すがるもの
あたると評判のバーマンのもとに、今日も悩める客が顔を出す。
すがるもの
『すがる』
「このラジオ、今この人がやってるんだね。久しぶりに聴いたわ」
男が店内の音楽をラジオに切り替え、いつもの聴きなれたオープニングが流れてくると、女はそう言った。
夜の12時。開けた窓からは月や星が見えることもなく、夜空はただ地上の光に照らされていた。
「そうなんです。多分五代目くらいじゃないかと」
「そっか。あたしも歳をとるわけだ」
カウンターに座る女と、とりとめもない会話をしながら、男は女の手元に目をやる。
「何か召し上がりますか」
「そうね。ちょっとさっぱりしたいから、ジンリッキーで。ジンはまかせるわ」
「かしこまりました」
女は窓に目を向けながら煙草に火をつける。吸って吐き出す煙が、窓から入ってくる風に流されて、店内を漂う。
カウンターが八席だけの小さな店。雑居ビルの四階にそれはある。バックバーにはそんなにたくさん酒が並んでるわけではないが、男の強いこだわりを女は感じた。
「お待たせしました」
男は空いたグラスを下げ、ジンリッキーを女の右手前に置く。
ライムとジンの切れのある香りが、ソーダの泡が弾ける度に女の鼻腔をくすぐる。
「ありがとう。マスターも一緒に飲みましょうよ」
「いただいて宜しいんですか?ありがとうございます」
男はグラスに常温のジンを注ぎ、女の目線に掲げる。
「いただきます」
男が一口飲んだのを見届けて、女が話かけてきた。
「ねえ、あたしが良く行く店だとジンは冷凍庫で冷やしてるけど、ここはしないの? 」
男は答える。
「特定のカクテルを作る都合上冷やしてるものもありますが、それ以外は冷やしません」
グラスを一口煽り、続ける。
「冷やすことによって、失なわれるものもありますから」
失なわれるものもという男の言葉に、女の心がざわついた。
女はそれを気取られまいとするように、いつの間にか消えていた煙草を灰皿に押しつけて、もう一本火をつける。
マホガニー色に統一された店内は、ラジオから聴こえる静かな音楽と、窓から入る淡い風に流されて舞う煙で満たされていく。
女は煙を吐き出し、ジンリッキーに口をつけた後、意を決したように言葉を出す。
「里美ママからあたるって聞いて来たんだけど」
男は一瞬窓の外に目をやり答える。
「そんな気はしてました」
一本失礼しますと女に断り、男は煙草に火をつける。
男はゆっくりと煙を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。
そんな男の姿を見て、不思議とざわつきが収まるのを女は感じた。まるで男の意識がゆっくりと流れ込んでくるようだった。
男は伏せ目がちに女に言う。
「里美ママからどう聞いてるかはわかりませんが、はたしてお役にたてるかどうか」
「里美ママが言ってるなら大丈夫。ねえ、本当に悩んでるの。お願い助けて」
女の必死さがうかがえる言い方に、男は間をおき答える。
「あたるかどうかは、私にはわかりません。それはある意味本人が決めることなので。私はそんなに特別なことが出来るわけではありませんよ」
女はそれでも食い下がる。
「構わないわ。どうしてもお願いしたいの。お金なら払うから」
男はグラスのジンを口に含む。飲みこみ、余韻を楽しむように目を閉じる。
暫しの沈黙の後、煙草の火を消し、女の顔を見る。そこには懇願する顔があった。
男はゆっくりと話し出す。
「分かりました。別にお金はいりませんよ。ただし、占うにあたって条件があります。それを守っていただければ」
女は安堵の表情を浮かべ、即答する。
「分かったわ。条件は何でも守ります。だからお願い」
男は分かりましたと答え、あらためて女の顔を見て話し出す。
「私は本当に特別なことが出来るわけではありません。過去をあてたり、これから起きることを占うこともできませんし、出た結果に対してアドバイスも人生相談も出来ません」
女は黙って聞いている。
「私は選択肢を視ることしか出来ないのです。例えばYES or NOだったり、どちらを選んだら良いのかとか。そして、これが一番の条件ですが、あなたの悩みを私に話さないでください。でも、私を信じること。できますか? 」
女は考える間もなく答えていた。
「できるわ。あなたを信じるわ」
男の提示した条件は一見単純なようにみえて、実はかなり難しいものである。本来なら悩みを聞きながら話すことにより、相手に共感して信用を得ていく。いくら信頼してる人に紹介されたといっても、それだけでは前提条件が弱すぎる。だから言葉に出させることで縛りをかけ、補完する。
そして、男が悩みを聞かないのには理由がある。男の占いは単純である。事前情報等を元にするわけではないので、逆に雑念になり、結果を狂わせてしまうのだ。単純故に繊細さが求められる。
「私はただ結果を提示するだけです。どちらを選択するかはあなたの自由です」
女は男の目を見て一言だけ。
「いいわ」
女の静かな声を聞いて男は言う。
「わかりました。では始めましょう」
グラスの氷が崩れる音が、男と女の間に響いた。
『占う』
男はラジオを消して、店内の照明を幾分落とす。薄暗い店内が、窓の外より暗くなったようだ。
小さなキャンドルに火を灯し、女の前に置く。
女は男の儀式めいた準備を固唾を飲んで見ている。
男は女の前に白い紙とペンを差し出す。キャンドルの火が、白い紙を薄く照らす。
まるで夜と同化したように、男の姿は妖めかしく浮かんでいる。
男の指示に従い、女はペンを取り紙に書く。
1と、少し間を空けて2と。
男は黒のネクタイを緩め、シャツのボタンを二つ開け、首から下げていたものを外す。
右手に握られた細い紐の先には、何か白っぽい半透明な石のようなものがついている。縦に細長い、三センチ程の塊。
男はそれをカウンター越しに、女の目線に垂らす。半透明の塊が、キャンドルに照らされながらゆっくり揺れる。
女は揺れるそれから目を離せずにいた。意識が遠退きそうになるのを感じながら。
男は囁くように女に言う。
「これは水晶の原石です。今からこれを両手で握ってもらいます。私がいいと言うまで目を閉じて、あなたの占って欲しいことを思い浮かべてください」
黙って頷く女の目線に揺れている原石が、女の喉元まで下がる。
「では握って、目を閉じてください」
男に言われるままに、女の手が原石を包みこみ、そして目を閉じる。
最初必死に思い浮かべていたものが、すうっと消えてなくなり、ゆっくりと意識を暗いものが覆っていく。窓からの真夜中の柔らかい風を感じることもなく、あらゆる気配が断たれていく。それを埋めるかのように、暖かい何かが流れ込んでくる。不安はなく、むしろ心地良い。
その心地良いものに全てを満たされた時、男の声が微かに聞こえた。
「さあ、目を開けてください」
女はゆっくりと目を開ける。最初にキャンドルの柔らかい光が見えた。
男に促され、原石から両手を離す。女の身体は流れてきた暖かいもので火照っていた。
男は女の書いた紙を引き寄せ告げる。
「では、始めます」
紙の上で水晶の原石を揺らす。ダウジングという手法である。
女は揺れる水晶から目を離せずにいた。ゆったりとした水晶の揺れは、今の女の精神の揺れとまるでシンクロしているようだった。
男はゆっくりと目を閉じていく。だが完全に閉じられることはなく、揺れる水晶を見つめている。
水晶はゆっくりと1と書かれた上に移動する。小さくゆっくりと揺れている。
女もそれを見つめている。
暫くすると、ゆっくりと2と書かれた上に移動する。
最初はゆっくりと小さく揺れていた水晶が、段々揺れ幅が大きくなり、円を描くようにぐるぐる回り始めた。
やがて男は水晶をゆっくりと引き戻す。そして、まだ紙の上から視線を外せずにいる女を見て言う。
「見ていたと思いますが、大きく揺れた方が、私の導いた結果です。あとはあなた次第です」
女は無言で頷き礼を述べる。
「ありがとう。わかったわ」
無音の店内を真夜中の質量が埋めていく。キャンドルの火だけがそれに抗い揺れているようだった。
『結』
客が引けた深夜一時、開け放たれたドアの外から、こちらに向かうヒールの音が聞こえてきた。
「お疲れ様。まだいいかしら? 」
声とともに里美ママが顔を出す。
どうぞ、大丈夫ですよと言う間もなく、里美ママはカウンターの中程に座る。
「今日は飲み疲れちゃったから、コーヒーをちょうだい。深煎りの方でお願い。お酒は代わりにマスターが飲んで」
男は苦笑いして、かしこまりましたと呟く。
ネルでゆっくりと落としたコーヒーを里美ママの前に置き、男はグラスに常温のジンを注ぐ。
グラスを里美ママに掲げ、
「お疲れ様です。いただきます」
言って男はグラスに口をつける。
里美ママもコーヒーに口をつけ、男を見て言う。
「マスター、遅れたけど先日はありがとう。志織を占ってくれて」
男は女の名を初めて知る。こちらから名を聞くことはない。酒を飲むのに名も肩書きも必要ないから。
「礼を言われる程でも。役に立てたかどうかもわかりませんから」
「そんなことないわ。私が紹介しちゃったから、無理言ったみたいでごめんね」
コーヒーの香りが漂う店内に暫く沈黙が流れる。
「志織ね、お店やめたの。良くある話だけど、お客さんにくっついて行っちゃった。結婚するんだって」
里美ママが何処を見るともなく男に告げた。
男は黙ったままグラスのジンを飲む。男にはどうでもいいことだった。
里美ママはそれを察するが、話を続ける
「志織は随分悩んでたのよ。自分の店を出すのが夢で今まで頑張ってきたんだけど、実は目処がついてね。スポンサーになってもいいって人がいて。でもこの世界のスポンサーの意味わかるでしょ?それでもあのこは構わないって」
里美ママは煙草に火をつけ話を続ける。
「志織は私と同じ店にいたことがあってね。その時にいい人ができたのよ。その人とも続いててね。単身赴任でこっちに来てた人で。奥さんもいるし、いずれ何処かに行くからと結婚とかは諦めてたんだけど」
男は黙って聞いている。
「でも、その人が離婚することになって志織にプロポーズしたのよ。それで迷ったのよ。好きな人との結婚もあのこの夢だったから。どっちの夢を取るかで悩んで、結局結婚の方取っちゃった」
里美ママは相変わらず月も星も見えない窓の外に目を向ける。
志織が男の占いを信じた結果、選んだ答えかは今や知ることはないし、男にとってはどちらでも良かった。例え不幸な選択でも自分で決めたことだから。だが、不幸な選択によって失うものがあっても、代わりに得るものもある。それがいつか不幸を上回ればいいだけだと男は思う。
男は心の中で自嘲気味に呟く。
「占いなんて所詮意味のないことでしょ」
店内にはラジオからの静かな音楽と、煙草の煙が漂っていた。
終
すがるもの