翻るように尾びれの動きが変わり、出目金は電車の進行方向とは逆に顔を向ける。スペースがあればそのまま泳いでいけそうな体躯は、人で言えば両手をひとかきした平泳ぎのような泳ぎをやめて、その場でじっとする。ビニールに包まれたその不思議な世界の縁を本能で察知しているように、出目金は泳がない。その横側から指で押す様な真似をすれば、より直接的な危険を回避するために、出目金は急な動きで、この下にぼてっとした水中を進んで行くだろう。そして様子を窺い、先の危険が新たに及ばないかを確認する。それが来ないと分かれば、出目金は再びこの世界でじっとする。家にある空の水槽に作った真四角の、今よりは広い住処に移されるまで、僕と君とでポイして掬ったこの出目金は、今帰宅する終電の、隣の車両に移動するためのドアが曲がる度に開け閉めされるのが良く分かる優先席に座る、君を起こさない様に動かない僕が、ゴムで縛った口を摘むこの世界で、大事が起きないように見続けるビニールの中の水の中で、エラを動かし、口を動かす。



カタカタと回るフィルムのコマのように、走る二人のスニーカーとハイヒールが、交差する。つんのめる二人が、そのまま転んでしまうことのないように、たたらを踏む姿も、コマ送りで続き、タ、タ、タと最後の一歩で、二人は無事に着地する。そこから暫く何も起きない。そうしてすぐに、お腹を抱えて笑い出す、二人の大きい動きが、その丸める背中の様子が、現れる。チェックのスカートは、黒と白。無地のシャツは、白一色で、塗り潰されている。ザザっと、雑音が混じる。でもすぐに消える。二人の笑いは、まだ続く。近付き、ぶつかり、離れて、また笑う二人の、声はまだ聞こえない。一人が、もう一人の腕に手を、乗せようとして、空振り、それをもう一人が、両手で掴み、勢いで、倒れそうになっていたもう一人をぐいっと引っ張り上げて、そのまま見つめ合いそうな姿が、そこで止まる。カタカタとも言わなくなった試写室の向こう、シロクロの二人は文句の一つも言わずにそこから先が始まるのを待つ。見習いのその子が光を発する機械を弄ろうと手を伸ばす。しかし、それを見咎めた老人の怒気が篭った一喝を浴びて、手を引っ込めた。次いで、その身体も機械と距離を置いた上で、不満を隠さない唇を尖らせる。それを見つけた男がガハハと笑う。そこに投げつけたいタオルを手に取ろうとして、その子は左右を探って、タオルを探し出そうとする。それが無いことに気付く。すると、試写室のドアがノックされ、男の応とする答えに開いたドアから、届けられるタオルがあった。作業の邪魔になる労働の汗を拭ったその子のタオルだ。その事を重々承知しているその子だ。慌てて受け取りに行くために、椅子から急いで立ち上がる。そこで転けないその子を前にして、タオルを届けた人物が喋り出す。どこで見つけたか、どう拾ったか。どう拾ったかなんて要らない情報をしっかりと聞くその子の手の内で、隠されるか、恥ずかしさとともに捨てられるかの運命を待つタオル地にある、社名が逆さまに揺れる。楽しそうな気持ちに、愛が溢れる。
触れられた機械の電源とともに、画面の二人が消えて無くなる。



駐車禁止の標識が掲げられた鉄柱に寄りかかるハードロックな衣装を着こなす女の子の側で、 飼われる犬が舌を出し、短い呼吸を繰り返した。待ち合わせ場所はまだ遠く、目の前の信号待ちは終わらない。チューインガムを噛んでいる女の子は、刈り上げたサイドをひと撫でした後、人差し指と中指の爪同士をカリッと接触させている。電源が切れたスマホは、イラつきと一緒に鎖でぶら下がるバッグに放り込んでいる。充電はしばらく出来ない。おかげで曲のワンフレーズも聴けない。その事が許せない女の子は「ちっ」と舌打ちをし、意識して、ベロの一部にピアスを重ねた。直当たりする時間の日差しには、睨みを利かせた。トゲトゲしい印象の、この女の子にはしかしまだ名前がない。候補は順に浮かべているが、直ちに削除される。女の子の言葉を借りれば、「曲のタイトルのようには上手くいかないんだ」。これに同意をし、呼ばれたい名前を気にする年頃だからね、と付け加えると、本当に、容赦なく噛み付く女の子だ。だから、グッと来たはずの候補を紙に書いたりもせずに、頭の中で羅列し、眺めて、呆れて、削除する。最も目立たない黒で固められ、打てるだけの数の鋲が正しく打ち込まれたブーツを履き、区画整理された街の景色の中、女の子はここまで歩いて来た。頼まれた犬の散歩を済ませている最中である。その犬はとても喜んでいる。女の子も「まあ、満足している」と実感している。ただし、女の子の飼っている犬じゃない、バイトで頼まれた犬だ。だから、候補から投げ捨てた名前を拾い、女の子は犬に呼びかけている。『サラ』だとか、『ケリー』だとか。当然、犬はそれらに反応しない。まあ、当然だと女の子も思い、一方で媚びもしない犬を可愛くないと思う。そうなると「あら、それは誰の事?」と聞こえてくる声に噛み付くことを、もちろん女の子は忘れない。丸まった内心の天井に向かって、牙の代わりの歯をむき出しにして、「ちっ」と鳴らしたら、舌で唇を舐める。噛んでいたチューインガムを膨らます。すぐに割れたら仕舞い込む。くちゃくちゃと音を立てて、女の子は鼻をすする。ちょっとして、女の子は鼻の下辺りを拭う。何もないことを確認する。このルーティーンを繰り返す。手首の重みがジャラッとずり下がる。色白の肌に跡が残っている。女の子はそれを誇りに思っている。そして、もしいるとするならば、記述者はこれを尊重している。
待った甲斐はあったのだ、と女の子が思ったように、信号機は間違いなく変わり、女の子は歩き出す。しかし犬がそうでなかった。中々の体躯でもってリードを引っ張り、女の子を止め、女の子を怒らせ、両腕の力を使わせ、無駄に終わらせた。クラクションは短く鳴り、女の子は元いた所に戻り、信号機の色は変わり、並んでいた運転手たちは走り出し、交通は始まり、歩行者である女の子は立ち止まった。ハードロックに関係なく、女の子は犬を睨み付けた。犬も女の子を睨み上げた。その様子に腹を立てた女の子は、さらに犬を睨み、犬の方でも女の子を睨み上げ続けた。信号機は一色に染まり、天候は、天辺に向けて晴れ続けた。角度で当たる建物のガラスに反射した。あとはゴングの代わりの吠え声を待つばかりだ。もしいるとするならば、記述者はそう記述しただろう。
しかし女の子も犬もそうしなかった。最後まで、駐車禁止の標識が掲げられた鉄柱の側で、信号機の目の前で、女の子と犬は睨み続けた。そのとき、『ミッチェル』と呼ばれていた犬は、犬でいうメスに当たる女の子に向かい、その名前を捨て、すくっと路面に立ち、威嚇の仕草を取る。効果音を付ければ、間違いなく「ウー!」と言っている。対して、ハードロックに刈り上げた女の子も、普段は滅多に出さない心情で作り上げた表情をもって、犬に刃向かう態勢をとる。相応しい効果音がなくても、女の子は犬に対して文句を言っている。詳細な内容を記すのは控えるべきだ、と記述者じゃなくても言ったであろう。確かに、そこを通りかかったサッカークラブの男の子の数人は、怖さの余りに泣き出した。演技プランにない、アドリブでもない、真実の涙にカットはかからない。ざわざわとした雰囲気が流れ始める。助監督は帽子を脱ぐ。アシスタントディレクターは、中腰のまま前掛かりになって、いつでも止めに入れる準備を整える。カメラは回る。監督はモニターを見続ける。
そうしてやっとかかったカットの声で、現場の緊張感は解れた。それに合わせて、女の子も犬も、元に戻っていた。女の子は監督を見て、サムズアップをする監督の笑みに安心して、素敵な笑顔を見せる。スタッフの何人かが密かに惚れる。出演「者」である犬を抱える事務所に雇われたトレーナーが、満足そうに尻尾を振る犬の頭や胴体を優しく撫でている。大事な場面は台本以上の出来をもって撮影できた。これで、スケジュール通りに最新話の撮影を終了できる。その場にいる誰もが口にせず、その内心で同意した理解だった。あとワンシーン、同じ場所で撮らなければならない場面に必要な小道具を両手に抱えて、スタッフがモニターの中に映り込んでいる。専属のメイクも小走りで女の子にかけ寄り、女の子の目元を直し始める。皺を生み出した心情表現により、修正が少し要るようだった。申し訳なさそうにじっとする、女の子の姿は可愛く映る。
お互いの周りをスタッフに囲まれて、女の子と犬は目を合わせる。先程と打って変わって、そこに表情の変化はない。しかし、両「者」の瞳が動かない。黒い火花が散って見える。
そこに現れた演出家は、声をかけた監督から撮り立ての場面を見せられて、「おうおう」と驚きを漏らす。そして口元を緩め、現実にいる両「者」を見つめる。生まれたばかりの新しい発想を抱えて、演出家は監督に耳打ちをする。喜びの表情を隠さずに、監督は丸めた台本の先を演出家に向ける。女の子も、犬も、二人のそんな様子を知りもしない。どちらも互いを見つめたままで、張り詰めたままで、その場に立つ。プロの姿を描写するとするなら、こうであるだろうと、いつのまにか傍に寄って来た記述者が述べる。「そうですね」と相打ちを打つ見習いの男の子は、指で頬を掻きながら、そんな自分の仕草にすぐに気付いて止める。劇的な意味をそこに見出した男の子は、すごい世界に飛び込んだものだと慄き、震えだし、そして笑みを浮かべて、プロットを練り出す。頭の中で、書くものも持たず。

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-07-18

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