バイブレーションヘッド(震える脳)
バイブレーションヘッド(震える脳)
あらすじ
証券会社に勤務する平凡な会社員の光田光夫は、恋人の死をきっかけに精神に支障をきたし始める。それは、光夫の潜在的に眠っていた狂気を表面化していくのだった。
そして、異常な天才、近藤真一郎との出会い。その強烈で華麗な天才に光夫は影響され、そして、それを吸収していく。狂気とは、何なのか。狂気とは人間の本能ではないのか、もしかすると狂気とは、人間の最も正常な精神状態ではないのか、光夫、真一郎、二人の青年は本能の赴くままに、行動する。結果として人間はただの肉の塊となり、その命の終わりを迎える。何の為に人間は生きているのか、そして、快楽とは、本当の快楽とは何なのか、天才の思考回路は凡人には理解できない。天才、そう彼らにとって、全てが快楽なのだ。不幸、幸福も、苦痛もそれら全てが快楽なのだ。
恐怖を感じることのできない脳の持ち主真一郎は感情の一部が欠落している。そして、凡人よりも強大な刺激がないと喚起しない脳はより大きな刺激を求めて彷徨う。視覚で確認することのできない思考という人間に許された感覚は全てに優先する。そして曲げようのない本能という思考を超越したものが二人の青年を揺さぶり奮い起こす。全ては脳の思考によって行動が始まる。
二人の天才は脳の欲求を満足させるためだけに行動し思考するのだった。
震える脳
2009年某日
その部屋の天井は高い。壁には高級そうな絵画、まるでホテルのスイートルームだ。透明なガラステーブルは水槽になっており熱帯魚が泳いでいる。その上に料理が次々に並べられる。料理の食器が置かれる度に熱帯魚が驚き向きを変える。さながらディナー前の小さなショータイムのようにも見える。大きなテーブルに乗り切らないほどの豪華な料理が並べられる。隣の部屋からその部屋の主が現れた。身長は一メートル八十の後半、鍛え上げられた身体だ。ゆっくりとテーブルの上の料理を咀嚼する。凄まじい食欲だ。肉、魚、野菜、フルーツ、次々に口に入れその男の身体に吸収されていく。男は、食欲が満たされると、隣のベッドルームに横たわった。大きなドアの向こうからノックの音が聞こえる。女が二人入ってきた。そして、男の衣服をうやうやしく脱がす。一人は男の口へもう一人は男の股間へ。
食欲、性欲が満たされた。欲っするものは全てある。しかし、この部屋には、とてつもなく違和感があった。調度品は世界各国からの最高級品それを品よくまとめている。パーフェクトな部屋だ。なのにとてつもない違和感を感じるのだ。
もう一つ部屋があった。その部屋の中央にはスタンウエイサンズのフルコンサートサイズのグランドピアノが鎮座していた。御影石でできた分厚いテーブルの上には真っ赤な液体がグラスの中で揺らめいていた。ロマネコンティだ。男はそれを飲み干すと側らの犬の頭を撫でる。巨大な犬だ。今日は来客があった。大蔵大臣の清元高尚だ。男にとって退屈な毎日が過ぎていく。この部屋も超高級品であしらえられた部屋だ。そして、この部屋にもとてつもなく違和感が感じられた。それは、部屋が原因ではなかった。周囲に原因があった。例えば、みすぼらしい長屋に住んでいてフェラーリに乗っているとしよう。駐車場は青空駐車の未舗装一ヶ月の駐車代五千円。どうだろう違和感を感じるだろう?もう一つ、とてつもなくブサイクな男が超美人と歩いていたら君は、どう感じる?違和感を感じるだろう?ジェラシーも感じるかな?それに似た感覚がこの二つの部屋にはあるのだ。それは、この部屋を収めている建物に関係がある。この部屋の建物の住所は東京都府中市晴見町4ー10。そして正面玄関には東京都府中刑務所と書かれた看板が誇らしげに掲げてある。敷地面積262,055平方メートル、収容定員2842名、そう日本最大の刑務所、府中刑務所だ。そして部屋の主は服役囚、といっても名簿にはない。二人は別格だから、そして待遇はビップ待遇だ。もちろん、外の世界との出入りは自由、そして、言うまでもなく所長の部屋とは比較の対象にならないくらい豪華な部屋を与えられている。
もうひとつ言うならば、毎朝所長は二人に朝のご挨拶をする為にに二つの部屋を訪問するのが決まりとなっている。
二人の男の名前は光田光夫、そしてもう一人は近藤真一郎。国賓級扱いの服役囚だ。
バイブレーション・ヘッド
(1)プレリュード
1981年 二月某日
積乱雲が眼下に拡がり稲光が確認できる。おそらく下界は雷が轟き雨が吹き荒れているのだろう。今年47歳、二十代にして天才の名を欲しいままにし、三十代には現在ギターの大家とまで言われた二十世紀を代表する天才ギタリスト、ジュリアン・ブリームはジェット飛行機の中でコーヒーカップを左手の親指と人差し指で掴み口に注いでいた。行き先は日本。目的は演奏ではない。観光?いや観光でもなかった。
二日後
神戸の国際会館二階の大ホールではクラシックギターのコンクールが行われていた。その地方の名もない小さな音楽コンクールは異様な熱気に包まれていた。ロンドン出身の天才ギタリスト、ジュリアン・ブリームが来日しこの会場に訪れているからだ。目的は定かではない。確かなことは三十代にしてギターの大家と呼ばれる天才が日本の無名の小さなギターコンクールに興味を示しているということだ。ショーロ第一番このコンクールの課題曲だ。ヴィラ・ロボスの作品だ。かなりの難曲でもある。午前十時より予選を勝ち抜いた演奏者がその腕を競う。それぞれに自身の演奏を披露する。エントリーをしている演奏者達は優秀ではあるが何かが足りない。それは、おそらく持って生まれたもの、それが足りないのだ。聴いている者を感動させる何かがたりないのだ。それは、努力だけで手に入るものではない。
やがて一般にまじり明らかにまだ未熟な少年が舞台で演奏する。未熟、それは演奏技術ではない。年齢だった。15歳、中学三年生だ。虚勢も緊張もない。ありのままの音楽を表現する。ショーロ第一番。この難曲をまるで言葉を話すように弾きあげる。機械のような無機質な演奏ではない。感情の抑揚が、まるで素晴らしい絵画を順番に見ているように展開されていく。それは、美術館に赴き素晴らしい絵画を散策しているような感覚だった。それは、聴衆に深い感銘を与える。
演奏が終了する。 一瞬の静寂。
少年が左足の足台からゆっくりと足を降ろしギターを左手で抱え、席を立つ。
「ブラボー」
ブリームが立ち上がり誰よりも先にそう叫んだ。
ホールにいる聴衆達は、この瞬間ブリームがここにいる理由を悟った。それは、けっしてブリームの行動と言動に依るものではない。それは副次的なものであり、本質的なものは少年のあまりにずば抜けた演奏だった。ブリームはそれを決定づけたに過ぎない。今この瞬間、現在ギターの大家は脇役となり素晴らしい絵画の豪華な額縁となったのだった。
『はるばるイギリスからきた甲斐があった』
少年の演奏はブリームの期待を裏切らなかった。しかし、それはすぐに大きな落胆へと変化する。
少年の控え室をブリームは訪れた。
「おめでとう」
少年は、当然、一位だった。
「ありがとうございます。でも誰?」
驚いたことに少年はブリームがわからなかった。少年は演奏以外は無知だった。
「突然なんだが、君をイギリスに連れて帰りたい。君を育てたいんだ」
ブリームは両腕を大きく広げ笑顔でそう語る。
「僕は高校に行くんだ。もう制服も買っちゃたよ。それにギターはもう飽きたよ。元々、そんなに真剣に練習もしてないし、おじさんは何している人?」
少年は首を傾げる。ブリームは首を左右に振りながら、壁に立て掛けてあった少年のギターを抱えてベンチに座る。アルベニス作曲のレイエンダをうねるよな凄まじい速さで弾く。そして、対照的な中間部を経て激しい再現部へ移行する。小さなギターが唸るよに部屋中に響き渡る。まるで、数分間別世界を漂うようなブリームのギターに周囲は言葉を失った。一人の少年を除いては。
「おじさんも、ギター弾くんだね。うまいね」
そう言うと、ギターを弾きだした。同じ曲だ。親指が回転し残像を残しながら低音弦を弾き人差し指と中指で高音弦を弾く。なんということだろう。そこには天才ブリームを凌駕する少年が存在した。
「とにかく、もうギターはやめるんだ。だから、おじさんごめんね」
「おー信じられない」
ブリームは両の手で頭を抱えた。
大きな運命の分岐点だった。
そして少年の名は光田光夫だった。
1986年 二月某日
まだ、肌寒い二月の初旬その音楽大学の大ホールでは卒業演奏会が行われていた。今日は初日。ピアノ部門だ。選ばれた優秀な学生だけがその舞台に立つことができる。その中でも別格という表現がぴったりの学生がいた。他の学生とは比較の対象にはならない。それ以外にどう表現したらいいのか?その学生はリストの超絶技巧練習曲第四番マゼッパをまるで保育園の保育士がお遊戯の時間に弾くように弾く。この曲はそんなに簡単な曲だったのかという錯覚さえ感じてしまう。いやそんなはずはない。フレデリック・ショパンと並びロマン派を代表する作曲家フランツ・リスト。名人芸的演奏家すなわちヴィルトゥオーソのピアニストでもある。この時代作曲家達は作品を自身の手で発表し、凌ぎを削っていた。その中でひと際脚光を浴びていたのがリストだ。リストは10度の音程をも軽々と押さえられる大きな手を鍵盤の上で縦横無尽に駆使し網膜に残像の残る凄まじいスピードで難曲を弾きこなしていた。その作品は自分の演奏技術を誇示するかのような難曲が殆どだ。手の小さなピアニストでは完全に弾きこなすのは不可能に近い。その中でも難曲中の難曲超絶技巧練習曲第四番マゼッパをまるでドレミの歌を弾くように弾く、まだ二十一歳の青年がいた。表情は余裕に満ち身体は音楽を正確に表現する。機械のように正確な演奏だ。長身で優美な容貌はその難曲の豪華な額縁となりその作品を引き立てる。そのフォルテッシモはホールを震わせ、ピアニッシモはホールの隅々まで隈なく行渡る。
演奏が終わった。 一瞬の静寂。
ゆっくりとコンサート用のピアノ椅子から席を立つ。
割れるような拍手。
演奏会のプログラム超絶技巧練習曲第四番マゼッパの横には近藤真一郎と書かれていた。
因縁(明治四十二年年五月)
周囲は緑に囲まれていた。風が時折吹くと木々の葉が擦れ合い心地よい音を響かせる。農道の脇を小川がせせらぐ。全てが初夏の陽射しに照らされ眩く光を放っている。林道にさしかかると緑の天井から太陽が下界を覗くようにちらちらと生い茂る杉の木の葉の隙間から網膜を刺激する。汗が額に走る。各駅停車の汽車に揺られた身体は疲弊していた。安藤重雄は手ぬぐいを首に引っ掛けて家路を急ぐ。重雄は村の役場の職員だ。今日は大阪からの出張の帰りだった。七日間の予定が一日早く終わり少し早い帰宅だった。家には一ヶ月前に結婚したばかりの妻が待っている。両親の反対を押し切っての結婚だった。反対の理由は家柄の違いということだった。重雄の実家は裕福な農家で地元の有力者でもあった。その父のコネで村役場にも就職をしている。
それに比べ妻のトキの実家は自分の田畑を持たない小作農だった。しかし、重雄は両親の反対を押し切って結婚したのだった。重雄は純朴な男だった。家も反対を諦めた両親に新築してもらい、仕事も順調にいっていた。重雄は今幸せの絶頂にいた。鬱蒼と生い茂る林道を越えると田植えを終えたばかりの田園が広がっている。その遥か向こうに妻の待つ家が見える。樹齢三百年の巨大な黒松の木が家のすぐ北側に植わっている。重雄の足取りが軽くなった。
「帰ったぞー」
重雄は弾んだ声を響かせて玄関の引き戸を勢いよく開けた。
いつもならすぐに出てくるはずの妻の返事がない。土間には妻の履物がある。そして、その横には見なれない履物があった。大きさからいって男のものだ。重雄は近くに住む父親が来ているのだろうと思った。
土間から部屋に上がり台所に入った。誰もいない。
「おーい、トキ」
妻の名前を呼ぶ。何か嫌な予感がした。
重雄は隣の八畳の部屋を開けた。
重雄は愕然とした。
そこにいたのは狼狽する全裸の男女だった。一人は見知らぬ男、そして、もう一人は妻トキだった。
「おのれー」
重雄は逆上した。
「あんた、帰りは明日じゃなかったの?」
激怒する重雄にトキは見当違いの返事をする。
重雄は振り向き、台所に走るとまな板の上に置いてあった刃渡り二十五センチの牛刀を左手に持った。そして、猛然と部屋に戻るのだった。
「覚悟せぇ!」
そして、トキの横にいる男の腹に牛刀を身体ごと突き入れた。
「堪忍や、堪忍してくれ!」
「堪忍できるかー!」
男は腹から血しぶきをあげながら重雄の襟首を掴む。
「じゃかあしいんじゃ、おのれ!」
重雄はそう叫ぶと一度上腹部に突き刺さっている牛刀を抜き、その右斜め下にもう一度差し入れる。抜いた傷口から一層の血しぶきがあがる重雄の顔は鮮血に染まった。
「ぎゃあー」
そして、何度も何度も男の腹を突き刺した。
男がぐったりとし絶命したのを確認すると重雄は、腰を抜かして震えているトキを睨んだ。
それは修羅の顔だった。
「堪忍や、堪忍して」
「じゃかましい」
重雄はそう叫ぶと牛刀を持ちかえて左手を大きく振り上げるとトキの首にそれをズブリと突き刺した。頚動脈が切断されたその傷口からは鮮血がまるで噴水のように噴出する。
「ぎゃあー」
断末魔の叫びをあげるトキに重雄は容赦のない蹴りを顔面に入れる。トキの小さな身体はひとたまりもなく崩れビクビクと痙攣する。
そして、それ以上動くことはなかった。
この間、約三百秒。重雄の新居は血に染まった。幸せの舞台は一瞬で地獄と化した。重雄は男と妻を殺害し平凡な村役場の職員から殺人鬼と化した。まるで悪い夢を見ているような感覚だった。
重雄は牛刀を投げ捨てると血まみれのまま裏口から出て風呂窯に薪をくべだした。土間にもう一度入り藁を探す。米を炊く釜の横にある火打石を右手に持つと藁に火をつける。そして、炎が燃え盛る藁を持ちながら再び風呂窯の前に立つとそれを放り込んだ。そして、丸い浴槽に水を張り出した。重雄は湯が沸くのを静かに待った。辺りは先ほどまでの惨劇がまるで嘘のように静まり返っている。三十分ほどすると湯は良い湯加減になる。重雄は丸い木の板を底に敷きその上からゆっくりと丸い浴槽に入る。顔と身体に付着した血を綺麗に洗い流し、怒気で機能を失った頭を正常に戻す。今、何があったのだろう?自問自答を繰り返す。そして、最後の答えは絶望だった。涙が止まらない。風呂からあがり、部屋に戻る。やはり夢ではない。おびただしい血液が真新しい布団と畳に染み込み。男と女が倒れている。全ての希望が打ち砕かれた。重雄はその場に泣き崩れた。声を張り上げて泣き叫んだ。
その涙が枯れると重雄は先程、投げ捨てた牛刀を拾い持ち奥の六畳の部屋に入る。真新しい畳の匂いがする。床の間の掛け軸に書かれている夢という大きな文字が虚しい。重雄はそれを背にして座卓の前に座る。姿勢を正し墨をゆっくりとする。そして、筆をとると座卓の上の和紙にゆっくりとおろした。このようになった経緯を知らせる為の両親に宛てた遺書だった。
それを書き終えるとニ尺ほど座卓から離れ姿勢を正す。そして、傍らにおいてあった牛刀を両手で握り締めると大きく振りかざし自らの腹を引き裂いた。
「おとう、おかあ、堪忍や!わしは未熟者やった」
血しぶきが土壁に飛び散った。
十年後(大正七年九月某日)
油蝉、熊蝉がその寿命を終える九月の中旬つくつくぼうしの鳴き声がその村には聞こえ始めていた。二人の男女がゆっくりと汽車から降り立った。
「ここやったら、ええんと違うか、どない思う?」
「うん、そうやね」
大きな黒松の木が北側に植わるその家を見て二人の男女がそう言った。
「造りもええしなー前の持ち主はどんな人やったん?」
「えーまあ、よー持ってはる(お金)人でしたはな」
不動産屋は右手で団扇を煽りながら左手の親指と人差し指で輪を作り、愛想笑いを浮かべながらそう答える。
「せやけど、まだ新しいよって何で売りに出したったんやろ?」
「さーそこいらのことはわからしません。せやけどこれだけの普請でこれだけの値のものは中々でんのと違いますか?」
「確かにそやな・・・どう思う?」
そう言うと男は隣に立つ妻の顔色を伺う。
「そやね、ええんちがう」
そう言うと妻は大きくはちきれそうに張ったお腹をさすった。
「この床柱も立派なもんや、うん?なんか染みがついとるなー」
男はその染みを、首に掛けていた。手拭いで擦る。
「消えんなー、なんやろこの大きな染みは、まさか血とちゃうやろな?」
男は冗談半分でそう不動産屋に問い掛ける。
「そんなあほな、自然のもんですよって樹液かなんかとちゃいますか」
「ほな、不動産屋さん、まあ、安いゆうても
大根や人参買うみたいにはいけへんから、よーこいつとも相談して返事しますわ」
「あーそうでっか、ほなよろしゅうたのんます」
若い夫婦はそう言うと去っていった。
「お前、あの事は話したんか?」
「あほな、するわけないやないか、そんなこと言うたら、売れるものも売れへんやないか、買い取った物件早よう処分せなどうするんや」
「あくどいのう」
「なんちゅうことを言うねん、あんだけの広さと普請の物件があの値段であるかい。感謝して欲しいくらいや」
「けど、お前あんな事件があった物件やど、あんな狭い村、すぐにわかってまうど」
「大丈夫や、あの事件の後、あそこの親御さんもすぐに首吊ってなくなったから、そんなすぐにはわからへんやろ。近所の連中もあの一件に関してはそんなに口は軽うないはずや」
古ぼけた不動産屋の事務所の中からはそんな薄暗い会話が聞こえていた。
三日後、電話がかかってきた。
「はい、岩沢不動産」
「田井ですけど」
「あー田井さん、どうもどうも」
「例の物件なんやけど、あそこに決めようかなと思いまして」
「あーそうですか、ありがとうございます」
(2)恨み(昭和十三年五月二十一日)
総戸数二十三戸、人口百十一人、その四方を山で囲まれた部落は中国山地の岡山と鳥取の県境に近い岡山県苫田郡にある。
北東の方角から子供達の喜悦の声が聞こえる。
「睦雄のあんちゃん、今度いつ話しきかしてくれる?」
子供達の中心に居るのは穏やかな表情の青年だ。
娯楽の少ないこの時代、子供達は青年の創った物語を楽しみにここに来ているのだった。
「次は、約束できねえ」
「どうして?」
青年は、その問いに軽い笑みを浮かべながら首を横に振る。やっと落ち着き始めた五月の緑が爽やかな風に煽られた。
昭和十三年五月十八日午後八時二十一分、青年は自室で二通の遺書をしたためていた。
その日の正午、藁葺き屋根の民家の庭先に、うす白い煙がとぐろを巻いていた。青年が庭先で身辺の整理をしているのだ。青年の重く澱んだ気持ちとは裏腹に空は青く冴え渡り、庭の木々が五月の風に揺られ爽やかな音をたてる。その風に煽られた煙が青年の目を刺激する。煙が目にしみる。涙が溢れ出た。その涙は煙のせいばかりではない。憎しみの涙、そして血の涙だった。
青年の名は田井睦雄、青白い顔に表情はなく、一重の鋭い眼光には狂人にも似た青白い輝きがある。頑なさを象徴するような左右に張った下顎骨に口角の下がった口元、骨の太い骨格からは無言の猛りさえ感じさせる。「ふうぅぅぅぅぅ」
低い唸り声が畳の部屋に重苦しく充満する。田井睦雄は床の間を背にすると姿勢を正し座卓の上の和紙にゆっくりと筆をおろし始めた。
二通の遺書を書き終えた青年はゆっくりと筆を置いた。青年は自らの死を覚悟していた。軽いため息が畳の部屋に吸いこまれる。重苦しい空気が青年をしめつける。
五月二十一日(午前一時三十分)
この日は、明るいうち湿気を含んだ南からの生温かい風が頬にまとわりつく、そんな日だった。午前零時、雨がぽつりぽつりと降りはじめた。むくりと睦雄は起きあがる。蝋人形のように表情はない。眼下には、祖母がぐっすり寝入っていた。
睦雄は、少しの間考えた様子で祖母を見つめる。幼い頃の祖母との楽しい思い出が脳裏をよぎる。まるで、風に煽られた物体のように身をひるがえすと睦雄は屋根裏部屋への階段をゆっくりと上っていった。身ごしらえを始める。畳の上に腰を降ろし胡座をかく。動きやすいように詰襟の黒い洋服を纏い、両足に茶褐色のゲートルを巻いた。そして、地下足袋をはく。それから頭に鉢巻をまきつけ、きりりとしばりつけた。二本の小型懐中電灯をその鉢巻にくくりつけ目玉のように前方を照射できるようにした。その上に自転車用のナショナル箱型前照燈を、紐で首から胸に吊り下げ、さらに別の紐で胴に固定した。これで暗闇の中でも前方の視界はすこぶる良好である。薬莢入り雑嚢を左肩から右脇にかけ、日本刀一振と匕首二口を左腰にさして紐でくくり、その上を皮ベルトで固定した。ポケットには弾薬実包約百発をしたためた。そして九連発に改造したブローニング猟銃を持って、屋根裏部屋からゆっくりとゆっくりと降りる。いつもは気にも留めなかった階段の軋む音が今日はやけに耳につく。銃を壁に立てかけ土間に降り、かねてから研ぎ澄ましていた薪割り用の斧を手にした。ずっしりと重い。
そのまま寝ていた六畳の炬燵の部屋に戻ると祖母の熟睡している姿が視界の中に入ってくる。白熱灯の灯かりのせいかそれは少しぼやけて映った。青年は優しげな瞳で祖母をみつめると足元に斧を置き、両手を合わせる。
「おばやん、堪忍や」
青年は目を閉じ小声で呟いた。
両手をほどくと足元の斧を手にとる。そして
両手で持ち大きく振り上げると、祖母の首めがけて力いっぱい振りおろした。
「どんっ」
重い音が土壁と畳の部屋に吸収される。首は一撃で切断され、鮮血をほとばしらせ一尺五寸転がった。その転がった先で目蓋が見開いた。それは間違いなく死人の目ではなかった。そしてゆっくりとゆっくりとそれは閉じたのだった。祖母は自分が死んだという感覚もなしにあの世に逝った。胴体の切断面と首の切断面からおびただしい量の血が流れ出ている。そうした光景を尻目に修羅と化した睦雄は片手に血まみれの斧をもう片方の手に猟銃を持って裏口から猛然と走り出た。役目を果たした斧は裏口北側の壁に立てかける。午前一時三十分、それは今から一時間半余りに及ぶ惨劇のたった一人目にすぎないのだった。
(3)源
昭和三十八年 春
ピアノの音が聞こえる。ピアノの詩人と言われたショパンの繊細で、そして時に力強い旋律は、まるで人生の縮図でもあるかのように感じられる。母と娘は毎日のようにグランドピアノの前でその芸術を再現する。
その美しい娘は今日眠れずにいた。小紫清子は結婚式を明日に控え、不安と期待の入り混じった夜を過ごしていた。
「清子、起きてる?」
ドアの向こうで母の声が聞こえる。
「うん、起きてるよ。どうしたの?」
「入っていいかい?」
「いいよ」
清子は母を背にしてベッドの中で本を読んでいた。
「清子、布団の中に入っていいかい?」
「えー、どうしたの?」
清子は八歳まで母親と同じ布団で寝ていた。
しかし、九歳を迎えようとする頃から母と違う部屋で眠るようになっていた。
今、清子は二十六歳だ。もう十七年以上も母と一つの布団で寝たことはない。
「えー恥ずかしいよー」
そう言って振り返ると、母の目は真っ赤に充血していた。
「だって、明日で清子いなくなっちゃうだろ」
「・・・・・・・」
「だから・・・・」
「お母さん、ごめんね」
「いいよね」
「うん」
母はゆっくりと清子の布団の中に入り、大きく成長した娘を抱きしめた。
「清子がちっちゃな頃は毎日こうやって一緒に寝てたよね」
母は目から零れ落ちそうな涙を堪え娘の背中をさする。
「お母さん、ほんとにお嫁に行っていいの?嫌だったら断るよ」
清子は自分の事だけを考えていた自分を恥じた。
涙が止まらない。止まらないのだ。
母は首を横に振りながら娘を抱きしめる。
「いいんだよ。幸せにならないと」
「ほんとに、ほんとにいいの?」
母は、今度は首を縦に何度も振った。そして、娘をより一層の力で抱きしめる。
(4)覚醒
1995年1月17日・午前5時46分)
光田光夫、25歳、証券会社に勤務するごく普通のサラリーマンである。
身長は180cm・体重68kg・肩幅が広いせいか、体重よりも立派な体格に見える。
均整のとれた身体だ。そして、切れ長の目に、口角の僅かに上がった口元、きめ細やかな肌。
彼の住まいは兵庫県姫路市、姫路城で有名な城下町である。
「心配だから、明日行くね」
「ああ・・・・」
1月17日午前5時46分、光夫は感冒のため朦朧とした意識の中で床に伏していた。
壁に立て掛けていたクラシックギターが倒れた。そして、カタカタとテーブルの上の空のワイングラスが大理石のテーブルをその底で小刻みに叩いたかと思うと突然飛び跳ねた。
その瞬間、ゴォーという地響きが鳴り、激しい縦揺れが光夫を襲った。光夫は今までこんなに大きな揺れを経験したことがなかった元々気候の温暖なこの播州地方では災害らしい災害を光夫は経験などしたことがない。微弱な揺れが年に一回程度あれば驚く程度のことだ。
光夫は「すぐに、おさまるだろう」とそのまま揺れが収まるのを寝床の中で待ち、そのまま寝てしまった。
あれは、夢だったのだろうか?午前7時30分頃、寝ぼけ眼でテレビを点けた光夫は大変な事が起こっている事に気づいた。その映像には家屋の倒壊、火災、まるで戦争でも起こったのでは、と錯覚するほどの光景だった。これが死者六千人以上を生んだ阪神大震災である。一時間経つか経たないうちに阪神高速道路倒壊の映像が映し出された。光夫は目を疑った。ただごとではない。光夫は、ベランダの窓から外を覗く。
アスファルトに亀裂が走っている。
そして、光夫は愕然とした。今日は光夫が体調を崩しているので恋人のかおりが朝早くからこちらに車で向かっているはずなのだ。光夫はかおりの家に電話をした。
繋がらない!携帯電話に電話をする。繋がらないのだ。かおりの家は、大阪府豊中市にある。朝五時過ぎに家を出ると言っていたので、もしかすると地震の起きた時刻には神戸の中心部を、阪神高速道路を車で走っている可能性があるのだった。すぐさま光夫はかおりの携帯電話と自宅に電話をかけた。
繋がらない!
光夫は、かおりからの連絡を待ったが連絡はなかった。
その日の夕方、やっとかおりの家に電話が繋がった。やはりかおりは家を出ていた。彼女の両親も連絡がとれないのでとても心配している様子だ。
嫌な予感がする・・・・・・
数日後、その予感は最悪の結末を迎える。両親から光夫に連絡があった。かおりは倒壊した高速道路の下敷きになってしまっていたのだった。
光夫は、自分の責任でかおりは死んだ自分さえ「来てくれ」と言わなければ、かおりは死ななくてもすんだのだ。そうやって自分を責め次第に生きる希望を失い始めていた。会社も休みがちになっていった。
やがて証券会社も退職、光夫は家に塞ぎ込むことが多くなった。25歳・無職、もう光夫には一流証券会社の社員という肩書きはない。
無為に過ごす日々が続く・・・・・・・
蒸し暑い夏の日の午後のことである。光夫はブルーの遮光カーテンに光を遮られた薄暗い部屋の中、一人ソファに横たわっていた。重苦しい湿った空気が全身を舐める。視界が何か定まらない。静かなはずの部屋の何処からか、蝉の鳴くようなジージーという光夫にしか聞き取れない異様な音が断続的に光夫の聴覚を刺激していた。光夫は何か得たいの知れないものに押しつぶされそうな不安に襲われた。そして、動悸、眩暈、手足の痺れが光夫の身体を襲う。何か落ち着かない、部屋の中でじっとしていることができないのだ。そして、夜は眠れない。眠ったと思えば支離滅裂な夢を見て目が覚める。身体と精神が分離してしまったような、そんな感覚に光夫は苛まれていた。自律神経に異常をきたし始めていたのだった。だが彼には、それが、そういうことだとは理解できなかった。元々、そういうことに対して無関心だった為、自分の精神が蝕まれているということが理解できなかったのだ。
そんな光夫が正常に戻れる瞬間があった。
それは、女性との情事の瞬間である。行為の最中は勿論、終わった瞬間、妙に落ち着くのである。が、そう思った途端に何か得体の知れない不安に襲われるのだった。光夫は、夜の街を徘徊するようになる。女性を求めて、いや、性のパートーナーを求めてと表現したほうが適切であろう。もっと突き詰めていくと精神と身体の安定を求めてといった方が、
正しいのかもしれない。
光夫は、幾人かの女性と関係を持った。
その女性の中に情事の最中に首を絞めて欲しいと懇願する女がいた。その女の要求通りに光夫が首に指を添え、その指に力を込めると歓喜の表情は、じょじょに苦悶のそれに変化していく。光夫は、このままどうなってもいいような快感に襲われた。それは、男の最も敏感な部分への刺激が強くなった為もあるだろうが、それよりも首を絞めた女がもがいている。その行為自体に今まで味わったことのない快感が光夫の五感を刺激しているのかもしれない。このまま責め殺してしまおうという衝動に光夫は駆られた。指に、いっそう力を込め、感情を昂ぶらせた。その瞬間、女が大きく咳き込む。光夫も正気を取り戻すのだった。
暑い夏も過ぎ朝夕は、めっきり涼しくなった9月29日その出来事は起こった。光夫の精神は、日一日と蝕まれていっていたのである。その日の正午くらいから光夫は原因のない不安な気持ちに襲われていた。その暗闇の奥深くから涌き出るような不安感は何度も何度も光夫の精神を侵食する。じっとしてはいられない。身体を動かしていないと気持ちが破壊してしまいそうな、恐怖におののいていた。身体が痒い。それは外からの刺激による痒さではなかった。そして、手が震える。自律神経の乱れからくる身体の内部からくる身体の異常だった。
そんな午後8時、クラブ活動を終えて自転車で帰宅途中の女子学生が光夫の目に止まった。
なぜか、その瞬間、あの行きずりの女性との加虐的な情事が頭をかすめた。苦悶の表情、異常な興奮、手足にまで心臓の鼓動が感じられ、光夫の考える帽子、大脳皮質と感情を作り出す領域、罪、良心の呵責を知的に理解できる領域その思慮深い前頭葉は完全に断絶した。そして、光夫は人の形をした獣になった。不安な気持ちは消え失せ、本能の炎に理性は焼き尽くされていた。
何も知らない獲物である女子学生は民家を通り過ぎ外灯の無い川の土手を鼻歌まじりに自転車を走らせている。光夫は、少女の自転車の右後方から進路を遮るように車を停めた。
少女は自分の措かれている状況が完全には理解出来ていない戸惑いの表情を見せた。もしかすると道を尋ねられたのかと思ったのかもしれない。が直ぐにそれは恐怖に変化した。 光夫は少女の腕を力まかせに曳き車の助手席に押し込んだ、不思議と少女は、この瞬間、悲鳴一つ上げなかった。ようやく車内で発した悲鳴を打ち消すかのように光夫の少女に対する容赦のない殴打が始まった。それは、ライオンが容赦なく小さな獲物を地面に叩きつけるそれに似ていた。少女の顔面は見る見る赤らみそして、鼻と口から流れ出る唾液と鼻血が混じりあう。少女も余りの暴力の激しさに許しを懇願しだした。
「やめて下さい。許してください」
少女は、そう光夫に訴えた。その言葉に光夫の加虐の心理が触発された。無抵抗の者を弄ぶ通常の生活では決して味わえない快感に拍車がかかった。少女が許しを乞えば乞うほど、泣き叫べば叫ぶほど、光夫は虐待の快感に酔いしれるのである。五分程度で少女は人形のようにおとなしくなった。光夫はしばらく黙々と肉の塊と化した少女への殴打を続けていたが、やがて反応のない少女に、その作業を中断した。そして自分のマンションにそれを持ち帰った。
光夫に手が加えられる前の少女は美しかった。幼児のような美しい肌を産毛が薄っすらと覆い僅かに赤らんだ頬は遠目には美しいピンク色をしていた。制服の上からでも容易にわかる均整のとれた肢体、胸元からは薄っすらと血管が見える程、肌の色は白く輝いていた。光夫のモノトーンで統一された部屋に少女の現在の痛ましい姿は、異様に不釣合いに映った。
ギシギシとベッドが軋み音を上げる。少女の身体は、その度に、その力で大きく上下に移動した。少女の美しい顔は激しい殴打の為、原形をとどめていないが苦悶の表情は、光夫に、はっきりと伝わった。光夫は腰の動きに顔面への殴打を不定期に加えた。唇は、腫れ上がり、ピンクの歯茎からは歯が抜け落ち、その根元には血がこびり付いている。光夫の股間に温かいものが感じられた。恐怖による失禁である。それは人形ではなく命ある人間の証でもある。光夫の興奮はさらに加速した。少女の首に手を添え渾身の力を込める。
少女の顔が少し膨らみ、手足をばたつかせるが首が光夫の手によって固定されている為、動くことができない、さらに力を込める。光夫の腰の動きもそれに合わせいっそう激しさを増す。少女の顔から次第に血の気が失せていく光夫の腰の動きが止まり、少女の体内で絶頂を迎える。絶頂の瞬間光夫の力は頂点に達する。少女は絶命した。その顔は内出血により腫れ上がり歯茎に前歯は一本も残っていない凄惨な状態を呈していた。絶頂を迎えても光夫は萎えなかった。驚いたことに新たな猛りを覚えたのだ。
美しいもの清いものを無茶苦茶にする快感美しいもの清いものが恐怖に歪む瞬間、光夫の心に芽生え初めていた加虐の魂が今大きく目を覚ました。光夫は少女の体内から外に出た。すると何か物足りなさを感じた。多くの男性が情事の後に感じる虚脱感からくるものかもしれない。だが光夫のそれは、そんな肉体的なものではなく精神的な欲求不満からくるイライラに似ていた。光夫は理由のない不安感に襲われた。決して殺人を犯したことによる罪の意識からではない。理由のない不安だった。手足に無数の小さな虫が蠢いているような感触がしばらく続いた。やがて、それは消失したが、不安感だけは残った。
光夫は、部屋の片隅に立て掛けられた木刀を握り締めた。泥棒避けに購入していたものだ。そして、それを少女の中心部に渾身の力を込め押し入れた。木刀は中心部を通り越し子宮を突き破り小腸へと達した。少女の身体はただ人形のように20センチほど上方に移動しただけにとどまった。そこから血が噴出した。勿論、光夫にとって初めて見る光景だった。光夫は異常に興奮する自分に気づいていた。驚いたことに二度目の絶頂を迎える。そして、その作業の最中、例の不安感が無くなることにも・・・・・・・・
嫌がる女性をいたぶり、レイプし恐怖する女性を容赦なく惨殺する。この甘美な世界に光夫は支配されてしまったのだ。
興奮も醒めようやく鎮まった光夫にとって今、目の前に横たわっている少女は無用の物である。それは子供が与えられたおもちゃに飽きた時のそれに類似している。このまま放置しているわけにもいかない。光夫は、一日待った。以前、テレビで時間が経てばあまり出血しないということを観たのを思いだしたからだ。そう、切断するのだ。それに、この殺人は計画的なものではない。あくまで光夫の異常な欲望から起きた突発的なものであったため死体の処置をどうするか考える時間が必要だったのだ。
(4)究極の快楽
大理石を張り詰めた部屋には巨大な水槽があった。その水槽には1メートルはあるであろうアロワナと、その倍は、ありそうなピラルクが悠然と泳いでいる。水槽に酸素を補給するポンプの音が異様に大きく感じられた。男は全裸の女の両手両足をキングサイズのベッドの四隅に立っている柱に縛った。女は大の字になった。そして左手首からショーメのケイシスを外す。眩い光を放つ美しい宝飾時計だ。そして自身も服を脱ぎ全裸となった。その肉体は鍛え込まれた水泳選手のように美しく、そして、既にそそり勃っていた。大きく開かれた両足のその中心の部分に怒張した自分のモノを侵入させる。身動きの取れない女は、悲鳴を上げ涙する。男は無表情で黙々と腰を振る。やがて、女の意思とは、無関係に生理現象が女の部分を湿らせ始める。男の腰の動きが、にわかに激しくなったかとおもうと男は低い呻き声とともに女の中で果てた。
男には何か物足りなさが残った。絶頂に達しても、何か不満が残る。シャワー室に行き陰部をシャワーで流す。部屋に戻ってきた男の手には鋭利な刃物が握られていた。男は女の恥骨の上にまたがると刃物を持った両手を大きく上に掲げた。その矛先は確実に女の上腹部を狙っている。女が涙を流しながら首を横に振る。それは、声にならない悲鳴を伴っていた。
そして、男は、いつものように女の腹を縦に裂いた。鮮血がほとばしる。その動きは何か特別なことをする様子でもなく、まるでまな板の上の鯛でもさばく板前のように無表情だった。
「ぎゃあ~」
女の断末魔の叫びが大理石を張り詰めた部屋中に響く。その瞬間の女の恐怖に引き攣る表情、それを見ると、今果てたばかりの男のモノは、再び絶頂を迎える。それも、最高の・・・・・・・・・・・
男はその裂け目から手を差し入れ内臓を取り出す。生温かい。小腸、大腸、胃、肝臓、そして、最後に子宮が出てきた。きれいなピンク色をした子宮だった。男は、その子宮に齧り付いた。
至福の瞬間。
男は最高の表情を肉の塊となった女の前で見せる。後の処理はいつものように切断である。まず、四隅に縛られた両手両足を根元から切断する。開放された女の身体は、血まみれの達磨になった。そして首を切断、作業は終わった。静寂の中、水槽のポンプの音だけが異様に大きく感じられた。
「ぎゃー」
翌日の早朝遺体の一部は犬の散歩をしていた主婦によって発見された。
(5)暗闇
光夫は、苛立っていた。死体の処理をどうするか、テレビの灯りでアロマテラピーの煙が青白く照らされている。光夫のすぐ横には、肉の塊と化した少女の遺体が横たわっている。少女は、既に死後硬直により硬くなり始めていた。光夫は、その身体を枕に考えを進めていた。カーテン越しに朝日が射してきた。光夫は、まず少女の死体を腹部で切断する。一日まったせいか、出血は思った以上に少ない。
途中、二度鋸が引っ掛かり鋸を止めた。それは、子宮を突き抜け腹部上部まで達した木刀と少女の腰椎であった。今、こうしている間にも光夫には、罪の意識とか後悔という悲壮な感覚は不思議となく、むしろ完全犯罪に挑戦するという、どこかゲームを楽しむというか、世の中が、警察が、どのように反応するかというそのことばかりが光夫の頭を占領していた。光夫の精神は殺戮を経験したことにより少しずつではあるが強靭さを備えはじめたのかもしれない。或いは、完全に狂気へと脱皮したのかもしれない。ただ、確かなことは光夫自身の意識の外で微妙に何かが光夫の中で変化を起こしつつあるということだった。
その日の深夜、光夫は死体をごみ袋に詰め、車のボンネットにほうり込み家を出た。国道2号線をひたすら西へと走らせる。目前の5連メーターが視覚を刺激する。光夫は、軽い興奮状態を維持していた。車のステレオからは、ショパンの幻想ポロネーズ(ポロネーズ第七番)変イ長調OP.61が優美かつスケールの大きな作風で光夫を包み込む。
2時間余り走っただろうか、光夫の車は岡山県に入っていた。時間の感覚がいつもと違っていた。やけに流れる車の窓からの風景が眩く光夫の視覚を刺激する。光夫の五感はいつもより鋭敏になっていた。本能を剥き出しに少女を犯したことに依るものなのかもしれない。ドライブインが光夫の目に入った。かなり大きな駐車場があり死体を放置するのには国道から店が死角となり好都合である。元々、場所など、どこでもよかった。
光夫は、このドライブインに少女を放置することに決めた。国道から死角となる場所に車を止めボンネットから少女を出しごみ袋から少女を出すと、まるでマネキン人形のような上半身と下半身が姿を現した。生前の張りは皮膚にはないが花で例えるなら蕾の時期にあたる少女の身体は、やはり美しいものである。光夫は腰椎の部分で切断した胴体の切断面を下にして放置した。その膨らみかけた現在は硬くなったその乳房を口に含み別れを告げる。
翌朝、朝のニュース番組は「胴体バラバラ連続猟奇殺人」等の見出しで賑わっていた。少女は、河野さゆりというらしい。地方都市姫路を舞台にしたこの事件は日本国中を震撼させる。
薄暗い部屋に重い吐息がこだまする。汗が滴り落ちる。光夫は身体を痛め抜いた。筋肉に刺激を与えると心の平静を保てることに本能的に気がついたのだ。肉体と精神の限界を僅かに超えたウエイトトレーニングを毎日続けた。それは女との情事を最高に楽しむためでもあった。肉体を鍛え上げ、雄の強さを女に思い知らせる為に光夫は栄養を摂取する。ただ、それだけの為に・・
大きな三面鏡にその裸体を映し出す。そこに、投影されるのは、創られた虚飾の自己と飾りのない客観的に見た冷静な個人だった。そこには、明らかに、自分と容貌の似かよったもう一人の自己が映し出されていた。映し出される場所は決まっていた。左右の鏡だ。そこには、もう一人の自分が見える。そして、正面の鏡には見栄と虚飾で着飾った。醜い煩悩の塊が映し出されている。どうして、今、自分はここに、存在しているのか?光夫は毎日、ここで自問自答していた。手の平を鏡に押し当てる。掴もうとしても掴めない世界が光夫の直前に果てしなく広がる。それは、悪い夢を見ているような感覚だった。そして、その鏡の奥には、暗い闇が際限なく広がっている。そう、狂気という決して逃れることのできない重く暗い、そして甘美な闇の世界に光夫は精神と肉体を捧げようとしているのだ。
身体が猛り、精神が錯綜する。目に見えない何かの意志で光夫は日々を過ごすかのように夢想と現実を何度も何度も行き来するのだった。
翌年一月より光夫は新しい職を求めて動きだした。今までの経験を活かして、地元の信用金庫、地場の中小証券会社等を受けたが、どれも不採用、光夫のように二流大学を出てバブル景気の波に乗って一流証券会社に滑り込んだ者にとって世間は厳しかった。勿論、仕事の内容さえ選り好みしなければ、あるにはあっただろうが光夫のプライドがそれを許さなかった。職もなくただブラブラし夜の街で知り合った女性と一時の快楽を貪りあう。いま光夫には、あの異常な性行動はなかった。しかしそんな快楽だけの日々が長く続く訳はない。車の支払い、家賃等、彼のささやかな貯えは目に見えて減っていった。がその頃の光夫には、もう真面目に働く気など無くなっていた。光夫は、その恵まれた容姿と巧みな話術で、夜の街で知り合った女性に売春をさせその上前をはねるという管理売春業を始めた。持ち前の行動力と女性スタッフに恵まれたことも手伝い光夫の収入は三月も経ったころにはサラリーマン時代の約五倍の150万を軽く超えていた。女には不自由しない、金もそこそこはある。そんな生活が一年程続いた。そんな、1996年も終わりに近づいた十二月の下旬にその事件は起こった。反政府ゲリラによるフィリピンのペルー大使館人質事件である。この事件を境に日本の株価は急落した。光夫は、これを見逃さなかった。全財産を投じて株を買いあさったのだ。約二千万、光夫にとって大きな賭けであった。現物取引の無借金投資とはいうものの読みが外れれば、目減りしてしまう。光夫がステップアップするには、やはりまとまった金が必要だったのだ。膠着状態が続く。やがて、政府側の強行突入という形で事件は終結した。光夫は株価の動きに注目した。そして、しばらくすると光夫の思惑通りに株価は上昇に転じ事件前の水準にまで戻ったのである。光夫の持ち株は時価で一億ちょっとに膨れ上がった。それを売り抜けて光夫は約一億の金を手にしたのであった。
光夫は、この頃から一人の女性と交際していた。例の株取引がきっかけで知り合った証券会社の支店長秘書をしていた雨宮京子という名の女性である。歳は光夫より二つ下の二十五歳、身長167cm体重47kg日本人離れしたエキゾチックな顔立ちにツヤとハリのある小麦色の肌、そしてスレンダーな肢体長身の光夫とは似合いのカップルである。
この頃の光夫は、とても精神的に安定していた。
あの加虐的な性行動は一切形を潜めていた。
おそらく、大金を手にし魅力的な女性を得たことが光夫を世間一般でいう正常へと導いたのかもしれない。
光夫と京子は毎日のように愛しあっていた。大きな瞳、分厚い唇、目の下の大きなホクロ、スレンダーな肢体、最初、おとなしく光夫の抱擁を受けていた京子も、だんだんと大胆になっていく。二人の激しい情事は止めども無く続いた。
(6)異常な天才
京子との快楽の日々が少し気だるくなっていたそんなある日のこと、光夫は暇をもて余し近くの港で釣りに興じていた。美しいとはお世辞にもいえない港だが、それなりの開放感は味わえる。洒落た麦藁帽子にサマーベッド、淡路島へ向かうフェリー、漁師の漁船、光夫は、サラリーマン時代によくこの港に釣りをしにきていた。サラリーマン時代の思い出がぽつりぽつりと光夫の頭に浮かんでは消え、浮かんでは消える。べつに魚は釣れなくてもよかった。何もしない時間を楽しむ為にやって来たのだ。いつもより時間の流れがゆったりとしている。光夫の精神は充実していた。
時間に身を任せ釣り糸を垂れていると「クォーン」という戦闘機のような爆音が聞こえてきた。だんだんとその爆音が大きくなり、やがて波止場の倉庫の影から姿を現した。真っ赤なフェラーリテスタロッサだった。地を這う真っ赤な毒蜘蛛のようにぐんぐん迫ってくる。
その全長4510mm、全幅1970mm全高1160mmのド迫力ボディに光夫は、しばし目を奪われた。テスタロッサは光夫の横に止めてあった黒のポルシェ911の横に停止した。空気を震わす非日常的な爆音が一瞬に消えいつもの、のんびりとした日常へと戻った。爆音のせいか光夫の耳は耳鳴りが治まらない。テスタロッサの左のドアが跳ね上がった。そのコックピットに収まっていたのは、光夫と同世代の若者だった。光夫に負けず劣らずの長身、日本人離れしたスタイル、青白く少しこけた頬、つり上がった一重の鋭い眼、光夫とは少し違ったタイプの容貌である。そして左の手首には、ホワイトゴールドの宝飾時計が眩く輝いていた。
「何か釣れますか?」
と若者が話しかけてくる。その鋭い外見の印象と裏腹に柔らかい口調で話かけてくる。鋭い容貌のためか笑顔が際立つ。魅力のある容貌だ。
話を聞いていると彼も暇を持て余して海を見に来ているようだった。光夫は彼に不思議な好感を持った。言葉では言い表せない。そう文字通り不思議な感じだった。彼は、その鋭い容貌とは裏腹にとても人懐っこい性格の持ち主のようだ。どんどんと光夫に喋りかけてくる。
「今日、良い天気ですね」
「うん、そうだね」
「このポルシェは、あなたのですよね?ポルシェもいいですよね」
「フェラーリに乗っている人に誉められても皮肉にしか聞こえないな」
「ははは・・・」
二人は、意気投合し、その夜会おうということになった。彼が光夫を呼び出したのはジョージアダムスという名の場末のジャズバーだった。傷だらけのカウンターに二人は腰を降ろした。薄暗い店内には、ジョンコルトレーンが巨大なJBLのスピーカーから鳴り響き、その迫力のある低音がドンドンと胸を叩く。煙草の煙が雲のように漂っていた。煙が光夫の眼を刺激した。煙草を吸わない光夫にとっては、あまり歓迎したものではない。彼はカンパリソーダをオーダーし光夫はジントニックをオーダーした。昼間は気づかなかったが薄暗いこの店内に映る彼には凄みがあった。伸び伸びとした筋肉を覆う張りのよい肌はオーラさえ放つ。
彼は、自分のことをポツリポツリと話し始めた。彼の名は、近藤真一郎、去年の三月に東京藝術大学を卒業したばかりの光夫より二つ年下の青年だった。大学を卒業してから就職もせず何か自分で始めたいと話す。今は時折大学での専攻だったピアノを弾き、気ままに暮らしているらしい。そんな、真一郎に光夫は自分と同じ何かを感じ、互いの連絡先を教え合い別れた。
空虚な日々が続く、もうこの頃には光夫は売春業からは手を引いていた。京子との出会いが光夫を少し変化させたようだ。
現在の日本は皆平等といいながら実際にはハッキリと階級に分かれている。社長がいて
社員がいる。金持ちがいて庶民がいる。持つ者と持たざる者、そう金である。金の無い太古の時代には腕力の有る者が人の上に立ち金の有る現在の世の中では金が全てを支配する。かなり極端に偏った考えかたではあるが、それが光夫の、いつも辿り着く結論だった。
しかし、今の光夫には何をしていいのか解らなかった。一介のサラリーマンだった光夫は持ち前の度胸と行動力で小金を手にしたが、これから先の絵を描くことが今の光夫にはできなかった。
そんな或る日、光夫の携帯電話が鳴った。
真一郎からだった。「会わないか」ということだった。暇を持て余している光夫に断る理由もなく、その夜、ジョージアダムスでおち合うことにした。光夫が約束の時間に店に行くと真一郎はすでに来てコロナビールをオーダーしていた。ライムを瓶の中に落としたコロナビールは光夫の好物でもあった。
「マスター同じ物を」
「やあ、悪いですね呼び出しちゃって」
真一郎は無邪気な笑顔で光夫にそう言った。
「いや、俺も暇だったから誘ってもらうと助かるよ」
実際、光夫は真一郎に惹かれるものがありそれは本心からだった。それが何かは漠然としたもので言葉、形で言い表せるものではなかったのだが。
光夫と真一郎はカウンターからボックス席に移った。光夫の座っている古ぼけたソファの横には巨大なJBLのスピーカーが鎮座している。どうやら真一郎はこの店の常連のようだ真一郎が初老のマスターに歩み寄り何やら談笑していたかとおもうと、さっきまで鳴り響いていた。ジョンコルトレーンのボリュームが極端に低くなった。おそらく真一郎の光夫に対する配慮だろう。真一郎もソファに腰を沈めた。たわいもない話が続き、そろそろ酔いも醒め始めた。その瞬間真一郎が・・・・
「実はぼく、人を殺してるんだ」
と改まった表情で光夫に言った。光夫は冗談だと思い。
「何人?」
と笑って聞くと。
「わからないよ」
と言う。
「冗談とは違うんだ!」
真一郎が語気を荒げた。光夫は愕然とした。今まで和んでいた空気がピーンと張り詰めた。
「どうして?」
光夫は怪訝な表情で訊ねた。
「どうしてだって、う~ん、べつに特別なことじゃないんだ。光夫君だってあるだろうかわいいものを見ると、力一杯抱きしめたいっていう感情がさ」
真一郎は光夫に同意を求めるようにそう言った。
どういう運命の悪戯か今ここに何の接点もなかった二人の殺人鬼が、ひょんなことから二人酒を飲みグラスを傾けている。
光夫の脳裏に忘れかけていたあの甘美な世界が蘇った。人間をまるでマネキン人形を解体するかのように破壊していく快感、あの狂気が光夫の心に復活したのだ。
「だけど、迷惑しているんだ、ちょうど同じ時期に岡山で女子学生のバラバラ殺人があって、それもぼくが犯人だって思われているんだ」とまるで、小さな子供が拗ねているような邪心のないあどけなさが話しの内容をまるで子供の頃の悪戯の思い出話のような軽いものにしている。
「はははは」
光夫は笑いが止まらなかった。
「何が、そんなに可笑しいんだい」
真一郎が光夫の意外な反応に目を白黒させる。
「いや、ご免、ご免、何でもないんだ。でもどうして、そんな重要なことをこの俺に?」
そう言うとテーブルのコロナビールを飲み干した。
「何故かは解らない、光夫君に僕と同じものを感じたからかな?そう、働いている様子もないし、その得体の知れないところが、たまらなく魅力があるね」
真一郎は、その鋭い目を輝かせて、そう言った。
「はははは」
光夫はまた大笑いをした。今、真一郎が光夫に言ったことは光夫が真一郎に感じていたことそのままだったからだ。光夫の笑いに真一郎は虚をつかれた様子だ。
「本当に光夫君は変な人だなぁ」
真一郎は少し機嫌を損ねたように言った。
「ご免、ご免、深い意味は無いんだ。ただ類は友を呼ぶって言うじゃないか。あれは本当だなって思ってな」
「光夫君は訳の解らないとこあるね」
真一郎は、呆れたように言った。真一郎には光夫の真意は理解しようがなかった。
「今日、言ったことは、絶対秘密だからね」
そう真一郎は光夫に念を押して二人はジョージアダムスを後にした。光夫は運命の悪戯に苦笑した。
光夫が自宅のマンションに戻ると京子がソファに腰掛けて待っていた。シャワーを浴びていたのだろう。バスローブを身に纏っている。小麦色の乾燥した肢体が白いバスローブ
に包まれていた。
光夫は説明のできない興奮を覚えた。
「お帰り」という京子を光夫はソファに押し倒し髪の毛を両手で鷲掴みにすると京子の口が醜く歪むほどの接吻をする。最初、戸惑っていた京子も抵抗の手を止め光夫の身体を撫で回す。京子のバスローブを剥ぎとり生まれたままの姿にすると光夫は、いきなり京子の中に入っていった。京子のソノ部分は必要にして充分な潤いがすでにあり絶頂への階段を昇り始めた。光夫の腰の動きがだんだんと激しくなっていく、それにつれ京子も光夫を締め付ける。その瞬間、光夫の両手が京子の首に添えられた。光夫の動きが一層激しくなる。光夫の両手に突然力が込められた。京子の身体は首で固定され光夫が突き上げるごとに激しく揺れる。美しい京子の顔が赤く腫れ上がり、醜く歪む、そして青白く変化したかとおもうと表情を無くした。光夫はハッとして動きを止めた。そして慌てて京子の頬を数回叩いた。
「京子!京子!」
光夫は叫んだ。京子はかろうじて意識を回復した。おそらく京子も絶頂の頂きで意識を失ったのだろう、なぜなら京子の両手は自由であり、その気さえあれば光夫の顔を掻き毟ってでも抵抗できたはずである。しかし、光夫の身体には京子が絶頂の頂きに昇りつめたときに残る背中の爪跡だけが、いつもより深く残っているだけだった。
真一郎は、ホテルの最上階のスイートに居を構えていた。大理石張りの床に巨大な水槽、その中にはアロワナとピラルクが悠然と泳いでいた。その水槽の向こうにはナツジの最高級のソファに赤御影の大理石のテーブル、その上には、ロマネ・コンティが栓を開けられ主人の体内に入るのをゆっくりゆっくりと待っていた。そして、真一郎の横には、ハルクイン柄のグレート・デンが礼儀正しく座っていた。巨大な犬だ。
「光夫君、光夫君の夢は何だい?」
真一郎はロマネ・コンティの入ったグラスをくゆらしながら光夫に問い掛けた。
「そうだな、当座の生活をしていく小金には不自由していないから、唸るほどの大金を手にすることかな」
光夫は真一郎の唐突な問い掛けに本心を答える。
「そうなんだ。ぼくは、少し違うんだ。光夫君、人間の値打ちは何だと思う?」
真一郎の眼が鋭く光った。そして光夫を試すように再び問い掛けた。
「う~ん難しいな。やっぱり金かな」
光夫は何か格好の良い文章を探したが、気のきいたものは浮かんでこない。
「お金か、確かにそれも大事だと思う。でもぼくは、人間の値打ちっていうのは自分の一声で、どれだけの人間を動かせるかということじゃないかなと思っているんだ」
真一郎は、グレートデンの頭を撫ぜながらそう言った。
「どれだけの人間?それは、人数?それともどれだけの器量の人間ていうこと?どっちなんだい」
「両方だよ」
真一郎はきっぱりそう言った。
光夫は自分と真一郎の考えの違いに一つのことを発見した。真一郎は光夫の欲するものはもう既に手に入れているのである。彼にとって黄金は既に必需品ではないのである。これが考え方の違いの大きな原因だと光夫は即座に理解した。とその瞬間、水槽のアロワナが大きくジャンプした。真一郎の身体はびくんと動いたが光夫は平然と考えを進めていた。
「ぼくは、思うんだけど人間というのは動物だから本能があるよね。だけど大半の人間は支配者に都合の良いように創られた法律やら、道徳に縛られて生きている。もっと思うがままに生きるべきだと思わない?」
真一郎は子供のようなあどけない表情で光夫に語りかけた。
「確かに、そう思うよ」
光夫は同意した。
「寝たいときに寝て、食べたいときに食べて犯りたいときに犯る、それが自然な姿だと思うんだけどな」
真一郎のその言葉に光夫は苦笑した。それは、真一郎の屈託のない口調と、あまりに自分と考えが似通っていることの驚きに対するものであった。
「今、そういう生活してるんだろう。違うのかい?」
苦笑まじりにそう言うと。
「80%位はね。でも、まだ20%は本能を抑制しているね。あーいやだいやだ」
そう言うと無邪気に顔をしかめるのだった。まるで子供のような真一郎のそれに光夫はまた苦笑してしまった。光夫は育ちの良さとか品の良さを真一郎に感じていた。馬で例えるなら生粋のサラブレッドである。自分は精々、アラブかなと自分を分析していた。が不思議と真一郎に嫌悪感は抱かなかった。
「光夫君は、喧嘩したことあるかい?」
真一郎は少し間を置いて光夫に問い掛けた。
「ああ、あるよ」
光夫は軽く首を縦に振った。
「どんな、喧嘩だい?」
「どんなって、普通の喧嘩かな」
光夫は真一郎の問い掛けの意味がはっきり理解できないままそう答えた。
「自分が優勢になって相手が無抵抗になったときの快感、最高だろう。許しを乞う人間をなお痛めつけるときの快感あれはセックスのそれに似ていないかい」
目を爛々とさせて真一郎は語る。その手は微かだが震えていた。光夫は真一郎のサディッスティックな精神に微かな恐怖を覚えたが、多かれ少なかれ人間にはそういったものが宿っているものだし、光夫にも共感するものが確かにあった。
「うん、そうかもしれないな」
差し障りのない答えを光夫は出す。
「どうして、人を殺したんだい?」
今度は光夫が問いかけた。
「そんなに大きな意味はないよ、ぼくにとって誰かを殺すのは散歩するのと同じなんだ。
殺したくなったら適当なヤツをみつける。そして、みつかったから殺した。それだけだよ」
真一郎は淡々と語った。
「でも、どうして女性ばかりを殺したんだい?」
光夫は湧き上がってくる好奇心を抑えきれず間髪をいれずに畳みかけた。
「そりゃ男だからね。女性とセックスしたいと思うじゃないか、ただぼくはそれだけじゃ
満足できなかっただけさ、それだけだよ。そうセックスの延長と考えてもらったらいいかな。でも最初の頃はセックスするだけだったんだよ。それだけで満足していたんだ」
真一郎は無表情でやや上方に視線をやりながらそう呟いた。
「僕にとって女というのは快楽を得るための道具でしかないのさ、いや、おもちゃといったほうがいいかもしれない。女と知り合うと
この女をどうやって料理してやろうかと考えるんだ。一人でいると落ち着かないんだよ。
女をレイプしてから殺す。その場面を想像しないと寝りに就けないしね。こうやって誰かと話しをしていると、そんなことは考えないんだけど」
そう言うとテーブルのロマネ・コンティを口に含んだ。
「いつ頃からなんだい?」
「解らないよ。ただ僕が思うのは、ちっちゃい頃から蛙の口に爆竹を放り込んだり腹を裂いたり猫をエアライフルで撃ったりすると、時間の経つのを忘れるぐらい楽しかったね。それと同じだよ。大人になるにしたがって、欲しい物の金額が高くなっていくじゃないか。例えば、子供の頃、おもちゃのミニカーだったのが、大人になると何百万もする車になっていくだろう。それと一緒だよ。動物で我慢できていたのが大人になるにしたがって対象が人間に変わっていった。簡単なことだよ。今は、人より動物のほうが可愛いかな、動物は裏切らないからね。こいつのようにね。なあ、ベス」
どうやら、この巨大な犬の名前はベスというらしい。そう言うとベスの身体を引き寄せた。子牛のようなその犬は真一郎の太腿の上に顎をのせ目を細めている。さっきまで綺麗に断耳され精悍さを醸し出していた立ち耳は、その表情に合わせ優しく後方に寝ていた。
「なあ真一郎、人間は何のために生きていると思う?」
光夫は自分の疑問を真一郎に問い掛けてみた。
真一郎なら自分の疑問を解き明かし暗中模索している今後の生き方のヒントを得られるのではと思ってのことだった。
「それは種の保存だよ。人間も動物なんだよ勝手に人間が自分達に人間という名前を付けただけのことであって、その証拠に哺乳類の脊椎骨の数は頚椎が7個、胸椎が12個、腰椎が5個の計24個なんだ。これは、人間は勿論、犬、猫、その他の哺乳類全て共通しているんだ。だから、セックスしたいという欲望は子孫を残したいという欲望とイコールなのさ。ついでに言うと俗に言う面食いというやつは良い遺伝子を残したいという人間の本能だよ。そして、死があるからこそ、子孫を残す必要があるんだ。ただ、人間は動物になれるけど動物は人間にはなれないけどね」
「それは、どういう事?」
光夫は真一郎の最後の言葉が気になった。
「狼少女の話しは知っているだろう。人間は教育を受けないと、犬にでも狼にでもなれるけど、狼はどんなに教育を受けたって人間にはなれないってことさ。そして、人間は幼少期の環境がその後の人生を大きく左右する。狼少女のカマラは八歳で発見されてから十七歳で死亡するまでの九年間、人間に戻すための教育を施されたにもかかわらず死亡時の発達水準は普通児の四歳児レベルにとどまったらしいよ」
真一郎の無駄の無い説得力のある返答に光夫は感嘆した。その論理は時間があれば少し頭の切れる人間ならばできそうな芸当だが、このような即時即答の場面でこれだけ的確に答えられると、その正否とは関係なく知能指数の高さ、洞察力、並の人間じゃないということを光夫は確信した。
「話しは、変わるけど僕は今とても興味を持っていることがあるんだ・・・・・それは、ギロチンの首には生命があるのかな?ということなんだ。この本なんだけど、一九〇五年にボーリオという医学博士が、ある死刑囚の処刑直後に、切られた首の表情を克明に記録している実験レポートなんだ。それにはこう書いてあるんだ。いいかい読むよ。『死体の眉と唇は、五、六秒間、不規則な引きつりを見せた。それからやがて動かなくなり、顔はたるみ、瞼はかすかに開いて、白眼しか見えなくなった。私が大声で名前を呼ぶと、瞼が少しずつ開き、ちょうど眠っている人間が目覚めたときのような緩慢な動きを見せた。やがてその目は私をじっと見つめた。瞳孔は狭くなったが、死人のような無表情な目つきではない。確かに生きている人間の目だった。そして、再び大声で名前を呼ぶと、またも瞼が開き、私をじっと見つめ、そして目が閉じられた。しかし三度目には、呼んでももうピクとも動かなくなり、眼球はすでにガラス状になっていた。この間、約三〇秒のことである。』どうだい、興味深いだろう。首を切られてもしばらくは言葉に反応するんだよ」
そう言うとテーブルの下から取り出した本を元の場所に戻した。
「いろんな実験をする人がいるんだな。そういえば鶏が首を切断されても、しばらく走っていたのを見たことあるよ」
光夫は真一郎の話しから昔、近所の養鶏場で鶏を捌いていた老人の姿を思い出した。無表情で鶏の首を次々と鋭利な刃物で切断していくその光景はまだ幼かった光夫にとって大変ショックな出来事だった。切断される瞬間のあの身体の強ばりが光夫の身体に時を越えて蘇った。
「へぇーそれは初耳だなぁ。どんな感じなんだい?」
真一郎は微かな笑みを浮かべて身を乗り出した。とても関心がある様子であることは容易に感じとられた。光夫は気持を取り直して今はセピア色に染まったその記憶を詳細に身振り手振りで話し始めた。
「うん、その老人の周りには無数の鶏が集っていたよ。それは、まるで鳩に餌を与えている、そんな光景だった。そう、偽の笑顔を作ってね。まず鶏の首を左手で鷲掴みにして胸の位置ぐらいにまで持ってくるんだ。その時鶏は羽を必死にばたつかせていたよ。そして右手でバッサリさ、そうすると胴体の部分が地面に落ちるだろう。落っこちたら、そのまま胴体だけが五メートルほど逃げるように走るんだ。そしてバランスを崩してコロコロと転がってジ・エンドさ。その瞬間老人が僕の方を見てニタリと笑ったのを今でも覚えているよ。ひどい猫背で薄汚れた作業服を着た小鼻のところに大きなイボのある目つきの悪い老人だったよ。あまり良い思い出じゃないけどね」
光夫は苦い記憶を飲み込むようにテーブルのロマネ・コンティを一気に飲み干した。
「人も鶏のように身体の方も動くのかな?」
真一郎はベスの頭を撫でながら無表情でそう言った。
「だけど命ってなんだろうな?」
「命か、ぼくは、思うんだけど、人間の身体は動かさないと、筋肉は細り、骨は脆くなり関節は固まる。そして、動かすと鉄板を何度も折り曲げると切れるかのように疲労する。人間の肉体というのは、その矛盾の中で日々を送っているのさ。老いることは宿命だよね。そして、その終着点が死という形になるわけなんだ。そして、その時期は生まれた時点で遺伝子に刻まれている。命の始まりは死への始まりでもあるんだよ。そう、光夫君も僕も今こうやっているあいだにも一秒、一秒間違い無く死に近づいているのさ。僕達は死へのストーリーを生まれた瞬間から演じているってことさ。そう赤信号で止まるのも、青信号で進むのもね。まあ、どちらにしても、そうたいした物じゃないと思うよ。僕は」
光夫の漠然とした問いかけに真一郎はそう答えた。
(7)過去
昭和五十四年 夏
フルコンサートサイズ、それは、全長が二メートル七十センチのグランドピアノのことを指す。そして、その最高峰がスタンウェイだ。接合部分は全てダボにより接合されており一本のボルトも使用していない。そのこだわりは究極の音色を醸し出す。
そして、そのスタンウェイからショパンの美しい旋律が繰り返されていた。
「素晴らしい!」
東京芸術大学出身のピアノ講師を感嘆させる少年がそこにはいた。少年が一度聞いたその美しいショパンの旋律は彼の手に依り更に芸術的なものへと昇華する。その無垢な心は純粋に音楽を表現する。邪心はない。その第二次性徴期を直前に控えた幼い手から奏でられる旋律は既に十二歳の少年のものではない。
そこには円熟期を迎えたピアニストのテクニックと幼い子供の肉体があった。ピアノ講師はあまりの美しさに涙し少年に恋をする。
そして、その少年に人生の転機が訪れるのは、それから間もなくのことだった。
衝撃的だった。首にロープのようなものが巻きついたと感じるやいなや、それは少年の首をきつく縛った。直感的にロープと首の間に指を滑り込ませる。渾身の力でロープを首から離した。背後にいたのは母親だった。
「何するんや!」
少年は母からロープを取り上げると必死の形相で母にくってかかった。
少年の必死の抵抗に母はその行為を諦めた。
風に木立がざわついた。その空気の歪みの下に言葉では表現できない緊迫した空気が張りつめていた。少年には母親の突然の行動が理解出来なかった。ただ一つ確かだったのは母親が自分を絞殺しようとしたという事実が今ここにあるということだった。母は無表情だった。
「なんでや!」
少年の必死の叫びにも、ただただ母は無表情だった。生温い風が吹き蝉の鳴き声が少年の叫びを打ち消した。
母は無表情だった。
その日、少年は台所の西隣に位置する六畳の部屋で西瓜を頬張っていた。
「蝉捕りに行かない?」
「うん!」
少年の弾んだ声が部屋に響く。
母親は少年を蝉捕りに行こうと誘った。少年は断る理由もなく、その誘いに乗った。というよりは少年の楽しみの一つであった。母親は、いつもと様子が違うでもなく少年にとって優しく、そして美しい母であった。
茹だるような暑い夏の日の午後だった。真っ白なワンピースが夏の陽射しを反射させ眩い光を放っていた。少年は右肩に水筒を引っかけ、真っ白のTシャツに紺色の半ズボンという出で立ちで蝉捕りの場所に向かった。その場所は小高い丘の上にあった。特別に今日だけ違う場所というわけでもない。いつもと同じだ。空は青く晴れ渡り西の方角には入道雲が鎮座している。少年は夢中になって蝉を捕っていた。蝉の鳴き声が母と子を包んでいた。真っ黒に焼けた肌に汗が光っていた。たまに南の方角から風が吹くと木々の葉が擦れ合って涼しげな音をたてている。丘の周囲には雑草が生い茂り、中心の部分は簡単な公園のように整備されていた。
ムッとする臭気が漂ってきた。その臭気の源は草叢の中の犬の死骸だった。茶色の通称赤犬と言われる柴犬に似た雑種だった。眼には無数の蟻がびっしりと集っていた。しかし特別なことではない。当時は野良犬が何らかの理由で野垂れ死に、そのまま放置されていることが多々あったのだ。少なくとも少年にとってはいつもと同じ夏の昼下がりだった。蝉捕りに疲れたのか少年は木の切り株に腰を降ろし水筒のお茶を飲み干した。虫かごには数匹の蝉がじりじりと蠢いている。母はじっとそれを涼しげな瞳で見守っていた。
やがて、真上に昇っていた太陽が少し西の方角に傾いた午後二時半、母は少年に母としての最後の言葉をかけることになる。
「そろそろ、帰るよ」
丘に行くためには石段を上がっていかなければならなかった。幅三メートル程の石段の左右には古びた金属製の手すりがあり、その外側には木々が生い茂っており日光が遮られ薄暗くなっていた。
蝉捕りを終えた少年は母と石段を下っていた。そして首にロープが巻きついたのだ。
その瞬間母は鬼になっていた。目を剥き歯を食いしばりロープに渾身の力を込めている。その力の矛先は確実に少年の死だった。少年の顔と母の顔は接近する。鬼の息がかかる距離にまで接近した。
少年の目と脳にその形相が奥深く焼きついた。母は少年と視線があうとすぐに表情をなくしその手を緩めた。
「なんでや!」
少年の必死の叫びをまるで死人のような表情で聞き流し一人家路についた。少年はただ後をついていくしかなかった。絶望が少年を襲った。生きていくには希望が必要だ。希望のない人生に先はない。少年は頭を何か堅い大きな物で強烈に打撃されたようなそんな目眩のようなものを無意識に感じていた。それは、精神の何かを抉り取られた、頭の中の何かがプッツリと切れてしまったような感覚だった。少年の心はここで死んだのだ。放心状態が続く。
母と子はそれでも一緒に暮らしていた。十二歳の少年にとって、それは仕方のないことだった。父親は何も知らずに安穏としている。一つ屋根の下で暮らしている人間が信用できない。それは、地獄である。十二歳の少年には過酷すぎる試練でもあった。しかし、それでも生活は残酷にその時を1秒1秒刻んでいく。同じ時刻に起き、同じ時刻に食事を取り、同じ時刻に寝る。以前と変わらない生活が繰り返されていた。ただ少し変化したのは少年と母親の会話が減ったことである。必要なこと意外少年は話をすることが無くなった。父親はその事に気をかける様子もなかった。少年は恐怖に慄いていた。毎夜、恐ろしい夢をみるようになっていった。寝るのが怖かった。黒い大きな猫に追いかけられる夢、犬に噛み殺される夢、手足をもがれる夢。
しかし、父にその事件を話すことは出来なかった。何故だろう、おそらくそれを言ってしまうと、それが現実の事となってしまうのを恐れていたのかもしれない。少年にとってあの日の出来事は幻であって欲しかったのかもしれない。母はあの日以降別段変わった様子はない。何事もなかったように生活を続けそして少年に優しく語りかける。以前と同じだ。
「何故?」
少年には、その一言が言い出せなかった。それを言ってしまうとあの忌まわしい幻が現実のものとなってしまうのが恐ろしかったのだ。十二歳の少年には時間の経過と共にそれが映画のワンシーンのような仮想の世界の出来事にさえ思えてきた。いや、思いたかった。母を許したいが許せない、少年ゆえの純朴さがその精神の傷を時と共に大きなものにしてしまった。
一方、父親は少年を溺愛していた。少年の容姿は父親似だった。一人っ子ということもあり欲しいと言った物は何でも買い与えた。その父親もまたそうであった。
そんな父親を母親はうとましく思っていた。
よく少年の事で言い争っていた。表面上家庭は円満を装っていた。もしかしたら本当に円満だったのかもしれない。十二歳の少年はそこまで考えることはなかった。またその必要もなかった。
少年が高校生になると、母と子の関係はいっそう険悪なものとなっていった。少年の心の片隅には、いつもあの日の出来事が存在していた。恐怖心というのは時間の経過と共に風化していたが、母親の自分に対する激烈な裏切り行為が少年の精神をいびつなものにしていた。そして恐怖の心は精神と身体の成長に伴い激しい憎悪へと変化していった。『母親に殺されかけた自分』それは、深い心の傷となって少年の心を悩ました。
そう、治ることのない傷として・・・・・
そして自分の母親はあの日を境に死んだと信じることにした。
父親の少年に対する溺愛ぶりは相変わらずだった。それは少年が高校生になっても変わることはなかった。欲するものは全て買い与えられた。祖父は近隣に借家を何軒も所有し、父親は上場企業の役員を務めており実家は裕福だった。自分が親に与えられた愛情そのままを息子である少年に同じように与えた。それは教育にたいしても同様だった。
優秀な大学にはいりエリートサラリーマンとして出世の道をひた走る。それが父親が少年にたいして望んでいたものだった。少年も父親と同じような人生を歩むはずだった。決められたレールに乗った約束された人生を、ただ一つ少年と父親に大きな違いがあった。それはあの日の忌わしい事件であり、それが少年の今後の人生の全ての源となってしまった。それでも表面上は父親の理想とする人生を歩んでいた。やがて少年は地元の有名進学高校から東京藝術大学の演奏コースに苦も無く進学していった。なおかつ少年は容姿に恵まれていた。彼に言い寄ってくる女性は数多くいた。彼は自分から女性にアプローチする必要はなかった。そして努力の必要なく全てのものが与えられる。そこに創りあげられたのは高すぎるプライドに脅かされる貧弱な自己だった。
少年そして彼の名は近藤真一郎だった。
女の園。音楽大学、学生の九割は女子が占める。夢と希望に満ち溢れた顔、顔、顔、そして、濁りのない喜悦の声がいたるところから聞こえてくる。そんな中、真一郎は手帳をゆっくりと広げていた。
〔恵美子、終了〕
次のページを広げる。
〔めぐみ、終了〕
〔千賀子、終了〕
その、予定の合間のいたるところにこんな文字が書きこまれている。真一郎は付き合いのある女と別れる日を事前に決定しているのだった。女との別れに理由などない、あるとすれば、それは日付だ。別れようと決めた日に他の予定が入っており書くスペースがなければ日をずらし書きこむだけだ。そして、それは出会ったその日に決定され、その日が訪れると突然に実行される。
それは、まるで愛情を捨てる為の訓練のようでもあり、冷酷で非情な人間になるが為の訓練のようでもある。
真一郎20歳、春のことであった。
その日、真一郎は一人で飲みに出ていた。
いきつけの小料理屋で軽く食事を済ませ会員制の超高級クラブで二時間程度飲み、仕上げにシヨットバーに寄っていた。極太のガラスのカウンターを挟んで店のマスターと他愛のない話をしている間に真一郎の携帯電話は、ひっきりなしに女性からのコールが鳴ってくる。クラブの女、風俗の女、女子大生、OL、などあらゆる種類の女が真一郎にラブコールを送る。そんな真一郎に隣の席の女性が声をかけてきた。
「お忙しいのね」
歳の頃は二十三、四、シャネルのスーツに身を包み少しウエーブのかかった栗色の髪を肩まで伸ばし顔の一つ一つのパーツが大きなゴージャスな雰囲気の女だった。
「どうしてだい?」
真一郎は最初、女の言っている意味がよく理解できなかった。
「だって携帯鳴りっぱなしじゃない」
カウンターの上の携帯電話を指差しながら女はそう言った。どうやら真一郎のことを気に入っている様子だ。そして、真一郎との間にひとつ空いていた椅子に座った。女は脚を組むとその豊満な肉体を摺り寄せ真一郎の左膝の上に右手を添えた。その右手には一円玉位の大きさのホクロがあった。
「ねえ、どこか連れてってよ」
その眼は真一郎を完全に誘っていた。並の男ならそのままホテルに直行ということになるのだが真一郎は違った。
「今日は忙しいんだ」
真一郎はそう冷たくあしらうと膝の上の手の手首を左手で強く握ると女の元に投げるように返した。
彼にとって女に誘われるのは日常茶飯事のことだった。
しかし、プライドの高いこの女にとってこの出来事は耐え難い屈辱だった。女は一瞬表情を曇らせたがすぐに元の艶かしい表情に戻った。
「じゃあ、携帯電話の番号と名前教えて」
真一郎は最初断ったが女は執拗に真一郎の携帯電話の番号(090-7754-3723)を聞いてきた。そのしつこさに根負けしたかたちで番号を女に教えると真一郎は女を残し約束のある女性のマンションに帰っていった。
その三日後・・・・・・・
真一郎の携帯電話が鳴った。前日の夜、クラブの女との激しい情事の疲れが残っていたせいか最初のコールで電話に出ることはできなかった。真一郎の側らにはその女が寝息をたてている。五分ほどするとまた電話のコールが始まった。
「もしもし・・・・・・」
「覚えてる?」
気だるそうなそうな少しハスキーな声が真一郎の記憶に微かに残っていた。
「ああ・・・・・」
「明日、会える?」
女は甘えるようにそう言った。真一郎は珍しく時間が空いていた。
「ああ、いいよ。」
「どこにする?」
女は甘えるような声でおち合う場所をたずねた。
「どこでもいいよ。」
「じゃあ、明日の八時にヒルトンの三○六号室でいい?」
「ああ」
真一郎はこのストレートな誘いに若干の興味を女に持った。
翌日、約束の時間に部屋に行くと女はまだ来ていなかった。三十分待ったところで真一郎はしびれを切らして女の携帯電話に電話をした。女は八回コールが鳴ったところでようやく電話に出た。
「もしもし」
「あっ俺だけど」
「えっ誰?」
「真一郎だけど」
「えーと真一郎、真一郎、あっごめんなさい。
今日、会う約束してたんだ。すっかり忘れてた。ごめんね。今度にしてくんない」
そのとぼけた口調から真一郎は全てを悟った女は最初からホテルに来る気持ちなどなかったのだ。
先日、真一郎に冷たくあしらわれたことへの復讐行為だったのだ。
「ああ、いいよ」
真一郎は穏やかな口調で電話を切った。
「うぉ―――――――」
真一郎は突然唸り声を上げた。
真一郎のプライドが激怒したのだ。
身体中の血が全身を駆け巡った。
顔面が紅潮し全身に震えが走った。
日頃、外科医の操るメスのようにクールな印象の真一郎からは想像しがたい光景だった。
止めどもない怒りが海岸に打ち寄せる波のように何度も何度も彼のプライドを浸蝕した。
未熟で冷酷でそして、ある意味完璧な頭脳は怒りの炎で理性焼き尽くす。
真一郎にはわかっていた。このどうにも収まらない怒りを静める方法が・・・・・・
そう女に対する制裁である。
真一郎にとって女の居場所を捜すことは容易なことだった。知り合いの弁護士に女の携帯番号を伝えると、ものの三十分程度でそれはわかった。
女の家は目黒の閑静な住宅街にあった。
赤黒い御影石を外壁に張り詰めた豪華であるが品性のかけらも感じさせない趣味の悪い佇まいが住人の性状を如実に映し出していた。駐車場には黒塗りのベントレーと真っ赤なベンツ500SLが横二列に並び。国産のファミリーカーならあと二台は入るであろうスペースが空いていた。
そして広大な庭にはボクサー犬とドーベルマンが放し飼いにされていた。階段のはめごろしの大きな窓からは趣味の悪い大きな壺が幾つか並べられ、その壁には鹿の首の剥製が飾られている。
家族は父親と母親そして例の女とその妹の四人家族だ。妹は大阪でデザイン関係の仕事をしているため現在この家には父親と母親そして女の三人のはずだ。
真一郎は夜まで待った。
午後七時すぎに玄関の大きなドアが開いた。派手なジャケットを羽織った父親と品の悪い毛皮を羽織った母親がベントレーに乗り込み家を出た。父親は歌舞伎町で風俗店とラブホテルを何件も経営しており決まってこの時間に家を夫婦で外出することはあらかじめわかっていた。
駐車場には真っ赤なベンツ500SLのみとなった。女の車だ。今家の中には女一人のはずである。
「宅配便です」
真一郎は宅配業者を装った。黒ぶちの眼鏡と帽子を深く被っただけの簡単な変装だ。玄関の中まではいれるように大きな荷物を用意した。
「はーい」
気だるそうな女の返事がインターホン越しに聞こえてきた。間違いないあの女の声だ。真一郎の心臓の拍動が俄かに激しくなった。女は白のTシャツにジーンズという格好で門扉にいる真一郎のところにけだるそうに歩み寄ってきた。化粧をしていないその顔は、眉が薄く、全体的に少し浮腫しているような印象を真一郎に与える。それと同時に怒りがめらめらと込み上げてくる。
「大きな荷物ね。何かしら?」
「さあ、でも結構重いですよ。中まで運びますね」
「じゃあ、お願いするわ」
女はそんなことは当然よというような口振りでそう答えた。荷物を右肩に乗せる。真一郎は女の後について玄関のドアへ向かった。心臓の拍動がどんどん激しくなるのが感じられた。空いている手の拳に渾身の力を込める。玄関の大きなドアが女の手によって開かれた。それに続き真一郎が中に入る。
その瞬間真一郎の左の拳は女の顔面に炸裂した。女は二メートル程吹っ飛んだ。不思議と悲鳴は出なかった。女の鼻の軟骨は左に少し湾曲し鼻腔からは血が滴り落ちていた。その顔には確かに恐怖と困惑が入り混じっていた。
「何すんの!」
女は倒れ込んだままそう叫んだ。当然、真一郎はその問いかけに答える必要はない。すぐさま女に馬乗りになると木製のフローリングを枕にしている女の顔面に全体重を乗せた拳を何度も何度も浴びせた。ゴン、ゴンと鈍い音が木製の床材を振動させる。女の頬骨は砕け、歯は歯茎から抜け落ちた。ショックのあまり女は気を失った。しかしこの程度のことで彼の怒りが収まるわけはなかった。仰向けになっている女の頭の方に移動すると片足を女の肩に掛け女の栗色の髪を両手で鷲掴みにすると力任せに引き抜いたのだ。
「ぎゃあー」
髪の毛を毟りとられる激痛が女の意識を束の間の回復に導く。しかし、真一郎はその行為を継続する。真一郎の手にはごっそりと抜け落ちた栗色の髪がまとわりついた。
「許して、」
女は真一郎であることに気づいたのだろうか許しを乞いだした。しかし、真一郎にとってそんなことは関係のないことだった。あるのは制裁のみ。女の姿に先日の余裕はなかった。さらに真一郎の脚にすがりつき懇願する女の腹に、容赦のない蹴りが何度も入る。女は嘔吐し胃の内容物が辺りに散乱した。胃液の饐えた臭いが漂う。
真一郎は今運んできた荷物の中からバールを取りあげ蹲っているその後頭部に最後の一撃を見舞った
それは完璧な一撃だった。
女の後頭骨と頭頂骨は砕かれた。女はびくびくと痙攣しやがてその動きを永遠に止める。
真一郎の身体は震えていた。それは恐怖のそれではなかった。今まで味わったことのない性的絶頂を迎えたのだ。真一郎自身もそれは予測のできないことであった。
の若さに 女に制裁を加えて終焉を迎えるはずの彼の怒りは今まで経験したことのない快感へと変化していったのだ。彼が、暴力によってセックスを上まわる究極の快楽を手にし、一般人と犯罪者のボーダーラインを越えた瞬間だった。
一瞬の嵐は治まり、テレビの音だけが虚しく響いていた。
(8)錯雑
光夫と真一郎は真一郎の滞在するホテルで頻繁に出会うようになっていた。天才ゆえの孤独だろうか、真一郎には光夫意外に友人といえる人間がいなかった。彼をとりまく人間達は部下か欲望満たす為の雌達だけだった。彼には普通の人間には近寄りがたいオーラがあった。唯一それを追随できるのが光夫だったのである。
その光夫も真一郎には、やはり一目をおいていた。彼の主な収入源は株の運用だった。その抜群のセンスと情報分析能力には元証券マンの光夫もただただ感服するばかりだった。真一郎の言う通りに投資を行いさえすれば黙っていてもお金が光夫のもとに転がり込んできた。
セックスと暴力の虜になった天才
光夫は改めてそう真一郎を評価した。
「真一郎、君は天才だ」
光夫の偽らざる気持ちだった。
「たいしたことじゃないよ。たまたま運が良かっただけさ、それより少しぐらい儲かったかい?」
「ああ、お蔭様で小遣い稼ぎができたよ。僕も証券会社に勤めていていろんな客に出会ったが君のように連戦連勝の人間は初めてだ。自分では株の知識は相当なものだと思っていたが君の前にいるとそんなことを考えていた自分が恥ずかしいよ」
真一郎の実力には、さすがの光夫もただ賛辞を贈るしかなかった。
「そんなことより光夫君は今の日本の不景気をどう考える?」
「どう考えるとは?」
「うん良くなっていくかどうかってことなんだけど」
おそらく真一郎のことだから自分なりの答えは持っているのだろうが光夫は自分の持っている知識の範囲で答えられるものを口にした。
「そうだな、景気の循環の法則からいくと低迷の次にくるのは上昇だと考えるのが妥当だと思うのだが、それと現在の株価の推移を見ていると半年後、一年後には今よりは良くなっていると思うのだけど、まあ、今が景気の底だったらの場合だけどね」
「うん、確かに株価は景気の半年、一年先のバロメーターであるという事は紛れもない事実だと思うし、短期的には光夫君の言うように若干は良くなると思う。だけど僕の言っているのはもっと長いスパンでの話なんだ。光夫君、今の日本の不景気はなにが原因だと思う?」
やはり、光夫の考えた通り真一郎には自分の考えがあらかじめ用意してあるようだった。
「やはり、デフレが大きな原因だと思うな」
「そうデフレーションだ。デフレというのはどういう事か解るだろう」
「ああ、一応大学は経済学部だったからな。
商品の取引量以下に通貨が収縮して貨幣価値が上昇して物価が下がるような状態じゃないのかい」
「大正解!教科書どおりだね。政府はこのデフレによる景気を上向かせるために、公定歩合の引き下げなどで企業が設備投資をしやすくするとか、株の方に資金が流れるように色々と対策をうっているようだし、確かに光夫君の言ったように若干ではあるけど株価も上昇している。だけどこの相場は、また元に戻るよ。ある一定の水準を上下するボックス圏相場の上昇期にすぎないよ。日本はこのままだと永遠にこの不況から脱出することはできないね」
真一郎の大胆な発言に光夫は興味をそそられた。
「確かに君の推論は間違っているとは僕の知識では言い切れない。だけどそう言い切る真一郎、君の根拠は一体何なのだい?」
真一郎は一呼吸おくと軽い溜息をつき静かに語り出した。
「うん、一つは今、経営の悪化した大企業が大規模なリストラ、投資の縮小や社員の削減を公然と実施しているだろう、これは、まさに物価下落を伴う景気の下降に直面した大企業の大規模な生産調整そのものなんだ。この動きはデフレがデフレを呼ぶデフレスパイラルへの突入を意味しているんだ。一九二九年のアメリカから端を発した大恐慌は知っているだろう。所得・物価の下落、投資の縮小、いっそうの所得・物価の下落という悪循環的な景気下降が今の日本に起こっているのさ。当時の大恐慌ではこのデフレスパイラルが三回も繰り返されているんだ。それに加えて一九九七年の消費税率五パーセントへの引き上げ、所得税、住民税における特別減税の打ち切り医療保険の患者負担増などの事実上の大増税がこの不況をいっそう深刻なものにしたのは間違いないね。あきらかに政府の失策だよ。それと、もう一つは歴史さ、過去二回日本はデフレ政策を実施しているんだよ。一八八二年明治十五年の松方蔵相のときと一九三○年昭和五年の井上蔵相のときなんだけど、このどちらもデフレ解消には成功していないんだよ。デフレはインフレと違って解消が困難なんだ。ただ一つの方法を除いてはね。光夫君それは何だと思う?」
真一郎はその鋭く冷たい眼を光らせた。
「いや、わからない」
光夫の正直な気持ちだった。真一郎が目を見開いた。
「戦争だよ」
「えっ!」
光夫は一瞬耳を疑った。
その驚きとは対照的に真一郎は冷静に自身の理論を続ける。
「このデフレによる不況を脱出する方法はそれしかない。戦争が勃発し全てが無になった瞬間、デフレは解消するのさ」
「それじゃあ、元も子も無くなってしまうじゃないか」
光夫は、真一郎の大胆すぎる発言に思わず苦言を呈した。
「だけどそれしか方法はないんだよ。事実第一次世界大戦前の日本は深刻なデフレに喘いでいたんだよ。それを救ったのは政府じゃない戦争だったんだ。戦争が起きると全てが無になるだろう。例えば有価証券なども紙切れ同然になるし個人の財産なども目減りする。そして戦死によって労働人口が極端に減少する。労働人口が減少すると失業者が減るだろう。もう、景気云々といったレベルの話じゃなくなるんだ。そうして、どん底まで落ちると後に残るのは上昇しかないだろう。それにこれからの時代は失業者がどんどん増えていく時代になると思うよ、企業へのコンピューター等の浸透によって従来手作業で十人で処理していたものが、一人で充分に処理できるようになってきているのは、自明の理だし、ここ数年のインターネット利用者の人口の増加には目を見張るものがある。もう業種によっては店舗など不必要な時代が目の前にきているんだ。人間は自分で自分の首を締め上げているんだよ。これからは世の中に不必要な人間がどんどんあふれていく時代だよ。そうなると先は見えているだろう。その不必要な人間をだれが面倒みてくれる?誰も面倒などみてくれないよ。これからの日本は富める者と貧する者この両者の隔たりがさらに大きくなっていくだろう。いずれこの日本は破滅の道をたどるよ、まあ病に今の日本を例えるなら末期癌というところかな、いろいろと景気対策を政府も行っているみたいだけど、それは延命治療にしかすぎないんだよ」
この理路整然と自身の理論を雄弁に語る様はとても殺人という決して得にならない博打に身を投じた人間と同一人物とは到底考えられるものではなかった。
光夫はその極端に偏った理論に不思議な魅力を感じながらもその自己陶酔的な性格に一抹の不安を感じずにはいられなかった。
「世の中の流れというのは、こうやって客観的に見てみると面白いだろう。人の一生と同じで良いときもあれば悪いときもある。そして最終的には無になるんだ」
真一郎は少し表情を和らげた。
「だけど、人間には命という終わりのあるものがあるけど世の中は永遠じゃないのかい?」
光夫は、あえて答えのわかりきっている稚拙な質問を投げかけた。光夫がよく相手の人物を探るときにとる手段だ。自分を一段下げて相手に優越感を与えるのだ。その時の相手の反応で大体の知能指数はわかる。
「その通り世の中というのは終わりがない。
でも、人間にも終わりはないんだよ。確かに命の終わりはある。しかし人間は古い世代が亡くなればまた新しい世代が台頭し、そして同じ過ちを繰り返す。歴史は繰り返すというがその歴史を創造しているのは人間だからね」
真一郎はその質問を、そんなこともわからないのかい、と馬鹿にするでもなく、真剣な面持ちで丁寧に、そして、肯定するでもなく否定するでもなくさらりとそう言い退けた。光夫はそんな真一郎に思考の深さと自分自身との共通した思考回路を改めて確信するのだった。
その日光夫は妙に気持ちが落ちつかなかった。午前九時、まだ、寝室のカーテンは閉じていた。側らには京子が寝息をたてている。
京子とのセックスはそれなりに光夫に快感をもたらしたが満足のいくものではなかった。
光夫には慢性的な欲求不満が続いていた。勿論、真一郎同様女性に不自由してのそれではないのだが、ただ光夫も通常のセックスでは性的絶頂を得られなくなりつつあったのだ。光夫が最初の殺人を犯してからかなりの時間が経過していた。京子という魅力的な異性を得たおかげで光夫の加虐の精神はいったんなりを潜めていたのだが真一郎という狂気の天才と出会い加虐の精神が頭をもたげつつあったのだ。
京子と時間を共にすることによって、以前のような身体的異常、心と身体が離れてしまったような、脅迫的な感情はなかった。
今、光夫の頭を支配しつつあるものは、暴力、そう圧倒的な暴力だった。小さな子供が蟻を指で潰すように人を破壊していく、その瞬間のセックスを上回る絶頂感、もしかするとセックスの果てしない欲望の終着点は暴力なのかもしれない。暴力で目前の相手を支配屈服させる快感それは人間の動物的本能なのかもしれない。
京子はそんな光夫の心の微妙な変化を知らず静かに寝息をたてている。光夫がかろうじて正気を保っていられるのも京子の存在が大きかった。
深夜、真一郎は女のマンションから仮の住まいであるホテルに向かっていた。
真一郎にとって、もはやセックスはスポーツと化していた。少々の快感と日常の運動不足を解消する手段それ以外のなにものでもなかった。激しいセックスの為か真一郎の注意力は鈍っていた。いつも心地よく感じられるテスタロッサのV型12気筒の爆音がやけに耳に障った。少々の眠気が彼をそうさせていた。深夜の国道2号線は昼間の渋滞が嘘のように静まり返っている。
車内のバッハのシャコンヌが真一郎のそれをより深いものにしていた。
その瞬間左側方からの激しいブレーキ音が真一郎を襲った。間一髪だった。見通しの悪い交差点での出来事だった。もう数秒真一郎の進入が遅いか、相手のベンツS600Lの進入が早ければ接触していただろう。真一郎はそのまま通過した。S600Lは方向を変えるとタイヤのキシミ音を上げ真一郎のテスタロッサを追ってきた。そして、猛スピードで追い越すと真一郎の前方を塞いだ。その運転席と助手席からは派手な服装のチンピラ風の男二人が降りてきた。一人はスキンヘッドに剃り落とした眉、一重の腫れぼったい眼、醜く垂れ下がった頬、体格はプロレスラーのように大きかった。もう一人の男は不精に伸ばした髪、垂れさがった目、そして、運転席の男と同じくプロレスラーのように大きかった。
「おい! 兄ちゃん挨拶もなしかい!」
スキンヘッドの男がテスタロッサの左ドアを足蹴にし激しい口調で真一郎を罵倒した。ドアのノブを何度もガチャガチャと激しく引き、狂ったゴリラのように肩を怒らした。
真一郎は静かにドアのウインドウを開けると、
「ここじゃ、途中で人に止められるよ。それともそれを望んでいるのかい?人気のないところでゆっくり話を聞かしてくれないか」
真一郎は眉一つ動かさず男にそう言った。その言葉の奥には明らかに激しい怒りが渦を巻いていた。
「何!上等やないか!」
男は激昂し真一郎のむなぐらを掴んだ。その腕には刺青が入っていた。
「場所を変えてとことんやったろやないか!」
真一郎のテスタロッサを握る手は震えていた。もちろん恐怖のためではない。彼の怒りの炎はメラメラと燃えていた。
今、真一郎はベンツS600Lを誘導している。
男達は真一郎の後ろにピタリと着け蛇行運転をくりかえし、信号待ちになると激しくヘッドライトをパッシングした。その威嚇行為が真一郎の怒りの炎に油を注ぐ。
「おい、念の為に事務所に車のナンバー知らせとけ」
助手席の男が運転席のスキンヘッドの男に指示をする。
「どんなやっちゃ?」
「はい、ただのボンボンですわ。どつきまわしてやりますわ。素人の分際で・・・プロの怖さを思いしらせたりますわ」
S600Lの車中ではスキンヘッドの男が鼻息を荒げていた。三十分ほど走っただろうか、二台は国道を北上し人気のない峠道を走っていた。峠に入るとS600Lの蛇行運転はいっそう激しいものになっていた。幾つかのカーブを曲がり上っていくと、少し道幅が広くなり駐車が出来るスペースがあった。真一郎はそこにテスタロッサを停止した。S600Lがすぐその後ろに停止する。S600Lの鯨のように巨大なボディもテスタロッサの前ではかすんで見える。真一郎がイグニッションキーを戻すと轟音は消え、辺りには風が吹くたびに木立の擦れ合う音だけが異様に大きく聞こえた。月の明かりがかろうじて視界を確保している。道の北側には鬱蒼と木立が生い茂り南には崖が迫り申し訳程度のガードレールがあった。
ガチャリと音をたて運転席からスキンヘッドの男が、ほんの数秒遅れて助手席からもう一人の男が姿を現した。と同時にS600Lのトランクがゆっくり開いた。
スキンヘッドの男がトランクに手を差し入れると、その手には木刀が握られていた。
圧倒的な体格差、決して小柄ではない真一郎が二人の男の前では小さく見えた。
「おい!兄ちゃんこんなとこ連れてきてどないするんや!詫び入れるんやったら今のうちやで、まあただでは堪忍できんけどのぉ、わしら痛い言うたかてやめへんで。兄ちゃんバラシタかて、行きずりの殺しや。警察も苦労するやろのう」
スキンヘッドの男は播州弁でまくしたてた。
「兄ちゃん知っとうか?・・・・行方不明者の十分の一ぐらいはこないなトラブルから消えてなくなるんやで。もうちょっと慎重に生きんとあかんのとちゃうか」
もう一人の男が真一郎をたしなめるように静かに言った。
「こっちだよ」
真一郎は、生い茂った木々の比較的大きな隙間を指さした。その指差した隙間の向こうには外灯の明かりがぼんやりと灯っていた。外灯の周りには小さな昆虫が慌ただしく群がりその下には古ぼけた木製のベンチが二つ有った。その十メートル西には少し傾いた簡易トイレの扉が風に揺られカタカタと音をたてていた。
ベンチの横には錆びた鉄製のゴミ籠があり中には残飯、空き缶、空き瓶などが乱雑に山のように積まれ、入りきらないものが辺りに散乱していた。ベンチと簡易トイレには暴走族のものであろうと思われるスプレー缶による落書きがありこの場の管理の悪さを象徴していた。おそらく、現在は木の葉が生い茂り隙間としか表現できない入り口も以前はもっと大きなものだったのだろう。
真一郎はその隙間をボクサーがリングに上がるかのように身をかがめその中へと入っていった。続いて男達がその巨体の向きを九十度変えてすり抜けるように入っていった。
男達はベンチを背にし、真一郎はその前に対峙した。スキンヘッドの男は木刀を持ち仁王立ちしている。もう一人の男がゆっくりと後ろのベンチに腰を降ろした。
「最後の忠告や!ワシも殺生はしたない。兄ちゃんもまだ若いのに死にたないやろ」
ベンチの男の言葉に虚勢はなかった。
真一郎はその言葉に眉一つ動かなかった。
今真一郎を支配しているものは破壊だった。
圧倒的な暴力で相手の肉を引き千切り骨を粉砕する。怒りは既に狂気に変わっていた。男達は真一郎の逆鱗に触れてしまったのだ。
「おどれぇ!」
突然だった。スキンヘッドの男がしびれを切らしたかのように木刀を振り上げ襲いかかった。真一郎は左のパンツのポケットに手をゆっくりと入れた。
「パン!」
それは男と真一郎の距離が一メートル程度に迫った瞬間だった。空気をつんざく音が炸裂し真一郎の左のポケットからは煙が立っていた。男は真一郎の足元に蹲った。その下には鮮血がほとばしり血だまりがみるみる大きくなっていく。真一郎はその後頭部めがけて二発めの銃弾を放った。
「パン!」
男の頭部は粉々に破壊された。
その根元には頚椎骨があらわになり、地面には脳漿と砕かれた頭蓋骨の破片そして眼球が
散らばった。一瞬の出来事だった。男は命を失い肉の塊と化した。
真一郎はベンチの男に視線を静かに移した。男は震えて立っていた。その表情に先程までの余裕はない。
「卑怯やないか!チャカなんか持ちくさって!」
「君が言ったように行方不明者の十分の一ぐらいは、こういう些細なトラブルから消えて無くなるんだよ。警察も苦労するだろうね。
でも君がこの男のように、ここで死体になったところで警察は厄介払いができたぐらいとしか思わないんじゃないのかい?」
真一郎は微笑みを浮かべそう言った。
「お前、素人やないのか?」
「そうプロさ殺人のね。だから痛いって言ったって許してあげないよ」
真一郎は男達の愚かさを嘲笑うかのようにそう嘯いた。
男には、つい先ほどまでの自信に満ち溢れた
態度は消え去っていた。キョロキョロと辺りを見回し逃げ場を探していた。
真一郎が銃口を男に向けた。
「お、おどれ、こ、こんなことしてただで済むと思っとんのか、お前の車のナンバーはうちの事務所に連絡が入っとんのやど、わしに何かあってみぃ。おどれの命も無いぞ。それでもええのかい!」
男の最期の虚勢だった。もちろん、真一郎にはその言葉に返答する必要はない。
真一郎は軽い笑みを浮かべ拳銃を握る手に力を込めた。
「パン!」
銃弾は男の左目を射抜き、脳を貫通し後頭部に大きな風穴をつくった。男の後頭骨と脳漿が飛び散った。
数秒間、男はその状態を保ち、そして、その場に崩れ落ちた。
ほんの数分のことだった。
真一郎は満面の笑みを浮かべた。闘いは真一郎の圧倒的な勝利に終わった。
最初から覚悟の違う闘いだった。真一郎の目的は圧倒的な力による肉体の破壊、それに比べると男達のそれは貧弱極まりないものだった。
真一郎がテスタロッサのコックピットに身体を納めイグニッションキーをひねる。辺りは一瞬にして激しいエキゾーストノートに包まれ空気が激しく震えた。先ほどの静寂が嘘のように木々が一斉に平静を失いザワザワと音をたて始める。その後ろには主人を亡くしたS600Lがそのメタリック・グレイの肌をテスタロッサのテールランプに照らされ虚しく光らせていた。けたたましいタイヤの軋み音を上げテスタロッサが発進する。辺りには再び静寂が戻った。
ホテルに帰った真一郎は返り血を浴びたパンツを脱ぎ捨てるとまだ覚めやらぬ興奮を収めるかのようにテーブルの上のロマネ・コンティをグラスに注ぐと、味わう暇もなく一気に飲み干した。ソファの右横には真一郎の帰りを待ちわびたベスが伏せの姿勢から立ち上がり軽く尾を左右に振りながらノソノソと真一郎の膝元に近寄ってきた。真一郎は再度グラスにロマネ・コンティを注ぐと軽く手の平にそれを移し与えた。ピチャピチャと音をたて真一郎の手の平のロマネ・コンティを舐め上げると真一郎の足元に伏せの姿勢をとりその前足に自分の大きな顎を乗せ目を細める。
真一郎の部屋は観葉植物で溢れかえっていた。巨大な水槽には、ピラルク、アロワナに加え、透明な間仕切りが作られ二十センチ程度のピラニア・ナッテリーが五匹とその餌になる金魚が数十匹泳いでいた。
怒りの対象を破壊した満足感のためか忘れていた強烈な睡魔が襲ってきた。極度の興奮により交感神経に支配されていた真一郎だがその交感神経が疲れをみせ副交感神経が台頭してきたのだ。真一郎はしばしばこのような体験をしている。それは最初の殺戮を実行したその日を境に始まった。殺戮を行ったその後に決まって強烈な睡魔が真一郎を襲ってくるのだった。そして、その後数日はとても充足した気持ちで過ごせるのだった。
殺人依存症、真一郎は自分で自分をそう診断していた。人間の脳には怒ったり緊張したりするとノルアドレナリンというホルモンが分泌され、願望などが実現され楽しい気分になると約二十種の快楽ホルモン物質が分泌されるその快楽ホルモン物質を得るために自分は殺戮を求めていると真一郎は理解していた。
しかし、真一郎はそれに対する精神の異常とか病気という感覚はなかった。
真一郎にとっては自分が全てなのだ。自身の考え、理論が全て正解なのである。人を殺したいと想えば殺す。女を犯したいと想えば犯す。それが真一郎にとって至極当然のことなのだ。自然界では自分の命を継続していく為に他の命を捕食という形で奪っている。それは動物なら草食獣でも肉食獣でも同様である。それと同一の行為を行っているだけなのだ。真一郎にとって言いたいことも言えず、自分の欲望を押し殺し、本音と建前を使い分け生きている現代人の方こそ異常以外の何者でもなかった。真一郎に罪の意識はない。あるのは自分の本能に忠実に生きるという欲望だけだった。
性欲、食欲、征服欲、これらの欲望を満たすための金、それが全てだった。それを達成する為にしなければならないことは全て全力でやってきた。
そして、一人の偏った天才がここに生まれたのだ。
翌日の午後、真一郎は空調の行き届いた部屋で遅い目覚めを迎えた。清清しい目覚めだった。そして、同時刻、二つの死体はドライブ途中のアベックに発見された。既に脳漿、肉体の一部は鳶、カラスに啄ばまれ、発見時にも数羽のカラスが集っていた。
命を失った生き物はこうして他の生き物の命の糧となっていく、決して人間だけがこの地球上で特別な存在でないことを現状が物語っていた。夏の陽射しの照り返しのためムッとする熱気が漂う中、男達の死体はすでに腐敗が進んでいた。その巨体が現場の雰囲気をよりいっそう凄惨かつ異様なものにしていた。
その頃、光夫はポルシェ911のハンドルを握っていた。リヤエンジン、リヤ駆動の911は高速道路上をまるでレールの上を走っているような、ボディ剛性に支えられた安定感、踏めば踏むほどスピードが増すように感じられるダイレクトなアクセルレスポンス、真一郎の駆るテスタロッサの様な非日常的な豪快さこそないが、その秘めたポテンシャルは国産高性能スポーツカーをはっきりと凌駕していた。
それは突然の出来事だった。光夫の父親が交通事故で急死したのだ。ダンプにはねられ即死だった。光夫は実家のある鳥取県米子市へと向かっていた。光夫の両親は光夫が三歳のときに離婚しており、母の顔を光夫は知らなかった。母の写真は全て処分されており、幼い光夫は子供ながらに母のことを口にすることはいけない事だと感じとっていた。父親には勿論、祖父母にも母親について問うことはなかった。光夫の容姿は父親に似ていない事からおそらく母親に似ているのだろう。
だが父、祖父母も決してそうは言わなかった。そう言いたくなかったのだろう。光夫は母が何か悪い事をして父の元を離れたのだという事だけを漠然と悟っていた。
光夫の父親は大手鉄鋼会社に勤務する技師だった。家には田畑があり田植え時期となると一家総出で農作業を行う典型的な兼業農家である。その父が死んだのだ。一人息子の光夫は大学を卒業してから父と会う事はなかった。父の反対を押し切り都会に憧れ東京に本社のある証券会社に就職を強く希望したため父と子の仲は疎遠なものとなっていた。昔堅気の頑固な父に光夫は嫌気がさしていた。それも家を出た一つの原因だった。
今、光夫の頭の中には父との思い出が古ぼけたアルバムのページを一枚一枚めくるように次々と映し出されていた。頑固だったが、優しかった父、柔道で身体を鍛え光夫も中学時代まで父に柔道の手ほどきを受けていた。
光夫の目に突然涙が溢れ出した。前方の視界がピントのずれたカメラのようにぼやけた光夫は左手で涙を拭い取り視界は回復した。
しかし、次から次に涙が溢れかえり、その視界を妨げた。光夫は感情のコントロールを失った。たまらない圧迫感が光夫を襲った。それは、言葉で言い表せないものだった。パーキングエリアの駐車場に911を停め光夫は休憩をとった。その間にも、どうしようもない不安感が襲ってくる。たまらず光夫は京子に連絡をとった。
「もしもし・・・俺だ・・・・」
「どうしたの、大丈夫、もう着いたの?」
「いや、まだだ今高速のパーキングエリアで休憩しているんだ。べつに用はないんだがちょっと声を聞きたくなってな」
光夫のその言葉に京子は光夫の今の心情を瞬時に察した。そして、自分を頼りにしてくれているということに無上の喜びを感じるのだった。
「本当に大丈夫なの?気持ちをしっかり持ってよ」
「ああ、ありがとう。少し気分が落ち着いたよ。じゃあ・・・」
光夫はそう言って携帯電話を切ったものの車中での原因不明の不安感は治まらなかった。
酒も嗜む程度、煙草も吸わない光夫にとって精神的な苦痛から逃れる手段は一つしかなかった。そうセックスである。加虐的なセックス、その最後の先端にあるものは殺戮であり圧倒的な暴力による破壊だった。その最中だけは本能のみに集中し理性を司る大脳辺緑系の働きは大部分停止する。あらゆる精神の迷いから解放されるのだ。
しかし、今はまず父の姿を見ることが先決だった。少しの仮眠を終え、光夫は運転することだけに集中した。一切の雑念を捨て去ることが精神的に楽になることを光夫は学習していた。がそれは一時的な対症療法であり、根本的な解決につながらないものであることも光夫自身理解していたのだった。
実家に着いた光夫を待っていたのは父親との悲しい対面だった。白装束を身に纏った父のかたわらには悲嘆に暮れる祖父母の姿があった。唯一光夫が助けられたのは父親のその表情が穏やかだったことである。父の突然の死に年老いた祖父母はショックを隠しきれない様子だった。精神的なショックというものは歳を重ねるごとにそのダメージを大きなものにする。
光夫の目から大粒の涙が零れ落ちた。厳しかったが優しかった父の在りし日の姿が再び光夫の記憶の中に浮かび上がってきたのだ。
光夫は祖父母の懇願にも似た勧めもあり泊まって帰ることにした。その夜、祖父母は光夫に実家に戻ってきてくれないかと持ちかけてきた。家の跡取りの問題、そして年老いた自分達のことを考えての事だろう。祖父は八十六歳、祖母は八十四歳、祖父は光田家に婿養子として入っていた。年齢の割には二人とも元気ではあったが、あと数年もすれば生活に不自由も出てくるだろう。しかし、今の光夫に刺激のない田舎に住むことなど考えられなかった。老い先の短い祖父母の気持ちを考えると光夫は、はっきりと断ることもできず考えておくとだけ言いその場をやり過ごした光夫は懐かしい自分の部屋で寝床に就いた。部屋は二十二歳の時に家を出た当時そのままだった。部屋は掃除が行き届いており、父親、祖父母の光夫への思いが感じとられた。
光夫は寝就けなかった。家のこと、祖父母のこと年老いた祖父母の願いを光夫は受け入れることはできなかった。その気持ちの葛藤が光夫の精神に新たな重圧となっていた。父親が死に精神的にも本当に孤独となってしまった今、頼れるのは自分だけである。光夫は何かにすがりたい気持ちになった。しかし、父を亡くし意気消沈している光夫にとって出口の見えないかのようなその問題は荷が重すぎた。手足が浮腫み、脈拍が速くなる。そして手足に痺れが出てきた。じっとしていることが苦痛になってくる。この身体の異常、心と肉体が離れてしまったかのようなこの症状をおさえられる方法はただ一つそう究極のセックスだった。それさえ行えばこの異常な身体症状は治まると考えるとその症状は若干軽くなるのであった。
やはり、光夫もまた逃れられない殺戮の虜となった一人だった。
次の日の朝、光夫は京子からの携帯電話のコールで目覚めた。他愛もない話をして電話を切ると、襲ってきたのは父の死という悲しい現実だった。どこかで心の支えだった父親は、もうこの世にはいないのだ。頼れるのは自分だけ。そう自分に言いきかせていた光夫だったがどこかで甘えはあった。しかし、これからはそれも許されない。光夫の意識の外にあった孤独がその中へと入ってきた。
光夫はその潜在的な破壊の本能を着々と大きなものに蓄積していくのであった。自分でも気づかないうちに・・・・・・・
今、光夫は真一郎同様一般的な見地からいう人格異常者と正常人とのボーダーラインをさまよっていた。祖父母のもう一泊していけという言葉を振り切り光夫は実家を後にした。
マンションに戻った光夫を待っていたのは絶対的な孤独感だった。大きな溜息が無意識のうちに漏れる。牛革張りのブルーのソファに腰を降ろし、屋久杉の大きな切り株を磨きあげたテーブルの上のミネラルウォーターを飲み干した。光夫はソファに座り両肘を両膝の上部に密着させ上体をその両肘で支えるような姿勢でうな垂れた。様々な問題、考えが頭を駆け巡った。長時間の運転の疲れの為か異様に眠かった。光夫はそのソファの上で転がり浅い眠りに就いた。
光夫が目覚めたのは、眠りに就いてから四時間後の午後八時頃だった。部屋はすでに暗くなっていた。何も掛けずに寝ていたため身体は部分的に冷たくなっていた。咽喉が少し腫れ軽い頭痛がした。光夫はゆっくりとソファから腰を上げ冷蔵庫から完熟したトマトを手に取るとそれをキッチンのシンクの上で丸齧りにした。口元に真っ赤なトマトの果汁が飛び散り果肉を胃袋に収めるとそれは光夫の肉体に吸収された・・・・・・
光夫の携帯電話が不意に鳴った。京子からだった。
「今、何処?」
心配そうな口調で京子はそう言った。
「もう、家だよ。」
光夫は京子の声を聞いて安堵した。
「今からそっちに行っていい?」
「ああ」
その夜二人は強烈に愛しあった。特に光夫は何もかも忘れるかのように京子を責めぬいた。その行為は明け方まで続く、ときには優しくそして激しく光夫は京子の苦悶の表情が堪らなく好きだった。何度も何度も光夫の京子にたいする愛撫はくりかえされ京子もそれに呼応するのだった。
翌日、光夫は真一郎の住むホテルの二階のレストランフロアの一角にある香蘭という中華レストランで真一郎と少し早い夕食をとっていた。昨日の京子との激しい情事のため光夫が目覚めたのは午後三時を少し過ぎた頃だった。今日最初の食事がこの夕食となる。性欲を存分に満たし、溢れかえるほどの食料を目の前にし、光夫はとてもゆったりとした時間を過ごしていた。真一郎とのたわいのない話しが光夫の心を和ませた。鯛の中華風の刺身、フカヒレスープに続き蟹の爪の揚げ物が出てきたところで真一郎がニヤリと笑って語りかけた。
「ところで、今日は時間大丈夫なのかい?」
「時間というと。今からかい?」
「そうだよ」
真一郎には珍しく、いつもの穏やかな中にも寒気がするような研ぎ澄まされた雰囲気はなかった。
「今日は大丈夫だよ。何だい?」
「うん、女を数人用意しているんだけど、これからどうかなと思ってね」
真一郎は紹興酒が身体にまわってきたのか頬をほんのりと赤らめて光夫の顔色を窺うような仕草を見せた。光夫には真一郎が可愛い弟のように感じられた。
「数人というのはどういうことだい?」
光夫は大体のことは真一郎の表情から察しはついていたが、念のために聞いてみた。
「わからないのかい。俗にいう乱交パーティだよ。金と男に飢えた馬鹿な雌共でも利用価値はあるからね。光夫君のことを話したらほいほい乗ってきたよ。たまにはこんな余興もいいものだろ」
「ああ、そうだな」
光夫も気分を紛らわすのに調度いいと考え付き合うことにした。
そのパーティは真一郎の部屋で開かれた。真一郎は十人程度の女を用意していた。年齢は十人とも二十歳前後、派手な化粧をしている水商売風のものもいれば地味なOL風のものもいる。
「さあ、光夫君自由に選んでくれたまえ。今日、君は朝まで王様だよ」
紹興酒がよほどまわっているのか、真一郎は芝居がかった口調で両手を広げそう言った。光夫は背の高い派手な感じの豊満な肉体を持った女と背は低いが、華奢でマネキンのようなプロポーションをした一見女子高生のようなうぶな感じの女を選んだ。真一郎は残りの同じく、派手な水商売風の女とレースクィーンのように背が高くほっそりとした女を今夜のパートナーに選んだ。
女達は光夫と真一郎に前から後ろから貫かれ何度も昇天した。いくら二十歳代とはいえ光夫と真一郎の絶倫ぶりは異常なほどだった。女達も相当の好色らしく光夫と真一郎にむしゃぶりついた。そのパーティは朝まで続いた。六人は朝の六時頃に申し合わせたようにキングサイズのそのベッドの上に全裸でぐったりとボロ雑巾のように深い眠りに就いた。その横ではその一部始終を見納めたベスが呆れ顔でうな垂れている。
光夫達が目を覚ましたのは昼過ぎだった。。
ルームサービスが運ばれてきた。女達はそれをペロリとたいらげると真一郎の部屋を出て行った。
「どうだった雌犬の味は?」
真一郎はそう言うと光夫の返答も聞かずにシャワールームに入っていった。真一郎が白いバスローブを身に纏い部屋に戻ってきた。
「有難う。一瞬でも嫌なことを忘れられたよ」
「それは良かった。あんな女達でも役に立つものだろ」
真一郎は濡れた髪をバスタオルで乾かしながら軽い笑みを浮かべた。このパーティは光夫の心情を察した真一郎のささやかな優しさからきたものだった。
二人は二階のレストランフロアの寿庵という鉄板焼きの店で四百グラムの神戸牛をたいらげた。昨夜の情事で消耗したエネルギーを補うかのようにそれは凄まじい食欲だった。
光夫のポルシエ911はオープンになるモデルだ。
光夫は海岸線を911で流していた。昨夜の適度な運動が筋肉に張りを持たせ充実した気分だった。海岸の凹凸に合わせたコーナーが十キロ程度続く通称七曲と呼ばれる国道250号線だ。休日には皮のツナギで身を包んだアマチュアライダー達が自身の腕を競いあい、今の季節は海水浴客、ジェットスキーに興じる若者で賑わっていた。
光夫の911のエキゾーストノートに混じってかすかに音質の異なるエキゾーストノートが光夫の耳に入ってきた。その音はぐんぐん大きくなり遂にその姿を911のルームミラーに映しだした。地を這うようなブラックメタリックのクルマだ。その正体はランボルギーニディアブロだった。暴力的ともいえるパワーで光夫にグングン迫ってくる。そして激しくパッシングをし光夫を煽りたてる。光夫はせっかくのよい気分を台無しにされてはかなわないという気持ちから海水浴場の駐車場に911を停止させた。するとディアブロもその横にその派手なボディを並べる。ディアブロの左のドアが跳ね上がった。そのコックピットに収まっていたのは女豹のような女だった。
浅黒い肌にレイバンのサングラス、背中の中ほどまであるストレートのアッシュブラウンの髪、白人のように優美な気品に満ちた高い鼻、タイトなスリムのブルージーンズにボデイラインのくっきりと出る丈の短い黒いTシャツ、そのTシャツの下端とブルージーンズの上端の隙間からは縦長の形の良い臍が姿をあらわにしていた。女がレイバンを左手で取った。その瞳は大きくアーモンド色に輝きレイバンの上端から見え隠れしていた眉は適度な長さでその瞳の名脇役を演じていた。そのメリハリのある姿態に光夫は言葉を失った。
女が光夫に近づいてきた。長身の光夫と並んでも見劣りしないぐらいに背が高い。ハイヒールの高さを差し引いても一メートル七十はありそうである。
「あなたこの辺の人?」
女は表情を和らげた。
「いや、近所というわけじゃない」
「そうなの、私は父の別荘がこの先にあるんだけど、こっちのほうじゃ連れもいないし暇していたのよ。今から時間ある?」
「君のような美人に誘われたら自分の結婚式でもキャンセルするよ」
「ふふ、おもしろい人、じゃあ決まりね。その先、見えるでしょう緑の屋根が、そこが私の別荘だからついてきて」
光夫は女の別荘に案内された。三十畳程度のリビングにはイタリア製の調度品が品よく並び三メートルほどの天井にはベネチアンガラスで細工された豪華なシャンデリアが嫌味なく吊られていた。
「裏がプライベートビーチになっているの少し泳ぐ?」
女はサイダーのような炭酸水の入ったグラスを片手にそう言うとそれを口に含んだ。
「ああ、そうするよ」
夏の強い陽射しが光夫の身体を射すようにじりじりと妬いた。瞬く間に光夫のきめ細やかな肌は赤みをおびてくる。
「綺麗な肌ね」
女は光夫の寝ているサマーベッドの横に座ると光夫の大胸筋を手の平で撫でながらそう独り言のように言った。女は白のビキニ姿で隣のサマーベッドに仰向けに寝、その褐色の肌に磨きをかけていた。毎日少しずつ薄皮を重ねるように焼きあげたその肌は光夫のように赤く火照ることはない。
ゆったりと時が流れる。絶え間ない波の音が光夫の眠気を誘う、時折り走るバイクの甲高い排気音がそれを妨げるその繰り返しが何度か続いた後光夫は浅い眠りに就いた。
光夫が下腹部に異様な感触を感じ瞼を開くと女の顔が迫りその右手は光夫の下半身を弄っていた。
僅かな眠りでも光夫の戦闘準備は既に整っていた。
二人は無言で激しく愛しあった。水上バイクを操縦する若者が二人の行為を発見し驚きの余りバランスを崩し海中に転落する。今朝発射したばかりの光夫は二度も絶頂を迎えた。その間に女は数え切れないほどのそれを迎える。二人が行為を終える頃には西の空は真っ赤に染まっていた。緑の木々が生い茂っていた小さな島々も今は真っ赤な夕日に照らされ海面の上でただ黒く影を造っている。夕日が、絡み合う二人を照らし、褐色の肢体を覆う産毛がその光に反射し黄金の光を放っていた。
光夫と女は部屋に戻った。
「凄かったわ」
女は光夫の赤く火照った身体を貪りながらその余韻に浸っている。
食事が運ばれてきた。ヒラメの刺身にメバルの塩焼きサザエの壷焼とその刺身、そして、車海老が生きたまま桶の中で泳いでいる。
「これは、どうやって食べるんだい?」
光夫が車海老の桶を指差してそう言うと
「これはね、こうやって食べるのよ」
そう言いながら、女は桶の中の車海老を左手で掴むと、右手で頭の部分を握り一気に頭をもぎ取った。頭と胴体の部分が切断された車海老はそれでも動いていた。光夫の脳裏に一瞬、真一郎のあの話しが浮かび上がる。ギロチンの話しだ。女はそのピクピクと動いている胴体の部分の皮をピンクのマニキュアで飾られた指先で器用に剥くと、たまり醤油につけ口の中に入れた。
「残酷だな」
光夫は平然とそれを食べる女を見て思わず苦笑した。
「人間ていうのは元々残酷な生き物でしょう。違う?」
女はそう言いながら二匹めの車海老を手に取る。
「どう、あなたも」
「ああ」
女は二匹めの車海老の皮を剥くと光夫に差し伸べた。光夫が口に含むとそれはピクピクと動いた。光夫が奥歯で噛むとそれは一度硬直し、そしてビクンと大きく動いた。その後は口の中で咀嚼され胃袋に入っていく。
「どう、お味は?」
女は微かな笑みを浮かべた。
「ああ、美味しいよ。生きているんだからね。これ以上に贅沢な食べ方はないだろうね」
勿論、光夫にとって活け造りを食べることは初めてではなかったが、その、頭をもぎ取り皮を剥ぐという残酷な行為を経る車海老の踊り食いは、やはり光夫にとって新鮮だった。
「でも、こうやって他の生き物の命を奪って自分の命を継続していくのが人間だものな、
そうは思わないかい?」
「そうかしらね。よく解らないけど。でも、それは人間に限ったことじゃないんじゃないの」
「ああ、確かにそうだ」
光夫は苦笑した。
そうなのだ。全ての生物の命は他の生物の命を奪うことによって成り立っているのである。それは植物とて例外ではない。
「ところで、あなた、名前は?」
女は思い出したように口を開いた。
「光田光夫・・・・・」
光夫はヒラメの活け造りを食べながら呟くように言った。
「どんな字を書くの?」
光夫が説明すると女は軽く頷き桶の車海老に手を伸ばした。
「私の事、何も聞いてこないのね」
そう言うと光夫に摺り寄り鼻を鳴らした。
「あまり色々聞くと失礼かなと思ってね」
「私は、あなたのことが知りたいわ。何をしているの?」
「殺し屋だよ」
女が首を傾げる。
光夫と女は、顔を見合わせて軽く微笑んだ「からかわないで教えてよ」
「本当だよ。サラリーマンに見えるかい?」
光夫は、そう嘯くとヒラメの最後の一切れに箸を伸ばした。
「それにしても凄い食欲ね。こんなに食べる人初めてだわ。でも、たくさん食べる人、私嫌いじゃない。食欲と性欲って比例するって聞いたことあるけど、あれは本当ね」
女は瞳を潤ませた。
「私の名は美麗、金沢美麗よ」
そう言うと二人は大きなソファの上で再び崩れるように絡み合った。
その頃、真一郎はスタインウエィの前に全裸で座っていた。その指先から奏でられるバッハのシャコンヌは部屋全体に響き渡り大理石の床と壁に共鳴し幻想的な雰囲気さえ感じられる。
隣の部屋のキングサイズのベッドには一戦を終えた金髪の美女が火照った身体を横たえていた。
光夫の精神は破壊の本能でざわついていた。
その抑圧された本能は女性とのセックスでかろうじて爆発を免れているにすぎなかった。
夜の繁華街で知り合った女に対する異常ともいえる加虐的なセックスが光夫をかろうじて正常な世界にとどめている。
その境界線を越えるそのきっかけは光夫自身にも判らなかった。光夫の僅かに残っている世間一般でいう理性というものが光夫の圧倒的な暴力による破壊への侵入を無意識に拒んでいるのかもしれない。
触れるもの全てを破壊し拒むもの全てを破壊する。ある意味では最も正常な感情かもしれない。自分以外のものは全て命のない物体であるかのごとく破壊していく、積み木を崩すかのように・・・・・・・・
その瞬間の恐怖に引き攣る表情が光夫の脳裏によぎった。そう、あの女子学生のその瞬間の表情のように・・・・・・・・・
圧倒的な暴力の前に戦意をなくし、ただの物体と化していくその過程が光夫を究極の快楽の世界へと導くのだった。
小高い丘の上を大きな黒い馬が優雅に走っている。しばらくすると丘の死角に入ったその馬は見えなくなった。突如、馬の悲鳴が遠くの方で聞こえてきた。悲壮な叫び声が間隔をおいてこだまする。だんだんとその悲鳴は大きなものになってきた。そして、遂に姿を現した馬の背中には鋭い牙をその背中に突き立てた狼が鬼の形相で獲物の馬に食らいついていた。優雅さに満ち溢れていたその馬は必死で死から逃れる哀れな獲物に変化していた。狼を振るい落とそうとロデオのように身体を激しく縦方向に揺するが狼の牙はしっかりと馬の筋肉に食い込み外れない。人間のように言葉で助けを求めないその惨状はかえって凄惨さを増幅していき光夫の脳裏に強烈に妬きついた。馬の巨体が激しく倒れた。もがき苦しむ、狼はすかさず馬の首の部分に牙の矛先を変える。呼吸を阻まれた馬はピクピクとその身体を痙攣させた。容赦なく首をもぎ取るかのように無茶苦茶に首を左右に激しく振る。しれない。
その日の夕刻二人はショッピングに出かけた。
京子に宝飾品を買ってやるのが目的だった。
ショーケースにはきらびやかな光を放つ宝飾品が並んでいた。京子が目を止めたのはショパールのハッピースポーツだった。それは金無垢製のそして、文字盤の中に小粒のダイヤを三粒いれたものだった。そのダイヤがその向きを変えるごとに文字盤の中で踊る。金無垢のベルト部分は米粒のように細かな細工がしてあり、その一つ一つが独立して手に取る人の顔を映し出す。遠目からは幾つものまばゆい光が見る人の網膜を刺激する。京子は遠慮がちに「これと」指を指した。
「こんなのでいいのか」
光夫がカードケースからゴールドカードを取り出すと店員がうやうやしくそのカードを光夫の手から譲り受ける。京子は女学生のように満面の笑みを浮かべた。その小麦色にやけたほっそりとした美しい手首に金無垢のショパールが映える。
翌日の夜、真一郎と光夫は飲みに出かけた。
居酒屋で食事をとる。蛤の塩焼き、うに、貝柱、大トロの刺身、ヒラメの生け造りなどが
所狭しと並ぶ。二人は、その全てをたいらげると、会員制クラブの「こりん」に寄った。
広大な店内にはゆったりとした間隔でゴージャスな本皮張りのソファが並べられている。
美しいコンパニオンが二人を出迎える。周りの客は中小企業のオーナー、町医者、弁護士などがおそらく大半を占めているのだろう。
光夫と真一郎のような二十代半ばの若者の客は少なくとも今日のこの店には見渡す限りは見当たらない。
薄暗い雰囲気のそれでいて淫靡な感じを受けない上品な内装、そして、その内装よりさらに上等の高価な調度品の数々、そして、着飾った女達、ここには日常の生活とはかけ離れた空間があった。一夜の快楽を求めてこの店肉食動物特有の行動だ。やがて馬は動かなくなった。相手が悲鳴をあげようが、助けを求めようが容赦なく牙を突き立てる。圧倒的な暴力、その光景にかすかな恐怖を覚えながらも身体の底から溢れ出す説明のできない昂ぶりに身震いするのだった。
光夫が深い眠りから目覚めたのはその直後だった。先ほどの光景が鮮明に光夫の頭にこびり付いている。弱肉強食それが全てである。牙を持つことが世の中で勝利者になることの必須条件であることを光夫は悟るのだった。
牙、それは冷酷さである。氷のように冷たい心それが牙なのだ。薄暗い部屋の中で光夫はソファに腰を降ろし、その牙をじょじょに研ぎ澄ますかのようにニヤリと氷の微笑みを浮かべるのだった。
今日、光夫は、何か落ち着かなかった。
その原因は光夫自身にも解らない。高速道路を走るポルシェ911の助手席にはショットバーで拾った女が大きく胸の開いたピンクのドレスで光夫を挑発する。しかし光夫は、そんなものには興味は無かった。
光夫の目的は、ただ一つ破壊である。破壊の原点は多くの生物特にオスに見受けられる征服欲なのかもしれない。そして、征服欲の最たるものそれが破壊である。その対象が美しく気高いほどそれを成し得たときの喜びは大きい。そう困難な目標を達成したときの喜びに近い感覚である。しかし、破壊のそれは生物としての本能をも満たしているがために肉体の例え様のない快感もプラスされるのだ。
光夫は911のシフトレバーを四速から五速にシフトアップする。タコメーターが一瞬回転を下げる。そして、次の瞬間タコメーターはレッゾドーンまで跳ね上がる。スピードメーターは既に百八十を越え百九十に迫っていた。911の5連メーターの各々がそれぞれの決められたダンスを踊る。前方を走る車に激しくヘッドライトを浴びせパッシングをすると皆慌てて追い越し車線から走行車線へと道を譲るのだった。
光夫が陵辱したい女性、それは、美しければ美しいほど、理知的であれば理知的なほど良かった。人間は知性を磨けば磨くほど、本来の哺乳動物という自然から離れていく、それを自分の手によってただの雌に変えていくことが光夫の最大の喜びであり快感だった。その行き着く先が殺人という結果になるだけのことである。
助手席の女は雌の体臭がぷんぷんしていた。
若い女特有の独特の臭いである。それは、女が身体を動かすたびに車内の空気に漂い光夫の五感を刺激した。光夫は既に獣へと変化していた。
光夫は女に貪り付きそして、朝まで犯し続けた。翌朝、マンションのベッドで目覚めた光夫は横で寝息をたてている女の寝顔をみて安堵した。洗濯機の音がドア越しに聞こえてくる。その音さえも、今の光夫には心地よかった。充足した気分に満ち溢れていた。ゆったりと時が過ぎてゆく、昨夜の女の表情、叫び、どれも光夫の欲求を満たすに充分なものであった。筋肉の力が抜けベッドに身体が張り付いているような感覚を感じるほど光夫はリラックスしていた。こんな気分になったのはあの時以来だった。
光夫は関係した全ての女性を殺めているわけではない。しかし、その境界は光夫自身にもわからなかった。
光夫は思考することが人間の本能を妨げることをこの瞬間悟った。
不意にテーブルの上の携帯が鳴った。真一郎からだった。
「明日、時間ある?」
用件は、犬のショーを見に行かないか、ということだった。翌日真一郎が光夫のマンションに来たのは、早朝の六時だった。今日はいつものフェラーリではなく、トヨタのランドクルーザーだった。後部座席には愛犬のベスが後ろ足を崩し、まるで人間のように座っている。少し暑いのか、大きな舌をダラリと垂らして息を荒げていた。巨大な犬である。体重は100KG近くあり、肩までの体高は大きいものだと一メートルになる超大型犬である。真一郎の所有するこの犬はその平均値を大幅に上回る超巨大犬だった。会場は東京の明治公園だ。昼過ぎに会場に着くと数十頭のグレート・デンが既に並んでいた。子牛のようなその肢体を誇らしげにポーズをとる犬、オーナーにブラシをかけてもらいショーの出番を待つ犬、皆自分の自慢の犬に磨きをかけていた。
真一郎が受け付けで出場手続きをとり会場に入ると皆、目を見張った。今日ばかりは、主役は真一郎でも光夫でもない真一郎の連れているベスだった。周りの巨大な犬が小さく見えるほど、ベスは巨大だった。周囲の犬に比べてふた周りは大きく感じた。
「フードは、何を食べさしているのですか?」
ベスの余りの巨大さに驚いた愛犬家が声をかけてきた。
「生肉と、内臓です」
真一郎は涼しい笑顔でそれに応える。
「はー、やっぱりドッグフードじゃ、大きくならないですね」
愛犬家はため息をついた。
その歩様は堂々とし、ポーズをとらせると頭を高々と掲げ潜水艦の潜望鏡のように周りを見渡す。犬の王者グレート・デンに相応しいものだった。真一郎のグレート・デンはハルクインという毛色で白地に黒の斑点模様のある毛色だ。その手入れの行き届いた被毛にはビロードのような光沢があり出展者の羨望の目を集めていた。結果、ベスは初出陳で JKCの日本チャンピォンに輝いた。
光夫が同じ犬種の子犬を購入したのは、それから半月後のことだった。
光夫の購入したグレート・デンはブラックだった。ブラックにも白斑が胸などに入っているものと白斑の入っていない黒一色のピュアブラックに分かれる。光夫はピュアブラックの子犬を購入した。
深夜、公園の公衆トイレの裏でゴッゴッゴッと鈍い音が響いていた。それは、トイレの建物の角の部分に何かを叩きつけている音だった。男は座り込み黙々とその作業を繰り返す。その下には粘液性の液体が滴り落ちていた。外灯がぼんやりと男を照らしていた。ブロック造りのその外壁は外灯に照らされ紫色に染まっている。時折り風に揺られた木立の葉が擦りあう音が聞こえ生温かい風が頬を撫でる。
その日、光夫はポルシェ911を走らせていた。昼間、女との情事を終えてから夕方近くまで眠ったせいか今日は寝つけなかった。
深夜のドライブは光夫にとって久しぶりのことだ。オープン仕様のその911はエキゾーストノートを直接光夫に伝える。八月の半ばの生温かい風が頬にまとわりつく蒸し暑い夜だった。カロッツェリアのCDプレーヤーからは、バッハのG線上のアリアが澱んだ空気を浄化するように鳴り響いていた。
不意にルームミラーから光が放たれた。後ろの車が激しくヘッドライトをパッシングしていたのだった。トヨタのセルシオだった。車高を落とし、前後左右にエアロパーツを巻いたセルシオだった。ゆっくりと光夫の911の左横につけると運転席のスモークフィルムを張り詰めたウインドウがゆっくりと開いた。
髪の毛を金髪に染め、趣味の悪いサングラスをかけた二十歳前後のチンピラ風の男が姿を現した。光夫と視線がぶつかり合う。
「何か用か?」
光夫は静かな口調で言った。
男は意外な表情を一瞬つくった。一見やさ男の光夫を舐めてかかっていたのだろう。光夫の雄の闘争本能が静かな炎を上げ始めていた。
「ついてこんかい!」
男は鼻息を荒げてセルシオを走らせた。
男が光夫を誘導した場所は公園の公衆トイレの裏の道から死角になる場所だった。昼間に降った雨のせいか霧が立ち込めている。外灯に霧が反射して幻想的な雰囲気さえ感じられる。子供が無邪気に遊ぶ昼の公園とは思えないほどひっそりとしていた。
深夜、この公園に人の気配はない。ここで何があっても目撃者はいないだろう。突発的なトラブルによる殺人が発生しても犯人を割り出すのは至極困難である。
何しろ第三者に認知される動機がないのである。そう殺人の動機が・・・・・・・
男は、このささいな諍いから始まったトラブルをどうとらえているのだろう。ただの喧嘩ぐらいにしかとらえていないのかもしれない。少し身体に傷を負って、口から血を流し、それで終わりとでも考えているのかもしれない。それは、光夫にもわからなかった。
光夫にとってのこの男に対してのこれからとる行動の目的はただ一つ殺戮のともなった破壊だった。何も落ち度のない光夫に対して男のとった態度に対する怒りには計り知れないものがあった。おそらくそれは男にとっては軽くからかうつもりのものだったのだろう。しかし、どんなに許しを懇願してもそれは光夫の破壊の本能に対するスパイスでしかない。
命あるものを自分の力によって無に変えていく快感・・・・・
光夫はゾクゾクしていた。
男がセルシオの運転席から降りると、光夫もそれに続いた。二人が対峙する。
長身の光夫より男は少し身長が低かった。おそらく173センチから175センチぐらいだろう。光夫はそれより10センチは高いのでかなり身長差がある。しかし、横幅は僅かに男のほうが勝っているように感じられる。しかし、光夫にはそんなことは関係なかった。相手の体格など問題ではない。体力の優劣など今の時代、なにも効力など発揮しない。とにかく勝てばいいのである。どんなに汚い手を使ってでも、いや争いに汚いも清いもない、争い自体醜い行為なのだ。それを行う以上、目的は勝つことだけである。
「今のうちやったら、財布の中身だけで勘弁しとったるで」
男が光夫を威嚇するようにドスのきいた声で吐き捨てるように言った。よほど腕力に自信があるのだろう。
光夫は無言で少し片方の唇を歪ませ鼻で笑う。
「おどれ~」
男が光夫の表情を見て逆上した。むなぐらを掴みこじ挙げる。光夫は無表情だった。その冷たい視線の奥には破壊の本能がすでに燃え盛っていた。
一瞬だった。
男の顔の位置がほんの数センチ光夫に近づいたかと思うと男が急に表情を変えうめいた。激しく掴んでいた光夫のむなぐらの手を外し、その場でしゃがみ込む。その瞬間光夫の膝は男の股間にめり込んでいた。勝負は一瞬で決まった。うめく男の顔めがけて光夫のリーガルシューズは鈍い音を何度もたてる。それでも男は許しを請おうとはしない。光夫にはそれが腹立たしかった。何度も何度も顔面に光夫のつま先がめり込む。5メートル程度、離れたところに古いブロックがあった。光夫はそれを両手で掴むと両腕を伸ばし光夫自身の頭の上に持っていった。
「やっやめてくれ!」
とうとう男は真の敗北を認めた。
真の敗北、それは身体の敗北と精神の敗北である。光夫に勝利の微笑みが浮かぶ。それは、男の恐怖をよりいっそう掻きたてた。左手で歯のボロボロ抜けた口を押さえ右手で弱弱しくそれ全体をかばうかのように手の平を上に向ける。その哀れな男の表情が光夫の破壊の本能を爆発させた。
「うわー!」
光夫の上腕二頭筋が鋭く収縮し男の顔面にブロックが炸裂した。男の後頭部が土にめり込む。ぐったりした男の髪の毛を鷲掴みにするとブロック造りのトイレの壁に力まかせに叩きつける。金髪の髪にべっとりと血が絡みつき光夫の手が滑る。まるで大きな石を砕くかのように叩きつける。叩きつける。叩きつける。ゴッゴッゴッと鈍い音が続く。男の前頭骨は露出し、頬骨が砕ける。鼻骨はひん曲がっていた。それでも、男はビクビクと痙攣していた。続いて男の頭をサッカーボールを蹴るように足の甲でゴールキーパーがゴールキックをするように力を込めて蹴り上げる。男の身体がその度にゴム人形のようにたわむ男はすでに光夫の玩具と化していた。その動作は男の痙攣が止むまで続けられた。光夫の顔には狂気の笑みが薄っすらと浮かんでいる。
セックスよりも強烈な快感がそこにはあった。少なくとも光夫にとっては・・・・・・・
男の痙攣が止み呼吸と脈を確認して光夫はその場を立ち去った。
翌朝、光夫は自宅のベッドの上で目覚めた。キッチンでは京子が遅い昼食を兼ねた朝食を作っている。光夫がリビングに入るとテーブルの上には血のしたたるようなサーロインステーキと真っ赤なトマトスープ、山のように盛られたサラダが並んでいた。テーブルの下にはまだ生後二ヶ月のブラック柄のグレート・デンがちょこちょこと動いていた。
「やあ、来てたのか?」
光夫がパジャマ姿でキッチンに立つ京子に声をかけると京子は振り向いて美しい微笑みを浮かべた。光夫は京子が堪らなく愛しく感じ背中を覆う様に抱きしめた。シンクの前にある窓からの陽射しが眩しかった。光夫は京子と一緒に過ごす時間に安らぎを感じていた。京子の優しさが光夫の精神を世間一般でいう普通に導いていた。
元々、人間は一人では生きていけない動物なのだろう。光夫は京子と居るときにそれをひしひしと感じるのだった。
「昨日は何していたの?携帯に電話いれたんだけど。」
「うん、ホテルのプールに泳ぎに行ってたから」
京子のなにげない質問に光夫は差し障りのない嘘をついた。
「今日は、よく眠れたみたいね」
「どうして?」
「ううん、なんとなく・・・・」
「おかしなこと言うなぁ」
光夫はそう言うとテーブルの下のグレート・デンの子犬を両手で抱えた。
「お前に名前をつけないとな」
真一郎のテスタロッサが有り余るパワーを持て余し一般道を欲求不満気味に走る。335/35ZR17インチ極太超扁平のリヤタイヤがアスファルトを銜え込む。今日、真一郎のテスタロッサの助手席には一人の女が納まっていた。身長は152センチと小柄だが小ぶりな胸にくびれたウエストライン、そして真っ直ぐ伸びた脚、小柄だが驚くほど均整のとれた肢体だ。
真一郎の右手は女のタイトなブルージーンズの上端から差し入れられ女の股間を弄っている。その華奢なマネキンのようなウエストはブルージーンズのチャックを下ろさなくとも右手の侵入を拒まなかった。
真一郎の右手の中指が女の敏感な部分をリズミカルに刺激する。ブルージーンズの股間の部分が小刻みに震える。女は瞳を閉じその快感を堪能している。右車線にいたトラックの若い運転手がそれに気づき驚きと羨望の入り混じったクラクションを鳴らす。ニヤリと真一郎がそれに応え不意に加速しトラックを一瞬のうちにはるか後方に追いやる。
その間にもスレンダーな肢体をくねらせ女は快感を物色している。真一郎が不意に指の動きを激しくすると女は腰をピクンと反応させる。車高の低いテスタロッサの車窓からは少し車高の高いトラック、4WD車などからは丸見えだ。
信号待ちの真一郎の右横に若者達の運転するパールツートンのトヨタ・ランドクルーザーが並び助手席に乗っていた若者がそれに気づく。運転席の若者が身を乗り出し驚きの奇声をあげる。後部座席の若者も左の車窓にへばりつき驚きと友好的な笑みでテスタロッサを羨望の眼差しで見る。
信号が青になった。真一郎はゆっくりとテスタロッサを前に進める。若者たちの好奇と羨望の眼差しを尻目に真一郎はその場を去った。
「どうだい?気分は?」
真一郎が指の動きを止め、視線を女のほうにやった。
「うん、いったよ」
女は幾度かの絶頂を既に迎え顔を紅潮させ気だるそうに答える。
「でも、車の中で揺られながらっていうのもなんかいい感じだね」
そう言うと真一郎の右の手首を掴みその続きをねだるのだった。
「女の欲求っていうのは底なしだな、ある意味羨ましいよ」
快感を求めることに貪欲なこの女に真一郎はある種の好感を覚える。肢体をくねらせ、眉間に皺をよせ喘ぐその姿には妖艶な美しさがあった。顔を紅潮させ、その額にはうっすらと汗が滲みでている。女が絶頂を迎えた瞬間に身体全体に分泌されるそれだ。天然の化粧水を纏ったせいか女の肌はしっとりとしていた。均整のとれた上半身を包むタイトなTシャツの上から筋肉の躍動が容易に感知できる。化粧といった外力に頼らない内面から滲み出る動物的な美しさがこの女にはあった。けっして着飾らない、気取らない自然な筋肉の躍動、肢体をくねらせ快感を貪る。
その人間の動物的な本能の部分の美しさ。本当の美しさというものは、こういうものじゃないのかと真一郎は感じるのだった。
人間には性欲、食欲、睡眠欲という三大欲があるが、そのいずれもあからさまに曝け出すと醜いという風潮がある。しかし、本当はそれを曝け出す事が一番美しいことなのだ。知恵という人間の本能の部分から離れたものが歪んだ思想を生み出しているのかもしれない。今、真一郎の右横の助手席には、女が肢体をくねらせて快感を堪能している。ブルージーンズの上端とTシャツの下端の隙間からはくびれたウエストが見え隠れし真一郎の指先の動きに合わせてしなる。身体の全ての筋肉が無駄なく伸張、収縮する。それは、完成された完全なものにだけ与えられる美しさだった。真一郎の指先のリズミカルな動きを不意に激しく動かす。女は腰をピクンと動かすと大きな吐息を吐き新たな快感に酔いしれるのだった。
今日、光夫は真一郎のホテルに久しぶりに立ち寄った。真一郎は別段変わった様子もなく巨大なソファから腰をゆっくりと上げると静かに微笑み、光夫をその前方の二人掛けのソファに招いた。真一郎のかたわらにはベスが大きな身体を横たえている。光夫に気づくと頭を上げ垂れ気味だった耳を少し緊張させると尾をゆっくりと振りながら、ノソノソと光夫に近づいてきた。そして光夫が左手を差し出すとぺろぺろと舐め身体をすり寄せる。
光夫がソファに腰を降ろすとベスの頭の位置は光夫の頭より高い。
「やぁ、久しぶりだね。」
真一郎はにこやかな表情でそう言うとテーブルの上のロマネ・コンティが入ったボトルの栓を抜く。バーズアイメイプルの無垢材で作られた木目が美しいサイドボードからベネチアングラスを二脚取り出すと人間の血液のように赤いロマネ・コンティを注いだ。豊潤な香りが辺りに漂う。部屋の南側に並べられた無数の観葉植物が森のように生い茂り光夫の心を落ち着かせる。それは、単に植物の緑からくる視覚的なものだけではなく、ある種の物質がそれからでているのかもしれない。と光夫は思った。
「この部屋はいつ来ても落ち着くなぁ」
光夫はロマネ・コンティを口に含みゆっくりと喉に流し込むと溜め息混じりにそう言った。
「そうかな」
「ああ、まるで山の中にいるように気分が良くなるよ、やっぱり自然っていうのは大事だなって思うよ」
「自然って?」
「観葉植物だよ。これだけ大量にあるとさすがに空気まで違ってくるね。心が落ち着くのがわかるよ」
「そうかい、ぼくは、毎日だからわからないけどね。まあ、集めだしたのは今光夫君が言ったことそのものずばりの効果を狙ってのことだけどね。おかげで健康そのものだよ。ハハハハハハ」
真一郎はそう言うと側らのベスの頭に手を乗せた。
「そうだ、下に食事にでも行かないかい?」
真一郎が思い出したようにそう言った。
「ああ、いいよ」
二階のフロアには珍しい料理を食べさしてくれるレストランも数軒ある。
「今日は川魚料理にしようか?」
真一郎はエレベーターの中で光夫に問いかけた。
「ああ、いいよ」
「此処にしようか?ぼくも、初めてなんだけど」
真一郎がエレベーターを降りて二階のフロアで指差したのは古びた暖簾のかかった店先に鯉の生け簀のある「川飛び」という名のこじんまりとした造りの店だ。店内にはいたるところに備前焼の焼き物が備え付けられ、檜の美しくそして巨大な柱が店の中央に大黒柱のように鎮座していた。
光夫と真一郎が通された部屋は畳の臭いが心地よい四畳ほどの座敷の個室だった。床の間に
は備前の大きな花瓶が置かれており、虚飾のない美しさが確かに存在していた。
獅子落としの音が店内にうっすらと鳴る。人工的なものとはいえ、それはそれなりの風情を醸し出していた。水の流れの音があたかも山奥の茶室にでもいるような感覚を創りだす。
鮎をはじめ、あまご、山女、岩魚、虹鱒、おしながきと書かれたその和紙には多種多様の川魚が書かれている。
「何にする?」
真一郎が目を輝かせている。
鯉のあらい、鮎の塩焼きに刺身、あまごの塩焼き、ドジョウ鍋、しじみ汁、鰻の肝の赤だし、鰻の肝の串焼きが檜の座卓に所狭しと並べられた。大皿に盛られた鮎とあまごの塩焼きに光夫と真一郎は齧り付く、あっという間に大皿の鮎とあまごをたいらげてしまう。
鮎の刺身に光夫が手を伸ばした。
「凄い、あっさりしているな、醤油の味しかしないな」
光夫が少し、がっかりしたように箸を休ませた。
「ははは、いつも、肉ばっかり食べているからそう思うんだよ。ここの鮎は天然のはずだから、おいしいはずだよ。まあ刺身はそんなものだろ」
真一郎はそう言いながら鰻の肝の赤だしをすする。
「でも、この鰻の肝の串焼きは好き嫌いがあるなぁ」
光夫は苦い表情で鰻の肝の串焼きに齧り付いている。
その旺盛な食欲は二十分もすると座卓の上の料理を食べ尽くしていた。
「でも、なんだかんだ言っても全部たいらげたね」
真一郎と光夫はひといきついた。凄い食欲だ。
「ドジョウはどうだった?」
真一郎が煙草に火をつけながら光夫に聞く。
「ああ、おいしかったよ。案外いけるもんだな」
「あれ、初めてだったの?栄養満点だよ」
真一郎が意外そうな表情を見せる。
少しの間があった。
獅子落としの音が僅かに大きく感じられる。
「光夫君、ヒトラーは知ってるよね」
真一郎がポツリと呟いた。
「ああ、アドルフ・ヒトラーだろ知ってるよ」
「どう思う?」
「うん、狂人だな。考え方、とりわけユダヤ人に対しての異常なまでの破壊的執念は、どこからきたのかと首を傾げたよ」
「うん、そうだね、ぼくも同じ意見だよ。ヒトラーに関しての文献は何冊か読んだけど、彼の思想というのは一言でいうと髭を生やした頑固な子供だね」
真一郎は、そう言い切ると煙草に火をつけた。
「ははは、おもしろい表現だね。でも、そうかもしれない。遺言なんかを見ても人間性の欠如と冷酷な残忍性を感じたな。そう今、君が言った子供のような、小さな子供が蟻を指で潰すような子供特有の残忍さを」
光夫の中にはヒトラーに対する淡い憧れのようなものがあった。
「でも、彼に多くの人が従った。何故だと思う?」
真一郎が光夫を試すかのように間髪入れず問い掛けた。
「う~ん、何だろう」
「それは、強さだとぼくは思う。善悪問わず強いものに惹かれるという人間の本能だよ。ヒトラーはそういう意味では間違いなく天才だった」
真一郎の考えに光夫も頷かないわけにはいかなかった。真一郎の言葉には不思議な説得力があった。それは風貌からくるものなのか、いやそれ以上の頭で考えたことを相手に理解しやすいように口頭で即座に述べられる頭の切れが相手にそういう印象を与えるのかもしれない。凡人がうっすらとしか頭に浮かばないことを明確に順序だてて相手が何を欲求しているのかを感知できるのかもしれない。
目前の狂気の天才は鋭くヒトラーを分析する。
「そして、ヒトラーの不屈の精神にはさすが独裁者というものがあるね。それは彼が戦争の負けを覚悟したソ連軍によるベルリン総攻撃の際に総統官邸地下壕で書きしるした遺言から随所に感じとられる。光夫君が見たのもそれだと思うけど。彼は死を覚悟しながらも決して自分の思想を曲げなかった。そればかりかこの戦争はユダヤ人によって引き起こされたとさえしるしている。そして、敵に殺害されるぐらいなら自害するという気高さ、
その強さに大衆は惹かれたんだよ。でも、光夫君、天才の思想というのは現実から、かけ離れた夢想的なものも多々見受けられるね。ヒトラーに限らず。そうは思わないかい?」
「そうだな」
光夫は心の中で苦笑した。今の真一郎の発言は真一郎自身にも、あてはまるような気がしたからである。
それは、真一郎のあまりに浮世離れした生活からきているのかもしれない。
真一郎が分析を続ける。
「そして、ヒトラーは奇怪な行動をとっているんだよ。自殺前日の一九四五年四月二十九日、恋人のエヴァ・ブラウンと正式に結婚している。彼の心境がわからない。エヴァに対する愛の証なのか、それともヒトラー持ち前のニヒルなジョークなのか、後世に名を残すための粋なはからいなのか、もしかしたら光夫君、僕達のような人間達にこういった議論をさせるために仕組んだのかもしれないね。はははは・・・・まあ、これは冗談だけど、 ただ、ヒトラーから僕たちが学ばなければいけないもの、それは何かということだな。彼は自身の著書「わが闘争」でこう語っているんだ。「歴史を学ぶことにおいて人名や年号を学ぶことなど無意味である。大事なことは何故そうなったかを学ぶことである。」どうだい、さすが独裁者だろ。歴史は繰り返されるっていう言葉もあるし、美術学校の受験に失敗した哀れな一介の絵描きがどうしてナチスのトップに立ちどうして破滅的な最期を迎えてしまったのかっていうことをぼくは時折り考えるんだ」
真一郎のこの言葉に光夫も腕組をし、大きく頷いた。それは、ヒトラーの勉学に対しての本質をついた考えかたと、真一郎の洞察力の鋭さからだった。
おそらく真一郎はヒトラーが何故ナチスのトップに立ち、どうして破滅的な最期を迎え は自分なりには出しているのだろう。真一郎はそれ以上、光夫に問いはしなかった。
(9)純粋殺人
初夏の昼下がり、緑が生い茂るその山中でその事件は起きていた。女の悲鳴が生い茂る緑に吸収されてか細く聞こえる。女がまるで狼にいたぶられる野兎のように逃げ惑う。真一郎は無表情で黙々と女を追いかける。女の鼻からは鼻血が滲み出ていた。真一郎の強烈な殴打によるものだ。女の乱れた荒い呼吸がこの場の切迫した状況をいっそう大きなものにしていた。真一郎は追いつこうと思えばすぐにでも追いつけるのだがあえてそうはしない。女の体力の消耗を待っているのだった。女の悲鳴がだんだんと小さくなっていく、悲鳴をあげるだけの余力がなくなってきているのだ。女の乱れた呼吸だけがやけに大きく感じられる。女の足が止まった。そしてその悲鳴が女とも男とも区別がつかなくなると真一郎の狂気の拳が容赦なく女の顔面に炸裂した。女の整った鼻が右に僅かに曲がった。「ひーひー」という女の荒い呼吸だけが辺りに木霊する。鼻の軟骨が曲がったのだ。顔をおさえ眼下にうごめく女の腹部を真一郎のライトブラウンのフェラガモが鋭く突き刺す。女はたまらず胃の内容物を吐き出した。辺りに胃液の独特の悪臭が放たれた。ついさきほどまでの美しい表情は今、女にはなかった。女は真一郎に命乞いをしている。真一郎は女に対してなんの恨みもなかった。女にしてもどうして今自分がこういう立場に追い込まれているのか理解できなかった。
悪夢、そう悪い夢でも見ている。それくらいに突然だった。しかし、これは紛れもない現実なのだ。
「許して!」
女は真一郎に許しを懇願した。しかし、女には真一郎に許しを乞う理由はないのである。圧倒的な暴力の前には常識も道徳も消え失せる。暴力が全てに優先する。
その証拠に今、女は理由もなしに真一郎に許してくれと言っている。女を足げりで仰向けにすると真一郎は馬乗りになった。そのポジションから女の顔面に容赦のない殴打が続く、女は既に抵抗する気力を失っていた。
真一郎はある実験をしていたのだ。顔面の殴打だけで人は殺害できるのか、という実験だ。
次第に女の身体が動かなくなっていく。真一郎が手を休め左手首の脈をとると女の脈はまだはっきりとうっていた。真一郎は左手首にはめていたホワイトゴールドのショーメを外すとパンツの左ポケットに入れた。そして実験が続行される。女の顔面は去年の落ち葉がクッションとなり真一郎の思うように破壊できない。
十分程度続いただろうか再び女の左手首の脈をとる。まだ、それは弱弱しく脈打っていた。
「うぉー!」
真一郎はまるで、獣のような唸り声を上げるとまるでボロ雑巾を絞るかのように女の首を締め上げる。女の顔が風船のように真っ赤に膨らむ。そして、青白く変化する。それは絶命のシグナルだった。真一郎には何か例えようのない不満が残った。それは幼い頃に高価なプラモデルを与えられそれを最後まで完成できなかったあの頃のその感情にそっくりだった。山中は本来の恐ろしいほどの静寂を取り戻す。時折り風に揺られて木の葉が擦れ合う音だけが異様に大きく感じられた。真一郎はテスタロッサのコックピットに収まると大きな溜め息をついた。いつもの充足感がない。静かにパンツの左のポケットからショーメを取り出しその美しい細工が施された宝飾時計を左の手首に巻きつける。既に装着されているイグニッションキーを捻るとけたたましいエキゾーストノートが鳴り響く。
一斉に辺りの空気がざわついた。
激しいスキール音を残し山上の駐車場は元の静けさを取り戻した。極太のブラックマークとその山中に、損壊された女を残して。
真一郎は出会った女全てを殺害しているわけではない。あくまで、その時の気分で殺害するのだ。そう終始女性に対して紳士のときもあれば殺人鬼に変貌することもある。
そう、ジキルとハイドのように・・・・・
真一郎には他の多くの連続殺人犯にみられるコンプレックスは皆無だった。同年代の若者の大多数よりも物質的な面で世間一般的な観点から比較すると恵まれていると言っても間違いはないであろう。
客観的にみると真一郎は異常者なのかもしれない。しかし、真一郎自身は、そう意識はしていなかった。真一郎は自分が他人から評価されることを極端に嫌った。それは、自分自身の評価を出来る人間というのは真一郎自身より優秀でなければならないという持論からだった。自分の持っているものさし以上のモノの寸法を測ろうとしても目盛りが無ければ計れないだろう。という考えからだった。
それは、ある意味、理論としては正しかった・・・・・
真一郎は苛立っていた。いつもの信号待ちがやけに長く感じる。いつもは苦痛にならないシフト操作さえ煩わしかった。初夏の陽射しがアスファルトの上に陽炎をつくる。それさえ真一郎には苛立ちの材料になった。身体が少し火照っていた。手と足先が腫れているような感覚がある。いつもの充足感が無かった。中途半端な感覚が真一郎の殺戮と破壊の欲求を強大にしている。新たな破壊の対象を真一郎は早くも求めていた。
この瞬間の真一郎は獲物を求める獣に変化していた。
真一郎はテスタロッサを図書館の駐車場に停めた。
南の方角には大きな噴水があった。天候の変化を感知して水量の変化するその噴水は真一郎の登場を祝福するかのように大きな弧を描いていた。噴水の気化熱のせいか若干気温が低く感じられる。長身の真一郎が運転席から降り立つと、その後ろのBMW318tiのボディに寄りかかって話しをしていた女の二人組みが目を見張った。真一郎を羨望のまなざしで眺めている。館内は図書館独特の雰囲気がある。饐えた臭いがする。人工的な静けさと不自然な静けさが交錯し入り混じっている。真一郎の探している本はドストエフスキーの罪と罰である。この小説をまだ真一郎は読んでいなかった。真一郎が書棚からそれを探し出すと錦鯉が悠然と泳ぐ池が北の方角に見える窓辺に座った。目の前の女が真一郎のあまりの美貌に目を奪われる。女が読んでいる本は太宰治の人間失格だった。銀縁の眼鏡の奥には二重瞼のつぶらな瞳がきらきらと光っていた。
「太宰が好きなんですか?」
真一郎が生真面目そうな口調で問かける。
「いえ、そんなことはないんですけど」
「でも、あなたのように若い女性が読む本ではないですよね」
「あなたも、お若いじゃないですか。おじさんみたいなこと言いますね」
女の顔が少しほころんだ。
「ははは・・・おじさんか、参ったな。よかったら隣でお茶でも、どうですか?」
真一郎は単刀直入にそう切り出した。」
「誰にでもそう言ってるんでしょ」
女はすぐにでも誘いに乗りたいのだが、多少の恥じらいがあるのだろう、真一郎のもう一押しを待った。
「そんなことないよ。ここじゃ、周りに気を使うから、いいだろ」
女は困ったような仕草をとると軽い溜め息をつくと本をたたんだ。
「そうね。ここじゃ周りの人たちに迷惑になるものね」
女にはこの場所を移動する理由が欲しかった。真一郎は女の心理を一瞬に読み取り、誘いに乗りやすいように、この図書館の環境を巧みに利用したのだ。
真一郎と女は図書館の南隣のカフェに入った。都会的な内装の店だ。
簡素なイタリア調のモダン家具をイメージした円形のテーブルとパイプの機能美を生かした椅子が並ぶ。床にはモザイク調のクッションフロアが張られ全体的にスマートな印象を受ける。
二人は東南の角の席に座った。テーブルのすぐ東には、二メートル程度のベンジャミンが二人を見下ろすように緑を生い茂らしている。
真一郎はモカを女はジンジャエールを頼んだ。コーヒーの香ばしい香りが二人を包んだ。店内にはアルベニスのレイエンダが流れ、その慌ただしい曲想が二人の気分を高揚させる。その周りだけ空気が違っていた。
少なくとも女にとっては・・・・・・・
「コーヒー好きなの?」
女が顔を紅潮させて真一郎に尋ねる。
「いや、そんなことないけど、どうして?」
「だって、暑いのに暖かいコーヒー飲む人ってコーヒー好きな人に多いでしょ」
「ああ、そうなのかな。あまり意識していないけど、ただ香りを楽しもうと思ったら、やっぱりホットだよね」
女の胸には1カラットほどのダイヤが光っていた。そのシンプルなデザインのネックレスは透きとおるような女の肌とあいまって店内の白熱灯の光に反射してまばゆいばかりに輝いていた。鎖骨が中央から肩にかけてやや上方に伸びしっかりとした上半身を形作っている。程よく膨らんだその胸は白色のカーディガンの上からでも、はっきりと確認できた。
そして、ベージュの膝上までの丈のスカートからはバランスの良い脚が伸びている。
「今日の予定は?」
真一郎が誘った。
「今日は、友達との約束が駄目になったから予定はないの」
真一郎の予想通りの答えが返ってきた。
一時間ほど他愛も無い話をし、女の緊張を和らげる。
真一郎の巧みな話術ですっかり女は心を許した。年齢、名前、職業まで真一郎に打ち明ける。しかし、真一郎はそんなことに興味はなかった。
ガラス張りのそのカフェには西日がじりじりとさしこんできた。カフェを出て駐車場に行くと、女は驚きの様子を隠せなかった。
「あなた、一体何をしている人なの?これ、フェラーリじゃないの?」
「ああ、そうだよ」
「ああ、そうだよって。私帰るわ」
「どうしたの、急に」
「だって怖いもの。あなたみたいな若さでフェラーリに乗っているなんて、とてもサラリーマンでは考えられないもの」
真一郎は自分の職業を銀行員と偽っていた。
「一点豪華主義ってやつさ、気にしないで」
「でも、私の車もあるし・・・・・」
女はこの場所まで車で来ていた。突然の王子様の出現に女は戸惑いを見せている。
そう、悪魔の王子に・・・・・・
結局、女は真一郎の誘いを断りきれずテスタロッサの助手席に収まる。真一郎は女を夕食に誘った。それは球場の最上部に位置し野球観戦をしながら食事ができる。スカイレストランだった。
それは、なんの特徴もない店内だった。おそらく、野球観戦をしながら食事ができるのがここの売りなのだろう。今日の試合はオリックス対ダイエーだった。なんの変哲もない食事をとりながら、真一郎は退屈な時間を過ごしていた。真一郎は野球には興味が無かった。幼少の頃よりスポーツ万能ではあったが
観戦ということに対しては全く興味を示さない。野球、サッカーなどの団体の競技は特にそうであった。
あるスタープレイヤーが打席に立つと球場のムードが一変する。
「あなたなら、この人より凄いかもね」
女が指差しながらそう言った。
「まあ、生きている土俵が違うからね」
とにかく真一郎は退屈だった。昼間の苛立ちが蘇ってきた。
試合が終わったのは、午後九時だった。延長十二回の末オリックスのサヨナラ勝ちに終わった。試合が終わり二人が車内に乗り込むと、女にとって気まずい無言の状態がしばらく続いた。
「うちにこないかい」
その沈黙を破ったのは真一郎だった。
「うん、」
少し戸惑った様子を見せ女は軽く頭を縦に振る。
女の左手にそっと触れると女は右の手で真一郎の右手を握りしめる。すでに心の準備はできているようだ。
真一郎はホテルの地下の駐車場にテスタロッサを停めるとエレベーターで部屋のある最上階に昇る。その中で二人は深い抱擁を交わした。
部屋に入ると獣のようにベッドに女を押し倒す。女は真一郎に身を任していた。あっという間に生まれたままの姿に戻った女の身体ははちきれんばかりの健康美を称えていた。
その清楚な洋服のためかスリムな印象を受けていたその身体は豊満といっても言い過ぎではないくらいに肉付きが良かった。真一郎がいきなり侵入してもその部分は必要にして充分な潤いがあった。真一郎の持続時間は恐ろしく長い、その間にも女は幾度も絶頂を迎える。そして、真一郎と女が獣の姿勢になったときに真一郎の大脳の思考は完全にストップし本能だけが一人歩きする。用意していたロープを挿入した状態で女の首に巻き付ける。渾身の力で女の首を背後から締め上げる。女が一瞬海老のように反り返り上体は完全に吊るし上げられた状態になっている。今、女の身体がベッドに接しているのは膝から下の前面のみである。顔面は紅潮し膨れ上がる。女は一瞬で息絶えた。真一郎の強大な腕力は女の頚椎骨を一瞬にして砕いたのだ。そしてその瞬間に真一郎は至上の絶頂を迎える。その数秒の出来事を言葉で表現すると「残酷」それだけだった。ついさきほどまで熱い抱擁を交わしていた相手をなんの前触れもなく一瞬にして絞殺する。このギャップが真一郎の快感中枢を刺激する。真一郎は一日に二人を手にかけたのだ。動機なき殺人、殺人のための殺人、そう汚れのない純粋な殺人がここに成立したのだ。
真一郎が女の体内から離れた。驚いたことに真一郎のそれは屹立したまま天井を見上げていた。全く萎えていないのだ。止まることを知らない性欲の持ち主、それが真一郎だった。
ベッドのシーツが女の排泄物で汚れている。
女が美しければ美しいほどその排泄物が際立つ。真一郎の達成感は今、完全に満たされた。
言葉で表現できない充足感が真一郎を包み込み強烈な睡魔が真一郎を襲う。排泄物の異臭の漂うその部屋で真一郎は一夜を冷たくなった女と共にした。
真一郎と光夫によって繰り返されている連続殺人は同一犯人の犯行として再びマスコミに取り上げられるようになっていた。その犯行の今までに例をみない残忍さは若者たちのあいだで次第に話題にのぼる機会が多くなった。
その強烈な暴力、殴打による完璧な破壊、
それは若者の奥底に眠る本能を刺激した。次第に若者たちの間で光夫と真一郎はカリスマ性を帯びることとなる。殺人鬼が英雄視された瞬間だった。圧倒的な力には不思議な魅力がある。善悪にかかわらず。
人間の何かにすがりたいという弱い気持がそうさせるのかもしれない。次に事件が起きるのはいつかなどという期待が若者たちの、特にティーンエイジャーのあいだで膨れ上がっていく。そして、誰もが顔をしかめながら語るブラック・ジョークの対象に、恐怖しながらも心の奥底で憧れてもいる悪魔になっていくのだった。
そして、この頃からだった、光夫以外の一人の青年が真一郎の部屋を頻繁に訪れるようになったのは。その青年は穏やかな眉に、涼しい瞳、そして、優美にそそり立つ鼻、上品な容貌の持ち主だった。
光夫と京子は久しぶりに二人だけのゆったりとした時間を過ごしていた。たっぷりと時間をかけた情事のあと二人でシャワーを浴びリビングでくつろいでいた。その足元にはすっかり大きく成長した全身オールブラックのグレート・デンが伏せの姿勢でくつろいでいる。室内には穏やかな空気が充満していた。光夫は京子と二人で過ごす時間にたとえようのない安らぎを感じていた。相性とはこういうものかと思うほどに二人の関係はうまくいっていた。何も言葉を交わさなくても、いっしょにいるだけで、それだけで穏やかな気持になれるのだ。乾いた心に潤いが与えられる。そんな形容がぴたりと当てはまる。
京子はその外見とは裏腹に家庭的な女だった。料理の本を片手に厨房に立つその姿に光夫はいじらしささえ感じる。光夫にはまだ人間の心が失われていなかった。真一郎のように研ぎ澄まされた鋭敏な感覚というのは完全な孤独からその鋭さに磨きをかけるのかもしれない。
優秀すぎるがための孤独・・・・・・・
何かを得るためには何かを犠牲にしなければいけない。そのバランスが成功と失敗の明暗を分けるのもを訪れるもの、真一郎と光夫のようにただの暇つぶしにこの店を選ぶもの多種多様な人物が束の間の安息を求めこの店の門をくぐる。コンパニオンはあらゆる客の話題に対応できるように訓練されている。株、政治、芸術、スポーツなど広く浅く知識を必要とする。この店に限っていうと、新聞の朝刊を隅から隅まで読むのは毎日の宿題のようなものである。
しっとりとした手入れの行き届いた肌に形のよい鼻、そして少し気だるそうな濡れた瞳の三十過ぎのこの店のママが光夫と真一郎のボックスに挨拶にきた。妖艶な美しさを放つ女だった。この女も昼の陽射しのもとで見るとまた違った女としてうつるのだろう。この空間の独特の雰囲気が女達を必要以上に妖艶にそして美しく見せる。
マーテルの香りが鼻をつく、光夫の横に座った女はシャネルのエゴイストを身に付けている。酒の香りと香水の入り混じった臭いがボックスに漂う。真一郎は光夫の斜め前に座りそのすらりと伸びた足を組む。こして真一郎には人を威圧するかのような近寄りがたい雰囲気が既に備わっていた。長身だがけっして格闘家のような筋肉の上に脂肪がうっすらと巻いたような体格でもない、内面からくる自分に対する自信がそうさせているのだ。しばらく会わないうちに真一郎は凄みを増していた。しかし、光夫には不思議と真一郎に対しての対抗心とかライバル心という男性にありがちな感情は湧いてこなかった。京子という存在が光夫の心に余裕をもたらしているのかもしれない。自分と似かよった思想を持った違った個人というのが光夫の正直なところだった。その鋭さに恐ろしくなることも幾度かあったが、悪魔の魅力を備えた真一郎に光夫は畏敬の念を感じずにはいられなかった。
「最近、どうだい変わったことはないかい?」
光夫のほうから口を開いた。
「どうなんだい、最近また派手にやっているじゃないか」
光夫は真一郎の具現化された狂気に興味を示す。
「ああ、ぼちぼちだよ」
真一郎はまるで仕事の話をするかのようにそう言う。
「でも、ぼくがやっていないことまでぼくのやったように新聞に載っているね」
さすがにコンパニオンの前ではあからさまに言うことはできないようだ。そして、真一郎は光夫が自分と同じように殺人を犯していることは知らない。
光夫は悪戯をしてその様子を隠れて見ている子供のような気持になっていた。
「まあ、いいんじゃないの、もう何人やったっていっしょだよ」
「ははは・・・・・そうだね」
「一体なんの話ですの?」
真一郎の左横に座っているコンパニオンが興味深そうになついてきた。
「仕事の話だよ」
真一郎はコンパニオンの手を握ると穏やかな表情で肩を抱き寄せた。
「まあ、趣味だからね。やめられないよ。他に楽しみもないしね」
「おーこわ、君は怖い男だなあ」
光夫がテーブルのフルーツに手を伸ばそうとすると隣のコンパニオンがその手を制する。
「私がやります」
「葡萄を食べたいんだけどね」
光夫がそう言うと女は器用に爪楊枝を使って葡萄の皮を剥き光夫の口に運ぶ。光夫を見つめる女の瞳は潤んでいた。
そのすぐ後ろのボックス席で鋭い眼光の男二人が聞き耳を立てているのを、二人は知るよしも無かった。
「光夫君、シアトルの連続殺人鬼の話は知っているかい?」
「いや、知らないな」
「IQ160のエリート殺人鬼、テッド・バンディだよ」
真一郎はマーテルをくゆらせながら静かにそして、力強い口調でそう言った。
「知らないのかい。彼は殺人者でありながらスーパースターでもあったんだ。彼のグッズまで販売されたぐらいだからね。彼の魅力は全てにおいて卓越された優秀さと殺人鬼というギャップの大きさだと思うんだ。意外性というのかな、政界にも法曹界にも進めたはずのゴールデン・チャイルドの隠れたもう一つの恐ろしい顔それがテッドの魅力なんだ」
「なんだか、君とダブルね」
「しかし、彼には欠けていたものがあった。
それは、自信だよ。彼のことを客観的に書いた本、『死体を愛した男』を読んだけど、そうかんじたな。しかし、彼ぐらいじゃないかな殺人鬼にしてスーパースターっていうのは。やはり、人間というのは善悪にかかわらず強いものに惹かれるんだよな」
真一郎は子供のように目を輝かせて光夫をみつめた。
「楽しいよ。光夫君」
真一郎の目が大きく見開いた。その表情に光夫は背筋に冷たいものを感じるのだった。
多くの殺人鬼がそうであるように真一郎には生への執着はみられない。ただ過去の多くの殺人鬼と全くそして大きく異なっているのがそれらの多くに多々見受けられるなんらかのコンプレックスというものが真一郎には全く皆無ということである。容姿、経済力、頭脳どれ一つとっても真一郎は天才だった。そう、百パーセントの天才なのだ。何が彼を殺人というけっして得にはならない行動へといざなうのか、それは、常人の考えの及ぶところではなかった。
真一郎のその残虐で後に証拠を残さない華麗な犯行は次第に多くの崇拝者を造りだしていった。実体のない神への憧れに類似するものがそれにはあった。特にティーンエイジャーにそれは顕著だった。連鎖的な事件が続発する。戦後最大のこの連続殺人事件は潜在的に潜む人間の本能を呼び起こしたのだ。犯罪者と一般人の極めて不透明なボーダーラインを人々は次々に乗り越えていく。平成のモンスター真一郎は人々の心の中で大きく成長していくのだった。
(10)
ピュア・ブラックのグレート・デンが光夫の足元で伏せの姿勢をとっている。ゆったりと時が流れる。そして、数えきれない京子への抱擁、穏やかな空気が二人を包んでいた。ソファになだれ落ちる。
光夫は自分でも気づかないうちに女性を愛するという気持が希薄になっていた。女性は性欲の捌け口、そして、その先にある破壊、
光夫の獣の心が沸々と煮え返る。穏やか時間の中にも光夫の頭の中にその精神が見え隠れするのだ。そう、京子との情事の最中にでさえもそれは突然現れ、そして、消えていく。その瞬間堪えきれないような暴力への欲求が光夫の頭を占領する。
太陽が西の彼方に落ち夕闇が光夫の周りを占拠する。今日は、京子が正午から光夫の部屋を訪れ、午後五時には情事を終えて帰った。
京子が帰ると恐ろしいほどの孤独が光夫を襲う。よく寂しさを紛らわすためにペットを飼うという話を耳にするが光夫には理解できなかった。光夫の部屋には、平均的な大人の男性の体重を上まわるほどの巨大な犬がいるが一向に孤独は癒されない。
父親もなくなった。絶対的な逃れられない孤独が光夫を次から次へと追ってくる。孤独の先端にあるものそれは絶望である。そして、絶望の先端にあるものそれは、死だ。人間は絶望に対抗するために希望、目標を持つのである。
光夫に希望、目標はなかった。一般的な若者が持つ夢、目標は、既に手に入れていた。
今、光夫は、生きていくための理由を探していた。人間は、一体何のために生きているのだろう。かつて、真一郎にその疑問を投げかけると種の保存という答えが帰ってきた。
ならば、種の保存を希望しない人間にとっての生きる意味というものは何であろう。人の生きていく上での最初の欲求は、食欲である。その次に性欲そして金銭欲、そして、それをも満たされた場合に多くの人間が欲するものそれは名誉欲であるケースが多い。光夫にしても、うっすらとそれは感じとっていた。どういう形でそれを具現化するかということである。
贅沢な悩みといえば、贅沢な悩みかもしれない。
しかし、光夫にとっては生死をかけるほどの深刻な悩みなのだ。孤高ゆえの孤独、光夫は真一郎と同様の境遇にたたされていた。
深夜、気持を落ち着かせるために光夫は散歩に出かけた。身体を動かしていると不思議と気がまぎれるのだ。いつものリーガルからナイキのジョギングシューズに履き替えると光夫は、深夜の公園に出かけた。以前、チンピラ風の男を破壊した現場のある公園だ。午前中の雨のせいか霧が立ち込めていた。周りの視界がすこぶる悪い。湿度が高いせいか生温かい空気が頬に纏わりつく。
光夫は、子供の頃を思い出していた。この公園と同じような雰囲気の大きな公園だった。父親の休日を利用して、二人で虫取りに出かけていた。虫取りも一段落して、父親が公園の公衆便所にいっている間に光夫は、銀杏の木の枝に止まる雀を発見した。キョロキョロとあたりを見回す。足元の小石を拾う。光夫は、どうせ当たらないと思いつつ小石を雀に向かって無動作に投げた。
その直後に、とんでもないことが起こってしまったのだ。光夫の投げた小石が雀に命中してしまったのだ。それでも、光夫は、動揺しなかった。石が小さかったからである。こんな程度では死ぬことはないと雀に駆け寄った。なんということだろう、雀は虫の息になっている。ここで、はじめて光夫は事の重大さを悟った。
そうなのだ、人間にとっては一センチ程度の小石でも、雀にとっては巨大な隕石ほどの衝撃なのだ。雀はそのまま絶命した。
父親がトイレから出てきた。
光夫は、その出来事をなぜか父親に話さなかった。いや、話せなかったのである。
それほど、当時の光夫にとってショッキングな出来事だったのである。自分の手で小動物を殺める。当時、小学四年生の光夫にとってそれは、生まれて初めての事件だった。必死に忘れようとした。しかし、しばらく光夫の頭からそれは離れようとはしなかった。誰にも言い出せない苦しさから光夫は子供なりに悩んだ。しかし、時がその罪を光夫の中で小さなものに序序にしていく。次第に光夫も気にはならなくなっていった。そして、表面上は忘れ去られていくのだった。実際、光夫も今そのことを思い出しても、これといって考えることはない、ああ、そういうことがあったなという程度のことである。
ただ、それだけのことなのだが・・・・・
緑の臭いがムッ鼻につく、湿度のせいだろう。
湿ったアスファルトの公園の道をひたひたと歩く。不意に鼬か猫だろうガサガサと道の両端に生えている雑草が揺れる。恐ろしいほどの静寂が続く、昼間ならば聞こえるはずもない足音が今、光夫の聴覚を刺激する一番大きなものになっている。次第に身体が暖まり汗が滲みでてくる。しかし、強烈な湿度のせいか爽快感はなかった。この不快な状態が大きければ大きいほど、その後のシャワーの爽快感は大きいのかもしれない。顔が霧でねっとりとしている。道の左側に大きな池が開けてきた。池には錦鯉が悠然と泳いでいる。一メートルは悠にこすであろう巨大な黄金色の錦鯉だ。丸々と太っている。外灯に照らされたその黄金の巨体は緑色に濁った池の水を通しても眩く反射する。光夫を見つめるように胸鰭を使ってバランスを取りながらじっとこちらを見ている。
不意に大きな口を水面から出したかと思うと餌をくれと言わんばかりに口を開いた。人懐っこい鯉だ。光夫は、ニヤリと口を開くとその場を去る。公園の出口が近づいてきた。出口を出ると国道にでる。今までの静寂が嘘のように車の排気音が光夫の耳に侵入してくる。足音が意識の範疇から脱出した。程よい筋肉の痛みが眠気を誘う。今日は、久しぶりにバスタブに湯を張る事にした。入浴剤を入れ、温度を42℃に設定する。湯は設定した水位までくるとリビングの光夫にアラーム音で知らせる。光夫がその伸びやかな肢体をバスタブに入れると、バスタブから湯が溢れ出す。疲れが溶けるように消えていく。疲れというものは血液の流れと関係しているのかもしれない。
そして、午前三時、美しき獣は眠りに就いた。
ディアブロが派手なエキゾーストノートを轟かせていた。近未来的なボディが周囲の羨望の眼差しを受ける。ディアブロに日本の渋滞は似合わない。V型12気筒5・7リッター、492PSのエンジンが怒声を上げる。
有り余るパワーを心臓部に蓄え、鉛を両足につけた金メダリストのように鈍重な走りを強いられていた。そして、コックピットには優美にそそり立つ鼻、スリムだが健康的な顎のライン、マネキン人形のように均整のとれた容姿の女が収まっていた。
光夫は、午前十一時十分に目覚めた。ベッドに身体が張り付きそうなほど筋肉がリラックスしている。身体が休息を求めていたのだろう。昨日の散歩が良かったのか、目覚めは良かった。不意に枕元の携帯電話が鳴った。
「光田です・・・・」
光夫が気だるい声で電話に出る。
「私よ、わかる?」
ハスキーな声の女だった。
「わからない」
光夫が無愛想な声で答えた。
「みれいよ。金沢美麗」
女は、少し強い口調で自分の名前を繰り返す。
「ああ、あの時の・・・・」
光夫は目覚めてから間もないせいもあり、気の利いたせりふが出てこなかった。
「本当に思い出したの?」
少し不満そうな表情に声が変化した。
「ああ、ディアブロだろ、忘れないよ」
「車じゃなくて、私のことよ」
「ああ、もちろん覚えているよ」
美麗は子供のように無邪気なところがあった。
光夫にはそれが愛しく感じられた。最初に出会ったときも言葉では言い表せない何かを感じていた。
「近くまで来ているんだけど、出てこれない?」
光夫に断る理由はなかった。光夫は、美麗と近くのアンジェロという名のフランス料理店で昼食をとることにした。白熱灯の明かりが目にやさしい落ち着いた雰囲気の店だ。アンティックな内装と調度品が光夫の嗜好に合っている。光夫のお気に入りの店だ。一人暮らしの光夫は、ランチ、ディナーともによく利用していた。光夫が店のドアを押し開けると美麗はドアからすぐに目に付く位置のテーブルに座っていた。高級な調度品に囲まれて美麗の美しさがより高尚さを増している。締まった肢体は黒豹の精悍さを想像させる。知性と野生が適度にバランスされた容貌と姿態が男の本能をえぐるように刺激する。
光夫がテーブルを挟んで美麗の前に座ると
雌の臭気がムンムン光夫を刺激する。美麗の左の手首にはブルガリのスネークが巻きついている。フェンディの黒のワンピースにシャネルのカーフサンダルそして浅黒いがきめの細かい肌、シルクのような長い髪の毛、美麗は完璧だった。
微かに響くショパンのノクターン(第二番)変ホ短調Op.9―2が二人の気持を高揚させる。
早々と食事を終えると二人は無言のままポルシェ911で光夫のマンションに入っていった。
ドアを開け、玄関先に入るやいなや光夫の抱擁が始まる。そして美男美女の絡み合いはベッドルームになだれこみ、翌日の朝まで続いた。光夫は美麗を責めぬいた。朝の五時に眠りに就いた光夫が目を覚ましたのは、深夜の午前一時過ぎだった。部屋に美麗の姿はなかった。テーブルの上の走り書きのメモだけが彼女が光夫に残した唯一の痕跡だった。
光夫は生きる意味を模索していた。そして、
その意思は光夫の考えとは関係なく客観的に常に上を向いている。うっすらとその答えの行き着く先が見え隠れしている状態だった。
虚無な日々が光夫を襲う。光夫には友人といえる人物が存在しなかった。マンションに来る郵便物は、高級ショップのダイレクトメールか光熱費の請求明細書ぐらいであり、電話といえば京子をはじめとする女ばかりだった。
その孤独が光夫の精神を再び世間一般で云われる狂人と凡人とのボーダーラインへと引きずり込むのだった。
光夫の資産は凄まじく膨れ上がっていた。
真一郎の予言した通り日本の株価はある一定の水準まで上げてくると下降に転じるというボックス圏相場で推移していた。光夫は、真一郎のテクニックを完全に自分のものとしていた。株価が上昇に転じると空買いをし、下降に転じると察知すると素早く空売りの注文を出す。光夫のマネーゲームは完璧に近かった。光夫は真一郎の経済思想パターンを自分でも気づかないうちに吸収していたのだ。光夫の頭の中には為替の動きから連動する株価の流れ、様々な経済情勢、政治情勢が株価に与える過去のデーターがインプットされていた。正確無比なマネーゲームだった。光夫は空売り、空買いをすることによって株価の上昇、下降の両方でキャピタルゲインを得ることができた。
しかし、そのマネーゲームも光夫の生活手段であり、光夫が捜し求めている人間は何を目的に生きているのかということの答えには成り得なかった。
孤独は、思想を歪める。歪んだ思想の行き着く先は世間への憎悪と自己を特別視する狂信的な思想である場合が多い。
光夫の心のなかに人を蔑む気持が次第に芽生えてきた。危険な思想だ。自分の意のままに人々を操作する欲求が芽生えてきたのだ。どれだけの人間を自分の意のままに操ることができるのだろうか、光夫は自分の力を試したくなっていた。自分でも気づかないうちに光夫は、真一郎の意志を受け継いでいくのだった。
真一郎の思想は光夫の中でその姿を微妙に変化させて光夫に受け継がれていく。
光夫は、全ての物事を金銭の価値に置き換えて考えるようになっていた。それは、人に対しても同様である。ただ、京子、美麗に対してだけは情義を持って接していた。
そして、光夫のあらゆる感覚は一般常識とは大きくかけ離れたものになっていくのだった。光夫自身気づかないうちに・・・・・・・・
今まで見えてなかったものが、霧が晴れるかのようにじょじょに明確になっていく。自己の目標が定まりつつあった。
天才の思想というものは時に夢想的なものである。
誰もが持っている悪に対する甘美な憧れ、それは光夫とて例外ではない。強烈な悪への憧れ、光夫の追い求めていたもの、それはまだ漠然としたものではあるが国家権力への挑戦という反社会的な方向に向きつつあるのだった。
今日、光夫は近くの山に散策に出掛けた。ロープウェイを登りきると、そこは、緑に囲まれた別天地だった。緑の天井の山道を歩くと、手足が異様に張ってくる。歩いているせいか気持も落ち着く。数キロ先の眼下に広がるコンクリートジャングルがまるで嘘のように、此処には人工的なものはなかった。あるのは圧倒的な自然である。緑の息吹を光夫は力一杯に吸い込む。身体の中の不浄なものが息を吐くごとに吐き出されるような感覚になる。下界の排気ガスの入り混じった空間では体感できない感覚が光夫の精神と身体をリフレッシュする。科学では説明のつかない効用が作用しているのだろう。森の中に入ると、緑の天井と気化熱のためか涼しく感じる。小川のせせらぎが光夫の心を和ませた。途中の休憩所で甘酒を飲む。甘酒を飲みながら光夫は父親との虫捕りを思い出していた。
穏かな一瞬だった。
自然の真っ只中で生きる。これが本来の人間の姿だと光夫は認識していた。
緑には不思議な力があると光夫は信じている。そういえば、真一郎の部屋には無数の観葉植物があったなと思い出しもする。光夫が
久しぶりにほっとする瞬間だった。頂上近くにある神社がこの登山の終着点だった。多数の人が参拝をしている。しかし、光夫はそれをしなかった。神仏に頼るのは愚の骨頂という光夫の信念からだった。神の姿、形が人間に似通っているということ自体が存在しないということの証拠でもあると確信していた。光夫は参拝者を尻目に下山へのコースに入っていった。美しい斑猫が光夫を先導する。今、この瞬間、光夫は自然と一体となっていた。自然の営みの一部となっているのだった。少なくとも光夫は、そう感じていた。それは、女との情事の際に感じている感情と同一のものだった。人間が動物になれる環境、それが光夫の動物としての理想だった。本能のままに生きる。現代人が失ったこの環境を光夫は無意識のうちに求めている。光夫の男性が少し過敏な状態になっていた。これも、そのせいかもしれない。脳で物事を考えることによって、人間は無数のモノを創りだしてきた。そして、それと同じくらいの数の何かを失ったのかもしれない。
翌日の早朝、その森の中で一人旅をしていた二十歳代女性の惨殺死体が発見された。顔面は、激しい殴打により原形をとどめておらず、その秘所の上端は、鋭利な刃物で切り裂かれ恥骨が露出していた。腹部は裂かれ内臓が辺りに散乱している。その中に子宮はなかった。体内からは男性の体液が検出され、右の乳房は切り取られていた。そして、舌は噛みちぎられ、それらの肉片は死体の周りに内臓と共に散乱していた。
光夫は、充実した遅い朝を迎えていた。昨夜、強烈な睡魔が光夫を襲ったのだ。目覚めたのは午前十一時を過ぎた頃だった。なんともいえない充足感である。ベランダのグレート・デンがノソノソと光夫に近づいてくる。冷蔵庫の葡萄を取り出し、ノリタケの花柄の皿に盛る。口に入れると豊潤な香りと果汁が口一杯に広がる。葡萄の果汁が身体中に染み渡り、ビタミンが光夫の身体を整える。三十一歳の誕生日を終えた光夫の肌は、高校生のようにきめが細かく外見は二十代半ばにしか見えない。水泳選手のようにビルドアップされた肢体がソファの上で窮屈そうに曲がる。光夫の男性は屹立していた。それを収めるかのようにトイレで用をたす。シャワー室に入ると光夫の伸びやかな肢体が湯を弾き飛ばす。そして、シャワーを終えるとその全身にローションを塗る。
光夫の朝の儀式が終了した。バスローブに包まれた光夫はテレビのリモコンに手を伸ばす。例の女性のニュースが流れ光夫は穏やかな表情でゆったりとそのニュースを眺めていた。時間がいつもの二分の一ぐらいのスピードで穏やかに流れていく。ゆっくりとゆっくりと。爽やかな風が頬を撫でる。身体がいつもより暖かく感じる。心身ともに充実していた。
その日光夫は、午後から京子と買い物に出掛けた。
光夫は、京子と美麗を平等に愛した。どこか二人の姿態は似通っている。美麗のほうが全体的にシャープな感じをうけるが、二人とも
浅黒く引き締まった無駄のない鍛えぬかれたダンサーのような体つきだ。ただ京子には美麗のような得体のしれない魅力というものはなかった。付き合いが長いということもあり
京子の優しさが光夫にとって魅力でもあり、いじらしかった。
腕を組んで歩く二人は、通行人の眼を惹いた。映画のワンシーンに出てくるような美男美女の行進に誰もが溜め息をつく。
「今日は、顔色がいいわね。ぐっすり眠れたんでしょう」
光夫は、京子に時々眠れないと漏らすことがあった。
「ああ、今日は、快調だ。何を買ってもいいよ」
京子は微かに笑みを浮かべ光夫の腕に自分の腕を絡め幸せをかみしめる。
光夫は、京子のそんなところがたまらなく好きだった。多くを語らなくても二人は分かり合えた。これが相性というものなのだろう。光夫はこの幸せな時間を堪能するのだった。
京子は、光夫の正体を知らなかった。真一郎が殺人鬼であることも知らない。真一郎にしても光夫が自分と同じ殺人という魔力に魅せられた人間だということは知らない。天才の欲望は凡人のそれとは異なる。 光夫の本能の先端は破壊であり、その結果が死だった。
京子が去ると恐ろしい程の孤独が光夫を襲った。それは、目に見えないカーテンのように光夫を包み込む。
真一郎はテスタロッサのコックピットにおさまっていた。国道を南下し一つ山を越えた辺鄙な土地にその精神病院はあった。病院の敷地の外にある駐車場にテスタロッサを停止させると真一郎は駐車場に降り立った。妙に気分が重い。モルタルで塗り固められたその門は角が欠け、経年変化によるひびがこの病院の古さとオーナーの性状を無言のうちに真一郎に語りかけてきた。滅入る気持ちを抑え真一郎は病院の門をくぐる。門の古びた看板は目を凝らさないと読み取れないほど風化が進み看板の所々にはへこみさえあった。その看板には魚岸病院と書かれていた。この辺りでは有名な精神病院だ。四方を山に囲まれたこの病院の立地条件は色々な意味で病の性質上、患者の親族から重宝がられているらしい。この病院に入院させられて帰ってくるものはいないとまで噂される地元では有名な重症患者を扱う精神病院だ。門をくぐり玄関に近づくと比較的症状の軽いらしい患者が日向ぼっこをしていた。目に表情のないその独特の表情が精神の異常を如実にあらわしている。その中の一人が真一郎に纏わりついてきた。四十代半ばくらいの女だ。醜く脂肪が垂れ下がった容貌には嫌悪感さえ覚える。にやにやと薄気味悪い笑いを浮かべ、その前歯は一本欠け、品性の微塵も感じさせない下品な女だった。
「兄ちゃん、私といいことしないかい?けけけけけけ」
真一郎は無言でその女を振りほどくと、玄関の横にある受け付けに立ち寄った。
「近藤真一郎ですが、入院患者で近藤清子の面会にきたのですが」
「はい、少しお待ちください」
愛想の悪い初老の事務員がそう言うと、真一郎は面会室に通された。五分程度経っただろうか面会室のドアの向こうから女の奇声が響く。屈強な看護士に両腕を掴まれ現れたのは真一郎の母、清子だった。
「誰じゃ、お前は!」
髪の毛を振り乱し、真一郎にくってかかるその様はまるで悪鬼のようだ。真一郎の脳裏にあの日の忌まわしい記憶が蘇える。物静かだった清楚な母親の面影は微塵もない。肌はかさつき、あんなに真っ白だった歯も少し黄ばみが出ていた。
すぐ後からドクターがやってきた。
「今日は朝からこんな調子なんです」
さすがにドクターは、この程度の事は、日常茶飯事なのか平然とそう真一郎に言った。
「どうします?今日はこんな状態なんですが」
「いえ、大丈夫です。ちょっと話しがしたいものですから」
「はぁ・・・でも・・・じゃっ少しだけ」
「ありがとうございます」
真一郎の母、清子は真一郎が大学に入学して間もなくこの病院に入院している。病名は精神分裂症だった。
・・・・・・それは、真一郎が大学に入学した年のことだった。茹だるような昼間の暑さも少しはしのぎやすくなった午後六時。夏休みで京都の実家に帰っていた。真一郎は食卓テーブルの椅子に座りテレビを見ながら食事の支度が終わるのを待っていた。蝉の鳴き声が裏庭から聞こえてくる。まだこの時期は六時でも外は明るい。真っ赤な夕焼けが部屋全体を紅く染める。部屋の灯かりはまだつけていなかった。父親はテレビの前に胡座をかきランニングシャツ姿で枝豆を酒の肴にビールを飲んでいた。すべての献立がテーブルの上に整い後は清子がキッチンのシンクからこちらにくれば家族団欒の夕食が始まるはずだった。
そのとき清子がキッチンのシンクで洗い物をしながら首だけを捻りこちらを向いた。こんなにも人間の首が曲がるのかというほどその細い首は捻られていた。
「その、お肉は猫の肉よ」
虚ろな表情で真一郎にゆっくり語りかける。
まるで蝋人形のような不自然な動きだった。幼い頃に見た映画エクソシストの一場面が真一郎の脳裏に浮かんだ。真一郎の身体全体に悪寒が走る。
「けけけけ」
気味の悪い薄ら笑いを浮かべたかと思うと、ゆっくりと空いていた真一郎の右斜め横の椅子に座り食事をとりはじめたのだ。父親が驚いて母親の元に走った。
「清子!」
父親の怒声が部屋をつんざいた。
真一郎は悪寒が止まらなかった。頭の片隅に置いていたあの忌まわしい記憶がまるで煙のように真一郎の頭の中に拡がっていく。真一郎の壊れかけていた心はこのときに完全に崩壊した。
「そのお米には洗剤が入っているのよ」
真一郎の茶碗を指差し何かに操られているかのようにぼそりと呟いた。真一郎の身体は恐怖で硬直していた。
「いったい、どうしたっていうんだ!」
父親が清子の身体を揺する。父親の必死の訴えにもいっこうに反応がない。
突然の発狂だった。しかし、真一郎にとっては初めてのことではない。清子はその日から家の中を意味もなく徘徊し始めた。
そして、真一郎が東京に戻って数日後にこの病院に入院したのだ。
「母さん、久しぶりだね、元気してた?」
「おのれ、わしをのけものにしよって、この恨みはらさでおくか!皆で寄ってたかって村八分にしおってからに!」
「何言っているんだい?真一郎だよ」
清子は鬼の形相で真一郎に食ってかかる。
「今日は母さんに聞きたいことがあって、ここに来たんだ」
「何をじゃ」
清子はそう吐き捨てるように言うと真一郎の前にテーブルを挟んで座った。闘技場に入った闘犬のように身体全体に怒気を放っていた。その上唇は震え、まくりあがろうとさえしている。
両脇には屈強な看護士が両腕を羽交い締めにしている。
「あのときの事を教えて欲しいんだ」
「あのときのこと?」
「蝉取りに行ったときのことだよ。覚えているだろ。ぼくの首をロープで絞めたじゃないか。ぼくが小学校の六年生の頃だよ。どうして、あんなことをしたんだい?どうして、ぼくを殺そうとしたんだい?」
それを聞いた清子は突然額をゴンと机に落とした。それは、まるで大きな石が手から不意に滑り落ちたかのようであった。そして、しばらくの間その状態を保っていた。時間にして二十秒ぐらいだろうか。ゆっくりと頭を上げ始めた。その様子はまるで首を見えないロープで吊られているかのようであった。半袖の薄いブルーの看護服を纏った二人の看護士の腕に鳥肌が立っているのが机を挟んだ真一郎の目にも確認することができた。
「許しておくれ、自分でもわからないんだよ
どうして、あんなことをしたのか」
清子は清子に戻り柔和な表情に変化していた。
しばらく沈黙が続いた。すると、どうだろう清子の表情がみるみる険しくなってきた。眉はつりあがり、目は猫のように鋭く、上唇はまくれ上がろうとさえしている。
「たわけが!何をほざく。わしにはやり残したことがあるのじゃ!無念!無念じゃっおのれらを根絶やしにしてくれるわ!」
突然清子は真一郎に掴み掛かろうとし机に身を乗り出した。そのつりあがった目は狂人という表現しか浮かびあがってこない。そう、あのときのままだった。鬼のままだったのだ。
屈強な看護士達が清子の不意打ちをかろうじて静止する。
真一郎の顔にねっとりとした液体が飛び散った。清子の唾液だ。真一郎はその唾液を無表情でハンカチで拭いとった。
看護士からの連絡を受けたドクターが慌てて面会室にやってきた。
「近藤さん、今日のところはこれぐらいにしておきましょう、今日は日が悪い。お母様も興奮されているようですし・・・・」
「わかりました」
「ふーふー」
清子はまるで獣のような息吹をあげながら看護士に引き摺られるように面会室を去っていった。そして、その目はドアの閉まるその最後まで鋭く真一郎に突き刺さっていた。
「先生、いつも母はあんな感じですか?」
「ええ、あんな状態が何日か続くと、少し静かな日もあるのですが、大体それの繰り返しですね」
「原因は、何なんですかね。精神分裂症っていうのは」
「原因というのはまったくわかっていません。遺伝とか色々と言われていますが、そういう家系じゃない人でも、この病になる人はいます。まあ、一般的には素質プラス心理的原因によると考えるのが普通です。何か思いあたることとかないですか?」
「いえ、ぼくは、ないです」
「そうですか、まあとにかく今は、こんな調子なんで・・・・どういったらいいのか・・・」
「いえ、いいんです。ただちょっと気になっただけなものですから」
そう言うと真一郎は面会室を後にした。真一郎がこの病院を訪れたのは初めてだった。久しぶりの再会は予想していたよりもひどいものだった。清子は典型的な精神分裂症の症状を示していた。ドクターの話によるとその中でも妄想型の分類に入るらしい。今日真一郎がこの病院に訪れたのは母のあのときの行動の
理由を知りたくなったからだった。母に対する憎しみは消えてはいなかったが理由が知りたかったのだ。精神疾患による突発的な行動だったのかもしれない。しかし、何か他に理由があったのでは・・・・
心の奥底では母をまだ愛していたのかもしれない。誰にも言えない暗い過去を清算する正当な理由が欲しかったのかもしれない。入院をする前のあの事件で精神の異常からきていたのでは、ということは薄々感じてはいるのだが・・・・・・
真一郎は受け付けを済ませ、病院の玄関を出た。振り返り病棟を見上げる。荒涼としたこの病院の窓には鉄格子が張り巡らされている。
その鉄格子の間から覗く虚ろな目、目、目、
獣の目だった。しかし、それは野生のそれではない。動物園の動物の目と何ら変わりがないのだ。その目には生気がなく焦点が定まっていない。生きるためだけに生きている獣の目だった。思わずため息が漏れた。
美麗のディアブロがけたたましい咆哮をあげる。その空力性能を極限にまで重視したボディは強烈なダウンフォースを発生させ高速道路を張り付いたかのように走り、その高速安定性はレーシングカーのそれである。光夫のマンションの駐車場でその咆哮はなりひそめた。
部屋に入ると言葉を交わす間もなく二人は身体を貪り合った。それは獣の交わりだ。互いの身体を舐め合いしゃぶりつく艶めかしいさまは普段の二人のクールな雰囲気からは想像できるものではない。光夫が四度目の絶頂を迎えその行為にピリオドが打たれると美麗はシャワーを浴びどこへともなく帰っていく。
光夫にとってそれは都合のいい関係だった。美麗の引き締まった姿態は光夫を何度でも絶頂に導いた。身体の相性は恐ろしく良かった。
気だるい朝を迎えた。妙に気持ちが落ち着いていた。魅力的な二人の女性に愛されている心のゆとりが光夫を安定へと導く。
真一郎は、京都の実家に帰っていた。久しぶりの帰省だ五年ぶりにもなる。父親の浩一郎は会社を勇退し今は少し早い隠居の身だ。祖母のやえも清子の入院した一ヶ月後に死去し今は浩一郎と浩一郎の身の回りの世話をする女中兼情婦の桜子との二人暮しだ。よく手入れの行き届いた庭園に純和風のその邸宅は比較的立派な住居の立ち並ぶその一帯の中でも際立っている。
太い眉に奥二重の切れ長の目、生命力の強さをあらわすかのような分厚い皮膚、ぼってりとした唇、ストレスを経験したことが無いかのような伸び伸びとした表情を持つのが真一郎の父浩一郎だ。実年齢の六十歳よりは十歳は若く見える。浩一郎の真一郎に対する溺愛ぶりは異常だった。その凛々しい顔も真一郎の前では綻びっぱなしだ。自分が父から与えられた愛情をそのまま真一郎に与えていた。
浩一郎は一人掛けの茶色の大きな皮張りのソファにゆったりと座っていた。
「おお、真一郎よく来たな。まあ、座れ」
その顔は満面の笑みに満ちていた。
「ああ、今日母さんのところに行ってきたよ。
ひどかったよ」
「あいつのことはもう言うな。もう駄目だろ」
「お父さんは何回ぐらい見舞いに行ったの?」
「一回もいっとらんよ。お前が東京に帰ってからひどいもんだった。もう、その話はよそう」
浩一郎は首を大きく横に振り陰鬱な表情になった。真一郎は一回も行っていないのかと内心呆れたが、父親の世間体を気にする性格から考えてしかたのないことだとも理解した。この京都府亀岡市という四方を山で囲まれた閉鎖的な町ではいまだに精神病に対する偏見が根強く残っており、清子が気違いになって入院しているということは町中の噂にもなっているらしい。
「母さん、病院で荒れてたよ」
「あれは、気違いじゃ、哀れよのう・・・」
「遣り残したことがあるとか、お前らを根絶やしにしてやるとか、物騒なことを言っていたよ」
真一郎のその言葉に父親の目が驚いたように一瞬見開いた。
「そうか、そんなことを言っていたのか、恐ろしいことよの」浩一郎は小さく呟いた。
父親のその言葉に真一郎は不審を抱いた。
「何か、心当たりがあるの?」
真一郎のその言葉に我にかえった浩一郎は
「あるわけないだろ」と一言吐き捨てた。
しかし、その両の腕には鳥肌が立っているのを真一郎は見逃さなかった。
「もう、その話はやめじゃ、久しぶりに帰って来たんだから、ゆっくり飯でも食おう」
浩一郎はその話を続けることを拒んだ。久しぶりの父との再会は精神分裂症の母の暗鬱な話で始まった。真一郎もそれ以上その話題に触れるのをよした。それを問い詰めたところで何も変わりもしないだろうし、父も喋ることを忌み嫌うだろうと考えたからだ。
ピラルクとアロワナはあいもかわらず悠然と泳いでいた。新参者のピラニア・ナッテリーが透明なガラスの隔たり越しに両者の顔色を伺いながらビクビク泳いでいる。水槽のポンプが水を循環させその音がポコポコと室内に響く。荘厳な雰囲気があたりに漂っていた。
女は生まれたままの姿でベッドに縛り付けられていた。そう、あのときのように・・・
その華奢な姿態には無駄な虚飾のない一種の機能美さえ感じさせる。その洗練された肉体に真一郎が侵入する。苦悶にも似た表情で女はそれに応える。その鍛えぬかれた二つの肉体は合体することによって一つの芸術作品となるのだった。
その数日後、浩一郎から呼び出しの電話が真一郎に入った。
「明日、こちらにこれんか?大事なことをお前に話しておかないといけない」
「わかったよ。でもいったいどうしたんだい」
真一郎が実家に戻ると電話の様子とうってかわって浩一郎はご機嫌だった。最愛の息子の帰還に喜ぶ父親の顔だった。女中桜子の作る料理をたいらげて、少し落ち着いた頃に浩一郎が煙草に手をやった。
「実はな、母さんのことなんだが」
そう言うと煙をふーっと大きく吐き右斜め下に視線をやった。
父親が大事な話をする前のいつもの癖だと、真一郎は懐かしささえ感じた。しかし、其の後に浩一郎から聞かされた話は常人なら背筋の凍るような陰惨な過去だった。
「実はな、お前のおじいさんの慎吾朗、すなわち、わしの父親は実は子供がおらん」
「おらんってお父さんが子供だろ、違うのかい?」
真一郎はあまりの話の展開に苦笑混じりで父親を見た。
「お前のおばあさんの里はな、岡山県の苫田郡西加茂村いうとこなんだよ。わしの実の父親は田井睦雄という男じゃ。その地方ではな、お前も知ってるかもしれんが、夜這いという性的な風習があったんだ。そんなに昔のことじゃない。その当時は田舎いうたら娯楽も少なくて閉鎖的やったから、そんなことがまかりとおっとったんじゃ。田井睦雄という男はお前のおばあさんに夜這いをかけてつまり、わしの母親に夜這いをかけたんじゃ、あげくの果てに出来たのがわしじゃ」
真一郎は驚きを隠せなかった。今まで実の祖父と思っていた慎吾朗は赤の他人だったのだ。
「どういうことなんだい。詳しく教えてよ」
真一郎には驚きはあったが悲しみはなかった。
それよりも、これから父親から明かされるであろう興味深い過去に色めきたった。
「その田井睦雄という男はな、幼い頃は勉強のできる村では一、二を争うほどの優等生だったそうだ。それが肺病を患って学校に行かんようになってしもたらしい。お前も知っているかもしらんが、昔は肺病いうたらな、まあ今でいう結核なんだが、不治の病やいうて恐れられとったんじゃ、そのせいかどうかは、はっきりせんが村の連中から冷とうあしらわれとったそうらしい。その腹いせにそれから村の女を見れば強引に性的なことを強要しだしたらしい。それでしまいには女達にも肺病やいうことで馬鹿にされてな、とうとうその男は、自分の祖母を皮きりに恨みを持っていた連中を三十人あまり二時間弱という短い時間で殺してしまったんだよ。うちの母さんのやえという名は俗称で旧姓は鴨居いうてな、ほんとの名は鴨居かな子というんじゃ。田井睦雄は、わしの母親に恨みを持っていたらしい。本人は逆恨みや言うとったが実際のところはわからん。しかし事件当日、命からがら逃げおおしたらしい。まあ、だから今、お前もわしもここにいるんだがな。お前が清子のとこに行って言うとったやろ遣り残したことがあるとか、根絶やしにするとか、わしはあれを聞いたときに正直背筋が凍る思いだったよ。清子に田井睦雄が乗り移ったとしか考えられん。清子には、このことを話してはおらんのだからな」
真一郎はそのあまりの因縁の深さに驚きを隠せなかった。自分が殺人に異常な興奮を覚えるのも血のなせる技なのかもしれない。と
「まあ、そういうことだ。わしの本当の父親は田井睦雄なんじゃ、そしてお前は孫にあたる。このことは母さんが亡くなる少し前、そう清子が入院して一週間ぐらいのときに聞かされた。ショックだったがどうにもならん。わしも、お前もそういう因縁の深い家に生まれたよってこれから気をひきしめていけよ」
「ああ、」
そうか殺人鬼の孫か・・・・・
真一郎は心の中で笑っていた。真一郎にとってそれは暗い過去でも何でもない。そう、勲章にさえ思えた。そう狂気は隔世遺伝したのだ。
「この事は誰か知ってるの?」
「いや、知っている者はもうあらかた寿命でもう村にはおらんと思う。だがもしかして知っているものもいるやしれんな。こればっかりはわしにもわからん。まあ、戸籍上はお前の祖父は慎吾朗だよ。そして、お前の実の父親はわしだ。それは間違い無い」
浩一郎は一瞬だがいつもの豪気な表情に戻った。
「お前には黙っていようと思っていたが、清子のことをお前から聞いたとたん落ち着かなくなってな、急にお前にも会いたくなった。わしも歳だ。清子が病院から抜け出してわしを殺しにくる夢ばかり見るんだよ。猟銃を持ってな。そうそう凶器は、日本刀に匕首に猟銃だったらしい懐中電灯を二本頭にくくりつけさながら鬼の角のようだったとも聞いている。」浩一郎は少し怯えた様子だ。真一郎は父のこんな怯えた姿を見るのは初めてだった。
「それで、犯人はどうなったんだい?」
「自殺したらしい、その日の早朝にな、近くの山林の中で・・・・・詳しい場所はわしもわからん。凶器の猟銃でやったらしい。ああ、なんかこの事を考えると鳥肌が立つよ」
そう言うと浩一郎は腕を擦った。
「しかし、凄いな、2時間弱の間に三十人を殺すなんて・・・・・僕にもその血が流れているんだね。何か凄い血統だね。血塗られた血統って感じだね」
真一郎は、おどけた素振りを見せる。
「馬鹿なことを言うんじゃない。わしは今日にでも母さんが猟銃を持ってわしを殺しにくるんじゃないかと気が気じゃないんだ」
「大丈夫だよ。あの病院はそんなに簡単に抜け出せやしないさ」
「わかってはいるんだがな・・・・」
その言葉に力はなかった。
「真一郎、今日は泊まっていけ、父さんは疲れた。なんか一人で眠るのは気味が悪い」
「ああ、わかったよ。でも・・・・」
「なんだ?」
真一郎にある疑問が浮かんだ。
「ううん、何でもない」
しかし、それを浩一郎に問うことはやめた。
真一郎は心の中で思った。
『自分一人だけなんだろうか』
浩一郎は、相当参っている様子だった。そんな父親を見て真一郎は泊まることにした。久しぶりの自分の部屋だった。高等学校を卒業してから何も変化はない。あの頃に時間が戻った。何もかもが、あの頃と比べると小さく感じられた。部屋のサイズさえも何か二周りほど小さく感じる。そういえば、家の周囲の道も細く、そして近隣の家もこんなに小さかったかなと思った。何故だろう、とにかくそう感じた。
真一郎は異様な興奮を覚えた。その興奮を抑え真一郎は眠りについた。
(11)混交
茹だるように暑い七月の末。テーブルの上の残飯は異臭を放ち始めていた。慌しく水道の蛇口を捻りコップの水を身体に流し込むとコップを床に投げつけ男は言葉にならない怒声を上げる。
小林浩は苛立っていた。約束をしていた飲み屋の女に約束を反故にされたのだ。
「くそっあのクソ女め!」
小林は、業を煮やしていた。今日という日の為に毎日のように店に通い、ようやく今日の午後から、店の外で出会う約束までにこぎつけたと思い込んでいたからだ。小林は、その日の午前十時まで女との妄想に耽っていた。その淫猥な妄想を現実へと引き戻した電話は午前十時に小林の携帯電話に入った。女の為に貢いだ貴金属、飲み代を考えると、頭に血が昇る。マンションを出ると中古のコルベットを急発進させる。黄色の実線が中央に引かれたその道路を凄まじい勢いで逆走する。純正品から社外品に交換されたマフラーからは野太い爆音が欲求不満気味に唸りを上げる。対向車線の車は、皆、驚き車を左の端の歩道に乗り上げ避難する。平日の午前十一時、その二つの国道と国道を結ぶ産業道路の交通量は、けっして少なくはない。
「くそっあの女!」
小林の怒りは治まらなかった。小林は、広域暴力団の末端の組織の組員だ。歳は28歳、身長188cm体重92kg髪の毛は金髪に染め、顔は日頃の不摂生からか青白く、一重の腫れぼったい瞼からこぼれる目は、歪んだ怒りで澱んでいた。
小林が治まらない怒りにまかして、逆走を続ける。陸橋にさしかかったところで前方から陽炎に揺られながら向かってくるメタリックブラックのベンツ500SLが小林の視界に飛び込んできた。他の車のように、避けようとはしない。小林は、怒りにまかせクラクションを鳴らしパッシングを浴びせる。
「どかんかい!」
小林は、車中でそう、叫んだ。
二つの車は、激突まであと、一メートルという距離まで接近し、急停車した。
「どかんかい!」
小林が運転席のウインドウを下げて、顔を出し再び吠える。
ベンツのドアがゆっくりと開いた。そのブラックの濃いウインドウフイルムで包まれたベンツの運転席から、ゆらりと男が降りてきた。
でかい。陽炎を背にした男は並外れた体格の持ち主だった。ベンツ500SLが小さく感じる。巨漢の小林より、もう一回りは大きい男だった。男は、ゆっくりと左手を水平に上げると手招きをするような仕草を見せ小林に語りかける。
「おーい、僕、僕、日本いうたら、左通行とちゃうのかー」
小林と同年代とおぼしきその男はゆっくりとまるで小学生を窘めるように小林にそう言った。その男の威圧感のある体格と風貌に小林の怒りの炎は一気に鎮火してしまった。小林は、恐怖でその言葉に返事ができなかった。
怒りの表情を顕にするがその見当違いの怒りと視線の矛先は、もう男に向かってはいない。それは、既に周囲と自分自身への体裁を繕うものに変化していた。慌てて車をバックさせると左車線に車を移し、逃げるように男の右横を走り抜けようと急発進する。男が走り抜けようとするコルベットの右のリヤフェンダーに蹴りを入れる。
「ドゥン!」
リヤフェンダーが大きく凹み、ボディが西の方角に攀じれる。
小林は、そのショックを身体に感じながら一目散にその場を去っていった。
男は、大きなため息をつき、ゆっくりと運転席に戻る。ベンツ500SLが僅かに沈む。そして、渋滞の中心から車をゆっくりと進めるのだった。
三日前
今日、男は懲役を終えて出所した。
出迎えの人相の鋭い男が漆黒のセルシオの左の後部座席を開ける。男はその巨体を屈め乗り込んだ。国産のセルシオの後部座席は男には小さいようだ。短く刈りこまれた男の頭頂部は車の天井トリムに触れている。
すぐにもう一人の男が後部座席の右のドアから乗り込む。セルシオがゆっくりと発進する。
「窮屈な車やのう。ベントレーがあったやろ」
男は不満を漏らす。
「えらい、すんません。あいにく、これしかあいとらんかったもんですから。それより、お疲れさまでした」
「小川か、元気やったか?」
「はい、お陰さんで」
「例の件は調べよんやろのう?」
「はい」
「んー」
「まあ、ええわ、女、用意せいや」
「はい」
繁華街の比較的広い通りにそのビルはあった。鉄筋コンクリート造りの3階にその男の事務所は在る。シルクの中国製の段通絨毯の上にはイタリア製の木製テーブルが置かれている。そして、その上には巨大な水晶の玉が置かれていた。東の壁面には六尺ほどの日本製のカリモクの飾り棚が置かれ、その中には各国の調度品が並べられるが統一感はない。
重苦しい空気の中ジャックナイフを舌で研ぎながらその男は大きく脚を広げソファに腰を下ろしていた。筋肉は鍛え上げられてはいるがけっしてボディビルダーのように不必要に膨らんではいない。そして、いくら鍛えてもつくり様の無い生まれ持っての恵まれた骨格。肩幅が異様に広い。そして、ストレスを微塵も感じさせないつやつやした浅黒い肌、つり上がった太い眉に平行する切れ長の力強い目。表情のない獣の目だ。どれもが常人を無言で圧倒するだけの凄みを備えている。その骨ばった体格はバレンチノ・ガラバーニの上からでも中身を容易に想像できる。生まれついての恵まれた筋肉が雄の猛りを周囲にふりまく。その男の前方には二人の人相の鋭い男が直立不動で立っていた。
「おい、小川、親父を殺った奴の居所は知れたんか」
男は舌でそれを研ぎながらゆっくりと口を開く。どっしりとした声量のある声だ。向かいのソファに座っている男が答える。
「はい、近藤っちゅうガキですわ。ホテルの最上階に住んどります」
「ホテルに?どこのホテルや?何しとるガキや・・・・ええ景気しとるの」
「オークラですわ。それとなんでしのいどるのか、わからしませんのや。働いとる様子はありません。フェラーリ乗りまわして。ほんま得体の知れんガキですわ。今、弁護士に調べさしとります」
「ふーん、まあええわ」
男は舌でジャックナイフを研ぎながら、平然と話を進める。
「せやけど、親父の仇は討たんならんからのう。このままにはできんのやどっ」
男の名は前田龍正、32歳、身長は195センチ、体重96キロ、真一郎に殺されたヤクザの組の若頭だった男だ。表向きは消費者金融業を営んではいるがバリバリの経済ヤクザである。龍正がソファからゆっくりと腰を上げた。身長195センチ体重96キロのその身体は十二畳の部屋がまるで六畳のように感じる。奥の事務所から階段を降りるとメタリックブラックのベンツ500SLに乗り込む。野太い排気音を上げて龍正は事務所を後にした。タイル張りの外壁に大理石張りのエントランスホールを抜け、エレベーターで七階に上がると龍正のマンションがある。扉を開けると二人の女が白い革張りのソファにまるで2匹の猫のように寝そべって待っていた。香水の臭いが鼻につく。小川が用意していた女達だ。ヒップがきゅっと上がり、胴が短く手足が長いフィリピン系の女と雌の体臭がプンプンと臭うブロンズの女だ。
余計な話はしない。龍正が今日のために買った高級娼婦だ。龍正がベッドに全裸で横たわると女達は、しなやかに移動する。仰向けに横たわる龍正の唇にブロンズの女が接吻をし、もう一人の女が股間に顔をうずめる。いつものパターンだ。そのボディビルダーと競泳選手の中間のような凄まじい肉体に女達はいつも驚きを隠せない。
「凄い肉体、雄の臭いがぷんぷんしている」
ブロンズの女が流暢な日本語で鼻を鳴らす。
女が入れ替わる頃には龍正の肉体も猛っていた。夜の10時から早朝の4時まで二人の女は龍正の肉体を絶頂の頂きに導かなければならない。
午前十一時、オークラのロビーで光夫と真一郎は談笑していた。二人は昨晩も女達と刹那的な快楽を貪りあったのだ。適度な運動は大脳に刺激を与え人を穏やかな気持ちにさせる。はめ殺しのガラス越しに見える日本庭園の池には無数の錦鯉が悠然と泳いでいる。猫脚の木製のソファに二人は腰をかけ、光夫はレモンティを真一郎はカプチーノを飲んでいる。耳に障らない程度にショパンのワルツ(第6番)変ニ長調Op.64の1が軽快に流れる。
「光夫君この曲を知ってる?」
「ああ、子犬のワルツだろ、知ってるよ」「この曲は、ショパンの愛人の愛犬のくるくると回る仕草を描いた曲なんだ。もし、ショパンに愛人がいなければこの名曲はこの世に存在しなかったってことだよね」
「ああ、そうなるかな」
真一郎は穏やかな表情で指をくるくると回しながら光夫に語りかける。光夫の顔が思わず綻んだ。それほど此処に今、居る真一郎は邪心のない聡明な青年の顔をしているのだ。いや、少年といったほうがマッチしているかもしれない。
「それにしても、日本の景気はどうなるんだろうな」
「もう景気は良くならないよ。前にも言ったと思うけどデフレは解消のしようがない。絶対的な人口の減少がないかぎりね。確実に日本は戦争への道を歩むと思うよ」
二人の青年は日本の経済をゆっくりと穏やかに傍観する。
庭園の錦鯉が一斉に泳ぐ向きを変えた。真一郎の背後に人の気配がする。振り向くとそこにいたのは巨大な男だった。そう龍正だった。光夫よりもそして真一郎よりもふた回りは大きい。真一郎が鋭い視線を龍正に浴びせる。
「何か用かな?」
真一郎が龍正の殺気に警戒のシグナルを察知する。今までの相手とは違う。あきらかに味方ではない。真一郎は本能的に感じ取った。
「はーん、何か用?おおありじゃ。座ってええか」
「どうぞ」
真一郎は右の眉を少し上げると冷ややかな口調でそう言った。光夫も龍正から発せられているオーラに極度の警戒心を持った。初めて感じる真一郎以外の男に対する畏怖の心だった。
「ちょっと邪魔するで」
そう言うと龍正はゆっくりと真一郎の右隣りの椅子に腰を掛ける。そして、ゆっくりと左に視線を移す。
「お前、名前はなんちゅうんや?」
無表情で真一郎を見据える。
「近藤真一郎だよ」
真一郎はフルネームで答える。
「ほーお、ほならお前に間違いないのう、おまん一年程前に人、殺しとるやろ」
真一郎と光夫が視線を合わせる。二人の表情が険しくなった。
「ところで、お前は誰や?」
龍正は左横に座っていた真一郎から左斜め前方に座っている。光夫に視線を移した。光夫は感情の昂ぶりを感じた。
「お前の名前はどうなんだ」
「わしか、わしは前田っちゅうんや、前田龍正や、なんや!」
龍正は挑発的な態度で光夫を刺激する。
「なんの用なのかな」
真一郎が鋭い視線をぶつける。
「お前が殺った。ヤクザ者やけどな、あれはわしらの親父や。親殺された子としてはな、お前をこのまま生かしとくわけにはいかんのじゃ。わかるのう?言うとう意味が」
「わからないね」
真一郎が煮えたぎる破壊の本能を抑え、龍正を見据える。
「ぼくに、殺されたいって意味なのかな。そうとしか考えられないな」
真一郎特有の皮肉が龍正の感情を逆撫でする。
「われ、死にたいらしいの。舐めとんのかい?」
「舐める?ぼくは男は舐めないよ。女しかね」
龍正が目を剥いた。一触即発の緊迫した空気が漂う。
真一郎の破壊の本能と龍正の煮えたぎる怒りがぶつかり合う。
「まあ、待っとけ、息の根とめたるさかいのっ」
「ああ、楽しみにしとくよ。楽しませてくれよ」
「ほー、なかなか言うやないか、まあ、楽しみに待っとけ」
そう言うと龍正はゆっくりと腰をあげ去って行った。
「知ってるのかい?あの男、只者じゃないな
今まで出会ったことのないタイプだ」
「いや、直接には知らない。でも今奴が言ってたことには覚えはあるよ」
真一郎はにこやかな表情を浮かべている。
「光夫君は、さっきの男どう思う?」
「そうだな、かなり胆力のある人間だと感じたが」
光夫も真一郎の前では言葉を選ぶ。思慮の欠けた発言は真一郎に自分を見透かされるような怖さがあった。
「うん、確かにぼくもそう思った。久しぶりに楽しめそうだよ。ぼくにあれだけの言葉を吐いたんだからね」
確実に真一郎は激怒していた。
「まあ、いいじゃないか、光夫君今日は楽しもうよ」
そう言うと二人は真一郎の部屋に戻り、深夜まで再び女との情事を楽しむのだった。
「お前の言うとった通り、あの男、只者やないのう。なかなか肝もすわっとる。よほど何かに自信がないとああわいかんわ」
「はい、まあ得体の知れん男ですわ」
龍正は側近の小川とラウンジの特別室で飲んでいた。広い店内の奥にある洞穴のような小さな無垢の重厚な木製のドアを開けるとそこには大理石と無垢の木をふんだんに使った部屋がある。照明は間接照明を使用し神秘的な雰囲気さえ感じる。防音処理をしているのだろう店内の騒がしさが嘘のようにこの別室は静寂さを保っている。
「それと、あいつの連れなんやが、あれも只者やないな。近藤いうのと同じ目をしとるわ。
狂人の目や。正直会ったときちょっとびびったで、真正面からいったら逆にやられるな」
「はい、私もそう思いました。あの二人には共通のものがありますわ。・・・・まあ、まかしとってください」
龍正ほどではないにしてもこの小川という男もそれなりに眼力のある男には違いない。真一郎は勿論、光夫の力も感じとっていたのだ。龍正に真一郎と一度会ってみてはと進言したのもこの小川だった。
「まあ、ええがな。今日は飲もう」
そう言うと、インターホーンに手をやった。
ドアが静かに開く。それと同時に店内の騒がしさがいっきに滑り込んできた。コンパニオンが三名、龍正と小川の間に入りこむ。
この特別室はさらに奥にもう一つ部屋がある。その奥の部屋に龍正は二人の女を連れ、そして小川は残りの女と一夜を共にするのだった。
小川は龍正の存在があまりに強烈な為№2の存在に甘んじてはいるものの、かなり頭の切れる男だった。身長は178cm体重は75kg二重のほりの深い顔に分厚い唇が印象的な容貌である。歳は29歳、そして龍正の寵愛を受けていた。龍正は重要な決断に際しては必ず小川の助言を得ている。
真一郎は苛立っていた。龍正のことが頭から離れない。獣の息吹が部屋中に低く響く。
「ふー、ふー」
大声で叫ぶ。真一郎のもう一つの顔が頭をもたげて来た。冷静なときのあの上品な青年の顔は微塵もない。あるのはまるで理性という感情のない肉食動物が興奮したときのあの凄まじい本能である。命を奪って食らう。その生きるために必要なものだけを欲する生々しい本能だけだった。抑えがきかない。気持ちが落ち着かないのだ。眠れない。
真一郎はテスタロッサのイグニッションキーを捻ると夜の街に出た。真一郎はバーのカウンターに座っていた。黒猫という名の店だった。外観は藁葺き屋根の和風の造りなのだが自動扉が開くとそこは別世界だった。真っ黒で広大な世界が眼下に広がる。その店は地下にある。黒い磨きの大理石の階段を歩いて降りるとそこにはガラスだけで造られた曲線のカウンターが鎮座している。その奥には水族館のように天井まである水槽がぶくぶくと泡を立てている。その中には巨大なディスカスがまるで宝石のように優雅に泳いでいる。床と全く同じ黒の磨きの大理石が店内の壁と天井を覆い。天井の高さは五メートルを超える。贅沢な空間だ。
その空間にこの悪魔の王子はより輝きを増す。真一郎が店内に入るとカウンターに座っていた。女達がそわそわしだした。真一郎の存在が気になるのだろう。ここに来る女達の大半は一流企業のOL、女医、弁護士、中小企業の女社長といった社会的地位のある女が多い。当然それを目当てに男達が群がってくるのだが、目の肥えた女達に相手をされるのはほんの限られた男だけである。そして、この店内に入ることを許可されるのは事前に審査を受けてメンバーとなった者だけである。店内にBGMは流れていない。三十分の休憩を挟んで常時ジャズの生演奏が流れている。どうやら今はその休憩時間の最中のようだ。雑談の声だけが大理石に反射してやけに耳につく。
真一郎がカウンターの椅子に腰を下ろすと左の横の女がこちらを見つめていた。艶めかしい目をしている。真一郎がその女のほうを向く。目をそらさない。何か様子のおかしい女だと真一郎は思った。じっとこちらを見ている。まるで昔の知り合いでも見つけたような表情でじっと真一郎を見つめている。不思議な女だ。真一郎は自ら近寄っていった。
「ぼくの顔に何かついてるかな」
女は無表情だった。
「ごめんなさい」
少し、たどたどしい日本語が返ってきた。どうやら日本人ではないらしい。真一郎は納得した。文化、風習、思想の違いからくるものなのか、日本人と感情の表現の仕方が若干違うのだろう。それが真一郎に違和感としてうけとめられたようだ。
「留学生なの?」
「はい、上海からです。こっちの企業にそのまま就職しました」
表情の作り方が微妙に日本人と違う。真一郎は興味を持った。今日は誰かと待ち合わせなのかな?」
「いえ、暇だから来てたんです」
「そっか、じゃあ、どこか行こうか」
「もう少し飲んでから、まだ何もあなたのことを知らないし」
女はうつむいて、そう答えた。それはOKということだった。
今、女は助手席に座っている。国産車には無いフェラーリ独特の息吹が女の期待をいやがうえでも高める。光夫は自宅であるホテルに誘った。ドアを開けるとピラルクとアロワナ、そして新参者のピラニア・ナッテリーが歓迎のダンスをそれぞれに踊る。
部屋に入ると同時に熱い抱擁が始まった。数え切れないキス、獣のごとき生殖活動に移行していく。めくるめく悦楽の時間が流れる。
真一郎が三回目の絶頂を迎えようとした瞬間不意にドアが開いた。
小川だった。真一郎は殺戮の前にはボディガードを外していた。それを小川は事前に調べていたのだった。このチャンスを小川は狙っていた。ドアの鍵はサイレンサーの装備している小型の拳銃で破壊した。真一郎は女から身体を翻すと間一髪ベッドの影に身を隠した。正上位で交わっていた女の側腹部に小さな穴が開いた。途端に鮮血が噴出する。噴水のように噴出する。女は悲鳴を上げる間もなくぐったりとした。小川は素早くベッドに駆け上がるとベッドの影にいるであろう真一郎に拳銃を身構えた。しかし、そこには真一郎はいなかった。すぐさま小川はベッドから飛び降りた。その瞬間小川の右足に激痛が走る。真一郎の銃弾だった。その銃弾はベッドの下からマットレスを射貫き、小川のふくらはぎを貫通した。真一郎はベッドの下にもぐりこんでいたのだ。それを察知した小川はベッドから飛び降りたのだが右足のふくらはぎに銃弾を受けたのだ。形勢はいっきに逆転した。真一郎はベッドの下に仕込んであった拳銃で激痛に倒れた小川を容赦無く射抜く。小川と同じサイレンサーを装備した拳銃は音もなく小川の命を無にした。まるで野生動物の容赦のない殺伐とした空間が部屋中を覆う。二つの死体に囲まれて真一郎の身体は猛りきっていた。怒りがおさまらない。その矛先は間違い無く前田龍正だった。
(12)昇華
龍正のマンションはひっきりなしにインターホンが鳴っていた。今日は龍正の誕生日なのだ。取引先、顧客、知人等からの貢物が届く。その夜龍正は情婦の玲子と食事に出かけ、その後一人で飲みに出ていた。龍正がマンションに戻ったのは深夜の二時だった。龍正が上機嫌でインターホーンを押す。
「おかえりなさい」
玲子は起きて待っていた。
「何か食べるものないのか?」
「果物ならあるわよ。今日頂いたものの中にあると思うわ」
「じゃあ、切ってくれ。・・・・おい、何か臭わないか?ごみ、ちゃんと捨ててるんだろうな」
「今日、ごみの日だったから、全部捨てたわよ。」
微かな腐敗臭が龍正の鼻についた。
数分後悲鳴が鳴り響いた。情婦の玲子が頭を抱えて其の場に蹲っている。
「ぎゃあー、ぎゃあー」
龍正が驚いて玲子に走りよる。
龍正は絶句した。
その包みの中にあったのは、小川の切断された頭部だったのだ。先ほどまでの腐敗臭は小川の頭部から発されていたものだった。
穏やかな陽射しがレースのカーテン越しに部屋に明るさと暖かさを与える。そんな五月の中旬の陽射しは命あるものに希望を本能的に授ける。光夫はソファの上でゆったりと横たわっていた。そのすぐ下には巨大なグレート・デンが同じように寝そべっていた。ソファの横には屋根のように背の高いパキラの木が光夫の顔の上にその枝を張り巡らしていた。
隣の部屋には京子が絶頂を迎えた後の余韻を楽しみながらキングサイズのベッドに身をまかしてまどろんでいる。窓からのそよ風がまるで身体中の不純物を洗い流してくれるかのように部屋に入ってくる。それは断続的にではあるが一定のリズムを保っていた。京子がそのスレンダーな肢体を弾ませるように一糸纏わぬ姿で光夫に近寄る。光夫の股間の部分を愛しそうに数分手と唇で愛撫するとキッチンに立った。その後ろ姿は四月の木洩れ日に照らされて部分的に黄金のように光る。グレート・デンが京子にのそのそと近寄り臀部をくんくんと嗅いで雌のフェロモンを確認している。
不意に光夫の携帯電話が鳴った。真一郎からだった。
「やあ、久しぶりだね、どうしている?」
相変わらずの穏やかな口調で語りかけてくる。
「退屈だ」
光夫はそう答えた。何が退屈なのだろう。今のこの時間なのだろうか、それとも生きていることに退屈しているのだろうか、それは、はっきりとは区別ができなかった。
「じゃあ、出てこない?天気もいいし、どこか行かない?昨日、日ばかりで一千万ほど儲けたんだ」
日ばかりとは株の取引のことで、その日の寄り付きで買って、その日の引けで売ることをいう。真一郎のように大量に売り買いをしている場合は一円二円の上昇でも相当なキャピタルゲインを手にすることは可能である。
「そんなことは、真一郎の場合はしょっちゅうのことだろ、何をいまさら。わかったじゃあ今から行くよ。どこに行けばいいかな?」
「じゃあ、ヨットハーバーに十二時ということにしようか」
クルーザーで光夫と真一郎は海に出かけた。
雲一つ無い空は底抜けに青い。この空を見る度に光夫は空気の色は青なのだと実感する。
自然と対話するそういう表現がぴったりだった。自然の雄大さの前に言葉はいらない。波にまかせ、風にまかせ二人は大自然を満喫するのだった。
真一郎の携帯電話がその沈黙を破った。
実家の女中の桜子からだった。
「母さん、お父さんが死んだよ」
今日、真一郎は母の入院する病院を訪れていた。
「くくくくく」
清子はにたにたと薄ら笑いを浮べながら真一郎をやぶ睨みする。時々首を傾げるような動作を続ける。
「嬉しそうだね」
真一郎が冷ややかにそう言うと
「当たり前じゃ、今度はお前じゃ」
清子はへらへらと笑いながら真一郎を見据える。
「はーん、今度はぼくに呪いをかけるのかい田井睦雄君」
真一郎は大きく脚を組んで腕を組んだ。それは自分の運命に対する真一郎の宣戦布告でもあった。
「きゃはははは」
清子が大きく笑う。
「察しがいいのう」
「でも、ぼくを殺せるかい?まあ、こんな世の中に未練はないけどね。最近思うんだ。人間ってなんで生きてるのかなってね」
「お前を殺したら、血を断ち切れるんじゃ。もうすぐお前も死ぬよ」
そう言うと薄ら笑いを続ける。左右の看護士の腕に恐怖の鳥肌が立っているのが真一郎の目にもはっきりと確認できた。清子の美しかった目は少し充血している。そして眼球の丸さが確認できるほどに飛び出していた。医師の話によるとバセードー病になっているらしい。ホルモンの異常が原因の女性に多い病気だ。もしかすると薬の副作用かもしれない。
「今日は、君に礼を言いに来たんだ。僕にはどうやら君の血が流れているらしい。父さんから聞いたよ。君は凄いらしいじゃないか。ある意味僕より優れているね。ぼくが今あるのも君のお蔭かもしれないと思ってね。やっぱり非凡な人間っていうのは血統も非凡じゃないとおもしろくないよね。ありがとう」
真一郎は自分の血の因縁の深さに喜びを感じ取っていた。こうでなくてはおもしろくないとわくわくとさえしている。これから自分を待ちうける運命の方向が楽しみであり、待ち遠しくてならなかった。それが破滅的なものであってもである。
真一郎に幸福と不幸の区別はない。あるのは全て快楽である。不幸も快楽なのだ。その思考回路は凡人には理解できるものではなかった。
「何を戯けたことを、お前も死ぬんだよ!」
「死ぬか、うん、それもいいじゃないか、そんなに目くじらたてるなよ。死にたくなったら、死ぬからさ」
真一郎は、余裕の笑みを浮かべ涼しい表情を清子に送る。
浩一郎の死は自殺だった。どこから手に入れたのか、匕首での割腹自殺だった。第一発見者は女中の桜子だった。桜子の話によると浩一郎はあれ以来ノイローゼ気味だったらしい。いつまでも経っても起きてこない浩一郎の様子を心配して見に行った桜子が発見したときはもうすでにこときれていたということである。ただ、浩一郎の死は真一郎にとってあまり重要なものではなかった。
骨が砕け、肉が裂ける。六甲の山中では凄まじいリンチが行われていた。その横では女が地面を掘っている。龍正の商売仇の若い金融ブローカー夫婦だった。男の生爪は、はがされ顔は原形をとどめてはいない。女は犯され、真っ裸のまま今穴を掘っている。
自らが収まる穴を・・・・・・・
「あのガキ、今度はおのれじゃ」
龍正は、そう小さく呟いた。
二十五年前
公衆便所からはアンモニア臭が漂っていた。
深夜、地下のコインロッカーを数人の人相の鋭い男達が徘徊する。
「親父、例の物ありません」
「くそっ騙しくさったな、あのガキ」
男達は覚せい剤の取引の為に、ここにやってきていたやくざだった。組長の名は前田龍一この辺り一帯を根城とするまだ独立して間も無い新しい組だった。龍一はまだ二十八歳という若さだった。今日このコインロッカーに取引の覚せい剤が入っているはずだった。しかし、約束の覚せい剤は指定のロッカーに入ってはいなかったのだ。
「親父、こっち来てください」
「なんや」
「これ、見てください。ガキがいますよ」
一番下段の少し大型のロッカーに入っていたのは、まだ、未就学であろう子供だった。小さなロッカーの中で丸くなって座っている。そして、無表情で男達を見据える。
「お前、何しとんや、こんなとこで」
「・・・・・・・」
「いくとこあんのか?」
「・・・・・・・」
首を横に振る。
「・・・・しゃあないのう、ついて来い」
「親父、こんなガキ連れて帰ってどないするんですか?」
「しゃあないやろ、行くとこないんやさかい」
「もの好きでんな。おう、出てこんかい」
少年は、ゆっくりとロッカーを出ると男達と地下街から出て行くのだった。
「おう、お前ら帰ってええぞ」
龍一は手下を先に帰した。
「お前、親はどないしたんや」
「・・・・・・」
「黙っとったらわからんやろ」
龍一は少年と場末の中華料理屋に入った。
少年は目前に並ぶ料理に齧り付く。そして、箸を置くと、
「お母ちゃんに、あそこで待つように言われたんや、でも、2日たっても、3日たっても、帰ってこんかった」
「そうか・・・」
その言葉に龍一は全てを悟った。
少年は、そう言うとまた箸を持ち、料理に齧り付くのだった。
少年は、その後、龍一の養子となった。龍正5歳のことである。
安野茂は、平日の昼間地下の商店街を肩を大きく左右に揺らし我が物顔に練り歩く。時折意味もなく奇声を上げ周囲を威嚇する。四十五度にレンズが傾いたサングラスをかけ額は深いMの字に剃り込まれていた。この辺り一帯の愚連隊のボスが安野だった。意味もなく繁華街を練り歩く。その後ろには安野の腰巾着の小林がまるで金魚の糞のようについてまわる。肩を左右に揺らし、時折唾を吐き捨てる。やくざでさえも道を譲る十七歳の少年がそこにはいた。
「暇やのう、なんかええことないんかい」
退廃的な言葉を繰り返す。
「安野君、あそこに生意気そうなんが、おるよ」
小林が指差す先にいたのは、公園のベンチに座る浅黒い精悍な体躯を持った少年だった。鋭い眼光で安野達を睨みつける。
「ほぉ、生意気にメンチ切っとんのう」
安野がサングラスを右手の人差し指で少し上にやるとその少年に近づいた。
「われ、何メンチ切っとんや、おーこらっ」
安野は凄んだ。
それは、一瞬の出来事だった。少年は静かにベンチから腰を上げると上着の内ポケットから刃渡り三十センチはありそうなジャックナイフを取り出すと、安野の顔に切りつけた。
「ぎゃあ」
安野の鼻はベロリと削げ落ち、その場で蹲る。
少年に容赦はなかった。その蹲っている頭頂骨に更にジャックナイフを振り下ろす。ゴンという鈍い音がしたその直後に頭頂骨からは鮮血が噴き出す。少年は無表情だった。そして小林に視線を移す。小林は一目散にその場を逃げ出すのだった。
『安野がやられた』この噂は街中のワルの間で瞬く間に広がった。そして、その相手がまだ中学一年生の少年だということも、その噂の話題性を大きいものにするのだった。少年の名は前田龍正。その瞬間から彼の名は街のワルの話題の主人公として度々登場するようになるのだった。
そこには雀荘に入り浸る青年がいた。いや少年といったほうが正しい表現かもしれない。何故ならそこに座っている青年はまだ十三歳という年齢だからだ。前田龍正中学一年の春のことだった。既に身長は一メートル八十を越え、不精髭さえもたくわえている。
今年の三月の中旬までは小学校に籍を置いていたということを信じることは到底できなかった。
入学した時点でその中学校は龍正の支配下に置かれた。同級生はもちろんのこと上級生でさえも龍正に逆らうものは存在しなかった。腕力が全てに優先していた。
十三歳にしてやくざの組織に籍を置き、街中のワルを支配下に置いていた。極道の超エリートコースを歩いていた。何も考えることはなかった。あるのは暴力と性欲と食欲だった。
そんな、龍正の唯一頭の上がらない男が、自分を拾ってくれた前田龍一であり真一郎に殺害された男だったのだ。
テスタロッサの咆哮が深夜の国道に響き周囲の静寂がそれをより一層なものにしている。午前3時の国道は昼間の騒音が嘘のように静まりかえっている。ホテルの地下の駐車場に車を収めると部屋へと続くエレベーターを目指す。真一郎がエレベーターの前に立つとエレベーターは真一郎が居を構える最上階を示していた。超高速のエレベーターはあっという間に真一郎の待つ1階に移動する。エレベーターの扉が開くとサングラスをかけた一人の男が乗っていた。真一郎と対峙する。男は小型の拳銃を素早く発射する。
「パン、パン、パン」
乾いた銃声が地下の駐車場を駆け巡る。それは真一郎の胸部に一発と腹部に二発命中した。真一郎は其の場で倒れこんだ。男は其の場を走り逃げる。小柄な男だ。龍正ではないことは容易に推測できる。男は用意していた車に飛び乗ると慌てて車を発進させた。
「はあ、はあ、はあ、前田さん殺りましたよ。腹と胸にぶち込んでやりました」
男はサングラスを助手席に放り投げると携帯電話で龍正に連絡をとる。
「そうか、ようやった。これでお前の借金はチャラや」
「本当なんですね」
「ああ、ほんまや。嘘は言わん」
「ありがとうございます」
男は借金で首が回らなくなった。零細企業のオーナーだった。
「えらいあっけなかったの。まあ、素人さんはこんなもんやろ」
しかし、その頃真一郎は部屋にいた。ロマネコンティを舌で転がしバッファロー皮のソファにゆったりと座っていた。蝋燭の灯かりが真一郎をゆらゆらと照らし、その炎が眼球に映る。天然の光が真一郎の苛立ちを癒してくれる。水槽のポンプの音だけが異様に大きく大理石張りの室内に共鳴していた。
「お前ほんまに殺ったんか?ちっとも新聞にもテレビにも出てこんやないか」
男は震えていた。
「はい、確かに命中しました」
「もうええ、お前の借金は別の方法で払ってもらうことにする。おい、連れて行け」
「それだけは、勘弁してください。もう一度チャンスをください」
男は両手を合わして其の場にひざまづいた。
「くどい、連れて行け」
屈強な龍正の部下に男は引き摺られるように事務所を出て行く。
「あの男どうするんですか?」
「どこかに吊っとけ。殴ったりするなよ。あくまで借金を苦にした自殺やからの、わかっとるの」
「はい」
龍正は煙草を大きく吸いこむと苦い表情を浮かべた。
「近藤真一郎か・・・・」
肉体が躍動する。獣のスタイルで龍正と玲子が交わる。龍正が動くたびに筋肉の収縮、伸張が皮膚に浮かび上がる。聞こえるのは肉体が触れ合う音と玲子の歓喜の声だけだ。龍正が動く度に玲子の叫びにも似た歓喜の声が部屋中に響く。魂と魂がぶつかりそして溶け合う。やがて玲子の豊満な肉体は龍正の猛り狂った肉体を鎮める。
「やっぱりストレスが溜まると、セックスにかぎるな」
「最近、ちょっと変よ。何かいらいらしているみたい。顔色も少し悪いし」
玲子は敏感だった。龍正をよく観察している。
「ああ、確かにな」
龍正は軽い溜息をつくのだった。
今日は珍しく真一郎が光夫のマンションに来ていた。京子の料理を前に光夫と真一郎は歓談する。懐かしい映像がテレビから流れる。二十年前の歌謡番組の映像だ。少年から青年への過渡期に二人はその映像をリアルタイムで見ている。二人の記憶がうっすら蘇える。
「懐かしいな。真一郎」
「ああ、そうだね」
「この頃に戻ってみたいな」
「そうだね、でも戻れない」
その言葉に光夫が軽くうつむき微笑む。真一郎も穏やかな表情を浮かべる。
玲子は妖艶な雰囲気の女だった。しっとりとした肌には雌の色香が漂う。豊満ではあるが、それは無駄な肉がついているという感じではない。手足が長く、それに比例して指も美しい。身長は170センチと日本人としては大柄であるがそれを感じさせないほどキュートな容貌だ。今日玲子は龍正のマンションで龍正の帰りを待ちわびていた。インターホンがせわしく鳴る。龍正のいつもの鳴らしかただ。
ドアに走り寄った玲子は鍵を開ける。チェーンはつけていない。玲子の表情が一瞬こわばった。そこにいたのは龍正ではなく見知らぬ男だったのだ。それは真一郎だった。玲子が慌ててドアを閉めようとする。素早く真一郎は右の足をドアに挟みこむ。
そして強引に部屋に押し入った。真一郎の渾身の力を込めた拳が玲子の顔面を直撃する。あまりの恐怖に玲子は声も出ず、リビング手前のフロアに吹っ飛ぶ。すかさず真一郎が馬乗りになると後は顔が原形をとどめないほどに殴る。
単純に殴るだけの作業を続ける。静かな室内に響くのは、部屋の向こうで聞こえるテレビの微かな音とごつごつという骨肉の破壊される音だけだった。
龍正のベンツがマンションに帰ってきたのはそれから3時間後のことだった。
インターホンを鳴らす。何度ならしても居るはずの玲子が出てこない。仕方なくキーケースから部屋の鍵を取り出して鍵を開ける。鍵を回してドアを開け様とすると開かない。最初から開いていたのだ。龍正はもう一度鍵を反対方向に回す。ドアを開けると、木製のフローリングにべったりと血糊がついていた。
『あいつか』
龍正の脳裏に真一郎が浮んだ。ステンドガラスがはめ込まれたリビングのドアに人影が映る。龍正の身体に緊張が走る。そして、それは音もなくゆっくりと開いた。そこにいたのは、やはり真一郎だった。
「入ってこいよ」
真一郎は無表情で龍正にそう言った。
「おどれ!玲子に何をした!」
「死んでもらったよ。くずみたいな女だったよ。まあ、君にはこの程度の女が似合ってるのかな。まあ、そんなに興奮するなよ」
「はー」
龍正は声にならない唸り声をあげる。怒りを抑えそして警戒しながらリビングのドアをくぐった。そこで龍正が目にしたものはまるで食肉工場の牛のように捌かれそして吊るされている玲子の屍だった。両手を縛られロープで吊るされているその屍は鎖骨の中央から裂かれ腹腔は空洞になっていた。胸骨は砕かれ肋骨は左右に開いている。頭部は切断され傍らに置かれている。そして、それは腫れ上がり原形をとどめてはいない。全ての内蔵はその下に散乱していた。龍正は絶句した。
「お前、やっぱり、正気やないのう」
龍正が玲子の屍からゆっくりと真一郎に視線を移す。
「ふん!」
怒りを爆発させた龍正の強烈な蹴りが真一郎の不意をついた。肋骨の下端に入る。鈍い音がした。圧倒的な体力の差があった。真一郎はその動きの余りのスピードによける暇もなくまともにそれを身体にもらった。日本人離れした龍正の肉体は決して小柄ではない真一郎をはるかに凌駕している。真一郎の顔が苦痛に歪み、片膝を其の場でつく。龍正はゆっくりとスーツの内ポケットからジャックナイフを取り出し、舌で研いだ。
「お前も切り刻んだるからの」
蹲る真一郎の頭部に真上から振り下ろす。間一髪、真一郎はそれをかわした。しかし、その動作にいつもの華麗な真一郎の姿はなかった。転がるようにその場を逃れると容赦のない龍正のジャックナイフの攻撃が真一郎を襲う。その刃渡りは、まともに刺されば真一郎の身体を貫通するだけの長さがある。龍正は手負いの真一郎を追いつめる。完全に真一郎の計算は狂った。蹴りのあまりの威力に真一郎はまともに立つこともできない。真一郎は激痛の治まるのを無意識のうちに待ちながらジャックナイフの攻撃を逃げるようにかわす。再び龍正の回し蹴りが真一郎の左脇腹を襲う。今度は腕でブロックすることができた。しかし、その強烈な蹴りは腕を通して、その衝撃を真一郎の身体に深く伝える。真一郎は大きく左に飛ばされ崩れ落ちた。龍正に容赦はない。とうとう、マウントポジションを真一郎は取られた。
「あっけないのう」
龍正がその龍のような容貌をぎらつかせた。そしてジャックナイフを振りおろす。その先には真一郎の心臓がある。間一髪だった。真一郎はそのジャックナイフを左手の手のひらではたき、それは真一郎の身体すれすれのところで木製のフロアーに突き刺さった。その深く突き刺さったジャックナイフを龍正は咄嗟の力で引き抜くことができなかった。真一郎はそれをみのがさない。それに焦って気をとられている龍正の股間を膝で蹴り上げると態勢を立て直す。
真一郎に不敵な笑みが戻る。胸部の鈍い痛みは続いているが直後のうめくような痛みは消えた。
龍正が小型の拳銃を抜き再び襲いかかってきた。真一郎も拳銃を抜く。
「パン!」
二人の拳銃は殆ど同時に火を吹いたため一つの銃声となって聞こえる。真一郎の銃弾は龍正の顔面を粉砕し龍正の銃弾は真一郎の胸部に命中した。龍正が其の場にずしゃりと倒れこむ。真一郎はにやりと笑っていた。防弾服を真一郎は仕込んでいたのだ。二つの肉体を破壊した真一郎は胸部の痛みをおさえながら其の場を去った。テスタロッサの虚しい咆哮が明け方を間近に控えた国道にこだまする。胸部の痛みが治まらない。
龍正のパワーとスピードは真一郎の予想以上のものだった。防弾服を通してなおその衝撃は真一郎の身体の奥深くにまで到達した。おそらく真一郎の肋骨は骨折をしているのだろう。胸が痛む。龍正の突進を真一郎はよけきることができなかった。まともに素手でぶつかっていたら、ひとたまりもなく破壊されていただろう。それほど龍正のパワーは圧倒的だった。それが故に龍正の蹴りをよけることもガードすることもできなかった。軽い恐怖に似た感情を真一郎は生まれて初めて感じたのだ。そして、それは真一郎の脳の奥深くに新しい情報として刷り込まれる。それは天才の初めての苦い経験だった。
テスタロッサの咆哮が虚しく響く。後味の悪い勝利だった。
抜けるような青空の下、美麗と光夫は愛し合っていた。森林の臭いが二人を人間から動物へと変化させる。本能により忠実な動物へと・・・・・・
ショパンの革命のエチュードが鳴り響く、真一郎はスタインウェイの前でその金の音色を奏でる。殺戮を完遂することで得られるはずの充足感がない。精神はざわついていた。
妥協をすることができない完璧すぎる精神が見えない敵を作り出す。見えない敵とは自分自身だ。自己との葛藤が真一郎を苦しめる。真一郎の何かが狂いはじめていた。繊細かつ大胆な曲想とは裏腹に真一郎の顔には表情がない。まるで蝋人形のように無表情だ。しかし、身体は躍動している。水槽の中にはピラニラ・ナッテリーに食いちぎられた金魚の尾がゆらゆらと浮かんでいる。それをピラルクとアロワナが物欲しそうに眺める。ベスは真一郎の足元でまるで恋人に寄り添うようにその巨体を横たえていた。
人を殺すことで得られていた快楽が薄れていることに真一郎は気づいていた。それは、同じ女との重ねるごとに薄れていくセックスの快楽に酷似している。セックスの快楽を再び上昇させるのは簡単だ。相手を変えればいいのである。しかし、殺戮のセックスをも上回る強烈な快感を再び絶頂の頂までに上昇させるのは容易なことではない。異常な天才は氷の上を走る車を操縦しているような感覚に襲われた。止めようとしても止まらない。曲がろうとしても曲がらない。地上にいながら宙を舞っている感覚がそこには確かにあった。
ぐにゃりと空間が歪む。身体が横滑りをするような感覚だった。自律神経が不安定になっている。真一郎の手が止まった。静寂が真一郎を襲う。何も刺激のない世界では脳は退化を始める。刺激それが命の源だ。しかし、刺激は継続することによって刺激ではなくなる。脳が慣れるのだ。そして、脳は更なる刺激を欲し始める。
天才の思考回路が更なる快楽を模索し始める。究極の快楽を常に欲する脳が真一郎をざわつかせる。究極の快楽、その行きつく先に待っているもの、それは自己の崩壊である。それは、天才だけに許される特権行為だ。
真一郎は不眠に悩まされるようになっていた。常に完璧を誇っていた真一郎に亀裂が生じ始めていた。常人には気にも止まらない些細な挫折が真一郎の精神に大きな影を落とす。狂気の天才に迷いが生じ始めていた。狂ったように女を切り裂いた。しかし、以前のような充実感が湧きあがってこない。真一郎は常に本能の渇望状態にあった。人を殺すしかない。殺しても殺しても後に残るのは到達のできない快楽である。まるで、体調の優れないときの情事のように悶々としたものが真一郎の頭の中に充満する。交感神経と副交感神経のバランスが狂い始めている。いや、もしかすると正常に戻りつつあるのかもしれなかった。しかし、それは誰にもわからない。なぜなら正常と異常、それは絶対的なものじゃなく相対的なものだから。精神が錯綜する。深夜3時から4時頃に目が覚めると、途方も無い孤独感に苛まれるのである。それはまるで研ぎ澄まされた刃がより研がれそして禿びていくかのようだった。心なしか青白い顔には凄みさえ感じさせる。
人は人と接することにより刺激を得る。瞬間瞬間の相手の予想外の行動言動が脳に刺激を与える。その証拠に身体の同じ部位に刺激を与えても自分で与えるのと人から与えられるのではまるで感じ方が違う。快感が大きいのは後者だ。身近なことではマッサージが典型的な例だ。そして、脳の予期、予測、意識しない外力を加えられると人間の身体は僅かの力で損傷する。むち打ち症、ぎっくり腰がその例だ。
「真一郎、最近顔色が悪いんじゃないのか」
「最近、眠れなくってね。手足が少し浮腫んだりもするんだ」
そう言うと首を何回も捻った。その度にこんこんと首の関節が鳴るのが光夫にも聞こえる。
こんな癖は以前の真一郎には見られなかった。癖、それは、脳が安定を欲している信号でもある。身体を動かすことによって脳に微弱な刺激を与えているのだ。脳が刺激を欲している。
「何か、悩みごとでもあるのか?お前らしくないじゃないか」
真一郎は返答しなかった。何か考えごとをしているかのようである。笑みもどことなく暗く、話にも以前のような切れが無くなっていた。しかし、相変わらず相場の読みは百発百中だった。それは以前にも増して冴えていた。天才は健在だった。
そんな在る日の深夜、光夫の携帯電話が鳴った。
「やあ、遅くから悪いね」
光夫はリビングでくつろいでいた。
「ああ、どうしたんだい?」
いつもの気まぐれの電話だなと光夫は思った。
「もう疲れたよ」
「どうしたんだ?」
「人間は何の為に生きているのかって考えたときにね。生きる意味などないって答えが出たよ」
「何を言ってるんだ。君は言ったじゃないか、ぼくが同じ質問をしたときに、種の保存だって、忘れたのかい?そして、こうも言ったよ人間の価値はどれだけの人間を動かせるかってことだって」
「ああ、確かに、だが、ぼくは自分の限界を悟ったよ。究極の快楽を求め人を殺してきたが人間の欲望に限度はない。それはぼくとて例外じゃなかった。確かに人を殺すときのあの快感はセックスの快感以上のエクスタシーをぼくに与えてくれたけど、幾人を殺したところでその快楽の度合いは日増しにそして人数を増すごとに薄れてゆく。ぼくは今以上の快楽を求め出したんだよ。何だかわかるかい光夫君?」
何か真一郎の様子がおかしい。
「いや、わからない」
「君もいずれわかるようになるよ。君にはその素質がある。そうぼくと同じかそれ以上にね。じゃあ」
「待て、真一郎!おい!」
電話は切れた。電話をかけなおす。繋がらない!
光夫は真一郎のホテルに向かった。911が激しいスキール音を上げ発進する。この日程911が遅く感じられた日はなかった。いくつの信号を無視しただろう。気がつくとホテルが小さく前方に見えてきた。ホテルの入り口に911を止めロビーを走り抜けエレベーターの昇りのボタンを押す。エレベーターは13階に留まっていた。苛立ちがつのる。こんなにこのホテルのエレベーターは遅かっただろうか。最新の高速エレベーターがやけに遅く感じられた。エレベーターが一階にようやく降り光夫が乗り込もうとしたそのとき、ホテルの入り口付近がにわかに騒がしくなった。頭を巨大な物体で殴られたような衝撃が走った。今から起こるであろう最悪の結末に光夫は軽い目眩を感じそしてその場に立ち竦んだ。
光夫はエレベーターに乗り込むのを中止しその騒動の方向にまるで人が運命を自分の意思で変えられないかのように無意識に走って行った。
そこにあったのは、頭蓋骨が砕け脳漿の飛び出した。全裸の男の姿だった。現状からホテルから身を投げたのは間違いない。相当な高さから落ちたのだろう。顔面は潰れて跡形もなく踵骨が砕け飛び出していた。血だまりがどんどんと膨らむ。光夫にはすぐにわかった。それは真一郎の骸だった。天才の天才ゆえの最期だった。
水槽のポンプの音が響く。主を失った真一郎の部屋には無数の人骨が保管され、そして、巨大な冷凍庫には人間の内臓が小分けされ大量に冷凍保存されていた。解凍されたそれは犬の食器の中にミルクにまみれ浸かっている。 そして意味不明の遺書一通。
『死するにあたり一筆書置き申します。決行するにはしたが、うつべきをうたずにうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳の時からの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事を行った、楽に死ねる様にと思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙が出るばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、許して下さい、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから(たとい自分のうらみからとは言いながら)決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少なく愛と言うものの僕の身にとって少ないにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、
実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。 もはや夜明けも近づいた、死にましょう。』
その三日後、光夫のマンションのインターホンがせわしく鳴った。逮捕令状を持った二人の国家権力の象徴だった。
後日、警察当局の調べである事実が判明する。光田光夫の母親、清子は光夫が二歳の時に、近藤真一郎の父親浩一郎と恋仲となり夫と光夫を捨てて近藤家の後妻に入っていたのだ。
真一郎は、光夫の母親が近藤家に後妻に入って一年後に授かった子供だったのだ。その後、清子は、後妻ということで姑につらく当たられノイローゼ状態が続き今は精神病院に入院している。そう、なんという運命の悪戯だろうか。光夫と真一郎は父親違いの兄弟だったのだ。
(13)安穏
五年後
光夫は今、近田孝雄と名乗っている。光田光夫は現在連続殺人犯として指名手配中である。天涯孤独の青年、近田孝雄には土中深く今は眠ってもらっている。光夫は姿、形をかえ近田孝雄として平凡な毎日を送っている。光夫はそんな平凡で平和な暮らしの中、時折考えることがある。自分と真一郎の違いは何なんだろう。やはり愛してくれる女性の存在の有無、やはり人間は独りで生きていくことはできない動物なのだと。真一郎が言った種の保存、確かにそれは間違いではない。しかし、そんな一言でかたづけられないものが人間の人生には入り混じっているのだと・・・・・・
狂気の天才との出会いと死は光夫の人生にも大きな変化を与えた。
光夫には気にかかることがあった。真一郎が死の直前に言った言葉、人を殺すあの瞬間以上の究極の快楽。あえて真一郎はそれを言葉にしなかった。その言葉の意味が光夫にも最近見えてきた。人は歳と共に衰える。老化という現象が現れてくる。人間は自然が創った完璧な動物である。そしてさまざまな快楽を模索し探求する。自らの命を楽しみながら何の意味もなく絶つという自然の流れに逆流するという意味では最大級に大きなこの行為がこの世で最大最高の快楽なんだと、きっと真一郎はそう言いたかったのだろう。真一郎はサディズムの最たる殺人を極め、そしてそれ以上の快楽を求めだしたのだ。そしてマゾヒズムの最高位である自らの命を絶つという行為に到達した。人間の限りない快楽への欲望。その行きつく先は死なのだ。多くの人間はそれに気づかないうちに一生を終える。それを若くして悟った真一郎は究極の欲望を追い求め、そして到達した。やはり光夫も真一郎の予言した通り快楽の終着点を見出していたのだ。天才だけが思考することのできる究極の快楽、この世で最大の快楽を・・・
光夫にもう迷いはない。人間は何の為に生きているのか、これは、かつて光夫が真一郎に投げかけた質問だった。もう、迷いはふっきれた。
四月下旬の心地よい南風が光夫に幾つもの懐かしい記憶を走馬灯のように蘇えらせる。たどたどしいバイエルがつまずきながら何度も同じフレーズを奏でる。無邪気にピアノを弾く子供とキッチンに立つ女を見守り光夫に歪な笑みが浮んだ。
(14)余韻
九月某日
「ひぎゃあー」
深夜、公園のトイレの中でその殺戮は、行われていた。
女は下半身を露にし、叫び声を上げる。
「そんなに、怖がることはないよ。死というものがあるから人間は子孫を残そうと努力するんだよ。だから、わかるだろ?君の死は必要なんだ。決して無駄じゃないんだ」
男は、平然と恐怖に引き攣る女の前でそう語りかけていた。そして、下半身は本能を剥き出しにして屹立しているのだった。
ようやく、朝夕には秋の気配を感じさせる九月の下旬の早朝、それは発見された。いつもは飲食店から出た生ゴミを漁っている鴉が今日は鉛色の公園の上空をぐるぐる回っている。
アンモニア臭の饐えた臭いが鼻をつく、その公衆トイレの用具室の中で女の腐乱死体は発見された。死後かなりの時間が経過しているのか肉は溶け、蛆虫が蠢いている。そして、その首にはシルクの赤いスカーフが巻かれていた。
(1ヶ月前)
光夫は、繁華街を女と歩いていた。その日は生暖かい風が頬をまるで化粧パックのように覆い尽くすかのような蒸し暑い夜だった。表通りは、すれ違う人を避けて通らなければならないほどの人込みだが通りを一本外せばまるで深夜の住宅街のように人通りは極端に少なくなる。まばらに見える古ぼけたスナックの看板の先には漆黒の闇が広がっている。繁華街の西の端に造られた公園だ。
真っ黒なシルクのドレスに赤いスカーフを巻いた妖艶だがスリムな女は光夫に纏わりつき、そして、二人はその闇の中へと消えて行くのだった。
まるで、マウスのように人体実験を行ったナチスの総統アドルフ・ヒトラーは自身の著書『わが闘争』でこう語っている。
『人間の最高の目的は、国家の維持やあまつさえ政府の維持ではなくその種の保存である』
光夫は、それを何度も読み返していた。そして、軽い溜息をつき僅かに思考する。
光夫は、今ホテルの最上階に居を構えていた。
下界を見下ろす摩天楼からの眺めは光夫の中の小さなヒトラーを程好く刺激する。
独裁者の思考には自身を特別視する傾向がある。それは、あの真一郎にも顕著に現れていた。
そして、その先にあるものは自己の崩壊だ。
常に刺激がないと生きていけない強烈な上昇思考が独裁者を生み出すエネルギーの源なのである。そして、その有り余るエネルギーはやがて自分自身をも攻撃しそして破壊する。
「ふんっ」
光夫に歪な笑みが浮かんだ。
テーブルの上のプルーンを齧ると、コロナを流しこむ。
光夫の欲求は頂点に達していた。脳内のアンドロゲンは沸騰寸前だった。前回の殺戮から、かなりの時間が経過していた。それは薬物依存症の禁断症状にも酷似している。
アイボリーのレザーのスリムストレートのパンツを身に纏うとTシャツの上からレザーのダウンジャケットを羽織る。
オープンのブラックポルシェの咆哮が深夜の街に鳴り響く。光夫の狩が始まった。そう、人間狩りだ。それは、貴族が行う狩に似ている。太古から延々と受け継がれてきた狩猟本能を満たす為の狩。生きる糧を得る為の狩ではない。そう、快楽欲求を満たす為の狩なのだ。
無数の獲物がこのコンクリートジャングルにはうごめいている。それは決まって祝日の深夜に行われた。
人目を忍んで狩を深夜に行うのは捕まるのが怖いからではない。捕まるとそれをすることができなくなるからである。
獲物の多くは頭蓋骨を叩き割られ腹は裂かれそして女は子宮を掴み出されていた。その多くは若い女だ。
真一郎は光夫の埋もれていた素質を見抜いていた。自分にはない強さ。光夫には真一郎のように触れただけで裂けるような研ぎ澄まされた剃刀の鋭さはない。しかし、光夫には鉈の強さがあった。その鉈に真一郎の鋭敏な感覚が少しずつではあるが備わり始めていた。鉈の強さと剃刀の鋭敏さ、この両方を・・・・
異常な天才、真一郎との出会いは光夫の人生を大きく変えてしまった。一介のサラリーマンだった光夫を、そう、真一郎をも凌ぐ完璧な殺人者に、知性と美と、そして富までをも兼ね備えた華麗な殺人鬼として、光夫はその本性を顕にし始めた。真一郎の狂気は、真一郎が死を迎えたことによって光夫に受け継がれていくのだった。
グリーンとピンクのコントラストは美しい。光夫は段通の絨緞を手で擦りながら、その美しさに不思議な魅力を感じていた。その美しさは白熱灯の淡い光を浴びると妖艶ささえ感じさせる。人間だけが感じることのできる感覚を堪能していた。
人の考えていることが手に取るようにわかる。その洞察力は凡人の比ではない。凡人の思考には限界がある。光夫が唯一、畏怖を感じた真一郎は至高の世界へと旅立ってしまった。
絶対的な孤独から生まれるもの、それは、鋭敏な研ぎ澄まされた精神だった。かつての真一郎のように・・・・・・
光夫は孵化直前の卵のように殻を破ろうとしていた。そう自分自身の殻を
今日、光夫は世間の雑踏の中に埋もれていた。師走の街はどことなく慌しい。光夫に懐かしい記憶を思いおこさせる。小学生の頃はよく祖父母、父親と年末の買い出しに市場に出かけていた。
光夫は、なにげない瞬間に昔の空気を感じることがあった。まるであの時代に戻ったかのように。しかし、時は残酷に人を刻む、
1秒1秒死への階段をのぼるように、そう人間には例外なく死が待っている。それを神という実体のないものが下すか人間が下すかの二つに一つなのだ。何事もないかのように人々は木枯らしの舞う雑踏の中を黙々と歩く。
キングサイズのベッド、大理石のテーブル巨大な水槽、無数の観葉植物、そして、巨大な犬、気がつくと光夫の部屋は、かつての真一郎の部屋に似通っていた。当然といえば当然といえるかもしれない。思考が似通っているのだから。
深夜の儀式が始まる。光夫は大理石のバスタブに身を沈める。はめ殺しの巨大なガラスがバスタブのサイドに設けられバスタブがまるで魔法の絨緞のように宙に浮いているような錯覚さえ感じる。眼下に広がる摩天楼からの眺めは光夫の奥底にある支配欲を満足させるのに充分だ。
「ふぅー」
軽く溜息をつくと伸ばしていた脚を湯面から挙げる。バランスのとれた、それでいて力強い脚だ。その脚の上部の中心から湯が弾ける様に左右に分かれ落ちる。女が浴室に入ってきた。全裸だ。その裸体は思春期に蓄えた脂肪が適度にのり丸みを帯びている。そして容貌はすっきりとしてはいるが、その裸体と同じく頬にふくよかさを感じさせる穏やかな容貌の女だ。女は洗い場に座り光夫の背中を流す。そして前方にその居場所を移すと光夫の全身を隈なく舐めるような視線を放ちながら清める。時々光夫と視線が合いそしてまた身体に視線を移す。湯気の立ち込める浴室にうっすらと二つの身体が絡み合う姿が浮かぶ。それは、生々しい動物の行為だった。
浴室から出ると女は光夫の身体に付着している水分を隈なくバスタオルで吸収する決して擦ったりはしない。光夫の皮膚にそれでは傷がつく。まるで上等な日本刀の手入れをするように軽く叩くように水分を吸いとっていく。そして、ボディローションを隈なく、隈なく塗りこむ。女への教育は徹底していた。バスローブを身に纏うとソファに腰を降ろす。牛革のソファは適度にその火照りを吸収してくれる。やはり、自然の素材が心地よい。その脇に置いてある冷蔵庫からコロナビールを取り出すとライムの果汁を落とす。それを一気に飲み干すと、一人、もの思いにふけるのだった。
まるで、血に飢えた吸血鬼のように光夫は殺戮を繰り返す。それは、本能のように自然に光夫の自然な欲求になっていくのである。そう、食欲、性欲と同じように、殺人欲として光夫の脳に刷り込まれていくのだった。
光夫の脳は常に刺激を求めていた。それはどんな人間にも存在する欲求である。しかし、光夫のそれはあまりにも強大すぎた。微弱な刺激では光夫の脳は喚起しない。
光夫は自制のきかない自分を認識していた。しかし、止めることができない。それが継続するうちに善悪を決めるのは法律ではなく個人の基準であるという思想が頭の中にはりこび出すのだった。そして、自分の行っている殺戮を自然な行為と認識した。
それは、最大、最強の殺人鬼の誕生を意味していた。
そう、まるで全ての生物の頂点に立つ生物に成るがために光夫は進化を続けているかのようだった。
そんな或る日のこと、光夫の部屋のドアをノックする男が現れた。
その英国紳士のように上質のシルクスーツで身を固めた青年は一重とも二重とも区別の出来ない不思議な瞳に穏やかな丸みを帯びた眉をした、上品な容貌の青年だった。
「初めまして、私、片山東吾といいます」
「どうぞ」
光夫はソファに向かって手招きをした。
「恐縮です」
「大きな犬ですね」
東吾は光夫の横に鎮座する漆黒の巨大な犬に目をやった。
「あーグレート・デンです。御存知ですか?」
「いえ、名前までは、でも、以前に拝見したことがあります」
礼儀正しい落ち着いた青年だと光夫には感じられた。不思議な感覚だ。懐かしささえ感じる。妙に心地よい感覚だった。光夫は記憶を巡らした。これは、真一郎に初めて出会ったときの感覚に似通っている。自分に対する自信が気負いを打ち消しその余裕が無言のうちに光夫に伝わってきている。
「そうですか、じゃあ、犬はあまりお好きじゃないのですね」
「いえ、そんなことはないのですが」
本題に入る前の無意味な話が続く。
光夫は、大抵少し会話をすれば、その仕草、表情、全体の雰囲気で相手の知能指数、レベルというものを察知できる能力を備えていたが、彼には、それが通用しなかった。どういう性状の人間かが光夫の頭の中で言葉として現れてこないのだ。この感覚も以前に経験したことがある。そう、真一郎のそれだ。
「うーん」
光夫は思わず腕を組んだ。
「どうしたのですか?」
東吾が柔和な表情で語りかけてくる。
「いや、何か初対面なのに、話しやすい方だなと思いまして」
「ははは、皆さんからそう言われます。何故だかわかります?」
「いや、」
光夫には男の問いかけに対する大まかな答えはわかっていたがあえて、相手を試すつもりでそう答えた。
「それは、私が、あなたの問いかけに対して望んでいる答えを選んで答えているからですよ」
「なるほど、素晴らしい」
光夫は思わずそう口走った。予想通りだった。かなりの人物であることには間違いない。光夫はあえて話しの本題を探ることはしない。相手の出方を探ることにした。用件は聞かず、終始世間話で話をつなげる。東吾もなかなか本題に入ろうとはしなかった。どうやら、東吾も光夫の人物を探っているようだった。しかし、訪ねてきておいて本題に入らずに帰るわけにもいくまいと諦めたのか、とうとう話を切り出した。
「私、実は精神科のドクターをしています。今日、ここに来た理由は、あなたのお母さんのことを聞きたくて参りました」
「どうして、精神科の医師が私の母のことを聞きたがるのですか?答える義務はあるのですか?」
光夫は東吾の唐突な問いかけに警戒のシグナルを放つ。
「すいません、突然で気を悪くされましたか。もちろん、義務はありません。もしよければということです」
東吾は少し困惑した様子を見せた。
「いいですよ。私の母は、私が三歳になるかならないかのときに父と離婚をしましたそれ以上のことは私にもわからないです」
「そんなことないはずです。光田光夫さん」
光夫は狼狽した。何故なら光夫は今、近田孝雄という青年になりすまし、表向きは経済研究所の経営者ということになっているからである。
「そうですか・・・・・・」
光夫は諦めた。じたばたしても、始まらない。
後は、この青年がどうでるかである。もしかしたら、既にドアの向こうには国家権力の犬供が手薬煉引いて光夫の登場を今か今かと待ち構えているかもしれないのだ。
「それで、あなたは、どうしたいのですか?」
「勘違いしないでください。あなたを警察に突き出したところで私になにか利益がありますか?答えはノーです。何もなーい。私は自分にメリットのないことは一切しない主義です」
「じゃあ、何が目的なのですか?」
光夫は理解に苦しんだ。東吾の考えていることが把握できないのだ。それは、正体を知られたという狼狽からきているのかもしれない。
「それは、これから少しずつわかります。あなたほどの男はこの世界中を捜してもそんなにはいない。そんな逸材を、たかが日本の国家権力ごときに引き渡すことなど到底私にはできません。まあ、お母上のことは、私の調べで大体のことはわかっておりますので、これ以上詮索はいたしません。じゃあ、これからも、ゆっくり楽しんでくださいね。光田光夫さん」
どうやら、男は全くの敵ではないようだ。光夫は軽く安堵した。
「じゃっ今日のところは、これで失礼します。あなたが、私の思っていた以上に素晴らしい人だったので私は嬉しいです」
そう言うと東吾は光夫に握手を求め、軽く会釈をすると、ドアの向こうへと去っていくのだった。
「ふー」
光夫は軽い溜息をついた。
すると不意にドアが開いた。
「あっそうそう、これから、ちょくちょくお邪魔しますからね」
満面の笑みを浮かべながら東吾はそう言った。光夫も思わず微笑んだ。憎めない男だ。
おそらく、真一郎のことも調べはついているのだろう。一体何が目的なのか・・・・
さすがの光夫も理解に苦しんだ。しかし、退屈すぎる日常のスパイスになることは間違いないということを予感するのだった。
東吾は、光夫の部屋を後にすると自宅へとジャガーを走らせた。東吾の瞳は興奮で光り輝いていた。それは瞳孔の開きを意味している。瞳孔の開いた瞳は妖しい光を周囲に振りまくのだ。欲しくて堪らなかったものを手に入れた、あの時の興奮に酷似している。何か気分が落ち着かない。自宅は、郊外の四十坪程度の土地に二十四坪程の建坪の平凡な二階建てだ。東吾はここに独りで暮らしていた。マンションは性に合わない。自分の住んでいる上に人が暮らしているということに抵抗があった。
その駐車場にジャガーを停車させると、足早に二階の書斎に入る。ポケットから小型の録音機を取り出すと、その録音内容をノートに書き移す。そして、それをパソコンに入力するのだった。そして、そこにはそれ以外にこう書き記されていた。
『人物、非常にバランスがとれ、一見温厚な人柄の好人物である。思慮深く、そして聡明かつ大胆。精神の安定を表す、表情の豊かさと姿勢の良さ。そして、脳の機能、言語性IQの高さを表す流暢な受け答え、彼には凶悪犯罪者の四枚のカード、低IQ、大家族、親の犯罪歴、低所得が存在しない。今までの犯罪者の常識を覆す新しいタイプの人物である。これからが、楽しみだ。八月三日』
抑えきれない欲望が光夫を激しく攻め立てる。何か落ち着かない。それは、空腹時の感覚に酷似している。そう本能が渇望しているのだ。それは古代から延々と受け継がれたDNAの成せる技なのかもしれない。
獲物はたやすく手に入る。しかし、たやすく手に入る獲物は既に光夫の日常と化していた。そう凡人が食事をするのとなんら変わりはないのだ。光夫の破壊への欲望は際限がない。そして、その終末の結果を予測することはできない。本能が剥き出しになるとき光夫の思考をつかさどる重要な部分と、感情や怒りを生み出す大脳辺緑系は完全に断絶するのだ。動物が計画を立てて行動するだろうか、人間以外の生物でそれを臨機応変に行うものは存在しない。それは、人間の作り上げた支配者に好都合の規律と人間の本能の矛盾を意味している。
東吾は、頻繁に光夫の部屋に訪れるようになっていた。それは、かつて光夫が真一郎の部屋に訪れていた時間を光夫に思い起こさせるものでもあった。
「光夫さん、今日は良い天気ですね」
「ああ、そうだな」
光夫は不思議と東吾と話をすると心が和むのだった。
「ところで、東吾君、君は真一郎のことも知っているのだろ?」
「はい、存じてます」
「どうだった?印象は」
東吾の表情が俄かに変化した。それは拒絶のそれではない。
「うーん、素晴らしい人です。頭脳明晰、当時、私は大学生でした。今でもあのときの衝撃は忘れられません」
そう言うと東吾は目の前のミネラルウォーターを飲み干すのだった。まるで興奮状態の子供のような東吾に光夫は自分の幼い頃をだぶらせた。光夫の表情がほころぶ。
「彼(真一郎)の部屋を最初に訪れたときは彼の凄みというか威圧感に押しつぶされそうになりました。彼は私とのディスカッションの中で私にこう言ったのを、覚えています。
『君は、大学で精神学、心理学を勉強しているようだね。君のぼくに対する質問はぼくの精神構造を探っているのが手に取るようにわかるよ。君はおそらく優秀な人間なんだろう。それは、ぼくにもはっきりと理解できる。しかし、君は秀才なんだ。天才じゃない。秀才はいつまでたっても天才には追いつく事はできない。そして、天才は決して教育からは生まれ得ない。君のような秀才は先人の模倣には長けているが、無からの創造ということに関しては凡人と何ら変わりはない。そして、人は皆、狂人と一般人とのぎりぎりのところで日々の生活を送っている。ちょっとしたきっかけでその境界線を踏み越えるものなんだ。それは君とて例外じゃない』そう真一郎さんに言われました」
「ほう、それで」
東吾の回想するその真一郎の自信満々の理論はまるで目の前に彼が甦り光夫に語りかけているかのような錯覚を光夫に起こさせる。
「こうも言われました。『君は確かに優秀だが、大切なことを忘れている』と私にはその意味がわかりませんでした。教えてくださいと言ったのですが、『それは、出来ない。いずれわかるよ。』とそう言われました」
真一郎らしいニヒルな言いまわしだなと光夫は思った。
「光夫さんなら、わかるのじゃないですか?その意味が」
「ああ、わかるよ」
光夫は少し笑みを浮かべ、コロナビールに手を添えた。
「教えてください」
「いや、それは教えられない」
「何故?」
「それは、真一郎も僕も馬鹿じゃないからさ」
東吾は少し頭を傾げた。
「真一郎がぼくと父親違いの兄弟というのを知ったのは彼が亡くなってからのことなんだ。
それを知ったときは何か嬉かったね。彼に感じてた妙な親近感は血のなせる技なのかなと妙に納得したのを覚えてる。もう、随分前のことになるけどね。もう五年が経った」
「実は、私は、彼の殺人行為を目撃しているのです」
「ほう」
東吾のその言葉に光夫は軽い興奮を覚えた。
「どんな?」
「はい、私が大学の四回生の頃のことです。暑い夜でした。私はガールフレンドと峠のさびれた休憩所にいました。そこに日頃聞いたことのない排気音が聞こえてきました。凄まじい音でした。その爆音が急に消えたかと思うと男達の何やら諍い合う声が聞こえてきたのです。私達は、木の茂みの影からその様子を覗ってました。プロレスラーのような体格の男二人と真一郎さんがそこには対峙していたのです。何も知らない私は圧倒的に真一郎さんの不利のように思いました。それほど体格差があったのです。おまけに相手は二人です。それでも、私達はその今からおこるであろう戦いにゾクゾクしたのを覚えています。けっしてその仲裁に入ろうなどとは考えませんでした」
東吾は目を爛々とさせ、その様子を熱い口調で語りだした。
「それで」
光夫も話の続きが聞きたいのか、少し身を乗り出す。
「はい、木刀を持った男が怒声をあげながら真一郎さんに向かっていった、その瞬間空気をつんざく乾いた音がなり響いたのです。それは拳銃の音でした。その弾丸は男の胸のあたりを射抜いたように覚えています。男は彼の足元に蹲り、二発目の銃弾が男の頭部を粉砕しました。そして、もう一人の男もまるで鹿か猪のように殺害されました。その一切の容赦もないその冷徹な行為に私は震えながらも一種の憧れを感じました。それは、今だから言えるのですが、善悪を超越した強さだと思ってます。その強さの虜に私はなったのです。そして、私は彼の後を追って彼の居場所を知ったのです」
「警察に言おうとおもわなかったのかい?」
「とんでもない、彼は私にとって英雄だったのです。そんな気持ちはおこりませんでした。
そう、神を見たかのような、そんな感じです」
「そうか、君も、そう感じたのか」
光夫は、やはり人間の奥底にあるものは、限りない暴力の本能だという思いを強めるのだった。
「後日、私は彼の部屋を訪ねました。彼は快く私を迎えてくれました。私に高級そうな赤ワインを出してくれたのを覚えています。そして、悠然として私を見据えたのです。私が目撃したと言うと彼は軽く微笑みました。そして『どうだった?』と聞くのです。微笑みながら・・・・それは、神ではありませんでした。なんだと思います?光夫さん、・・・・私は錯覚をしていたのです。あまりに冷酷で残忍な行為に私の脳は麻痺をしていたのです。私が目にしたのは神ではありませんでした。そう、悪魔です。華麗な悪魔に私は触れてしまったのです。その瞬間、私は深い後悔を感じました。その理由は今もわからないです。とにかく、後悔したのです。そして、深い恐怖に怯えました。私は彼にこう言いました。決して喋ったりはしないですから、殺さないでください。と、すると彼はにっこり笑って『安心したまえそんなことはしない。君は喋ったりしないよ。それより、どうして、君はぼくに会いにきたんだい?』その問いに私は答えが出ませんでした。それは、真一郎さんが私の思っていた以上の狂気の天才だったからです。
私は完全に萎縮してしまいました。理由はわかりません。それは、本能がそうさせたのだと思います。動物の本能が。
私が黙っていると彼は優しく問いかけてきました。その優美とも表現できる口調の奥底には、今すぐにでもお前を殺せるという余裕があったのです。
そして、内容は『家族はいるのかい?』でした」
東吾は、まるで自慢話をするかのように悪魔との最初のコンタクトの様子を事細かに光夫に話す。
「それを最後に私は部屋を出たのですが、家に帰ることは出来ませんでした。何故なら帰る途中で殺害されるのではと恐怖したためです。そして、家を知られることは避けなければと思ったからです」
東吾の語気が荒くなった。
「東吾くん、君は優秀だが、やはり真一郎の言ったように天才じゃないようだ。天才には恐怖という感情は存在しない。あってもそれは非常に高いレベルの話になる。何故なら天才は狂人なんだ。過去の天才の多くは精神病、そう、精神分裂症を患っている。そして、恐怖という感情を司る脳の器官に決定的な損傷が存在しているんだよ」
その言葉に少し憮然とした表情を東吾は見せた。おそらく、それは精神科医のプライドからだろう。
「はい、そうかもしれないです。でも、私はまた彼の部屋に行ってしまったのです。何故だかわかりません。それは、まるで女性とのセックスへの欲望を抑えきれないときのあの感覚に酷似しています」
「そうなんだ、彼には、そう行った魅力がある。それは、人間的な魅力という表現は合致しない。そうだな、薬物依存症の人間は薬物を断ち切れない。その薬物のような魅力といった方が適切かもしれないね。そして、その先端にあるものは、東吾君わかるかな?」
「自己の崩壊です・・・か」
「その通り。強烈な快楽があるものには、必ず副作用がある。快楽とは元々、脳内のホルモンの分泌の変化を意味しているんだよ。例えば肩がこったときに肩を叩くと気持ちいいよね。それにしても、そうなんだ。脳からアドレナリンが分泌されて心地よいと感じるんだよ。まあ、精神科医の東吾君には、釈迦に説法になると思うがね。そして、人間は刺激なくして生きていくことは不可能に近い。刺激が全くなくなると脳は退化を始める。だから、常に日々刺激を求めて生きているんだ」
「はい、その通りです。そして、それには個人差があります。そのホルモンが喚起されるレベルがあまりにも真一郎さんは、低かったのです。そして、光夫さん、おそらくあなたもです」
「それは、どうかな。東吾君、一つ忠告しておく、君は大切なことを忘れている。それは、学校では教えてくれないことだ。もう、ぼくに関わりあうのはよしたほうがいいと思うのだが・・・」
光夫のその言葉に東吾は不満そうな表情を顕にした。
「どうしてですか?」
「いや、そう直感したんだよ。君のことを嫌っているわけじゃない。むしろ、君には魅力を感じているぐらいだ」
「だったら、どうして」
「今日はもういいだろう。また今度にしよう
また、いつでも寄ってくれたらいいよ。そんなに忙しい身じゃないからね」
それは、東吾にとって時間を忘れるほどの陶酔的な時間だった。
(15)
良い天気だ。八月の照りつける太陽は人に希望という生きる力を与えてくれる。渋滞の一般道を過ぎると、海岸線を走る峠道に入る。薄緑の緑が本能を呼び起こす。視覚、聴覚、臭覚から命の息吹を感じ取る。凄まじい勢いで前方の景色が迫ってきたかと思うとそれは瞬時に後方に追いやられる。その連続が光夫を刺激する。オープンボディのポルシェを駆り光夫は疾走していた。峠道は10キロ余り、それを越えると、再び渋滞の激しい一般道に戻る。光夫は渋滞を避けるために、高速道路へ進入する。高速道路に入るとポルシェ911は、その本領を発揮する。目前の五蓮メーターは各々のダンスを踊り始め、光夫を楽しませる。時速百三十キロを過ぎても驚くほど風の巻き込みは少ない。光夫の髪の毛は軽く揺れる程度だ。アクセルを踏み込む。一段と甲高いエキゾーストノートが光夫の背後から響き渡る。高速走行のためか、それは、瞬時に後方に追いやられ実際よりも小さく感じられる。やがて恐怖を感じることのできない怪物は、その人格を少しずつ獣へと変化させていくのだった。そして、光夫の精神は自信に満ち溢れていた。
ポルシェが重苦しい唸りをあげる。目的地近くの駐車場に近づいてきたのだ。光夫は軽い覚醒状態を維持していた。
周囲の雰囲気が何かいつもと違う。身体は雄の本能を剥き出しに猛りきっている。それは、絶頂を身体が欲しているそんな状態だった。何もかもが普通ではない。夕暮れの真っ赤な太陽が光夫の本能にエールを送る。獲物の魂を破壊しろと・・・・・・
紅いスカーフを首に巻いた女の腐乱死体が発見されたのは、その一ヶ月後だった。
水中ポンプから送り出される酸素が水面で弾けて音を立てる。光夫の部屋の水槽には、巨大なアジア・アロワナがまるでこの部屋の番人のように悠然と泳いでいた。
「東吾くん、人の価値というものは何だと思う?」
「人の価値ですか難しい質問ですね。私は他人からの評価だと思っています。所詮、この世の中は他人との競争です。人の不幸は蜜の味という諺があるように、人は常に他人と自分を比較しそれに一喜一憂して生きる愚かな生物です」
「確かにそうだ。というかこの質問に絶対的な答えなど存在はしない。いくつもの価値観が存在するからね。このアロワナだって日本じゃ、何十万もするが現地に行けば、魚屋に並んでいるんだからね。君の答えは、よく世の中のしくみを熟知したものが思考できる答えだ」
「ところで、光夫さん、私は実は真一郎さんの脳を研究していたのです」
「脳の研究?」
「はい、そうです。真一郎さんの脳を調べていたのです」
「そんなことを真一郎は承諾したのかい?」
「はい」
「ふーん」
真一郎はよほどこの東吾のことを気に入ったのだなと光夫は以外な気持ちに包まれた。
「真一郎さんも自分のことを客観的に知りたかったのではないでしょうか?快く承諾してくれました」
「まあいい、それでどうだった彼の脳は?」
「はい、光夫さんは、セロトニンとテストステロンという二つのホルモンを知ってますか?」
「いや、知らないな」
「テストステロンは人間の潜在的な暴力性や攻撃行動に影響を及ぼす代表的な男性ホルモンです。セロトニンは本能のブレーキ機構のような作用を及ぼすホルモンです。彼の血液中のテストステロンとセロトニンの量を調べた結果テストステロンの量が平均値を著しく上回り、それに反してセロトニンの量は平均値より極端に低いものでした。これはどういうことかと言うと、暴力的、攻撃的な性質が人より強く、それを抑えようとする理性の部分が弱いということです」
「真一郎は血液の検査まで君に任したのかね」
あの、真一郎が血液検査までしたのかと光夫は不審に思ったのだ。
「いえ、最初は拒まれました。最初は脳波の検査しか許されませんでした。亡くなられる一ヶ月ほど前から許可が出たのです」
「わかった。続けてくれ」
「はい、脳内のホルモン分泌は、血中に反映されます。アナボリック・ステロイドというホルモン剤を知っていますか?」
「ああ、聞いたことはあるよ。ボディビルダーなんかが飲んでいるやつだろ」
「そうです。スポーツをする若者たちが違法に摂取しているホルモン剤です。しかし、これを常用すると正常で穏やかな人間がレイプ犯や殺人者に変貌してしまうことがあります。このホルモン剤の効果は男性ホルモンの働きの再現です。これを飲むと血中の男性ホルモンの量は急激に膨れ上がり、先のような暴力的行動が現れてしまうのです。真一郎さんは、このような人工のホルモン剤は摂取していないにも関わらず異常にテストステロンの量が多かったのです」
「真一郎は、そのことに対して何か言っていたかい?」
「いいえ、いつものように悠然と構えていました。『期待外れだよ。そんなことは薄々わかっていた。もっと僕だけにしかないものがあるのじゃないかと期待していたんだけどね。
それじゃあ、身長と体重が皆違うのと大差ないじゃないか』と嘯いてました」
光夫は思わず苦笑した。
「そして、丁度、亡くなられる半月前くらいからセロトニンの量が以前にも増して極端に変化しました。減少したのです。そして、驚いたことにテストステロンの量が反対に増大したのです。私は、憂慮しました。顔色も悪く、表情に変化がなくなってきたのです。それから、間もなくのことです。命を絶たれたのは・・・・セロトニンの急激な減少は自殺衝動を促します。そして、テストステロンの急激な増大は幻聴、幻覚、などの精神障害、そして、衝動的な暴力行動の誘発に繋がります。この二つの破滅のダイナマイトが同時に真一郎さんの脳内で爆発したのです。彼が死んだことにより、ぼくの研究も終わりを告げました。しかし、私は再び見つけたのです。あなたという逸材を」
東吾の目は爛々と輝いていた。
「おいおい、待ってくれよ。ぼくは、まだ君に協力するとは言ってないよ。確かに自分を客観的に見るということには、興味はあるが何かモルモットのようで嫌な気分だな。真一郎は、よく承諾したな」
東吾は少し俯き、歪な笑いを浮かべる。
「光夫さんは、真一郎さんと少しタイプが違いますからね。あなたには、人間味があります。しかし、真一郎さんには、そういった暖かいものが皆無でした。まるで、完璧なロボットと話をしているような錯覚さえ感じました。そして、彼には陰惨な過去があります」
そう言うと、東吾は真一郎との薄暗い会話を回想するのだった。
(16)回想
「東吾君、君の両親は健在なのかい?」
「はい、まだ五十代でぴんぴんしています」
「そうか、ぼくの、母親は今精神病院に入院しているよ。精神分裂症っていうやつらしい。
東吾君、君は親に裏切られたことはあるかい?」
「いいえ、ないです」
「そうだろ、それが普通だ。子供というものは、親の愛情を一身に浴びて成長していくものだ。でも、ぼくは、母親に殺されそうになったことがあるんだ。十二歳の頃だった。母親がすっとぼくの後ろに身を下げたかと思った瞬間、ロープのようなものがぼくの首に巻きつき、そして縛り上げ出したんだ。ぼくは、咄嗟に首とロープの間に指を滑り込ませて後ろを振り返った。そこに居たのは何だと思う?母親じゃないよ。それは、まさしく鬼だった。修羅と化した化け物だったのさ。その時、十二歳の少年は何を感じたと思う?」
「悲しみと怒りですか?」
「その二つも確かにあった。しかし、ぼくの心を責めたてたのは絶望だった。人間は絶望を感じると死を意識する。それから高等学校を卒業するまでの6年間は、絶望と憎悪の繰り返しの毎日だった。同じ屋根の下で生活しているものが信用できないという凄まじいまでの絶望感と荒涼感が頭を支配するんだ。わかるかな?頭の中を常に冷たい空気が流れているような感覚だよ。しかし、ぼくは、死ななかった。何故だと思う?それは、絶望を打ち消す代替品を見つけたからさ」
「それは、何ですか?」
「ぼくは、色々と考えた将来のこと、母親との関係、自分の存在価値など、通常は考えなくてもいいことを四六時中考えたんだ。そうしたら、どうなったと思う?何も考えられなくなったんだよ。人と会うのが、話すのが億劫になり、独りでいるほうが楽になった。最初のうちは、それだけで満足していたんだ。でも、それが日常化してくると、退屈し、そして苛立つ。刺激が欲しくなってきたんだ。刺激を求めだしたんだ。それが絶望を打ち消してくれたのさ」
「それは、何なのですか?」
「動物の本能、さ。食欲と性欲だよ。食べているときと、セックスをしているときには、あの退屈と苛立ちは消えたんだ。時間がなくなってしまうんだ。頭のもやもやとしたものはとれ爽快な気分になる。ぼくは、生きる希望を、食べることと、セックスで見出したんだ」
東吾は軽い畏怖の念を感じた。真一郎の今のこの表情は健全な精神のものではなかったからだ。東吾のクリニックを訪れる重症患者のそれに酷似している。そして、彼には膨大な資金とそれを上回る頭脳がある。神は悪魔に加担したのだ。完璧な異常者は自分の異常を感ずることができない。自分が異常だと思っている間は正常なのである。
「東吾君、君の本当の目的を言ってみたまえ」
「はい、ぼくは、あなたの脳を調べたいのです」
「脳を?物騒な話だな」
「いえ、調べるといっても、解剖するわけじゃありません。脳波とか、特殊な装置を使っての脳内の各部分の活動状況、精神の構造、そして、あなたという怪物を創り出した生い立ちと遺伝です。犯罪者の脳にはかなりの割合でホルモンの分泌異常と損傷が見られます。それは、事故などの外傷が原因になる場合もあれば、遺伝などの先天的なものもあります」
「それじゃあ、ぼくの脳には損傷があるみたいじゃないか」
真一郎は東吾のその飄々と語る様に呆れ顔でそう言った。
「はい、おそらく、真一郎さん、おそらくあなたの脳には重大な損傷があると思われます。
しかし、気にはしないでください。昔から天才と言われた多くの人々の脳には多かれ少なかれ損傷が見られるのです。天才というのは何らかの犠牲の上で成り立っているものなのだと私は思っています。天才と狂人はイコールなのです。脳の損傷のマイナスの部分が他の部分にプラスとなって作用すると考えると理解しやすいかもしれません」
「なるほど、なんとなく理解できるな、じゃあ、おもしろいことを教えてあげよう。津山事件を知っているかな?」
「はい、知ってます。岡山で起きた事件ですよね。凄まじい事件ですよね。二時間弱という時間に三十二人もの人を殺害したのですから」
「その通りだ。そして、犯人の田井睦雄はぼくの祖父なんだ。ぼくも、最近、その事実を知った。どうだい、興味が沸いてきただろ」
「はい、とても」
東吾は、その目を光らせた。
「これでぼくは、君の研究対象として、最高の検体というわけだ。しかし、無条件で君の要望に応えるわけにはいかないよ。東吾君」
「と言いますと?」
「ぼくは、君を完全に信用したわけじゃない。
確かに自分の脳を客観的に知りたいという気持ちはあるが、それは、占いで自分の未来を知りたいという程度のものだ。ぼくが、知りたいのは君もしくは、君達の本当の目的なんだ。わかるだろ東吾君」
真一郎は、恐ろしいほどの冷たい表情を東吾に放った。それは、表情のない獣特有の冷たい目だった。東吾は蛇に睨まれた蛙のように萎縮した。
「いえ、別に何もそれ以外にないです」
「まあ、いい、君が何を企んだところで、ぼくには何の影響もない。しかし、君はどうかな?」
東吾は口の乾きを感じた。唾液が出ないのだ。
真一郎は目をつりあげ、大きく口を左右に開き、狂人の笑みを東吾に送った。
東吾は、自宅に戻り、パソコンの前にいた。薄暗い部屋で液晶画面の明かりだけが青白く東吾の顔を照らす。キーボードから画面に文字が送りこまれる。
『私は、今、異常に興奮している。彼は、あの津山事件の子孫なのだ。これで、遺伝というカードは決定的となった。彼の恐ろしいところは、自分の負の財産を肯定できる精神の強さである。それは、もしかするとサイコパス(精神病質者)にありがちな人間性の欠落と恐怖を感ずることのできない脳の損傷からきているのかもしれない。しかし、彼には、サイコパスにありがちな言語性IQの低さは微塵も感じられない。その理論はまるで予習をしていたかのように完璧であり、私に反論の隙を与えない』
ロマネコンティの芳醇な香りが部屋中に立ちこめる。真一郎は大きく脚を組みそれを左手でくゆらしながら舐めるように少しずつ体内に注ぎ入れる。そして、ブレスレットのような美しいショーメのケイシスが東吾の網膜に反射する。
「どうだった?ぼくの脳は?」
真一郎は何かに執りつかれたかのような、冷淡な表情で東吾に問いかける。それは、恰も遠隔操作されたロボットのように無機質な冷たいものだった。伸び伸びとした筋肉がそれを一層違和感のあるものとして周囲に影響を与える。
東吾が一呼吸おき、その質問に口を開いた。
「はい、やはり、あなたの脳には重大な損傷がありました。皮質が大脳辺緑系と出会う場所、言いかえれば理性的な精神が感情や知覚を監視し、ふるいにかける中継基地のようなものです。皮質は言語や推理、高度な思考を扱う部分です。そして大脳辺緑系とは本能を司る部分です。あなたの脳はこの重要な部分が断絶されているのです。それは、本能の波をさえぎる防波堤の決壊を意味しています。
通常、人は本能を理性で抑制しています。だから、犯罪者というのは、世の中で少数派となるわけです。しかし、あなたは理性と本能を中継している部分に損傷があるため、そのお互いの機能が連絡を取り合うことができないのです。簡単に言うとあなたの理性と本能は分離してしまっているのです」
東吾の強い口調に真一郎が冷ややかに答える。「それは、病気なのかい?」
「事故などの外傷で起こる機能障害です。事故というのは、精神的なシヨックなどもあてはまります。生まれながらにこの障害を持つ人もあるので遺伝もかなり関係すると思われます。ただ、この障害を持つ人でも、通常の生活を送っている人は多々見受けられますので、病気というには語弊がつきまとうと思います。しかし、これにホルモンのあるカードが合致すると、非常に高い確率で、その人の運命を決定づけます」
真一郎は、無表情で東吾の言葉に聞き入っていた。
「しかし、なんだな、占い師に自分を占ってもらっているような心境だな。脳に損傷か、しかし、それは、果たして損傷なのかな、それは、脳の種類なのじゃないのかな」
東吾は絶句した。
東吾が繰り返し学習していた。損傷という固定観念はここに崩壊した。
既成の概念に囚われない自由な思考こそが、人類の発展の源である。
「脳にも種類があるのだとぼくは思うよ。性格に種類があるのと同じでね。そうは思わないかい?」
「・・・・・そうですね」
「ホルモンのカードとは何かな?」
真一郎が東吾に質問を投げかける。東吾は言葉を選んだ。思慮のない言葉は自身の破滅を意味する。
「はい、テストステロンとセロトニンです。これは、血中に含まれるので、容易にその量を測定できます。テストステロンはアンドロゲン、つまり男性ホルモン群の中の代表的な男性ホルモンです。そして、セロトニンは、その男性ホルモンの働きを抑制するホルモンなのです。男性ホルモンの働きは、男性の潜在的な暴力性や攻撃行動に影響を及ぼします。
つまりテストステロンの量が多いとより暴力的で攻撃的になり、セロトニンが少ないとそれを抑制することができないのです。
凶悪犯罪者の多くは、かなりの確率でテストステロンの量が多く、セロトニンの量が少ないという結果が出ています」
「ほう、それは面白いな。逆に言うとだよ。それは、将来の犯罪者を予測できるということになるんじゃないのかな」
「そうです。もっと研究を進めれば、それは可能なことだと思います。実際今の段階でもかなりの確率でその予測は的中しているのです。あなたの場合、この二つのホルモンのカードが揃うと、90%以上という高い確率で犯罪者になりうるという結果が出ています」
真一郎は苦笑した。
「そうか、それは、的中しているわけだ」
「いえ、まだホルモンを調べていないのでわかりません。」
「知りたいのだね?」
「はい」
真一郎は少し考えを巡らしている様子だ。
「・・・・・・・いや、それは、駄目だ。
今の段階では・・・・それより君の狙いは何なんだ?」
「ぼくの狙いですか。それは、犯罪を無くすことです。犯罪と脳の関係を追求していくことによってのみそれは可能なのです。脳に損傷のあるものは、幼児期の頃からその狼煙を上げています。或る日突然凶悪な犯罪者にはならないのです。行動過多、情緒不安定、動物虐待、がその代表的なものです。将来の悲劇は、これによって未然に防ぐことが可能なのです。具体的には断種、婚姻の制限、隔離などが考えられます」
「まるで、ヒトラーのユダヤ人弾圧だな、君の思想は危険な思想だ。まあ、ぼくが言っても説得力には欠けるかもしれないが、その為には小さな犠牲は許されると君は理解しているのだね」
「はい、失礼な言い方ですが、あなたは、私にとって大変貴重なサンプルなのです」
「サンプルか、しかし、ぼくを完全に理解するには、君が僕以上の頭脳を持っていないとそれは不可能だよ。わかるだろ、ここに長さを計りたいものがある。しかし、君の持っているものさしは、計りたい物体より短かったと仮定しよう。どうやって計る?計れないだろ」
真一郎は両手をテーブルの上に浮かすような仕草で東吾を窘めるように語る。
「もちろん、わたしの能力の範囲での話です」
「そうか、じゃあぼくを学習したまえ。でも、そんな研究をして何になるんだい?ぼくには理解できないな。犯罪は平和な世の中の副産物のようなものなんだ。それがなくなってしまうとまた新たな弊害が生まれないかな。犯罪があるから平和があるんじゃないか。犯罪がなくなると平和もなくなるよ。もし、君の考えていることが、実際に行われたと仮定しよう。日本は滅びるよ。今は平和な世の中だ。しかし、この平和は長くは続かない。君はそれを理解できていない。木を見て森を見ずという諺があるだろ。今の君には、それがぴったりと当てはまっている。男というのは潜在的に暴力性を持っているものだ。正常な男性は10分に一回はセックスのことを考えるらしいじゃないか。去勢された宦官のような男が有事の際に役に立つと思っているのかね。君はどう思っているかわからないが、戦争は近い将来起きるよ。そんなに、先の話じゃない。もっとも、それまでに君の考えは実現不可能だがね。もちろん、ぼくは、そんなことには興味はないし、あくまで客観的に見た意見を述べているだけだけどね。君が行おうとしていることは君の思惑とは裏腹に破滅への道を歩むことになる。戦争が勃発すれば、君の言う脳に損傷を持った人間が一番適任だとは思わないかい?そうだろ、敵国の兵士、女、子供を大量に虐殺して「今日は肩がこったな」というくらいの精神的に屈強な兵士が求められるはずだ。有事の際には全ての国民が凶悪な殺人者になる必要があるんだ。君は、それを理解しているのかね。ヒトラーのユダヤ人弾圧以上に危険な思想だ。ヒトラーはユダヤ人に限ってのみ、狂気の殺戮を実行したが、君の話を聞いていると、全ての人類を対象にしているように思える。君が権力と結びつかないことをぼくは祈るよ」
そう言うと、真一郎はベスを指差した。
「自然に逆らっても勝ち目はないよ東吾君。こいつのように毎日、うまいもの食べて何も考えずに生きるのが幸せだと思うな。どうだい毛並みがいいだろ。それと1つ教えてあげよう。人間は何を食べたら、一番効率よく栄養が摂取できると思う?」
「いえ、わからないです」
「人間だよ」
真一郎は目を剥き無言の笑みを浮かべるのだった。
光夫は東吾の話を理解しながら、もう一つの空想に耽る。それは、ゆったりとした感覚だった。
膨大な数の観葉植物から発する力が光夫を覆いつくす。深く呼吸をし、その自然の力を体内に蓄積する。何処から紛れ込んだのか美しい蝶が三羽ひらひらと舞い踊る。それは光夫の頭にとまると、ゆっくりゆっくりと羽を開閉する。光夫が身体を動かすと、驚いてまた空中に舞い戻る。グレート・デンが本能を剥き出しに部屋中を追いかける。そして、前脚で捕まえたかと思うと、むしゃむしゃと食べてしまった。本能のみで生きる動物に容赦はない。食欲、性欲が全てを支配する。計画などない。脳の欲求のみで生きるのだ。
ベッドには雌の本性を顕にした女が光夫を待機している。しかし、光夫は昂ぶりを感じなかった。セックスは既に日常化し、それは、少しの快楽を伴った健康維持のための娯楽となっていた。そう、ゴルフのようなものだ。女は光夫を迎え入れると、生殖のための生理的現象を駆使し光夫を絶頂に導く。何かが足りない。頭がのぼせる。女が舌を入れてきた。光夫は少しそれを吸うと女の舌に牙をつきたてた。女は光夫を払いのけようと無言でもがく。口から血が噴出し、その返り血が光夫の口元を真っ赤に染める。二人がようやく離れ、そして・・・・
「ぎゃあー」
断末魔の絶叫が部屋中に響く。光夫はそれをむしゃむしゃと頬張るのだった。
快感が薄れてゆく。光夫は不安を覚えた。
薬物依存症の人間はその量が少しずつ増えていくという。少しずつ絶頂を迎えるときのあの感覚が薄れてきたのだ。暴力による破壊は脳の中に電気が走るような悦楽を光夫に与えていた。しかし、殺戮を繰り返すごとに、それは薄れてゆく。薬物のように量を増やすというわけにもいかない。本能がざわついていた。慢性的な欲求不満が光夫を苦しめる。常に巨大な刺激を必要とする脳の持ち主だけが味わう解消のしようがない苦痛だった。今日も光夫は更なる悦楽を求め狂気のジャングルをより上質の獲物を求め探索するのだった。
東吾のパソコンにまた文字が追加された。
『既成の概念に囚われない柔軟な思想、私は彼に魅力を感じ始めている。それは、最初出会ったときに感じた圧倒的な暴力からくる陶酔のようなものではない。彼(真一郎)の天分にである。私はこの世の中に完璧はないと信じてきた。しかし、その考えは今、揺らぎつつある。反論の余地のない説得力と自信に満ちた彼の理論は1つのものにだけ秀でたものが持つ特有の偏りがない。非常に高い位置で全てにバランスがとれている。彼は、全く新しいタイプの犯罪者であり、最高のサンプルである。しかし、時々思う。サンプルは私の方じゃないのかと』
一ヶ月後
今日も真一郎と東吾は真一郎の部屋でディスカッションを進めていた。
「真一郎さん、人を殺すときの感覚とはどういうものなのでしょうか?」
東吾が身を乗り出し、真一郎の機嫌を伺いながら質問をする。
真っ赤なロマネコンティをくゆらしながら真一郎はゆっくりと口を開く。
「悦楽、その一言に尽きるね」
「身体的には、何か変化はあるのですか?」
「どうだろう?そこまでは考えていないな。ただ、表情が創れなくなるな。そう笑いの表情は消え失せる。目から上の表情が消失するようなそんな感覚かな。動物、いや獣といったほうが適切かもしれない。獣の表情は、いたって貧弱だろ、そうその瞬間獣になっているのかもしれないね。口では、うまく表現できないな。そして、それが達成されると、強烈な睡魔が襲うんだ。君は人を殺したいと思うほど憎んだことはないのかい?」
「いえ、全くないとは言えません」
「じゃあ、それが達成されたと仮定しよう。
考えてみるといいよ。何年か前の記憶を呼び起こせばいいだけの簡単な話だ。いや、もしかすると昨日の記憶かもしれない。憎んだ男もしくは女を思い出せばいいんだよ。わかるだろ?そして、その人間を自らの手で惨殺する。それも一気にじゃなくて、じわじわとだよ。やがて、虚勢を張っていた相手は君に屈することになるだろう。どうだい、想像できるかな?そのときに君が感じる感情だよ。何もぼくに聞かなくても君自身で理解できるはずだ」
東吾は胸の高鳴りを覚えた。それは脳の奥深くに眠っている東吾本人にも理解できない本能が揺さぶられているのかもしれない。
東吾は必死で冷静を装った。しかし、身体は正直だ。手が小刻みに震えている。真一郎はそれを見逃さなかった。
「東吾君、無理をしちゃだめだよ。無理は身体に毒だ。君にプレゼントをあげよう。これは君の心の中の小さなヒトラーに対するプレゼントだよ」
「何ですか?」
真一郎の唐突な言葉は東吾を混乱させる。
「君の言うホルモンだよ。ぼくの血液を調べるといいそれが君の願いなら、ぼくは、喜んで提供するよ」
(17)
「掻い摘んで話ましたが、それがぼくと真一郎さんの会話の内容です。検査の結果はご承知の通りです。恐ろしいです。私は、正直言うと彼に会いたくて仕方がないのです。しかし、彼が死んだ以上、彼の未知の世界を探求することは不可能です」
沈んだ表情を東吾は浮かべる。
光夫は、無言でレモンティーをカップに注ぐと静かにそれを体内に注ぎ入れた。
「東吾君、君は自分の研究によって犯罪が減り、それが世の中のためになると信じているようだが、果たしてそうなのかな?」
「といいますと?」
「殺人はある側面悲劇といえるかもしれない。
しかし、同時に殺人はみんなのお気に入りの犯罪でもあるんだよ。君はそれを忘れていないかい?真一郎も指摘したようにね。出版物を見ても、犯罪実録ものは、出版物の一ジャンルとして急激に拡大している。殺人だけを扱った月刊誌は、イギリスでは五十万部も売れているそうじゃないか」
東吾は困惑の様子を隠せない。
「はい、それも確かにそうなのです。人間は皆、潜在的な殺人者なのかもしれません」
光夫のその言葉は紛れもない事実だった。
「東吾君、君は賢い人間だ。人間の本質を既に見抜いている。違うかね?」
「いえ、しかし、正直に言うと、本質は悪じゃないかと思っています」
「そうだろ、そうこなくっちゃ」
光夫は満面の笑顔でそう答える。
「楽しいよ。東吾君」
東吾は、そこに狂気を感じた。畏怖と畏敬の入り混じる不思議な陶酔的な感覚が東吾を覆い尽くす。
「東吾君、我慢して生きても、自由に生きても、一回きりの人生なんだよ」
「そうですね」
光夫は獲物を物色していた。心臓の鼓動が指の先まで感じられる。前回の殺戮から、長期の期間が経過している。光夫は、より強い刺激を欲していた。アドレナリンの分泌量が低く極端に喚起性の低い光夫の脳は、少々のことでは反応を示さない。静止することは出来ない。なぜなら、常に、光夫の脳は、刺激を欲するから。誰かが殺せと命令する。それは、人間の奥底に潜む本能の叫びなのかもしれない。極端に、アドレナリンの分泌量の低い光夫は自分の身体に刺激を与えることでその量を正常にちかづけようと努力する。しかし、それは穴の開いたバケツに水を注ぐのと同じだ。脳がバイブレーションする。破壊したい。もちろん人間を、損壊したいのだ。体温を感じるはらわたを手で掴みだし、そして、ピンクの子宮に齧りつく、そして、脳みそをソテーし肝臓をスライスして食べる。
「取りましょうか?」
光夫は気がつくと書店に立ち寄っていた。専門書籍なども多数置く大きな規模の書店だ。
美しい妊婦が、本棚の上にある病理学の本を取ろうと腕を伸ばしていた。
「すいません」
妊婦は恐縮そうに小さな声で言った。妊婦の腹は臨月に近いのかかなり目立つ。その、バランスのとれた優美な鼻のラインと顎のライン、そして、躍動感をかんじさせる豊かに膨らんだ涙道は光夫の食指を動かすのに充分だった。鼓動が身体中を振動させる。理性を閉じ込めたその身体は人間の身体的に最高の状態を持続させる。今、光夫は微かに残った理性と圧倒的な本能の渦に身をまかしているのだった。そして、その理性と本能を繋げるものは、隔絶寸前だ。
「看護婦さんなのですか?」
「いえ、放射線技師のほうです」
「そうですか、それで病理学の本を」
「でも、今は、これなもので休職しています」
そう言うと女は大きく膨らんだ腹部を照れくさそうに指差した。
「少し、仕事の話聞かせてくれないですか?」
光夫が女を誘う。
「はい、でも・・・」
ためらいの表情を見せる。それが、主人へのものなのかお腹の中にいる子供へのためらいなのかそれとも、単なるポーズなのか、それは、光夫にもわからない。
ブラックポルシェが咆哮をあげる。光夫は既に昂ぶっていた。光夫の選んだ場所は自身の住むホテルのロビーだった。
他愛のない話が続く。
「お仕事は何をされているの?」
月並みな質問が光夫にかけられる。
「はい、産婦人科のドクターです」
「私が妊婦だからといって、それは、調子が良すぎるわ」
光夫の陳腐なジョークに女は笑みをこぼす。
「いえ、本当ですよ。ここの最上階がぼくの診察室です。どうです?受けてみないですか?診察を」
光夫は、とぼけた顔で女を誘う。
臨月のある時期、女は猛烈に性欲を感じる瞬間があるという。
4メートルを越える天井、巨大な水槽、張り詰められた大理石。そして、寝そべる巨大なグレート・デンに女は別世界を見た。荘厳な雰囲気がある。それは今から始まる儀式の最高の舞台でもあった。女の僅かな不安は羨望へと変化する。男と女に前置きはいらない。光夫と女が絡む。それは本能と本能の絡みあいだった。身をくねらせお互いの身体の中に入り込むかのように絡み合う。叫び声にも似た歓喜の声をあげ、光夫を貪欲に貪るその女は母を捨て雌と化していた。
光夫のアンドロゲンは爆発し、そして、アドレナリンは身体中を駆け巡る。悦楽の瞬間が近づいてきた。ぶつかり合う二つの肉体はもう人間のものではない。淫獣と化した雄と雌はクライマックスを迎える。
「んぐっ」
女が目を剥いた。光夫が絶頂を迎えようとしたその瞬間、悦楽の洗礼を女は受ける。女の首を渾身の力で握り潰す。女の頚椎骨は砕かれた。それにより首からの下の機能は完全に麻痺する。女は、一瞬顔を赤く膨らませ、しばらくすると青白く変化する。少し遅れて光夫が絶頂を迎える。二つの命をこの世から消し去るという意識が、光夫を今までにない至高の世界へと導く。光夫は絶頂を迎えた。悦楽の表情が顔面を支配する。しかし、これで、終わりではなかった。女から離れるとサバイバルナイフを両手に持ち腹部の上部から下部にかけて一気に裂く。
はちきれそうに膨らんだ女の子宮がピンク色に輝いていた。まだ体温の残る子宮をゆっくりと裂くと、胎児はまだ動いていた。光夫がそれを掴み出す。胎児は、母の命を奪った人間に掴み出され、手足を震わせる。光夫は忘れていた幼い頃の懐かしい記憶を巡らす。
それは、光夫が小学校五年生のときだった。玄関の前で独りで遊んでいた光夫の目に飛び込んできたのは、乳母車の中ですやすやと眠る赤ん坊だった。光夫は、無性に憎しみを感じた。それは、理由のない憎しみだった。
母性の象徴とでもいうべき赤ん坊に憎しみを抱いたのだ。それは、母性の渇望から生まれた歪んだ嫉妬なのかもしれない。いや、そんな理解できる憎しみではなかった。
脳の奥底から涌き出るかのような純粋な憎しみだった。それは、空腹になると食物を摂取したくなる感覚に似通っていた。捻り潰してやりたいという衝動にかられる。光夫はそんな自分が怖かった。本当にその行為を行ってしまうのではないかという不安が光夫に襲いかかる。そんなことをしてはいけないという心と捻り潰してやりたいという心が葛藤する。ついに手が伸びた。
「光夫くん、ちゃんと見ててくれたのね」
その時、母親が玄関の中から出てきた。乳幼児の母親は光夫に優しく微笑んだ。真っ白な衣服に包まれた天使は、かろうじて悪魔の手を逃れた。
「ウォン!」
光夫を現実の世界へと引き戻したのは、巨大なグレート・デンだった。光夫は声のない笑みを浮かべると。臍の緒を切り裂きそれを、放り投げた。それが大理石の床に接触したとき何かが潰れたような音がした。もがくそれを巨大な犬は引き千切り咀嚼する。聞こえるのは、咀嚼する音と肉の裂ける音、骨の砕ける微かな音だけだった。やがて犬は食い尽くし何もなくなった大理石の床をぺろぺろと舐め上げる。
まだ、暖かい内臓に右手を挿入すると、ぷりぷりの肝臓に手を添える。その上には胃があり、その下には、小腸と大腸が詰まっている。ゆっくりと左手も挿入する。内臓を掴もうとすると、ヌルリとすべる。光夫は美しい絵に見入る少年のようにそれを注視する。そして、何度もすくっては、離し、すくっては、離すのだった。
強烈な睡魔が光夫を襲う。それは、本能が光夫に与えた、ご褒美なのかもしれない。『何も考えることはない。後はぐっすりと眠れば良い』まるで、母親にあやされて眠る子供のように光夫は深い、深い眠りに就く。
アロワナが何度も水槽を往復する。
「東吾君、君は人間は何の為に生きていると思う?」
光夫は、ソファに身を沈め、ゆったりとした気分に浸っていた。観葉植物に溢れた室内は適度な湿度に保たれている。
「何の為でしょう?永遠のテーマですよね」
東吾は苦い表情で答える。
「かつて、ぼくは、真一郎に同じ質問をしたんだ」
「へーそれで真一郎さんは、どう答えました?」
東吾が俄かに興味を持つ。
「彼は種の保存だと言ったよ。当時ぼくは、その答えに疑問を持たなかった。そして、彼の理論に感嘆したものだ」
「今、光夫さんは、違う意見なのですね」
東吾が光夫の思考を模索する。
「違う考えじゃない。しかし、ぼくは、こう考えるようになった。人間は本能を満たす為に生きている。とね。それには、もちろん、種の保存も含まれる」
「そうですね。言われてみると、その通りです。食欲、性欲、などの動物としての本能を満たすという欲望には万人例外はないですからね」
「犯罪は本能を抑制した不自然な人間社会の正常な自然の姿なのかもしれないよ。太古の昔には力のあるものが暴力で他を制圧してきたのだからね。今の社会は支配者に都合の良い規律が出来あがっている。教育も宗教も全ては我慢しなさいだ。我慢をすれば、いつかは良いことがある。そんな幻想を小学生の頃から植えつけられ、育った人間に何ができる?出来るのは尻尾を振ることだけさ。そして、レベルの低い者同士が諍いを起こす。悲しいな」
そう言うと、光夫はテーブルのレモンティーを口に含んだ。
「ぼくは、ある周期で人を破壊したくなるんだ。それは、身体の何かが不足してきたような、そんな得たいの知れない感覚だ。そうなると記憶が極端に衰える。さっきまでしていたことさえ忘れるような感じにね。そして、考えることは、殺すことだけだ」
光夫は、東吾の目を見据える。
「そうですか、あなたのホルモンの分泌量は一般人と何ら変わりはありません。おそらくそういう状態になるとテストステロンの量が増大し、そして、セロトニンの量が減少するのだと思います。もちろん、それ以外にも、身体の中では様々な変化は起こってはいるのでしょう。今の段階ではそれ以上のことは推測できません。あなたのアンドロゲンは著しく増減するようですね。真一郎さんのそれは微弱な増減はありましたが常に一定の割合でした」
光夫は東吾に脳波と血液を調べることを許可していた。
「しかし、君は、不思議な男だな、怖くは無いのかい?ぼくは、殺人者だよ。それも、大量殺人の犯人だ」
「いえ、私はあなたに魅力を感じています。
それは、強いものへの憧れに似ています。人間は、強いものに惹かれます。それは、本能なのです。弱者の本能なのです」
光夫が声のない笑みを浮かべる。
「東吾君、君はやはり興味深い男だ。自分自身を弱者呼ばわりできるのは、自分を客観的に見ることができるということだ。そして、それは自信のあらわれなんだ」
光夫は東吾の自尊心を舐めるようにくすぐる。光夫は、東吾の心にじわじわと入りこむ。光夫の強烈な個性は、東吾にとって真一郎以上のカリスマ性を与える。
それは、光夫の鉈の強さに真一郎の剃刀の鋭さが加わった完璧な狂気がそうさせるのだった。そして、それを裏付ける富と魅力的な容貌。東吾にとって光夫は研究の対象から憧れの存在へと次第に変化していくのだった。
東吾のパソコンに文字が打たれる。
『ホルモンの分泌量は一般人と何ら変わり無く、平常時の表情、姿勢、挙動、最初の印象通り、いたって温厚。彼と話をしていると、私の学習したことは無意味なように感じるほど彼は今までの凶悪犯罪者の特徴があてはまらない。彼の人柄は、温厚そのものである。
話をすすめるうちに、私の考えが間違っているかのような錯覚にさえ陥るのである。そう、彼は殺人というものを必要悪として肯定している。本能の証しとして・・・・そして、私も彼の意見に同意せざるをえない』
東吾の経営するクリニックに一人の患者が現れた。重苦しい憂鬱な空気が部屋中に充満する。ハンマー投げの選手のような大きな身体に神経質そうな細い目、頬骨が異様に突出している。その頬骨のせいか頬は少しこけている。その目には表情がない。表情を作ることができない獣の目だ。そして薄い唇、狡猾な雰囲気を持つ男だ。その男は、少し上目遣いで東吾を睨む。
「先生、あなたには正常と狂気の境目が分かっているのですか?」
試すような挑戦的な視線を東吾に送る。その証拠に男の鼻は得意げに膨らんでいた。
外科、内科などでは患者と医師の関係は、痛い、辛い、等の訴えに対して医師が対応するという単純な相互の関係が成立しているものである。それは需要と供給の関係に似ている。しかし、精神科ではそういったシンプルな関係は存在しない場合が殆である。この質問に百%の答えを出すことは不可能だ。
「境界線なんてものは正常と狂気の間に存在はしないのですよ」
「じゃあ、先生は何を根拠に治療をしているのですか?もしかしたら私が正常であなたが異常なのかもしれないじゃないですか?」
「そうかもしれないですね。しかし、あなたは私が頼みもしないのに、ここに来ているじゃないですか、それで、どちらが正常でどちらが異常かは判断できるでしょう。こういったことは絶対的なものではなくて、相対的なものなのです。おわかりになりますか」
東吾は穏やかな表情で患者を窘めるように言葉を慎重に放つ。
男の表情が俄かに激しくなった。左脚を上下に揺する。平静を保とうと身体が無意識に反応しているのだ。脳が安定を欲している。東吾はそれを見逃さない。
「なるほど、じゃあ、私が仮に異常だと仮定しましょう。しかし、精神という実体のないものを治療することなど出来るのですか?」
「治療の手助けは私がします。しかし、治すのはあなた自身ですよ。身体の病も精神の病もそれは、共通しています。人間には自然治癒力というものがあるのです」
それを聞くと患者の男はにっこり笑い。満足げに帰って行った。もしかしたら、それは、ポーズなのかもしれない。男が東吾のクリニックを訪れたのは、今日が初めてではないからだ。来るたびに今日のような挑戦的な態度で東吾に接する。男は行き場のない怒りを吐き捨てる場所を探しているに違いない。この複雑に入り組んだ現在社会は人間の本能を抑制することで成り立っている。男はもしかすると正常に戻りつつあるのかもしれない。
そして、こうして何人もの患者をカウセリングしていると、東吾の固定観念を根底から覆すような思想を口走る患者も稀に存在する。その度に東吾は人間の無限の可能性と狂気を、そして、それと同時に自分自身の力の限界を痛感するのだった。
何故か以前の充実感がない。精神科医として確固たる社会的地位を得、自分自身満足していたあの頃の充足感が毎日の生活に感じることができないのだ。心なしか、顔色が悪くなったように思う。疲れやすく、そして熟睡することができない。東吾は、敏感に感じとっていた。精神科医としての知識がそうさせる。
東吾は患者との接触に恐怖するようになっていた。精神になんらかの障害を持っているものと話し込むと疲弊と荒廃を漠然と感じるのだ。それは、自分の精神が患者に犯されてゆくような感覚だった。以前にはなかったことだ。
光夫と真一郎の圧倒的な力は麻薬のように甘美な倒錯の世界に東吾を誘い込む。脳の奥深くに眠っていた本能が理性を包み込み肥大化する。思考できる能力は本能に限られる。もちろん、計画などできない。計画は人間にだけ許された思考回路である。思考することを欲望のままに実行する。東吾は狂気という禁断の果実を食べてしまったのだ。愛情は理性の化けの皮をはぎとりセックスに変化する。
そして、殺人への憧れを日々、募らせていくのだった。深く、暗い悦楽の世界へ
『私は今、狂気と正気の境界線が極めて不透明であることに気づき始めている。そう、それは、絶対的なものではなくて相対的なものなのだ。そして、それは、自己の見解だけが尺度の基準となるということを漠然と感じ始めている。しかし、考えは定まらない。今、私を揺り動かすのは、言葉で表現できないものだ。今、私は心地よいものを求めている。それは、強いて表現するならば、本能ではないだろうか?私自身にもそれは、断言はできない。私のことなのに・・・・・』
(18)エピローグ
鉛色の空が重苦しい。そして、蒸し暑い・・・・少年は、そんな日の午後四時五十分玄関脇にある花壇で蠢く小さな物体を発見した。それは、蟻の大群に襲われている蝶の幼虫だった。蟻を振りほどこうと何度も身体を捻るように回転させている。しかし、無数の蟻は次から次へとその身体に纏わりつく、そして、何度も何度も幼虫はその身体をぐるり、ぐるりと回転させる。止めどもなく繰り返されるその光景に少年は、異様な興奮を覚えた。じっと、それを注視する。そう、じっと。
幼虫が息絶えたのは、それから二時間後のことだった。その間中ずっと彼はそこに居た。辺りは既に暗闇へと変化していた。少年は一つの命の終わりに感動にも似た興奮覚えた。苦しみ悶えるその幼虫の姿に説明のしようがない本能のざわめきを感じたのだ。
『早く死なないかな』と思ったのだ。
アルベニス作曲のレイエンダを嵐のように弾き、そして、グラナダをその嵐を鎮めるかのようにゆったりと穏やかに弾く。その涌き出るようなガットギターの音色に周囲の空気が染まる。
まるで死体のように青白い顔色の少年は机の上の美しい硝子の容器を注視していた。その虚ろな瞳には先程までのぎらぎらとした瞳の輝きはない。しかし、十二歳の少年の特権だろうか不自然さはなかった。何かに没頭している少年の姿にも映る。
家族が寝静まった深夜三時、少年はキッチンの電子レンジの前にいた。少年の左の手には先ほどの美しい硝子の容器が握られている。その中には、カサカサと動く黒い物体が入っている。茶羽根ゴキブリの成虫だ。まるまると太っている。少年はレンジの蓋を開けると静かに、それを入れた。そして、少年が、いつも押すボタンを押す。それは、数秒走り回ると動きを止め、そして、卵の黄身が弾けるように内臓を破裂させた。美しい硝子細工を施されたその容器の内側は内臓と体液で汚される。そして、少年は舌を出して、けらけらと歪な笑いを浮かべているのだった。
吉岡浩一、それが少年の名前だ。
公園の金木犀が香りを放つ十月の初旬、光夫は街の高架下でクラシックギターを弾く少年に出会った。その、未完成の頼りない背中からは少年から青年への過渡期を無心に生き抜いている直向きささえ感じる。
そして、その高架の壁と天井に反射する美しい音色は光夫を惹きつけるのに充分だった。グラナダの雄大な曲想が街の喧騒を浄化するように鳴り響く。光夫は不思議に思う。
「君は、どうして、そんなに感動的に弾くことができるんだい?」
少年は、光夫の質問の意味がわからない。少年は無言だった。少年の正確な年齢は光夫にはわからない、しかし、どう見ても、まだ、小学生だ。光夫は、人生経験の浅い年端もいかぬ子供がどうしてこんなに感動的に曲想をつけて弾けるのか不思議に思ったのだ。それは、まるで円熟期に到達したギタリストを彷彿させるものだった。光夫は少年に興味を持った。そして、続けて質問する。
「クラシック好きなのかい?」
「嫌いだよ」
意外な答えが返ってきた。少年は思春期の少年にありがちな愛想のない返事をする。光夫は、その無垢な心に懐かしい頃の憧れを感じる。過去への憧れだ。それは思考を超越した自然な感覚だった。
「じゃあ、どうしてクラシックを弾いているんだい?」
「嫌いだけど、知らないのに嫌いだとは言えないだろ、だから知るために弾いているんだ」
少年の鋭い目が光夫を見据えた。
光夫は以前にもこれに似た解答に遭遇している。そう弟の真一郎だ。説明のできない懐かしい空気が光夫を包む。
その、意外性と思慮の深さ、この少年の解答にはその二つがバランスよくミックスされている。
光夫は思わず微笑んだ。
「何が、おかしいの?」
少年が憮然とした表情で光夫を問い正す。
「悪い、悪い、気を悪くしないでくれ・・・・君は天才だな」
少年はそれを聞くと無言で満足の微笑を浮かべる。
一陣の風が少年と光夫の身体を擦り抜けるように吹く。
人間の陳腐な知恵を嘲笑うかのように時間は静かに、そして、ゆったりと流れてゆく。
狂気、それは、もしかすると人間の最も正常な精神状態なのかもしれない。そしてそれは神から選ばれた人々に永遠に受け継がれていく。
今日、光夫は東吾の入院している精神病院を訪れた。東吾は、その病院の特別室に入院していた。私立病院の特別室は、まるで豪華なホテルの一室のように部屋の隅々に装飾が施されている。
「やあ、元気かい?」
光夫は、優しく微笑む。
「はい、まあ・・・・」
東吾は、少しはにかんだ様子を見せる。
「だから言っただろ、ぼくに接触するのは、やめておいたほうがいいって」
「光夫さんと、真一郎さんが言ってた。大事なことってこのことだったのですか?」
「ああ、そうだよ。ぼくも、真一郎も、君のことを百パーセント信じていたわけじゃない君がいつ裏切るか分からないじゃないか、だから僕達は、君をこちら側の人間にする必要があったのさ、だが、ぼくは、君に好意を持っていた、おそらく真一郎もそうだろ、だから君へ助言をしていたのさ、もう係わり合いにならずに、自分の分をわきまえて生きていけとね。思考回路というのは伝染するんだよ。伝染病のようにね。それは、学校では教えてくれない。東吾君からだと精神の異常は伝染するという言い方かな。まあ、どちらにしても、君は、僕達に影響を受けて、今ここにいるというわけだ」
光夫は、少し目を伏せ、軽いため息をつく。
「はい、そうです。ぼくは、怖いのです。私は今、何も表面的には、正常な精神の者となんら変わりはありません。しかし、実は、人を殺したくて仕方がないのです。私は自分からすすんでこの病院に入院しました。それは、自分が殺人者になることを防ぐためです。私は、苦しいのです。怖いのです。自分の意思とは裏腹に人を残忍な方法で殺したいのです。
独りでいるとその場面を想像して身震いするのです」
東吾は、震えていた。貴族のように上品だった容貌は、まるで老人のように覇気がない。脳の状態は顔の表情に如実にあらわされる。それは、筋肉にも現れる。身体全体が少し硬直しているかのように硬く感じる。
「ぼくは、どうすればいいのですか?」
東吾は、光夫にすがった。それは、精神科医のプライドをかなぐり捨てた発言だった。
光夫は、無言で狂気の笑みを浮かべる。
「君のしたいようにすればいいんだよ」
東吾は、そこで泣き崩れた。
「助けてください」
「だから、言っただろ係わり合いにならないほうがいいって」
光夫は、深いため息をつく。
「君も、知っているように、精神の傷というものは身体の傷のように簡単に治りはしない。
脳に刷り込まれるのだからね。傷というよりそういう脳に変化しちゃうんだよ」
「・・・・・・・」
「不可能だ。治す必要ないじゃないか、思うがままに生きる。人間以外の野生動物は、そうやって生きているんだからね。違うかい?」
東吾は、すすり泣く。
「どんなに硬い物体でも、より硬い物体に接触すると傷がつくだろ、君は、今まで自分より硬いものに遭遇しなかったんだ。今まで、君は、傷をつける側の人間だったんだ。それが、より硬度の高い人間と出会って傷をつけられたそれだけのことだよ。ぼくと真一郎の関係は、同じ硬度だったのさ、だから、二人とも傷がついた。いや、ぼくの方が、最初の頃は、ほんの少し柔らかかったかもしれない。言い換えれば、影響しあったのかな」
光夫のその言葉に東吾は、うな垂れるだけだった。
「どうして、ぼくは、あの夏、あそこにいたんだろう、あそこにさえいなければ、あなた達に出会わずにすんだのに・・・・・」
東吾は頭を両の手で抱え真一郎と出会った事を悔やむ。
「違うだろ、出会っていても、君が深入りしなければ、このような結果にはなっていなかったはずだ。しかし、人が運命の分岐点に差しかかったとき、人は、それを自分の意思で変えることはできない。君のせいじゃないよ。
運命なんだ。それが、君の人生の運命なんだ。君は、生まれた瞬間から今日という日がくることを約束されていたんだよ。そう、明日も明後日も、そのまた次の日もね。東吾君、人生に、もしっていう言葉はないんだよ。もし、あの日真一郎に出会っていなかったらと考えるかもしれないが、そんなことは、ありえない空想の世界でしかないんだよ。常に、人生は現実なんだ。たった一つの現実の世界しかないんだ。そうだろ?君がもし、秀才じゃなく天才なら今、君は、ここにいないよ。でも、これも空想の世界でしかない。だって今君は、現実にここにいるんだから。同じことを繰り返すが人生にもしという言葉は、ないんだからね」
「では、ぼくの生きる道は、もうないのでしょうか?」
光夫がその言葉に優しく微笑む。
「何を言っているんだい、一体何を悩んでいるんだ。君ほどの男が・・・君は、自分を狂人と思っているのかもしれないが、そうすると、ぼくは、どうなるんだ。君は、ぼくのことを狂人と言うのかね、心外だなー君は、今最も正常な人間になりつつあると、発想の転換は、できないのかね。人間は、過去を変えることはできない。しかし、今から先の人生は、いくらでも変えることはできる。運命の範囲内でね。極端に言うと一秒先から変化できるのだよ。ほら、今も一秒を最小単位として、時は、刻まれているじゃないか。あくまで生活レベルでの最小単位だよ」
その、優しさの中に見え隠れする人間味のない言葉に東吾は身震いした。
「光夫さん・・・・やはり、あなたも悪魔ですね。もう、いいです。今日はありがとうございました」
光夫は、東吾の担当医の西村に東吾の病状を聞く。
「東吾君は、どんな様子ですか?」
浅黒く少し頬の痩けた鋭敏な雰囲気を持つその医師は一重の鋭い眼光を光夫に浴びせる。
「失礼ですが、あなたは?」
「ああ、私は、彼の友人です。近田孝雄といいます」
「あ、あなたが、失礼しました。東吾から話は聞いています。お身内の方以外にはそういったことはお話できないものですから、でも、あなたにならいいでしょう。実は、東吾と僕は大学時代からのつきあいなんです」
西村は、その鋭い表情を、まるで氷が一瞬のうちに水に変化するように和ませた。
「いや、ね。あいつが入院させてくれっていうもんですから、入院さしてるんですよ。何も異常なところはないし、投薬などもしていないんです。うちの、一番高い特別室に入ってるんですけどね。何を考えているんだか、僕には、わかりません」
東吾の友人のこの医師は東吾の脳の変化には、気づいていない様子だ。
「ああ、そうですか、彼は何も言ってませんか?」
「誰が、どう言っても退院させないでくれって昨日言ってましたけど、近田さんのほうからも言ってやってくれませんか、あいつはあなたのことを崇拝しているみたいだし、あなたの意見なら聞くんじゃないかな、友人としてお願いします」
そう言うと西村は頭をほんの数ミリ下げた。
「それが彼にとって吉とでればいいのですが」
西村は、光夫のその言葉にほんの少し頭を傾げる。
「諺にあるじゃないですか、人間万事塞翁が馬っていうのが」
「はぁ・・・・・・」
「まあ、東吾君をよく診てあげてください」
光夫は、西村に深くを話さなかった。西村は平凡な人間だ、物事を深く考えず表面的なことでしか、人を判断することができない。虚飾と虚栄の入り混じったその鎧を脱げば、後に残るのは、砂上のプライドだ。
光夫は、病院を後にすると、女との情事に耽った。
翌日の朝、遅い朝食をリビングで摂る。何故か、父親の骨上げの場面が光夫の頭を支配する。筋肉は、焼き尽くされ、跡形もない。あるのは骨のみ。脳も焼き尽くされ、空洞となった頭蓋骨がやけに小さく感じる。木と竹の箸を持ち、あられ菓子のように脆くなった骨を砕きながら骨壷に納めていく。
頚椎の二番目の骨がまるで胡座をかいた仏のように印象深い。すすり泣く祖父と祖母の声、それは御影石で囲まれた部屋に乱反射し光夫の聴覚に抉るように入り込んだ。少し不安定な自身がいることに光夫は気づいた。
「ふー・・・」
生温かいため息が、ほんの限られた領域の空間を震わす。
その骨壷は、今光夫の部屋にある。白い骨壷の蓋を開くと、砕かれた頭蓋骨の上に鎮座する頚椎の二番があった。光夫は、それを右手の人差し指と親指で摘むと口に入れる。そこには温厚な青年の姿はなかった。雄の本能にたぎる獣がそこにはいた。殺戮と破壊の本能が光夫を急かし始める。
女を犯し、そして、損壊し、食らう。食らうのは食欲のためではない、愛が強すぎるのだ。本能が強すぎるのだ。自分の身体に摂り込みたいと思う程の愛情が食らうという形で具現化されるのだった。その欲求が頂点に近づいたときに出会った女は、その愛情を一身に受けることができる。
数十万年という時間は人という生物を完全な知的生命体にするにはあまりにも短すぎるのかもしれない。
涌き出る欲望を抑え光夫はベッドで休息をとる。光夫の交感神経と副交感神経が交錯しようとする瞬間、その出来事はおこった。身体がずしりと重くなる。動かない。すると、どうだろう、横たえた身体の背後から女の腕が光夫の首の上を通る。はっきりと女の気配が感じられる。髪の毛の長い女だ。光夫の背後に横たわり身体を密着させる。
「これが、金縛りか」
光夫は、その生まれて初めての感覚に恐怖するどころか驚喜するのだった。
「おーい、これからどうするんだ?」
光夫は、背後の女に問いかける。
女は、しばらくすると消えてなくなった。
同時に身体の自由も戻る。その直後に、全身の立毛筋が緊張する。
不思議な感覚だった。
東吾は、病室のソファの上で、悶々としていた。飾りっけの無い鉄格子の貼られた窓とは対称的にこの部屋は豪華な調度品で埋め尽くされている。しかし、東吾には、この調度品を楽しむ余裕などなかった。東吾は大脳辺緑系からの身体に染み渡るような本能のざわめきに苦悶していた。大脳辺緑系、それは、脳の奥深くに位置をする本能を支配する領域だ。理性を司る大脳皮質は衰弱し、かろうじて東吾を現実世界にとどまらしている。 鉄格子の貼られた窓ガラスからチューリップの花の群れが視界に入る。揺ら揺らと風に揺れる。それは、幼い頃、公園の花壇に咲いていたチューリップと同じはずなのに、あの頃のように鮮明で煌びやかな印象はない。
そこにあるのは悪夢のような現実だけだった。赤、青、黄、原色のその花の色は、東吾の本能を高揚させる。その中心に漆黒の花が他の花とは違った揺れを見せる。黒いチューリップの花が東吾を狂気に誘う。まるで、東吾に手招きするかのようにその長い茎を前後に揺らす。陽炎のように視界が歪み空間が歪む。手が震える。震えを止めることはできない。上腕に痒みが走る。その上腕部を掻いても痛みが鈍く感じる。まるで弱い麻酔にでもかかっているようだ。それは、極限状態に措かれた人間の防衛反応にも似ている。
「西村、あのチューリップどうにかしてくれ」
「チューリップ?」
西村は、話の意味がわからなかった」
「ああ、窓から見えるチューリップだよ」
「ああ・・・あれか、一体どうしたんだ」
「黒いチューリップが手招きするんだ。こっちにこいって」
「お前、何を言っているんだ。黒いチューリップなんか、あるわけないだろ」
東吾は返答しない。
「おい、東吾、どうしたんだ」し
「ああ、何か自分の周囲だけ、空間が違うように感じるんだ」
「しっかりしろよ」
「うん」
西村は、東吾の様子がおかしいことにこのとき初めて気づくのだった。
「光夫さん、とうとう、幻聴と幻覚が僕を襲いはじめました。黒いチューリップが手招きするんです。精神医学では、幻聴と幻覚は側頭葉の機能障害が起因していると言われています」
東吾は自分自身を分析していた。
「いいじゃないか、黒いチューリップか、僕も見てみたいよ」
東吾の表情が前回より落ち着いているように光夫には感じられた。
「光夫さん、笑わないで聞いてくださいね。昨日、母が見舞いに来ました。ぼくの母親は、今、五十八歳です。ぼくは、一瞬ですが母に性欲を感じてしまったのです。行動には移しませんでしたが、ぼくの理性は本能に覆い尽くされてしまいそうになっています。ぼくは、自分がこの立場になって初めて理解していることがあります。大脳の働きが弱るとその奥深くにある本能を司る部分、大脳辺緑系が台頭してくるということを。細かなことを思考することができないのです。そして、食べているときと、自慰にふけっているときだけは、安らかな気持ちになるのです」
「東吾君、死んだらだめだよ」
光夫は、東吾の死を直感した。
「光夫さん、人間は何の為に生きているのでしょうね?肉体のピークは二十代の前半に終了してしまいます。人間の良い時期というのは、十代の後半から二十代の前半というほんの限られた時間です。それ以前と以降は惰性で生きているといっても過言ではないと思いませんか?」
「うん、確かにそうだ。東吾君、死の最初の段階は何だと思う?」
「何でしょう?」
「それは、痛みだとぼくは思っている。肉体的な痛みが死の恐怖を人間に学習させているのだと思うんだ。痛みを知らない兵士は死の恐怖がないようにね。恐怖からの逃亡が生きるということだとぼくは思うね。でも、君も知っているように真一郎は死を選んだ」
「そうですね」
「真一郎は何故死を選んだと思う?」
「何故でしょう。私にはわかりません」
「天才に共通するもの、それは自信だ。根拠のない自信が天才には必ず存在する。そして、その源は恐怖を感じることのできない脳なんだよ。恐怖を感じることのできない人間もこの世には、存在するということだよ。東吾君」
「はぁ・・・・・」
東吾の衰弱した大脳皮質は、その意味を即座に理解することができない。
「東吾君、まだ、わからないのかい?試してみたらいいんだよ。日本は良い国だ。一人くらいだったら殺しても死刑にはならないよ」
分厚い大理石のテーブルの上にはまるで静脈血のように赤く濃厚なワインがベネチアングラスの中に漂っていた。部屋の空調の風に煽られその豊潤な香りは部屋の隅々に行き渡る。シルクの段通の絨毯は白熱灯の灯りを反射している。金の艶消し塗装の二十号の額の中にはピカソが鎮座する。そして三十畳程度のその部屋の東にはフルコンサートサイズのスタンウェイがある。
男は特大サイズのソファに腰を降ろし、そのグラスに手をやる。まるで、吸血鬼が血液を飲むように少しずつ体内に注ぎ入れる。品の良い調度品がバランスよく配置された豪華な部屋だ。
男がピアノの前に座るとリストの愛の夢が奏でられる。ゆったりとそして、激しく愛の情念を表現する。四分弱その旋律は奏でられそして、無となる。
とても、違和感があった。この部屋はとても違和感を感じる部屋だった。部屋の調度品は品よく配置され申し分ない。豪華で品格のある部屋だ。しかし、何故か途方も無い違和感を感じざるを得ないのだ。
そして、もう一つ、部屋があった。無垢の大木を輪切りにし丹念にペーパーがかけられ仕上げられたそのテーブルの上には何の変哲もない国産の超高級ブランデーが封を開けられていた。その横にはカルチェのサングラスとピアジェの腕時計が無造作に置かれている。羊毛の段通の絨毯が一面にしかれ、イタリア製の飾り棚の中には高級時計が並べられていた。西の方角には巨大な水槽があり無数のコバルトブルーのディスカスが漂う。ゆっくりとした動作でその男は部屋を往来する。部屋の広さは四十畳を越える。そして、この部屋もまた、とてつもない違和感を感じる部屋だった。
その理由は簡単だった。この部屋は刑務所の中にあった。しかも受刑者の部屋なのだ。
「真一郎、東吾は死んだよ。」
その二つの部屋の主は真一郎と光夫だった。二人はお互いの部屋を自由に行き来きすることができる。もちろん、外出も自由だ。
二人は今、刑務所に服役している。といっても服役者の名簿に二人の名前はない。真一郎はホテルの窓から飛び降り死んだことに。光夫は行方不明ということになっている。二人の戸籍は抹消されている。ここは二人の新しい住まいなのだ。そして、待遇はVIP待遇だ。
「そうなんだ、優秀な男だったんだけど」
真一郎は無表情だった。
「死因は?」
「自殺だよ」
「そうか、」
真一郎はそれ以上は光夫に問わなかった。というよりも関心がないようだ。
二人の仕事は外貨の獲得だった。世界のマーケットで二人の頭脳は、そのほんの一部を働かせる。
国家権力は彼らを罰することよりも利益を優先したのだ。そして、二人の行為は今後も容認されるだろう。
二人に利用価値のある間は・・・・・
了
(参考文献)
津山三十人殺し 筑波昭 草思社
美しき拷問の本 桐生操 角川書店
バイブレーションヘッド(震える脳)