鬱喰い

 貘が夢を喰うように、鬱を喰う生き物がこの世にはいるのだそうだ。金色の大きな唇で鬱を喰われたら、さすればその者は救われる。幸運なことに私の住むアパートの隣室に『それ』はいた。
 私は運が良かった、他愛のない情報なんてSNSの下らないパクリアカウントでたまたま覗いたものであったし、そんなものは夏の怪談ですら抱腹絶倒するような陳腐な噂でしかないと思っていた所に、向こうから現れてくれたのだから。
 『それ』は統計学上で好青年と分類されるような男性だった。目元が隠れるほどに伸びた前髪が後ろに流れ、切れ長の瞳がよく映える。身長は日本人の平均身長ほどだろうか。彼は朝はスーツを身に纏って出勤し、決まった時間になれば帰宅する。そのルーチンを崩した様子はない。
 端正な顔立ちが装飾の一部であったことを、誰が想像できただろうか。スーツのジャケットがソファーに置かれ、夢に出るほど見惚れた顔が実はマスクで、首に手を掛けたらそんな面影がひとつもなかっただなんて。頭部も何もあったものじゃない、金色のやたらでかい唇がぽっかりと浮かぶだけだなんて、誰が想像できた?
 何故そんな情報を知っているのか、と言えば私が異常であるからに他ならなかった。異常を異常と認識できているからまともかと言えばそうでもない。やはり私はおかしい女だった。
 彼に惚れた腫れたの衝動で彼の部屋の合鍵を作り出し、留守の間にクローゼットに忍び込んでいたのだから、私はどう考えてもまともではなかった。
 しかし彼はそれ以上にまともではなかったし、そもそも『彼』なのかすら怪しいもので、気が動転した私は思わずクローゼットから飛び出していた。彼(と取り敢えず定義しておこう)は驚くこともなく、困ったかのように腕を組んでみせる。きっと私は殺されるのだと思った。そうでなくとも警察に通報される、どの道終わったと、漠然と思いながらもだらだらと冷や汗を流していた。
 しかし彼は最終的に快く迎え入れてくれた。警察に通報するわけでもなく、取って食うわけでもなく、自分を柔らかな座布団に座らせて、紙パックのレモンティーにクッキーを差し出してくれた。
 私はと言えば惚れた男の部屋に不法侵入を試みたところ、彼が人あらざるもので、しかも「少し待ってて」と言って台所へと姿を消されたもので、僅か数時間ほどで浴びせられた膨大な情報量に、私はクッキーにすら手をつけられず、手のひらに滲む汗をスカートに擦り付けていた。
「僕ね、お腹が空いているんだ。ご飯を食べて良いかな」
「あっ、は、はい」
 彼の声は正確に言えば人体から発せられる音声とは程遠かった。朝に挨拶を交わす時は何処にでもある男性特有の低声であったが、今の彼は水琴窟のころころとした音が音を紡いでいた。しかし五十音を奏でているわけでもない。私は何故かそれを言語として、音声として認識できている。そして意思疎通も可能で、彼は台所から笑い声を立ててカチャカチャと陶器や金属の硬質な音を立てていた。
 姿を消して僅か数分、トレイに載せられていたのはまっさらな無地の皿が一枚とカトラリーのセット。それが静かに真っ白なローテーブルに載せられる。しかしそこには食物の類は一切見当たらない。メッキを塗りたくったような唇と食器を交互に見比べると、彼は並べたカトラリーを手にし、ナイフを空虚に押し当てた。
 ナイフが引かれ、かつかつと食器と擦れ合う。何等分かに切り分けるような仕草の後にフォークが刺さり、黄金色のぎらぎらとした唇はぱっくりと開いた。歯並びはとても良かった。歯まで金づくしで、その奥は人特有の粘膜の赤色は存在しない。洞窟の暗がりのような黒が広がるばかりだ。
「……」
 何を食べているのだろうか。レモンティーが注がれたグラスはうっすらと曇り始めていたのに、一口も口にできないまま、私は彼の手元を凝視している。そこに何もありはしないのに、彼はさもあるかのようにゆっくりと噛み締め、数十回ほど咀嚼て飲み込む、そんな動作を繰り返していた。
 試されているのだろうか、やはり私は食べられてしまうのか。否、それとも彼は噂の鬱喰いなのだろうか。
「クッキーは苦手だったかな、ごめんね」
「あ、いえ、そ、そうじゃ、ないんです。えー、あっと……その」
「ああ、君のしたことは咎めないよ。興味があることは悪いことじゃない」
 それが人なんでしょ。彼はそう付け足しながらも口を動かす。食べ方は今まで見た男性の中で、彼が一番丁寧な所作だ。しかし彼は相変わらず透明を食べている。皿には何が乗っかっていて、それはどれくらいの質量で、どんな味がするのか、何ひとつ見当が付かない。それにどう足掻いても私にとっては彼は惚れた存在に変わりなく、滑らかな節が浮き立つ長い指先から目が離せない。
 妙に落ち着き払っている自分がいる。恐怖よりも彼が目の前にいるという現実が強過ぎて、脳みそがショートしてしまう。爆発したっていい。私はどうしたって彼に近付きたかった。荒らげる呼吸をどうにか抑えようと、やっとレモンティーに口をつける。酸っぱくも何ともない、紅茶風味の砂糖水は今ばかりは私の味方だった。
 一気に飲み干した時に小さな氷の欠片すら喉元を通っていった気がするが、それすらどうでも良かった。ビールよろしく、グラスを思いきり置いて前のめりになると、眼前に広がるくすみがちの黄金が照明で更にぎらついている。不健康な輝きと裏腹に、彼は肩を震わせては背中を丸めてしまった。驚かせてしまったらしい。
「えっとあっと……、貴方を怒らせ、たらごめんなさい。鬱を食べて生きてるって、本当ですか」
 無意識に出た言葉に、彼は唇の端をやんわりと持ち上げた。吃って早口な問いにも関わらず、彼はしかと聞き届けるとカトラリーを皿に置き、頬杖らしいものを着いてみせる。彼からは焦りも何も感じられなかった。寧ろ彼は待ち侘びていたかのように、自らも身を乗り出してみせた。顔ならぬ唇が近い。金属製なのか、唇には自分の興奮した姿が歪んで反射している。
「うん、そうだよ」
 声帯をどう震わせているのかすら解ったものではないが、彼は間延びした声で答える。肩幅より一回りや二回りは小さいが、唇の奥では冬に燻る煙のような、焦げ付いて寂しい香りが漂っている。彼の胃の腑では人々の憂鬱が燃やされ、灰にでもなっているのだろうか。
 それならば殊更、私の憂鬱を喰らって欲しかった。この人がたとえ異形の人であったとしても、焦がれた相手が私に芽吹いて育った憂鬱を摘んでくれるのなら願ってもいないことだった。
 図々しくも彼の手を両手で握り締めた。金属のようにそこまでキンと冷えていて、幾ら汗ばんだ手で触れようとも熱が伝わることすらない。ロボットの類なのかも疑いもしたが、彼からは音という音が何ひとつ聞こえてきやしないのだ。ただひとつ、木枯らしみたいな呼吸音を覗いては。
「食べてくれませんか、私の鬱。たくさん、たくさんあります」
「君の憂鬱?」
「はい、苦しいんです。とても、苦しくて。だから私、貴方に」
 彼には届いただろうか、浅い傷が規則正しく並んだお行儀の良い左手首が。彼に視覚があるとしたら興奮と懺悔に満ちた私のどうしようもない顔がみっともなく映ったことだろう。慢性的な憂鬱からの解放か、擬似的捕食によって彼を得たいからなのか、実はそれすら関係なくて、私は理性を失っているのかもしれない。荒らげる息は最早隠し通せる筈もなく、彼はこちらをじっと見据える。そして彼はゆっくりと首を傾げた。
「ねぇ、君。僕が誰の憂鬱を主食にしているか解るかい?」
「ひぇ、いえっ、わから、ないです。でも! そのお陰で誰か救われているんじゃないですか?! でなきゃ噂にもなり、なりませんしっ、それに」
「……それは見当違いってやつかなぁ」
 彼は俯いた途端、手を振り解いた。大袈裟なまでに吐かれた溜め息は皿へと吹き掛かり、真っ白な皿は煤けていく。先程の呼気よりも鼻腔がじくじくと痛むような強烈な臭気だ。思わず鼻を摘むと、彼は皿の上にあるであろう鬱の一欠片を拾い上げ、あんぐりと大きな口を広げて放り投げる。
 奥の奥で、悲鳴のような音が響き渡っている。
「僕は自分の憂鬱しか食べられない、そんな罰を受けているんだ。他のどんな飲み物やお菓子を食べたって真っ黒焦げになった何かの味にしか感じない。まあ憂鬱が美味しいかって言われたら、何ひとつ美味しくないんだ。だって食べてるのは憂鬱だよ、美味しいわけがない」
 彼はフォークを空間に突き立て、またひとつ、またひとつと憂鬱を平らげる。それでも手も口も止まることはなかった。中肉中背である彼の腹は膨らみ始めており、嬰児を孕んでいるかのようにふっくらと丸みを帯びている。
 それでも食べることを止めなかった。違う、彼は止められないのだ。
「だからごめんよ。君の憂鬱は食べられないんだ」
 死刑宣告の通達さながらの告白に、私の中の熱は急激に冷めていくのを感じた。彼に幻滅したからではない。鬱喰いという行為が万人に喜ばれる貴い行為でもなんでもなく、世界の何処かの意志による刑罰。たったひとりを戒めるだけの呪われた食事でしかないということに気付いてしまったのだ。
 生きるために食べよ、食べるために生きるなと何時ぞやの先人は宣った。私には到底意味が解らなかった、私は食べることが好きだったから。それでも彼は食べるために生きてる、『生かされている』。
 彼がどんな生き物で、彼がどんな罪を犯し、そして今に至るのか想像もつかないし、私はきっと、暴こうだなんていう、彼の内側を暴く行為に至れないのだろう。私が刃物で左手首を戒めるように、彼は自分の憂鬱を生み出し続け、そして喰らい続けなければいけない。
 鬱喰いは有難い存在でも何でもなかった。彼は私が思うより魅力的で私を誘惑し続ける甘い生き物でもなかった。彼も私も、己を傷付けて生きるしかないだけの、憐れな生き物でしかなかった。
「……ああ、また憂鬱が増えちゃったね。また暫くは生きるしかないみたいだ」
 膨れていく、膨れていく。彼の腹の中に宿るのは明日の彼の朝ご飯だろうか。そして人の振りをして人に紛れて、彼は何を得るのだろう、何を失うのだろう。それすら私には予想だに出来ずにいた。
 彼の呼気がクッキーを汚す。そして炭化していくクッキーは私達の心でもあった。彼がきっと食べたかったものを、私は目の前で噛み締めることはできないし、彼が食べてほしいものは、私は食べてやることはできないのだ。
 ごめんなさい。そんな途方もない謝意すら、消化された憂鬱の残滓が灰まみれにしていった。

鬱喰い

鬱喰い

鬱を食べてくれる生き物がいるんだって。その噂通り、その生き物は存在した。そう、私が住むアパートの隣に。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-07-26

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