未来人への手紙(3)
第三章 明、「得る」について
未来人への手紙
後半
第三章 明、得る
さてようやく第三章「得る」である
すでに第一章では「長さ」を第二章では「重さ」を取り上げた、この私論は全体的には私的幸福論の性格を持つものであるためすべてはそれを論理的に下支えする役割を担うその材料となるべきものである、当然以下記す後半部分も前半部分と同様に私的幸福論のための諸々の考察による論述となるので諸君どうかそのことを重々承知の上で読み進んでいただきたい
ここで簡単に前半部分を振り返っておこう、すでに述べたように、この書は長さと重さ、そして明と暗の四部構成となっている
長さとは対象との距離を表す
重さとは洞察のこと、つまり負の肯定につながるものを表す
明とは善、それは「得る」を表す
暗とは凪、それは喪失、そして諦念を表す
(ここは後で書く)
さてすでに記した第一章で長さ、つまり人生を取り上げそこでは「対象」が必要であると書いた、そして第二章では重さ、つまり命を取り上げそこでは「洞察」が必要であると書いた
言うまでもなくこれらは単体では必ずしも価値を持ち得るものではなく、他のそれと関連しうる正の価値を持つものと結びつくことで真の価値をそこに生じさせるものだが、故に後半もそれらと関連させることのできるその材料となるべきワードとそのための説明が展開されていくことになるのであるが、諸君、ここまで読み進んでこられたのだからどうかもう少しだけお付き合い願いたい
第一章と第二章で書いたことは概ねこの私論の基本に来るべきものであり、したがって「幸福」がそれを理解する上でのキーワードの筆頭に来るものとなる、それはAからLの記号を振ったそれぞれの箇所のキーとなるべき文言だけを振り返っていただくだけでもおわかりいただけるのではなかろうか
すでに「この書は実利主義に基づく精神の過度な世俗化にストップをかける目的で書かれ始めたもの」であると書いた、だから効率性という言葉に私は敏感に反応するのであるし故にAIに対しても神経質な対応を強調しているのである、ここは僭越ながら主体性の喪失を最小限に抑えるための正念場でありここで多様性の尊重が僅かでも後退すれば、それはこれから生まれてくる人々の選択肢を予め奪ってしまうことにしかなり得ずそれは文明(imagination+creation)の望ましい発展を阻害することにしかならないのではないかという気がする
なるほど守旧派の人たちはプラスマイナスで最終的にプラスのなるのであればそれでよいではないかと宣うのかもしれないが、あくまで「量」を「質」に優先させるという考え方では「既存の価値観」が「雇用の流動性」よりも重視されるためにそこに環境問題などの国境線を容易に越えうる問題があったとしても結局それらは顧みられないために「地域優先、普遍軽視」の内向きな施策に終始することになり、それはポピュリズムの台頭にしかつながらないのではないかという気がする、長期的な展望にそれが結びつかないのであれば為政者は新しい産業の育成と新しい種類の雇用の創出に努めるべきだ、ここはセーフティーネットの整備にもつながる部分であるが、例えば大都市の人口が増えることでGDPが上昇しても少子化が進行するのであれば、いつか労働力人口(生産年齢人口)の減少にしかそれはつながらないということになる、故に労働力としての移民の受け入れになるのであるが、アメリカ合衆国のように元々移民によって建国されたような地域を除けばそのための法整備そして市民の意識の変革は容易ではないように私には思える
やはり実利主義に基づく精神の過度の世俗化を意識すればするほどポピュリズムが出てこざるを得ないようだ(2018/03/26)
実利主義の反意語は何か?
ここには精神的なつまり数えられないものの価値を表現するものが来なくてはならない、したがってここには「信仰」を強くにおわせるワードが来ることになる
なぜ過度の精神の世俗化は懸念されるべきなのか?
それは私たちの日常から隙間と脈絡を奪ってしまうからであり故にその隙間と脈絡からこそ生まれるべき文明(imagination+creation)の萌芽の多くを中長期的に価値を持つものから短期的な価値しか持たないものに悉く変貌させてしまうからである、だがこのような予定調和と瞬間熱の産物と言ってもいいような短期的なものこそが過度の精神の世俗化に陥ってしまった社会では肯定的なものと見做されるのであり、故に商業主義と結びついた短命なものだけが永続的な価値を持ち得ないのに実に堂々と跋扈していくこととなる
ここでは再びビートルズが出てくることになる、彼らを筆頭とする破壊の時代の先駆者たちはきっと彼ら自身はそのような意図はまったくなかったにもかかわらず結果的にせよ商業主義にこそ与する大人たちにそれまでは想像すらできなかったであろうビジネスチャンスを提供してしまった、きっとマーケティングのプロでもある大物プロデューサーたちはそこにある瞬間的な価値しか持ちえぬものをこそ実に巧みに操りそこに実際にはないつまり虚構の現実を作り上げることに成功した、おそらく1960年代の後半にはVRは既に存在していた、だがそれを具現化するツールがなかっただけの話だ
それを掴み取ることなど決してできないのに若者たちのハートを鷲掴みすることに成功したポップカルチャーはそこに抵抗勢力がいた間は健全に発達したがいつしか抵抗勢力がそれに飲み込まれると傍若無人の振る舞いとなった
そしてwindows95が現れたわけだが、ここで特筆すべきは日々新しいツールやアプリが登場し、過度な精神の世俗化にまったく歯止めがかかっていないにもかかわらず誰もそれに警鐘を鳴らそうとしないことだ
ここでのキーワードはわからない人にはわからないのであろうが「格差」である、過度な精神の世俗化はそこにある「格差」を助長することはあれその逆はないのである
ではどうすれば「格差」は解消へと向かうのか?
その答えはこの言葉の中にある
帰郷
私はこの言葉以外をここで記すことはできない
「帰郷」とは何か?
それはかつていた場所へと帰るということ、それ以外にはない
だがそれが進まないのはそこに実際にはない虚構の現実が特に若者たちのハートを完全に掴みきっているからだ、ここに「青春」がキーワードとしてくる、だがここに登場する青春は破壊の時代の先駆者たちが登場する以前のものとはその様相をだいぶ異にしているようだ
エルヴィス・プレスリーの登場はテレビの普及に後押しされたものだった、ビートルズの場合はそれがポータブルレコードプレーヤーとなる、常に新しい工業製品(ハード)の登場が若者文化の新機軸を占うその試金石となる、かつては新しい工業製品の恩恵に与ることができたのは一部の金持ちと組織、法人だけだったが破壊の時代の先駆者たちが登場してからはここでは個人がその主役となった、1960年にはすでに情報革命は始まっていた、当時の若者たちにはきっとラジオしかなかったのであろうが、しかしそれでもそれが通信革命であったことに違いはない、今私たちはスマートフォンのアプリで世界中のラジオ番組を聴くことができる、だがこの2018年若者たちの多くはラジオを聴かない
なぜか?
ラジオには隙間があるからだ
予定調和と瞬間熱の両者を満たす要件はこれだけである
そこに隙間と脈絡がないこと
だから虚構の現実となるのだ
しかし虚構の現実を作るのは大物プロデュ-サーたちではない、彼らはただ単にその発火点を設定するだけだ
では誰なのか?
その情報の受け手つまりレシーヴァーである
このレシーヴァーたちが「隙間がないもの」「脈絡がないもの」をこそそれが時代の要請に適っているというただそれだけの理由でそれらを支持している
今レシーヴァーが支持するものはおおよそVRという言葉が示す範疇に収まっているものばかりであり、そしてさらに言えばそれらは実生活と切り離されたしかし短期的にではあるが以下のものを提供してくれるものだけでもある
愛と夢
ここには光が関係しているのであるが(だから都市部に人口は集中する)、もともとそこにはないものをあるように見せるのがVRであるのでよく考えてみれば不思議なことではないのであるが、しかし今若者たちはVRの草創期を生きていると思っている、だから疑問を感じるよりも光にまぎれた方が少なくとも短期的にはメリットがあると感じているようだ、そのからくりはきっと20年後には解明される、だから20年後の20歳は2018年の20歳ほどにはVRに夢中にならないであろう、「ないものはない」のだから
愛の定義についてはこの書では詳しく述べないがここでいう愛も夢も短命であることが概ねレシーヴァーたちによって了解されているという点で、1960年代以降のモード(社会を吹き抜ける風のようなもの、流行)をそのまま引きずっているだけなのであるが、ビートルズがデビューした頃に通用していた方程式は実は今でもほぼそのまま使用されているのである、だが昨今のレシーヴァーたちは自分たちは特別な時代を生きているのだと驚くほど錯覚しているようだ
無論ここにはinteractiveが来ることで様子は変わるはずだったのだがwindouws95から随分と時間がたっているにもかかわらず情報を含む価値あるものの一方通行は一向に収まる気配がない、もし今後未来を生きる人々がinteractiveの重要性に気付き故にボトムアップを志向するようになれば社会は変わり破壊の時代の先駆者たちが使っていた方程式の多くは意味を持たなくなる
私はそれを切に望むが(だからこそこの書を書いているのである)、VRの勢いはAIのそれと同様増す一方である
このままいけばAIには「人と人との間を埋めるべき社会的に潤滑油の役割を果たすもの」としての役割は期待できず、故に「本来人間こそが担うべき役割の結果的にせよその放棄」が散見されることとなり文明(imagination+creation)は瓦解へと向かう
そしてその時こそ帰郷が意味を持つものとならなければならないのであるが、最も恐ろしいのはそのような状況が現出してもなお光と虚構の現実による快楽を求める人々が減らないことである、そうなれば帰郷は意味を持たずまた虚構の現実は富を生み出し続けるので過度の精神の世俗化はさらにノンストップ状態となる
孤独、闇、不安、静寂、何をすべきなのかわからないこと、それほど便利ではないこと、制限がかかっていること、必ずしも時勢に合っていなこと、数字的には明確な結果を残せないであろうと思われること
だが上記したようなことはすべて肯定的に見為されなければならない、そうでなければ私たちの主体性の喪失は止まる所を知らないということになる
もうすでにお分かりのようにここでさらに「幸福の肯定、成功の否定」が強調されることになる、そうでなければinteractiveもボトムアップもまた夢のまた夢である
だがそれでほんとうに良いのであろうか?
闇は光が生じるその直前が最も暗いという、ならば光もまたそうなのである、闇に突入し始めるその直前が最も明るいのである、そして個が霊的なものの価値を認めることでこれが真実であるか否かがわかる
レシーヴァーたちは知っているはずだ、光はそれが増せば増すほど成功に結びつくが、しかしそれが一定以上になると幸福には反比例するようになると
そして光が幸福に反比例し始めるまさにその分岐点がこれである
精神の世俗化分岐点
ビートルズが現れた頃はまだこの分岐点のかなり手前であった、だから彼らは破壊の時代の先駆者であったにもかかわらず今もなお肯定的で永続的な価値を持つものとして評価され続けているのである
だが優秀な後継者に恵まれたにもかかわらず破壊者たちが創造した新しい価値は変質を始めた、そしてcreatorではなくproducerの発言力が強まった、そこにあるのは予定調和と瞬間熱、だが人間に社会的に性善説によって捉えられるべき要素が大いに不足している以上どこかで理想と現実との折り合いをつけなければならず故に精神の世俗化分岐点を超えたと思われる現在でもそこに修正のための動きは見られない(2018/03/29)
(2)
ロックンロールの草創期において彼らが楽譜すら読めなかったにもかかわらず音楽界以外にまでその衝撃を及ぼすことのできた第一の要因は、無論商業的に大成功したこともあるが同時に大人たち(producer)の判断だけでなくそこに若者たち(creator)の介在する余地が十分にあったことがあげられる、逆に言えばこのような時代など長続きするはずはないと考えていた大人たちも多かったが故に起きた偶然の産物(produceとcreateのちょうどいいバランス関係)がそこにはあった
だがよく考えてみればそれと同じものがこの2018年にもすでに現出しているのである、You Tuberなどはその代表的なものであろう
こんなものが長続きするはずはない
ところがポール・マッカートニーでさえ1965年ごろにはそう考えていたのである、だがロックンロールは今も尚生き残っている
Produceとcreateのちょうどいいバランス関係
新しいものはかなり高い確率でここから生まれる、そこには確信はなくただ「好きだからこれをやる」があるだけである、そう言えばポールも昔こういっていた
いつでもリタイアできるよ、でもこれが好きなんだ、だからやめられないんだよ
「好き」はそれに新たな価値を持たせるための第一関門である、そしてここにはテストがない、彼がそれを「好きだ」といった時点で合格となる、条件はただ一つ、そこに嘘がないこと
きっとジョンもポールも今どきのロッカーよりは純粋だったに違いない、金になるかどうかもまったくわからない、それどころか前例もない、リスペクトゼロのものにその青春のすべてを賭けようとしたのだから
だがすでに述べているようにLennon and McCartneyにあってYou Tuberにないものは抵抗勢力である
私は「にもかかわらず永続的な価値を持ちうるものに変貌していくもの」は、かなり高い確率で抵抗勢力による反動を受けるものだけだと直感している、だからどうしてもビートルズにはこだわらざるを得ないのだが、producerが計算を始めたその時点でその価値は減じ始める、したがってビートルズのアルバムで最も素晴らしいのは1st albumかまたは1994年に発売されたCD2枚組のBBC liveのいずれかであろう、そこには計算がない、ただ「好き」があるだけである
そのように考えると驚くほどの無批判の中を悠々と泳ぎまわっているIT(information technology)ツールとそのためのアプリにはあまり多くを期待はできないのかもしれない
マーケティングのプロたちは可能な限りそこに予定調和と瞬間熱を組み合わせることで三世代から支持される虚構の現実(VR)を生み出すことに成功した、無論これは前例のない試みであり、これ自体を否定的に見ることはできないように思う、だが無批判が幅を利かせすぎるとそれが商業的な価値を持てば持つほど私たちは以下のワードから離れていくような気がするのだ
伝える
ここで以下のような私的な方程式を記すことは有意義であるのかもしれない
データ・インフォメーション(a)+メッセージ・ストーリー(b)=インテリジェンス(意思決定)・タクティクス(それに基づく行動)(c)
ここで重要になるのはbのメッセージとストーリーである、これは端的に言えばcreatorの生きざまでもある、ジョン・レノンなどはその代表的な存在であろう、さらに言えばaは「数えられるものの価値」のことであり、bは「数えられないものの価値」であると表現することも可能であろう、いずれにせよaとbが組み合わされることで「意思決定」と「行動」が約束され、そこに「信仰」による「善」が担保されれば、「望ましい未来」ということになる
個人的には上記した方程式を奉じるのであればほぼ間違いなく民主主義社会の肯定という結論に行き着くのであるが、ここでは政治的な問題は横に置くとしても、私たち人間が不完全な存在であることを認めれば認めるほど「伝える」は「負」をこそ担保せねばならない
負とは何か?
すでにいくつかのワードを挙げて述べているが、それは言ってみれば「居心地の悪さ」のことである
だが民主主義をそれから生じうる一切の価値を肯定するのであれば、この「居心地の悪さ」をこそ私たちは否定してはならない
「負の肯定」は最終的には私たちを光による錯覚から解放させ、真に価値あるものへの探求に目覚めさせ、故についに帰郷となる
やはりここでは善がそしてそれを担保する役割を負うべき信仰が登場する
どうやら実利主義に反するワードをそろそろ述べなければならないようだ
それは第一に神秘主義であろうが、私はここでやはり「霊(インスピレーション)」という言葉を用いたい
例えば霊理主義
「霊」は「実」に反するものであり「理」は「利」に反するものである
霊理主義、耳馴染みがないために少し戸惑いを覚えるがしばらくはこれで行こう
これは諸君すでにおわかりのように「数えられないものの価値」を重視するという立場から生まれ出たイデオロギーである、また「数えられないもの」とはしばしば「目に見えないもの」であるかもしれない
先ほどの方程式を思い出していただきたい
もしこの方程式が一定の説得力を持つものであるならば、そこにあるのは利ではなく理であろう
理とは?
普遍
普遍とは?
善
善とは?
神
神とは?
この世における唯一の権威
ここでは人間がともすれば崇拝の対象ともなりうる多神教的な思考様式は否定されている、だが善とは国境線をも超えていくものでなければならない
そうでなければこれが今後も繰り返されることになる
戦争
戦争は昔から許されないものだが、特に20世紀後半以降さらに許されないものになった
核が現れたからだ
まだ第一章と第二章のまとめの段階にあるが、ここは少し強調しておかなければならない場面だ(2018/03/31)
二十世紀がなぜ人類の歴史において今後も特別な時代であり続けると思われるのか?
それは以下の二つのものが現れたからだ
核兵器と宇宙飛行士
核はともかく軍需と大気圏外脱出はともにビジネスというくくりで見ても特別なものであるのかもしれない、いずれもハイテクの結果であり故に最先端のテクノロジーをそこに携えている、そしてこれらの世界は例えば金融という数えられるものの価値をこそ象徴するような世界とは明らかに一線を画している、そこには夢があるのだ、STAR WARSはフィクションだがステルス戦闘機は現実だ、またそこには「自由主義という言葉で表わされるべき世界の防衛」という大義が確かに存在しうる、12歳の少年がF35のポスターやフィギュアを欲しがったとしてもそれは何ら不思議なことではない、そして宇宙飛行士である
ここにはもはやテラフォーミングが来るべき時代となっている、太陽系探査はクリストファー・コロンブスのアメリカ大陸発見に代表される大航海時代の2000年代版となるのであろうが、実に壮大なるロマンがこのjourneyには秘められている
もし原子力とテラフォーミングが「100%平和目的による利用」の原則を忠実に守ることによってのみ前進するのであればきっとそれは二十世紀を生きた人々が想像もできないような未来を形成していくことになるのであろうが、もしそうだとしてもここには新しい何かが必要になる
それはきっと新しい信仰であり、また哲学
AIもまたハイテクの産物だが人知が生み出すものは如何なるものであれそれは一定の善的な条件を満たすものでなければならない、だが現実にはIT革命の申し子たちによる実にcreativeな活動はにもかかわらず貧富の格差をさらに押し広げてしまった、この悲しむべき相反作用はしかし今後改められていかなければならない、テロリストに同情するつもりはまったくないが、テロリズムは狂信の結果ではなく極貧の結果蔓延すると私がここで言い切ったとしても、いったいどれだけの人がそれに合理的に反論できるというのであろうか?
恒久平和と貧富の格差の解消
だがこの二つはいずれもその機軸を一にしている、しかし現実にはそうなっていない
ではなぜそうなっていないのか?
それは以下の二つの要因があるからと考えられる
① 知の世界の過信
② 信の世界の盲信
いずれも霊的な存在ではなく数人の絶対者的な存在によって物事の帰趨が決められていることに起因している、だが如何なる人物であれ人は決して絶対者にはなれない、絶対者になれるのはこの世の唯一の権威であるところの神だけだ、しかしコペルニクスが地球が丸いことを証明して以降、従来の価値観による宗教はその存在意義を失いつつある、だがこれまでは人類が認識するところの神がその存在意義を後退させることはしかしその一方で科学技術の発展という人類の幸福という観点で見た場合外せない要素を前進させていくこととバーターの関係にあった、したがってそこに疑問を差し挟む余地があったとしても良識ある人ならば沈黙せざるを得なかったのだ
神の領域
それは第一にラジウム(放射線物質)の発見にあった
人間は太陽を人工的に作ることに成功した、これで多神教時代の最高神である太陽神は克服された
第二にそれは大気圏外脱出にあった
人間は初めて神が造り給うた世界を外側から眺めた、宇宙船の中を地上と同じような状態に保つことで人間は環境を人工的に作ることに成功した、そして人類は上下を克服した
そして第三にそれはAIの発明にあった
人間は脳を人工的に作り出すことに成功した、人間が休んでいるときにAIを働かせることでより便利な社会の創造に成功した、人類は人と人の間を克服した
しかしこのことにより以下の二つが失われた
隙間と脈絡
だが神話のすべてはこの二つから生まれている
然るに私たちは今神話の縁に立っている、後もう数歩で私たちは史上初めて神なき世界の住人となる、そしてそこではデータとインフォメーションがすべてなのだ、メッセージとストーリーの欠如、だがこの二つを伴わない意思決定とそれに基づく行動に私たちは多くを期待してはいけない、なぜならばそれによってこれが意味を失ってしまうからだ
芸術
ここに「霊的なもの」が来ることになる
芸術を知ることで私たちは自由を知ることになる、自由とは「選択の自由」のことであり「何もしないこと」ではない、そしてここを理解することで私たちは次の段階へと進むことができる
それが民主主義である
したがって民主主義を肯定するのであればその人は芸術を肯定しなければならない、そして芸術を肯定するのであればその人は霊的なものを肯定しなければならない、この三者は互いに密接に絡み合っており、どれか一つだけを分離することはできない、だがここが重要なことなのだが、これらはいずれもがデータによるつまり「数字による裏付け」がない(インスピレーションしかない)ために常に薄氷の上の存在であるということである
薄氷の上の存在
そう聞いて諸君はまず何を思うであろうか?
そう、平和である
平和もまた常に薄氷の上の存在なのである
だから私はここにこだわらずにはおられないのだ
回帰
またこの言葉が脳裏をよぎる
人生は渦巻き状に曲線的に進む、したがってゴールはてっぺんにではなく真ん中にある
では真ん中にあるものとは何か?
幸福
そして幸福を測る物差しはないのである、インスピレーションがあるのみである
甚だ僭越ながら私たちはここで哲学を総ざらいしなければならない、いや宗教もまた、であろう
すでに大気圏外脱出で人類は上下を克服したと書いた、宇宙には上下がない、そこが真ん中でありまたそこがてっぺんである、そして“常にそう”である
ならば私たちが今重視するべきものは何なのであろうか?
反格差
反環境破壊
反データ主義(半もか?)
そしてその都度における抑制的な判断
「敢えてしない」と「敢えてする」の相互的運用
可能だが追いかけない主義
なぜ追いかけないの?
民主主義と芸術と霊的な存在を守るため
なぜそれらを守る必要があるの?
私たちのゴールはてっぺん(比較)にはないから
幸福は真ん中にあるの?
でもそれには一つだけ条件がいる
それは何?
自分が何を好きで何をやりたいかを知ること
ようやくここから本格的に第三章に入る(2018/04/02)
第三章のテーマは明、つまり善である
そして私たちは常にそれを「得る」ことができる状態にある、ただ多くの人はそのことにまったくと言っていいほど気付いていない、なぜならば私たち少なくとも大人の世界は99%、以下のものでできているからだ
嘘
甚だ僭越ながらここには多分に富が関わることになるがそれについてはこの書では多くを語る必要はあるまい(いずれ歴史がそれを証明する《すでにしている?》)
私たちが子供や動物を見て必ずやほほえましい気持ちになるのはそこには嘘がないからだ、無論嘘は善に反する、しかしそれ以上に愛に反する
この第三章と第四章ではこれまで以上に信仰を取り上げることとなる、すでに述べたように私たちは神なき世界のとばぐちのやや手前に今ある、ここまで書いてきた以上私は私自身の責任でその後始末をつけなければならない、そしてその時に強く意識せざるを得ない存在がまさに神である
神とは何か?
この世の唯一の権威にして唯一の「私」の対象
万物は対象を求める、故に神がなければ「私」もまたない
「得る」、だが私たちの多くがそれを知らないのはそこに対象が存在していないからだ、しかし私たちは対象を知って初めて秩序を得る、そしてそれが安心につながるのだが、対象とはその多くが夢などの「数値化されないもの」であるため(富を対象にすること自体は誤りではない)に、データを重視するデジタルネイティヴ第一世代などはこの辺りの私の真意はもしかしたら十分には伝わらないかもしれない
ここに来る対象は夢と同様千差万別であり、それぞれの人にそれぞれの対象が来る、神もまた目に見えない存在であるために、信仰という言葉をここに当てはめることはできてもその形はそれぞれによって異なると考えられる、そして幸福もまた千差万別である
それぞれがそれぞれの対象を知りそこに自分にしか当てはまらない法則を発見することで世界は回転し続けることができる、だがそこに何らかの絶対的共通項がなければ世界は無数の輪(意思を持たない)によって区切られてしまうかもしれない
したがってそうならないために「善」が必要になる
善は明であり、明は神であり、神は霊である
すでに霊理主義という造語を実利主義に反するものとして挙げた
私は思う、デジタルネイティヴ第一世代はもしかしたらすでに象徴的な位置づけをされるべき存在となっているのかもしれないと、神なき世界の最初の住人として「デジタルネイティヴ」という言葉は実に相応しい響きを持っていると思われるからだ、「霊」を「デジタル」と捉える人はそう多くはないであろう、事実、霊はデジタルではない、問題はデジタルネイティヴ第一世代がその対象に霊的な存在をいくらかでも含ませるか否か、そしてそうなった場合デジタルネイティヴ第二世代以降が第一世代に追随していくと思われるかどうかにある
「実」の反意語は「霊」である、霊には実体がないのだから当然であるが、すでに述べたようにIT革命の申し子たちの登場によって世界的な貧富の格差はむしろ広がっており、狂信に名を変えた極貧故のテロが世界を見舞っている
言うまでもなくこの惨状は直ちに改められるべきものでなければならないが、その端緒は「霊」にあるのか「実」にあるのか
残念ながらここでその答えは霊にあると断言することはできない、おそらくそれほどまでに世界の極貧はいかんともしがたい状況にあるのであろう、したがってここでは「実利主義をこそ選択しそれ故に富の蓄積に成功した人々」つまり前半第一章で示したグラフでいうところのB区域に属する人々の積極的譲歩が必要になるのである
だが元々はと言えばそのような富を追い求めるのに有利な環境にあった人々またはその先達の経済活動によってこのような格差社会(環境問題も)が生まれた(生まれた時点でノーチャンスの子供たちは今もなお多い)のだから、そこには当然の如く彼らが負うべき義務というものが生じる(正直に申し上げれば格差解消税など)と思うのであるが、その不条理なる思いは横に置くとしても、神なき世界のとばぐち近くにあるにもかかわらず私たちはデジタルというこの時代ならではの特異性故に「霊」的な存在の価値を取り戻す(get back)ことよりもまず「実」利的な取引を優先せざるを得ないという現状の認識からスタートせざるを得ない
ややこの第三章で述べようとしているところの「得る」からは逸れるがもう少し続けよう
(3)
本来「得る」の反意語は「失う」であるがセレブリティの場合ややそこが違い「得る」の反意語は「与える」である
したがって一億ドルを超える資産を有する人々はそうでない人々とは異なる義務を負うと考えられるのである、ここはきっと諸君も異論あるまい
時代にも人にも恵まれない人が一億ドル稼げるはずはないのである、またそういう人は健康にも恵まれたのであろう
一旦第一章で示したグラフに戻るが、霊的な存在に最も執着しないであろうと考えられるのもまたB区域に属する人々であろう
この辺りは今実に微妙な段階に入っている、デジタルネイティヴ第一世代からも確実に現れるであろうセレブリティがA区域に入るであろうことを私は切に望むが、今私たちは神なき世界のとばぐち近くにおり、ここでこの2020年前後を生きる特に責任ある世代の人々が対応を誤れば今後しばらくは事態の収拾が望めない状態が続くかもしれない(2018/04/03)
神なき世界とは極論すれば「数えられるものの価値」が最大化する世界ということである、私からすれば恐ろしい世界でしかないのだが今日、2018年4月8日現在において世界がこの点においてためらいを学んでいるとは正直思えない、おそらく当分の間データ・インフォメーションによってこそ規律された社会は「拡大」がそこから生じ続ける限りほぼ躊躇することなく結果的にせよ富に向かって邁進していくものと思われる
すでにITおよびAIの特異性は誰も警鐘を鳴らさないことだと書いた、この傾向はしばらく続く、驚くほどの無批判の中をヴァーチャルという名の怪物はその主人たちが命ずるままに最大限に直進していく、おそらくデジタルネイティヴ第三世代あたりが一つのキーポイントとなるのであろうが、どこかで生じるイニシアティヴの転換、つまり下僕であるはずのAIに人生そして社会の主導権が渡ってしまう異常事態に真っ先に気付くのはおそらく子供たちであると私には考えられる、なぜならばそこには損得勘定がないからだ、大人たちはそこにある異常に気付いてもそこに「利」が見込める限りしばしば「見て見ぬふり」をすることになる、したがって変革は(これは望ましいことなのだが)下から起きると推定される
だがここで恐ろしい事態が推察される
というのもすでに多くの「利」を手にしたデジタルネイティヴ第二世代以前の人々が反動化するかもしれないと思われるからである、昨日まで時代の最先端を走っていた人々が最も恐れるのは「遅れる」ことである、きっと最大の富は常に「最先端」からのみ生まれる、したがってそれに気付いていないはずのない時代の寵児たち(しばしば若者たち)は実は正論を吐いている子供たちの意見を一蹴するかもしれない、また「利」をその時々の最先端テクノロジーが生み出し続けるという法則は変わらないのだから、そこにある「不健全さ」に気付いたティーンたちもどこかで方向転換を迫られるかもしれない、無論、最終的には回帰の重要性に気付いた私に言わせれば「健全な」人々が舵を切ることになるため神なき世界の増長はいずれ止まるものと思われる、ただその過程で多くの混乱が世界を襲うことは容易に想像されるしまたその筆頭に来るのはテロである、だからこの部分は僭越ながら蔑ろにできないある種の示唆を含んでいるとも考えられる
神なき世界
IT革命の申し子たちの所有する株の価値が上昇し続ける間、私たちは「得る」から徐々に乖離していくことになる、ここで私が言うところの「得る」は「善」に「明」に、そして「霊」につながりうるものだけを指す、したがってここには「利」や「富」につながりうるものは含まれないということになる
やはり何度考えてもここの部分はデジタルネイティヴ第一世代には呑み込みの難しい考察となるのであろう、それほどまでに今私たちの周りは「具体的」かつ「共有可能」な事柄で満ち溢れている、数億のツイートが常に世界中を駆け巡り24時間後には価値を持たないであろう様な情報が「利」の源となっている、大型テーマパークや夏のロックフェスティバルに代表されるような予定調和と瞬間熱によるしかし大量の「動員」が可能なメガアミューズメントが「個別の美意識」によるおそらくは「信仰」を否定しない何らかの価値の普遍へと向かう模索の障害となっている、だがそこには「利」がありまた社会的に見た場合の円滑な時の流れがある、きっと少なくとも短期的には雇用は安定するであろうしまたすでに情報格差は20年前よりははるかに解消されている、データ・インフォメーションという基準だけで見た場合社会は今その沸点の僅か手前にあるのだ、ここに異を唱えるのは相当な発言力を社会的にすでに有している人でさえ難しいであろう
だが私は思う
宇宙の謎のすべてが数学的、物理学的に解明されるのだとしても「有」の世界があることが絶対である以上、「無」をも包含するこの世の全体をその外側から眺める何らかの霊的な視点が必要になるのではないかと、科学的に「無」から「有」が生じることを証明するのは容易ではないことは一定の科学的な知識を持つ者であるならば理解できるはずだ、さらに言えば「無」よりも先に「有」があったとは考えにくい、これは光と闇の関係にも似ている、したがって「存在」が始まるその瞬間において何らかのエネルギーがそこに発生したと断ずるを得ない、ではそのエネルギーの発生源は何か?
ここに霊的な「意図」を直ちに読み取ろうとするのはなるほど反科学的であろう、だがこの瞬間に何らかの意志の介在があると批判を恐れずに踏み込むことでそこに直ちにこの概念が生まれる
善
なぜならばこの世が絶対的ともいえる調和によって成り立っていることは間違いないからだ(明日も太陽は予定通りに昇ってくる)、ここは有神論と矛盾しない部分だ、もし調和が善でないならば善とはいったい何なのか?
この答えが一瞬で閃かないのであれば直ちにこれが現れる
理想
このような反論もあるであろう
この世にはあるものがあるだけだ
ならばこれをどう説明する
秩序
果たして秩序は理想を孕んでいないだろうか?
これにNoを言う者は甚だ僭越ながらその人生を賭して一冊の理論書を刊行せねばならないであろう
奇跡はすでにここにある、そう、この地球という惑星である
善、理想、秩序ときて、その次は奇跡
なぜ今も尚この地球という惑星は存在し続けていられるのか?
これこそ人類が抱える最大の謎である、「ホモサピエンスの脳がこの世の真理を解明できると宣う者」(以下この章ではeとする)はこの地球という惑星の奇跡をこそ証明せねばならない、そしてこれまた甚だ僭越ながら神なき世界の住人たちもこれに準ずる義務を負うのである
私は思う
「明日」(tomorrow)をそのまま「奇跡」(miracle)と置き換えても実は何ら問題はないのであると、まさかeの人々がそのことに気付いていないはずはないのだが、少なくとも必ず明日は今日の延長線上にあると言い切ることは果たして科学的であろうか?果たしてそこに奇跡とでも呼ぶしかない要素が入り込むべき余地は0パーセントであろうか?さらに言えば過去のいずれかの時期においてこの惑星の終焉を予期させるような天文学的な、場合によっては未知の出来事が発生していないことは奇跡の範疇に収まり切れないと断言することは果たして可能であろうか?
なぜ「有」は有のまま存在し続けられているのであろうか?
ここはこの私論の極めて根幹的な部分だ、そしてこの部分は実は「信仰」以前の部分でさえある
だが「信仰」をそこに差し挟まない限りそこは科学者の出入りする世界であって私の出入りする世界ではない、したがってここはこれ以上の推論を展開することを控えて先に進みたいと思う
明、得る
この第三章のテーマはこれである
私たちは常に何かを得ている
正であれ、負であれまたはその中間に属すると思われるものであれ、いずれにせよその瞬間、瞬間において私たちの生命が存続する限りにおいて常に何かを得ている、だからこそ望むべくはそれが「正」であることを、そしてそれが可能な限り連続することを願う
ではどうすれば私たちはその常に「得ているもの」を正とすることができるのであろうか?
おそらく予め「正」を得ることを意図的に調整することは不可能ではないがそう簡単でもないであろう、ここにはまた予定調和と瞬間熱が登場することになるが、この信仰とは真逆の性質を持つしかし21世紀的な人生の価値観にはおおよそ適っている不思議な存在を敢えて無視するのであれば、おそらくここでいう「正」とは以下のように表現できるものであろう
にもかかわらずそれを正と見做すことで価値を持つもの(以下この章ではMとする)
つまり本来はそれは必ずしも正とは言えないのだがそこに知恵の働きや工夫などを加えることで正に変化させうるもの
なるほどこのように考えればなぜ「得る」がなぜ「明」なのかも理解できる
たとえそれが「暗」であったとしても、すぐにではないにせよそれを「明」に変換させればよいのである
確かにMを前提とする以上、この章で私が述べることは現世的な喜びとは隔絶されたものとなる可能性が高い、だが諸君よく考えていただきたい、幸福論というものはそういうものである、すでにこれは私的幸福論的な性格を持つ私論であると述べている、したがってこの通りに論述が進んでいったとしてもそれはいかほども不思議なことではないし、また僭越ながらここまで読み進んでこられた諸君らの明晰さを考慮すれば以下述べられるすべては諸君のいずれもが理解可能なものである、さらに言えばそこから派生していくであろう諸君のオリジナルに属することになるであろうすべての推論もまた最終的には諸君らの幸福にこそ結びつくことはあってもその逆はないとすでに考えられるのである
(2018/04/08)
(4)
にもかかわらず正
おそらくここに私たちの幸福の終の棲家がある
無論ここでは信仰が顔を覗かせることになるがともすればそれはあまりにも大所高所からの意見となってしまう虞がある、故にここでは表現に細心の注意を払いながら一歩ずつ論を進めていきたいと思う
もし私たちがその日常生活において慣習を踏襲することにのみ腐心するのではなく、感受性豊かな時期にのみ受信可能なインスピレーションから導き出されるべきオリジナリティ(若い日々においてこれを優先させるとしばしば孤立することになるためリスクも大きく、また経験不足からやや盲目的にならざるを得ないのだが)に一定の信頼を置くことができるのであれば、きっと「にもかかわらず正」は大病を経験せずともまた裏切りの憂き目に遭わずとも、貴兄に何らかの重要なメッセージを最終的には告げることになるであろう、なるほどここ数行に書かれた内容は「老い」を知り始める五十歳以降のつまりたそがれの扉をすでに開けた人々にしか伝わらないところのものなのであろうが、どうか諸君僭越ながらこの辺りの文章は可能ならばその記憶にしばらくの間でよいので留めて置いていただきたい、たとえ二十代前半でもそこに凹凸のない青春というものは稀有である、したがって場合によってはここ数週間のうちにも「なるほど」と思えるような出来事が貴兄の身の回りに起きるかもしれない、負は繰り返されるので今この瞬間から十年もすれば記憶に留められていたこの文章と貴兄の諸々の経験とが結び付きそこにある種の化学反応さえ起こすかもしれない
人生百年の時代、人生の重要なメッセージを発するのは老いを知り始めた五十代の人々である、私も五十代、だからどうか孤立の恐怖に怯えることは多々あろうかと思うが若い諸君、オリジナルの価値というものにいくらかでも気を配っていただきたい、すでにここまで読み進んでこられたのだから貴兄らの個性には必ずや磨けば光る何かが包含されているのだ、そのヒント(答えではない)の最初のものはもしかしたら今日中に見つかるであろう、もし十代ならば尚更のこと、「大人の期待=将来の自分」ではない「夢=なりたい自分」に何らかの貴兄の個性との合致点をわずかであっても見出すに違いない
個性とは何か?
それは君自身ということだ、ほかの誰でもない、またほかの誰もそれに代わることができない、そして幸福につながり得ない個性というものは99.9%ない、条件はただ一つ、普遍につながりうる対象を見つけることができるか否か
では先に進もう
「得る」はそこに善の要素が含まれる限りにおいて最終的には貴兄を幸福の旅の少なくともその入り口にまで導く、そこでは「何もない」や「無駄」が排除され然るに理想の萌芽を貴兄は見つけることになる、なぜならば負さえも「得る」の範疇に含めることでそこにはある種の秩序の意識が芽生えるからだ
如何なるものであれ如何なることでさえ、それを「良き前例」と見做すことができれば過去のすべては実に静かに整然と認識の表舞台で序列化される
正の出来事が肯定されるのは当然なのでここでは負の出来事のみに焦点を当てよう
ここでのキーワードは「偶然」である
例えばたまたまつけたテレビに映し出されていた風景や偶然動画サイトで出会った楽曲など、実はそこにこそヒントがある
無論ここには一定の意思の作用が認められなければならないので、ある程度でいいので感受性豊かな時期に自分探しを行っておく必要があるが、ここまで読み進んでこられた諸君にはおそらくその心配はないであろう
朧気であったとしてもそこに夢または目標が存在する限り「無益な時間」などは存在しない、そこにある日常との整合性を図りながらしかし意識上における微調整を繰り返すことで彼は幸福(時に彼にとっての真実)へと近づく
ここでは信仰がない方がむしろそれを必然と認識する割合は増すかもしれない、なぜならば信仰へと達した者の方がより多く負を経験させられていると認識するであろうから、よほどのことがない限りそこで軽々に「運命」という言葉を使いたがらないであろうと私には推測されるのである
したがってまた「偶然」に戻る
おそらく諸君らの多くはここで私が言うところの「必然ではなく偶然」にすでに何らかの閃きを見出していることであろう
偶然は沈殿していかない限り認識上において優先順位上位には浮上してこないため偶然が価値を持つには少しばかり時間がかかる、ここでまた「待つ」が出てくる
「待つ」は善のための重要な要素なので、「より速く、より多く」にはない「慎重さと寛大さ」をそこに孕ませることができる、ここはこの私論全体にとっても重要な部分だが、ここを取り違えると「拡大から循環」への意識の移行が曖昧なまま進行していくことが予想されるため、表面的な理解ではやや物足りなさが残るかもしれない
すでにおわかりのようにここで述べられる「得る」は「数えられないものの価値」を重視するが故に善を基本とする幸福にしかつながらない、「客観的な信頼のおける数値」を重視しなければ成り立たない(そうでなければただの自己満足である)成功の世界とはここで明確に一線を画することとなる
成功と幸福の関係は経済学の需要曲線と供給曲線の関係のように片方が上がれば片方は下がるという関係にある、つまりグラフ化するとXのような形になる
無論その中間線を模索するという方法もありうるが、ここではその方法はとらない、なぜならば「客観的な信頼のおける数値」を重視する成功論を認めれば前半で述べた「商業主義と精神主義の中間点を模索するcreativeな活動」を模索するということになる、だが個人的にはこの方法は悉く失敗しており、議論すべきだが実際にはあまり議論の余地はないという印象が強い、したがってセレブリティの積極的譲歩を期待しなければ現時点では真の理想主義はその存在さえ危ぶまれるという事態にまで窮迫しているのである
たとえ真実というものが人の数だけ存在しているのだと仮定したとしても、真実の光は六等星の輝きしか持たず故に漆黒の闇の中でしか確認不可能なものだという仮説は成り立つと思う、それほどまでに現在私たちが直面する二つの課題、環境問題と貧富の格差問題は後戻りの出来ない地点にまで迫っているのである
需要と供給は二つの曲線の交わるつまり中間地点でこそ交わる、だがそこに落としどころを求めることは結局は現状の追認にしかならずそれでは中央と地方との地域間格差の是正やまた私が考えるところの民主主義の理想、「可能な限り平等なチャンスを人々に保障すること」や「出自やその属性に一切かかわらずその素養及び能力のみでその人を評価、判断する」はおそらく夢のまた夢となるであろう
(2018/04/10)
ここで「革命」という言葉をそれが精神的な部分に限られたものであったとしても使うつもりは私にはないが、しかし上記した二つの問題のみならず人口問題(当然食糧問題を含む)やエネルギー問題をも併せて考えたうえでも、何らかの突破口のようなものは必要なのであろう、そのためのキーワードはやはりこの言葉の中にある
幸福
偶然、運命、そして幸福
一見関連性のない言葉の羅列のように思えるこの3つのワードはしかしその底辺では密接につながっているのである、ここは「信仰」を少しだけ頭の片隅に置いたまま進んでいっていただきたい
「偶然」とは「まさか」のことでありそれはそこに「期待がない」ことを示している、だが期待がないが故にそこにはいわゆる感動の埋め合わせも生じないはずなのである、そこに期待がある限りもしそれが期待外れに終わったとしても期待していた分、自然に感動の埋め合わせを行い、つまり意識的に自分自身を納得させようと試みるのである、これは実は大人であったとしても当然の意識の運動なのでこれを批判的に論じることはできない、それよりもここで強調すべきはそこに期待がない場合に期待値ゼロまたは予備情報ゼロであることだけを理由に感性が捉えたものを価値がないものと見做しそのまま記憶外へ捨て去ってしまうことの危険性の方である
ここでまた「好き」が出てくる
おそらくそのようなもったいないことにならないようにするためにはこの「好き」の認識が重要であると考えられる
つまり自分が「何を好きで何をやりたいか」をある程度でいいので認識しておく必要があるのである
やはりどの方向から考察を試みても幸福の後には「好き」が出てくる、この「好き」が出てくるところが成功をキーワードにした場合と根本的に異なる点なのである
では成功をキーワードにすると好きの代わりに何が出てくるのか?
得である
損得勘定の得である
ここでこの章でいうところの「得る」との違いが鮮明化されなければならない
この章でいうところの「得る」とは損得勘定を一切排した地点においてのみ感得可能なものである、故に理が利を上回り、善がにもかかわらず秩序と理想を伴って浮上してくる、ではこの後に続くべき言葉は何か?
奇跡である
おそらくこの奇跡という言葉は成功がキーワードになる限り私たちの認識上においてそれが確信に変わることはない
なぜ私たちには奇跡が必要なのか?
それは私たちは永遠にこれから解放されることがないからだ
悲劇
だが僅かでもそこに信仰が存在する限りにおいて、私たちは悲劇からこそ価値ある何かを得ることができる
それはこの言葉でも端的に表すことができる
伝える
何を伝えるのか?
命の大切さをである
決して死んではいけない、なぜならば悲劇によって日常的に多くの死にたくない人々の命が失われているから
決して諦めてはいけない、なぜならば奇跡は存在するから
だが残念ながらここには「セレブリティの譲歩」が必要とされる余地が現時点では何割かではあってもあるために、つまり純粋なる信仰心だけでは人々を救うことができないために、私は今何とも言えない歯痒さを感じているのであるが、しかし前半で述べたグラフのB区域に属する人々はともかくA区域に属する人々はいつか目覚めるかもしれない、そしてその確率はもしかしたらそれほど低くないかもしれない、だから不完全ではあってもこの論述を進めることでそこに何らかの発火点を見つけることができるかもしれないのである
奇跡は起こる
少なくともその人にだけはわかる
だから諦めてはいけないのだ
「得る」ためには損得に囚われすぎてはいけない、そして「明」を確認するためには「闇」が必要なのである
闇とは?
しばしばそれは孤独であろう
だが「好き」を知る者はそれに耐えられるのみならず時に自ら「ひとり」を望むであろう、なぜならばそこには夢があるからだ
こう言うことももしかしたら可能なのかもしれない
夢を追う者は表通りではなく裏通りを、喧噪や煌びやかさとは無縁の隘路をこそ歩まなければならないのかもしれないと(2018/04/12)
だがここで私が夢を強調したとしてもそれは実に理に適っているのである
なぜならば人生百年の時代が目前に迫ってきているからである
人生百年の時代
つまり五十歳でもまだ人生の半分ということである、これは人類史上初のことであるがその先頭を走っているのが他ならぬ我が国日本である
だがこれもまた強調しなければならないのであろうがこれは良いことなのである、人生百年の時代とはとりもなおさず特に医療分野の飛躍的進歩がその背景にあることをすでに示唆している、そこには当然ながら社会復帰を目指して日々奮闘している患者の方々やそれを必死になって支える家族は無論のこと同じ思いの医師や看護師の方々がいる、また不幸にも疾病のせいで学校へ行けない子供たちも数多くいるであろう、そのような人々に何としてでも普通の生活を取り戻させてあげたいまたはそうなってもらいたいと思うことは一人間として実に尊敬すべきことである、そのように思う人々のすべてが医療に関する職業に就くわけではないのであろうがそれでも彼らが時に徹夜をしてまでも新しい治療法の確立やまたは新薬の開発を行っているからこそ、この超高齢化社会が実現できたのである
きっと大病を患った方であればこの辺りは容易に理解されうるところのものであろう、重く垂れこめた分厚い雲の間から奇跡的に陽光が差し込んだ瞬間の驚愕は筆舌に尽くしがたいものがある
「まさか」
そしてそれに続いて感謝の気持ちが芽生える
決して諦めてはいけないという思いと目指すべき何かを取り戻さなければならないという思い
きっと0が1になる瞬間こそ、幸福の意味を真に自身に問う瞬間
いや、この時だけなのだ、100が1000になってもこの瞬間を味わうことはできない、ただ0が1になる瞬間にだけ奇跡は訪れる
翻って悲劇である
すでに悲劇こそが価値ある言葉を告げると書いた、悲劇を知る者は0を知る者でもある、0は容易には離れていかない、故に0を知る者はまず忍耐をこそ学ぶことになる
彼は思う
神様、なぜ私なの?
だがそこには理由があるのだ、ここは信仰と切り離しても成立する部分でもあろう
「悲劇」に続くものは「伝える」
そして「伝える」を知った瞬間彼は未来を生きることになる、なぜならば人が増えれば悲劇もまた増えるからだ
なぜ私たちは正しく生きなければならないのか?
それはそこに「再会」が待っているからだ
ここにも奇跡が登場する
厳密には奇跡はその人にしかわからない、だから奇跡を知る者はむしろ沈黙に近づく、奇跡は霊に近く、故に「伝える」を知る者は最終的には「利」から離れていく
そしてここには普遍の萌芽のようなものがある、だから私は信仰を強調するのだ、そこに一万人いたらそこには一万通りの幸福の形がある、そしてそこでは彼が「私は幸福です」と言えばそれでことは足りる、だが成功は違う、成功の形は数通りしかなくまたそこには何らかの数字の裏付けやお墨付きなどがなければそれは単なる自己満足で終わってしまう、つまり幸福は個人の意思次第で自己完結可能だが成功はそうではない、だが私は思う
なぜ他人に自分の人生を評価されなければならないのか?
果たして幸福にAクラスやBクラスが存在しうるのか?
人生に保障など存在しうるのか、もし存在しうるならそれは何のことか?
また万人に共通の幸福の方程式はあるのか、あるならばそれはどのように表されるべきなのか?
ここに信仰の次に来るべき言葉を一回だけ差し挟むことはもしかしたら有効かもしれない
それは真実
甚だ僭越ながら真実とは神の領域に存在するものであるが故にそれは完全に善である、真実という言葉を悪に用いることはできない
「得る」が明ならば、明は善であり、善とは神のことである
そして神とは普遍である
果たして普遍が導き出すのは幸福かそれとも成功か?
ここはこの私論全体の根幹的な部分でもある、したがってここでは人は「如何に生きる」べきか、が問われ、「何を為す」べきか、は二次的な課題となっている
さらに言えば「如何に生きる」にはあって「何を為すに」はないものがある、それはオリジナリティ、つまり個性の尊重である、故にそれは結果ではなく過程を重視することになる
そして個性もまた幸福と同様、そこに一万人いたらそこには一万通りの個性があるのである、だから芸術が私たちには必要なのだ、芸術は決して「無用の長物」、「それがなくても済ませられるもの」ではない、それどころか芸術がなければ直ちに民主主義が損なわれることになる、なぜならば芸術とは自由をこそ志向し自由とはそれが権利である限りにおいて第一に権威に抗うべきものであるからだ、民主主義は芸術と実に密接な関係にある、伴に自由をこそ担保しまたそれを支持する人々はしばしば「利」をこそ優先させようとする人々と合法的に戦わなければならない、自由への闘争である
「利」は「霊」に反しているが故にそれを奉じる人々は悲劇を経験しない限り奇跡から遠く故に沈黙を知らず常に多弁である
ここには当然ポピュリストたちが来る、彼らは霊を知らず、明を知らず、善を知らず、神を知らず故に得ることがない、だがこの21世紀IT革命の申し子たちによって拡大の一途にある貧富の格差はポピュリストたちを支持する人々にある種の覚醒をもたらしているようだ、それは以下の言葉でもおおよそ説明がつくのかもしれない
不条理な現実
だがそこに生じた隙間を埋めるのはきっと富ではない、では何なのか?
帰郷、または回帰、かつていた場所へ帰るである
(5)
故郷に帰るということ、これは「循環」のための第一歩でもある、そしてそれは夢と矛盾しない、なぜならば夢を追うとは第一に個性に忠実であるということであるからだ
個性とは何か?
存在のことである
存在とは何か?
多様性のことである
多様性とは何か?
相違のことである
相違とは何か?
自由のことである
自由とは何か?
調和のことである
調和とは何か?
美のことである
美とは何か?
善のことである
善とは何か?
神のことである
そして神とは普遍のことである
果たして普遍とは「循環」のことであろうか、それとも「拡大」のことであろうか?
きっとこういうことだ、夢追い人はいつか原点に回帰する、なぜならば0が1になる瞬間に現れるものだけが夢としての普遍性を宿すことができるからだ
夢追い人の条件はたった一つしかない
「好き」を実践すること
厳密にはそれ以外は夢以外の要素に最終的には吸収されることになる
「好き」に忠実な者だけが乖離(善からの)とは無縁のその瞬間を知ることになる、そして彼または彼女はようやく成功から幸福へと回帰していく、つまりNakedに戻ることになる(2018/04/14)
誰もが無一文から出発する、またそうでなければならない、0が1になる瞬間を経験して初めて人は夢というものが人生においてどのような意味を持つのかを知ることになる、だがそのためには「好き」を知らなければならない、だから感受性豊かな時期(14歳から21歳くらいまで、いずれにせよ非常に短い)に様々な経験をする必要がある、だが現実にはこの時期は予定調和と瞬間熱に振れやすい時期でもある、無論その中に普遍的な何かを見つける(ハリウッドのエンターテイメント性の強い映画を見てメイクアップアーティストを志すなど)少年少女もいるが、おそらく「好き」は一人で見つけるものだ、集団であることが優先されすぎると気が付いた時にはすでに22歳になっているかもしれない
かつては人生に必ずしも夢や目標は必要ではなかった、なぜならば若くして亡くなる人も多かったからだ、故に生き急ぐことでしか自分を確認できなかった若者たちも多かったかもしれない、そこでは「明日では遅すぎる」が説得力のある言葉であり彼らにとってはジェームス・ディーンがヒーローだった、だが今時代は変わろうとしている、青春は一度しかないが人生は二度あると考えられる時代になろうとしている、では何が私たちを「より良い」人生へと導くのか?
夢である
感受性の強い時期に「自分が何を好きで何をやりたいか」を見つけることができた者だけが、五十歳になり「老い」が始まった時に十代の頃に聴いていたポップソングの中に知らず知らずのうちに紛れ込んでいた秘密の暗号の解読に成功するのである、なぜならば感受性の強い時期に「好き」の対象になっていたものは年を取らないからだ
夢は古びない、そこに嘘がない限り彼はいつでもかつての感性に準ずるものをかつての夢の名残の中に感じ取ることができる、もしかしたらこれは七十歳を超えてもそれほど変わらないのかもしれない
また自分が変わらなくても時代が変わる、ここでまたAIが登場することになるが、科学技術の成果の中に永遠を感じ取ることができるか否かにかかわらず、子供たちの瞳は自由をこそ志向した人々に結局は向けられるのかもしれない、なぜならばAIを含め科学技術の成果はこれを担保しているからだ
多様性
そう、AIは多様性の尊重に適っている、だから誰もこれを否定することができないのだ、「多様性の尊重」は「可能性の追求」に似ている、そこでは「普遍」や「真実」や「未来」などといった言葉が付随する概念として必ずや登場し、そこにあるべき理想を支える重要な役割をその都度果たす
諸君おわかりのようにこれらに続く言葉は民主主義でありまた芸術である、人生百年の時代の到来を幼少期にすでに知っている2020年代生まれの日本の少年少女たちは現実を理想に常に優先させることによるリスクを人類史上初めて知る子供たちとなる、彼らは変わりゆく時代に取り残された、夢を知らなかったが故にこれから生まれてくる人々に言葉を残せない七十代以降の人々を多く見かけることになる、彼らは安定を選んだが故に生活には困らないが、「早逝しなかった」ことの不遇から解放されることがないまま死を迎えることになる
超高齢化社会はきっとどこかで人生観の一大転換期の必要性をそれを迎える人々よりもそれを見送る人々の側に喚起する
このままではいけない
そこでは「より速く、より多く」に代表される「利便性の追求=豊かな未来」の図式が下からの改革により変化を迫られその時点までに君臨していたエリートたちとは異なる選択を18歳の若者たちに何らかの形で強いるかもしれない
だが思い切って言えばそれは良いことなのだ
目から鱗が落ちる
甚だ僭越ながらこれはそういうことだ、私たちの頭上を華々しく日々旋回していたIT革命の申し子たちが生み出したいわゆる文明の利器とそれに付随する
アプリは私たちの耳目を奪いすぎたが故に少年少女たちが人生を俯瞰したときに必ずや経験するはずのものを見落としていたようだ
それは以下の言葉でも表すことができる
人はパンのみにて生きるにあらず
ここでは「好き」が「下から上へ」の望ましい動きの結果最大限の普遍性の獲得に成功している、無論スティーヴ・ジョブスが世界初のPCを発明したときも彼はこの範疇に入っていた、だが通信革命インフレーションは冷戦終結を経て誰も想像すらしていなかった領域に高速で突入してしまった、だが恍惚とはそういうものだ、それは突然始まりにもかかわらずそれを拒むことは極めて難しいのだ、そしてヴァーチャルというキーワードがすでに広まっているのに手に触れることのできない仮想現実に警鐘が鳴らされることはない
なぜ気づかないのだろう?
仮想は大金(しばしば巨大資本)がそこに自由を得ない限りは意味を持ちえないものだ、つまり仮想は拡大していくよりほか方法がない、ストップすれば恐慌となる、だから大量中毒が起こり、精神の破産が起こる
極めて単純な数式だ
X=a+b+c+d……
Xは限界値になるまでそのスピードを緩めることができない
きっと1850年代のゴールドラッシュの時も、1929年の世界恐慌の時も同じだったに違いない(この時は内部留保ではなく累積債務だが、つまり針がどちらに触れても同じ)
一定の熱を保ったまま膨張し続けるものはそれが集団化したときには誰もそれを止めることはできない、そしてその最悪のケースとして想定されるのが戦争である、「利」の可能性が0にならない限り誰かが参入してくる
したがって破綻が公式のものにならない限りゲームはエンドレスとなる
ではそうならないためにはどうすればよいのか?
何度も繰り返さなければならないであろう
回帰
私たちは回帰していくしかない、そうでなければ破綻の次のものが待っているだけだ
それは何か?
それはわからない、私は回帰だと考えているので、それ以外の言葉をここに記すことはできない、誰かそれは庇護者と名付けるにふさわしい人だが、そのような人がいつか現れてその人がまるで伝道師のように私たちの進むべき未来を指し示す必要があるのであろう、だが現時点では風速が激しくまたそれを無視するとしても一部のセレブリティの積極的譲歩がそこにない限りきっと理想への歩みは短期間で頓挫する
だから現時点ではそのような庇護者が現れるだけの環境の維持に日々努めるしかない、その環境とは民主主義のことである、そして民主主義とは薄氷の上の存在、したがって私たちは現実が社会的に劣化していかないように民主主義の脆さをわかっている人々こそが連帯して最低限の文明だけは次の世代へと引き継がせなければならないのだ(2018/04/16)
ここで回帰が(二十一世紀型の)民主主義と矛盾しないことを論理的に説明する必要があるのであろう、それほどまでに現在の民主主義の精神的基盤は私には脆弱なものにしか映らない、しかし回帰が民主主義と矛盾しないことを説明するにはまず「今」を生きる私たちがそのすべての言動の基礎となるべきものにある共通の理想を一定量包含させなければならない
その共通の理想とはこれである
次の人のための……
そう、「今」を生きる私たちは皆例外なく前世代と次世代との中間域においていわゆるバトンの引継ぎ役を務めているに過ぎない、したがって当然ながら現存するエネルギーの費消についても常に抑制的でなければならないし、また政治、経済的な仕組みの変更についても大胆さを排除しなければならない
しかしこの部分が曖昧なまま議論に入ると当然ながら自国ファーストを唱える人々がにもかかわらず声高に権利のみを主張する有権者たちの支持を得ていつしか議論の主導権を握ってしまうかもしれない、だからそうならないためにもこの「次の人のための……」は僭越ながら譲れない線なのである
ではこの部分を確認したうえで次へ進もう
回帰は第一に多様性とインタラクティヴ(双方向通行)を担保する、人、物、情報の流れが中央から地方への一方通行を脱するのだから当然である、そこでは庇護者を名乗るにふさわしい人々かまたは然るべき牽引者となるべき人々の登場が条件にはなるのであろうが、そこに一つの流れが出来上がることによって以下のワードが説得力を帯びることになる
循環
これは信仰を度外視してもそのままここに記すことのできるワードである、故に「回帰=循環」という定義もまたおおよそ成り立つのではあるまいか?
これは何度も述べている「今」を生きる私たちの抱える二つの課題、貧富の格差問題と環境問題を解決に導くうえでも決して外すことのできない概念でありワードである
循環とは曲線である、そして曲線とは「再起を期すことが可能」ということである、人生と同様すべては一周して始点とほぼ同じ地点に戻ってくる、したがってかつての自分を顧みるためにも夢が必要なのであり、また「チャンスが巡ってくる」かもしれないので諦めてはいけないのである
なるほど拡大型の社会はしかし既存の価値観に従順でありそして大人たちが納得する結果を残してきた二十代の人々にはむしろ好ましいものなのかもしれない、ここではもしかしたら急速に保守化しつつあるのかもしれない若年層に対する批判を繰り広げることになるが、どうかもうしばらくご辛抱の上お付き合い願いたい
保守化する若年層________________だとしても簡単に彼らを責めることは難しいのかもしれない、きっと利便性の追求が生んだビジネスチャンスの複合化はかつてはノーチャンスだった人々にも一定の希望を持たせることに成功した、クラウドソーシングなどはその代表的なキーワードであろう
ここでは経済全体のパイが減少しているにもかかわらず利便性の向上による生活の質の上昇がおそらくスマートフォン登場以降の若年層に確固たる経験として根付いていることが指摘される
彼らはこう思っている
チャンスは減っているが、選択肢は増えている
これはどういうことか?
情報の共有化はこの2018年4月22日現在ではおおよそ達成されていることである、選択肢が増えていることが実はヴァーチャルなのだとしても、すでに述べた「最大の富は最先端を走るものからのみ生まれる」の最先端に彼らが位置していることを現実は示している
これまでは最先端を18歳が走ることはなかった、そこには一定の知識や経験が必要不可欠だったのだ、だがYou Tuberに代表されるように18歳の億万長者の出現はもはや時間の問題である、そしてそのことを今の若者たちは肌感覚で知っている、果たしてFace Book、Netflix、Amazon、Googleに続くのは誰か?
いずれにせよ若年層からそれは生まれる、二十代が五十代以降を制する、人類史上初ともいえる現象が間近に迫っている、無論すでに述べたようにAIの登場は歓迎すべきことなのだから、IoTも基本的には肯定されるべきものだ、だが序でも述べているように「急速なIoT(ITツール及びアプリの普及による生活全体の利便性の向上)の普及による精神の過度な世俗化」は「文明=Creation+Imagination」の本質に関わる問題となる、そしてこのような事態もまた人類史上初の現象である
ここにも「隙間」と「脈絡」が出てくるが、もし回帰が現実のものとならなければ人、物、情報の中央から地方への流れ、つまり一方通行は何ら変わりがないということになり故に若者たちはそれらを求めてさらに都会へと流入していくことになる、そして現時点ですでに「隙間」と「脈絡」を失いつつある大都会はさらにそれらを失っていくことになる、だがCreationもImaginationもいずれもこの「隙間」と「脈絡」から生まれてくるのである
それは小説家でも作曲家でも画家でもデザイナーでもいい、創作活動に疲れたときに彼らはどこを目指すのであろうか?
この答えは任意のものであり私が特定することはできない、だがいわゆる創作意欲というものは程よい緊張と弛緩の連続からのみ生まれるということはある程度の社会人経験のあるものならば誰でも理解できるものだ、都会はそこに住む人に緊張を強いないだろうか、ならばCreatorは最終的にはどこを目指すのか?
しかしそれでもビジネスに関するチャンスが減っているにもかかわらず選択肢は増えていることを知っている若年層の都会への流入は増える一方であろう、そして二十一世紀型民主主義のキーワードは以下のようなものであることに変わりはないであろう
『「効率性」は「多様性」を同時に担保するもの以外価値を持ちえない』
おそらくAIがそれを証明する
そして若年層の過半数はすでにそのことに気付いている
つまり「急速なIoTの普及による精神の過度な世俗化」に警鐘を乱打するはずの人々こそがそこにある利益の享受者となる(チャンスは少ないが)ために、結果的にせよ彼らは現状を追認する人々となるのである
しかし二十世紀まではそうではなかった
利益享受者は若年層ではなかったのだ、だが最早そうではないことをYou Tuberがすでに証明している
利益享受者≠若者たち(以下この章ではNとする)
改革のためにはこのNが不可欠であった、利益を享受できないからこそ精神性を重視したのだ、だがすでに述べたように「精神主義と商業主義の中間点を模索するクリエイティヴな活動」はおおよそ失敗に終わっている
ジョン・レノンがいみじくも述懐しているように”Dream is over”なのである
そして保守的な若者たちが生まれた
甚だ僭越ながらここからは個人的なそしてこの書を記すうえでの重要な動機となった私自身のメッセージを記すことになる
チャンスが減っているにもかかわらず若年層から多くの利益享受者が生まれつつある現状に敏感に若者たちが反応するのは致し方ないことだ
では誰が”Can’t buy me love”歌い継いでいくのか?
五十代である
ここに私がこのような書を記しているその核心がある
この2020年前後の五十代はNを経験している、故に「精神主義と商業主義の中間点を模索するクリエイティヴな活動」の重要性を認識できている、さらに人生百年の時代がここに加わる、五十代が今その果たすべき役割を果たさなければ当分の間続くであろう「利益享受者=若年層」の流れは保守的な若者たちを生み出すことにしか成功しないであろう、果たしてそれで民主主義はどうなるのか?
すでに「次の人のために……」が重要であると書いた
だがバトンを受け取ったはずの若年層がそうであってはならないのに保守化しつつある、無論ここではあくまでも「より速く、より多く」から「より寛大に、より慎重に」、つまり「拡大」から「循環」への必要性を繰り返していく他ないのだが、そこに希望が見えないのであれば私たち五十代は今一念発起して今の二十代に代わって何らかのメッセージをこれから生まれてくる人々に残す必要がある(2018/04/22)
(6)
ここで少し話を転じよう
想像していただきたい
今貴兄は自動車を運転している、そして現在地から目的地までに信号が四つある、さてデジタルを知る貴兄ならばここでどのように考えるであろうか?
ナビがあるスマートフォンがある、当然貴兄は四つの信号に一度も引っかかることなくつまりすべて青信号で交差点を通り抜けることが最も合理的かつ効率的と考え、そのようなプログラミングこそが望ましいと考えるであろう、そしてデジタルはそれを可能にする
だが私はこう考えるのである
ナビもスマートフォンも関係ない最も望ましいと自分が思うその瞬間にスタートする、当然そこに計算は含まれていないので四つの信号のうちいくつかで赤信号に捕まる、だがここが重要なのだが、それでいいのである
赤信号に捕まったらその都度その時点で最も望ましいと思える選択をするのである、「待つ」もよし「迂回する」もよし
ここは当然シミュレーションなので現実的な理屈は抜きにして話を進めたいが、個々でのキーワードは「アソビ」でありまた「気持ちの柔軟性」である
赤信号に捕まった
では他の選択肢を考えてみよう
当初の想定とは異なるが、もしかしたらそこに何か面白いことが潜んでいるかもしれない
さらに言えば私はこう思う
わざと赤信号に捕まってみるという方法もある
つまり「順調」を「わざと崩す」のである
実はここには記すべき重要なワードがある
それは「拮抗」である
この言葉を頭の片隅に置いたまま諸君読み進んでいっていただきたい
「順調」は正である、諸君、異論はあるまい
「滞る」は負である、これもまた異論はあるまい
そしてデジタルは正を100とすることを究極の目的とする
つまり「究極の利便性の実現」である
だがそれでは最も望ましい状態は現出しない
最も望ましい状態とは?
正と負の拮抗状態、である(以下この章ではOとする)
私たちの最も望ましい未来はこのOの延長線上にある、なぜならばOによって以下の状態が現出可能となるからである
『「効率性」は「多様性」を同時に担保するもの以外価値を持ちえない』
ここに二十一世紀型の民主主義の最初の克服すべき課題がある
もしデジタルがほんとうに「成功」を目指す人々にもまた「幸福」を目指す人々にもその両方に等しいだけの恩恵をもたらすことができるのであれば、デジタルが普及すればするほど「多様性の尊重」は現実味を帯びたものとなるはずである
さてここで先ほどの四つの信号に話が戻る
デジタルはそれら四つの信号をすべて青信号で、つまり一度も車を停止させることなく通り抜けることを理想とするはずだ、だがおそらくそれでは「効率性」には合致するが「多様性」に合致するかどうかは意見の分かれることとなろう、無論、民主主義という政治的な制度や枠組みにそもそも懐疑的な人々はここで異なる見解を持つのであろうが私は民主主義を肯定する立場をとっているのでここは容易には譲れない線でもある
「滞る」も「うまくいかない」もまたそのほかのすべての負も、望ましい未来のためには実は正と判断される諸々のものと同様に重視されなければならないのである
なぜならば、そうすることでこれが生まれるからだ
工夫
無論すべてがうまくいくなどということはあり得ないのだが、理論上このような考察を展開することはこれから生まれてくる人々が果たしてデジタルネイティヴ第一世代に単純に追随していくかどうか私は大いに疑問であると考えているので、もしかしたらこれから生まれてくる人々が今から数十年後にこの私論を読むようなことがあるのであれば、そこで何らかのインスピレーションを喚起させられることもあるかもしれないとも思えるために、このようなことをここに記すこともそれほど無駄ではないようにも思えるのだが、諸君、いかがであろうか?
「効率性は同時に多様性を担保しない限りそれは価値を持ちえない」が二十一世紀型民主主義の発展に欠かせない条件になるのであれば、私たちは工夫の重要性をこそ認識し続けなければならない
では「工夫」の重要性を認識し続けるとはどういうことか?
それは実に簡単明瞭である、これを見つければよいのである
夢
そこに工夫がない限り夢は実現しない
夢は成功を必ずしも担保しないが、幸福はかなり高い確率で担保する、そして夢を持つことで人生とは結果がすべてではないということも同時に確認することができるのである
結果がすべてではない
また四つの信号である
結果がすべてではないのであれば、そこには『「滞る」や「うまくいかない」を肯定的に捉える』が自然混じることになる、そして夢追い人は繰り返しこれを試みることになる
工夫
だがそこにある夢が確かに「好き」の産物と言えるのであれば、彼はほぼ間違いなく幸福行き列車の最終便には乗れることになる
確かにその最終便に彼は一人で乗ることになるのかもしれない、夢追い人はいつも孤独と隣り合わせ、だから時に「好き」が「取引」に変化することもあるのかもしれない、しかしそれでも幸福を優先させることができるのであればきっと彼はこれを得る
オリジナル
これは評価にもつながるワードなので「夢」を重視するのであればそれと同じくらいの価値をそこに見出すべきなのかもしれない
きっとcreationもimaginationもそれが歴史に名を刻めるほどの価値を有するには評価をこそ得る必要があるのであろう、評価は予定調和や瞬間熱とは異なる次元において定まっていくために、真のcreatorは現実にしばしば歯がゆさを感じずにはおられないわけだが、しかしデジタルが「正と負の拮抗」を崩し続けようとするのであれば、望ましい未来にあるべき理想の均衡状態はかなり偏ったものとなる虞がある
理想が現実なしでは成り立たないように現実も理想なしでは成り立たないはずである、したがってそこには理想と現実の最も望ましい均衡状態が現出しなければならない、そしてデジタル技術が人類史上最大の発明であり故に最も象徴的な転換期を演出することが可能なのであれば、デジタルは文明(=creation+imagination)をさらに望ましい方向に一段と推し進める役割を果たさなければならない、だが果たしてそうなるのであろうか?
もしそうなるのであれば二十世紀とは異なる方程式がすでに通用していなければならないはずであるし、またそれは①貧富の格差問題も②環境問題も伴に解決に導き得る可能性を有していなければならないはずであるが……
またまた四つの信号である
ナビやスマートフォンを使えば四つの信号に一度も捕まることなく目的地に辿り着くことができるはずであるが、私は敢えてそうしない方を選びたい
なるほどここには主体性の喪失の回避も見え隠れしているが、同時に望ましい民主主義の未来をも包含する要素がここにはあるように私には思えるのである
そう、すでに記した「アソビ」と「わざと崩す」である
この重要性はデジタルでは担保されないものだ
「手を汚す」などもよい表現である
敢えてそうする(しない)
ここでは負の肯定が善的な要素を伴って、効率性重視故に究極の理想に反する方向に悪意ゼロのままであったとしても、進んでいこうとすることに警鐘を鳴らしている
また「うまくやる(そのためにデジタルがある)」が「(負さえも)楽しむ」を大幅に凌駕することに対する重大な危惧もここでは指摘されうるのであろう、ここで獲得されるべき精神の幅の広さは多様性の尊重を考えたときにどうしても外せない「待つ」から生じる優しさを担保している(ここには勇気もしばしば混じる)ため、この私論ではやはり強調せざるを得ない
すでにNではなくなったが故に若年層に保守化の傾向が見えると書いたが、ここにもっと「抗う」を認めることができるのであればこの辺りの表現もそれほど棘棘しいものにはならないはずなのであるが、やはりNを知る五十代が今担うべき責任というものは小さくはないのかもしれない(2018/04/26)
最先端を行くものだけが最大限の利益を得る、故に僅かでも上を行ったものがそこにある富のほとんどを独占することができる、だがそれはチャンスの公平性という以前に精神的な意味での望ましい未来のあるべき私たちの在り方に疑問を呈することにつながりはしないだろうか?
これは貧富の格差の一層の拡大とは実は一線を画する問題でもある、では何が問題なのか?
おそらくこれである
二十一世紀型の望ましい民主主義の在り方
ここは用心しないと過度に論調が政治的になる虞があるが、ここでは先にキーワードを述べてから先に進もう
引き際の美学
ここは「引き算の美学」でもよいかもしれない
すでにデジタルは正を100にすることをその究極の目的とすると書いた、その前提で行けばそこでは比較的高い確率で引き算は軽視される可能性が高いであろう、なるほど今時代はテラフォーミングへと一気呵成に流れている、ここで「引き際の美学」とは「最先端」を行くものにしか興味を感じない人々にとってはそのような文言が記されること自体奇異に感じるであろう、だが「多様性の尊重」がすでに何度も記している二十一世紀を生きる私たちが抱える二つの問題の解決のための糸口を提供してくれるのであれば、少なくとも精神的な意味での望ましい私たちの未来の姿はテラフォーミングと必ずしも一致しないところにあるのかもしれない、なぜならばテラフォーミングは以下の言葉を連想させないからだ
循環
むしろテラフォーミングから連想されるワードは「拡大」である(当然火星が最終目的地ではない)
そして拡大がそれでも多様性の尊重を否定しないのであれば当然そこでは「この二十一世紀、効率性は同時に多様性を担保するものだけが価値を持つ」となるはずである
ここですでに記したワードが再登場する
順調をわざと崩す
何のために?
多様性の尊重のために、さらに言えば二十一世紀の健全なる民主主義のために
そこでは「より速く、より多く」に代わり「より寛大に、より慎重に」が社会的により多く認知されていくことになる、そして時間の流れが最も望ましい「効率性」と「多様性」の均衡状態においてそれ以上のスピードになることなく維持され、故に自然に以下のことが実現可能な状態に近づくことになる
格差の解消
この書は高度デジタル社会による精神の過度な世俗化にストップをかける目的で書かれ始めたものである、故にデジタルネイティヴ第一世代には理解の難しい内容となっているが、格差の解消とは最終的には私たちの心の問題なのである
壁ではなく橋
では橋とは何?
それは心の問題であるがためにその答えは自身で見つけるしかないが、そのためのキーワードはすでに記している
「アソビ」でありまた「気持ちの柔軟性」
ここには「待つ」も来る、だから四つの信号のたとえ話になったわけであるが、デジタルの世界には大都市同様「隙間」と「脈絡」がある意味絶対的に欠けている、これはcreationにとってもimaginationにとっても決して良いことではなく故に文明にとっても良いことではない、だが誰によっても警鐘は乱打されていない、だから未来人への手紙になるのであるが、四つどころか「その途上にある信号(障害物)のすべてに一度も引っかかることなく目的地に到達する」(以下この章ではPとする)ことがすでに可能となる時代に突入している、単純に考えればこれは良いことだが民主主義をキーワードに考えればこれは必ずしも良いことではない、デジタルはPが日々連続して可能になることを保証する、私にすればこの恐ろしい未来はしかし支持率100%のまま当面は進んでいくこととなる、だからこれから生まれる人々がそこに何らかの疑問を差し挟む必要があるのである
新しいものとは「昨日まではなかったもの」のことだ、だが2018年以降生まれの人々にとってデジタルは必ずしもその範疇には入らない、果たして彼らは何を新しいと思うのだろうか?
ここに一かけらの希望のようなものがある、ここからは古典が登場することとなる、古典とは如何なる分野であれ歴史の荒波を潜り抜けることに成功し今もなお価値(少なくとも一定の)をもってそこに存在しているものたちのことだ、そこでは時間が実に緩やかに流れているために、結果的にせよ「効率性」と「多様性」の均衡状態に近いエスプリ(ここでは古典に代表されるような知的な価値を持ち、また「教養」という言葉から連想されるような高い精神性を漂わせる雰囲気およびその印象のようなもの、文化財や歴史的建造物等も含む)を感じ取ることができる
「より速く、より多く」が当たり前のデジタル社会において古典の果たすべき役割は実に大きく、それに2018年以降生まれの人々がもし気付くことができるのであれば、僭越ながら世界が正気を取り戻すそのきっかけにもそれはなるのではなかろうかと思う(2018/05/02)
(7)
きっとこういうことだ
上昇すればするほどそれとは真逆の運動が必要になり、またスピードが増せば増すほどこれまたそれとは逆の速度の運動が必要になる、すべては二つで一つであるため、アクセルが強力なものになればなるほどブレーキもまた強力なものにならなければならない
つまり「より速く、より多く」が人間の持つ諸々の能力が処理できる速度、範囲の限界値近くに達しようとしている今、それとは真逆のそして同等のエネルギーがそこにおいて担保されないのであれば、まさに何らかの注意信号が灯るべきである、だがそれをできるのは若者たちではない、Nは過去のものとなり故に今若者たちは上しか見ていない、では誰がそうするべきなのか?
五十代の人々である
感動は必ずしも量に比例しない
だがこの2020年前後、十代、二十代の若者たちにこれを説くのは容易ではあるまい、現にIT革命の申し子たちが稼ぎ出した金額はアラブの石油王をも凌ぐ数字となっている、小国家の国家予算に匹敵するストックを持つ者が質の僅かな変化に敏感になるであろうか、「下り」のないエレヴェーターに乗ったら最後、後は彼が選択したものと文字通り運命共同体、極論すればそこには天国か地獄か、そのいずれかしかない
もし人生が螺旋階段の如きものであるならばそのてっぺんまで行ける者を除いて皆幸福の天敵である「比較」の犠牲者となる、またてっぺんまで行くことができた者もそれを維持するために取引に次ぐ取引となる(いったい誰との取引?)、そして最終的にはこうなる
私はいったい何をやりたかったんだろう?
すでに夢追い人にとっての最大の悲劇は「叶えた夢と夢見た夢が乖離しているにもかかわらずやり直すことのできないことだ」(以下この章ではQとする)と書いたが、果たしてこの悲劇は金銭で代替することが可能なものなのであろうか?
僭越ながらデジタルによる成功はこのQにより苦しむ人を倍増させるかもしれない、なぜならば若くして大金を目の前にぶら下げられたとして、それに抗うことができる者などほとんどいないと思われるからだ、これまではNであったためこのような実例はほんの僅かであったが、これからは変わるであろう、果たしてポストYou Tuberはどれほどの数字を短期間に弾き出すであろうか?
その時世界はこうなる
感動は必ずや量に比例する
22歳で一億ドル稼いだ男は果たして人生で重要なのは量ではなく質だということに気付くであろうか、もし気付かないのであれば彼はその成功体験をどのようにその後継者たちに伝えるであろうか?
すでにこう書いた
「商業主義と精神主義の中間点を模索するcreativeな活動」は悉く失敗に終わっている感があると
また「商業主義と精神主義の中間点を模索するcreativeな活動」とは骨格(個性+感性)が大衆に譲歩可能なぎりぎりの線まで行って引き返すということだとも書いた
だがデジタルは私たちからとうに隙間を奪ってしまっている、さらにNが否定されることで私たちはそこにある成功に疑問を差し挟むことさえ難しくなるかもしれない
その時に頼りになるものは何か?
古典である
なぜか?
そこでは時間が実に緩やかに流れているからだ
強力なアクセルには強力なブレーキを
甚だ僭越ながら歴史のない(または否定している)国に暮らす人々に古典の意義を再認識させるのは容易ではないかもしれない、古典はそこには多数の尺度があってもよいことを教えてくれる、だから歴史を学ぶと人類が行ったり来たりを繰り返しているように思えるのである、音楽もそうである、モーツァルトはJ.Sバッハより新しい、そしてショパンはモーツァルトより新しい、だがにもかかわらず音楽家たちはモーツァルトから学べないものをJ.Sバッハから学び、またショパンから学べないものをモーツァルトから学ぶのである
これはどういうことか?
この謎はこの言葉で理解できる
循環
すべては循環しているため、新しいものはその前にあったものをある意味破壊して前例のない価値をそこに築くが、にもかかわらず古いものはその価値を減ぜられることがないのである
どういうことか?
つまりそれは壁のようなものだ
すでにある壁の前にそれよりも高い壁ができると古い壁は見えなくなる、だが古い壁がなくなったわけではない、つまり古いものに新しいものが取って代わるのではなく、すでにあるものと私たちの間に模倣ではない彼のオリジナルを新たに築くだけなのである、そう見えないのはこれに目が奪われているからだ
商業的な成功
だがここで着目すべき言葉はすでに記しているこれである
骨格
骨格を知る者は壁と壁に共通する要素を敏感に嗅ぎ取る、そしてすでにある壁の向こう側にさらに古い壁がいくつもあることを知るのである、古くなればなるほどそれはより静止しているように見える、故に骨格はそこに自然に橋を架けるようになるのである
個性が築く壁を感性がもたらす橋によってつなぐとき作品が生まれ、それらのうちのいくつかが新たに古典の仲間入りを果たす、だから私たちは古典を学べば学ぶほどそこに永遠というものの切れ端のようなものを感じ取ることができるのである
壁は無数にあり故に橋もまた無数にある、だがそれらの橋を渡り次いで現在まで生き残ったものは少数だ、古典とは歴史のことである、そしてすべては二つで一つであるため新しいものを知れば知るほどそれに応じてその逆つまり古いものを知る必要があるのである
だがきっと骨格を知らない者は壁を知っても橋を知ることはない、なぜならば古典を知ることは以下の文言に反するからだ
感動は必ずや量に比例する
古典の世界では感動は必ずしも量には比例しない、むしろ質に比例する、だから音楽でも文学でも映画でも感動したらもう一度それを経験する必要があるのだ、優れた作品はすべて単体で成立するように見えながら実はその背後でそれよりも古いいくつもの作品とつながっているのである、そしてそれを知るには骨格を知る必要があるのだ、つまり十代の感受性豊かな時期にある程度自分探しを行って「自分が何を好きで何をやりたいか」を確認しておく必要があるのである(2018/05/04)
だがそのためにはある程度の孤独の瞬間を経験する必要があるのかもしれない、「自分探し」がなぜ必要なのか、それを経験することで夢を発見できるからだ、さらに言えばこの人生百年の時代、「老い」を迎えたときに青春期の夢がなければ人生を一周して次の周回に向かうときにかつての自分に思いを馳せるということができなくなる、それは第二の人生を豊かなものにするためには、もしかしたら致命的な何らかの価値の欠損を彼の人生にもたらすかもしれない
だが夢は幸福と同様、そこに一万人いたら一万通りの夢があるのである、だから孤独を嫌うものは数字による裏付けを求めようとするのである、また孤独を嫌うものは序列も肯定するかもしれない、おそらく人生百年の時代、序列に従うつまり勝ち組に入ろうとすることは、そこに多大なる自己犠牲がすでに生じていたとしてもそれは必ずしも保障や保険の充実にはつながらないのではないかという気がするが、幸福を考えたときに必ずや遭遇することになるであろう言葉、「個性」や「感性」はしかし抗うことを知らず青春期をやり過ごしてきた人々には理解することさえ容易ではないのであろうという気もする、そこではデジタルによる過度の精神の世俗化がしかしその一方で諸々の分野において天文学的な数字も弾き出すために、「商業主義と精神主義の中間点を模索するcreativeな活動」はさらに絵に描いた餅となる、おそらくジョン・レノンはその辺りのところをよくわかっていたのではなかろうか、彼のソロの初期の楽曲に”Cold Turkey”という曲があるがあの曲などを聴くと、彼のポップ(大衆的という意味)でありすぎると却って消えてしまう個性を何とかして蘇えらせようとする姿勢が窺えるような気がする(それは当時ロックンロールにだけ可能なことだった)
時代の流れにはおそらく反しているのであろう見る角度によっては天邪鬼的ともいわれかねない反ポップな時に攻撃的でさえある作品
すでにそれを理解するためのキーワードを私は記している
前衛
そう、デジタルツールの普及による精神の過度な世俗化、そしてそうなることによって商業主義には合致しているが精神主義には反している一連の作品群が生まれることになる、だがそれはこれに反しているのである
効率性は同時に多様性を担保するものだけが価値を持つ
甚だ僭越ながらこれは理想的な二十一世紀型民主主義を考えたときに外せない概念である、なぜならば数字の追求により重視されるべきマーケティングの理論はproducerを育てることはできてもcreatorを育てることは難しいように思えるからである、無論ここにはリスクがある、というのも民主主義を肯定している以上、その方面の知識が十分でない者も多数参入してくる恐れがあるからだ
故に民主主義とは常に更新されていかなければならず、また権利としての自由はすでに記したように「自己を理想的に規律する」でなければならない、だがデジタルはそれを可能にするであろうか?
この辺りを円滑に理解するためにはやはり信仰が顔を覗かせなければならないが、つまり利には沿っていても理には反している行為や発言を否定するための基準が必要になるのだが、そのためにはある種の戒律や秩序による、またはプライドという言葉で表現されるべき自分という存在の善的な意味での確立が不可欠ということになる、しかしデジタルが暗示する未来は明らかにそれとは真逆の方向を向いている、もしデジタルネイティヴ第一世代が無意識のうちにも感じ取っているのであろうそこに漂う永遠の若さのようなもの(最新のものは常にそれを受け取る若者たちにこう思わせるのだが)が現実のものになったとしても、デジタルがポップになりすぎると消えてしまう個性を十分に掬い取ることができないのであれば、それは経済、文化相互不可侵の法則に反しているということになる
では経済、文化相互不可侵の法則とは何か?
文化と呼ばれるものの内芸術の域に達するであろうつまり普遍的な価値を持ちうる静止しているように見える一連の作品群は経済的な原則を無視したところにおいてこそ成立するということである、そして商業における正論が芸術の世界においてその世界と同程度の価値を有してはならないということである
ここでは古典が肯定され予定調和や瞬間熱が否定されている
だがここで重要なのは実はこの法則の初期の破壊者の筆頭に来るのがビートルズだということである、どうしてもこの言葉がここでは繰り返されることになる
商業主義と精神主義の中間点を模索するcreativeな活動
“Can’t Buy me love”とはつまりそういうことだ
ロックンロールは精神の過度な世俗化をストップさせることが目的だったのではない、その目的は「金は欲しいが魂までは売らない」であった、そしてこれはロックンロールが極めて短命であると思われていた1960年代初頭においてのみ有効なスローガンでもあった
ここでようやく「商業主義と精神主義の中間点を模索するcreativeな活動」はかつてはすべてのcreatorたちのスローガンでもあったと言い切ることができる、だがデジタルがそれを破壊し始めているのだ
なぜか?
Nが成立し始めたからだ
「最早誰でも億万長者になれる」である
才能や技術は置いてきぼりであり、また「個性+感性」はマーケティングの理論を覆すほどの価値を持ちえないである、デジタルとはチャンスの平等でありそれは即ちインタラクティヴを意味していたが、果たしてこの2018年現在地方の寒村に住む者たちにもチャンスは平等に与えられているのであろうか?
「多様性の尊重」と「均一と均質の肯定」
本来デジタルは前者の側に立つべきだ、しかし商業と容易に結びつくであろう後者の側に今デジタルは立っている(ポケモンGOに参加できたのは健常者たちだけ)、そして”Can’t buy me love”は復活することなく、2020年前後の若者たちはビートルズを知らない、だが日常のデジタル化による過度の精神の世俗化が二十一世紀の理想的な民主主義の在り方にも何らかの負の影響を与えることが危惧されるのであれば、当然誰かが警鐘を鳴らさなければならない
ではそれは誰の役割なのか?
五十代の役割である(2018/05/06)
(8)
芸術における普遍はしかしその一方で宗教的な意味での普遍と通底している部分がある、だがそれはそこにある価値が「数えられないものの価値」に明確に属していることが誰にでも認識できるからであり、したがってそこに「数えられるものの価値」が入り込める余地は決して広くない、そしてかつては商業的に成功した一部の大衆的な芸術作品も「数えられるものの価値」と「数えられないもの価値」の中間においてそれらに相応しい役回りを演じていたのだ、つまり彼らはまだ古典ではなかった
だがデジタルが出てきて様相は俄かに変わりつつある
本来はデジタルが出てくることで一部のポップカルチャーが古典の仲間入りができるようになる一方で、新たなcreatorの登場する余地がそこに生まれなければいけなかったのだが、この2018年現在そうなるかどうかは甚だ不透明だ
Interactive
この言葉が流行語になった時にデジタルの未来に差すはずの眩い光に多くの期待を抱いた若きcreatorも少なくなかったはずだが、実際には二十世紀までの方程式を二十一世紀のマーケティングの理論とうまく掛け合わせることに成功した「抗う」を可能な限り遠ざけようとする大人たちの実に緻密な計算のもと、デジタルはその本来の効力を十分に発揮できていないようだ
この悲劇はしかし当分収まりそうにない気配である、すでに十代でも億万長者になれる時代が到来していると書いたが、「若者の保守化」というきっとデジタルの未来を具体的に予想することができたかつての秀才たちでさえ気づかずに通過してしまった、つまりユーザーに善意しか見出すことのできなかったIT革命の申し子たちの誤算がここに読み取れるような気がする
(民主主義社会において)チャンスの拡大はそれが万人に平等に与えられるのであれば大きければ大きいほどよい
だが実際にはデジタルの世界においてチャンスは必ずしも万人に平等には与えられておらず、またユーザーの一部は彼らが期待したほどの善意の徒でもなかった
ここでようやく「得る」が登場する
おそらく芸術が商業に譲歩しすぎたのであろう、高度情報化社会とそのためのツール(ラジオやテレビ、PCやスマートフォンなど)の発達は純粋でしかし時に羽目を外してしまうcreatorではなく、用意周到なそして細かいほころびまでも決して見逃さないproducerの方に軍配を上げた
本来芸術とは「記録ではなく記憶」である、だから感動がそこにあるべきあらゆる要素を押しのけて優先されるべきなのである、だが僅かでもそこに「記憶ではなく記録」が入ってくると容易に感動は共有可能なつまりより没個性的なものへと変化する、予定調和と瞬間熱はしばしば大規模であってこそその有効性を最大限に発揮する、ところがスタジアムコンサートを最初に敢行したのはビートルズである、ここに今の五十代のジレンマがある
商業主義と精神主義の中間点を模索するcreativeな活動
ビートルズ世代はこのことを肌感覚で知っている、なぜならば当時ロックンローラーの社会的地位はかなり低かったからだ、そしてそのことが行き過ぎた芸術の商業への譲歩に警鐘を常に鳴らし続けていた、だが最早ロックは不良の聴く音楽ではない
「抗う」は金銭的にはほぼ得るものがないと思われていた、そしてその定説を打ち破ったのがビートルズと彼らに従った当時の若者たちである、だがデジタルは「抗う」の復活には明らかに失敗している
Nの否定故に若者たちはむしろチャンスを失っている、なぜならば幸福の天敵である「比較」とは無縁であるはずの少年少女たちまでがまだ十五歳で損得勘定に翻弄されてしまうリスクを背負ってしまっているからだ
多くのものを得ているはずのこの2018年前後の若者たちはしかしその一方で夢に不可欠な個性を育むことが構造的に難しい状況に置かれている、だが彼らをこのような状況に追い込んだのもまた予定調和と瞬間熱による芸術と商業の融合に成功したビートルズ世代の大人たちであるのだ
出世も成功もかつては偏差値エリートの手にのみ委ねられていた言葉であった、凡庸なる少年少女たちはしかしそのような現実に抗うことで、そこに何らかの活路を見出そうと試みていた、そこでは時にはみ出し者がしかしその個性故に保守的な大人たちの鼻を明かすことに成功したりもしていた
だが「抗う」は終わりそしてはみ出し者のためのスペースも縮小されつつある
皮肉なことに十代の億万長者が誕生しうるようなチャンスの拡大がこのような状況をもたらしたのだが、それは例えばジョン・レノンのような少年からはむしろチャンスを奪っているのだ
喪失
だがこれはこの後第四章で扱う喪失とはその意味を異にしている、ここでいう喪失とは信仰を呼び覚ますことのないつまりインスピレーションとは無縁の喪失のことである
きっとこういうことだ、「得る」はそこに信仰を想起させるような霊的な要素がない限り、もっといえば「記憶より記録」が十代の感性の領域を侵犯し続けている限り、かつてであれば成功や評価とは無縁であったはずの少年少女たちにこそチャンスを与える、そこでは「負」が肯定的な要素として扱われず、「負」を可能な限り減じさせることが任意の目標より優先されるべきものとして大人たちにより扱われることになる
その結果こうなる
多様性の尊重の否定
驚くべきことである、多様性の尊重はinteractiveに代表されるであろうデジタル社会においてこそ実現されるはずのものだったのに……
信仰を一つのキーワードとすることができるのであれば「得る」はおそらく幸福と密接な関係を築くことができるに違いない、だがデジタルによる人類史上最大の革命は「得る」を十代の億万長者と引き換えにして特に三十五歳以下の人々の精神を結果的にせよ思い切り世俗化させてしまったようだ
二十一世紀をデジタルをキーワードにして見た場合、「得る」は私が望む方向とは真逆に落ち着きそうだ、だがよく考えてみればそれも当然のことなのかもしれない、「IoTの陥穽」とは利便性の向上がもたらす必然的な副作用のことである、それは大衆にとっては多くの不都合を生じさせないが真のcreatorにとっては甚だ不都合なことである、芸術は今、神を見失い時代との取引を迫られている、しかもその答えは早急に出さなければならないようだ、なぜならば芸術家にとっては実は個性と同じくらいに大切な彼が抱える負のすべてが急速にその意味を失いつつあるからだ、この由々しき事態はしかし利便性の向上の一言で片づけられつつある
負は少なければ少ないほどいい
繰り返さなければなるまい、これは多様性の尊重に反する考え方なのである、故に芸術に反する考え方でもある
個性の喪失は第四章で述べる喪失とはその性格が異なるためここで結論を述べる必要がある(2018/05/13)
芸術を生み出すその要素の筆頭に来るべきものはすでに述べた骨格である、そのためには自分が「何を好きで何をやりたいか」がわかっていなければならず故に14歳から21歳までの最も感受性豊かな時期にある程度の自分探しをやっておく必要がある
このようなかつてであれば当たり前の箴言めいた文言もしかしデジタル故にもう一度反芻しなければならなくなった、チャンスの拡大によって「数えられるものの価値の最大化」はIT革命の申し子たちがとんでもない数字を弾き出しているがために最早誰にも違和感なく受け入れられているようだ
だが恐ろしい変化というものは常にそのようなものなのかもしれない
ここでのキーワードは「知らず知らずのうちに」である、すでに「陥穽」という言葉を使ったが、陥穽とはまさに知らず知らずのうちに嵌まるものなのであろう、ギャンブルなどはその代表的なものか
変化を受け入れる
だがそれは当然ながら人類の理想に適ったものでなければならない、したがってここには「幸福を追求する権利」が奪われてはならないという理念が付随していなければならないのだが、「天文学的な」とでも形容したくなる若き億万長者たちの財布の中身は社会が「抗う」を放棄した現在実に自由を満喫し何処へ行くべきかを左団扇で模索しているようだ、いずれにせよ彼らの預金通帳の残高は今後も増えていくことがかなり高い確率で予想されるため彼らに追随しようと目論む野心家たちは還暦をとうに過ぎた者たちも含めて絶えることはあるまい
さらば芸術
だがデジタルとはそういうことだ
ジョン・レノンが”Dream is over”とつぶやいたときに気付いておくべきだったが「商業主義と精神主義の中間点を模索するcreativeな活動」が若者の脳裏から消えて久しい、やがてproducerとの取引に躊躇することの方が違和感を覚えるということになるのであろう
そして「均一と均質の肯定」となり、個性はむしろ邪魔な存在となる
芸術の終わりは神の時代の終わりでもある、テラフォーミングがスペースビジネスと合体しそれをさらに推し進めるであろう
神の使者はメインストリートを歩むことはない、神の使者は99.9%バックストリートをこそ歩む、しかしそれでは株価は上昇しないであろう
だがそれでいいはずなのだ、なぜならば二十一世紀のキーワードは「幸福」であるべきなのでありそのためのデジタルであるべきなのだから
億万長者は特別な人たち、だから彼らがその使い道を誤るわけはない
そう願わずにはいられないが、私は18歳の億万長者の幸福な未来をどうしても想像することができない
前章でAIは多様性の尊重のために必要不可欠だと書いた、その言をここで撤回するつもりはないが修正は必要であろう
その過程にある20個の信号すべてに一度も引っかかることなく目的地に達することができる
それが技術的にも可能になりつつある今、「IoTの陥穽」に嵌まることなく、つまりにもかかわらず理想を追求するにはある種の目覚めが必要である
そろそろ最終章に移ろう
未来人への手紙(3)