犀星の金魚
茸幻想小説です。PDF縦書きでお読みください。
密の哀れをDVDで見た。面白い。テレビを止め、ふと、居間においてある水槽を見ると、黒い出目金が紫色の茸を咥えて泳いでいる。
出目金のやつ私の方を見て言った。茸を咥えたままである。
「どーお、室生さんの赤い出目金魚とあたし、どっちが魅力かしら」
これには困った、なにせ、金魚のことはよくわからない。
「犀星さんは、ちょっと太ったのが好みよ」
そう言われても困る。私もそうだといっても、何言ってるの、調子を合わせて、と言われそうだ。
「あたしも、太っているけど、犀生さんの恋人ととは違って、真っ黒」
「まあ、黒いのもかわいい」
「ほんとかしらね、まあいいわ、どう、あたしも人に化けようか」
「そりゃやめておくれ」
「そうね、あんたは、犀星さんの金魚のイメージが強いから、あたしを見ると、がっかりするかもね」
「そんなことはないと思うけど、もっと、イメージが膨らんでからにしておくれ」
「そうね」
「だけど、どうして、茸を咥えているんだい」
「ふふふ、想像に任せるわ」
「どこから採ってきたの」
「ふふふ、内緒、いつか教えてあげる」
「食べるのかい」
「これ、毒茸」
「そんな怖いもの、どうするのだい」
「あんたを殺すの」
「おっかないんだね」
「うそよ、わたしには大事な茸」
「茸を咥えたままでよく話ができるものだ」
「あなたね、常識がないわね、金魚のあたしがあんたと話をするのに、どうして口でするの、考えてもみなさいよ」
確かに、金魚が人間の言葉をしゃべるわけはない。現実から遠い世界にいるのに、現実の常識を持ってくることはないわけだ。黒い出目金に教わっている自分がなんだかちっぽけに見える。
「ねえ、あんたも、物書きなんでしょ」
俺は首を横に振った。
「小説を書いているじゃない、物書きでしょ」
ただ、それを生業にしていない。好きで書いているだけで、年金生活者の、時間つぶしに過ぎない。
「あら、さみしいのね、あんたの書いた小説は、誰も読まずに捨てられるの」
「そんなことはないさ、まとまったら、本にしようと考えてはいる」
「昔の文士に憧れてるでしょ」
「そりゃあ、そういう能力がある人は羨ましい」
「いいえ、あんたは、そういう能力に憧れているのじゃない、昔の時代の、あのすさんだ文士たちの生き方に憧れてるのよ」
金魚の見立ては必ずしも間違っていない。だが、今、純粋に室生犀生の「蜜のあわれ」に感銘を受けている。ああいう幻想小説が書ければいいなとは思う。泉鏡花の茸の舞姫を読んだ時と同じ状態に陥っている。元々茸が好きなこともあり、刺激されて茸の小説を書いてみたりしている。
「そうか、黒い出目金のおじょうさん、おたくは、犀星と鏡花を結びつけるために、わざわざ、茸を咥えて、私の前に現れたのか」
「なるほどね、あんたは、そういう風に私の存在をとらえたのね、どっちも金沢ね、そんなことで出てきたのじゃないのよ、犀星さんはほんとに魚が好き、金魚に惚れている、あんたは、茸に惚れることができるの」
そりゃあ無理だ、赤いべべきたかわいい金魚と茸じゃ比べものにならない。茸が好きだが、そういう風に感情移入はできない。
「あんたね、それができなきゃ、茸の小説は書けないよ」
赤い茸と情交を通じさせろということか。
私が黙っていると、黒い出目金は、
「あーあ、退屈、ちょっと遊んでくるわ」
そう言って、ちらっと俺の方を見ると、茸を咥えたまま、忽然と水槽から消えた。
水槽を覗いてみると、水も入っていない。水ごと消えてしまった。
いや、まてよ、そういえば、この水槽には金魚どころか、生き物を入れたことがない。知り合いの雑貨屋がくれた水槽だ。くれたというより、捨てるのに困って、押しつけられたものだ。いつか使うかもしれないと、居間において、冬には蘭の鉢を入れて管理している。
今日、珍しく、ツタヤから、日本映画の新作を借りたのだが、いつも日本映画にはがっかりさせられる。ところが、これは違った。それが、密の哀れであった。いい映画に当たったものである。それで、文庫本を探して、室生犀星の密の哀れを読んだのである。
どうも、幻想小説というのは、人によっては幻想を引き起こすようである。もしかすると、よい幻想小説というのはそういうものであるのかもしれない。
出目金の白昼夢はそんなものだったのだろう。
明くる朝、キッチンで朝食をとった後、いつものように居間でテレビをつけた。熊本の長洲の町を紹介している。金魚の産地である。また金魚かという思いで見ていると、じゃあーっという音が聞こえてきた。キッチンの水道は止まっているはずだし、と思って窓際をみると、水槽に空中から水が落ちている。七分目ほど水が満たされると、黒い出目金が茸を咥えて現れた。
「お願い、助けて」
出目金が叫んだ。
「どうしたんだ」
「追いかけられているの、この茸をとられてしまう、ボウルをもってきて」
「いいよ」
私はキッチンからボウルをもってきて、居間のテーブルの上に置いた。
黒い出目金が「いそいで、私を水ごとすくって、そこに移して」と、叫んだ。キッチンからお玉を持ってきて、黒い出目金をすくうと、ボウルに入れた。
「助かったわ、ありがとう」
「どうしたんだ」と出目金に問いかけた、そのとき、ポチャンと音がして、みると、水槽の中に赤い丸まるとした金魚が私を見ている。かわいらしい出目金だ。
「あたいの旦那を返してちょうだい」
赤い金魚は私に訴えた。
「旦那って、誰」
「犀星さん」
「どこにいるの」
「あの、茸の中、黒出目ちゃんが咥えて持ってっちまったのよう」
「茸が犀星なのか」
金魚たちが遊んでいるんだ、と思った私は、「咥えて雲の上にいっちまったよ」と遊びで言ったのだが、赤い金魚は本気だったらしくて、水槽の水の中から飛び出すと、空中で尾鰭をはたはたさせて、窓を勝手に開けると空の上に飛んでいった。お尻を振る様がかわいい。
私は窓を閉めるとボウルの中を見た。
黒い出目金が紫色の茸をくわえて、尾っぽをひらひらさせている。
「恩にきるわ」
「あの赤い金魚が、蜜さんなんだね」
「そうよ」
「それで、あんたさんが咥えているのが室生犀星」
「そうよ」
「あなたの名前は、なんていうんだい」
「それは、あんたが、決めるのよ、黒蜜なんていやよ、団蜜みたいで、あれだいっきらい」
「なぜ、その茸が犀星さんなんだろう」
「助けてもらったから、教えてあげる、ふふふ、黄泉の国に生えているのよ」
「黄泉の国に茸が生えているんだ」
「そうよ、死んだらみんな茸の中にはいるの」
「それで、どうして、室星さんの入っている茸を採ってきたんだい」
「あたしも金魚の好きな旦那がほしかったから」
「蜜は犀星が金魚屋から選んだんだろう、なぜあなたは、金魚屋で旦那を捕まえようとしなかったんだい」
「あたしはね、もう死んじゃったのよ、庭の睡蓮鉢で飼われていたのだけどね、たいして金魚が好きな人じゃなかったのに、睡蓮鉢のボウフラ退治に、私と、四人の兄弟を買ってきて入れたのよ、だけど、古い睡蓮鉢でね、水は汚れる一方、兄弟の一匹が死に、二匹が死に、とうとうあたしも死んでしまったってわけ、金魚の好きな旦那には縁がなかったのよ」
こういってはなんだが、私だって、さほど金魚には興味はない。茸の方がいい。
「黄泉の国で、蜜が、あたいの旦那はこんなに金魚に惚れたんだ、と自慢していてね、だけど、あの娘、目が悪くて、犀星さんが、どの茸に入っているのか、わからなかったのよ、あたしは、ほら、あの娘より目が出ているでしょう、すぐ、犀星さんを見つけたの、この紫色の茸」
「その茸の中に犀星がいるんだ」
「そうよ、犀星さん、この茸の中で小説を書いているわ、蜜の思い出だって」
「あの世でも作家なのか」
「犀星さんは、そうね、でも人によって違うのよ、茸の中で、ぼーっとしている人もいれば、未練がましく、現世の株の上がり下がりを予想して、ため息をついたり、喜んだりしている人もいる」
自分は黄泉の国でなにをやっているのだろう。
「それで、どうして蜜に教えてやらないで、あなたがとっちゃったの」
「あたし、意地悪だから」
睡蓮鉢で苦労して、ちょっと気持ちがねじ曲がっちまったのだろう。かわいそうに。
「でも、もう、蜜に渡してあげるの、それで、私は旦那が来るのを待つわ」
「旦那ってだれだい」
「あなたに決めたの」
「どうして」
「だって、あなた、家族がいないでしょう、黄泉の国にきても誰も茸の中を覗いてくれないのよ、私が行ってあげる」
私は孤児院で育った。家族も作らなかったし、天外独り者である。黄泉でも親戚に出会うことはないだろう。
「そりゃ嬉しいが、茸に住めるのも嬉しい」
本当は、茸に住めるということのほうが、ずーっと嬉しいのだ。
「あたしね、あんたが黄泉の国にきたら、姿を変えているわね、あんたの好きなタイプに」
「そんなことが出きるのかい」
「もちろんよ、蜜さんは、そのままだけどね、動物たちは黄泉の国では好きなものになれるのよ、多くの動物は人間になりたいのね、人間の格好をして、茸の中を覗いて、茸の中の死人たちと会話をして、満足しているわ。ペットでかわいがられていた連中はそのままで、茸の中の前ご主人様と楽しくやっているものもいれば、別の茸の中の人間に飼われているものもいる。死んだペットの中には、人間の姿になって、前の主人をたぶらかしているのもいるわよ」
「たぶらかすって」
「ブルドックが見目麗しき女性に変身して、茸の中にいる前のご主人を誘惑して、ご主人の奥さん、これも別の茸に住んでいるのだけど、奥さんを嫉妬のどん底につき落として楽しんでいるの」
「どうして、そんなことをするの」
「きっと、あまりかわいがられていなかったのね、生前に」
「黄泉の国は、現世とかわらないね」
「そうね、でも、もう死なないから、気楽よ」
「黄泉の国ではよろしくね」
私がそういうと、黒い出目金は「蜜さんにこの茸返してこよう」と言って、すっと消えてしまった。同時に水槽とボウルの水もなくなった。
それから数日後である。黒い出目金は赤い金魚と手をつないで水槽に現れた。きっと、紫色の茸を返して、仲良くなったのだ。
「どう、元気、茸の小説書いている」
「ああ」
「ほら、蜜さんよ」
赤い金魚が、ふわっとした顔で、「あたい、蜜です、よろしく」と尾鰭をふわっとさせた。みんなふわふわだ。
黒い出目金も、黒い尾鰭をふわっとさせた。
「あたしも、蜜さんにおそわったの、ふわふわ」
黒い出目金も少し落ち着いたな。
赤と黒の金魚が水槽の中でダンスを始めた。
ちゅったらら、ちゅたらら。
ちゃらちゃらと水の音。それに二匹が体をあわせて、ふかふかふわふわ。
楽しそうだ。だが、金魚を見てばっかりはいられない。今日は、友人たちとの飲み会だ。
洋服に着替えると、まだ踊っている金魚たちに「またなー」と言って家を出た。
大学の時のクラスメートは三十人足らずである。そのうち三人が亡くなった。遠くてしょっちゅうはこれない人も多く、いつも集まるのは七、八人である。
飲みながら話になるのは、自分の趣味のことが多い。それはは楽しい。一般には、我々くらいの年になると、自分の病気の話が多いそうだ。ところが、みんな必ずしもからだは健康そのものではないが、頭は健康で、やりたいことをやっている。
「蜜の哀れの映画を見たよ」
私の一言で、話が盛り上がってきた。
「なんだいそりゃ」
「室生犀星の小説を映画にしたんだ、金魚に惚れた老人の話だ、よくできていたよ」
「私、学生の頃読んだわよ、犀星って、年とっても、性に憧れていた人よ、話も面白かったけど、男って年とってもこうなんだって、教わったわ」
学生の頃、ずいぶん人気のあった女の子の感想である。もうみんな、犀星さんの晩年の年齢と同じである。
「俺読んでないよ、でも金魚は好きだな、かわいいじゃないか」
庭に立派な睡蓮鉢をいくつもおいて、金魚を飼っている男だ。学生の頃はずいぶん小説めいていたものを書いていたが、大きな製薬会社の部長として活躍し、今では犬と金魚を愛でているだけのようだ。
「金魚は鮒から作られたのでしょう、鮒は寿司にしたり、食べるけど、金魚は食べられないのかしら」
いつも、素っ頓狂なことを言う、天然女子だ。七十になっても性格は変わらないものである。
「酸素の多い水で買うと、鯉ほどにも大きくなるんだってさ」
学生の頃、SFばかり読んでいた男は、変わらず、科学の信奉者のようだ。
「今、小説書いているんだって」
そう言ったのは製薬関係の出版社で編集者ととして活躍した男である。
「ああ、茸の小説」
「卒研が茸毒だったからか」
「いや、子供の頃から茸が好きだったから、大学でも茸の毒物を調べたんだ」
我々は薬科大学の卒業生なのである。私も薬剤師の資格をとって、製薬会社の研究所で四十五年新たな薬を見つける仕事をしてきた。結婚もしないでである。会社に一生を捧げたような形である。やめてからは、本当に好きなことをしようと、退職金をもとでに楽しもうと考えている。
「書いたのどうするの」
「いい自費出版の会社を見つけたから、いずれそこからだそうと思うんだ」
「たくさん新人の文学賞があるじゃない、それにださないの」
「退職してから一度だしたけど、僕の力じゃ無理だな、どんな小さな賞でも、何百人も応募するんだから、もうこの年だから、きれいな自分の本を作って楽しむんだ」
「そりゃいいね」
「でも、この年になって、室生犀星が、あんな幻想小説を書いているとしらなかったよ、今まで有名な作家のものはほとんど読んでないからしょうがないか」
「趣味が広がるのはいいね、俺なんか、温泉はいるくらいだからな、楽しみが」
「それもいいよ」
こんな取り止めもない話を楽しんで、家に帰ったのは夜十時である。
明かりを点けて、居間にはいると、なんと、水槽では赤と黒の金魚が、まだ踊りを踊っていた。
「おかえんなさい、あたしの旦那様」
黒い出目金が踊るのをやめて、私を見た。
「いい機嫌ね、だいぶ飲んだのね」
「うん、それにしても遅くまで遊んでいるんだね」
「いいえ、いったん黄泉に帰って、閻魔さんにあったのよ、そしたら、いいこと聞いたから、蜜ちゃんとまた、戻ってきたの」
「閻魔さんて、そこは地獄なのかい」
「閻魔さんは黄泉の国の理事の一人よ、偉い人、死神さんを配下に持っていてね、死神さんがみなさんの寿命をみているの」
落語じゃあるまいし、信じられない。
「信じなくてもいいのよ、閻魔さんと蜜さんなかよくなったのよ、蜜さんみるからにかわいいでしょ、犀星さん目がいいのよ、あの金魚屋から蜜さんを選んだんだから」
「あたい、閻魔さんの髭にお腹こすりつけてやったの、そしたら、閻魔さん、犀星さんと同じように、目を細めちゃって、ぬるぬるねばねば、はははははだって、たわいないの」
閻魔も閻魔だ、みっともない、もっと威厳を保て。
「それでね、あたしは、死に神を紹介してもらったの、私の武器はこの目玉よ、目をつきだして、じーっとみたら、でれーっとしちゃって、何でも教えるよ、だって」
死に神もなんてだらしないんだ。
「それで、旦那はいつ死ぬのと聞いたらね、平均寿命だってさ、よかったね」
なんだか、気持ちが悪い。
「いつと言うことはわからないのかな」
「死に神もそこまでわからないらしい」
「いいかげんなものなのだね」
「でも、平均寿命まで、なにやっても大丈夫よ、嬉しいでしょう」
「うん、計画は立てやすいな」
「よかったわ、蜜さんが、そろそろ室生さんのところに帰るって言うから、私も黄泉の国に行く、たまにくるからね」
「ああ、ありがとう」
よくわからないがお礼を言って、寝る支度をした。酔いが回ってきた。
朝日がカーテン越しにベッドに差し込んできた。目があいたとたん、昨日黒い出目金の言ったことを思い出した。寿命はあと十数年。そうだとしたら、年に一冊本を作るにして、十冊はつくれる。確かに生きる計画はたてやすくなった。今、五十までは行かないが、書いた茸の短編がある。十編ほどを一冊の本にするとして、五冊は作れる。ちょっと楽しくなってきた。まず、最初の一冊は、気に入ったものを十編集めようか、それとも、テーマごとにまとめようか。読む方としてはテーマごとの方がいいだろう。幻想性の強いもの、時代劇風のもの、SF風のもの、ミステリー風のもの、いろいろできる。最初は幻想性の強いものにしよう。
そんなことを考えていると、居間の方で水の音がする。きっと、水槽に水が満たされて黒い出目金が現れているのだろう。
パジャマのまま、居間を覗いてみると、やっぱり黒い出目金がふわふわ浮いて、こっちを向いている。
「おはよう、早く着替えてらっしゃい」
黒い出目金にいわれ、顔を洗って歯を磨き、朝食をすませて、居間に行った。
「ねーえ、後十年私はあんたを待つことにしたのよ、いいでしょ」
「うん、嬉しいね」
金魚にはさほど興味がなかったのだが、一緒にいると、なかなかかわいいものだと感じられるようになってきた。
「今日は、なかなか尾っぽのピラピラがいいじゃないか」
犀星に似てきてしまったのだろうか。そんな言葉が出るようになった。
「旦那さま、ねーえ、黄泉の国にきたら、どんな茸に住みたいの」
好きな茸はたくさんあるが、オーソドックスだが、モレイーユがいいかな。
「編傘茸なのね、何色がいいの」
編傘茸に色が付いているのだろうか。
「紅いのがいい」
「いろんな茸が生えているのよ、色だって現世のものと違っていろいろあるの、透き通ったのもあるわ、光が当たるときれいよ、マリリンモンローなんて、透明の絹笠茸に入っていて、いつも、わーおなんて、スカート押さえているのが外から見えるの、死んだモンローファンが透明の絹傘茸のまわりに群がっているわ」
死んでからも結構楽しそうだ。
「黄泉の国では本を作ることもできるのだね」
「もちろんよ、犀星さんは、黄泉の国で金魚の幻想小説を出しているわよ、きれいな装丁の本で、犀星ファンが遠くから、犀星さんの住んでいる茸にやってきて、サインしてもらって帰るのよ」
「出版社があるのかな」
「いや、全部手作り、どのようなものでも形になるのよ、黄泉の国ではね」
「それじゃ、現世より楽しいじゃないか」
「そうね、早くきたくなったでしょ」
「でも、寿命まで生きなきゃいけないんだから、後十年はあるよ」
そこへ、赤い金魚が水槽の中に現れた。蜜さんだ。
赤い尾っぽのピラピラがかわいい。二匹でふわふわダンスをを踊りだした。ちゅらたっった、ちゅらたった。見ていて飽きない。
赤い金魚が踊りながら言った。
「犀星さんがね、あんたさんがきたら、小説の書き方を教えてもいいって言ってるわ」
それは願ってもないことである。
「でも、寿命が決まっているようで、すぐ行けない」
黒い出目金と赤い金魚は顔を見合わせると、
「早く来れるように、なんとかしてあげようか」なんて言っている。
黄泉の国に行けば、室生犀星ばかりではなく、いろいろな作家に会えそうだし、自分の本も出せそうである。今よりもずーっと楽しそうだ。
「何とかするってどうするのかな」
「死神に何とかしてもらえるわよ」
「寿命を変えるのかい」
「うん、そうして欲しければ、明日にでも寿命にしてもらうわ」
「苦しくないならそれもいいな」
黒い出目と赤い金魚はつんたかた、つんたかたと、水の中で尾を振っている。
「あたしも、長く待っているより、すぐ来てもらった方が楽しいな」
黒い出目金が潤んだ目で私を見た。ちょっと、どきっとして、「うん、まかせたよ」
そう言った。そう、簡単には行けるはずはない。
金魚たちはしばらくふわふわ泳いでいたが、急に見えなくなった。黄泉の国に帰ったようだ。
その日は自分の書いた小説から、最初の一冊にするものを選んで、目次を作ってみた。表紙は赤い茸の写真にでもしてもらおうか。出版社に頼めばやってくれるだろう。
楽しい作業で、一日が暮れ、本ができたときのことを想像して、何かうきうきして、ベッドに入った。
明くる朝、目を覚ますと、果てしなく広い草原に立っていた。至る所に自分の背の二倍もあろうという茸がニョキニョキ生えていた。色とりどりで、いろいろな種類があった。
まさか、黄泉の国にきたのだろうか。そう言えば黒い出目金が寿命を明日にしてあげようかと言っていた。死んだのだろうか。草原を歩いていくと、紅い編傘茸が生えていた。入り口があり、自分の表札があった。これが、自分の住む茸なのだろう。
空の上の方になにやら大きなものが浮かんでいる。だんだん下に降りてくる。真っ黒な魚と、真っ赤な魚だ。降りてくるにつれて、あの金魚たちであることがわかった。
「あたしの旦那さん、きてくれたのね」
飛行船のように空に浮かんで、二匹でダンスを始めた。ふわふわつんたった。
「僕はどのように死んだんだろう」
「心臓麻痺よ」
「痛かったのかな」
「ちょっとわね、でも覚えていないでしょ」
確かにそうである。
黒い出目金が目を近づけてきた。目の大きさがわたしほどもある。吸い込まれそうだ。
「だんなさん、編傘茸にお入りなさいな」
そう言われたので、網傘茸にはいってみた。中は二階建てになっていて、へこんで薄くなっているところから外の景色をみることが出きる。机が用意されており、PCもある。ここで、小説を書いて楽しめということだろう。
中から空をみることが出きるが、二匹の金魚は楽しそうに、空中ダンスをしている。また、黒い出目金がよってきて、網傘茸に目を近づけた。
「ねええ、住心地良さそうでしょう」
「ああ、おかげさまで」
「私にも名前を付けてちょうだい」
前から、つけてあげようと思っていたのだが、なかなかいい名前を思いつかない。犀星は金魚にいい名前を付けたものだ。蜜に勝るものを考えることは、今は難しそうだ。犀星ほどに金魚に執着がないからかもしれない。黒い出目金は赤い金魚より、大人の魅力がある。コケティッシュといってよい。艶かしさがある。そうだ艶(つや)にしよう。
「艶はどうだい」
「あら、いい名前、艶のあわれって小説書いてよ」
黒い出目金の口がつきだされた。大きな口だ。犀星は金魚と口づけをしているが、私にはぜんぜんその気が起きない。
「あたしだって、あんたと、口付けする気なんてないわよ」
周りがぐらぐらっと揺れて、尻餅をついてしまった。
黒い出目金が私の入った紅い編傘茸をくわえたのだ。
「どこにつれて行こうというのかね」
艶は返事をしない。蜜が「ねー、艶ちゃん、私にも半分ちょうだいね」
「いいわよ、犀星さんが入っていた紫占地より、うちの旦那が入った網傘茸の方が美味しいかもしれないわね」
赤い金魚ががぶっと私の入っている網傘茸にかみつき、半分引きちぎった。私は茸の中から滑り落ちそうになったのだが、艶の口が私ともども残りの茸を飲み込んだ。
黒い出目金の胃袋の中でひっくり返っていると、艶と蜜の話し声が聞こえる。
「確かに編傘茸は美味しいわ」
蜜の声だ。
「あの旦那、大した味じゃなかったわ、平凡、でも、網傘茸の味はいいわね」
「小説書くような男は美味しくないよ、犀星もまずかった」
「そうね、今度は政治家にしよう」
「うん、総理大臣の入った茸は美味しいでしょうね」
「お腹壊すかもね」
「あ、閻魔様よ」
「おー、死神たちか、いつもよく働くな、死ぬ人間を黄泉の茸に導いて、死人の入った茸を処分する、大変な仕事だよ」
「いえ、美味しくいただいております」
「そりゃ役得だな」
金魚の胃液が私を溶かし始めた。金魚は魔物だ。水槽の金魚を我々が鑑賞しているのではなく、金魚がどいつを黄泉につれていこうかねらっているのである。
とうとう、一冊も茸小説の本を出すことができなかった。
犀星の金魚