火星との距離はどれくらい

 火星の最大接近。
 いかにも好きそうなイベントが控えているのに、一切口に出さないのはどうしてなんだろう。
 こいつは一生、火星という惑星にとらわれ続けるつもりなんだろうか。それを悪いと言うつもりはない。生活に支障をきたすようであれば考えものだけれど。そんな調子じゃ、帰ってきた彼女も帰ってしまったあの子も心配するんじゃない。そう、口出しをするのもどうかと思うし。
 だから「今日の夜、行くぞ」と声をかけられたのには驚いた。
 どこに、も、何をしに、も自明のことだと言わんばかりに、普段通りの仏頂面でじっと佇んでいる。廊下の真ん中で、邪魔者極まりない。
「……スイちゃん。どういう風の吹き回し?」
「別に」
 じゃあ、どうしてまだこっちを見てるんだよ。
 言いたいことがあるけれど言いたくないから察して欲しいだなんて虫が良すぎる。
 と思いつつも了解の返事をしてしまうのだから、ぼくだってたいがい、こいつに甘い。


 ビルの最上階にあがる。とっくに展望台ブースは閉館している時間帯だ。足元のライトがぼんやり光っているだけなので、段差で転ばないようにそっと足を進める。
「仕事、残ってないの」
「終わらせてきた。お前は」
「そりゃーボクもだけど。あのね、スイちゃんはもっと休んだ方がいいと思うよ。ボクを誘うのもいいけどね」
「……」
 最近は泊まり込みが続いていて、もう何週間とアパートには帰っていない、と誰かが噂しているのを耳にした。
 噂じゃないんだろうな。思い出したくないことを思い出してしまわないように別のことに没頭するのは、昔からのこいつの癖だ。悪い癖だと思う。とても。ものすごく。
 展望台の人感センサーは切ってるんだろう。普段なら点くはずのライトは点かないから、それぞれの端末のライトを起動させる。あまり明るい光に目を慣らさない方がいい、というスイちゃんの注意に従って、地面に向けて持つことにした。
「火星にも生物が棲息している可能性があるという話、聞いたことがあるか」
「え? えっと、水があるとかあったとか、そんなの?」
「あぁ。水の流れた跡が発見されたと一時期話題になったろう。月の次は火星に行くという計画もあるからな。そこに人間の住む余地があるのかどうかを探ろうと。途方もない話だが」
「火星って、月とは全然違うんだ、やっぱり?」
「まず距離がな。片道八ヶ月はかかると言われている。それだけの長旅に耐えうる備えが必要になるな。まぁ、仮に火星に生物がいたとしても、人間の心身が火星の環境に適応できるかどうかが一番の鍵になるんじゃないか」
「なるほどね。……意外だなぁ」
「何が」
「スイちゃんのことだから、火星に生き物がいるわけないだろ、って言うかと」
「……あいつが居たのだから、太陽系内の惑星に何かが居てもおかしくはないだろう」
「そ……っ、か」

 これ、聞いちゃいけなかったかも。
 気まずさを覚えながら、スイちゃんの後をついて、ガラス張りの近くに移動した。

「良かったな。晴れている」
 ここ最近の天気からすれば珍しく、雲はほとんど出ていない。きょろきょろ首を動かしていると、スイちゃんの指がこっちだ、とガラス張りの一角をさした。
「わ! 赤いねー」
「火星だからな」
 小さい月のような、オレンジ色のかかったような光がぽつんと、南寄りの空に浮かんでいる。めいっぱいの自己主張には、いじらしささえあった。
「約二年二ヶ月を目処に地球に接近すると言われている。自転の関係だな。
 太陽系、言えるか」
「えぇ? すい……水金……地火木、土天海冥」
「情報が古い……」
 冥王星は外されたんだが、と表情のない表情を向けられた。悪かったね、専門じゃない事柄には疎くって。
「火星は地球と近いと言えど、惑星レベルでの話だ。今回の接近は五七五九キロほどだそうだ」
「今回は? ……あ、そういうこと。回るスピードが違うから、追いついちゃうときに一番近くなるんだ」
「ご名答。一大天体ショーと言って騒ぐ連中の気持ちが分からん訳でもないが、所詮は太陽系の中の人間の起こす騒ぎだな」
「ひどい言いようだねえ」

 お前は思わないか。
 そう問う声は冷え切っている。
 空調を切っているのに、さえざえと響く。

「奇跡だどうだと言ってみても、これほど小さく微かなものだと」
 その言い方はまるで、「天体ショー」に向けたものというよりは。
「……全てが些末なことだろう。あっという、間、だ」
「大丈夫?」
 スイちゃんを遮って、僕はぐいと顔を近づけた。弾かれたようにスイちゃんは少し仰け反る。どうしてそんな言葉をかけられているのか、自分じゃまったく見当がついていないという顔だった。
「…………何がだ」
「うん。たぶん大丈夫じゃないよね」

 少し笑えてきてしまった。スイちゃんではなくて、自分に。
 助けてもらってばっかりだと思っていたけれど、僕だってじゅうぶん、スイちゃんを助けてるのかもしれない。
 見栄を張っているとかプライドが高いとかじゃなくて、単純に純粋に、スイちゃんはひとを頼れないんだ。困っている誰かを助けるためならともかく、自分で自分を助けないといけないときは。そもそも頼るって選択肢を自分の中に持ってるかどうかも怪しい。

「あのさ、キミがまさかこの火星のニュースを知らないなんてあり得ないよな、って思ってね。だってボクでさえ知ってるんだもん。でも君がいっこうに話さないからさ。さすがのボクだって心配になるよ。
 ね、大丈夫? ちゃんと火星、見れるの?」

 僕に見せようとするばかりで、自分はちゃんと見ようともしない。
 誰よりも望遠鏡を覗くのが好きなはずなのに、こんなに綺麗な火星を見ないなんて、おかしいだろ。
 何となく、よりもずっと強い確信で思う。これが恒星や金星だったら、いつも通りなんだろう。
 火星だから。赤く輝く星だから、スイちゃんは、真っ直ぐに見つめることをしないんだ。
 
「見たくないの。違うよね。どうしたいの?」
「…………から」
「え?」
「見られる自信がなかった。一人では」
 伏せた目がいったん閉じられて、開く。
 控えめな照明をうつしこんだそれが、淡い水色の光を落としたように見えたのは、気のせいだろうか。
「女々しいよな。だが、……いつかは、けじめをつけなければ、と思っている」
「だとしても、ユアもあの子も、スイちゃんのそんな顔を見たくないんじゃないのかな」
 けじめだなんて、きみが悪いことをしたわけでもないのに。
 それでも真摯に火星を見つめられるようになるには必要なんだろう。そうでないと、より遠い星に戻ったあの子を見つめることなんてできやしないって考えてそうだ。
 ほんっと、ばかだなぁ。
 妙なとこ、ばかまじめだ。
「良いよ。僕、まだいるから。見れそうなら見れば。駄目なら続ければいいんだろうし」
 火星が見られるのは、何も今日だけじゃない。案外長く観測できるって教えてくれたのは、きみのプラネタリウムだよ、スイちゃん。
「何を分かったように言う」
「キミから聞きかじったことばっかだよ。腐れ縁の特権だ」
「……そうか」
 いつものように、溜息のような笑い声をスイちゃんは吐く。
 火星はまだまだ、はっきり見え続けるみたいだ。

火星との距離はどれくらい

火星との距離はどれくらい

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-07-29

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