ん坊だろうか、それとも人形だろうか。考え目を凝らしてみるが二階からでははっきりと分からなかった。

 ハイドはしばらく立ち尽くしていた。たまに携帯端末に目をやった。約束の時間から十五分して、桐島はユミにハイドへ行かれないとメールを打つように電話をした。

 電話を切ってから五分ほどしてハイドが少し慌てながらスマートフォンを出すのが見えた。そして近くのベンチに座り、白い布の塊を両膝に乗せてメールの返信を打ち始めた。
 ハイドはメールを打ち終わってからもその場を離れなかった。ただベンチに座り続けていた。

 桐島のスマートフォンが鳴った。


「はい、もしもし」
 
ユミです。今、ハイドから返事が来ました

「で、何だって?」

 僕はあなたが来るまで待っているから、ずっと待っているから、って

「あちゃー、あいつ本当に待ってるよ。人の話ちゃんと聞けよなぁ、行かないっつったら行かないの」

 どうしますか? 

「しょうがないだろ。もう一度ごめんなさいって書いてどうしても行けません、恐くて会えませんって送ってみて。それでダメなら待つしかないでしょ」


 実際、桐島は待たされた。ハイドは一向に立つ気配がなかった。小さな手提げ鞄から瓶のようなものを取り出して白い布の中のものに与えているのが分かった。
 
 桐島は何杯もコーヒーを飲んだ。にもかかわらず次第に眠くなり、転寝もした。しかし目を覚ますとまだハイドはベンチに座っていた。
 二度目の転寝のときに店員に注意を受けた。もうそれ以上は長居出来ないと考えた桐島は、ユミにまだ待っているのですかと一度質問させ、そして、ハイドさんにとても申し訳ないのだけれど今日はとても会える気分ではないので機会を改めて会うことにさせてくださいというメールを送らせることにした。次に会う予定ができればあの頑固な男も立ち去るだろうと考えた。

 桐島の作戦は当たったようだった。ハイドは立ち上がった。六時に待ち合わせて、ハイドがベンチを立ったのは九時半過ぎだった。桐島は赤ん坊が本物であるならこんなに外で待たせられるはずがないため、やはりあれは人形だろうかと考えたりした。


   27

 遥は待っていた。最初の一時間は公園から五分ほどのところにある喫茶店で時間をつぶした。しかし、ずっと同じ場所にいることが堪えられなくなり店を出た。ユージは二十分しか遥を待たなかったことを思い出した。遥は二時間ユージを待った。ハイドはどのくらい自分のことを待つだろうか。
 そして誰かが誰かを待つという関係の非対称さ、残酷さを感じた。本当は自分は待つのも待たせるのも嫌いなんだと思った。

 街を彷徨い、コンビニや本屋に立ち寄ったりした。三十分おきぐらいに山岸からメールが入った。最初はハイドに対する報告だったが、次第にだらけてきて、コーヒーが不味いだの、斜め前の席の女のスカートが短いだのどうでもいい内容になっていった。

 時とともに遥の心に重苦しい圧迫感が押し寄せてきた。今この瞬間に自分を待っている男がいるということが、遥の肩にのしかかっていた。
 なぜハイドは今日、のこのことやってきたのだろうか。私が遠山真奈美を襲ったのが彼ではないかと疑っていることは分かっているはずなのに。それに私がハイドに好意を持っていないのは冷静に考えれば明らかなのに。それなのにハイドは私に何を求めているのだろう。私に何を期待しているのだろうか。
しかし、遥は同時にユージを待っていた自分の姿も思い浮かべていた。ユージがそうしたように、二十分来なければ、もう来ないと分かってもよさそうなものであった。もし本当にユージが何か不測の事態で遅れただけであるなら連絡が来るはずだろう。私はなぜ二時間もユージを待っていたのだろう。来るはずもないユージを捨てることが出来なかったのだろう。

 遥はハイドに哀れみを感じた。あの男も今苦しんでいるに違いない、待ち続けていることに苦しんでいるに違いない。しかし、私が来ないということを自分の中で認めることが出来ないのだ。自分が相手に裏切られるような価値のない人間だと認めることがあまりにもつらすぎるためにいつまでも本当は私は来ると思い続けていたいのだ。

しかし、そこで遥はハイドに感情移入をしようとする考えを必死で振り切ろうとした。私はユージに見捨てられたとき、復讐すると誓ったはずだ。
 それにハイドは何度も私をメールで脅し、怯えさせた男ではないか。人まで誘拐したかもしれない男ではないか。何を哀れんでいる、喜べ、やつの苦しみを喜べ。それが出来なければ私は一生苦しめられる側にいるしかないのだ。

 
 九時過ぎに山岸から来たメールに、謝って次回の約束をするようにと書いてあった。それを読み遥も少し気が楽になった。早くハイドをあの場所から移動させたかった。

 それからしばらくして電話が来た。


 動き出したよ。駅に向かってる。どうする? 来る?
 
「行く。私もハイドがどこに住んでるのか確認したい」

 もうかなり遅いよ。親は心配しないの?
 
「平気。心配させておけばいいから」

 おいおい。悪いこと言わないから親は大事にしておけって。

「何偉そうなこと言ってんの。私の心配はしないで早くハイドの後を追ってよ」

 今そうしてるよ、うるさいなぁ。それじゃ、やつが電車に乗ったら何線のどっち方面だかをメールするから。

「了解」

 
 遥は山岸のメールの指示に従って電車を乗り継いだ。予想していたよりも遠かった。遥は一時間以上電車に揺られていた。その間ずっと落ち着かない気分だった。気を紛らわすために携帯端末で音楽を聴くことにした。

 降りた駅はもう県境を越えていた。駅前にあまり何もない、閑散としたベッドタウンだった。山岸はメールで駅で待っていろと言ってきた。退屈を紛らわすために、自販機でコーラを買って飲んだ。駅前をふらついていると、コンビニを見つけたので、そこでマンガを立ち読みした。


   28

 山岸からメールが入り、慌てて駅に戻ると、彼は改札の前に立っていた。

「あ、ユミちゃん制服じゃん、何で何で? やっぱ制服だと可愛いなぁ」
「学校の補講って言って家を出てきたから」
「何か、俺久々に制服の女の子と話したね、今日まで生きててよかった」

「そんなことどうでもいいから? ハイドの家は?」

「あぁ、普通のそれほどでかくないアパート。歩いて二十分くらい。今見に行く?」

 遥は頷いた。

「それでさぁ、表札見たら名前、山田だって。めちゃめちゃ一般的な苗字じゃん。おいおい、山田ハイドなのかよ」

 山岸は一人で話して一人でくすくす笑っていた。

 山岸の言うように、五分ほどでそのアパートについた。あまり新しいとはいえない、小さなアパートだった。
「恐らく学生とかフリーターが多いんだろうね。建物の奥行きと各階の部屋数を考えてみるとそんなに広いとは思えないし」
 ハイドは一階に住んでいた。

「はい、ここです。確認終わり」

 山岸は来た道を帰り始めた。遥はそれに従った。

「それで、これからどうするの?」

「それはユミちゃんが決めることでしょ。俺がやつに恨みがあるわけじゃないもん」

 遥はしばらく黙って山岸と並んで歩いた。どうしたらいいのか分からなかった。分からなかったため、当初に考えていた通りにやることに決めた。あれこれ考えることはもう嫌だと思った。

「それじゃ、痛めつけてよ」

「いいよ。でも俺は手伝うだけだよ。俺がしっかりサポートするから、ユミちゃんがやるんだ。それが嫌だっていうなら、人を痛めつける資格ないよ」

「やる」

「OK」

 山岸は立ち止まって遥に向き直った。

「でもね、この道見れば分かるように結構明るいんです。人通りもわりと多い。だから、行き帰りを待ち伏せてっていうのは、ちょっと難しいと思います。後は部屋を直接襲うこと。俺の考えだと一人暮らしが多いアパートだから、午後になると左右の住人はいなくなると思うんです。ハイドはバイトやめたんでしたよね。おまけにあんまり部屋から出ないって。だから、アパートの住人の減る午後に、二人で武器を持って一気に入り込んで、ひるんだ隙に縄かガムテープで縛ってって感じはどうかなと考えたのですよ」

 山岸は妙に馴れ馴れしい口を聞くと思えば、急に敬語になる。

「それでいいよ」

「んじゃ、また明日、あそこの駅に集合ね」

 二人は再び歩き出す。

「でも、私もう電車ないよ」
「えっ、マジかよ。うわっ、やばっ。どーすんの? って俺がびびってる場合じゃないか」

 山岸は遥の背中をポンと叩く。

「じゃぁ、しょうがないや。ホテル行こう、ホテル。いや、参ったね、ホント」

 山岸は一人先を歩き出す。

「しかし、制服じゃ、まずいよなぁ。俺淫行で捕まるかもしれないな」

 ぶつぶつと呟いている山岸の前に遥は駆け足で顔を出す。

「あの、言っておきますけど、今日は何もしないですよ」

 山岸はそんな遥に腰をかがめて顔を近づけて笑いかけ、小声でこう言う。

「安心して、分かってるって。何もしないから。ただ隣で眠るだけだよ」

 遥はそんな山岸を睨み付ける。

 
   29

 ハイドの最寄り駅は小さく何もない町だったため、桐島とユミは近郊の大きな駅まで移動した。さすがに制服の女子高生とホテルに入るのはまずいと思い、駅前のデパートで安いシャツとスカートを買って、トイレで着替えさせた。それでもユミの見た目は高校生にしか見えず、桐島は不安も感じながらも一軒のラブホテルを選んだ。ユミは何も言わずについてきた。桐島は「絶対援助交際だと思われるよな」と呟きながら、一番安い部屋のパネルを押した。機械的な女性の声で部屋までの案内が流れた。

 
 ユミをホテルに誘ったものの、桐島はそのときユミに性欲を感じていなかった。コーヒーショップで働いていたユミを初めて見たときに感じたどす黒いような生々しい性欲はもうどこかへ消えていた。
 本当は一人で眠りたかった。ユミをタクシーで帰すのではなくラブホテルへ連れ込んだのは、桐島の捻じ曲がったサービス精神の表れであった。
 欲望はどこから来てどこへ消えていくのだろうかと桐島は考えた。優子とのことがあって以来、全ての欲望はどこかへ消えて、ただ体だけが動いているという感じがしていた。

 人間を動かすのは欲望に違いない。性欲、食欲、支配欲、知識欲、様々な欲望が人間を動かしている。それらの行為は欲望が消えてしまえば何のためにするのか分らなくなる。欲望はいずれ萎えるけれど、人はその不安定な欲望を信じて生きている。俺を動かしていた欲望はどこへ消えたのだろう、その瞬間だけでも、何かをしたいと信じられるような強い欲望、俺を突き動かしてしてくれる欲望。


「何一人で考え込んでるの? 私お腹空いたんだけど」

「腹減ったの? 待ってる間に何も食べなかったのかよ、しょーがねぇなぁ。多分不味いよ、ピザでも頼めば?」

 桐島はメニューをユミに渡した。ユミはそれを受け取りベッドの上で眺めた。

「うん、それじゃ、ピザでいい。シーフード」

 桐島はフロントに電話をして頼む。桐島もユミの横に座った。間近で見ると尚更に大柄な女だった。そして肩から腕にかけての肉付きのよさが分かった。白いのシャツからブラジャーが透けて見えていた。
 ユミが桐島のその視線に気がついて横を向く。

「何? じろじろ見ないでよ」

 醜い顔だと思った。しかし、あえて醜いままにしているような気がした。もっと髪型を変えて色を明るくし、眉をかいて、化粧をして、自信を持った表情をすれば違うだろうにと桐島には思えた。自分を魅力的にしようとすることに抵抗感を持っているのだろうか。
 恐らく根気よく時間をかけて口説けばセックス出来るだろうと桐島は思った。しかし、それほどの性欲を俺は持っているだろうか。欲望の強い人間が羨ましい。欲望の強い人間は迷わない、欲望の強い人間は意味を考えない、欲望の強い人間は過去を振り返らない。

 桐島は立ち上がって冷蔵庫を空け、缶ビールを二本取り出す。

「え、ちょっと待って、私飲めないよ。酔わしてどうとかって考えないでよね」

「お前が飲まなきゃ、俺が二つ飲む。いちいちうるさいなぁ、何にもしないって」


 桐島はベッドの上に横になる。そしてユミを見上げた。

「今日は疲れたよね。待ってるのって疲れるよ。酒飲んでゆっくり寝るよ。ほら、お前も風呂でも入って休めって。何もしないから。カラオケ歌っててもいいぞ」

「カラオケ嫌い」
「嫌いなもん多いなぁ。よくないよくない、酒でも飲めば歌うと楽しいって」
「歌わない。下手糞なくせに調子にのってカラオケ歌ってるやつ見るとムカつく、馬鹿みたい」
「悪かったね、下手でカラオケ好きで」

 ユミは立ち上がって浴室へ向かった。浴室からもれるユミのシャワーを浴びる音を聞いても、桐島の性欲は湧いてこなかった。これが半年前なら、拝み倒してでもどうにかしようとするだろうと思った。ビールを飲んでいると、次第に眠くなってきた。このまま起きていてシャワーから出てきたユミとまた話すのも面倒に思えた。桐島は目を閉じた。


30

「ありがとう」

 朝、ホテルから出るときにユミが桐島に言った。

「何が?」

「何もしなかったから」

「だからぁ。あのね、お礼はね、むしろ何かをしてもらったときに言うものです」

「それじゃ、何て言えばいいの」

「何、この男、一晩一緒に寝たのに何もしないじゃない、馬鹿にされたっ! き~ッ悔しい。っとかね」

「何だか分かんないけど、お礼を言った私が馬鹿だったっていうのは分かったわよ」


 喫茶店で朝食をとると、二人はハイドのアパートへ向かった。時間はもう十時を過ぎていた。
 アパートに着くと、ハイドの右隣の部屋には電気がついていなかったが、左隣の部屋には明かりが見えた。ハイドの部屋は暗かった。

「まさか山田ハイドのやつ出かけたのか? それとも寝てるだけかな」

「どうするの?」
「左隣のやつはどう考えても邪魔だね。こんな古いアパートじゃ、いくらなんでも隣で暴れられたらばれるだろ。しばらくの間、隣のやつが出ていくまで見張りだ」
「もし出ていかなかったら?」
「明日だよ。人を一人ボコボコにするんだから、そんなに焦ったらダメだって。準備万端にしないと。じゃ、見張っててくれ。俺はバットとか買ってくるから」

 桐島はユミを残してその場を離れ再び駅に戻った。歩きながら、このままどこかへ消えようかという考えが頭を掠めた。なぜ自分がハイドを痛めつけようとしているのか、本当にそうしたいのだろうか。
 ただ結局逃げずに戻ってきたのは、ユミと約束をしたからというわけではなく、ただどうにでもなってしまえという自暴自棄な気持ちからなのだろうと思った。
自暴自棄な気持ち、これが俺の中に唯一残っているものなのだろうか。

「隣のやつは出てきたの?」
「うん、ちょっと前に」
「ハイドの部屋は?」
「まだ暗いまま」
「寝てるのかな、昼夜逆転の生活してるかもしれない。チャンスだね、やつはまだ体が起きていない」
「今何時?」
「一時」

 桐島は大きなペンチをユミに渡した。
「俺がね、ベルを鳴らして宅急便だって言うので、もしやつの開けたドアにチェーンがかかってたら、こいつで即行ねじ切るんです、出来そうですか?」
「多分平気」
「よし、それじゃ行こう」

 
 ベルを押す瞬間は緊張するだろうと桐島は考えていた。しかし、ハイドの部屋のすぐ前に立つと、あまりにもあっけなくベルに手が伸びた。二度、強くチャイムを鳴らす。
 奥から物音がして声がする。

「誰? どなたです?」

 ドアが開いた。桐島は素早く開いた隙間に足を入れた。チェーンはつながっていなかった。間近でみると男は写真以上に貧弱に見えた。

「誰だ、お前」

 桐島は金属バットで思い切りその男の胸を突いた。男は後ろに倒れた。そのまま桐島は部屋に突入し、男の上に馬乗りになり顔面を殴打した。殴りながら優子も同じように殴ったことを思い出していた。男の抵抗が少し弱くなったのを見て、手を休め立ち上がり男をうつ伏せにして両腕を押さえた。抵抗するには男はあまりにも力が弱かった。

「そのビニールの中にガムテープがあっただろ、それを持ってこい」

 部屋の入口で呆然と立ち尽くしていたユミは気がついたようにびくりと反応し、ビニール袋からガムテープを取り出しながら入ってきた。桐島は男の両腕を押さえたまま、まずユミに後ろ手でガムテープを巻きつけて縛らせた。そして男の髪を掴んで顔を持ち上げ、その口をガムテープでふさいだ。

 ことは当初桐島が考えていたよりもずっと迅速に進んだ。桐島は男を部屋の中央に運んだ。男は数回激しくもがくような動きを見せたが、そのたび桐島は強く腹を蹴りつけて大人しくさせた。

「さぁて、どうするお姫様」

 ユミは震えていた。

「痛めつけるんじゃないの? 俺はお膳立てをしたんだぜ」

 桐島はバッドをユミに渡してしゃがみ込み、男の顔を覗き込んだ。手を伸ばし、口のガムテープを一気に剥がした。

「聞こえるか、この子はなぁ、お前のメールを嫌がってるんだよ。何いつまでも勘違いしてるんだこの変態。お前は嫌われているんだ、もういくらメール書いてもお前が彼女から好かれることはないんだ」

 桐島は拳で男の顔を小突いた。男はうめき声を上げた。

「何とか言えよ、おい、甘ったれんなよ、これだけで済むと思うな。いいか、この子はお前が嫌いなんだ」

 男は小さな声を上げる。


 分かってたよそんなの。言われなくても僕が一番分かってたよ


 細い声だった。

 
 その時ユミが言葉にならない叫びを上げたと思うと、寝転がる男の腹部や腰に金属バットを振り下ろした。そのたび男の苦痛の声が漏れた。やがてユミはバッドを投げ出し、頭から足から肩から腹までいたるところを蹴り始めた。桐島はユミが律儀にも靴を脱いで部屋に上がっていたことに気がついた。ユミの白いソックスが前後、上下に運動した。顔を蹴った衝撃で男は血を吐いた。口の中は真っ赤に染まっていた。男は口を開いたが、出てきたのは言葉ではなく、小さな泣き声だった。

「うるせえんだよ」

 その男の顔にまたユミの足が直撃した。ユミのソックスが赤く染まった。男の吐いた血はユミの太腿にまで飛び散っていた。
 桐島はそれをただ見ていた。ユミの足が動くのを。そして男が血を吐くのを。ユミの足が動くたびに、スカートが揺れるたびに脂肪のついた内腿が見えた。不健康な白さと痣のあるその太ももを見ながら、桐島はいつの間にか欲情を感じていた。ユミの姿がそうさせたのか、男にふるった暴力の余韻がそうさせたのか分からなかった。


 桐島は力強くユミに飛び掛り男の横に押し倒した。ユミが何か言ったが聞こえなかった。ユミの上にのしかかると片腕でユミの腕を押さえつけながら、片腕でスカートへ手を入れた。そしてユミの顔へ激しくキスをした。ユミは抵抗していた。何か叫んでいた。桐島は一度ユミの頬を平手で強く叩きユミを黙らせ、そしてユミのスカートの中へ頭を突っ込んだ。生暖かい空気が桐島の嗅覚を刺激した。今信じられるのはこの欲望だけだと思った。どこまでもこの欲望の先に従って行ければ俺は生きていけると思った。何も考えず、何も迷わず、ただこの欲望が尽きぬことだけを願って。ユミの柔らかい陰毛が桐島の肌を刺激した。


   31


「馬鹿にしないでよ、さっきから、嫌だって言ってんじゃない」

 突然の予想外の強い力で桐島は蹴り飛ばされた。そしてさらに仰向けのままのユミにばたつくような足で何度も蹴られた。ユミの怒鳴るような叫ぶような声が耳に響いてきた。ユミの声は鋭利な刃物のように桐島の脳をついた。

「あんた、何やってるのよ、私が嫌だって言ってるんでしょ、さっきっから何度も何度も嫌だって言ってるんでしょ、私が、私がね、嫌だっていうの分かってるんでしょ、それなのにあんた何やってるの、自分のしたいことを、自分のしたいときに、自分のしたいようにやれば、それで正しいと思っているの? 何でも自分の思うままに好き放題やるのが正しいと思ってるの? 冗談じゃないよ、そんなんじゃ、そんなんじゃねぇ、」

 ユミの声は次第に叫び声から泣き声に変っている。ユミは体を起こして桐島を睨み、そしてうつぶせに倒れ、両腕の拳を掴んで床についた。

「そんなんじゃ、私、そんな人ばっかりの中で、私、どうしたらいいかもう分かんないよ、私はどうすればいいの。私の味方だっていったじゃない、ちゃんと聞いていたのに、私の、私の味方って、私の、私の味方だったらもっと、もっともっとちゃんと、私のことを助けてよ」

 ユミは床を叩いた拳を開いて自分の頭を抱え、そして丸まるようにして、泣き崩れた。桐島はただそれを眺めているしか出来なかった。もう一度、今度は優しくユミの体を抱きしめて耳元で謝罪と慰めの言葉を囁こうかということが頭に浮かんだ。しかし体が動かなかった。まるで、ユミから溢れ出た感情が、桐島の中に入り込んで全身を痺れさせ、動けなくさせているようであった。

 ユミの泣き声と男のうめき声の中を桐島は座っていた。しかし、なぜか時間が止まったような空間にいるように感じた。自分がこの場にいることが不思議であった。

 桐島の耳にもう一つ別の声がした。小さな、弱々しい声だった。桐島は耳を澄ませて立ち上がった。

 見回すと男の一人暮らしにしては整理された、六畳ほどの薄暗い部屋の隅に白い布の塊が置いてあった。桐島はゆっくりとそれに近づいていった。声はその布からしているようであった。静かにそっと手を伸ばした。暖かな手触りがした。両手で持ち上げ、布の中を覗き込むと、そこにいたのは小さな白い猫だった。本当に小さな仔猫だった。猫は澄み切ったビー玉のような大きな目をくるくると動かして、桐島の方を見た。
 桐島が布ごと床に戻すと、猫は覚束ない足取りで布から抜け出して倒れたままの男の方へと歩き出した。その細い体からまだ生まれて間もないことが桐島にも分かった。猫は男の前まで来ると、血に濡れた男の顔を舐め始めた。優しい鳴き声とともに、猫は男の顔を舐め続けていた。男は目を瞑って何も言わなかった。


   32

 桐島と遥はそば屋の暖簾をくぐった。三時近くになっていた。店には他の客がいなかった。
 二人はテレビの下の席に向かい合って座った。

「ええと、冷やしたぬき。わさび入れないで。お前は?」
「ちょっと待って、まだメニュー見てる」
「早くしろよ、おばさん待ってるぞ」
「何であんたに急かされなきゃいけないの、自分が食べるものくらいゆっくり選ばせてよね」

 遥は迷ったあげく、桐島と同じ冷やしたぬきにした。「私はわさびを入れてね」と遥は大きな声で付け加えた。

「ねぇ、大人のくせにわさび嫌いなの?」
「わさびに大人とか子どもとか関係ないだろ、大体うどんにわさびつける意味が分かんないよ」

 運ばれてきた冷やしたぬきうどんを二人はテレビを見ながら食べていた。遠山真由美が保護されたというニュースが流れていた。しかし、二人ともそのことには触れなかった。

「あ、鼻血また垂れてるよ」
「え、本当?」

 遥は鼻に手をやる。

「うそ。ひっかかった」
「最低。全然面白くない」
「怒るなよ、そのくらいで」
「あんたがあんまりガキだからでしょ」
「それにしても、お前、制服で革靴に裸足って何か変な感じじゃない? 貧乏っぽいよ」
「しょうがないでしょ、昨日買った服とソックスは汚れちゃったんだから。黙って食べなさいよ。あんたよく喋ってうるさいからって女の人に嫌われたことあるでしょ?」
「ないよそんなの、そんなこと小娘に言われたくない」
「小娘って、何それ、私のこと?」

 食事を済ませると、二人は席を立った。奢ると言った桐島を押しのけて遥は無理矢理自分の分を払った。

 店を出ると、夏の陽射しはまだ強く二人を照らしつけた。桐島は眉をひそめて空を見上げた。夏の青空だった。そんな桐島を遥が後ろから押した。

「それじゃね」
「あぁ。気をつけろよ」
「何を」
「いいだろそんなこと。とにかく気をつけろよ」
「うん、分かってるよ」

 遥は桐島を見ながら数歩後ろ歩きをして手を振りそして向き直って歩き出した。桐島は制服を着て裸足に革靴の遥が遠ざかっていくのを見ていた。片足を引き摺っているように見えた。

 遥は歩きながら再び涙をこぼしていた。肩の動きで泣いていることを気づかれないために必死で体の動きをこらえた。こんな自分は誰にも愛されないのだろうと思った。そのため顔がくしゃくしゃになった。

 桐島の中に遥を呼び止めたいという気持ちが膨らんでいった。しかし、こんな何もかもが荒んだ自分が誰かに何かを求めてもよいのだろうかとも思った。遥を呼び止めたい気持ちが、遥が見えるうちに自分の体を動かすほどに膨らむのか、桐島自身にも分からなかった。しかし、それを期待していた。

終   

また逢いましょう

* 本作品は塚田遼小説サイト「僕は毎日本を書く」および「小説家になろう」に同時掲載しており、文芸同人誌「孤帆」関連のサイトに掲載される可能性があります。

また逢いましょう

SNSで知り合った男に待ち合わせですっぽかされ、復讐を誓った高校生の遥。恋人との幸せな日々を過ごしながらも、少しも満たされずにネット上で知り合った様々な女性と関係を持ち続ける桐島。そして、執拗に遥にメールを送り続ける妄想的な男ハイド。それぞれの形で愛を探し求めながらも、決して満たされることのない空虚さを抱えた人々の人生がネット上を通して次第に絡み合っていく。

  • 小説
  • 中編
  • サスペンス
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
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