絵を描く少女
水彩絵の具をパレットの上で混ぜて好きな色を作り、画用紙の上でも水が溶けて色が変わる。まだ何も知らないからそれは自分の想像した色にはならなかった。それでも変化を無邪気に喜び、新たな事物を描き始める。空を青に塗り、雲を白に塗り、太陽を赤で塗った。何も疑うことはなかった。みんなと同じであっても気にしなかった。乱雑にバケツで筆を洗って違う色を掬い、悪戯に木の葉を緑で塗り潰す。緑に白を混ぜて、緑に黄色を混ぜて、また塗る。光に気づいていないから統一感もない。
筆が止まる。パレットを落とす。突然、色が分からなくなる。1年前のピアノ教室が出現して、バイエルの楽譜に書き込んだ下手くそなフォルテッシモの文字から目が離せないでいる。私が曲を弾くと先生は低い声で「練習してきましたか」と聞いてくる。鍵盤に置かれたままの私の手を強く握りしめて私の目を覗き込むようにしてもう一度「練習してきましたか」と訊ねる。先週、私は熱が出てあまりピアノを弾くことができなかったと心の中で言う、言った、口が動かない。先生の爪が私の手に食い込んで痛くて口が動かない。先生は私の手から手を放したが、その手は私の顔をつかみ、「何か言わないとわかりません」と言った。皺が寄り始めた口の周りに生えている産毛が白く光っている。そう、ここで先生が飼っている犬が鳴いた。バイクが家の前を走っていた。私の口が動かない隙を狙って頭は明日の家庭科の授業に流れている。ハンバーグを作るから私は玉ねぎを持っていく係。私は包丁をほとんど持ったことがない。卵も上手に割れないんだ。これでは班のお荷物になってしまう。でも出来立てのハンバーグをお昼に食べられるのは嬉しいな。帰ったらお母さんにコツを聞いておこう……。
さっきまで水でくたくたしていた画用紙が乾いている。周りの子たちはもう完成して公園で遊んでいる人もいるようだった。パレットに並べた色に興味がなくなって、途方にくれた。まだ色が戻ってこない。強く私を惹きつけた風景も夢中になっていた理由がわからない。泣きたいのに悲しいことが何も起きてない。立ち上がって先生に新しい絵を描いていいか相談しに行こうか。絵が得意な友だちにアドバイスをもらおうか。どうでもいい。私は画用紙の下書き部分をパレットに置かれた絵の具の右から順に着色する。ベンチは黒。電灯は紫。人間は群青。猫は黄色。木の幹は桃色。出来上がった絵は、平凡な作品になることもできず先生に提出したら苦笑いをしていた。これは今度の授業参観の際に廊下に飾るものだった。
全員が写生を終えて、公園から学校へ帰るとき話したことのない男子が、私の肩を叩いた。お前の絵、かっこいいな。ゲージュツだ。それからその男子は今まで見てきた絵について語った。長期休暇になると家族でパリへ行って美術館に行くと言っていた。日本はつまらない、もっと自由であるべきなんだと鼻息荒くしていたが、私は話に興味がなかった。私は面倒臭いから適当に絵を描いただけだ。それよりも男子の右腕にある大きな痣を見ていた。赤黒く野球の球ほどの大きさだ。じっと見ていたら私はどうも気分が悪くなって、これは男子が私に話しかける振りをして私に悪い霊を降ろそうとしているに違いないと思う。男子の痣はその悪い霊のせいなんだ。私にこうして近づいて、男子の身についた不幸な霊を私に感染させようとしている。アンリ・マティスの色について語る男子の真っ白な体操着がキャンバスに思えて、私はここに絵を描きたいと思った。そうすれば私も男子も霊から解放される。今すぐ私が楽にさせてあげるからね、そう心の中で言って私は絵の具セットの中から赤の絵の具と筆を取り出して背中の全面を赤で塗った。
どう、あなたの背中にマティスを再現してあげたよ。と、言いたかった。できなかった。ひと塗りしただけで男子は大騒ぎ。先生は慌てて私を止める。どうしてどうしてわかってくれないのだろう。私のことを褒めてくれたというのに、男子はやっぱり悪い霊に取り憑かれて、それから男子は逃げられない。先生は男子の味方だ。お金持ちだからだ。私はもうどうでもよかった。
ピアノの先生は黙り込む私に呆れて、私の頰を叩いた。痛くて泣いた。泣きたくなくても痛いと涙は勝手に出てくる。ピアノはそれっきりもうやめた。その夜、ハンバーグ作りのコツをお母さんに聞けなかった。お母さんは生まれた時からいなかった。お父さんはたまにしか帰ってこない。
絵を描きたかった。もう一度、はじめから私だけの世界で絵を描きたかった。先生が怒鳴る声とピアノの先生の「練習してきましたか」という声、男子が語るフォービズム、もうすぐ霊が見えてしまう。
私は反省文を書いて男子の家に謝罪しにいった。汚い子だと言われたような気がした。
絵を描く少女