連載 『芥川繭子という理由』 31~35

昔から、架空のバンドを創作して妄想するのが好きでした。自分の理想とするバンド、そのメンバーならこんな事を話すだろう、こういう風に生きるだろう、そんな思いを会話劇にて表現してみました。既に完成しており、かなり長いです。気長にお付き合いいただけると嬉しいです。

連載第31回。「真ん中とオフ」

2016年、10月25日。
雑談、神波大成。
都内某所にて、「焼肉を食べながら」。



-- 夢みたいです。これってデートですか?
「あとで織江来るから聞いてみなよ」
-- 怖くて聞けないです(笑)。すみません、わざわざ個室用意していただいて。本来ならこちらでセッティングしないといけないのに。
「なんで? いいよ、いつものスタジオや会議室だけだと飽きちゃうしね。良かったね、たまたま空いてて」
-- 他のメンバーも来られますか?
「呼ぶ?」
-- いえ、大丈夫です。
「これ経費で落とすからさ、一応呼んどかないと文句言うかな」
-- 言わない人達だと思います。…繭子は言いそうかなー。
「そうかもね(笑)」
-- こないだ話したんですよ。
「繭子?こないだ宣言してたアレだろ。プライベートな所に突っ込んでくって」
-- はい。
「あ、もう食べな。待ってる意味なんてないから」
-- すみません。…違う違う、私がやりますんで、大成さん食べて下さいよ。
「そお? じゃあもっと乗せて」
-- はい(笑)。
「例えばどんな話してんの?」
-- 使えない話ばっかりです(笑)。具体的なエピソードもそうですし、ちょっと誤解を与えかねないような関係性だったり。
「んー、何だろ」
-- 前に、普段休みの日とか何されてるんですかーとか、他のメンバーと会ったりしますかっていう質問したじゃないですか。
「うん」
-- 繭子に聞いたら、翔太郎さんと歌を歌ってますって。
「宅録のこと?」
-- そうです。結局後で翔太郎さんに聞いたら、昔からやってる事で別に何もおかしな話ではなかったんですけど、繭子って意外と男女間の話グイグイ来るから、どこまで本気でどっからが冗談なのか分からなくてドギマギしました。まあ聞いてる私がこんな事言えた義理じゃないですけど。
「あはは、そりゃそうだ。まあ確かに、そういう所あるね、あいつ」
-- 結局プライベートで会うのって、男性同士ではなくて、繭子と誰かというパターンが多いのでやっぱり繭子目線の話になりがちです。
「多いのでというか、会わないよ、休みの日は」
-- 全くですか。
「用がないとね。ギター直してくれとか、機材調整してとか、そういうのはあるけど」
-- それもどっかで音楽が絡んでくる用事なんですね。
「そうだね。別に会いたくないとか意固地になってるわけじゃないけどね。それでも格好良いライダース見つけたから見に行こうぜ、なんて話しにはならないな」
-- あはは。でも繭子は別なんですね。用がなくても会ってるみたいな感じでしたし。
「うん、家が近いし、飯食いに来てるからね。知らない間に来て知らない間に帰ってる事もあるし。でも泊ってった事は一度もないんだよ、変だよな」
-- それは、おふたりに気を使って。
「それもあるだろうけど、なんかちゃんと線引きがあるみたい。あいつの中で、甘えて良い部分と甘えちゃ駄目だって考えてる部分と」
-- へえ、そうなんですね。やはりしっかりした人ですね。
「こっちは何だって構わないんだけどね。ただ帰るなら帰るでちゃんと言わないと、送ってってやれないからさ、ヒヤっとするよね」
-- 優しいですね。
「織江が怒るからな」
-- かかあ天下ですか。
「古いなあ。まあでも、そうだと思うよ」
-- 想像つきませんね。
「ん? 亭主関白な感じする?」
-- いえ、織江さんが主導権を握るお姿がです。
「お、意外とそうだろ?」
-- はい。なんか、織江さんて社長でマネージャーで仕事も出来るお人なのに、偉そうな部分がどこにもないですよね。
「あー、嬉しいね、ちゃんと見てくれてる」
-- あはは。皆さんに合わせて砕けた口調でお話されている時ですら、私腰から下がとろけそうになるんです、あの方の優しい目で見られると。
「それ話違わない?」
-- すみません(笑)。なので、かかあ天下だと言っても、ちょっとどんな風なのか見えないですね。
「結局さ、どっちが上とか下とか考える事もないんだよ。織江は仕事中もそうだけど、絶対人に対して偉そうにしないし、偉そうな事言わないし。口煩くもないしね」
-- 理想の女性ですね。そんな人世の中にいませんよ。
「あはは、そうだね。だから余計に、あいつが言う事は素直に聞けるというか。これはちゃんと聞かないといけない事だろうなって思える。例えその場で理解できてなくても、あいつを信頼してるから」
-- 凄いですね、そんな話サラっと言えちゃう大成さんが凄い。
「なんで?」
-- 本当に勉強になります。竜二さん、翔太郎さん、大成さん、3人ともタイプが違うのに、共通して男らしさと優しさがあって、はっきり物が言える人達です。人として大切なものを持ってる方々なので、話をするだけで一冊の本を読む以上に学ぶ所が多いです。
「ダメダメ。他人の話なんて盛ってるに決まってるし、そいつ自身にしか意味ない事なんだから。何も参考にしちゃ駄目」
-- インタビュアー殺し(笑)!
「気をつけなよ、本当に」
-- 肝に銘じます。
「バンドマンなんてロクなやついないしな」
-- なんで自分の首絞めてるんですか(笑)。
「フフ」
-- 大成さんから見て普段の繭子ってどういう印象ですか? ドラムセットから離れた瞬間、彼女は大成さんにとって何になりますか。
「何それ。繭子は繭子だよ」
-- そうですよねえ。
「何だよ。気持ち悪いなあ。あ、それがいい、それハラミ?」
-- いえ、ロースです。
「ええ」
-- ハラミはこっちです。だんだんと見えてきたのが、皆さんと繭子って、等しく彼女を大事に思っているんだけど、接する時間や態度ってちょっとずつ違うんだなって。
「そりゃそうだろうね。生活スタイルも違うし、別にこっちもあいつ中心に時間回してるわけじゃないし」
-- あ、繭子言ってましたよ。以前のようにお酒飲んだり、ご飯食べたり、誘ってもらう事が少なくなったんだって。
「そうなんだ。え、そうなの?」
-- 私は知りませんよ(笑)。
「飯食いに来るかって言ってると思うよ、しょちゅう」
-- 大成さんがですか?
「…あー、ないわ。織江だもんなぁ」
-- 何でなんでしょか。そこは意識したことあります?
「ない。ってか竜二とか翔太郎もないの? 意外。翔太郎なんか特に言いそうだけど」
-- 確かに、そうですね。
「あ、そう思う? やっぱちゃんと見てるんだね。あいつ分かりにくいけどさ、めっちゃくちゃ優しいだろ?」
-- はい。最初怖かったですけど、最近キツめに言われる言葉すら優しく聞こえてくるようになりました。
「あははは! それは重症だ。いや冗談抜きでホントにね、そうなんだよ。色んな所でよく気が付くしね」
-- 大成さんもそう見えますけどね。
「俺なんて全然だよ。昔からヒョロヒョロでそんな印象持たれてるみたいだけど、一番繊細なのはやっぱり翔太郎。だから、ちょっと意外かな、その話は」
-- 大成さんヒョロヒョロでじゃないですよ。でも、竜二さんは意外じゃないんですか?
「うん。あいつはねえ、ドンとしてるよね。気が付いたら周りに人がいるタイプ。誘うより誘われるタイプ」
-- ああ、なるほど。
「あいつほとんど家にいないしね。いっつもどっかで誰かと会ってるし、飲んでるね。業界の人間とはほとんどつるまないけど、畑違いの奴とか意外なつながりで顔広いし、あと後輩の面倒見がいいからね。それはそれで尊敬するよ。俺昔からそういうの苦手だし」
-- そうなんですね。という事は皆さん敢えて気を使って、繭子に声をかけないわけじゃないんですね。
「気を使う理由なんてないからなあ。だから感覚としてはほかのメンバーと同じだよ。なんでわざわざ休みの日に会うんだよって」
-- 嫌なんですか(笑)。あんな可愛いのに。
「嫌じゃないよ、でも明日も明後日も会うじゃん」
-- そうなんですけどね。全然話違いますけど、翔太郎さんてお酒強い話よく聞きますけど、喧嘩も強いんですか。
「なんで?」
-- 想像付かないなって。
「俺とか竜二はつくの?」
-- はい。
「へえ」
-- 強い、っていう顔ですねえ。
「うん。キーマンだよね。あいつのいる場所に必ず勝ちが行くような」
-- ええ、凄いですね。
「単純に腕っぷしも相当だけど、ああ、そういやこないだ見たね。びっくりしなかった?」
-- しましたよ!どんだけ怖かったか!
「あははは!ごめんね。あれはもう、仕方ないよね。ははは」
-- はははじゃなくって、もおー。
「だから例えばアキラも入れて4人で誰が一番だってのは分からないよ。でも俺が一番やりたくないのは翔太郎だね」
-- 相性の問題ですか。
「そうだろうね。多分、予想だけど最後の最後に立ってるのは竜二だと思うんだよ。でも翔太郎が誰かに負ける姿を想像できないんだよね。ひっくり返って意識がないみたいな状態見た事ないし。でも珍しいね、喧嘩の話とか嫌いじゃなかった?」
-- 嫌いですよ。でも皆さんの事はちゃんと理解したいので、全部知りたいんです。
「そっか。…でも翔太郎、最近どう?」
-- え?
「ちょっとは元気になってきてる?」
-- …ええ、泣きそう。…泣きませんよ!
「なんだよ、変な人」
-- でも一時期よりは全然笑顔ですよね。今はちょっと忙しすぎるっていうのも理由としてある気がしますけど。
「そっか。誠がいた時はさ、あの2人ってホントに繭子を構うのが好きだったから、しょっちゅう3人でいるの見かけたんだよ。今それがないからさ、誘われないっていう繭子の話聞いてちょっと、ドキっとした」
-- ああ、でも全然凹んでる感じでは言ってなかったですよ。口を尖らせる程度の軽いスネ方です。
「そ。良かった」
-- 繭子自身が自分から誘ってるんじゃないでしょうかね。ついこないだも翔太郎さんの部屋で宅録したみたいです。
「うんうんうん。だから俺からしてみたら、そうなんだよな。繭子が今、翔太郎の側にいてあげてる感じなんだろうね」
-- これまで自分がそうしてもらったように、という事ですか。
「うん。ん?…ああ、よく知ってんね」
-- ああ、そうかあ、そう見ると、ああ、そうかあ。
「フフフ。なんで2回言ったの」
-- いや、私下衆だなあって。
「なんで?…ああ、2人の間に何かあるんじゃないかって?」
-- まあ、はっきり言っちゃうとそうです。
「別にあっても良いんじゃない?その事でお互いが傷つかないなら、いいと思うけどね」
-- いやあ、そうは言ってもそこはホラ、バランスというものが。
「なんかあってくれた方が楽なくらいだよ。任せて大丈夫なやつだし」
-- でも以前、織江さんが『翔太郎は一途じゃない』って言ってましたよ。
「あははは!いつの話してんだよ。あー、笑った」
-- 今は違いますか。
「ご存じの通りなんじゃない。そもそもあいつ異常にモテるからね、周りから寄ってくるんだよね。だから一見しただけじゃ分からない状況も多かったし、何をもって一途かも分からないけどさ、少なくとも自分の女傷つけるような男ではないよ。面倒臭がりの所があるから誤解を生むし、取り繕うような真似もしないから勝手に傷ついてる女の子は一杯見て来たけどね」
-- そうなんですね。
「結局は誰も、誠には勝てなかったんだろうね」
-- あははは、あの人やっぱり無敵だなあ。
「そうだね、そう思う。うん、アレを越える人間はそうそういない。でも俺は嫌じゃないな、翔太郎と繭子なら。まあ、なんだかんだ言っても付き合いはしないと思うけどね、今更」
-- そうなんでしょうか。
「うん。でも慰めたいと思う気持ちくらいあっても普通じゃない。それだけの付き合いはあるし。良いと思うよ、オッサンと三十路前の女が適当に遊ぶくらい」
-- 身も蓋もないっす。なんか、全然色気ないっす。
「あははは。でもまあ、それもないだろうなあ、あそこは。2人とも優しすぎるよ。ほんとに」
-- そういうもんですか?
「だと思うよ。結局、自分が気持ち良くなる事を優先するか、相手の尊厳を大事にするかって言ったら、お互いが相手の事考えて手を出さないタイプだよ」
-- うわ、凄い説得力。本当に大成さんて、お話上手ですよね。
「なんだよそれ(笑)」
-- ごめんなさい、職業病です。
「ましてや別れたとは言え翔太郎の横にいたのは誠だしね。相当ハードル高いぜ、誠って存在は」
-- 激賞じゃないですか、先程から(笑)。でも、繭子も負けてはいないと思いますけどね。
「あはは、いやいや。繭子が悪いってんじゃ全然ないし、あれはあれで凄まじいけどね。でも翔太郎の相手ってなったら話にならない、全然勝負にならないと思う。あいつの、誠の側に一週間いてみなよ。その凄さが分かるから」
-- そうなんですか。まだまともにお話出来たのって2回ぐらいなんですよ。自己紹介程度のお話と、アキラさんとの思い出を少しお伺い出来たぐらいで。もったいないなー。
「いつかまた会えるよ。俺はそう思うね」
-- へえ、大成さんがそう仰るならそんな気がしてきました。
「今なんでか知らないけどURGAさんも割と近くにいない?」
-- そうですねえ。だけどそこはちょっと名前をあんまし出せないですねえ。
「マジすぎてって事?」
-- いやいや、他事務所ですし、許可取ってないですから。一方的過ぎてご迷惑だと思います。
「そっかそっか、織江に怒られるからやめよ」
-- はい。あのう、以前一度お伺いしたと思うんですけど。大成さんは織江さんのどこに魅かれて、お付き合いされたんですか。
「どこ。…どこって、どこ?」
-- そんな顔されても。あ、目、大丈夫ですか。全然、サングラスしてくださいね。
「ごめんね、煙が」
-- あ、こっちのおしぼり使ってください。
「ありがとう。…ううーーんと、ほんと普通の話になっちゃうけど、自分の中での基準というか」
-- はい。
「ワールドスタンダードって勝手に言ったりするんだけど。そこにいる人なんだよね、織江って」
-- ワールドスタンダード。
「うん。良い意味でど真ん中。そういう意味のスタンダード。特別何かに秀でているとか、世界一可愛いとか、世界一頭が良いとかまではいかないと思うんだけど…何で笑うの?」
-- いえ、私には世界一なので。
「もう、どうしたいんだよ、あいつを(笑)。でも、痒い所に手の届く丁度良さっていうかね。なんか平凡な印象になっちゃうと、全然そういう意味じゃないから違ってくるんだけど。例えば、…なんだろうな。街歩いててさ、知らない女の子とすれ違うとするじゃない。それでその子が、割とお洒落な、雑誌に載ってるようなコートを着ててさ、良いなあ、ああいう服をサラっと着こなしてる子は素敵だなって思ったとするだろ。でさ、パッと自分の隣を見るとさ、ちゃんとそういう人なの、織江って」
-- あはは!それ相当凄い事ですよ!街で見かけた素敵な女の子みたいな女性が自分の彼女って、最高じゃないですか!絶対一度は妄想する男子の夢じゃないですか!
「そうなのか(笑)。うん、そういう嬉しさってあるよね。だからきっと織江も、街で素敵だなって思われてると思うし。自分で言うの変だけど、仮に俺を除いたとしてもさ、強烈に個性的な人間に囲まれてるじゃない?」
-- そうですね。
「その中で見る織江の普通さっていうかど真ん中さって、却って凄いなって思うんだよ。そういうのが、今ルックスの話で例えたけど、中身もそうなんだよね」
-- 中身のワールドスタンダードとは?
「さっき言ったみたいな、偉そうにしないし、押し付けないんだけど、消極的ではないし、なんならアメリカ人とだって笑って渡り合えたりするだろ? そういうバランス力の中心にある強さって、鍛えて出来るとか考えて出来る事でもない気がするんだよね。そこが、織江のもともと備わってる凄さだと思う」
-- 確かに、真似は出来ないですね。
「色々な感情や物事の正否がちゃんと見えてて、抑制力の効いた態度で真正面から向き合えるって、普通出来ないからね。特に俺達4人はね(笑)。だから自分にはない王道の感覚も持ってて、恥ずかしい言い方すると真っ直ぐで凛とした綺麗な人が、俺みたい奴の隣にいる事の有り難さって、なかなか本人には言えないけど、ずっと思ってはいるよね」
-- しかも出会って20年以上経つのに、その思いがずっとあるって、相当魅力的だという証拠ですよね。
「尊敬できるよ。それに、俺が言うのは変なのかもしれないけどさ、織江ってホント誰にでも優しいんだよ。そういう所もね、見てて気持ちがいいよな」
-- 独占欲とかないんですか? 自分にだけ優しくしてればいいんだ、みたいな。
「ううん、嫌かな。やっぱりそれが普通なの?あ、面白いのはね、前にそういう話になった事があって」
-- へえ、恋バナもするんですか。
「や、そういうんじゃないと思うけど。また誠の話になっちゃうから使えないかもしれないけど、あいつって俺や竜二と話す時と翔太郎と話す時とじゃ全然顔が違うわけ」
-- あー、はいはい。女の子の顔ってことですよね。
「どう違うかは分からないけど、なんか扱い違うじゃねえかって竜二が言ってて。当たり前でしょって誠も笑って返すんだけど、でもいくら考えてもさ、誠が俺達を邪険に扱ったり差別的な態度で落差を付けるなんてことは一切ないわけ。それこそ織江みたいに、誰の前でも同じ態度だし、良い子だなって皆思うんだよ。だけど翔太郎の前になると全然違うんだよ。なんだ?あれはどういう仕組みだ?って」
-- いや、だから、さらに可愛くなるっていう事ですよ。皆さんの前では標準仕様の関誠。その時点で良い人。でも翔太郎さんの前ではウルトラ関誠。超絶可愛いモード。
「どういう事?」
-- え、どういうって言われても。
「何が言いたいかって言うと、竜二も翔太郎も俺も、自分にだけ優しくて、他の人間にはそうじゃない女の子を好きになれないんだよ。本来他人に冷たい人間が自分の前でだけ可愛い子ぶっても気持ちが悪いっていう風に見えちゃって」
-- 本当はそうですよね。
「そうだよね。変じゃないよな?」
-- はい。
「誠は明らかに翔太郎を特別扱いしてんのに、それを俺達はなんとも思わないし、嫌な気にならない。でもほかの女の子がそれをやるとイラつくんだよ。この差は何?っていう話を前にしたことがあるんだけど、これ恋バナ?」
-- そんな真面目な顔で言われても。恋バナ、ではないのかなあ。心理学的な話ですか?
「いまだに解明できないんだよ」


そんなこんなで、伊藤織江が到着。
仕事を終えて現れた女は、とても充実した笑顔で神波にお疲れ様を告げ、私に微笑んだ。
そして私の隣に膝を折って座ると、そっとおしぼりで私の口元を拭った。その優しい力加減に、私は骨抜きになる。すみません、お恥ずかしい、と頭を下げる私の肩に手を置いて立ち上がると、微笑んだまま神波の横に座りなおした。
「飲んでるの?珍しいね」
「飲む?」
「うん。じゃあ、いただこうかな」
-- さっきまでずっと織江さんの事話してました。
「なに、嘘」
-- 本当です。
「仕事の出来るスーパー女社長って?」
-- あはは、それもありますけど、とても魅力的な女性だと、改めて2人でベタ誉めしてました。
私の言葉に、伊藤は隣の神波をじっと見つめる。
何も言わない彼女に、神波が少し動揺して「なんだよ」と小さな声で言う。
「再現してください」
-- あははは!
「私、見ても聞いてもないのに喜べないよ?」
「別に喜ばすために言ってないよ。後で見せてもらえばいいじゃない」
神波がテーブルの上のビデオカメラを指さして言うと、伊藤は目を丸くして私を見る。
「家でもこういう感じなんだよ?はっきり言わないの、寂しいよね?」
-- そうなんですか。じゃあ、もうこれひっくり返るかもしれませんよ。
「嘘ー、今見るー」
「待てって。とりあえず食べな、腹減ってるだろ」
「あはは。じゃあさ。えーっと、時枝さんが一番印象に残ってる話、もしくは一番『これいいなあ』っていうセリフ!」
といきなり伊藤が私を指さして言う。
-- え、え、えーっと、『ワールドスタンダード』!
「…何?」
(一同、爆笑)



2016年、10月26日
雑談、池脇竜二。
会議室にて、「PV撮影旅行記を見ながら」。


-- 竜二さんって壁ありますよね。
「え?初めて言われた」
-- そうなんですよ。私も最近気付きました。
「壁ェ?」
-- 意識して人を遠ざけるとかされない方ですけど、でもある程度の距離から近づけない壁とか膜のような物があります。
「ちょっと傷つくな」
-- すみません!
「あははは!」
-- もー。…なんて言うんでしょうね。そのう、どーんと突っぱねられる感じじゃないのが分かり辛い原因なんですけど、意外と竜二さんて一人でいる方が好きなのかなーって思う事があるんですよね。
「今日なんかグイグイ来るな、どした、グイグイ来てる」
-- すみません、いきなりネガティブなイメージぶつけられても困りますよね。
「孤高の存在みたいで格好いいな」
-- やはり、そういうのはどこかで自覚されますか?
「自覚なんかねえけど、一人でいるのは嫌いじゃねえよ。ただでさえずっとメンバーといるからな、うん、もしかしたらそういう感覚もあるかもしれねえな」
-- 大成さんが、竜二さんは気付くと周りに人がいるタイプだと仰ってましたが、誰かと騒いでいる自分と、一人でいる自分と、どちらが自然体ですか?
「いやあ、切り替えるだけであって、どっちも自然だろ」
-- スイッチングされているわけですか。
「どっちがオンオフじゃなくて、人と盛り上がるモード、自家発電モードっていう切り替えがあるだけ」
-- また話変わってきてるじゃないですか。なんですか自家発電て。
「あはは!下ネタ行けるねえ」
-- おかげさまで、庄内で慣れたのもあります(笑)。
「あいつもなあ。…ちょっとハゲた?」
-- あははは!どうなんでしょうかねえ、聞いておきます。普段あまり家にいないという風にお伺いしたのですが、休日は何をされてるんですか?
「休みの日は寝てる事多いぞ、結構。普段練習終わりはそのままだと眠れないからたいてい飲んでる。ヘロヘロんなりながら」
-- そうなんですか。それは、興奮で?
「そうそう、体は疲れ切ってんだけど、意識がもうギンギンに尖ってるから。でもそれは俺だけじゃないと思うけどね」
-- 普段の練習終わりだと確かに、皆さんテンション高いですものね。特に竜二さん。
「毎日毎日ぶっ倒れるまでやってた時もあったけどな(笑)。それだと次の日に影響して思うようにはパフォーマンスが向上しないっつーか、効率が悪くて」
-- 当たり前ですよ(笑)。
「本当はでも、やりたいんだけどな」
-- いやいや、もう、…狂気(笑)!
「うははは!」
-- 練習終わりのお酒はご褒美ですよね、そうなると。 真壁さんや渡辺さんですか。
「とか、昔のツレとか」
-- 他のバンドマンと交流はないんでしたっけ。
「ないこともないけど、そもそもバンドマンて顔合わすとすぐ音楽の話するだろ、どこどこのバンドからギター抜けたらしいよ、とか、あのバンドの新譜聞いた?とか」
-- はいはい、日常会話がそんな感じですよね。
「くっそつまんねえよなぁ!」
-- もー、怖いー。返事出来ないー(笑)。
「俺そこらへんはマジでどうでもいいし興味ねえんだよ。バンドマンが外で音楽の話するって意味分かんねえ」
-- ええ…。
「違う?」
-- 私は、普通だと思うんですけどね、あくまで個人的にはですが。それはバンドマン同志でも嫌だという事ですか?例えば別のジャンルでお仕事されてる方と同席していて、自分のバンドの話ばかりするわけにはいかないっていうお考えでしたら、納得なんですけどね。
「俺は逆だな。そもそもテメエの事を意気揚々と喋ったりはしないけど、違うジャンルの相手とならいくらでも話聞いてられる。けど同じジャンルの奴と飲んでて音楽の話されても『うるせえなあ』ってなるし、言うし」
-- 言うんですか(笑)。でも少し、分かる気がしてきました。相手に興味を持てるかとうかっていう事なんでしょうか。
「それもそうだし、例えば何のジャンルであれバンドマンが俺に音楽の話振って来て、俺はそれ聞いて何を思えばいいんだよ」
-- 何をって…。
「んん?」
-- えーっと、…曲作りにちょっと行き詰っててー。
「知らねえよ(笑)」
-- あ、こないだ出たアルバムがもう会心の出来で!
「おめでとう」
-- (笑)、えー…、解散、するんです…。
「お疲れさまでした!なんだそれ!あんた本当に記者か!?」
-- あははは!すみません、テンパりました!
「けどまあ大体似たり寄ったりでよ。そもそも他人の出す音にそこまで興味を示せるんなら、テメエで音楽なんかやってねえよ」
-- なるほど! それでは、バンド内でも音楽の話はされませんか?
「それはまた別だろ、仕事なんだし。今俺がバンドのボーカルで、毎日気が狂ったように歌ってギター弾いてってのを繰り返してるのは、他人が作る音楽に興味ねえって事の表れでもあるけどさ。じゃあ音楽嫌いなんですかって言われちまうと、そんなわけねえし」
-- 確かに(笑)。あえて外で音楽の話するなんて、オフの時間にならないじゃないかと。
「まあな。でもまあ、オンオフの話で言うと、オフがいらねえよそもそも」
-- あ、休みがいらないと。
「うん。もうオッサンだし疲れもたまるから寝たいのは寝たいけどな。常に眠たいし(笑)。んー、でもそれぐらいかな。疲れるから寝る。それが俺のオフ。あとはもうオンでいいな。歌ってるか、バンドの事考えてるか、酒飲んでるか」
-- お酒はオフじゃないですか。
「仕事仕事! バンドの事考えながら飲んでるから」
-- (笑)。みんな心配してますよ、翔太郎さんもですけど、お酒飲みすぎじゃないかって。
「最近量はそうでもねえよ、俺は。それを言うならマジで翔太郎だろ。酒も煙草もイクし」
-- 竜二さん吸われませんものね。
「クロウバーの時までは吸ってけどな。織江に釘刺されてやめたんだよ」
-- なんて言われたんですか?
「世界に行くって言い出したのはあなたでしょ、って」
-- うわ(笑)、ぶっとい釘ですね。
「そりゃあもう、痛い痛い」
-- 織江さんの話で思い出したんですけど、以前から皆さんの中で、もっと繭子を認めさせよう、ちゃんと注目させよう、みたいな戦略というか、お話をされてたじゃないですか。
「おお、うんうん」
-- でもその反面、織江さんて繭子をとても女性として扱っているし、守ろうとする意志も強いと思うんです。ファーマーズでも、ニッキーに対して食ってかかるぐらい、女性的な魅力を前に押し出すのを嫌っているというか。まあ、ファーマーズ側の提案は確かに突拍子のない話でしたが。
「うん」
-- その辺りで、メンバーと織江さんの意見が対立する事はなかったですか。
「ねえよ、全然」
-- そうなんですか。
「別に俺らも繭子を女として注目させようと思ってるわけじゃねえしな。最初のうちは誤解されるかもしんねえけど、そこを恐れないで一回きっちりあいつを見てみろと。どうだよ、格好いいドラム叩くだろ?って、そういう考えだから、それは織江も分かってんだと思うよ」
-- なるほど。
「そもそも織江に関しては、逆に俺らが色々相談しすぎてる部分が多くてさ。うるせえな!ってなった事があって」
-- ええ、本当ですか?
「マジでマジで。こないだ繭子が入れ墨の話しただろ?あれとは別に、俺も大成もそこそこ入れてんだけど、最初のうちは毎度織江に『彫っていい?』『この絵とか字は大丈夫なやつ?』とか聞いてたもん」
-- もうどこまで本気なのかわかりませんよ(笑)。何故そんな事聞いてたんですか。
「だってあいつ一応社長じゃんか。俺ら所属アーティストじゃんか、俺らしかいねえけど」
-- はははは!
「でもいきなり、うっせーなあってマジ切れされて。私はプロデューサーじゃないんだから、自分達の演出は勝手に自分達でやってくれって。マネージメントもやるし責任も全部取るから、舵取りは自分でやれよって」
-- 男前だなあ。
「正論だよな。ッハ!ってなって。確かにそうだ!ってなって」
-- (笑)、止まらなくなるそうですね。
「あー、うん、一時期そうだった。ただ翔太郎がよ、あいつも彫ってるくせに…何つーか、説教じゃねえけど、上手くブレーキ掛けてくれて」
-- 何と仰ったんですか?
「その内全身墨で覆われて、お前誰だよって言える日も近いなって」
-- ふぁー(笑)。
「なんか、考えちまって、俺も大成も」
-- なるほど。増える過ぎるタトゥーが、自分を覆い隠していくって言う発想なんですね。
「そう。癪だけど、一理あるなって」
-- 確かに、言われてしまうとそうかもしれませんね。自己表現とか投影のはずなのに、そこにあった本来の自分を覆い隠すっていう発想は、ブレーキになりますよね。ちなみに竜二さんはなんて彫ったんですか? Pのフレーズは。
「へたくそか!」
-- まだ誰にも聞けてません(笑)。
「聞きたい?」
-- 正直言うと、よく分からない感覚ですね。知りたいような、でも触れちゃいけない事のような。
「うん?」
-- 皆さんの事は全部知りたいんですけどね。でも、そこを知ってしまう事で、知りすぎてしまう距離感の怖さってあると思うので。
「なんか、分かる気はするけど」
-- それはプライベートな話というよりは、とても大切な共有の思い出だし、宝物だと思います。そこは皆さんだけの物なんじゃないかって思うと、例え聞かせて頂いた所で処理しきれない感情に襲われる気がするんです。
「うんうん。…じゃあ俺だけ教えたげよーか?」
-- え?
「俺のを聞いてさ、判断したら?前も言ったけど、俺はタブーなんてないから」
-- 仰ってましたもんね。…そうですか、じゃあ、竜二さんのPだけお伺いしてみようかな。まず、どこに彫ったんですか?
「ここ」
-- こめかみですか!?
「うん、痛かったー、ここ彫るの。一回髪の毛全部剃って」
-- あー、うわわ、鳥肌が(笑)。では言葉はなんと?
「POOR」
-- え?…あ、あー。そうか、そういう方向なんですね。ありがとうございます、教えていただいて。
「どうする?あいつらにも聞く?」
-- ちょっと、無理ですね。聞けないです。
「あらま」
-- 気に入ったフレーズを彫った若気の至りとは話が違いますものね。それはあなた方の大きな優しさの象徴であって、繭子が味わった苦悩を一緒に背負わんとする十字架なわけです。好奇心で手を出していい話とは思えないです。
「そんな大した事じゃねえよ!照れる事言うなって(笑)」
-- でも繭子は絶対軽く捉えてませんよ。
「そうなんだよ、言わなきゃ良かったんだよな。誠がペラっと言っちまいやがってさあ、まあ、仕方ねえっちゃあ仕方ねえけど」
-- 誠さんが言っちゃったんですか。
「おお。まあ、アレに気付くのは誠しかいねえもんなあ」
-- …え、まさかとは思いますけど、私の変な想像が万が一当たってたら、翔太郎さんの彫った場所ってとんでもない場所ですか。
「(爆笑)」
-- 嘘ー!?
「まあまあまあ、そこはあえて触れないでいてやろうか。…お嬢ちゃん顔が赤いぜ?」
-- やめてくださいよ、セクハラですよ、…今更ですけど(笑)。
「あはは、でも良い笑い話にはなってるよなあって思うんだ。なんだかんだ、それだけ考えてやったことだし」
-- と仰いますと。
「そのー。色々あったからね、繭子。多分、普通に記事には出来ねえ事なんかもいっぱい経験してんだよ。それでもさ。それでもあいつの人生の一部に変わりねえし、忘れたくても綺麗さっぱり忘れる事はできねえだろ。なんかの拍子で思い出して苦しくなる事だってあるだろうし。そういう時にさ、俺らみたいなバカが大馬鹿やった思い出が、そんな苦しい記憶の横に一つでも多くあれば、少しはマシになんじゃねえかって。それだけだよ、こんなもん(タトゥー)は全然大したことない」
-- 泣かないと決めたので泣きませんけど、私は今絶叫したいくらい心が叫んでます。
「あはは、詩人じゃねえかあ、良いねえ」
-- 繭子は本当に素敵な人たちに巡り合えて、良かった!
「俺達だってそう思ってるよ」
-- これ、あんまり言い過ぎると読者やあなた方を知らない人間に余計な誤解を与えるので本当は控えないといけない話ですけど、どのぐらい繭子が皆さんを大切に思ってるかっていうと。
「ああ、それ言わないでやって。知ってるから。もうずっと前からそういう事言ってるの、知ってるから」
-- あ、すみません。私最近知って衝撃を受けてしまって。
「だろうねえ。まあ名誉のために言っておくけど、一回もそういう間違いはねえよ。少なくとも俺とはね」
-- はい。
「俺達自身はなんとも思ってねえ。乱交バンドだって思われたって書かれたって屁でもない。人間的な判断なんてどうでも好きに思ってもらったらいい。俺達の人生になんの影響もねえからな。問題は繭子の将来とあいつの両親に不名誉があっちゃマズいって、それはあるけどな」
-- そうですね。きっと皆さんならそう考えるだろうなって思います。
「だからほら、俺らの曲に詳しい時枝さんならピンとくると思うけど」
-- え、何ですか、曲名当てすか。得意ですよ。
「今俺が言った言葉が関係してそうな曲のタイトルはなーんだ。ヒントは、そこまで古くありません」
-- 分かりました。
「早えなあ」
-- いやだって、分かり易いですよ流れ的に。『&ALL』の2曲目『4P』ですよね。
「おお、当たり。スゲなあ、嬉しいよ」
-- でも良かったです。ずっと、もしかしてそうなのかなと思いながらも聞けないじゃないですか。違ったらただの赤っ恥だし。
「確かに(笑)。曲としては全員のソロパートがあって、一塊に混じり合って突っ込んでいくイメージだから、別にエロいだけの歌じゃないけどな」
-- 歌詞はどうなんですか? 直接的な表現されてましたっけ。
「直接的ではねえかも。だから海外だとどういう意味なんだ?ってしょっちゅう聞かれた」
-- なんて答えるんですか、その場合。
「フォープレイ」
-- プレイヤーのPLAYですか?
「でもいいし、祈りのPRAYでもいいし」
-- なるほど、頭良いですね。…あ、Pじゃないですか。
「あ、ほんとだ」
-- PRAYにすればよかったじゃないですか。
「そうかもな(笑)。まあ、でも、格好良い言葉彫ったら、ダメだろ」
-- めっちゃ格好良い笑顔ですね。ああ、ダメだダメだ。ほああああ!
「なんだよ(笑)」
-- なんでもないです。『END』はアルバムに収録されないって本当ですか。
「うん。…いきなり(笑)」
-- 勿体ないですよねえ。
「っつーか、URGAさんに悪いよな。ピアノアレンジも歌入れもお願いしたのに、世に出さないかもしれないってな。俺はそれで構わないけど、いい曲だよなっていう客観的な思いもあるし」
-- 次のアルバムのおまけってマユーズの曲とPVですよね。そこに収録されてはどうですか。
「そういう案もあったけどね。でもそれはなんか違うんじゃねえかなーって。ブツかるというか、ボヤけるというか」
-- なるほど。難しいですね。なんとかして世に出したいなあ。
「あとはベスト盤出せっていう話もあって」
-- ああ、ビクターからですよね。それ前から話ありますよね。
「良く知ってんな。けどどちらかと言えば、そっちの線が強いかな。ボーナストラックか、ボーナスCDにして」
-- 私ずっと出したくないんだと思ってました。ベスト盤嫌いというか。
「あはは、確かに好きではねえな。商売っ気が見えすぎるしな。そこだけ聞いてバンドを知ったような顔されるのも嫌だしよ。でも普通にメタルファンとして、好きなバンドのベストが出ればなんかちょっと嬉しいっていう心理も分かるしさ。今回ビクターとも切れちまうし、恩返しじゃねえけど、置き土産ぐらいはっていう雰囲気にはなってきてるよ」
-- なるほど。これまた有意義な情報をありがとうございます。
「忙しくなるよまた。アルバムも作る、マユーズの曲も作る、ベスト盤も作る」
-- PVも録る、ベスト用に新曲1、2曲入れる、『END』のPVも作る。
「おいおいおい、仕事増やすな(笑)」
-- でもきっとやるんでしょうね、あなた方は。普通の物は作りませんものね。
「『END』はやらねえよ。それはやらねえ。新曲は入れるかな。金払う奴に申し訳ねえし。PVってなんのPV?」
-- え、マユーズです。
「ああ、それはまあ、繭子頑張れ!」
-- そんな他人事みたいに(笑)。…でも実際そうですもんね。
「他人事とは思わねえけどな。けどそこはホント楽しみにしてんだよ」
-- 私もです。
「もう、全部やって欲しいっつーかよ」
-- 全部と仰いますと。
「可愛いも格好良いもクールなのもめっちゃくちゃにぶち込んで、全部やって欲しい。あいつはそれが出来ると思う。もうこの先女の子がどんなPV撮っても越えられねえくらいの壁を作って欲しいんだよ」
-- 良いですねー!大賛成です。
「その前に曲作らないといけねえな」
-- 楽しそうですねえ。お忙しいのに。
「忙しいのは嫌いじゃねえよ。だから楽しいよ今。やる事一杯あって、全部面白い。あ、インタビューはBillionで限界だけどな」
-- 足を向けて眠れません(笑)。感謝しかないです。
「庄内にまたスタジオ来いって言っといて。また飲もうって」
-- 分かりました。あー、結局仕事の話になってしまいました。今回結構突っ込んだプライベートの話をお伺い出来てたんですけど。
「他の奴ら?」
-- はい。でもなんでろうな。竜二さんの笑顔見てると、そこらへん曖昧になります。プライベートとか、仕事とか、関係ないくらい全部目の前にある気がします。
「っはは、良い事言うじゃねえか。今日イチ嬉しいよ」
-- え?
「ありがと。俺はそれでいいよ。それがいい」
-- ごめんなさい、今だけホントごめんなさい。クッソ格好良いなー!!
「あははは!」

連載第32回。「お守り」

2016年、10月31日。
雑談、芥川繭子。


-- こないだ書店でね。ある雑誌の表紙を見てて思ったの。
「うん。なんの雑誌?」
-- バイク雑誌かな。そこそこ有名雑誌でさ、「アーティスト×バイク」みたいな特集だったと思うんだけど、その雑誌の表紙がね、私の全然知らないミュージシャンなの。女の子なんだけど。
「うん」
-- 誰だよ、と思って。
「っはは、悪ー」
-- 普段書店とか行く?
「本屋?行かない。読む時間ないねえ」
-- そっか。書店もそうだけど、そもそも繭子って生活臭ないよね。
「え、そうかな。普通にスーパーもコンビニも行くよ。こないだも竜二さんと買い出しに深夜スーパー行ったよ」
-- それは生活臭とは別の話だよ。ショップは?服屋さん。
「行かない。衣装以外は貰い物が多い。なんで?」
-- そういうお店行くとさ、色々目にするじゃない。例えばさっき言った雑誌の表紙だったりさ、ポスターだったり、広告だったり。
「そうだね」
-- 全部繭子がやればいいのにって思っちゃうんだよね。私は今Billion編集部としてドーンハンマーに関わってて、完全に入れ込んでる状態でしょ。だから私は繭子贔屓になってて、世の中の色んなアイコンに全部繭子を当て嵌めたくてイライラするの。
「病んでるじゃん(笑)。なんでそんな?」
-- もっとよく見ろ!お前らの目はどんだけ節穴だ!ここにいるだろ!誰よりも輝いてる女が!って。
「あははは!おー、熱狂的な信者がここにいる」
-- でも、ハッとなって。その雑誌の表紙の子は私知らないけど、少なくともその子は誰かにとって特別で、だからそこにいるんだろうなって思ったわけ。
「絶対そうだよ。少なくとも私なんかより凄い人なんだと思うよ」
-- いやいや。あ、またいやいやとか言ってるし。
「懲りないね」
-- だけど私思うんだ。この世界入って10年だけど、まだまだ知らない音楽があって、知らないバンドがあって、知らないアーティストがいて、そういう人達が中心になって回ってる世界がこの世に一杯存在してるんだなって。
「そうだね」
-- 繭子はさ、音楽は世界を変えられると思う?
「はい?」
-- 音楽は国境を超える、言葉の壁を超える、世界を変えられるってずっと叫ばれ続けてるじゃない。だけどこの世の中から戦争はなくならないし、差別も、いじめも、なくならないじゃない。私は音楽に何を求めてるって聞かれたら、『快感』としか答えられないんだ。繭子は、音楽の力をどこまで信じてる?
「んー」
-- 何を信じてる?
「…よく分からない」
-- そお?
「うん。世界を変えたいと思った事はいし、何かを信じてるから続けてるわけでもないしね」
-- そっか。
「ごめん。優等生な答え出来なくて」
-- 謝る事ないよ。
「ホントはその方がファンも喜ぶし、雑誌も売れたりする?」
-- そんな安易な事はないよ(笑)。まあ、ファンは喜ぶかもしれないね。
「じゃあ、代わりに最近嬉しかった話するね」
-- うん。
「これは私、意識して言ってこなかったんだけど、私皆が思ってるよりクロウバーが大好きなんだよ」
-- え、うん。いいじゃない、何で言ってこなかったの。
「だって翔太郎さんが拗ねるかもしれないでしょ」
-- (笑)。そんな小さい人じゃないよー。
「そうなんだけどね。それでもなんかね。でもこないださ、言ってたじゃない。もともとはクロウバーは竜二さんと翔太郎さんが始めたバンドが最初なんだって」
-- そうだね。
「私、あ、繋がったー!って思って」
-- メンバー同士がね。
「え? あ、そうか。それもそうだし、私がクロウバーの曲で一番好きな曲がさ、『アギオン』なの。知ってる?」
-- うん。繭子が好きだって言うのは初めて知ったけど、曲は知ってるよ。ライブで大合唱になるようなロックナンバーの名曲だよね。
「そうそう。私あの歌にさー、もう、どれだけ助けられたかっ」
-- そうなんだね。
「うん。嫌な事があった時は、必ず口ずさんでた。楽しい時にも、心の中で大声で歌ってた。今でももしかしたらこの世の中で一番好きな歌かもしれない。それぐらい、思い入れの強い歌なの。お守り。クロウバー時代ってさ、メジャーだったからなのか知らないけど、曲名が英語なのにカタカナ表記だったり、英語の歌なのに日本語タイトルだったり、ちょっと変わってたでしょ」
-- うん。なんか実験的だなって思ってた。
「ね。『裂帛』っていう名前の英語のバラードがあったりね。『アギオン』もカタカナだし、逆に意味が分からないんだよね。歌詞は英語だから読んでも理解出来ないし。だけど竜二さんの歌声がね、めちゃくちゃポジティブに響くの」
-- いい歌だよね。
「ねえ。なんかね、大手を振って町中を闊歩しながら大声で歌ってるイメージなの」
-- あはは!ハードロックバンドなのに!
「そう!変なんだけどね。当時の私にはそう聞こえたの」
-- へえ。面白いね。どういう歌詞だったか調べたの?
「調べてない。結局そこは、重要じゃないし」
-- どうして?
「私にとっては、辛い時とか悲しい時とか淋しい時や泣きたい時に、私を元気にしてくれた歌だから。それ以上の意味なんてないもん」
-- そっか。そういう事が大切なんだもんね。
「そう。でね、繋がったって思ったのはね、その『アギオン』」
-- どういう事?
「私が高校を卒業する時卒業式に皆が来てくれた話、したでしょ? 翔太郎さんがバイクで送ってくれた話」
-- うん。
「あの日、あの人黒のライダース着てたんだけど、バイクに乗せてもらった時に背中を見たらさ、手書きでデッカく書いてあったの。『アギオン』って」
-- え!
「うん。…ああ、この人もだって。やっぱりこの人も私を元気にしてくれる人だって」
-- そうかあ。
「もちろんそれだけで泣いたわけじゃないけど、でも涙止まらなくなっちゃって。そもそも当時同じバンドのメンバーなのは分かってる事だから、言う程ミラクルな話でもないんだけどね。その時は単純に、翔太郎さんも『アギオン』を好きな事が嬉しかったり、色んな感情で泣いちゃったんだけど。ついこないだよ。ね、ほんとに何年越しかに、私の大好きな『アギオン』とクロウバーと翔太郎さんが実は繋がってたんだって知って、嬉しかったの。…っていう話」
-- 最高だよね。それは最高に嬉しい話だね。
「ああああ、ごめん。また思い出しちゃった。ごめんなさい」
-- いいよいいよ、そりゃそうだよ。うん。
(中断)


(再開)
「さっきの話で言うとさ」
-- うん。
「音楽はこの世界を変えないと思う」
-- うん。
「でも私の世界を守ってはくれた」
-- うん。
「私があの時代から眼を背けずにいられるのは、『アギオン』がこの世にあったからだと思う」
-- そうだね。そういう意味では、音楽は無限の力を持ってるね。
「そうかも」
-- 凄いねえ。
「寒くなってきたね」
-- え?ああ、もうすぐ冬だね。
「ライダース大活躍ですねって。実は昨日また翔太郎さん家行って歌入れしてきたの。その時、本当に今トッキーに話した事をそのまま翔太郎さんにも話したのよ」
-- あ、そうだったんだ。最近嬉しかった話って、昨日の話なの?
「んーん、そういうんじゃないけど。でね、まだ持ってますかって聞いたらさ、分かんないだって」
-- ええ、そこはサっと出して来て感動的な話にしてほしかったなあ。
「あはは、そんなもんだよね。10年以上前だし、いくら革ジャンったって何着も持ってるだろうし、そう言えば一緒にバンドやりだしてから見た事ないやと思って。もうないのかもしれないね」
-- あ、それを分かってて敢えてはぐらかしたのか。覚えてないって事がまずないもんね。
「ねえ」
-- 昨日は何歌ったの?
「昨日きつかったー。遊びの域を超えた声出したもん」
-- なんで(笑)。
「次のアルバムでさ、マユーズの曲を特典でつけるんだけど、新曲を作ろうかって話になってね。翔太郎さんがプロデューサーなの、今回」
-- 大成さんじゃなくて?
「大成さんは作曲。でね、今回私はなんと作詞に挑戦しました」
-- おおおお!凄い!
「まあ作詞って言うか、やったことないしさ、歌いたい内容を書き留めて、それを竜二さんに清書してもらうの」
-- 清書?
「英語に直してもらうの」
-- 英語なんだ、そこも。
「うん。それで、ある程度、翔太郎さんにはこういう詩を書くよっていう話をしてたの」
-- どんな感じ?
「んー、昔の事とか、それこそ『アギオン』の事とか?」
-- そうなんだ。辛くないの、そんな歌詞書くの。
「ちょっとはね。でも私せっかくだからこの歌は笑って歌いたいんだよね。『アギオン』がそう聞こえたように、笑顔で、歌ってて元気になれるような曲にしたいですって昨日も伝えて」
-- そっか。いいねえ、楽しみだ。
「うん。したらね、翔太郎さんが、『そうか、じゃあ今回はバラードはやめてピュアメタルにしようか』って」
-- 久々に聞いたよピュアメタルなんて。…だめだ、ジューダスプリーストしか出てこない。繭子と結びつかない。
「そうだよ!ペインキラー歌える?って言われて、はい、無理っすって」
-- あははは!
「いいからやってみ、いやまじ勘弁してもらえませんかねえ、って」
-- なんなのよその会話!
「だから結構無理してハイキーまで出したよ。グラハム・ボネットも歌ったし、ジョー・リン・ターナーでしょー、一番しっくり来たのはディオとセバスチャン・バックだったね」
--いちいちチョイスがオッサンだけど、そうか シャウト系でキー上げるタイプなんだね。
「あはは。そうそう、竜二さんスタイル。喉じゃなくて肺活量で上まで持って行くのが楽。単純に高い音だけを出すと悲鳴みたいになっちゃう」
-- 悲鳴(笑)。こないだ翔太郎さんと話した時は低音が魅力的って言ってたのに。
「私?ジュリー・ロンドンかな。2人とも酔ってたからね、めっちゃムーディーなジャズをセッションしてすっごい気持ちよくなって…違う違う違う、そういう話じゃないよ」
-- あははは、分かってるよ。
「変な顔しないでよ」
-- もう歌詞は全部書いたの?
「うん。昨日書いた。昨日だから、その革ジャンの話から始まって、昔の話を結構したんだよね。その後皆と合流して久しぶりにお酒飲んだんだ。あ、今度連れてったげるよ。竜二さんの家の近所にね、昔皆がたまり場にしてたバーがあるの」
-- なんだっけ、『合図』だっけ。是非行きたい。
「そうそう、そこでも思い出話して、大成さんにイメージ伝えて。でも暗くなり過ぎないロックな感じでお願いします、って」
-- そうかあ。繭子はさ、今いじめで苦しんでる子たちに、発信出来る言葉を持ってる?
「んー、ないね」
-- そうかあ。
「というかね、私もそうだったけど、今苦しんでる子達にはきっと、今苦しんでない人間の言葉なんて届かないし、聞いてる暇はないんだよ。必要ない。今ある世界が全てじゃないなんて言うけどさ、今ある世界を真っ向から否定しないと次の世界へなんて行けないんだから。だから、突拍子のない打開策なんて思いつかないし、ただ命からがら生きるしかないよ。逃げたくたって、逃げ方分からない私みたいなバカもいるだろうし」
-- 繭子に『アギオン』があったように、今苦しんでる人達に、何か支えがあるといいのにね。
「そうだね。…私ね、聞いた事あるの。どうして、私を助けてくれたんですかって」
-- それは、メンバーに直接?
「そう。皆、条件反射だって言ってた。…世の中には、そういう、理由なんかなくても考えるより先に動いてくれる人達だっているから。諦めずに戦っていればいつか強くなれるし…、ああ、カッコつけた事言うのよそう」
-- なんでよ、物凄く響いたよ。ありがとう。
「…あんまり自分の事を話したがらない翔太郎さんがね、私に教えてくれた事があって。あの人達も子供の頃ひどい扱いを受けて来たから、いつもボロボロたったんだって。不幸自慢したいわけじゃないよ、って優しい声で言うの。私の口からはあまり詳しく言えないけど、そんな辛い毎日を生きのびる事が出来たのは、仲間がいてくれたからなんだって。子供の頃は、アキラさんがあの4人の中では一番体が小さくて、いつもターゲットにされてたの。それを大成さんがかばって、袋叩きにあって、竜二さんと翔太郎さんがやり返しに行くんだって。でも翔太郎さんもボロ雑巾みたいにされて、いっつも4人で泣いてたって。体が大きくなる前のアキラさんは、翔太郎さんに、いつも泣き言を言ってた。翔太郎さんは悔しくていっつも泣いて、竜二さんはずっと怒ってたって。大成さんは諦めたような顔をしていたって。なんか、今じゃ信じられないような話だよね。…それでも俺が折れずに頑張って生きながらえる事が出来たのは、あいつらを守るために必死で足掻いていたからだって」
-- そうなんだ。確かに、ちょっと想像つかないけど、壮絶な子供時代を送ったみたいだね。
「あの人たちの言葉や表情にいちいち説得力があるのは、きっと全部経験に裏打ちされてるからだね。私みたいに、良い事言おうなんて考えてもないと思うよ」
-- あはは。私から見れば繭子も同じだよ。格好つけやがってなんて、思った事もないし。
「そう?」
-- そうだよ。
「だけど、彼らがしてきた事やされた事が今のあの人達を形作っているって思うと、なんだか格好よく見えるし、聞こえるんだけど、少しは似たような経験をしてきた私が、それを自分にも言えるのかって考えると、もうすっごい寒気がするんだよね。出来ればそんな辛い日々を送りたくなんかなかったし、それはきっとあの人達だって同じだと思うから。だから、そういう意味では格好いいなんて言いたくないし、格好良い言葉も言いたくないんだ。だけど…昨日もね、歌詞を書いてる私の横で、翔太郎さんが言うの。…繭子、心配しなくてもいいよ。俺達は何があっても、お前を一人にはしない。バンドもやめない。どこにも行かないよって」
-- 繭子。
「超格好いいこと言うの。…私、いっつもそうなんだよ。皆の事心配して気を使って色々考えてるつもりでもさ、結局私の方が何倍も気を使われてる。心配してもらってるの」
-- そうなんだね。
「どこにも行かないよなんて当たり前の事、なんで言うのかな…」
-- どこかへ行っちゃいそうだって、繭子が思ってしまってたんじゃないのかな。竜二さんにしても、翔太郎さんにしても、…誰にも言えない彼らなりの思いを抱えて生きて来たんだもん。それを知った繭子の動揺が、彼らに伝わったんだよきっと。
「私は彼らを支えられる人間になりたいし、なれるはずだって思ってほしい」
-- それは傲慢だよ。彼らは3人とも一人でしっかり立ってるもん。誰かに支えられたいなんて思ってないよ。それは繭子だってそうでしょ。繭子だって、彼らに支えられたいなんて思ってないでしょう。
「…うん」
-- 皆ただ繭子の事が好きなだけだよ。格好良い事言ってるけどさ、ただ繭子の事が大好きなだけだよきっと。甘えちゃって良いんだよ。それは繭子が繭子として生まれた特権だから。
「…ありがとう。優しいね」
-- 私も繭子が好きだからね。好かれたいから、格好良い事言ってみた。
「めっちゃ響いた」
-- なら良かった。
「昨日書いた私の歌詞ね、タイトル教えてあげようか」
-- 是非。
「『 Still singing this ! 』」


繭子が書いた手紙のような歌詞を読んだ時の様子を、ドーンハンマーのメンバー達はそれぞれこう語った。


池脇竜二。
「あ、これは駄目なやつーって。あはは!もう、繭子そのものだわこれはって。こういうのは駄目なんだよーって、読んだ瞬間思ったよ。なんか年甲斐もなくボロボロ泣けてきたよなあ。話してる今だって俺ちょっと堪えてるからね、うははっ。…弱いんだよ俺、繭子のああいう、真っ直ぐな頑張りとか、弱音吐かない健気な明るさとかね。あとさぁ、話し言葉で書いてんじゃねえよって思うよな。あんなの卑怯だよなぁ。それこそ擦り切れるぐらい使い古された、そこいらの誰だって言える言葉ばっかりだろ。でもさ、俺達が読むと全然違うんだよ。あいつにしか言えないんだよなって、心底そう思うし、あいつがこれをようやく言えるようになったんだなって。あああ、これだよ、もう、…クソ」


神波大成。
「こんな歌詞持ってこられてさ、元気に歌いたいんです!って言われた俺の身にもなってくれよ。心臓破れるんじゃないかってくらい泣いちゃったよ。織江なんてお前、吐くんじゃないかってまじで心配したもん。まあ、知らない人間が見たらセンスねえなーこいつって思うかもしれないけどね。よくあるJ-POPの引用オンパレードみたいな歌詞だし。でも、うん、そうじゃないんだよね。頑張って書いたんだと思うよー。…だって繭子だもん。俺も頑張っていい曲書こうって、なはは、そうなるよね。ああ、また涙出て来た。申し訳ない」


伊澄翔太郎。
「いや、俺これー…。あいつがこれ書いてる時隣にいたんだよな。チラっと一行だけ見て、そこがこの、ここの部分。『私は今も生きてるよ』だったんだよ。おい待ってくれよと。っははは。隣にいる奴がさ、ちょっと微笑みながらさ、書いてんの、これを。ちょっと待ってって。えええ!?って、思うよな。俺あん時ばかりはマジでさ、今これ抱きしめた方がいい流れなのか?って真剣に悩んだもん、やんなくて良かったけど。…でも、思い返せばあの頃の繭子だって実はちゃん笑ってたんだけどさ、この歌をあん時のあいつに聞かせてやりたくなるよな。…早くカメラ止めて、ちょっと一人にして。早く(笑)」


-- thisは何をさしてるの?『アギオン』?
「そうだね。私にとっては『アギオン』だね。でももしかしたらいつか、自分にとってのお守りソングが他に出来るかもしれないし、ここに曲名を入れるのは違うなと思って」
-- 聞く人達は誰もが、ここに思い思いの曲を当てはめて聞くだろうね。
「あー、そうかぁ。あはは、そこまで深く考えてなかった。少なくとも自分や、自分の周りの狭い範囲の人達の顔しか見えてないな。私達の音楽を好きだと言ってくれる人達はおそらくだけど、私達以外のバンドをお守りにしてる気がするんだ。私達のバンドは、それこそトッキーが言ったように『快感』のために聞いてくれたらいいかな」
-- そんな事ないよ。
「ん?」
-- リディア・ブラントも言ってたじゃない。バンドの持ち味がメッセージじゃなくたって、あなた達のプレイを見て、聞いて、胸を熱くする人はたくさんいるよ。繭子は私のお守りだし、ドーンハンマーは誰かのお守りになってるよ。今も、この瞬間も、きっと誰かを支えてるよ。
「そうかなあ。それは…物凄く嬉しいね」
-- うん。胸を張ってほしい。
「そうだね。っはは、私昨日書いた歌詞にね、胸を張っていこうとか書いてんのに。また励まされてんの。バカみたい私」
-- あははは。



この曲が完成するまでにも色々な出来事があった。
色んな思いが交錯して、「遊び」や「おまけ」の域を超えた名作が誕生する。
それは彼らにとっての名作ではなく、音楽史上に残ると言っても過言ではない名曲と言う意味だ。この世界にパラレルワールドなるものが存在しうるなら、マユーズが大活躍する世界もきっとどこかにあるはずだ。そこには、キラキラ光る汗を飛ばして熱唱する芥川繭子がいるだろう。彼女を支える男たちの優しい眼差しがあるだろう。彼らの背中を後押しするスタッフ達の熱狂もあるだろう。バンドに励まされて、今日も歩き続ける傷ついた人達がいるだろう。
そんな世界がもしあるなら、私はその世界の住人になってもいい。
ドーンハンマーがいなくても、マユーズがいるなら生きていける。
そう思わせる感動を目の当たりにする事が出来た。
彼らにとっての遊びとは、暇つぶしでも手抜きでも気晴らしでもない。
可能性を模索する事だ。
そして全身全霊を込めて出来上がった一曲をプレイするのが、
ドーンハンマーであるか、マユーズであるかは関係ない。
彼ら4人であれば関係ないのだ。



神波大成。
「ちょうどさ、時枝さんと話してる時に電話かかって来ただろ。あれ翔太郎だったんだよ。なんで電話?とか言ってると思うんだけど。あれはその繭子の曲の話でさ、今だから言えるけど、あの時点でほとんど(曲)完成してたんだよ。それ聞いた翔太郎がね、お願いがあると。直接言えよって思ったんだけど、あれだよね、内緒にしてって事だったんだね、今思えば。そうそう、うん。コーラスパートを増やしたいからサビとラストのアレンジもう一度変えてくれってね。珍しいよ、あいつが人の曲にそういう注文つけるのって。いやいや、断んないよ、今回プロデューサーあいつだし。嬉しいもんだよ、自分の書いた曲をさ、ちゃんと聞いて、ちゃんと要求くれるのって。ましてや明確にこれっていうビジョンが見えてて、その上での指示だからね。あ、これは凄い曲になるのかもって、興奮した」



伊澄翔太郎。
「元気な曲にしたい?そんなん無理ですって最初は思ったよ。あはは。大成の書いた曲聞きながら改めて繭子の書いた歌詞読んでみたらさ、もう腹立つくらい涙出ちゃって。…そうだよな。人にあんだけ偉そうに言っといてさ、何やってんだって話だよな。…いい曲になると思うよ。まあ歌うのは繭子だし、なるべく明るいイメージには考えてるけどね。でも色々考えた上で、基盤はメタルにした。やっぱり、歌詞と曲が合わさった時の印象が、それしかなかったんだよな。本当は、マユーズ自体に何々バンドっていう括りはないんだよ。メタルでもハードロックでもガレージパンクでもなんでも、好きに演奏出来てこそ遊びなわけであって。繭子は割と器用に色々歌いこなせる子だけど、あの歌詞読んじゃうと、音の弱い曲をプレゼントするわけにはいかないよな」



-- 昨日の時点で、飲みに行った席で皆に見せたの?
「歌詞?ううん、今朝。ちゃんと人数分家で印刷して渡したよ。そういうトコ細かいの。手書きのアレを皆で回し読みされるのは、なんか照れるしね」
-- どうだった?
「多分ね、事前に翔太郎さんが何か言ってたみたいでさ、渡しても皆その場で読んでくれないの」
-- え、なんで?
「分からないけど、きっとみんなの反応を見る限り…」
-- ああ、泣いちゃうからだ。
「ううーん、自分で言うのアレだけどさ」
-- 泣かせるつもりで書いてないんだもんね?
「全然ないよ。元気に歌うつもりで書いてるんだもん。『アギオン』に対する私からのアンサーソング」
-- 出た、J-POP歌手が使いたがる謎のカテゴリー。
「あははは!ちょっと!それ前に私が言ったセリフだから!」
-- (笑)、実際どうだったの?何か言われた?
「竜二さんにね、会っていきなりギュー!ってされたの。右手には私の書いた歌詞持ってて。そんなんねえ、…一気にあの頃の自分に戻ったよね。でもそれでいいんだ今回、と思って」
-- なんで?
「そもそも私がボーカルを取る意味なんてないしさ。せっかくだから楽しもうって思ったのが始まりだけど、やっぱり私にとっての出発点は『アギオン』だからね。あの頃の自分を思い出して、今でも歌ってるよー!って笑顔で叫びたいんだよね」
-- うん。素敵。最高。
「けどいきなりおかしな展開になってるよねえ。あれ、今これ何やってんだ? 新しいアルバム制作するんじゃなかったっけって。なんかマユーズの曲の話してる日の方が多いぞ。あれ、おまけじゃないのかこれ。織江さんに怒られないか?って」
-- アルバム作り直すって言ってんのにねえ。
「あはは、そうだよねえ。うん、まあ、急いだっていいもん作れるわけじゃないけどね。っさ!今日は新曲録るぞー!叩くぞー!…オー!」



池脇竜二。
「ファーマーズでの撮影旅行記を一緒に見返しただろ? あれの最後の方に入ってたシーンでさ、丘の斜面の上の方に繭子が一人で立ってる場面あるだろう。…そうそう手を振ってる場面。あれ、俺がリクエストしたんだよ。バイバイ、アメリカっていう。…あれって、勝手に俺が昔を思い出してさ、比較対象として残しておきたいって思いついたんだよ。繭子の高校時代をたまに思い出すとさ、あいつ俺達と遊んでスタジオから帰る時、いっつもああやって手を振ってたんだよ。『バイバイ、また来ますね』って。その時は何にも思わねえよ。また振ってるよーぐらい。またっつってもどうせ明日も明後日も来るくせにって、その程度。だけど今思えばだよ、危うかったんだなーって。明日や明後日は来なかったかもしれねえんだよなって。そう思った時に思い出したあいつの笑顔と、手を振る姿がもう強烈でさ。ああ、生きてて良かったこいつって。うん。…だから、うん、そんな事あいつは忘れてるだろうけど、ちょっと上登って手を振ってこいよ、なんて言って。そしたらさ、手の降り方から体の角度から、声まで、なーんも変わってなかったんだよ。…ああ、良かった。生きてて良かったよなって」


『顔を上げて。
 諦めるのはまだ早いよ。
 腕を振って、足を上げて、全力で走っていこう。
 私は今も生きてるよ。
 私は今もこの歌を歌っているよ。
 永遠の中で彼らは笑っていたね。
 私は今もそこにいるよ。
 あなたがその場所を振り返る時、
 涙が零れないように、
 悲しくないように、
 私はずっとそこにいるね。

 忘れないで。
 彼らを裏切ってはいけないよ。
 胸を張って、大声で、全力で走り抜けよう。
 私は今も生きてるよ。
 私は今もこの歌を歌ってる。
 永遠に続く苦しみなんてないよ。
 彼らは今もここにいる。
 あなたがその場所を振り返る時、
 笑顔になれるように、
 感謝を忘れないように、
 私はあなたと一緒にいるよ』

             
『 Still singing this ! 』



およそ10年前、傷ついた少女がいた。
およそ30年前、傷ついた少年たちがいた。
彼らはやがて出会い、お互いの中に同じ物を見た。
彼らをつなぐ絆は音楽だけではない。
痛みや悲しみや怒りである。
そしてお互いを守りたいと強く願う優しさと温もりである。

『私は今も生きてるよ』。
『私は今もこの歌を歌ってるよ』。
これほど胸に響く言葉を私は他に知らない。

連載第33回。「ただいま」

2016年、11月4日。


その時は不意に訪れた。


このスタジオから、そして15年間ずっと特等席だった伊澄翔太郎の隣から姿を消した関誠が、再びこの場所へ戻って来るまでに5か月の時間を費やした事になる。
その日が訪れるまで、私はもちろんメンバーの誰もが彼女の姿を一度も見かける事はなく、ファッション誌上はもちろん、テレビ、ラジオ、ブログ、インスタグラムそれら全てにおいて彼女の消息を知る事は出来なかった。Billionの記者として行った彼女に対するインタビューの掲載許可が取り消しになり、どこにも行けない彼女の言葉が宙ぶらりんの状態が続き1ヶ月が過ぎた頃には、誰も彼女の名前を口にしなくなっていた。しかしそれが嫌悪感や忌避感から来るものでないことは彼らの間に漂う空気からも明白だった。
皆心から誠の不在に寂しさを感じていた。
「考えても分からない事を口にして不安になるのは御免だ」
一度だけ池脇がそう言った事がある。その言葉を受けて、私も彼女に関連する話題を避けるようになった。その代わりという訳では勿論ないのだが、関誠が去ってからのドーンハンマーは目まぐるしい忙しさに見舞われた。
まずPV撮影の為にアメリカへ。帰国後、何度もインターネットで打ち合わせを重ねる。タイニールーラーへの取材と対談。幻のラジオ収録。ファーマーズで行われた作品披露試写会へ特別ゲストで参加。来年3月発売予定のニューアルバム製作。そして特典として付ける『マユーズ』の新曲製作。と箇条書きにしただけでも眩暈がする。その間もちろん毎日スタジオでの練習とレコーディングを続ける日々だった。それらを精力的にこなし、充実感と良い意味での疲労感で時間が忙殺されていく彼らの様子を撮影している間は、少しは寂しさも紛れていたように思う。しかし時折漂う、物足りなさに似た虚しさをスタジオの空気に感じ取る度、私は一人関誠の凛とした笑顔を思い起こしていた。


私が初めてこのスタジオを訪れた時も、少し肌寒さの残る季節だった。
また新しい冬がやって来ようとしている。11月。
その日は、来年3月に発売が決定したニューアルバムの大まかな選曲と曲順、アルバムタイトルを仮決定する予定で、練習後再びスタジオ内に集合の段取りになっていた。ここ数か月とても忙しく動いているせいか、疲労感が目に見えて残る日もある中での残業。事務所内にシャワー室はあるが、練習後に浴びると眠くなる為あまり使われることは無い。しかしその日は急に気温が下がってきた事もあり、繭子が一人汗を流しに使用していた。この時、時間は午後7時。繭子がシャワーから戻ったら、軽く夕食を摂って、打ち合わせ開始の予定であった。
池脇は一人ソファーに寝転び繭子の戻りを待つ間、仮眠。
伊澄と神波がテーブルの上に何枚かの紙を広げて話をしている。
池脇を気遣ってか、声が普段より低く小さい。
そこへ伊藤と時枝がテイクアウトのカレーを持って入ってくる。
「おお、いい匂い」
そう言って池脇が体を起こす。
「手伝ってくれたのか、悪いな」
-- いえいえ、全く。
「一緒に食べよう」
と優しく伊藤が言い、テーブルの上に袋を置いた。
「なに、紙どけてよ」
「こっち仕事だぞ」
と笑いながら神波が紙を纏めてテーブから退ける。
飲み物を取りに伊澄が立ち上がり、PA室にある冷蔵庫へ向かう。
「繭子まだ?」と伊藤が言い、
「さあ」と池脇が心ここにあらずで返事をしたまさにその瞬間だった。
ドアが開いて、懐かしい匂いがカレーを飛び越えて私達に届いた。
気配を感じ取った全員がそちらを瞬間的に振り返る。


「オツカレ差し入れ肉まーん!」


グッ、と。
全員の歓びと安堵が喉元で音を立てたような気がした。一瞬にして視界が歪み、溜息と共にはらはらと涙が零れ落ちたのは、伊藤織江が最初だった。常に身に着けている胸元のネックレスをぎゅっと握り締め、息苦しそうに、しかし嬉しそうに、彼女は言う。
「おかえり」
「じゃあ、ただいま」
5ヶ月振りに見る関誠の笑顔は、やはり怖いくらいに美しかった。
池脇と神波が意味もなく立ち上がり、
「やっと肉まん食えるなあ」
「今シーズン食えねえかと思ってヒヤヒヤしたわ」
と憎まれ口を叩いた。しかしいつものキレはない。


「うー、めっちゃ寒い、余計寒い」
スタジオのドアが開いて、嘆きの言葉と共に繭子が戻って来た。
スタジオ内に足を踏み入れた繭子は、自分に背を向けて立っている女性が誰なのかすぐに気がついた。首から下げていたバスタオルで口元を覆うと、少し離れた位置にいた私を見た。私が頷くと、繭子は誠が巻いているストールを後ろから取り上げ彼女の横を通り抜けた。誠が驚いた拍子に、2袋持って来た肉まんの袋が一つ落ちた。
「おー、焦ったー。繭子」
「はー、めっちゃ良い匂い。誠さんと肉まん」
繭子は自分の首にストールを巻きつけてそう言う。誠は落ちた袋を拾い上げながら「なははは」と笑い、「繭子もシャンプーの良い匂いする」と言った。
だが彼女がそれを言い終える前に正面から繭子が抱きついた。
「元気そうで何より!」
誠の背中をポンポンと叩くと、繭子は泣き顔を見られないように、肉まんの袋を取り上げてソファに座った。


「ついに幻聴まで聞こえるようになったかと思った。懐かしい奴発見」
PA室から缶ビールを抱えて出て来た伊澄が笑ってそう言うと、それまでは5か月前と変わらない笑顔を浮かべていた誠が下唇をぐっと噛みしめて、堪える表情を見せた。
「元気か?」
何気ない伊澄の言葉に、誠は軽く目を見開いたのが印象的だった。
誠は天井を仰ぎ見て、大きく息を吸い込んだ。
「元気だよ。ちょっと話があって」
彼女がそう言うと、繭子は早速肉まんを一つ取り出して頬張った。
ボロボロと大粒の涙が零れた。
伊澄が缶ビールをテーブルに並べ、また一つ取り上げて誠に放り投げた。
誠は両手で受け取ったが、苦笑いを浮かべただけで飲もうとはしない。
「お、カレーと肉まんか。いいね、最高にデブまっしぐらだ」
伊澄は笑顔でそう言い、ソファーの開いた席に座る。池脇と神波も座りなおし、カレーを取り出したり、ビールを開けたり。誠は薄い笑みを唇に浮かべ、右手に持った缶ビールをぎゅっと握り締めた。
「話があるんだって」
再び誠はそう言って伊澄を見た。伊澄は無表情のままビールを一気に流し込み、空き缶となったそれを握り潰した。
「外出るか?」
伊澄がそう言うと誠は首を横に振って、「皆にだから」と答えた。
皆と言う言葉に、池脇や神波の動きも止まり、伊藤は何かに怯えるように、ソファーにゆっくりと座った。カメラの後ろ側に立っている時枝意外、今誠を除く全員がソファーに座って彼女を見上げている。
「あのー。あのね、あ、…CMが決まったの」と誠が言った。
一拍置いて、「おお」と池脇が答える。
「え、なんの?」
「なんか、携帯会社のお得な料金プランみたいやつ、紹介するやつ」
「テレビ?」
「そうだよ。まだ流れるの少し先だけどね」
「凄いじゃん!」繭子はそう言って顔の前で拍手する。
「関東ローカルだけどね」
「それでも凄い事だよ。仕事順調なんだね」
嫌味のない繭子の言葉に、誠は微笑む。
「うん、一応」
「こっち来て座れよ」
「カレー、食べる?」
神波と伊藤がそう言って手招きする。しかし誠はその場でモジモジしたまま動かない。
誰よりも彼女を知る伊澄だけが何も言わずに誠を見つめていた。
「あ!来年アルバム出すんでしょ?またMステ出てよ。したらさ、一旦CMでーすのタイミングでドーンハンマーと私がテレビで繋がるかもーなんて、奇跡が起こるかもしれないね」
「そうだね」
「そんな上手い話あるかなー?」
「どうだろうねえ」
「てかそれ、『いいとも』だし」
思い思いの言葉を口にする皆の声を遮るように、
「帰って来たんじゃないのか。じゃあ、なんで泣くんだよ」
と伊澄がそう言った瞬間、誠の目から涙がこぼれ落ちた。
誠の大きな目が、今にも涙と一緒に流れて行きそうな程濡れていた。
「…どうしよう」
と泣きながら誠は言った。
何も事情を知らないメンバーは、ただ手を止めて彼女を見つめる他なかった。



「翔太郎、ごめん。私、乳癌になっちゃったよ」



余りの衝撃に、一瞬は誰も反応出来なかった。
地鳴りのような音が静寂の底から聞こえて来た。
それは池脇が発する嗚咽の声であった。
おい、もう、何だよそれ。
駄々をこねる子供のようにそう言うと、立ち上がって壁に缶ビールを投げ付けた。
激しい音を立てて炸裂し、勢いよくビールが飛び出した。
そして誠に背を向けたまま床の上に胡座をかいて座り、両手で頭を抱え込んだ。
神波は両手で覆い隠した顔を天井に向け、ソファーの背もたれに身体を倒した。
繭子は誠から奪ったストールを頭から被っているせいで、様子が分からない。
はっ、はっ、と伊藤の呼吸が早くなり始め、口元を抑えようとする手がブルブルと震えていた。既に顔面は蒼白だった。
伊澄は、自分の両手を不思議そうに見ている。
カメラでは捉え切れていないが、小刻みに震えていた。
自分の意思とは関係なく震えるその手を見つめていた伊澄の顔が、不意に歪んだ。


翌日、11月5日。
場を改めて関誠に話を聞く事が出来た。
場所は彼女の行きつけだという居酒屋。個室を手配しての単独インタビューだ。
テーブルを挟んで目の前に座った関誠を正面で捉え、私はまず初めに両手を差し出した。
-- お久し振りです。誠さん。
「えへへ、え、何、握手するの?あははは」
彼女は明るく笑って答え、温かい両手で私の手を握る。
「お久し振りです。だから、あれだよね、あの時スタジオにいたんだもんね」
-- いました。だから5ヶ月振りです。会いたかったです、ずっと。
「ありがとう。実を言うとね、昨日久しぶりにスタジオ入った瞬間にさ、目に入ったの。いつもの、こう入り口から入って左側の壁際。右の壁から楽器、応接セット、んで三脚立てたビデオカメラが定位置にあって」
-- はい。
「あー。この5ヶ月の間、ずっとあそこで、ああして皆を撮っていたんだなーって。なんだか感慨深い気持ちになって、嬉しかった」
-- はい。
急に胸の真ん中が痛くなり、私は思い切り鼻を啜って、精一杯の笑顔を作ってみせた。
だが駄目だった。関誠はそんな私を見て揶揄う事も慰める事もせず、黙って待っていてくれた。そしてしばらくの沈黙の後、畳の上に置いていた私のカメラを見ながら、
「ちょっとうるさいね。ちゃんと声入るかな?」
でも最近静かな時間が苦手だから丁度良いね、と小声で言った。
-- 大丈夫ですよ、こういう場所で撮るの初めてじゃないです。
「そうなんだ。私はこう、下から撮られるの初めてで緊張する。盗撮みたい」
-- あ、じゃ、ここらへんどうですか。
「ああ、いいね、遠目で」
そう言って彼女はテーブルの上に置いたカメラに向かって顔を近づけ、変顔をする。昨日あれだけの事があったと言うのに、信じられない強さだと感心する。高そうな薄いグレーのVネックニットと黒のスキニーというシンプルな出で立ちながら、私などが同じ格好しても到底叶わない完成美が目の前に座っていた。
-- 昨日、眠れました?
「全然」
-- 一睡も?
「一睡も」
-- お疲れの所、良かったんですか?
「うん。タイミング的にも場所的にも今こういう形でしか話せないと思ったし、なかなか自分一人じゃ心の整理もしんどいんだよ。私やっぱり皆を前にするとふざけるか泣くかしかない、みたいな感じになっちゃうからさ、却って有難かったかも」
-- なるほど。
「翔太郎と一緒だったんだけど、結局朝まで話してたからあの人も寝てないはず」
-- そうなんですね。実際の所、直接お会いになられたのも5ヶ月振りですものね。やはり積るお話もあったと思います。お二人とはまた違いますけど、私も眠れなかったです。
「そうみたいだね。今日の話だって昨日の3時とか3時半とかにメール来たんだもんね」
もちろん午前の3時だ。
-- 非常識な時間に申し訳ありませんでした。すぐに返事があった時は驚きました。
「あはは。んーと、あんまりこういう話外でしないから分からないけどさ、一応眠ろうとはしたの、2人とも。ベッドに入って、布団も被って。けど…あ、してはいないんだけどね」
-- いいですいいです、そんなの聞いてないです。
「あはは、ウソウソ、しまくったけど」
-- ちょっと!もう!
「あははは!」
そこへ注文していた飲み物が届く。
私はウーロン茶。関誠はジンジャーエールである。店員が戻るのを待って。
「あー、なんだろうな、昨日言ったかもしれないけど、私さ、翔太郎と知り合ってから今まで5ヶ月も会わなかった事がないんだよね。多分、1ヶ月ってのもないから、変にハイになっちゃって。うざかったかもしれないな、昨日は特に。だってさ、翔太郎から、元気か?なんて聞かれたの初めてで、それだけで狼狽えたもん」
-- ずっと切れ間なくお話されていたという事ですか。
「私が一方的にって訳ではないけどね。昔の話とか体の事とか、うん、ずっと」
-- なるほど。とりあえず、乾杯しましょうか。お疲れさまです。
「ありがとう。よろしくー」
-- お酒はやはり?
「そうだね。アルコールが(癌の)発生率を高めるっていう話は説として有力らしいんだけど、再発率とかになってくると、はっきりした事は分からないんだって。でも可能性がゼロじゃない以上、そこまでして飲むもんじゃないって思うかな」
-- 皆さんお酒好きなイメージありますが、誠さんはそんなにですか。
「うん、翔太郎程ではないね。ただ飲みの席が好きなんだね、きっと。だからこういうお店来て誰かとワイワイするのは好きだけど、こうやってジンジャーエールとかでも全然楽しめる」
-- その、お体の事についてですが、昨日お話された事だけを聞くと、今は安定していると考えて大丈夫なんですか。
「あー、そう思いたいね。けどこればっかりは誰にも分からないよ」
-- 今も治療中という事ですよね。
「薬は飲んでる。治療中という意識は大分薄らいできたけど、やっぱり副作用はあるからね。今私の体頑張ってんだなって思う時はあるよ。でも私の場合はそんなにひどい症状は出てないし、まだ全然マシな方と思う」
乳癌に侵された身でありながらマシも何もないだろうと思ったが、誠の微笑みがその言葉を許さない。生きていることが重要なのだという意思が、強く感じ取れた。
-- 所謂抗がん剤治療、ですよね。
「いやー、どうなんだろ、ホルモン剤だけどね。今飲んでるのは1種類だけだよ」
-- 体力なども元通り回復されたんですか。
「調子は悪くないんだけど、ホットフラッシュって分かる?」
-- 急に暑くなったり汗が噴き出たり。
「そうそう、それがあるかな。太りやすいから気をつけなきゃいけないのと、あ、あとね、今飲んでる薬が妊娠しやすくなる傾向があるの、だから昨日」
-- それはもう大丈夫です!
「あははは」
-- 壮絶でしたね、昨晩は。
「ねえ。格好悪いとこ一杯見られたね。ほんと、人様に見せるもんじゃないって」
-- いえいえ、なんと言うか、凄いな…と。私ほんと語彙力なくて、感じたまましか表現できない馬鹿野郎なんで申し訳ないんですけど。
「あはは。凄いって言われてもなぁ」
-- 皆さん、相当衝撃を受けていらっしゃいました。まだ完全には抜けきっていないと思います。
「そうかもしれないね。皆どうしてるかな。この後もスタジオ行くの?」
-- 分かりません。この時間、今から行ってもどんな話をして良いか分かりませんし、今日は練習お休みなので、誰が来ているのかも分からないんですよ。
「翔太郎はいると思うよ、今日もまだ練習してると思う」
-- 家で誠さんの帰り待ってませんか?
「あー。それはきっとないかなあ。待つ人ではないね、行動力のある人だから(笑)」
-- 納得です。
「あはは、でも言葉であれこれ言う人じゃないから不安はずっとあるけどね。この人本当に私でいいのかなって」
-- それで、ああいった嘘を仰ったんですか?
「アキラさんの事? だからって言うかなんて言うか。多分私がさ、翔太郎の事好きじゃなくなったとかもともと好きじゃなかったっていう話をしても、きっと誰も信じないと思ったんだよ」
-- そうなんですか?
「そう。もう、なんだろうか、悔しいっちゃー悔しいんだけど、一方通行かもしれないっていうレベルで私の気持ちが120%勝ってるんだよね」
-- えー? そんな事は…。
そこへ頼んでいた食べ物が運ばれてくる。チラチラと男性店員が誠に目をやる。彼女は頬杖をついて、気づかない振りで顔を反対側に向ける。店員は何か言いたげな雰囲気を見せたが、臆したのか結局何も言わずに去っていった。誠は並べられた料理を見て満面の笑みを浮かべ、美味しそー、お腹すいたーと無邪気な様子。
-- さっきの男の子、誠さんに気づいてましたよ。あるいは一目惚れです。
「ははは…」
どうでも良いと言わんばかりの愛想笑い。
-- 今の店員なんかにしてみたら、誠さんは高嶺の花なわけですよ。
「何だよいきなり。そんな事ないよ」
-- 誠さんが謙遜してどのように否定なさった所で、あなたが超絶美人モデルであることに違いはなくて、あの店員はそんなあなたがどうしようもなく一人の男性を愛し続けている事を知りようがありません。
「うん(笑)、それで?」
-- こうして広い日本の、東京の、居酒屋で、今日の今、店員と客として顔を合わせる所まで2人の人生は近づいたわけです。
「うんうん、それで?」
-- だけどこの先何が起ころうとも、彼がどう足掻いても、何をしようと、これ以上2人の人生が交わる事は無くて、誠さんの目に映る事もない。
「なははは、大袈裟だね、なんの話してるの?」
-- という事を今さっき、頬杖をついて店員とは反対側を向いたあなたの横顔を見つめながら考えていました。
「詩人だなぁ、時枝さんは。全く、何でそんな事思ったんだろうね」
-- 何故でしょうね。私たまに意味なく、人と人の出会いとは何かって事を考えるんです。例えばテレビを見ていて、あ、好きだなこの人、って思う事あるじゃないですか。
「うん、芸能人?」
-- そうです。だけど地方に住んでたりすると一生テレビに出てる人と出会う事はなくて、その内綺麗に忘れて生きて行くんです。そう考えると、さっきの彼は地方の男の子なんかより全然有利だった筈なんです。こうして生で、誠さんを肉眼で見る所まで来れたわけですから。だけど私は、天地が引っくり返っても、誠さんが彼を認識する事がないともう分かっているから、出会う出会わないはあんまり関係ないじゃないか、なんて事を思ったりもするわけです。
「へー。そうか。うーん、そう考えると確かに不思議だね。実際の距離はあんまり関係ないのかもしれないね。それで言うとさ、私に限って言うと15歳で翔太郎と出会ったせいで、もの凄い人数の男達とすれ違って、気付く事もなく生きて来た事になるね」
-- そうです。モデルとなられてお互いを取り囲む環境も変わられたと思いますが、ずっとお二人は15年前から変わらないということですよね。とても素敵な事なのに、突然泣いてしまいそうで怖いくらい、儚さも感じてしまいます。
「儚い?脆く見えるってこと?」
-- そういう訳では。
「何だろうね。…儚いかぁ。ただね、泣いてしまいそうになる時があるのは、分かるよ」
-- 誠さんご本人がですか?
「うん。高校生ってさ、多分今の私にしてみれば子供だよね。子供がさ、ハアア!って、キュウウン!って、大人の男に惚れたわけさ。でもだからってそんな簡単に私が、子供から大人になれるわけじゃないしさ、ずっと思い続けて時間かけた分ちゃんと好きなの。…うーわ、恥ずかしい話してるねー!」
-- 今誠さんめちゃくちゃ綺麗ですよ。
「なら良いか(笑)。…だから確かに、他の男の人とかどうでもいい、必要ない。でもね、そうやってあの人だけを見てるとさ、なんでか突然震えが来るほど怖い時があるんだよね」
-- 怖い?
「今回みたいに、訳があって自分から身を引いたりした時は大丈夫だったんだけど、あ、大丈夫ではないけど、意味が違うというか。何気ない瞬間に、全身が冷たくなるような感覚に襲われて、ああ、そうか、私は一人では生きていけない人間になってしまったんだなって思う事があるの。そしてこの人と出会って今私はこうして一緒にいるけど、この人生は一回しかなくて、やり直しはきかなくて、この一度きりの人生で終わりなんだなって。もう二度と同じ時間はないし、もう二度と、『二人が出会う瞬間』は来ないんだな、とか考えちゃうの。分かりづらいよね」
-- あははは。そうですね、正直分かるとは言えませんが、誠さんが泣きそうになる瞬間、強く翔太郎さんを思っているんだろうなという事は理解出来ますよ。
「うん。それが儚いと思わせてるのかどうなのか分からないけどね」
-- そういった内面的な心情は私には分かりえない部分ですけど、おそらく感覚として近い事をイメージしているとは思います。
「凄いね、最近の編集者はそこまで思いを巡らせてくれるんだね」
-- ただ私が年中お花畑の乙女なだけです。一切記事には反映しませんけどね(笑)。
「いやいや、照れてるからこんな言い方だけど、一応喜んでるよ」
-- あはは、ありがとうございます。
「なんかね、連続する長い時間の中で、昔から今まで、どこを切って覗きこんでも翔太郎と私が並んでる姿を思い出して、なんか泣けて来たりするんだ。どういう感情なのかなぁって自分でも不思議」
-- 何故なんでしょうかね。
「どれだけ細かく切ってもさ、この15年の間に関して言えば私達は2人並んでいられたわけだよね。でも、二度と同じ時間には戻れないし、あの日の私達には戻れないし、努力したって同じ一日を繰り返す事は出来ないんだなって。当たり前だけど、過ぎていったこの15年を思い起こすと無性に泣きたくなる時がある、愛おしすぎて」
-- ノスタルジックとかセンチメンタルという表現であってるんでしょうかね。切ない気分になっちゃいますね。けど正直、周りが放っておかないくらいモテモテでしたよね、誠さん。
「うん、ええ? なんで? そんな事ないよ」
-- またまた。
「男の人にって事でしょ? 全然だよ、興味ないし」
-- 本当に翔太郎さん一筋なんですね。
「うん」
-- よくある事なんですか。
「何が? 食べようよ(笑)」
-- どうぞどうぞ。いや、こうやって外で気づかれたり、ナンパされたりも凄いんじゃないかと思って。あちらの目が釘付けになってた時の対応も冷静でしたし。だけどさっきお店入った瞬間の視線の集中砲火ったらなかったですよ。私変にボディガード気分になりましたよ。翔太郎さん任せて下さい、ここは私が誠さんをお守りします!って。
「あははは!」
誠はのけ反って豪快に笑い、お箸を持ったまま手を叩いた。
「おっかしいねえ、時枝さんねえ」
-- ほんとですほんとです。翔太郎さんとお二人で出かけられたりした時、大変じゃないですか。
「ううん、ほとんど外ではご飯食べないよ。私が作りに行くか、食べに来るか。こういう所は事務所の子達と来るかな。そもそも翔太郎と出歩く事がほとんどないよ。特に私がこういう仕事始めて、割とお仕事貰えるようになってからは、ないかな。それに翔太郎も意外と顔指すんだよね、主にオッサンとか極端に若いメタルキッズなんかに」
-- そうですよね、実は翔太郎さんも有名人なんですよね。
「こっちは実感ないからびっくりするけどね。え、知り合いなの?って」
-- あははは。あ、忘れないうちにお伺いしておきたいのですが、大分前に収録させていただいた会議室でのお話や、アキラさんについてのお話、今回の、昨日の件や今日のお話なんかもひっくるめて、どこまでドーンハンマー枠で使用が可能なんでしょうか。
「関誠として名前を使うって事?」
-- そうです。
「難しいねー。誰かに対する私なりの、何だろう、思い出語りみたいなのって、資料的な意味合いとして価値があると思うんだけど。私が翔太郎と付き合っていて、病気して、衝撃を受けている彼らの横顔を外に出す事って、どういう意味なんだよって正直思っちゃうかな」
-- ああ、確かにそうですね。バンドとしてのバイオグラフィには本来出て来ない部分ですものね。
「うん。使っていいかダメかっていうと分からないんだけど、どうしても使いたいんだ、見せたい姿がそこにあるんだって言われたら、なんか嫌とも言えない複雑な気持ちだなあ」
-- 使いたい気持ちはあります。だけどそこにちゃんと意味をしっかりと持たせられるまで、勢いで使う事はやめておきます。保留にしますね。
「きっと時枝さんのやってる事って、これまでのバンドの紹介とかレコ発特集なんかとは全然違う物だと思うんだよね。だから一概には嫌だって言えないのもあるよ」
-- ありがとうございます。そう仰っていただけると救われます。
「って昨日翔太郎が言ってたの。だから私も協力できる事はする」
-- あああ!ありがとうございます!
しばらくは他愛ない話をしながら料理を楽しむ。
やがて私の方から、昨日の事へと話を持って行く。
-- 昨日の竜二さんの言葉が耳から離れないんですよ。
「なんだっけ」
-- 『俺もう耐える自信ねえよ』って。
「ああ」
誠は鎖骨の真ん中あたりをトントン叩いて、食べ物を飲み込んだ。
「うん。ぐっときた私も。分かってたし、きっと皆そうだろうなって。私自身がそうだし。皆があそこで笑って生きてるっていう現実があるからさ、私も頑張れたと思うの。もしあのスタジオに皆がいないとなったら、私は一人で生きていく気にはならないかもしれない」
-- 翔太郎さんの、あんなに苦痛に歪んだ顔も初めて見ました。
「嫌だったねえ、私も見たくないよ、うん。私、翔太郎だけは…うまく言えないけど」
-- 誠さん。
「ん?」
-- おひとりで、本当に辛い時間を過ごされましたね。良かったです。私が言う言葉ではないですが、本当に、よくお戻りになられました。おかえりなさい!
「あははは。ありがとう。泣ーかーなーいーでーよっ。味が分からなくなるよ」
-- 美味しいです。
テーブルに置いた誠の携帯が震える。
そちらを見やって、彼女がニヤリと笑う。
「お、来たよー」
-- え?
「ガールズトークはこの子の方が意外と得意かもよ。頭の良い子だしねえ」
-- 誰ですか。
「芥川繭子選手のー、入ー場ーです!」



襖が開いて、ちょっと怒った顔の繭子が背後を気にしながら入って来た。
ダボダボの藍色パーカーに革のライダースと黒のスキニーを身に纏った今日の繭子はパンク少女のようだ。おまけに、ニット帽を被ってはいるがそこから覗く髪の毛の色は銀ときた。「お疲れー」と誠が声を掛ける。
-- どうしたの?
「気持ち悪ー、めっちゃ見られた」
「ちょっと声デカイよ」
-- あははは、アゴヒゲの、ちょっとガタイの良い子?
「うん、知り合い?」
-- ううん。誠さんの事もチラチラ見てた。なんだ、ナンパ野郎だったか。
「えー、やだねー」
-- そりゃあそんな頭してりゃあね。注文は?
「ん、もうして来た。これ何、ビール?」
ライダースとニット帽を取りながら、目の前に置かれた琥珀色の飲み物を見て言う。
「ジンジャーエール」
「ちょうだい」
そう言って繭子が誠のジンジャーエールを一口。誰のかを聞かない無礼講さが気持ちいい。
「あー、美味しい。めっちゃ寒かった、外」
真っ白い繭子の顔をまじまじと見る。目が赤い。
-- 来るの知らなかった。誠さんが呼んだんですか?
「私がね、今日何してるのって聞いたらこの後トッキーとご飯って言うから、タクシー乗って来てやったぞ、嬉しいだろ?」
-- あははは!そうだね、超嬉しいよ。今ここ日本で美人の2トップが揃ってるわ、目が潰れそう。あ、タク代払うね。
「いらないよ(笑)、もう酔ってんの?」
-- ウーロン茶。
「誠さん知らないだろうけどさ、誠さんが居なくなった晩凄かったの、この人」
「何が?」
-- 持って来たよ。
「…何を?」と誠。
-- その時の映像です。
「えー? 曝け出すなー、見たい見たい」
はしゃぐ繭子に苦笑いしながら誠が私の顔を覗き込む。
「そんなにすごい醜態晒してるの?」
-- ええーと、別に見て欲しいのは私じゃないんですけどね。
そこへ繭子の注文した飲み物が届く。
はしゃいでいた女3人が一気に黙りこくると、下心丸出しだった筈の男の子は萎縮したようになってしまい、すごすごと退散した。敵意を持って不機嫌さを隠さない時の繭子の目は本当に怖い。私はそれを身をもって知っているだけに、少し可哀想な気もした。
「ほんじゃま、かんぱーい」
繭子がそう言い、ビールグラスを持ち上げる。
ジンジャーエールを持ち上げる誠の右手の下を掻い潜り、繭子が彼女の右胸を触った。
「あれ、柔らかいよ」
「そりゃもともと柔らかいものがあったからね」
「そうなんだ。もっと少年みたいな硬い胸板なのかと思った」
「失礼な。まあもともと貧乳だけどね、繭子と違って」
「翔太郎さんに見せた?」
「うん」
「どうだった?」
「泣いてた」
「そっか」
「うん」
「辛いね」
「うん。でも嫌な気はしなかったな。どっかで、一緒に泣いて欲しいと思ってた自分がいたのかも。変な話だけどさ、自分の彼女のおっぱいがなくなったぜチクショー!っていう涙じゃないのは分かるね、そこは」
「あははは、そらそうでしょう」
「いや分かんないじゃん、男なんておっぱい大好きだし」
「うん」
「けど、私の体の一部がこの世から消えたじゃん。私を見てさ、その事を悲しんでくれてるっていう姿は、私も見てて辛いんだけど、どっか嬉しい気持ちもあるんだよね。いやその時はもう私もガンガン泣いてるんだけどね。…今思えば、うん」
「そうなんだ」
「私らが帰った後って皆どうしたの?」
「スタジオにいた。さっきまで一緒だったんだよ。大成さんと織江さんが帰って、竜二さんと2人で色々話した」
「朝までってこと?」
「うん。その後一回帰って、寝て、今日練習休みだけど絶対翔太郎さん来るだろうな、どうしよっかな、竜二さんは来ないって言ってたしな、っていう所で今に繋がります」
「全然寝れてないんじゃない? 目、赤っかいよ」
「2時間くらいは寝たよ。でも、結構ビール飲んだしなー、コンディションは超悪い」
「なんかアンニュイ良い女のオーラが出てるよ、フェロモンみたいなの」
「嘘。シャワー浴びたら落ちる?」
「なんで落とすんだよ」
「あははは」
「髪色ちゃんとキープしてるね、偉いぞ」
「誠さんいなくなってから戻そうかと思ったんだけど、それは逆に癪だなと思って」
「そっか」
「誠さんも相変わらずキレッキレで美人だね、凄いよ、本当に尊敬する。こんなに大変な目にあってるのに、そこを崩さず自分を保てるって、それはもうプロ意識を超えた美意識だね」
「あははは」
「いや笑いごとじゃないよ」
「うーん。女としてこういう事を言う奴本当はどうかと思うんだけど」
「うん。うん?」
「笑わない?」
「返答次第では笑う」
「じゃあ言わない」
「なんで。気になるじゃない」
「笑ったら頭ゴツンな」
「知らないよ(笑)」
「うーん」
「何よ」
「翔太郎の前ではやっぱり、可愛くいたいんだよ」
「…」
「…?」
「何、ノロ気!?ちょ、まじ、何?」
「あはははは!」
「あははは」
誠が繭子の頭を撫で、嬉しそうに繭子は笑う。
疲れたように、テーブルの上に組んだ両腕を置いて、顎を乗せてだらしなく話していたオフの繭子の顔は、普通の女の子と何も変わらない。髪色の話になり誠が長い指で繭子の頭を優しく撫でた時も、繭子は目を細めてされるがまま微笑んだ。今もまた、誠と話をしているだけで心底安心しきって全てを委ねている。誠が生きて戻って来た事への歓びが、繭子の全身から溢れていた。
-- 今の繭子を見ていると、凄腕ドラマーだっていう事を忘れちゃいそう。
「んん? 今はそんな事忘れなよ、食べよ食べよー」
繭子は体を起こしてそう言うと、お箸を持って料理に目を走らせる。
「時枝さんは、翔太郎達の事どう思ってるの?」
不意に誠がそう言った。
-- どう、と言いますと。
「日本で言うと何番目? 10番くらいには入るの?」
-- ええっと、ごめんなさい。なんの順位ですか?
「時枝さんから見る、ドーンハンマーの実力」
-- え!? そんなの日本ではぶっちぎりナンバーワンですよ。
「そうなんだ」
-- ぶっちぎりです。世界でも5本の指に入る実力の猛者です。
「でも人気はさすがに5本の指って事ではないでしょ?」
-- 人気、ですか。知名度では確かにそうかもしれませんが、それでもスレイヤーやメタリカと同じイベントで共演していて、ライブをやればもれなく大盛り上がりになるんですけど…御不満ですか。
「いやいや、不満とかそういう事じゃなくてさ。私、昔からよく分からなくて。なんかね、そもそもうるさい音楽好きじゃないってのもあるんだけどさ、Billionとか読んでもさ、結局テクニックとか世界観とか言い出すから全然ピンとこないわけ」
「あははは」
はっきりした物言いに、何故か嬉しそうに繭子が笑う。
「極端な事言うけど、私翔太郎の凄さとかも全然分からないの。凄いなーって思えるのって竜二さんだけかな」
-- なるほど。
「変でしょ?」
-- いや、仰りたい事は分かりますよ。この仕事やってると一度は陥るジレンマみたいなものですからね。一応ウチはメタル専門誌なんでまだ許される部分ありますけど、結局行きつくのは「誰に向かって言ってんだ」って所なわけですよ。誠さんが仰ったように、割と色んな知識とかバンドのバックグラウンドを読者が知ってる前提で記事書いてる事ザラにありますからね。新しいファンを取り込もうとする姿勢とは程遠いです。ただそれが良いか悪いかってのはちょっとすぐに答えが出なくて。
「雑誌みたいな紙媒体は文字数制限あるし、定期刊行物だから仕方ないとは思ってるよ。別に責めてるとかそんなんじゃなくて、単純にさ、竜二さんってえげつない声出すでしょ。だから分かり安いっていうかさ。竜二さん凄いねって話を誰かとしていて食い違う部分があんまりないじゃない。けど例えば大成さんとか翔太郎の話になるとね、人が熱っぽく語るそのほとんどがもう意味不明なわけ」
-- はい、はい。
「こっちは楽器出来ないからさ、あれだけ華麗に指が動くっていう時点で十分物凄い事に思うんだけどさ。そこを超えてくるともう何を言われても、もう、なんか、邪魔だなあーって」
「あははは!」
バンドについて語る誠の横で嬉しそうに頷いていた繭子が、堪え切れずに笑い声を上げた。
-- 邪魔って言われたー!
「あははは!だって基本的にさ、音楽ってそういう先入観いらないじゃん。聴いたこっちがどう感じるかどうかだけでいいしそうやって楽しみたいんだけどさ、そうじゃないんだ、もっと凄いんだ、みたいにガンガン来るじゃん」
-- 愛情なんですよ!世間的な評価や認識では到底伝わっていないと感じるんです!
「それはだって人それぞれじゃん」
-- そこを突破したいんです!
「あははは!トッキー熱いねー、頑張れー」
「どういう事? 突破?」
-- 例えばですね。知識がこれしかないんで音楽の話になっちゃうんですけど、世間一般で言う所のアーティストの判断基準って人気とセールスだと思いますけど、例えばURGAさんみたいに知名度もセールスもジャニーズアイドルやエイベックス所属の歌手には全然叶わないにも関わらず、ほぼ毎年海外ツアーに出てチケット完売、年一でコンスタントにアルバムも出して、みたいな人もいるわけですよね。
「それは分かるよ。固定ファンというか、世界中に一定数のファンがいるんだから」
-- それはドーンハンマーも同じです。世界中に一定数のファンが既にいます。ですがセールスや知名度はメジャーのミュージシャン程ではなかった。あくまで『これまでは』ですが。では何故そのパターンをドーンハンマーに当て嵌める事が出来なかったかという理由はただ一点、暴力的で煩い、そもそも一般受けしない音楽だからなんです。
「…おお、そうかも」
-- そこでうちみたいな専門誌が、彼らに代わってどんどん情報を発信していくわけなんですが、誠さんの言うような表現のうざったさが顔を出します。所詮メタルファンに対するニッチな記事なので、どれだけコアな表現になろうと、他のバンドのとの差別化が出来てどのくらい優れたセールスポイントを持っているか、もう言いたくて言いたくて仕方ないんですよね。
「あははは、なるほどね、分かる分かる」
-- 例えば翔太郎さん。
「あ、はい」
-- 彼ははっきり言って、今世界でも5本の指に入る、スーパーギタリストです。つまり、ざっくり言いますけど、とんでもなく複雑で馬鹿みたいに速い弾き方をしたがるメタルミュージシャンの中で5本の指。つまりはオールジャンルのギタリストを含めた世界中のトッププレイヤーで、上から5番目の中に入るテクニックを持つ人なんです。
「お、おお」
-- 世界中のバンドマンが彼を褒め称えます。『神は奴の左手に宿り、悪魔の右手で弦を弾く。その真ん中で微笑むあいつは本当に人間か、それ以上か?』という最高のキャッチコピーを貰った事さえあります。アメリカ人が口にする神と悪魔はマジですからね、シャレにならないんですよ!
「…あ、今ちょっと(心に)入って来たかも」
-- やったー!そういう事です。そういう事を、言いたくて仕方ないんです、私達って。
「イエーイ!」
繭子が空になったビールグラスを高らかに上げて喜んでいる。
「なるほどねえ、すごい分かったよ今の。翔太郎が私の知らない所でとんでもない過大評価を受けているっていう」
-- ちがーう!
「あははは!」
-- 繭子は分かるよね?
「まあ、お互い様なんじゃない? 誠さんがどれだけ私にモデルの仕事を勧めても私が全くなびかないのと、トッキーがどれだけ熱っぽく翔太郎さんを持ち上げても、誠さんにとっては昔から知ってるいつもの翔太郎さんでしかないっていう話と同じ事でしょ」
「そうだけど。繭子も翔太郎がそれだけ凄い人だって分かってるの?」
「わーお(笑)。当たり前でしょ!」
「そうなんだ、じゃあ本当に凄いんだ」
-- そこはそんなにあっさりなんですね。
「翔太郎がどういう世界にいるかっていう話より、誰がそれを言ってるかっていう事の方が私には重要かな。時枝さんがダメだって事じゃなくて、繭子とは付き合いも長いし、この子が一番しっかりしてるから間違った事言わないし、この子の感覚を分かってるから」
-- なるほど、そうですね。それはそうかもしれないですね。
繭子は子供扱いされたような顔で膝を抱え、上目遣いに誠を見やる。
「どういう意味」
「皮肉じゃないよ、繭子はしっかり者だと思ってるよ。それに皆が思ってるより翔太郎ってポンコツなんだよ?」
-- えええ~、そんな話誠さん以外絶対言えませんよ。凄いな。織江さんですら翔太郎さんに全幅の信頼を置いてるってのに。
「バンドマンとしての彼と、一人の人間としての彼は違うじゃん」
-- そうなんですか?
「うん。いや、そりゃあ普通に話しててやっぱ頭良いんだなって思う事はしょっちゅうあるよ。けど全然抜けてる所も一杯あるし。街の至る所で喧嘩ばっかりしてた時代の話をウンザリするくらい周りから聞かされたし、だから何だよって思ってたし、今更そんな世界レベルの男として見れないよ。大分前の話だけどさ、ポップコーン、あるじゃない」
-- はい。
「あの、自分で熱して作るタイプの奴ね。翔太郎あれ好きなんだけどね。買っていざ作ろうとした瞬間アルミ箔剥がしたからね」
-- あははは!
繭子がお腹を抱えて倒れた。
「えーっと、翔太郎、ポップコーンって知ってる?って。熱を加えるとね、弾けるんだ。したら、何言ってんのみたいな顔するから腹立って、これ破いたら全部飛び出すんですけど!」
「やめてやめて!あははは!」
-- 衝撃的ですね。それ翔太郎さんに今言ったら、どんな顔するのかな、見てみたい気もするな。ただですね、私最近思うんですけど、あるいはもう想像を超えたレベルでアチラが大人なんじゃないかって、思う時があって。
「どういう事?」
誠の疑問に答えるべく、色々これまでのインタビューを思い起こす。
-- 分かり安い所で言うと、竜二さん。あの方は、普段くだらない冗談ばっかり言って、子供っぽかったり空回りしたりっていう振る舞いで皆から総突っ込み受けてますけど、最近気づいたのが、「なんだよお前!」とか「全然面白くない!」とか皆に突っ込まれてる時の竜二さんって、良かった、みたいな優しい笑顔を浮かべたりするんですよ。
「…」
「よいしょ」
寝転がってじたばたしていた繭子が体を起こす。
-- 大成さんも、見た目あーだからもの凄くクールで素っ気ないイメージですけど、いつだって皆の事ちゃんと見て、ちゃんと話を聞いて、本業の私が舌を巻くくらい的確に答えてくれます。そしてそれがめちゃくちゃ面白かったりもしますし、とても温かい方です。翔太郎さんは、口も悪いし、人を揶揄うのも大好きですけど、大前提として人を傷つける事をしません。必ずフォローがあるし、そして人に何かを言えるだけの能力と根拠を努力と研鑽で示せる本当に真面目な人です。なんだかそういう自分達の芯を人に見られるのが恥ずかしくて、あえてお茶目な部分だけを見せてるんじゃないかって思ってしまうんですよね。
「…」
誠も繭子も何も言わず、顔を見合わせて微笑む。
-- なんか言ってくださいよ。
「いやいや、その通りだと思って」
誠は頬杖をついて、ただ黙って嬉しそうな笑顔をそこに乗せている。
「なんだか妬けるなぁ」
-- 何言ってるんですか、私は誠さんもそうだと思ってるんですよ。
「私はほんとにただのポンコツだよ」
-- このまま本当に姿を消したままでいたら、そうだと思ったかもしれませんけど、昨日の誠さんの話を聞いてポンコツだなんて思えるわけないじゃないですか。
「結果皆を、決してハッピーには出来てないしね。…私の事は聞いてないの、じゃあ繭子は?」
「私はいいよ」
-- 誠さんがいなくなってからのこの5ヶ月間、彼女本当に可愛かったんですよ。きっと、誠さんの穴を埋めれるように、気を使い過ぎなんじゃないかっていうくらい、明るくて健気でした。
「いやいやいやいや」
繭子はそう言って、少し悲しそうな顔を見せた。
-- これ絶対嫌味じゃないからね。本当にそう思って見てたから、感動すらしたよ。
誠は黙って、繭子の頭を撫でた。
「本当に、ポンコツでごめんね」
誠がそう言うと、繭子の目から涙が溢れた。
-- もちろん、繭子の事は皆さんの方がずっとお詳しいのは承知の上で言いますが、これまで彼女はメンバーといる時、話をする時、決して輪の中には入らなかったんです。他の男性3人が輪を作っていて、そのすぐ側に彼女は寄り添って、会話に参加しているように見えました。それが普通だと思えるくらいとても自然だったので違和感もありませんでした。けどこの5ヶ月間、繭子は輪の中に飛び込んで行ったように見えました。3人の作る輪が、とてもじゃないですけど、明るい空気ではなかったからだろうと私は思って見ていました。繭子が思い切って飛び込んで、話を振って、リアクションして、盛り上げていました。もちろんメンバーの事が大切だから、自ら進んでやっている事だと思いはしましたが、時折見せるなんだか悔しそうな表情に、やっぱり誠さんのいない隙間というか、余白というか、それを埋める役割の辛さはゼロではないんだろうなと、思ったんですよね。今回全く、誠さんに落ち度なんてありませんしそういう事を言いたいわけではないんですけど、あの、その。
「ん? 大丈夫大丈夫、全部聞かせて」
誠にそう促されても、淀みなく話せる内容では無くなっていた。
-- 以前繭子が言ってた言葉を思い出しました。彼女はアキラさんの代わりにドラムを叩いていて、永遠にこの場所は自分の物にならないかもしれない、一瞬そんな思いがよぎる事があるって。今また、誠さんの代わりに笑顔で皆を盛り立てている。なんて素敵な人だろうと思える反面、何でそんなに辛い選択ばかりするんだろうって。
「…」
繭子は抱えた膝の間に顔を埋めて、私の話を聞いているのかすら分からなかった。
ひょっとしたら誰にも打ち明けていない秘密を、勝手にこの場で話してしまったかもしれないという怖さもあった。少しの沈黙があり、誠が何か言いかけたその時、繭子が顔を上げた。もう泣いてはいなかった。
「自分の為だよ」と繭子は言った。「トッキーには健気に見えてたかもしれないけど、もっと傲慢だよ、私。ただ、何がなんでもバンドを続けたかっただけだよ」
-- そうなのかな。
繭子は私に空いたグラスを差し出してこう言った。
「アクマだし、ワル子だよ」
気がつけば、ここへ来て繭子のビールは3杯目だ。ペースが速い。少し不安になる。
「物凄くよく皆の事観察してるね。仕事とは言え尊敬する」
誠はそう言って、私のリアクションを待たずに言葉を続けた。
「ついでに聞いてみたいのはさ、そんな時枝さんから見たURGAさんてどんな人?」
-- 話はできますが、その前に、さっき言った映像を見ませんか? 誠さんがスタジオに来て、別れを告げた日の映像です。
「時枝さんが、醜態晒したやつ?」
-- ふふ、そうです。その後、まだ興味がおありでしたら、私から見たURGAさんの話をします。もちろん言える事はそんなに多くありませんけど。
「何だろ、今すっごく気になるけど。良いよ、じゃあ、見よう」



(続く)

連載第34回。「居場所あるかな」

2016年、11月5日。
都内居酒屋、個室にて。
私の前にビデオカメラをセットし、テーブルを挟んだ向こうでは誠と繭子が並んで座り直し、小さなモニター画面を見つめている。5ヶ月前、あの日。繭子を呼んで来ると言って池脇がスタジオを出ると、私は伊澄と2人になった。そして ━━。
再録にはなるが、あの晩の伊澄の言葉を改めて掲載する。



「なあ。これさ。記事にするとしたらどんなタイトル?」
一人になった伊澄は、振り返る事もなくそう聞いた。
-- 『事件』です。
嘘みたいな明るい笑い声がスタジオにこだまして、泣き疲れた私からも、少しばかりの笑顔を引き出した。こんな人は見た事がなかった。もし私に出来る事があるならば、オロオロしている場合ではないと思った。
「あ、ちょっと待ってて」
そう言って伊澄はPAブースに入って行くと、間もなく缶ビールを4つ抱えて戻って来た。
冷蔵庫が中にあるようだ。ここへ通うようになって3か月、スタジオでお酒を飲むメンバーを見た事もなければ、もちろん外で一緒に飲んだ事もない。今夜が初めての事だ。
-- うわー、ありがとうございます!
「まあまあ、変な所一杯見せたからなあ。…口封じだよ」
-- あはは。
「じゃあ、お疲れさん、乾杯。…乾杯は変か」
伊澄と2人になるのは初めてではないが、バンドマンとしての姿しか知らない私にとっては、今日は初めて尽くしの日となった。
-- 乾杯。不思議ですね。なんだか、私今なにやってんだろうって思います。
「俺もだよ。なんだろうな、今日は」
-- 聞いていいですか?
「どうぞ」
-- 未練はないですか。
「っはは。あー。まー。どうだろう。こんな事言うと気持ち悪いかもしれないけど、全然終わった気がしないな、まだ」
-- お二人の関係ですか?
「うん」
-- それは、どういう。
「あいつも言ってたけどさ。好きだとか大切に思う気持ちって、そんな簡単に消えたりするもんじゃないって俺も思うんだよ」
-- はい、そうだと思います。
「実感がないだけって言えばそれまでなんだけど。別れたって言ってもお互い死んだわけじゃないし、またどこかで顔合わすこともあるだろう。別々かもしれないけどこの先も生きてくわけだし、何かが終わったって言うにはまだ早いかな。ただ、もう別に俺はいいかなっていう思いも、あるにはあるかな」
-- 別れる事を受け入れるという事ですか。
「それもそうだし、そもそもが、今日までの毎日が俺にとっては十分出来過ぎた時間だったんだよ。よく15年続いたなって思うよ。それに、どうせあと何年か何十年かしたら俺も死ぬだろ。だったらもういいかなって。また誰か別の女と出会って新しい関係をどうこうって話は、もういらないな。誠だけでいいよ。…うん、泣くとは思ったけど早いなぁ。聞いといてそれはないって」
-- そういう話は、もう昨日の段階で済まされていたわけですか?
「いやいや。俺も内心びっくりはしたからね。でもさっき言ったみたいに、足掻いてどうなる事でもないだろうなって、それだけは思ったんだよ。あいつがそうしたい以上、最後は黙って受け入れてやるのが男らしくて良いかなって。だってさー、何度も言うようだけど15年って、簡単に言うけど長いと思うんだよな。聞いたと思うけど、俺らあいつが15の時に知り合ってんだよ。15歳から30歳になるまでの女として一番、良い時期って言うとやらしい話になるけど、そういう思春期から大人になってく時期をずっと隣にいて過ごしてくれたんだって思うとさ。例えあいつの中にずっとアキラがいたんだとしてもだよ。それでも俺は感謝する。俺だって心地良かった、あいつといた時間はずっと。…俺さ、今だから言うけどめちゃくちゃあいつの顔好きなんだよ。それは多分綺麗だからとかそんなんじゃなくて、あいつだからだと思うんだよな。誠だから、あの顔だからじゃなくて誠だったから、横にいて笑ってる事が凄く心地良かったんだって思ってる。だから今でもそうだけど、こんな風に終わっといて信じられないかもしれないけど、俺からはあいつの嫌いな所一個もないな。普通どっかしらなんかあんじゃん、15年も一緒にいたら。同棲しなかったってのも関係あるかもしれないけど、いつも笑ってくれてた気がするんだよ。少なくとも俺がバンドに打ち込んでこられたのはそれを許してくれてたあいつのおかげだと思ってるし、色々支えてもらったっていう実感はあるよ。…そう考えると、あいつやっぱりスゲーな。アキラへの思いをずっと抱えたまんまで、それを隠したまんまで、俺の横にいて、それでも笑っていられたんだから、スゲーなあ。優しい奴だと思うよ。…良い15年だった」
-- はい(それしか言えなかったのだ)。
「はい。あ、肉まんあるんだった、これで飲むか」
-- 差し入れはいつも肉まんでしたね。翔太郎さんの好物なんですか?
「どうだっけな。忘れた。まあ何にせよこれでしばらく食うことはないな」
-- 付き合うきっかけは、翔太郎さんの方から?
「だったと思うよ。具体的なきっかけは曖昧にしか覚えてないけど」
-- 人生、何があるか分かりませんね。
「なあ」
-- 取られた悔しさのようなものはないですか。
「アキラに?んー、ないかな。負け惜しみかもしれないけど、取られたと思ってない。あいつは死んだんだし、実際に15年付き合ったのは俺だから。変かな。15年得したくらいに思ってるよ」
-- あっぱれです。
「馬鹿みたい?」
-- いえいえいそんな。ただ私は我慢出来ないですけどね。嫉妬で狂います。それにしても、最後まで綺麗な人でしたね。ちゃんと、面と向かって感謝と謝罪を述べておられた。普通言えませんよ、あんな風には。
「サバサバしてたなー。まあ、その方がいいよ。がんがんに泣かれても困るし、今のあんたみたいにな」
-- 最初、こういう話になるとは思ってもみなくて一瞬は、なんだあの女!って腹立ったんですけど、肉まん2袋抱えてやってきた誠さん見て、あーダメだ、嫌いになんかなれないって思っちゃいました。
「あははは!そりゃーまーなんというか、ありがとう」
-- 色々想像しちゃいました。きっと、いつもより多めに買って来られたのも、これで最後だっていう思いがあったんだろうな、とか。
「そうかもしれないな。…自分で言って自分で感動泣きとかしないでくれるかな」
-- で、本当なんですか。
「何が?」
-- URGAさんとの関係は。
「何もないよ」
-- ちょっと信じられないです。
「っはは! 女って本当そういう所面倒だわ。何もねえよ、それはあの人に対しても失礼だろ」
-- さっき、一度スタジオに戻られた時電話していた相手は、誠さんですか、URGAさんですか。
「何でそんな事答えなきゃいけねんだよ(笑)」
-- 女だから言いますけど、URGAさんにはあると思いますよ、翔太郎さんに対する気持ちが。
「あるわけねえだろ(笑)。仮にそうだとしても、俺達の間に何かあったかって言われても何もないとしか答えられない」
-- ああ、今後そのご予定があるとか。
「あ、え?酔ってんのか?」
-- 酔ってますよ。色んな感情が溢れ過ぎて吐きそうですもん。で、どうなんですか、URGAさんとビッグカップル誕生なんですか。
「誕生はしないと思うぞ」
-- URGAさんですよ? 断る自信ありますか。
「ないよ、ないない。断るもなにも、そんな事言われないって。例え何かの間違いで、そういう話になったとしても、今それをあれこれ考える余裕がそもそもないよ。本当にさ、また誰かとイチから付き合って、信頼とか愛情とかそういうのを育む時間を持つくらいなら俺はバンドに集中したいよ」
-- なるほど。URGAさんの事はどう思いますか。
「どうって?」
-- ミュージシャン同志ならもう絆に近い信頼がお二人には生まれつつあると思います。そこを飛び越えて人生のパートナーとして見る事が出来る人ですか。
「見るだけならなんぼでも見れるよ。そりゃあれだろ、あの人に魅力があるかないかって話じゃねえか。あるに決まってるだろ。実際に見て触れてあの人の凄さや良さに気づけない奴はただの不感症だよ」
-- だったらもう幸せになって下さいよ!
「え?」
-- 幸せになって下さい!
「どうした。幸せだよ俺は。どうしたんだよ」
-- あんまりだと、思って。
「同情かよ。面倒くせえ酔い方しやがって」
-- いけませんか。幸せになってほしいって願う事は面倒くせえですか。
「ごめんごめん、もういいもういい。竜二全然帰って来ねえじゃねえか。ちょっと電話してみる。…何で俺が謝ってんだ」
-- 私に出来ることはありませんか。なんなら、私URGAさんの連絡先分かるんで、何か伝えたいことあったらすぐにでも連絡取ります。ちょっと早めに帰って来てほしいとか。
「大丈夫。連絡先なら俺も知ってるから」
-- やっぱりURGAさんなんですね、さっきの電話。
「あははは!スゲーな!時枝さんスゲーな!久々にしてやられたわ!」
-- ええー、やっぱりなんか嬉しいです、もしそうなら、嬉しいってのは誠さんに失礼か、でも、うん、バランスですよバランス、終わりがあってはじまりがあるんですよね、そう、そうこなくっちゃあいけませんよ、人生はね、何があるか分からないけど、何があっても良いんですよ、特に男と女ってのは、よく分からないくらいがちょうどいいバランスなんですよ、きっとね、私はそう思いますよ、ちょっと私の方からも連絡してみますね、あ、ツアーに出ちゃいましたけど、どうしましょ、明日連絡したって、もう海外ですね、あー、ニアミスって奴ですねこれ、ニアミス、あー、しくじったなー、こういう所がねー、人生って上手くいかないなーって思う瞬間んすよねー」



終わり方が時枝のかつてない醜態だった事もあって、最後の最後には誠も繭子も少しだけ微笑んでくれた。しかしそれでも見せた事を後悔してしまうくらい、2人は目と言わず顔全体を真っ赤にして、唇をぶるぶると振るわせて泣いた。映像が終了してもしばらくの間は誰も言葉を発せなかった。無駄だと分かっているせいか、2人とも涙を拭う事をせず、ただ空中のどこか一点を睨み付けて、思いを巡らせているようだった。
途中何度も、誠が怒ったような、嘆くような表情を見せたのが印象的だった。余りにもストレート過ぎた伊澄の言葉に、覚悟を決めて別れたはずの彼女の気持ちがあっさりとひっくり返されたように見えた。今こうして戻って来た以上ひっくり返るという表現は適切ではないが、そのぐらいの衝撃を受けている様子だった。
正直繭子の涙が誰に対しての物なのかは分からない。頬杖をついて画面から眼を背け、伊澄の言葉に耳を傾けながらただひたすら泣いていた。その表情には強さすら浮かびとても美しかったが、感情まで読み取る事は出来なかった。
-- 誠さん、全然一方通行なんかじゃなかったですね。
「…っはは、そうだね」
なんとか答えた関誠の笑顔が悲しみに歪む。テーブルに肘を置いて半ば顔を覆うようにしてモニターを見つめていたが、それすらも辛い様子で手首に自分の両目を押し当てる。首筋が張り詰め、物凄い力で震えを止めようと頑張っているのが分かる。
「私は、あの人に」
-- …はい。
「…なんて事をしたんだろう」
多くの涙と一緒に吐き出した誠の言葉に、繭子が振り向いた。
震える誠の肩に手を置こうとして、やめる。そして唇を噛んで、反対側を向いた。
「こんなはずじゃなかったんだ」
彼を悲しまさせる事だけは避けたかったはずなのに。
誠の涙と震える声がそう物語っていた。
-- この映像を誠さんに見てもらえる日が来る事を毎日願ってきました。結局これは今日まで誰も見ていません。大成さんが一度見ようとしたんですが、開始直後すぐに止めて「これは無理な奴だ」と仰って以来、私の方から誰かに話す事もしませんでした。昨日誠さんが戻っていらして、一つ肩の荷が下りました。毎日家に帰ってデータをバックアップしてるんですが、この映像だけではカメラから移動出来なくて困りましたよ。いつ、誠さんが戻って来ても良いように、ずっとこうして持ち歩いていましたから。
「…ありがとう」誠はそう言ってなんとか微笑みを浮かべ、「見れて、良かったよ」と言葉を繋いだ。
「私見て良かったのかな」
と言って繭子は苦笑した。
「あーあ。ホント格好良いなーちくしょー」
と繭子が誠の顔を覗き込むと、
「揶揄わないでよ、今超打たれ弱いから」と彼女は視線を外す。「…でも、おかしな所がいくつかあったな」
-- どこですか?
「えーっと、そう。肉まんは翔太郎の好物じゃなくて私の好物だよ」
-- 繭子に聞きました。翔太郎さんに初めて買ってもらったんですよね。
「そう」
-- コンビニじゃないんですね。
「違う。翔太郎の昔の後輩が経営してる中華屋さんで出してる奴なの。本当に美味しいんだよ。それにそこのお店じゃないと冬以外買えなくなっちゃうからね」
-- そうですね。
「それに、付き合い始めももちろん翔太郎からじゃなくて私から。告白というか、もう強引に側から離れなかったのが始まりなんだけどね。あとね、あと、分かり切った事だけどさ…私が翔太郎を支えた事なんて一度もないよ。私の方がずっと支えてもらってたんだから。そんな、…うーわ、もうこれダメだね、ごめん」
そう言って誠は俯き、止めようもない涙を流れるままにした。
繭子は誠の体に一切触れようとせず、隣で三角座りをしたまま私に言った。
「でも、URGAさんて本当に、翔太郎さんに気持ちあるかなー」
-- 繭子にはそう見えない?
「んー、実際の所はそりゃ分からないよ。だけどもし、んー、どう言おうかな。…こんな言い方失礼になっちゃうかもしれないけど、あんな風に、いつものURGAさんみたいに割と大っぴらに出せる気持ちって限界があると思うんだよね」
-- 限界って?
「本当の本当の気持ちはそんな簡単に言葉に出せないんじゃないかなって。分からないよ、そういうの全部言葉に出して伝えて行こうって決めてる人なのかもしれないし、彼女にとっては飄々と話してるようでも、実は心臓バックバクなのかもしれないし。だけどちょっと違うと思ってるかな、私は。もっと、なんだろう、これ違ったら本当に彼女を傷つけちゃう事になるから怖いんだけど、もっとあの人は、全然遠い所を見てると思うな」
-- 遠い所。
「良い悪いの話ではないよ。だけど私が感じるURGAさんの魅力って言葉に言い表せないぐらい大きくて、んー、漠然とした? 違うか、でもそういう捉えきれない儚さにあったり、温もりにあったりするんだよ。歌詞が良いよねとか、歌が上手いよねとか、あの曲泣けるよねっていう一つの言葉や感想で表現出来ないもっと上の方にある物、というか。だから、恋愛や結婚が近場の安全な夢っていう印象になると、そんな風には全然思ってないから困るんだけど、彼女はそこを飛び越えたもっと先の遠い所を目指して歩いてる人なんだと思う。んーと、結局何が言いたいかって言うと、URGAさんが私達に見せてる翔太郎さんへの好意は、言い方あれだけどあの程度でいいならもうとっくの昔に私の方こそ、繭子はきっと翔太郎さんと付き合いたいんだろうなって皆に思われてたと思うんだ。本人前にして本気のトーンでは言葉に出さないし、出せないけど、めちゃくちゃ好きだし」
-- うん、それを言い出したら私も好きだわ。
「そうでしょ。うん、だから、そんな感じ。まあ、私はURGAさんでも反対はしないけどね」
-- 隣に誠さんがいてもそれが言えるんだね。
「誠さんにも、URGAさんにも、翔太郎さんにも。皆等しく幸せになる権利はあると思うよ」
-- すっごいな繭子は。凄い話聞いた。誠さんがね、繭子がここへ来るまでに、ガールズトークは繭子の方が得意だって教えてくれたの。本当だったよ。
「…いつガールズトークした?」
-- えええ?
ひとしきり泣いた誠がようやく笑い声をあげる。顔は下を向いたままだ。
両目をギュウっと閉じて、パッと開く繭子。
「はー、めっちゃ酔った」
-- ビール飲み過ぎだって。何杯目?
「え、4?」
-- うそうそ、もっとだよ。6? 7? 強いんだね。
「いやいやビールだし」
-- 今酔ったって言ったでしょ(笑)。
「あははは。あのねー、良い事教えようか。誠さんはね、めっちゃくちゃ翔太郎さんの事好きだよ」
-- 知ってるよ。
「さっきもさ、全然大した男じゃないみたいな事言ってたけどさ、あんなん大嘘だからね。もう超デレデレするし、甘えるし、大人しいし、でも言いたい事言うし、綺麗だし、可愛いし、ポンコツとか平気で言っちゃうけど、あんなのね、ただの笑い話だよ。もうね、めっちゃめちゃ好きなの私知ってるから。そこはね、間違いないよ」
-- うん。知ってるよ。
「ダメダメ、もっともっと。もっと凄いから。私、そういう誠さんが大好きなの。もう泣きたいくらい好きだから。だからトッキーありがとうね。私からもありがとう」
-- 私は何もしてないけどね。けど役に立てて良かった。
「よし、カラオケ行こうか!」
急に繭子が目を輝かせた。
-- え? 行かないよ、何言ってんの、結構酔ってるじゃない。
「え、行くよ!誠さん久しぶりに行こうよ」
勢いよく誠の肩を揺さぶる。誠は肩から上をグラグラさせて笑う。その両目はまだ涙に濡れている。
「ほら、誠さんが笑ってくれるあの物真似やったげるから」
-- 物真似?
「行く?」
-- 行かなきゃ教えない的な流れ?
「流れ」
-- 記者魂を分かってるねえ。悔しいけど行くしかないわ。誠さんは大丈夫ですか、お体の具合は。
「ん?うん、それは多分大丈夫」
「明日仕事?」
「休み」
「じゃあ行こうよー」
「分かった分かった、揺するな」
しかし正直私は不安だった。繭子のこんな状態を見た事がなかったからだ。このテンションが良い事なのか悪い事なのかも分からず、初めて見る子供のような彼女の勢いにただ引っ張られているに過ぎない。この時の私は決して雑誌記者と呼べるような距離感で仕事が出来ているとは言えなかった。
唯一褒めるとするなら、考えるより先に伊澄翔太郎へ連絡を入れていたことだ。
経験から来る条件反射だった。
これまでお酒の席で取材をすることも多くあったので、誰がどのくらい酔っているかを見極める事も自然と気を付けるようになっており、今夜の繭子は普段とは違うと思った時には、トイレに立った振りをして伊澄に電話していた。伊澄は少し迷惑そうだったが、場所を聞いてくれたので安心した。



あえて残さなかったのでここから先の映像はない。
本来はこういったプライベートな部分を書き起こすべきではないと思っていたが、
メンバーと協議の上『面白いから』ここに残す。
思った以上に繭子は酔っていた。
誠の話によると、居酒屋で合流した段階でもう既に出来上がっている印象があったらしい。
私はそこまでとは思わずせがまれるままビールを注文した事を悔やんだ。
某カラオケチェーンに場所を移した頃には、真っ直ぐ歩く事すら怪しい状態だった。
意識ははっきりしているのだが、やたらとぶつかって来るようになり、終始ケラケラと笑っていた。こちらもそんな繭子を見ているだけで楽しかったし、酔っていることは分かっていながら、特に深く考えなかった。
そして忘我の域に達している繭子の歌声は、マユーズの時とはまた違う荒々しさと女性らしい魅力が同居しており、繭子贔屓の私にしてみれば貴重なお宝ショット満載、といった至福の時間ですらあった。
結局繭子の言った「物真似」とはマキシマムザホルモンの「シミ」という曲の事だった。
ホルモンはボーカルパートを取れるメンバーが3人もいる稀有な実力派ロックバンドだが、繭子は全てのパートを1人でこなす事が出来た。
池脇竜二ばりのマイクパフォーマンス、絶叫、アニメ声、しなり、そして咆哮。
それはそれは、物凄いテンションと勢いだった。しかしいかんせん酔い過ぎだった。
途中からは関誠が支えないと立っていられなくなり、うるさい音楽が苦手だという彼女では辛そうなので私が代わった。
1時間程経った頃、トイレに行った繭子が戻って来なくなり、心配になった私が様子を見に行った。
廊下の突き当り、男女別のトイレの前で繭子が2人の若い男にナンパされていた。
所謂壁ドン状態にあって、繭子はどこか虚ろで意識があるのかないのか見た目には分からなかった。
私が繭子の名を呼んで駆け寄ると、気づいた男のうち一人が繭子の肩を抱いて引き寄せた。
「触んなよ!」
繭子が絶叫し、男を肘で突き飛ばした。相手も酔っている。ふらつきながらも怒りに任せて右手を振り上げた。私はそちらに体当たりし、繭子の体を抱きとめた。
座り込んでしまった繭子を庇って私もその場にしゃがみ込む。
幾つか混じりあった男達の怒声が頭上から聞こえ、硬い物が私達にぶつかってきた。
私が思わず悲鳴を上げると、繭子が立ち上がって「気持ち悪いんだよお前ら!」と叫ぶ。
何倍にもなって男達の怒声が返ってくると身構えた瞬間聞こえたのは、誠の声だった。
「翔太郎!手を出したらダメ!」
私は目をつぶっていた事に気づいて、見上げる。
伊澄翔太郎がそこにいて、私が突き飛ばした男の胸倉を掴んでいた。
彼の右拳は大きく振り上げられていた。
「ううー、気持ち悪い!触られた!めっちゃ気持ち悪い、もうなんなのこいつら、めっちゃムカつくんだけど!」
涙を流して両腕を擦る繭子。伊澄は胸倉を掴んだ左手で男を突き飛ばし、繭子を誠の方へ連れていく。私の手を掴んで引っ張り上げると、「ごめんな」と小さく言った。
もちろん若い男2人はそれで治まるはずもなく、よく分からない言葉を叫んで伊澄に食ってかかる。そこへ店員が2、3人現れて止めに入ってくれた。何人か目撃者がいて当事者は若い女と男2人で、伊澄は助けに入っただけだと証明された事もあり大事には至らなかったが、酔った繭子がずっと興奮状態のまま「かかって来いよお前ら!おい!気持ち悪いんだよ!」と叫んでいた。誠は繭子のフードを強く引っ張って被せ、強引にその場から離れてようやく落ち着きを取り戻した。
伊澄の車の後部席に3人並んで乗せてもらった時初めて、震えが来た。
一言も口を利かない私を気遣って、伊澄が何度も「大丈夫?」と言ってくれたのだが、余計泣けて仕方なかった。
繭子は完全に意識を失ってしまい、誠の腕の中で眠りに落ちた。
「なんで?」と伊澄が聞くと、
「全部私が悪い。絶対、怒らないであげてね」と誠が言った。
「こんなことで怒れる程真っ当な人間じゃねえよ」
前を向いたまま伊澄はそう答えた。
誠が私の顔を覗き込み、いける?と囁いた。
はい、と答えると私の手をぎゅっぎゅっと2回握ってくれた。
たったそれだけで私の震えはぴたりと止まった。
こういうやり方も、昔伊澄に教えてもらった方法なんじゃないだろうかと、幸せな妄想が膨らんだ。


誠に責任があるなど私も繭子も思いはしない。ただ彼女がそう言いたくなる気持ちは少し理解出来た。
昨晩、自分の病を打ち明けた彼女に、ドーンハンマーは打ちのめされるような衝撃を受けて強がることすら出来なかった。
ある者は頭を抱えて咽び泣き、ある者は天を仰いで絶叫し、ある者は過呼吸になり、ある者はガタガタと震え、ある者は我を忘れた。
そんな時だった。
「大丈夫!」
それは叫びにも似た関誠の声だった。
「私、絶対死なないから。その為に翔太郎と別れてすぐ、おっぱい全摘の手術受けたんだよ」
「…全摘? …全部?」
絞り出すような声で繭子が顔を上げて言った。
「そう。全部取った。両方。だから今ぺったんこ。それが、5ヶ月前の話」
少しだけ、話が見えたような気がした。
背を向けていた池脇が振り返り、神波が目を見開いて誠を見つめる。
関誠は身長が170cmある。黒のロングコートを着てそこに真っ直ぐ立っているだけで目の眩むような美しさ、格好の良さだ。少なくとも今彼女には、乳癌の診断を受けて両乳房全摘出の手術を受けたような悲壮感はない。それどころか、やっと本当の事を言えたとばかりに、その顔には幸せそうな晴れやかさすらあった。
「ごめんね。皆には盛大な嘘をついたんだ。
嘘が嘘だってバレたら意味がなくなるからさ。
天国のアキラさんに協力してもらって、本気で嘘ついた。
私は、翔太郎以外の人を好きになった事は一度もないです。
こんな重たい事本当は言いたくないけどさ、こうやってここに立って、
皆に謝りたいっていうのは、5ヶ月前からの私の願いだったから。
オジサンが約二名程、何やら疑ってたような気もするけど、
出会ってから一度だって浮気したこともないし、
もう、言わないと損するだけだから言うけど、
ずっと好きなまま今日まで続いてるよ。
最近あんまし言ってこなかったら、懐かしいでしょ。
はーあ!やっと言えた!
…乳癌が発見された時、あー、私死ぬんだって思ったよ。
アキラさんでも勝てなかったものに私が勝てるわけないって、そう思った。
だから覚悟を決めた。
だって翔太郎と付き合ったまま私が死んじゃったらさ。…また…。
もう翔太郎のあんな悲しい顔は二度と見たくないって思ってたから。
私アキラさんが死んだ時、これから一杯翔太郎を笑わせようって決めたんだよ。
翔太郎の横でずっと笑って生きようって。
思い返せばそれはもう、本当言えばもっとずーっと前から決めてた事だから。
ガタガタに調子崩して皆に会いにこれなかった奴が何言ってんだって、
思われるかもしれないけどさ。
皆のおかげでなんとか笑顔で戻って来れてからはずっと、
もう悲しい思いや寂しい思いを皆が味わわなくていいように、
めちゃくちゃ皆を、翔太郎を笑わせるんだって、それだけ決めて生きて来た。
だから今回の事は全部一人で決めて、皆と別れて、手術を受けて、治療を始めた。
それでももし駄目だった時は、誰にも知られなくていいって、そう思った。
けど、自分でもびっくりなんだけどさ。
私、皆と知り合ってから5ヶ月も翔太郎に会わなかった事がないから、
実を言うとそれが一番辛かった。
ここで翔太郎にありがとうを言って、先の見えない夜を過ごしたのが一番辛い日。
二番目に辛かったのが、このまま癌に負けて皆ともう会えないままいなくなるって想像した日。
三番目に辛かったのが、30年ここにあったおっぱいを無くした日。
本当は温存療法でも良いレベルの小さなガンで、早期発見の、非浸潤性。
片っぽのおっぱいにしかなくて、先生にも、大丈夫ですよ、治しますって言って貰えた。
嬉しかった。嬉しくて一杯泣いた。
だけどそれでも私、怖くて怖くて全然安心出来なかった。
先生と何度も相談して、迷惑かけちゃうから事務所にも報告して、今後の事を考えて、
再発や、予防の事を一杯話をして、その結果全部取って下さいってお願いしたの。
もちろんそれでも不安は消えないんだけどね。
だけど、もう翔太郎と一緒にいられないとしても、
皆に嫌われて別の道を行くんだとしても、
めちゃくちゃ寂しいのは分かってたけど、それでも私は生きていたかった。
もう本当に、最後はそれしか考えられなかった。
生きてさえいれば、また皆の事見れるからさ。
CDも聞けるし、こそっとライブにも行けるし。
ラジオも、PVも、インタビューもさ、私生きてないと駄目じゃんか。
どんだけ皆が頑張ってもさ、あの世からは見れないんでしょ?
だから私も頑張ったよ。
手術して、退院して、リハビリやって、お薬で様子を見ながら、5ヶ月。
なんとかここに戻ってこれた。
だけど、よく考えたらさ、私の方から勝手にサヨナラしてるからさ、
どんな顔してここに来て良いかずっと分からなかった。
…まあ、なんだかそれもこれも、どうでも良いような気分でもあるんだ。
私まだ生きてるしね。
とりあえず、勝ったし。
後はもうなんだって平気。
うん…色々想像したよー。
繭子にも織江さんにも嫌われただろうなー。
最後まで大成さん優しかったなぁ。
竜二さんがいれば、…翔太郎はきっと大丈夫だよね。
大丈夫であって欲しい。

だから、…本当にごめんなさい!

翔太郎!私この15年で一番頑張ったよ!褒めてくれる?

それから、…私まだ翔太郎の側に、居場所あるかな」

連載第35回。「愛情、幾つかの形」

2016年、11月16日。


午前中からスタジオを訪れて、鋭意制作中の新作アルバムを中心に話を聞く予定。
練習前の1時間をいただいて、現時点での解禁前情報などを聞いていきたいと思う。
お酒に酔った繭子が深夜のカラオケ店で男性客に絡まれた事件から、11日後である。
あれからスタジオを訪れるのは初めてだ。
ドーンハンマーのアメリカ行きを聞いてから、3日に一度のペースで取材に訪れていた為か、なんとなく気まずい状態のまま顔を見せなくなった私の携帯に、昨晩繭子から連絡が入った。通い詰めて早くも8ヶ月になるが、これも初めての事だった。
次はいつ来れそう?
電話越しに聞く繭子の声に舞い上がった私は、本当は2日後を予定したいたのだが「明日行く」と即答し、おかげでキャンセル出来ない仕事を片付けるために徹夜したのだが、それはどうでもいい。


バイラル4スタジオ。玄関を入ってすぐの階段を上って、スタジオ階である2階に到達した時、メンバーの楽屋階である3階から降りて来た繭子と鉢合わせした。思わず「ああー!」と女子高生のような声を上げてしまい、お互いに照れた。
繭子は私の顔を覗き込むなり顔の前で両手を合わせ、
「こないだは本当ごめん。それから、ありがとう」
と言った。ありがとうの意味はよく分からなかったが、おそらく繭子の事だ。会った瞬間こういうやりとりになるだろうとは予想していた。
私は彼女の手を下ろして、あれは本来私が未然に防げた事態だから、こちらの責任でもあるのだと謝罪した。
「もー、そんなわけないじゃないよー」
と繭子は困ったような顔をして、私の両肩をぽんぽんと叩いた。
「本当にごめん。埋め合わするからね」
埋め合わせしなければいけないのはこちらのほうだ!と叫びたかったが、話が進展しない事は分かっていたので、ただにっこりと笑って頷くにとどめた。


-- 朝早くからすみません。
「全然大丈夫、そんなに早くないし」
午前8時50分だ。
-- まだ繭子しか来てないよ(笑)。
スタジオの応接セットには私と繭子の2人しかいない。
しかしなんとなく、さっきまで人かいたような気配が残っている。
テーブルの上に何枚かの書類と、飲み残しの入ったマグカップが3つあるからかもしれない。
「ううん。竜二さん以外皆いるよ。昨日泊ったんだよ、上に」
-- そうなんだ。一番遠い竜二さんだけ帰ったの?
「帰ったっていうか用事があったみたい。2日連続で上に泊って、昨日の晩出かけてったの。私と翔太郎さん達は昨日泊まり。大成さん達は今朝早く着替えに戻ったけど、もう戻ってると思う」
-- もう帰るのもしんどいんだね。
「うーん、やる事一杯あるから、勿体ない気がしちゃってね。帰っても、寝て、シャワー浴びてまた来るからさ。大成さんトコぐらい近いといいんだけど、私は基本的に送ってもらったりが多いから、迷惑だってのもあるし」
-- なるほど。翔太郎さんはじゃあ、まだ寝てるのかな?
「んー。かもしれないね」
-- 大成さんって以前、楽屋は物置だって言ってたけどな。
「あんまりこもってるの見た事ないけど、織江さんの部屋もあるしね」
-- ああ、当然そうだよね。どうしよう、先に繭子とお話してようかな。
「してるじゃない」
-- いや、バンドの話。仕事の話だよ。
「そうだね(笑)」
-- 朝ごはん食べた? 一応差し入れ持ってきたけど。
「そういう所本当好き。さっきから視線がその袋にしか行かないもん」
-- あはは、露骨。大したものは入ってないけどね。おにぎりと、パンと、サンドイッチ。
「全部」
-- あはは、駄目だよ。繭子にはスイーツもあるよ。
「愛してる」
-- (笑)。今って、ニューアルバムの制作とマユーズの曲と、並行して作業を進めてるの?
「どっちかっていうとマユーズを先に仕上げたいんだよね。おまけだし、そこにあんまし時間かけてられないよね」
-- もう曲名や歌詞は繭子の書いたもので決定?
「うん。もうほぼ出来上がってるよ。歌メロもつけてもらって、あとはひたすら歌って自分の物にする作業を毎日。めちゃくちゃ格好良いから期待してて良いよ」
-- 早いねえ!ついこないだマユーズの話聞いた所なのに。
「仕事の出来る男達なので」
-- いや本当そうだよね、冗談ぽく言ってるけど。実際そうだもんね。
「うん。マジで言ってるよ」
-- じゃあ、あとはレコーディング?
「そう。同時にPVの撮影もやるから、今月中には完成させたいね」
-- あと2週間だ。忙しいねえ。
「なんとかなるよ。遊びだと思えばなんだって楽しい」
-- そうだね。ニューアルバムは3月に間に合うのかな。何曲ぐらい決定してるの?
「今、毎日そこをどうするかで悩んでるんだよね。曲目は割とスムーズだけど、曲順でね。いくつか候補があるじゃない。それを実際に演奏して、次の曲へ移る時の流れの違和感とか嵌り具合を模索してるというか」
-- 曲順は結構大事にしてるもんね。
「オーソドックスだけど、ライブでのパフォーマンスに直結してるからねえ。全部通してやらないまでも、飛ばす事はあっても順番が入れ替わる事はないからね、私達って」
-- うん。でもあなた達の曲って粒が際立ってるのが多いから、繋がりっていう事だけを考えるのは難しそう。
「あああ、うん、正しくそう。そこなの。今回は割とコンセプトというか、考えてる事はあるから決めやすいのかなあって思ってたんだけど、全然決まらない」
-- テーマがある?
「方向性みたいなものかなあ」
-- 様式美系のメロディアスなバンドだと、それこそ速い曲、遅い曲、とかで曲順組めるけど、ドーンハンマーは基本全曲速いもんね。
「うん。それでも翔太郎さんや大成さんにしてみたら、全部試して完璧な流れを作りたいっていう意識があるみたい。竜二さんにしても、具体的な歌詞の内容は言わないけど、この曲の後にこれだと気持ちが上手く乗らないとか、やっぱりあるみたいで」
-- ああ、分かるなあ。あの人達は絶対そうだよね。さっき繭子の言った考えてる事の方向性ってどういうものなの?
「ん。後で決まってる曲目のリスト見せてあげるよ。それ見て予想してみて」
-- へえ、面白いね。



嗅ぎ慣れた煙の臭いが鼻の奥をくすぐる。私が振り返ったのと、伊澄がスタジオに入って来るのはほぼ同時だった。
良く見るグレーのカットソーの上に、ライダースを袖を通さず羽織っている。右手には煙草、左手にはスマホ。
-- おはようございます。
「びっくりした。おはよう。…ああ、こないだは悪かったな」
-- いえいえ。あ、翔太郎さんにも差し入れです。タバコ。
「嘘、また? そんな気ばっか使うなって。あんた仕事しに来てんだから」
-- (笑)、これぐらい普通ですよ。
「そんな事ないだろ」
-- 買ってこないと機嫌損ねる人もいますよ。
「っはは。ぶっ飛ばせそんな奴。あ、2個? じゃあ」
伊澄は尻ポケットから財布を取り出すと千円札を抜き取って差し出した。
-- いやいや、ですので、差し入れですから(笑)。
「何言ってんの。ダメだって」
-- ええー。でもこれ貰っても私また買ってきますよ。
「じゃあ丁度いいよ」
「貰っときなよ。絶対ひっこめないよ」と繭子もダメ押し。
-- 却って申し訳ないです。変なタイミングでお金使わせただけでしたね。
「いや、いいよ。織江の仕事が一つ減ったし」
-- なはは、そういう事でしたら。
「ありがと」
伊澄はそう言うと、羽織っていたライダースを脱いで繭子に差し出した。
私と伊澄のやりとりを楽しそうに見ていた繭子の目の色が変わる。
「…嘘ぉ!」
朝には似つかわしくない声量で繭子が叫び声を上げる。
私とビデオカメラに向かって一瞬ライダースを広げて見せ、そして自分の目の前でまじまじと見つめる。
-- アギオン!?
予想していたよりずっと大きな白文字で、肩幅一杯にペイントされている。
年季が入って掠れまくってはいるものの、却ってそれが味を出している。
「…うーわああー」溜息交じりの繭子の声が、最後には震えに変わった。
「やるよそれ。着るなら」
「嘘!? うわ!」
-- これって例の、卒業式の時翔太郎さんが着てたやつですか?
「よく知ってんね」
-- まだ持ってたんですねえ。
「もうダメですよ!誰が何言ったって返さないですよ!」
「誰も何も言ってないだろ」
「あー、次のシャケ写これで撮ろうかなあ」
-- いいねえ。でも大きくない?
「関係ないよそんなのー」
「洗濯機で丸洗いして縮めといたから、繭子ならそんなに違和感ないと思う」
「えー!ありがとうございます。今年これウザいぐらい着ると思います。竜二さんと大成さんが怒って違うライダースくれるまで着ます」
「ははは!おお、たくましいなお前」
「誠さんが嫉妬してグレース(・コンチネンタル)くれるまで着る!一生着る!」
「まあまあまあ、…なんか怖いわお前、やっぱ返し」
「イヤです!」
-- 泣いてる(笑)。でもこれは嬉しいよねえ。
「ここ。ここらへんにきっと私の涙と鼻水とファンデーションが残ってるはず!」
「だから丸洗いしたって」
「残ってる!」
「怖い怖い」
-- 着てみなよ。
「ええ!そうだよねえ。着るよねえ。見るもんじゃないよねえ!」
立ち上がって袖を通す繭子は涙を流しながら笑っている。
ただ憧れのバンドマンから服を貰ったとか、そんな可愛らしいエピソードとは訳が違うのだ。一見冗談みたいにはしゃいでいる繭子の笑顔が震えているのが分かって、私も伊澄も茶化せなくなってしまった。
「どうかなぁ。似合うかなぁ」
-- スッゴイ似合ってる。似合ってるよ。
「翔太郎さんは?」
「ん?ちょっと大きいけど、まあ、いいんじゃないか」
-- 背中のペイントもちゃんと見せてよ。
「どお!?」
繭子がくるっと回った隙に、私は急いで涙を拭き取った。
カシャ。
伊澄が繭子の背中を撮る。
「こっち向いてみ」
「あい」
カシャシャシャシャシャシャ!
「スゲー連射しちゃった」
まだ静けさの残るスタジオ内に繭子の明るい笑い声が響いた。


池脇と神波の到着を待つ間、伊澄と繭子にお話を伺った。
伊澄翔太郎(S)、芥川繭子(M)。

-- タイトルはもう決定しましたか?
S「ん?何の」
-- ニューアルバムの方です。
S「タイトルはまだじゃないかな」
-- 曲目は割とスムーズに決まっていると先程繭子から聞きました。やはり先日お伺いした通り、大成さんの曲がそのままタイトル候補になっているんでしょうか。
S「そのつもりではいるけど、まだ決定はしてないかな。マユーズの方先作ったから、アルバム用の曲ってまだ揃ってないんだよ。今決まってってるのは既に作った曲だし、あと何曲かは書き下ろす予定。でも曲名をアルバムタイトルに持ってくるかは、正直どうかな、分からないな」
-- 今までもなかったですもんね。『NO OATH』が白紙になったんでしたら、タイトルは本当に未定なんでしょうね。ですが私の経験上、ソングライティングの早さも、ドーンハンマーが一番です。3月に出す事が決まっていて、今から書き下ろすとか普通言えないですよ。
S「よっぽど書けない奴か、異常に早い奴かだもんな」
-- そして異常に早い人達なわけですが。
S「一から作るか、骨組みだけある曲を膨らませるかで違ってくるけどな。でも曲を仕上げるスピードが速いのは大成じゃないかな。俺は自分のギターリフとか短いフレーズはよく浮かぶけどね」
-- 物凄い数のストックをお持ちなんですよね。
S「うん、まあ」
-- 傍から見れば、よくそんだけポンポンとリフが飛び出すもんだなって思うでしょうね。
S「これで一曲丸ごと浮かぶんなら最高だろうけど、部品だけボロボロと零れるように出てくるから始末が悪いよ」
M「ボロボロ零れるんだって」
-- ホゲー。
M「ホゲー(笑)」
S「なんだよ(笑)。それを言うなら大成も俺と同じで結構ストック持ってるよ。今のバンドの方向性になってからは6:4か7:3で俺の曲が多いんだけど、俺には書けないメロディをばんばん持ってくるし、クロウバー時代みたいにあいつ一択じゃないおかげでやっぱ溜まってくんだって。だから選択肢に困らないよな」
M「そうですね。でも所謂デスメタルとかブルータルっていう言葉が似合うのは大成さんですよね。最近のテクニカルなリフをメインにした音数の多い楽曲なんかは翔太郎さんが本当に天才的な切れ味ですけど、獰猛さのある突進力とかのイメージはもともとは大成さんが作りましたよね」
S「元クロウバーとは思えないよな」
M「綺麗な曲が多かったですもんね(笑)」
-- 速さの中でメロディが際立ちますよね、大成さんの曲は。一本の太いメロディに、翔太郎さんのギターと大成さんのベースが絡みつくように疾走する重たーい音像、というか。
S「それ」
M「上手い事言うねぇ」
-- ありがとうございます(笑)。そこはやはり棲み分けですか?それともお互いにない部分を補い合ってるのでしょうか。
S「得意不得意って程じゃないけど、好きな方を主にやってるんだと思うよ」
M「翔太郎さんが綺麗なメロディ書ける事は証明されましたもんね」
S「何? どれ?」
M「『END』ですよ!」
S「ああ、あのマグレ当たりみたいな奴な」
M「絶対違うし(笑)」
-- バンドが今の方向性になったのって、何かきっかけがあるんですか。以前のようメロデスのままでも実力は発揮できると思いますし、獲得できるファン層が厚いのも、どっちかと言えばデスラッシュよりはメロデス、もしくはメロスピやパワーメタルですよね。
M「あー」
S「んー。メロスピは音の軽いバンドっていうイメージがあるから嫌だ」
-- バンド名を伏せて頂いてありがとうございます(笑)。しかしバンドとしては、曲の構成や複雑さ、テクニカルな面で言えば確実にレベルアップしたと言って良いと思うんですけど、ウルテク満載のデスラッシュ側に寄っていった直接的な原因が知りたいです。ただテクニカルなだけでピンと来ないバンドもいるなかで、あくまで獰猛さや曲の良さを失わない奇跡的なバランスだと思います。好き嫌いだけではないですよね?
S「ざっくり言えば好き嫌いだろうな」
M「ざっくり言えばね、そうですね」
S「竜二のポテンシャルと、大成の作曲センスって実は別の方向性を向いてたんだよ、最初は」
-- へへー。これはまた興味深いお話ですね。
S「んー、これはでもあいつらが来てから話した方が間違いないと思うぞ」
-- そうかもしれませんね。
S「ちょっと俺上着取って来るわ」
M「すみません、寒いですよね。ごめんなさい、気づかなくて。私取って来ますよ」
S「なんで。いいよ」
M「いいですいいです、煙草吸っててください。楽屋ですよね。なんでもいいですか」
言いながら既に繭子は立ち上がってスタジオを出て行こうとしている。
S「おう。ソファーに置いてあるから」
右手を上げて繭子が出て行った。
-- 面白いですね。嬉しくて仕方がないんですよきっと。
S「あー、はは。時枝さんギリギリアウトだからね」
-- 何がですか?…涙ですか!?セーフですよ!
S「そうかあ?…あ、誠から聞いたよ。あん時のビデオ見せたってな」
-- あー。はい。もうこれは、はい、弁解の余地なしです。ごめんなさい。
S「なんで。別に見られて困るような嘘はついてないよ」
-- というより無許可だったので。ベラベラ喋っていい話でありませんから、ずっと気にはなってました。勝手してすみませんでした。
S「まあ、喜んでたし」
-- そりゃあ喜びますよ誰だって。
S「じゃなくて。時枝さんがね、物凄くいい人で良かったと。内容はさておいて、勝手にバンドを傷つけて出て行った私の為に毎日あの映像を持ち歩いてくれてたんだって思うと泣けてきたってさ。俺からも礼を言うよ、ありがとう」
-- いやいやいや。
S「あいつさ、突っ走るタイプなんだよ昔から。あいつの目を一度でもちゃんと見れば分かると思うけど、腹立つくらい強いからね。自分でこうと決めたら絶対その通りにしか動かない奴だから、だから、もしかしたら本当に戻ってこない事だってありえたんだよ。それでも時枝さんは、絶対あのビデオを消さなかっただろうって思えるって言ってたよ。俺もそう思う」
-- あはは。…どうしたんですか突然。また泣かす気ですか。
伊澄は煙草の煙を真上に吐き出すと、ゆっくりとこう言った。
S「近いうち、あんたには全部話せる日が来ると思うよ」
-- …え?



「ドーン!」「ハンマー!」「朝からうるさいよ」「あははは!」
グルグルと高速回転する私の胸中をガシと掴んで無理やり止めたのが、池脇達の登場であった。私はなんとか視線を伊澄からひっぺがし、立ち上がって挨拶を口にする。しかし次の瞬間にはまた伊澄を見やっていた。彼は普段通りの表情で煙草を吸っている。
「遅れてごめんね、お待ちどう様」
ハンマー、と軽快な叫び声を上げて入って来た伊藤は、私達を見て明るい笑顔でそう言った。
-- 全然平気です。朝からテンション高いですね。何か良い事ありましたか?
「ベスト盤発売決定しましたー!」
-- おおお!決定ですか!しかしまた仕事増えましたねえ。
「もう、今が既に馬車馬状態なんだけどね!でもまあ、ベスト盤は正直美味しいよね」
-- 織江さん、正直すぎますって(笑)。
「繭子は?」とスタジオ内を見まわして神波が言う。
-- ええーっと。
「上」と伊澄。
「まだ寝てる? もう始めてた?」
「遅いもんお前ら」
伊澄の苦笑いに、
「悪い悪い、さて、今日は何をお話しましょうかねえ!」
と池脇が首を回しながらテンションの上った声で言う。
-- めっちゃ声がデカイ(笑)。ええと、先ほどまでニューアルバムについてお伺いしていたのですが、途中でバンドが今の方向性となった転機を聞かせていただいてたんです。
「方向性!?」
「うるさい(笑)」
隣に腰を落とした池脇の声に、伊澄が反対側へ体を倒した。



池脇(R)、伊澄(S)、神波(T)、繭子(M)、伊藤(O)。

「翔太郎さん、上着ってこれですか?あ、おはようございます」
-- あ、全員揃いましたね(笑)。
戻って来た繭子が手にしていたのは、これも黒のライダースだった。
S「それ」
M「こーれ、ずるいですよー!」
そう言って繭子は皆に見えるようにライダースを広げて見せた。
背中には『MADUSE』のペイント。
T「あ、いいなあ」
R「翔太郎の?」
S「おん」」
R「俺のもやってくれよ」
S「ペンキ代くれるなら」
R「ケチくせえなあ」
S「そこらへんに落ちてるわけじゃねえんだからさ」
T「じゃあついでに俺のもやって」
S「お前らなあ、3人そろってアレにしたらバンド名変わるだろうが」
R「あははは!確かに!」
T「でも昔からああいうのお前上手いよなあ」
O「あれ? 繭子向こう向いて」
M「へっへっへっへー(伊澄の革ジャンを持ったまたその場でゆっくり一回転する)」
アギオンがお目見えする。歓声。
R「なー!懐かしい」
T「おおお、よくあったな、骨董品だぞあんなの」
O「繭子にあげちゃったの?」
S「そう。こないだ久々にアレの話になって、探したら出てきた。俺はもう着ないし、欲しいんだろうなと思って」
O「優しいー。いいなぁ、私も欲しかったなあ」
S「嘘。繭子ー」
M「ダメです!これあげます」
S「おい」
繭子が伊藤に手渡したライダースのペイントは、割と新しいように見えた。
-- マッドユーズ、ですか?
R「お、おしいねえ」
S「リディア・ブラントになった気持ちで言ってみな」
-- ワオ。えー、マッ・ユーッ!…あ!マユーズですか!?
M「正解!」


-- それでは改めまして。曲作りに関してですが、敢えてどちらかと言うなれば、大成さんはやはりメロディアスな曲を書かれるイメージが強いですよね。
T「そういうのを書こうと思ってるわけじゃないんだけどね。俺は翔太郎みたいにリフ主体で曲を書く事が出来ないし、俺の場合、良いなって思いつくフレーズって大体サビなんだよね」
-- 普通はそうですよね。翔太郎さんはギタリストならではの手法ですよね。
T「そうかもね。でも手法って言い方だと、そんなに変わらないんだけどね」
-- そうなんですか?
T「例えば、ダーラタタター、ダタター、ダ、ダッタッタ、っていうメロディを思いついたとするじゃない」
-- 『nasty kings road』!
T「早い早い!イントロクイズじゃないよ」
(一同、笑)
-- すみません、つい。
T「(笑)、俺の場合だと今言ったメロディがそのままの音数で、頭の中で鳴るわけ。うん、サビの部分がね。でも翔太郎が思いつくのってサビじゃなくてイントロなりサビのバックに鳴ってるギターリフなんだよ。しかもめちゃくちゃ細かいカッティングを高速で弾いてるリフが初めにポーンと出るわけ」
-- …ほえー。
M「ほえー(笑)」
T「なんだよ(笑)。結局、思いついたそこを膨らませて1曲作るっていうやり方は2人共同じだから、手法としてはそんな変わらないんだよね」
-- なるほど。
S「同じメロディを思いついたとしても、大成はサビのフレーズ、俺はリフを思いついたっていう発想になるんだよ」
-- ですがその場合、翔太郎さんの曲はどなたがサビを考えているんですか?
S「サビがない曲も多いよ」
R「ギターリフがサビ代わりと言うか」
S「そうそう、こいつ(池脇)の歌が引き金になって4人の突進を一番良い場面に持って来るとか」
-- ああー、なるほど。ありますね、そういう曲!
S「サビが必要な場合だと、多分竜二が歌メロ考える時に作ってるよな」
R「ああ」
-- 翔太郎さんの頭の中でご自分のギターリフが鳴り響いている場合は、やはりテクニカルなメタルソングが出来上るわけですか?
S「俺の作る曲が全部テクニカルで速い曲かっていう意味ならノーだ。でも最近は確かにその傾向が強いかな。…下手したら、絶対誰もついてこれないぜ!ぐらいの気持ちで書くんだけど」
R「あはは」
T「こっちはこっちで、そうそう逃がさないぞ、と」
S「いやー、やっぱ皆上手いわーってなるよ、大概」
-- 分かり易いのが『BATLLES』ですよね。めちゃくちゃ弾いてますよね。
S「そうだなあ。ただあんまり、なんだろう、自分が猛烈に弾きまくる事に重点を置くと、そこまで疾走感のある曲にならない気がするんだよな」
M「そんなことないです(笑)」
R「いやーもうあれ以上だとちょっと歌うのもきっついぞお前」
T「まあ、あれが限界だよな」
S「大成の書く曲はピッチコントロールとか変拍子とかでアピールしない、正統派な格好良さがあるから、俺も勢いは出しやすい」
R「あと歌い易い」
S「フフン」
-- ではなぜ、4枚目以降の作品では、今のようなテクニカルな構築が目立つ曲の割合が増えるようになったのでしょうか。メロデスというよりは、デスラッシュというワードがしっくりくるぐらい、複雑で速くて重たいリフの怒涛な波状攻撃ですよね。メロディを際立たせる事より、これでもかと音数を詰め込んでアグレッシブな演奏で畳みかける事に情熱を感じているように思われます。
S「うん」
T「それは単純に上手くなったからじゃない?個人でやれる事も増えたし、仮に俺が考えたフレーズでも、例えば今の繭子ならもっと手数足数増やせるよな、とか」
-- なるほど。
S「あとはやっぱり、竜二と大成の関係性が、クロウバーを超えたって事だよな」
R「ああ、そこは大きいな」
T「それ確かに、あるね」
-- 先程翔太郎さんが仰りかけていた事ですか?
S「そうそう。例えばボーカルが繭子なら、多分大成の書く曲7割で行ったと思うんだよ。若い時の竜二や、今の繭子なら大成の書く曲の方が格好良く歌えると思うんだけど、元々この2人がバンド組んでとりあえずはやりたい事やったっていう実感の上で、更に先を目指そうっていう話をした時、クロウバーみたいな曲と音では、やる意味がないだろう?」
-- そうですね。
S「前もちょっと言ったけど、竜二って2つ良い所があって、声がデカイのと、歌メロ作るのがとにかく上手いんだよ。そこを両方とも引っ張り上げるってなると、もっと複雑な曲書いた方が面白いんじゃないかって」
R「あと結局大成が今まで通りクサメロな曲を書いたとしても、この男がメタクソに弾きまくるせいで印象大分変るからな」
S「お前もうちょっと上品に褒められないの?」
T「あははは。いや、うん、実際そうだよ。翔太郎が弾いてくれるおかげで、極端に分かり易い例えをするならクロウバーの曲ですらデスラッシュに仕上げる力技っていうかね、そういう事が出来る男だよな」
S「ホントの事言えばそっちの方が面白いよ。ドS魂が疼くっていうか」
T「めちゃくちゃにしてやりたい、と」
-- (笑)。
S「うん。どっちが曲書いたって、結局演奏する人間はこの4人だし、4人の音に仕上げるからな。今の4人が出す音っていうと、さっき大成が言ったみたいにやれる事も増えたってのもあって、単純なメロデスには収まりきらない感じになるよな」
-- メロデスを単純と言ってしまえる凄さ(笑)。
T「あとは竜二の歌い方も進化したよね。歌唱力自体は昔からあるし声量も申し分なかったけど、歌いまくってきた分今の方が歌メロも複雑に作れるし、デスボイスに説得力が乗っかった気がする。単に好きでやってる奴らやそれしか出来ない歌の下手な奴らとは違った、レンジの広さとかね」
S「たまに挟んで来るクリーン(ボイス)が良い味出してるよな。そもそもデスボイスと言いながらも一応ちゃんと歌ってるし」
T「うん。ギリギリね」
S「っははは」
R「うん。ありがてえ」
-- 仲間の援護射撃は励みになりますね。
R「繭子が全然喋んないけどな」
-- 繭子?
M「ごめん、3人に見とれてた」
(一同、笑)
-- うまい事言うなあ。今で何曲くらい、決定したんですか?
R「まだ半分くらいじゃねえの?」
-- 曲順はまだ模索中であると。
R「そこはもうギリギリでもいいかもしれねえな。ちょっと分からなくなってきた(笑)。まだ新曲も増えるだろうし」
-- そのようですね。
M「あ、これがさっき言った今決まってるリスト」
-- 拝見します。


『 NO OATH 』
『 MADUSE YOU 』
『 BATTLES 』
『 UNBREAKABLE FRONTLINE 』
『 GONE BY 』
『 REMIND ALL! 』


-- …。
M「なんで何にも言わないの?」
-- さっき繭子が言った事をね、読み解こうと思って。
M「なんだっけ?」
-- コンセプト。 全曲ではないので適当な事言えないですけど、ちょっと震えがくるぐらい意志のハッキリとしたタイトルが並んでますよね。全部シングルカット出来そうな匂いがします。
R「おお。嬉しいねえ」
-- 本当にこの6曲は凄そうですね、どれも。
M「どれが一番聴いてみたい?」
-- 『 GONE BY 』。
M「即答した(笑)」
-- こんなタイトル卑怯ですもん。絶対竜二さん絶叫してるだろうなー。
R「すげえな。伊達に10年この業界で飯食ってねえよ」
-- 合ってました? いやいや、正直ほかのバンドならタイトルだけで曲のイメージなんて浮かびませんよ。ドーンハンマーだからです。ちなみに今回も9曲前後に抑えるんですか?
R「数に拘りなんてねえけど、そういうわけにもいかねえだろうなあ。向こうで正式に出す一発目だし。ちょっとは色気出しとかねえと、引き出しねえのかと思われるのも癪だしな」
S「あと難しいのがさ。これぞドーンハンマーっていうアルバムでありながら、飽きさせない新鮮味のある曲を並べないと期待を上回れないだろうなってのもあるし」
R「起承転結って程分かりやすくなくてもいいから、アルバムを通して聞く意味とか、流れもちゃんと作りたいよな」
-- 本来色々出来るバンドなだけに、同じ側面からしか見られないのは損である、と。
R「そこで駆け引きをする理由なんてほんとはねえんだけどな。勝手に考えちまって」
-- 難しい問題ですよね。
T「時枝さんはどう思う?」
-- 私ですかあ。私個人の思いはもちろんあるんですけど、今回皆さんの中では、アメリカ進出とは別の部分で、込めたい思いなんていうのはないんですか?実際に全ての曲を聞いていない私が言うのはおかしいですけど、タイトルだけ見る限り、これなんかあるなって思っちゃったんです。
M「コンセプトの中に?」
-- 中にというか。これまでドーンハンマーのアルバムって、歌詞や、それこそメタルにありがちなコンセプトや世界観を脇へ追いやってでも、演奏する側本位の、究極の格好良さを追求して来られた作品でしたよね。だけど前回あたりから、曲に意味が生まれ始めて、ここ最近さらに思いの篭った歌が誕生しています。『END』がそうです。それらを経て新たに制作されるアルバムの収録曲を眺めていると、何にもないわけないなって思っちゃったんです。
S「なるほどね。言ってる意味は分かるよ」
-- ですがその事とアメリカ進出は、私には関係ない事のような気もしていて。単純にアメリカ進出だけに焦点を絞って考えるなら、私はドーンハンマーは誰にも媚びて欲しくないし、絶対にそんなことをしないあなた方がそう誤解を受けるような真似もしてほしくないです。なので、いつも通りやりたい曲だけやってほしいです。その結果5曲しか入れない、出さないというならそれはそれで格好良いと私は絶賛します。
S「…うん」
-- ただ。
M「ただ?」
-- これは精神論です。青臭い理想論です。なので、これは正解ではありません。もっとその先を見据えておられる竜二さんや翔太郎さんの悩みこそが正解なので、私はそこを問題には思いません。結局、ドーンハンマーはなにやっても格好いいですから。
M「何が問題なの?」
-- アルバムの方向性の話をする時に、アメリカ進出以外に対する思いも込められている気がしたのですが、そこが引っ掛かります。
M「それって、『MADUSE YOU』の事言ってる?もしそうなら違うよ。これ私が考えたタイトルだし」
-- そうなの?
M「うん。…あ、私の昔の事とか関係してると思って?」
-- そこまで直接的なテーマが込められているとは思ってないんだけど、今並行してマユーズで繭子をボーカルに置いた曲を制作しているのを知っているから、影響は少なからずあるんじゃないかと思ったんだけど、短絡的過ぎたかな。
M「誰か一人に焦点を当てて曲を作ったりなんかしないよ」
-- そうかあ。そうだよねえ。
R「時枝さんを庇うわけじゃねえけど、そう言いたい気持ちは分かるよ。ただ、そういうシルエットのはっきりした思いやテーマはないかもしれないけど、それって多分曲作りじゃなくてプレイする時の感情に大きく影響する事なんじゃねえかな。歌詞を書いてるのは全部俺だけど、自分の曲だとは思ってないからね。普遍性を持たせようとは思わないけど、独りよがりの曲に仕上げたいとも思ったことはないな。それは、『aeon』ですらそうだよ」
-- なるほど。失礼いたしました。
R「いやいや、言ってる事は分かるよ」
T「謝る事じゃないよね。タイトルだけでそこまでバンドの事考えられるライターさんはそういないよ」
M「うんうん」
S「鋭いトコ突いてくるなあと思うよ実際。俺に限って言えばだけど、俺のリフは誰かを思う感情の起伏によって出てくるものだし、いわゆる作曲マニュアルみたいなものは知らないからな。そういう意味では、繭子を思って書いた曲もどこかにあると思うよ」
-- どの曲ですか?
M「ひょっとしてあれじゃないですか。『ファンタスティック・プリティ・ストロベリー』」
S「くっそダセえな!ちょっと歌ってみてくれよ」
(一同、笑)
M「じゃあ、あれだ。『ヨーロピアン・サンダー・アイスクリーム』」
S「お前自分をどう見られたいんだよ。なんだヨーロピアンて」
M「あはは、アイスクリームはいいんだ。じゃあ書いてくださいよ」
S「アイスクリームを!? 絶対嫌だ」
-- 繭子はどの曲がそうなのか、知ってるの?
M「知らないよ(笑)。今初めて聞いたもん」
S「それはでも繭子に限らず皆そうだよ。竜二や大成を見てたって、何かしら思う感情でリフが出てくるからな」
T「まあ、何もない所から出てくるものなんてないよな」
S「そういう事」
-- 翔太郎さんが弾き飛ばすリフは、 感情がスパークする瞬間放たれる魂の雷鳴である、と。
S「…採用!」
M「今私のサンダー取ったよね?」
S「私のサンダー(笑)」
(一同、笑)


貴重な練習時間のお邪魔にならないよう短めにインタビューを切り上げ、お手洗いを借りて出て来た私は、会議室から姿を現した伊藤織江を見つけて呼び止めた。
-- お疲れさまです。
「ああ、お疲れ様。もう終わり?」
-- 一旦社に戻って、業務を済ませた後夕方以降にまた寄せていただこうかと。
「そ。気を付けて戻ってね」
-- ありがとうございます。それでですね、このお金、織江さんにお渡ししても良いでしょうか。
「何のお金?何かのお釣り?」
-- 私今日差し入れで煙草買って来たんですけど、お金頂いちゃったんですよね。1000円。織江さんの仕事が一つ減ったから良かったよなんて仰ってたので、私としては織江さんにお渡しするのが良いかなあと。内緒ですよ。
「うん? 話が見えないな。ごめんね、なんで今私の名前が出たの?」
-- ええっと。翔太郎さんの、煙草代です。
「うん」
-- えと、…普段翔太郎さんの煙草を買って来られたり、されてるんですよね?
「私が?…仕事で?…翔太郎がそう言ったの?」
-- はい。
「へえ。まあ、貰っておく分には全然困らないけどね。たまに何かのついでに買って来る事もあるし。だけどあの人はそういう事を誰かに押し付けたりするような真似はしないよ。友達だからね、それこそ何かの拍子についでを頼まれることはあるけど、織江の仕事だー、なんて言われた事今まで一度もないよ。きっとまた担がれたんだね」
-- ええええ。織江さんもお優しい方だから、きっと仕事とも思わずそういうルーティンをさりげなくこなしていらっしゃるんだろうなあって、普通に信じちゃいましたよ。
「買い被り過ぎだよ。そもそも彼は自分で大量にカートン買いしてストック持ってるからね。煙草もお酒も切らさないよ。だから直接手渡すよりも、そういう場所にシレっと置いといたげる方が助かるんじゃないかな。値上がりもしてるしねえ。…って別にそんな事する理由はないんだけど(笑)」
-- どこにストックされてるんですか?
「んーとねえ。楽屋前のカラーボックスと、玄関の靴箱の上と、ここの(会議室)入ってすぐ横の灰皿置き場と、PA室の冷蔵庫の上」
-- あははは、多い。さすがですね、全部把握されてるんですね。じゃあ、私は玄関に置いておきますね。
「ごめんね。いつもありがとう」
-- いえいえ。
その後、スタジオを出た瞬間私は混乱した。
果たして私を担いだのは、伊澄翔太郎なのか、伊藤織江なのか?
どちらにせよ、2人ともありえない程誠実で優しい人間なのは間違いない。
結局貰った千円札は、私の財布に入ったままだ。


バイラル4の会議室を仕事で使わせていただく事が出来るようになった。もちろん彼らが使用していない時間に限るし、決まった時間というわけではないのだが、自分のPCを持ち込んでビデオの映像を取り込んだり、記事を書く事が出来るようになったのはかなり効率的だ。
その日も、夜10時を回った頃まで編集作業に使わせていただいた。
ドアがノックされて伊澄が顔を覗かせる。
「お疲れ。帰るけど、送ってこうか」
-- お疲れ様です。大丈夫です、いつものタクシー呼んでありますから。あ、もう10時回ってたんですね。すみません、部外者がこんな時間まで部屋を独占しちゃって。
「それは全然かまわないけど」
伊澄は笑ってそういうと、片づけを始めた私を待つかのように入口横の喫煙スペースに立って煙草に火をつけた。
-- 翔太郎さんて、よく分からないですけど格好良いですよね。
「うん、よく言われる」
-- ははは。そこは普通咽かえるタイミングですよ。
「よく分からないらしいよ、俺。皆、阿呆なんだろうな」
-- 直球でディスられましたね、今(笑)。なんというか、そもそもあまり恋愛とかに興味なさそうですものね。そういう恋愛に現を抜かしてる輩を冷ややかに見ていそうな感じがします。異性に対する格好良さとかそういう見せ方に頓着しない自然体が、女性に好かれる理由な気もします。
「他人に興味はないから恋愛に夢中な人見ても特になんとも思わないけど、確かに俺自身はそこを真面目に考えた事はないかな」
-- 恋愛に興味のない翔太郎さんが、誠さんに対しては一生こいつでいいんだと捧げる気持ちになられたのには、やはりそれだけの何かがあったという事なのでしょうか。
「無いわけないよな。そんなもんはな」
-- あはは、愚問でしたね。大恋愛だ。
「ん?ああ、そういう話。そういうのは、ちょっと分からないな」
-- 分からないって、どういう意味ですか。
「俺と誠の間にある物が恋愛で培ったものかどうかなんて、考えた事ないよ」
-- いやいやだって。恋愛感情以外に何があるんですか。
「愛情はあるよ。でも恋愛かどうかなんて分からないよ」
-- 何を言ってるんですか。
「時枝さんは恋愛してるの?」
-- してますよ。
「その愛情と繭子に対する愛情は何が違うの」
-- え。だって繭子は女性じゃないですか。ゲイやレズビアンを否定はしませんが、私はノーマルなので女性に恋愛感情は抱きません。
「うん?うん。それは恋愛と愛情の違いについての説明にはなってないよな」
-- え、なってますよね。
「どういうのを恋愛感情だって言ってんの?」
-- 愛おしくて、その人を幸せにしたいと思う気持ちです。
「あはは、それは嘘だよ」
-- ええ!? どうしてですか。
「それで良いなら、俺は繭子にもそう思ってるし、世話になった時間が長い分当然、織江にだって心からそう思ってるよ。竜二や大成にも、そう思ってる」
-- これは困ったぞ。えーっと、じゃあ、誠さんの事お好きですよね。
「そうですね」
-- 繭子の事もお好きですよね。
「そうですね」
-- URGAさんの事もお好きですよね。
「そうですね」
-- その3人が崖の側に立ってるとします。突風が吹いてよろめきました。その場にいる翔太郎さんは誰の手を握りますか?
「…それが恋愛?」
-- 駄目ですか。いい線行ったと思ったんですけど。
「一番近くにいる人間から順番に全員」
-- そんなの不可能じゃないですか。
「なんで」
-- そんな事してたら2番目、3番目の人は落下しちゃいますよ。
「それは今時枝さんが決めたからそうなんだろ。俺は別に一番最後の人間の下敷きになっても構わないよ。誠だけ助けて繭子を助けないなんて事はありえない」
-- ちょっと待ってちょっと待って、待って下さい。整理させて下さいね。翔太郎さんは、恋愛が何か分からなくてこんな質問をされているんですか?それとも分かった上で、恋愛とその他の愛情についての違いを説明してみろと仰ってるんですか。
「…それ同じ事言ってない?」
-- ええっと、混乱してきました。
「そんな事言い出したらさ。今時枝さんが恋愛してる人と、あんたの父親と母親と、誰が一番大事って質問して最下位の人にあなたは駄目でしたーっていうハンコ押すだけのランク付けだろ。それで恋愛が何かって説明出来た事になるんなら俺は恋愛したことないよ」
-- 確かにそうですね。無意味ですよね。…えー、なんだろう。なんで説明出来ないんだろ。
「『恋愛感情というもの』があるっていうスタンスで話をするからなんじゃないの」
-- では、そもそも恋愛感情などと言うものは幻想である、と。
「どう思う?」
-- よく、わかりません。
「うん、よく言われる。皆、阿保なんだろうな」
-- …え!? 今私、盛大に揶揄われてました?
「あはは。タクシー遅いな」


後日、完成した『still singing this!』のPVを皆で鑑賞して語り合った日。バイラル4スタジオから帰るタクシーの中で、途中まで同乗する事になった繭子に先日聞いた伊澄の言葉を聞かせてみた。
「恋バナ? 翔太郎さんと?」
-- どう思う?
「そういう難しい話を翔太郎さんとすること自体が間違ってるよ」
-- そうかあ。これはやっぱりはぐらかされてるという事なのかなあ。
「そうだね。まあ、照れもあるだろうし。本当にそこには目を向けて生きてこなかったと思うから、知ったような事を言いたくないんだと思うよ。もちろん、私もそうだし」
-- 側にさ、織江さんや誠さんや繭子みたいな美人が一極集中するとさあ、麻痺しちゃうのかなあって思った時もあるんだけど、何故かあの3人からは浮ついた気配が感じられないんだよね。三者三様でさ、翔太郎さんなんかは特におモテになるから、バンドの一つの側面として面白い描き方が出来るかなあって期待した部分も正直あったの。
「ええ?」
-- うん、繭子が嫌がるのはもう知ってるし、そもそも私がそういう記事を書けないのもあるんけど、人物像を捉える一つの方法として、バンドマン以外の顔っていうのも私は大事だって思ってるからさ。
「ああ、例えば女ったらし。所帯持ち。一匹狼、みたいな」
-- 例えばね。極端なレッテルを張ればそうだよね。
「でも女をたらしもしなければ、所帯持ってるくせにそんな気配微塵にも感じさせなかったり、仲間思いの優しい狼だったり」
-- そうなんだよ。あはは、そうなんだよねえ。でもさ、翔太郎さんの事を皆好きになるのは分かって来たんだけど、肝心の翔太郎さんが今一つ掴み所がないというかね。優しいのは分かるし、天才だし、努力家だし、なんか気がついたら見ちゃうし。誠さんっていう超絶美人モデルがぴったりくっついてるのに、どこか隙だらけだし。
「ようこそ翔太郎ワールドへ(笑)」
-- あははは。
「でも掴み所がないのは昔からそうだよ。怒ると一番怖いんだけど、普段はひたっすら皆に優しいし。でもやっぱり、この人は天性のモテ男だなって、私出会ってすぐ分かったよ」
-- そうなの!? すごいね。
「だってあんなに綺麗で可愛い誠さんが15歳の時から側にいるのによ。全然デレデレしないんだよ。めっちゃ涼しい顔して、いっつも余裕なの。なんかさ、恋愛とかそういう部分では絶対に満たされない人なんじゃないかって感じたの。そういう人って絶対モテるしさ。ああ、これはきっと、この人を本気で好きになったら私は駄目になるって悟った」
-- あはは!すっごい話だねそれ。やっぱりガールズトークは繭子としないとね。
「なんだよそれ。バカにしてんのかぁ?」
-- そんなわけないでしょ。あー、でもそうか、やっぱりそうだね。繭子もそうだったんだね。前にね、織江さんが言ってたの。翔太郎さんの事を皆一度は好きになるんだって。織江さんもノイさんもカオリさんていう人も、時枝さんもそうでしょ?とか言われて。
「そうなんだ。実際どう?」
-- うん。分かるよ、正直。
「あはは、そうだよね。私も出会った時10代でしょ。負けないくらいにカッコいい男達が他に3人もいたから夢中にならずに済んだけど。でも一瞬変な気にはなるよね。だけどさっきも言ったみたいに、底が見えない程深いというか、絶対に一杯にはならない水瓶みたいな人だから。それでも、私はきっとそこに自分の持ってる水をせっせと注ぎ込むような付き合い方しちゃうだろうなって、直観して。きっと干からびてヨボヨボになってもこの人を満たす事は出来ないって思っちゃった。それはなんでかって言うと、私もきっと同じような人間だからなんだよね」
-- 繭子も、恋愛には興味ないんだね。
「んー、ない事はないよ。人を好きになる気持ち自体は素敵なぬくもりだって分かってるし、翔太郎さんだってそこを理解してないわけじゃないと思うよ。だけど…」
-- 満たされない?
「うん。…こんな言い方すると卑怯だけどさ、翔太郎さんて一生誠さんだけ愛し続けられる人だけど、同時に何人でも愛せる人だと思うの」
-- うわあ、どうしよう、凄い共感してしまった。
「なんでどうしようなの?」
-- だって失礼じゃない?
「私この話本人にしたことあるよ」
-- ワオ!
「卑怯だって言ったのは今この場にいないのに誠さんの名前出しまくってることね」
-- なるほど。それ言った時の翔太郎さんどんな反応だったの?
「別に怒られなかったよ。『そうなのかな』ってう表情で色々思い出してた」
-- うふふふ。あははは。
「多分人と違うのはさ。そこで自分の性的欲求を優先するとか、独占欲とか自己満足とかさ、男としての最低な衝動を抱えていないっていう所だと思うの。別に死ぬまで一人で構わないって思ってるから、来る物は拒まず、去る者は追わず」
-- 自分には音楽しかないって、言ってた。
「私もそうだよ。だから逆に竜二さんや大成さんが、誰かいい人を見つけて幸せになることが私の夢でもあったし、2人は実際それが出来た人だから、本当に尊敬してる。自分にきっとそういう未来はないと思ってるからね。別に自虐的な話じゃないよ。そこに何も強い思い入れがないだけであってね」
-- それは、なんというか、男性に対して希望を抱けないとか。
「ううん、そういうんじゃないよ。バンドが一番大事って話。誰かと結婚して、子供産んで、育ててっていう方向で自分の未来を描くより、世界中であの3人の後ろに座ってドラム叩く未来をずっと思い描いていたいだけ」
-- 誠さんや織江さんを羨ましいと思った事はないの?
「どういう意味? 恋愛の話をしてるんなら、ないよ」
-- そうかあ。
「逆はあるかもしれないね。繭子のポジション美味しいよなあ、いつもイイコイイコしてもらいやがってよお。チヤホヤされてんじゃねえぞ。…なんてね」
-- それはないと思うなあ。
「分かってるよ。冗談言ってみただけ」
-- だけど私はただの凡人だから思うのはさ、私だったらヤキモチくらい焼くだろうなって。織江さんも誠さんも自分に自信があると思うし、相手を信じられる人だと思うけど、私は普通に、裏でチューとかしてんじゃないのか!て思っちゃうだろうねえ。
「うははは!来たぁ、今お腹ん中ズボって入った。あははは!」
-- 笑いすぎだよ。運転手さん見てるから。
「ごめん。…チュー!」
-- そこでそんだけ大笑い出来る子だっていうのをあの2人は理解してるだろうし、まあ、大丈夫なんだろうね。
「どうする? チュッチュしちゃってるかもしれないぞ?」
-- だから笑い過ぎだって。あのさあ、聞いてもいいかな。
「さっきから聞いてるじゃない」
-- うん。さっき割と最初の方に繭子が言った、翔太郎さんが恋愛に目を向けて生きてこなかったっていう話は、やっぱり彼らが辛い時代を送った過去の話を言ってるの?
「うん」
-- 私やっぱりずっとそこを引き摺ってるんだよね。話の核心に触れないまま断片だけで色々想像しちゃってる悪い癖があってさ。今日も上山さんが泣いたのを見て衝撃を受けたの。どっちかって言うとバイラル4の中では現代感覚の強い人だと思って見てたからさ。あんなに熱い人だと思ってなかったかもしれない。
「ん?冷めた人に見えてたってこと?」
-- 冷めてるかどうかは分からないけど、お洒落だし、ああ見えて気さくでユーモラスだし、チャーミングでしょ。楽しんで仕事してるというか、いい意味で仕事とプライベートのバランス感覚に優れたスタッフさんだなって思ってたの。私のとこはそうでもないけど、割と出版業界ってそういう人多いからさ、どこかで親近感を持って接してた部分があったの。
「ふんふん、なるほど」
-- でも私が思ってるような人じゃなかった。いや、どうなのかな。もっと深い部分の話なのかもしれないね。でもあんなに全身全霊を掛けてドーンハンマーに体張ってるとは知らなかった。
「付き合い長いしねえ、皆」
-- そうだねえ。
「そこらへんの話は私の口からは言えないけどさ、テツさんの事で言えば、一度聞いた事があるのはね。あの人たちは強すぎるって言うの」
-- どういう?
「うん。私もどういう意味ですかって聞いたらね。普通に、喧嘩がって言うの。ちょっと笑っちゃったんだけどさ」
-- (笑)。男の子同士はほんとうそういう話大好きだけどね、女の子はちょっとそれ聞いたって笑うよね。なんだよ喧嘩が強いってって思うよね。そもそも殴り合いの喧嘩なんかしてほしくないんですけど、って。
「うん。男はきっと気付いてないけどね。私もそれ聞いて、へえーくらいしか言わないんだけど、テツさんがね、だから本当体張ったもん俺って言うの。それ矛盾してない?って思って。そんだけ強い強い言うならテツさん出る幕ないでしょって」
-- うん、確かに。
「逆だったんだって。強すぎてすぐ相手を壊すから一発で後ろに手が回るレベルだって言うの。コエー!って叫んだもん」
-- 引くわー。
「あははは!私はその4人の側にいるからさ、うわ、怖え!って思って。テツさんと皆が知り合ったのって年齢的には高1と高3なんだけど、当時はテツさんが地元でブイブイ言わせてた感じだったらしいの。イケイケって言うの?よく分からないけど。ヤンキーか、そうだヤンキーだ」
-- うん。なんとなく分かるね。
「ちょっと庄内さんもそうだよね」
-- っはは!そうらしいよ。
「でさ、テツさんが高校に入学した時4人の噂を耳にしたんだって。これ私聞いた話だからね、私の話じゃないからね」
-- 分かってるよ。でも繭子なんだかんだ言って楽しそうに喋るね。皆の話するの好きなんだよね。
「好き。喋って良いなら全部喋りたいもん。それでさ、テツさんも気になったらしいの、どんなもんじゃいと。そしたらちょっと見た事ないくらいおっかない4人がいたわけ」
-- それは何が?
「知らない。そう言ってたのを今再現してるだけだから」
-- 適当だなー。
「(笑)。でもね、よーく見たら一人だけ勝てそうなやつがいるな、と」
-- ほう!? 誰よ。
「大成さんだって」
-- えええ、嘘でしょー?絶対超強いよあの人。
「あははは!ノッテきたノッテきた」
-- 見る目ないなあ。そこは流れ的に翔太郎さんでしょうよー。
「ぶっ飛ばされるが良いよ。もう翔太郎さんなんてドン引きするぐらい喧嘩強いから(笑)。一度見たらしばらく心が減り込んだままになるんだよ」
-- 表現が怖い。
「あはは。でね、大成さんが一人の時を狙って勝負しに行ったんだって。後ろから行ったのがまずかったらしいんだけど、寸前にバレて振り返り様にココ、なんだっけ、裏拳?っていうのでパコーンて顎外されたって。そのままお腹蹴られて転ばされて、殴る蹴る殴る蹴る」
-- ほらー、もー。言わんこっちゃないー。大成さんも容赦ないなあ。
「そう、そのままアバラ折られて」
-- え!
「うん。マーさんとナベさんが止めてくれなかったらやばかったって」
-- ちょっと何その話。本当に怖い。
「そのまま病院送りにされて入院なんだけど、大成さん入学したての1年だって気付かずにボコボコにしたのを竜二さん達に怒られて、謝りに行ったんだって。そこはなんていうか、牧歌的?」
-- 全然違うよ!そんな平和な話じゃないよ繭子!
「テツさんにしたらさ。後ろから道具持って襲いに行ってるからさ。あそこまで簡単に自分がひっくり返されるとは思ってもみなかったんだって。逆に瞬殺して、あとでやり返される時にどう対処しようかってトコまで考えてたくらいなのにって。でもさ、ベッドの上で、足元に並んでるあの4人を初めて見た時、勃起するぐらい格好良かったんだって」
-- ちょっと!
「一発で惚れちゃったんだって。まあそこからも色々あったみたいだけど、要はあの4人は手を出しちゃまずいくらい化け物じみて強いって事に気付いて、全部自分が矢面になって荒事を処理する係に回ったんだよっていうテツさんの武勇伝」
-- うふふふ。今の所上山さんは寝転がってるだけなんだけどね。
「わははは!」
-- 運転手さんが見てるから!
「まあ、詳しい話は皆に聞いた方が面白いと思うけど、覚悟した方がいいのは、そういう喧嘩ばっかりして誰が強いんだー、みたい内容にはあんましならないよって事。結構グロテスクだし、私は、一杯泣いた」
-- うん。覚悟はしてる。
「ねえ。ウチ寄ってく?」
-- いいの?
「さっきあんだけ騒いで泣いたばっかりだからさ、ちょっと興奮して、一人にはなりたくないな」
-- 分かった。じゃあ、お言葉に甘えて。

連載 『芥川繭子という理由』 31~35

連載第36回~ https://slib.net/85342

連載 『芥川繭子という理由』 31~35

日本が世界に誇るデスラッシュメタルバンド「DAWNHAMMER」。これは彼らに一年間の密着取材を行う日々の中で見た、人間の本気とは何かという問いかけに対する答えである。例え音楽に興味がなく、ヘヴィメタルに興味がなかったとしても、今を「本気」で生きるすべての人に読んで欲しい。彼らのすべてが、ここにあります。

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-07-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 連載第31回。「真ん中とオフ」
  2. 連載第32回。「お守り」
  3. 連載第33回。「ただいま」
  4. 連載第34回。「居場所あるかな」
  5. 連載第35回。「愛情、幾つかの形」