ランナーズバカ

すごろく 作

「なぁなぁなぁ、岩田よー」
「あぁ?何だよ、島崎」
 軽く蹴飛ばした小石が近くの田んぼの用水路に落っこちるのを見届けてから、俺は振り返った。島崎は相変わらず子供みたいに唇を尖らせて、ケンケンパーをしながら歩いている。
「岩田はさー、日本の平均学力ってやつ? それが世界で何位か知ってる?」
「知らねー。興味もねー。島崎、お前は知ってんのか?」
「いーや、俺も知らねー」
「じゃあ何で急にそんな質問してきたんだよ?」
「岩田なら知ってるかと思って」
「だからどうしてだよ?」
「だって岩田、俺よりも頭いいじゃん」
「あぁ、お前よりはな、お前よりは」
 俺はぺっと唾を、石が落ちた田んぼの用水路に向かって吐き捨てた。
「でもまぁ、日本の平均学力が何位だろうが俺らには関係ねーじゃねーの?」
「関係ねーよ。つーか俺とお前の学年での学力順位、何位だと思ってんだよ」
「俺が十七位で、岩田が十六位だなー」
「うちの一学年の全生徒数は?」
「十七人。ここはクソ田舎の町だからなー」
「つまり、お前が最下位で、俺が最下位から二番目なわけだ」
「そういうことだなー」
「そういうことだなー、じゃねぇよ。俺とお前はな、この町一番と二番のバカ二人ってこと」
「えーっ、でも俺んちの隣に住んでる高山んちの爺さんの方がバカだぜぇ。だって晩飯食った後に晩飯はまだかー、とか言うらしいじゃんか。俺は自分が食った晩飯のことは忘れないぜ。試しに昨日食った晩飯を言おうか? えーっと、確か味噌汁とたくあんと――」
「いい、いい、別に言わんでもいい」
 俺は溜息をつき、再び小石を蹴る。小石はまたもや用水路に落っこちた。
「高山んちの爺ちゃんのあれはな、バカじゃなくてボケつーんだよ」
「ボケ?」
「年取り過ぎると、脳味噌が縮こまって使い物になんなくなるんだと」
「うわー、マジで? そんなことあんの?」
「あるらしいぜ。親父から聞いた」
「お前の親父さんは物知りだなー」
「いや、うちの親父が言うには一般常識の範疇らしいけど・・・・・・」
「そういうこと言えちゃうのが物知りの証拠だと思うなー、俺は」
「物知りの親父が、赤字続きの定食屋やってへいこら言ってるもんかねぇ」
 俺の親父は『狸吉』という名前の定食屋をやっている。常連客はいても繁盛はしていない。常連客なんかたかが知れてるからな。この町に住んでるのは九割がた足腰の曲がった爺さん婆さんだ。しかもその数もそんなに多くないし、さらには毎年、いや毎月数人はお陀仏になって減っていくという寸法だ。こんな町の定食屋が赤字になるなんて当然のことだった。
 俺の親父もそれはわかっているようだが、今更別の仕事もできないし、一体どうしようかとずっと悩んでいる風だった。まぁ俺にはどうでもいいがな。自分の家のことだけど。いざとなりゃこんなクソ田舎町なんかとっとと出ちまって、バイトでもして暮らそうと思っている。もちろん親父とお袋を養う気なんかはないがな。あの二人はあの二人でどうにかこうにかへいこら生きててもらおう。別に死んでてもらっても構わんのだけど。
「少なくとも俺の親父よりは賢いって。うちの親父なんか、数字の羅列とかお堅い書類の文章とか、そういうの見ただけで目ん玉くるっくる回してぶっ倒れんだぜ」
「まぁ・・・・・・お前んとこの親父さんは・・・・・・」
「どもんなくてもいいぜ。俺の親父がまともじゃないってのは息子の俺が重々承知だから」
「いやー、まともじゃないっつーかなー・・・・・・」
 島崎の親父は大工職人だ。と言っても、わざわざこんな田んぼしかないようなクソ田舎の町に引っ越してくる奇特な人間なんぞいないから、新築の家が建てられることなんて滅多に、というかほとんどない。島崎の親父の仕事は精々自分たちじゃ何もできない爺さん婆さんの家をちょっと修繕したりするくらいだ。それでもまだ食えてるんだから良い方だろう。
 大工職人っていうのは中卒も多い。島崎の親父はまさしくそれだ。だから島崎本人が言う通り、島崎の親父はバカの部類に入るが、島崎の親父の最大の問題点はそこじゃない。
「お前の親父さー、また酔って人の家に忍び込んだらしいな・・・・・」
「あぁ、そうそう。でももうここの交番のお巡りはわかってくれてるから」
「あのな、そういうのはわかってくれてるんじゃなくて、諦められてるって言うんだぞ」
 正直なところ、島崎の親父はこの町一番のろくでなしだ。
 いや、別に人を殺したり、家に火を放ったり、そこまで凶悪なことをしたわけではない。ただ犯罪の前科はたくさんある。例えば酔った勢いで人の敷地に勝手に忍び込んで居眠りする、誰かといざこざを起こして 言い争うになったときに真っ先に手が出て相手を殴る、神社の賽銭をくすねたのがばれたこともあった。
 まぁはっきりと言ってしまえば、島崎の親父はこの町の誰からも嫌われている。嫌われているが、こんな老人だらけの町でまともに力仕事できる人材は貴重なわけで、だから嫌われていても仕事は絶えない。本当にこんな田舎町だから生きれてるような人間だ、島崎の親父は。
 そんな親父の息子だからバカなんだろうな、島崎も。
じゃあ俺は? ふと思う。じゃあ俺は何で島崎に続くぐらいバカなんだろうか?
 あぁ、でもそんなことは考えるまでもなく、答えは一つか。
「なぁー、島崎よー」
 逆に俺が島崎に声をかけてみる。
「お、何だ、岩田?」
 島崎は能天気に訊き返してくる。まぁ俺も間延びした口調なんだけど。
「お前さー、自分の将来ってやつに不安とか感じたりしねーの?」
「はぁ、なに急にお前、ハスセンみたいなこと言ってんの?」
 ハスセンは俺たちのクラスの担任だ。蓮田先生、略してハスセン。本人の前では言わんけど。
 ハスセンはよく俺と島崎を職員室に呼び出して、説教をしてくる。
「お前らな、自分の将来について不安とかないのかよ?」
 それがハスセンが俺たちに言ってくる、お決まりの説教文句だった。
「べっつに。ただちょっと思ったんだよ。ハスセンの言葉もそろそろ真に受けなきゃいけないときなんじゃないか、ってさ。俺たち、今何年生だよ?」
「中学二年生だろ?」
「あと一年しかないだろ」
「あと一年もあるじゃんか」
「それはコップに半分注がれた水に対して、まだ半分もあると思うか、もう半分しかないと思うかとか、そういう話か?」
「何だ? そのカップがどうのこうのって」
「いや、俺がしたいのはそういう話じゃねぇ。一年後どうすんだよ、俺たち」
「どうするも何も、普通にしてりゃいいじゃん」
「普通って何だよ。俺たちみたいなバカは世間一般じゃバカは普通じゃないだろ」
「世間一般とかよくわかんねーけど、俺とお前は昔から何も変わってないじゃん。バカでテストの点が悪くて先公にいつも叱られて、学校の帰りはこういうくだらないこと駄弁りながら歩いてるわけじゃん。今日だってそうだろ? それが普通じゃねーの?」
「・・・・・・その俺ら的な普通が、いつまで続くのかって話だ」
「だーかーらー、バカな俺にもわかるように話してくれよ」
「俺もお前と同じくらいバカだよ」
「じゃあ賢ぶらずにバカらしく話してくれよ」
「・・・・・・一年後、俺たちはどうする?」
「卒業するんだろ、それくらい俺でもわかるぞ」
「卒業した後、どうする?」
「卒業した後? あぁー? そりゃー、考えたことなかったなー」
「お前は何でそんなバカなんだよっ!」
 島崎の始終能天気な声にイラつき、気づけば俺は怒鳴っていた。
 身体ごと振り返ると、俺の後ろを歩いていた島崎は立ち止まり、目を丸くして俺を見ていた。
「何だよ、何でキレんの? つーかお前自分で自分のこと俺と同じくらいのバカだって――」
「ちげーよっ! そうじゃなくてっ! そうじゃなくてだなっ!」
 何つったらいいんだ? 何つったらいいんだ? わけわかんねぇ。自分でもわけわかんねぇ。
「中学を卒業したらさ、ほら普通はあるだろ、その――進学ってのがさ!」
「進学? あー、高校に行くってことな」
 島崎はあくまでも飄々とした態度を崩さない。それが余計にイライラを助長させる。
「進学にはさ、頭がいるじゃん、頭がさ。しかもここってクソ田舎の町だから、高校っていったら二つしかないじゃん。和高と丸高。和高は頭が良いやつが行くところで丸高はバカが行くところ、つまり俺たちが行くところってことだろ?」
「だから何だよ? 普通に丸高に行きゃいいだろ? 何か問題なのか?」
「あーっ、何だ、そうじゃなくて、あーっと、何だよ?」
「俺に訊くなよ。お前から言い出したことなんだからさ」
 俺は何が言いたいんだ? 俺が何が言いたいんだ? 何でこんなにわからない? 何で自分が何を言いたいのかするわからない? 俺がバカだから? 俺がバカだからなのか? じゃあ何でバカなんだ? じゃあ何で俺はバカなんだ? そんなもん一つだろ。そんなもん一つしかないだろ。俺が何もしてこなかったからだ。俺が勉強しなかったからだ。俺が何かを憶えようとする気が、何かを教わろうとする気が更々なかったからだ。それは何でだ? 俺はいつからバカになった?最初からバカだったのか? 産まれつきバカだったから、今こんな感じなのか?
 バカだからか? バカだからか? バカだからか? バカだからか? バカだからか?
 わかんねー、わかんねー、わかんねー、わかんねー、わかんねー、わかんねー。
 考えれば考えるほど脳裏が白く白く白く塗り潰されて、白く白く白く染まって、白く白く白く白く白く白く白く白く白く白く。見えない、見えない、白すぎて何も、何も、何も――。
「ぷふっ」俺の頭の中身がぐちゃぐちゃの最中、岩田が唐突に吹き出した。
「な、何だよ、岩田。人が真剣に悩んでるときに吹き出して――」
「いやさ、お前さ、ほんとーにバカなんだな」
「は?」
 島崎は腹を抱えて堪え切れないとばかりに「ぷぷぷっ」と吹き出しながら、言葉を続けた。
「だってさ、そんなことで悩んでるんだぜ?丸高なんか名前さえ書けりゃ入れるとか言われてるとこだぜ? 心配する必要ないじゃん。進学したいなら普通に丸高に行きゃいいじゃん。それともお前の親、進学金がもったいないからお前に進学するなとでも言ってんの? お前んちの弁当屋、確かに赤字続きで閑古鳥が鳴いてるっぽいからなー」
「いや、俺の親は――」
 俺の親は、たぶん俺が進学したいと言えば、丸高でも何でも入れてくれると思う。というか、むしろ進学してくれと言われた。このご時世は中卒だと働き口がない。進学してくれ。お前の将来のためにって、昨日の夜に。あぁ、そうか、だからこんなこと思ってたんだ、今。こんなことで脳味噌の中身真っ白になるほど頭がぐるんぐるんしてるんだ。
「それとも何か、丸高が不満なのか?」
 島崎の指摘に、俺の背筋はびくっとなる。
 あー、思った、思った、思ったよ。丸高じゃダメなんじゃないかって。俺は今までまともな勉強なんかしてこなかった。する気もなかったから。だから進学したところで何の足しになるのかがわからない。何せ丸高だぞ? 名前を書ければ入学できるって言われてるバカの溜まり場だぞ? 普通の教育現場でバカだったやつが、そんなところ言っても余計バカをこじらせるだけじゃねぇか。それにあんなところ卒業したところで学歴は中卒と何がそんなに違うんだよ。あんなに偏差値低いところ出たところでさ。
 じゃあ何か? 俺は和高に行きたいのか? 和高に行けるか? 俺が? マジで? 無理無理無理、無理だよ、そんなの今更無理だ。今から勉強なんかしても無駄だ。つーか今から勉強しても手遅れだ。いや違う。俺はもう勉強なんかできない。理科の教科書を開いた。化学式が意味わかんなさ過ぎて気が遠くなった。国語の教科書を開いた。漢文とか英語と同じ異国の言葉にしか見えなくて気が遠くなった。無理だ。悟った。無理だ、絶対に無理だ。俺はバカだ。もうどうしようもなくバカだ。取り返しのつかないバカだ。
俺みたいなバカの末路は何だ?俺みたいなバカの末路はどこだ?俺はどこに行き着く?どこにも行きつけない?どこにも行きつけないでどうなる?どうなるんだ?ここから先に壁がある。ここから先に考えが進まない。俺が今どこにいるかすら曖昧になる。俺が今立っているこの場所すら、地面がぐらぐら揺れて今にも崩れ落ちていきそうな気がする。
 脳味噌が空っぽだ。心が空っぽだ。詰めるものもない。詰めるものも見当たらない。
 やっぱり白い、ただ白い。ただただ白いところにぽつり。ただただただ白い白い白い――。
「あっ」
 俺の頭の中を掻き回す思考を、島崎の素っ頓狂な声が遮る。
 俺は我に返ってみれば、どうやら俯いていたらしい。自分の薄汚い運動靴の爪先が見えた。
 顔を上げて島崎を見ると、島崎は俺の方を見ておらず、俺の背後を遠い目で見ていた。
 俺が島崎の視線の先に首を回すと、そこには近所の神社の鳥居があった。
「あっ」
 俺も思わず島崎と同じ素っ頓狂な声を上げる。
 鳥居に入っていく二人の人影が見えた。一人は男で、一人は女。俺たちと同じ中学校の制服を着ていて、二人とも遠目からでも見覚えがある。
「浜口と松原じゃん」
 島崎が言った。そうだ、あの二人は浜口と松原だ。男の方が浜口で、女の方が松原。
 二人とも俺たちのクラスの学力順位では一位と二位に位置しているほど頭が良く、浜口はクラス長を務め、松原は副クラス長を務めており、和高への入学なんてあの二人なら余裕だろうなと言われていたし、というかもしかしたら都会の方の高校に行くんじゃないのとも、この町ではよく言われている二人だった。
「あいつらなーんで、神社なんか入っていってんだ?」
「それはあれだろ、たぶん」
「あれ?あれって何だよ?」
「・・・・・・お前、もしかして知らねぇの?」
「あ?」
「あの二人さ、付き合ってるんだよ」
「付き合ってるってのはあれか?セックスする仲とかしない仲とか、そういうあれか?」
「・・・・・・島崎ってそういう知識だけはあるんだな」
「俺の親父は仕事から帰ると今日の一服だー、つって居間で堂々とAV観るからな」
「・・・・・・やっぱお前んちの親父は大概だわ」
 島崎は自分の親父がそこまでバカだから、ここまであっけらかんとバカでいられるのか。
「そんであいつらがそういう仲なのと、あの神社に入ってくのはどう関係してんだよ?」
「それは察せられねぇのかよ」
「察するって何をだよ?」
「お前がさっき言ってた、セックスってやつをすんだろ、たぶん」
 あそこの神社はこの町に一つしかない神社だ。とにかくボロい神社で、石で出来た鳥居だって外壁が剥がれまくっている。境内で落ち葉や雑草だらけの酷い有様で、掃除しに来る人間もいない。社自体も木が白蟻に食われまくってボロボロだから、今にも倒壊しそうだともっぱらの評判だ。神主も長らくいない。昔からこの町に住んでいる老人ですら参拝に来ない。おみくじもご利益もへったくれもないから、正月の初詣すら誰一人も訪れない。
 そんな神社に、若い男女、しかも中学生の男女が入っていくのだから、やることは一つだろう。ここらへんにはラブホテルだとかカラオケだとか、そういう行為をするのに使えそうな施設はないし、家族がいたら家ではし辛い。だから自然とそういう行為をしたいのなら、人気のないところに行くことになる。例えば、あの神社みたいな。
「まぁ、そっとしといてやった方が――」
 俺がそう言いかけたとき、唐突に島崎がばっと駆け出した。
 俺は初めのうちは驚いて動けなかったが、はっとすぐに島崎の後を追いかける。
「あっ、ちょっと、島崎、お前なに――」
「岩田は見てみたくねーの?」
「は? 何をだよ?」
「生のセックスってやつ!」
「おい! それは不味いだろ! ちょっと待てよ! おい!」
 俺がいくら呼びかけても、島崎は立ち止まろうとしなかった。島崎はバカのくせに俺よりも足が速い。俺が島崎に追いついたのは、島崎が信者の前で立ち止まった後だった。
「はぁはぁ、おい島崎、どんだけバカでも他人のそういうのを覗くのはな――」
「くそ、岩田、惜しかったぞ」
「え?」
「今一瞬、階段を上がる松原の下のパンツ見えそうだったのにな。本当におっしーなー。もうちょっと早く気づいてりゃーな。松原、顔も結構良いし何色のパンツ履いてんだろ?」
 俺は神社の鳥居の向こうにある階段を見上げた。そこに浜口と松原の影はない。階段を上がりきったというところだろう。もう少しで見えそうだったということは、まだ神社の境内に入って間もないから、まだおっぱじめてはいないだろうが。
「よーし、それじゃ行くぞー。ばれないように忍び足でな」
「島崎、お前、マジであの二人のセックス見る気かよ」
「だって俺、生のセックスとか見たことねーだもん。というか同年代同士のセックスを見たことがねー。同年代同士じゃないセックスなら、親父のAVで観たけどさー」
「お前の親父、一体どんなAV見てんだよ?」
「えーっとな、でっけー男に小学生くらいの女が犯されるやつ」
「はへ?」
「男の方は気持ち良さげだけど女の方は痛そうでさ。セックスって女には痛いのか?」
「いや、島崎、お前さっき何て言った?」
「え? セックスは女にとっては痛いのかって――」
「その前だよ、その前」
「でっけー男に小学生くらいの女が犯されてるAV」
「そう、そこ」
「何がそこなんだよ?」
「それってエロアニメとかじゃねーの?」
「違う違う。実写だよ、実写。親父が実写じゃないと抜けねーって――」
「――おいおいおい、それって――」
「それって?」
「それってさ――」
 ――思いっきり児童ポルノじゃねーかよ。
「あ、それよりもさ、早く階段上がろうぜ。もう始まってかもしれねぇだろ」
「だからやめろって、そういうことは――」
「お前が行かねーなら俺一人で行くからなー」
 島崎は俺の制止になんて端から聞く耳を持たず、軽い足取りで神社の階段を上がっていく。
 もう帰ってしまうおうかと思った。島崎を置いてけぼりにして帰ってしまおうか。
 でもそれができなかったのは、気づけば島崎と同じように階段に足をかけてしまっていたのは、このまま帰るのは俺の悩みをバカだと笑い飛ばした島崎に対して悔しかったせいなのか、それともそこらの中学生らしく生のセックスを見てみたかっただけなのか、はたまたバカなだけなのか、何はともあれ俺は、階段を上っていた。島崎の後ろに続いて。
「しっ。ストップストップ。ここから先は静かにな」
 島崎は俺が階段を上りきるのを見計らい、俺に制止をかけ、人差し指を自分の鼻先に当てる。
 俺は神社の境内を見渡してみる。さすがに神社の境内の中心でおっぱじめるような真似はしていないようだ。ではあの二人はどこに行ったか? まぁ考えられる場所は一つしかない。
「・・・・・・こりゃ浜口と松原の二人は神社の裏手にいると見るのが妥当だな」
「何だ、島崎、お前いつもより冴えてるじゃねーか」
「つーか岩田よ、結局ついてきてんじゃん。やっぱ興味あった?お前もスケベだねー」
 島崎はにやにや笑いながら、肘で俺の脇腹をちょいちょいと小突いてきた。鬱陶しい。
「ちげーよ。俺とお前がバカ同士よくつるんでるのはこの町の連中はよく知ってるからな。お前の覗きがもしばれたら、俺にもとばっちりが来る可能性があるから、お前がヘマやらかさないかどうか見張るためについてきてやっただけだよ」
「正直じゃないねー。何だよ、ツンデレってやつか?このこの」
「だから何でお前はそういう無駄な知識だけはあんのかね・・・・・・」
「それよりも早く神社の裏手に回るぞ。もちろんばれないようにな」
「ばれないようにつったって真正面から行ったら普通にばれるだろ」
「ここの茂みに隠れながら行くんだよ」
 島崎は神社の周りを、ジャングルのように鬱蒼と取り囲む茂みを指差しながら言った。
「ここ入ったら確実に制服汚れるなー、これ」
「今更制服汚れるとか考えるタチかよ。俺たちみたいなバカがさ」
「まぁ、そうだけどさ・・・・・・」
 帰宅したときに親にどう言い訳するか考えといた方がいいな、と頭の片隅で思った。
 ともかく俺と島崎は茂みの中に潜みながら、ゆっくりと忍び足で神社の裏手に回った。
 ちょっと木の枝に触れただけでガサガサと音が鳴るので、なかなか至難の業だった。
 茂みの隙間から神社の裏手側が見えてくるのと同時に、浜口と松原の姿も発見した。
「よし、ここでストップだ」
 島崎が立ち止まり、小声で俺に制止をかける。いつの間にか島崎に主導権を握られているのに気づき、何でこいつに命令されないとならんのかと、少し眩暈を覚えた。
 浜口と松原は、どうやらまだおっぱじめてはいないようだった。お互い向かい合って、何か二人ともモジモジと身体を揺らしている。何だ? 二人とももしかして初めてか? あの二人が付き合っているっていう噂は、随分と前々からクラスで囁かれてたんだけどな。
「何だよ、まだセックス始めてねぇのかよ」
 島崎がイライラした風に小さく地団太を踏む。
「まぁそう急ぐなよ。中学生カップルだぜ。初々しいじゃんか」
「初々しさとかいらないっ、俺はセックスが見たいっ、早くセックスが見たいんだっ」
「はいはい、わかったから。そんなに喋ってると茂みに隠れてるのがばれるぞ」
 もといばれた場合は俺もやばい。そのときは一応全力疾走で逃げるけど。
 そんなくだらないやり取りをしているうちに、浜口と松原にも進展が見え始めた。
 浜口の方から松原に近づいて、なんか顎をくいっとしている。持ち上げてんのか、あれ?
「お? あれは顎くいか? 最近の流行りの顎くいか?噂に名高い――」
「お前のその偏った知識はほんとどっから来てんだよ・・・・・・」
 そんなこと憶えられる頭あったら勉強に使えよ。いや、俺もそうだけど。
 そうこうしているうちに、浜口と松原にはさらなる進展が。
 浜口が松原の顎をくいっとしたまま、松原の顔へとゆっくりと近づいていくのだ。
 これはあれか? キスってやつか? キスってやつなのか? 俺の心が内心ドキドキする。ふと下半身に違和感を覚えて見下ろしてみれば、股間の辺りのズボンの布がもりっと盛り上がっている。俺の陰茎が直立していた。我ながらこれはちょっと早すぎる。
 ばっと島崎の方を見返せば、島崎は案の定にんまりしながら俺の股間を見遣っている。
「岩田よー、それはちょっと早すぎでしょー。意外と初心だねー」
「バカっ、見んなよっ。俺だってまだ中学生だし、経験とか――」
「おい、それよりも浜口と松原だよ。良い感じになってるぜー」
 島崎のその口調は、まるで最新ゲーム機を買ってもらった子供のように無垢でキラキラとしたものだった。心なしか目まで輝かせて、浜口と松原の方を見つめている。
 俺も直立し続ける自分の一物からは目を逸らし、改めて浜口と松原を――。
「うおぉっ」つい声が漏れた。いや、もちろん小声だけど。
 浜口と松原は思いっきりキスしていた。しかもただのキスではない。キスした状態のまま、浜口は松原の腰に手を回し、松原は浜口の腰に手を回し、二人とも踊っているみたいに腰をくゆらせていて――そして何よりもあの口の動き、二人のあの口の動きは――。
「あれ、もしかしてベロ入れてね?お互いのベロ」
 島崎がもう嬉しくて堪らないとばかりに弾ませた声で言い、べーっと舌を出してみせた。
「あ、ああいうの何て言うんだっけ? ベ、ベロチュー?」
「ディープキスとも言うらしいぜー、まぁセックスにおいては基本中の基本らしいがな」
「そうなの?」
「うちの親父曰く」
「お前の親父は物知りだな」
 うん? なんか似たような台詞を島崎から言われたような気がするぞ?
「いや、うちの親父が言うには一般常識の範疇らしいけどなー」
 お前の親父の一般常識の範疇はどうなってんだよ。いやいやいや、それよりもだ。
 俺は島崎と会話しつつも、自分の一物をぎんぎんにいきり立たせながら浜口と松原のディープな様子を注視しているのだが、どうもここから進展がない。とにかくずっとお互いのベロをお互いの口に突っ込みながら腰をくゆらせている。もう浜口の一物も、どんな陰茎でもそりゃ青竹の如しだろうし、松原の股間だってもう分泌液でびしょびしょだろう。
 ほら、早く押し倒せ。どっちでもいいから。どっちかを早く押し倒せ。
 心の中でそう二人を囃し立てている自分に気づいた。
 あれ? 俺って何でこんなところで浜口と松原のセックスを覗き見してるんだっけ? 確か島崎が無理やり行こうとするから仕方なく――仕方なく? 仕方なくだったか? あとなんか俺、すごい悩んでいたことがあった気がするけど――えぇい、今はそんなこと関係あるか。
 とにかくだ。早く押し倒せ。早く、早く早く早く早く早く早く早く早く早く――。
「――なぁ? なぁ、岩田」
 急に黙りこくっていた島崎のやつが話しかけてきた。何だよ、邪魔臭い。
「島崎うるせぇよ。今大事なところだろうが」
「今ならさ、見れるって思うんだよ」
「見れる? あぁ、見れるな、もうすぐお前も望んでた生のセックスが」
「そうじゃなくてさ」
「そうじゃなくて何なんだよ?」
「あの二人ってさ、今ベロチューに夢中なわけじゃん」
「おう、ベロチューだけにムチューか。んで?そんなつまんねー洒落言ってどうすんだ?」
「今なら覗ける気がすんだよ」
「は? 覗く?」
「松原のスカートの下のパンツ」
「はぁっ」
 つい大きめな素っ頓狂な声が出た。「しっ」と島崎が険しい目つきをする。
 いかん、いかん、俺は慌てて口を噤む。
 幸い、浜口と松原には気づかれていないようで、二人はお熱いプレイを続行中だ。
「ていうか島崎、お前また何を突拍子もないことを――」
「だってさ、気になるじゃん。松原のパンツの柄」
「いやいや、お前が今日見たかったのは生のセックスであってパンツじゃ――」
「俺は松原のパンツも見たくなったんだよ」
「我儘過ぎだろ。セックスだけで我慢しろ。二頭追う者は一頭も得ずっていうぞ」
 あれ? なんか違う? いいや、そんなこと気にしている場合か。
「見るっつたってどうやって見んだよ? 近づいたら明らかに気づかれるだろ」
「だから匍匐前進でゆっくり進むんだよ。松原のスカートの下までな」
「そんなに上手くいくもんか?」
「大丈夫だよ。あの二人は今ベロチューにムチューな状態だぜ。俺を誰だって思ってんだよ」
「お前はただのバカだろ」
「ゴキブリの島崎と呼ばれた男だぞ、俺は」
「お前にそんなクソみたいな異名がついてた話なんか聞いたことねぇよ・・・・・・」
「それに絶対に成功させる。それがプロの務めってもんだろ」
「何のプロだよ。一流アスリートっぽく言ってんじゃねーよ」
「お前が止めようが俺は行く。それじゃあな、アディオス、岩田」
 島崎が俺の説得なんかに耳を傾けるわけがなく、地面に伏せて本当に匍匐前進を始めると、ゆっくりと茂みから抜け出していった。俺はもう止める気力も失せていた。
 とりあえずあれだ――島崎、今アディオスって言葉をただノリで使っただろ。
 そうツッコむ暇もなく、島崎は意外と速いペースで浜口と松原の元へ近づいていく。
 俺の陰茎はすっかり萎えてしまっていた。どうせすぐにばれるだろ、あんなの。ばれたら、形振り構ってられない。島崎なんか置いていってさっさと逃げよう。あぁ、でもちょっと待てよ、結局島崎が捕まったら俺も茂みの中で覗き見していたことがばれるじゃねぇか。
 くそー、島崎め、大人しく見てりゃいいのに余計なこと始めやがって。
 俺は憎々しい感情を抱きながら匍匐前進を続ける島崎を見ていたが、じきに心境に変化が表れ始めた。あれ? 浜口と松原の二人――意外と気づいて――ない?
 そう、浜口と松原は本当にベロチューにムチューで丸見えの島崎にも気づいていないのだ。
 これは――もしや――行ける? 行けるんじゃないのか、島崎?
 俺の手の平が自然にギュッと拳を作り、そこに力が入った。
 島崎が松原のスカートの下に到達するまで、少なくとも一メートルはすでに切っている。
 行ける――行けるぞ、これ――本当に行けるぞ、これっ!
 いつの間にか俺は島崎を心中、全力で応援していた。
 行け! 島崎、行け! あとちょっとだ! あとちょっとで松原のスカートの下が見えるぞ! 見えたらどんな柄だったかは教えてくれるよな? 白でも黒でも赤でも何色でも、俺はわりと興奮できるぜ。あぁ、でもベージュは嫌だな。おばさん臭くて。まぁ年頃の中学生がベージュののパンツなんか履いてるわけはねぇか。――ってそうじゃなくてな、今はそうじゃなくて、島崎、頑張れ!あと一歩だ!一歩一歩近づくことで未来は開けるんだ!――!
 俺はもう両の拳をぎゅーっと握り締めて、島崎の雄姿にエールを送りまくった。
 ――島崎ぃ、行けぇぇぇぇぇ!
 だが、世の中そんなに上手くいくわけはなく。
 島崎が松原のスカートの下まであと数センチってところで、浜口が松原を押し倒した。
「あ」つい声が漏れた。でも「あ」と言ったのは俺だけではなかった。
 島崎も浜口も松原も、みんな「あ」と口を開けていた。島崎のやつは単純に聞こえた。
 なぜなら松原を押し倒した浜口も、浜口に押し倒された松原も、その倒れ込んだ状態のまま、地面に伏せてぴたっと止まっている島崎の方を凝視していたから。
 島崎はゆっくりと身体を起こし、立ち上がった。浜口と松原はそんな島崎を、呆気に取られたポカンとした表情のまま、状況がまだ飲み込めないとばかりに見上げていた。
 島崎は俺の方に振り返った。右手を後ろに添え、ちょっと首を傾げ、舌をぺろっと取り出し、両目をぱちくりと瞬きしている。うん? なにその表情? てへぺろ? もしかして、てへぺろなの、それ? その両目ぱちぱちさせてるのはウィンクのつもりなの? ウィンクってのはあれだよ、片目だけをぱちっとさせるやつだよ? それは違うよ? というかお前がてへぺろしても可愛くないよ? そういうのは美少女がやるから――ってそれどころじゃねぇ。
「きゃー」と松原がもう一分くらい遅れで悲鳴を上げていた。何だ、今ちょっと時間止まってたのか? そう思う間もなく、浜口も松原に覆い被さったまま怒声を発する。
「てめぇ、島崎じゃねぇかっ! 何やってんだっ!」
「ははっ、あははっ、じつはね、ちょっと軍隊に入るための練習をしてましてね」
 おい島崎、苦しいどころの言い訳じゃないぞ、それは。
「そんなバカみたいな言い訳が通用するかっ!」
 浜口がまた怒鳴り散らす。
「し、仕方ないなぁ。じゃあ正直に白状しますけどね、じつはね、お二人さんが神社に入っていくところを見かけましてね、それででしてね、何をしているのかなーって覗きに来てみましたらね、お二人さんがベロチューにムチューだったわけでしてね、そしてですね、もしかしたら今なら松原さんのパンツを覗けるんじゃないかと思ったり思わなかったり――」
「ふざけんなっ! 他人の彼女のパンツを覗こうとすんなっ! つーかセックスを覗くなっ!」
 うん、ごもっともだ、浜口。俺も自分の息子を元気にさせながら見てたけど。
「えー、そんなケチ臭いこと言わずに、ちょっとくらいならいいじゃないっすかー。彼女さんのパンツ見ようがセックス見ようが、何も別に減るもんじゃないでしょうし」
「なーにが減るもんじゃないんだよ」
 浜口は急に声を潜め、松原から離れてゆらりと立ち上がった。
 松原は唖然とした顔で地面に倒れたままになっている。
 浜口はそんな松原を気遣う様子なく、ただただ鬼みたいな目つきで島崎を睨みつけていた。
 島崎はただ「ははっ、はははっ」と下手糞な空笑いを繰り返している。
 これはなんかやばい感じの空気がびしばしと伝わってくる。
 俺はすでに逃げるための臨戦態勢に入っていた。といっても駆け出すわけではない。幸いにも、浜口と松原のセックスを覗き見していたことがばれているのは島崎だけだ。島崎が捕まれば結局のところ俺がいたこともばれるだろうが、島崎の虚言だと言い張ればあの程度は誤魔化せるだろう。というかそうしよう。俺は自分がばれる前に抜き足差し足で神社を抜け出して、あとは走れば――と頭の中ではすでに完璧なシミュレーションが出来ていた。
 ゆっくりと、ゆーっくりと、草木に身体が当たっても物音が立たないくらいゆ――。
「おい、岩田!やばいことになった!すぐに逃げるぞ!」
 あぁ、だから今こうやって逃げようと――って、おい、待てや、島崎。
「なーんで俺の名前叫んじゃうんだよっ!ばれるだろうがっ!」
 俺はつい茂みからばっと飛び出し、島崎にツッコんだ。島崎は脱兎の如く駆けだした後で、残像が一瞬見えただけだった。そして怒りを露にしたままの表情で立つ浜口と目が合った。
 あ、やべっ――。
「岩田ぁ、お前もいやがったのかぁっ!」
「へ、へへへ、どうもすいませんでしたぁっ!」
 俺は謝りながらも駆け出した。走る態勢を築いていなかったせいで、何度か足がもつれ、木の根っこや小石に躓いても、とにかく転ぶのだけは阻止しながら全力疾走で走った。
 神社の階段を駆け下りていくところで、階段の下の鳥居の前で、呑気に準備体操をする島崎が見えた。息も上がっていない。知力と体力のパラメーターぶっ壊れてるだろ、あいつ。
 俺は「ぜぃぜぃ」と息を切らしながら、どうにか階段を下り切って島崎の横に並んだ。
「お前のせいでえらい目に遭っちまったじゃねぇか・・・・・・」
「嫌ならついてくんなって言っただろ」
 まぁそうなんだけどさ。でもまさかお前があそこまでやるとは思わないだろ。
「こりゃ明日にゃ、またハスセンからきっついお仕置きだな」
「いや、きっついお仕置きは今すぐかもしれないぜ」
「は? どういうことだよ?」
「上、上」
 島崎は人差し指で、神社の階段の上の方を指差した。
 俺は首を捻って島崎が指差す、神社の階段の上に目を向けた。
「げげっ」一生口にしなさそうな素っ頓狂な声が、思わず勝手に出た。
 階段の上に浜口が仁王立ちしており、親の仇を見るような目で俺と島崎を見下ろしていた。
「知ってる? 浜口って優等生ぶってるけど、普段は隣町で不良狩りとかしてるらしいぜ」
「え? 目はどう見たってマジだろ」
 島崎は鼻を穿りながら言った。そんな平然としている場合じゃないのでは?
 恐る恐るもう一度、階段の上を見上げると、浜口が一歩一歩階段を下りてくる。
「てめぇら許さねぇぞ。このバカ二人が。ぶっ殺す。一度ぶっ殺しとかないと気が済まねぇ」
 なんか物騒なこと言ってるよ? 学校でよく見る優等生の浜口くんとは似ても似つかないよ? ホラーだ。もうこれサイコホラーだ。どうすんだ? ぶっ殺すとか言ってるよ? まぁさすがに本当に殺されはしないだろうけど、一発ぶん殴られるくらいじゃ済まないよ、これたぶん。二、三発どころか五十発くらいは殴られて半殺しくらいにはされそうなんですけど?
「ど、どうすんの、島崎・・・・・・」
 自分でも驚くほど情けない声が出た。今はわりと本気で小便ちびりそう。
「んなもん決まってんだろが」
 島崎はぴょんと一度飛び跳ねると、黄ばんだ歯を丸出しにして笑いながら言った。
「逃げるしかねーよ」
 そう言うや否や、島崎はまたもや脱兎の如く駆けだしていた。俺を置いて。
「おい、だから俺を置いてくのはやめろぉっ!」
 俺はもう泣きそうな声で叫び、島崎の後を追いかけた。
 振り返れば、浜口も陸上選手みたいなフォームで追いかけてくる。マジでホラーだよ・・・・・・。
 俺は後方の浜口の恐怖に怯えながら、どうにか島崎の後ろをついていく。
 そんな必死こいてる俺に、島崎は余裕綽々といった口調で話しかけてくる。
「いやー、まいったなー、これどこをどこまで逃げりゃ撒けるかなー」
「そんなこと・・・・・・俺に聞くなよ・・・・・・」
 俺は走るのに必死で上手く舌が回らない。
「あれ? そういやお前って、なんか悩んでなかったっけ?」
「あぁっ?」
「ほら丸高がどうの和高がどうのって――」
「今は・・・・・・そんな話・・・・・・してる場合じゃねぇよ・・・・・・」
「そうだな!してる場合じゃないな!あはははははっ」
 島崎が豪快に笑った。よく走りながら笑えるな。というか笑い事じゃねーし・・・・・・。
 笑い事じゃない――確かに笑い事じゃないんだけど――何だろうか、この腹の底から湧き上がってくるおかしさっていうのは。さっきまでなんか深刻ぶってたはずなのに、たった十数分でこんな妙ちくりんな目に遭うってのは、本当に笑い事じゃないけどおかしくて、おかしくて――もう我慢できなくなって、気づけば俺は島崎と同じように声を大に笑っていた。
 島崎のようにはっきりとは笑えなかったが、途切れ途切れでも、脹脛や脇腹が痛くて痛くて堪らなくても、視界を潤ませながら、それでもおかして堪らずに笑っていた。
「あーあ、それにしても惜しかったなー、松原のパンツー」
「お前が変な欲出さなきゃ・・・・・・セックスは見れたんだぜ・・・・・・」
「そうだよなー。くそー、せめてベロチューだけでも堪能しときゃ良かったなー」
「そんなお前に朗報だ・・・・・・」
「お?」
「俺が撮っといてやったよ・・・・・・」
 俺は走り続けながら、落とさないように慎重な手つきでポケットから携帯電話を取り出し、島崎に見せた。島崎は俺の手に持たれている携帯電話に、目を真ん丸にさせた。
「岩田、いつの間にそんなもん手に入れてたんだよ」
「うちの親・・・・・・貧乏なくせに・・・・・・俺には甘いからな・・・・・・」
 俺は浜口と松原がベロチュー始めた瞬間、じつはこっそりと隠し持っていた携帯電話のカメラ機能でばっちり二人のベロチュー写真を撮影したのだ。まさか自分がここまで盗撮が上手いとは思わなかった。将来はこれで稼げるかもしれないな。そんな将来、嫌だけど。
 島崎は羨ましそうな目で俺の手に握られている携帯電話を見つつ、間延びした声を続けた。
「いいなー、俺の親父なんかさ、ケータイなんて持ってても出会い系の女に騙されて金を巻き上げるか、ネカマの男にふざけて遊ばれるだけだって――」
「あ、そうそう・・・・・・お前の親父のことな・・・・・・一つ忠告しとくわ・・・・・・」
「うん? 何だ?」
「あんまお前の親父が見てるAVのこと・・・・・・他人に言わねぇ方がいいぞ・・・・・・」
「何でだ?」
 島崎は本当に忠告の意味がわからない、とばかりに首を傾げた。あーもうほんとバカだ。
「お前の親父のそれは児童ポルノっていってな・・・・・・見るのは犯罪なんだよ・・・・・・」
「あぁ、あれ犯罪だったのかー、じゃあ仕方ねぇな。なるべく言わないようにするわー」
 めちゃくちゃ軽い口調だが本当にわかったんだろうか?――まぁ、これが島崎か。
「それよりもさー、お前のそのベロチュー写真、俺にも使わせてくれよなー」
「使わせてやるよ・・・・・・。お前が言い出さなきゃ・・・・・・撮れなかったからな・・・・・・」
 島崎が心底から楽しくてしょうがないとばかりに笑う。俺も口からつい声がこぼれる。
 一瞬転びそうになって、慌てて体制を立て直す。
 改めて振り返れば、浜口はまだ般若の形相で俺と島崎を追いかけ続けていた。
 こりゃ、まだまだ逃げないとダメっぽいな。
 しかし、もう恐怖心はなかった。頭の中はまるで遊園地のような愉快さで、心の中は笑い声で満ちていた。こんな気分いつぶりだ。まるで何も考えていなかった小学生に戻った気分だ。
「こういうのをランナーズハイっていうのかな」
 俺は誰にいうでもなく、そうつぶやいた。不思議と、舌が普通に回るようになっていた。
「それはなんか違うんじゃね?」
「じゃあ何ていうと思うんだよ?」
「ランナーズバカとか?」
「うわ、安直ネーミング」
「名前なんてどうでもいいんだよ、名前なんて」
 また俺と島崎はげらげらと声を張り上げて笑った。いつまでも、どこまでも、笑った。
 山並みに沈んでいく夕日が、今日はいつにも増して空を薄汚いオレンジ色に汚していた。

ランナーズバカ

ランナーズバカ

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • コメディ
  • 青年向け
更新日
登録日 2018-08-03

Copyrighted
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