閉じた瞼の内側に光るの冷たい光

 松本くんから電話がかかってきたのは、僕が起きようかどうしようか迷っていたときだった。明日は朝から仕事なので早く寝ようと思ってベッドに潜り込んだのだけれど、結局上手く寝付けずにいたのだ。

「もしもし」
 電話に出た僕の声は変なふうに響いた。眠っていたつもりは全くなかったのだけれど、でも、実際は半分ほど眠ってしまっていたようだった。

「寝てました?」
 と、松本くんは心配そうな声で言った。

「ううん」
 と、僕は答えた。
「上手く眠れなくてちょうど起きようかなって思ってたところなんだ。今日は昼ぐらいまで寝てて。だから」

「そうなんですか」
 松本くんは安心したように頷いた。
「久しぶりだね」
 と、僕は言った。
「そうですね」
 と、松本くんも同意した。
 
松本くんとは以前僕がアルバイトをしていた喫茶店で知り合って親しくなった。彼は僕の二つ年下で、今はマッサージチャアを販売する会社に勤めている。

「松本くんに最後に会ったのってどれくらい前だったけ?」
 僕はなんとなく尋ねてみた。
「えーとそうですね。たぶん、二年くらい前じゃないですかね。二年前の冬くらい」

 そうだった。ちょうど今から二年くらい前に松本くんが僕の家に泊りがけできてくれたことがあって、それが松本くんに会った最後だった。

「もうそんなに経つんだ」
 僕は驚いて言った。僕は東京に住んでいるのだけれど、松本くんは仕事の関係で今は大阪に住んでいて、彼が就職してからはなかなか会うことができないでいた。

「なんかそんなに時間が経ったていう感じがしないね」
 僕は軽く笑って言った。
「そうですね」
 と、松本くんも僕に誘われるようにして小さく笑った。

「どうしたの?」
 僕は尋ねてみた。松本くんと普段電話で話すことはあまりなくて、だから、何か特別な用事でもあるのだろうかと気になったのだ。

「いや、べつになにもないんですけど。ただ、さっき吉田さんの小説を読んでたら、無性になんか懐かしくなって。昔のこととか色々思い出して」

「あー。小説読んでくれたんだ」
 僕は曖昧に微笑して言った。僕は小説を書いているのだけれど、最近長編の小説を書きあげてそれをネット上に載せたので、気が向いたら読んでくれとこの前松本くんにメールで知らせていたのだ。

「まさかそんなにすぐ読んでくれるとは思わなかったけど」
 僕は嬉しくなって照れ笑いをした。

「まだ途中までしか読んでないんですけど、この小説読んでると、バイトしてた頃のこととか色々思い出しますね。バイト終わったあと吉田さんとカフェとかいったなって」

「そんなこともあったね」
 僕は相槌を打ちながら、何年か前、まだ松本くんと一緒にアルバイトをしていた頃のことを思い出した。

「また一緒にお茶とかしたいですね」
 松本くんは言ってから少し笑った。
「そうだね」
 と、僕も同意して軽く笑った。
 
 少しの沈黙があって、その沈黙のなかにアパートの外で鳴く虫の鳴き声が静けさをひきたてるように聞こえた。十月も半ばも過ぎて、夜はだんだん肌寒くなってきていた。アパートの窓からは夜の空が見えた。今日は月の光が明るくて、夜空は内側からぼんやりと光っているように青白く見えた。月はきれいな三日月だった。淡いレモン色の光が心にしんみりと感じられた。

「仕事は忙しいの?」
 と、僕は尋ねてみた。
「そうですね。相変わらずですね」
 松本くんは僕の問いに苦笑まじりに頷いた。

 松本くんの働いている会社はひどく忙しい会社のようで、二週間に一度くらいしか休みを取ることができないのだという話だった。

「それはどこか訴えた方がいいんじゃないの?絶対労働基準法とか違反してるんじゃない?」
 僕は冗談交じりに軽く笑って言った。

 すると、松本くんも「そうですね」と、笑って頷いて、それから、
「まあ、べつに忙しいのはいいんですけど」
 と、躊躇うように続けた。いくらか弱い声だった。

「何かあったの?」
 と、僕は少し迷ってから尋ねてみた。

「・・・なんか最近会社の方針についていけないんですよね」
 松本くんは言った。そう言った松本くんの口調は苛立っているというよりも、疲れているように聞こえた。
「ついていけないっていうか、会社の方向性に納得できないというか」

「そっか」
 僕はなんて答えたらいいのかわからなくてただ相槌を打った。

「・・・ちょっと前までは」
 松本くんは数秒間黙っていてからまた言葉を続けた。

「そういうの自分たちの代で変えていこうって思ってたんですけどね。色々意味のない規則とか、そういうの・・・自分たちが頑張って上までいってそれからって・・・でも、最近なんかそういう気力もなくなってきましたね」
 松本くんはそう言ってから自嘲気味に少し笑った。
 
 僕は上手い返事が思いつかなくてまた曖昧に相槌を打った。

「吉田さんは最近どうなんですか?」
 松本くんは気を取り直したように尋ねてきた。
「書けてるんですか?小説は?」

「あんまり書けてないね」
 僕は苦笑いして答えた。
「あんまり調子が良くないっていうのもあるんだけど、最近は週五回働いているから、思うように書くことに集中できなくて」

 僕は一年くらい前にそれまで働いていた喫茶店のバイトをやめた。今はケータイの販売促進をする仕事をしている。以前に比べて収入が増えたのはいいのだけれど、その反面、小説を書くために使える時間も少なくなった。

「休みがないわけじゃないんだけど、でも、その休みのときに必ずしも調子が出ると限らなくて」
「波がありますもんね」
 松本くんは労るように言った。

「まあ、でも、松本くんに比べたら全然時間はあるんだけどね」
 僕は笑って弁解するように言った。

 松本くんは僕の科白にどう答えたらいいのかわかなかったのか少しのあいだ黙っていた。そしてそれから、
「でも、また頑張っていい小説書いてくださいよ」
 松本くんは励ますように言った。
「俺、できたら読むんで」

「ありがとう」
 僕は照れ臭くなって小さく笑って答えた。

「そういえば小説といえば」
 松本くんはふと思いつたように話しだした。

「この前のお盆休み、実家に帰ったときに、会ったんですよ。偶然、街で。高校のときに一瞬だけ付き合って子に」
 僕は答えようがなかったのでただ相槌を打った。

「で、その娘がめちゃくちゃ本を読むのが好きな娘で、それで俺も影響されて本を読むようになったんですけど」
「だから」
 と、松本くんは言葉を続けた。

「吉田さんのこと、その娘に宣伝しときましたよ。俺の知り合いに小説家目指しているひとがいるって。ネットで読めるから読んでみろって」

 僕は微笑して礼を述べた。
「その娘ががっかりしないといいけど」

「大丈夫ですよ」
 松本くんは笑って言った。それから、
「その娘、今度結婚するって言ってましたね」
 と、思いついたように付け足して言った。

「もしかしてその娘が結婚して寂しい?」
 僕は冗談めかして言ってみた。すると、松本くんは小さく笑って、
「いや、そういうわけじゃないんですけど」
 と、迷うように続けた。

「・・・だたなんか色々変わっていくんだなぁって思って。環境とか立場とかそういうの」
 そう言った松本くんの声はいくらか水気を帯びて感じられた。

「そうだね」
 と、僕は頷いた。

「だけど、もう二十七ですもんね。そりゃあ、結婚だってしますよね」
 松本くんは自分自身を納得させるように言ってから弱く笑った。

 また少しの沈黙があって、その沈黙のなかに外の通りを車が走りすぎていく音が思い出したように聞こえた。

「二十七かぁ」
 松本くんは電話の向こう側で嘆息するように言った。
「二十七がどうかしたの?」
 と、僕はからかうように尋ねてみた。

「なんか自分も歳を取ったなぁって思って」
 松本くんは言ってからいいわけするように軽く笑った。

「そんなこと言ったら俺なんて二十九だよ」
 松本くんは僕の科白に、「そうですよね」頷いて少し笑った。
 
 

 電話を終えたあと、僕はなんとなく真っ暗になったケータイのディスプレイを眺めた。そうしているうちに数年の前の春の景色が今見えている視界に重なるようにして浮かんだ。

 数年前の春、仲の良い友達数人と大阪へと引越していく松本くんを東京駅まで見送りにいった。そのときみんなと話したことや、光の色や、匂いを思い出した。またみんなと会って話したいな、と、懐かしくなった。ここしばらくみんなにはずっと会っていない。

 窓の外に視線を向けると、月の光に優しく照らされた静かな夜空が見えた。銀色の光を薄く塗ったようなほんのりと輝く夜空だった。僕はしばらくのあいだそんな夜空をなんとなく眺めていたけれど、やがて瞼が重くなってきたので再び布団のうえに横になった。

 目を閉じると、その閉じた瞼の内側にさっきまで見えていた夜空の光の名残が見えた。閉じた瞼の内側に見える暗闇のなかで光の欠片は様々な模様を描いた。

 そしてそれはほんの少しだけ哀しい感じのする模様だった。ずっと昔に失ったしまった大切な何かや、昔好きだったひとに伝えられなかった言葉や想いを少しだけ思い出した。

 気がつくと、僕の意識はその思い出の光に包まれるようにして消えていた。

閉じた瞼の内側に光るの冷たい光

閉じた瞼の内側に光るの冷たい光

これから寝ようとしていたところに懐かしい友人から電話がかかってきて。なんでもない日常。過ぎ去ってしまった日々。淡い恋。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-03-03

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