Fate/Last sin -interval.1

 サーヴァントは夢を見ない。夢を見るのは、いつも人間の方だ。



「―――お前にしか話せないことがある。聞いてくれるか?」
 
 ああ、この言葉だ。この言葉が、全ての始まりだった。
 きっと一番最初に、私を狂わせた言葉だ。
 そうだ、そうだ、そうだ。
 この言葉を聞かなければ、自分はずっと永遠に幸せでいられたのかもしれない。
 ならば聞かなければいい。聞きたくない。自分にしか聞けないことでも、―――自分にしか聞けないからこそ、そんな言葉は無かったことにして、いつのまにか時間にすりつぶされて、消えたらいい。
 消えたらいいのに、お前なんか。
 それでも、それでも、それでも。
「なに? 聞くよ」
 夢の中で私は涙を流した。顔は努めて笑顔を保っていても、何百回、追憶の中で繰り返した私の台詞は未だに私の喉を擦り切れさせる。
 目の前の「彼」は、ほっと安堵したような表情になって―――ああ、だから、その顔をやめてくれ。
 違う。私は聞きたくなどない。答えは知っている。
 聞いたら、私は私をやめなくてはならない。そして私は、「私」にならなくてはならない。
 その言葉が始まりだったのだから。その告白だけが、私の世界の全てを狂わせたのだから。
 だから、だから、だから!
「俺さ―――――」
 やめろ!
 しかしその言葉は続くことは無かった。世界は、彼の顔はぐにゃりと曲がって、溶けた金属のように変形する。
「―――――……!」
 思わず手を伸ばした。彼の体はぬらぬらと光る液体みたいになって、私の手をすり抜ける。けれどその私の手自体、もう原形を留めていなかった。
 何が起こっている?
 この夢は初めてだ。景色と彼と私と、全て混ざり合って混沌とした色彩を作り上げる。目が回るような色たち。私と彼と世界そのものは、融合して、攪拌され、ひとつに混じり合う。もうどれが自分で、どれがあいつだか分からない。あの言葉の続きは聞こえない。聞かなくて済んだ。
 色は私と彼とを一緒くたにして、一つの景色を描き出した。ぽつん、と目の前に白い穴が開く。ざわざわとススキの翻る高原に、紺碧の空――白い穴はその紺色の空に浮かんでいた。そうだ、あれは、
 月だ。

 気づけば私は、一枚の花のような衣を掴んでいた。



「離して、羿(イー)
 耳にしたのは、まるで小鳥の歌声のように綺麗な女性の声だった。私は目を上げて、その女性を見る。
 その人は泣いていた。さっきまでの私のように、静かに、静かに、音もなく、塩の雫が零れ落ちる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。でもわたくしもう耐えられない。どうしてわたくしが死ななくてはならないの? どうしてわたくしが老いなければならないの? 」
 精巧な宝石細工のような眼から、真珠のような肌に、花が散るように涙が落ちる。
 ―――ああ、こんな時でも、この人は本当に美しい。
 そんなことを考えたら、もう私は彼女の裾を離すしかなかった。するりと手から放たれた衣は、羽のように宙に浮かぶ。
 その人はなぜか、驚いた顔をした。
「ねえ、どうして、どうしてなの、羿。わたくしは老いるように作られていない。わたくしは死ぬように作られていない。でもそれは、貴方だって同じでしょう? 貴方はどうして恐ろしくないの。どうして受け入れてしまうの?」
 私は彼女の問いに答える言葉を持ち合わせていなかったが、私の発声器官はまるで返答を用意していたかのようにその言葉を発した。
『君と一緒なら、老いたって死んだって、恐ろしくないと思った』
 そう口にした瞬間、ざわり、と自分の心が逆立つ。ゆっくりと宙に浮かぶ美しい君も、目を見開いて顔を青白くした。
 羿の皮を纏って彼女の前に立つ私の心は、自分の肉体が発した羿の言葉に深く抉られたような気がした。
 違う。違う。違う。
 言いたくない。だってこれは、
「ごめんなさい、本当にごめんなさい、羿。わたくし本当は貴方と一緒に居たかったのよ。本当よ。本当よ、本当なの――――」
 分かっているよ、と微笑みかける。そう、分かっている。あの弓兵は、何もかも分かっているのだ。
 彼は人間のように老いて死ぬことに、何も恐れを抱かない。『君』と一緒なら。
 けれど彼女は違う。彼女は恐れる。老いを恐れ、死を恐れる。ならば彼は、彼女を無理にこの地に引き留めて、歩くたびに足場が崩れるような恐怖に満ちた日々を送らせるわけにはいかない。
 彼女ははらはらと泣きながら、ゆっくりと天に、白銀の満月に昇っていく。私はもう裾を掴むことはしない。紺碧のビロードのような空を渡る彼女は黒真珠のような目で私を見て、
「ああ、羿。わたくしを憎んで。貴方を置いて、恐ろしさのあまり貴方を手放した、一人で行ってしまうわたくしを憎んで!」
 と叫んだ。
 けれど私は、もうずっと昔から決めていた事のように、彼女に―――たった一人の美しい人に、返事をする。
『―――愛している』


 違う。

 言いたくない。そんな言葉、言いたくない。
 こんな他人同士の夢の芝居の中で、そんな本心を言いたくない。
 だってこれは私が一番、あいつに言いたかった言葉だ。
 そしてもう終ぞあいつに言うことは許されない言葉だ。
 なのに、なのにどうしてアーチャーは、どうしてアーチャーだけが、いとも簡単にそれを伝えられるのだ。
 よりにもよって、あの弓兵が最も愛した女に。
 自分の物ではない硬い手のひらを握り込み、天へ舞い上がる彼女を一瞥した時、再び景色が歪み始めた。
「君と一緒なら――――」
 アーチャーの肉体の意思ではなく、自分の、私の意思で声を発する。ススキの穂が、紺碧の空が、白い月が、遠く遠く小さくなったあの人の姿が、舞台から剥ぎ取られる幕のように世界から剥がれていく。
「君と一緒なら、老いたって、死んだって、怖くない」
 神話の世界のテクスチャが剥がれて現れるのは、あのいつもの待ち合わせ場所、午後六時の廃漁港だ。薄汚れたコンクリートに、ほとんど波立つことのない入り江の、灰色の海水。廃墟となった加工工場の裏で、人は誰も近づかない。顔色の悪い死霊魔術師の娘と、薬屋の一人息子がほんの十五分の会話を交わすには、一番いい場所だった。
 そしてここだけが、私のための場所だった。この時間だけが、どこにいても死と向き合わなければならない私が、本当に生きていられる時間だった。
 そのコンクリートの地面に、彼は立っている。
 ああ、またこの夢か。
 戻ってきたのだ。
 そいつはいつになく思い詰めた表情をしていた。その理由はもううんざりするほど聞いた、夢の中で。これは幾度となく繰り返された私の無意識の自傷行為だ。
 私の目の前に立つ彼は、首の後ろをしきりに引っ掻いた。私はそれが、言いにくいことを言い出さなくてはならないときに決まって現れる彼の癖だと知っている。魔術師になるよりも前から、知っている。
「俺さ、香月(シャンユェ)に聞いてほしいことがあって」
 黒い瞳は心もとなく午後六時の淡い黄昏の中を見つめていた。利発そうな太い眉、切れ長の目、私よりは健康的な色の肌。どれも、どれも全部触れそうなほどリアルに再現された夢だ。
「……うん」
 力なく返事をする。
「お前にしか話せないことなんだ。聞いてくれるか?」
「――――」
 現実での過去の私は、この時、何の疑いもなく「いいよ」と気さくな返事をしたのを覚えている。浮かれていたのだろう、たった今目の前にいる幼馴染と―――何年も昔に私の世界の全てになって、私を生かし続けてきた彼と、許嫁の関係になったのを父に知らされたのは、この会話のつい数時間前の事だった。
 何だって聞こう。何だって受け入れる。なぜなら君と一緒なら、死ぬことだって怖くないのだから。

「俺、好きな人がいる」


「でもその人は、男だ」





 香月は数度顔をしかめて、ゆっくりとその瞼を開けた。窓から差し込む朝陽が顔を刺すようにカーテンの隙間から漏れていて、目を開けた瞬間に鮮烈な光が網膜に照り付ける。香月は寝床にしていたソファーから気だるげに身を起こすと、悪夢を見た後のように硬直した体を再びクッションの上に投げ出した。
「――――――……」
 いつにも増して脈絡の無い夢だったな、と思う。アーチャーと契約してから夢を見たのは初めてだった。そのせいだろう、余計な記憶が混在していて、整然と思い返すことができない。けれどいつもより、遥かに感情を揺さぶられたような嫌な感覚はあった。それが腹立たしい。
 きっと昨日の夜に初めて邂逅した、アサシンとそのマスターが酷く癇に障って気分が悪かったせいだろう。そして先ほど垣間見たアーチャーの夢は、それに準じるほど最悪だった。
 しかしそれで理解したことがある。
 おそらくあの弓兵は、かつてあのように別れた妻を再び取り戻すために聖杯を欲している。后羿と嫦娥、中国神話では有名な話だ。偉業を成したにもかかわらず天帝の怒りに触れ不老不死を奪われた二人、それに耐えきれず霊薬を独占して天に帰った妻。しかし妻である嫦娥は天に帰ることを躊躇い月に留まる。嫦娥は羿を裏切った罰として蟾蜍(ひきがえる)にされる。
 馬鹿だな、と香月は虚ろな頭で考えた。
 自分を事実上とはいえ裏切った、愛する人と、わざわざ再会したいと願う。そのためだけに聖杯を欲する。
 ―――まるで私みたいだ。
 香月は口の端を歪めて、しかしすぐに真顔に戻った。
 いいや、違う。アーチャーと私は、全然違う願いを抱えている。
 何故ならアーチャーは、許されている。
 再び共に生きていきたいという願いは、許されている。アーチャーはそれを望み、そのために聖杯を手に入れることが許されている。夢に見た嫦娥は羿を愛していながらも、不老不死への未練を断ち切れずに月に行ったのだ。
 けれど私は、許されていない。
 彼を求めることはもう許されていない。彼は私の世界の全てだったが、私は彼の世界の全てではなかった。彼には彼の求めるものがあって、それは私ではない。そう――――アーチャーは誰かを欲することを諦めなくていい。私は、誰かを欲することを徹底的に諦めなくてはならない。
 午後六時の廃漁港を思い出す。
 あの告白の後、私が何を考えていたのかもう定かではない。ああ、とか、うん、とか、何か返事をしたのかもしれない。上の空で家に帰ったかもしれない。記憶があるのは、家の工房に戻ってすぐ、姿見の前で自分の長い黒髪に死体を加工するための鋏を差し込んだ瞬間だ。
 女ではいけない。
 彼が想い人の話をするときの、何かから解放されたような、そういう顔が脳裏に焼き付いている。
 女ではいけない。
 周囲に要らない勘違いを生んでしまう。女では、いずれ彼のもとに許嫁として嫁がなくてはならなくなる。それはだめだ。だめだ。許せない。女である私と結ばれることは、彼の幸福ではない。明確な不幸だ。私が彼を不幸にするのか、女であるばかりに―――そう思った瞬間、切り刻まれた黒髪は床に散らばった。
 女ではいけない。
 彼と許嫁であることを知らされた時の高揚感に、無理やり理性の蓋をねじ込んだ。気のせいだ。気のせいだ。気のせいだろう。そうでなくてはならない。私が女だと、彼が不幸になる。姿見の中の自分の髪は、どんどん短くなっていった。そうだ、できるだけ男に近づかなければ。「私と彼がどうやら結婚するらしい」などという、妙な勘違いは決して起きない(・・・・・・・・・・・・・)ようにしなければ。
 せめて彼の隣に、居場所が欲しかった。私の世界は、彼の隣にしか存在しない。彼と言葉を交わさないのは、世界を失って死んでいるのと同じだ。
 
 それ以降の私は、酷く混乱していた。
 だから家を出て、この状況をどうにかできる何らかの可能性―――聖杯に手を掛けることを望んだ。
 そんなことで、と言われるのは目に見えていた。そう。そんなことで。自分の感情すら制御できない私は、性別という最低限のアイデンティティすら見失って、傾いたままの世界すら一時的に投げ出し、ここまで来た。来るしかなかったのだ。
 望むのはただ一つ、
 私と彼の幸福が、完璧に両立する世界を――――





 白くなって輝きを失った月が朝焼けの空の反対側に沈むのを、銀髪のアーチャーは香月のいるマンションの屋上から眺めていた。
「……やれやれ。俺のマスターは、少しばかり神経質すぎるんだよなァ」
 皮膚の裏がピリピリと千切れそうな感覚は、凍り付いた夜明けの空気によってもたらされるものではない。魔術的なパスを通じて、香月の過度に張り詰めた緊張が伝達しているかのようだ。
 彼女が何を考えているのか、アーチャーには良く分からない。彼女の思考はいつもこちら側にはシャットダウンされていて、濁り切った水の底のように見通すことは出来ない。
「泥水ん中に手ェ突っ込むのもなあ、俺は別に構わないけどな」
 アーチャーは溜息を吐いて独り言ちた。魔力のパスを通じて伝わるささくれ立った苛立ちのようなものは、明確に、あのアサシン達との邂逅以来圧倒的に強くなっていた。これはもう、アサシン達がマスターの何らかの地雷を踏み抜いたとしか思えない。だとすると―――
「俺の記憶でも見たのか」
 それならあの鉄面皮のマスターが何に苛立っているのか、何となく想像はつく。要するに、何故かは分からないが、彼女は他人同士の幸福が――特に恋愛感情というものが気に入らないらしい。だとするなら、自分の記憶を見せられた彼女は相当癇に障るはずだ。
 アーチャーは二度目の深いため息を吐くと、沈みゆく白い月から目を逸らす。
「全く、何でだろうなァ」

 サーヴァントは夢を見ない。夢を見るのは、いつも人間の方だ。

Fate/Last sin -interval.1

Fate/Last sin -interval.1

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-07-22

Derivative work
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