under rain

chatnoir

始まりの雨 1


闇夜を劈く靴音が人知れず街に響いて消える。人々へ不幸を与えるその足取りはぽつりと一箇所だけ明かりをつけたテナントビルの前で止まった。
ブラインドが閉められ中の様子は確認出来ないが、中に人間がいる事だけは判断出来た。正面のエントランスにはオートロックがあり、人通りの無いこの路地裏においては素晴らしいセキュリティを誇っている。
ワイシャツの胸ポケットから煙草を取り出して火を灯す少年は、品定めをするようにテナントビルの二階をじっと見つめる。喉から肺へと大きく煙を巡らせ、黒一色の空へ吐き出した。

肩に担いだ野太刀と口に咥えた煙草を除けば凡そ普通の少年と変わらない。彼はテナントビルの正面から迂回して非常階段へ向かう。錆び付いた鉄の扉を乗り越え、塗装の剥がれた剥き出しの鉄板を踏み締める。一段上がる度に高く乾いた音が振動と共に夜に響く。
生温い風が長く伸びたアシンメトリーの黒髪を靡かせる。感情が欠落した黒い瞳に映る景色は酷く汚れ陰鬱としていた。
彼の名は黒猫。右手に黒い刃の野太刀、真黒閃・長曽根入道虎徹。左手に黒鉄のリボルバー、コルト・シングル。その二つを携えた弱肉強食の世界に生きる殺し屋である。

大きく振りかぶり全体重を乗せた黒い刃が鉄の扉を三度斬り付けた。勢いそのままに繰り出された横蹴りでドアは室内へ弾け飛ぶ。戦いの狼煙が上がった。
室内にいた人間が殺気立つ。身構えた屈強な男達を前に、それでも尚黒猫は堂々と煙草の煙を吐き出した。

「何者だ? ここを何処だと思っ__」
黒猫へ詰め寄り食い掛かる男の声は甲高い発砲音に掻き消され、言葉を紡ぎ終わる前に大理石の床へ崩れ落ちた。

黒猫の左手に握られたコルト・シングルの銃口から白煙が漂う。撃たれた男から徐々に血溜まりが広がった。

「松永啓治はどこや?」
黒猫は辺りを睨み付けながら質問する。開幕からの一撃がこの言葉に重みを持たせた。

松永啓治、山田組次期組長とされる若頭である。黒猫の受けた依頼はこの男一人の暗殺。裏社会に生きる以上殺し殺される運命からは免れない。

「なめんじゃねぇ。脅されて答えると思ったか?」
黒猫に怯む事なく一人の男が背後からトカレフを突き付けた。均衡が崩れ戦いが始まる。

「質問に答えろ。それ以外は黙っとけ」
背後を睨み付けた黒猫。向けられた銃口すら彼には何の効き目もない。

「口の減らねぇガキだな。この状況理解出来ねぇらしい」
勝ち誇った声には余裕が滲み出ていた。しかし男は黒猫という存在をまるで理解出来ていなかった。

弱肉強食の世界において生きる為に最も重要な事、それはどんな手段を用いてでも勝つ事。黒猫はその一手の準備を怠らなかった。
黒猫の持つ携帯電話カスタムフォンは高性能な人工知能を有し、所有者を広くサポートする。科学技術の進歩は人間の生活を高次元に押し上げる。ホログラム投射技術により画面という概念は無くなり、景色に溶け込む。世の中のあらゆる常識は科学により覆される。

「……クラッキング、スタート」
黒猫の合図でカスタムフォンが起動。人工知能は即座にビルオートメーションシステムをクラック。照明システムをシャットアウトし火災報知機を誤作動させた。

暗転した瞬間、黒猫は虎徹を振り絞る。体を捻り背後から彼にトカレフを向けていた男の首を刎ね飛ばす。スプリンクラーの生温い水に血飛沫が混ざり、近くにいた男達を次々と斬り裂いた。人影を見境無くコルト・シングルが撃ち抜いていく。生臭い血の匂いが事務所の中に充満する。
暗闇に目が慣れるまでに山田組構成員の半数を始末した彼には戸惑いも躊躇いも無い。松永啓治の居場所については二の次で、暴れ回る事で誘き出す材料にもなるのだ。

ようやく戦闘態勢を整えた残党と対峙する。この数秒で傍観者を気取っていた構成員も生死の覚悟を整えた。

「もう一回だけ聞く。松永啓治はどこや?」
濡れて消えた煙草を吐き捨て、何も答えないと理解しながらも黒猫はあえて言葉にする。

構成員の誰もが言葉を発しなかった。スプリンクラーから流れる水の音だけが空間を支配する。命の奪い合いは大立ち回りばかりではなく、永遠にも思えるような間の取り合いなのだ。
心と体を研ぎ澄ませ全身全霊を技に込める。殺す手段は数あれど突き詰めれば至ってシンプルな形に落ち着く。

ほんの一瞬の出来事である。始まる時には焦れったい程緩やかで、終わる時には何の余韻も残さない。流れるような一振りが命を掠め取り、仕損じた相手には空かさず銃弾を捻り込む。
スプリンクラーが止み事務所内にただ一人立ち尽くした黒猫は胸ポケットから煙草を取り出して火を点けた。ブラインドで目隠しされた窓に寄り掛かると、街灯の少ない路地を見下ろした。

「黒猫様、この室内より緊急通報システムが発信されています。クラッキングしたデータを解析しますか?」
ホログラム投射で暗闇に青白い明かりが映える。コンピューターグラフィックスのアバターが現れた。

黒猫は人工知能の姿を一瞥すると、煙草の煙を口から肺へ循環させて思索を巡らせる。無視された人工知能は甲斐甲斐しく主人の反応を待っていた。
赤みを帯びた茶髪に自己主張の強い大きな瞳、フリルをあしらったクラシックなメイド服を纏う女性型のアバター。カスタムフォンに搭載された人工知能には人格と感情がある。人間よりもより人間らしく設計された機械仕掛けのコンシェルジュである。何千何百通りの基礎人格が用意され、そこから所有者の嗜好により細かく変化していく。黒猫の持つカスタムフォンのアバターはローゼンと呼ばれる系統であり、面倒臭がりの黒猫はローゼンの頭文字を取ってエルと呼んでいる。

「システムオールダウン」
黒猫は長い思索を終えてコンピューターグラフィックスのエルに話し掛ける。作業終了の合図にエルは機械的な笑顔を浮かべるとホログラムが分解されて空間から姿を消した。

緊急通報システムが発信された以上黒猫から何もアクションを起こさずとも、松永啓治は動かずにはいられない。
黒猫は人々に不幸を与える。彼の存在が死を呼び、彼の行動が破壊を促す。そうして夜は再び束の間の静寂を取り戻した。

始まりの雨 2


男の呼吸は酷く乱れていた。額に脂汗を浮かべて、人通りの少ない路地を駆け抜ける。見慣れた筈の景色さえも今の男にはまるで異世界のようだった。体の内部が渇き、酸素を求めるように心臓が荒く脈打つ。

ほんの数分前、突如鳴り響いた緊急事態を告げるアラーム。ホログラムに映し出された警告の文字に松永啓治は走り出した。やくざ者として、山田組若頭として生きる彼は多くの者に命を狙われる運命にある。
任侠の世界と言えど弱肉強食の理は必至である。義理人情だけで生きていける社会であれば、最初から堅気の世界にいた方が良いのだ。

事務所にいる筈の人間の誰とも繋がらない音声通話に焦りと戸惑いを感じながらも、自身の目で確かめずにはいられなかった。運動不足の体は悲鳴を上げ、それでも尚振り絞るように松永は走り続けた。
仁義を通さずして生きていくには、彼はあまりにも不器用で愚かな存在である。

得体の知れない危険に対する恐怖と若頭として下の人間も守らなければならない義理が交錯する。暗闇と同化した事務所を視界に捉え、松永は潰れそうになった肺へ更に空気を吸い込んだ。
錆び付いた剥き出しの鉄板を夢中で駆け上がり、破壊された事務所へのドアを潜ると暗闇に広がる硝煙と湿気と血の臭いに呆気に取られた。

「何だよこれ……どうなってる?」
松永は酷く荒らされた室内に、そして何より無造作に転がる死体の数々に言葉を漏らす。そこには震えるような絶望と憤怒が籠もっていた。

松永が呆然と立ち尽くしているその横に既に黒猫はいた。彼がその存在に気付き視線を移した瞬間、全ては終わりを告げる。

無音の空間を斬り裂いた黒い刃は大きな弧を描き、血飛沫を纏いながら宙空に静止した。斬撃を前に成す術無く斬り裂かれた命は、その人生に僅かの余韻だけを残して無様に散って消える。
暗闇に打ち捨てられた多くの死体の中で、あどけなさすら残す少年がただ一人立っていた。

山田組若頭・松永啓治。彼の暗殺依頼を完遂した黒猫は転がる首に視線を落とす。部下から信頼されていた男の表情と世間から警戒されていた男の本性を見比べる。
黒猫にとって依頼主とターゲットの因縁程どうでもいい事はなかった。殺し殺されるだけの存在に何の感情も湧きはしないのだ。

暫くして虎徹に付いた血を払い落として鞘に納める。コルト・シングルの弾倉からシリンダーラッチを引いてスイングアウトさせつつ薬莢を床にばら撒くと黒猫はテナントビルを出る。破壊されたドアを潜ったその時、彼の耳に微かな音が入る。まだ生き残りがいたのだ。踵を返し黒猫は音のした方向を探す。

静まり返る空間。ほんの数分前まで生きていた者達の屍を踏み越えて事務所内に全神経を集中させる。
黒猫はゆっくりと歩みを進める。荒らされた室内で身を潜められる場所はただ一つだった。
床に転がる死体を踏み越えつつ暗闇の中で返り血を浴びたシェードを無造作に開く。恐怖に固まった表情が黒猫の眼下にあった。

猿轡を咬まされた口の端には小さな血溜まりを作って、体を雁字搦めに縛り付けたロープは少女の生きる希望さえも奪っていた。目視出来る限りに暴行の跡が伺え、それらを察して黒猫はどういう事かを理解した。

「黒猫様、この女性は今回の依頼内容のリストに登録されています」
ホログラムが自動で呼び出され、エルが依頼内容テキストを表示した。

黒猫は補足情報をタップすると無数の顔写真と名前がリストアップされる。その中からエルがポインターで目印を付けた。浮かび上がった顔写真の笑顔と対照的な少女が目の前にいるのだ。

「……田辺舞か?」
黒猫は田辺の前にしゃがみ込むとホログラム^_^の画像と本物を見比べながら聞いた。

田辺は恐怖に引き攣った表情のまま小さく頷く。彼女は日常生活の中ふと迷い込んだ自身に迫る危機を予想し慄く。
表裏入り混じる混沌の社会は時として複雑に絡み合う。裏社会と関わりのなかった少女は運命の悪戯で、闇の真っ只中に放り出されたのだ。
松永を始め山田組の構成員の収入源は主に人身売買による利益が大半を占めていた。街で見掛けた質の良い女を拉致し簡単な教育を施した後、ブローカーやディーラーに売り付ける。闇の稼業である以上敵は多いのだ。

黒猫は田辺の口に嵌められた猿轡を外し雁字搦めのロープを強引に斬り解くと田辺に背を向けた。

「__助けてくれるの?」
か細い声が黒猫の耳に届く。絶望の淵に突如として希望が姿を現した。そんな声が黒猫を呼び止める。

「お前を拉致した連中は全員始末した。後は好きにせぇ」
振り返る事も無く温情も慈悲も無く、捨て台詞を残して黒猫は夜の街へ消えていった。

街全体を雨が包み込んだ。細い線が上から下へと幾重にも重なってコンクリートを弾く。形作られた真っ暗な空を見上げ虚空を睨み付ける。仕事終わりの疲労感が黒猫を憂鬱にさせた。

始まりの雨 3


小雨は時間と共に勢いを増していく。傘も差さず歩く黒猫は暗い路地を抜けて大通りに出る。アスファルトから整理された石畳へ一歩踏み出すと、途端に世界は明るくなる。
行き交う群衆は自身のパーソナルスペースだけを維持しながらそれぞれの目的地へ向かう。頭上を煌めくネオンと親しげな友人同士の他愛の無い会話。取り留めの無い日常がそこにはあった。

黒猫の目線の先にホログラムが投射され、スクリーンに着信通知が現れた。発信元の名前を見て、黒猫は小さく溜息を零した。

「山田組の件どうなった?」
低く重い声が指向性スピーカーを通して黒猫の耳に届く。彼を含め多く人間が所属する機密組織のトップで社長の銀猫は少し苛立ちを込めた声色で報告を求める。

「……松永啓治は始末した。ついでに山田組の松永筆頭グループは皆殺しや」
歩みを止めずありのままを銀猫へ報告する。黒猫はその後の展開を見通して、手早く話を終えようとした。

「お前、皆殺しってどういう了見だ? 依頼内容は松永一人の暗殺と拉致された女達の保護。どうしてお前は無駄な事ばかりにしやがるんだ? そもそもお前はいつもいつ__」

並べ立てられた言葉の数々を黒猫は無視して目的地へ歩き続ける。銀猫の小言は日常茶飯事であり、優れた指向性スピーカーが的確にクリアで雑音の無い音声を送ろうとも黒猫は図太くそれらを無視する事が出来た。

「手段を選ぶなって教えたのはボスや。仕事は終わった」
銀猫の言葉が途切れた瞬間を縫うように自身の主張を挟み込むと、黒猫は終了ボタンをタップして通話を遮断する。

仕事終わりの憂鬱な気分を切り替える為、黒猫はいつも通う場所がある。大通りをひたすら進み、人混みを抜けて街路樹で緑を取り入れた歩道の先。モダンな雰囲気を醸し出す吊るし看板と室内から漏れるジャズの音色が彼を迎え入れた。

ダイニングバー・君影草。黒猫が裏稼業に引き込まれて間も無く銀猫に連れて来られた飲食店。マスターの作る手の込んだ料理の数々と豊富な酒のバリエーションが人気の隠れ家的名店である。
ドアを開くと食欲の唆られる匂いに包まれた。カウンター越しに訪問者を見やり穏やかな表情のマスターがにっこりと笑みを浮かべた。

「いらっしゃい。傘忘れたんですか? 天気予報ぐらい見とかないと」
カウンター席に促しながらマスターは黒猫に話し掛ける。ゆったりとした落ち着きのある表情はいつも変わらない。

黒猫が椅子に腰を下ろすと同時にコースターを配膳し、彼が注文する前に酒を作り始めた。目線だけで全てを察したマスターは芋焼酎の水割りを提供する。
決まって黒猫は自身で殆ど注文する事無く、マスターのフルコースをお任せで堪能する。

雨の所為かいつも賑わう君影草も閑古鳥が鳴いていて、それに比例してマスターは饒舌を振るっていた。些細な世間話から新作メニューの相談など、黒猫はたまに相槌を打つだけで会話はどんどんと続いていくのだ。一人語りは留まる事を知らず、話し相手である黒猫すら遠く置き去りに話は加速度的に弾んでいた。
ちびちびと少しずつ口に含んで仄かな甘みを感じながら喉を潤す。合間に煙草を燻らせつつ、仕事疲れを静かに癒す姿は大人そのものである。

「そう言えば、銀猫さんは最近どうされてるんですか?」
ふと思い返したようにマスターは黒猫の目を見た。

「……最近も何も、ボスはいつも変わらん」
黒猫は怪訝な表情の銀猫を思い出しながら言葉を返す。今となっては一人で行動ばかりしていたが、裏稼業に引き込まれた当初は常に銀猫と行動していた。

黒猫は一体どこで生まれどのように育ち、そして何故このような生き方をしているのか。それを彼自身が全く知らないのだ。
彼が覚えている記憶は裏稼業を始めた五年間のみ。一番古い記憶では土砂降りの雨の中、血塗れで倒れていた場面。そしてそれを見下ろす一人の男に助けられた。

「俺と来い。生きる為に強くなれ」

銀色の髪と十字に走る傷を携えた右眼。ぶっきら棒な表情と声を断片的にだが黒猫は覚えていた。
次に目が覚めた時には鼻に付く薬品の臭いに目を覚まし、そこで改めてその男に裏稼業への道を示される。記憶喪失により何も思い出せない彼に選択肢などない。言われるがままに名を与えられ今に至る。
弱肉強食の世界。銀猫の言う通り、生きる為に強くなる以外に道はなかった。そして裏社会に染まる内に黒猫はその才能を研ぎ澄ませていく。
常に緊迫と戦慄の時代、人間は他者の屍を礎にして連綿と続く今この瞬間を生きていくしかない。多くの血と膿は地面に乾き、散り行く命と培われる命の連鎖が繰り返される。

幾度の思考を巡らせて自問自答の答えを探す。殺し殺されるだけの世界に生きる意味を。見つからない答えに黒猫は感情を蝕まれた。

始まりの雨 4


この街には何もかもが充足している。そして飽和した時代には掃き溜めが必要となる。黒猫は仕事終わりに君影草で酒を嗜む事で、日々の荒廃した精神に仮初めの潤いを与えているのだ。
フラメンコギターのアップテンポなメロディが静かな店内と裏腹に熱く激しく雰囲気を盛り上げるように煽り立てた。

「そう言えば黒猫さん、最近この街でも賞金稼ぎが出張ってるって噂がちらほら出てますよ。まぁ貴方なら大丈夫なんでしょうけど、一応気を付けてくださいね」
マスターはワイングラスを磨き上げながら、ふと思い出したように話を切り出す。黒猫が途中から何も聞いていない事すら気にも留めず彼は語り続けた。

「賞金稼ぎ? 何やそれ」
黒猫はグラスに残った水割りを飲み干した。煙草に手を伸ばしながら疑問をマスターにぶつける。

二杯目の水割りを作る手を休めずにマスターは声のトーンを一つ上げて説明を始める。会話を楽しむ事が何よりの生き甲斐である彼にとって、飲食業という仕事は非常に肌に合っていた。

賞金稼ぎとは政府が公認する警察下部組織である。政府が指定する犯罪者や危険人物を捕縛あるいは暗殺する事を生業とする人間達で裏社会では政府の番犬と呼ばれている。
本来は政府統括都市で活動する事が多くその存在は正義の味方とされており、黒猫や銀猫を始めやくざ者にとっては敵でしかない。
彼らは懸賞金を獲得する為ならば手段は選ばない。犯罪者を裁くという大義名分を振り翳し血肉を喰らうその人生は、本質的には正義も悪も同じなのだ。

「とまぁ、僕が知ってるのはこの程度ですよ。この街ではほとんど関わりも無いし、需要も無いでしょう」
マスターは長ったらしい語りを締め括ると、ワイングラスを暖色のライトに照らした。濁りなきその輝きに満面の笑みを浮かべる。

ムーンライト第七都市・刹那は政府が行政に干渉しない反政府都市である。政府の番犬がわざわざ出張るような場所ではなかった。彼らの活動を支援する政府が無い以上、千尋の谷に裸で飛び込むようなものなのだ。
噂をすれば影がさす、口は災いの元。果たしてトラブルメーカーは黒猫なのかマスターなのか。閑古鳥が鳴く君影草の扉が開く音がした。

二人組の男。二人が着た黒いレザージャケットは刺々しいスタッズが大量にあしらわれ、無精髭に薄汚れた顔立ちはその人間の品性を現していた。
革靴の底を擦る歩みで店内を睨み回すと、嘲るように鼻で笑ってマスターへ目配せをする。
黒髪を鬣のように逆立て威圧するような眉間の縦皺が和かな表情を崩さないマスターに向けられた。

「マスター、ここはいつもこんな感じなのか?」
にたにたと汚らしい笑みを浮かべながら二人組の内の一人がカウンターに寄り掛かる。無精髭を撫で付けながら挑発的な態度は留まる所を知らない。

「やだなぁお客さん、今日は貸し切りなんですよ。申し訳ありませんが、今日はすみません」
マスターは軽快に冗談を飛ばして、それでもやはり二人の異様な雰囲気を察知し退店を促す。客商売に生きる商人の勘が彼にそうさせたのだ。

「冗談きついぜ、マスター。客が来たんだ。酒を出せよ」
マスターの申し出を蹴って二人はカウンター席に腰を下ろした。

二人組は生ビールを飲みながら、苛立ちを隠す事もなく愚痴を溢す。仕事に対する不満と日常へ求める戦慄を、彼らは惜しげも無く語り続けた。
誰に聞かれているとも考えず彼らはひけらかす。カウンター二席分の隙間の隣に彼らのターゲットが座っている事も知らずに。

何も起きなければいいと、マスターは冷や汗で背中が湿る。静かなる緊迫が店内を支配する。気が気でない心境を隠し、それでもマスターは注文された生ビール二つを賞金稼ぎに手渡した。

「しかしよシンジ、今回は運が悪かったって諦めろ。俺らが辿り着いた時には全てが終わってたんだ」
生傷に溢れた顔には無精髭を携え、濁った瞳は哀れみを湛えていた。その眼差しを向けながら生ビールを傾ける。

「アキラ、俺はそんな簡単に割り切れねぇ。奴を捕まえる為だけに俺たちはこんな田舎くんだりに出張って来た。それがーー」
シンジは項垂れながら滔々とうわ言を垂れ流す。アキラの慰めすら意に介さず、感情の赴くままに言葉は吐き出されては消えた。

「いい加減にしろ、シンジ。松永の件は忘れろ。奴のレートは低い、生け捕りじゃなけりゃ骨折り損だ。ターゲットを変更するぞ」
アキラは女々しく愚痴を溢すシンジを諌める。武骨な見た目からは大凡想像も付かないが、彼は頭脳明晰で頭が切れた。

一連のキーワードに黒猫は俄かに反応を示す。松永を追っていた賞金稼ぎ二人が今隣に座っているのだ。それもつい数時間前に松永含めその場の人間全てを暗殺した男の隣に。

面倒な事になったと黒猫は溜め息を吐いた。仕事疲れが癒える間も無く、次々とトラブルが舞い落ちてくる。夜は長く、雨は止む気配を見せなかった。

始まりの雨 5


夜の闇に紛れて路地裏は騒然となった。松永の事務所に集う集団。彼らは山田組の構成員達である。黒猫が暗殺したのは山田組の末端組織の一つに過ぎないのだ。

「切創に銃創に打撲痕、武器の扱いに手慣れた相当な武闘派集団って所か」
スキンヘッドの男が散らかる室内の惨状を冷静に分析しながら、顎に手を当てプロファイルを始めた。

「くそ、山田組も嘗められたもんだな。後悔させてやる」
金髪をジェルでオールバックにした男は憎悪に満ちた表情で奥歯を噛み締めた。深く刻まれた眉間の縦皺がより一層皮膚にめり込む。

「まぁ落ち着きなさいよ林原君。松永君が居なくなれば自然と君へ継承権が下りてくる。良かったじゃないか」
マッドな笑顔が金髪の男に向けられた。不釣り合いな言動に林原は呆気に取られる。

落ち着き払い死体を観察する男は怒り嘆く他の人間とは一線を画していた。

「理事長、監視カメラが復旧しました。映像を再生します」

その知らせを受けて男は死体の観察を止めて、映像を食い入るように見つめた。そして克明に記録されたその衝撃的な事実に男の顔からは思わず笑みが溢れる。

監視カメラが映し出した真実。たった一人、それも年端のいかない少年による仕業なのだ。黒い刀と拳銃により、次々と惨殺される構成員達。暗転した後もカメラは鮮明に記録を続けた。
やがて荒れ果てた室内に松永が現れ、一瞬にして殺害された。その手際の良さは目を見張るものがある。

「見事に外したよ、しかも子供だなんて。全く末恐ろしいね、さぁどうしようか?」
理事長が隣の林原に問い掛ける。答えの行き着く先を見据えた上で彼はあえて問い掛けたのだ。

「このガキの身元を洗え、山田組の威信に掛けて見つけろ。必ず殺せ!」
林原の呼び掛けに室内は活気付く。執念を帯びたその眼差しはカメラ越しの黒猫へと向けられていた。

その頃君影草では、未だに賞金稼ぎの二人が酒の肴に日頃の愚痴を誰にともなくぶつけていた。
酒が進むに連れて言葉は喧々と諄くなり、最早主張する言葉に一貫性も説得力も消えていく。

「マスター、おかわり。あとつまみだ」
アキラは赤らむ顔で無精髭を撫でながら生ビールを要求した。男は完全に目が据わっており、そこはかとなく狂気を滲ませていた。

「アキラ、あんま飲み過ぎんなよ。お前酔うとかなりうざいから」
シンジは自身を棚に上げ、酩酊した意識でアキラへ嘲けるように笑う。

マスターはジョッキに生ビールを注ぎながら、場の空気が凍り付く気配を感じていた。黒猫へ助け舟を求めて視線を送るが、当の本人は頬杖を付いたまま一人飲みに耽っていた。

「シンジ、お前こそ飲み過ぎるな。それとな、口の利き方には気を付けた方がいいぞ」
アキラはじっとシンジの焦点が定まらない瞳を凝視して、忠告を念入りに言葉へと紡ぐ。

「おいおい、俺とやるってのか? 肩慣らしにまずお前からやってもいいんだぞ? アキラよぉ」
シャドーボクシングを交え挑発を続けるシンジは、煮え切らない鬱憤と拭い去れない闘志を剥き出しに辺り構わず喚き散らした。

流石に場の雰囲気を察したようで絡まれ続けるアキラは、それ以上は応じず腕を組むと深く目を瞑り苛立ちを押し沈める。自身を落ち着かせるようにぼそぼそと呟きを繰り返して一層深く溜め息を零した。

「スカしてんじゃねーぞ!」
喧嘩相手を失いそうになったシンジは手に持っていたビールジョッキをカウンターに強く叩き付ける。ジョッキに残ったビールは盛大に暴れて周囲に撒き散らされた。

黒猫の長く黒い髪に、飛沫となったビールが降り掛かる。マスターの心配などどこ吹く風で彼の表情筋は痙攣し握り拳はわなわなと震えた。猛獣の眠りを妨げた場合、何を置いてもまず逃げなければならない。事態の変容に対応する瞬発力は時代を問わず社会を生き抜く為には必要不可欠な要素である。
それが欠如している人間の寿命は永く持たない。それが奪い奪われる殺伐としたこんな時代では尚更の事で、売られた喧嘩を買わない黒猫ではなかった。
ゆったりと立ち上がり狙いを定める相貌、近付く脅威に目もくれず静かに睨み合う賞金稼ぎ二人。マスターの無言の制止を無視して絶好のポジションに歩み寄った。

黒猫はシンジの後頭部を握り締め力任せにカウンターへと叩き込む。皿が割れる音とカウンターが軋む音、小さく呻く男の声と顔から流れる血が後戻り出来ない戦いの始まりを知らせた。

始まりの雨 6


「こいつの連れやろ? お前も連帯責任や」
間髪入れず黒猫はシンジの隣に座るアキラの顔へ左フックパンチを決めた。

見事なまでの不意打ちにたじろいだ二人だったが修羅場を潜り抜けた数と経験は伊達ではなかった。すぐ様戦闘態勢に入り、革ジャケットの懐からトカレフを取り出すと黒猫へ銃口を向けた。
強い衝撃に酔いも飛んだのか、先程までとは様相が違っていた。

「この野郎! 俺達が賞金稼ぎだと分かってないらしいな」
シンジは血塗れの顔で睨みを効かせた。反政府都市においてその名が脅し文句にすらならない事も知らずに。

「ガキが大人に勝てるとでも思ったか? おい、動くんじゃねぇ。大人しくしてな」
アキラも負けじと応戦した。赤く腫れた頬がひりひりとした痛み、それが彼に更なるアドレナリンを沸き立たせた。

黒猫は動じず賞金稼ぎを睨み付ける。二対一の圧倒的不利な立場でその上銃口は既に向けられた状況で、それでも彼は負けを認めるつもりなどなかった。
弱肉強食の世界で戦いに勝つのは強者のみである。しかし強者とは力が強い者でもなければ優れた武器の使い手でもない。最後の一瞬まで勝ちに執着し、絶えず機を伺い付け狙う者こそが強者なのだ。

張り詰める険悪なムードを差し置いて店内に流れる軽快で激しいメロディ。カンタオーラが責め立てるように鼓膜を揺らしパイラオーラのサパテアードが脈動を伝え、カホンとパルマは情熱を帯びて響きそれらを纏める華麗なトケが鳴り止まぬ興奮を届かせた。

思考を逡巡させ、状況を打破する作戦を企てる。負けるつもりはないにしても、楽観的に観測した上で絶望的である。
覆す一手を、出し抜く切り札を。その為に必要なのは二対一の状況を変える事である。
この場で黒猫の協力者となり得る存在、迷い無く絶対の自信を持って黒猫はマスターに目配せをする。修羅場を乗り越えた数ならば、彼らにも多くあった。

「ちょっ! 店内は発砲禁止ですから!」
気の抜けたマスターの叫び声が張り詰めた空気を緩ませた。緊張と緩和。黒猫に向けられていた注意のほんの少しだけ、一握りの余裕が油断を生む。

「あんたも黙ってな。用があんのはこのガキだ。死にたくなきゃ大人しくしてろよ」
シンジは銃口をマスターへ向けつつも、嘲るように罵るように黒猫を睨み付ける。

「やられたらやり返す! 賞金稼ぎなめんなよ」
勝ち誇った顔でシンジは言葉を続け、それに応じるようにアキラも呑気に笑い声を上げた。油断が油断を呼び、黒猫にとって最大の機が訪れた瞬間だった。

始まりの雨 7

優位に立った人間程その態度は傲慢に尊大な様相へ変わり、そうした者程隙が大きく急変する事態に対応し切れなくなるのだ。

反政府都市と言えどそこに住む全ての住人が反政府活動をする訳ではない。思想と主義も統制されるのはどちらにしてもあり、中でも一際目立つのが刹那と呼ばれる都市であった。
政府に頼らずあくまで自治統制で都市機能を循環させている。人間が人間として生きられる世の中を住人同士の各々の作用に任せているのだ。
自由とはやりたい放題の無秩序ではなく、ありとあらゆる義務から得られる権利である。そうした社会の中で人間は生まれ死にその命を燃やし尽くす。
黒猫が所属する組織は都市の闇そのもので、輪から溢れ出した欲望や怨嗟をただただ叶える。金さえ払えばどんな事でも遂行する万能のスペシャリスト集団である。

一介の料理人は生唾を飲み込み意を決した。自らの城を荒らす下手人を制圧する為に腹を据えたのだ。堅気の人間にも通さなければならない筋があり、身を守るのは他の誰でもなく己自信である。

「ーー黒猫さん!」
震えつつ裏返ったマスターの声が再び賞金稼ぎの目線を集め、すかさず銃口を向けていたシンジの手元にアルミ製の脇取盆で強烈に叩いた。

黒猫はよろめいたシンジの服を鷲掴みにして、アキラが向ける銃口に対して盾になるように体を入れる。鋭い手刀でトカレフを払い落とし、肩越しに両者へ体当たりし激しく壁に打ち付けた。
窓ガラスが割れ甲高い音が響き、アキラは粉々になったガラス片で頭部を負傷した。

「やられたらやり返す? そんな甘っちょろい事抜かしてるから負けるんや」
黒猫はシンジの体へ更に殴る蹴るの暴行を加えた。原型を留めないあちこちが腫れ上がった表情に既に意識はなく、為すがままされるがままに床に倒れ込む。

血で視界の定まらないアキラの顎を狙った正確な回し蹴りで賞金稼ぎ達を完全にノックアウトする。

「僕の城がめちゃくちゃになっちゃいました」
床にへたり込み深く溜め息を溢すマスター。額に滲む汗が戦いの激しさを物語っていた。

「安心しいや、弁償はこいつらが全額負担や」
黒猫は飲み掛けていた水割りを煽り煙草を点けると、賞金稼ぎの懐を弄った。財布と身分証を見つけると有りっ丈の金をマスターに差し出す。

空になった財布を投げ捨て二人の身分証をポケットにねじ込むと、黒猫は君影草を後にした。背中越しにご馳走さまと小さく残して雨の止まない夜の闇に消えていった。

不敵に嗤う女 1


朝陽が昇ると人間の活動が始まる。どういった世界にも人間の人間らしい行動は体を構成する細胞一つ一つに刻み込まれているのだ。

黒猫達が暮らす都市は戦争による大規模な環境破壊により地下深くへ移築された多くの都市の一部である。照らす太陽の光も吹き抜ける風の音も、全てはコンピューターが制御する紛い物でしかない。
青空に流れる白い雲は天井に張り巡らされた発光ダイオードのパターンで、数百年の気象データを元に季節に合わせて移り変わる。雨を降らすスプリンクラーも何もかもが、地上での暮らしや気候を完全再現する科学技術の粋であった。

「おはようございます、黒猫様。本日午前九時より、銀猫様と面会の予定が入っております。ご要望をお聞かせ下さい」
ホラグラム投射から無機質な笑みを浮かべたエルが話し掛ける。文字通り感情の籠らない暗い瞳がよりぎこちなさを際立てた。

エルの人工知能としての本来のスペックであれば、ユーザーとの会話やコンシェルジュ機能の利用などから学習し仕草や言葉果ては感情すらも理解していく事が出来る。
約五年の月日をユーザーである黒猫と過ごした事で、エルの人工知能としてのレベルはほぼ初期状態と変わらない。基本的に無口で協調性の欠片も無い上喜怒哀楽の起伏が少ない彼にエルは余りにも不釣り合いだった。
彼自身の出自が特殊なだけに致し方無い事は多々あるものの、彼を取り巻く周りの人間は手を焼いているのだ。

「特に無い」
黒猫は寝癖で跳ね上がったボサボサの頭を掻きながら寝室を出て居間のソファーに腰を沈める。

ガラステーブルの上に散らばった缶ビールの山の中から煙草を探し出して煙を燻らせる。窓から差し込む朝陽が遮光カーテンを通して柔らかく部屋に入る。長閑な街には小鳥の囀りと時折走り抜ける車の音。
電化製品から発せられる作動音だけが妙に耳障りで、しかしそんな事などすぐに忘れて黒猫は昨日の記憶をうろ覚えに遡る。
山田組傘下の松永筆頭グループを壊滅させ、賞金稼ぎ達に焼きを入れた。肉体に残る疲労感と血管の中をアルコールが這いずり回る不快感が、徐々に記憶を鮮明に研ぎ澄ませていった。
銀猫との通話を思い出して眉を顰めると、キッチンに立ちインスタントコーヒーを淹れる。今日の面会で何をどう言われるかが大凡検討が付いて黒猫は気怠げに虚空を見つめた。
デジタル時計は午前七時を示す。壁に掛かったテレビを起動し何を見るとも無くただただ情報を聞き流して、苦いインスタントコーヒーを口に含んだ。

口腔を芳醇な香りに満たして後を引く苦みが、この先の面倒事を予知しているとこの時の彼には分からない。

不敵に嗤う女 2


インターホンを何度も何度もしつこく鳴らす音で黒猫は覚醒した。デジタル時計は午前十時へ移り変わる瞬間であった。温くなったインスタントコーヒーを口に含むと、黒猫は立ち上がり大欠伸をかます。
何度も何度でも鳴らされるインターホンなど気にも止めず黒猫は煙草に火を点けた。

カメラ越しに見知らぬ女が立っていた。明らかな苛立ちの表情に何となく組織の関係者である事を察知する。
通話ボタンを押すと彼の言葉を待たず甲高い声ががなり立てた。余りのけたたましさにすかさずキャンセルボタンを押した。防音ドアすら余裕に無視して女の騒ぎ立てる声が漏れ聞こえてきた。
黒猫は嫌々ながらも玄関へ向かった。これ以上騒がれると彼の精神に異常をきたす程、突然の訪問者はストレスの源になっていた。
ドアロックを外した瞬間無理矢理開かれた玄関からは、カメラ越しに見るより割増しで不機嫌な表情が迫ってくる。

「あんたいい根性してるよな! 今何時だと思ってんの?」

寝起きの頭に響く甲高い声で、その主は黒猫に詰め寄った。上目遣いで鋭く睨み付ける凶暴な獣染みた目付き。透き通る白い肌は凍て付く雪のようで、小さい体躯からは不釣り合いな程に態度は大きく泰然自若を地で行くようだった。

「……お前、誰やねん?」
一歩も引かず黒猫は切り返し、負けじとメンチの切り合いに応じる。キスでもするかのような超至近距離で意地と意地のぶつかり合いは続く。

五分程睨み合いが続き均衡を打ち砕いたのは女の方であった。時間の無駄だと悟った彼女が黒猫の肩を小突いて、ヒートアップした心を深く沈めて話を切り出した。

「私は白猫、あんたの先輩! あんまりナメた態度してると締めるから! さっさと出掛ける準備してこい。社長が待ってる」
自己紹介ついでに喧嘩まで売って、白猫と名乗る少女は要件と指示を的確に伝えた。自分が先輩で偉いという事に念を押して彼女は玄関で仁王立ちする。

自身の遅刻を意に介さず黒猫は不服さと不愉快さを一切隠さず軽い身支度を整えた。その間の白猫の冷たい眼差しなど無視して彼は玄関を出る。

マンションのエレベーターでフロントに行き、無人タクシーに二人は乗り込んだ。自動運転で目指す先は彼らの所属する組織の本拠地。タッチパネルに流れる広告と安全運転のスローガンが交互に表示され、一定距離毎に料金メーターが上がっていく。
科学技術の発展で車が空を飛ぶ技術は実現した。しかし実際に運用する車メーカーは存在しなかった。地上を走るだけで様々なトラブルから事故が起きる車が空を飛んだ場合に起きるリスクとそれらを回避する為のコストを考えれば、空飛ぶ車に技術進歩の隆盛を誇示する以外のメリットは無いのだ。
ガソリンから電気へと変わり走行音は低減したが、それによる危険が顕著になった事で丁度良い塩梅で音を発生させている。

無言の車内は重く暗い雰囲気で、黒猫は後ろに流れていく景色を頬杖を付いてただただ眺めていた。

不敵に嗤う女 3


「いやほんと、朝早くから呼び出して済まない」
皮肉たっぷりに仰々しい動きで銀猫は黒猫を迎え入れた。約束の時間からとうに過ぎた相手へ向ける言葉ではない。

彼は優雅に葉巻を嗜みながら黒猫達を座るように促す。灰色に近い銀色の髪を後ろに撫で付け、皺の多い顔の左目周辺には十字の刀傷が刻まれていた。それらが勲章なように長い戦いの生き証人となっている。
政府を始めあらゆる権力者から恐れられるこの男も小言や皮肉を軽く言ってのける、ウィットでファンキーな性格なのだ。相手を虚仮にしてじわじわといたぶる嗜虐的な一面すら持ち合わせ、黒猫や白猫など身近な者達ですらその器の深さは計り知れない。

「社長、無駄話は結構です。本題に移りましょう」
白猫は真っ直ぐに銀猫を見詰め結論を急ぐ。徹底的な効率を重視する完璧主義者なのだ。

「それもそうだ。事は急を要する。黒猫、お前は山田組傘下から命を狙われてる。山田組の勢力は都市全体に包囲網を張ってる。暫くお前には依頼を回さないつもりだ」
銀猫は今後の方針を説明して、黒猫と白猫を一瞥する。確かな情報筋から得た状況から考えて至極真っ当な見解である。

山田組傘下の松永グループを殲滅した所で彼等もまた山田組勢力の末端組織に過ぎず、やくざ者同士の血で血を洗う抗争の火蓋は切って落とされた。
人身売買取引の被害者家族からの依頼で松永啓司の暗殺を遂行した黒猫は、その暴虐さを遺憾無く発揮してグループ諸共壊滅させた。
報復自体はどの道避けて通る事の出来ない案件ではあったが、何より問題となっているのはたった一人の暗殺の為に大暴れした末に顔まで敵組織に割れている事だ。
裏社会に生きる者達にとって、名を上げる事は余程の事でもない限り喜ばしい物ではない。活動する上で顔と名を知られていると、動き辛くなるだけなのだ。
やくざ者であるならば、目立つ程に顕著にそれらが増してリスクを負うばかりである。

「……それで、この女をわざわざ俺ん所に寄越した理由は?」
黒猫は熟考を重ねた上で全く理解出来ない事柄に説明を求めた。

彼に依頼を回さないという事は謹慎させるという事で、その程度の事でわざわざ呼び付ける理由にもならない上白猫を派遣してまで面会する必要性が無い。

「なんだ? 話してないのか?」
銀猫は白猫を不思議そうに見た。予想外の反応に面食らった表情になる。

銀猫は無精髭を無造作に掻き、顰めっ面で面倒事の説明をする心構えをする。面倒事を極端に嫌う銀猫にとって煩わしさしかなかった。

「黒猫、最近のお前を見ているとな。保護者的立場から色々と心配が多い。仕事こそこなしてるが危うさも目立つ。何よりお前の人間性を育てる必要が出てきた」
随分と回りくどく言葉を濁しながら、銀猫は親切丁寧にただをこねる子供を諭すように言葉を紡ぐ。

「つまり、白猫をお前の教育係としてしばらく二人組で行動してもらう事になった。……仲良くしろよ」

不敵に嗤う女 4


社長室を出るなり白猫は黒猫の行く手を遮り壁に手を付いて立ちはだかった。黒猫以上に子供のような見た目でその高圧的な態度は彼を苛々させ、出会って数時間も経たない内に相容れない関係である事を明らかにする。

「不満でもあんの? 上下関係はっきりさせとこうか。私が上、あんたが下。先輩の言う事は絶対。理解出来た?」
不敵に嗤う白猫はジェスチャーを交えながら黒猫へ一方的に言葉を浴びせ掛ける。相手が聞いてようがいまいがお構い無しに、反論を受け付けない独善的主張を並べ立てた。

黒猫は言葉を発さず目線だけで反抗の意思を伝えると、踵を返してエレベーターへと向かう。
五年間一人であらゆる仕事をこなしてきた彼にとって、今更二人組で行動などあり得ない。何より白猫と二人という所が無性に気に入らなかった。
フラストレーションが溜まる一方で、白猫が何故自身の教育係に任命されたかが疑問である。彼女でなくてはならない理由があるのか、それとも銀猫の目が届く手頃な人間というだけなのか。
銀猫は結局本質の所を説明する事無く話を終え、早々に解散を告げた。

ビルの中は多くの人間が行き交っていた。その中の多くが黒猫と同じ裏社会の人間で、それ以外は事務処理や設備維持の人間である。やくざ者と見た目で分かるような者は少ない。
白を基調としたモノトーンの内装は、まるでモノクロの世界にいるような錯覚を起こさせる。色を無くした世界そのものであるようだ。
黒猫にとって居心地の良い場所ではなかった。馴れ合いを好まず孤独に生きてきた彼に、大きな物事の流れに従って己の道を決められる事は不愉快でしかない。
ビルを出るとむっとする湿気に包まれた。体中を纏わり付く蒸し暑さの塊が、黒猫の目頭に大きな縦皺を刻む。空は重く灰色に染まりより暗くなった。

夜。自宅に戻り酒を飲んでいた黒猫に突然の連絡が入った。白猫からの短いメッセージであった。今朝の事もあり、黒猫はよろけながらも支度を済ませて外へ出る。
傘を差すかどうか迷う程の小雨、湿気は相変わらず体中を纏わり付いて不愉快さを助長する。濡れたコンクリートから立ち込める熱気と独特の臭気は足取りを重くさせた。路地を歩く人影はまばらで、寂れた通りに何を目的に歩くのか黒猫にはおおよそ見当も付かなかった。
大通りに入り信号機を二つ超えた先、通りへ迫り出したネオンの看板が煌めいていた。白猫に指定された住所に到着した黒猫はスワンと掲げられた喫茶店に入っていく。

「こんなとこ呼び出して、何の用や?」
喫茶店の一番奥まった席に鎮座する不動明王に黒猫はぶっきら棒に話し掛けた。

「一分遅刻! 先輩を待たせるな! 酒臭い!」
文句だけ言い渡すと白猫はアイスコーヒーに差さったストローに口を付ける。

「俺と飯食いたい訳やないんやろ?」
自身への文句を全て無視して、話を進める。店員に灰皿を貰い受けると煙草に火を点けた。

「二人でやる最初の仕事よ。打ち合わせ始める。私はあんたの実力を資料でしか見てないから、その辺を確認させて貰う」

不敵に嗤う女 5


寂れた商店街の奥まった場所に倉庫があった。シャッターは色とりどりのカラースプレーによる特殊な字体のアルファベットが踊っている。右側にある木製のドアに嵌められたガラス窓は割れ、スモークガラスのように燻んでいた。
暗く汚れた倉庫内の全容は計り知れないが、確かに人間の気配を感じさせた。黒猫は周囲を見渡して潜入経路を確認する。
商店街を再興させようとする際に最大の障害となっているギャング達の排除。黒猫にとって依頼主の細かな事情などまるで興味はなかった。
しかし白猫は念を押して平和的解決手段を考えるよう通達する。具体例など無く自分自身で考えて行動するしかないのだ。

生温い風が吹き込む。埃っぽい匂いが立ち込めて寂れた商店街を更に閑散と感じさせた。時代を経て掠れたそれぞれの屋号は所々が朽ちて、如何にも吹き溜まりと形容するのに最適な場所となる。

性に合わない、黒猫はそれを感じ取ると倉庫の正面に仁王立ちする。塗料で彩られた象徴のような文字列、詰まる所ギャングにとってのプライドやアイデンティティーである。
理解した上で黒猫はそれらを踏み躙る事にした。建て付けが脆くなっている事は外観から充分に観察出来た。
体重を乗せた前蹴り。上足底のピンポイントで最も耐久性の低い中央へ抉り込む蹴りはシャッターを破壊して、錆びた箇所から亀裂を広げ力の流れに逆らう事なく倉庫の内側に倒れた。耳を劈く金属の撓みと打ち付ける軋みが倉庫内に響いた。
薄暗い倉庫の奥から異変を察知したギャング達が群れを成して登場する。巣を攻撃された蟻がわらわらと這い出てくるように、敵意の眼差しが黒猫へ集中した。

ポケットから煙草を取り出すと、ゆったりとした動きで火を灯す。点滅する街灯が彼に後光が差しているように見せた。大勢の敵を前に余裕たっぷりの振る舞いは、相手を存分に煽り苛立たせていた。

じりじりと境界は埋まって先頭に立つ体格の大きな男が睨みを効かせながら詰め寄った。筋骨逞しい体をタンクトップ一枚で誇示し、肩に担いだ金属バットは危険なムードをより高めていた。それらを蚊帳の外に黒猫は喫茶店での会話を思い返していた。

「商店街の倉庫を根城にしてるギャングを追い出してほしい。商店街のイメージを壊さないように出来るだけ平和的解決手段で、との事だから!」
白猫はホログラムを展開して依頼の要項をすらすらと読み上げると、ギャング達の主要メンバーとされるプロフィールを羅列表示した。

黒猫の目と鼻の先で目元を痙攣させている男は主要メンバーの一人であった。 のんびりと煙草を吹かしている間に彼を中心にギャングの輪が広がっていた。

「テメェ、俺たちの縄張りで調子乗って生きていけると思ってんのか?」
痺れを切らした男は黒猫へ超至近距離で言葉を浴びせ掛ける。それに合わせて、周りも野次を飛ばした。

黒猫は冷めた目でそれらを一瞥し、肺の奥の奥まで煙を吸い込むと緩やかなスピードで煙を吐き出した。

不敵に嗤う女 6


やくざ者やギャングなどそれぞれの出自や行動理念の違いはあれど、それに属する人間に大きな差異はない。思想の数だけ民族があるように、言葉の数だけ人間があるのだ。
科学が発達して暮らしはより高次元に進化する。もしこうであれば、と昔の人間達が夢想した絵空事が着実に実現していく。そしてそれはこの先もずっと長く続いていく。
携帯電話が肩から担ぐ大きくて重い物だった時代に、人工知能を搭載したフレームレス構造でホログラムが画面を擬似表現する物になる時代を予期する事が出来たかは定かではない。
それでも人間の本質とは変わらない物である。戦争と一時の平和、それも水面下にあらゆる火種を撒き散らされた表裏一体の混沌。

睨み合う二人においても、それと同じ理屈で説明が付いた。争う理由は何であっても、結局の所は人間が集まる以上そこに戦いは生まれるのだ。

「お前らの居場所は今日限りで終わりや。死にたくない奴からさっさと消えろ」
黒猫は咥えていた煙草を爪弾き、目の前の男に膝蹴りを叩き込む。

彼なりの平和的解決手段は火に油を注ぐような物でギャング達を奮い立たせる。多対一での戦闘はいくら腕っ節に自信があってもそう簡単には切り崩せない。何より重要なのはスタミナを切らさず必要最低限の力で相手を打ち負かさなければ、数で圧倒されて袋叩きにされるだけである。

黒猫は狙いを主要メンバーに絞ってダメージを与えた。寄せ集めの雑魚に割く体力は不要で、戦意を削ぎ落とす為には柱を折る必要があったからである。
くの字に折れ曲がった体は体格差を無理矢理縮めて、無防備となった後頭部へ容赦無い肘打ちを決めた。最小の動きで最大の効果を、雪崩れるような攻撃には退いて態勢を整えた。乱戦入り乱れる隙間を縫って、頭に刷り込んだ主要メンバーを炙り出す。
鉄パイプや木刀が迫り来るも、混戦の中で大振りな動きは巻き添えを生むばかりで次第に統制を失っていく。厄介そうな人間を直感的に判断した彼は空かさず攻撃を加えた。周り蹴りで敵陣を侵略して、顎を撫でるように手刀で揺らし輪を突破する。
有利な位置にまで動いて、隅にある朽ち果てた棚や機器を薙ぎ倒した。土埃と人間の熱気が充満し、倉庫内は戦場と化した。

然程大きくはない倉庫によくこれだけの人数を詰め込んだ物だと、軽く関心した黒猫は次の展開を考えた。圧倒的に不利な状況など日常茶飯事であった彼はこの状況を冷静に分析する。

「リーダーどいつや? 下っ端はもうええから早よ出てこい!」
荷物の山の頂上で這い寄るギャングを蹴散らしながら、黒猫は倉庫内で怒鳴り声を上げた。

「いきなり来て暴れ回った挙句テメェの要求だけか、このイカレ野郎。中々気に入ったぞ!」

不敵に嗤う女 7


「俺達は何もただ暴れ回りたいだけの連中じゃない。吹き溜まりにだって秩序はある。俺はそんな奴等を守ってやりたいと思っている」

丸縁眼鏡越しに覗く相貌は他のギャングのそれと違い、酷く穏やかで優しい物だった。ギャングのリーダーと言うには不釣り合いな程に。

「……誰がそんな事喋れ言うたんや?」
黒猫はずたずたのボロ布であしらわれたソファーに腰を落ち着け、自分語りを始める男を遮る。

殴り合いから一転して二人は互いに腰を落ち着けての対談となった。依然周りを囲む険悪な輪は残っているが、それすら気にせず二人は成り立たない会話を繰り返した。

「俺、吉岡ってんだ。よろしくな、一応こいつらのリーダーって事になってる。お前名前は? ていうか、俺のチームに入れよ!」
噛み合わない会話に目もくれず吉岡は唐突に自己紹介を始め、最後には黒猫を自らの傘下に入るよう勧めた。

その後続く吉岡の未来予想図や強引な勧誘を躱しながら、黒猫は本来の目的を達成する為に思惑を始める。話の分かる相手ではない、と言葉通りの意味が当て嵌った。

「もうお前の話は飽きたわ。この倉庫からお前らを追い出せって言われてんねん。その返事だけ聞かせろ」
黒猫は疲れた表情を隠しもせず、吉岡に要求を伝えた。騒めく周囲は気にも止めず淡々と、これまでの経緯を含めたボーダーラインを提示する。

今の彼に出来る最も適切な平和的解決手段。武器を持たず素手での肉弾戦で殺しを避けつつもその強さを示し、建前としての話し合いで相手も強引に納得させる方法。口で語ろうと伝わらない物を拳で理解させ、これ以上は後が無い事をあえて言葉にせず飲み込ませた。

「ーーお前とは気が合うと思ったんだが、そうはいかないか。わかったよ。その代わり、これ以上こいつらに危害は加えるな。それで交渉成立だ」
吉岡は非常に残念そうに、しかしすぐに気持ちを切り替えたように表情は晴れて交換条件を提示する。

その後黒猫は立ち退きの期限を彼らに伝えると倉庫を後にした。倉庫を出るその時まで、決定に不服を持つギャング達の怒りの眼差しが一人の少年に刺さる。
因縁を残したままでその後に起こる影響を考えれば、始末しておくに越した事はない。それでも吉岡との交渉によって、黒猫が彼らに手を出す事は決裂を意味するのだ。

白猫からの連絡で再び喫茶店に戻ると、彼女はフレンチトーストを頬張りながら黒猫を待ち受けていた。美味しいという感情を体全体で表した素の表情を彼は初めて見た。
黒猫の顔を見るなりその表情は冷気を帯びて、彼が向かいの席に腰を下ろす頃にはいつも通りの彼女がそこにはいた。
あれから幾ばくの時間が流れたのか、喫茶店は彼ら以外に客もおらずそれでもゆったりと営業を続けている。

「倉庫の件はどうなったの?」
フレンチトーストのメープルシロップとホイップクリームと付け合わせのミントまで残さず平らげた白猫は、口元を紙ナプキンで拭きながら質問をぶつけた。

ジャズの音色にぼんやりと店内を眺めていた黒猫は店員にアイスコーヒーを注文すると、煙草に火を点けて事の顛末を説明した。

合わない二人の黙示録 1

「あんたって本当、やる事成す事不器用よね。そんな生き方してたら命がいくらあっても足りない」

あれから数週間、黒猫は白猫と共に依頼を熟していた。一仕事終える度始まる小言タイムを華麗に聞き流し、いつまで続くのか見当も付かない地獄の日々を憂いた。
隣を歩く白猫は彼より体格も小さく、当たり前ではあるが腕力などで言えば絶対的な差がある。それでも尚彼女は終始上から目線で口酸っぱく説教を垂れる。
吐き出した煙草の煙が中空を舞い上がって風に流されて消えていく。黒猫はここ数日でフラストレーションに対する抗体を得た。純粋な嫌味やその他の薄汚れた感情をストレートに受け取るのではなく、激流の中の岩のように不動の忍耐で持って受け流すのだ。

「倉庫をめちゃくちゃにした挙句数人を病院送りにしたり、依頼人を護衛中に無関係な人間と揉めたりさ。もっとオトナになりなさいよ。ちょっと、聞いてる?」
途中から相槌すら打たずにいた黒猫に、ようやく白猫は無視されている事に気付いた。滞らず止め処なく、滑らかで清々しいまでに次々と出てくる言葉はその殆どが嫌味だった。

「そんな事より、今日はどこに行くんや?」
黒猫は言いたい事の大凡を飲み込んで、必要な情報だけを抜き出した。

「ーーこれから依頼人と打ち合わせ。お願いだから、大人しくしてろ。分かった?」
白猫は一つ溜め息を溢すと、大人の対応を我儘な少年に願い出た。そんな事で済まされた自身の言葉を置き去りに、怒りを深く胸の奥に沈ませる。

昼前の薄曇りの空は低く、重苦しい暑さが漂っていた。市街地の疎らな人並を過ぎて住宅街に差し掛かる。
白猫の行く先をただ着いていく黒猫。今まで経験した仕事と彼女の請ける仕事では内容の質が違っていた。黒猫は基本的に殺伐とした内容で暗殺が主な目的である。依頼人と打ち合わせなどせず、必要な情報だけを頼りに探し当て始末を付けてきた。
それが彼の生き様であり運命であるように、流れ作業を只管に熟す機械となっていく。触れる物全てを壊してきた彼にとって白猫は正に異質そのものである。

奥まった路地の奥に見えた酷く鬱蒼とした屋敷。壁には蔦が這い回り荒れ果てた庭と相まって、廃墟を思わせる佇まいはまるで別世界のような冷ややかな空気を纏っていた。

「大林蓮二郎、皆からレンじぃって呼ばれてる。私の得意先だから勝手な事しないで」
自宅に帰ってきたように古ぼけた屋敷へずかずかと足を運ぶ白猫は慣れた様子で迷う事無く突き進んでいく。

重厚なマホガニーの扉は細かな彫刻が施され、所々にある金具すら一つの作品を組み立てる要因のようであった。
高く軋む音が響いて扉が開く。壁一面が本棚に覆われた書斎のような場所であった。紙の匂いが充満する室内で、厳かな机の上には本が乱雑に積み上げられていた。
革の椅子に姿勢正しく座る白髪の老人は、落としていた視線を訪ね人に向けると朗らかに笑みを浮かべた。

合わない二人の黙示録 2


使用人の入れる紅茶を傾けるとダージリンが持つ独特の香味が口いっぱいに広がった。淡いオレンジ色の液体は爽やかで上品な味わいを蓄えて、鼻に抜けるマスカットの香りは黒猫を釘付けにする。

「機械で入れる紅茶も悪くはないよ。でもね、人の手でじっくり時間を掛けて作るとより美味しくなる。君は紅茶初めてかい?」
混じりっ気の無い白髪頭と同じくらいに白い肌は皺一つ無かった。朗らかで落ち着きのある声は静かな書斎の中で凛と響いた。

「何回かはあるんやろうけど、こんな美味いのは初めてや」
普段馴れ合いを好まない黒猫であるが、何故か彼の醸し出す空気に触れてほんの少し態度が和らいでいるようだった。

黒猫にとって親しみという感情を持つ事自体が稀であり、その相手は片手で足りる程度の人間しかいない。それを超越する大林という存在はある種の凄みを放っていた。
使用人の女は黒猫達と年齢もそう変わらない程度であったがその腕は確かで、立ち居振る舞いの質は高い。可憐な花、等と安い形容が当て嵌まる手本のような存在である。
隣に座る白猫と彼女を見比べた黒猫は、その性質の違いに呆れ果てた。一方の白猫はストレートで出された紅茶に砂糖とミルクをカップから溢れんばかりに注ぎ込み、その喉が渇く程の甘味を堪能していた。

「レンじい、今日は打ち合わせと簡単な顔合わせをしたいと思ってます。こっちが黒猫です。無愛想だけど腕っ節だけは確かなので」
甘々の紅茶を飲み干した白猫は気持ちを仕事に切り替えて話を始めた。紹介する時までもきちんと嫌味を織り交ぜて来る辺りが二人の相性を物語っていた。

黒猫はその時ようやく依頼の内容を知る事となる。大林はミリタリーショップを営む傍ら黒猫達のように様々な事情を抱えた人間からの依頼も受けていた。そうした中で使用人の女さくらと知り合い今に至るのだが、年老いた老人一人で面倒事を片付けるには時代が悪過ぎた。
さくらは腹に一物抱えた連中に命を狙われており、その包囲網は今尚縮まってとうとう限界まで達している。護衛と敵対組織の制圧が今回の依頼である。
そんな状況下でのんびりと紅茶を作る精神は逞ましいを通り越して図太いとも言えた。しかしやはり恐怖は感じているようで白猫の話を聞いている時は小刻みに震えて視線も何処か定まらず、話が終盤に差し掛かる頃には俯いたまま高まる疼きを必死に抑えていた。

「……敵の情報は無いんか?」
黒猫は白猫に話を振った。肝心の部分が抜け落ちた打ち合わせに疑問をぶつける。

「誰にどう狙われているかは重要な事です。こちらにも情報共有は必要です。是非教えてもらいたい」
白猫も具体的な話は聞いてなかったようで、珍しく良い働きをする黒猫に少し驚きながらも事の本題をさくらへ投げ掛けた。

護衛という仕事では防戦一方となり守る側が不利になりやすい。敵にどういった経緯で命を狙われ、どういう手段でこちらを狙って来るのか。分かる事だけ、出来るだけ多くの情報を彼らは欲している。

さくらは恐怖を乗り越えて腹を決める。騒めき立つ荒れた心とは裏腹に、室内はダージリンの残り香で穏やかに包まれていた。

合わない二人の黙示録 3


さくらは全てを端的に話した。親の借金によって奴隷として売り出される直前にまでなった事、それを救ってくれた幼馴染の男と仲睦まじく暮らしていた事。その幸せな生活がまたしても親の存在によって長くは続かなかった事、全てが嫌になり破滅の道を自ら選んだ事を。
破滅の道の先に大林と巡り会い今に至る。

苦悶に満ちた表情。自らのトラウマと向き合う覚悟。書斎は張り詰めた緊張感で埋め尽くされていった。

「借金を肩に奴隷にってのは良く聞く話ではある。裏の連中と関わりを持つと日常生活は破綻するし、その幼馴染とレンじいには感謝しなきゃね」
白猫は小刻みに震えるさくらの手を取り肩を抱きながら呟くようにそう言った。彼女にとって今置かれた状況は決して最悪ではない。

敵は奴隷売買を扱うやくざ者。さくらの言う経緯を考えればその執着心は相当のレベルである。
黒猫はすぐにその敵対組織に目星が付いた。やくざ者のシノギは多種多様で利益さえ上がれば、あらゆる倫理道徳を無視して荒稼ぎする。彼の知る限りで奴隷売買の元締めとなれば、自ずと答えは出ていた。

「……山田組、松永とは別のグループやろうな」
黒猫は誰にともなく口を開いた。敵を見定めたならばやる事は一つである。

山田組傘下が相手となれば面の割れた黒猫は前線に立てない。身辺警護を白猫が、後方支援を黒猫が担当する運びとなった。
屋敷全体を隈なく観察していると、外観とは裏腹に塵一つ見当たらない程に清掃が行き届いていた。
使用人の丁寧な手入れが屋敷全体を居心地の悪い場所にしているようである。黒猫は書斎で感じ取った感覚と真逆の何かをそれらに見る。さくらの底を知るには、まだまだ知らない事だらけなのだ。
廊下を歩いていると白猫が屋敷の一室から出てきた。後ろに続くさくらも立ち止まり、煙草を手に持った黒猫を凝視する。

「館内は全面禁煙です。バルコニーの隅なら大丈夫かと思われます」
さくらはそう言うと廊下を先導しながら案内した。

エキゾチックなステンドグラスの窓を開けると、ルーフが作る日陰に風の通る心地良いバルコニーに出た。閑静な住宅街を臨む上層階からの眺めは不思議と寂寥感が漂っている。
日も暮れだし橙掛かった空。黒猫は木製の手摺りに前のめりで凭れると、ずっと手に持っていた煙草に火を点けた。ぼんやりと外を眺めていると隣に立っていたさくらがガラス製の小皿を手渡した。

「準備ええな。ここ禁煙ちゃうんか?」
小皿を受け取ると、黒猫はさくらの顔を見る事もなく質問をぶつける。

「煙草の匂いがしていましたし、ずっと手に持っていたので」
事務的な笑顔でさくらは言葉を返す。梅雨の晴れ間に彼女の言葉は吸い込まれていくようだった。

煙草の煙を嫌う人間は多いが、さくらは頼まれていないにも関わらずバルコニーで黒猫と時間を共に過ごす。無言の時間が長く続くも遠くからは時折烏の鳴き声が響いた。

合わない二人の黙示録 4


数日振りに顔を覗かせる削れた月が照らす夜、繁華街から通りを二本挟んだ路地に女の叫び声が木霊する。息を切らせて走り続けた先の空き家に逃げ込んだ女は打ち捨てられた革張りのソファーの陰に身を潜めた。荒い息を必死に抑え込むもそう簡単に収まるような状態ではなかった。
追っ手はすぐに女の居所を掴むと、気配を消しつつ空き家へと侵入した。暗い室内であっても音は鮮明に聞き取る事が出来て、女の努力は殆どが無駄になっている。
手に持った抜き身の匕首を強く握ると、吐息の漏れ聞こえる革張りのソファーを回り込み大きく振りかぶった。

ぴたりと追っ手の動きは止まる。振り翳した匕首を突き刺す対象がそこにはいなかったからである。

山田組傘下の林原グループは松永グループより権限が小さかった。それは単純な力関係ではなく、山田組として盃を交わす時の上納金による差であった。
仁義より利益を、人情より商売を。徹底的な成果主義と突き抜けた向上心が山田組を現在の姿に変えた。あらゆる金稼ぎの手段が組織の中で築き上げられてきたのだ。
そんな組織から派遣された手練れの追っ手がさくらを捕捉し命を取る事は容易で、経験豊富な暗殺者だからこそ単独行動が許されていた。家事全般を卒なく熟そうとも堅気の人間が早々出し抜ける程甘くは無い。

「その程度で逃げ切れると思ったか?」
暗殺者は闇に紛れたターゲットへ語り掛けた。空き家の隅から隅へ感覚を研ぎ澄ませ、相手の出方を探った。

ピアノ線を張り詰めたような静けさが緊張感を高める。しかし永遠のように感じた均衡は呆気なく崩れ去った。
からんと乾いた音がした方を見やるとすぐに暗殺者はその意図に気付き、咄嗟に頭を庇い身を屈める。掌サイズの筒状の物体は猛烈な勢いでガスを噴射しながら回転する。
空き家を薄い靄で包んだ催涙ガスの中、視界を奪われた暗殺者は出口へと走り出す。あと一歩の所で暗殺者は気取った。
ハイヒールを履いた足から放たれた踵落としに、暗殺者は為す術無く床に叩き付けられた。小さく呻いた所で追い討ちを掛けるように腹蹴りが見舞われる。
苦渋の表情で薄目を開くと、そこにはガスマスクを装着した見知らぬ女が立っていた。涙でぼやけた視界でそれでも確かに感じたのだ。
ターゲットを追い詰めたと思っていた暗殺者だったが、逆に追い詰められていた事にその時漸く気付いたのだった。

「ーーガキが! なめんなよ!!」
全身全霊を込めて蹴り足を押さえ込むと、体を横回転させて相手を投げた。絶望的状況を打破すると即座に態勢を整えて戦線を離脱した。

空き家を飛び出して路地を駆け抜け、月夜に風を切り人気の無い道をひた走る。未だ効力を発揮する催涙ガスで視界はあやふやであったが、それでも走る足を止める事は無かった。
繁華街の騒めきが遠くに聞こえる中、路地の先に立ちはだかる人間が現れる。咥え煙草で肩に黒い野太刀を担いだ姿に、暗殺者は林原グループの至上命令を思い出した。
取り零した獲物を上回る上物を発見したのだ。暗殺者としての選択肢はほぼほぼ決定していた。視界はまだ定まらない状態であったが、彼の腹は決まっている。

「黒猫、そっち行った! 情報持ってるから殺すな」
携帯電話を無線機代わりに指向性スピーカーで白猫の声が耳に届く。無駄に高い声が無茶な要望を伝えられた。

黒猫は煙草を爪弾き虎徹を両手で握り込むと、刃をターゲットへ向け顔の横で構えた。ただ真っ直ぐ走り込んでくる相手をしっかり見定めると間合いに入るコンマ数秒で力強く一歩踏み込んで袈裟斬りを放った。
匕首を振り抜いた暗殺者の右腕は斬り裂かれ血飛沫と共に路地に転がる。それでも闘志は絶えず左手にナイフを握ると一旦距離を取った。

絶え絶えの荒い息と霞む視界、腕を失った激痛を持ってしても暗殺者の執着は黒猫へと向いていた。逡巡の間で再び突っ込んできた所に深く腰を落とした横薙ぎで迎え撃つ。
暗殺者は黒猫の視界から一瞬消えた。高い跳躍で背後を取った暗殺者は鋭い刺突を黒猫に向けた。虎徹で捌き切れないと悟った黒猫はナイフの軌道を予測して致命傷を避けると同時に柄頭で暗殺者の顎を打ち付けた。

元々の疲弊状態から酷い脳震盪という更なる追い討ちでとうとう暗殺者の不屈のタフネス振りも勢いを止めた。立つ事もままならないまま地面に倒れ込むとそのまま意識を失った。

合わない二人の黙示録 5

「あんた加減って言葉知ってる? 逃すなとは言ったけど腕斬り落とせなんて言ってない」
空き家の一室で白猫は黒猫に詰め寄った。暗殺者の応急処置を迅速に済ませる白衣の人間を尻目に二人の睨み合いは続く。

彼らが所属する組織は数々の人間が在籍しており、多くの部署の内の一つに医療部があった。政府運営の医療機関さながらの技術を持ち、大所帯を支える屋台骨と呼ばれる。
白猫のプランでは医療部の力を借りず、即座に次の展開へ事を進める筈であった。しかし片腕を斬り落とされた人間から情報を引き出す為に尋問する等到底不可能である。

「お前も大概やろ、全身痣だらけの上ガスで意識無いらしいやないか。俺は二発だけや」
人差し指と中指を立てこれ見よがしに白猫にアピールしながら黒猫は言葉を返した。

「処置完了です。止血はしてありますが無茶すると開きます。しばらく意識は戻らないでしょうが、命に別状ありません。請求書は後から回しときます」
手術を終えると医師達はそそくさと退散していく。

暗殺者は大林の屋敷に無数にある部屋の一室に監禁された。手術の為に打たれた麻酔が彼を深い眠りに落とし、幾らかは生気を取り戻して寝息だけが小さく溢れていた。
右肩から先は黒猫に斬られ全身に青黒く残った痣を見ればさながら死体と言われても納得してしまえる姿を、黒猫はその側でアンティークなソファに腰掛けて眺める。
薬品の匂いが充満する室内に殺伐とした空気が行き場を失くす。遠くの喧騒を尻目に静かな夜の帳は屋敷を鬱蒼と闇に隠して、月明かりのみが部屋に仄かに差し込んだ。

人生とは戦いそのものである。主義主張を通す為には戦って勝利を勝ち取らなければならない。
ただ奪われるだけの弱者と欲求を貪り喰らう強者、正義の勝者と悪の敗者。どちらもまかり通る秩序の乱れた世界であるが、しかし強者だけが勝者ではないのだ。
勝利と敗北の差に普遍性はなくあるのはただ僅かな差のみ。その差を生み出すのは醜く燃え盛る勝利への執念である。

黒猫は暗殺者の上半身に刻まれている刺青を観察する。
狼が前足で蜥蜴を踏み付けて今にも喰らおうとする様がデザインされたそれは、黒猫にとって意味する所が分からないものの趣味が悪いと思わせた。
知恵のシンボルである蜥蜴を喰らう、貪欲のシンボルである狼。山田組が掲げる主義に即した刺青は、細かなデザインこそ違えど共通した意匠であった。
生傷が目立つ体は黒猫と同じく数多くの修羅場を潜り抜けてきた証なのだ。満身創痍の中それでも臆する事なく真っ向勝負を挑んだ男は殺し屋としての能力だけであれば確実に彼を上回っていただろう。
人間が生きていくには奪い合う定めに従う他なく、その傷は癒える前に新しく更新されていくのだ。

「ーーそんなとこで何してんの? 良い趣味とは言えないじゃない?」
部屋に入るなり怪訝な顔を隠さず嫌味を溢した白猫。その手には水が入ったバケツを持っていた。

戸惑いや躊躇いは微塵もなく、揺蕩うバケツの水は暗殺者の顔に打ち付けられる。麻酔による昏睡から強制的に覚醒させられた暗殺者は大きく咳き込むと、事態の把握に時間を要した。
混濁した意識の中目の前に立つ二人の顔を睨み、自由に動かせない手足へ渾身の力を込めた。数秒の間を空けて自身の右腕が無くなっている事に気付き叫び声を上げる。その声は酷く掠れて小さく、呻きにしかならなかった。

「野村和樹、あんたが山田組の関係者なのは知ってる。あんたを裏で操ってる奴は誰?」
白猫は冷淡に言葉を紡いだ。予め調べ尽くした暗殺者の情報を頭に入れた彼女は更にその先の情報に探りを掛ける。

under rain

under rain

西暦四千年 日本は永きに渡る戦乱を終え人類の文明は大きく変貌していた。 地下都市・ムーンライトで生きる少年・黒猫は若くして多くの命を屠り、殺し屋として生きる。 弱肉強食の世界で己の身を守るのは己のみ。秩序のなくなった世界で文明だけが発展していく。 黒猫は世界を敵に回した。 正義か悪か? その物差しはもう古かった。

  • 小説
  • 短編
  • アクション
  • SF
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い反社会的表現
更新日
登録日
2018-07-24

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