人間錯覚ver.1.13

wait for truth

 ※これは実話をもとにしたフィクションであり、それぞれの断章は主人公が過去を回想しているという形式を採っているため、誇張や改変は否めず、実際に起こった出来事との相違、断章間の矛盾があることをご了承ください。しかし、記憶とはそういうもので、いつの間にやら自分の都合のいいように美化されたものもあれば、必要以上に貶めている場合もあるのではないか。そして人間とは矛盾した生き物である。

 誕生日

 君が新しくくれたのは誕生日だった。
「誕生日おめでとう」という言葉が、呪いだった言葉がそんなに優しく響くとは知らなかった。
 誕生日の何がめでたいのかわからなかった。その人の誕生日を口実に、騒いだり豪華な食事にありついたりしたいだけだ。人間はそういう卑しい生き物だと思っていた。子どもが嫌だと言っているのに、自分が外食したいだけで、子どもの誕生日に外食をする。親が子どもに嫌がらせをする日。この世に生まれてきてしまった日。
 この国の制度では三月に生まれた子どもは同じ学年でも歳下になる。四月生まれの人々とは一年近く生きた時間が違うのに同じに扱われる。納得がいかなかった。三月生まれの自分は劣等感を感じ、それを言い訳に能力の衰えを自分に言い聞かせた。三月生まれなことが恥ずかしかった。同学年でも一年近く歳下なのだから、精神的にも肉体的にも劣っていて当然だと。逆に、自分より長生きなはずの同級生ができないことは自分もできなくてもいいと思った。自分ができることに対しては、自分より一年近く年上なのにそんなこともできないのかと同級生をバカにして、大人ぶろうとした幼稚な生き物だった。末月の生まれがそんなコンプレクスを生む。
 小学生の頃、クラスの係で誕生日を祝う係があった。誕生日が来た同級生に手作りのカードを渡したりするだけだ。たったそれだけのことでも、憎らしかった。自分の誕生日の頃には春休みになってしまう。休みでなくとも、学年最後の時期にはもう係の役割は終わってしまっていた。いくら待っても、祝ってなどくれなかった。そうやって忘れ去られた思い出を持つ人は三月生まれにはいる。もちろんそうじゃない幸運な人間だっている。
 憧れだった。真ん中の月に誕生日を持つこと。三月でなければ、七月や十月でなくとも、二月でもいい。一番最後は嫌だった。
 新しい誕生日はたった二日しか違わなかった。三月なんて関係がなかった。三月なことに問題があったのではなくて、もちろんそのせいでもあるが、誕生日を祝われなかったことが問題だったとようやく気づいた。本当に祝うなら、嫌がらせはしない。子どもに何か買い与えていればそれで親の役割を果たしたつもりになったと勘違いしている人たちもいる。子どもが本当にそれを望んでいたのだろうか。新しいおもちゃ。豪華な料理。ケーキにろうそく。子どもの感情なんて親にはわからない。もちろん親の感情も子どもにはわからない。そういうことがわかってからも、赦せなかった。信頼できるものなんてほとんどない子供にとって親の存在は大きすぎるというのに、蔑ろにされた子どもは世界の終わりを感じてしまう。
 きっと、お互いがどんなつもりであろうと、祝いの言葉を素直に受け取って、一緒に楽しめばいいのだろう。自分の誕生日のために周りが騒いでいるなら、そうやって誰かを元気にさせているならそれでいい。あなたに出会えてよかったと、生まれてきてくれてどうもありがとうと、そういう感情を信じられたらいい。もし自分に少し不快な感情があったとしても。そう思える大人にはなれなかった。
 おめでとうなんてそんな言葉を吐いて親をやってみせなくてもいいのに。呪いの言葉は聞きたくなかった。
 そんな子どもだった。
 君は僕の誕生日なんて知らなかった。そして僕の苦悩を知っても、その上で、おめでとうと言ってくれた。初めて祝われた気がした。プレゼントも豪華な食事もなしで。
 目の前の、たったひとりの言葉で、新しい誕生日は生まれる。

 名前

 トランプをひと束、裏向けて扇状に広げてみせて、一枚選べと頼まれれば、たいていは真ん中のあたりから選ぶ。一番端のカードを選ぶ人はおそらく少数派だろう。
 端にあるカードは二枚だけ。トップかボトムか。サンドイッチのパン。その他のカードは表も裏もカードに挟まれている。
 名字の一文字目が「わ」なら、この国では端のカードになってしまう。学校では、五十音順に出席番号が決まる。僕はたいてい男子の一番最後。先頭から順番に呼ばれて、いつも一番待たされる。計四十人で、男二十一人、女十九人のクラスで僕は二十一番。よくある番号だ。十九番や二十番や二十二番のこともときどきある。でも二十一番が一番多かった。授業や行事で前から順番に五人ずつで区切られたら、僕だけ、女の子に混じって一人だけ男だった。小学生や中学生にとってそれはつらいものだった。恥ずかしいものだった。自分だけ、男として扱ってもらえない。五番の男や十三番の男がそんな感情を経験することはない。この国の言葉の並びのせいで、この名字に生まれただけで、存在を否定される。子どもにとってはそう大袈裟に感じてしまう。存在の否定の恐怖が身体に蓄積される。日本語の音の並びを変えないことにはこの悲劇は繰り返される。
 真ん中の名字を持つことは憧れだった。結婚して名字が変わるのが嫌だという声が世の中にはあるけれど、僕には理解ができなかった。生まれた家や名がそんなに大事なのだろうか。そんなに誇らしいのだろうか。名字を変えることは、それまでの自己の否定も含まれるのかもしれないけれど、生まれ変わるチャンスでもある。新しい人生を歩むことの象徴にもなる。名字が変わることによる事務的な手続きが面倒だというのも確かにあるのかもしれない。生まれもった名字が大事で誇り高くて、その喪失はアイデンティティの喪失でもあって、その感情を表に出すのは、恥ずかしいから、誇り高いと思われていると知られると照れくさいから、そういった感情が心のどこかにあって、それを無意識のうちに隠すために、事務的な手続きが面倒だという言葉が表面に出てきているものだと思ったりもする。
 例えば誰かと結婚して子どもができたら、その子どもはこの名字を背負って、悲劇がまた始まってしまう。そういう思いは、自分に子どもを持つ資格が無いと感じさせた。そんなことを望むのは子どものために良くない。こんな家は、血は滅べばいい。そう願った。
 たとえ地球が丸くても残念ながら誰かが端にならないと世の中は回っていかない。それは仕方のないこと。呪いをかぶる役目は必要なのだ。

 ある夫婦

 その夫婦は女の子がほしいと願った。
 生まれてきた子どもは男の子だった。それでも、待望の一人目の子どもだ。長男は一家に暖かく迎え入れられ大切に育てられた。
 家を建てたとき、用意された子ども部屋は二部屋だった。
 二人目の子どもは望まれた子とは違った。
 二人目の子どもは男の子だった。そこに全く失望がなかったと言えば嘘になるだろう。夫婦は内心ではため息を隠せなかった。本人たちの無意識下の領域であったとしても。――それは罪?
 次男を最初に抱いたのは祖母だった。これが祖母の自慢。つまり、両親は二人目の男の子に関心がなかったのだ。一人目で体験しているからと蔑ろにされた。そんな感情はわずかでもあった。それが、二十五メートルプールに角砂糖を一つ溶かした程度のわずかな感情でも。祖母の自慢話を聞くたび、次男はそう思った。
 それでもやはり女の子がほしいと夫婦は願う。しかし三人目の子も男の子だった。
 そういう運命ならそれは仕方がないことだった。一番歳をとってからの子どもであり、子育ても手慣れ、仕事をしながらでも余裕ができた。末の子どもはかわいがられたのは当然の帰結か。
 初めから二人しかつくるつもりがなく子ども部屋を二部屋作ったのなら、なぜ、三人目をつくったのだ。それが罪――違う。二人目が外れだったから三人目をつくった。二人の予定だったのに? 偶然できてしまっただけかもしれない? そうだとしても、真ん中の子どもにも人権はある。人権があると思っているのは僕だけかもしれないけれど。
 長男を育てるのは、育てる側も初めてなので、真剣に取り組む。しかし、次男になるともはや手慣れたものだった。職場への復帰も一人目のときより早かった。そうこうしているうちに長男は小学校へ入学する時期になる。小学校にかかるあれやこれやで、夫婦は長男のために多くの時間を割く羽目になる。そして次男の世話が疎かになる。そのうちに三男が生まれ今度はそちらにも手がかかる。次男が小学校へ入る頃は、二人目なのでそこまで苦労はない。その分、三男の世話ができる。長男も三男も経験した時代を次男だけが蔑ろにされたことになる。仕方がない。夫婦の気持ちが本来望まれなかった真ん中の子どもに向くことは少ない。それが自覚的であろうとなからろうと。
 カインコンプレクスという都合のいい言葉を知り、神話の時代から人類はそういう生き物で、どうしようもないことだと諦めるようになった。神は兄弟の一人を見捨てる。そうやって、真ん中の子どもは長男も三男も憎む。カインのように東に追放されてしまえたら良かった。
 真ん中の子どもは親に振り向いてほしかった。そのためには親の期待に応えればいいと考える。できの良い子ども、手のかからない子ども――それなら大事にされる? 小学校に入る前から、あるいは入った後も、親は次男をおとなしい子だと知り合った人に紹介する。それを聴いていた子どもは自分はそうあることを望まれているのだとどこかで思い、しゃべらないおとなしい子どもでいることが親の期待に応えることだと思っていたのかもしれない。そういうことは世間でもよくある。
 しかし、その戦略は裏目に出た。自己主張をして目を離せない子どもをやるべきだったのだ。親の期待に応えようとしたら、イヤな子どもになって、他人の顔色をうかがい、大人が喜びそうな回答をしてしまう。そうして、自分の意思を失ってしまう。親にとっては親の期待に応える子どもと規定されてしまったため、それに背く感情は全て否定された。本当はそんなことはないとわかっているのに、親の期待に背く行為を否定されるたびに、自分の存在を全て否定されてきたと思わないといけない人間になってしまった。
 小学生のとき。初めてクラスメイトを家に呼んで遊んだ。大人たちは何が気に入らなかったのか、あんな子とは付き合うなと言う。中学生のとき、テレビを見ていようものなら、勉強しろと不機嫌な父。テレビを見させてもらえなかった子どもは、同級生の話題についていけない。少なくとも、昨日のドラマの話題で盛り上がることはできない。また疎外感を感じてしまう。長男も三男も中学の頃テレビを見ていても怒られることはなかったのに。たまたま、父の虫の居所が悪かっただけかもしれない。仕事でストレスを抱える時期と次男の中学の時期が重なっただけかもしれない。母の書棚にあった本を読みたいと言っても、そんなもの読むなと父は言った。中学生には早い? そうだとしても興味があっただけなのに……。例えば聖書。西洋哲学に対する興味があっただけだ。母もキリスト教徒ではない。興味本位から、そういったものを所有していただけだ。中学生が変な宗教思想に染まるのは危惧すべきことかもしれないが、哲学に対する興味を否定しては、人生を奪うことになる。他人の顔色をうかがう子どもは、文学部に入って哲学を勉強したいという選択肢を考えることは(父に対する心象から)あまりいい印象をもたれないと頭の片隅に植え付けられてしまった。そういう未来もあったはずなのに。
 ある時、家族五人で買い物に出かけた道中のはずだった。母親は長男に、夕食に何を食べたいか尋ねた。そして三男にも。もちろん次男には尋ねない。そのために次男は存在している。
 平等に扱ってほしかった。それだけなのに。名や血とはおそらく関係なく、真ん中の子どもに平等に扱われる権利はなかった。平等に扱ってほしいと願うことすら後ろめたかった。
 夫婦は、同居している祖父母に子どもを預けて、働いた。お金は大事かもしれないが、子どもが望んでいるのはそんなものではないというのに。そしてそれは育児放棄とまではいかなくとも、自分たちの役割から逃げているように子どもには感じられた。世間には、子どもがある程度大きくなるまで専業主婦をする人もいれば、共働きでも、どこかの施設に預けたりしている人もいる。そして、そういった人たちは圧倒的多数派だった。世間の人たちと同じことをすることから逃れて楽をしようとしている。それは悪ではないが、自分の家庭が特殊な部類だと子どもは思い、平均的なものに憧れを抱く。

 病

 誰かに見られている。
 祖母は言う。向かいの家のおばちゃんがいつもこっちを見ていると。夜中にトイレへ行くと、こちらの明かりが灯ったのを見て、向こうも明かりをつける。お風呂に入る時もそうだ。明かりを見ている。リビングのカーテンがきちっとしまっていなくて、隙間があると、外から家の中が丸見えだと言う。
 極端に他人の目を気にする。それは古い時代の人間だから……? それで片付けば問題はない。が、そんなに簡単な話ではない。他人がいつ見ているかわからないので、いつもきちんとしておくべき、それは確かにそうかもしれない。その教えは、外面や形式を重んじる儒教のせいだ。しかしそれは最低限のものでいいはずだ。
 自分が他人にどう思われているかをいつも気にしていた。他所様の家へ上がり込んだときに、孫が失礼をしないように。それは結局育てている自分のためでもある。しつけがなっていないと、誰が育てているんだと自分の品性を疑われる。それは避けたい。自分はちゃんと育児をしているんだと自分を納得させたいからだ。
 いつの頃からか、祖母は風呂もトイレも明かりをつけなくなった。もしかしたら本当に向かいの家がストーカーじみた嫌がらせをしているのかもしれないけれど、もしそうだとしてもそんなもの、露骨すぎなければ放っておけばいい。暇なやつだと笑ってやればいい。それができないのが問題ではあるが。ただ自分の家の明かりがどこかに反射して向かいの家の明かりがついているように見えるだけかもしれない。実際はどうであれ、極度に気にしすぎていて、それはある種の神経症のようだった。あるいは統合失調症の被害妄想か。
 そんな人間に育てられてしまえば、こちらも他人の目を気にしてしまう。そして、病は遺伝する。
 誰かが見ている。
 ただの恥ずかしがり屋の子どもだっただけかもしれない。他人の目を気にして、なにもできなかった。特に体を動かすことが苦手だった。文字を書いているのさえ見られるのが恥ずかしかった。緊張して上手く書けない。誰にでもあるのかもしれないが、その感じ方が極端だったように思う。体育の授業も苦痛だった。短い体操着を着て、素肌を見られるのが嫌だった。体操をしているのを見られるのが恐かった。真剣に走っているのを見られたら笑われると思った。だから全力で運動したことはない。協調性がないから多人数でするスポーツも苦手だった。ボールをパスしろ、そっちへ飛ばすからな、という意味の掛け声は恥ずかしくて出せない。ボールを持っていると周りに注目されるのが恐かった。仮に自分が足を引っ張っても活躍しても注目されてしまうから参加などしたくなかった。
 自分の声を他人に聞かれることも恐かった。それは吃音のせいもあった。いつも他人に笑われている気がする。違う、他人はいつも笑っている。教室などという狭いところに閉じ込めるのはやめてほしかった。常に見られて笑われて、気が狂いそうで、
 人を呪う。
 みんな醜い僕を笑う。この人なら笑ったりしないだろうと思えた人も。そうやって他人に対する期待や憧れが強すぎたら、それが手に入らないと気づいたときの失望は大きい。どれだけ強く望んでも、家族も友だちも恋人も僕を裏切り、信じられなくなる。それなら初めから望まなければいいと思う反面、自分が強く望んでいることに気づいてしまう。そんなことを望んでいい人間ではないのに。やがて自分の人生だって捨ててしまう。捨てなくとも手に入らないなら、初めからない方がいい。自分の人生を生きていい人間ではないし、今更、そんなことは許されない。捨てないで生きてきた人々に失礼だ。
 どうせ二十五歳ぐらいで死ぬ予定だったのだから、就職活動などというものもしなかった。世間の大学生がどうして未来が希望に満ちあふれ、自分の人生がさも輝かしいものであるかのような顔をできるのか僕にはわからなかった。憎むべき社会に迎合してしまうわけにはいかなかった。そもそもそんな人間は就職活動をするお金もなかった。就活に着ていく服がない。説明会に大阪まで出たら、片道五百円ぐらいはかかる。一回それがある度に往復千円近く失うことになる。靴下を買うお金すらなかったのにそんなバカバカしいことはできない。
 どこかで誰かが止めてくれるかもしれないと、一抹の期待をもっていても、結局誰にも止められず、ある意味それは人類が僕の期待通りで、僕が正常じゃないってどうして誰も気づかないんだろう。
 無意識の内に髪の毛に手を入れる。つまんだひと束を根本から毛先まで指をすべらす。その中に指通りの悪い毛が混じっている。指先が見つける違和感は、遠目には区別がつきにくいだろう。黒のボールペンで書かれた文字の中に一つだけ青の線が混じっていても薄暗い中ではわかりにくいように。しかしそれを抜き取ってしまうと明らかで、ダメージを受けいびつに曲がっている。僕の心みたいに。これは一種の自傷行為で、抜毛症と呼ばれる。人類はなににでも病名をつけたがるという話。僕の場合はそこまで深刻ではないから病気だと診断はされないかもしれないけれど。
 中学生の頃、同級生が携帯やパソコンでメールのやり取りをしていたり、オンラインゲームなどをして盛り上がっていた。僕にはそんなものはなかった。携帯電話など持っていないし、自由に使えるパソコンもなかった。あったとしてもゲームをさせてもらえたとは思えないが。テレビと同じだ。そのような状況では世間の話題についていくことができない。会話に入れない。羨ましかった。なぜ自分だけは持っていないんだろう。同じ場所に立てないのだろう。なぜ世間はそんな話題をして僕を見下しているのだろう。もちろん自分だけじゃない事は知っているが、中学生にそんな多様性はわからない。自分の生まれた環境を呪った。もっと違う時代に生まれたかった。ストレスで、髪が抜けた。円形脱毛症だった。目に見える異常だった。兄が勝手に部屋に入って来て本棚の漫画を読む。勝手にベッドで寝る。邪魔だ。自分の部屋ですればいいのに。くだらないストレスだ。中学生の少年のプライバシーだってある。早く死ねばいいと思った。どうして殺さなかったのだろう。高校生の頃、リビングで借りてきた映画を観ていた。兄が酔って帰ってきて、話しかける。黙って死ね。吃音の僕を笑う。
 見るな。
 不安定な精神状態の僕は、人間は、巧妙にそれを隠したがるので誰にも気づかれることはない。
 おとなしい子どもだったからなおさら、何かに興味を示すと、周りは驚き珍しがる。中学の時に吹奏楽部に入ったとき、親の人は驚いてみせたりする。音楽は好きだった。人間は信じられないけれど音楽は信じられた。いつも部屋に引きこもって音楽を聴いていたのを同じ家に住んでいて知らないのか。子どもをちゃんと見ていればそんなことわかるはずだ。餌を与えるだけが子育てだと勘違いしているではないだろうか。そして僕は様々な音楽が好きだった。音楽という概念が好きだった。それなのに、自分の好きな音楽以外受け入れようとしない、脳の腐った輩が家にはいた。どんな音楽であれ、音楽をバカにするやつは許せなかった。もちろん当時中学生だったからそういう感性を持ってしまえたのだろうけれど。ロックンロールが不良的なものだった時代ではないし、ヒッピーに憧れたこともない。好きなバンドのヴォーカルがヘロインをやっていたからってリスナーもみんなヘロインをやっているのかよという話だ。ともかく、あらゆる音楽が好きだった。音楽はいつも傍にいたし、音楽のある風景はもはや生活の一部だった。
 結局何をしてもそうだった。なにか新しいことを始めても、向いていない、できるわけがない、そんなことしなくていい、そんな言葉を親は言う。子どもの可能性を殺す。できるかできないかなどやってみなければわからない。できなければできないで、その経験から得られるものはあるはずで、自分には向いていなかったとわかることもその一つで、しなかった後悔のほうが大きい。そんなに子どもに死んでほしいのか。過干渉は子どもを殺すぞ。なにをしても否定されるなら、初めからなにもしない、自分の意志をなくした子どもになる。憲法では基本的人権が尊重されていた気がするのは気のせいかもしれない。僕にだって自分の思考をして生きる権利があるはずなのに……。もはやそんなことを思っていい人間だとは思わなくなってしまった。アーメン。
 全ては僕の被害妄想で、自分だけが被害者だと勘違いしているのかもしれない。でも、被害妄想だったとしても、そう思ってしまうことが問題なのだ。

 孤独

 僕の言葉を初めて聞いてくれた人は君だった。
 本当の意味で、僕の言葉に耳を傾けてくれた人間などいなかった。いたとしても隣は歩いてくれなかった。
 五歳頃の子どもが祖母に、「おばあちゃんが死んだら」と話を始めた。「そんなこと言わんとき」と言葉を遮られた。死んだら……のあとに続く言葉を知りもしないで。たしかにそんなことは言わないほうがいいのだろうが、死んだら毎日線香をあげるのかもしれないし、死んだら立派な墓を立てるのかもしれない。そういった、どちらかといえばポジティブなものか。あるいは、死んだら(遺品として)あれもらうねというような祖母にとってネガティブなものの可能性ももちろんあるだろうけれど(暗に早く死ねという意味を含んでいるかもしれないから)。でも、言葉を聞きもしないでそんなことはわからない。
 夫婦と次男と三男で同じベッドで寝ていた。長男はすでに自分の部屋で一人で寝るような年齢になっていた。左端に次男、隣に父、三男、母の順だ。まだ幼い末子がかわいい夫婦は次男に見向きもしない。背を向けた父に声をかけても、声は届かない。たまたま聞こえなかっただけかもしれない。しかし、五歳の子どもが親に話しかけているのに無視されないといけない世界。そんな子どもは何を信じればいいのだ。
 やがて少年はなにも期待しないようにした。期待するだけ無駄だった。他人とはそういう生き物だった。
 人間に声をかけて、その人が振り向いてくれる保証なんてない。そんな恐怖がいつもあった。やがて少年はなにもしゃべらなくなる。誰かが優しく話しかけてくれる声が、憐れな子どもをバカにしているように感じて、同情されることは辱めを受けることと思い、他人がまともに取り合ってくれなかったのと同様、こちらからもまともに取り合おうとはしなかった。他人に俺のなにがわかるんだと、わかるわけもないのに、そんな醜い子どもだった。
 小学校へ入っても、内向的な少年は他人と馴れ合うことは苦手だった。むしろ悪化した。無理矢理教室に詰め込まれた囚人たち。子どもらしく振る舞うのが苦手で、なんでこんな奴らと仲良くしないといけないんだと、ひねくれていた。そもそもこんな人間に事務的な内容以外で声をかけてくれる人間はいない。友だちはいない。大人は信用ならない。日本の教育の集団生活を強いられるのは、その後社会でやっていけない人間をふるい落とすためのシステムのように感じた。協調性のない子どもには居場所はない。一匹狼の子どもの性質を伸ばそうとする民族ではない。そう感じてもそういう生き方もあると、しかし子どもにはわからない。そんなに強くなれなかった。
 小学校高学年にもなると、それなりに他人と馴れ合う術を覚えた。わざとらしく平凡な子どもを振る舞ってみせた。普段は極端におとなしく不気味な子どもだった。普通のことは言いたくなくて、少し特異な事を言ったりして、それが面白いやつだと勘違いさせ、友好的に他人が接する。それは平凡になりきれないから。平均的なものに憧れるのに、平均的なものたちは憎むべき対象で、そうはなるまいと思ってしまった、変な子どもだった。誰が見てもまともじゃないとわかるはずだ。ちょっと変わったやつ、程度に評価されていたら、それはそう評価されるように生きてきたからで、それは少年の思惑通りだった。本当の狂気を見抜ける人間はいなかった。
 例えば、僕の対人恐怖は些細なところに現れる。人の名前が呼べないのだ。相手の名前を呼ぶことにどれだけの勇気がいることか、俗人にはわかるまい。名前を呼ぶことは、(呼ばれる側は)名前を覚えてもらっているという安心があって、(呼ぶ側は)名前を覚えてくれている人だと相手に認めてもらいたいという思いもある。それは心理的な距離感を縮める。それが恐怖。名前を呼んで、その人が僕の声を認めてくれるかどうかの恐れ。気安く名前を呼んでるんじゃないと拒絶されることの恐れ。名前を上手く呼べるかどうかの恐れ。距離感を縮めてしまうかもしれない恐れ。人間なんかと親しくなってしまう自分に対する恐れ。そんなことをしていい人間ではない。許されない。許されないという思いがためらいを増加させる。名字ならともかく名前を呼ぶのはさらに困難なことで、簡単にそんなことをできてしまう人間が恐かった。同じクラスになって、初対面なのに、「××でいいよ」と下の名前で呼べと相手に強制する輩がいたりするのは恐怖だった。無意識に相手を試しているのだ。まず、初対面の人間にそこまで心を許してしまっていいのか? ある意味僕には滑稽に映った。滑稽なのは僕の方なのだろうが。そして、自分はそうしてほしいと相手にここまで踏み込んでいいよと伝えているのだから、こちらもそこまで入ってもいいよねと暗黙の契約を迫っている。それができない人間なら、見限るか、そういう距離感なんだなと推測することができる。そうやって相手を試せる傲慢さが恐ろしかった。いきなり名前で呼んだり勝手にあだ名をつけたりする強気な人間が羨ましかっただけではないだろうか。弱者にはそれは難しい。そして名前を呼べないことは付き合っていけば薄々感じるはずで、でもその違和感のようなものの正体がよくわからないのかもしれないけれど、よく考えたらこの人、人の名前呼ばないなと気づくはずだ。
 幼い頃の吃音は、小学生の頃はあまり現れなかった。そもそも日常で言葉を発することすら少ないのだから、機会が少ない。そのおとなしい子どもはいつしか吃音を再発し、言葉を発音することの困難をさらに深めていった。あまりしゃべらない子どもだったこと、そんな子どもにさせられたことが原因で正しい発音のしかたが身につかなかったのかもしれない。
 一音目が発音できないこともあるが、二音目が上手く発音できなくて、一音目を繰り返すことが多かった。破裂音が特に苦手だった。それからま行。わ、も苦手で自分の名前を発音することが困難だった。自己紹介という文化が嫌いだった。自分の名前すら上手く発音することができない屈辱。障害者を笑いものにするための文化だと思った。人前で話すことの恐怖は、なにより言葉をうまく発音することができるのかという恐怖だった。恥ずかしいとか、緊張して上手く話せるのかということではなく(それもあるが)。言葉が詰まれば、笑われる。ただ言葉を発音するだけで。僕は滑稽だった。恥ずかしがり屋の少年が緊張しているととらえられてしまうのだろうが、そう思われ本質を理解してくれないことが少年をさらに孤独にさせる。日本では吃音を障害だと認知する文化がない。『金閣寺』『英国王のスピーチ』などの作品で取り上げられても、吃音者本人にしかその苦痛はわからない。吃音者は百人に一人程度いるらしく、世間の人は知っている人は多いはずなのに、わかったふりをしているだけでそこまで深刻には考えない。その無関心が人を殺す。お前たちは殺人者だ。大半の人間ができることが、僕にはできなかった。言葉をうまく発音できたら、少しでも生きやすかったかもしれない。
 そして吃音者は往々にしてそれを隠したがる。吃音の程度によるが、他人と会話しなくていい仕事をするか、社会に出ないという選択肢もある。そういう選択肢しか残されない。電話を受け取るのが怖く、自分の名前も会社名も言えなければ業務に支障をきたし、自分の精神にも会社にもいい影響はないので、発音しにくい社名の会社は避けるし、そもそも電話を受け取る可能性のある仕事を避けたがる。それだけでもできない仕事は多い。したい仕事があっても躊躇してしまう。挑戦しても雇ってもらえないかもしれない。うまくいかないかもしれない。うまくいく場合も困難は伴うはずだ。仕事が見つからず自殺する人もいる。今の時代にもきっといる。そんなこととは無縁の資本主義者どもはしたい仕事をできてしまうことができる。資本とはお金ではない。僕の場合はしたい仕事をしたいと思うことに罪悪感を抱くわけで、スタート位置がそもそも違う。もちろんあえて言葉を必要とする仕事を選ぶ人もいたり、スキャットマン・ジョンのように逆に武器にする人もいる。
 また、吃音者は苦手な言葉がわかっているからその言葉を避ける。それはスムーズではない奇妙な会話を生み出すこともある。映画館へ行って、チケットを買うだけなのに。「ラッシュ」とこちらが作品名を提示して「十一時十分からの回でよろしいですか?」という流れを想定しても、それが上手く言えないから「十一時十分の」と作品名とは違う言葉を文頭に持ってくる。違う言葉を文頭に持ってくることで流れができたら苦手な言葉でも発音できることもある。ときには、「すいません聞こえなかったので作品名をもう一度お願いします」などと言われてしまう。そして結局ラッシュが言えなくて、「ラ、ラ、ラ、ラ、ラ……」となって「シュ」が言えない。「ラ」ではなく、促音のあとの音が歯の間から抜ける音なのが問題で、前の音と後の音の間の舌の移動が上手くできないのか、それは「ラ」の発音自体に問題があるから次の音に移りにくいのか。おそらくそういった身体的な要因はある。そしてそれは精神的要因のせいでもあり、精神的要因は肉体的要因からも生まれる。言葉に区切りができて次の音が発音の頭に来ると詰まることがあるのでこの文のように読点をつけないでしゃべることがよくある。しゃべるのが苦手だから速く一息に言ってしまいたい思いがそうさせる。しかし、そのしゃべり方が問題なのではないかと思うこともあり、一つ一つ、丁寧に、単語をゆっくり発音できたら、改善できるのではないかと思う。そう思っていても、そうできないから病気なのだが……。
 言葉の避け方は様々で、前述のように文頭を避けて文中に組み込む場合もあれば、その言葉を省略したり違う言葉に置き換えることがよくある。高校生の頃、英語の授業中に教師が意味を尋ねた。suddenly――もちろん、突然にという意味で、でも、トツゼンが突然に言えなかった。その時は一音目の「ト」が発音できなかった。舌が歯の裏側に当たっているのを実感しながら、喉の奥でつかえてしまっている。そして違う言葉、「いきなり」と答えた。同じような意味だ。突然もいきなりも不意にも急にも。奇を衒って答えたのではなく、言いやすい言葉がそれだっただけだ。そういう頭脳が身についた。頭の回転を早くしないと普通の会話すらできないけれど、それが当たり前だから、会話をすることそのものが疲れてしまう。
 厄介なことに、この病は全然なんともない日もあるのだ。だから余計に気づかれにくい。ダメな日はとことんダメなのに、普通に話せてしまう日がある。名前を言うのに詰まってしまって、その後、「××(名字)って言うの苦手やねん」と言っているときにはきれいに発音できている。「言えとぉやん」と笑われる。自分も笑いながら、お前にこの苦悩がわかるものかとその同級生に怒りを覚える。死ねばいいのに。理解を得られるのが難しい病だ。
 吃音は、相手の方はあまり気にしていないといわれるが、そういう問題ではない。こちらが気にしているのだし、相手が気にしていると思ってしまうことも問題の一つ。少数派に属する気にしなくていいことが気になる人間なのだから。例えば中学の三年間で、学年で一番身長が伸びた。そんな特異なものにはなりたくなかった。
 そして平均的なもの多数派のものに対する憧れはいくらでもあって、例えば右利きなことはなんの気休めにもならなかった。自分の力では決してかなわないものも多く、その理不尽さを嘆いた。名字の一文字目が端の文字じゃない家、端じゃない誕生日――サンドイッチのパンはもううんざり。三人兄弟の真ん中はパンじゃないかもしれないが、真ん中の子どもという立ち位置は珍しかった。少数派だった。憧れに終わりはない。まともに言葉を発音できること、核家族……。言葉を聴いてくれること、名前を呼べること。
 生まれながらにして、自分の他人との違いを手にしてしまった理不尽を呪った。例えば、十月生まれの夏川家の長男、そんなものでいい。そんなものが憎かった。それがどれだけ幸運なことかその人たちにはわかるまい。左利きの人間の苦悩は左利きの人間にしかわからないのと同じだ。

 兄弟

 姓だけでなく名も僕は呪った。
 親が子供に自分の名前の一字をつけることはしばしばあるのだろう。足利の将軍も徳川の将軍もそうだった。カルロス・サインツ・ジュニアのように同じ名前をつけることもある。なので、その事自体はかまわない。疑問はない。疑問は、なぜ真ん中の子どもにだけそう名づけたのかということ。子どもが三人いて、一人だけ仲間はずれにされる思いはわからないのか。安易に親の一字を使えばいいという発想は呪いになる。適当に名づけられたと感じてしまう。名づける側にそんな意図はなくても。
 特別扱いされることは、裏を返せば、それは疎外感だった。
 三人のうち一人だけがO型の血液を持っていることもその思いを強くした。自分だけが、除け者にされていた。
 一人目の子どもは甘やかしすぎたのかもしれない。だからといって、二人目の子どもに厳しくしていい理由にはならない。子育てに正解などないが、実験台にするのはやめろ。それなりに勉強をして、それなりな大学へは進学したつもりだった。勉強などしなくても入れる大学とは違う。三人目にはそこまで厳しくしなかった。一人目と三人目の子どもは学生時代から一人暮らしを始めた。二人目の子どもにはそんな権利はなかった。中学の頃から一人暮らしをしたいと願っていても、それが叶うのに十年ほどかかった。かわいい子には旅をさせよという言葉が嫌いだった。旅をさせてもらえなかった子どもはかわいくなかったのだ。都合のいい奴隷として家においておくために。世の中の不平等と理不尽を呪った。努力しても報われなかった。一人目の子どもは努力などしなかったのに。たしかに一人目と二人目が私立の大学に通うなら学費がかかるから二人目も一人暮らしをさせるのは厳しいのは仕方がないのかもしれない。三人目は浪人して国公立の大学へ入った。二人目の子どもに浪人することは許さなかったのに。それが許されればもっと違う大学へ行けたかもしれない。そしたら人を殺すこともなかった。
 二人目の子どもは、一人目の子どものお下がりで服を着たこともあった。三人目になると服はボロくなり新しく買ってもらえた。
 そういうくだらないことであれ、平等に扱ってもらえないことは、どんな理由があっても耐えがたいことだった。おかげで、男性不信になってしまう。嫉妬の対象はいつも男だった。兄、弟、名字の一字目が「わ」でない男。真ん中の子どもが女の子だったら良かったという存在を否定される言葉を投げかけられ、自分だけ平等に扱ってもらえないという恐怖が、男を恨む。普通に男として扱ってもらえて、憎らしかった。おかげで男は誰一人信用できなくなった。
 死んでしまえと思った。二人目の子どもが女だったら三人目は必要なかった。二人目の子どもが男に生まれてしまった時点で、真ん中の子どもになってしまって、兄も弟も殺さないといけない羽目になってしまう。本当は僕が死ねばいいのだが。親には親の言い分があるだろうが、どんな理由であれ、真ん中の子どもだけ迫害しています。それを赦すわけにはいかないのだ。

 罪

 真ん中の子どもは男に生まれてしまった。――それが罪。
 祖母は言う。真ん中の子どもが女の子だったら良かったのに。本人に悪意はなくても、ただの軽口だとしても。存在を否定された子どもはなにを信じることができるだろう。
 幼い頃に、去勢する夢を見た。それを見て夢の中の祖母は喜んだ。目が覚めて安堵した。後に、フロイトのことを知って、そういう夢は変なことではないのかもしれないと思うようになった。だからといって、存在を否定された記憶からは解放されることはない。男性不信で、学校教育で男として扱われなかった経験から、意識的にか無意識的にか女の多い集団に属することがあったように思う。吹奏楽部もそうだった。薬学部もそうだった。出来る限り男の少ない空間のほうが穏やかだった。しかし男が多かろうが少なかろうが、人間と馴れ合う気はあまりなく、深く付き合える人間はいなかった。家族も友だちも恋人も信じられなかった。表面上は仲が良くても、そんなものは建前で、人間は簡単に裏切る。僕にとって他人は裏切るためにいるし裏切られるためにいた。人間とはそういうもので、裏切らないならそんなものは信じられないのでこちらから裏切る。
 そんな人間だから、たった一度の出来事で信頼できなくなる(基本的には人間など信じていないが)。最低限の社会的態度としての信頼のもとでこちらは接しているのに。しかし、十時に集合なのに十時に起きるような人間とは縁を切るべきなのは当然の話だ。貸したものを翌日に返すと言ったのに家に忘れたと笑って言う人間に何を期待できる。中学も高校もそういう輩ばかりだった。そんな本当にくだらないことでどうして自分から敵を作りたがるのだろう人間は。こちらは努力してそれなりに歩み寄ってまともなふりをしているのに。バカにしたければすればいい。こちらも人間をバカにし続ける。
 全人類がそうではないことぐらい知っているつもりだけれど、そう思うには僕は幼すぎた。小学生あるいは中学生の頃に、僕の声を聴いてくれる人間がいて、裏切らない人間を信じられたなら、なにか変わったのかもしれない。人類に絶望することを選んだ人間に今更そんなことを望む権利はない。声を聴いてくれる人間はいない。人間は裏切る。それが罰。
 そんな時代に、彼女(、、)だけは信じられた。手遅れだったのかもしれないけれど。

 祖母

 祖母は自分だけが被害者の顔をして、逃げることも戦うこともしなかった。孫を怒りのはけ口にしてはいけない。二世帯住宅で、同居しているのに子どもの居心地が悪くなってはみんな出ていってしまうに決まっているだろう。あなたのその態度が自分の首を絞めている。
 祖母は耳が悪かった。難聴だが、そんなことは関係なく人の話を聞いていない。人の話を聞く気がない。よく祖父に怒っていた。くだらないことを、ほぼ毎日喚いていた。それを聴いて育った。こんな家は焼いてしまおうと何度思ったことか。祖父に怒るのはだいたいどうしようもないようなことだった。自分の道徳観を祖父に押し付けて、「そんなこと当たり前やろ」「なんでそんなこともできへんの」「常識やねん」そんな文句をよく言った。そんなことを言っても、祖母と祖父では価値観が違うのだ。七〇も八〇もなってそんなことを指摘されてそうですかと簡単に人間が変わるわけがない。祖父はそういう人なんだから諦めたらいいのに、自分の価値観が正しいと勘違いして、そうでない祖父に文句を言わないと気がすまないのだ。祖父にだって言い分はあって、ときどき何か言い返すこともあったが、それがたとえ正論でも、祖母は聞く耳を持たなかった。自分が正しいと信じているから。自分が正しいと信じている価値観が全世界共通のもののはずはない。例えば自爆テロを行う過激派には彼らなりの理由があってのことで、それに賛同するわけではないが、人間にはいろんな考え方の人間がいて当然なのだ。たしかに祖母の言うことは世間的には概ね正しいのかもしれない。なにかお祝いをもらったらお礼をしないといけない。――それは常識かもしれない。人を待たせるのは失礼。――そうかもしれない。しかし、時代は変わる。様々な人間がいる。古い価値観がいつまでも通用するわけはない。最近の若い人間は血を継がせることにさほど興味がなかったりするし、古い家の制度に縛られていては生きにくい。そういうものに縛られて生きる時代は終わった。その方が大勢を占める。自分の人生を自分で生きていい時代なのだ。親の老後を考えてだとか、家の墓は仏は誰が管理するのだとか、残念ながらそういう旧社会の考え方は少数派となりつつある。そして僕は儒教や神道などの影響が色濃いそういった制度が許せない。家に、血に縛り付けるのはやめろ。もはや家族は他人なのだといえば穿ちすぎかもしれないけれど、時代は変わるのだ。そして、そんなものを家族と呼ぶなら捨ててしまおう。
 祖父にも問題はあって、結婚相手は女なら誰でも良かったらしい。そんな相手と見合いで結婚して、妻に優しくするのはあほらしいと言った。らしい。そうだとしても、その話をどうして祖母は孫にするのだろうか。孫を味方につけたいならそのやり方は悪手ではないか。孫は自分の味方だと思いあがりも甚だしい。いつも自分の主張を祖父にして、そのうえ、悪口まで言う。本当のことであれ、こちらにしてみれば迷惑なのです。どちらが正しいとか、正しくないとか、そんなことは、もはやうんざりだった。子どもの前でやるのはやめてほしかった。毎日ストレスがたまって家に帰る度に死にたくなる。そのくせ祖父の死後には毎日線香をあげている。自分の息子夫婦が同居しているのに祖父に線香の一本もあげないと、なぜ孫に言う。それに、線香をあげたり手を合わせたりしなくても慈しむ心がないとは言えない。行動で示さないといけないという強迫観念(、、、、)は儒教の呪い。死者に優しくしても死者の魂が救われると錯覚することで、結局救われるのは生きている者の魂なのだ。自己満足じゃないか。自分は正しい行いをしていると自分に言い聞かせているにすぎない。聖人をやりたければ一人ですればいい。どうして生きているときに優しくしてあげなかったんだ。絶対に赦さない。他人に優しくできない人間に育てられて優しい人間になるわけはない。僕の何が祖父に似ているのか知らないけれど、幼い頃、「そんなんやったらじいちゃんみたいな人間になってまう」などと言った。そうやって他人を否定する。祖父だけならともかく、その言葉は僕の人格を否定することになる。そしてそういうふうに言われたら反発したくなり、そんな人間になるなと言われればそんな人間になってやりたくなる。それがお望みなんでしょう?
 祖父はどこにそんなお金があったのか、趣味にお金を費やす人だった。どちらかと言えば貧乏な暮らしだったはずなのに、ニコンの一眼レフを何台も持っていたり、ボーリングのマイボールを持っていたりする。F2やF3といった、フラグシップモデルのカメラがあり、レンズも何本もある。プリントした写真も部屋に大量にある。祖母はそんな祖父の趣味についてあまり知らないと思う。写真が好きなことは知っていても、何台カメラを持っていて、それがいくらぐらいの価値のものなのか。老後はゲートボールや吹き矢などを楽しんだりもした。そして、祖父も難聴で、難聴者協会で活動したりもしていた。対称的に祖母は家にいるだけ。人前に出るのが嫌なので外に出て活動するなどできない人間だった。外で他人に自分の言いたいことを言うことはない。自分の外面が気になるから。儒教の呪い。
 結局お互いがもう少し歩み寄ればよかったのだ。お互い様である。どんな理由があろうとそれは当人の問題で、他人を巻き込まれては迷惑なのです。
 父の友人か同僚か何かは知らないが、おそらく家に来たその人が何かを言った。具体的に何を言ったのか幼い僕にはわからないけれど、自分の両親と同居しているのは大変だとかしんどいとか面倒だとかあるいは親がいなければいい家なのにとかそういった類の事を言ったのだと思う。祖母は自分を否定されたバカにされたというふうに感じていた。ただの酔っ払いの小言かもしれないのに。それにひどく傷つき腹を立てて事あるごとに、あのおっさんだけは許さんみたいなことを言っていた。本当にその人はそんなことを言ったのだろうか。人柄が好ましくないから(かどうかは知らないけれど)そういうことを言われたと勘違いをしているのではないだろうか。なにも言っていないのにそう言われたと思ってしまっていて、そういうのを俗に幻聴というが、自分の中の後ろめたい思いがそういう言葉を生んだのかもしれない。自分が息子夫婦と一緒に住むのは、特に嫁にはしんどいはずで、自分は家の中で疎ましく思われていて、自分がいなければ若い夫婦には暮らしやすいはずだという思いが。家族でどこかに買い物などに出かけたときに、母があまりいい顔をしないと祖母は言う。孫に。嫁にしてみれば姑は疎ましいだろうが、本当にそのような態度をとっていて不快に感じていたのかはわからない。耳が悪いから、自分の悪口を言われても自分は気づかないから、何かを言われているという妄想にとらわれている。そういうこともあるだろうけれど、気にしすぎである。そういうのを俗に被害妄想という。
 大きな声を出すのはしんどいことだった。祖父母の耳が悪いから、大きな声で話さないと聞こえない。仕方のないことだけれど、僕は疲れてしまう。しかも聞く気がないのだから。僕は十九歳頃から、たびたび夕食のご飯が多いと言ってきた。それなのに、五年も六年も経っても言わないといけない。うんざりする。若い人はいっぱい食べるもんだという勝手な思い込みはやめろ。そんなに食べたくもないのに、僕は食べる。せっかく作ってくれたものに対して文句は言わない。全部食べてしまって自己嫌悪。ときどき抗議のように残しても、一向に変わらない。頭がオカシイのはどちらだろうか。若いのに食べない僕の問題か? その当時は特に食欲などというものがなかったのだ。十九歳の頃はご飯を一口食べただけでうんざりして、喉がつかえて次の一口がためらわれた。極端な摂食障害でないにしても、食欲などなかった。食べることそのものが嫌いだった。孫がそんな人間なのに、まさか自分の孫に限ってそんな病気のようなことはないと現実を知ろうとしなかった。そもそも考えようともしなかっただろうが。聞く気もなければ見る気もない。そして、嫌がらせのように茶碗一杯分の米。半分でいいと言っているのに。半分食べるのですら苦痛なのに。何を言っても無駄だし、出されたものを苦行のように食すことで、僕は自分が被害者ぶりたかったのだろう。しかも、いつもいらないといっているのに、デザートやお菓子やパン等を祖母は買ってくる。孫は二十三歳にも四歳にもなっているというのに。何度いらないと言ってもまた買ってくる。断れば、せっかく買ってきたのになどとこちらを批難する。そしてまた数日後には買ってきてこれいらないかと言う。言うだけ無駄なら僕はなにも言わなくなってしまう。孫におやつを買ってあげたい感情はわからないではないが、どうしていつまでも子ども扱いされないとならないんだろう。子どもにとっては嫌がらせにしかすぎず、バカにされ続けているようで苦痛だった。自分が育ての親だという自負があって、それから抜け出せない。抜け出してしまったら自分の存在意義がなくなるから。共働きな息子夫婦に代わって子育てを任されているのだから、いつまでも母親ごっこをやり続けていたいのだ。あなたは私の母親ではないし、私はいつまでも子どもではないのだ。どうしてわからないんだ。かわいい孫を演じ続けるのを強要するのをやめろ。子どもの成長を妨げているそれは俗に虐待という。一人の成人として扱ってもらえず、家にいるだけで毎日ストレスをため続けてしまって精神的におとなになりきれなかったら、殺人である。赦すわけにはいかない。
「人の振り見て我が振り直せ」とよく言った。それはそのまま祖母自身に当てはまる言葉だった。自覚はないのか。自分の信じていることがもし違っていたらどうするんだろう。自分が正当だと思っていることが少数派な世界では、正当性を失う。戦場で人が死ぬのと同じ。殺されなければ殺される。自分は親切のつもりでもそれが他人の迷惑になることもあるってなんでわからないんだ。他人のことを本当に考えるなら、他人が嫌がることをなぜできる。孫に対する施しが嫌がっているわけがないだって? 錯覚だよ! そして拒否されたら自分だけが傷ついたふうをして、被害者だと思っている。お互い様で、僕だって自分だけが被害者だと思ってしまう人間になってしまったのは誰のせいですか。
 僕は干渉されたくないだけなのだ。リビングで昼食を作ろうとしていたら、顔を出して食べるものあるのと訊く。黙ってろよ。たったそれだけのことでもはや僕は殺意を抱く。異常だ。食べるものぐらいある。そして自分で料理するのが好きなので、それを邪魔されたくない。のぞきこんで、まめやな、とそんなこと言わなくてもいい。バカにするな。いつまでも子ども扱いされる屈辱。持っている包丁で刺さないようにする努力をしないといけない現実。子を思う親の気持ちがわからないわけではないが、迷惑です。一度こう言った。――子どもたちを育てたのは自分だと。それを誇りに思っているらしい。子どもの前でそんなことを言う。僕には親はいないんだなって、思った。

 夏の思い出

 夏の思い出などはない。
 あったのかもしれない。しかしそれはもはや違う人間で、残念ながら僕は十九歳でそれまでの自分を殺して全て捨てないと前に進めなかったのだ。全て捨てきれたかはわからないけれど。
 少なくとも十五歳から二十一歳頃の僕の人生に思い出などというものはないことは確実だ。人生で一番呪うべき時代だ。君が僕の隣を歩いたのはおそらく二十一歳頃。そこで新しい人生は始まっている。誕生日はまだない。
 二十三歳頃に研究室のゼミ旅行で遊びに行った。それまで十五歳ぐらいからの僕はほとんど県外へ出ていないことに気づく。そんなに引きこもっていたらしい。アホだなこの人間は。
 十五の夏は人生に一回しか存在しないのに、僕にはそんなものはなかった。
 誰かが夏に僕を連れ出してくれたら良かったのだ。冷たい牢獄から。

 暗殺

 いつからだろうか、他人に笑われることに、そんな当たり前のことになにも感じなくなってしまったのは。
 幼い頃、ジョン・レノンやJFKが暗殺されたという話を聞いて、(それだけが要因ではないだろうが)有名になれば暗殺されるというリスクがあると感づいた。だから、目立たないようにひっそりと生きようとしていた。というのは、後から思う理由だろう。ともかく、引っ込み思案で恥ずかしがりな少年だった。自分が行動しているのを他人に見られることが極端に恥ずかしかった。誰も自分に注目などしているはずもないのに。
 それは祖母の呪い。儒教の仕業。
 感情をさらけ出すことは、恥ずかしいことだと思っていた。自分の考えていることを他人に悟られるのは恐ろしいことだと。喜ばしいことでも大声ではしゃぐことができなかった。悲しいことでも泣くことも得意ではなかった。身振り手振りを他人に笑われると思ってしまう。
 そんな子どもは当然のように、授業中に当てられて発言することも苦手だった。小学校低学年の頃は耳まで真っ赤にして緊張してしまうほどだった。赤くなることはなくなったが、中学や高校の頃は、吃音による恐怖から緊張は避けられなかった。現国の授業、教科書の小説を前の席から順に読まされた。列の一番後ろまでいくと、隣の列に移る。教師の気まぐれで右の列にいくか左の列にいくかはわからない。右の列の一番後ろの席の僕は左の列にいくように願った。順番的に自分が読む段落のはじめの文章をうまく発音できない自信があった。自分の番が迫るに従って緊張は増し、汗もかく。言葉をうまく発音できないかもしれない恐怖。一文字目の「に」という音を発音できなければ、声に出さなくても、なんだあいつキモいと笑われる。そんな神経症にも似た感情があった。
 しかし、大学の頃にはそこまでの緊張はなくなっていた。何かを発表するときには原稿を読んでいるからで、ただそれを読むだけで自分の考えを積極的に述べたりはしないからだと思った。自分しか知らない原稿だから言葉に詰まれば「まず」「えー」「つぎに」など、わざとアドリブで付け加えることも学んだ。そうやって、いつの間にかそういうことにそこまで緊張はしなくなった。といっても恥ずかしいと感じる場面が減ったわけではない。
 音楽は好きだけど、人前で歌うなどできようはずもなく、カラオケに行ってもほとんど聴いているか、誰かが歌っているのを一緒に歌ったりした。それもいつしか歌うことに抵抗はなくなった。
 それでも、ときどき自分でも奇妙な恥ずかしさを自覚する。
 高校生の頃、試験の前の週。担当の教師の出張で授業が自習になった。そんなとき、クラスメイトの大半は自習していて、その中で僕は勉強などせずに机に突っ伏して寝ていた。人前で自分が努力しているところを見られるのが恥ずかしかったのだ。そして、世間と同じようなことをしている自分を想像するとそれも恥ずかしかったのだ。目立つことは嫌なはずなのに、みんなと同じことをすることは自分の意志を持たないノータリンのすることだと脳の足らない僕は思っていた。端の人間は世間と同じことができない。サンドイッチのパンはパンをやり続けなければならず、ハムにでもレタスにでもなれる真ん中の人間とは違うのだから。
 そしていつしか、あまり感情を表に出さないことは、深刻な問題へと発展していく。世間にはクールな男と思われていたかもしれないが、ただ、感情が失われていっているだけだ。そんな男が笑えば、それを見た誰かに笑われる。笑われなくとも、好奇の目で見られることは確かで、バカにされていると感じた。僕に感情があるのはそんなにおかしなことか。そのとおりなんだろう。
 そして、十九歳。笑い方もわからなくなった。写真を撮っても、目が笑っていないなどと言われて、そんなことを言われても、笑い方がわからないのだからどうしようもない。口角を上げてみても、そこだけが動いて、仮面みたいだった。僕はどんな顔をしていたんだろう。鏡を見るのも怖かった。自分の顔は好きではない。嫌いでもない。どちらかと言えば好きなのだろうが、そう思うとナルシストだと思われてバカにされると思っていた。こちらも鏡ばかり見ている男をバカにしていた。鼻の高さが嫌いだった。クセのある髪の毛も嫌いだった。しかも髪質は固くて収拾がつかない。ヘアアイロンなど使ってみて自分をごまかした。額の傷跡を隠すために髪を伸ばした。始めはそんな理由だった。眼鏡をかけるのが嫌で頑なにそれを拒んだ。黒板の文字が見えないのに、眼鏡をかけることに羞恥心を抱く中学生だった。高校生になればコンタクトを作ろうと親は言った。しかしそれが叶ったのは高校一年生の夏休みだった。弟は高校に入るとすぐに作ったのに。屈辱だった。どうして真ん中の子どもを迫害する。そういうくだらないことが人を殺す。
 言い出せない僕が悪いのかもしれない。なにも言わないからわからない? そういう言葉をたまに聞くが、そういう人間に育てておいてよくそんなことを言える。どうせ言っても聞く気がないのだ。父のそういう性質は祖母からの遺伝。高校生の頃、携帯電話のバッテリーが劣化し、膨らんでいた。充電しても十分程度しか使えなかった。勇気を出して、親に言った。携帯を変えたいと。電池が寿命だと。バッテリーだけでいい。契約は二年あるから、それがすぎるまでは機種変はダメ。そんなことはわかっている。でも、話半分にしか聴いていない親は、結局次の日には忘れてしまっている。それをもう一度言い出す勇気は少年にはない。ダメだと言ったと拒否されるのが恐かったのだ。臆病で憐れな少年だった。そういうことすら言い出せない人間が、さらに言い出せなくなってしまった。結局、契約の二年が来るまですぐ充電の切れる携帯を使っていた。他にも同様の出来事はあって、それが積み重なってしまえば、もはやなにも言うまいと決めるしかない。人間に期待しても無駄。心を開くな。騙されるな。

 かなしまなくてもいい

 日本が銃社会じゃなくてよかった。銃社会だったら、とっくに頭を撃っていた。誰の頭かはわからないけれど。
 自殺の原因の一位は健康問題らしいけれど、人間関係で悩んで死ぬ人も多い。仕事のトラブル、家庭の問題、男女関係。もし銃社会だったら、自殺者は上司や親や恋人を撃つだろうか? 自分の頭を撃つだろうか? 原因となっている人間を殺すことで自殺者が減る可能性だってある。どちらが健全だろうか。無茶な残業を強要する社会。虐待される子ども。いじめられる子ども。死ぬべき人間が死ぬ社会の方が健全であれ。でもそんなのはごく一部の人間の話であって、大半の人間には関係がない。少数派の悲しみ。
 自然界はバランスがとれるようにできている。誰かの悲しみのうらに誰かの喜び。端がいるから真ん中もいる。誰かの幸せは誰かの不幸せになる。人間が食事をするために獣が殺される。豊かなものがあればどこかに犠牲はある。心が豊かな人間は心が貧しい人間を搾取する。それは運命なのです。
 誕生日が幸せな人間もいれば不幸せな人間もいる。彼氏からの誕生日プレゼントが安物だったり理解できないものだったりしてそんなことに腹をたてる女もいる。誕生日を祝ってくれるその言葉だけで嬉しいと感激する人間もいる。こんな人間の誕生日を覚えていてくれたなんて、泣いてしまう。そういうこともある。自分にとって百幸せなことが、他人には二しか幸せじゃないかもしれない。マイナスかもしれない。
 どれだけ迫害されても、不当な扱いを受けても、存在を否定されても、裏切られても、笑われても、うまくいくことはこの世界に何一つなくて、言いたいことも言えなくて、したいこともできなくて、したいことをしたいと思うことに罪悪感を抱く人間になってしまっても。
 君と出会えたのだから……。

 牢獄

 十代というのは、自分の居場所を探す期間であって欲しいと願う。自分のしたいこと、できること、いたい場所。次の世代の人間には見つかればいい。僕にはなかったけれど。
 居場所はなかった。学校に行っても家に帰っても死にたくなるだけだった。興味を持ったことは否定されて、自分のしたいことはできなかった。そもそも高校になど行きたくなかった。行く意味を感じられなかった。そんなところに行ってどうするんだろう。しかし結局行ったのは、親の顔を立てるため、世間体を考えても行かないといけなかった。極端に貧乏なら行かない理由になれたのに。それはわがままな考えだけれど、そういう人間もいる。中学の知り合いになど会いたくもないので、学区内でも遠い高校を選んだ。内申点を考慮してちょうどいいのはそこだと親や教師を巧妙に誘導しながら。その高校へ同じ中学から行くのは十人ぐらいだった。行きたくもない高校に行ってみたけれど、なにも変わらなかった。行っても行かなくてもどうでもよかったと改めて思う。むしろ、余計人間が嫌いになった。同級生も教師も家の人間も、こちらがどれだけ友好的に接してもすぐに裏切る。裏切られたと思っているのはこちらだけかもしれないけれど、そう思ってしまっていることが問題なのだ。うんざりする。高校生にもなって、集合時間も守れない。貸したものも返さない。宿題をする気もないくせに、見せてくれと言う。僕はそんなに真面目じゃないけれど、なんでそんなやつらと対等に付き合わないといけないんだろうかと疑問だった。全然対等な立場でない。数学の宿題が大量にあって、大して難しくもないものを何百問も解いて、数学が嫌いになった。苦手な人はそれで得るものはあるかもしれないけれど、たまたま数学の才能があったのかもしれない僕には、残念ながら高校数学の基本的な問題など普通に勉強していれば簡単に解けてしまう。その宿題をやってこなくて期限までに提出しなかったやつらに、教師はその後でまた期限を設けたりして、結局卒業できてしまう。教師ももっと厳しくすればいい。期限を守った大半の生徒に失礼だ。でもそんなに頭を固くして生きるのもバカバカしいので、なにも関心を持たなくなった。同じことを十回説明されないと理解できない人もいれば、二回三回でわかる人もいる。一回で理解できてしまう人もいる。そして、学校の教師は五回ぐらい説明して理解できる人を基準に授業をするのだと思う。だから同じ授業でも全くついていけないものもいれば簡単すぎて退屈な人もいる。教師のそういう態度は、それは裏切りではないけれど信用はない。
 大学に入っても変わらなかった。学校などという組織は僕の居場所ではない。気持ち悪かった。どうして大学生は自分に明るい未来が待っているかのような顔をしている輩が多いのだろうか。理解ができなかったけれど彼らにはきっとあるのだろう。僕の居場所はどこにもない。
 一年間学校を休んだ。それでなにが変わるか試してみた。十九歳で過去を殺した。
 僕は引きこもりだった。引きこもりの問題は家にいることではなく、自分の殻に引きこもってしまうことだとわかった。ほとんど外に出なかった。復学しても、学校に行く以外はほとんど家にいた。どこに行ってもむなしくなるだけだった。気力も食欲も感情もない。アルバイトもほとんどしなかった。自分なんかにできる仕事などないと思っていた。それに、どんな仕事をしても家の人間にバカにされると思った。家にいて本を読んだりゲームをしたり映画を観たりしていた。本当は高校生の頃にもっと本を読んでゲームをしたかった。そうしたらもっと世界は開けていた。引きこもることもなかったかもしれない。同級生の間で話題になっているゲームの話題についていけなくてふてくされていた思いが余計に僕を孤独にした。その孤独がまた孤独を生んだ。
 親は、自分が大学を出ていないから、大学は出ておいたほうがいいという考えを持っていた。僕にはどうでもよかった。高卒よりも大卒を評価する社会、人を外見で判断するそんな社会に興味がなかった。大卒というステータスが資本だと勘違いしている資本主義者が多すぎる。たとえ多少勉強ができても人間ができていなかったら何の意味もない。大学にいったからといって人間ができあがるわけではない。親が子どもを大学に行かせたいなら、そうすればいい。そういうときだけ親をやってみせたらいい。子どもには子どもの人生を送る権利があるって僕は知らなかった。親もきっと知らなかった。自分の生きたいように生きていいとは思えなかった。そんなことを思っていい人間とは思えなかった。本当は学校なんて行きたくなかった。興味がなかった。休学という点に落ち着いたのは、僕の意志の弱さだった。やめてしまえればよかった。
 なにも変わらないと思った。なにも変えられないと。自分も変わろうとしなかった。変わろうとする気力もなかった。そんなことを思っていい人間ではなかった。誰かに殺されてしまえばいい。
 毎日大学と家を往復しているだけで、牢獄から抜け出していなかった。
 牢屋の鍵を持っていたのはたぶん君だった。

 夜

 憧れの職業があった。吃音の僕には難しかった。そうでなくとも、しゃべるのは苦手だった。ラジオDJはかっこよかった。
 新しい音楽を教えてくれたのはいつもラジオだった。テレビなど見させてもらえなかった少年はラジオを聴いた。そこには魅力的な世界が広がっていた。普段ほとんど他人と会話しない人間にとって、人の声は耳障りなはずなのに、電波に乗った声はあたたかかった。
 1269
 毎週欠かさず聴いた番組で音楽を知る。初めて買ったCDはニルヴァーナのベストアルバムだったように思う。
 SONY AM RECIEVER ICR-7
 家にあったその薄型ラジオはAMしか聴けなかったけれど、チューニングを回しながら、電波を拾った。電波が悪かったりチューニングが合っていなかったりするときの独特のノイズが懐かしい。そのノイズに包まれて、そのまま寝てしまったこともある。明け方、目を覚ますとイヤホンから電波の音が聴こえて、そのまま寝てしまったんだと気づく。
 瀬戸内海を渡って届く四国放送をよく聴いて、ときどき違う局を探したりして、東京のラジオが入ってきたりする日もあったりした。高校生の頃はFMを聴くようになった。神戸の放送局、でも聴くのは全国四十八局ネット。深夜ラジオを聴きながら勉強をした。
 どこにも居場所はなくても楽園はあった。
 でも夜は牙をむくこともある。
 不安が眠れない夜に誘って、僕を突き刺す。一人暮らしができたら、家の人間を気にすることなく、アルバイトだってできる。臆病な僕にはそれでもできないかもしれないけれど。もっと自由に生きられた。真ん中の子どもだけ迫害されて、学生時代に一人暮らしをさせてもらえなかったと思い込む。どんな理由があろうと差別は良くない。僕がもう少し活動的だったら、他人に優しくできたかもしれない。自分でお金を稼いで、欲しいものを買って行きたいところに行って、遊びたいように遊んで。君とデートしたり、就職したり今頃は結婚できたかもしれない。
 そんな他人のせいにするあわれな夜を思い出してもいまさらどうでもいい。そういう未来の可能性もあったかもしれないという話。
 十九歳の頃は、ねむたくても、電気を消してから三時間ほど経たないと眠れなかった。そして三時間寝たら目が覚める。またねむたくて寝ようと思っても寝るのに三時間かかる。そんな生活が続いた。寝るのは苦手で嫌いだった。
 夢も見る。彼女の両親と弟が死んで彼女は一人だけ残された。先日はそんな夢を見た。でも彼女に兄はいても弟などいない。そして、残された彼女の隣にいるのは僕の役割じゃないのだと目が覚めて思う。誰が隣にいるのかなんて知らないけれど、元気に暮らしてくれたらいい。夜に怯えることなく。
 夢の中にも居場所はなかった。
 僕は長生きしすぎた。

 深海

 アルコールを飲んでいる。親友の名前はジャックダニエル。
 殺したはずの感情が顔を出す。
 チェット・ベイカーの声を聴きながら泣きそうになる。
 泣き方なんてわからなかったのに。何を観ても何を読んでも、泣けなかった。少なくとも十九歳ぐらいの頃は。十五歳のときもそうだったかもしれない。二十一歳のときも。涙がこぼれない。まぶたで堰き止められてしまう。そんなところにダムを建設した覚えはないのに。
『ブルーに生まれついて』という映画がとても良かった。チェット・ベイカーの伝記的映画だ。チェット・ベイカーを演じるイーサン・ホークの演技も良かったが、映像が綺麗だった。トランペットを吹いているチェット・ベイカーを近くで撮るのではなくて、少し引きで撮っていた。画面の半分ぐらいに水平線や地平線を持って来て、上半分は空、そして下半分に大地がある。そこにぽつんと一人ラッパ吹きの男。それだけで画になる。そういう写真の作品だと言われても納得できる。そういうシーンが多々あった。印象的なシーンのある映画は素敵だ。
 目に焼き付いて離れない光景。そんなものは僕の人生にあっただろうか。
 クラス会で君は僕の隣に来てくれて一緒にお酒を飲んでくれた。こんな醜い僕の隣などに、積極的に来てくれるのは君だけだった。どんな女の子が好きなのと言われても君だよとは言わないけれど。たぶん声が好きで、君が誰かと話している声が聞こえてくる度に君のことを好きになった。例えばその話し相手が彼氏だったりいけ好かない男だとしても。そんな人と話しているのかは知らないけれど。
 お酒を飲んで君の声が聴こえたらいいのに。幻聴を聴く才能は僕にはないから、何も聴こえないけれど。
 ぼんやりした頭で考えた。本当は……。
 僕の人生を肯定してくれたのは君だけだって思い込みたいだけです。他の人は否定も肯定もする前に、僕の声に耳を貸してなどくれなかった。ちゃんと声を聴いて、受け止めて、向き合ってくれる。その上で否定や肯定をしてくれる。そう信じられた人は一人いたけれど、実際にそんな行為をできる君は偉大だった。世界で一番尊敬しています。
 ただ僕の声を聴いてほしかった。そんなことも叶わなくて人間に絶望するしかなかった。

 光

 でも彼女は優しい人だった。
 僕に何をしてくれたわけでもない。ただ、優しかった。
 僕の声を聴いて、それを受け止めて、ちゃんと向き合うことができる。対等な立場で僕に接してくれた。そう信じられたのは彼女が始めてだった。十数年生きてきてそう思えた人間はたったひとりだった。そんな人間が存在することに戸惑いがあった。もちろん嬉しかった。
 親の期待に応えたい子どもは、無視されたら、それが親の期待だと思ってしまう。声などかけないほうがいい。そう思っていたのかもしれない。どうせ声をかけても真剣に取り合ってはくれなかったのだけれど。それなのに、僕の声を認めてくれることがあんなに嬉しいことだとは知らなかった。
 できることなら、そばにいてほしかった、体温を感じたかった、でも、隣を歩いてくれたこともなくても、彼女と出会えたということはそれだけで大切なことだった。家族でも友だちでも恋人でもないのかもしれないけれど。彼女は友だちだと思ってくれているのかもしれないけれど。
 彼女に出会わなかったら、高校生の頃に僕は死体になっていた。
 さようなら。

 映画

 年間百本以上の映画を観ても、観たい映画というのは尽きない。何本の映画を観ても、きっと答えなんていうものはない。わかっていても映画を観る。
『ロッキー5』という映画の中でシルベスター・スタローン演じるロッキーが息子に言うセリフに、「俺達はチームだ」みたいなセリフがあった気がする。ジムの若手を育てることに熱中して息子を蔑ろにしていたロッキーが息子と仲直りするときのセリフだ。息子と同じ目線で、親子なのに友だちのように接することができる、そのシナリオ、そういうキャラクターを生み出してしまえることが羨ましかった。
 子どもと向き合うことができるのがいかに素晴らしいことか、自分の価値観を押し付けることがどんなに愚かしいことか、人の命の儚さも、人間の絆も、映画は教えてくれる。スクリーンの中にしかない世界。現実の人間はそんなこと何一つとして教えてくれない。僕の生きていた現実では。僕が年間百本も映画を観ることを知っている人などどこにいる。映画が好きで、好きな映画を好きと言える自由は僕のいる世界にはなかった。映画をただの娯楽だとしか思っていない人たちばかりで、その人たちにとっては、それでいいのだろう。そういう世界の住人になれてしまったほうが本当は良かったのかもしれない。

 道

 イエス・キリストでも仏陀でもなく、僕を導いてくれたのは老子だった。実在すら危ぶまれる人物。
 枠にとらわれない、自由な老荘思想は心の拠り所となった。
 無為自然――人為的なものをなさないで、自ずと然るべきかたちになる。無理矢理介入することは良くない。
 諸子百家の時代というのは思想家たちは国の政治方針に助言をする役割を果たしたりすることにもなった。国を豊かにしたければ、民から税を徴収するのではなく、こちらから介入しないで、民の方から税を納めるようになればいい。無理な介入は不満を募らせ、国を滅ぼすことに繋がりかねない。
 理想論かもしれない。しかし最近では、上司はあれやこれや口を出さないで、部下のやりたいようにやらせて、何か問題があったときに口を出す、というような仕事のやり方はどうかという提案が話題になったりもする。上に立つ人はどっしり構えていればいい。現場のことは現場の人間が自らのやり方でやればいい。
 老子がそこまでのことを言っているのか僕にはよくわからないけれど、上の人が全て決めてしまうより生きやすいように思う。
 他人に干渉されるのは嫌いだった。しかし親の期待に応える子どもを演じて、他人の顔色をうかがってしか生きられなかった。
 明確に儒教を批判している立場にいるわけではないだろうけれど、老荘思想は思想的には反対の方向にあったように思う。外面や形式にとらわれないで中身が大事だと荘子は言う。それに対して、孔子は中身がしっかりしていれば外に現れるはずだという。しかし外面だけよくてもなにも中身がない輩が多すぎる。就職活動で面接官に吐くセリフは、服装は、社会に迎合しているだけで、それを自分の意思と勘違いをしている。孔子の説く礼は、本来はもっと違う形だが、僕も彼の被害者で、良い子を演じていてそれはただの外部に対するパフォーマンスに過ぎなかった。なんて醜いんだろう。
 二千年以上も前に同じように思考していた人物が存在したことは感動的なことだった。現在、世界に大きな影響を与えている人物たちも二千年近く前の人間だったりするわけで、老子や荘子の思想がいまだに語られ息づいていることは不思議でもなんでもないのかもしれない。文字は人類の偉大な発明だと言われるが、文字がなければ、歴史書もなければ、書物としての『老子』も『荘子』も存在しなかった。そして老子のような実在が危うい人物は、文字があることによって存在を規定され、例えば彼が架空の人物だとしても、記され語り継がれてきたから今も僕の心で彼の思想は生きる。だから僕もこうして文字を書くのだろうか。その中でしか存在できないのか。
 老子との出会いが救いなどと言うと大袈裟かもしれないが、僕の人生の重要な人物リストの上位にランクインしていることは間違いない。

 感情

 

 夢

 高校生の頃は夢があった。
 しかし夢というのは、夢の世界の話で、決して叶うことはない。
 それは叶わなかったのかもしれないけれど、ある意味では叶ったのかもしれなかった。
 そしていつの間にかなにも望まなくなってしまった。
 好きな人が元気に暮らしてくれたらいい。それだけ。それ以外になにもいらない。家族も友だちも恋人も自分の人生も、なにもいらないから、だから、なにも奪わないでほしい。
 それは傲慢な願い。
 好きな人の幸せを願うことすらおこがましいのかもしれないし、そんなことを願わなくとも、勝手に元気に暮らしてくれるだろうが、その願いだけが生きる理由だった。
 僕は祈る。

 死

 僕の死が彼女を悲しませるならまだ死ねないと思っていた。それならば、死んだときに悲しみを感じさせなければいい。
 だから好きな人に優しくしない。嫌われてしまえばいい。僕が死んだ時、そういえばそんな人いたねとその程度に思えばいい。そういうふうにしか生きられなかった。
 死ぬチャンスはあったのに、申し訳ないけれど運の悪いことに生き延びてしまった。不謹慎な思いをお許し願いたい。神戸の地震。震源から離れていて死ぬなど不可能だった。もしあの日に十歳にもなる前に瓦礫の下敷きになってしまえていたら、生き延びてしまう必要もなかったのに。交通事故。車に乗っていてぶつけられた、そしてぶつけたこともある。車は凹んでも、僕は無傷で、あの時なにを思ったかあなた方にはわかるまい。また死ねなかったって。それを一人で心のなかで口ずさんでいたのだ。何日も。記憶がところどころなくなるほど飲んでもいつの間にか家にたどり着き、生きていた。電車に轢かれることも、路上で凍死することもできたはずなのに。駅のホームで駅員がどこまで帰るのか声をかけてきて、人間は意外と優しいんじゃないかと錯覚した。そんなことを覚えている。忘れてしまえるまで飲めばよかった。四月の初めで、まだ少し肌寒かった。駅から自転車に乗っても真っ直ぐにこげなかった。道路に倒れてしまえばいい。車に轢かれてしまえばいい。吐いたものを喉につまらせて窒息すればいい。いくら願っても死ねなかった。死にたくなかったんだと人は言うだろう。たぶんそうなんだろう。
 戦争が、テロが、災害が、病が、人を殺しても、誰も僕を殺しに来てはくれない。世間は冷たいなァ――。
 道教が好きなのに長生きすることに興味のない僕は、高校生の頃の夢が十九歳で死ぬことだったはずなのに、それも叶わず、生き延びて、日本人の平均寿命は八十近くで、うんざりした。どうして世間はそんなに死を最悪なもののようにとらえられるのだろうか。これがわからない。健康志向だとか新しい治療法だとか、それは結局エゴに過ぎない。人類は自分さえ良ければそれでいいのだ。人口が増えたことによる問題を自覚しつつ、技術の進歩が新たな病を生むのを自覚しつつ、目前の、自分の人生だけを大事にして、人類が、地球がどうなろうとかまわないのだ。そう簡単に人類が滅ぶとは思わないけれど、僕は、死を最悪なもののようにとらえられる人間が羨ましいのだ。明日のことを思って眠りに就く、五年後十年後のことを考えて生きる、次の世代のことに思いを馳せる、そう思える人間はそれだけで幸福なことだと気づいていないように見える。僕はそんなことを望んでいい人間ですらない。明日のことも昨日のことも考える余裕もなくて今日生きるだけで精一杯だったとしても、誰もそんなことを褒めてはくれない。
 また死ねなかったとたびたび思うのに、自殺ができないのは一つには勇気がないから。そして理性が強すぎるから。人間であることにうんざりしてしまうのは人間でありすぎるから。
 死に場所を探していた。

 マリア式

『バニラ・スカイ』という映画でトム・クルーズがつけていたフェイスマスクのように、なにもない顔をしていた。張り付いたままの表情。鏡を見るのが怖くて、そこに映っているのは誰だろうといつも思う。僕だった人間はきっと死んでしまった。十九歳で、殺した。そうやって過去を殺して捨てないと前に進めない人間になってしまった。
 一年間大学を休学してから、復帰した僕は人間なんかと馴れ合う気はなかった。以前の僕のように人間に期待することはやめて、関わりを避けようと努めようとした。どうせ二十五歳ぐらいで死ねばいいと思っていたので、そんな人間が他人と仲良くしてどうするのだろうか。どうせ家族も友だちも恋人も信じられないのだから、そんなものつくる必要はない。
 だから、実習やなんやで同じグループになった京都の女の子が仲良くしてくれようとしてもそこまで深く付き合うことはできなかった。わざとしなかった。そういう人だと割り切ってくれていたのかはわからないが、何を考えているのかよくわからない僕のような人間に仲良くしてくれた。とても素直な女の子で、少しだけ尊敬できると思った。本当はもっと優しくしてあげられたら良かった。でも。そんなことをして、僕が長生きしなかったら悲しませることになってしまう。それを避けるためにも仲良くなるつもりなんてなかったのに、意志の薄弱な僕はいつの間にかそれなりに仲良くなってしまっていた。少なくとも周りの人間にはそう映っていただろうと思える程度には。
 でも僕の隣を歩いてくれたのは君だけだった。少なくとも君と出会うまで僕はそんなふうに人間を信じることはできなかった。彼女は僕の声を認めてくれたけれど、隣を歩いてはくれなかった。そしてこれには願望も混じっているが、僕の人生において一番多く会話を交わしたのは君かもしれない。決して口数の多くない無口な僕の隣を歩いてしゃべってくれる。くだらない話もできる。そんな偉大な人間と出会えたんだから僕の人生に意味はあった。君の隣は落ちつけて、言葉に詰まることもあまりない。そして笑い方もわからなかった人間が今は笑えている。君と出会えたからだ。
 例えば、数人で歩いていて、たまたま僕が少し前を歩いたりして、そんなとき、後ろを振り返ったら誰もついてきていない。例えば、ふたりで歩いていて、僕が一瞬違うところにチラと目をやって、隣を振り向いたらそこに誰もいてくれない。ガールフレンドと手を繋いで歩いているのに、少し手を離した隙にどこかへ行ってしまう。僕には人間はそういうふうにしか信じられなかった。そんな人間としか出会えなかっただけかもしれないが、そんな僕にどうして家族や友だちや恋人というものが信じられよう。
 君だけは違った。ふたりで歩いていて、ふたりとも黙っていても、その沈黙が心地良かった。君がそう思ってくれていたかはわからないけれど。手なんか繋がなくても、隣に確実に存在している確証が常にあった。それは安らぎだった。そんな感情は知らなかった。自分の中にそんな感情が存在しているとは思わなかった。僕にそんな感情があって、この世界に僕が安心できる場所があるんだと、教えてくれたのは君だった。僕が安心できる場所は君の隣だけかもしれない。
 人生はくだらないことの積み重ねだ。朝学校に行って、教室まで数分一緒に歩く、たったそれだけでも、僕が一日の間に交わす会話のすべてな日が数多くあって、それが積み重なれば、その一年で一番多く会話したのは君だということになる。高校数学で微分と積分を習ったことがこんなところで生きている。細かく分けられた時間は薄っぺらくとも、重ねたら分厚くなる。本と同じ。
 そして積み重なったものはなにか形をとる。つまり、君のことが好きだと気づくまでに一年以上かかった。嘘だ。認めたくなかったのだ、自分の感情を。人間なんて嫌いなくせに、たった一人、安心できる場所だった。
 髪短くなったやん、と言ってくれたことが嬉しかった。そんなに僕のことを覚えていてくれた。実務実習でしばらく会うことがなかったとき、久しぶりに会ったときに、そんなくだらないひとことが嬉しかった。僕なんかのことをちゃんと見ていてくれた人はいたんだ。四回生の時、出る必要性をあまり感じない授業を休んでばかりいて、模試の日に久しぶりに君と顔を合わせた。久しぶりと言ってくれた。どうして僕なんかのことを覚えていてくれてその上に声をかけてくれるのだ。泣きそうになった。
 僕が冷たく接しても、君はいつも世界一かわいい笑顔で笑ってくれて「元気?」と訊いてくれて、「ううん」なんて答えてしまう。僕に元気をくれるのは君だけなのだから、本当は「今元気出た」と答えられたらいいのに、そんなことはできなくて、でもどんなときも君は素敵だった。廊下ですれ違ったときにハイタッチしたりして、君の手のぬくもりは、やはり安らぎだった。世間からはどう思われていたんだろうか、そんなことを気にしてしまう人間をやめたつもりなのに、少し気になってしまう。僕には君しか見えなかったのに。
 二十三の女が同じ研究室で一緒に授業を受けていても、僕には君しか見えなかった。隣にいる世界一タイプな女の子ではなくて。同じ研究室の全然タイプじゃない女の子には世界一優しくしてしまう。めっちゃ優しいとか言われてしまう。本当に優しくしたい人はだれなんだろう……。そして誰に優しくしても結局僕は裏切ってしまう。世界を呪って生きてきた人間だから、復讐が人生の目的だった。そんな人間だと誰も見抜けないし、何もかも打ち明けることはできない。それは裏切り。どれだけ優しくしても明日には僕は消えてしまうかもしれないんだよ。真意を伝えずに。なんで止められなかったんだって誰かは自分を責めるかもしれない。そう思ってしまえばいい。僕の隣は歩かないし僕の孤独を見破れないんだから。そんな人間には僕はただの優しい人でいい。優しくなんかないけれど。
 君は知らないかもしれないけれど、僕は毎日死ぬことと殺すことばかり考えて生きていた。家にいても学校に行っても死にたいのだから。でも学校に行って君に会えたら、生きていてよかったと思えた。そんなことを思われても迷惑かもしれないけれど、本当のことなのです。
 誕生日おめでとうという言葉が嬉しかったのは、君と出会えたから、僕の人生は意味があったと確認できたからだろう。

 敵

 僕の強迫症状は敵を作る。僕にとっての明確な敵を。
 考え過ぎが生む幻想だとしても、そう考えさせている元凶ならば、僕にとっては敵だ。
 昔はそれでよかったのかもしれない。しかし、時代は変わる。いつまでも過去に縛り付けられている古い人間というのはどこにでもいる。世の不条理の大半を孔子のせいだと思わずにはいられなかった。
 儒教には、「孝」とか「悌」という思想がある。大体の意味は、親や兄(ひいては年上)を敬え、大事にしろということだ。確かに、年長者のほうが人生経験は豊富かもしれない。知識の蓄えもある。だが、必ずしもそうではない。もはやそんな時代ではない。長男は跡取りとして大事にされる? そういう時代ももはや過去。少なくともこの国の大半の人間には。しかし、社会の風潮、人間の心理は変わらない。自分が長男でなく、三月生まれで年上のものに対する劣等感をもっていたせいもある。一人目の子どもは大事にされた、甘やかした、そう思ってしまう。
 儒教では「礼」を大事にする。本来は克己復礼――己に打ち克ち欲望などを抑え、礼儀にかなうよう振る舞う――であるべきだった。「仁」――人と人の間にあるもの、思いやり――も大事にする儒教では、相手に礼儀正しくすることは当然のことだった。しかし、いつしか形式だけが重視され、そこに相手を思う心は薄れていった。ただ、そうすべきだという社会の風潮があるから、相手に礼儀正しい振る舞いをしている。孔子もそうなってしまった事を嘆いたという。振る舞いというのは挨拶や言葉遣いだけでなく、服装や髪型など外見的な部分も含まれる。そして日本の教育現場では、以前よりゆるくなったとはいえ、いまだに校則でガチガチに学生を固めてしまう現実がある。髪の長さ、色、携帯を学校で使うな、そんなくだらないことに不満を募らせる高校生は大勢いる。確かに道徳観念を学ばせることは必要かもしれないが、それが果たして高等教育なのだろうか。教育機関は子どもを奴隷か何かだと勘違いしているのではなかろうか。そんなことは僕にはどうでもいいし、教育委員会には彼らなりの言い分があるのだろうけれど。いじめだなんだと問題が起こっても自分たちの体裁を取り繕おうとしてしまうのが人間である。事実無根だと訴えられて心外だと、あたかも自分たちが被害者かのように振る舞ったりしてしまう。しかし、そういう生き方はいかにも人間的で、他人にどう思われようと周りの目を気にしすぎないでいたいものである。
 この国は儒教の影響が大きく、飛び級制度というのが基本的にないのも年功序列の風土が残っているのも、孝悌のなせるわざか。飛び級がなければ上の学年は年上で、先輩を敬うよう自然に誘導できる。そうやって、教室という牢獄に閉じ込め、そこからの逸脱者を許さない。資本主義者なら、本当に能力の高いものはどんどん上に行っていいはずではないのか。会社や社会の利益を生み出す能力は資本ではないのか。資本とはなにか。僕にはわからないけれど。学校なんて嫌いで、儒教の思想が許せなくてそんな思考を生み出すだけか。
 日本人の道徳観に儒教の影響が強いのは、江戸時代に朱子学を採り入れたから、だと思っている。儒教は身分社会で支配するには都合が良い。目上の人(要するに幕府)を敬えという価値観は大名そして百姓を従わせやすい。道教ではそういうことにはならない。そもそも日本で道教の存在が薄いのには、別の理由があって、道教には天皇という存在より上の存在が複数いて、日本のトップが天皇と名乗っていたのだからそれより上の存在がいては都合が悪いから、という説がある。そういう意味でも朱子学を取り入れる前から儒教の影響は、少なくとも存在感はある程度はあったのだろう。
 礼が大事なのはわかる。度を過ぎた無礼は自らの破滅を招くかもしれない。しかし少しぐらいは仕方のないことで、頑なに一つの思想に縛られるのではなく柔軟性のほうが大事な時代なのは本当に現代を生きているならわかるはずだ。
 家に連れてきた同級生が、玄関口で靴をきれいに揃えていなかった。それだけで、その子どもの、家の品性を疑うのは度を過ぎている。もちろんたった一回の、それだけの行為のせいではないのだろうけれど。まだ子どもだ。教育がなっていない? そうかもしれない。だからといって、子どもに対して、初めて家に連れてきた同級生を悪く言われることの苦痛はわからないのか。もし仮に、品性が下劣な輩だとしても、それを判断してどう付き合うかを決めるのは本人であって、他人が指図することではない。様々の人と付き合うことは様々な人を知って、その上でどう選択するかを身につけるためには必要だと思うことはいけないことか。選択する力は、未来を切り拓く力だ。全てがんじがらめに規定してしまっては本人の意志が生まれることもない。目上の人に敬意を払うことは反感を許さないことではない。でも、子どもが自分のした選択を否定され続ければ、自分の意志を外部へ顕すことの恐れが人格を殺す。親などに逆らえない、期待に反することをすれば嫌われてしまう。自分のしたいことをしたいと考えていい人間ではないと信じ込まされる羽目になり、他人の顔色を窺い、おどおどした憐れな子どもをやらなければならない羽目になってしまった。敵を赦すな。自分の選択が本当に自分の選択なのか不安に苛まれ、誰かの決めたことで自分は操られて洗脳されている。
 孔子に対する風評被害が甚だしいかもしれないが、僕がそう感じたのだから、そう感じさせたことが彼の罪。

 二十三の女

 その女の手が好きだった。柔らかくふっくらしていて、暖かい。
 声が好きだった。しゃべり方も。
 字が好きだった。字の書き方も。字を書くときの顔の角度も好き。使っているペンも好き。新しくペンケースを買って、古いペンケースを捨ててしまえるところも好きだった。
 体調が悪いときには欠席をしてしまえるところも好きだ。
 一緒にソフトクリームを食べられるところが好き。冬が好きで猫が好きで名前に猫を飼っていてお酒が好きなところも好き。
 誕生日が好き。血液型が好き。染色体の数も好き。
 人間の染色体は常染色体が二十二対、性染色体が一対の二十三対ある。地球は二十三・四度傾いている。その女の誕生日の月と日を足すと二十三になり、僕も三月二十日生まれだった。生まれたのは平成二年と三年。出会ったときは二十三歳だったかもしれない。身長だって二十三センチぐらい違う。
 きっと世界一タイプの女の子で、カワイイやつ、とお互い思っていた。
 二十三世紀ならばよかったのに……。来世に期待しておく。二十三世紀に、二十三歳で結婚して、二十三角形の指輪を作ろう。二十三階建ての二十三角形の建物に住んだり。
 それだけの話。

 空腹

 運が悪かっただけだ。
 もうひと月早く生まれていれば……。違う家に生まれ名字が違っていれば……。孔子のいない時代に生まれていれば……。核家族の家に生まれていれば……。長男に生まれていれば……。あるいは真ん中の子どもが女の子だったら……。人間の心にほんの少しでも善良なものがあったら……。言葉がうまく発音できたら……。もう十年はやく、僕の言葉に耳を傾けることができる人間が存在していたら……。人類が言葉をもたなかったら……。核戦争でとっくに人類が滅んでいたら……。
 こんな思考をしないで済む人間になれていたら良かった。
 でも、そんなものはなにも望まない。望んでいい人間ではない。
 家族も友だちも恋人も信じられないなら、家族も友だちも恋人もいらない。そもそもそんな人たちは誰ひとりとして家族でも友だちでも恋人でもなかったのだろう。
 全部捨ててしまった。
 なにもない。
 なにも感じない。
 なにも望まない。
 君の幸せを願うことすらおこがましい。
 感情をなくしてしまったら、何を食べても同じ味しかしなくなるんだよ。美味しかろうが不味かろうがどうでもいい。食事を摂ることすら面倒になる。
 人生を捨てた人間が、再び手に入れようなどとそんなことが許されるなどと思いあがりも甚だしい。捨てずに頑張っている人々に申し訳が立たない。
 君にありがとうと伝えられたんだから僕の人生は幸せでした。
 ああ、しかし、なにも望まないにしても破滅を望んでいるのだ。

 安らぎ

 さようでございます。
 悪いのは僕です。
 今日までかろうじて生き延びたけれど、そんなことでは誰も褒めてはくれないのです。世間は冷たいから。
 世間のせいにしても、時代のせいにしても、病の可能性を追求しても、僕自身の問題なのです。ヒトノセイニスルナとよく言われた。ならば自分のせいにすればいい。否定され続けてきた僕は人ではないから。十九歳で自分自身は殺したのだ。
 本当に、人間を、物理的に、殺してしまえばよかったのかもしれない。そしたら、警察が捕まえてくれる。その時初めて、一人の人間としてまともに扱ってくれるかもしれないと儚い願いを持っていた。
 大学から就職はどうしたのだという内容の電話があった。一度就職課に相談にきてくださいという留守電が入っていた。誰が行くか。おせっかいはあなた方の仕事かもしれないけれど、申し訳ないけれど、迷惑です。構わないでほしい。ほっといてくれ。自分が親切のつもりでも、それが他人の迷惑になることもあるんだ。今日を生きるだけで精一杯の人間をバカにしているようにしか聞こえない。オレは正気じゃないんだ。でもあなた方はあなた方の仕事をこなしているだけであって、それでいいんだと思う。僕はそんなことに興味がないから。
 世間の人間は毎日あくせく働いて、いったいどうしようというのだろう。それであの人が生きかえるのですか。
 興味があることなどなくしてしまった。
 読みたい本も観たい映画も山のようにある。観たい景色も聴きたい音もある。でも僕は一人だよ。君と出会えたから僕の人生は孤独ではないけれど。
 それに、何かをしたいと思っても、そんなことを思っていい人間ではない。そんな言葉を呪文のように唱える人間にならず、何かをしたいと思える人間はそれだけで十分人間的だと思う。羨ましかったのかもしれないけれど、そんな感情すらなくしてしまった。せいぜい元気に生きてください。
 できることなら、君の声が聴きたいな。

(平成二九年四月十九日 二十五の手記とともに彼の遺体は発見された)

disenchanted lullaby

※これは、ある男の見た幻影であり、たとえフィクションの世界であっても現実ではないため、男の期待した未来、あるいは叶わないと知っている願望が形を取ったものとご了承ください。しかし幻覚でも夢でもそれを信じるものには現実となり得、私達が信じている現実が幻影ではないと言い切れないのではないか。そして時として人間とはそう信じたい生き物である。

 命日

 自分の誕生日は自分で決められない。ならば、命日ぐらいは自分で決めたいものである。
 本当は二十五歳で死ぬつもりだったのに、君と出会えて生き延びて、二十五歳になって二日後に新しい誕生日をくれた。結局二十六歳で死を試みてはみたものの、この有様だ。
 僕に新しい誕生日があるなら、古い命日があったはずで、でもその日付はわからない。家族も友だちも恋人も自分の人生も何もかもを捨ててしまおうと思ったら、過去も未来も邪魔だった。携帯のアドレス帳のアドレスを全て削除した。誰ひとりとして、家族でも友だちでも恋人でもないのだから。連絡を取り合うこともないそんなものを登録して一体何になるのだろう。でも、彼女のアドレスだけは消せなかった。彼女が元気に暮らしてくれたらそれでいい。それ以外なにも望まない。家族も友だちも恋人も自分の人生もいらないから、せめて彼女が元気に暮らしてくれたらいい。その思いだけが生きていて、そう思えた日が命日なのだろう。
 そんな日は誰も憶えていないし、知る必要もない。何年でも何月でもない。誰も知ることのないいつか。存在しないそんなものを命日と名づける生き様。プロフィルには一九九一~二〇〇六、二〇一六~とでも記載しておけばいい。何も手に入らないと知った十代後半からを生きてなどいなかったと胸を張って言いたい。こんな醜い人間が存在していたことになっていたら、世界に対して失礼である。存在することを許してくれた唯一の人間が君でよかった。君が存在しない世界など生きられはしない。ごめんなさい。

 棺桶

 目が覚めた時に思うのは、また死ねなかった、ということだ。
 規則的な機械の音。奇妙な空気。誰かの足音。鳥の声。寝心地の悪いベッド。
 しばらくは周りの人間が何を言っているのかわからなかった。薬のせいで記憶がなくなっているんだろうと思うことにした。いつの間にか病室は移されていた。深刻な状態を脱したらしい。
 食事をするのが嫌いで、栄養が取れるなら点滴でいいと思っていた人間なのに、僕は点滴の針を何度も外してしまう。かまわないでほしい。誰もそんなものを望んでなどいない。
 病院は嫌いだ。
 なぜだろう。
 親が病院で働いているから、親を拘束している病院がなければ、子どもの方を向いてくれたかもしれないと思うからか。無理に清潔にしようと努めて奇妙な空気をつくりだすからか。それでいて病院は菌だらけで、もちろん様々な患者がいるからそれは仕方なくて、そして菌を外に逃さないことも病院の建物の役割の一つで、閉じ込められた空間が気持ち悪さを誘う。中の空気がすべて奪われて、鉄筋コンクリートが一気にひしゃげる。それは一瞬で、何トンもの塊がぶつかり合い崩れ合い、ほこりまみれで、挟まれた足の骨は折れて、悲鳴が飛び交う。外気が入り込んで、陽の光を見て、満足してコンクリートの瓦礫の中に倒れ込む。
 そういう風景を感じとってしまうことが恐ろしいのか。
 自分は病気じゃないと思いたい思いが、病院に足を踏み入れると吐き気がする理由になっているのか。
 おそらく、病院に行って満足して帰ったことがないからというのも大きな理由だろう。風邪で病院に行った。アレルギーで病院に行った。食中毒で病院に行った。自分だけがアレルギー性の結膜炎を持っていた。真ん中の子どもだけ。イネ科の植物は近寄らないようにした。夏は嫌いだった。自分のアレルギーのせいで、親の手を煩わせてしまう。迷惑をかけていると思った。真ん中の子どもにアレルギーがなければ親が苦労することもない。面倒に思われることもない。どうして自分だけが違うのだろう。平等に扱ってほしいだけなのに。その反面、自分だけが特別に扱われていることに少しだけ優越感を覚えて、次の瞬間には矛盾した自分を呪わしく思う自分に気づく。そして、結局病院に行っても、根本治療にはならなくて、対症療法が中心になってしまう。それが他人も自分も幻滅させてしまう。最近は花粉症などで減感作療法などというものもあるが、そういったものに触れることは時代が変わることの恐ろしさを感じとってしまう。
 後ろめたい気持ちと、何も変わらないという気持ちが、病院を嫌いにさせる。
 学校が嫌いだったのは閉じ込められていたから。牢獄だったから。そして病院は棺桶だ。出してくださいよ。
 病室を抜け出して、四部屋分過ぎたところに少し空間があって、それを過ぎると階段がある。詰所の明かりを近視の目で見ながら、階段を見上げる。僕は視線の定まらない目を階段と自分の間の空間に浮かべ、遠ざかったり近づいたりする音を聴いている。スリッパのパタパタいう音。老人のうめき声。白衣の擦れる音。誰かの笑い声。誰かの見ている音。それは監視カメラか亡霊か。壁に手をついて、足を踏み出して、声をかけられる。お手洗いかってそんなことを訊いてどうするんだ、お前は業務中以外でトイレに行くときいちいち断るのか。そんなことはどうでもいい。便宜上尋ねていることはわかる。どうなさいました? って――どうかしているんだよ。見たらわかる。振り向いた僕の先に若い看護師のお姉さん。こんな人間に優しくしたって、無駄なこと。ぼんやりとその顔を見て、何事もなかったかのようにもう一度階段の方を見遣る。しかしそこには何もなくて、ただ闇があった。廊下が続いて、グラデーションで闇に溶けていく。階段はどこにいったんだろう。
 そんな夢を見て目が覚めたのは真夜中で、規則的な機械の音だけが響いている。窓から漏れるのは月明かりか、文明の明かりか。風になることを忘れた空気が病室を埋め尽くし、僕は一人。ゆっくりとベッドを抜けて、ひそやかな廊下へ。ところどころに、足元を照らす明かりがついていて、非常口を示す緑もある。手すりに沿って歩いて行く。階段はどこだろう。何部屋通り過ぎても見つけられない。見落としたのか、近くにはないのか。もし、階段を見つけたとして。それは今の僕には上るためにあるのか下るためにあるのか判断がつかないだろう。上りたい自分と下りたい自分がいて、どちらが自分らしいか考えてもみるけれど、どちらも自分らしくはないと思い知らされる。どちらかを決定する権利などないのだ。立った位置に上り階段があれば上るだろう。抗いたい意思があったとしても上らねばならないのだ。手すりをつかむ左手が妙に冷たく感じられる。うまく力が入らない。病室を出る時に無意識の内に眼鏡をかけていた僕の意識は何を見たがっていたのか。見たいものなどないのに。階段を見つけても仕方がないのに。それすら見つけられないというのに。力を失った左手は手すりをつかんで支えているというより、たまたまそこに手すりがあってその上に乗っているだけのように感じられた。さっきまで知らなかった空気の重たさを理解し始め、それは眩暈を引き起こす。数瞬、視界に像を捉えられず、頭に行くはずの血管が全て収縮して血液の流れが滞ったように視神経の信号を処理できなくなる。目の前は闇なのに、光が広がっていく。それは初め白であって赤や青がかすかに混じって、やがて外から徐々に闇に飲まれて、中心へ収束して消えていく。壁に手を伸ばして支えようとするが、意識だけが手を伸ばして、実際に手を動かすことは叶わなかった。手すりを離れ、重力の奴隷になってしまった左手は体を支えることを忘れて、足にも力が入らなくなっていることを気づかせてくれた。前のめりに倒れてしまう。廊下に音が響いて、誰かが駆けつけてくる。だいじょうぶですか?――大丈夫な人間は入院なんかしない。病院の廊下にほこりが見えて、病院が清潔なのか清潔じゃないのかやはりわからないなと奇妙な空間だと、気持ち悪いとあらためて感じた。

 時代

 愚かな人類は地球を汚染し続けて、戦争を続け、生物を滅ぼし、新たな病を生む。伏羲が宇宙を八卦に分け、文王が八卦を六十四卦に分けても飽き足らず、様々に事物を分類しどんなことにでも病名をつける。病気が増えて、治療法も増えていくということは、それだけ分析や検出の技術が進歩し、症例の報告も増加し情報の処理能力も進歩しているということだ。恐ろしいことだ。
 そういう人類の行いに畏怖しない者たちがなにより恐ろしい。
 人類が空を飛びたいと願わなければ、エイズがこれほどまでに広がることもなく、エボラが流行することもなかったかもしれない。抗生物質が発見されなければ、耐性菌がはびこることもなかったかもしれない。いつか人類は地球外から持ち帰った細菌に絶滅されてしまうかもしれない。それはSF小説の世界の中の話だけではない。
 ほんの百年も前には、結核で死ぬ人間は大勢いた。それが今は激減して、過去の病になった。最近では耐性菌が流行って結核患者も増えてきているらしいが、死亡率は百年前とは違う。昔は結核で死ぬことは普通(、、)だった。ショパンも高杉晋作も結核で死んだ。それが自然のあり方だった。人類はそれを捻じ曲げる。それは喜ばしいことか?
 若くして死ぬことが減って、豊かになれば長生きもする。そして大規模な戦争をやめた人類は人口を増やしていく。高齢化だなんだと言って、そんな言葉が世間を賑わす。少なくともこの国では。人類は本来そんなに長生きする生き物ではなかったのに、死が身近なものでなくなったら生きることに執着し始める。生に対する執着は昔からあったかもしれないけれど、獣のように気高く、こんなに醜くはなかったはずだ。
 こんなに生きにくい世の中でどうして長生きしたいと望むことができるのだろうか。おそらくそういう人たちにとっては生きにくい世の中ではなく、この世界は地獄でもなんでもないんだろう。
 きっと、言葉をうまく発音できて、食事の味を理解できて、声を聴いてくれる人がいて、感情があって、家族や友だちや恋人というものがあったりするんだろう。時代は変わるのに、自由にそういうものを享受できている時代に適応できてしまった人間が羨ましいのか?
 人間になりきれなかった僕はいまさらそんなものに未練などないような気がする。
 僕の病名はなんだろう。人並みになれないなら、ヒトと扱ってもらわなくてもいい。あらゆる病気に病名をつける前は、人間以下だと蔑む様々な言葉があった。現代では放送禁止だ差別だ人権がどうだとくだらない問題になる。僕は蔑まれて当然の人間だから、好きに呼べばいい。それなのに病名をつけてしまったら人間に分類されてしまう。今更人間と同列に扱うのはやめろ。基本的人権を尊重されなかった僕は人間である権利がない。なら、人権問題にはならない。憐れな生き物は憐れな生き物でしかない。そこにしか存在意義を見いだせなかった。人間たちのおかげで。
 幼い頃は、未来に思いを馳せた。百年後に、世界はどうなっているだろうと。映画のような世界になるのだろうか、それとも、それは映画の中だけなのか。科学の進歩は希望であったはずだ。そしてそれは現代の多くの人間にはそのとおりなのだろう。僕には負の面しか見えなくて、恐ろしかった。携帯電話やパソコンが広く大衆に普及し始めたのは二十年ほど前で、それからわずか十年二十年でここまでの進化を遂げている。そうでなかったらと考える。彼女とメールをやりとりしたのが、電話での会話なら……なにか違っているはずだ。インターネットがなければ知らなかった音楽があって、知る必要のなかった病気があった。どちらがいいことかはわからない。全く違う世界だろうということに思いを馳せるだけだ。そしてそれはきっと素晴らしい世界。

 毒

 僕が寝ている間に誰かが訪ねてきたらしい。
 挨拶に来た看護師が告げる。お父様とお母様がいらっしゃいました。
 ?
 僕に親はいない。
「おやなんかいないです」
 戸惑う看護師は僕を説得しようと試みるが、何を言っているのかよくわからなかった。
 面会謝絶にしてください。
 誰が僕に会いに来るのだろう。心配している素振りをしてみせなくてもいいのだ。そういう親切心が他人にとって迷惑になることもあるってなんでわからない。その迷惑が僕を殺す。
 もし親だと名乗る人を病室へ連れてきたら僕は飛び降ります。
 誰も来ないだろう。きっと彼女は来ない。二十三の女も来ない。僕の状況を知りようもない。君は来るかな。アドレス帳に載っているのは今は君の名前だけ。
 本当は来ないほうがいい。そう思ってほしいから、そういうふうにしか接することができなかった。わざと優しくなどしなかった。
 そんな身分じゃないから、対等に立とうなんておこがましい考え。
 身分も民族も立場も関係なく、分け隔てなく接してくれるのは一般的にはイエス・キリストなのだろうか。僕は彼のファンじゃないからわからないけれど、そういう高次元の存在にきっと人は救われる。僕にとってそれが君だっただけ。こんな人間の隣を歩けるのは君だけだった。
 逆に誰かの隣を歩いていいと僕が思えたということも重要な事だった。そんなことに許可などいらないはずなのに、許可を求めてしまう。五歳ぐらいの子どもが親に話しかけているのに無視されてしまう世界では、許可なく発言することはできない。
 人間が三人以上いたときに、僕はほとんど喋ることができなかった。今でもそうだろうが。Aと僕がいて、何かを話しているところに、Bが加わったら僕は発言を躊躇してしまう。AとBが特段仲が良いわけでなくても、僕が発言することで二人の邪魔をしてしまう気がしてしまう。二人が話しているのに、僕が話しかけるとお前は黙ってろよと思われてしまう。他人同士の間に僕の入る余地はない。
 休日に、夕食を親が作っても、僕は呼ばれない限り部屋から出なかった。時間になればリビングに下りればいいのに。僕は許可されていない。夕食に招待されていない。六時に夕食が完成しても、呼ばれない限り、九時でも十時でも僕は夕食に手を付けなかった。九時頃になって晩御飯食べないのと部屋に呼びに来て資格を与えられるまでは僕に夕食を食べることはできなかった。いちいち資格など必要としない関係性に憧れた。そういうのをきっと家族と呼ぶのだろう。そんな資格は僕が勝手に思っているだけで、もしかしたら必要ないのかもしれない。そして、休日は朝も昼も食べずに水しか飲まない日も多々あった。そうやって勝手に被害者をやっていればいいのだ。どうせ誰も気づいてなどくれないのに。いつまでも自分で自分を殺し続けている。
 単純に他人が恐かったのだ。しかし、それは単純な問題ではない。
 そして君は違った。誰かの隣を歩くのに、誰かに声をかけるのに許しがいると思っているのに、君の隣を歩くのに、喋るのに許しなど必要ないと思わせてくれた。たった一人。この人なら、家族で友だちで恋人になれるかもしれない。そう思考することを赦されるのは君に対してだけだった。こんな人間に優しく話しかけてくれて、自分を殺し続ける手を休ませてくれた。偉業だ。

 遺体

 医者が来てなにやら話している。
 僕は、正常だよ。
 赦せないのは社会構造であって、日本語の五十音順で、四月から新年度が始まる制度で、儒教的道徳観であって、医療が発達しなければ医者なんかと会話する必要などない。
 奇妙な光景だ。ちっともおかしくなんかないのに、それを治そうとしている。それは多数派の世界。いがんでいるものを、外れているものをあるべき形だと錯覚しているものに戻そうとする行為。一定の視力がなければそれを矯正するために眼鏡をかける。しかし視力が低い者にとってそれが普通の世界なら、無理に世間に合わせこまなくても良いはずだ。矯正してスタンダードなものに合わせないと生きていくのが難しい社会。少数派を否定したがるのは人類のサガか。例えば生まれつき視力が0・2な人が九十九パーセント近くの社会なら、1・0の人が希少になるわけで、視力が低い者たちはもともとそういう生き物であるので、矯正など必要としないだろう。
 多数派はあらゆるところに潜み、多数派になれなかった人間は自分を特別な存在だと思い込む傾向がある。左利き、AB型、クラインフェルター……そういった社会的な少数者もいれば、もっと小さな集団での少数者もいる。仮に二十人のグループがいて、その中でO型の血液が一人だけなら少数派になってしまう。たとえO型の、世界で一番多い血液の型をしていたとしても。子どもが三人いて一人だけO型だったりしても同じ。
 社会は大量の人間で成り立っているわけで、その中で少数派が淘汰されてしまうのは仕方のないこと。そんな社会に無理に馴染む必要性はなんにも感じない。反社会人で一向に構わない。人生とか資本主義とか、そんなのが世間で流行っているからといって無理にそれをやる必要なんてない。息苦しいのにそんなことをしてもがき苦しんでいる人たちは、そんな義務はないことに気づいてしまえばいい。
 昔からそうだった。あらゆる社会のしがらみがわずらわしかった。戸籍を抹消して失踪してしまえたら、どんなに楽だろう。義務も権利もない。受け取る予定のない年金を払う必要もない。役所からの連絡もない。そもそも住む場所がない。どこかで野垂れ死んでも、どこの誰でもない。本当は身元不明の死体としても扱われたくもない。身元不明だとしてもどこかに遺体を安置され、埋葬されてしまう。そんな形ですら人間と関わり合いにならないで済むならならないほうが良い。
 社会が複雑化して便利な世の中になればなるほど、不器用な人間には生きづらい。あらゆることが罪になり、あらゆることが病気になり、まともでいられるのは難しい。戦乱の時代なら、予防接種などない時代なら、もっと楽に生きられた。そのくせ、狂ってしまっても、××という病名を与えられてしまって、人間としての尊厳を強要されてしまう。人間などしたくないからと、狂ってしまっても、許してくれない。そんなに人間にしたいなら、人間で有り続けることを、留めさせる努力をしろ。望んでイカれてしまってから引き戻す。望みを否定する。昔はもっと楽に狂えた。もうそんな時代じゃなくて、世間は日常的に、肉体的にも精神的にも死を遠ざけて、生に緊迫感をなくした。だから、人間は簡単に死ぬことに誰も気づかない。肉体が生きているから、脳が生きているから、心臓が動いているから、そんな言葉で、死から目を背ける。

 開かない扉の前で

 穏やかな午前に、廊下を誰かの歩く音がして、病室の扉に近づいてくる。それは僕の生活にはそぐわない音だった。
 足音は病室の前で終わって、扉に手をかける気配がする。扉の把手に爪が当たる音がして、そこで再び音は止んだ。スライド式の扉の冷たい清潔な把手はその人の体温を受け取ることなく、少し触れた指から表皮常在菌が少し、空気中の塵と一緒に付着しただけだった。
 影が見えるわけでもはっきりと吐息が聴こえるわけでもないのに、その人が再び下ろした手を把手にかけようか迷って不自然に中途半端に上げた手を途中で止めているのがわかる。そういう気がするという意味だが。おそらく部屋番号を何度も確認しているのだろう、カバンと服の擦れる音がする。
 結局その人は扉を開けずに去っていってしまった。去っていく足音はいかにも僕の人生によくある音だった。
 午後になって、看護師が、若い女の子があなたの病室の前まで来てたけど帰っちゃったとかそんな話をするわけもない。いつもより少しだけ目元のメイクが濃いだけだった。見舞いではなく、病院のスタッフかあるいは他の入院患者だったのかもしれない。病気か薬の副作用かで自分の病室を間違えた人の可能性もある。扉が開かない限り、誰かなんてわからない。人間じゃないかもしれないし、幻聴かもしれない。自分が病室を間違えているのかもしれない。
 どこで、誰が、何を間違えたのかわからない。
 また次の日に、同じ足音が病室にやってきた。
 結局その日も扉は開かないで帰っていった。数分、扉の前で立ち止まっていた。
 きっとこれが毎日続いて、僕の精神はとうとうおかしくなってしまったのだと確信を持てる予感がした。
 しかしそんなに期待通りにはならない。そんな気もした。
 次の日も、いつものように扉の前で足音は立ち止まって、時間が経つ。一分ほどだろう。それがとても長く感じることはアインシュタインか誰かが教えてくれた。やがて、ゆっくりと、扉が開く。
 僕は目を閉じて寝たふりをする。
 病室に誰かが入ってくる。その動作にはやはり迷いがある。でもすぐに迷いが少し薄れたような歩調で足音はベッドに近づく。僕が寝ているのに気づいて、どこか安心したのだろうと思う。起きていたら何を喋ったらいいのかわからずに戸惑ったりするのかもしれない。なにも言わずに駆け出して去っていくのかもしれない。寝ていても体中に包帯を巻き付けているとか点滴やら人工呼吸器やらを装備していたらと予想していて不安だったかもしれない。だからこそなんともなく寝ているだけに見える姿に安堵を覚えたに違いない。僕が病室にいなかった場合はどうか。それはそれで驚きもあろうが、少しほっとするのではなかろうか。緊張して損したと。心の準備はできたはずなのに、そんなのは自分の錯覚だったと思い知らされてもう少し落ち着いてから会いに来るべきだとあらためて思い直す。――そういう人なんだろうと僕は勝手に想像する。
 その人は僕の右手を握る。柔らかい手だ。
 しっかりと強く握るわけでもなく、かと言って、弱々しくもない。手に手を重ねているだけのようにも感じるが、掴んではいる。強調はしないけれど、自分の存在を示す。柔らかさの中にしっかりしたものを感じる。魂のぬくもりというのはきっとそういう形をしているのだ。人間の形と同じ。骨があって周りに肉がついている。あるいは、人間の形から魂の形を連想してしまうからそう感じてしまうのだろうか。
 僕はいつの間にか本当に眠ってしまって、目が覚めたときには、隣には誰もいなかった。やはり夢や幻覚だったりするのだろうか。誰かがいた形跡は僕の記憶の中だけ。

 罰

 禁煙や分煙という言葉を耳にすると、迫害だ人権侵害だと思ってしまう。
 喫煙が将来がんのリスクを高める? そうかもしれない。でも、明日事故で死ぬかもしれない。人生なんてそんなもの。
 どうせ人間なんてみんな死ぬんだからそれが少し早いか遅いかの違いでしかない。それを自分達のエゴのために、迫害をしています。
 副流煙が他人の迷惑なら、地球を汚染する人類の存在は地球に迷惑で人類は滅べばいい。宇宙の歴史から見たら人間の一生などほんの一瞬で、くだらない争いをしている人類は本当に醜いと思う。
 自分さえ良ければ他人がどうなろうとかまわないというのか。ほんの少しお金を出せば救われる命があるのに、そんな心配をしなくてもいい土地で暮らして自分が健康な生活を送るために無駄なお金を使って無駄な生を使う。お前のようなのがいるから戦争は終わらないんだ。
 平均寿命が八十歳を超えていることは、誇るべきことではない。恥ずべきことだ。平均寿命が三十代の国もあるのに。ほら、自分たちさえ良ければそれで良いのだ。この国の人間は島国に閉じこもっているから心が狭い。日本の川しか知らないものは、それが川の姿だと思ってしまう。ラプラタ川の河口を川とは認識できない。重たい病気に罹ったら自分を悲劇の主人公だと思ってしまう人は、そういう病気に罹るまでそもそも生き永らえることのできない人や病気だとして診断も治療もできない人より恵まれた環境にいることに感謝をしろ。しかしそれを「恵まれた」と表現するのは、それこそが人権侵害ではないだろうか。差別をしています。たまたまそのように生まれてしまっただけなのだ。生まれたものの半数が生後三ヶ月も生きられないような国や時代に生まれなかっただけなのだ。
 年金問題だとか高齢社会だとか、そういうことは人類が長生きしなければ済むことで、一定の年齢まで生きたら人間を終わればいい。そういう発想も人権侵害なのだろう。人権なんていうものがそもそも人間の生み出したおこがましい思想だけれど。
 そして人類は自分たちの罪を古来から知っていたはずだ。無差別なテロに巻き込まれた子どもたちにはなんの罪もない? 人間は生まれながらにして罪を背負っているって先日あなたは言っていたじゃないか。神が人を作ったんなら人が人を作るという行為は神に対する冒涜じゃないのか? それを平気で七十億もの人口にして、生まれながらに罪を背負っているなら生まれなければいいのに、生まれたことが罪なら滅んでしまうべきなのに。
 なのに、罪は赦されるだとか償えるだとか思っている。
 よくわからない。
 赦される余地があるなら罪を犯しても構わないのか……そういう思想も出てくる。それであの人が生き返るのかなぁ。十九歳で殺されてしまった人は、三十歳の姿も八十歳の姿もわからないままになってしまう。その人が六十歳になったときにどんな顔をしているのか、わかることはない。それを停止させてしまうという行為は、なんと傲慢なのだろうか。一度背負った罪からは二度と逃れられない。一度捨ててしまったものは二度と手に入らない。人生はやり直せるなどと知ったふうなことを言う輩は、十五の夏が一回しかないことを知らないのか? 孤独なティーンエイジャーだった少年はやり直そうと思っても、もう十代には戻れない。どんな二十代を過ごしても。二度と手に入らないものを奪うという行為の罪深さを知れ。迫害された人間は迫害された過去を持った人間で、迫害されなかった過去を持った人間になることはできないのだ。そんなこともわからずに、また人類は戦争を続ける。
 結局、
 愛と平和も自由と平等も、そんなものは、どこにも、ないんだ。もし仮に、ほんの少しでも人類が優しくなれたとしても。
 そういうふうに人類に絶望している。

 痛み

 また僕の手を握りにその人は来た。僕が起きていることに気づいているのかはわからない。なにも言わないで静かに椅子に座って隣にいる。声をかけるとか置き手紙をするとか、そういうことに意味はあるだろうか。僕の心は動かされるだろうか。
 そんなことが一週間ほど続いて、僕が寝ている間に病室へその人がやってきたことがあった。目を覚ますと、二十三の女は椅子に座り、僕の手を握り、眠っていた。二十三の女がそんなに優しい人だと僕は知っていただろうか。……たぶん知っていて、優しくないのはこちらの方なのだ。そんなふうに好きになってあげられなくてごめんねと心のなかで謝る。他人が裏切らないと、他人を裏切らないと、信じられない人間なんだから、もっと冷たくすればよかったのにそれもできなくて、この手のぬくもりをもっと知ればよかったのかもしれない。
 恨みはないけれど、だからこそ、元気に暮らしてほしいと願うから、僕なんかとかかわらないほうが良い。嫌われてしまえばいいと忘れてしまえばいいと本当にそう思える一人だった。
 お互い臆病だから、並んで歩くことはない。お互いが半歩ずつでも歩み寄れば良かったのに、それが恐かったのだ。本当は弱い人間なのに強がっているだけで、弱みを見せられない。そうやって似ているから居心地は良いのかもしれないけれど、本当は弱みを見せられて受け止めてくれる人をお互いに必要としている。それは僕の仕事ではなくて二十三の女の仕事でもない。二十三の女のことをしっかり守ってやれる人と二十三の女が一緒にいてくれたら良い。そういう人を見つけてくれたら良い。それは僕の勝手な願いで、二十三の女を強がらせてしまうのは本意ではない。その位置に立たないでいられるように祈っているのに、その位置に立たせてしまっているのは僕の罪。
 僕のことなんてなにも知らないくせにかわいい顔をして寝ている。それこそ僕の望んだことで、なにも知ってほしくなどない。自分はそうやって逃げてきたくせに、向こうが歩み寄らなかったことにきっと僕は失望をしていて、独りよがりのわがままで、それをこそきっと止めてほしい。と願うことこそ傲慢の極みで、それができない人間にうんざりしているのだ。他人に歩み寄るのが苦手な人種同士では、決して前には進めない。頭ではわかっていても、それができないから厳しい。それをいともたやすくやってのけるのは一人だけだった。
 僕には才能がないから、一緒にソフトクリームを食べてくれる二十三の女の手を握ってあげられない。でもどうせそれを信じてあげられる才能もないんだ。
 一度だけ、二十三の女に真面目に生きることにしたと言ったことがある気がする。きっとそんなことを覚えてなんていないんだろうけれど。僕は、真面目に「生きる」ことにした。真面目に生きるとは死なないことで、まともな人生を送ることではない。その「生きる」が一日なのか一年なのか五〇年なのか、それはわからないけれど、まだ死なないという言葉だった。もう少しだけかもしれないけれど生きのばしてみようと思っていた。そんな真意は伝えないけれど。
 握っている僕の手に、爪を立てて引き裂いてしまえばいい。痛みを感じればお互いの存在を自覚できる気がする。痛みを感じるということは、肉体あるいは精神が危機を感じていると脳に伝えているということだ。危険でなければ、痛みは感じない。生きているから痛みを感じる。なにも感じなくなってしまえば、危険信号を発する必要がなくなってしまえば、腕が一本なくなろうが腹に穴が開こうが痛みはない。そんなもの必要がない。生きる意志が痛みを生み出しているのだ。二十三の女はたぶん僕を傷つけて僕に痛みを感じさせることができる人間だと思う。
 他人の言葉になにも感じなくなった時代を終わらせることができたのは君のおかげで、二十三の女の功績ではない。君が時代を終わらせたから、二十三の女に真面目に生きることにしたと言えたのだ。
 目の前で握られる手に、言葉に、傷つけられたいのに、痛みを感じたいのに、そんなことはきっとしてくれない。それを優しさと信じてあげられない僕は他人を傷つけているんだろう。

 冬

 冬は服の組み合わせの選択肢が多く、服を選んで出かけるのが楽しい。どんな色のセーターを着て、どんな色のコートを着て、どんな色のマフラーをするのか。そういう感情が実際に存在したのかはわからないが、静かで、とても静かで、どこか優しい。そんなふうに冬が好きだった。人もセミも他の動物も騒がしい夏とは違う。みんな静まり返ってしまう。肌を刺す冷気、奪われる体温。手袋越しに君の右手。
 高校までの四十分。手袋もマフラーもせずに自転車をこいでいた。制服の下に着ているセーターの袖口を引っ張って手を温める。それでも、ハンドルをにぎる手は凍え赤くなる。霧の早朝では学校につく頃には前髪が凍っていることもある。誰もいない鉄筋コンクリートの冷たい教室。薄っぺらいガラス窓。隙間風が忍び込む教室のドア。ほんの一瞬の美しい記憶。
 肌が痛いぐらいの清々しい寒さ。夏は身体を包んでいた湿気が息を潜め、直に肌と空気が触れ合う。君との距離は遠くも近くもならない。夏のほうが好きだと君は言っていたけれど、そういう価値観の違いもおもしろく、そういう気楽な話を気楽にできてしまう。そんなに人間と会話できる能力が僕に備わっているとは思わなかった。十九のときはほとんど喋らなかった。一年間に原稿用紙一枚分も他人と会話しなかったよう思う。事務的なものも含めても十枚に満たないだろう。そんな人間が、一日に何枚分も特定の個人と会話できるようになったとは、何という奇跡。凍りついていた心を溶かしてくれる。冬でもあたたかい場所だった。
 僕はあと何度冬を迎えるだろう。何度、寒さの中で幻覚を見るチャンスがあるだろう。
 冬ならば、酔っ払って路上で凍死できる。きっと世界で一番幸せな死に方。もし仮に、道端に座り込んで寝てしまっても、死ぬ前に目が覚めてしまって、そんなときに冷気に包まれていたら、いつもより世界がクリアに見える。少し酔いも冷めて、世界に存在していることを知る。隣にいない誰かの幸せを願える。
 どうもありがとう。

 マージナル・マン

 夜の街を歩いていて思ったのは、誰もが目を合わさずに、それぞれの目的地に歩いているということだった。宛もなく彷徨う僕のことなど見えないふりをして。誰かが誰かを待っていて、仲間と盛り上がって、旅人は見知らぬ街を写真に収める。無関心な人ゴミの中は居心地がいいと思っていたけれど、気持ち悪くて悲しくなる。ゴミだから。みんなきっと自分がどこにいるのかわかっているのだ。
 自分がいるべき場所。自分が行くべき場所。自分を待っている場所。僕はいったいどこにいるのだろう。
 病院というのは人が死ぬところだ。生まれるところ、死なないようにするところ、そういう意見もあるだろうが。僕の認識では病院は棺桶。病原菌や病人を逃さないための牢獄でもある。そう思う僕は自分が罪人だと思っているからで、でも、その反面、こんなところに閉じ込めないでくれ、こんなところに入れられる人間ではないという意識もある。人間未満が人間のための施設にいるのはおかしいと思うからか。
 罪人だから、救われたいと思う。そう思っていたような気がする。そう思っていいと少しだけ思っていた。でもそれは違うんじゃないか、ようやくそう思う。
 街の中でなくてもそうだった。何にも所属できないから、学校が嫌いだった。六年間も同じ小学校に通って三年間同じ中学に通う。義務教育としてそういうことをさせられる。無理にそんなところに閉じ込められるのは耐えられなかった。そうやって世間のマニュアル通りに生きるのは息苦しかった。平等に扱ってほしかったはずなのに。クラスのどこにも所属しない。だいたいいつも一人だった。ふざけているグループも真面目なグループも、どちらも冷めた目で見ていた。たまたま同じ空間に所属させられた間柄で、同じ志を持っているわけでもないのに、どうして仲良しをしないといけないのか理解に苦しむ(同じ志を持っていても仲良しをする気などないくせに)。その場だけの一時的な関係に熱くなって何が楽しいんだろうと冷めた目で見ていた自分を醜いやつだと自分で蔑んで、誰かに殺されてしまえばいいのにと思う。
 誰かに殺されたら、世間の注目をあびる可能性がある。それを嬉しいと思う反面、それは恐怖だった。他人に注目されるのは恥ずかしいことで、自殺したら笑われると思っていたから自殺もできない人間が、他人に殺されてしまったらやはり嘲笑は避けられない。他人の目が怖いから誰にも注目されたくないのに、誰かに気づいてほしいと嘆く。人間は矛盾した生き物で自分がつくづく人間だと思い知らされる。矛盾していると思われる感情を、矛盾していると感じることがおそらく人間で、本当は矛盾などしていないのかもしれない。どちらかに属さないといけないと思う心がその矛盾を生む。
 大抵の人間はどちらかに、あるいはなにかに所属しているから、なににも所属できない人間は異端だと扱われるのが社会。何にも所属していない、に所属しているんだとは認めてはくれない。部活動だとか就職だとか、そういうものに全然関心を持てなかった。僕には向いていない。何かに所属する恐怖をどうして世間の人々は持たないのか不思議だった。人は何かに所属して自分の居場所を作ることに安心を覚えるなどという意見があるが、なら僕は人ではない。何かに所属しても居場所を作る才能がない我々少数派には社会は向いていない。早朝の学校にしか居場所をつくれなかった。それも二、三十分もすれば崩壊する恐怖と日々戦わないといけない。そんな場所だった。いつも不安定などこかに立って、右の世界と左の世界と、どちらかに一瞬足を踏み入れてもまた不安定な位置に戻ってきてを繰り返す。残念ながら。どんな努力も無駄と知る。試しに何かに所属してみても、結局居心地が悪くて心を壊す。それなのに簡単にそこから抜け出すこともできない少年だった。途中でやめたら笑われると、恥だと、何かを続けることもできない情けないやつだと、やはり他人が恐かった。他人にどう思われようが自分の人生を生きていいと知っていたら、こんなことにはならなかったんです。

 探索者

 探しものは見つかったけれど、永久に到達することはないんだ。
 でも、
 見つけられたのだから、悲しまなくてもいい。

 神

 きれいに遺書を書いたのに、憐れなその紙は役目を果たせなかった。
 こんなに醜い僕なんかの隣を一秒でも歩いてくれた人たち、どうもありがとう。たったその程度の短い遺書だった。今度こそ、短い遺書なら……と。よくわからない理屈だが、なんでもよかった。長かろうが短かろうが、生き延びている。
 きれいに飛び降りたつもりなのに、骨の一本も折ることもなく病室へ戻っている。また僕を縛り付ける牢獄に。軽い打撲と失神ですむのは、僕のどこかに生きたいという意志があるからだろうか。その意志が無意識のうちに身体を安全な体勢に仕向けてしまうのか。そんな意志はあるはずはないという反感が生きる意志を生み出すのだろうか。なにかを願っても手に入らないのに、願ってもいないものは手に入ってしまう。
 看護師があなたは醜くなんかないと言う。最初に遺書を見つけたのが彼女だそうだ。若くて可愛らしいお嬢さん、ごめんなさい。僕が変な気を起こさないように、きちんと見ていないといけなかったのに、それができなくて自分を責めている。残念だけれど、僕は醜い人間です。醜くなんかないって、どうして否定するんだろう。そうやって、他人をわかったふりをして、自分の正義を振りかざして……もちろんそれがあなたの仕事なのだろうけれど、申し訳ないけれど、あなたのような思考がある限り、戦争は終わらないんです。わかりますか。
 そう言おうと思っても、どうやら声の出し方を僕は忘れてしまったみたいだ。これで吃音に悩まされずにすむ。手に入るのが遅い。皮肉なことに。
 僕を醜くないと否定することは、人の話を聞こうとしないで拒絶する行為であり、今更そんな言葉には騙されない。そうやって、他人に親切にされたことを、優しさだと勘違いしたら、つけあがりやがってと拒絶する。それが人間のやり方である。人間未満の生き物には、人間と同じラインに立つことは、できない。
 棺桶からの脱出は転生を可能にするだろうか。しかし地獄を脱したら病院という地獄に転生したように、また新たな地獄へ行くだけなのだろう。本当は解脱をしないといけない。輪廻からの解脱には煩悩を捨てないといけないらしいが、解脱したいという思いが煩悩の表れであり、結局解脱できないことにつながるのではないか。そんな僕には神でも仏でも何かを信じられるということは素晴らしいことだと思えた。僕にそんなことはできないから。自分自身すら信じられないというのに。

 遠くへ行きたい

 僕は記憶力がいいから、くだらない細かいことまで覚えている。嫌な思い出を簡単に忘れることはない。その記憶が積み重なれば、人類に絶望もできる。
 忘れることは非常に難しいことだ。
 誰からも忘れ去られてしまうにはどうすれば良いのだろうか。
 他人の印象に残らないように生きなければならなかった。関わった人と積極的に縁を切った。しかし自然に。中学時代の同級生はあくまで中学生の僕の知り合いであって今の僕の知り合いではない。こちらからは連絡などしないし、連絡先なども教えない。同窓会の誘いなどというものがもし来たとしても出席するわけにはいかない。何かの行事には積極的に参加しないようにする。参加しないを積極的にする。クラス会、ゼミ旅行、そういったものは避けたい。何かの思い出と一緒に誰かの思い出になってしまうわけにはいかない。頼りにされる人間になってしまうのもよくない。本当の実力は隠して、百点取れる試験を八十三点ぐらいになるように解答する。勉強できるやつ、頭の良いやつ、仕事のできるやつ、優秀な人材、そんなものになんの興味もないから、そういうふうに興味を引かれないように行動する。他人の提案に対して、もっと効率的な手段を知っていてもなにも言わない。バカなふりをする。勉強や仕事ができてなんになるんだろう。出世して何を手に入れるんだろう。それであの人が生き返るわけでもないのに。隣人の顔も知らない都会と、誰もいない山奥と、どちらがひっそりと忘れられるだろう。
 高校生の時の同級生が、連絡をしてきた。死んでしまえと思った。僕はもう高校生の僕とは違う人間なので、気安く話しかけないでほしい。バカにするな。いつだったか、携帯の電話帳のアドレスをすべて消した事がある。誰から連絡が来ても、それが誰なのかわからないから、返信しなくて良い。見ず知らずの他人からの誤ったメールだということになる。いつまでも他人に馬鹿にされることを避けなければならない。迷惑メールも煩わしい。大学の研究室のグループの会話も煩わしい。ということで携帯の電源を切る。人間に関わってほしくないし、こちらからも関わり合いにならないようにしたい。どうしたの、と訊いてくれて、優しかった思い出も、忘れたフリをして、余計に心配させてしまう。迷惑をかけてしまう。そう思われたくはないのに。突然大学をやめてしまおうと思っても、それはそれで不審がられて、記憶に残ってしまう。
 本当は卒業式の帰りに線路に飛び込もうかとも考えていた。とても愉快だと思う。卒業なんてしてもしなくてもどうでも良かった。でも君の幸せを願ってしまった僕にはまだ生きる理由があった。忘れ去さられてしまうまでは、生きなければならない。忘れ去られたその時まで待たないといけない。そう思っていたのに、君にだけには僕の感情を打ち明けられた。話してしまえる人間だった。そんなに人間を信じてしまえている自分に罪悪感を感じる。早く人類は滅びてしまえと呪っていた少年は、この世界にも安心できる場所があるんだと、自分にそんな感情があるんだと信じられるようになった。生まれた意味はあった。
 それで十分だった。幸せな人生だった。忘れ去られてもそうでなくても、もういついなくなってもいい。
 結局二十五歳で死ねばいいという僕の想いは叶わず、二十六歳になって、こんな有様だ。いつ自分の意識が失くなったのかはわからない。誰が病院まで運んだのかはわかならない。飽食の時代を皮肉って餓死するのは難しい。何十枚かわからない告白文を、どこまで書いたのかもわからない。どうしてそんなことをしたんだろう。それが復讐になると思ったのか。突然なんの前触れもなく、死んでしまうことが復讐だと思っていた。駅のホームで普通に誰かと話していたのに電車が通過するときに突然線路に飛び込んでしまったり、そういう唐突さ。残された人にはなにがなんだかわからない。何があったのか、自分のせいなのか、と、生涯悩んでしまえばいい。それなのに、文章を残してしまっては同情や理解をされてしまう。他人にわかってほしいなどという無意味な感情を自分が持っていい人間だと錯覚していたのだろうか。
 しかし、飽食の時代を呪うのは正解だと思う。
 何を食べても同じ味しかしなかった僕には食事は苦痛だった。おそらく、食事が苦痛だったからなんの味も感じない人間になってしまったのだろうと思う。現代人は大量の食品を廃棄する。自分の好きなものだけ食べて。好き嫌いの激しい人間がいて、子どもじゃないのに食べ物に好き嫌いがある人を僕は軽蔑して、それが許される時代が許せなくて、世の中には満足に食事を摂れない人間が大勢いて、様々な食材が手に入るようになったのは文明のおかげで、食事を摂れることは感謝すべき事のはずなのに、そんな感情がない。自分が好きじゃないからと残して捨てて、食事の席で醜くおしゃべりに興じる人々。気持ち悪かった。俺はそんな人間とは違うというくだらない矜持があって、とにかく、世間に対する不快感があった。食事にいい思い出がないから、美味しいご飯を食べられることが幸せなどと言ってしまえる人間に嫉妬しているだけだ。だからこそ、あえてこの時代に、食事を摂らないで朽ち果てるという方法を選んだ。
 なにをそんなに焦っているのだ。
 食卓では、祖母が祖父にいつも小言を言っていた。共働きの親は祖母に夕食を任せ、子どもたちは祖父母と夕食を摂っていた。子どもには親が自分の役目を放棄しているように感じて、親が料理を作ってくれる家庭が羨ましかった。焼き魚をきれいに食べてしまえば、祖母は僕を褒めて、祖父の食べ方と大違いだと祖父をけなしたりした。そう思っていたとしても、子どもの前でそういうことを言うのはやめろ。敬意を払え。そして、食事中に喋るなと教えて育てたくせに、自分も喋るな。黙っていろ。二度と僕の前で口を開くな。
 小学校の給食の時間はさほど苦痛じゃなかったように思う。でも遠足などは苦手だった。お弁当を持って、おやつは三百円まで。きっとそれが恥ずかしかった。自分の弁当の中身を他人に見られるのが。おやつの内容を知られるのが。母は料理上手で、他人に自慢できる立派な弁当をいつもこしらえ、きれいに盛り付け、誇るべきもののはずだった。自分が他人に注目されることが恥ずかしかったのだろう。バカにされると恐れていたのだろう。
 食堂というところも嫌いだった。高校と大学に食堂があったが、ほとんど利用した覚えがない。人が大勢いるところで食事をするのも苦痛だった。食事をしている姿を他人に見られるのが嫌だったのだろうか。隙きが生まれるから。
 結局あれやこれやと考えを巡らせても、食事が苦痛なことに変わりはなくて、その理由が明確にならないから、余計に気持ちが悪い。
 食事の味を忘れた時に、笑い方も忘れてしまった。笑い方もわからないなら、死んでいるようなものだ。そう世間には見えるかもしれない。いつしか笑えるようになれて、笑いながら死ねることを考えたりもする。笑い方を忘れると、あいつは無愛想なやつだと、感情がないと、そんな人間には誰も近寄らなくなる。それは忘れ去られるには好都合だと思った。そして、笑わない人間には何か原因があるって誰もそれを知ろうとしないし、そういう人間を救ってくれるほど人間は優しくない。世間の冷たさをあらためて実感できて、そっち側の人間に自分はならなくてよかったと思った。そんな気持ち悪い大衆に属するのは僕には向いていない。
 そういう生き物たちのいないところはどこにあるのだろうか。

 Say it ain't so.

「この戦争が終わったら、楽になれるんかな」
「戦争?」
「うん」
「戦争ってなによ」
「人生」
「人生……」
「そんなことぐらい言わんでもわかれよ」
「……そんなこと、言わへんかったらわからへんやん」
「なんで」
「なんでって」
「友だちなんやったらそんなこと言わんでもわかれよ」本当に友だちだと言うのなら。
「わかるわけないやろ」
「そう」
「言わんかったらわからへんことだってあるやろ」
「俺が言わんかったらわからへんことを言えへん人間やってことぐらい言わへんかってもわかっとぉやろ。今更それで友だちづらするな」

 そんなことを思った

 彼女は僕の前に現れて、泣いている。美しく。
 なんでお前が泣くんだ。
「ごめん」
「なんで謝るん」
「だって……」
 僕は彼女の方に手を伸ばして、結局なにもつかまない。二人の間の空間を手に収める。
「私のせい?」
 何を言っているんだ。
「え? なんで」
 逆だよ。
「違うん?」
「当たり前やろ」
 中学の時から、すぐに泣いてしまう人だった。中学の三年間だけ同じ空間にいた。小学校も高校も違った。それでも、少なくとも十代の頃は信じられた人間は彼女だけだった。
「お前と出会わへんかったら俺は高校生の時に死んどると思う」
 彼女は涙で濡れた顔をこちらへ向けて言う。
「どういうこと? 私なんかした?」
「べつに。……ありがとう。出会えてよかった。だから十代で死なへんかったって、それをずっと言いたかった。ありがとう」
「……」何を言っていいのかわからない彼女は、少し口を開けて息を吸って、自分の握りしめた手を見る。
「なにをしてくれたわけじゃないけど」
 僕の言葉に顔を上げる彼女。こうやって正面から顔を見たのは初めてかもしれない。中学の時は近視なのに眼鏡が嫌でかけなかった。いつも風景がぼんやりしていて、高校生になってコンタクトをしたときに、世間の人間はこんなふうに世界を見ているのかとショックを受けた。
 人間なんかに優しくされたって、バカにされているようにしか思えなかったし、次の日には、昨日のそれはほんの気まぐれだったっていつも裏切られてしまう。止められないんなら優しくなんかしないで。わかったふりをして、優しくしてみせるのはやめろって。いつも思っていたんだ。
 それなのに、彼女は、
「俺の言葉を聞いてくれて、受け止めて、ちゃんと向き合うことができる。そういうふうに信じられた人間はお前だけやった」
 お前とか言ってしまえる距離感なのに、手はつかめない。
「俺と対等に向き合ってくれた人間は他におらんかった。少なくとも俺は高校生の頃そう思っとった」
 本当は会いたかった。十九歳で自分を殺した後に。でも会ってはくれなかった。ただありがとうと伝えたかったと言われても、迷惑だってわかっていたけれど。でも、元気に暮らしているなら、それでよかった。僕はその前に何もかも捨てているのだから。彼女に僕なんかを選んでほしくはなかったし、家族にも友だちにも恋人にもならないほうがいいと思った。そういう人間関係は全て清算したのだから。彼女が僕にとって重要な人間であることに変わりはないけれど。どこかで笑っていてくれるのならそれでいい。その隣にいるのが僕でなくても。
「こんなこと勝手に思われても迷惑かもしれんけど、その頃の俺にとって、すごい支えやった。俺の心を支えてくれた」
 そばに居てくれなくても。だから、今度は彼女を支えてあげられるような人間になれたらいいなって、……そう思っていい人間だとは思えなかった。
 私のこと信じてくれる人がいるから会えないと言った彼女の誠実さが好きだった。きっと彼女は僕の手を握ってはくれないだろう。
「どうしたらいい?」と訊かれるかもしれない。どうもしなくていい。誰にもどうしようもないのだから。
 そうやって僕と向き合ってくれる人がいなかったからこんな人間だし、向き合ってくれる人が一人でもいたから僕は生き延びて、今ここにいる。もしもっと早く、十五年も二十年も前に、誰かが僕の声に耳を傾けていたら……でもそれは彼女にはどうしようもない。
 光を、つかむことはできない。
 笑うかもしれない。僕のことなど忘れてしまっているかもしれない。それは僕の理想。笑われてしまえばいいと思っていたし、忘れられてしまえばいいと思っていた。
 でも、そんなに優しくは、ないんだ。
 心配したりするんだ、きっと。

 写真

 写真を撮られるのが嫌だった。と思う。
 少なくとも自分の写真など一枚も自分では持っていない。全て捨てた。
 自分を醜いと思っているから、写真を見たくなかった。
 小学生や中学生の頃はカメラを向けられても自然と笑っていたような気がする。それができなくなってから、写真を撮られることが心底嫌いになった。
 思い出がないから写真なんて必要ない。写真がないから、思い出を思い出すこともない。過去は捨てたんだから、それまでの自分は殺したんだから、そんなものは必要がなくなった。卒業アルバムは破り捨てた。一枚一枚、素手でちぎって、塵と化した。
 写真を撮るのは好きだった。時間と空間の一部分を切り取って自分の物にできる。自分だけが自分だけに共有できるもの。自分で撮って自分のものになる。否定も肯定も、自分だけ。誰も立ち入ることができない。引きこもって、閉じこもっていた僕みたいだ。フレームの外には映っていない世界が広がっているのに、自分で区切って、外に出れないようにしてしまった。
 写真は、余計なものを排除して一部分だけ切り取るから美しくもなる。その前に風景を見てからどこに焦点を当てようか主題をどうしようか、考えるはずであって、引きこもっていては、そこだけ切り取るのが正解かどうかわからない。
 引きこもっていては視野が狭くなり、焦点の当たる位置も少しだけになる。被写界深度が浅くなる。目の前のものに焦点を合わせ、背景をボケさせるだけが写真じゃない。周りをボケさせていては人生は気楽だが困難。見たくないものから目をそらすことも必要だが、向き合わないといけないこともある。近視と乱視が激しいのに、眼鏡をかけるのが嫌で僕は逃げていた。いつもぼやけた視界でわかったつもりで世界を見ていて、なんにも見えていなかった。誰も僕を見ていないだろうと思っていたけれど、ちゃんと僕を見ている人もいたかもしれないのに。
 写真は時を止めてしまって、時代の流れを感じさせる。街も人も変わる。僕の心はいつまでも過去に縛られて、先には進まない。どこかで失敗してしまったら、もう取り返しはつかない。全て正解の選択をし続けないといけないと思っている。誤った選択を何度もしているのに、何かを手に入れようだなどと、何かが手に入るだなどと思うことは許されないと思っていた。一度きりのシャッターチャンスを逃したら、二度と同じものを見ることはできない。たったひとこと誰かに声をかけるだけで、家族や友だちや恋人が手に入ったかもしれないのに、怖気づいてそのチャンスを逃してしまった。悪手の連続で予選落ちである。だから二度とそんなものを望む権利はない。あの時自ら拒んだくせに、今更何を言っても無駄である。先着五名のものを別に興味が無いからと言って見向きもしなかったのに、後になってやっぱりほしいと思っても後の祭りである。そういうものだと思っていたんだ。人生も。今の状況でしか手に入らなかったものもあるんじゃないかとわかったふりをした勘違い野郎がいるかもしれないけれど、誰も地獄など望んでいない。好きで人殺しをやっているんじゃない。仕方がなかった。自業自得であり、取り返しはきかない。クーリングオフはできないんですよ。自分の選択が誤ったからといって。
 Aという大学とBという大学があって、どちらかを選んだ未来と、もう片方を選んだ未来とでは大きく異なる。Aを選んだという選択が間違っていたからといって、Bに入り直すことは可能だが、初めからBを選んだ場合ともそれは異なる状況である。初めからBを選んだ未来に戻ることはできない。それが時間。同じ景色でも晴れの写真と雨の写真は違う。
 しかしそもそも自分の選択が間違っているという考え方が間違っているのかもしれない。そう割り切れる人間に憧れていたんだ。どんな天気でも最良の写真を撮れる能力が必要、と思うのはやめて、写真を撮る行為そのものを楽しめばよいのだ。プロのカメラマンじゃないのだから。
 そして僕はプロの人間じゃないから、最良の人生を送らなくてもよいのだ。と誰も教えてくれなかった。

 行き先

 何日目かわからない病院での生活に慣れてきた僕は、一人で廊下を歩いていても誰にも監視されなくなった。気づかないだけでしっかり監視されているのかもしれないが。
 僕が病棟内を歩き、窓から外を眺めたり、掲示物を眺めたりしていてもそれは普通の景色になった。歩くのはリハビリのためにいいと、好意的に受け取ってもらえているようだ。僕の探しものも知らないで。
 窓の外には春の花が咲いていて、僕はその花の名前も知らなかった。そして自分の無知を恥じる。全然恥ずべきことでもなんでもないのに。人間は万能じゃないから、あらゆることを知り尽くすなど不可能で、知らないことが山のようにあって当然なのだ。医者だって自分の専門以外はさほど得意じゃないはずだ。外科医が泌尿器科の事を詳しく知らなくても誰も咎めない。自分の専門分野でもよくわからないことも山ほどあるというのに。橈骨が親指側なのか小指側なのか知らなくても天文学の勉強はできる。代理ミュンヒハウゼン症候群のことを知らなくてもロックスターになれる。それなのに、僕はたったひとつの花の名前がわからなくて苦しむ。苦しんでも苦しまなくても、何にもなれないのに。
 病室には誰かが持ってきた桔梗の花。あるいは僕の幻覚かもしれない。昨日はなかったのだから。僕の昨日と世間の昨日が同じかはわからないけれど。昨日だと思っていた日が何日も前で、いつの間にか季節が変わっていても驚かない。外に咲いているのは秋の花かもしれない。階段から落ちて以来、昏睡状態でずっと夢を見ているのかもしれない。昏睡状態の人間は夢を見るものなのかどうかも知らない。
 座っていても立ってみてもいつも頭がぐるぐるして、視界が定まらない。一定の速度で、視界は動き、右から来た映像が正面で静止。あるいは顔を左に向けて少し遅れてから景色がスライドして正面に映像が来る。
 廊下を歩いてトイレに行く。廊下もトイレもパースのいがんだ絵に見えるけれど狂っているのは僕の方。トイレから出て、まっすぐじゃない階段に足をかけて、上っていく。屋上に出る扉はない。そんなことはわかっている。屋上になど出なくても人は落ちることができる。地面の感覚を失い、景色が反転する。光が闇になる。しかし、その闇の中で光が拡がっていく。ぼんやりした視界の隅に、見知らぬ花。水彩の淡い色彩の中に、ポツリとシミひとつ。気にしてしまえば、視界から消すのは困難になる。淡い色の花びらに、そんなことを思った。
 花なんてどこにも咲いていないというのに。

 聞かせてよ

 また死ねなかった。
 そう思って目が覚めた病室の空気は苦い。
 今度は遺書は書かなかったのに。
 左腕に鈍い痛みがあるのだろうと思う。痒みがある。キーボードを叩く手の甲に小さなほこりが乗って、その矮小な存在は触覚を刺激し、微弱な電気信号を脳に伝え続ける。小さなそのほこりを振り落とさねば作業に集中できない。その感覚を数倍にしたものが左腕にある。痒みのようだと思っていたそれは鈍い痛みのようであり、火傷のあとの疼きにも似ている。麻酔のせいか、僕の神経が異常をきたしているのかは定かではない。
 動かなくなった左腕を眺めて、でも、血は流れているんだなと妙な関心をしてしまった。シーツのしわやら漂うチリを眺めながら世間は冷たいなとぼんやり考えていた。
 いつの間にやら人が部屋にやってきて、僕の身体に抱きついて涙を流している。何がそんなに悲しいんだろうこの女は。人間は自分たちで、僕をこんな目に合わせておいて、勝手に悲しんでいる。よくわからない生き物だ。
 僕の名前を呼ぶ声がするが、僕にはその声がわからない。聴いたことのあるはずの声なのに。目を真っ赤にして泣いている顔を見ても、それが誰なのか僕にはわからない。見たことがある、気がする。そして、僕に抱きついて泣くくらいだからきっと親しかったのだろう。よくわからない。
 落下の衝撃による脳の器質的な問題で、他人を認識できなくなったのか、人間に見捨てられたと思ってしまっている憐れな男の脳が他人を認識する必要性を感じなくなってしまったのか。いずれにせよ、この人の名前がわからない。名前を聞いてもおそらくわからない。それが誰なのか。
 そんな僕のことなどお構いなしに、何かを言っている。ばか。バカと言ったのだと思う。そんなことは世界の常識だ。僕は微笑んでみせる。この人に以前からそういう微笑み方を僕はできたのだろうか。上手く笑えているのかもわからないけれど。
 どういう関係なのかわからないけれど、僕にはこの人を悲しませる才能があったみたいだ。残念なことに。その悲しみを信じてあげられたのか信じてあげられなかったのか、これがわからない。それが最大の悲しみ。
 僕の手を握っていてまだ泣いている。僕の生きている右手を握って。この人の手のぬくもりは知らない。初めて触れた手だ。それだけはわかる。細い折れてしまいそうなその腕。胸の辺りまでのばした髪。

 未知

 たぶん、こんな細い体で強く生きているんだ。この人は。
 餓死未遂の僕の腕より細い腕。そういえば、落ちてから食事の味を感じない。本当の意味で。今までは何を食べても同じ味しかしないと皮肉って自分に言い聞かせていただけだった。味覚というのは、液体に溶けた物資を判断するためにあるらしいと聞いたことがある。嗅覚は気体を。なにか外敵から身を守る手段として、体内に入る前に鼻や口といった最初の段階で体内に取り入れてもいいか判断するために存在するらしい。舌先で舐めて、これは体内に入れたらマズいと身体が判断して、事故を未然に防ぐ役割が味覚にはある。それがなくなってしまったのは、ついに身体を守る必要性をなくしてしまったからではないだろうか。変なものを口に入れても構わないと。それでどうなっても知ったことか、と身体が環境に適応していったのだ。
 この人はきっと美味しそうにごはんを食べるんだろう。
 なんで。
 なんで? そんなことを訊かれても、わからない。なんでこんなことになったんだろう。他人がどうなろうと知ったことかと思っていたはずなのに、この人を悲しませたくはなかったんだろうとは思う。
 僕はこの人の何を知っていたんだろう。この人は僕の何を知っていたんだろう。それすらも知らないけれど、きっと、そういうことじゃあ、ないんだ。
 今、目の前にある顔も声も身体も、触れられる距離にいる。それがどんなに素晴らしいことか、どんなに特別なことか、誰もわかろうとしない。
 どうせ触れてもくれないのに? 触れてくれたとしてもそれをそう簡単には信じられないのに? 人間なんてどうせすぐどっかに消えてしまうんだ。ちゃんと捕まえておかないと。あっさりと消えてしまったら良かったのに、それをさせない程度にはこの人のこともきっと好きだったんだ。この人も。
 友だちだったかもしれない。大親友だったかもしれない。ただのクラスメイトかもしれないし、もっと違う関係かもしれない。ただの幻覚かもしれない。そんなことはわからなくても、今目の前に現れてくれる存在なことは確かなんだ。たとえそれを信じてあげられなくても、そんな才能がないと錯覚していても、そこに存在することは事実なんだ。

 復讐

 近頃、に限った話ではないのかもしれないが、一〇代の子どもが自殺したなどというニュースに、いじめが原因か……と見出しがつくことがある。
 羨ましかった。
 明らかな死ぬ原因を他人に提示してもらえるなんて。本当にそれが原因かはわからなくとも。死ぬ理由を他人に理解してもらえるなんて、同情してもらえるなんてなんて羨ましいのだろう。
 いじめもいじめられもしない、どちらのグループにも属さない境界人にとっては、どんな理由であれ、他人に相手にされるのを憧れてしまった。いじめの対象としてしか関心を示されないかもしれないが、止めようと思ってくれた人もいるかもしれない(その思いは届かなかったかもしれないけれど)。死後に世間や国が加害者を罰してくれるかもしれない。もちろん当人にしてみればそんなものなにも望んでいないだろうが、だが、不本意だとしても新聞の一面を飾ったりして一瞬でも誰かが関心を示してくれるというのは、どんな理由であれ、それは、……憎い。
 そうだ。きっと、憎いという感情なのだ。自分は自殺する勇気もない憐れな少年で、死んでも何の関心も持たれず処理されてしまうだろう人間だと思ってしまっている。そう思えない人間になれている人間が羨ましい。死ねば逃げられるとか、楽になるとか、世間に対する答えになるのだとか、思える人間に育っていることは、恵まれたことなのだと思う。僕がそんなことを思ったとして、その感情をどうして肯定できようか。自分が持ち得ないものを持っているものが憎い。申し訳ないけれど。……申し訳ない? そんなこと、ちっとも思っていないくせに。境界のどちらもが、両者とも滅んでしまうことを何より望んでいたはずだ。
 そして、戦場で人が死ぬのは当たり前で、それを悲しむのもきっと当たり前なんだろう。戦場で人が死ぬのは当たり前なんだから、仕方のないことだからと割り切れるほど人間は簡単ではない。おそらく。
 戦争や災害やテロだのが人を殺しても、やれやれ、と思うだけなのはきっと当たり前の感情ではないのだろう。しかしどうあがいても人は死ぬ。
 死が怖いのか?
 それは未知の世界だから。生を知っているから。死が生の対極にあると考える人には、恐ろしいだろう。棒磁石のN極とS極では反対の性質を持ってしまう。初めから棒磁石の中心のあたりで生きれば、死はさほど大きな転換ではない。
 そうやって、自分の異常性を自ら肯定して、他人とは違う生き物だって、自分に言い聞かせて、自分の方から孤立するのは、自分の身を守る方法だったのだ。そういう方法しか知らないから、悲しくても悲しんでいないふりをして、興味があっても興味が無いふりをして、被害者ぶって、自分をこんな人間にしたやつらに仕返しができると、思い上がっていればいい。どうせ誰にもそんな意図は伝わらないんだよ。他人の掌の上で踊らされている自分を自分で作り上げているのだから、その他人の掌は自分の掌の上に乗っているんだぞ。踊っているのか踊らされているのかわからなくても。自分で自分に復讐をして、かわいそうな人間を一人で演じていればいい。お望み通り誰も笑いも憐れみもしないから。やれやれともおもわない。

 マリア式

 君はなにも言わないで僕の手を握る。
 僕が唯一知っている人間のぬくもりだ。
 動かないはずの左手を動かして握り返す。動かなければいいという思いが左手を動けなくさせていたようで、生き返らせることができる人間は一人だけ。
 どうしてみんな僕の手を握るんだろうと思っていたけれど、たぶん、自分にとって重要なことだから意識してしまうんだろう。そしてそれを重要なことにしたのは君なんだ。君だけはこんな醜い僕に触れてくれた。止めてくれた。放っておいたらそのまま遠い底の方まで沈んでいってしまう僕をすくいあげてくれる。
 君は秋の格好をしていて、先週京都に行ったという話をしていて、紅葉が綺麗だったけれど人が多すぎるという話をしている。場違いな話かもしれないけれど、そういう普通の話ができる。そういう力が君の偉大なところで、僕は心底尊敬している。僕が他人とどうでもいいような会話を交わせることは他人にはどうでもいいことだけれど、どうでもいい他人とはそんな会話はできない。僕が自然体で、この世界で唯一安心できる場所。未だ安らぎは世界に存在するらしい。
 僕が君の顔を見つめて、落ち着いた会話をしている。他人の顔を見つめるなんて、そんな恐ろしいことができたのはいつからだろう。他の人間に対して僕がそんなことをできる自信はない。
 君はときどき目を伏せて、僕もときどき違うところを見て、視界から消えても、手のぬくもりは確実にそこにあって、もし仮に手を握ってくれていなくても、君の存在をそこに感じられる。それを安心と呼ぶなんて君と出会うまではわからなかった。人間が存在している不安や恐怖だったものが、安心に変わる。革命だった。
 目を伏せるのは何か言いたいことがあるけれどそれを口にするべきか君は迷っていて、でもそこから逃げないで隣に存在してくれている。青いコートがよく似合っていて、ええやん、ええやろ、と話したいことではないだろうことを話す。
 例えば僕が青だと感じるものを君が青だと感じなくても、それを受け入れることができて、そうあるべきだとわかった。君と出会って。他人とは感じ方の違いがあって当然だと、ようやく理解した。すべて自分たちの感情のとおりに支配してきた人たちが異常だと知った。自分が青だと感じたものを青だと感じることに罪悪感を抱いていた少年を肯定した。罪悪感を抱くんだと伝えられることができた。そうなんだと聞いてくれた。その上で青を青だと感じてもいいんじゃないかと教えてくれる。罪悪感を抱くのを当然だともそれは間違っていると否定もしない。僕が罪悪感を抱く人間だとまず、受け止めてくれる。それがいかにすごいことか君にはわからないかもしれない。わからなくてもそれを成し遂げてしまえる君の偉大さ。
 そんなに私のことを想ってくれてありがとう、嬉しい。僕だって、人間なんか嫌いなはずなのにこんなに君のことを好きになれた。どうもありがとう。
 君と一緒に遠くへ行けたら良かった。

 戦争

 それまで観たこともない景色の中に、誰かの語る空想の中に、既視感を覚える瞬間がある。夢の中や映画の中で見たのかもしれない。それと同じ感覚の正体に、それまで気づくことができなかった。以前にも同じようなざわつきを感じたのに、君と出会うまでそれを見破れなかった。
 通り魔事件だったり、パンダの赤ちゃんが生まれたことだったり、国に対する訴訟だったり、そういった新聞の紙の中、テレビの画面の向こうは自分とは違う世界の話だった。悲しみも喜びも怒りもない。
 そう思っていた。
 でもどうやらそれは違うみたいだ。
 感情がないんじゃない。感情を表現する方法を知らなかったんだ。いや、表現する方法は知っていたかもしれないけれど、それを表現していいと思えなかった。それを許可されていないと感じていた。そしてその表現が正しいのかがわからなかった。間違った表現をしてそれを咎められることを恐れていた。
 嬉しいときにどんな顔をすればいい……。好きなF1ドライバーが初優勝したとか好きな棋士が初タイトル獲ったとか、部活で県大会に出場したとか、そういうときの人間の仕草を出来なかった。喜んではしゃいでいる姿を、他人に笑われると思い、滑稽だと思い、恥ずかしくてそんなことは不可能だった。
 ものを買いに行ったお店の店員の態度が不誠実で、怒りの声を伝える消費者がいたりするが、そういうものもよくわからない。いったい他人に何を期待しているのだ。全部が自分の思い通りにいくわけじゃない。そもそもそんなことは何一つない。昨今では、SNSですぐ、電車の遅延を嘆いたり、著名人の失言をここぞとばかりに叩いたりして自分の正義を振りかざしたりする。電車が遅れるのは仕方のないことだし、人間は失敗をする。怒りという感情の意味がよくわからなかった。不快に思うことはできても、それを行動で表現はできない。他人に対して不快な態度をぶつけている憐れな人間を観るのが一番不快だ。
 自分が不満に思っていることを伝えても、どうせ他人は聴く耳など持たなかった。他人に手助けしてほしく困っていることを伝えても誰も助けてなどくれなかった。自分はそういう身分だと知った。なにも言わなくなってしまう。表現することに意味が無いなら。
 そもそも、いまどき他人に期待など時代遅れである。親に返事をされなかった少年は、他人に声をかけても答えが返ってくるなど期待しない。むしろ、返ってこないことを期待しているのかもしれない。そうじゃない人々は勝手に他人に期待すればいい。親友だと思っていた人に恋人だと思っていた人を殺されることも人生にはあるのに、親友が親友であると期待しろ。自分の感情が他人を動かすと期待しろ。
 何度も無視された感情は、名前がなくなってしまって、選び方を忘れてしまう。悲しいときは悲しむのが正解のはずなのに、わからなくなってしまう。
 人間の真似をして笑ってみたりしても、それは僕の感情ではなかった。こういうときにはこうすればいいんだという最善手を選び取っただけだ。それを選んだはずでも、世間の基準どおりにうまくいくことはない。なぜだろうと考えてしまって、きっとそんなことを考えること自体が間違っているのかもしれないが、答えのようなものが見つかる。嬉しい時に嬉しいと思う権利がないのだ。そんな権利などないから、嬉しいと思っていることに罪悪感を抱いて、(世間の基準と照らし合わせて)十の嬉しさがあっても(そして本来七か八しか表現できないのに)、一か二の嬉しさだと思う。一か二しかないからそれを嬉しさと呼ぶのか判断がつかない。
 大学の授業が終わって、一人で帰る電車の中で、家族や友人や恋人や同僚と会話している人たちを、自分にはないものだと眺めていて、孤独を知る。たぶんこういうのを寂しいと呼ぶのかもしれない。寂しさは誰かといるときに現れる感情なんだろう。宇宙に一人で漂うことではない、敵陣に一人でいる心細さのことなのだった。
 やはり生きている人間は敵だった。本の中や画面の向こうと違って。他人の視線が恐ろしくて、他人がいる空間ではなにもできなかった。見知らぬ他人が後ろを歩いていたらポケットに手をいれることすら憚られた。ただ同じ方向に歩いているだけなのに、誰もお前のことなど見ていないというのに。自分の行動を読まれるのが恐怖だったのだろう。感情を読み取られるのが嫌だった。何かに腹を立てていては、その程度で腹を立てる器の小さいやつだと思われてしまうと思っていた。他人にどう思われようとどうでもいいと考えられるようになった今でもきっとそう。
 他人が当たり前のことをできないからといって、それで腹を立てている人がよくわからない。駅のホームで二列に並べとアナウンスされているのに全然きれいに並ぶこともできない輩が大勢いるが、そんなことはよくある。単純な仕事でもできない人はいて当然で、自分はそれができるからといって、なんでできないのと怒っている人は、自分が指導することで相手を改善させられると思いあがっているし、自分は正しい意見を述べているのだと自分を甘やかしたいだけだ。きっと自分の好きなようにさせてもらえて生きてきたんだろうと思って、きっとそれが羨ましいのだ。こうしたら効率よくできるでしょう、と他人に自分のやり方を押し付けても、その人にとってはその人のやり方があるわけで、正しいとかそうではなくて、他人の意向も聞きもしない人間が怖い。立場や事情があるにしても。
 そのくせに誰も僕を殺してくれない。否定しろ。間違っているって散々言ってきた人間たちは僕の存在を否定して、殺せ。刺せ。気に入らないなら燃やせ。そうしたら、その時になって、ようやく……。

 密室

 握手を求めて手を差し出しても、その手を払われてしまう。僕にとって他人はそういう生き物だった。そういう人間としか出会えなかっただけかもしれない。こんな醜い僕がいけないのかもしれない。
 それならば、こちらから手を差し出したりしないし、こちらから手を払う。それがふさわしいあり方。それがあなた方の望み。
 それなのに意味もなく君は僕の手を握ってくれる。廊下ですれ違っただけなのに。おはよう、おっす、おつかれ、そうやって、人の手の温もりを知ってしまう。
 君になら何もかも伝えられると思った。でも臆病な僕にはそれはたやすいことではなかった。
 習い事をやめたくてもそれをなかなか切り出せなかった。せっかく今まで続けてきたのに、高い金払ってるのに、それを自分が続けたくないからと裏切ってしまうことは最低なやつだと思われると思っていた。親の顔色なんて窺う必要なんかないのに。我慢して黙って従って、おとなしい真面目な少年を無理矢理やっても、なにも手に入らない。自分を殺し続けるだけだ。嬉しいことも悲しいことも辛いことも楽しみなことも、誰も知らない。誰に何を伝えても無視されるか笑われるかしかないなら、誰もなにも知る必要はない。今更……。家族のくせに話しかけてんじゃねぇよ。無理して家族をやろうとしなくていいのに。こちらもあなたがたの顔色をうかがうのはうんざりです。干渉するのはやめろ。この病室にいるのは他人だから。ここがどんな病棟かも知らないくせに! わかったふりをして! こんな文章を読んで! 他人の心をわかろうとするなどなんと愚かな行為でしょう。
 求めているものもわからない。
 どこに何を置き忘れてきて、どうやって閉じ込めたのかもわからなくて、必死になって探しても見つかるわけもない。
 一人で旅をして、観光地を巡って、きれいな景色を見て写真を撮って美味しいものを食べて温泉に入って、僕は一人だ。
 君と出会えたから僕の人生は孤独じゃないことに気づいて、それがこんなに嬉しい。失くしたもの、見つけられなかったものを、君がくれた。今も病室のベッドの脇の椅子に座って寝息を立てている。なんて世界は素晴らしい。

 策略

 救いではなく、罰を求めていたんだ。
 誰かに罰してほしかった。
 そして、ようやくこの世界に存在した意味を知るんだ。

 そんなふうに過ごしたい

 もう幻覚は見えなくなって聞こえなくなった。いや、それが幻覚なのか……それもわからない。こうやって何かを考えている自分だけは確実に存在するとデカルトは言っていたけれど、それは本当の自分か……? デカルトって誰だ? 本当にそんなやつ存在するのか?
 何者かに作り上げられた自分は本当の自分なのだろうか。狂気を隠す正気の仮面をつけた自分を自分で自分だと錯覚している。
 ひとつだけ確かなことは、君と出会えて僕の人生は幸せでした。

(この憐れな男は病院に運ばれることはなく死体になり、「君」は彼が最後に会ってから数日後に事故で亡くなっているが、それを知ることもないのが現実である)

人間錯覚ver.1.13

人間錯覚ver.1.13

遺書 wait for truth 106枚 disenchanted lullaby 89枚

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-07-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. wait for truth
  2. disenchanted lullaby