あなたの笑顔に魅せられて(6)
第六章 ある日の金曜日
今週は、俺にとって、激動の一週間だったように思う。月曜日の、お墓おばあさんから始まり、火曜日の、犬おばさん、水曜日の、臭いおばさん、木曜日の、伽場蔵嬢。彼女たちの笑顔とともに、俺の、右足、右手、左手、左足が、透明から、見える状態に、戻った。後残すは、胴体のみ。中途半端な、残り方に、いささか戸惑いながらも、後は、なるようになるという気持ちで、望むしかない。最後の胴体を取り戻すのは、一体、どんな客で、どんな願い事なのだろうか。期待半分と不安半分のまなざしで、じっとお客の来るドアを見つめている。そこに、ノックの音が。
「先生、失礼します」
クミちゃんが、妙にしおらしく立って居る。
「どうしたんだい、クミちゃん?」
俺は、手も、足もさらけ出したまま、彼女に話しかける。下心も、腹蔵も、透明なままだ。
「昨日は、すいませんでした。私、どうかしてたんです。先生が、折角、普通の人間に戻る機会なのに、お客さんに対して、失礼な態度をとったりして、申し訳なかったです」
クミちゃんは、そう言うと、頭をぺこりと下げて、部屋を出ようとした。俺は、慌てて、彼女を呼び止める。
「いやー、別に、そんなこと気にしていないよ。うちに来る、クライアントは、とにかく、変な人ばかりだし、クミちゃんだって、電話や直接窓口で、怒鳴られたりして、大変だと思うよ、そんなこと、気にしていたら、この業界ではやっていけないよ。確かに、昨日相談に来た、伽場蔵嬢も、変わっていたね。クミちゃんのとった態度は、全然、気にしていないから。ほら、その証拠に、」
俺は、シャツを脱ぎ、透明のお腹をクミちゃんに見せる。
「先生、真っ白じゃなくて、向こうが見えるくらい透明ですよ」
クミちゃんは、予定通り、俺のギャグに応えてくれた。知らない間に、彼女との間が、より一層近づいたような気がする。
「先生、ありがとうございます。昨日、家に帰ってから、自己嫌悪に陥って、気持ちが暗く沈んでいたんですけど、お陰で、気持ちが、晴れてきました。今日から、気持ちを入れ替えて、仕事に頑張ります。よろしくお願いします」
彼女の健気な態度に、心が揺れ動く。俺は、自分が、普通の人間じゃなく、透明人間だということで、これまで他人に、あまり気を許すことはなかった。近づいても、結局は、透明人間だとわかり、人は、俺から離れていくのだ。その点、彼女だけは、これまで、俺を普通の人と同様につきあってくれた。時には、冗談を言い、時には、悩んだりもしてきた。 俺は、彼女に尋ねた。
「話は変わるけど、クミちゃんは、どうして、この事務所で働いているの?透明人間が、探偵だなんて、気持ち悪くないかな」
「うーん、難しい質問ですね。それは、最初は、先生が、透明人間だと分かったときは、しまった、変な事務所に来てしまったと思いましたけど、 体が透明か見えているかだけのことで、その人の性格とは全く関係ないし、走るのが速い人が、マラソンランナーや短距離選手として活躍するのと同じように、透明人間が、探偵として、自らの才能を活かすのは、別に、不思議なことじゃないと思います。逆に、うらやましいとか、憧れさえ、感じます。それに、先生は、体は透明ですが、今では、ほとんど見えていますけれど、心は、透明じゃないですよ。暖かい、ハートの形が、私には、はっきりと見えます。さすが、ハート印の探偵事務所ですね」
俺の心は喜びに打ち震えた。これまで、探偵家業という、決して、陽の当たることのない、裏方の世界に暮らし、仕事とは言え、人助けをしているのだという自負心はあった。様々な問題に対して、不眠不休で望んだ結果、解決に至り、感謝されたことも多々あった。だが、人からこうして、しかも身近で、少なからず好意を持つクミちゃんに、こうも誉められるとは。これまでの人生は、感情面においては、受身ばかりあったような気がする。透明人間という境遇に生まれ、他人とは違うということで、知らない間に、自らの感情も透明化しすぎてしまったのかもしれない。だが、今は、違う。クミちゃんからの言葉で、今、俺の見えないハートは、はっきりと形となって現れた。その時だ。俺の顔に、熱い血潮が、心臓から送り出されてきた。顔が、焼けるように熱い。一旦、顔に送り込まれた血液は、首、胸、お腹へと、じわりと浸透していく。クミちゃんの、驚きの声が、事務所中に、はね返る。
「先生、顔が、体が、見えてきましたよ」
俺は、顔を覆っていた手をはずし、窓に振り返る。うっすらと、俺の顔が見える。俺の腹も輪郭がはっきりとしてきた。人間の形を、他人を見ることでしか認識できなかったが、今、まさに、自分の存在がはっきりとわかる。ガラスの向こうの俺が、複雑な顔で笑っている。まだ、俺は、この現実を直視できないのかもしれない。恐る恐る部屋に掛けている身だしなみ用の鏡に近づく。見えた。確かに、俺の顔だ。眉毛(少し、ゲジゲジだ、しかも、三日月の突端が少し欠けている。クミちゃんに眉毛を少し描いてもらおう)も、目(意外だ。二重まぶたで、目がパッチリとしている。人は見かけで決まり、目は口ほどに物を言うことからも、満点の出来だ。今後の、商売にも役に立つ)も、鼻(可も不可もなく。ちゃんと呼吸さえできればそれでよい。高からず、低からず、謙虚な人生を歩むだけだ)も、口(唇はやや厚め、熱いものを食べるときは、少し気をつけないと、たらこ唇が二倍に膨れ上る恐れがある。また、食事の際に、誤って、唇を噛んでしまうこともあるだろう。
うっすらと滲んだ血を舐めながら、血潮を感じる。少し、しょっぱいな。海の水が塩辛いのと同様に、人間の体の中で、ギーコ、ギーコと今日を生きる意思の臼が回っているのだろう。血潮を無駄にしないためにも、鏡を見ながら、ごはんを食べよう)も、耳(耳たぶが少し足れている。いわゆる福耳か。力を入れてみたが、前後、左右に動く気配はない。人類で初めて、道具を使わずに、自らの器官だけで、空を飛べる夢は終わった)も、髪の毛(これまで、髪の毛がうっとおしいくらい長く伸びたとき、見えないことをいいことに、自分で、適当にカットしていた。その証拠に、前髪や後髪が揃わず、段々畑のようになっている。
これからは、散髪屋に行く必要がある。ひょっとしたら、クミちゃんにお願いできるかも。どちらにせよ、只というわけにはいかない。これからは、物入りだ。透明人間だったときのほうが、エコ生活だったのかもしれない)も、全て、揃っている。まじまじと自分を見たことがないだけに、何か、少し、違和感がある。この顔を、これまで、三十数年間、連れ添ってきた自負心はない。朝、昼、晩と何かにつけて、顔は洗ってきたので、爽やかさ、清潔さは誇れるが、自信を持てるほどの自信はない。これから、死ぬまで、一生、この顔と付き合っていくのか。そう思うと、顔が赤みを帯びてきた。穴があったら、顔を埋めたい。
「先生、私が、思っていたとおり、かっこいいし、爽やかですね。声が、渋いだけに、きっと、顔立ちも整っているはずだと思っていました。先生の髪、乱れていますね。明日にでも、ハサミを持って、私がカットしてあげます。これまでの、カットされていた人生を私が、繋げてあげますよ。私、この事務所に、ずっといてもいいですか」
今の俺には、肯定の、二文字しかない。思わず、頷いた。
「よろしく、お願いします」
あなたの笑顔に魅せられて(6)