チャネル・チャンネル・チャネリング~あるいは深渕脱兎の現代魔法学入門~
はじめまして。
カバラ魔術の入門書に、〈生命の樹〉を理解したければ、〈球(セフィラ)〉を擬人化するとよい、と書いてあったので、やってみました。
摩訶不思議な世界が、ちょっとだけ身近に迫ってくればいいなと思っています。
プロローグ{あるいは:世界;}
#プロローグ{あるいは:世界;}
巷にはパワースポットがあふれている。
週刊誌にはミス××大学の麗らかな笑顔とともに御利益のあるという神社仏閣が載っているし、観光誌には大自然に「癒されちゃおう」という決まり文句が綴られている。SNSには「○○に会うと元気が出る!」という人間パワースポットの報告まである。
ひとは心のどこかで、「何か」を求めているのだろうか。
「△△の母」というご当地占い師の店には連日多くの人が押しかけ、
テレビでは有名霊能者がタレントの前世や運命について熱く語っている。
人にはオーラがあって、
家には小さなオジサンが現れ、
写真を撮ればオーブが映り込む――
というのは、もはや常識の範疇になっているようだ。
史書をひもといてみても、かつては魑魅魍魎が跋扈していたそうである。
侍に斬り殺される鬼の話や、子供を食い殺す山姥の話は枚挙に暇がない。
この国には八百万の神々が住んでいるし、人は死んだらみな仏さまになる。
お正月には神社へゆき、盆暮れには祖先の墓を参る。
節分で鬼に豆を投げつけたかと思えば、ハロウィンではお化けにお菓子をやる。
こうしてみるとわたしたちは、「何か」と存外暢気にやっているようだ。
十七歳の深渕脱兎にとっても、それは同じであった。
何となく知ってはいるが、そこまで興味もない「何か」。
霊感のかけらもない深渕にとって、それらは「おとぎばなし」と変わりなかった。
#1 兎の冠{あるいは:皇帝;}
目立たないように生きる、というのが人生のモットーである深渕脱兎は、浮かず沈まずの成績をキープしながら、穏やかな高校生活を送っていた。
このまま卒業すればクラスメイトからも、いの一番に忘れられていた。
卒業アルバムを開いても、「こんな人いたっけ?」くらいの印象しかなく、ページをめくるうちに、もう忘れられている。
そんな、いてもいなくてもいい存在――それが深渕の理想だった。
なぜそうかというと、あまり理由もない。
面倒が苦手だっただけである。
問題に巻き込まれて、時間が浪費されてゆくのが嫌だった。
部屋にいて、ぼうっと空を眺めて過ごす時間こそ、深渕にとっての幸福だった。
だから深渕は考えた。
どうすれば面倒を回避できるのか。
考えて考えて考えて考えて、深渕はすぐに発見した。
面倒は、人間関係から生まれてくるのだと。
気を使ったり、使われたり、神経をすり減らして、人生が摩耗してゆくのだ!
それならば! 煩雑な人間関係を築かなければいいではないか!
こうして深渕は、人間関係そのものから、逃れることにしたのである。
しかし、会話をしない人や暗い人が逆に目立ってしまうように、人間関係においても関係を断つというのは目立ってしまう。
適度に関係を保っていたほうが、案外印象にも残らないものだ。
クラスの輪にもさり気なく交わるし、会話にも比較的参加する。
しかし、絶対に踏み込まないギリギリのラインをキープする。
同級生でありながら、背景に溶け込むドラマのエキストラのような存在を、深渕は目指したのだった。
そしてついに、憎まれたり恨まれたり好かれたり愛されたりしない――
あらゆることの対象にされない立ち位置――
そんな無意識のような領域に、深渕は自分の居場所を作ったのだ。
ノーリスク・ノーリターン。
これが深渕の編み出した処世術であった――
はずだった……
*
「ハァイ、深渕クン。ご機嫌よう」
すらりと伸びた女の足に、深渕は顔面を踏みつけられていた。
「…………」
なあんだ交通事故か、と深渕は思った。
意識が遠のいたのは、後頭部に衝撃が走ったからである――
仰け反ったときに女の顔がちらりと見えたからには、飛び膝蹴りを喰ったのだろうか?
だが、転校して間もない学校で、友人どころか知り合いさえいないこの学校で、飛び膝される覚えはないし、暴力の横行する学校かといえばそうでもなく、自由ではあるが節度を保っているように深渕には見えていた。
だからきっとこれは、不運な事故――
何か驚異的なことが起こって、運悪く、女が膝から飛びかかってきた――
としか考えられなかった。
何にせよ、深渕の身体はもんどりうって廊下に叩きつけられていた。
「『見ぃつけた』と言うべきよね、深渕クン」
女はゆっくりと足指を動かして、深渕の輪郭を歪ませる。
ご丁寧に上履きは脱いでいるので、ソックス越しに女の冷えた体温が伝わってくる。
もし事故であるならば、今なお女が顔を踏みつけている説明がつかない。
この状況は何なのだと自分に問いただしてみても、さっぱりわからないとしか返せなかった。
いや、ひとつだけ、わかることがあった。この声だ。
女の顔を見ることはできないが、声には聞き覚えがあった。
全校集会で何度も聞いたことのあるこの声は、
生徒会長・宮家輝美のものであった。
頭脳明晰にしてスポーツ万能、おまけに眉目秀麗という鋼のような女である。
「先輩……これはどういう……」
深渕はようやく声を絞り出した。
「あら、『かくれんぼ』は鬼が隠れた人を見つけるゲームでしょう?」
宮家は、恬淡にこたえる。
毫も動じない彼女からは、高潔ささえ感じられる。
「鬼ごっこ、ですか……?」
ますます意味がわからなくなる深渕。
宮家とそんな遊びをはじめた記憶もなければ――そもそも一度も会ったことがない。一つ上の学年の、ましてや生徒会長と、会話をする機会も、気も、まったくないのだった。
「3ヵ月」
「はい?」
宮家は指を3本立てて、深渕に突きつけた。
「3ヵ月よ。わたしは3ヵ月ものあいだ、あなたのかくれんぼに付き合っていたの!」
「3ヵ月……?」
そう言われて深渕が思い至るのは、この学校に転校してから、ようやく3ヵ月が経ったかなということである。
ただでさえ目立ってしまう転校生という自分を、どうやって周囲に馴染ませるか、そればかりを考えていた。
最初は難しかったが、それでも何とか以前のような、平穏な居場所を作ることができた気がしていた。
今だって教室移動のためクラスメイトの最後尾からさりげなく着いていっていたところである。
久方ぶりの平穏を噛みしめながら階段を降りきった矢先――
宮家に踏まれたのである。
「わたしの眼から3か月も逃れるなんて、不可視くんというあだ名をプレゼントしたいくらいよ深渕クン。このまま誰の目にも留まらなかったら、深渕クンは自分の一生をどうするつもりだったのかしら? いつか自分でも、自分が何者かわからなくなっていたかもしれないのよ。だとしたら、わたしが深渕クンを見つけたことは、とても意味があることだと思うのだけど――どうかしら、深渕クン」
嬉しいのか、それとも怒っているのか、宮家はまくし立てるように言った。
身に覚えのないことを咎められているようで、深渕も良い気はしない。
「人違いですよ先輩。ぼくは先輩とお会いしたことも喋ったことも――うぐっ」
言い終わるよりも早く、宮家の足に力が籠められた。
「その可能性も検証したわ。でもNO。あなたが深渕クンであるという自覚があるのなら、これは現実に起こった出来事で、深渕クンが受け入れなければならない事実なの」
この迂遠な言い回しに、深渕はよりいっそう訳がわからなくなるのだった。
*
父から入学願書が送られてきたのは、今年の1月。
「面白そうな学校だから、お前も受けてみろ」と手紙でもぶっきらぼうな父だったが、反対する理由も見つからず、深渕は言われるまま転入試験を受けに行った。
面接のみ、というやる気があるのかないのかよくわからない試験に、紋切型の回答しかできなかった深渕だが――
2週間後には合格通知を受け取った。
4月、深渕は世啓戸学園の生徒になっていた。
開校してから5年という校舎は、まだどこも綺麗だった。
中学から大学までエスカレーター式のこの学園は、全寮制ということもあって、ひとつの街のようになっていた。
それぞれの校舎も一棟一棟が巨大な佇まいであるのに、周囲には高層マンションさながらの寮棟が立ち並んでいる。
校庭や体育館、プールなどの設備施設はもちろん、図書館や講堂、武道場、弓道場、劇場、さらには小さな動物園といったほうがいいような飼育小屋まであった。
それらの合間を縫うように、緑の木立や芝生が植えられているので、学園内は整備された公園のようであり、中央には噴水広場まであるのだった。
「学費も安いから、おれも助かるんだ」
入学祝いという電話でも、父はあけすけなことを言っていた。
旅回りの手品師をして生計を立てている父に、深渕も無理は言えなかった。
これだけの施設であるのに、学費が抑えられているのは、何だかいう財団の援助があるからだそうだが、興味のない深渕には、世の中お金があるところにはあるのだなと、漠然と考えていた。
中高大一貫であるので、5年も経てば家族のように親しくなっている生徒も少なくない。
そんな中で深渕がクラスメイトに紛れ込むのは、骨が折れた。
転校生というだけで周りから意識され、よそよそしい雰囲気が漂うのである。
それでも1ヵ月、2ヶ月と時間をかけて馴染んでゆき――
3ヵ月が経つころには教室の壁紙のように、意識されなくなっていた。
クラスメイトの目にも、担任の目にも、たしかに映ってはいるのだが、まったく気に留められない存在になっていたのだ。
「むしろお前には――そっちの学校のほうが合うんじゃないか」
電話で父はそう言っていたが、深渕は穏やかに暮らせればどこでもよかった。
*
「照美! その光景は看過できんぞ!」
現実逃避のようにここ3ヵ月を思い返していた深渕だったが、耳をつんざく金切り声に引き戻される。
姿を見ることはできないが――この声も、深渕は覚えていた。
風紀委員長の小熊千得。
毎朝、高等部の校舎前で生徒に声かけをしている。
風紀委員は学園内の警察として一目置かれており、中でもトップである小熊は、正義感が強すぎて融通が利かないところが、不器用で可愛いと評判であった。
生徒会長とはいえ、生徒を足蹴にしている姿は道義的に許されないのだろう。
しかし宮家は、悪びれることなくこう宣った。
「あら、クマ。いま深渕クンに、パンツを見せてるところなの」
「な、なに!?」
「下ろしたての、真っ白なパンツよ。深渕クンにお願いされたの」
「きぃぃぃ……」
歯を剥きだしにする小熊。
またたく間に、矛先が倒れる深渕に向けられた。
「貴様っ! そんな破廉恥が許されると思っているのか!」
眼前に、ゴルフクラブが突きつけられる。
風紀委員といえば竹刀のイメージだが、小熊の場合はそれがなぜか木製ゴルフクラブで、常に帯刀して持ち歩いているのだった。
「いやいや、この学校にそんな勇気のある人いませんって! ってかそもそも、この状態でどうやって見るんですか! ぼく、先輩の顔すら見えないんですからっ!」
自分でも0点だと思う弁明だったが、これが精一杯だった。
「では、そんなところで何をやっているんだ!」
「そうよ深渕クン。これじゃあ好きで踏まれているみたい」
宮家は気まぐれにコロコロと態度を変える。
「ぼくだって、できるなら逃げ出したいですよ!」
「でも抵抗はしないのね。大人しく踏まれたままでいるっていうのは、これが趣味なのかもって勘ぐっちゃうわ」
「呆然としてるうち、抵抗するタイミングを見失ったんです」
「ふむ――話がこじれているな――」
小熊は、ゴルフクラブを納めた。
情状酌量の余地ありという、大岡裁きだろう。
融通が利かないと聞いていたが、人の話はちゃんと聞いてくれるようだ。
「ありがとうございます。ついでに――生徒会長に足をのけるよう言っていただけると助かるんですが……」
深渕の懇願にも、宮家は微動だにせず、ただ淋しそうにしているだけであった。
「クマにも踏んで、実感してもらいたかったのに」
「照美がこんなことをするなんて――いったいキミは何をしたんだ?」
「それがわからないから、困ってるんです」
「あら、無自覚も度が過ぎると、害悪でしかないのよ――深渕クン」
悩める深渕に、宮家の冷やかな声が浴びせられた。
*
数日前のことである。
自販機で買ってきたパック珈琲をすすりながら、深渕は前の席の会話に耳を傾けていた。
クラスメイトの大安行雲が、午後の授業の小テストに自信がないと言い出したのがはじまりだったが、話は二転三転して、今は哲学教師の物真似をしている。
目が合えば誰でも友達という大安に比べると、ひねたところのある襟蓮冷児が、皮肉たっぷりに合いの手を入れる。
すると彼らと幼馴染の水真羊も「言い過ぎよ」と言いながら一緒になって笑うのだった。
「そういえば社会科の黒生先生、学校辞めるらしいぞ?」
教師つながりで思い出したのか、襟蓮が話題を切り出した。
「そうなの? おれあの先生嫌いじゃなかったけどな、変な話いっぱい教えてくれるしさ」
「聞いた話だと、生徒会長と揉めたらしくて、いよいよ首にされるんだってよ」
「仲が悪いってうわさ、本当だったんだ」
「ひどい話よね、生徒会長を敵に回すと学校にいられないなんて。これで何人目?」
ふくれ面で抗議するのは水真である。
「でもなぁ、生徒会長が厳しいのは教師にであって、おれたちにはむしろ甘いくらいだぜ?」
「それは大安が、学園にとって無害だからよ。大安くらい単純だったら、生徒会長だって気が抜けちゃうわ」
「何だよそれ、褒めてんのか?」
「そうよ大安、敵を作らないなんて得な性格してると思う。その点わたしは、ちょっとでも気になると、突き詰めなきゃ気がすまないの。たとえば、靴下が左右で違うものを履いていたりしたらとても気になる。そういう柄なのか、ただ間違えたのか、実はもっと深い理由があるんじゃないかとかね」
「あ~、何となくわかるな」
大安が納得していると、襟蓮が苦笑しながら割って入る。
「それは話が違うだろ?」
「一緒よ。生徒のほうが先生を辞めさせるって、いったい何様って思わない? 生徒会長は学校を自分の城だと勘違いしてるのよ。ここはわたしたちの学校なんだから。何でも生徒会長の思い通りになるって悔しいじゃない」
「ってことは、水真は生徒会長に敵対するってことか?」
「良く思ってない生徒もいるってこと」
意思表明をできたことに満足したのか、水真は得意げな顔をした。
「生徒会長に喧嘩売って辞めさせられた生徒は、まだ聞いたことないな」
「わかんないぞ。生徒会長のことだから、誰にも気づかれないように存在を消されていてもおかしくない」
「突然の転校で、挨拶もなしにいなくなるとか、ありそうな話!」
「転校するやつの理由なんて、わかんないからな!」
転校の話で盛り上がりはじめたので、転校生の深渕もそっと話に混じってみる。
こういうときは、あえて飛び込んだほうが印象も薄くなるのである。
「たいてい家庭の事情だと思うけどね。親の転勤とか」
「ま、そりゃそうだよなぁ~」
大安の相槌で場が白けると、ちょうどチャイムが鳴った。
*
「あれぇ~」
温もりのある声に包まれて、深渕はふたたび我に返った。
「もしかしてぇ、その方が深渕さんですかぁ?」
階段をゆっくりと降りてくる足音も聞こえる。
この声も聞き覚えがあった。
『司書室の天使』と名高い図書委員長の松里雛だろう。
この学園は知識を重視しており、その宝庫である図書館も重要施設となっていた。昼休みには図書館を宣伝する校内放送があり、松里が新刊の入荷状況などを伝えるのだが――それはラジオ番組のようになっていて、優しげな声と柔和なルックスが、学園のアイドル的人気を博しているのだった。
「ヒナ、あなたも踏んでみる?」
「いいえ、ご遠慮しておきますぅ」
そういうと松里は深渕の前に屈んだ。
「不思議ですねぇ――本当に、何も視えません」
感慨深そうに、しげしげと深渕を見つめる松里。
が、深渕の目には、はっきりと映るものがあった。
天使と謳われる聖女が身につける――漆黒のパンツであった。
「……ぃぃっ!」
深渕が思わず顔を背けると、宮家が足を上げた。
驚いた深渕が宮家を見上げると――またパンツが目に飛び込んできた。
純白の宮家、グレーの小熊。どれも美しい花柄が刺繍されている。
「あ、う、わ……」
どこに視点を定めたらいいのか困惑して、深渕は目が回る。
「ご褒美よ、深渕クン」
「な、な、な、何がですか!?」
「わたしたちのパンツを見たでしょう?」
「い、いや! これは見ようとして見たわけじゃなくて――」
「ひゃっ、貴様っ!」
小熊はあわててスカートの前を隠すと、顔を赤らめながら深渕を睨んだ。
不動の宮家はともかく、松里も屈んだ体制のまま動こうとはしないのはどういう訳だろう。
「見えるものは、仕方ないですよねぇ」
なんて安穏としていると、もはや性質の悪い冗談のようである。
これで生徒会執行部のトップ3が揃ったことになる。
この3人は通称〈アツィルト〉とも呼ばれていて、高等部のみならず中等部や大学部にもその名が知れ渡っていた。
もちろん深渕は、その中の誰とも会ったことも、話したこともなかった。
「さて、深渕クン。かくれんぼもここまで」
宮家の足は、今度は深渕の胸を踏んでいた。
深渕はこの理不尽にだんだん腹が立ってきた。
「だから、かくれんぼって何なんですか?」
「ずっとわたしから逃げていたでしょう?」
「さっきも言いましたけど、ぼくは先輩と喋ったこともないんですよ。逃げようがないじゃないですか」
「じゃあやっぱり、深渕クンは無自覚なのね?」
「無自覚? ぼくが無意識に先輩を避けていたっていうんですか?」
「厳密にはちょっと違うわ。深渕クンが、わたしたちに見つけることを出来なくさせていた、という方が正確よ」
「はい……?」
意味不明である。
これが言葉として成り立つのなら、それはもう催眠術とか、超能力とかを引き合いに出さなくてはならない。
「思い出してみて。深渕クンは、本当に何もしなかったのかしら?」
「何もしてませんよ! ぼくはただ、ひとりが好きだから、人と関わるのを避けていただけで」
「それも立派な行動よ」
「はい?」
虚を突かれる深渕。
「深渕クンの、こうありたいという欲求が、現実を引き寄せたのね。それってつまり、奇跡を実現させたということよ」
「奇跡、ですか?」
奇跡なんて聞いても、深渕には安っぽい言葉にしか聞こえなかった。
自分はただ、人間関係を避ける努力をしていただけで、奇跡だ超能力だに訴えた記憶はない。そんな存在するかしないかわからないものに、手を出す余裕など深渕にはなかった。
「わたしは生徒会長として、全校生徒の顔と名前を覚えているの。そして、そのひとりひとりがいったいどんな人なのかを知りたくて、全員と話をしているの。それがわたしの、生徒会長としてのやり方で、わたしの欲望。ここで、深渕クンの関わりたくない欲求と、わたしの関わりたい欲望が衝突したのね」
深渕が眉根を寄せていると、小熊が話の穂を継いだ。
「照美が探していたのは、キミだったのか――名簿には載っているのに、いつも見落としてしまう名前、何度見ても意識の外に外されてしまう名前――そんな存在がいるとは言っていたが――本当にいたなんて……」
「何を言っているか全然わからないんですけど」
「宮ちゃんの面会データを名簿と照らし合わせるとぉ、ひとり足りなかったんですぅ」
「それがあなたを意識できた最初のきっかけ」
宮家は人差し指を軽く立て、自分の唇に指先でそっと触れた。
それは癖であるかのように、自然な仕草だった。
「人間の意識は外すことができても、機械の誤作動を引き起こすほどの奇跡は、持ち合わせていなかったようね。もし、深渕クンの欲求が機械を上回っていたら、わたしは深渕クンのことを知ることもできなかった」
「…………」
「すべてが『視える』わたしにも、深渕クンをとらえることができなかった。会いに行こうとしても、途中で目的を忘れてしまうんだもの。名前ですら忘れないようにするのに苦労したわ。だからわたしは深渕クンの名前を一文字ずつ壁に貼りつけて、毎日深渕クンの名前を唱えたの。そうやれば、少しずつ深渕クンの存在がはっきりしてくるんじゃないかと思って。わたしはいつか会える日を願って、毎日毎日、深渕クンの名前を呼び続けたの。もう深渕クンなんて存在はこの世にいないんじゃないかって疑いたくなるような日々を超えて、わたしは呼び続けた。そしたらようやく、深渕クンの影を見つけることができたの! わたしはやっと見つけた深渕クンが飛んでいかないよう、踏みつけたってわけ。どう?」
宮家は上気していた。いつの間にか、肩で息をしている。
それはどこか大仰で、劇的ですらあった。しかし深渕は、
「あの……さっきから何を言ってるんですか? ぼくにそんな超能力みたいなの、あるわけないじゃないですか」
嘲笑をもってこたえる。
宮家は、深渕を蹴り上げた。
「ぐげっ――」
脇腹を圧されて、うめき声が漏れる。
ごろりと転がって、深渕はようやく戒めを解かれたのだった。
「わたしは――勧誘に来たの」
宮家は手を差し出した。
これまでとはうって変わって、軽い世間話のような口調だった。
「深渕クン、部活はもう決まったかしら?」
「ま、まだですけど」
脇腹を押さえながらよろよろと上体を起こす深渕。
「それなら決まり! 深渕クン、あなた現代魔法研究部に入りなさい」
「……げんだい、魔法?」
それは学園の皇帝としての命令であった。
この学園では、宮家照美の命令は絶対なのである。
それを破る者は、たとえ教師であっても追放されるのだ。
宮家の黒髪には、まるで王冠のように輝く、白いリボンが巻かれていた。
「歓迎するわ。わたしの〈ダート〉」
宮家はうっとりとした顔で、深渕を迎えた。
優しく差し出された宮家の手を――深渕はぐっとに握り返し、こうこたえた。
「お断わりします」
そういうと、深渕は脱兎のごとく逃げ出した。
#2 兎と月{あるいは:節制;}
名前の由来ついて親に訊いてくるように、という宿題が出たことがある。
幼くして母を亡くしていた深渕は、ちょうど旅回りから帰っていた父に訊いたのを覚えている。
「脱兎」という名前を、当時は気に入っていなかった。
多感な小学生だった深渕にとって、逃げる兎というのはあまりに弱々しく思えたからである。
「もちろん、逃げ足が速いという意味もあるけどな、孫子の兵法にもこの言葉があって――油断させておいて懐に入り、素早く攻撃に転じれば敵も防ぎきれないってのがあるんだ」
父は思いもよらぬことを教えてくれたのだった。
「勝つための作戦?」
「自分の能力をどう活かすかってことだ。足が速いといっても、兎は食われる側の生き物だからな、逃げ足を強化することで生き残りを賭けたんだ」
「じゃあずっとやられっぱなしで、逃げて生きるしかないってことじゃん」
深渕は自分の名前の救いようのなさに絶望した。
「逃げて逃げて逃げのびる人生も、おれは悪くないと思ってるぞ。知ってると思うが、おれの十八番は脱出マジックだからな。どんな困難な状況からも、あっとゆう間に逃げのびてみせるんだ。けどな……」
悲しげにうつむく息子に、父は目尻をにんまり歪ませて続けた。
「おれが敬愛する脱出王フーディーニは、100パーセント成功する準備をしてからじゃないと興行しなかったらしい。完璧に抜け出せる道を作ってから、苦しんでるフリをするとこに、面白さがあるんだな。すべての手品だってこれと同じことが言える。あらかじめ種は仕込んであって、間違いなくそうなるようになっているんだ。それを見せ方を変えたり、フリをするだけで、客は奇跡が起きたように想像してくれる。手品っていうのは、そういう想像力に支えられてるんだ」
衣鉢を披露し胸を張る父であったが、幼い深渕にはわからなかった。
「それとぼくの名前とどう関係あるのさ」
「おれの願いでもあるんだ。人生を上手く切り抜けられるようにってな」
「逃げてばかりじゃ恰好悪くない?」
「おれは脱出を成功させたら、拍手が起こる」
父の目には、ステージで浴びるスポットライトが見えているようであった。
「舞台と現実は違うよ」
「まぁ、逃げるというのも一つの道ってことだ」
「おやおや、何の話をしてるんだい」
ここで祖母が食卓に料理を運んできた。
「お義母さん、こいつにね人生を教えていたんですよ」
「まあまあ、それは大仰なことで」
会話を中断されて、深渕はそれ以上聞けなかった。
作文にして明日発表しろと言われているのだが、どうまとめたらいいか悩んでしまったのだった。
*
ティファ・麓・トグサというクォーターの同級生がいることは知っていた。
ティーン雑誌のモデルをやっているとかで、写真の撮影やテレビの収録でしょっちゅう学校を遅刻・早退していることも、同じクラスなので知っていた。
日本人離れした金髪美人で、底抜けに明るい笑顔は太陽の如く。
影の薄い深渕は近寄るだけでかき消されてしまう気になる。
だからこそ、細心の注意を払って関わらないようにしていた。
けれどどこかに、驕りがあったのかもしれない。
太陽からすればその他の人間は、光合成するプランクトンにしか見えていないだろうと高をくくっていたのだ。
とにかく、学園きっての有名人であるティファが、ホームルームが終わった直後に深渕の席までやってきて、
「あなたがブッチーですね、ワタシと付き合ってください!」
とカタコトの日本語を使ったのである。
ぽかんと口を開ける深渕の腕を、ティファはぐいと引っ張って、教室を出た。
騒然となる教室の気配を背後に感じ、深渕ははたと我に返った。
ティファは深渕を、どこかへ連れて行こうとしているようだった。
深渕のことなどお構いなしで、楽し気な雰囲気を醸している。
「どうして腕を組むのかね?」
「だって部活ですよ! 部活は青春です! 青春は堪能せねばです!」
鼻息荒く、意気揚々と答えるティファ。
肘に柔らかいものが当っている感触があるが、気のせいだと自分に言い聞かせる深渕。
「おかしいな、ぼくは何の部活にも入ってないハズだけど」
「テルミンから、ブッチーを連れてくるように言われたんです!」
といってティファが見せてくれた携帯には、『深渕脱兎を捕獲して』と宮家からのメッセージが届いていた。テルミンというのは、宮家照美のことで、ブッチーというのは深渕のことらしい。
これは宮家の差し金ということだ。
そうなるとティファもあの怪しい部活に入っているのだろうか。
しかしあれだけ人のことを見つからない見つけられないと言っておきながら、メールひとつで捕まえようとしているのだから、やはり生徒会長の悪戯に付き合わされているとしか思えない。
その上、こんなに目立ってしまっては、明日以降の生活にも絶対に支障が出る。
今後どうやって平穏を取り戻せばいいのかを考えると、深渕は頭が痛かった。
鞄だけは持ってきていたので、教室に戻らなくてもいいのがせめてもの救いだった。
何にせよ、これ以上の面倒は避けなくてはならない。
「ティファ、ぼくこれから用事があるんだよね」
「あ~ルンルンですね~」
「ティファ聞いてる? 放課後だし、もう帰りたいって言ってるんだけど」
「今日はお昼から来たんです。お仕事もないので、ワタシは学校にいたいです!」
「うん、ティファ。でもそれ、ティファの都合だよね?」
「あ~ルンルンですね~」
「ティファ、ちょっと腕を離してくれないかな」
「ダメですよ~、離すと逃げるってテルミンから聞いてます」
「そりゃ逃げるよね。だってこれ、誘拐とか拉致だもん」
「むずかしい日本語ワカリマセン」
「おやおや? ティファはずっと日本暮らしって聞いてたけど」
「あ~ルンルンですね~」
「おい、ティファ~……」
屈託ないティファは、聞く耳持たずという顔で、ぐいぐい進んでいく。
深渕はもう、ティファの恩情に訴えるしかなかった。
「ティファさん! ティファさま! ティファくん! ティファちゃん! ティファ! おい、ティファ! ティファ! ティファァァァァァ!」
深渕が絶叫したところで、
「あ~もううるさいですねぇ、どうしたですかブッチー」
ようやくティファも立ち止まってくれた。
「正直に言うよティファ。ぼくは面倒事が嫌いだからさ、部活に入る気はないし、生徒会長とも関わりたくないんだ。そうゆうことだから、もう放してくれない?」
深渕が真剣にそういうと、ティファも深刻そうな顔をして二、三度深くうなずくのだった。
「なるほどです、ブッチーの気持ちは伝わりました。すみませんです」
といって頭を下げるティファ。
そうしてまた、深渕の腕をぐいと引いた。
「でも、テルミンのお願いは絶対です」
もはや抱き着く勢いで、深渕を連行する。
「ねえ、聞いてた? 人権侵害ですよこれは」
「おまえのものは、おれのものです」
「やっぱり生粋の日本人でしょ!」
「ヤダネー、夫婦喧嘩は犬もワンワンですよ」
「この職業外国人っ」
「ワタシは部活で、汗を流しているだけですっ!」
深渕は必死に抵抗するのだが、傍からみると、仲良くふざけ合っているように見えなくもない。現にすれ違う生徒たちが、みな硬直している。
学園が誇る美少女モデルと、何だかよくわからないトコロテンみたいな男が腕を組んで楽し気に歩いているとなれば、衝撃も大きかろう。
「これ以上ぼくと一緒にいたら、変なうわさが立つぞ」
「何ですか、うわさって」
「付き合ってるとか思われたら、モデルの仕事にも響くんじゃないか?」
「ブッチーとワタシがですか? それはないですよ~」
「う……それはどうだけど」
軽くあしらわれて、自分で言っておきながら、何とも惨めな気持ちになる深渕。
「思いたい人には思わせておくしかないです。それに、恋も仕事も経験が大事です! 失敗も成功も、生きる糧です!」
「すごく良いこと言ってるように聞こえるけど……これ、拉致だからね、犯罪だからね」
「今はオープンな時代ですよ、隠さず堂々としていればいいんです。ファンのひとたちも笑顔が一番だって言ってくれます!」
「それ恋愛のことだよね? オープンでもクローズでも、犯罪はアウトだからっ!」
そう叫ぶ深渕の声が、ふと廊下にこだました。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、ここだけはなぜか閑散としている。
校舎に残る人も少なくなってくる時間帯なのだろうか。今日はコマ数も多かったので、すでに日も暮れかかっている。放課後の校舎をあまり知らない深渕は、夕焼けに染まる人気のない廊下を初めて見た。
「黄昏時ですね……」
「いつもなら部屋で夕日を眺めている時間だ」
「知ってるですか、ブッチー……この時間は黄泉へ繋がる時間です……ひとならざるものが、横切るかもです」
急に闊達さが、鳴りを潜めるティファ。
そろそろ暗くなるというのに、ここの廊下にだけ明かりもついていなかった。
「お化けが見えたら、霊能者にでもなるよ」
深渕が減らず口を叩くと――廊下奥の闇の中から、かっぽ、かっぽ、と妙な音が聞こえてきた。
ドキリとしてふたりが目をやると、誰かがこちらに歩いてきていた。
それは、ひとりの少女であった。
世啓戸学園は自由な校風であるから、指定の制服はあるものの、制服に馴染めない人は好きな服を着て良いことになっている。
だから私服で登校する者もいれば、礼服で登校する者もいる。
着物もいれば、着ぐるみだっている。
だからこんな、番傘を差したゴスロリ服の少女が校内をポックリ下駄で歩いていても、別段おかしくはないのだった。
「御前を失礼いたします」
そういって番傘ゴスロリ少女は、深渕たちの前をかっぽかっぽと音を立てながら通り過ぎていった。
すると少女の服や髪に焚き染められた香が、深渕の鼻孔をくすぐった。
馥郁に、わぁと思わず声が漏れる。
深渕がしばし残り香を堪能していると、少女はこちらが気にかかるのか、ちらりちらりと振り返り、行き辛そうにしている。
やがて、くるりときびすを返すと、またかっぽかっぽと深渕たちの前までやってくるのだった。
「先輩方……もし御用がないのでしたら、ここからすぐ立ち去ることをお勧めいたします」
番傘ゴスロリ少女は、申し訳なさそうにペコリとお辞儀をした。
「ハァイ、はじめまして。ワタシはティファ。あなたは?」
陽気に欧米風挨拶を浴びせるティファ。
番傘ゴスロリ少女も再びお辞儀をして、
「申し遅れました。わたくしは1学年の宗堂ゐゑと申します。本日転校してきたばかりの身で失礼かとは存じましたが、お声かけさせていただきました」
といって頬にかかった鬢の毛を、ふわりと払うのだった。
すると彼女のドレスを縛る、紫の帯締めの房も、またかすかに揺れた。
まるで日本人形に、西洋のドレスを着せたような小柄な少女であった。
「しゅうどういえ――じゃああなたはイエティーね」
「また変なあだ名を……」
「何とでもお呼びくださいませ、ティファさま」
「で、イエティー――どうしてここにいない方がいいですか?」
底抜けに明るいティファの笑顔は、薄暗闇にあっても眩しかった。
常人であれば見惚れてしまうのだろう。
だが、宗堂は違った。
太陽の光を浴びて輝く月のように、次第に薄暗くなってゆくこの闇の中でこそ、怪しげな美しさを放つのだった。
「間もなく、黄昏時から逢魔時になります。良くないものたちが集まっております」
「それってもしかして――」
「ゴーストですかっ!?」
ティファはその場にうずくまって、ぶるぶると身体を震わせる。
「あれ? もしかしてティファ、幽霊が苦手?」
「超怖ですっ!!」
ティファは目をつぶって両耳を塞いだ。しかし、それでは深渕から手を離してしまうことに気づいて、深渕の足に腕を絡ませてから、器用に耳を塞ぐのだった。
「すみません――怖がらせるつもりは無かったのですが――」
「幽霊の話は聞きませんー」
頑として扉を閉ざしてしまったティファ。これでは太陽も形無しである。
「あの――あなた様は……」
残された深渕と目が合い、宗堂の方から口を開いた。
深渕も仕方なく自己紹介をする。
「ぼくは2年の深渕脱兎。ぼくも転校生だから、ここのことはまだ良く知らないんだ」
ははは、と乾いた照れ笑いを返す。顔を広げるようなことはしたくないのだが、転校初日の1年生を無視できるほどハートが強くもなかった。それに、この学校のことがよく分かっていないという点では、深渕も同じ状況であった。
「お初にお目にかかります、深渕さま。宗堂ゐゑと申します」
宗堂はまた妖しげに微笑んだ。その恭しい挨拶には、見た目ほどのインパクトはなく、むしろとても素直に感じられた。
「ひとつ質問していい?」
「はい、何でございましょう」
「どうして宗堂さんは、廊下でも傘を差してるの?」
普段だったら、どんな人物に合っても知らぬ存ぜぬでやり過ごす深渕だが、こんなに素直そうな子がどうしてこんな格好をしているのか、つい気になってしまったのだった。
それは一歩間違えれば、相手を傷つけてしまう質問である。
だが宗堂はちょっと驚いたような顔をしてから、すぐにこたえてくれた。
「わたくしは未熟ですから、良くないものを防いでいるのです」
「良くないものって、幽霊のこと?」
「はい、霊避けの傘なのです……」
宗堂の顔が曇った。嫌なことを思い出させてしまったのだろうか。
ここで深渕も、失礼なことを聞いてしまったと気づくのだった。
「ぼくだって雨が降れば傘を差すんだから、似たようなものだよ。宗堂さんにとっては雨が幽霊みたいってことで――避けれるものなら避けたいっていうか」
謝るのも不誠実かなと思って取り繕っていたら、自分でもよくわからないことを口走っていた。すると宗堂も気が紛れたのか、くすくすと嗤ってくれた。
「ぼくは霊感とかないんで……よくわからないんだけどね」
「お気になさらないでください」
宗堂はひとしきり嗤うと、すうと深呼吸をして、
「ここに居るのは色情霊なんです」
と切り出した。
「しきじょう霊……?」
人魂とかラップ音とか、○○峠のトンネルは出るとか――そうゆう話ならいくらか聞いたことがあるし、死ぬ前と死んだ後では体重が21グラム違うだとか、19ヘルツの音を聞いたら霊が視えるようになるとかの都市伝説も知っているが――
色情霊とは聞いたことのない言葉であった。
「性的な理由で、現世に未練を残した浮遊霊のことです」
「性的な幽霊?」
男同士の下ネタでも聞いているようだったが、宗堂はいたって真面目であった。
「受け入れてくれる人間に憑りつき、夢のなかで――その……」
「幽霊に乱暴されるってこと?」
宗堂は、悲痛な面持ちでうなずいた。まるで身近に、被害に会った人を見てきたようであった。
「相手が霊なので、家族や友人も取り合ってくれず……悩んでいる方は大勢いらっしゃいます」
「そりゃあ――」
夢に決まってる……そう言おうとして、深渕も口ごもった。
経験者たちもこうやって「夢」の一言で片づけられてきたのだろうか。
中には夢に違いないと自分に言い聞かせる人もいただろう。
それがもし本当だとしたら、その奇妙な苦しみはどこに訴えればいいのだろう。
誰にも言えず、救われることもなく、苦しみが続くのだとしたら。
宗堂の貌はさらに重苦しいものへと変わっていった。
「襲われる感覚はとてもリアルなのです……感触もありますし、相手の顔も見えます。そして目が覚めると、強い倦怠感に襲われるのです……」
すっかり滅入ってしまった宗堂。
夢の中とはいえ、無理矢理に乱暴をされれば辛く苦しいだろう。
それに――深渕は気づいてしまった。
おそらく宗堂も、経験者のひとりなのだと。
「宗堂さんは――ここに居る霊をどうしようとしていたの?」
「それは……」
今度は宗堂が口ごもる。
それは先ほど感じた宗堂の素直さにも関係があった。
宗堂はきっと、心の優しい子なのだろう。深渕たちのことを心配して声をかけてきたように、悩んでいる人がいたら相談に乗ってあげるのだろう。そして幽霊が視えるということは――人間だけでなく、幽霊にまで同情してしまうのだろう。
「自分に取り憑かせようとしていた?」
「…………」
幽霊というものが、未練や後悔から彷徨い、苦しんでいるのだとしたら、優しい宗堂はその霊たちまでも、何とかしたいと思ってしまうのではないだろうか。
「幽霊は願いを叶えたら――成仏とかするの?」
「思いの強さにもよります……執念が強いと……ずっと離れようとしません」
それはつまり、何日も夢で乱暴され続けるということだろうか。
「宗堂さんは、それでいいの?」
「他の方が嫌な思いをしなくて済むのなら、わたくしはそれで良いと思っています」
「無理して身体を壊したりしない?」
「わたくしは、慣れておりますので」
「放っておくことはできないの?」
「いずれ誰かに憑いてしまうでしょう。でしたら、わたくしが――」
宗堂は傘を畳んだ。
その横顔は、寂しさと同時に、救済へ赴く法皇のように、どこか凛としていた。
「見なかったことにはできないんだね」
「あの方々にも、救いが必要なのです」
宗堂は何もない空間に手を伸ばした。きっとその先に色情霊がいるのだろう。
「ふうん、そうなんだ……」
深渕は迷っていた。
心にあるわだかまり、それを伝えるべきかどうか……
これ以上この1年生と話をすると、深い関わりを持つことになる。
それは人間関係を築くということに他ならない。
果たしてそれが、自分の望むことだろうか?
人間関係を断って、自分だけの平穏を作り上げようとすれば、他人に対して無関心にならなければならないときもある。他人に気を使っていては、他人からうまく使われる。優しさが裏目に出て、損な役回りを引き受ける状況もたくさん見てきた。
今の宗堂がまさしくそれである。優しさから、自分の身をなげうっている。
だからこそ、深渕がこれからも平穏を続けたいのであれば、「大変そうだけど、頑張ってね。それじゃあ」といって別れれば済むことであった。
ティファや宮家などまだ気がかりはたくさんあるのだから、これ以上の苦労を背負いこむ理由はない。
逃げて、逃げて、逃げて、逃げる。それが「脱兎」の生き方である。
だから深渕は、逃げる道を選べばいいのだった。
逃げる道を――
…………
深渕は学生鞄から、ノートを一冊取り出した。
「ぼくの父はマジシャンをやっててね、ちょっとなら真似をできるんだ」
そういうと、くるりとノートを丸めて、ティファの腕と自分の足の隙間にすっと差し込んだ。
そのままノートだけをティファの腕に残して、ゆっくりと足を引き抜いた。
目をつぶったままのティファは、まったく気づいていない。
「見事なものですね」
自由を獲得した深渕は、にこりと笑ってみせる。
「父は脱出マジックが得意で、逃げるのも一つの道だって言ってたんだ。だから――」
深渕は宗堂に近づくと、伸びた腕をそっと下ろさせるのだった。
「宗堂さんも、逃げよう」
「逃げる……ですか?」
「逃げるってのも、なかなか難しいんだけどさ」
「ですが、このままでは……」
「苦しんだり悲しんだりしている人を放っておけないというのは、わかるよ。それは宗堂さんの良いところだと思う。でもね――霊が視えるってことが、宗堂さんの存在価値じゃないと思うんだ」
「えっ」
思いもよらぬ一言に、宗堂はきょとんとしてしまう。
「自分だけが視えている世界だから、自分がなんとかしなきゃって思っているみたいだけど――そんなことはないと思うんだよね。みんな意外と強いっていうか……」
「わたくしの取り越し苦労ということでしょうか?」
「えーっと、そうじゃなくて――何ていうか、ここは……」
深渕はバツが悪かった。
それは自分が言うにはふさわしくないと思っているからだが、端的にはそうとしか言いようがないのであった。
「ここはね――そういう学校なんだ」
3ヵ月間、どうして気づかなかったのか。
私立の学校なので、公立とは異なるカリキュラムもあるだろうし、宗教的行事もあるだろうと、漠然と受け入れていた――
だが今日、宮家照美に踏まれてから急に気になってきて、昼休み中にこの学校について調べたのだ。
ネットにはこう書いてあった。
『世啓戸学園はオカルト学校である。霊感をもつ学生の保護育成を目指している』
父親に言われるまま入学したので、評判のことなどまるで知らなかったし、パンフレットにも目を通さなかった。学校なんてどこも同じだと思っていたからだ。
深渕は心に誓った。今後は取扱説明書などもちゃんと読むようにしようと。
「この学校には、霊が視える人たくさんいるみたいなんだ」
「えっ……」
これには宗堂も驚いたらしく、大きく目を見開いて、しばたたかせた。
「そう……でしたか……それは存じ上げませんでした……」
「だからさ、ここの生徒だったら、自分でなんとかできる人も多いはずだよ。宗堂さんがひとりで引き受ける必要もないよ。だから宗堂さんは、もっと他のことに目を向ける余裕を持っていいと思うんだ」
「他のこと……と申しますと?」
宗堂は思考が追いつかないのか、ぼんやりしている。
「例えば、宗堂さん自身とか」
「わたくし自身……」
「『苦しんでいる』人を救いたいっていうのは、『苦しんでいる』自分も救われたいって思ってるんだよ。だから――」
深渕は宗堂の番傘を差して、そっと手向けるのだった。
「きょうは苦しいことから、逃げよう」
「…………」
宗堂は、番傘を受け取った。
呆然としていた。何も考えることが出来なかった。それなのに――
涙が一筋、宗堂の頬を滑っていった。暗闇の中をきらりと光って、廊下へ零れ落ちた。
これには深渕もあわててしまう。
「ご、ごめん。言い過ぎたかな」
「いえ……わたくしも、よくわかりません……」
続いてもう一筋、二筋と、涙がほろほろ零れてゆく。
深渕がどうしたものかとうろたえていると、ふいに廊下の蛍光灯がついた。
薄暗かった廊下が、瞬く間に息を吹き返す。
立ち込めていた重苦しい空気も、一気に払拭されたかのようだった。
「出会ったばかりの女の子を泣かせるなんて――そういう才能もあったのね、深渕クン」
高慢な声が聞こえた。
ランウェイのように毅然と廊下を歩いてくるのは、生徒会長・宮家照美であった。
「いや、これはその……」
深渕も釈明のしようがなかったが、宮家は深渕ではなく、宗堂へ歩み寄った。
「はじめまして、宗堂さん。わたしは生徒会長の宮家照美よ」
「1学年の宗堂ゐゑと申します。大変お恥ずかしいところを」
「いいのよ、宗堂さん。深渕クンが気障なの」
そういうと宮家は宗堂の手を優しく握った。
「あなたはこれから、ここでたくさんのものを育んでいけばいいの。あなたのエーテル視は、まだこれから。ただ、深渕クンのいうように、色情霊は放っておいて構わないわ。あれはエーテルにこびりついたただの残滓。魂とは程遠い、幻影でしかないのだから。そうね……ちょうど今、レイがつかんでるあのノートみたいに。形だけの残り滓。そんなものに惑わされるのは、惑わされたいという思いがどこかにあるからだわ。けど――癪だわね」
宗堂から手を離すと、今度はティファへ歩み寄る宮家。
頑なに閉ざしているティファの頬に、そっと手を触れた。
「へあっ!?」
驚くティファに、宮家は優しく告げる。
「深渕クンに逃げられてるわよ」
「わおっ!? わおっ! わおっ!」
腕から落ちたノートと、宮家と、深渕をそれぞれ見て大袈裟に驚くティファ。
「レイ、あなたの後ろに悪霊がいるの。追い払ってちょうだい」
「ガッ、、、、、、デェェェムッ!!!」
ティファは大声で叫んだかと思うと、振り向きざまに手を胸の前に突きだした。
すると、ティファの手の先、2メートル四方の空間がぐにゃりと曲がった。
いや、歪んだ気がしただけだった――しかしそこに……
この世のものとは思えない、威圧的な、驚異的な、怪異的な何かが、そこから覗いている気配を、深渕は感じたのだった。
それは、宮家の目にはこう視えていた。
突如現れた球状の空間。
そこから光る人型が浮かんできた。
人型は外界に巨大な手を伸ばして、色情霊を球体に引きずり込んだ。
すると球体は消滅し、もとの廊下へ戻ったのだった。
ただ、球体の出現に巻き込まれた廊下のスチール棚は、断層のように一部がズレてしまっていた。
そのズレは、深渕の目にもはっきり見えていた。
「わたしのゐゑを悩ませた罪は赦せない」
「ど、ど、どうですか、もういないですか?」
震えながら、深渕にすがりつくティファ。
どうやらティファに幽霊は視えていないらしい。
しかし深渕も、たった今起きた現象にすっかり怯えていた。
「てぃ、ティファ? ……今、何したの?」
「ファッキンゴーストを異界送りしてやったですっ!」
「異界送り……」
またしても馴染みのない用語である。
「ティファさま、お見事でございます」
そういってティファを讃える宗堂は、もう涙は止まっていた。
窓の外には、すでに月が燦然と輝いていた。
#3 兎の眼{あるいは:女教皇;}
教室の騒動を鎮めたのは、クラス委員長の水真羊だったらしい。
ティファと深渕について憶測が飛び交い、収集がつかなくなった教室を、水真が黒板を叩きつけて黙らせたそうだ。
「明日わたしが直接聞くから、みんなは黙って帰りなさい!」
鬼気迫る水真に、怖気づいたクラスメイトはようやく教室から出ていったとか。
今日、深渕が登校してから、ずっと衆目を集めているのに誰も話しかけてこなかったのは、そういう理由があったのだった。
「さて、深渕くん。……えっと、深渕くんでよかったよね?」
放課後の教室で、水真は深渕の前の席に座ると、親し気に話しかけた。
話しかけておきながら、名前に自信がなさそうなのは、これまで深渕が影を潜めていたからだろう。
そんな深渕が、太陽によって白日の下にさらされたのだ。
当のティファは仕事で一日欠席なので、深渕だけが教室に残ることになってしまった。
面倒からは「逃げる」深渕だが、今回は正直に話して、すみやかに誤解を解かなければならない。
水真の一瞥でクラスメイトは退室しているので、残っているのは水真と深渕、それから水真と幼馴染の大安行雲、襟蓮冷児である。
「あれは生徒会長からの呼び出しだったんだよ」
口火を切ったのは深渕である。
水真の隣の席に座っている大安は面食らって、
「あん? そりゃあどうゆうこった?」
「何ていうか、生徒会長に目をつけられたみたいで……ティファは生徒会長から、ぼくを連れて来るように言われてたんだ」
そういって昨日のあらましを説明すると、深渕も少し清々した。
あの後、ティファは仕事の呼び出しで急きょ帰宅。
宮家も校内放送で呼び出されてしまったので、残された深渕は仕方なく宗堂に学校を案内した。
人間関係は面倒だが、宗堂とは程よい距離感で会話ができたように思う。
恰好は奇抜なものの、性格はしとやかで好感が持てた。
そういえば宮家は去り際に、宗堂にも部活の勧誘をしていた。
こういうところを見ると、手当たり次第に声をかけているのかとも思えてくる。
「じゃあ深渕くんは、ティファと付き合ってるわけじゃないのね?」
「もちろん」
「なら良かった。ほら、ティファって有名人だから、恋愛事ってうるさいのよ」
「ティファなら、そうなるのもわかるよ」
「人の恋愛について、とやかく言いたくないんだけど、ティファの場合ちょっと事情が違うっていうか、他の人たちの目もあるから……ごめんね気を使わせちゃって」
「ぼくも誤解を解きたかったから、水真さんが話してくれて良かったよ」
と、ふたりが和やかになってきたところで、大安と襟蓮が口をはさんだ。
「生徒会長の勧誘ってことは――やっぱあれだよな?」
「ああ。現魔部だな」
「えと、その、げんまぶ、って何なの?」
「現代魔法研究部、略して現魔部。CCCに基づいた、〈生命の樹〉の再生を目指してる――ってちゃんと活動してたんだな」
「現代、魔法……ふむ……」
昨日も宮家の口から聞いた怪しげな単語に、深渕はふたたび眉をひそめた。
「あのさ――深渕くんってここに来てから3ヵ月くらい経ったけど、この学校のことどれくらい知ってるのかな?」
それは頭の速い水真らしく、二重の意味をもった聞き方だった。
普通に聞けば、学校にどれくらい慣れたかということになるが、今の深渕にとっては、この学校がどういう学校で、どういった人たちが集まっているか、知っているのかということだった。
「霊感の強い人が集まってるってことは、昨日ネットで調べたよ」
「やっぱりそうなんだ! もしかすると気づいてないのかなって思ってたのよ。ほら、この学校って校内に向けてはあんまりアナウンスしないのよね。あえて普通にしているっていうかさ」
「あ、そうなんだ。どうりで――」
「生徒の中には、気づいていない人もいてね。そういう人には無理に説明したりしないってのが、暗黙のルールになってるの。とはいっても、ネットには出ちゃってるんだけど」
「ずっと知らないままでいたかったな……」
昨日以来遠のいている平穏の面影を、深渕は寂しげに眺めていた。
「深渕くんはどうなの? 何か視えたりとか、感じたりとかする人?」
「ぼくは全然――視えるどころか、感じたこともないよ……」
これは事実である。
これまでの人生で、不思議な体験をしたことも、九死に一生を得たことも、深渕にはなかった。
今さら霊感がどうのと言われても、深渕にはピンと来ないのである。
強いて言えば、昨日ティファが「ガッデム」を言い放ったあの瞬間に、何かが起きた気がしたが……直近すぎて、まだ経験として消化されていない。
「霊感って、視える・感じるだけじゃないからな」
「書いたり、踊ったりするやつもいるし、聞こえるだけってやつもいる。自分で気づいてないやつもいるから、一概に言えないんだ」
のんびりしている大安と襟蓮とは裏腹に、水真は水を得た魚のようにはしゃいでいた。
「そうなのね、そうなのね、深渕くん! わかった、わたしに任せて!」
水真は目を輝かせながら深渕の手を握ると、黒板の前の席まで連れて行った――
*
水真はよく顔をしかめる。
これは水真が近眼なのに眼鏡を掛けたがらないからだと以前聞いたことがある。
はっきり見たいときには、目を細めて睨んだような顔をするか、顔を近づけるのだった。
「ふぅむ……」
水真は目を凝らして、深渕をまじまじと見つめていた。
「羊は勉強を教えるの好きだからな。こうなったら最後まで付き合うしかないぞ」
「試験前は助かるんだけど、わかるまで離してくれないんだ」
「そうなんだよなぁ。熱心ってゆーか、融通か利かないってゆーか」
「大安も冷児も黙ってて。ていうか、あんたたち暇ならこれ書いて」
駄弁るふたりに、水真は手にした教科書の、あるページを差し出すのだった。
「ああこれか」
「ま、現魔部を語るにはこれがないとな――」
ふたりは納得したのか、黒板に向かい板書をはじめた。人使いは荒いが、水真の言うことはいつも理に適っているので、誰も逆らおうとはしない。
「さて、深渕くん」
水真が清らかに微笑んだので、深渕は少し狼狽した。
「深渕くんは転入試験を受けたと思うんだけど――『面接のみ』って不思議に思わなかった?」
「そりゃ思ったけど、そうゆう学校なのかなって。人柄を大切にするとか」
「それも正解。でも半分間違い。あれはね――霊視をしていたの」
事もなげに言う水真。
「霊視って……オーラとか前世を視るっていう、あれ?」
「それ! ただ、視えるのはオーラや前世だけじゃなくて、他にもたくさんあるの。未来予知とか、透視もそうよね。面接の先生も何人か居たでしょう?」
「そうだね、7人だったかな……」
中には、入学してから校内で見かける先生もいた。
「ひとによって、視えるもの感じるものが違うの。得意分野があるって感じかしら。例えば――UFOを視る人もいれば、幽霊が視える人もいる、みたいな」
「UFOと幽霊は別でしょ?」
「もちろん違うわ。じゃあ――天使とか悪魔とか、ドラゴンとか妖怪とか、そうしたうわさとか伝説って何だと思う? 何がどう違うのかしら?」
「えっと、それは――よくわかりません……」
見える見えないの流れで、視力検査のようにこたえてしまう深渕。
それこそ視力検査みたいに、思考がぼやけてゆき、わからなくなるのだ。
イメージは、頭のなかで渾然一体となり、つかみどころがなくなっていく。
「そこで、CCCよ。これは『チャネル・チャンネル・チャネリング』といって、それぞれの頭文字を取って、CCC」
水真は右手で「C」のマークを作ると、小首を傾げてみせた。
深渕にはこれが視力検査のマークにみえて、少しゾッとした。
「チャネルっていうのは『経路』のこと。道を表しているのね。チャンネルはテレビでいう『周波数帯』のこと。チャネリングは、その周波数帯に合わせること――から転じて、神霊や高次存在と『交信する』ことを言うの。つまり! 視えるものによって、周波数帯が違うって考え方。1チャンネルは神様、2チャンネルは宇宙人、3チャンネルは天使……みたいなね」
はじめて出会う考え方に、深渕も当惑するが――
それでも自分なりに解釈を試みる。
「えと、じゃあ、ごちゃ混ぜになっているんじゃなくて、住み分けされてるってこと?」
「その通り。人によって、視えるチャンネルが違うの」
「逆に、どのチャンネルも視えるやつもいるし――どこかひとつだけ飛び抜けて視えるやつもいる」
黒板に円を描きながら、補足する大安。
ふたりは、何か図を描かされているようだった。
「じゃあみんな、そんな超能力を持っているってことか」
「いや、超能力っつーか……」
大安は深渕に振り向くと、不機嫌そうな顔をした。
すかさず水真がフォローを入れる。
「超能力っていうよりは、持って生まれた個性みたいなものよ。絵を描くのが上手とか、歌が上手いとか、足が速いとか――そういうもの」
「おれたちはべつに超人でもヒーローでもないんだ」
「そうそう。ちょっと予知夢を見たり、ちょっと透視ができたり、ちょっと相手の気持ちがわかったりする、普通の高校生さ。そうだろ、大安」
襟蓮は、大安をなだめるように背中で語る。
まだ気色ばんでいたが、大安も作業に戻った。
「霊感が強い人って、社会適合力の低い人が多いの。繊細で傷つきやすかったり、落ち着きがなかったり、時間にルーズだったり――」
「理解がねーと、視ている世界を否定されたり、親が叱ることもある」
「学校でも、生徒や先生からいじめに会ったり、自閉症やサヴァン症候群って診断されて、精神病院に送られることもある。酷いのになれば、自殺ってのもな」
大安も経験があるのか、忌々しげに吐き捨てた。
襟蓮もやりきれない様子で、力なくうなずいている。
ここで水真は、大きく息を吸って、
「だから、ここ、世啓戸学園なの!」
充溢した重たい空気を払拭するように言った。
「この学園の理事長は、そんな人たちの『保護・育成』のため、私財を注ぎ込んで『世啓戸学園』を創立したのよ!」
「う、うん……」
感極まって、目を潤ませる水真。
「わたしそれ聞いて感動しちゃった! 世の中にはそんなに心の優しい人間がいるんだなって、はじめて思ったのよ!」
しかし、深渕は曖昧な返事になってしまう。自分が「霊感の強い人たち」に分類されている実感がないからである。虐げられた記憶もなく、これまでも安穏とやってこれたので、この学校で自由を獲得した気にもなれない。むしろ深渕には、自分の平穏な時間が生徒会長に侵害されようとしている危機感のほうが強かった。
「やっぱりぼくは、間違えて入学しちゃったんじゃないのかな――」
深渕はぽつりとつぶやいた。
「いいえ、それはないわ」
水真は断言した。
「なんでさ、ぼくにはここにいる資格とか能力とか、ある気がしないんだけど」
「深渕くんってたぶん、わたしたち以上に特殊よ」
「えっ? どこが?」
「だって深渕くん――オーラが視えないんだもん」
「はへっ!?」
驚いて気の抜けた声が漏れる深渕。
「わたしオーラを視るのは、自信あるんだけど――何にも視えない人って初めて」
水真はまたしてもじっと見つめた。それはさっきと同じ視線、焦点をどことも合わさないその目は、ぼんやりと物思いに耽っているときの目に似ていた。
「ちょ、ちょっと待って。それってぼくには、オーラがないってこと?」
覇気がない、存在感がない、影が薄いのは深渕も望むところだが――オーラがないというのは考えたことがなかった。
「オーラがない人なんて存在しないの。いるはずがないわ――ねえ冷児、あんたも深渕くんを視てくれる?」
「はい、はい」
言われるまま襟蓮はくるりと向き直ると、深渕をぼんやり見つめた。
「冷児は前世を視るんだけど――どう?」
「んー…………オレにも視えないな…………」
襟蓮も驚いたような顔をしている。
「お互いに定評ある霊視ができないってことは、これが深渕くんの個性かもしれないわね」
「オーラや前世が見えないのが、個性? 何それ、全然わかんない……」
「生徒会長が目をつけたのも、そこかもな」
大安も深渕を眺めながら言うのだった。
「わたしクラス委員長だから、クラスみんなのことは気かけているつもりだったんだけど――深渕くんのことは名前も忘れかけてた。これも関係あるのかしら」
「それは、ぼくが目立たないってだけで」
「にしたって、限度があるぜ」
「じゃあ、深渕は透明人間だな」
大安が軽口を叩いたので、水真が腹が立てた。
「ちょっと大安! あんた、がさつ! 本当にデリカシーないのね」
「ちょっとした冗談じゃねーか」
「『能力』っていわれて嫌な顔してたのお前だろ?」
襟蓮も同じく、水真の肩を持つ。
「だってよ、おれは不死身のせいでみんなからめちゃくちゃ気味悪がられてたんだぞ」
「不死身じゃないわ、大安の不死身は死ににくいってだけでしょ?」
「不死身だからって、お前が言っていいことになるかよ」
「そうよ。それ言ったら、自分がやられたことを他人にもやる最低野郎になっちゃうよ」
「おいおい、そんな言い方ないだろ。何だよ冗談も言えねえのか」
「不謹慎なことは冗談にしちゃいけないの」
「んだよ、解せねーな」
いつの間にか、大安と襟蓮もすっかり会話に参加してしまっている。
深渕が黒板を見上げると、そこには妙な図が描き上がっていた。
10個の円と、それを結ぶいくつもの線が描いてあり、円の中にはそれぞれ文字が書かれていた。
「えっと――これは?」
深渕が聞くと、水真もはっとして、
「そうね、これの説明をしなくっちゃ」
といって黒板に近づき、近眼の目を皿のようにして図の完成度をチェックするのだった。
「これは1年の授業のときに出てきたから、深渕くんは知らないと思うんだけど、魔法学では基礎中の基礎みたいなものだから、覚えておいて損はないわ――よし」
チェックし終えると、有閑な素振りで深渕に向き直り、
「これがあの――」
ともったいぶってから、こう続けた。
「〈生命の樹〉よ」
*
アダムとイブが暮らしていたという〈エデンの園〉。
その〈エデンの園〉の中央に、〈知恵の樹〉とともに植えられていたのが〈生命の樹〉である。
蛇にそそのかされたアダムとイブは、禁断の果実である〈知恵の樹〉の実を齧ったために楽園を追放された、という話は有名であるが――
〈知恵の樹〉が知恵を授けたように、〈生命の樹〉は生命を授けるのだという。
ちなみに〈生命の樹〉の実は、食べることを禁じられていなかったそうである。
そのせいなのかはわからないが、アダムは930歳まで生きたという。
もしかすると、楽園ではこの実を齧って、平穏に暮らしていたのかもしれない。
神秘思想では、この〈生命の樹〉について解釈がすすめられ――
世界創造の過程を体系化したものとして図像化された。
この図像は10個の球体と22本の径によってできている。
縦に3列、横に7段という形になっていて、それぞれ次のように並んでいる。
1段目は、中央に〈ケテル〉
2段目は、右に〈コクマー〉、左に〈ビナー〉
3段目は、右に〈ケセド〉、左に〈ゲブラー〉
4段目は、中央に〈ティファレト〉
5段目は、右に〈ネツァク〉、左に〈ホド〉
6段目は、中央に〈イエソド〉
7段目は、中央に〈マルクト〉
球体ひとつひとつにも様々な意味が籠められており――
その配置や繋がりにも多くの真理が秘められているという――
*
「ケテルは〈王冠〉、コクマーは〈智慧〉、ビナーは〈理解〉、ケセドは〈慈悲〉、ゲブラーは〈峻厳〉、ティファレトは〈美〉、ネツァクは〈勝利〉、ホドは〈栄光〉、イエソドは〈基盤〉、マルクトは〈王国〉、これが各セフィラの意味ね」
水真は試験対策のように解説していく。
必要なことを必要なだけ告げる水真の勉強法は、塾講師のようだった。
深渕にとっても魔法の秘術を学ぶというより、方程式を覚える感覚に近かった。
ましてこれは、円と円が線で繋がっているので、もっとゲーム性を持ったもの――
「なんか、双六みたいだね。各コマに意味が合って、道が繋がってて、1回休みとか、2マス進むとか」
その言葉に驚喜したのか、水真は声のトーンが上がった。
「そうなの、双六よ!」
そういって水真は笑みをたたえながら、黒板のマルクトを指した。
「一番下のマルクトからはじまって、一番上のケテルを目指す人生ゲームだと思っていいわ」
「人生っていうと、なんだか重たいな」
「人生だけじゃないの、生命の樹を使えば何だってわかると言われているわ。広大な宇宙の真理から、小さな恋のお悩み相談まで、何だってわかるの!」
「う、うん、すごいんだねー」
漠然とし過ぎていて、気のない返事になってしまう深渕。
もちろん水真もそれを察した。
「深渕くんのそうゆう正直なとこ、嫌いじゃないわ」
「実感がないから、驚きようもないよ」
「そりゃそうね。こんな図だけ見せられたって、何にもわかんないもの」
「これって占いに使うんでしょ? ぼくが見てもあんまり意味がないっていうか……」
そういわれて、水真はゆっくりと首を左右に振った。
「これは頭で考えながら使うものよ――そうね、実際にやってみましょう」
水真は指をこめかみに当てて、ちょっと考えてから、
「たとえば――『人間』を例にとって考えてみようか。まずはこうして、マルクトに『人間』を置いてみるわね」
そういうとチョークを手にして、マルクトの横に「人間」と書いた。
「ここから、右は〈力の柱〉、左は〈形の柱〉に分解していくの。すると――ネツァクは『男』、ホドは『女』ってなるかしら。そうしたら〈中央の柱〉のイエソドには、男と女の交わる部分ってことで『性』を置こうかな」
これももちろん、それぞれの球の横にチョークで書き込んでいく。
「次のティファレトは、『男』と『女』と『性』をひとつにして――『愛』とするわね。今度は、ホドの上にあるゲブラーには『母』、ネツァクの上にあるケセドには『父』を置こうかしら。さらにその上のビナーには『母性・優しさ』、コクマーには『父性・厳しさ』を置いてみるの。すると中央のケセドは『母性』『父性』『愛』を併せ持った――『無償の愛』というようなものになるのかしら。だからつまり、『人間』というものは『無償の愛』へと進むもの、ということも出来るのよ」
すべて書き終え、自分でも納得している様子の水真。
順序よく連想していったように思えるが、最終的にどこに行きつくのかは、やってみなければわからないようである。
「これはわたしの見解だから、人によってはまったく別のものになるでしょうね。どう? 今どこかに占いの要素はあった?」
「えっと……なかった、と思うよ」
「あぁ、よかった! うまくできるか不安だったの」
「これが魔法? なんか全然イメージと違うんだけど……」
「魔法というか、考えるヒントって感じよね。自分でも思いもしなかった発想に結びつくこともあるし――むしろそれこそが、魔法の入り口って気もするわ。もちろん、使い方はこれだけじゃなくて、球が身体の各器官に対応するとか、天体に対応するとかあるんだけど、わたしたちが習っているのはこんなとこ」
水真はふうと一息ついた。
どうやら水真の中でも、講義が一段落したようである。
けれども、深渕が知りたいのは、生命の樹についてではなく、
「それで……これが生徒会長の部活と、どんな関係があるわけ?」
まさかこの図を見ながら、みんなで考え事する部活ということもあるまい。
すると、板書を終えて暇そうにしていた大安と襟蓮が、
「そこはおれたちに任せてくれ」
と、重たい腰を上げた。
学内ゴシップ通の彼らからすれば、ここからが本領発揮というところだろうか。
「たぶん生徒会長は、球に人を当て嵌めてるんだ」
「はぁ?」
深渕がぽかんと口を開けたが、襟蓮は構わず話しを継ぐ。
「例えばケテルは、生徒会長の宮家照美。宮家照美、ぐうけてるみ、ぐう『けてる』み、でケテルだ――いや深渕、そんな目でオレを見るな」
深渕は半眼を向けていた。これだけ小難しい話をしておいて、
「そんな駄洒落みたいな……」
「いやいや、文字の力ってすごいんだぞ」
「そうよ深渕くん、『名は体を表す』っていうくらいだから」
続けて大安も臆せずに語る。
「つーわけで、コクマーは小熊千得、ビナーは松里雛ってことだな。雛でビナーは苦しいとこだけど」
「ティファレトは、間違いなくティファだな」
「あとは、2年の京成虎子と、華蕪萌花ってのも部員だって言われてる。まあ、けーせーとらこでケセド、かぶらでゲブラーは無理くり感あるけどな」
「んー……」
解せない深渕は、いまだ疑いの眼差しである。
「そういや、昨日深渕が会ったっていう女の子、宗堂ゐゑだっけ? その子も名前でいけば……宗堂ゐゑ、ゐゑ宗堂、いえしゅうどう、イエソドって線もあるんじゃないか?」
「それはどうだろう……」
「生徒会長も苦しいことやるなー」
「よく集めてるほうだと思うけどな。そんな都合よく居るもんかよ」
「もしかすると、名前優先で転入決めてるじゃないか?」
「そういうことか! あの生徒会長ならやりそうだ!」
「だろ? つぎはマルちゃんとか、法堂ちゃんとか来るんじゃないか?」
盛り上がるクラスメイトであったが――まだ深渕には、肝心なことがひとつ残っていた。
「でもこの流れだと――ぼくはどこにも入らなさそうだけど」
「あん?」
言われて図を見返す大安と襟蓮だが、残されたネツァク・ホド・マルクトにはどうやっても深渕の名前は入りそうになかった。
「たしかにそうだな?」
「生徒会長もいよいよ諦めたか?」
「適当にこき使える人間が欲しかったとか?」
「それもあるかもな。女だらけだから、マネージャー的に男を入れるとか」
「だったら、何で深渕なんだ? 他にも居そうなもんだけど」
「そうだよ、別にぼくじゃなくても」
「あ! それたぶん……あれじゃないかな」
何かを思い出した水真は教科書のページをパラパラとめくって、先のほうに載っていた別の生命の樹の図を開くのだった。
そこには、10個の球の他に、もうひとつ不思議な球が描かれていた。
「授業中になんとなく先のページを見てたのよ――そしたらこれが載ってて」
水真は黒板に、点線で、新しい円を描いていく。
そこは中央の柱ではあったが、どこの段にも属さず――
ケテル・コクマー・ビナー・ケセド・ゲブラー・ティファレトに囲まれた六角形の中心にあった。
その円のなかには、〈ダート〉と書き込まれた。
「ここには、ダートという隠れたセフィラがあるの。意味は〈認識〉よ」
「隠れたセフィラ……?」
生命の樹でさえ小難しいのに、その上隠れたセフィラなんて裏技のようなものまで持ち出されたら、もうお手上げである。
それを聞いた大安と襟蓮は、ふたりでケタケタと笑うのだった。
「こりゃ間違いねーな」
「深渕脱兎、だっと、で、ダートなんだろうな」
「生徒会長も、よく思いつくよなぁ」
「脱兎でダート、なんか競馬みてぇだよな」
「いやいや、ぜってー関係ねーし」
集中が切れたのか、ふたりは他人事のように笑い合っていた。
「ダートがどんなセフィラか――わたしもよくわかってないの。授業にもまだ出てきてないし、ちょっと他とは違うってことくらいしかね」
水真は悔しそうにしていたが、まだ先を読む気にはなれないらしい。
水真の性格からすると、授業と同じペースで理解を進めていきたいのだろう。
「そうだ深渕、もし気になるんだったら自分で調べるってのも手だぜ。なにせこの学校には、ご自慢の図書館があるんだからな」
ひねた物言いをするのは襟蓮である。襟蓮はいつだって、鼻にかかったような話し方をするのだが、それが似合っているので腹も立たない。
「ああ、そりゃいいな。悩んだら図書館に行け、ってうちの学校の教訓だもんな」
「図書館かぁ……」
「ああ、今すぐにでも行ったらいいんじゃないか?」
襟蓮は身を寄せて、やたらと強く勧めてきた。
「深渕くん、うちの図書館には行ったことある?」
「――いや、まだ行ったことは」
「なら絶対行くべきよ。本は読まなくても、建物だけでもすごいから」
目をきらめかせる水真だったが、図書館と聞いて深渕が思い出すのは――
司書室の天使こと図書委員長・松里雛の、漆黒のパンツであった。
#4 兎と迷宮{あるいは:力;}
これまでは集団に紛れて、他者との会話を最小限に抑えていた深渕だが――
宮家照美に踏まれてから、フェイス・トゥ・フェイスの会話が続いていた。その上、興味もない世界の知識を滔滔と植えつけられて、深渕の脳は疲弊していた。
小さな穴倉の奥で慎ましやかに生きていた希少動物が、ハンターに捕えられ、サーカスの見世物にされているような気分であった。
深渕は裏通りを遠回りして帰っていた。
表通りは道幅も広く、人目につきやすい。
今の深渕は、ティファが告白した男として学内ヒエラルキーを駆け上がった状態なので、目立つのはご法度だった。
裏通りは、木々の茂りが目隠しにもなるし、空気も清浄で心も落ち着いてくる。
これぞ、学内緑地の恩恵だった。
図書館へ行くよう薦められたが、とてもそんな気にはなれない。
早く帰って休みたい。そればかりを考えていた。
しかし〈運命の輪〉は、深渕を巻き込んだまま回り続けるのだった。
裏通りを抜けると――人が倒れていた。
本が散乱している。段ボールに入れた書籍を台車で運搬している途中に、倒れてしまったようである。
「――深渕さん」
果たして倒れているのは、松里雛であった。
倒れているといっても、地べたに座り込んで、途方に暮れているといった様子である。
「えっと……大丈夫ですか?」
戸惑いながら声をかける深渕に、
「……足を挫いてしまいましたぁ。お手伝い願えませんかぁ?」
上目遣いで申し訳なさそうな松里。
お断りします、と出かかった言葉を深渕は呑み込むと、精一杯の作り笑顔で、
「よころんで」
とこたえた。
「良かったぁ。ここは人も通らないのでぇ、どうしようかと思っていましたぁ」
ぎこちない深渕の笑顔とは違い、松里の笑顔は心底ほっとしていた。
*
世啓戸学園、図書館。
近代建築ひしめく学園内で、ここは唯一、旧時代的であった。
ただしそれは、バロック建築とよばれる荘厳なもので、微に入り細を穿った彫刻が施されていた。概観もさることながら、屋内も中世の教会さながらの装飾である。中央は吹き抜けになっており、天井には聖人や天使の絵画が広がっている。
さらに、壁という壁が書籍で埋め尽くされている光景は、圧巻の一言。
古今東西のありとあらゆる書籍が収集されているのだという。
「理事長の趣味でもあるんですぅ。ここにもよくいらっしゃるんですよぉ」
司書室の椅子に座る松里の足に、救急箱に入っていたシップを貼って、医療テープで固定する深渕。
「ちゃんと病院で診てもらったほうがいいですよ」
「歩くことはできますから、大丈夫ですぅ」
松里はゆっくりと立ち上がって、足の具合を確かめる。
「しばらくは歩きにくそうですねぇ」
何が楽しいのかわかならないが、ニコニコと微笑む松里。
司書室まで戻ってくるのにも深渕が肩を貸していたし、散乱した書籍も深渕が段ボールに詰め直して台車で運んできたのだった。
「ありがとうございますぅ」
「いえ、気にしないでください」
面倒ではあったが、司書室の天使と謳われる松里から礼を言われれば、悪い気はしない。明るい巻き毛、笑顔の絶えない優しい顔つき、豊かな胸、愛くるしい声、どれをとっても天使の名に恥じないものである。そんな松里と話していると、深渕の気も次第に晴れてゆくのだった。
この図書館は近隣の大学や研究室にも貸出を行っているそうで、その返却が今日に限って何件も重なったのだそうだ。そのうえ、当番の図書委員にも病欠が出て、松里がひとりで運んでいたらしい。
じゃあ、ぼくはこれで――と帰ろうかとも思ったが、図書館まで来てしまったからには、〈生命の樹〉に関する本を借りるのも悪くはない。
館内は薄暗いうえに、利用している生徒は机や本に齧りついているので、誰が歩いていても気にならないようである。人目につく心配もなさそうだった。
「松里先輩――生命の……あ、いえ、何でもないです」
「どうかされましたぁ?」
〈生命の樹〉についての本がどこにあるのか聞こうとしたが、これを松里に聞いてしまっては、自分が宮家照美の部活に興味を持っていると勘違いされかねない。
「せっかく来たので、ぼくは館内を観て回ろうかと思います」
「どうぞ、ゆっくりしていってください。あ、ですが――」
松里は時計を見やった。
「あと30分ほどで閉館ですので、あまり時間はないかもですぅ」
「それだけあれば、十分ですよ」
そういうと深渕は、悠然と司書室から出て行った。
*
螺旋階段を昇っていく深渕。
図書館は5階建てで、各階を螺旋階段が結んでいる。
案内板と睨めっこしながら〈生命の樹〉についての書籍がありそうな棚へ向かうのだが、どれも難しそうな本ばかりであった。ぺらぺらめくってみても、あまり本を読まない深渕には、ハードルが高かった。人疲れしていた上に、こうして文字に囲まれていると、いよいよ頭がクラクラしてくる。
気がつけば洋書コーナーに居るらしい。
背表紙の文字まで読めなくなっている。
「しかたない……帰るか」
そう思って、本棚に挟まれた通路を引き返していると――
またしても、松里が座り込んでいた。
「あれ? 松里先輩、どうしたんですか?」
あの足でこの階まで上がったのだろうか、エレベーターでもあるのかしら、そんなことを考えていると、松里ははっと顔を上げ――
タックルをする勢いで深渕に抱き着いてきた。
「深渕さぁぁぁぁん!」
松里は泣き崩れた。
「えええっ?! ど、ど、ど、ど、どうしたんですか!?」
動揺する深渕に、松里はぐいぐい身体を押しつける。
「このままぁ……」
「はい?」
「このまま誰も来なかったらぁ、どうしようかと思ってましたぁ……!」
極度の興奮状態で、呼吸もままならない松里。
「大袈裟ですよ先輩。まだ20分も経ってないですよ?」
となだめる深渕だったが――
「3日ですぅ」
「はい?」
「わたしぃ……3日間もここを彷徨っていましたぁ……!」
松里は泣きあえぎながら、叫んでいた。
*
深渕は棚から一冊、本を取り出した。
表紙にもアルファベットらしき、謎の文字が並んでいる。
中を開いても、見たことない文字の羅列が、横書きで続いていた。
「つまり――ぼくたちは異世界に来たってことですか?」
昨日ティファが言っていた『異界送り』という言葉が、深渕の耳に残っていた。
「だと思いますぅ……」
落ち着きを取り戻してきた松里が、自信なさげに言う。
「でも、図書館にしか見えませんけど?」
蔵書に囲まれている景色は、来たときから何の変化も感じられない。2メートルを超える本棚に挟まれていては、見渡す限り同じ景色なのである。
「平行世界なのでしょうかぁ?」
「言語が違う世界、ってことですか?」
着ている服の色だけが違う世界、使っているコップの柄だけが違う世界……そんな些細なものが違う世界から――自分が生まれなかった世界、戦乱に勝利した世界、他種族が地上を制覇している世界に至るまで……我々の世界と平行して無際限に連なる世界がある、というのが平行世界の概念らしい。
「だとしても――図書館から出られないってのはおかしいですよね? 時間の流れも違うみたいですし……平行という関係ではなさそうですよ?」
「そうですねぇ……」
お互いの携帯を見比べてみると、きっかり3日ずれていた。
その間、松里はこの図書館から一歩も出られなかったそうだ。
ためしに深渕も10分ほど歩いてみたが、右へ曲がっても左へ曲がっても、本の壁が続くばかりでどこにも行き着かなかった。
「困りましたねぇ」
と松里は口では言うが、今は深渕が居てホッとしているようだった。
時間が経ったせいか、捻挫の痛みも治まったらしい。
「お腹も空いたんじゃないですか?」
「それが、不思議と空かないんですぅ」
「じゃあ、トイレは?」
「図書館には、各階にトイレがあるんですぅ」
「でも辿り着けないんじゃ……」
「念じれば叶うんですよぉ」
「んん?」
松里のいうように、トイレに行きたいと思いながら歩くと、不思議とトイレに行き着くのだった。
「都合いいなぁ……」
「おかげで顔を洗ったりはできたんですがぁ……」
目元には疲れが見える松里。
こんなところに3日もひとりでいれば、さぞ心細かったことだろう。
「じゃあ――他の階に行きたいと思ったら?」
「階段が現れますぅ」
これも松里の言う通りになった。
時間だけでなく、距離や空間もねじ曲がっているようである。
今度は階段を降りてみる。
しかしこれも、果てがないように思われた。
階下もまったく同じ作りであったし、蔵書の文字も読むことができない。
その下も、さらにその下も同じであった。
5階建てのはずの図書館だが、螺旋階段はどこまでも続いているようだった。
さすがに深渕も嫌気がさして、階段に座り込む。
深渕がここに迷い込んでから、3時間が経過していた。
「ふう……」
ため息を吐く。深渕はまた、別の異常さにも気づいたのだった。
これだけ歩いたのに、何の疲労もないのだ。出られないという精神的苦痛はあるものの、肉体的疲労や、空腹がない。このままいけば、眠気さえ感じずに何時間でもいられそうなのである。
「このままここから出られなければぁ……何日でも、何か月でも、何年でも、ずーっとここにいるかもしれませんねぇ……」
松里がふと、そんなことをつぶやいた。
「それでもわたしたちはぁ、歳を取ることなく生き続けるんですぅ」
夢のような話であったが、ここでなら本当に実現しそうに思えた。
深渕も気が疲れていたのだろう、つられてこんなことをつぶやいてしまった。
「松里先輩とだったら、それもアリですね」
「ふえっ?」
驚いた松里が顔を上げる。
「優しくて、気が利いて、スタイル良くて――松里先輩だったら、嫌がるやついないでしょ」
「そ、そ、そ、そんなことはぁ……」
じんわりと頬を染める松里。
深渕は頭がクラクラして、自分が何を言っているのか精査できていなかった。
「そうなったら、ぼくも逃げるとか言ってないで、責任取りますよ」
「せ、せ、せ、せ、せ、責任とはぁ」
「こんなところに閉じ込められて、先輩ひとり幸せにしてあげられないと、人としてダメな気がします」
「それは、け、結婚――」
「ま、先輩はぼくみたいなの嫌でしょうけどね。でも時間がかかっていいんだったら、先輩と釣り合うように努力してみようかな――なんて」
「――っ!?」
松里はうつむいて、猫のように両手で顔を覆い隠していた。
「先輩にぼくみたいなのがあてがわれないよう、出る方法を考えないとですね」
深渕はひょいと立ち上がると、松里を振り返った。
松里は身をよじらせて悶えていた。
「あれ? どうしたんです、先輩?」
「い、い、いえ! 何でもないですぅ!」
「なんか象形文字みたいですよ」
見慣れない文字に囲まれているせいか、松里の動きまで文字のように見えてきてしまった深渕。
もう手遅れかもなぁと自嘲気味に考えていると――
記憶に引っかかるものがあった。
深渕はフロアへ飛び出すと、手近な本を開いた。
そして本の中の文字を数えるのだった。
「深渕さん……どうされましたぁ?」
不穏に感じた松里が、あとから着いてきてそっと訊くと、
「もしかすると――この建物は22階建てかもしれません」
と深渕は言った。まだ頬が赤い松里の顔にも「?」が浮かぶ。
「子音文字ってご存知です? 最古のアルファベッドといわれていて、22文字で構成されているんだそうです」
それは以前、世界史の授業で、講師先生が言っていたことであった。
世界最古は22文字、というのが印象的で覚えていたのである。
日本語が、平仮名・片仮名でそれぞれ50字超。さらに何万字もの漢字から構成されていることからすると、世界最小数といえるかもしれない。
「フェニキア文字ですねぇ!」
ここにきて松里も思い至ったらしい。
「各階を見てきましたけど……階ごとに、タイトルが同じ文字からはじまっていますよね。だから、階ごとに分類されているんだと思うんですよ」
「じゃあここはぁ――『バベルの図書館』かもしれません」
松里も何かわかったらしく、深渕から本を受け取ると、ページを開いてじっと見つめた。
「バベルって、聖書に出てくる、あれですか? よく知らないですけど――」
「いいえ、ボルヘスという作家の短編小説ですぅ」
「小説?」
松里も深渕と同じく、本の文字数を数えているのだった。
「バベルの図書館に収められている本はぁ、22文字のアルファベット・スペース・コンマ・ピリオドを合わせた25文字で書かれているそうですぅ。1冊あたりのページ数・行数・文字数も決まっていましてぇ、それを数列的に配置していくんですぅ」
「それってどうゆう――」
「おおよそ、25の100万乗冊の本が収められているという計算になりますぅ」
「あー……わかんねえ」
途轍もない数に、深渕は端から考えるのを止めた。
それは計算したところで、もはや呼称する単位もない世界である。
「物理的には不可能ですよぉ。でも実現したすると不思議なことが起こるんですぅ」
「ん??」
「すべての文字列が再現されているわけですから――これまでに書かれた本も、これから書かれる本も、全てが揃っているんですぅ」
「へ? どういうこと?」
「すべての可能性が網羅されている、ということですぅ。だからそこにはぁ、世界の真実が書かれた本や、わたしの人生について書かれた本も存在するんですよぉ」
「え、じゃあ……ぼくが大金持ちになる方法とか、惚れ薬の作り方も――」
「もちろんですぅ。本を扱うわたしたちにとって、それはとっても神秘的な考え方ですよねぇ。ただ――」
松里は本から目を離して、深渕に微笑んだ。
「問題はぁ、膨大な蔵書の中から、目的の一冊を見けられるかですねぇ」
「探すだけで、一生が終わりますね」
それこそ本末転倒で、深渕は思わず笑ってしまう。
「書かれてある文字を読めなければ、一冊も意味がありません」
と松里も一緒になって笑った。
張りつめていた空気が、ようやく綻んだ。そのとき――
突然、地響きが起こった。
ぐらりと大きく大地が揺れ、黒塗りの本たちが深渕に襲いかかる。
「きゃっ――」
「先輩! こっちです!」
深渕は松里をかばいながら、螺旋階段へと誘導した。
背後では、本棚がドミノ倒しのように崩壊していく。
何とか階段へ逃れたものの揺れは収まらず、立っていられないほどである。
そこへ、今度は上階から土煙が押し寄せてくるのだった。
驚いた松里は、バランスを崩してしまった。
ぐらりと背中から落ちていく松里。
深渕は咄嗟に、松里に飛びついていた。
そのまま深渕が下になって、ガタガタと階段を滑り落ちていく。
強かに背中を打ちつけながら、深渕は松里を懸命に抱えていた。
螺旋階段はどこまでも落ちていくかに思われた。それは実際に落ちているのか、意識だけが下降しているのかよくわかならい感覚であった。今や深渕の周りは真っ白い煙に覆われて、何も見えないのである。
「うぐっ――」
最後に頭を打ちつけて、ふたりはようやく止まった。
いったいどれくらい落ちていたのか、どれだけ怪我をしたのか、興奮状態にある深渕には判然としなかった。ただ、抱えている松里に怪我がないことは、すぐにわかった。
「深渕さん!」
「いてて……」
松里は飛び起きると、深渕の身体に手を当てて、無事を確認する。
「深渕さん! 大丈夫ですかぁ! 深渕さん!」
「う、うん、なんとか……」
「痛いところはありませんかぁ?」
手の感触で傷を確かめようとする松里。
次第に靄が晴れてゆくと、1階の床に投げ出されていることがわかった。
深渕は頭を動かしてから、手足の感覚を確かめ、ゆっくりと上体を起こす。
「……抜け出せた――のかな? ……あれ?」
背中に違和感があった。肌寒くて、すうすうしている。
学生服のシャツは破け、下着も擦り切れ、肌が露わになっていた。
「見せてください!」
深渕の肌に冷たい手を当てて、松里はつぶさに診察する。
所々、打ち身で赤く腫れてはいるものの、大きな外傷にはなっていなかった。
「痛くないですかぁ」
松里が打ち身部分にそっと触れると、熱っぽい肌から体温が奪われて心地よかった。
「大丈夫みたいです。先輩も大丈夫ですか?」
すると松里は、深渕の頭を正面からぐっと抱き止めた。
「無茶しないでください……わたしのせいで深渕さんが怪我をしたらぁ……わたし自分を許せません……」
「もがもがもが……」
顔面が柔らかい感触に包まれて、深渕は喋ることができなかった。
と、そこへ、
「あれ――雛せんぱーい、そこに居たんすかー?」
女の声がした。
はっとして松里が振り向くと、そこには手や顔を深紅に汚した女が立っていた。
「も、、、萌花ちゃん……」
「ちーす、あれ?」
女は、松里に組み敷かれている半裸の深渕を認めた。
「あちゃー……お邪魔だったっすかね? まあいいや、美術関連の本見たいんすけど入っていいっすか? ってもう入ってんすけど」
資料に目を通したいという気持ちが逸って、醜態も気にならない様子の女。
よく見ると、手足を染めている赤は、絵具によるものらしい。
「萌花ちゃんも、迷ったんですかぁ」
「迷った? いや、正面から入ってきたんすけど――」
「ぼくたち、ここから出られなかったんだ」
「あ、そーなんだ。それで『マヨイガ』ね」
「マヨイガ?」
「ここに入ろうと思ったら、『マヨイガ』が図書館に化けてて、入るの邪魔してやがったんだよ。こっちも時間なくて、腹が立ってたからさ、ぶっ飛ばしちまった」
「ぶっ飛ばした? って――何を?」
「だから『マヨイガ』だよ! 山ん中で、そいつが贅沢だって思う豪邸を見せて、幸福を授けるって妖怪――ってんなことより! 雛先輩、入っていいだろ? 頼むよ!」
「えっと――今、何時ですかぁ?」
「9時っす。いや、あたしも時間外で悪いとは思ったんだけど、でも気になったらやっぱりその日のうちに調べたくなって、それで雛先輩ならまだいるだろうなって思って来たんすよ。やっぱりダメっすかね? そこをなんとか!」
懇願する赤い女だったが、松里は呆然としならがも、
「閉館時間は厳守ですぅ……」
とこたえた。
「あーっ、やっぱダメかー」
悔しそうに膝をつく女。すると女の眼に、深渕の背中が映った。
「お?」
女はしばし深渕の背中を見つめていた。それからすっくと立ち上がると、右腕でひょいと松里を持ち上げ、深渕から引き剥がした。
「ひゃっ」
松里がびっくりしていると、女は再び、深渕の背中を眺め回すのだった。
「え、ちょっ、なに?」
深渕がうろたえると、女は睨むような眼光の鋭さで、
「てめー、名前は?」
と詰問した。
「み、深渕脱兎だけど――」
「深渕か。あたしは2年の華蕪萌花ってんだ。で、悪ぃんだけど深渕。絵のモデルやってくんねーか?」
「はあ?」
「この背中! 理想的だ! 頼む、描かせてくれ!」
華蕪は両手を合わせて、頭を下げた。
「お断りします!」
迷う間もない拒否であった。
深渕は、もうこれ以上、面倒が舞い込むのは御免であった。
断れる部分は断っておかなければ、このままずるずると日常が削られていくことになる。
「ちっ――」
華蕪は舌打ちをすると、深渕の胸倉をつかんで、そのまま高く掲げた。
「あたしが頼んでんだ! 断んじゃねーっ!」
圧倒的な暴威、暴力。これは稀にいる言葉が通じないタイプの人間であった。
「ええっ――!?」
疲労からか抵抗する膂力もなく、息苦しくなって意識が遠のいていく深渕。
「やめて萌花ぁ! 深渕さんを離してぇ!」
「ダメだ、深渕がいいって言うまで下ろさねえ! ほら深渕、はやくOKしろよ」
ゆさゆさと深渕を揺する華蕪。
深渕は勘違いしていた。このままずるずる日常が削られいくのではない。
もはや取り返しのつかないところまで、日常は抉られていたのだ。
#5 兎に角{あるいは:塔;}
古代ローマ人のような一枚布を巻きつけて、静止している深渕。
生白い肌が右腕から背中にかけて露わになっている。
振り返る直前のポージングなのだが、自然な立ち姿を意識しながら、ひねった状態を維持しなければならないので、思った以上に負担がかかっている。
しかし一心不乱に筆を走らせる華蕪萌花の迫力につられて、深渕は呼吸も極力抑えていた。
ピピピピピピピピ……とタイマーが鳴る。
「休憩してくれ」
華蕪はキャンバスから目を離さずに言った。
「ふうぅぅ…………」
緊張から解放されて、深渕はどっと疲れた。
モデルなんてただじっとしていればいいと侮っていたが、大変な仕事だと思い知った。人間は集中していなければ静止もできないらしい。全身の筋肉を意識して、ようやく姿勢をキープできるのだ。
だが、集中力にも限界がある。
そのため、15分に1回休憩を入れるのだそうだ。
まだ1回目の休憩だが、これを計5回行うのだという。
身体がもつかどうか不安だった。
『タダとは言わねえ。礼はさせてもらう』
図書館で息も絶え絶えの時分にこう言われて、引き受けざる得なかった深渕だが――華蕪は律儀にも、描く前に謝礼を渡してきた。
茶封筒から透けてみえる金額は、深渕が思っていたよりも多かった。
「こんなに貰えないよ」
「プロに頼むともっとかかんだ。遠慮なく取っといてくれ」
気前がいいのか、どんぶり勘定なのか。
ただ、一度渡したものは受け取らない主義のようだった。
休憩時間になっても、脳内イメージをもとにしているのか華蕪は描き続けている。足元にはすでに、デッサンを終えた紙が何枚か散らかっていた。素人目ながら、どれもよく描けているように思う。どう見ても自分にしか見えないものが、何枚も描かれている様は、自分が複製されていくようなむず痒さがあった。
「来てくれて助かったよ――マジで行き詰ってたんだ」
休憩で手持ち無沙汰の深渕に気を使ったのか、華蕪は手を動かしながら話してきた。
「拒否権がなかったからね」
「あたしはこうだって思うと、止められねーんだ」
「難儀な性格だよ」
「友だちは少ねーわな」
「そこに関しては、人のこと言えない……」
「あたしは絵を描いてれば満足だから、その他は全部めんどくせーって感じだ」
「ほんと、人のこと言えないよ」
ふたりは打ち解けていた。
松里が仲立ちしてくれたというのもあるが、「強引ではあるが、悪意はない」という根本さえわかれば、華蕪は付き合いにくい相手でもなかった。熱しやすく冷めやすい性格は、頓着がないという点で深渕に似ていたともいえる。
華蕪萌花は美術部である。
現魔部に席を置いてはいるが、メインは美術部で、現魔部はかけ持ちだそうだ。
赤を基調にした抽象的な油絵を描いて、コンクールにも入選しているという。
着ているジャージも濃淡さまざまな赤絵具で彩られていた。
美術室は何部屋かあるのだが、ここは華蕪のアトリエになっているらしい。
これまでに描いた絵画が、何枚も壁に立てかけられている。
「なあ、深渕は好き嫌いあんの?」
「それって、何について?」
「なんでもいーんだよ、飯とか、色とか、趣味とか――」
「ん――何でも食べるし、色に好きも嫌いもないし、趣味っていってもなあ……」
「はっきりしねーな。こう――これだって言えるもんはねーのか?」
「部屋でぼーっとしてるのは好きだね。空を眺めたり、何にもしないのが好きだな」
「お、いいな。そういうやつもっとくれ」
「好きな料理はないけど、食べるのは好きかな――ってそれ絵に関係ある?」
「ああ、ありありだ」
華蕪はようやくキャンバスから目を離して、深渕に顔を向けた。
「描いても描いても上手くいかないときってのがあんだよ、丁寧にスケッチしたり、写真みたいに細かく描いても、何だか被写体の持ち味が出ないってのがな――それってたぶん、背景が描けてないってことだとあたしは思ってる」
「デッサンって、背景まで描くんだっけ?」
「景色のことじゃねーよ、バックボーンだ。設定とか、生い立ちだな。野菜ひとつ描くにしても、ただ野菜を描くのと、生産者の写真とか名前見ながら描くのとでは、違ったもんになる。くたびれた財布とか、履きつぶされた靴とかも、雰囲気まで描くには背景が大事だって思うよ」
「華蕪って――そうゆうこと考えるんだね」
「あたしの好きな画家でマーク・ロスコってのがいんだけど、その人の絵は、ぱっと観るとただ一面の赤なんだよ。けど観てるうちに、何か落ち着かなくなってきて、気づいたら感情が揺さぶられてるんだ。ってのはやっぱり、色以上の何かが、そこに表現されているってことなんだろうな」
「じゃあ、ぼくの背中からはまだ雰囲気が出てないってことか……ぼくは存在感薄いから」
「それとは違う気がすんだよな……」
「じゃあ、モデルとしてやる気が足らないから?」
「はじめてにしては、よくやってる方だ」
「じゃあ何だろう」
「そいつを知りたくて、聞いてんだ」
華蕪はぐっと深渕の目を覗き込んだ。
それは深渕の目の奥、身体の内部にまで入り込もうとするような視線であった。
「深渕は――意志とか主張があるくせに、全部ぼかしてちまってる感じだな」
「それ、ぼくの能力とか個性ってやつじゃ……」
深渕はクラスメイトの言葉を思い出して、少し嫌気がさした。
「いや――どっちかっていうと気の持ち用だと思うぞ。深渕にもはっきりした個性はあんだ。深渕の場合は咽喉だな。咽喉のまわりの筋肉とか筋とか、すげー個性的な形してる」
「咽喉……」
深渕は咽喉まわりをさすってみる。
言われてみれば咽喉の形など注意して見たことがない。鏡は毎日見ているはずなのに、意識しなければ記憶にも残らないらしい。
ごくりと唾を呑み込んで、咽喉を動かしてみる深渕。
「ぼくは面倒から逃げるタイプだから、あまり意志とか主張がないのかも」
「なんで?」
「じぶんだけの時間を作りたいんだ」
「なんで?」
「さあ、ただ好きなだけで、あんまり理由もないかな」
華蕪がじっくりと深渕を観察していると、ふいに教室の扉が開いた。
「お、やってんじゃん」
入ってきたのは、青い瞳をした女だった。
瞳と同じく、ラメの入った青いジャージを着ている。
身体にフィットしたしなやかなジャージ姿は、どこか爬虫類を思わせた。
「来たな、虎子」
そういうと華蕪は立ち上がって、ぐるぐると肩を回すのだった。
深渕が女の顔を珍しそうに見つめていると、女はにっかりと笑って、
「この目、青いだろ? わたし山形出身だからさ。東北には青い目のやつ結構居るんだよ」
と気さくに話すのだった。
へぇ~、と深渕がうなずいていると、
「あんた深渕だろ? 照美先輩から逃げたり、萌花に捕まったり、大変だよな。わたしは京成虎子っていうんだ。よろしく」
というと、京成も軽くジャンプをして身体を揺するのだった。
「じゃあ、いくぞ虎子」
「よっしゃ、やるぞ萌花」
拳を固めて、にわかに殺気立つふたり。
緊張がアトリエにみなぎっていく。
すう、とふたりは同時に息を吸って――
「「じゃん、けん、ぽん!」」
と叫んだ。
*
京成虎子は陸上部である。
中距離の成績が好調で、県大会では上位に食い込む実力者なのだそうだ。
小麦色の肌は、今は首筋と顔しか見られないが――大安に言わせると、日に焼けて引き締まったユニフォーム姿は蠱惑的なんだとか。垣根のない性格で、去るもの追わず来るもの拒まずだが、情には厚く、面倒見も良いという。
そして京成も、かけ持ちで現魔部に所属しているそうだ。
「あっちむいてホイ! ――くっ」
ほとばしる汗。
ふたりの周りには、どちらのものだかわからない汗が滴っている。
『じゃんけんぽん!』「あっちむいてホイ!」『じゃんけんぽん!』「あっちむいてホイ」『じゃんけんぽん!』「あっちむいてホイ!」『じゃんけんぽん!』「あっちむいてホイ」『じゃんけんぽん!』「あっちむいてホイ!」『じゃんけんぽん!』「あっちむいてホイ」『じゃんけんぽん!』「あっちむいてホイ!」『じゃんけんぽん!』「あっちむいてホイ」…………
全力で繰り出される、高速あっちむいてホイ。
目を剥いて、歯を食いしばり、鬼の形相で向かい合うふたり。
3回勝負といってはじめたのが、華蕪が2勝、京成が1勝で、かれこれ10分以上が経過している。
ローマ人風の深渕が唖然としていると、最後はあっけなく勝負がついた。
『じゃんけんぽん!』
「あっちむいてホイ! ――っしゃぁーーっ!」
「くっそ……だぁああ……」
膝から崩れ落ちたのは京成だった。
床に手をついて、はあはあと苦しそうに呼吸をする。
勝った華蕪も、ふひゃぁーと息を吐きながら、地べたに尻をついた。
もはやどちらが敗者でどちらが勝者かわからないほど疲弊している。
「虎子……ちょろいな」
「6限目に……寝ればよかった……」
「後半の……フェイントは……危なかった」
「あれは……完全に取ったと……思ったんだけどな」
「あのう――これはいったい」
息を切らしながら話すふたりに、痺れを切らした深渕が口を開いた。
するとふたりは、しかつめらしく答えるのだった。
「ウォーミングアップだ……」
「瞬発力、集中力、決断力、対応力……さまざまな神経を鍛える……」
「心拍数が上がると……発想力も上がる……」
「身体と頭を……同時に使うんだ……」
「あー、ふーん、へー」
着いていけない世界のようなので、深渕はもう聞くのを諦めた。
「おい深渕……今、興味持つことを止めただろ……」
「知っても仕方ないことあるなーって思って」
「あっちむいてホイの素晴らしさをわからんのか……そもそもじゃんけんというのは、日本が発祥で世界に広――」
「いや、大丈夫」
「おまえの興味をくれ、興味を……」
京成が力なく手を伸ばすも、深渕はひらりとかわした。
今だったら、このふたりからも難なく逃れられそうである。
だが後々面倒そうなので、大人しく様子を見ておく。
「回復したら……再開すっからな……」
華蕪もまだ筆さえ持てなさそうなほどである。
「そういや萌花……マヨイガが出たらしいな……」
「ここらじゃ、珍しいよな……」
「あれはわたしの領分だと思ってたんだけど……視えたのか?」
「急いでたから……勢いだ」
「そういうのが増えてきた気がするよ……」
「この学校じゃ、いつものことだろ……」
「珍しいのが、増えたってことだ……」
「あたしは別に、そんな気しねえけど……」
「萌花は基本的に、引きこもってるから……」
「ぅるせー」
「あれが日常かぁ」
それは深渕の願う日常とは、かけ離れた日常である。図書館に捕らわれて、何時間も何日も彷徨うことが、この学校では茶飯事ということだろうか。想像だに恐ろしい日常である。
「視える人間が集まると、呼び寄せるってことなのかね――わたしの専門はドラゴンだけど、あれも騒ぎを起こすと厄介なんだよ……」
事後ように語る京成に、深渕はまた戦慄する。
「ドラゴンって、あの、恐竜みたいな」
「そうそう、めっちゃ怖いんだから。んで、萌花が妖怪ね」
「妖怪って、昨日のマヨイガだっけ?」
「いや、マヨイガは説明が難しいんだ……西洋的なのがわたしで、東洋的なのが萌花というか……」
京成が言い淀んでいると、華蕪が横槍を入れる。
「余計ややこしーだろ! 深渕にはわからねーと思うけど、あたしは地球由来の化け物で、虎子は宇宙由来の化け物って感じだ」
「んん??」
いまいちわからないが、それは要約すると――
「じゃあ、ドラゴンは宇宙から来たってこと?」
「そうだそうだ! なるほど、そう言えば良かったか」
妙に得心している京成。しかし深渕は、くしゃくしゃと額に皺を寄せる。昨晩だって、不思議な世界に迷い込んだのは確かだが、あれが妖怪の仕業だと言われても、実感は薄いのだった。そのうえドラゴンが宇宙人だと言われても、何のことやらである。
「困ったら何でも宇宙人にするよな、天狗とか河童とか」
何だか歯痒いので、聞き齧りの知識で冷や水を浴びせる深渕だったが、
「河童や天狗は、妖怪の領分だ」
と華蕪が真顔でいう。これには深渕も閉口するしかない。
「マヨイガは――元は宇宙船だから、境界は曖昧なんだよ」
「ほう……」
『元は』という部分が気になったが、聞いたところでおそらく理解できないのだろう。
「まあ、ぼくの日常に関わらないでくれたら、それでいいよ」
この際、ドラゴンや妖怪が居たって構わない。
関わりさえしなければ、それは居ないのと同じだからだ。
気にしなければいいのだ、気にならなければいいのだ。
深渕はそう自分に言い聞かせた。
しかし京成は、そんな深渕の内心など知る由もなく、親切心から、残酷にも話を続けるのだった。
「だったら、日常に関わる話をしようか」
「ぼくは霊感がないから、関係ないと思うけど」
「血液型占いみたいなもんだ」
というと京成は左手で4本指を立てた。
あっちむいてホイのときから気になっていたが、京成は左利きのようである。
「人は――稲荷系・天狗系・龍蛇系・弁天系の4つに分類できるんだ。簡単にいうと、稲荷は土のエネルギーで『自由で都会的』、天狗は風のエネルギーで『頑固で個性的』、龍は水のエネルギーで『気性が荒く白黒つける性格』、弁天は火のエネルギーで『美意識高い癒し系』ってところかな」
「何それ、性格診断?」
「そんな感じだな。わたしは龍蛇系だから雨女。萌花は稲荷系、器用だけど飽きっぽい。自然界の四大元素からきてるんだ」
「絵具の顔料は鉱物だから――土、とかな」
そういうと華蕪は、狐目の怪しい微笑みを浮かべるのだった。
「でもさ、お稲荷って神様だよね? それに龍神や弁天も――妖怪じゃなくて神様だろ?」
「日本の場合は神様がたくさんいるって考えだから、神社で祀られることもあるさ。妖怪といっても高位の自然霊みたいなもんで、神様に近いのかな」
「ピンキリだな――悪霊もいやがるし――ジャッカロープみたいに奇病の見間違いもある」
「人の考えた分類と、実際とは違うってことだ」
京成はにっかりと笑って言い切った。
華蕪と京成は、まったく違うタイプのようでいて、気が合っている。
互いの欠点を埋めるように、言葉で補完するのである。
ふたりの軽妙な会話は、どこか双子を思わせた。
「そんな妖怪が――ぼくにも憑いてるってことか……」
目に視えないものたちと距離を取ろうと思っていた矢先、すでに憑いていると言われたのでは、深渕も神妙になってしまう。
「深く考えることないさ。自然界のエネルギーが注ぎ込んでいる、くらいに思ってくれよ。それで――深渕は、じぶんをどれだと思う?」
「わかるわけないじゃん」
「直感でいいんだよ、山が好きなら天狗とか、川や海が好きなら龍神とか――」
「適当だなぁ――じゃあぼくは、天狗かな」
深渕はあっさりとこたえた。
「お、山が好きか?」
「風になりたいかな。ふわふわどこかへ飛んでいきたいよ」
「深渕がそう思うなら、そうなんだよ」
「…………」
「たとえ視えなくたって、深渕にもあるんだ。そうやって自分の形を見つけていくのも面白いと思うぞ」
「じぶんの形……」
そう言われて、深渕は咽喉をさする。
個性的だと言われた咽喉は、今は息苦しさを感じている。
呼吸をするのに支障はないが、梅の種でもつっかえているような、コロコロとした違和感があるのだった。
「じぶんはこうだって選択肢を絞っていくと、自分の輪郭がはっきりしてくるんだよ。そうしたらまた新しい発見があって、自分でも知らなかった自分に出会えるんだ!」
「…………」
深渕の中でしこりのようなものが蠢いていた。
それは言葉にしにくい不快感だった。
向き合うことに苛立ちを覚え、逃げ出したくなるものだった。
「何かを選ぶとき、選ばれなかったほうはどうなるんだろう?」
気がつけば、深渕はこうつぶやいていた。
「ん?」
「忘れてしまうのかな……」
「深渕は何のことを言ってるんだ?」
京成が意味を図りかねていると、華蕪が口をはさんだ。
「進むためには、選らばなきゃならねーだろ」
華蕪には、深渕と通底する感覚があった。
そしてそれは、華蕪にとって認め難い考えであった。
「進むって、そんなに大事なことなのかな……」
「生きることは、進むことだ。時間だって前にしか進まねーよ」
「時間が進むから、ぼくたちも進む? それって何か違うよね」
深渕は自分でも、何で揉めているのかわからなかった。
ただ胸の奥のわだかまりが落ち着かず、口を突いて出てしまうのだ。
「さっきのゲームだって選択の連続だよ。2人の勝敗を決めるだけじゃない。グーチョキパーの3つから選ぶ、上下右左の4つから選ぶ――そんな選択を一瞬でするんだ。選ばれなかった可能性を考えるほど、人間は暇じゃない」
「勝負をしないって選択肢は?」
「ふたりが出会ってしまったら、もう手遅れだ。それは数の原理なんだよ。1はすべてのはじまりだが、そのままでは何も起こらない。2は、出会いだが、対極で不安定。その2が衝突して3が生産される。ここで三角という形が生まれるんだ。でもそれだとまだ平面で、机上の空論だ。現実的に安定するためには、4になって立体を作らなければならない。これがテント、家になるんだ――数の原理だって、進むことを前提にしてる」
「0には戻れない?」
「何もはじめないってことか? それは愚か者のやることだ」
「よくわからない」
「可能性をひらすら妄想するだけの世界って――寂しすぎるだろ」
「何か抜け道があるはずなんだ……」
「人生に抜け道なんてねー。闘うしかねーんだ」
「じゃあ落とし穴でもいい――」
「地獄ってことか?」
「ただの穴でいいんだ――」
「どこへも繋がらない?」
「わからない――」
「あたしには深渕の言ってることがよくわかんねーよ」
「ぼくも――」
深渕は眩暈に襲われていた。
思えば昨晩も、家に帰ってゆっくりする時間もなかった。
ここ数日の目まぐるしい変化に、深渕の精神はついていくことができなかった。
景色がぐるぐると回っている。
発光し、白くぼやけ、残像が脳裏に焼きついている。眩しい。
深渕はよろめいた。顔色もすっかり悪くなっている。
「おい、深渕――」
華蕪と京成が駆け寄ろうとするも、深渕はふたりをなだめた。
「華蕪――続きは明日にしていいかな――ちょっと保健室にいってくる」
「わかった。無理させちまったな。連れていくよ――」
「いや、ひとりで行くよ……」
そういうと深渕は、洋服と荷物を手に、よろよろと美術室を出ていった。
そんな深渕の背を、華蕪は心配そうに見つめていた。
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目を覚ますと、深渕はカーテンに囲まれていた。
ここが保健室だと思い出すまでに、少し時間がかかる。
外はまだ明るいようで、自然光が透けている。
来たのは17時ごろだったと思うが、そんなに時間も経っていないのだろうか。感覚的には、数時間眠っていたように思える。
気分はすっきりしているし、眩暈も治まっていた。
養護の伏良先生にもらった薬が効いたのだろうか。
保健室は校庭に面しているので、運動部の掛け声が聞こえてくるが、窓やカーテンに阻まれると遠くの喧騒となり、むしろ心地良い。
深渕はゆっくりと身体を起こした。まだローマ人姿のままである。着替える気力もなく、ベットに横になったのだ。服や荷物はパイプ椅子の上に乱雑に投げられている。
「――ふう」
深渕はベットから降りると、時計を確認しようとカーテンの外へ出た。
「もうよろしいのですか、深渕さま――」
「え――宗堂さん?」
養護教諭のデスクチェアに、ちょこなんと座っていたのは宗堂ゐゑであった。
相変わらずのゴスロリファッションに、番傘、ぽっくりである。
保健室でも構わずに番傘を差していた。
「わたくし保健委員になりまして、きょうは当番なのです」
「そうなんだ、なんか――似合うね」
恰好からいえば不似合だが、『傷ついた人を放っておけない』という宗堂の性格から言えば、似合っているように深渕には思えた。
「痛み入ります。ところで深渕さま――ご加減はいかがでしょう」
「ずいぶん良いよ。ゆっくり眠ったから」
「そう……ですか?」
宗堂は怪訝そうな顔をする。
その顔に深渕も不審がって、時計を確認する。
17時半。まだ30分しか経っていなかった。
「もっと寝た気がするんだけど――」
「お疲れになっていたのでしょうか? 深く眠ったのかもしれませんね」
「夢を見た気がするけど――」
「人は眠るたび、精神だけの存在になるといいますから。もしかすると、どこかへ行かれていたのかもしれません」
「幽体離脱? それだと余計に疲れるんじゃない?」
「あちらの世界は時間の流れも違うそうです」
「ま、薬が効いたんだと思うけどね。頭痛もなくなったし」
「良かったです。安心いたしました」
宗堂は優しく微笑んだ。
伏良先生によると、霊感に目覚めたり霊感が強くなる際に、頭痛や眩暈を訴える人が多いそうだ。そうゆう人のために、頭痛薬や向精神薬が常備されているという。向精神薬というのは少し抵抗あるが、養護教諭の先生が差し出すものならば問題ないだろうと、深渕はためらわずに飲んだ。
ただ、飲んだ後、「ごく稀に副作用があるから、注意してね」とは言っていた。
「そういえば、伏良先生は?」
「会議があるそうで、しばらくは戻られないと思います」
「そっか――」
深渕は校庭を見下ろした。
校舎側が少し高くなっているので、1階の保健室からでも校庭を一望できる。
部活動に励む世啓戸学園高等部の生徒たちが見える――陸上部、野球部、サッカー部、ハンドボール部……体力作りのために走っている他の運動部も含めて、活気あふれる校庭。
それは、他の学校となんら変わらない放課後の光景であった。
「変わらないって――良いことだと思うんだ」
「はい?」
唐突な一言に、一緒に校庭を眺めていた宗堂は戸惑っているようだった。
侵されていく自分の日常とは違い、常日頃と変わらない校庭を眺めていると、深渕は懐かしさのようなものを感じたのである。
「凪って言葉みたいにね、何も起こらない世界が、ぼくには理想なんだ」
「……グラウンドはとても激しい世界に見えますが――おや?」
「それが校庭の日常だよ」
深渕は、宗堂に向き直った。
深渕が整理をつけるには、聞いてくれる相手が必要だったのだ。
「あるべき光景を、変わらずに繰り返してる――それってすごく、良いことだと思うんだ」
「良いこと、ですか……ですが――」
宗堂は、何かに気を取られているのか、歯にものが挟まった物言いをする。
深渕はしっかり聞いてもらおうと余計に熱が入った。
「変わらない毎日を作ることが、いちばんの幸福だと思うんだ」
「ええ、深渕さま――」
「校庭では身体を動かすことが、平穏で、日常なんだ」
「深渕さま、あちら――」
「だから人の平穏を踏みにじったり、日常を壊すことは――悪だよ。そんなことをしたら地獄に堕ちるね」
「はい、落ちます」
「そう! 堕ちるんだよ!!」
深渕が声を張り上げた、その時、爆音が轟いた。
保健室の窓ガラスまで、ぎしぎしと軋ませる轟きである。
「なっ、なに!?」
じいっと外を見つめる宗堂の眼差しを、深渕もようやく追うのだった。
大穴が開いていた。
校庭にぽっかりと、黒い穴が開いて、ぷすぷすと煙をくゆらせている。
それはまるでミサイルでも撃ち込まれたような穴だった。
「戦争でもはじまった?」
「いいえ、UFOが落ちました」
「UFOが落ちました!?」
こうしてまた、深渕から日常が奪われたのだった。
*
宮家照美は生徒会室から校庭の大穴を眺めて――笑っていた。
「この学校に入ってから、わたしは飽きたことがないの。それまで人生は、何てつまらないんだろうと思っていたんだけどね」
生徒会室にはもう一人、厳めしい顔の老人が腰かけている。
西洋人には違いないが、中東系の血も混ざっているような顔立ちである。
「クラブは順調か?」
しわがれた声である。日本語は堪能のようだ。
「ええ――とくに深渕クン」
「〈ダート〉は深淵だ。長く覗き込むと、おまえが深淵に落ちるともわからん……」
「あれは民を潤す井戸だわ、おじさま」
「井戸に毒を盛られれば、村は全滅する」
「でも井戸が無ければ、人は生きられないの」
ふたりの会話はどこか芝居がかっている。
言葉遊びそのものを愉しんでいるようでもあった。
「井戸に頼る村は、枯渇する――無意識に頼る人間が、崩壊するように」
「あら、おじさま――フロイトが覗いたイドはアストラル界までよ。精神はもっと深いわ」
「そうだな……無意識の一言で片づけられるほど、深淵は単純ではない」
「いいえ、単純よ。わたしたちは高校生だから、高校生らしくしていたいだけ」
宮家はそういうと、老人に窓の外を見るよう促した。
老人はゆっくりと立ち上がり、大穴に目を向ける――
穴からは奇怪な生物が這い出してきていた。
「あれも、〈ダート〉が?」
「わからない――でも、何だかワクワクしない?」
宮家はぎゅっと目をつぶって、身体を奮わせていた。
子供のように無邪気なその顔は、この学園のだれも観たことがない顔だった。
「きっと、わたしは深渕クンにすごく似てるの。変わらない毎日が、とても愛おしいんだわ――」
「校庭は騒がしいようだが――」
「でもそれが――校庭ってものよ」
すると老人もつられて、静かに笑うのだった。
「おまえの好きなようにやるといい」
「ありがとう、おじさま」
そういうと宮家は、喜々として校庭を眺めるのだった。
宮家はこの日常を、特等席から鑑賞するつもりらしい。
老人も黙ってそれに従っている。
大穴からは、奇怪な生物が、次々と這い出していた――
*
深渕には、それが視えていた。
大穴から突き出た、細く長い足。
虫のように黒くて、鈎爪がついた足。
それがうねうねと動いて、醜悪な本体を穴からさらすのだった。
巨大な節足動物の下半身と、獰猛な獣の上半身を持つ怪物――
軽トラックくらいの化け物が、何匹も噴き出てくるのである。
「宗堂さん――あれ、ナニ?」
「はて――どちらでしょう」
宗堂はきょとんとしている。その怪物が視えていないようだった。
「ってことは――これ、もしかして……」
深渕が視ている怪物は、霊視によるもの、ということであった。
つまり深渕は、霊感に覚醒したのであった。
「ぼく、視えてるみたい」
「深渕さまは、何が視えていらっしゃるのですか?」
「蟻の下半身と、ライオンの上半身をくっつけたみたいな化け物が、たくさん――」
「蟻とライオン……アリジゴクの学名でしょうか? たしかアントライオンと言うはずですが」
「アリジゴク感はないよ、ただ――」
怪物のあふれる校庭は、地獄感があった。
倒れている生徒、逃げ惑う生徒、立ち尽くす生徒、襲われる生徒、仲間を助ける生徒、応戦する生徒――スペインの牛追いのようなお祭り騒ぎである。
穴から出た化け物は、蜘蛛の子を散らすように四散する。
校庭を駆け、校舎によじ登り、木々の合間を抜けていく。
よく見ると、校庭には京成虎子の姿もあった。
黒く長い足を上手くかわして、化け物の頭に回り込むと、左手で触れる。
すると化け物は活力を失ったように、その場にうずくまるのだった。
小熊千得率いる風紀委員も駆けつけた。
小熊は愛用のゴルフクラブを振りかぶり、化け物を一撃で鎮圧してゆく。
「怪我人の手当てをしなくてはですね――」
宗堂は薬品棚の扉を開けると、中から拡声器を取り出した。
そのまま校庭へ面したドアをスライドさせて、外へ出る。
「宗堂さん――危ないよ」
「かまいません」
宗堂は拡声器を構えると、
『お怪我のある方は、保健室までお越しください! 担架が必要な方はお手を挙げてお知らせください』
と叫んだ。
数人がこちらに気づいて、笑顔で手を振っている。
しかしそれは「助けてくれ」ではなく「大丈夫だよ」の合図であった。
大事件の最中にしては、あまりに能天気な反応である。
声が聞こえたのは人間だけではない。
化け物にも声は届いたようで――数匹がこちらへ向かってくる。
『ご気分の悪い方も、保健室までお越しください!』
視えていないからか、繰り返し案内する宗堂。
「宗堂さん! 化け物がこっちに来てる!」
宗堂を抱えて逃げようか、それとも化け物に飛びかかっていくべきか、そんな逡巡をしていたが、宗堂はけろりとして、
「ご心配いりません」
とこたえた。
すると化け物は、さっと宗堂の手前で急停止したのだった。
「なんで――」
「わたくしには、これがありますから」
そういって差している番傘を見上げる宗堂。
「視えないものは、あらかた寄せつけません。それに――視えないものは、見えるものに触れられません。ちょっと気分が悪くなるくらいです」
「え、そうなの?」
深渕が校庭を見回してみると、襲われていた生徒も、ただ座り込んで気持ち悪そうにしているだけだった。怪我したり、食べられたりしている生徒は一人もいなかった。
「視えないものは、視えない部分にしか影響を与えられないのです――」
そういうと宗堂はまた拡声器を手にして、堂々たる佇まいで放送するのだった。
化け物は渋々方向転換して、別の場所へと散ってゆく。
深渕が感心していると、保健室の扉が開いて養護教諭の伏良葉月が入ってきた。
「お、やってるねー。よろしい、よろしい」
伏良はそのまま、冷蔵庫から私物のタッパーを取り出すと、自分のデスクにどかりと座り、中に入っていた葛餅を爪楊枝で器用に食べるのだった。
「せ、先生、校庭が大変なんですけど――」
「職員は基本的に、校内の問題に口出ししないよう言われてるんだよね」
パクパクと暢気に餅をほおばっていく伏良。もごもごと口を動かしながら、
「それより、深渕はもういいのか?」
と話題を変える。
「あ、はい、薬が効いたみたいで――でもぼく、アレが視えるようになって――」
「あー、それ違うんだわ」
伏良は爪楊枝をくわえたまま、目だけを向けた。
「薬の副作用で、稀に視えるやつがいるんだよ。なあに大丈夫、すぐ戻るから」
「え、そうなんすか!? ってか、そんな薬あるんすか!?」
深渕が驚いていると、伏良はもう興味を失ったようで、
「なあ深渕、調子良いんだったら、肩揉んでくれない? どうも疲れが溜まってるみたいで、カッチカチなんだよなぁ」
などと自由なことを言い出す始末である。
生徒も生徒なら、教員のほうも変わった教員が多いようである。
眼鏡も白衣も少しズレている女史は、ぶつくさ言いながら肩や首を回していた。
深渕は仕方なく、伏良の肩を揉みはじめる。
「先生は、視えているんですか?」
「ああ、ミルメコレオね。懐かしいわ、イタリア行ったときに視たわね」
「ミルメコレオ、っていうんですか、あれ」
「こっちの言葉に直すと蟻獅子からしら。まあでも日本じゃもっと馴染んだ名前があるけどね――土蜘蛛、牛鬼とか、聞いたことない?」
「蜘蛛……あぁ、たしかに――」
蟻、蜘蛛、それはそうした昆虫めいた足なのである。
そして頭部はライオンとも、毛の生えた鬼ともいえるかもしれない。
「国によって呼び方が違うのは当然よね――あぁ~そこそこ」
伏良は首をだらりと垂らして、悦んでいる。
「でもそれとUFOとどういう関係が――」
「ん~言っていいのかしら? あのね、ミルメコレオは――」
「ドラゴンだ」
そう言いながら保健室に入ってきたのは、京成虎子であった。
走り回っていたせいか、はあはあと息も荒く、埃っぽい。
「深渕、もういいのか?」
「あぅんんっ、もう最高よ深渕くん」
「変な声出さないでくださいっ! それよりドラゴンって、あれは宇宙人ってこと?」
「宇宙人というよりは、守護するものとか、戦車とか、宇宙船そのものだ」
「宇宙船……それでUFOか――」
たしかにミルメコレオの足をよく観察してみると、黒く視える細足は、硬い鱗に覆われている。それはドラゴンの、爬虫類的な特徴であった。
「深渕に頼みたいことがあるんだ」
「今ぼくにできることはなさそうだけど――」
「誰かがUFOを飼っているらしいんだ。そいつを見つけて欲しい」
「UFOを、飼う?」
それはおおそよ、UFOと結びつかない単語であった。
未知の・空飛ぶ・物体、というのがUFOの呼称であるのなら、そんなわけのわからないものをどう飼うというのだろう。
「小型のUFOは、光る小動物だと思ってくれ――好奇心も強くて、人に懐くから、飼うやつが出てくるんだ」
「ほう――」
またしても超常情報であった。
しかし、「未知の」というのはもしかすると自分だけであって、この学園ではすでに「既知の」ことなのかもしれない。理解はできないが、想像力を煌めかせて理解したつもりになるしかないのであった。
そんな深渕を察してか、京成もわかりやすく、かいつまんで説明する。
「子UFOを、親UFOであるミルメコレオが取り返しにきた、ってところだな」
「あれが親UFO? え、じゃあ、悪いのは人間側ってこと?」
「そいつを見つけてもらいたいんだ。わたしは手が離せなくて――頼むっ」
というと、京成はまた走って校庭に戻るのだった。殖え続けるミルメコレオの対処も止めるわけにいかないのだろう。きっと深渕の姿が見えたから、ここに飛び込んできたのだ。
「でも探すって――どうやればいいかな」
と深渕がぼんやりしていると、
「わたくしが、ご案内いたしましょう」
と申し出たのは、宗堂だった。
拡声器でのアナウンスを終えて、室内に戻って来たのだった。
「何か心当たりがあるの?」
「〈ゲニウス・ロキ〉に訊いてみようかと思いまして――先生、よろしでしょうか?」
「いいよ。あとは任せて」
伏良は机からも離れず、手をパタパタと動かして返答した。
「申し訳ありません――では、参りましょうか深渕さま」
そういう宗堂は、どこか楽しそうにみえた。
「ゲニュウなに?」
「ゲニウス・ロキは、地霊です――その土地特有の雰囲気というのでしょうか。わたくしには視えませんが、感じることはできますので――そうですね、道に迷ったときに棒が倒れた方へ進むというのも、ゲニウス・ロキに道を尋ねているのです」
「何だか――雲をつかむような話だね」
「あら、見てください深渕さま――」
宗堂は空を指さした。
そこには暗闇のなかに、一番星が瞬いているのだった。
「宵の明星です――金星の導きがあらんことを」
そういうと宗堂は歩きはじめた。
小柄で、華奢で、おまけにぽっくりまで履いて足元も悪そうだが、宗堂は凛乎として、まっすぐ歩くいていく。
深渕は、宗堂が拓いたその道をそろそろと着いていった。
*
華蕪萌花は、悪寒に襲われて筆を止める。
「ちくしょう――姉貴……なんの用だよ」
「あ、気づいちゃった?」
美術室の扉を開けて入ってきたのは、華蕪によく似た女性である。
ただし、童顔の華蕪よりは幾分か歳上に見えた。
高級そうなスーツを、飾り気なく着こなしている。
「ちょっと偵察かな」
「あたしの、ってわけじゃないよな」
華蕪は震える右手を必死に押さえている。
「外が騒がしいみてぇだけど、姉貴に関係あんのか」
「んー、それは結果でしかないから、むしろ原因のほうが気になってる、かな」
「神社真庁が動くようなことかよ」
「きょうはオフなの――わたしの独断」
「独断でこんなとこまで来んじゃねー」
「やーだ、わたしの大事な大事な萌花に、何かあったらどうするのよー」
「ちっ――」
悪態をついてはいるものの、強がりでしかないことは、華蕪もわかっていた。
姉に対しては、すべてのこと、すべてのものに対して、規格が違う。
人間に畏怖を感じるなんて、どうかしていると思うのだが、それが幼いころから身体に沁みついてしまった感覚なのだった。
「わたしが近くにいたら、萌花がいやーな顔するからね、お姉ちゃんとしては寂しいんだけど――」
「…………」
「またね、萌花」
華蕪にウィンクを投げると、女は静かに扉から出ていった。
力一杯に押さえていたせいか、華蕪の腕は痺れていて、しばらく動きそうもなかった。
*
「深渕さま、こちらです」
そこは学園内のはずれにある屋内テニス場であった。
すでに日も暮れているので、窓からは煌々と明かりが漏れている。
ここにはまだ、ミルメコレオは到達していないようだ。
途中何匹かとすれ違ったが、宗堂の番傘があれば怖くはなかった。
それに、どうやらミルメコレオには深渕が視えていないようであった。
クラスメイトや宮家たちが、視えないといっていた個性がここで活きていた。
ふたりが場内へ入ると、そこは眩しいほどであった。
3面のコートが横に並んでいるのだが、一番奥に人だかりができている。
テニス部の生徒だけでなく、普通の生徒も混じっていた。
大学部や中等部の生徒までいるようだ。
深渕たちが頭越しにコートを覗くと、どうやら一人の生徒と、コーチが対戦しているらしい。
コーチはラフなジャージ姿で、すでに大量の汗をかき、余裕のある表情には見えなかった。
生徒のほうは体操着で、緑の鉢巻きをきつく締め、闘志をたぎらせている。
体操着の胸元には「羽津明」という名前のゼッケンが貼られていた。
羽津は玉を高く投げ上げると、強烈な弾丸サーブを放った。
コーチはそれを、鮮やかにリターン。
この攻めのリターンに、羽津も驚異的な脚力で追いつくと――ドライブショットを打ち込んだ。
が、球筋を読んでいたコーチは前衛に上がっており、逆サイドへボレーで返す。
羽津も俊足で戻る、が――
ラケットの先がわずかに当たって、ゆるく打ち上げてしまう。
コーチは、それを逃さなかった。
「0《ラブ》ー30《サーティ》!」
〈審判〉の笛が響くと、観客もどっと湧くのだった。
「あ~~~!」
悔しそうに叫ぶ羽津。
背後には『世啓戸学園 テニス部 ファイト!』という横断幕が、でかでかと壁に掲げてあった。
それにしても――と、深渕は目を細めた。
場内の明かりがあまりに眩しく、いや、眩しすぎるように思えた。
ふと天井へ視線を向けると、梁にびっしりと照明が並んでいた。
どう考えても、灯体の数が多すぎる。それどころか、その照明は動いていた。
いや、それは照明ではなかった。
輝く発光体が、天井を覆い尽くしていたのである。
「宗堂さん、あれUFO?」
「わたくしには視えませんが……」
とはいえ宗堂も気配は感じているようだった。
「この中のだれかが、あれを飼っている? いや誰かっていうより――あいつだな」
そのUFO群は、羽津の動きに呼応していた。
羽津が打ち込めば、それに合わせて忙しなく動き、羽津が打ち込まれれば、静かに見守る。
羽津が得点を取ると歓喜し、取られると落胆する。
もはや羽津の応援団だった。
数体が下降して羽津の周りをぐるぐると飛翔する。
すると羽津は、邪魔だと言わんばかりに、手で跳ねのけた。
それどころか――
次第にゲームを盛り返してきた羽津が、ついにセットを奪い取ると、
『ゲームセット! 羽津!』
「っしゃ~~~! 努力! 勝利! UFO!」
羽津の喚声にUFOたちも、夏の蚊柱のように乱舞するのだった。
「今、完璧にUFOって言ったよね?」
「おっしゃいましたね」
「間違いなさそうだな――けど」
熱狂する観客のなか、どうやって羽津と話をしたものだろうか。
大声をあげたところでかき消されてしまうだろう。
それに叫んだところで、白熱している羽津には届かないかもしれない。
そうなると、テニスコートに入って直接羽津に話しかけるしかなかった。
「目立つよなぁ……」
深渕が窓に目をやると、すでにミルメコレオが幾匹並んでいた。
ぎょろりとした目玉が、いくつも中を覗いている。
深渕は嘆息した。そしてそのまま黙って、人垣をかき分けていく。
「――深渕さま?」
宗堂は周囲を見回した。
いつのまにか深渕がいなくなっていた。
たった今まで隣にいたはずなのに、宗堂は深渕の姿を見失っていた。
*
一週間前のことである。
テニス部の練習を終えた羽津明は、寮までの道をひとり歩いていた。
まっすぐに帰りたくない気分だった。
中間テストの結果が悪かったのは仕方がないにしても、部活の試合でも連敗。
ダブルスを組んでいた先輩とは口喧嘩になった。
先輩の指示を無視して飛び出したことは悪かったが……もう一呼吸はやく動けていれば、確実に得点できた。
失敗したが、あのときの判断は間違っていなかったと思う。
それなのに先輩は、指示を無視したことに腹を立てたのだ。
勝つことが目的の試合で、先輩は自分を従わせることに固執していて、羽津も腹が立った。
ついには「謝る」「謝らない」の話になってしまい、自分が悪いと思えない羽津は、絶対に頭を下げなかった。
そうしたら部内の空気はすっかり悪くなってしまった。
悔しくて、歯痒くて、羽津はくさくさしていた。
「あーもうっ!」
ああすればよかった、こうすればよかったと、堂々巡りして自分でも嫌になる。
こんなときは身体を動かすのに限る!
羽津は自慢の脚力でもって、駆け出すが――
小道の畝に足をとられて盛大に転んでしまった。
「ってー! くっそぉー!」
不甲斐ない自分に思わず声を上げる。
ここまでくると、あまりに情けなくて、逆に吹っ切れてもくる。
「まあしゃーないよな、明日、明日!」
羽津は仰向けに寝転んだ。
すると、夜空に蛍のようなものがふらふらと飛んでいるのがみえた。
ん? と羽津が不思議に思ったのは、それが蛍よりも大きく、ドッジボールくらいのサイズがあったからである。
「なんだ、あれ――?」
光は木々の梢を避けながら、右に左に力なく泳いでいた。
羽津が頭を上げると、向こうも羽津に気づいたらしく――近寄ってきた。
光の球は、羽津の膝元にすがるように降り立った。
フワフワとした柔らかい感触がある。
「どうした――迷子か?」
それが何かはよくわからなかったが、悪いものには思えなかった。
元気がないのか、放つ光が少しずつ弱くなっているようだった。
羽津がそっと撫でると、そいつはよろよろと浮きあがり、羽津に頬ずりをした。
「か、か――」
可愛い……それは羽津の荒んだ心をすっかり癒してしまった。
「腹が減ってるんだったら――うちに来ない?」
羽津はそういうと――光の球を抱えて、部屋まで大急ぎで帰った。
何を食べるのかわからないので、夕飯用に取っておいたコロッケを温める。
そいつはコロッケに着地すると……体内に取り込み――吐き出した。
コロッケには何も変化がなかったが、球は光が増して、少し元気になったようだった。
吐き出したコロッケを羽津が食べてみると、味が抜けていた。
「何でも食べるのかな――」
缶詰を開けたり、カップ麺にお湯を注いだりして、できる限りのもてなしをする。そいつはみるみる元気になってゆき、すっかり明るくなった。
こうなると可愛くて可愛くて仕方がない。
一緒に風呂に入り――一緒の布団で眠る――
「おやすみぃ……UFO」
羽津はUFOを抱いて眠った。
翌朝になると、UFOは3つになっていた。
「わ、増えた!?」
3体にあまり差異はなかった。
少し大きさが違うくらいで、どの子も愛くるしさは変わらない。
またしても羽津は、もてなした。
もう手放すことは考えられなかった。
部屋にUFOを閉じ込めて、羽津は学校へ出かけた。
UFOのおかげか、その日はとても調子が良かった。
授業中、先生に当てられることもなかったし、昼寝もバレなかった。
購買では、前々から狙っていたクイニーアマンが買えた。
養護の伏良先生に診てもらったら、UFOを視る力に覚醒したということもわかった。
能力らしい能力がなかった羽津にとって、これは大きな成長だった。
部活のほうも連敗が止まった。
部内トーナメント中であったが、敗者復活戦で生き繋ぐことができたのだ。
お互いに謝ることはしなかったが、先輩とも和解できた。
だから、気分は晴れ晴れとしていた。
学校から帰ると、UFOは18体になっていた。
「また増えてる!?」
いくつもの光の球が、ふわふわと縦横無尽に浮かんでいる。
思わずUFOにダイブすると、柔らかに受け止めてくれるのだった。
「たまんねぇ~」
すっかり蕩けた羽津は、こうしてUFOにのめり込んでいった。
それから1週間が経って、UFOは増えに増えた――
もう数えるのは諦めていた。
とても部屋で飼うことはできない数だった。
そこで羽津は、屋内テニス場へとUFOを移動させることにした。
なるべく目立たないように、明け方に大移動させた。
部内にはUFOを視ることができる人はいないと、調査済みだった。
部活も順調に勝ち進み、トーナメント戦は優勝。
1年生で、優勝したのは羽津が初めてだという。
さらに特別試合として、コーチとの対決が組まれたのだった。
勝った場合は、道具一式を新調してもらえる。
だから――グリップを握る羽津の手にも、汗が滲んでいた。
5セットマッチの試合は、ゲームカウント3-5で羽津が優勢であった。
(あと少し……しゃぁーっ!)
羽津は心で気合いを入れ、サーブ用のボールを要求した。
同級生のテニス部員がボールを投げてくれる。
緩やかな放物線を描いて飛んできたボールは――
しかし羽津の前でぴたりと止まった。
「――!?」
ぎょっとする羽津だったが、よく見ればそれはボールがひとりでに止まったわけではなく、人がつかんでいただけだった。
その人物は、突然目の前に現れた気がしたが、思い返してみれば入ってくる姿も、そこに歩いてくる姿も、ちゃんと見えていたような気もする。
ただ――そいつは妙な恰好をしていた。
裸に白布を1枚巻きつけているだけだった。
「えっと――神様?」
「違う違う、ぼくは2年の深渕脱兎」
「人間なんすか? どうみても神様でしょ」
「恰好は気にしないで――それより、あのUFOは羽津さんのだよね?」
というと深渕と名乗った男は天井を指さした。
「うっ――そうだけど……」
たじろぐ羽津。
テニス部にはUFO視の人がいなかったからバレずに済んでいたが、さすがにこれだけの人数が応援にやってくると、視える人もいたのだろう。
「やっぱ、問題ありました?」
「そのUFOを探しに、親が来てるんだよね――」
「は? 親?」
羽津がUFOたちを観察すると、天井の隅に身を寄せ、縮こまっている。
何かに怯えているようだった。
と、天井が軋んで亀裂が走った。
ぱらぱらと破片が振ってくる。
そしてそのまま、天井の一部が崩落した。
コーチはすぐ異変に気づき、避難したから良かったが――
相手コートは、瓦礫と粉塵で、埋まってしまった。
「ど、どうなってんすか?」
焦る羽津に、深渕はやれやれという諦めにも似た顔を見せる。
天井に穿たれた穴から、巨大な化け物が頭を出した。
「げっ、何だありゃ――」
「あれが、親。ん? 羽津さんにも視えてる?」
「いや、視えるもなにも――」
そいつは肉体的であった。
肉眼ではっきり見える。
霊のように不確かなものではない。
巨大な化け物は、天井や壁を砕きながら、場内に降り立った。
観客の誰もがその姿を認め、逃げ惑っている。
「深渕さま、お逃げください。顕現されました――」
とどこかで女の子が叫んでいる声が聞こえた。
「顕現ってことは――怪我もするし、危険だってことね……」
そういう深渕は、恐怖を感じるというよりも、むしろ面倒臭そうだった。
化け物は、壁の穴から2体、4体、6体と次々に降りそそぐ。
その眼玉は、どうみても羽津を睨んでいた。
「これ、絶対絶命のピンチ……?」
相手コートに、無数の化け物がうずたかく積み上がっている。
化け物の群れににじり寄られて、後ずさりしかできない羽津。
そこへ――あの神様みたいな先輩が、また一歩踏み出したのだった。
「あっちが目に見えるなら、こっちも見えるよね……」
とかよくわからないことをいうと、深渕は膝を曲げ――土下座したのだった。
「申し訳ありません、UFOはお返しいたします。どうかお引き取りください」
「へっ?」
呆気にとられる羽津。
「ほら、羽津さんも――」
「え、それって――うちにも謝れってこと?」
「謝るなら、今のうちだよ」
羽津は顔をしかめた。
羽津にはできなかった。
頭を下げるのが大の苦手なのだ。
勝利を愛する羽津からすると、それは負けを意味することである。
そんな屈辱的なことは、羽津にはできない相談であった。
「向こうは子供をさらわれたんだけど――」
「う、うちは、元気になるまで育てただけで――悪いことはしてない」
「そう? ならあいつに食べられてもいい?」
「う――」
だが、どうしても非を認められない。
もしかしたら悪い部分もあるかもしれないが、悪意はないのだから謝る理由がないのである。
「羽津さんは、曲げられない人?」
「ごめん先輩、本当に悪気はないんだ――だから、うちは謝れない」
「ぼくにはすぐ謝るのに?」
「いや、これは自然に出たというか――」
すると縮こまっていたUFOの数体が、化け物とのあいだに割って入った。
それはまるで、UFOがかばってくれているようだった。
「お、おまえたち」
だがそんなUFOも、化け物の足に軽々と薙ぎ払われてしまう。
化け物は怒り冷めやらず、といった感じである。
「――やるしかないか……」
そういうと深渕は渋々と立ち上がって、自分の背に羽津をかばうのだった。
「え、まさか、先輩ってめっちゃ強い?」
ヒーロー展開を期待する羽津だったが、
「兎が闘うわけないじゃん」
深渕は肩から羽織っていた一枚布を引っぺがすと……天高く頬り投げた。
ふわりと布が開いて、深渕たちを覆い隠す。
それと同時に突進してくる化け物たち。
羽津は、目の前が真っ白な布で覆われて一瞬目をつむった。
だから――何が起こったのか、羽津にはよくわからなかった。
*
布が地面についたとき――深渕と羽津の姿はなかった。
布の下にも居なかったし、化け物の身体に引っかかっていることもない。
ふたりは忽然と、場内から姿を消していた。
わらわらと姿を探すミルメコレオ。
だが、それも徒労に終わる。
しばらく黙考していた怪物だったが、もやは何もないとわかると――
頭に生えていた耳を大きく伸ばして、翼に変えた。
耳翼をはためかせて浮かび上がり、怯えるUFOを1つ口に咥え、そのまま壁の穴から外へと飛び出していった。
無数のミルメコレオが、それぞれUFOを口に咥えて、暗闇へ飛び立ってゆく。
それはまるで、灯篭送りのような光景であった。
*
深渕と羽津は息を殺していた。
屋内テニス場の外、公園の生垣の裏に身を潜めていた。
夜空にうっすらと飛んでいくミルメコレオたちの灯りがみえた。
どうやら騒ぎも収まったようなので、のそのそと茂みから這い出してくる。
「――へっくしっ」
くしゃみをする深渕。半裸であった。
「恰好悪いっすね」
「いいだろ、逃げきれたんだから――」
白い布を投げて視界を奪ったその瞬間、深渕は背後の横断幕に飛び込んだのだ。
羽津に話しかける前に、横断幕の裏に窓があることを確認しておいた。
窓を開けて、横断幕に切れ込みを入れておけば、あとは飛び込むだけで外へ出られる、という寸法であった。横断幕に切れ目を入れるのは申し訳なく思ったが、背に腹はかえられない。
外から覗くことができない窓にはミルメコレオも詰めかけていなかったのだ。
「ありがとうございます、先輩」
羽津は深々と頭を下げた。
感謝であれば、羽津はいくらでも頭を下げるようだった。
「ぼくのことは忘れてくれるとありがたいんだけど」
「どうしてですか――茂みの中で肌寄せ合った仲じゃないですか」
「いわくありげな言い方はやめてくれ」
「いやでも、まじで先輩はすげえなと思いましたよ」
「ただの手品だよ、トリックなんてどれも単純なんだ」
「そうじゃなくて――うちに謝らなくていいって言ってくれたほうです」
「へ?」
深渕は目を丸くする。
「そういうこと言ってくれる人がいなかったんで――素直に嬉しかったです」
「ぼくだって嫌なことから逃げる性質だから、同じだよ――」
「逃げるは逃げるでも、何かかっこいいっすよ」
「逃げ道があったから――堂々としていられたっていうか」
「でもイチかバチかでしょ?」
「仕掛け自体はうまく行くと思ってたよ」
と、空を見上げると、月のなかに浮かぶミルメコレオの姿が、消えかけていた。
その姿は、やがておぼろげになり――完全に消失した。
おそらく、薬の副作用が切れたのだ。
「もう視えなくなった、かな」
「深渕さま!」
屋内テニス場から出てきた宗堂が、深渕に駆け寄ってきた。
「ご無事でいらっしゃいましたか?」
「まあね――悪いんだけど、布を持ってきてくれないかな……この恰好じゃさすがに帰れないから――」
「はい、今すぐ――」
宗堂はきびすを返して、場内に戻っていった。
「深渕先輩って、何者なんすか?」
「ただの生徒だよ」
「ふうん――」
というと、羽津は咄嗟にラケットを上段に構えた。
深渕の目の前に、ゴルフクラブが振り下ろされる。
羽津はそれをラケットで受け止めていた。
「反応はいいな、羽津っ!」
「う――小熊先輩……」
ふたりはそれぞれの獲物でしのぎを削る。
「ところで羽津、校則は知っているか」
「な、何のことでしょう」
「生徒規約第72条! 本学園の生徒は、届け出なしに生き物を飼育してはならない! これに抵触している!」
「そんなの知るわけないですよ!」
「生徒手帳を読めえぇぇっ!」
ゴルフクラブが振り抜かれると、羽津の身体は軽々と弾き飛ばされた。
地べたに叩きつけられた羽津の頭を、小熊はむんずとつかんだ。
「さて羽津――これから私がゆっくりと生徒手帳をレクチャーしてやる」
「あ、先輩、間に合ってます――」
「なあに遠慮するな」
「あの、うち、試合がぁ――」
「残念だな――試合より校則だ」
というと小熊は、羽津の頭をつかんだまま、校舎へと引きずってゆくのだった。
「あう、ちょっと、先輩、暴力はっ」
「やあ、深渕殿世話になったな――おっとぉ!?」
ここでようやく深渕が半裸であることに気づいたらしく、顔を赤らめる小熊。
「が、が、学園のために一肌脱いでくれたようで、かかか、感謝しゅる!」
語尾もままならず小熊は、羽津を連れて、足早に去っていった。
夜風のなかにひとり残された深渕。
「……へっくしっ!」
なぜだかわからないが、深渕は今になってようやく一人になれているような気がしたのであった。
#7 兎のダンス{あるいは:吊られた男;}
デッサンモデルから解放された深渕は、ふらふらと廊下を歩いていた。
15分5セットのストップモーションに耐え、心身ともに疲弊していた。
昨日は投げ出してしまったので、今日こそはと挑んだが――
想像以上の疲労に、どうして引き受けてしまったんだという後悔先に立たず。
後悔といえば、月曜日からの4日間は後悔の連続である。
宮家照美、小熊千得、松里雛、ティファ・麓・トグサ、宗堂ゐゑ、華蕪萌花、京成虎子、羽津明……
どうしてこんな連中とばかり知り合いになってゆくのだろうか。
モデル中、静止することにも慣れた深渕は、そんな事を考えていた。
今日も『高速あっちむいてホイ』をしにきた京成によると、校庭の大穴はすでに埋めてしまったらしい。堕ちたUFOは消え、くぼみだけ残っていたそうだ。
羽津は生徒指導室で2時間絞られたという。
折れないめげない曲がらない羽津が、どれだけ頭を下げることができただろう。
だが、この騒動で羽津は宮家の目に留まり、現魔部の勧誘を受けたそうだ。
羽津はすぐにOKしたらしい。
『はねつあく』という名前であるから、〈ネツァク〉にでもするつもりだろう。
視えるチャンネルは、もちろん<UFO>だ。
だれが何を視ることができるのか、深渕は整理をつけてみた。
京成はドラゴン、華蕪は妖怪、ティファは異世界、羽津はUFO、宗堂は幽霊――魑魅魍魎の百鬼夜行だ。
加えて、宮家照美や小熊千得、松里雛は一体何が視えているのだろう。
深渕は空恐ろしくなって、考えるのを止めた。
「あ、深渕くん――」
呼び止められて、はっとする深渕。
「あれ? 水真さん、どうしたのこんなところで――」
クラスメイトの水真羊と襟蓮冷児が、廊下に立ち尽くしていた。
「いやなんつーか……」
襟蓮が言い淀んでいると、教室の中から、ドカスカパリドスガッシャコーンという物騒な音が響いた。
扉は締まっていて、擦りガラスになっているので中を覗くこともできない。
教室札には「家庭科室3」と書かれている。
「人を呼ぶか迷っていたとこなの――手に負えなくなってきて――」
水真がそういうと、またけたたましい物音がした。
「誰かいるの?」
「家庭科部の後輩の蛍春さんと、大安、だけ――かな……」
と水真もはっきりしない。
「深渕、だれか呼んできてくれないか?」
渋い顔で迫る襟蓮に、深渕も苦々しく返す。
「だれかって――誰がいい?」
「生徒会長とか、風紀委員とか――」
「そんなに大ごと?」
「そう聞かれたら、答えにくくはあるんだが……」
ドドガチャカシャコキーンバギバギバギ、ひゃあああ~~~……
物音に続いて、大安の悲鳴まで聞こえた。
「ここ、家庭科室だよね?」
「料理してるだけ……なんだけどな」
「――何作ってるの?」
「お菓子――よ」
「……だよね、家庭科室だもんね」
もちろん聞こえてくる音は、そんな生易しいものではない。
「なあ、深渕――おまえここに入ってみないか?」
「えっ!? いやいや、無理無理無理」
襟蓮の提案に、拒否反応を示す深渕だったが、水真も、
「そうね――深渕くんなら行けるかも」
と顔をぐいと近づけてきた。
近眼のせいなのだが、いつもドキリとしてしまう。
「ほら、深渕くんって霊視しても何も視えないじゃない? それって、霊のほうからも視えないのかなって思って――」
「それは……」
それには少し心当たりがあった。
昨日、顕現する前のミルメコレオには、深渕が視えていない節があった。
「深渕くんが面倒を嫌ってるってのは知ってる、でも……蛍春さんを助けると思って、手伝ってくれないかな……?」
「う~ん……」
「どうかお願い! この通り!」
クラスメイトの、委員長の、水真の、真摯な願いであった。
疲れきっている深渕は、もちろんすぐに断って帰ることにする。
「わかったよ――やるよ」
……断りきれなかった。すぐに諦めていた。
連日、妙な事件に巻き込まれているせいで感覚が狂ってきたのかもしれない。
モデル中に後悔の復習をしておきながら、またこうして引き受けてしまう自分が、自分でもよくわからなかった。
「だめだったら、すぐ戻るから――」
深渕は力ない笑顔を向ける。
「うん、深渕くんだったら大丈夫よ」
水真はそっと家庭科室の扉を開けると、力一杯に背中を叩いて深渕を送り出した。
深渕が扉をくぐると、
――どんっ
鼻先をかすめて、柳刃包丁が壁に突き立った。
「…………うん、無理」
深渕は引き返そうと手を伸ばすが――無情にも扉は閉められてしまう。
「よう、深渕ぃ」
壁から声をかけらた。
突き立った包丁のすぐ傍に、人間の逆さ首があった。
その首はまだ胴体と繋がっているらしく、鼻の穴を広げている。
虫ピンで展翅された蝶のように、壁に包丁で逆さまに磔られているのは――
タキシード姿の大安行雲だった。
運良く、包丁は服にだけ刺さっていて、身体は無事のようである。
「大安……楽しい?」
かける言葉が見つからず、そんなことを訊いてしまう深渕。
「ああ、スリルで腹が減ってきたところだ。知ってるか、『空腹は最高の調味料』だぞ」
大安は意気軒昂であった。
むしろ気取って「おれは料理を待っているだけだが」とでも言いたげである。
「大安が幸せなら良かったよ」
意気阻喪な深渕は、大安を捨て置いて、部屋の中心へと目を向ける。
家庭科室3は、いくつも厨房が並んでいるような教室である。
いつもなら、ピカピカに磨かれたシンク、整然と並べられた調理器具など衛生的な光景が広がるのだろうが――いまはしっちゃかめっちゃかだ。
食材は床に飛び散り、調味料はふわふわと宙を舞い、調理器具は踊っていた。
比喩ではなく――実際に、浮いて、踊っているのだった。
「わぁ……」
あからさまに怪異な光景に、嘆息が漏れる深渕。
その怪奇現象のただ中で――女生徒がひとりで調理を続けていた。
しゃもじと踊っていた泡だて器をひっつかんで、ボウルの生地をかき混ぜる。
宙に浮かぶ砂糖入れを捕まえて、ボウルにさらさらと振りかける。
小麦粉にまみれた彼女のショートヘアは、白く染まっていた。
フリルのついたオレンジ色のエプロンも、牛乳、卵、シナモン、チョコレート……で散々である。
「うわぁ、ととと……」「きゃっ――あぶない、あぶない」
などと独り言をつぶやきながら、劣悪な環境にもめげずに作り続けている。
これはいわゆる〈ポルターガイスト〉であった。
風もないのにバタバタと開閉する、食器棚の扉。
引き出しから勝手に飛び出す、調理器具。
蛇口はひとりでに回って、水が出たり止まったりを繰り返している。
深渕にはまったく視えないが、それは何かが悪戯をしているようであった。
「大安には、何が視える?」
深渕は、自分よりも霊感の強いだろう大安に訊いてみた。
「おれのために料理を作る、かわいこちゃんが見える」
「そうか――お大事にな」
深渕は大安との会話を諦めた。
視えない何かがそこにいるのだろうが――
そうとすると、昨日宗堂が言っていたことが気になってくる。
『視えないものは、見えるものに触れられません』
しかし今、目の前で起きている怪奇現象は、違っている。
視えないものたちが、見えるものを動かしている。
なぜか? ……と考えたところで深渕にわかるわけもなかった。
「――まぁ、とりあえず行ってみるか……」
深渕は騒ぎの中へと足を踏み入れることにした。
視えないものに当たらないよう、ゆっくりと進んでいく。
飛んでいく調理器具をしゃがんでかわし、浮かぶ調味料をくぐり、開閉する扉はタイミングを合わせて素通りする。
やはり霊たちに、深渕は視えていないようだった。
大安には絶えず刃物が飛んでいくのだが、深渕には何の危害もない。
こうなると、オカルト学校では存外便利な能力かもしれないと深渕は思った。
「るるる~るる~♪」
蛍春は陽気に鼻歌を歌っていた。
「ぼくにも、手伝わせてくれない?」
「ほふぁっ!?」
声に驚いて、蛍春はボウルを取り落とした。
しかしそれは深渕が地面すれすれでキャッチした。
なんとか中身をこぼさずに済んだ。
「「セ~~フ……」」
ふたりの声がハモる。
ここで、蛍春はようやく深渕を認識した。
「あ、あのっ――ど、ど、どなたですか!?」
「ぼくは2年の深渕脱兎。水真や、あそこにいる大安のクラスメイトだよ」
「人間ですか? 妖精王かと思っちゃいましたぁ」
蛍春はふうと額を拭った。
「ひかりは、1年の蛍春光です」
「よろしく」
「はい! よろしくです!」
「それで――これは何を作ってるのかな?」
「クッキーです!」
「ほう……クッキー」
家庭科室の世紀末を見るに、とてもそうは思えなかった。
「きょうはまだ3回目なんですよ! 10回目までには焼き上げますから!」
「そうか」
内9回は霊に阻まれて失敗するのだろう。
むしろそこまでポジティブでいられることに感心する。
「先輩はよくここまで来られましたね。調理中にひかりの隣に立てた人、はじめてですよ!」
「よくわかんないんだけど、ぼくの個性なんだってさ」
「ほほぉ~、なるほどです」
ざっくりした説明でも、納得してくれる蛍春。
細かなことにはこだわらない性格なのだろうか。
「ところで……これは幽霊の仕業ってことでいいのかな?」
「幽霊? 違います、違います!」
蛍春はかぶりを振ると、まるで家族を紹介するみたいに胸を張って、
「えへん、これはですね――妖精さんです」
と自慢げに言うのだった。
「妖精って――ピーターパンに出てくるティンカーベルみたいなやつ?」
「それはシルフ系の妖精さんですね――」
蛍春は宙に浮かぶ調味料の小瓶を指差した。
「四大精霊のひとつで、風を司る霊系をシルフというんです。エルフ・ピクシー・フェアリー・クピドー・スプライト……いろんな妖精さんがいます。日本でいうと、鎌鼬や天狗風ですね、それから――」
今度は踊る調理器具や、開閉する引き出しを指して、
「こっちはグノームさん。土を司る霊系です。ピグミーとも言いまして、いわゆる『ちっちゃいおっさん』です。ドワーフ・ゴブリン・ホビット・レプラコーン・ブラウニー……こちらもいろんな名前があります。日本では座敷童とかコロポックルなんて言われている妖精さんたちです」
「そっか――ぼくはこの部屋を見て、親父が好きだった『グレムリン』って映画を思い出したよ」
「グレムリンもグノーム系ですよ!」
蛍春はにっこりと笑ってこたえる。
「ほかにも、水を司るウンディーネさんに、火を司るサラマンダーさん――」
「なんか似たような話を聞いた気が――」
それは昨日、京成虎子が話していた、稲荷・天狗・龍神・弁天とよく似ていた。火・水・風・土は四大元素と言っていたが、世界中どこにでも似たようなものがあるのだろうか。
「で、その妖精が何でこんな悪さしてんだ?」
「違います! 悪いことはしてません、これは、ひかりのお手伝いしてるんです」
「はあ?」
「そりゃあ、ひかりだって静かにお料理したいですよ? でも、ひかりがお料理をはじめると、いっつもこうなるんです!」
蛍春は頬をぷうっと膨らませた。
「ひかりはお料理が大っ好きなのに、やればやるほど手伝ってくれるんです!」
「それは――災難だな……」
そういえば昨日のUFOも、羽津の調子に合わせて動いていた。
チャンネルが合うもの同士は、感覚まで共有するのかもしれない。
「この学園ならお料理もうまくいくと思って、家庭科部に入ったんですけど――先輩たちにご迷惑をおかけしてしまって……」
今度はしょげ返ってしまう蛍春。
思うようにいかなくて、気が弱ってしまったのだろうか。
辛い思いをしてきた人たちが、報われるための学園だと水真は言っていたが――だからこそ、蛍春の思いも何とかしてあげたいと、水真は思ったのかもしれない。
その結果が、なぜタキシードの大安なのかは――想像に難くない。
不死身の大安なら、多少妖精の悪戯に逢ったところで、無事だからだ。
「可愛い女の子の手料理を食べさせてあげる」などと言って誘えば……大安なら間違いなく、のこのこやってくるだろう。
磔にされている大安は、いまだ蛍春に、キメ顔サムズアップを送っている。
「もうひとつ聞いてもいい?」
「ふえ? 何です?」
「妖精って――目に見えるものにも触れるの? ぼくは昨日、視えないものたちは目に見えるものには触れないって聞いたんだけど」
「それは、ひかりのせいでもあるんです……ひかりのそばにいる妖精さんは、物質界に近い妖精さんで――ひかりの元気をもらうと物を動かせるようになるんです。赤ちゃんがいる家庭でも、よく似たようなことが起こるんですよ」
「ほぉ、そんなことが」
「だから、妖精さんは悪くなくって、ひかりが……」
と言いかけた蛍春だったが、言葉に詰まってしまった。
「じゃあ妖精は、蛍春さんを手伝いたいだけなんだね?」
「もちろんです! 嫌がらせじゃありません」
「思いが余って、余計なことしてる?」
「そうなんです!」
「赤ちゃんみたいなものなんだよね? ……だったら方法があるかも」
「ふえ?」
「ちょっと待ってて――」
そういうと深渕は、蛍春をひとり残して、家庭科室の入口まで急いで戻った。
「水真さん」
扉を開けて、深渕が声をかける。
心配そうにしていた水真が、また顔を近づけてきた。
「どう、深渕くん、上手くいきそう?」
「み、水真さん、ちょっと近いかな――」
「あ、ごめん……」
水真は恥ずかしそうに顔を伏せて、一歩だけ下がった。
「水真さん、妖精が好きそうな音楽って、何か知らない?」
「妖精の――音楽?」
「ほら、小さい子とかも、絵本を見せたら静かになったりするでしょ? 妖精も無邪気みたいだから、音を聴かせたら大人しくならないかなって思って」
「それなら――良いのがあるかも」
水真はスマホを取り出してタッチパネルを操作する。
「これはどう?」
といって呼び出された曲は――クラシックだった。
リヒャルト・ワーグナーの『妖精』。
派手好きな作曲家のオペラである。
困窮に苦しんでいた若い時代の作品らしいが――そんな苦しみなど微塵も感じさせない、自由で力強い曲であった。
水真はボリュームを上げて、家庭科室に音楽を響かせた。
すると――
騒々しかった妖精たちが、ぱたりと動くのを止めた。
浮いていた調味料はへなへな着地し、踊っていた調理器具も直立のまま静止する。
「止まった……?」
水真が感嘆の声を漏らす。
どうやら妖精たちは、音楽を聴いているようだった。
蛍春も家庭科室の真ん中で、この変化に驚いていた。
「さて、ここからどうなるかな……」
深渕が成り行きを見守っていると――妖精たちは再び動き出した。
しかしそれは、さっきのように脈絡のない乱暴なものではなく――旋律だった。
戸棚の閉まるダンという鈍い音、金属のぶつかるキンという甲高い音、大小の瓶、大小の器具、水道、机、それぞれで音階を奏でるのだった。
それは、音楽に合わせた交響曲であった。
曲に合わせて箸やナイフやフォークやしゃもじがくるくると回り出す。
小物たちによるダンスパーティーや、オペラが演じられるのだった。
「ふぉぉぉぉ…………!!」
繰り広げられるメルヘンに、蛍春は感極まっていた。
奏で、踊り、戯れる妖精たちのあいだを縫って、深渕が調理場へ戻ってきた。
「蛍春さん、今のうちに作ろう」
「は、はいっ!」
妖精のダンスにすっかり魅了されていた蛍春だったが、深渕の声に気を取り戻すと、いそいそとお菓子作りを再開した。
*
そのクッキーは、天にも昇る美味さであった。
口の中であっという間に溶けて、咽喉の奥へと流れていく。
絶妙な甘さと香ばしさは、味というよりも、香気を呑んでいるようだった。
山盛りの皿に次々と手が伸びていく。
「おれには感謝しかない!」
「光ちゃん、こんなに上手だったのね、はぁ~幸せ」
「蛍春さん、これすごい美味しいよ」
みな一様にうっとりとしながら、口を動かしていた。
「襟蓮もバカだなぁ、こんなにうまいもの食わずに帰っちゃうなんて」
「仕方ないわよ、用事があったみたいだから。ねえ光ちゃん、少し分けてもらっていい?」
「はい、もちろんです」
「こんなに美味いの、残せるかっての」
「大安、ちょっとは遠慮しなさいよ」
「ようやく食べてもらえましたぁ~、ほわわ~です~」
クッキーをほおばる深渕たちを、蛍春は幸せそうに眺めていた。
蛍春は自分ではほとんど食べていない。
苦労して作ったのだけれど、それよりも、美味しそうに食べてくれる人の顔を見られることが、何よりも幸福そうだった。
蛍春の後ろの調理台には、妖精たち用のクッキーも皿に盛ってあった。
深渕にもし視ることができたなら、クッキーを堪能する愛くるしい妖精たちが視えただろう。
深渕の疲れは、このクッキーですっかり癒えていた。
#8 兎と罠{あるいは:恋人たち;}
大安行雲にとっての安らぎの場所――飼育小屋。
小屋といっても、この学園の飼育小屋は、小さな動物園くらいあって、馬や駱駝、鹿、山羊、猿、アライグマ、猫、犬、うさぎ、鶏などを飼育している。
だから大安のように、休み時間に癒しを求めて来る生徒も少なくなかった。
大安は、山羊を気に入っていた。
先月産まれたばかりの子山羊で、カプリ子という名前がついている。
生まれてすぐに、母親の肢にかぷりと噛みついたところから来ているそうだ。
「お~い、かぷりこ~」
大安がデレデレになりながら、撫でまわすと、
「ベェェェぇ」
カプリ子は、甲高いガラガラ声を喉に絡ませるのだった。
大安は襟蓮冷児に感謝していた。大安に飼育小屋の魅力を教えてくれたのは襟蓮だったからだ。通いはじめてからまだ1週間と経っていないが、大安は毎日ここで、愚痴や独り言を語って聞かせていた。
だからそのカプリ子が――
廊下に立って、じっとこちらを見つめているのには、心底驚いた。
「カプリ子っ!?」
小さく、おぼつかない身体は、カプリ子そのものであった。
なぜ校舎にいるのか、逃げ出したのか、事件でもあったのか、それとも夢でも視ているのか――
大安は10分休憩の合間に、自販機へ走っていたところであった。
いやもしかすると、昼まで待てずに、おれに――
「逢いに来てくれたのか!」
カプリ子の純粋さに、愛おしさがあふれる大安。
大安が駆け出すと、カプリ子もまた大安に向かって駆けるのだった。
そうしてふたりは、廊下の真ん中でひしと抱き合った。
「カプリ子わかったよ、おれはおまえを離さない!」
涙を浮かべる大安に、カプリ子はぐにゃりと顔を歪めて、
『今こそ、汝の意志を行え――』
と哂うと、首元にかぷりと噛みついた。
*
気がつくと大安は、1年生の教室の前にいた。
(あれ? 何してるんだっけ――)
自分がどうしてここにいるのか、よく覚えていない。
けれども、今はここにいなければならない気がしているのだった。
大安がぼんやり頭を悩ませていると、
「あ、大安先輩っ、貧血ですか? ちゃんとご飯食べてます?」
蛍春光が、目をくりくりさせて立っていた。
「やあ、蛍春ちゃん。きょうもかわいいね」
「先輩、あんまりそんなこと言うと、軽い先輩だって思われちゃいますよ」
軽い先輩という言葉がいまいちズレている気がするが、大安は構わず話をする。
けれどもそれは、大安の意志で語られるというよりは、自分でもどうしてそんなことを喋っているのか、わからない内容であった。
「おれ、蛍春ちゃんに相談があるんだ」
「ほへ? 相談ですか? ひかりにできることなら、何でもやりますよ!」
明るく受け止める蛍春に、大安は深刻そうに話す。
「実は、深渕のことなんだけど――あいつ今悩んでるんだよ」
「深渕先輩がですか? へ~そうなんですねぇ」
「あいつは人付き合いが苦手でさ、おれたちでも避けたりするんだ。でもそれ――たぶん、自信がないからだと思うんだよ。傷つけたり、傷つけられたりすることが怖いって感じだな。だから――自信をつけてもらおうと思うんだ」
そういうと大安は、胸ポケットから小瓶を取り出した。
こんなものをいつ入れたのか自分でも覚えてない。
香水でも入っていそうな小瓶であった。
「これはおれが調合した『惚れ薬』だ。もちろん、図書館で借りた怪しい本に載ってたやつだから、半分は冗談だと思ってる」
はて? 自分はいつそんな本を借りただろうか、いつそんな薬を精製しただろうか――しかし自分の口は、それでも喋り続ける。
「蛍春ちゃんは家庭科室で――シルフ系の妖精でクピドーがいるって言ってたよね」
「は、はい……言いましたけど」
「クピドーって、キューピッドのことだろ?」
「そうですね……」
それは言わずと知れた小天使の名前である。
小さな身体に小さな羽を生やして、手には恋の弓矢を持つといわれている。
「でもひかりのは、神様でも天使さんでもなく――妖精としてのクピドーで」
「蛍春ちゃんのクピドーの矢に、おれの惚れ薬を塗り込めば、深渕に自信をつけられると思うんだ!」
「それって――恋人でもないふたりを無理矢理くっつけるってことですか!?」
戸惑う蛍春に、大安は目を潤ませながら懇願する。
「おれは深渕の助けになりたいんだ! あいつ今まで友達とかいなかったから、これで自信がついたら、きっと深渕も人を信じられるようになると思うんだ! 頼むよ、蛍春ちゃん!」
「ええっと、それはさすがに……」
だが大安の必死さに、なぜだか蛍春も呑まれてしまった。
真っ赤になった大安の目を見ていると……断ることができないのであった。
*
昼休みに購買にパンを買いにきた深渕は、宗堂ゐゑと廊下でばったり会った。
「こんにちは、宗堂さん――あれ?」
宗堂はいつものゴスロリ姿であったが、口には大きなマスクをしていた。
「ごきげんよう、深渕さま。すみません、風邪をひいてしまって」
「そうなんだ。無理しないようにね、きつかったら休んたほうがいいよ」
「お心遣い、感謝いたします。うつしては大変ですので、今日はこれで――」
宗堂はそのまま深渕に背を向けたが――
風邪のせいか、ポックリの足をとられてしまい、ぐらりとバランスを崩した。
「きゃっ……」
深渕も助けようとしたが、何かが足にもつれて、宗堂と一緒に倒れてしまう。
「うぐっ――」
なんとか宗堂をかばったが、深渕は視界が真っ暗になってしまった。
「あ、あれ??」
「ひゃうっ……み、深渕さま……」
宗堂の声が聞こえた。
目を凝らして暗闇の中を見つめていると、薄紫のレース生地が見えてきた。
「え、えーっと……」
深渕は事態を正視することができなかった。
だが自分の頭が宗堂の太腿にがっちり挟まれているとわかると――もう否定しようがなかった。
そこはスカートの中であった。
「わああっ、ご、ごめん宗堂さん!」
頭を引き抜こうとする深渕だったが、
「う、動かないでくださいませ――ぁううっ……」
宗堂がきゅっと力を入れたので、深渕は動くことができなかった。
「ちょ、ちょっと宗堂さん!?」
「今、胸がチクリっといたしました……何かに刺されたような――」
肩でハアハアと息をしているのが深渕にも伝わってくる。
「こ、ここから出たいんだけど」
「すみません――でも……」
宗堂はまた力を入れるのだった。
「……わたくし――急に、切なくなってきてしまいました……どうしたのでしょう、動かれると……力が入ってしまうんです――ひゃううっ」
「ええっ!?」
宗堂の身体が熱くなっていくのが、頬を通してわかる。
「わかった宗堂さん――ゆっくり動くから――」
「は、はい……」
そろりそろりと動くが、深渕の髪の毛が腿に触れるだけで、宗堂はたまらず力を入れてしまう。
「わたくし、のぼせてきてしまいました……」
「ぼくも……呼吸が苦しく……」
「すみません――あぅっ!?」
「うぐっ」
この煉獄ループを断ち切らねばならなかった。
朦朧とする頭で深渕が思いついたことは――
『引いてダメなら押してみろ』であった。
「宗堂さん、ごめん――」
深渕は力任せに――自分の頭をぐいっと押し込んだ。
「――――っ!?」
宗堂は声にならぬ声を上げて、ぐんと仰け反った。
深渕はその隙に、さっと頭を引き抜くことができた。
「ぶはぁーーっ!」
大きく息を吸い込んで、呼吸を整える深渕。
それからすぐ振り返って、宗堂を助け起こす。
「ごめんね宗堂さん」
「い、いえ――わたくしのほうこそ……」
頬を真っ赤に染めた宗堂の、熱い吐息が顔にかかる。
幸いこの痴態は、番傘に隠されていて誰にも気づかれなかったようである。
「すみません深渕さま……」
宗堂はよろよろと立ち上がると、
「風邪をうつすわけにも参りませんので……失礼いたします」
番傘で顔を隠しながら、名残惜しそうに去っていった。
*
「いいぞ蛍春ちゃん! よくやった!」
「せ、先輩……」
大安は目を輝かせていたが、蛍春は負い目を感じていた。
作戦通り妖精をけしかけて、仲を盛り上げようとしたのだが、深渕がスカートインするという予想以上の展開になってしまった。
「先輩、クピドーっていうのは恋愛運が上がるとかじゃなくてですね……」
説得しようとする蛍春だったが、
「わかってるよ、縁を繋いでいるだけだろ? だから、その後をどうするかは、自分次第だ」
と逆に説得仕返されてしまう。
「やっぱり良くないですよ……」
「これはきっかけ作りなんだよ、蛍春ちゃん。小さな縁を繋いでやれば、あとは深渕がなんとかすることだ。人付き合いってのは――互いの気持ちに気づくってとこからはじまるんだぜ。それに相手が好意をもっていることがわかれば――会話もしやすくなるだろ?」
「そう――ですかね……」
熱の籠った話をされて……蛍春もうなずいてしまった。
*
パンを食べに屋上にやってきた深渕は、塔屋から声をかけられた。
「ハァイ、ブッチー!」
ぶらりと足を垂らして、塔屋の縁に腰かけたティファであった。
「そこで何やってんの?」
「日光浴ですよー。よかったらブッチーも登ってくるです」
言われて、深渕も少し興味が湧いた。
ティファとふたりでいるところを目撃されるのは避けたいが、校舎の窓からは死角になっていたし、この時間に屋上に出る人はほとんどいない。
塔屋に登ると、景色はさらに開けて、学園内が一望できた。
最寄りの茶久良駅まで見通すことができた。
吹き抜ける風も心地がよい。良い場所を教えてもらった。
深渕も腰かけると、袋を開けてパンを齧る。
「お昼ですか?」
「アンコ入りコッペパン、120円也」
「デリシャスそうですー」
ティファは深渕の隣に寄ると――食べかけのパンを横からパクリと齧った。
「あっ!」
「ひゃー、おいしいですー」
ティファは笑顔で、口をもごつかせている。
「腹減ってるんだったら、1個あげようか?」
「お財布忘れちゃったんです。だからここでプラーナを食べてたんですけど……やっぱり空腹は満たされないですねー」
プラーナが何かよくわからなかったが、深渕は買っておいたメロンパンを差し出した。
「お腹減ってるときに笑うと、貧乏に慣れるよ」
「おおおお、ブッチーは仏さまですか!」
「あがめたまえー」
「ははーーっ」
後光を飛ばす深渕から、ティファは恭しく受け取った。
ふたりは並んでパンを齧る。
景色も良く、日差しも穏やかで爽快である。
するとティファが卒然、苦しそうに胸を押さえた。
へ? と深渕がパンに齧りついたまま止まっていると、
「くうーーーーーーっ」
ティファが叫んだ。
「あん?」
「高、校、生、活っ!」
身体をくねらせて喜々としているティファ。
「今、心臓に電気が走ったんです」
「宗堂も風邪だって言ってたし、何か流行ってんのかな?」
「そういえば熱っぽいですねー」
ティファは、パクパクとメロンパンを食べ終えると――深渕の膝に頭を乗せた。
「ど、どうしたのティファ!?」
小さく端整なつくりの顔は、高価な精密機械のようで触れるのもためらわれる。それが、すぐ手の届くところ、膝の上にあるのだった。
「一回やってみたかったんです」
「これ――膝枕だよ」
「彼氏彼女ごっこだと思ってください。さあブッチー、ワタシを撫でるです!」
「いや、ごっこ、つっても――」
「こうゆーのは思い切りが大事です! 人生は何事も経験ですっ! さあさあさあさあっ!」
膝上で楽しそうにしているティファを見ていると、どぎまぎしている自分のほうが無粋に思えてきた。それにこんな麗らかな陽気では、下心も湧かなかった。
深渕は猫でも撫でるように、ティファの頭にそっと手を触れる。
「ふぁああ、昼下がりの猫です」
猫感がティファにも伝わったのか、ごろごろと喉を鳴らした。
「ティファの青春は安上がりだね」
「ワタシはブッチー好きですよー」
「はいはい。パンもらって、撫でられて、いいご身分だよなぁ」
「猫がうらやましいですー」
お腹も膨れたのか、ティファは欠伸をすると、うたた寝をはじめるのだった。
*
双眼鏡とアンパンと牛乳を手に、大安と蛍春は別棟の塔屋の影に潜んでいた。
音声はシルフ系のアリエルに、風とともに運んでもらっているので、遠くにいても声まで聞こえている。
蛍春はこれまで多くの妖精と生活をしてきたが、こうして意図的に妖精を操るのは初めてのことなので、いつもより疲れてしまう。
それでも聞こえてくる会話に、こっちまで気恥ずかしくなっていた。
「ティファ先輩……さらっと告白しませんでした?」
学園一の有名人であるティファのことは、もちろん蛍春も知っていた。
だがそのティファが、告白する場面に出くわすとは、見てはいけないものを見ているような気分だった。
「いい調子だ。これで深渕も、嫌でも他人を意識せざる得ない。それにしても――やはり深渕には矢も薬も効かないか、地道に周りから攻めるしか……」
「うーん……」
蛍春は顔を曇らせる。やはり罪悪感が拭えない。
そんな蛍春を、またしても大安が傲岸に説教を垂れるのだった。
「さっきも言ったけど、クピドーには、人と人の縁をちょっと繋ぐ程度の力しかないんだ。もしそれで、誰かが告白したんだとしたら――それはもともと好きだったってことだな。むしろ、告白できたんだから感謝されてもいいくらいだ!」
大安は、パンを牛乳で流し込んだ。
「でも、告白はタイミングとかあるし……」
蛍春がぼやいたところで――深渕がティファを起こした。
用事でも思い出したのか、二、三言交わすと、すぐに塔屋を降りていった。
「移動するぞ!」
大安はさっと身を翻して、深渕を追っていく。
蛍春も、また渋々大安に着いていくのだった。
*
各クラスから1名、昼休みに手伝いを出すようになっていた。
ローテーションで回されており、きょうは深渕の番だった。
校舎と体育館を繋ぐ連絡橋で待っていたのは、小熊千得であった。
「遅くなって、すみません!」
頭を下げる深渕に、小熊は鷹揚な態度をみせた。
「きょうは深渕殿か。いいえ、手伝いをお願いしているのは生徒会のほうなので、頭を下げることはない」
と言ったが、少し顔を赤らめているように見えるのは、ミルメコレオのときに深渕の半裸を見たからだろうか。
「で、では深渕殿は私と、パーテーションを運び出していただきたい」
そういうと小熊は、がたぴしとぎこちなく体育館の方へ歩いていった。
体育倉庫内は薄暗く、ひんやりとしていた。
マットや跳び箱、ボール、得点盤、大縄などさまざまな器機がひしめいている。
深渕は――足元に何かが落ちているのを発見した。
それは女子高生のあいだで流行っている『ベアスマイルズ』というキャラクターであった。
写実的で可愛げのないクマが、無表情で踊っているシュールな人形である。
「小熊先輩、こんなもの落ちてましたよ」
深渕が拾ってみせると、小熊はくわっと目を見開いて、人形に飛びかかった。
「こここ、これは、私のマイルズ滝川っ!!」
「……滝川?」
「ほら、ここに名前も書いてある!」
深渕が覗くと、タグ部分に黒マジックで「こくま」と書いてあった。
「よかった~~~~」
小熊は『マイルズ滝川』を涙ながらに抱き締めた。それは生き別れた家族との再会のようでもあった。
「小熊先輩は『ベアスマイルズ』好きなんですね、なんか意外です」
「ああ。ただ、風紀委員長という手前、カバンにつけるのも気が引けて……マスターキーのホルダーにしていたんだ」
「それもどうかと――」
しかし、滝川を愛でる小熊は、どこかいじらしかった。
うっ、とここで小熊が小さくうめき声を上げる。
「どうかしました?」
「いや――胸に刺さるような感覚が……それよりも、やはり私がこういうのを持っているのは、似合わないのだろうか?」
「いえ、意外ってだけで――むしろ先輩が可愛いもの好きってのは、ギャップがあってイイと思いますよ」
「そ、そうか――」
小熊は、すうっと頬を紅潮させた。
「わ、私はその――可愛いのだろうか?」
「は、はい?」
突然の話題転換に深渕は面食らった。
「私は、自分が人にどう見られているのか、よくわからないのだ」
「いやそれは……」
「深渕殿なら忌憚ない意見を聞かせてくれると思ってだな――その……」
小熊が時折みせるいじらしさは、正直ドキリとする。
体育倉庫という場所のせいか、それともティファとの恋愛ごっこのせいか、深渕も少しのぼせていたのかもしれない。
「普段は凛として、頼り甲斐ある先輩ですけど、こうやって恥ずかしがったり、楽しんだり、悩んだりしている先輩は、なんか親近感があって、良いと思います」
深渕が素直にそう言うと、小熊は滝川を抱いたまま、顔を真っ赤にしていた。
「ありがとう、深渕殿。そう言ってくれて、とても嬉し――」
感謝を述べようと近づいた小熊だったが――足がもつれた。
恥ずかしさに視線を逸らしていた深渕は、倒れる小熊に気づかず――深渕が気づいたたときには、小熊の顔が眼前に迫っていた。
「「――!?」」
ふたりの唇がピタリと重なった。
しばし静止してしまうふたり。
が、はたと正気に戻ると、小熊はあわてて身体を離した。
「す、す、す、すみません……!」
深渕のほうから先に謝ってしまう。
「いや――私が足を滑らせたのだ――深渕殿は悪くない――」
といったが、その後に言葉が続かず、また沈黙の時間が流れた。
「と、と、とりあえず、運び出そうか、深渕殿っ!」
「は、はい、そうですね!」
とだけ交わすと……ふたりは無言のまま、体育倉庫から重たいパーテーションを運び出すのだった。
*
「キス……しちゃいましたね」
通気窓の外から、倉庫内を覗いていたふたりは、顔を見合わせた。
いつもであれば「わ、先輩たちキスしちゃいましたよぉ!?」と騒ぐ蛍春だが、いまはもう大安の言に呑まれているのか、はしゃぐ気にもなれなかった。
「今の深渕は沈潜も出来ないのか……逃れてきたカルマに絡められているのか――蛍春ちゃん、見事だよ。やっぱり能力はうまく使ってこそだ」
大安の言葉は半分意味がわからなかったが、それでも褒められると、蛍春も良い気になった。
*
人生初キスを果たしてしまった深渕は、頭を冷ましたかった。
読書室は、本を読みたい人が利用できる空き教室である。
昼休みなど、教室ではうるさ過ぎるし、図書館に行くまでもないという人向けに開放されていた。
深渕も何度か利用したことがあり、あまり人がいないことも知っていた。
教室にはひとりだけ先客があった。
短髪で、青い瞳の女は、京成虎子である。
本を読む京成は、なんだか物憂げにみえた。
澄んだ瞳が、紙面上をくりくりと動き回っている。
邪魔をするのも悪いと思って、文庫棚から一冊選ぶと、そっと座って本を読む。
だが、気が逸ってしまい、読んでも内容が頭に入ってこない。
仕方なくしばらくぼんやりとしていると――
「深渕は優しいな」
「んあ?」
気を抜いていたので、間の抜けた声を返してしまう深渕。
京成はぱたりと本を閉じて、左手を胸にきゅっと当てていた。
「わたしに気を遣って、そこに座ってくれた」
「それは別に――」
「大したことではないと思うんだろう? けどそれが、深渕の優しさだ」
いつもと違う雰囲気の京成に、深渕も魅入ってしまう。
「ひとはみな自分のことを考えて生きているのに精一杯だ。けれど深渕は、自分半分、他人半分、バランスが取れている」
「ぼくは、自分のことしか考えてないと思うけど」
「いいや、深渕は他人のために、自分をなげうつタイプだな」
「考えすぎだと思うよ」
「深渕の場合、他人に何も求めないのは、傷つくのを恐れているからじゃない。人や未来に希望を持っているからだ。バカバカしいとは思いながら、他人を信じることを止められない」
京成はゆっくりと立ち上がり、宣誓を捧げる信徒のように本を掲げた。
「ならば、わたしにできることは――『信じることは悪いことではない』と言ってやることだ。『わたしは一生、お前を裏切らない』と誓って、生きた証拠になることだってできる。照美先輩の絶対には敵わないが……わたしの一生だったら、深渕に捧げてもいい」
京成はほろほろと涙をこぼしていた。
眼差しは、まっすぐに深渕を見つめている。
突然の涙の訳が、深渕にはわからず、ただただ動揺してしまう。
「ふふ……」
京成は破顔した。彼女は涙を拭うでもなく――
「読んでいた本の影響だ――わたしはすぐこうだ、だから独りで読むようにしてる」
と笑うのだった。
「さて――そろそろ昼休みも終り。教室に戻ろう」
そういうと京成は、深渕の横をすり抜けて読書室を後にしたのだった。
*
「プロポーズ……」
「ふむ――能力の精度も上がってきているようだな」
「これも先輩のため……」
「共通の敵、共通の障害を持ったとき、人は心の距離を縮める。吊り橋効果、ストックホルム症候群、ナイチンゲール症候群……蛍春ちゃん、おれたちは酷いことをしているように見えるかもしれないが――結果的にはより深い関係を作ることができるんだ」
「妖精のパックみたいなものですか」
「そう、トリックスターだ!」
それはピエロのように、どんちゃん騒ぎを演じていたかと思えば、突然人々に幸福をもたらす存在――世の中を引っかき回し、賢者と愚者、善と悪、両方を兼ね備えた存在を、そう呼ぶのだった。
「必要悪というのは、覚悟がいるんだ、蛍春ちゃん」
「はい――」
蛍春はカラクリ人形のように、こくりとうなずくのだった。
*
放課後――ゴミ屋敷に足を踏み入れた深渕は、怒りを噛み殺していた。
「オイ、羽津……これはどういう」
「いやあ……家事とか苦手で」
散乱するビニール袋、脱ぎっぱなしの服、食べ終えたカップ麺、飲み終えたペットボトル、洗われていない食器に、水浸しのトイレ……
満を持しての寛ぎタイムに突入しようとしていた深渕を襲ったのは、上階からの水漏れだった。すぐに階段を登ってチャイムを押すと、自宅謹慎中の羽津明が出てきたのである。
「まさか深渕先輩が下にお住まいとは――」
羽津はひきつった笑顔を浮かべたが――
取り立てて個性のない深渕も、たったひとつ心がけていることがあった。
掃除である。
いついかなる時も、部屋を綺麗にしておくことを欠かさないのだ。
それは、あの黒く忌々しいG虫に合わないようにするためでもあった。
「全部捨てる」
「ど、どうか広い料簡を……」
「ええい、斬捨御免!」
こんな汚部屋が近くにあっては、いつ自分の部屋にG・キンブリー氏が現れるともわからない。深渕は土足のまま上がり込むと、ポリ袋に次々と放り込んでいった。
2時間に及ぶ撤去作業のすえ、ようやく人間の住む部屋になってきた。
寮母に言って、水はすぐ止めてもらうことができたので、自分の部屋の被害は最小限に抑えられた。
「いや~深渕先輩にはうちのすべてを見られちゃったな~」
軽口を叩く羽津に、深渕は青筋を浮かべる。
「今後は定期的に見回りにくるから、そのつもりでいろ」
「うら若い女子の部屋に男子が来るだなんて、風紀の乱れですぞ!」
「だったら風紀委員長を呼ぼうか。小熊先輩だったら、毎日来てくれると思うぞ?」
こう脅すと、羽津は涙目で震えだした。
「ご堪忍を……小熊先輩だけは……」
小熊の説教はトラウマとして記憶されているようである。
心を入れ替えて、平謝りする羽津。そうなれば深渕も鬼ではない。
「よし。では頑張った羽津には、料理を振るまってやろう」
「なんという心の広い先輩だ! 持つべきものは深渕先輩だ」
羽津は腹の虫をぐうぐう鳴らしていた。
深渕は自室から食材を運ぶと、刻んで鍋とフライパンにぶち込んだ。
「味噌と米があっただけマシだな。偉いぞ羽津」
深渕は、居間でこまごましたものを片づけている羽津を褒めた。
動物の『しつけ』と同じで、出来ていることは褒めて餌を与えてやる。
そうすると、何が喜ばれて、何が嫌われるのか、身体で覚えるのである。
それは羽津もわかっていたようで、
「先輩の調教力の高さにはシビレます!」
だが片づけにも飽きたのか、羽津は胸をぎゅっと押さえながら、ミミズのようにのたうっていた。服が乱れ、腹やパンツが露わになっていく。
「羽津が、こんなにだらしない子だとは思わなかったよ」
というも、羽津はいっかな気にせず、へらへらしている。
「うちはだらしないかもしれないが、ふしだらではないですよ」
「やかましい」
「裸エプロンでお手伝い申し上げようか」
「お断わり申し上げるぞ」
「いや先輩、遠慮なさるな」
「自重めされよ、羽津」
深渕がたしなめていると、羽津はまたのたうつのだった。
「先輩といると夫婦漫才のようだ」
「部屋も片づけられない子と、コンビを組むつもりはない」
「散らかすうちと、片づける先輩とで、完全にマッチングしている」
「滝に打たれるか、天日に干されるかして出直してこい!」
「くはぁー刺さる! もう癖になっちゃいそう!」
「これ全部悪口だからな?」
「うちにとっては愛の鞭だ」
「少なくとも、部屋が汚い女を好きにはならん」
「いや、この際先輩がうちを好きかどうかは関係ない」
「なんでだよっ」
「うちはMなのだ」
「知るか!」
「首輪をつけられて先輩に飼われることもやぶさかではないぞ」
「だったら犬を飼う」
「ふえっ?」
「羽津より本物の犬のほうがいいだろ。毛玉だし」
「くはぁーっ、うちは犬以下か! くう~」
「どーでもいいから、ちゃぶ台を片づけてね。もう出来るから」
「はぁーい」
深渕が料理を作り終えて、居間へ運び込むと――
下着姿の羽津が、正座で出迎えた。
「ちゃぶ台は片づけておいた。さあ先輩、子作りしよう」
「あ?」
薔薇柄のパンツとブラが、やたらと派手な羽津。
ちゃぶ台は隅に寄せられ、代わりに蒲団が一式敷いてあった。
「ぼくはちゃぶ台の『うえを』片づけておけと言ったんだが。ついに脳みそまで侵されたか?」
「ああ先輩、うちを脳までおかしてくれ!」
「ほら、冷める前に食うぞ」
というと、伏した羽津の背中に、料理の皿を置いた。
う、とうめく羽津に「絶対に動くなよ」と脅しておいてから、手早く布団を畳み、ちゃぶ台を置いて、料理や食器を運び込む。
「これはまさか女体盛りというやつでは!」
「じゃあ、食べようか」
最後に羽津の背に乗っていた皿をちゃぶ台に置くと、夕餉が完成した。
「「いただきますっ」」
言うが早いか、勢いよく食べはじめる羽津。
「ひょ~先輩、激うまです!」
「そういってもらえて何よりだよ」
深渕はのんびりと飯を口に運んでいく。
「おかわり!」
と差し出される茶碗にも、甲斐甲斐しく飯をよそってやった。
「ところで羽津――この部屋にまだUFOはいる?」
「え? もういないっすよ」
「部屋が汚いのもUFOのせいかと思って。ほら、虫かごとかもすぐ臭くなるし」
「これはうちが散らかしてただけだ」
「そうか……地球人が誤解されてなきゃいいけど」
「残念ながら、うちにはUFOしか視えない。宇宙人は小熊先輩です」
「え? UFOも宇宙人も一緒じゃないの? って、小熊先輩は宇宙人が視えてるんだ」
「全然違いますね、微生物と人間くらい違います」
「そんなに!?」
「UFOも奥が深いんですよ! 神様が乗っていたという戦車もUFOととらえることができますし、インドの神様が乗っていた怪物もUFOと言えるんですから。日本にも『うつろ舟』ってUFOの昔話があるんです。形もいろいろで、アダムスキー型や葉巻型もいいけど、螺旋形やピラミッドもいいんですよ~」
すっかりUFO好きになって力説する羽津だったが――
深渕は、喋りながら飯をかき込む羽津に呆れていた。
「食べるか喋るか、どっちかにしたら?」
「うちは、はやく先輩と子作りがしたいんです」
「そうか――」
深渕は食べ終えた碗をちゃぶ台に置いて、手を合わせた。
「ごちそうさま」
そう言うと深渕は、面倒臭そうに、羽津の前から消えていった。
「あれ? 先輩?」
羽津は深渕を見失ってしまった。
目にはたしかに映っているのだが、意識することができなくなるのである。
『食器も片づけるように』
書き置きを残して、深渕は羽津の部屋を後にした。
羽津は悶々としながらも、深渕が作ってくれた料理を余すことなく食べ尽した。
*
蛍春の部屋は、オレンジを基調にした家具や小物が多く、ファンシーなぬいぐるみやきれいな花が飾られている。花のせいか、良い香りが部屋中に漂っている。
窓からは、向かいの羽津の部屋がよく見えた。
羽津はレースカーテンしか持っていないようで、視界は遮られていなかった。
「先輩と……同じ布団で……」
「究極の愛だ。心のゆくまで愛を満喫せよ……肉体の契りは、精神の上昇にも関わるのだ」
「これも先輩のため……」
蛍春は、もう考えることができなくなっていた。
*
図書館に足を向けたのは、寮を出たところで襟蓮冷児に会ったからである。
「暇そうだな。オレ今から図書館行くとこだけど、一緒に行かないか?」
「うん、べつにいいけど」
「漫画でも読んでろよ」
自室に居ても羽津に押しかけられそうだったので、出てきたのだが、とくに行くあてもなかったので、深渕は着いていくことにした。
ところが、襟蓮は図書館の前まで来ると、
「あっ、やっちまった。オレ用事があったんだ。悪いな深渕、やっぱり帰るわ」
といって、すぐに行ってしまった。
深渕は仕方なく、ひとりで中に入って、時間を潰すことにした。
図書館の読書スペースには、松里雛がすやすや眠っていた。
読みかけの本が伏せてあるので、読んでいるうちに眠ってしまったのだろう。
これだけの蔵書に囲まれて本を読みながら眠るというのは、本好きにとっては幸福なことなのかもしれない。それほど、松里の寝顔は穏やかだった。
他に誰もいなかったので、そっとしておこうと思って深渕が離れると――
松里が目を覚ました。
「あれぇ……深渕さん?」
「ど、どうも」
寝ぼけているらしく目をしばたたかせている。
「わたしぃ……寝ちゃったみたいですねぇ」
松里はさほど気にしていないようであった。何度も同じことがあったのだろう。
「ひゃうっ――」
松里は胸のあたりを押さえた。
「え? どうしました?」
深渕が訊くと、松里は妖しく微笑みながら、
「うふふ、悪戯さんがいらっしゃるみたいですねぇ」
視えない蝶でも追うように、空中に視線を泳がせる松里。
ふらりと立ち上がると――深渕の肩をとんと押して、椅子に座らせた。
そうしてから、深渕の頭を自分の胸に抱えたのである。
「えっ!? 先輩!?」
「深渕さん、マヨイガの続きをしませんかぁ?」
「な、何のことです!?」
「わたしは深渕さんとぉ、仲良くなりたいんですぅ」
「松里先輩まで――」
「まで?」
その言葉に、松里は眉根を寄せて、深渕の頭を解放する。
「『まで』ってゆうのはぁ、どうゆうことですかぁ?」
「いやその――」
顔をひくひくさせながら詰問する松里。
「もしかして深渕さん、いろんな方に言い寄られてるんじゃないですかぁ?」
「う……」
松里にねめつけられて、深渕はごくりと生唾を呑む。
松里は、少し考えたような顔をしてから――ふふふ、と艶っぽく笑うのだった。
「これは、唾をつけなければですねぇ」
「はい?」
「深渕さん――わたしと付き合ってください」
「ええっ!?」
突然のことにたじろぐ深渕に、松里は物怖じせず迫った。
「他に誰か気になる方がいらっしゃいますかぁ?」
「いや、そういうわけじゃなくて――」
「わたしは深渕さんが好きですよぉ。ずっと一緒に居たいんですぅ」
「ち、ちょっと待ってください」
すっかり動転していた深渕だったが――何とか頭を回転させる。
「松里先輩のことはぼくも嫌いじゃないですけど――でもまだ付き合うとか、そうゆうこと考えたことなくって――考える時間をください!」
咽喉がカラカラに乾いていたが、やっとのことでこうこたえた。
人間関係から逃れてきた深渕は、こういう状況は初めてで、戸惑っていた。
心臓が高鳴り、呼吸もままならなくなるのだと、初めて知ったのだ。
「もちろんですよぉ」
松里はにっこりと笑った。そして、
「でもぉ、付き合ってから考えてもいいんですよぉ」
とつけ加えた。
いつもの天使のように優しい顔とは違う、悪魔的な妖しさを漂わせていた。
「あ、ありがとうございます――」
今日も一日いろいろなことがあって、深渕には整理がつられなかった。
*
「松里はクピドーに気づいたか。だが――それを利用したな。ふむ、松里には手を出す必要もなかったか」
蛍春の目は虚ろで、もう何も喋ろうとはしなかった。
「蛍春の制御は取れた。未熟とはいえ一日かかるとは――」
そういう大安の目は、四角い横長の瞳孔になっている。
「続きは明日だ――」
「――はい」
*
翌朝、北門の石像前に深渕は立っていた。
待たせると悪いと思って10分前には来ていたが――華蕪萌花はまだだった。
深渕はぼんやりと石像を見やる。
世啓戸学園理事長の胸像らしい。
堀の深い顔は、日本人ではないようだった。恰幅も良い。
真鍮のプレートには『Aregraham Conmight』と書いてある。『アレグラハム・コンマイト』とでも読むのだろうか。こんな学園を創立する人物であるから、優しそうなおじいさんを想像していたが、マフィアのボスというような厳つい顔である。
「よう、遅れちまったか?」
声に振り返ると――そこには清楚なお嬢様が立っていた。
丈の長いスカートに、柔らかく光沢の良いカーディガンを羽織り、つばの広い帽子を被っていた。絵具まみれになっているジャージ姿とあまりにかけ離れていて、一瞬誰だかわからなかった。
「そんな恰好するんだ」
「んだよ、変か?」
「いや、全然」
華蕪の童顔には、むしろこちらのほうが似合っていた。
「ならいいじゃねーか」
というと華蕪は、深渕の返事も待たずに北門を出ていく。
門を出てすぐのバス停に並ぶと――華蕪が口を開いた。
「ところで――深渕は何が良いか考えたか?」
華蕪はモデルの御礼にと、深渕を昼食に誘ったのだった。
礼金は貰っていたが、それとは別に時間を作って食事をするというのが、華蕪の流儀らしい。ただ、好みはそれぞれなので、何が食べたいかは深渕に任せていたのだった。
深渕はふふんと鼻を鳴らして言った。
「中央公園のさくらドッグ」
「さくらドッグ? 何だそりゃ?」
「キッチンカーで売ってるホットドックだよ」
「そんなんでいいのかよ、寿司や焼肉だっていいんだぞ」
「さては華蕪、さくらドック食べたことないな」
「ホットドックなんてどれも同じだろ」
「よし、華蕪、その鼻っ面へし折ってやる」
煽られると、華蕪も簡単に火がつくのだった。
「おお、言ったな! 望むところだ!」
しかし、1時間も経たぬうち、華蕪は返り討ちにあっていた。
「これは――」
さくらドッグを頬張った華蕪の動きが止まる。
「どうだ華蕪――これでも贅沢じゃない?」
「……――」
華蕪は打ちひしがれながら、すぐに一本食べ尽してしまう。
「まだまだ。驚くのは早いよ」
今度はソフトクリームが手渡される。
華蕪が恐る恐るパクつくと、またしてもうなるのだった。
「どうなってんだ……美味すぎる」
広場に並べられた10台ほどの折り畳みテーブルは、軒並み人で埋まっている。
まだ昼前にも関わらず、大盛況なのであった。
華蕪は深渕の手元のソフトクリームをじっと見つめた。
「深渕のは味が違うのか?」
華蕪が頼んだのは、真っ白なバニラ味。
深渕が頼んだのは、茶色いチョコレート味だった。
「食べてみる?」
と深渕が訊くと、華蕪は頭を上下させて、小さく口を開けた。
深渕が口元まで運ぶと、華蕪はぱくりと食らいつく。
そしてまた、うなった。
すると華蕪は、自分のソフトクリームを深渕に差し出した。
一口食べたから、お前にも一口やるということだろう。
お言葉に甘えて深渕がかぶりつくと――
華蕪は「うっ」とうめいて胸を押さえた。
「ん? どうした?」
「いや――」
華蕪は手をさらに押し込んで、深渕の鼻先にソフトクリームをつけた。
「お、おい華蕪っ」
「へへへっ」
悪戯っぽく笑う華蕪。
ポーチからティッシュを取り出すと、さっと深渕に渡した。
「なあ深渕は彼女とか居たことあんの?」
「え?」
飾らない聞き方だった。
だから深渕も他意なく答えることができた。
「ぼくは人間関係から逃げてたんだ。付き合うなんて考えたことないよ」
だからこそ松里に告白されても、返事に窮したのである。
「そうゆう華蕪こそどうなんだよ?」
「あたしは――男が寄りつかねぇよ」
「男が嫌いとか?」
「どっちかっていうと耐性がない方だな」
「ぼくとは普通に喋れてるけど」
「それは深渕が普通に接してくれるからだと思う。たいていの男は、あたしを怖がるんだ」
「今の華蕪だったら、お嬢様にしか見えないけどね」
すると華蕪は、深渕の瞳をじいっと覗き込んだ。
「深渕って、どこ観てんだ?」
「え? ぼくは何も考えてないけど」
「身体にも個人差があるみてーに、精神にも個人差があんだよ。自分にとっては何でもないことが、人にとっては大したこと、ってのはよくあることだ」
「ぼくは精神がへなちょこだから、ずっと逃げてるんだ」
深渕は辟易しながら、ソフトクリームを舐める。
華蕪もふふっとはにかむと、ソフトクリームをぺロリと舐めた。
休日の公園と、穏やかなふたりの空気は、とても似合っていた。
「深渕――またモデルになってくれよ?」
「さくらドックが食べられるなら安いもんだよ。あ、でも謝礼はいらないかな――気が引けるから」
「ま、そこは相談だな。今度はヌードなんてどうだ」
「ぶっ!?」
深渕は飲みかけの紅茶を噴いた。
そんな深渕に、華蕪は熱に浮かされたような目を向ける。
「あたしは深渕の底を知りたいんだ。描くことは、知るってことでもあるからな」
「いや――何言ってんの?」
「裸を見られるのが気になるんだったら――あたしもヌードになろう! お互い裸になれば、恥ずかしさも紛れるぞ」
「それは完全にアウトだろ!」
「赤く火照る肌ってのもありだな」
と盛り上がっているところで、華蕪の携帯が鳴った。
ちっ、と軽く舌打ちをして携帯を覗くと――華蕪の顔が、険しいものに変わる。
「姉貴から呼び出しだ。すぐに戻らなくちゃいけない」
「あ、そうなんだ――」
「悪い。深渕はゆっくりしていくといい――また今度な」
というと華蕪は残念そうな顔をしてから――走っていってしまった。
*
大安は蛍春に顔を近づけた。
嫌がる素振りもみせず、蛍春もじっと大安を見つめている。
中央公園にはカップルも多いので、そんな男女の姿も珍しくない。
「あとは蛍春……お前だ」
「ひかりだけ――」
「お前は深渕に会って、自分に矢を放て」
「矢を放つ――」
「深渕をホテルに誘い……交わってしまえ」
「交わる――」
「では、おれのことはすべて忘れろ」
「はい――」
そう返事をすると、蛍春はふらふらと歩き出した。
*
公園の遊歩道は、そのまま茶久良神社へと繋がる。
茶久良山の麓にたたずむ茶久良神社には、木漏れ日が降り注いでいた。
ここは深渕の散歩コースでもあった。
その境内に――蛍春光がぽつりと立っている。
たった今、参拝を終えたらしい蛍春は、深渕に大きく手を振った。
「深渕先輩!」
「蛍春さんも来てたんだ」
「ここの神社には妖精もたくさんいらっしゃいますので、ほわわ~です」
とにっこり笑っていたが――急にその顔を歪めて「うっ」と胸を押さえた。
「大丈夫? って、なんか昨日からこんな光景ばっか見てる気が――」
とつぶやく深渕の手を、蛍春は両手で包み込む。
「お願いです! ひかりと一緒にきてください!」
「はい?」
「ポルターガイストで困っているホテルがあるんです。 ひかりだけではどうしようもなくって……だから先輩にお手伝いして欲しいんです!」
「いやそれは……」
断ろうとする深渕だったが、ポルターガイストの対処は家庭科室でうまく行ってしまった手前、断りにくかった――
*
近所でも有名なラブホテル『千代』。
蛍春はためらいもなく入口の自動ドアを抜けていく。
「ちょっと、ここラブホだよ」
焦る深渕だったが、蛍春に手を引かれていたので、そのまま入ってしまう。
フロントには人がなく、鍵だけが置いてあった。
蛍春は鍵を取って、さらに奥へと歩いていく。
ラブホテル初体験の深渕は、緊張からバクバクと心臓が脈打っていた。
部屋に入ると、蛍春はいつになく神妙な面持ちで、
「妖精がいるのを感じますー」
などといって部屋を検分する。
「ん――やっぱり、ひかりだけではダメみたいです」
「そのさ、ひとりではダメってどうゆうこと?」
「管理人さんから聞いたのは――シャワーを浴びた後、ベッドで抱き合っているとポルターガイストが現れるとのことでした」
「へえ、そうなんだ。……え?」
深渕の目が点になったところで、蛍春はシャワールームの扉を開けた。
「先輩がお先にどうぞ――」
蛍春は恥ずかしそうに目を伏せていた。
30分後――シャワーを終えた深渕はバスローブを羽織って、ダブルベッドに横になっていた。蛍春がシャワーを浴びている音が、ここまで響いてくる。
(えっと……どうなってるんだこれ――)
深渕は頭の中がぐるぐる回っていた。
(落ち着け落ち着け落ち着け、これもポルターガイストをおびき出すためだ、大丈夫だ大丈夫だ大丈夫だ大丈夫だぁぁ)
そう何度も言い聞かせていると、バスルームの扉が開いて蛍春が出てきた。
「お待たせしました……あの、よろしくお願いします」
バスローブ姿の蛍春である。
頭を下げたときに、胸元がちらりと見えたのでバスローブの下には、何も着けていないようだった。
「あ、は、はい」
深渕の心臓は早鐘を打ち、手は小刻みに震えていた。
「失礼します……」
職員室にでも入るような物言いで、ベッドに入ってくる蛍春。
ふたりは、いよいよベッドで向かい合うのだった。
「抱き合っていればいいんだっけ――」
「は、はい――」
とはいうが、緊張から蛍春に手を伸ばすことができない深渕。
蛍春の顔が30センチ先にある。
蛍春も緊張しているのか、顔を強張らせている。
と――蛍春の手が、深渕のバスローブに闖入してきた。
「先輩も……ひかりに触ってください――」
「い、いやそれは」
「リアリティがないと……妖精も出てきません……」
「う……」
そう言われて深渕も――蛍春のバスローブへゆっくりと手を差し入れた。
柔らかな肌に触れ、ん、と小さく声を漏らす蛍春。
深渕はひるんだが、蛍春はさらに身体を寄せてきた――
「ほ、ほとはるさん……!?」
「み、深渕先輩――」
ふたりが声を交わしたところで、カタカタと物音が鳴りはじめた。
「きた!」
深渕は身体を離そうとしたが、蛍春はぎゅっと捕まえて離さなかった。
「ど、どうしたの蛍春さん!?」
「もうしばらく続けてください――」
「な――」
深渕が動揺していると、
「先輩はひかりのこと――どう思ってますか!」
と虚ろな瞳で訊くのだった。
すると、深渕の手足が何かに引っ張られた。
両手両足を、視えない何かに押さえつけられて、深渕は大の字に固定される。
「――!?」
驚く深渕の上に、蛍春がペタンと跨った。
「ひかりは――きれいですか――?」
どこを見ているともわからない蛍春の手が這い――深渕のバスローブをはだけさせる。
「蛍春さん――」
「ひかりは先輩のことが大好きなので、先輩とひとつになりたいんです」
蛍春の声には感情が籠っていなかった。自分の意志とは関係なく身体が動いているようだった。
とそこへ、大安行雲が駆け込んできた。
大安はふたりを認めるなり、携帯のカメラでふたりを撮った。
「大安!?」
「深渕! お前がこんなことをするやつだったなんて――」
「なんで大安が!?」
「なんでじゃねえよ、お前と蛍春ちゃんがここに入るとこ見ちまったんだ。おれも悪いとは思ったけど――蛍春ちゃんが傷つくのは見てられねえ!」
「ちがう――これは――」
「現魔部の活動内容は、不純異性交遊だったんだな――」
というと大安は、数枚の写真を突きつけた。
「蛍春ちゃん、こいつは知り合った女の子全員に手を出している変態野郎だぞ」
それは、宗堂のスカートに頭を入れている写真、屋上でティファに膝枕をしている写真、体育倉庫で小熊とキスしている写真、読書室で京成を泣かせている写真、下着姿の羽津と飯を食う写真、図書館棟で松里の胸に顔をうずめている写真、華蕪と公園デートしている写真――どれも言い逃れができないものばかりであった。
「そして今撮った、おまえと蛍春ちゃんの写真だ」
「…………」
黙ってしまう深渕。すべて事実なので、何も言えなかった。
「これでお前は、この学校にいられない。現魔部も終りだ」
そう嘲る大安の目は、何だか人間離れしていた。瞳が、四角く横長にみえた。
深渕は……しかし追い込まれて、逆に冷静になってきていた。
(何だろう……変な気がする――)
猛烈な違和感が沸き起こっていた。
誘われるように視線を泳がせていると――大安の背後の鏡台に目が留まった。
そこには、半人半獣の化け物が映り込んでいた。
鏡に映る大安は、下半身が山羊と化した、異形の姿であった。
「おまえ――誰だ?」
深渕は、鏡の中の半人半獣に問いかけた。
すると鏡の中の大安は振り返って、深渕を見つめ返した。
「映っていたか。まあいい。あとはお前と蛍春が結ばれれば終りだ」
大安がそういうと、蛍春の手が、深渕の身体に伸びる。
「蛍春さん!?」
深渕は抵抗するが、がっちりと固定されていて動けない。
「愛を満喫するがよい」
「……みぶち……せんぱい……」
深渕には一瞬、蛍春の悲しそうな顔が見えた。
「くっ……蛍春さんっ」
深渕がうめいた、そのとき――
轟音とともに、部屋の壁が爆裂した。
大型トラックが壁から突き出てきて……大安をはねたのである。
「げばはぁっ!?」
派手に転がる大安。
トラックは壁を突き破ると、ベッドの前で急停車をした。
交通事故であった。
この危機的状況に、偶然にして交通事故が発生し、この部屋にトラックが頭から突っ込んだのである。
そんな常軌を逸した光景に、深渕は愕然としていた。
そこへ、気を失った蛍春が倒れてきた。
と、深渕の手足も解放される。
「蛍春さん!」
深渕は蛍春を抱えて、そっとベッドに寝かせてやった。
とくに怪我もなく、眠っているだけのようであった。
「無事……みたいだな」
「やあ、ボクを呼んだのはキミかな?」
「――!?」
聞いたことのない声に振り向くと、壁に空いた穴から、女の子が入ってきた。
マーブルカラーのパーカーを羽織った、ボーイッシュな子であった。
買い物服を提げているので、近所の中学生のお使いの帰りみたいであった。
「きみは?」
「ボクは国丸九十九だよ」
というと国丸は深渕を見て、
「キミは変な人だね――」
と目を細めるのだった。
深渕はベッドから降りると――とりあえず倒れている大安に駆け寄った。
「ひき殺してしまったかな?」
心配そうにしている国丸に、深渕は首を振った。
「大安は不死身だから、大丈夫だと思う」
あれだけの惨事のなかでも、大安は血の一滴も流していなかった。
骨にも異常はなさそうで、ねじれもない。気持ちよさそうに眠っている。
「なら良かった」
というと国丸は、入ってきた穴から出て行こうとした。
「国丸さん! きみは何をしたの?」
深渕は、呼び止めるようにそう訊いた。
しかし国丸は、こちらこそ被害者だという迷惑そうな顔をして――
「それはボクが訊きたいよ。キミは、どうやってボクを呼んだんだい?」
と返すのだった。
*
世啓戸学園の飼育小屋。
その子山羊の前に、宮家照美が立っていた。
「おかえりなさい、豊饒神パーン」
「うぐ……」
子山羊は眼を赤く血走らせながら震えていた。
「どうしてわたしだけ仲間はずれなの? いつ恋の矢が飛んでくるのか、ワクワクしていたのに。ひどいわ」
「宮家照美……」
子山羊はそのつぶらな瞳で、宮家を睨みつけていた。
「トリックスターに化けるという手は面白かったわね。〈パック〉をはじめ、半身が獣という精霊は世界にたくさんいるもの。すべて――あなたから派生したもの、だけれどね」
「神を視るお前には、すべてわかっていたのか……」
枯れた子山羊の声は、憎しみに満ちているようであった。
「あら、わたしは感謝してるのよ」
「感謝だと? まさか本当に深渕と女の関係が深まるとでも?」
「あなたは〈マルクト〉を見つけてくれた」
「なんだと……?」
「あなたは利用されたの。わたしは、10番目のセフィラを探すため、神話に似せた物語を描いていたのよ」
「いったい何の話だ」
「ギリシャ神話の神様は『因幡の白兎』をご存知ないかしら? ワニを騙して川を渡った白兎が、ワニの逆鱗に触れて皮を剥がされるの。白兎が泣いていると、そこに大国主命が通りかかって、助けてくれるという日本神話」
「だからどうした?」
「あれは白兎じゃなくて素兎と書くのよ。皮を剥かれて素裸にされた兎ってこと」
「だからどうしたと訊いている!」
たまりかねた子山羊が怒鳴る。
それでも宮家は淡々と言葉を紡ぐのだった。
「あなたたちには『因幡の白兎』を演じてもらったの。兎が深渕くんで。ワニが女の子たち。助けた大国主命がマルクトね。意地悪な八十神があなた、わたしは八上比賣ってとこかしら。つまり――大国主を見つけるために、兎とワニの事件をでっち上げたの」
ここまで言いうと、宮家は微笑みながら、人差し指の先で唇に触れるのだった。
「莫迦な――お前は運命を操って、事象を引き寄せたというのか」
「大袈裟な言い回しね」
「人間にそんな真似、できるはずがない!」
「できるの。わたしは〈絶対〉だから」
「ふざけるなっ!」
「じゃあ、訊くけど――あなたは誰に呼ばれたの?」
「!? ……それは」
「どうしてわざわざ、ギリシャの神様が日本にいるのかしら? トリックスターまで演じて、だれに使役されていたのかしら? なぜ、わたしの部活の邪魔をしていたの?」
「…………」
パーン神は押し黙った。
その反応こそが、宮家にとっては問いの答えにもなっていた。
「まあいいわ。でも――ちょっとだけ悔しいから、あなたはしばらくそこに居なさい」
「あん?」
「しばらくは、子山羊の中に居なさいと言っているの」
「このわしに、人間ごときが命令するのか?」
「いいえ、わたしには無理――だからこの子を呼んだわ」
宮家がそういうと、突如上空の雲が歪み、ぐるぐると螺旋を描きはじめた。
天変地異の前触れとでもいうように、苛烈な雨と風が吹き荒れる。
それは忽然と現れた猛烈な台風であった。
だが宮家とパーン神のいるところだけは、台風の目に当たるらしく、まったくの凪なのであった。
「ば……莫迦な……こんなこと……」
「タイフーンの語源って知ってる? ギリシャ神話の神・テュポーンなのよ」
「冗談じゃない――この世のどこにそいつを呼び出せる奴が――」
「ゼウスを討つために生まれた、最強の怪物にして、すべての怪物の父となるもの」
「う、うぎ……うぎぎぎい――うぎゃあああああああああ…………」
山羊は恐怖のあまり、悲鳴をあげて失神した。
大量の汗を流して、全身をぐっしょり濡らしている。
よくみるとパーン神は、上半身が山羊で、下半身が魚の姿に変化していた。
「やりすぎたかしら?」
宮家がそういうと、天変地異が収まっていく。
雨風もぴたりと止み、雲の逆巻きも引いていくのだった。
「あなたに山羊座なんて名前をつけるから――つい呼んでしまったわ。パーンはテュポーンに恐怖して、山羊座の姿になってしまのよね」
そしてその半狂乱の状態から、パーンらしさ、「パニック」という言葉が生まれたのである。
「それにしても……悪趣味だわ、ほんと」
宮家はまだ、腹を立てているようだった。
#9 兎と神{あるいは:正義;}
全国チェーンのその喫茶店には、2階にも客席があった。
商店街の通りがよく見える窓際の席に宮家が座ったので、深渕もそれに倣った。
「大安くんは?」
ホイップクリームがたっぷりと注がれたコーヒーを口にしながら、宮家が訊く。
「ピンピンしてますよ。トラックに轢かれても怪我しないって――ほんと不死身ですね」
深渕は冗談のつもりで言ったのだが、宮家は真面目に返してくる。
「そうは言っても、大安くんは人間よ。いくら『死ににくい』とはいっても、死なないことじゃないの。それは覚えておいて」
「は、はい」
言われてみれば確かに不謹慎な話だったなと、深渕も反省する。
「大安くんには、パーンという神様が憑りついていたの。いわゆる〈神がかり〉ってやつね」
「神様、ですか?」
「牧羊神とか豊饒の神とか言われている、半身が山羊の神様よ」
「何で神様が、大安に憑いていたんですか?」
「考える余地はあるけれど、今のところ、あの子山羊が好きだったから、ね」
「そんなことで――」
「あら、人類と山羊の歴史は古いのよ。強靭で繁殖力も強い山羊は、家畜として最適だったのね。だから豊饒と結びつくの。そして豊饒というのは大地の実りだけでなく、人間の実りでもあるわ。つまり――交配ね」
宮家は外の通りを眺めたまま、流れるように話す。
「そんな神様が、何で現魔部を潰そうとしていたんですか?」
「深渕クンも、わたしたちに興味が湧いてきた?」
「いえ……そういうわけじゃ」
宮家は嬉しそうにしていたが、深渕はまだ怪しげな部活に抵抗がある。
しかし連日の騒ぎの中にあってみれば、そう目くじらを立てるものでもない、という気もしている。
「自然神の考えることなんて、人間にはわからないもの。神様もいろいろ。人間同様に、考え方はひとつじゃないの。だから――放っておけばいいのよ。人の争いは人が解決するように、神の争いは神が解決するの。わたしたちには関係ない」
「でも、大安も蛍春も危なかったですよ?」
「でも、無事に済んだじゃない」
「それはそうですけど――」
深渕にもわかっていた。
一日も経たぬうち、事は収まりかけていた。
大安から化け物は抜けているようだったし、蛍春も記憶をなくしていた。
ホテル側には怪我人もなく、トラックの運転手も無傷だった。
いや、そもそもトラックには運転手が乗っていなかった。
無人のトラックが、勃然と暴走して、ホテルに突っ込んだそうだ。
しかも学園が手を回して、事故そのものが「なかったこと」にされるという。
気になるのは、パーカーの女の子についてだが、彼女もすぐに姿をくらませたので、何者だったのかよくわかっていない。
「ところで深渕クン、『因幡の白兎』は知ってる?」
話が飛躍したことに戸惑う深渕。
だが相手が宮家ならどんな話題が出てもおかしくはない。
深渕は言われるまま、幼いころ読んだ絵本を思い出した。
「サメの背中を渡る童話でしたっけ?」
と深渕が返すと、宮家は嬉しそうに微笑んだ。
「諸説あるの。古事記には和邇とあるけれど、日本に鰐はいないなからサメのことだ、とかね。……でもわたしは〈マカラ〉だと思っているわ。ワニのような姿をしたインド神話の怪物よ。〈クンビーラ〉とも〈金毘羅〉とも呼ばれていて、日本では金のシャチホコが有名よね」
興が乗ってきたのか、宮家は窓外から視線を外すと、深渕に向き直った。
「〈マカラ〉というのは、神様の乗り物とされているの。――羽津ちゃんに言わせれば、UFOということになるかしら。現に、皮を剥かれた素兎を、宇宙人だとする説もあるのよ。和邇というUFOから逃れた素兎という宇宙人を、大国主命という地球人が助けた、と読むこともできるわ。もしくは宇宙戦争と読むこともできる。アフリカ神話には、もっと露骨に宇宙戦争に触れている神話もあるの」
珍説のパレードに、深渕はまた頭の中が取っ散らかっていく。
「神話って、どの国も似通っているの。とくに創生の神話なんて、驚くほど一緒よ。それを――多くの宇宙人が文明に介入した痕跡と取ることもできるわ――けどね――」
宮家はもったいぶって続けた。
「だから何だっていうのかしら?」
そういうと宮家は、ケラケラ笑い出した。
「神様とか宇宙人とか、どうだっていいじゃない。わたしたちは、わたしたちが思うように行動して、わたしたちが思うような世界を築くしかないんだもの。人には人にできることをやればいいの」
「そんな投げやりな――」
「でもそうでしょ? わたしたちはフラフラしながらも、それぞれに歩んでいるんだもの。それがはっきりしていれば、何も恐れることないわ」
宮家は微笑んでいた。
それは超越者の寛恕というような、すべてが赦される微笑みであった。
「まあ、みんなが笑って暮らせる世の中が、一番だと思いますよ」
深渕が相槌のようにいうと、宮家は笑うのを止め、まっすぐ深渕を見つめた。
「そうゆう考えの人がひとりでもいてくれるのなら、人間は〈絶対〉よ」
そういうと、宮家は窓外を指さした。
パーカー女子の国丸九十九が、昨日と同じく買い物袋を提げて歩いていた。
「あっ、あの子!?」
「縁というのは、一度結ぶとなかなか切れないの。深渕クン、この縁はあなたが運んでくれたのよ」
宮家は満足そうである。
「ぼくには何の自覚もありませんけど」
「縁はそうゆうものよ。八百万の神様が年に一度、出雲大社に集まるのは、人々の縁を決めるため。縁って、それくらい強い力なの」
宮家は席を立った。どうやら国丸九十九を追いかけるようである。
深渕は飲みかけのコーヒーを、ぐいと喉の奥に流し込んだ。
*
まだこんな家屋が存在していたのかというようなあばら家に、国丸九十九は入っていった。呼び鈴もついていないので、宮家は遠慮なく敷地に入ってゆき、玄関を叩く。その戸も叩けばすぐに壊れてしまいそうであった。
やがて、ガタピシと建てつけの悪い音を鳴らして、国丸が顔を出した。
「何の用?」
淡泊な口調と同じく、表情もない国丸。
「わたしは宮家照美。あなたは?」
ぶしつけに自己紹介をする宮家であったが、国丸も恬としている。
「ボクは国丸九十九だよ」
「これであなたと縁が結ばれた」
宮家は、白いリボンに束ねられた髪をふわりと払って宣言する。
「宗教勧誘ならお断わり。見ての通り――うちにはお金がないんだ」
といって戸を閉めようとする国丸。
だが宮家は、すぐに二の句を告げていた。
「国丸九十九ちゃん。世啓戸学園に入りなさい」
いつもの命令口調である。
学園外でもこの調子なのかと、深渕も呆れてしまう。
「世啓戸? あのバカでかい学校か――言っただろ、うちにはお金がないんだ」
直截簡明の話を、冷静に断る国丸。
しかし宮家も引かなかった。
「学園が全部面倒みるわ。あなたはその身ひとつを、預けてくれたらいいの」
それはいつもの、宮家照美らしい高慢な物言いであった。
難色を示す国丸に、家の奥から声が聞こえた。
「……だれか来たのかい……」
年老いた女性の声である。
「変な人たちが来たんだ」
国丸はあけすけに言う。
老婆は、そんな国丸をたしなめるように、
「……長くなるようだったら、上がってもらいなさい……」
といった。草臥れてはいるが、一本芯の通った声であった。
*
居間では老婆が布団に横になっていた。
「いらっしゃい――すみませんねえ、身体を崩しておりまして……」
ゴホゴホと咳込む老婆に、国丸はそっと声をかける。
「すぐに帰ってもらうから」
しかし老婆はまたしても国丸をたしなめた。
「せっかく来ていただいたんだから。ゆっくりお話ししたらいいわ」
世話焼きで、寛大そうな老婆は、病に苦しみながらも悠然としていた。
「きのうは助けてくれてありがとう」
深渕が御礼を言うと、国丸はきょとんとした。
「誰?」
「あのトラックの――」
「ああ、あの時の」
ようやく合点がいったらしく、国丸は少し目を見開いた。
「ぼくは深渕脱兎」
と深渕が頭を下げると、
「きみは不思議な人だね」
国丸は深渕を眺めながらいった。
その眼は、視えない深渕を、視ている眼であった。
おそらく国丸も霊視ができるのだろう。
「九十九ちゃんはお祖母さんとふたり暮らしなの?」
早速あだ名で呼ぶ宮家も、国丸は気にしなかった。
「そうだよ。両親はずいぶん前に亡くなった」
と仏壇に目をやる国丸。
閑散としている室内であったが、仏壇にだけは鮮やかな花が供えてある。
「九十九ちゃんが働いているのね?」
「うん……知り合いの弁当屋でね」
それを聞くと宮家は、
「じゃあ、その仕事、今すぐ辞めなさい」
と独善的に言い放った。国丸は露骨に嫌な顔をする。
それは感情がようやく見て取れた顔だった。
「面倒を見ると言ったでしょう? あなたの家も、家族も、すべてよ」
「いったい何を言って……」
困惑する国丸から視線を外して、宮家は老婆に語りかけた。
「おばあさま。九十九ちゃんが学校に行くといったらどうします?」
「そりゃあ、うれしいですけれど……」
体調の悪い顔を、さらに歪ませる老婆。
こうした話は何度も繰り返してきたのかもしれない。
そこには憂苦の色が滲んでいた。
「それなら話がはやいわ」
他人の家に上がり込んでいるというのに、臆することがない宮家。
宮家はバッグから入学願書を取り出して、国丸の前に置いた。
「これは契約よ。ここにサインをするだけで、あなたの生活は一変する」
「…………」
国丸は絶句していた。
事態をどうとらえていいものか逡巡していた。
「あなたがどう願うかよ。このまま苦しい生活を送るのか、すべてを変えるのか。おばあさまをお医者様に見せたいのなら、最高のドクターを手配するわ。家の建て替えを望むなら、叶えてあげる。ご両親のために立派なお墓を建てたいのなら、すぐにすべてを用意してみせる。すべてよ! そのかわり――あなたは明日から、世啓戸学園の生徒になるの!」
気炎を上げる宮家に、国丸は圧倒されていた。
「ちょ、ちょっと……」
と深渕も口をはさむが、宮家は深渕を睨み返した。
「ああもう、考える時間も惜しい! 今すぐ答えなさい!!」
宮家は激昂に駆られて、あばら家の住人に凄んでいた。
*
駅前商店街のたい焼き屋で、焼き立てのたい焼きを2つ注文すると、宮家はひとつを深渕に差し出した。
「これはわたしからのお礼」
深渕はたい焼きを受け取ると、頭から齧りついた。
熱々のあんこの甘さが、口に広がっていく。
「ここのたい焼きが、わたしは大好きなの」
「へえ」
宮家照美にもそんな人間らしい一面があったんだと、深渕は驚いた。
「わたしだって高校生なんだから――」
というと、宮家はふいに寂しそうな顔を見せた。
「それは、あの子たちも一緒なのよ」
宮家はたい焼きを齧りながら、歩き出した。
夕暮れが、路面に長い影を落としている。
深渕が着いてゆくと、深渕の影もまた商店街に伸びていった。
「深渕クン――みんながどうして深渕クンに言い寄ったかわかるかしら?」
「えと、たしか妖精の力で無理矢理……」
「それもあるけれど――みんな恋愛に憧れていたのよ」
行き交う人々の流れを、水面のように眺めながら、宮家は訥々と続けた。
「わたしたちは霊視が強すぎて、他人が視えすぎてしまうの。それって、都合のいいことばかりではないわ。恋愛ともなれば、知らなくていいこともいっぱいあるもの。だからこそ、深渕クンの『視えない』というのは魅力的に思えるの。そんな相手と、普通の人みたいな恋愛をしたいと思うのは――悪いことではないわ」
日曜日の夕暮れは、いつもより間怠く感じられる。
それは別れにも似た寂しさを伴うものである。
今は宮家も、やや塩らしくなっているようであった。
「ぼくには罪悪感しか……」
深渕の脳裏には、大安に突きつけられた幾葉もの写真が浮かんでいた。
「たしかに深渕クンは、ドン・ファンなところがあるわね」
はにかむ宮家。
それは学園の絶対的な王の顔ではなく、ひとりの少女の顔であった。
「視えないっていうのは、闇でもあるの。そして闇の黒というのは、あまりに美しくって吸い込まれそうになるわ。それはね、深淵を覗くうちにその深さに惹き込まれて、身投げしてしまう――みたいにね」
というと宮家は振り返って、深渕の鼻先をつんと弾いた。
思いもよらない行動に、深渕は目をぱちくりさせる。
「わたしだって、女の子よ」
宮家は、たい焼きを平らげてしまった。
唇に残ったあんこもペロリと舐め取ってしまう。
そんな宮家に、深渕はこう言っていた。
「先輩は――現魔部で何をするつもりなんですか?」
口を突いて出た言葉であった。
国丸九十九というのは、おそらく〈マルクト〉候補なのだろう。
その国丸を、何がなんでも学校へ入学させてしまう。
その熱意、財力、絶対をもってして、完成させようとしている――現代魔法研究部という部活は、いったい何を成して、何のために作り上げようとしているのか、ただ、気になったのである。
「深渕クンも入ってくれる?」
「考え中です――」
「『お断わりします』からは、変わってきたのね」
「…………」
「そんなに大仰なものじゃないわ。わたしは学園生活を満喫するために、部活動を作ったの」
それは変に取り繕わないだけに、真実味を帯びていた。
世界を救うとか、世界を支配するとか、そんな一大事を考えていた深渕は拍子抜けしてしまう。
「ほんとうに、それだけですか?」
「目的があって行動しているんじゃないの。面白そうっていう衝動が、先行しているのよ」
「そんな行き当たりばったりな――」
「だからこそ部活動よ。面白い人を集めれば――面白いことが起こるのは必然でしょ? もしそのせいで周囲に迷惑をかけたら――そのときは、謝ればいいじゃない」
宮家は暢気に言い放った。
「それって――ウルトラマンなら街を破壊しても許されるってやつですか?」
「ちがうわ、どんな例えよそれ」
「ピッタリだと思ったんですけど」
「もう、深渕クンって鈍感!」
というと宮家は深渕の首根っこを掴んで引き寄せた。
「うっ」
と小さく悲鳴を上げる深渕に、宮家は耳元でこう囁くのだった。
「わたし、みんなのことを心から愛してるの」
「あ、ありがとう……ございます」
何と言っていいかわからず、思わずこう返してしまう深渕。
宮家はふふっと破顔すると、深渕の頬についていたあんこを、ぺろりと舐めとった。
「わたしも深渕クンとデートがしたかったの。みんなが羨ましかったのね」
薄暮に淡く照らされた宮家の微笑みは、えも言われぬ美しさがあった。
「じゃあね、深渕クン。また明日、学校で会いましょう」
そういうと宮家は、商店街の雑踏に消えていった。
深渕は、宮家の後ろ姿をぼんやり見つめながら――
舐められた頬にそっと手を触れた。
#10 兎の穴{あるいは:悪魔;}
国丸九十九は超能力者であった。
トラックをラブホテルへ突っ込ませたのも、彼女の念動力による。
そんな国丸を、宮家は超規的措置によって、翌日には世啓戸学園に転入させていたのだった。
*
終業ベルが鳴っても真っ白なノートを眺め続ける大安に、水真はちょっと心配になった。
「元気がないのも、気持ち悪いわね?」
「んあ?」
間の抜けた声が返ってくる。
先週末、様子がおかしかったのは神様に憑かれていたからだとは聞いたが、まだ後遺症もあるようだった。
「深渕って吸血鬼かな?」
「は? 何よそれ?」
「何か――吸血鬼みたいに、人を惹きつける能力でもあるんじゃねーかと思って」
大安には、神がかっていたあいだの記憶が残っていた。
その記憶が、深渕について考えさせているのだった。
水真が呆れていると、襟蓮が弁当片手にやってきた。
「カリスマ性なんて深渕から一番遠い言葉だろ? 今まであいつ、存在感すらなかったじゃねーか」
襟蓮にいわれて、大安は後ろの席に目を移した。
深渕は購買に行ったので、今は空席である。
ほんの1週間前まで、そこは気にも留めない席であった。
席というのは、空いているよりも、埋まっているほうが目立たないのだということに、大安は気づかされる。
その深渕の席に、襟蓮がどかりと座った。
「大安のやっかみよ」
水真はバカバカしくなっていたが、大安は引かずに、
「視えないってことが、人を惹きつける理由になるかな?」
と頭を悩ませている。
「とはいえ――学園中のヒロインを奪っていくとは、けしからんやつだ。一緒に飯でもして、恩恵に預かるってのはどうだ?」
襟蓮が茶化すと――やっと大安も気を良くするのだった。
「ふむ、それもそうだな!」
大安は悩むのを止めて、弁当袋をつかんだ。
ようやく調子を取り戻してきたかな、と水真は思った。
「というわけで、行ってくるわ」
「あんたたちにプライドとかないの?」
水真の皮肉も、男たちの鉄面皮にはまるで効かない。
ふたりはふんふんと鼻歌を歌いながら、教室を出て行った。
*
深渕が渡り廊下を歩いていると、紙袋をいくつも提げた蛍春が駆け寄ってきた。
「あの! 深渕せんぱいっ!」
「お、おう」
深渕がたじろいだのは、ラブホテルでの一件が頭をよぎったからである。
「あの、クッキーを作ってきました! ひかりからのお詫びです!」
蛍春は紙袋をひとつ差し出した。
リボンとシールで丁寧にラッピングされたそれは、薫香を漂わせていた。
「もらえないよ、ぼくの方こそ謝らなくちゃ――」
深渕が断ろうとすると、
「受け取ってください!」
なかば押しつけるように蛍春は手渡した。
「宮家先輩から聞きました。ひかりは、みなさんに大変なことをしてしまったみたいです! でも、ひかりにはこれしかできないですから、気持ちを込めて作りました!」
頭を下げる蛍春。深渕は、こちらこそ申し訳ない気分である。
「それから、宮家先輩の現魔部にお誘いいただいて――入ることにしました。まだ何をしたらいいのかよくわかりませんが、やれるだけのことはやってみようと思います!」
そういう蛍春は、春日向の蝶のように元気一杯なのであった。
負い目のある蛍春を誘うとは、生徒会長も人が悪いなと深渕は思った。
「ではあの、失礼します!」
蛍春は電光石火のごとく行ってしまった。
きっとクピドーの矢を放った全員を回っているのだろう。
ラッピングを開けてみると、中には『ごめんなさい』と書かれたメッセージカードと、クッキー、それからベアスマイルズの人形が入っていた。
*
校舎をぶらついていた大安と襟蓮は、化学室前に佇むゴスロリ番傘少女を発見した。
「あの子も現魔部だろ? 深渕の居場所知ってんじゃねーか?」
宗堂はひとり寂しげに窓外を見つめていた。
声をかけようとした襟蓮だったが――ふと立ち止まる。
「あー、悪い。オレ、先生からプリント運ぶように頼まれてたんだわ」
「何だよ? 最近の冷児は、すぐどっか行くよなぁ」
不満気な大安の肩に、襟蓮はポンと手を置くと、そっと耳元でささやいた。
「あの子、深渕のこと気になってるみたいだからさ。ちゃんと説明してやれよ? 今の深渕は――変な神様に取り憑かれてるから、助けられるのはきみしかいない――ってね」
「おう、任せとけ!」
というと襟蓮はポケットに手を突っ込んだまま、階段を降りていった。
大安は自分の顔を両手で叩いて気合いを入れてから、宗堂に近づいた。
「よお、1年の宗堂さんだよね?」
宗堂は顔を上げて、不思議そうに大安を眺めた。
「おれは2年の大安行雲ってんだ。深渕を探してるんだけど――見なかった?」
大安が訊くと、宗堂は窓外の渡り廊下を見やった。
「今そちらに、どなたかといらっしゃったのですが――行ってしまわれました」
深渕の去った後を、見つめる宗堂。
大安は気が重くなった。これもパーンとクピドーの力で、深渕との縁を深めた弊害なのだろう。深渕のことを想うほど、心を痛めているに違いない。
「あの――何か?」
無辜の宗堂に見つめられて、大安は自分の額に触れた。
眉間に深い凹凸が刻まれていた。
大安はあわてて額を擦って、平らにならす。
「言いたいことっつーか、謝りたいことがあるんだ」
鼻を大膨らませて意気込むと、大安は先週末の出来事を話しはじめた。
*
職員室を出た小熊と京成は、肩で息をついた。
深渕と蛍春のラブホテル事件は、神霊による『災害』として、学園側も生徒を守るべく処理していたのだが――何者かが市役所のHPに書き込みをして、再燃していたのだった。
匿名の書き込みであるし、事実誤認の妄想として無視しても良いのだが、地域社会における建前として、学園側も対策を講じなければならないそうである。
そこで急きょ、風紀強化週間を実行することになったのだが――
繁忙を極めていた。
最近は、マヨイガ・ミルメコレオ・パーン神と騒動続きなうえに、土曜日には竜巻被害まで発生しており、倒木や設備不良などの傷も多かった。
風紀委員長の小熊と、副委員長の京成は、校長や教頭、市議会議員の千篇一律なありがたい話を聞かされていたわけである。
しょぼくれながら小熊と京成が生徒会室へ入ると、宮家が2人掛けのソファーの上で、松里のたわわな胸を揉みしだいていた。
「あら、おかえりなさい」
宮家は悪びれるでもなくそういった。
ようやく宮家の手が止まったので、松里もはあはあと上の空である。
「私は今、校内風紀についてご教示を戴いてきたのだ」
小熊はがっくりと肩を落としている。
「それは大人の建前。わたしには関係ない」
「都合のよいときだけ子供であろうとするな――」
「あら、高校三年生は、まだ子供よ」
「そうはいってもだな――」
「それに、みんなだって深渕クンといいことしたんでしょ?」
悪戯っぽい笑みを浮かべる宮家に、
「わ、私は、深渕殿とは、、、」
「グウちゃん、あれはですねぇ――」
「わたしは本を読んでいただけで――」
三者三様に恥じらうのだった。
「深渕クンも馴染んでいるみたいで良かったわ――でも」
と宮家はソファーから降りると、真率な面持ちへと変わる。
「生命の樹が揃った今――一番に影響を受けるのは、深渕クンよね」
宮家がそういうと、スピーカーから放送を知らせるチャイムが鳴った。
「さて、いよいよわたしたちの出番かしら」
スピーカーからは、宗堂の声が流れてきた。
*
「あれ、大安は?」
ひとりで教室に帰ってきた襟蓮に、水真は小首を傾げた。
「女の子に話しがあるから、先に行ってくれってさ。あいつ女の事になるとだらしねーわ」
襟蓮はつんけんと返した。
「深渕くんはいなかったの?」
「冷めちまったよ」
というと、これ以上話しかけないでくれというように、ノートを広げて自習をはじめる。
勉強する襟蓮の姿は、最近ではよく見かけるようになったが――襟蓮は要領の良いほうで、試験前にだけちょっと勉強すれば、それなりに点を取れてしまうタイプである。休み時間にまで勉強をするようなガリ勉タイプではないはずだった。
大安と喧嘩をすることもあるにはあるが、長続きはしない。
短絡的な大安の手綱を握る良き騎手として、常に乗りこなしていた。
それに襟蓮も、裏表のない大安を信頼していた。
だから、陰口まで叩く今の襟蓮は、水真からすれば別人のようであった。
「冷児は、お昼食べないの?」
弁当包みも空けていない襟蓮を心配して、水真が訊いた。
「腹が減らなくて」
「勉強もいいけど――休憩もしたほうがいいよ――」
「もう休んだよ」
「――何か嫌なことでもあるんだったら相談に乗るけど? ほら、冷児ってひとりで溜め込んじゃうっていうか」
「別にねーよ」
「冷児、あのさ――」
「オレちょっと小便行ってくるわ」
襟蓮は、わざわざ迷惑そうな顔を水真に見せつけて、席を立ってしまった。
「ちょっと冷児!」
水真が叫ぶも、襟蓮はあからさまに無視して、教室から出て行った。
水真が当惑していると――
入れ代わりに、見覚えある人物が教室に入ってきた。
「あれ、燈火ちゃん?」
それは5年前に、寮で水真と部屋が隣だった真咲燈火であった。
華蕪萌花の姉で、当時は華蕪燈火であったが、卒業後すぐ結婚して、今では真咲姓を名乗っている。
「羊ちゃん、久しぶり」
「どうしたの燈火ちゃん、こんなところで」
「ちょっと、お仕事でね。今、出て行ったの、襟蓮くん?」
水真繋がりで、燈火は襟蓮や大安も見知っていた。
「ええ、そう……なんだけど――」
「随分変わったのね、あんな子だったかしら?」
「ちょっと大安と喧嘩したみたいで……そんなにひどい顔してた?」
「ええ、陰険で、酷薄そうな顔。特有の症状ね。気が重いわ」
「何か悩みでもあるのかしら、最近様子がおかしいの」
うつむく水真に、燈火は同情しているらしく、元気づけるようにこう言った。
「羊ちゃん、あなたの友達だからこそ、お願いするわ――手伝ってくれる?」
「え? いいけど……燈火ちゃんのお願いって、何だか嫌な予感がする」
燈火は愛嬌たっぷりにウィンクを投げた。
*
『深渕脱兎さま。職員室までいらしてください。繰り返しお伝え申し上げます――』
宗堂ゐゑの透き通った声が、学園内にこだました。
屋上の塔屋の上でティファが放送を聞いていると、華蕪萌花が入ってきた。
「珍しいですね~モエモエが屋上なんて」
ティファが頭上から声をかける。
華蕪もそこにティファがいることは、あらかじめ知っていた様子で、
「気晴らしだよ」
と大きく背伸びをした。製作に根を詰めすぎて屈託したようである。
「お姉さん来てたんですねー」
「なんだ、会ったのか?」
「ちょっとだけ、お願い事をされました」
「あいつ派手に働いてんじゃんか」
「神社真庁も、お忙しいんですねー」
ティファは欠伸をする。身体が午睡を欲しているようである。
「仕事はいいのか?」
「学生の本分は勉強ですー」
「そこに居たんじゃ、勉強してるようには見えねえけどな」
「寝る子は育つですよ。ワタシは無理しない主義です」
いよいよ腕を枕にして昼寝の体制に入るティファ。
「確かに、無理はよくねーよな。何が無理かわからねーまま周りに流されて、普通にしようとすると……それが落とし穴になるんだ。普通ってのは勝手な思い込みから生まれた幻想なんだけどな。普通な人間なんてどこにもいねーよ。もし、そんなやつがいたら――化け物だろ」
「それって、ブッチーのこと言ってるですかー?」
目をつむってはいるが、話には耳を傾けているティファ。
「深渕は、落とし穴ってより――あいつ自身が穴だ。あたしはそれを覗いてみたい」
「モエモエ、あんまり考えるとハゲますよ」
「やめてくれよ……」
華蕪は両手で頭頂を隠した。
「モエモエは美人なんですから、美容にも気を使ってほしいです」
「じゃあティファ、今度温泉にいかねーか?」
ティファは跳ね起きて、目を輝かせた。
「もちろんです! 一緒にいきましょー! 絶対です! 指きりげんまんです!」
色めくティファの笑顔に、華蕪もつられて、にかりと笑った。
*
誰もいない職員室を深渕ははじめて見た。
昼休みなので、先生たちも昼食に出ているのかもしれないが――
それでもすべての先生が職員室を開けるというのは妙である。
「深渕さま――」
背後から声がかかった。
「……宗堂さん」
宗堂は疲れているのか、やや虚ろな目をしていた。
「風邪はもういいの?」
「ええ」
「もしかして――これは宗堂さんがやったの?」
「先生方の守護霊様に、ここから出て行くようお願いしたのです」
「へぇ、そんなこともできるんだ」
宗堂は、深渕に近づくと――その胸にそっと手を置いた。
「深渕さま、お慕い申し上げております」
といって、宗堂はぐいと深渕を押した。
すると深渕の身体からすっと力が抜けて、そのまま背後へ倒れていく。
ここで――さらに奇妙なことが起こった。
身体が地面へ接触する直前に、深渕は消えてしまったのである。
「えっ――」
倒れる音もなく、地面に吸い込まれるように消えていった深渕。
その光景に宗堂は――唖然としていた。
「どうして……?」
膝からくずおれる宗堂。
深渕が倒れたはずの場所に手を伸ばしても、深渕を感じることはできなかった。
まるで存在そのものがかき消えてしまったかのようであった。
と、誰かが職員室へ入ってきた。
シャクッという音を立ててリンゴを齧りながら近づいたのは――国丸九十九であった。
「深渕先輩を突き落としたキミは何者だい?」
「宗堂ゐゑと申します……」
辛うじて返事をすることはできたが、立ち上がることはできない宗堂。
「ふうん――突き落とさせた、と言ったほうが正確のようだね」
国丸は、その霊感によってか、何かを察知したようであった。
「わたくしは、何をしてしまったのでしょう?」
怯える宗堂に、
「逃げる兎を捕まえて――檻に入れた、かな」
と国丸は告げた。
「もしくは――」
続けて、宮家照美の声が響いた。
「穴に落ちていく白兎を見た、アリスちゃんかしら」
宗堂が顔を上げると、職員室の入口には生徒会執行部が揃っていた。
「でも大丈夫よ、すでに蜥蜴の尻尾は見つけたから。餅は餅屋に任せましょう」
*
襟蓮冷児は男子トイレへ入ると、そのまま3階の窓から飛び出した。
校舎の壁にペタリと貼りつくと、素早く横移動する。
遠く職員室の窓を肉眼でとらえ、じいっと中を覗いた。
宗堂に胸を押され、消えていく深渕の姿がはっきり見えた。
「成功だっ!」
耳元まで裂けた口を、にいっと引き上げて歓ぶ襟蓮。
そこへ――腰にロープを巻きつけた女が、上階から飛び降りてきた。
女は、襟蓮の背に取りつくと、
「見ィつけた」
とささやいてから、流れるように腰のベルトから匕首を引き抜いて、襟蓮に突き立てた。
「にぎゃぐっ」
声にならぬ声を発して苦悶する襟蓮。
刃は肉を切り裂いて、深く刺さった。
「神社真庁所属討魔師、真咲燈火。さて、観念してもらおうかしら、サタナキアちゃん」
「肉体ごと抉るのか……」
「その方がはやいでしょ? 悪魔には悪魔のやり方が有効なの。はやくこの肉体を離れたほうが身のためよ」
「吾に気づいていたか……しかし、目的は果たした――」
襟蓮の身体から力が抜けていく。
襟蓮に取り憑いていた神威が、出て行ったようである。
壁からずるりと剥がれおちる襟蓮の身体を、燈火は片手で受け止めた。
背中に刺さったままの匕首から、血だけが滴り落ちていく。
「逃がさないわよ――きゃっ」
見栄を切った燈火であったが、身体を支えるロープがずるりと1メートルほど急下降した。
「羊ちゃーん、しっかり引っ張ってー」
命綱の先に向かって声を張り上げる燈火。
綱の端では、水真羊をはじめ、学生たち数人が必死に綱を引いていた。
「燈火ちゃん――急に重くぅっ……」
力んでいたので、声は燈火までは届かなかった。
「もういいわ! 上げて!」
『せーの、いちっ、にっ、いちっ、にっ……』
生徒たちの協力によって、ゆっくりと引き上げられていく燈火と襟蓮。
気を失った襟蓮を、燈火は優しく慰撫する。
「冷児くん。よく頑張ったわ、すぐに手当てするから」
それから、空を見上げて――安堵した。
「ティファちゃんも、頼もしくなったわね」
燈火の目には、澱んだ光の粒が――異世界に覆われた空が視えていた。
*
『ちくしょうめっ!』
逃れた悪魔サタナキアだったが、学園を覆う異世界に二の足を踏んでした。
悪魔にとっても、異世界は未知であった。
そこは常識や法則のまるで違う世界であり、例えばそこが悪魔が存在を許されない世界であれば、足を踏み入れた途端に消滅してしまう、という可能性もあるのだった。
天蓋に覆われた学園は、今や悪魔の鳥かごとなっていた。
癇癪をこらえて、屋上へと降り立つサタナキア。そうして塔屋を見据えた。
塔屋には、寝転がって空に手を突きだしているティファがいる。
襟蓮の身体を使って、学園の情報はあらかた調査済みのサタナキアは、この異世界を作り出しているのがティファであることもわかっていた。
だから次は――ティファに取り憑いて、異世界を消せばいいのだった。
『手間を掛けさせおって』
そうごちていると、
「だれか居やがるな――」
サタナキアの前に、華蕪萌花が立ちはだかった。
しかし華蕪には、悪魔を視ることはできないようで、周囲をギラリとねめつけながら、威嚇するばかりである。
「気配でわかる――悪魔か。姉貴が追ってたのは、てめぇだな」
『討魔の一族か。視えぬなら出しゃばるな』
「何か言ってやがるな……あたしには声も聞こえねーんだ」
そういうと目を閉じて、右手を構える。
サタナキアも注意はするのだが、視えないのであれば恐れる必要もない。
と、ここで屋上の扉が開いた。
「あ、あの、先輩がた! ちょっとよろしいでしょうか!」
緊張でこちこちになっている蛍春が、手に小袋を提げて入ってきた。
「今、取り込み中だ! 後にしろっ!」
「ひいっ」
華蕪の檄に、ひるむ蛍春だったが――それでも引かなかった。
「お、お怒りなのは、ごもっともですか、ひかりは先輩たちに謝らなければならないのです! まことに申し訳ありませんでしたぁ!」
声を絞り出す蛍春に、
「うるせえ黙ってろ!」
「ひいっ」
華蕪は一喝した。
集中を切らさず周囲に気を配る華蕪。
蛍春は涙目である。
サタナキアは、もう構っていられないと跳躍した。
と、またしても扉が開かれ、人が飛び出してきた。
「蛍春さんさっきのクッキー超おいしかったまた作ってぇぇ!」
勢いよく現れたのは羽津明だった。
そして、傷心して出直そうとしていた蛍春と、強かに頭を打ちつけたのだった。
「あいたーーっ」
「いでぇーーっ」
思いっきりぶつかったせいで、蛍春は手にしていた小袋を放り投げる。
「ムッ、上かっ」
華蕪が気配を察したときには、すでにサタナキアは華蕪の頭上を越していた。
そしてティファの一歩手前で――蛍春が投げた小袋に当たった。
『ぎゃあああああああ!』
絶叫しならが失墜する悪魔。
そのまま屋上に叩きつけられ、のたうった。
そこへさらに、蛍春の作ったクッキーが降り注いだ。
『ぐぎゃああああああああ』
悪魔は苦悶していた。
これは悪魔が、聖水を浴びたときの反応であった。
妖精にも愛される蛍春が、感謝を込めて作ったお菓子は、もはや祝福を受けた聖物と同じ効果を発揮するのであった。
「ごごごごご、ごめん蛍春さん」
羽津が必死に謝るも、蛍春は踏んだり蹴ったりで、もう泣き出してしまった。
「うえええええ……せっかく作ったのにぃ……」
「わわわ、ごめん蛍春さん、ごめんっ」
「うえええええええ……」
『ぎゃあああああああああ』
「ごめんごめんごめん、蛍春さんっ!」
「ふんふんふん、異界作りは楽しいな~」
能力に熱中しているティファの、鼻歌まで混じってくる。
ティファはイヤホンで音楽を聴いていて、周囲の状況にまったく気づいていなかった。
「な、何だこりゃ……」
華蕪が困惑していると、燈火が長刀を手に屋上に現れた。
殺気立っての登場だったが、この有り様に拍子抜けしてしまう。
「やだ、どうしちゃったのこれ」
「あたしにもわからん……」
屋上は、しばらく阿鼻叫喚に包まれていた。
#11 兎の咽喉{あるいは:隠者;}
目を覚ますと、深渕はまだ職員室にいた。
(……あれ?)
意識を失う前と変わらず、誰もいなかった。宗堂さえいない。
だが違和感はさらに大きくなっていた。
職員室だけでなく、廊下や校庭からも、人の気配を感じられなかった。
ファイルやプリントや飲みかけのコーヒーで乱れた机も……何だか存在が希薄だった。
『ごきげんよう』
深渕は振り向いた。しかし誰もいない。
幻聴でも聞こえたのかと見回すが、やはり人影はない。
ふと視線を落とすと、机の上にこちらを見つめている人形があった。
ベアスマイルズが、二本の足で立っている。
さらにそいつは、片手をあげて挨拶をするのだった。
『わたしは、夢子』
人形はこくこくと首を上下させて、まるで喋っているみたいに動く。
『「わ、人形が喋ってる!?」みたいなリアクションは省いてね。あなた、いうほど驚いていないはずよ。こんなこともあるんだなぁ、くらいにしか思ってないでしょ?』
「えっと――」
言われてみれば、たしかにその通りだった。
夢子という存在を、受け入れている自分がいたのである。
夢子は、てくてくと歩いて、机の上のファイルに触れる。
するとファイルは、跡形もなく消え失せてしまった。
続いて夢子が、とんとん、と足を踏み鳴らすと、机がなくなった。
消失は伝播して――職員室内の机や椅子や棚が、すべて消えていった。
夢子は宙に浮いたまま静止している。
『ここは想像の世界』
「ぼくは、夢を観てる?」
『夢と想像は別物。ここは想像が溜めこまれる場所――虚空』
夢子はふわふわと浮かんで、深渕と目の高さを合わせた。
『誰だって想像や妄想はするでしょ? ここはそれらが涯てしなく溜まる場所。ここでは想像や妄想が、実際に起こるの。ほら見て――』
夢子がそういうと、職員室の壁が取り払われて、廊下に男女の生徒が現れた。
制服が違うので、他校の生徒だろうか。
男が思い切って告白すると、女は驚きつつも、こくりとうなずいた。
男がガッツポーズをすると、女は頬を赤らめながら笑うのだった。
『あれも「だれか」の想像。ここはこんな想像が限りなくやってくるの』
「いまいち、わかんないな……」
『そっちの世界でいうクラウドってのが近いんじゃない? あなたたちは『雲』って呼んでるけど、わたしは『空』って呼んでいるの」
「想像が情報みたいに溜められている?」
『そういうこと! でもクラウドと違うのは、共有されないってとこかしら。溜めこまれた想像を閲覧できるのは――夢子だけ』
夢子は、ぐいと胸を張った。
「それってとんでもない量でしょ? ひとりでどうこうできるわけ?」
『あたまが堅いのね――「ひとり」をどうとらえるかよ』
すると、夢子は2つに分裂した。
さらにそれぞれが2つに分裂し、またさらに分裂する。
そうやって増殖を続けながら、夢子はまったく同じ動きで語りかけた。
『これでもわたしは、ひとり。わたしはあらゆる人間の頭のなかに、同時に存在することだってできるの』
というと、分裂した人形はひとつに戻った。
『だから――すべてを同時に閲覧することもカンタン』
「…………」
こんな話は、夢だとしても深渕の想像を超えていた。
『想像した瞬間に、ここにはそれが生まれるの! 人類創始以来――いいえ、天地開闢と同時にここは生まれたのよ! だって、想像というのは宇宙よりも広いんだから!』
夢子は詩でも詠っているように、仰々しく両手を挙げた。
しかし深渕は、そんなこと自分に関係ないという風に、受け合わなかった。
「ぼくは、どうしてここにいるの?」
深渕には、夢子の話はどうでもよかった。
ただこの世界から逃れる方法を考えていた。
だがその問いかけに、夢子はやれやれとかぶりを振る。
『気づいていないのね。ここには虚空のほかに、もうひとつ呼び名があるの』
「え?」
『深淵よ』
深渕が顔をしかめると、職員室が砕けた――
天も地も、涯てもわからぬ真っ白な世界が、そこに現れた。
*
大安行雲は机の影から飛び出して――宮家照美に土下座していた。
「生徒会長! おれが悪いんだ! 宗堂は悪くない!」
大安は痣ができるほど、額を床に押しつける。
「宗堂に話したんだ! おれに憑いていた神様が、深渕に憑依したって!」
「ん?」
と眉根を寄せたのは小熊である。
「何とかできるのは宗堂しかいないって話しちまったんだ!」
「――何か話がズレているな」
そういわれ、大安は思わず顔を上げる。
「え? 現魔部は、宗堂に無理させられないから、この方法を隠してたんだろ?」
「いや、そんな話はない。だれから聞いたんだ?」
「何だよ、隠すのか? おれが気絶してたときに深渕に移ったって、冷児が言ってたんだ!」
「冷児とは、だれのことだ?」
「もしかしてぇ、悪魔憑きの襟蓮冷児さんですかぁ?」
「あ、悪魔憑き?」
「なるほど――では貴殿は、悪魔にいっぱい食わされたようだな」
「討魔師さんがぁ、悪魔憑きを探していたんですぅ」
「え、じゃあ襟蓮は悪魔に? そんな……」
「悪魔のことはぁ、討魔師さんにお任せすれば大丈夫ですぅ」
「え、じゃあ深渕はどこに行ったんだ? は? ん?」
混乱する大安の横を抜けて、宮家は腰を下ろす宗堂の頭に、そっと手を置いた。
「イヱ、これは必定だったの――気にすることないわ」
「わたくしは、嫉妬してしまったのです。弱い心を悪魔に利用されたのですね――」
「いいえ、それは悪いことではない。償わせるべきは――別にいるのよ」
そういうと宮家は、教師の机に置いてあったコップをひっつかんで、今しがた深渕が消えたそこへ、コップの水をぶちまけた。
何もなかった床に、巧妙な魔法陣が浮かび上がった。
「これは――」
驚く小熊に、宮家は冷たく言い放った。
「あいつの置き土産」
*
『ダートは深淵に繋がる唯一の道。あなたが「視えない」というのもそのせいね。ここには「涯て」がないから、視えるものがないの』
「人から視えない力、なんて実感ないよ」
『力の大きさをわかってないからよ』
「無限の世界に、大きいも小さいもなくない?」
『とんでもないこと言うのね』
「ぼくは、はやくここから出たいんだけど」
『ここから出ていくの?』
「もちろん」
『何で?』
「何でって、ここはぼくの世界じゃないから」
『作っちゃえばいいじゃない』
「はい?」
『ここは想像が実現する世界なんだから、あなたが望む世界を作れるのよ。何もかも思いのまま』
そういうと夢子は、空中をくるくると自在に泳ぎ回った。
「それって――自己完結な世界じゃない?」
『そうならないように想像したらいいのよ』
「想像、想像って、想像に疲れるよ」
『何でよ! 願えば叶うのに』
「あんまり、叶えたい願いがないのかも」
『つまんない人ね』
「そうそう、ぼくは平凡だから。それでいいんだ」
『普通は欲があるものよ』
「むしろぼくは、このまま真っ白な世界のほうが居心地がいいかも。何もせず、ぼうっとしていられたら、それでいいんだ」
『やだわぁ、つまんない。何か考えてよぉ! あなたくらいの年頃だと、女の子の裸とか、ハーレムとか考えるんじゃないの?』
「それマジで大変なんだぞっ!」
『でも何か想像しないと、真っ白のまま』
「白紙のほうが、想像力が刺激されていいって」
『あなた、全世界の作家にタコ殴りにされるわ』
「ちょっと疲れたから、何にもないなら一休みさせてくれる?」
そういうと深渕は、頭の後ろに手を組んだ。
天も地もないのでわかりにくいが、それは寝転がるポーズであった。
『まるで兎と亀。あなたはここで待つってわけ?』
「亀が来てくれたら、話し相手にでもするさ」
『あら、それはいいわね――じゃあ』
そういうとベアスマイルズだった夢子の身体が、変化していった。
身体がみるみる引き伸ばされ――全身黒づくめの男になる。
その人物には、深渕も見覚えがあった。
「やあ、久しぶり。覚えてるかな?」
「黒生先生?」
それは世啓戸学園の世界史講師、黒生李一であった。
宮家照美と喧嘩をして、学校を辞めさせられたといううわさの講師である。
そういえば深渕に子音文字を教えたのもこの先生であった。
「遅れてきた亀だよ」
「先生がどうしてここにいるんです?」
「全部きみのおかげだよ」
「え?」
「まあ、ゆっくり話そうじゃないか」
長身で見下ろす恰好の黒生は相変わらず、伸びきったぼさぼさの髪と、滅多に剃らない髭面であった。
*
真咲燈火が、職員室まで降りて来ると――人だかりができていた。
職員室だというのに、職員はすべて退室させられている。
どうやら職員室から、机や椅子などの荷物を、運び出しているらしかった。
「あー、ちょっとすいません、通りますよ……はいはい通りますねぇ」
人をかき分け職員室の前までくると、真咲はようやく宮家と目が合った。
「照美ちゃん」
「あら、燈火先輩。そちらは済みました?」
「それがさ――なんか討ちづらい状況になっちゃって。とりあえず捕まえてる」
「あら、好都合! ちょっと貸してもらえないかしら?」
「いいけど――何やってんの?」
「もちろん、部活動です」
宮家が嬉しそうに微笑むと、校内放送が流れた。
『現代魔術研究部の方は、至急職員室にお集まりください。繰り返します。現代魔術研究部の方は至急職員室のにお集まりください』
そう告げるのは、宗堂の声であった。
「へえ、楽しそうね」
「うまく行くといいけど」
「何言ってんの、照美ちゃんなら、絶対、でしょ?」
「少しくらい先がわからない方が、楽しいんですよ」
宮家はまたにこりと笑った。
奥では国丸が、念動力で荷物を浮かせて、次々と運びだしているのが見える。
そこへ――
「ひぃ、ひぃ、ひぃ……連れてぎましたよぉ……」
と息を切らして現れたのは、京成虎子だ。
「やあ、虎ちゃん」
「あ、燈火姉……ひさしぶりぃ」
「あんたそれ――何運んでるの?」
「照美先輩に言われて……」
「べぇぇぇぇ!」
京成は飼育小屋から、半身が魚の子山羊を抱えてきたのだった。
職員室はあらかた空になり、だだっ広い空間となりつつあった。
*
「じゃあ先生は、ここに来るために、ぼくを利用したってことですか?」
「そういうこと。ぼくは悪魔と契約して、襟蓮くんに取り憑かせていたんだ」
「えっ! そうなんですか!?」
「学内じゃぼくは目立ちすぎるから、生徒の協力者が必要だったんだ。幸い、彼はぼくに傾倒していたから、扱いやすかったよ」
「ひどい先生だ」
「よく言われる」
「じゃあ、マヨイガも?」
「バベルの図書館を出現させるのに、松里くんはうってつけだった」
「ミルメコレオも?」
「羽津くんに、UFO視を目覚めさせたのもぼくだ。もちろん、きみがUFOを視えるようになったのも、ぼくが薬に細工しておいたんだ」
「パーンも?」
「マヨイガのときに、いくつかの本を拝借しておいたんだ。惚れ薬の精製の仕方だとか、パーンの召還方法なんかも、すべて書いてあったよ」
「あの本読めるんですか!? いえそもそも、あの中から狙った本を見つけられたんですか!?」
「それにマヨイガは、ここと一緒で思ったことが実現する。欲しい一冊を思い浮かべるだけで手に入るんだ。そしてそれを持ち帰ることもできる」
「どうしてそんな手の込んだことを――」
「深渕くんに、深淵へ落ちてもらうためさ」
黒生は毅然とこたえた。
「ここって――落とし穴なんですか?」
「厳密には違うね。ぼくの描いた魔法陣には落としたけれど、あれは深渕くんが深淵に落ちる瞬間、ぼくの意識も連れて行くための装置なんだ。つまり、深渕くんという案内人がいないと、ぼくはここに来れなかった」
「そんなことまでして……先生はここで何がしたかったんです?」
「そうだな――」
そういって黒生が目を閉じると、周囲の景色が一変した。
都会のど真ん中。
新宿ALT前のライオン広場。
行き交う人々、高層ビル、電車、車、街の喧騒……すべてが現実的だった。
「深渕くんは、これを現実ではないと信じることができる?」
照りつける太陽、モザイク煉瓦のざらりとした質感、風にギシギシと揺れる金網……人に手を伸ばすと、振り払われてしまった。
どの感覚も現実と変わらなかった。
「自信ないです……」
「ぼくは、ぼく自身が夢子になるという想像をしたんだ。一度願っただけで、この世界でぼくは夢子になれる――これであらゆる蓄積にアクセスできるようになったわけだ」
周囲の光景がめくるめく変わる。
東京、大阪、福岡、北海道、沖縄――アメリカ、フランス、オーストラリア、イタリア、エジプト、ブラジル、南アフリカ――月、太陽、水星、金星、火星、木星、土星――遠い宇宙、星雲、銀河――降りたったことのない星、存在しない街、架空の空、場所、物、時間……それらが目まぐるしく変わっていく。
「あーーーーーーーーーーーっ!」
深渕は目を閉じ、耳を塞いで、大声で叫んだ。
すると、景色はもとの真っ白な世界に戻った。
「きみは今、願ったね。真っ白な世界にしてくれって」
深渕は頭がクラクラして、胸焼けがした。
いつくもの光に、感覚が酔ってしまった。
「先生は……この世界で神様になりたいんですか」
「そうだ。でもそれは、この世界だけじゃない」
「え?」
「夢子は、あらゆる人間の想像にアクセスできる。あらゆる人間の意識へ入って行けるんだ」
「…………」
「そこへぼくが作り出したイメージを植えていけば――人間の意識そのものを変えてゆけると思わないかい?」
「それって……」
「ぼくは人間の意識を解放したんだ」
静かにみえる黒生だが、瞳の奥にはたぎる野心をたたえていた。
*
「大安くん、あなたには御礼をするわね――生きてたら」
「ふえ?」
聞き捨てならない台詞に大安は反応したが、すぐに、
「じゃあ燈火先輩お願いね」
「ああ、気が進まないが――」
と真咲燈火から、悪魔サタナキアを憑依させられる。
大安は、がくがくとのたうった。
『ぎゃああああ……はぁはぁはぁ、ちくしょうどういうわけだゴラぁぁっ!』
サタナキアに憑依された大安は、悪態をついたが、全身を縄で縛られているので身動きが取れない。
さらに――
「次はあなたの番」
「べぇぇぇぇっ!」
宮家は子山羊に、手を伸ばすと――
子山羊に憑いていたパーン神を引き抜いて、大安に憑依させるのだった。
『『ざけんなゴラぁ! 人間の分際で、この恨みはきっ――もごごごご……』』
猿ぐつわだ。
悪魔サタナキアと、豊饒神パーンを同時に憑依させられた大安は、両方の精神を代弁しようとしたのだが――発言の自由も奪われた。
『『むぐぐぐぐぐう……』』
大安が転がされているのは、深渕が消えた場所である。
水に濡れた黒生の魔法陣が、ぼんやり滲んでいた。
「――では、はじめましょうか」
宮家がいうと、職員室にいた現代魔術研究部の少女たちがこくりとうなずいた。
職員室の床一面には、巨大な生命の樹が描かれている。
少女たちは、それぞれのセフィラの位置に立っていた。
ケテル、宮家照美。
コクマー、小熊千得。
ビナー、松里雛。
ケセド、京成虎子。
ゲブラー、華蕪萌花。
ティファレト、ティファ・麓・トグサ。
ネツァク、羽津明。
ホド、蛍春光。
イエソド、宗堂ゐゑ。
マルクト、国丸九十九。
ダートはちょうど深渕が消えた場所にあり、今は大安が横たわっている。
少女たちは目を閉じて、一心に深渕を想った。
すると、少女たちの身体が淡く光りはじめる。
さらに、各セフィラを繋ぐ径も光を放った。
ゆっくりと、確実に、光が満ちてゆく。
ここに、人柱による生命の樹が完成したのであった。
*
「人間というやつは……何百年何千年経っても、同じことを繰り返している。同じことで悩み、同じことで苦しみ、肉の生活に閉じ込めれられている! ぼくは、そんな人間を見ていられない! だからぼくは、人間たちをすぐにでも優れた精神にしてしまう方法を探していたんだ。そこに――きみが現れた」
「ぼく――というより、深淵ですよね?」
「あらゆる人間の脳へ、直接イメージを送ることができれば、人間は瞬く間に、素晴らしき精神を得ることができる! それを次元上昇という人もいるが、ぼくとしては手っ取り早く人間の意識を革新させるつもりなんだ」
黒生は、革命青年のごとく理想に燃えていた。
しかし深渕は、黒生が激するほど、冷静になっていた。
首をくねりと横に傾げて、深渕は腕を組んだ。
「んー」
「おや、納得いかないって顔してるね」
「納得とかじゃなくて――何か引っかかるんです」
「そうかい? 異論あるんだったら、ぼくはいくらでも聴くよ」
「異論ではなくてですね……」
「何だい、はっきりしないんだな」
話し相手を求めるというのは、革命家の常だ。
それは承認欲求のためである。
しかし、革命が暴力によってしか成されないという矛盾を前に、それは帰結することがない哀しい思想でもある。
叶わぬ夢だからこそ、理想を追い求めるのかもしれない。
自分の意志を行うためには、ひとりひとりの意見など聞いていられない。
強引にねじ伏せて、自分の意志を行うことが、革命のルールでもある。
それは黒生自身にもわかっていることであった。
しかし、それでも、止めどない衝動が黒生をここに導いていたのである。
「先生は、それを永遠に続けるつもりですか?」
「もちろんだよ。準備はすでに終えている。マヨイガから不老不死の薬と、不滅の地の本を拝借した。ぼくの肉体は、この星が滅びるまでそこで眠り続ける」
「どうしてそこまでやるんです?」
「人間のためさ。深渕くんだって思っていたはずだよ、世の中はもっと単純なはずなのに、どうして面倒ばかりやっているんだろうって。利益を上げるために、手間を加えて、わざわざ遠回りしているんだ。出動するために放火をする、悪徳消防士みたいなものさ。だからぼくが、そんなわだかまりから解放してあげるんだ。簡単な理屈だろう?」
「んー」
「んーって、はっきりしないねぇ」
この堂々巡りに、黒生はすこし呆れているようであった。
しかし深渕は、ここでようやく、ある『答え』に行き着いた。
「ああ、そっか」
「おや、何かわかった?」
「先生って――人間を過信してる気がします」
「ほう、過信?」
黒生は首を突きだした。
深渕の言葉には、黒生の興味を惹く何かが混じっていたのかもしれない。
「人間って、ぐうたらですよ? 逃げるときは、とことん逃げるんです」
それは逃げることを常に考えてきた、深渕にしか出せない『答え』でもあった。
「それで?」
「ここって無限なんですよね?」
「ああ」
「ぼくは、逃げるために、ここは無限だと思ってました」
「それも一理ある」
「でも逃げるには、無限でも足りないんです」
「ん……?」
「ぼくは、今ここで、それを考えました」
「…………」
深渕の言葉を反芻し、しばらく考えていた黒生。
やがてその意味を察すると――
黒生の顔色はみるみる変わっていった。
「まさかっ!?」
興奮して血色を帯びていた顔が、もはや蒼白となっていた。
「ここでは、考えたことが実現するんですよね?」
黒生は、ようやく理解したのだった。
「き、きみは――深淵に、穴を開けたな」
「すみません」
深渕は軽く頭を下げた。
それはその大意の割に、随分と素っ気なかった。
黒生は追い詰められたように、自分で自分の首を絞め、胸を掻いた。
「深淵は、無限だからこそ終着なんだ。すべての想像はこの深淵に溜まる! ここ以外に必要ない! けれどきみは――そこに逃げ道を作ったんだ。深淵をもうひとつ作った!」
「いやあ、すみません」
深渕は、あっけらかんとしていた。
黒生の真摯さに対して、いささかふざけているようにもみえたが、そんな意図は毛頭ない。
それが深渕脱兎という人間の考え方なのだった。
「夢子としてのぼくの資質は……今いるこの深淵が限界だ……きみが開けた穴の先へ、ぼくは行けない」
打ちひしがれる黒生だったが、
「先生、落ち込んでいるところすみませんが――もうひとついいです?」
深渕には、それは些細なこと、取るに足らないこととしか思えなかった。
「まだあるのか……?」
「先生がいくらイメージを流したところで、人間は相変わらずだと思います」
「いいや、それはない! 必ず変えられる!」
信念を通そうとする黒生だったが、
「いいえ、きっとそうです」
深渕は断言した。
「なぜそう言い切れるんだ?」
「だって先生が思いつくようなことを、今まで誰もやらなかったと思います?」
深渕の不可解な言葉に、気勢を殺がれる黒生。
「……どういうことだ」
「それこそ目に視えない者たちが、すでにやっていたことだと思うんですよ」
「…………」
「視えない世界って、視る必要がないから視えないって気がしてるんです」
「それでも、意味はある――」
「先生がそう思うのは自由です。でもそれって逆にいうと、目で『見る』必要があるから、ぼくたちは物を『見て』いるってことですよね? ぼくたちはここにいる必要があって、ここにいるってことなんじゃないですか?」
「…………」
「人間が変わらないんじゃなくて、人間のやることが決まってるんですよ。チンパンジーが進化しないのと同じで、人間もずっと変わらないんです。だからもし――」
ここで深渕は大きく息を吸った。
そして自分で自分の心を落ち着けるように、ごくりと唾を呑んだ。
「もしそれが叶ったら、人は人でいられなくなって、別のものになるんです」
黒生は顔を歪ませていた。
そこには言葉にならぬ煩悶があるようであった。
「それでも人間に、可能性はある……」
「だから、人は逃げちゃうんです。可能性に助けを求めて。兎だってそうですよ。逃げることで生き伸びてきたんですから。だから、深淵ここにだって穴が開いたんです。人にはそうゆう、防衛本能みたいなところが、あると思うんですよね、絶対」
いつのまにか深渕も熱くなっていた。
それは自分の言葉でありながら、どこか遠い誰かの言葉を代弁しているような、そんな気がしていた。
「……絶対か」
「あぁ、何かこういうこと言うと」
「深渕くんも、照美と同じことを言ってるよ」
「いえ、絶対っていうのは、生徒会長の真似じゃなくて――」
あわてて弁解する深渕だったが、
「言っている内容が同じなんだ。ぼくたちも、それでよく喧嘩した」
「そうだったんですね」
黒生は、何か得心が行ったようだった。
それが諦めなのか、希望なのか、深渕にはわからなかった。
しかしそれでも、黒生は清々としたような顔つきであった。
「まあいいさ。きみのおかげで、人間には逃げ道ができたんだ。ぼくはここで、ぼくが信じたことをやってみるよ。どっちが正しいか、証明しようじゃないか」
「ぼくにそんな気は――」
「大丈夫だよ、深渕くん。きみはまだ必要とされているらしい」
「はい?」
そういうと黒生は、鏡を出現させて、深渕に傾けた。
「たしかに深渕くんは、深淵でさえも逃げ場所にならないらしいね」
「わっ」
深渕ははっとして、頭に手を伸ばす。
2本の長い耳が生えていた。
真っ白でふわふわしたその耳は、まさしく兎の耳であった。
「こんなもの、ぼくは考えてないですけど」
「お迎えだよ、女王様がお冠だ。いや照美の場合は、女帝と言うべきか」
「そんなこというから、生徒会長に嫌われるんですよ」
「――じゃあ、きみにひとつ面白いことを教えてあげよう」
「え、何ですか?」
と訊き返した深渕の頭上に巨大な手が現れた。
その手は、深渕の長く伸びた耳をむんずとつかむと――そのまま勢いよく引き上げた。
黒生は、不敵に笑うと、こう言った。
「宮家照美とぼくは、付き合っていたんだ。ぼくは元カレってわけさ」
「ええええええええええーーーー」
地球の重力を脱出するかのような加速度に、深渕はがくりと気を失った。
*
宮家照美は、大安行雲の咽喉へ、手を突っ込んでいた。
『『うごあがああをおあぎあぐわあが――』』
おぞましいうめき声をものともせず、宮家は肩まで入れた腕をかき回して――
ぐいと引き抜いた。
『『ごごごぉはぁぁぁあああああ――』』
大安の咽喉から、深渕が吐き出される。
深渕はそのまま床へと倒れ込んだ。
宮家の腕と、深渕の全身はぬらぬらした粘液で覆われていた。
『『ぎぃぃいい、貴様ぁ、何をしたぁ……』』
パーンとサタナキアに憑依された大安は苦しそうにもがいていた。
「ありがとう、おふたりとも。〈贖罪山羊〉にさせてもらったの。深渕クンを深淵から救い出すには、理を超える必要があったのよ。その罪科を祓うには、2匹の山羊が必要だった。一方は供物として天に召され、一方は贖罪として野に放たれる。あなたたちは、どっちも神性が山羊だから丁度良かった」
『『きさまぁぁぁ――うぐ』』
と、大安はこと切れた。
ばたりと倒れてから、また不自然な動きで、すぐに跳ね上がった。
「さて、供物になったのはどちらかしら?」
『宮家照美……神をも利用するとは――きさまは死神か……』
「パーンが残ったみたいね。では慣習にならって、あなたを解放する。さあ、どことなりとお行きなさい」
『……なんという人間だ――』
そう言い残すと、またしても大安は顔面から倒れた。
サタナキアとパーンが抜け、残った大安の意識が、ようよう這い上がってきた。
「だはぁ、はぁ、はぁ……あで? おで、生ぎでる?」
咽喉をやられて、うまく喋れない大安だったが、無事ではいるようだ。
「感謝しなくちゃね、大安くん。ダートに対応する器官は咽喉なの。だから、あなたの声帯を通り道に使わせてもらった――不死身でよかったわ」
「あ、あい、どういだじまじて……」
光を放っていた、職員室の生命の樹が、次第に収まっていく。
少女たちはゆっくりと目を開けて――深渕の姿を認めた。
「深渕殿」「深渕さん」「深渕」「ブッチー」「深渕先輩」「深渕さま」
口々に深渕の名を呼んで駆け寄る少女たち。
深渕も、すぐに意識が戻ってきた。
どうやら自分は、宮家に抱えられているらしいと気づく深渕。
周りにはいつもの女の子たちが、心配そうにこちらを見ている。
深渕はひとりひとりの顔を見回して――
最後に宮家に目を止めると――こう言った。
「先輩、黒生先生と付き合ってたんですか?」
「ふぇっ!?」
聞いたことのない腑抜けた声を発して、みるみる顔が朱に染まる宮家。
それは宮家が滅多に見せない、恥じらいの表情だった。
みんながぎょっとしていると、宮家は恥ずかしさをかき消すように叫んだ。
「あーもーっ! あいつ最低っ! ほんとに悪趣味っ!」
宮家の意外な一面に触れ、少女たちもどうしたものかと戸惑ってしまった。
#エピローグ{あるいは:愚者;}
生徒会室にはシャワールームやベッドが備えてあった。
『深渕クンは、ここで休んでいくといいわ』
と宮家に言われて、午後の授業は欠席にしてもらった。
シャワーを浴びて、ベッドに横になるうちに、ひと眠りしてしまったらしい。
吹き抜ける柔らかな風のおかげで、目覚めまで心地よかった。
他の生徒が勉強に勤しんでいる時間に、のんびり眠っている自分は優雅に感じられた。
深渕がゆっくり寝返りをうつと――松里雛がいることに気づいた。
「松里先輩!?」
松里はソファーに座って、ニコニコ顔を向けている。
「授業はいいんですか?」
「深渕さんが心配でぇ、ズル休みしちゃいましたぁ」
ぺろっと舌を出す松里。
そんなあざとい仕草でも、許せてしまうのが松里である。
深渕はベットから身を起こすと、髪や服など、軽く居住まいを整えた。
「あの、松里先輩」
「は、はい」
深渕のかしこまった物言いに、松里も察したようだった。
「告白の返事をします」
「は、はい!」
緊張が高まるふたり。
それは先週末に、図書室で受けた告白への返答であった。
少しだけ沈黙が流れた。だが深渕の心はすでに決まっていたのだった。
「ぼく、先輩とは付き合えません」
「……はい……」
松里の顔が陰っていく。
しかし深渕も、続けないわけにはいかなかった。
「これは逃げです。もう一度だけ、逃げさせてください」
「こちらこそ……無理を言って、すみませんでした――」
互いに頭を下げ合った。
悲しみに暮れる松里だったが、深渕は話を続けた。
「ぼくは――人間関係が面倒で、ずっと逃げてました。自分に対しても、他人に対しても、興味を持たないことで、のんびりしてたんです」
「はい……」
「でも、みんなと話すうち、人間関係は面倒じゃない気がしてきたんです」
「はい?」
「じゃあ、ぼくが逃げていたものは何だろうって……いろいろ考えてみたんですけど――これってそもそも、考え方が違ったんです」
このときの深渕の顔は、どこか黒生とも似ていた。
黒生が最後に見せた、あの清々しいような微笑みの意味が、ふと深渕にもわかった気がした。
「違うっていいますとぉ?」
「ぼくは、逃げたかったんじゃなくて、逃げた先の、広々とした世界が好きだったんです! 人って基本的に、前に進むことだけ考えているでしょ? だから流れに身を任せたままにしていると、辺りは人でいっぱいになって、忙しないんです。でもその流れから外れて、一度、全然違う方向へ逃げてみると――誰もいない土地が広がっているんですよ。そこには、前に進むだけじゃない、別の可能性がたくさんあるんです。それはもう雄大な景色といってもいいくらいの! ぼくは……それをたくさん観たかったんです」
深渕の頭には、サバンナを渡る、バファローやヌーの群れが浮かんでいた。
群れから逸れた1頭は、他の獣に襲われる危険があるのものの、目の前には果てしない荒野が広がっているのだった。
しかしそんな光景が、松里に伝わるわけもなかった。
「それって……どういうことですかぁ?」
「ですから、ぼくはまだ、いろんな松里先輩を知りたいと思ったんです」
「つまりぃ、お友達から、ということですかぁ」
「えと――そういうことになりますね」
「じゃあ、嫌われているわけではないんですねぇ?」
「もちろんです!」
即座に返答する深渕。
すると松里も、ようやく安堵の表情をみせた。
「よかったぁ、わたし嫌われたのかと思いましたぁ」
「すみません、うまく言えなくって――」
「安心しましたぁ……ふふ」
松里は小さく含み笑いをして、こう続けた。
「ではぁ、深渕さんには、わたしをもっと知っていただいてぇ、好きになってもらえばいいんですねぇ?」
「えっ」
「そうしたら深渕さんもぉ、心置きなくわたしと付き合えますよねぇ?」
そういうと、松里は悪戯っぽく微笑んだ。
「そ、そういうことになりますね」
自分から言い出した話なのに、言いくるめられているようで深渕も苦笑する。
「それが深渕さんのお返事なんですねぇ?」
「逃げることしか考えられなくて、すみません」
「いいえ。深渕さんにとってはぁ、逃げることが魔法だったんですよぉ」
「魔法、ですか?」
松里は窓の外を眺めた。
最上階の景色は、遠くまで開けているものの――
階下を見降ろすと、その高さに足がすくむものである。
「前にグウちゃんが言ってましたぁ。みんなそれぞれ、自分の魔法を持っているんですぅ。可能性に向かって、自分を変えさせてしまうものはぁ、全部魔法なんですって」
「また実感のない話ですね――」
「魔法はそんなものですよぉ、みんな身近に利用してるんですぅ」
生徒会室の開かれた窓から風が吹き抜け、花びらがひとひら舞い上がった。
それは窓際に飾られた、一輪の白い花の、花びらであった。
ふたりはそのゆらめく一片を、心地良く眺めていた。
〈第一部 完〉
チャネル・チャンネル・チャネリング~あるいは深渕脱兎の現代魔法学入門~
ご拝読いただきありがとうございます!