追われる夢

すごろく 作

 一体何が原因だったのか? どうしてそう感じるようになったのか? さっぱりわからない。
 ここ最近のストレスのせいかもしれない、幼少期のトラウマのせいかもしれない。
 とにかく私は最近、誰かに追われている気がしてならない。
 例えばそれは通勤時、例えばそれは勤務中、例えばそれは昼食中、例えばそれは帰りの電車で、例えばそれは買い物中、例えばそれは夜道で、何者かが私をじっと観察し、殺すのか捕まえるのかは知らないが、私を今か今かと襲おうとしているような気がするのだ。
 だから私はいつも辺りをきょろきょろし、歩き方も自然と速足になってしまう。
 誰かと肩をぶつけるたびに酷くびくついてしまい、通行人のほとんどが私を追いかけている極悪人に見えた。いや、私が極悪人だから追われているんだろうか。
 ともかく、傍から見ればかなり不審な動きだから、近隣住民からは「怪しい人」と不名誉な烙印を押されるし、擦れ違う人にも怪訝な目で見られるし、同僚からは気味悪がれるし、上司には呆れられるし、部下からは馬鹿にされるし、で踏んだり蹴ったりだった。
 私はストーカーの可能性を考えるようになった。私は男だからそんなことは身に降りかからないだろうと以前はたかをくくっていたが、近年では女性のストーカーも増加の一途にあるというし、私だって顔はそんなに悪くないから、その可能性はあると思ったのだ。
 だから一度探偵事務所に依頼して、結構高額な調査費を払い、私の周りを調査してもらったことがある。しかし、結局何もなく、探偵からは「何者かに追われているというのは、あなたのただの考え過ぎでは?それか自意識過剰ですね」と厭味ったらしく言われた。
 その言い方が癪に障ったのと、依然として追われている感覚が脱却することができなかったから、私はその場で怒り狂い、「そんなわけない!お前らの調査がザルか、そうじゃなかったらなんか隠してやがるんだろ!」と年甲斐もなく騒いでしまい、三人がかりで事務所から無理やり追い出された挙句、危うく警察に通報されるところだった。
 しかし、それだけ騒いでしまうほど、私の精神はその感覚に追い詰められていた。
 今にも何者かに殺されるのではないか、今にも何者かに拉致されるのではないか、今にも何か自分に不運が――。そんな妄想が脳裏にこびりついてまったく離れなかった。
 特にそれが強くなる瞬間が、夜中、眠る前である。
 私は住宅街から少し離れたところにあるボロい安アパートの二階の階段から一番手前の部屋に住んでいるのだが、如何せん壁が薄くて階段のすぐ手前にある部屋だから、静かな夜などは誰かが階段を上ってくる足音がカーン、カーンとよく響いて聞こえてくる。
 私はそれが恐ろしくて堪らないのだ。
 電気を消して布団を潜っているときにその足音が聞こえてきたときなどは、あまりの恐怖心にかけ布団の中で膝を抱えて丸まって、がたがたと歯を打ち鳴らしながら震えた。
 その足音が私の部屋のドアの前で立ち止まって、そのドアをノックし始める気がして。
 そのせいで、私は夜もおちおち眠っていられなくなった。
 テレビなどを大音量で点けて足音を聞こえないようにもしたことはあったが、隣室の住民から「煩い、迷惑だ」と苦情が来たので、やめざるを得なかった。それで耳栓をして寝るようになったのだが、耳栓の隙間から実際に聞こえてくるのか、それともただの幻聴かはわからないが、それでも足音が微かに聞こえてくる気がして、布団の中で身悶えるのだった。
 そんな感じだから寝不足になる。しかし電車の中でも眠れない。うとうとする私を、その電車に乗る大勢の人たちが睨み付けているような気がするからだ。その結果、仕事中に居眠りをしてしまうことが多くなり、仕事の効率自体も悪くなった。上司にもしょっちゅう怒られたし、同僚にも余計に避けられたし、部下からは後ろ指を指される破目になった。
 ある日、私は同僚に「いい加減行けよ」と勧められて、精神科の病院に行った。
 精神科の医師は私を診察し、「強迫神経症の疑いがありますね」と診断結果を伝えてきた。
 強迫神経症とは、自分の意に反して不安あるいは不快な考えが浮かんできて、抑えようともしても抑えられくなるという、わりとポピュラーな精神病の一つである。
「あの、何が原因なんでしょうか?」
 私が訊ねると、医師は首を捻りながら言う。
「まぁ色々ありますね。過去の出来事とか、日々のストレスとか。心当たりは?」
「いえ、特に心当たりと言えるようなことは――」
「それでは前兆はありましたか?何か可笑しいなと思い始めた前触れとか」
「そんなものは――いや」
 あった。前兆のようなものなら、心当たりが一つだけあった。
 それは私が何者かに追いかけられている妄想に囚われる、数か月ほど前のことだった。
 夢だ。夢を見たのだ。悪夢である。私は夜の街を逃げているのだ、夢の中で。初めはどうして逃げているのかわからない。それでも逃げている。得体の知れない焦りと恐ろしさに急き立てられて、とにかく逃げている。後ろを振り返ると、私を追いかけているらしい人影が見て取れた。黒い服装をした男だ。黒い服装の男が私を追いかけてきていて、私はその男から逃げているのだ。どうにか家まで帰り付き、中に入ってドアに念入りに鍵とチェーンをかける。ドアを背に、息を「ぜぇぜぇ」と切らしながら汚いのも忘れて玄関に座り込む。すると、カーン、カーンと誰かが階段を上がってくる足音が聞こえてくるのだ。すかさず全身が固くなる。そしてその足音はドアの前に止まり、ドアがノックされる。私が汗をだらだら流しながらじっとしていると、「宅配便でーす」という能天気な声がドアの向こうから聞こえてきた。私はなぜかそこでホッと安堵して、ドアを開けてしまう。そこには私を追いかけていたあの黒い服装の男が立っていて、片手には刃先が煌くナイフが――。
 そこで目が覚めた。そんな夢を、一週間連続で見た。
 初めはよくある悪夢だとたかをくくっていたが、さすがに一週間連続は尋常なことではなく、もしや予知夢などではないかと怯えたが、それっきりその夢は見なかったので、いつの間にか忘れてしまっていた。その夢を忘れた頃に、何者かに追われている気がし始めたのだ。
 私は医師にその夢のことを話した。医師は「うんうん」ともっともらしく頷いていた。
「つまり、その頃からすでに症状が出始めていたということですな。潜在的にストレスや不満を溜め込んでいて、それが夢という形で発現していた。夢だけなら良かったですが、結局夢だけでは賄いきれなくなって現実に溢れ出したと、まぁそういったところでしょう」
 医師のもっともらしい解説に、私ももっともらしい素振りで頷いた。
「それで、どうすれば治るでしょうか?」
「ストレスや不満から遠ざかるのが最も効果的なのですが――今はこんなご時世ですからね。まったくストレスや不満から隔離された生活を送るのなんて不可能に等しいでしょう」
「ええ、確かに。せめてストレスや不満の理由すらわかれば――」
「そうですね。それなら催眠療法を試してみましょうか?」
「催眠療法?」
「催眠術の応用みたいなやつです。一度ぐらいテレビで観たことあるでしょう?」
「はい、観たことあります。なんかちょっと儀式めいてるやつですよね」
「あなたがよろしければやってみますよ。精神と肉体に負担はありませんし」
「お願いします。今は藁にも縋るような気持ちなんです」
 そんなわけで、私は医師から催眠療法とやらをやってもらった。
 まず診察室にある寝台の上に寝かされ、目を瞑り、医師の囁くような催眠状態への誘導に耳を傾けた。すると意識が薄ぼんやりしてきて、医師の声もはっきり聞こえなくなった。はっきり聞こえないが、自分の口は何か答えているようだった。何を答えているのかはわからなかった。医師の合図で催眠状態から醒めても、やはり憶えていなかった。
「結果から申しますと、何もわかりませんでした」
 医師は残念そうに言った。
「仕事がストレスかと訊ねれば、仕事は確かに疲れるときもあるが病気になるほどではないと答え、何か不満があるかと訊ねれば、不満を一々気にしていたらきりがないと答え、幼い頃にトラウマはあったかと訊ねれば、そんな思い出はない、と答えました。他にも原因に心当たりがないかあなたの深層心理に問いかけてみましたが、返ってきた回答は、わからないからここに来た、と。それよりも誰かに追われている、助けてくれ、と頻りに言っていましたよ。これはもうしばらく、薬を飲んで様子を見るしかありませんね」
 私は医師から幾つかの薬を処方され、それを家に持って帰った。
 それを飲んでとりあえず様子を見ていたが、一向に症状が改善される気配はない。
 いや――むしろ悪化しているようだった。
 何者かに追われているという感覚は、薄れるどころか日に日に酷くなっていった。
 そして、あの夢を思い出してしまったせいか、黒い服装をした男性を見かけると無条件で異常にびくつき、電柱の柱の裏とか路地の狭い隙間とかに身を隠してしまう癖がついた。
 仕事もますます手につかなくなるし、上司に怒られる回数だって倍増した。
 同僚や部下には、もう相手にすらされなかった。
 耐え切れなくなった私は、ついに仕事に行かなくなった。
 朝も起きても出勤する気にならず、無断欠勤をして、一日中テレビを観たりしてぼんやり過ごした。幾分か追われている感覚も薄れ、気持ちも楽だった。それに甘えて、二週間ほど連続で無断欠勤をかましてしまった。家に閉じこもっている間も、固定電話からは引っ切り無しに会社から電話がかかってきた。どうせ出ても怒られるのは目に見えていて、それが億劫で留守電にしていたが、時間差で電話から流れ出す「仕事に来い」と脅すようなメッセージにも嫌気が差し、電話線を根っこから引っこ抜いてその電話を使用不可の状態にした。
 さらに一週間ほど過ぎた頃、仕事場から通知の手紙が届いた。
 そこにはまどっろこしい言い回しだが、要約すると「無能だし仕事にすら来ないから、お前はクビな」といった内容のことが書かれていた。ようはリストラ宣告だった。
 本格的に職を失った私は、相も変わらず家の中に閉じこもった。
 外に出れば、またあの感覚が襲ってくる。家に閉じこもっても依然として誰かに追われているという妄想は拭えなかったが、それでも外に出ているよりかはマシだった。
 しかし、いつまでも閉じこもっていると、色々と問題が発生してくる。
 例えば食料。初めは以前に買い溜めしていたカップ麺やら缶詰やらで食い繋いでいたが、次第にそれも底を尽きる。だから私は食料が減ってきたと見て取れる頃に、そっと外に出て買い物に行かざるを得なかった。しかし、幸いにも徒歩三分のところに有名なチェーン店のコンビニが一軒あり、食料品はすべてこのコンビニで賄うことができた。
 日用品や服などは、インターネットで購入した。まったくもって現代社会様様だ。大昔なら私のような奇怪な病にかかった人間は野垂れ死ぬ他なかっただろう。
 ただ、インターネットで購入するということは、宅配便で品物が届くということである。
 この宅配便の受け渡しが、私にはなかなか難儀なことだった。
 宅配業者がドアをノックするだけで、止まりそうになるほど心臓が飛び上がる。
「宅配便でーす」と声をかけられても、そう簡単には出られない。
 なぜならあの夢の中でも、私は「宅配便でーす」と声に騙されてドアを開けてしまったから。
 ただやはり、どれだけ出るのが嫌でも品物は受け取らないといけない。
 ドアの外側に『宅配便の荷物はドアの前に置いていってください』と書いた張り紙を張ってみたりもしたが、誰かに直接受け渡してサインをもらうことはマニュアルで決まっているらしく、実際にドアの前に宅配物を置いていく宅配業者はいなかった。
 仕方がないから、ドアスコープで宅配業者がドアの前で戸惑っているのをじっと観察し、不在と判断して帰ろうとするところにすかさずドアを開けて、「あの、すいません、ちょっと用事をしていて」と言い訳をして、宅配業者から宅配物を受け取った。
 最初から出るのと何が違うのかというと、まず顔を合わせたときの距離が違う。少し相手が遠くにいる状態で顔を合わせれば、何か怪しい動きをしてもすぐにドアを閉じられると考えたからだ。まぁ近くに立たれてサインをしている最中も始終びくびくしているのだが。
 そんな風に最小限に外界との関わりを遮断しながら、私はひきこもり生活を続けた。
 まだ追われている感覚は消えない。消えないから外にどんどん出られなくなった。
 そろそろ蓄えの方も尽きてきた。そもそも私はあまり給料を貯金していなかったのだ。
 金は勝手には転がり込んできてくれないから、働なければならない。
 ただハローワークに行っても言葉はシドロモドロで動きは不審、あからさまに怪しい人物に仕事など紹介してくれるはずもなく。またせっかく面接にこぎつけても、黒い服装の男性に出会うたびに、びびって立ち往生してしまうものだから、大抵遅刻した。遅刻しなくとも、今の私に面接官が気に入るような受け答えができるはずがなく、すべて落ちた。
 焦りと恐怖心の板挟みに苛まれる中、それはその日、突然起きた。
 その日、私は何週間ぶりかの買い溜めのためにコンビニに来ていた。
 カップ麺や菓子パンなどを買い物かごに次々と放り込み、それをレジへ持っていった。
 レジでの会計中、ピロリロリーンとコンビニの自動ドアが開く音が聞こえ、何気なくそちらに目を向けて、私の全身は固まった。そこから入ってきたのが黒い服装の男性だったからだ。
「お客様、あの、お客様、お会計を――」
 突如動かなくなった私に困惑した店員の呼びかけで、私は我に返る。
 そうだ、早く代金を支払って、コンビニを出てしまおう。私は慌てて財布から小銭を出そうとし、慌て過ぎた。手元が滑り、十数枚の小銭が床に落ちて散らばってしまったのだ。
「す、すいません」
 私は急いで床に散らばった小銭を拾い集めた。
「大丈夫ですか?」
 誰かが近づいてきて、拾うのを手伝ってくれる人がいた。
 お礼を言おうと顔を上げて、私は叫び声を上げそうになった。
 それは先程このコンビニに入店してきた、黒い服装の男性だったからだ。
 そして屈み込んだ男性の顔を見て、今度こそ悲鳴のような叫び声を上げてしまった。
 その黒い服装の男性の顔が――夢の中で追われた黒い服装の男の顔と瓜二つだったから。
「うわああああああああああっ」
 私は財布も放り出して、その黒い服装の男性を押しのけてコンビニから飛び出した。
 店内にいた客も、店外にいた人も皆驚いた顔で私を見たが、気にしている場合ではない。
 コンビニから飛び出した私は、真っ直ぐ自宅に向かって走った。
 カーン、カーンと煩く足音を響かせて階段を上がり、手前の自室に飛び込んだ。
 入ってすぐに閉めたドアには、鍵とチェーンをかけた。
 そして部屋の隅で丸まり、布団を頭から被って震えた。
 頭も心も恐怖が支配していた。殺されるでも、捕まるでもなく、追われているという恐怖心が。夢の中での黒い服装の男がちらつかせた、ナイフの煌きが何度も脳裏で光った。
 遠くで犬の遠吠えが聞こえてくる。発情期の猫の泣き声も煩かった。
 あとは鳥の鳴き声が幾つかくらいで、静寂が鼓膜に触れて、それが嵐の前の静けさというやつのような気もして、震えを助長させる材料以外の何物にもならなかった。
 時計の針がちくたくと時を刻む音が、やけに大きく響いていた。
 どれくらい経っただろう?丸一日そうして過ごしたようにも感じたが、夜を明かした覚えはないので、恐らく十分ぐらいだ。怖くて怖くて震えていても、特に何も起こる様子はなく、もしかしたら大丈夫なのではないか、とホッと安堵しようとしていた矢先――。
 カーン、カーンと階段を上がってくる足音が聞こえ始めた。
 私はぎょっとし、再び身を固くした。
 カーン、カーンとその足音が絶え間なく階段を上がってくる。
 通り過ぎろ、通り過ぎろ、と怯えながら念じる。
 しかし、私の祈りも虚しく、足音はこの部屋のドアの前で止まった。
 だんだんとドアが強めにノックされる。
 私は喉から心臓が飛び出してしまいそうだった。
 恐る恐るドアスコープを覗き、ドアの前の様子を確認する。
 そこには、あのコンビニで出会った黒い服装の男性が立っていた。
「ひぃっ」
 私は素っ頓狂な悲鳴を上げ、その場に腰を抜かしてしまった。
「あ、いるんですか?いるんですね?」
 今ので私の存在を気づかれたらしく、ドアの向こうから、そう呼びかけられた。
 私は黙っている。というか、何の台詞も思い浮かばなかった。
「さっきあのコンビニで財布落としていったでしょう?それを届けに来たんですが」
 ドアの向こうからの声を聞きながら、私の頭の中は急速にこんがらがって混乱していた。
 なぜ?何で?――何で私の部屋を知っている?何で出会って数秒で別れた相手の家がわかった?何で警察ではなく、何でわざわざいるかどうかもわからない本人に届けに来る?
「いるんなら開けてくださいよ。本当に届けに来ただけなんですから」
 ドアの向こうの声は私をそう急かす。まるで急いでいるように。
 私の脳内をクエスションマークが埋め尽くす。何で、何で、何で――。
 そうして、私は一つの結論を導き出した。いや、その結論を導き出さざるを得なかった。
 ――こいつは、私を追いかけてきたのだ。
 コンビニから飛び出したときに追われたのか、それとも以前から追われていたのかはわからないが、この見知らぬ男に我が家を知られているのは、そうとしか考えようがなかった。
 いや――きっと随分と前から追われていたに違いないぞ。
 私が前々から感じていた何者かに追われているという感覚は、妄想ではなかったのだ。
 この男に実際に追われていた。だから私はあんな恐怖心に苛まれる日々を送る破目になったのだ。そう考えると、やはりあの予知夢? 正夢の方が近いだろうか?
 ともかく、私は可笑しかったわけではない。むしろ私は至極正常だったのだ。
 私はもう一度ドアスコープを覗く。黒い服装の男は不思議そうに首を傾げている。
 どうする? きっと出たらあの夢のように、私は刃物でぶっ刺すかもしれない。もしかしたら拉致されるかもしれないし、下手すればもっと酷い目にも――。
 次々と嫌な想像が浮かんでは消えて、背筋がゾッとした。
 このまま無視してやり過ごすか?しかし、自宅の位置を知られてしまっている。今日諦めてもまた別の日に来るだろうし、外でまた追いかけられて精神を擦り減らすのも御免だ。
 私は悩み過ぎて頭痛がしてきた。そんな中、一つのアイデアが脳裏を閃光の如く駆け抜けた。
 もう――これしかない。
 私は腰を抜かしたまま這うように台所に向かい、刃毀れした包丁を一丁手に取った。
「ちょっと待っててください、今出ますから」
 震える声を抑えながら、普通の口調を装ってドアの向こうに答える。
 抜き足差し足で玄関に戻り、三度ドアスコープを覗き込む。
 黒い服装の男は、苛立ちを隠さない表情で私がドアを開けるのを待っているようだった。
 ――やられる前に、やっちまえ。
 私はチェーンを外し、鍵も外して、ドアノブに手をかけた。
 眉間の間に、粘り気のある汗がどろっと流れた。拭う余裕はない。
 そして勢いよくドアを開け、目を閉じ、包丁の刃先を前方に構えて飛び出した。
 どんと何かに当たる感覚と、手元には何か柔らかいものに突っ込んだような嫌な感覚が伝わってきた。「うぐっ」と鼓膜のすぐ傍で、そんな呻き声が聞こえた。
 ゆっくり目を開けると、目の前には苦痛に歪む男性の顔があった。
 私は手元を見下ろす。私の手は案の定包丁の柄を握っている。
 包丁の刃先は、目の前の黒い服装の男の腹の辺りに、沈み込んでいた。
 私は包丁の柄を握る手を離した。男性は後ろにばったりと倒れた。
 男性は苦しそうに呻いていた。私は呆然とその場に立ち尽くした。その腹に突き刺さった包丁の周りからは、男性の血が滴り始めていた。混乱したのか、自分で腹の包丁を引き抜いてしまう。
 すると出血量はあっという間に増え、辺り一面は血で赤い水浸しになった。
 男性はもはや呻くこともなく、小さく息を繰り返すだけだった。
 男性の片手には、私の財布が握られていた。ナイフは握られていない。いや、そんなわけはないとポケットを探ってみたが、やはりナイフは出てこない。もしかして――本当にただ財布を返しに来ただけだったのか? それではなぜ私の家を――。
 私は男性の顔をまじまじと見て、そして気づいた。一気に血の気が引いた。
 ここに鏡があったなら、きっと見るも無残な亡霊のような蒼褪めた顔をしていただろう。
「この人――お隣さんだ」
 そう、その男性は、私の部屋の隣室の住人だった。
 テレビを大音量で流しに来たとき、苦情を言いに来た隣室の住人と顔を合わせたことがある。その隣人だった。あの夢の男は、この隣人と同じ顔をしていたのだ。
 隣人だったならば、私の部屋を知っているのも頷けた。
 私はこの隣人のことを憶えていなかったが、隣人は憶えていたのだ。
 だから私の落とした財布を、こちらの方が早いだろうと直接届けに来た。
 それを私が勘違いしてしまった。勘違いして――刺してしまった。
 隣人はもう虫の息だった。私は救急車に通報しようと慌てて電話に飛びついたが、電話は電話線の根元から引き抜かれていて、かけられる状態ではなかった。
 それに、と私は考え直す。
 それに、通報すれば、私の逮捕は免れないだろう。
 当たり前の話だ。人を刺したのだ。死ななかったとしても、重大な殺人未遂事件だし、重罪であることに変わりはなく、死刑と言わずとも重たい罰は覚悟しなければならないだろう。
 精神錯乱状態だった、と心神喪失を狙うか?
 いや、無理だ。私はそんなに頭は良くないし、知識もなかった。
 私はドアの外で血塗れの状態で倒れている隣人に、そっと目を向ける。
 ほんの出来心だった。私は隣人の手から財布を奪うと、階段を駆け下りた。

 一体何が原因だったのか? なぜそうなったのか? さっぱりわからない。
 いや、何が原因か、なぜそうなったかは、明白ではあった。
 人を――殺したからだ。
 私が隣人を刺してから、もう一週間は過ぎただろうか?
 私は未だに捕まらずに、追われる恐怖にかられながら逃げ続けている。
 隣人が死亡したことは、街頭テレビから流れていたニュースを見ていて知っていた。
 昨日なんて、私の指名手配写真が電柱に貼られていた。
 好い加減に警察に出頭してしまった方がいいと考えるときもある。
 しかし、日を追うごとにそうする気はどんどんと億劫になってしまうのだ。
 もしかしたらもう一日は大丈夫なのではないか、あと一日は大丈夫なのではないか、と結局何日もそんな風に言い訳して逃げ続けてきてしまった。
 かといってパトカーの前に出ていくこともできず、今夜もパトカーのサイレン音に怯えて公園の茂みの中に身を隠す。以前の追われている妄想に囚われていたときと、同じような体制で丸まって、同じように歯を打ち鳴らしながら、暗闇の中でひたすら震えている。

追われる夢

追われる夢

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日 2018-08-02

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