茗荷の舌 第9話ー風船蔓(ふうせんかずら)

茗荷の舌 第9話ー風船蔓(ふうせんかずら)

子狸の摩訶不思議なお話。PDF縦書きでお読みください。

    


 映画が終わり、ホールを出ると、外はしとしとと雨が降っていた。秋の雨だ。でも、映画館に入る前にはとてもよい秋晴れだったような気がする。
 町にある小さな映画館のエントランスは傘を持っていない人達でいっぱいになった。
 多摩子さんは今見た不思議な映画の後味を、まるで魔法みたいといった。「香水 
 ある殺人者の物語」という映画だった。嗅覚があまりにもよく発達しているのに、自分には匂いが全く無い青年のお話だ。映画の中では香水の材料にするため人殺しがたくさんあったが、よくある殺人映画のように血の匂いがしないのだ。多摩子さんはそれを魔法みたいといったのだろう。
 「あなたは空気のような匂いね」
 多摩子さんが言った。どんな匂いなのだろう。
 「主人公みたいに匂いがないっていうこと」
 僕は聞いた。
 「それじゃ、あなた人殺しできるの」
 多摩子さんはおっかないことを平気で言う。こうも言った。
 「空気の匂いは、匂いがあるっていうことよ、地球の匂い」
 ふーん、地球の匂いか、悪くないな。
 雨がかなり小降りになった。多摩子さんがもう歩こうというので、駅まで一緒に行くことにした。少しばかり雨がかかるが気持ちがいいくらいだ。
 「人間で染色したらどうなるかしらねえ」
 多摩子さんは芸術家だからすぐ影響を受ける。映画の中では人を材料にして香水をつくるというものであった。それは万人を惹きつける魔法の匂いということだ。
 「人間をぐつぐつ煮たら、どんな染料がとれるのかしらねえ」
 恐ろしいことを言っている。
 「やってみたら」
 僕も恐ろしいことを言った。
 「あなた煮てもいい」
 冗談である。でも、熱いだろうな、五右衛門が茹でられた釜の湯はどんな匂いだったのだろう。多摩子さんの顔を見たら、けろっとして、冗談だという顔をしていない。
 やっぱり怖い。

 駅までの商店街を歩いて行くと急に夜になった。このところ、たまにこのような現象がおこる。先だっても、家に向かって駅から歩いていると。まだ四時なのに急に真っ暗になり、空に満月が輝いたことがある。そのまま気にせず家に帰ったら、一時間もすると、元のように夕暮れになった。子狸が化かす練習をしているのだ。空や雲や地を化かすことが出来るように上達してきたのだ。ご苦労なことであるが、付き合うほうの身になっても欲しい。
 多摩子さんは「あら夜になったわ」と涼しい顔をしている。
 「また、あなたの友達の狸の子なのね」
 「あいつも映画を見に来てたのかもしれないけど」
 「でも何で夜にするの」
 「多摩子さんのまねだよ」
 「なあにそれ」
 「周りを黒で染めたんだよ。周りを染色して遊んでいるんだ」
 「あーら、それじゃ真っ赤な世界にもできるのかしら」
 と、多摩子さんが言ったとたん、周りが真っ赤になった。燃えている赤ではなく、血の赤い色である。空も道も真っ赤な世界に多摩子さんは赤い服を着てきたので、顔だけ白く浮き出ている。子狸のやつ無理をしている。
 「素敵ねえ、私たちの言っていること聞こえているのね」
 多摩子さんが空を見上げると、太陽は緑色に輝いていた。
 戻して欲しいなと思っていると、また真っ暗になり、月が出た。
 子狸のやつ、昼間に戻すことが出来なくなっているのだ。まだまだ未熟なのだ。そのうち、術が自然と解けて元に戻るだろう。
 真っ赤な夜道より暗い夜道のほうが慣れていてよい。

 へんてこりんな話だが昼間の夜道を歩いて行くと、歩道のマンホールの蓋がパクパクしている。水が溢れているのだろうか。
 二人して立ち止まって見ているとマンホールの蓋が少し浮いて、緑色の物が顔を出し、また引っ込んだ。
 日野市のマンホールのデザインはカワセミである。町を流れる淺川にはカワセミが現れる。淺川だけはなく、時として街中の田んぼの脇の水の流れにまで出張していることもある。
 マンホールは市や町でデザインが違う。市の鳥、市の花、市にあるお城や建物、お祭りなどもある。佐賀県江北町のマンホールには臍のあるカエルが画かれている。この町は佐賀県の真ん中でヘソガエルをキャラクターにしたそうだ。とすれば佐賀県は蛙か。
 日本の下水道はいったいどのくらいの長さになるのだろう。マンホールは地下の世界と地上の世界をつなぐドアーである。足の下の下水道の世界には何が住んでいるかわからない。下水道は河につながり海につながり、隣の国の下水道につながる。
 マンホールの蓋がまた持ち上がった。緑色のものが見えた。その時、マンホールの蓋が跳ね上がった。中から蔓状の植物が天に向かって伸びてきた。ジャックと豆の木を思い出した。しかし、空の上のほうまで伸びる気はなさそうだ。
 商店街の屋根に届くほど伸びた緑色の蔓には葉が茂り始め、小さな花が咲くと、緑色の袋がフランフランと揺れ始めた。大きな風船葛だ。
 「あら、風船葛よ、知ってるかしら、風船葛って日本のものではないのよ、アメリカのものよ、観賞用に入れたの」
 「そうなんだ」
 「袋を持って帰って、染色用の布を洗ってみようかしら」
 「え、風船葛で洗うの」
 「風船葛はムクロジの仲間なのよ、ムクロジは洗濯の木とも言うの、実を水に入れて使うと泡が出て、石鹸代わりになるのよ。風船葛はどうかしら」
 さすがに染色家だけあって植物に詳しい。
 「でもどうして、風船葛がマンホールから出てきたの」
 多摩子さんに聞かれたが、知っているわけは無い。
 「また狸なの」
 いや違いそうだ。モグラが風船葛をよじ登ってきてこちらを見た。見つかっちまったと、またあわてて、マンホールの中に消えていった。
 その後については、説明にちょっと困るところがある。本当にこんなことが起きたのかどうか今もって自信が無い。風船葛がくねくねと動き出すと、蔓を伸ばし、多摩子さんに絡みついたのであった。
 僕があわててほどこうとすると、多摩子さんは上のほうに持ち上げられ、キャッキャと喜んでいる。ジェットコースターにでも乗った感覚なんだろう。僕は近づいて蔓を何とか引き戻そうとしたのだが、蔓の強靭さは表現が出来ない。鋼鉄のばねみたいだ。それだけではない、風船葛のやつは緑色の袋をあっという間に茶色にすると、はじけさせて、黒い球面に白いハートの模様のあるサル顔のような種を僕めがけて投げつけたのだ。
 「いて、いて」頭にこつこつぶつかってくる。
 多摩子さんは持ち上げられたまま言った。
 「ムクロジの実は硬くてね、羽根突きの羽の重しに使うのよ」
 風船葛の種は僕の頭に当るやら、手に当たるやら、確かにとても痛い。一つなど鼻の穴にはまっちまった。
 多摩子さんは上のほうで手足をばたばたさせて、キャッキャ言って嬉しがっている。
 見上げていると、なんなんだと見る間に、風船葛はしゅるしゅるいってマンホールに沈んでいき、多摩子さんをマンホールに引きずり込んでしまった。
 カワセミのデザインのマンホールがぱたっと閉まると同時に夜が昼に戻った。
 唖然としてマンホールを見つめる僕に通行人が不思議そうな顔をして通り過ぎていく。
 どうしようか。マンホールの蓋を開けることは出来ない。マンホールはどのようにつながっているのだろう。底知れぬ地下の世界に多摩子さんは連れて行かれたのだ。
 困ったことになった。多摩子さんは下水路で汚れた水に染色されているに違いない。おぼれてしまったらどうしよう。
 ともかく、家に帰ろう。
 家に戻って思案にくれた。警察に言っても誰も信じてくれないだろう。水道局に言っても同じだ。多摩子さんは日野の映画館で面白い映画やってるから見ましょって、いきなり僕の家にやってきたのだ。ぼくが桑名の貝の佃煮でお茶漬けを食べている時だった。
 「珍しいことがあるね」そう言ったのだが。もしかすると、多摩子さんはあの子狸が化けたのかもしれない。本物の多摩子さんは家にいて染色をしているのかもしれない。
 電話をしよう。鎌倉の多摩子さんに電話をした。
 多摩子さんの声が聞こえた。やっぱり、あれは多摩子さんに化けた狸だ。
 でも多摩子さんがこんなことを言ったのだ。
 「驚いたでしょ、風船葛に持ち上げられてね、とっても気持ちがよかったのよ、肩をもんでくれたのよ、それからね、マンホールに入ったら、それはとてもきれいな世界なの。
 あなた、化かすのは狸やキツネばかりだと思っているでしょう、昔からいる動物たちは化かす能力を皆もっているのですって、もっていないのは人間だけですって、これは、モグラのおじいさんが話してくれたの、風船葛はモグラが化かしたものなのよ。
 子狸に頼まれたのだって、映画館で私たちの後ろの席で、ポップコーンを食べながら見ていた女の子いたでしょう、覚えていない。しょうがないわね、あの子が子狸だったんだって」
 一緒に映画を見たのは本物の多摩子さんだったのだ。
 「マンホールの中は暗くて汚かったのではないですか」
 僕は同情して聞いた。
 ところが、多摩子さんは「世界とつながっている魔法の世界よ」と言った。
 「あっという間に、北鎌倉につれて帰ってくれたのよ、私は家の近くのマンホールから押し出されたの、マンホールは動物や不思議の世界の交通網なんだって」
 そういえば、鎌倉のマンホールのデザインはなんだろう。次に行ったときに調べてみよう。
 多摩子さんは電話で続けた。
 「モグラのおじいさんが言ってたわ、英語でね、風船葛はバルーンバインといってね、気球の葡萄なんですって、それで花言葉はね、あなたと飛び立ちたいなんだって、うふふ」
 と言って、電話は切れた。
 ほっとしたので、ホタテとウニと牡丹海老のすり身で作った佃煮でお茶漬けの用意をすることにした。

「茗荷の舌」所収、自費出版33部 2016年 一粒書房

茗荷の舌 第9話ー風船蔓(ふうせんかずら)

茗荷の舌 第9話ー風船蔓(ふうせんかずら)

マンホールから風船蔓がにょきにょきと生えてきた。さてさて何が起こるのやら

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-07-20

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